G-T0XYQT12LL ヒエログリフ(聖刻文字): 卑弥呼の逆襲

ヒエログリフ(聖刻文字)

2025年4月13日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・40ー1

『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった(1)

◆漢字は【夏の銀河】と呼ばれる【夏にもっとも長時間見ることができる銀河】から作られて起源した。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」と呼ばれ、時には「銀漢」と呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏も銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20250413144101 


◆『魏志倭人伝』は、下に記す3種の事柄を説明する。
しかし、学界は定説や有力説にもとづいて、これら3種の説明は誤っていると、下記のごとく否定する。
【1】「『魏志倭人伝』は「わが国には2世紀末から3世紀中半において漢字知識があった」と記述するが、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」ゆえ、この記述は誤っている
【2】『魏志倭人伝』における九州の末盧国(まつろこく)以下の記事にある【方位記事】は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、実際の日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びてない。
だから、邪馬台国説学者たちは「【南】へ伸びるといると説明する転回日本列島地理は誤っている」と否定する。
【3】『魏志倭人伝』の12世紀末に作られた紹煕刊本(しょうきかんぽん)は、女王卑弥呼が王国名を「邪馬壹()(やまいこく)」と記す。しかし、王国名は「邪馬臺()国」こそが正しい。

上記の3種の記事はすべて正しかったのである。
前回の「漢字の起源と発明を解明す・39」では「わが国は、紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭、最初に漢字(夏音文字)を習得した事実」を詳細して証明した。
ゆえに、上記の【1】の『魏志倭人伝』の記述は正しかった。
だから、学界の定説は根本的に誤っていた。
次回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・40―2」では――【2】は卑弥呼が立論した錯覚の転回日本列島地理であった。この転回日本列島地理について『魏志倭人伝』が説明していたことを解説して証明する。
この錯覚の転回日本列島地理によって、倭国の大乱が鎮(しず)まった。ゆえに、倭人国は卑弥呼を倭女王に選び国家を創設することになった。よって、この転回日本列島地図は卑弥呼王朝が制定する正式の地図となった。
だから、『魏志倭人伝』が説明する九州以下の本州が【東】ではなく【南】へ伸びる転回日本列島地図を否定する、学者たちやメディアが最も正しいと思い込む邪馬台国説もまた、【1】同様に、史料の表層を一瞥(いちべつ)しただけの軽率(けいそつ)で粗雑な意見であったことになる。

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。
ところが、現在の学者たちは即座に「中国で最初に文字を作ったと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と否定する。
でも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて、倉頡伝説は事実を伝えていたと解説して証明した。

倉頡伝説は下記のごとくである。
「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいた。倉頡は鳥獣の足跡を考案し、はじめて文字を作り、古来の結縄(三皇時代の易占に用いた記号)に代えたので、天は祝福して、禾(か・稲。稲や麦などの穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという。」

中国の古代において、下図のごとく「顔に目が四つある倉頡の肖像画」が発見されている。
この「倉頡の肖像画」は、騙(だま)し絵であった。
S64_20250413140701

上に示した「四つ目の倉頡の肖像画」は「人物画(地上に住む人の顔に目を四つ描く絵)」であった。だから「騙し絵」ということになる。
この事実も知らないで、現代の学者たちは「四つ目の倉頡の肖像画」にまんまと騙された。
これゆえ、彼らは自らの大失敗にまったく気づかず「倉頡伝説は荒唐無稽の作り話。倉頡伝説は信用してはいけない」と声高(こえだか)に主張する。

倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
このため、現在、【夏の銀河の各部の名称】が存在しない。
しかし、【倉頡の文字作成理論】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】が無いと非常に不便である。
それゆえ、わたくしは下図のごとく【夏の銀河の各部の名称】を定めた。
00003_20250413140801

上図における向かって左上に「十字の銀河」がある。
この「十字の銀河」の西となりの「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「真実の四つ目の怪人・倉頡」である。
下に、「天理(天にある道理)の十字の銀河」と「天理の四つ目の怪人・倉頡」つまり「鬼の横顔に似る銀河」を配した。
0000305_20250413140901

下に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「顔に両眼(二つの目)となる部位」があり、「後頭部に大きく見開く目が一つ」あり、また「アゴに切れ長の細い目は一つ」あるゆえ、
「鬼の横顔に似る銀河」は、合計「四つの目」を有する。
だから、「ほんものの四つ目の怪人・倉頡」は、下図の「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」であった。
前ページで紹介した「四つ目の倉頡の肖像画」は下の「四つ目の鬼の横顔に似る銀河の形」と、まったく異なる。「四つ目の倉頡の肖像画」は「漢字が夏の銀河各部の形状から作られた事実を誤魔化(ごまか)して隠ぺいするための騙し絵」であったのである。
00009_20250413140901

倉頡(そうきつ)は「天理(夏の銀河各部の形状)と、天理と異なる地理とで構成される」と「辞理(文作成理論)」を定めた。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・39」において、「辞理」という語は「古事記上巻 并せて序」の末部に登場すると指摘した。
つまり、「古事記上巻 并せて序」末部の「辞理の見え叵(がた)きは、注を以()ちて明らかにし、意況(いきょう)の解(さと)り易(やす)きは、更(さら)に注せず」という文の先頭が「辞理」という語である。
前述したように、【天理(夏の銀河各部の形状)は完全なる合理からなり、地理は天理と異なって少数の不合理な点や欠点や弱点を有する」という理論】が【辞理】であった。
ゆえに、中国の五経の第一にあげられる『周易(しゅうえき)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)の冒頭文は「天尊地卑」、つまり「天理は尊く、地理は卑し(地理は天理より劣る)」と記述する。
倭女王名の「卑弥呼」の【卑】は「地理は卑し」の【卑】と同義であり、
つまり、夏音文字【卑】は「地理に精通する大学者」を意味し、断じて今日のごとく「下賤(げせん)である」と意味するものではなかった。

◆このブログが幾度となく解説したように、『魏志倭人伝』の「倭人国には牛と馬は無い(つまり、生息していない)」という記述における【牛】は「ウシ」ではなく「ジャコウウシ」を意味し、【馬】は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」と意味した。
これゆえ、【現代の学者たちは四つ目の肖像画を見て「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけ)作り話である」と騙(だま)された】の【騙】の偏に用いられた【馬】の字源は「フタコブラクダ」であった。

下図に示すように、【馬】の字源となった銀河は【「十字の銀河」とその東となりの「三つ輪の銀河」】であった。
「十字の銀河」は「月光にきらめく沙(すな)のように壮麗な妊婦の姿」をしており、「三つ輪の銀河」は「月光に沙がきらめく土地の沙漠、つまり瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)をあらわす、天理」となった。
「三つ輪の銀河」は夏の銀河において最も東に位置し、「三つ輪の銀河」の東となりは「秋の銀河の西端(にしはし)」である。
 000013_20250413141001 
ゆえに、【馬】の字形は「天理」の「十字の銀河」から図案された。
下図に示すように、「十字の銀河」が【馬】の字形となり、「三つ輪の銀河」の字形は「馬(フタコブラクダ)が生息するゴビ沙漠」に相当すると見立てられて図案された。
だから、【馬】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)は「十字の銀河」を「フタコブラクダの姿」に相似するように図案された。
000014_20250413141101

『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)の南一海を度(わた)る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国(長崎県北部の壱岐)に至る」と記述する。
これゆえ「対馬国の南の海」は「瀚海(かんかい)」と名づけられ、「瀚海は対馬国と一大国の中間の、現在の東水道」であった。
上記したように、「瀚海」は「馬が生息するゴビ沙漠」を意味した。
下に、「対馬国・瀚海・一大国の図」を配した。
000012_20250413141201

下図に示す「対馬の上県(かみあがた)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を見て――卑弥呼は「ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない家畜のフタコブラクダの正面の姿」に相似すると見立てた。
「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「ゴビ沙漠・瀚海を歩くのに都合(つごう)がよい、じょうぶな足の指を有する大きな足底、あるいは沙漠の砂に残る足跡の形」に見立てた。
【馬】の字源銀河は、上記したように「十字の銀河」である。
000015_20250413141501  

上図に示したように――「下県の、フタコブラクダの足底の形(爪先の形)」は[]に向く。ゆえに、卑弥呼は、瀚海(ゴビ沙漠)を対馬の[]に配置したが、
「対馬の[]にある現在の西水道」もまた「瀚海」であったと示していた。
だから、「対馬の上県の地宜」は「馬(フタコブラクダ)の正面形」となって【対】し、
「対馬・下県の地宜」は「馬(フタコブラクダ)の足底の形で【対】するゆえ、
卑弥呼は小国名を【対】に【馬】を加える「対馬国」と定めた。
また、「対馬国の上県の地宜は「[]に進む【馬】の形となって、[]に瀚海がある形」、
「対馬国の下県の地宜」は[]に進む【馬】の形」となって、[]にも瀚海がある形」を示す。
したがって、【瀚海の位置が[][]に対することになる】ゆえ、卑弥呼は小国を「対馬国」と名づけることにしたのである。

前ページで図示したように、「天理の馬は瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠の西となり」にある。
それに対し、「地理の瀚海・ゴビ沙漠は対馬国の南の一海」となる。
だから、「瀚海の北にある[対馬]の【馬】」は、「だまし」の漢字【騙】の偏となる【馬(フタコブラクダ)】をあらわした。

下図は、瀚海の南にある「一大国、現在の長崎県北部の壱岐」の地図である。
一大国における、「現在方位の西部は、馬の顔とコブ」に見立てられ、「壱岐の大半を占める東部(現在方位)の地域は「牛の全身の形」に見立てられた。
夏音文字【牛】は「ジャコウウシ」を意味したゆえ、「壱岐の大半を占める東部地域」は「ジャコウウシの全身の形」に見立てられて、「地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」になった。
000019_20250413141701

上図に示したように、一大国は「【牛】と【馬】の地宜に岐(わか)れる」。
だから、後世、「一大国」は「壱岐」と表記された。
というのも、倉頡は【牛】と【馬】」を【一】の字源と定め、また【一】の字源は「子が子宮口(しきゅうこう)から産道を通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生し、その後の後産期(こうざんき)までの様子」をあらわすようにした。
言いかえると、倉頡は【一】の字源を【牛】と【馬】と定めるため、「子どもが出産するに通過する産道」と「後産期の様子」をも【一】の字源にした。
ゆえに、【牛】と【馬】は【一】の字源「人の出産の様子」をあらわす聖獣(せいじゅう)となった。

司馬遷著(しばせんちょ)『史記』夏本紀(かほんぎ)初頭部は下記のごとく説明する。
「禹()の父の鯀(こん)が帝舜(ていしゅん)に治水工事(ちすいこうじ)を命じられた。しかし鯀の治水が実状にそぐわず、なんにも成果をあげていなかったので、鯀を羽山(うざん)におしこめられて死にいたらしめた。
帝舜は、鯀の子の禹に、鯀の治水事業を継続させた。」
禹の治水工事の成功しでたとき、倉頡が作った【一】は、夏音文字で【壹()】と表記されるようになったと考えられる。
また、倉頡が作った【台】を、夏音文字では【臺】と表記されるようになったと考えられる。
〔注 この【壹】と【臺】の誕生の秘密は、「漢字の起源と発明を解明す・41、もしくは41-1」にて解説する。〕

【壱】の旧字は禹が作った【壹】である。
【壹】の上部(【壺】の上部)は「分娩のはじまりとなって、子宮口(しきゅうこう)が全開大(ぜんかいだい・すっかり開く)状態から出産が始まる」を表現し、
【壹】の下部の【豆】は「出産の始まりから後産期で出産が完了するまで、出産児が頭を前にして産道を通過し、さらに後産期の出産児の様子」をあらわした。
つまり、「レスリングのバックドロップのように出産児はあおむけになって子宮口(しきゅうこう)に頭が入れると、その後、頭を前にして産道を進むと膣口(ちつこう)から頭が誕生し、さらに後産期に卵膜(らんまく)・臍帯(さいたい)・胎盤後血腫(たいばんこうけいしゅ)などが押し出されて出産が完了するまで、出産児の頭は5回も転回する」。
したがって、【頭】の原字(げんじ・最初の文字)は【豆】であった。
だから、【壹】の字は「子宮口の全開大から始まる出産は、後産期で完了する様子」をあらわした。

下に、五帝時代に生存した黄帝(こうてい)を祀(まつ)る廟(びょう)と墓となる黄帝陵(こうていりょう)の位置を示す地図を示した。
0000190_20250413141801

上の図における「黄帝陵より左側の黄河上流の形」は「頭が縦(たて・アゴから頭までの距離)に長くなる、その出産児の鼻の形」に相似する。
ゆえに、「長方形状の黄河上流地域の地図」は「出産児が西に顔を向ける形の地理」となった。
その「地理の瀚海・ゴビ沙漠は出産児の頭の上から遠く離れた北にあり、そして東西に広がる」。
ところが、前ページで示した「瀚海(かんかい)と【馬】の天理図(字源解説図)」では、「三つ輪の銀河・瀚海(かんかい)は東にあって南北に広がり、十字の銀河・【馬】も南北に伸び」、「三つ輪の銀河と十字の銀河は連結する」。
そして、倉頡(そうきつ)は「天理の四つ目の怪人・倉頡(鬼の横顔に似る銀河)」を「出産児の頭()」に見立てた。
また、倉頡は「地理の黄河上流の長方形状の形」も「出産児の頭()」に見立てた。
ゆえに、「天理の瀚海図(字源図)」と「地理の瀚海図」は同一ではなく、その相違は明確である。
「天理・銀河の瀚海」を「フタコブラクダが生息する地のゴビ沙漠」と解釈する考えは、イメージ(映像や心像)をもって同じであると誤魔化(ごまか)し騙(だま)す産物であった。
だから、「瀚海に生息する【馬】・フタコブラクダ」は、「だまし」を意味する文字【騙】の偏となった。

上記した【馬】の天理字源は「十字の銀河」、【馬】の地理字源は「フタコブラクダ」、「瀚海」の天理字源は「三つ輪の銀河」、「瀚海」の地理語源は「ゴビ沙漠」とする定理は、倉頡の発明であった。だから、【馬】の字源と「瀚海」の語源は「辞理(文字作成理論)」を学ぶにあたって真っ先に知らなければならない基本中の基本知識であった。

貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢中和辞典』(角川書店発行)は「【翰(かん)】の字義は「やまどり。雉(きじ)の一種」とする。
ゆえに、【翰】・「やまどり」は「ヤマセミ」であったと考えられる。
というのも、偏【三水】に【翰】を加えると【瀚】になるからである。
「三つ輪の銀河」は「水鳥のカワセミが飛び込んだ水面にできる水輪(みなわ・円形の波紋)の形」にソックリである。
ゆえに、扁が【三水】の【瀚】は「水鳥のカワセミ」を意味したにちがいない。
瀚・カワセミの巣穴(すあな)の近くには「ダミー・贋物(にせもの)の穴」がある。
この「ダミーの穴」は言いかえると「騙(だま)しの穴」である。
だから、「ゴビ沙漠に生息する馬(フタコブラクダ)」と共に、「地理のゴビ沙漠」もまた「騙しの穴を作るカワセミの海」、つまり「瀚海」と名づけられたのである。

◆なぜ、「騙し」が必要になったかといえば――黄帝が居住した黄帝陵周辺を黄河が長方形状に包囲し、黄河陵周辺の東方の近くには黄河の水が北(上流)から南(下流)に一直線状に流れる。
このため、黄河の水は急流となり、大雨が降れば洪水となり氾濫(はんらん)して大災害となっていたにちがいない。
黄帝陵周辺に住む人々は――夏の銀河の西端の形状を観()[亡くなった牛(ジャコウウシ)]が地中深く潜(ひそ)み、その[牛の死霊が激怒して暴れる]のが原因で洪水となり、黄河は氾濫する――と考えたようである。

下に、「巨龍の銀河の尾」から「さそり座α星」までの夏の銀河の東部から西端までの図を配した。
この図における右下にある「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」を、黄帝や倉頡はじめ黄帝陵周辺に住む人々は「牛(ジャコウウシ)の群れが円陣を組む、その円陣の中心」と見立てた。
というのも、牛(ジャコウウシ)は敵の気配を察知すると1グループ・百頭ぐらいの群れが円陣を組み、この防御体勢となる円陣の中心に「牛の子ども」を配置して隠したからである。
ゆえに、下図の右下の「胎児の姿に似る銀河」は[メスの牛が孕(はら)む胎児]に見立てられた。
また、「胎児の姿に似る銀河」と「銀河の中心」と「巨龍の銀河の顔がある、夏の銀河の西南部」は「百頭余りの牛の群れが組む円陣」と見立てられた。
S892_20250413141901
上図における右下の「胎児の姿に似る銀河」は「天敵のオオカミが襲来する気配を察知すると、防御(ぼうぎょ)する牛・ジャコウウシの姿勢」に相似する。
「防御の姿勢となる、牛(ジャコウウシ)の姿に銀河(胎児の姿に似る銀河)」を「1グループ・百頭余りの牛の群れを牽引(けんいん)する先頭の牛」に見立てると、
(A)
「巨龍の銀河の顔」は「群れを牽引する先頭の牛に従う二番目の牛」 に見立てられ、「巨龍の銀河の最後尾となる、わし座α星(牽牛星・彦星)付近の巨龍の最後尾の銀河」は「百頭余りの群れの最後尾の牛」と見立てられた。

上図における下部の左下「巨龍の銀河の顔から牽牛星(彦星)付近の巨龍の最後尾」までは、上記した(A)「百頭余りの牛(ジャコウウシ)を牽引する先頭(胎児の姿に似る銀河)にしたがう二番目の牛から最後尾の牛」に見立てられた――この(A)の他に、「巨龍の銀河の顔」は(B)(C)つまり計3種の物に相似すると見立てられた。

上図における左下()「巨龍の銀河の顔」は「北から南に下って黄帝陵周辺地域に生息した、牛(ジャコウウシ)の群れに従ってついてきた野性の馬(フタコブラクダ)の群れを牽引する先頭の馬」に見立てられた。
ゆえに、上図における左上の()「わし座α星・彦星」は「牛(ジャコウウシ)の群れに従ってついてきた野生の馬(フタコブラクダ)における最後尾の馬」に見立てられた。
実は、(B)「彦星」の【彦】は「牛・ジャコウウシ」を意味せず、【彦】の字は「大きく育った馬((タコブラクダ)を意味した。
また、【彦】は【顔】の原字(最初の文字・【顔】の偏は【馬】)であり、【彦】の字源は「大きく育った馬(フタコブラクダ)の顔」に見立てられた「巨龍の銀河の顔」であった。

作家にして詩人であった故・井上靖(いのうえやすし)氏は、『地中海』という詩集にある「落日」と題する詩にて「匈奴という遊牧民族の伝説」について、冒頭から
「匈奴(きょうど)は平原に何百尺かの殆(ほとん)ど信じられぬくらいの深い穴を穿(うが)ち、死者をそこに葬り、一匹の駱駝(ラクダ)を殉死(じゅんし)せしめて、その血をその墓所の上に注(そそ)風習があった。云々」
と表現する。

上図における(B)「巨龍の銀河の顔から尾までの全体像」は――上記したように、[(ジャコウウシ)]の群れについてきた[野性の馬(フタコブラクダ)群れ]をあらわし、そして「巨龍の銀河の顔」は「[]の子(銀河の中心と胎児の姿に似る銀河)の死霊を襲って追い回していじめる地中深く葬られた[]の死霊」をあらわした。
これゆえ、【死霊の[]の群れは死霊の[]の子たちをまもって激怒(げきど)する。だから、黄河の水が氾濫して災害をもたらす】――と黄帝陵周辺に住む人々は考えたのである。

下に、長方形状に水が流れる黄河上流に包囲される黄帝陵の地図を配した。
この黄河上流における北部から東部には、黄河から枝分かれする細い川がある。
その細い川を参考にして、黄帝は黄帝陵東部の黄河から細い水路を造成する治水工事を命じて、激流する黄河の水をゆるやかにして氾濫を防(ふせ)ぐとともに田(農地)に用いる水とした。
また、黄帝は「黄河と水路の連結部に堤防を築いて、氾濫をふせぐ治水工事」を命じたと考えられる。
0000191_20250413142101

上記したように、黄帝陵周辺に住む人々は――地中深く葬られた[]の群れの死霊が、「銀河の中心」と「胎児の姿に似る銀河」に見立てられた[]の子たちの死霊を襲って追い回しいじめる様子を、[]の親の死霊の群れが激怒して洪水となり黄河が氾濫する――と考えた。
ゆえに、下図における左の(C)「東側にある、巨龍の銀河の顔」は「黄帝陵より東側の地域を流れる黄河」に見立てられた。
また、下図における(C)「東側にある、巨龍の銀河の顔」は「洪水で、氾濫する黄河」に見立てられた。
0000309_20250413150201

上図における「巨龍の銀河の顔」と「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」の形状について――
藤井旭(ふじいあきら)氏が著作した『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社発行)115ページにて、「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる」と説明する。
ゆえに、黄帝陵周辺に住む人々は「銀河系の中心と、その東側の巨龍の銀河の顔、その西側の胎児の姿に似る銀河(防御の姿勢となるジャコウウシの姿に似る銀河)」は「洪水で大きな渦を巻いて氾濫して濁流(だくりゅう)する黄河の水」を連想した。
だから、()「黄帝陵より東側の地域を流れる黄河の氾濫は、馬・フタコブラクダたちの死霊が牛・ジャコウウシの子たちの死霊を追い回していじめる様子を親の牛・ジャコウウシたちの死霊が激怒して起きる」と、黄帝陵周辺に住む人々は考えたのである。

以上のごとく、黄帝陵周辺に住む人々は「急流の黄河や地中」には「強大な力を有するジャコウウシの死霊が棲()む」とおそれた。このため、「急流の黄河に棲むジャコウウシの死霊を騙(だま)して宥(なだ)めて氾濫をふせぐ必要」があった。
だから、倉頡は【馬】の字源「フタコブラクダ」と「瀚海(かんかい)」つまり「ゴビ沙漠」をもって「牛(ジャコウウシ)の死霊が激怒するのを騙してなだめる方法」を考案することにしたのである。

いままで解説してきたように、五帝時代初頭の黄帝時代には、すでに地図が作製されていたことになる。
ゆえに、倉頡は黄帝陵を包囲する黄河上流地域はほぼ長方形にして、出産児の頭の形に相似することを知っていた。
倉頡が発明した文字作成理論は【黄河上流地域の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)】から始まった。
したがって、黄帝時代には、かなり精度の高い地図を作製されていたと考えるべきことになる。
倉頡は「文字を書いた後で用済みになっても消さない者、消し忘れた者はもちろんその家族および一族全員を死刑にする」と厳(きび)しい掟を定めた。
この掟だと文字作成理論や倉頡(そうきつ)が作った字を後世の人々が知ることができない。
後世に倉頡が発明した文字作成理論を伝えて、この文字作成理論にもとづいて多数の漢字が作られるようにするため――地宜(ちぎ・地図の形)をあらわす地名を作って残すことを、倉頡は許可した。
しかし、倉頡は容易に地図の形が察知できる文字で地名を作ることを厳重に禁止し、地名には「騙し」を加えあるいは難(むずか)しく考えて作らなければならないと定めた。
このため、「倉頡の文字作成理論はじめ『騙し』を加えて難解する作業」は【学】の字となり、中国やわが国の「学問の始まり・学術の基盤」となった。
ゆえに、倉頡文字はじめ五帝時代に出現した文字(書契・しょけい)、夏代黎明期に作られた文字は後世において基本的に夏の銀河各部の形状から作られた楷書に変換できて残った。
したがって、倉頡が作った文字は司馬遷(しばせん)著『史記』に残り、倉頡の文字作成理論や夏代黎明期の夏音文字は『魏志倭人伝』に記される楷書の字源・字形・字義や語句となって残った。
五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は出土史料が発見されていないが――『史記』や『魏志倭人伝』や『古事記』上巻における様々な名をあらわす楷書や『万葉集』の万葉仮名となって残っている。

倉頡は、地図を王朝が独占管理して厳重な機密とするようにした。
だから、独自に地図を作製する人物・家族・一族全員には、「騙し」を加えて難しい知識にしてあらわした地名の秘密を容易に理解できるように説明した人物・家族・一族全員には、厳しい神罰が下されて死刑とするという掟を倉頡は定めたことになる。

前述したように、倉頡は反体制者たちが辞理(文字作成理論)を理解し手に入れて革命に利用したならば、容易に黄帝王朝は滅亡すると心配して、辞理を難解・複雑にした。
ゆえに、倉頡は[辞理に「瀚海・三つ輪の銀河と【馬】の「十字の銀河」と、「瀚海・ゴビ沙漠」の【馬】の「フタコブラクダ」との形状の差錯(ささく・相違)]を辞理に加えて、辞理が容易に理解できないように難解・複雑にしたのである。
だから、黄帝時代や夏代黎明期には高度な地図が作製されていたと考えて――『魏志倭人伝』の34の小国はじめ、中国の黄河流域やわが国の東北地方の地宜(平面的に図化した地図の形)と地名に用いられる文字を注目して――小国名に用いられる文字の字源・字形・字義について字源字書の説明にもとづいて推理すると――『魏志倭人伝』の全34の小国の地宜・位置・範囲は4~6時間ぐらいで解明でき、また中国の黄帝時代と夏代黎明期の歴史、そしてわが国の東北地方の地宜と地名に残った夏代黎明期の歴史も解明できるようになっている。

◆次に【騙】の旁部(つくりぶ)の【扁】の字源銀河と、「だまし」を意味することになった理由・根拠について解明する。
古代の人々が“字書の聖典”と尊重した許慎(きょしん)著『説文解字(せつもんかいじ)』は、
【扁(へん)】の字源を「署(しょ)するなり。戸册(こさつ)に従ふ。戸册なるものは、門に署するの文なり」と解説する。
白川静著『字統』(平凡社発行)は、上記の「『説文解字』の字源解説は「網戸(あみど)の形。戸の下部を網戸の形に作る。その両扁のものを扉という」と説明する。
このような『説文解字』と『字統』の解説は字源を失っている。その証拠に【扁】の字が「だまし」の意を有することなったのかまったく不明である。

下の左図は「夏の銀河点描図(夏の銀河の全域図)」である。
この左図は日本天文学会編『新星座早見』(三省堂発行)の夏の銀河の全域図を、わたくしがトレシングペーパーに点描しなおして作製した。
右図は「夏の銀河輪郭(りんかく)図」である。したがって、輪郭の中は空白ではなく、空白部の全面もまた銀河ということになる。
0000306_20250413150301

上図は、【「三つ輪の銀河」から「胎児の姿に似る銀河」までの夏の銀河の図】である。
下の左図は、【「三つ輪の銀河」から夏の銀河の中間にある「わし座α星のアルタイル・牽牛星(けんぎゅうせい)・彦星までの銀河」を削除(さくじょ)した――【「わし座α星・牽牛星・彦星」から「胎児に似る銀河」までの夏の銀河の図】である。
つまり、下の左図は【扁】の字源となった【「牽牛星・彦星」から「胎児に似る銀河」までを全域とした図】である。
右図は、【扁】の字源銀河の全域輪郭図である。
〔注 下の2図における右下には、出産児の誕生における後産期(こうざんき)をあらわすさそり座α星・アンタレスがある。しかし、この2図とも、さそり座α星が欠けている。〕
0000307_20250413150401

下の左図()は、【扁】の字源銀河全域輪郭図を180度転回した図である。
中央図()は、左図()の上下を180度転回した図である。
右図()は、中央図()を書いた薄い紙の裏面からも見えるようにして、その裏面の形をあらわした図、つまりこの「裏返しの図」が【扁】の字源銀河図である。
「右図()の裏返しとなる中央図()」は「内裏(だいり)」の語源となった。
「内裏」とは「昔の天皇の御殿(ごてん)。つまり皇居・禁裏」を意味する。
下の()(Ⅱの)図は、【扁】の字が「騙(だま)し」の字義を有することになった秘密の解明図である。
つまり、()()【扁】の字源銀河による「騙し」は――洪水で黄河が氾濫して大災害とならないように、【牛】の字源・ジャコウウシの死霊が激怒しないようにやわらげ静める――を表示している。
0000308_20250413150601
上の左の銀河図()は、実際に見えない――今から約4100年~4000年前頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)、現代の暦による冬至(12月の21)の夕刻6(18)、その全域は北の地中深く(地平線下)に潜(もぐ)って見えない。
上の中央の銀河図()は、左図()の銀河の上下を180度転回した「内裏」の語源銀河であるが、偽(にせ)の銀河であって実際にはまったく見ることができない。
ゆえに、上記したように、()()の2図は「激怒する死霊の牛(ジャコウウシ)を騙しなだめる」という意味を有することになった。

上の右の銀河図()は、夏至の日の622日の18時の夕刻、東南東(東から約10度の南)の地平線(水平線)を擦(こす)るように牽牛星・彦星が昇る様子をあらわしている。
しかし、この夏至の日の夕刻18時には銀河は見えない。というのも、夏至の日の夕刻18時は太陽が地平線と重なるため、この太陽の光によって【扁】の字源銀河は見えない。
右図()は夏至の日の夕刻18時と20時の銀河図の両方をかねている。
太陽が地平線下に没して18度の深さに至って星や銀河が見える夜となる夏至の日の20時、牽牛星・彦星は東南東(東から約30度の方角)に位置し、地平線から約30度の高度に輝いていた。
だから、夏至の日の20時ならば右図()の【扁】の字源銀河は見えた。
したがって、()における夏至の日の20時の【扁】の字源銀河は「騙(だま)し」の意味を有さないことになった。

奈良県高市明日香村には「牽牛子古墳(けんごしづかこふん)」と呼ぶ国の指定遺跡がある。
この古墳の墳丘(ふんきゅう)は大・中・小の八角形を積み重ねて設計されている。
ここからは、「上記したように、この古墳名と同じく「牽牛子」の振り仮名(ルビ)を「けんごし」とする。
「牽牛子(けんごし)」は「朝顔(あさがお)」の別称ということで、国の史跡に指定されたときには、「牽牛子塚古墳」は「あさがおつかこふん」という読みがついていた。

下に、「牽牛子(けんごし)」の語源解説図を示した。
「胎児の姿に似る銀河」は、「ジャコウウシがアゴを地面に向けて正面を見て、頭を首より低くする姿勢」に酷似(こくじ)する。
言いかえると、「胎児の姿に似る銀河」は「天敵のオオカミが襲来するとき、人がジャコウウシを狩猟するときの牛・ジャコウウシの姿勢、あるいはオスのジャコウウシがメスをめぐって闘う姿勢」などに相似する。
ゆえに、ここからは「胎児の姿に似る銀河」を「牽牛子(けんごし)の銀河」、または「牛・ジャコウウシに似る銀河」と呼ぶ場合もある。
0000309_20250413150701

前述したように、防御体勢となる牛・ジャコウウシの群れは円陣を組み、ジャコウウシの群れは皆円陣の中心にいる子のほうに背中をむけ、敵に顔を向ける。
ゆえに、「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」は「牛・ジャコウウシの子がいる所」となる。
「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河から成る円形」は「牽牛・ジャコウウシの群れが組む円陣」に見立てられたゆえ、「ジャコウウシの子がいる銀河の中心」は「牽牛の子」略して「牽牛子」となる。

前述したように、「牛・ジャコウウシに似る銀河」は「胎児の姿に似る銀河」でもある。
ゆえに、「牛・ジャコウウシに似る銀河=胎児の姿に似る銀河」を「ジャコウウシの子の姿に似る銀河」と名づけると、
これまた「牛・ジャコウウシに似る銀河」は「牽牛子」という名となる。

◆下図に示すように、夏至の日の朝日は東から30度の地平線(水平線)の方角から出()ずる。
春分・秋分の日の朝日は東の地平線から出ずる。
冬至の日の朝日は東から30度の地平線の方角から出ずる。
S424_20250413150801

下に図示したように、夏の銀河の東端に「三つ輪の銀河」がある。
「三つ輪の銀河」は「北の輪(円形)の銀河・中央の輪(円形)の銀河・南の輪(円形)の銀河」という三つの輪の銀河が重なりあう形となる。
したがって、「北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」に見立てられ、「中央の輪の銀河」は「春分・秋分の日の朝日」に見立てられ、「南の輪の銀河」は「冬至の日の朝日」に見立てられた。
0000303_20250413151001

すぐ前のページに図示したように、夏の銀河の西端には「さそり座α星・アンタレス」が在る。
再度、この図を下に配置した。
下図が示すように、「牽牛子の銀河の腰からさそり座α星までの銀河」は「ラッパの形に似る朝顔の花」に形似する。
上記したように、「三つ輪の銀河における北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」に見立てられた。
「朝顔の花」は「夏の朝方」に咲く。
ゆえに、上記したように「牽牛子の銀河の腰からさそり座までの銀河」は「夏の朝方に咲く朝顔」に見立てられた。
0000309_20250413151101

東端の「三つ輪の銀河」から西端の「さそり座α星」までの夏の銀河は巨大である。
だから、奈良県高市明日香村に所在する牽牛子塚古墳の墳丘における最下段の八角形は「三つ輪の銀河からさそり座α星・朝顔の花の台(うてな・萼拊)までの巨大な夏の銀河」をあらわした。

◆「牽牛星・彦星が漬()かる銀河(【扁】の字源となる東端の銀河)」から西北の方角の隣(となり)には、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」がある。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には、国際的に天文学界が「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名づけた箇所がある。
「北天の最輝部」は「北半球の人々が最も輝いて見える銀河の部分」と意味する。
「人の横顔に酷似する銀河」の東となりの暗黒天体部は、国際的に天文学界において「コールサック」と呼ばれている。
「コールサック」の「コール」は「石炭」を、「サック」は「袋」を意味する。ゆえに、「コールサック」は「石炭を入れる袋のごとく真っ黒の天体部」ということになる。
「コールサックの形」は「丸くなって前につきだした妊婦の腹部(おなか)の正面形」に相似する。

下に、「コールサックと人の横顔に酷似する銀河の図」を配した。
光がまったく目に入らない暗闇から「コールサック」を見ると、瞳孔(どうこう)が最大に拡大して「コールサック」は真っ黒く見える。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)にある、北天の最輝部がはなつ光」を「人の目に入る光」と見立てると――光が目に少し入ったために瞳孔が最大より少し縮小して、「コールサックの色」は「夏の朝にラッパの形に似る美しい花が咲く朝顔の紫色」に見える。
ゆえに、「コールサック」は「紫色の朝顔の花」にも見立てられた。
上記したように、「コールサック」は「子どもを孕(はら)む妊婦の腹部(おなか)の正面形」に相似する。

よって、「コールサック」は「朝顔」と、そして「人の横顔に似る銀河」は「子どもを生む女性の横顔」に見立てられた。
だから、「人の横顔に酷似する銀河」もまた「コールサック」同様に「朝顔」と呼ばれることになった。
というのも、「人の横顔に似る銀河」は「東の空が明るくなる朝」を示して[]に顔を向けているゆえ、「人の横顔に酷似する銀河」は「夏の強い朝日が直射(ちょくしゃ)する顔」に見立てられ、略して「朝顔」と呼ばれることになった。
というのも、「人の横顔に酷似する銀河の額にある、北天の最輝部の眩(まばゆ)い銀白色の輝き」は「夏の朝の強い陽射し」が連想されるからである。
0000310_20250413151201

朝顔の花は夜間に咲かない。
ところが、「コールサック」と「人の横顔に似る銀河」の「夜間に咲く朝顔の解釈」は「騙し」の意味を有するものと解釈されないことになった。
というのも、「コールサック」は「妊婦の腹部、つまり胎児が生活するところ」に相似するからである。
だから、「胎児が生活するところ」と見立てられた「コールサック」は「神聖なところ、つまり聖域(せいいき)」であるゆえ、「騙し」の意味は有さないと定められた。

このような「人の横顔に酷似する銀河とコールサックの朝顔」は、明日香村の牽牛子塚古墳における中くらいの大きさの中段の八角形をあらわした。

◆すぐ前ページにて指摘したように、夏の銀河の東端は「三つ輪の銀河」である。
この「三つ輪の銀河における、北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」及び「夏の強い朝の陽射し」に見立てられた。
「三つ輪の銀河」の西隣(にしとなり)は「十字の銀河」、「十字の銀河」の西隣には「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」がある。
下に図示した「十字の銀河」は「夏の強い朝日の陽射し」に見立てられた「北の輪の銀河がある、東を向く」。
ゆえに、「十字の銀河の顔」は「夏の強い朝日を浴()びる顔」、略して「朝顔」と呼称されることになった。
0000311_20250413151301


また、上図に示したように、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河の顔)」も「「北の輪の銀河がある、東を向く」。
ゆえに、「四つ目の銀河」もまた「夏の強い朝日の陽射を浴びる顔」と見立てられ、略して「朝顔」と呼ばれることになった。
そして、「十字の銀河の子宮」もまた「朝顔の花」に見立てられた。

朝顔の花は夜に咲かない。
しかし、「十字の銀河の顔」・「四つ目の銀河」と「十字の銀河の子宮」は、前述した「人の横顔に酷似する銀河」・「コールサック」と同様に「騙し」の意味を有さないと定められた。
というのも、前述したように、「胎児が生活する女性(妊婦)の正面形」に相似する「コールサック」は「騙しの意味を有さない、聖域」と解釈されることになったからである。
だから、「十字の銀河の子宮」の、「子宮」も「胎児が羊水(ようすい)に潜(もぐ)って水中生活するところ」であるゆえ、「騙しを有さない、聖域」と定められた。

「十字の銀河の顔の朝顔」と「四つ目の銀河の朝顔」と「十字の銀河の子宮の朝顔」との三者グループの大きさは、上記した「人の横顔に酷似する銀河の朝顔」と「コールサックの朝顔」よりも小さい。
だから、「十字の銀河の顔・四つ目の銀河の朝顔」と「十字の銀河の子宮の朝顔」は明日香村の牽牛子塚古墳における最上段・小の八角形をあらわした。

◆下図は「十字の銀河」と子宮」の図である。
わたくしが「十字の銀河の子宮」とつけた名は、実は「十字の銀河の子宮と産道」の略称であった。
0000312

下図の左図は、「女性の生殖器官」における「産道」と「子宮」と「卵管(らんかん)」と「卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)と「卵巣(らんそう)」の図である。
「子宮」から左右に分かれる「卵管・卵管膨大部」と「卵巣」を削除(さくじょ)すると、右図のごとく「産道」と「子宮」の形になる。
倉頡は、【台】という字を作り、「子宮」を「台形」に見立てて、「子宮で40週間余も生活する子」を「台の子」とした(つまり後世に「台の子」は「胎児」と表記された)
0000313
上図に示したように、倉頡は【一】の字を作り、【一】は「産道」を意味するようにした。
台の子(胎児)が育って出産するとき、子宮口(しきゅうこう)にあおむけになって頭を入れ、さらに頭を前にして産道を進み、膣口(ちつこう)から頭が誕生し、さらに後産後期(こうざんき)に出産児の付属物が娩出(べんしゅつ)されて出産が完了するまでに生きている児の年齢を「一才」と数えた。

つまり、倉頡は【一】の字源・字義を「出産の第一期の開口期(かいこうき・分娩の始まりから子宮口がすっかり開くまでの時期)から、第二期の娩出期(べんしゅつき・子宮口がすっかり開いてから胎児の頭が母体の背側に向いて誕生するまでの時期)、そして第三期の後産期(誕生した出産児の附属物が娩出されて、出産が完了する)まで」と定めた。
だから、古代では後産期において生きている出産児の年齢を「一才」と数えた。
〔現在は、後産後に生きている出産児の年齢を〇歳とする〕。

すぐ前ページに配した「女性の産道と子宮の形」の図を、再度、下に配した。
下の右図に記したように、倉頡は「子宮」は「朝顔の花の形」に相似すると見立てた。
そして、倉頡は「産道」を「朝顔の花(花弁)をのせる台」と定めた。
この「朝顔の花をのせる台」の「台」を、現在では「うてな」と読み、「萼拊(がくふ)」とも呼ぶ。
上記したように、倉頡は【一】の字源を「産道」と定めたにもかかわらず、「産道」を「台(朝顔の花をのせる台)」と呼んだ。
このように、「産道」は【一】の字源にして「台(朝顔の花をのせる台)」を解されたゆえ、矛盾することになった。
ゆえに、白川静著『字統』(平凡社発行)は【不】の字について――否定・打消しの「ず」に仮借(かしょく)して用いる。もと象形で花の萼拊の形である――と解説する。
要するに、『字統』は――朝顔の萼拊は「朝顔の花をのせる台」ではあるが、「子宮」を「朝顔の花」に見立てたときは「産道」は【一】の字源であるゆえ、「あくまで産道は【一】の字源であるから、産道を[]と解釈してはいけない」と否定された――と説明するものであったことになる。
0000313_20250413151601

◆黄帝は「女性の生殖器官(せいしょくきかん)と出産」について研究した。
ゆえに、倉頡(そうきつ)は「黄帝の医学研究の教えや意見」と「自分の意見」を合体して、卵から第4週の前半に心臓ができる胎芽期(たいがき)より出産が完了する後産期(こうざんき)までの児()は八変化して誕生すると考えることにした。
この「児の八変化」における黄帝と倉頡の合体意見を、現在の医学用語を用いて説明する。
倉頡は「児の八変化」を
(
)胎芽期と第4週前半から第12週ころまでの胎児期(たいじき)()子宮上部の子宮底(しきゅうてい)のほうに頭をむける第12週から第20週ころまで育つ胎児期、()子宮底と180度の反対方向にある子宮口(しきゅうこう)のほうに頭を向ける第20週ころから出産予定日の第40週までの胎児期、()あおむけになって子宮口(骨盤の入口)に頭を時計回りに90度転回する時、()出産児が頭を反時計回りに90度転回して産道を進む時、()出産児が頭を反時計回りに90度転回して産道を進む時、()出産児が頭を時計回りに90度転回して母体の背側に顔を向ける時、()後産期における出産児の姿勢、
上記のごとく、八種類に分けた。

上記の「()から()までにおける四回の出産児の変化」を、現在医学では「回旋(かいせん)」とよぶ。つまり、()時計回りの90度の転回」は「第1回旋」、()反時計回りの90度の転回」は「第2回旋」、()反時計回りの90度の転回」は「第3回旋」、()時計回りの90度の転回」は「第4回旋」とよぶ。

黄帝は、()の胎芽期における児どもは水稲(すいとう・水田の稲)が牛・ジャコウウシの餌場(えさば)のような形をした田の周辺の粘膜(ねんまく)に、苔(こけ)のような細胞が餌場のような形をした田へ向かって侵入して――児どもの命が始まると考えたようである。
その後、つまり第8週の中頃の児どもは、だいぶ人らしく見える胎児となる。
ゆえに、胎芽期から始まる児どもは子宮の中の羊水(ようすい)に漬かって約10ヶ月も長い期間過ごす水中生活者である。
出産した人は1時間も水中に潜っていれば窒息死(ちっそくし)して確実に死ぬ。
にもかかわらず、子宮内の児どもは約40週間もの長いあいだ羊水に潜ったまま過ごしても、なぜか窒息しないのいか、黄帝はこの秘密を解明できなかった。
ゆえに、倉頡は()の胎児を鳰(にお)で、()の胎児をカンムリカイツブリで喩(たと)えることにした。
倉頡は、()胎児の体長(たいちょう)2030センチである。この体長さは水鳥の鳰と同じぐらいであった。
(にお)は鳥の中でも、もっとも水と深くかかわって生活する。湖や川や沼の池に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。鳰は人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。ゆえに、倉頡は約9週間も母体の子宮の羊水の中にもぐったまま、息を外()きつづけて羊水を吸い込まずに窒息しない胎児」に喩えることにした。
カンムリカイツブリ目カイツブリ属最大のカンムリカイツブリの体長(4661センチ)()出産予定日の第38週ころから第40ころの胎児の体長(4853センチ)と同じくらいである。
カンムリカイツブリは鳰よりも長く水中に潜ることができるゆえ、「八丁もぐり」とも呼ばれる。
ゆえに、倉頡は「()の胎児」を「カンムリカイツブリ」で喩えることにした。
そして、倉頡は「カンムリカイツブリの姿」を図案する【爾()】の字を作り、「鳰の姿」を図案する【乎()】の字を作った。
夏代黎明期では【爾】の字に偏【弓】が加わって【彌(弥・み)】となり、【乎】には偏【口】が加わって【呼()】となった。
だから、『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の【弥】は「カンムリカイツブリ」を意味し、【呼】は「鳰」を意味した。

以上のごとく、奈良県高市明日香村に所在する古墳名に用いられる「牽牛子(けんごし)」は「朝顔(あさがお)」とも解されることになった。
上記したように、倉頡は「胎芽期」から「後産期」までの出産児の状況を八種類に分けた。
ゆえに、「牽牛子」と「2種類の朝顔」は「八角形」にされるようになった。
上記の「2種類の朝顔」は「()人の横顔に酷似する銀河・コールサック」と、()「十字の銀河の顔・四つ目の銀河と十字の銀河の子宮(子宮と産道)」である。
だから、牽牛子塚古墳の墳丘は「牽牛子」と「2種類の朝顔」の計3種の銀河を大・中・小の八角形を三段積み重なる形に設計されている。

なお、特に注目すべきは――メスをめぐってジャコウウシのオスが角(つの)と角をつきあわせて押し合い闘うときの、二頭の角の形である。
下に、闘う二頭のオスの写真を配した。
この写真は、星野道夫記念ライブラリーが発行した絵葉書から転載した。
この写真が示すように、ジャコウウシの二頭の角は【八】の金文形をあらわす。
白川静著『字統』は【八】の字について――両分の形。左右に両分して数える数えかたによって、数の八を示す。『説文解字』は「別るるなり」と訓し、その形について「分別して相背く形に象(かたど)る」という――と解説する。
下の写真の二頭のオスの角の形は、白川静著『字統』と『説文解字』の【八】の字説に合致する。
ゆえに、【八】の字源は「メスをめぐって闘うときの二頭のオスの角の形」であった。
ということは、倉頡は「闘うジャコウウシのオス二頭の角の形」を【八】の字源にしたと考えられる。
Photo_20250413151801

◆下図は、「上半分」が「中の人の横顔に酷似する銀河・コールサック」、下半分が「牽牛子(ジャコウウシ)」をデザインする――「大・中・小の積み重なる三段」の「三」をあらわす[【参】の金文形における「朝顔」の語源銀河と【扁】の字源銀河との合体形]となる――【参】の字源銀河説明図である。
この左右の両図には、「東に向く顔を向ける妊婦の胸部を西に向くように180度転回して、東を向いていた妊婦の顔から腹部までを西に向くようにした」という工作が加えられている。
0000314
上図における上半分」は「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)にある、北天の最輝部」の図案をもって「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」を表現する。
ゆえに、「上図の上半分」は「人の横顔に酷似する銀河とコールサックの、朝顔」の語源銀河図となる。
上の左図()に記した「彦星・牽牛星」は「向きが東から西へ180度転回する胸部」をあらわす。
上の左図()における「牽牛子の銀河」は「向きが東から西へ180度転回する腹部」をあらわす。
ゆえに、「上の()()()の3図の下半分」は「彦星・牽牛星から牽牛子の銀河までの範囲の、夏の銀河」をあらわし、前ページで解説した【扁】の字源銀河をあらわす。

下に、【参】の金文形の解説図を配した。
左図は()「東に向く妊婦の横顔と西に向く妊婦の腹部」をあらわす「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河までの女体図」である。この左図()は【参】の金文形ではない。
中央図は()「右図の【参】の金文形の裏返しの、東に向いて踊る妊婦図(女体図)」である。この中央図()もまた【参】の金文形ではない。
右図は、前ページに配した()【参】の金文形である。
(
)【参】の金文形は「子どもが誕生して喜ぶ、西を向いて踊る女性の姿」を表現している。
0000315
◆ここまでの解説に至っても、斉明天皇は奈良県高市明日香村に所在する八角形に設計された牽牛子塚(けんごしづか)古墳を築造したのか、その秘密についていまだ解説していない。
次回「漢字の起源と発明を解明す・40―2」では、斉明天皇が牽牛子塚古墳を築造した秘密について説明した後に――いまだ全貌を説明していない【倉頡の文字作成理論】について解説した後に、
今回のブログのテーマ「『魏志倭人伝』における九州の末盧国(まつろくに)以下の記事にある【方位記事】が「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する――について解説する。
邪馬台国説学者たちは「【南】へ伸びると説明する転回日本列島地理は誤っている」と断定して、このような不合理な転回日本列島の解釈は誤りで、実際には存在しなかったと主張する。
この邪馬台国説学者たちの転回日本列島地理の否定意見は『魏志倭人伝』の文字面(もじづら)を撫()でただけの粗雑(そざつ)な考えによる邪推(じゃすい)で、要するに空理空論であった。
つまり、卑弥呼王朝は錯覚の転回日本列島地理を制定していた。
だから、この「漢字の起源と発明を解明す・40―1」と「漢字の起源と発明を解明す・40―2」のテーマ「日本列島地理は卑弥呼王朝が制定した地図であったゆえ、歴史上に実在した」という解説と証明は、次の「漢字の起源と発明を解明す・40―2」でおこなうことにした。

| | コメント (0)

2024年10月15日 (火)

漢字の起源と発明を解明す・35

柿本人麻呂の軽皇子の成年式を詠む和歌の秘密の解明

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏の星座が漬()かる銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20241015094701
今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログは「漢字の起源と発明を解明す・32」までをもって、
卑弥呼が統治した倭人国における対馬国(つしまこく)と一大国(いちだいこく)の「北・南」の一例のみは特殊で現在方位と同じであるが――末盧国(まつろくに)から黒歯国(こくしこく)までの32の小国記事におけるすべての方位記事は【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ってすべて合理となり、1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在しないゆえ、【組織的に合理】が成立してすべて正確であると証明した。

また、『魏志倭人伝』にある「其の道里(どうり)を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治(とうじ)の東に在るべし」という記事は、
下図に示すように、【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】ならば「中国の会稽と東治の東」に存在するが、
新井白石以来の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説のごとく【現在方位】に則る意見だと、「日本列島地図は中国の会稽と東治の東北に存在」して矛盾し不合理となる。
K576_20241015094801

このように、『魏志倭人伝』の対馬国の北・一大国の南の一例を除く、全方位記事は【倭】の字源に合致して合理・正確であると証明されて【科学】が成立する。

他方(たほう)、新井白石以来の邪馬台国説畿内説と邪馬台国九州説は「『魏志倭人伝』の方位規定は現在方位と同一とする」が、この方位規定だと『魏志倭人伝』の全記事と合致せず、幾つかの点で不合理となりまた矛盾する。
ゆえに、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と指摘して、自説はあくまで正しく『魏志倭人伝』に誤り・欠点があると主張する。

上記したように、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ってすべて合理になるように統一されているため、
邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【組織的に合理、いわゆる科学】が成立してすべて合理で正確であったと証明することができる。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となる。

◆下記の和歌は、『万葉集(まんようしゅう)』巻一・48番は、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が作った有名な短歌である。

(ひむかし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
万葉仮名の原文は――東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡――である。
〔上記の短歌を現代語に訳すると――東の野に炎(かぎろひ)が立つのが見えて、ふりかえって見ると、月は西に傾いていた――となる〕。

この短歌にて詠()まれる「東」は【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」だと「南」となり、「月西渡(月かたぶきぬ)」の「西」は「北」となる。
しかし、上記の人麻呂が詠んだ『万葉集』巻一・48番の短歌における「東」は現在方位と同じ「東」であり、また「西」も現在方位は現在方位と同じ「西」と解釈しなければならない。

上記した『万葉集』巻一・48番の短歌は691(持統天皇6年)かあるいは翌692(持統天皇7年)に作られたと考えられる。
したがって、702(大宝2年)に中国に派遣された第7回遣唐使によって、国号が「倭(倭人国)」から「日本」へ改名されたゆえ、691年・692年当時の国号は「倭」であった。
また、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・34」にて指摘したように、
691
年・692年当時は、738年に45代・聖武天皇(しょうむてんのう)によって全国に国郡の地図作成の命令が下されて、卑弥呼が立論した「日本列島の〔東〕は〔南〕に伸びる」と定めた「転回日本列島地理」が改定されない以前であった。
ゆえに、691年・692年当時において、人麻呂はなにゆえ【倭】の字源を用いずに、「東」を「東」と名づけ、「西」を「西」を名づけたのであろうか。

この『万葉集』巻一・48番の和歌は、【軽皇子(かるのみこ)の成年式を祝う和歌】であった。
だから、人麻呂は【成年式を祝う和歌】において、「【倉頡の文字作成理論】における【高等学校級の学識】を示して――「東」は現在方位と同じく「東」と称し、「西」は現在方位と同じく「西」と称することにしたのである。
つまり、『万葉集』巻一・48番の短歌は「成年式を祝う和歌」であったため――人麻呂は「いまだ軽皇子は皇位に就()いた天子」ではないゆえ、【天子の徳(学識)】をあらわす【最高級の大学学識】 

の【倭】の字源「転回方位規定」を用いずに、【成年式にふさわしい、高等学校級の学識】を用いて現在方位と同じく「東」と「西」と表現することにしたのである。
これゆえ、人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の短歌における「東」と「西」の用法は正しいことになる。

◆前記した柿本人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の短歌に詠まれた光景は、具体的に何年何月何日の何時何分の出来事(できごと)であったかをつきとめようとした人物が二人いる。
この二人について、大和書房発行の『東アジアの古代文化』53号で、わたくしは知った。
これは、大和(おおわ)岩雄著「柿本人麻呂の安騎野(あきの)の歌をめぐって」で説明され、その概要は次のごとくである。

――画家の中山正美氏と万葉学者の犬養孝氏の二人は、人麻呂作の曙(あけぼの)の歌が成立した時点を具体的につきとめようとした。中山氏は、人麻呂の曙の和歌を題材とする壁画「阿騎野の朝」を制作しようとして、東京天文台の辻技師にその具体的な日付を調べてもらった。その結果、それは持統(じとう)6年1117日午前5時55分前後という結論を得た。犬養氏の場合は、その著書『万葉の旅()』にかかげる写真のため、彼の友人・伊藤銀造氏が冬の阿騎の野へ数年がかりで通われて、ついに昭和361224日の朝、歌の光景に合致する曙の瞬間(しゅんかん)を撮影することに成功した。そして、この1224日は、旧暦(太陰暦)に換算すると中山氏と同じ1117日になる。 
この歌は「軽皇子(かるのみこ)の安騎の野に宿りまし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」という題詞歌(だいしか)のうちの一つである。前の二人の調査を理由として、坂下圭八氏は、この歌の阿騎野狩猟が成年式祭儀だとすれば、「冬至の日を期して行われたにちがいない」と考える。
また、この歌は、持統6年春の天皇の伊勢行幸(いせぎょうこう)に関連する歌群と、持統8年までに完成する藤原宮の造営役民の歌との間に配列されているから、持統6年か7年の冬の作歌と推定されている。

結局、『万葉集』巻一の48番の短歌は、691(持統6年)か翌692(持統7年)の冬至の午前6時頃の光景を詠む歌ということになる。
下図に示す〔歳差状況図(さいさじょうきょうず・天の北極の位置図)〕に利用すると、691年・692年の天の北極と春分点を再現することができる。
K51_20241015094901

上図が示すように、天の北極の位置は25,800年で円形360度を一周して、もとの位置に戻(もど)る。
ゆえに、25,800年÷360度=71.666666年となる。
つまり、【天の北極は、約71.67年に角距離(黄道の北極を中心とする大円における角距離)が1度ずつ移動している】ことになる。
現在(2024)から692(持統7年)1332年前であるゆえ、歳差の変動角度は1332年÷71.67年=18.59度となる。
ゆえに、天の北極の位置と、黄道の北極を中心とする大円における春分点の位置を角距離19(18.59)過去にもどして再現した1224日の天文図は、
柿本人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の持統6年あるいは持統7年の旧暦1117日の冬至の午前6時頃の天文の光景をあらわしていることになる。

下図は、691(持統6年)あるいは翌672(持統7年)の冬至の日の午前6時頃の天文図である。
注目すべきは、このとき、下図の左上に記したように、〔東北の地平線上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河が姿を現(あらわ)していた〕。
冬至の日の午前6時、いまだ太陽は地平線下に潜(もぐ)って夜は明けず暗かったゆえ――このとき、「十字の銀河」は見えたことになる。
ゆえに、人麻呂は「東北の地平線」を「東(ひむかしの)」と詠み、「姿を現した十字の銀河」を見て「野炎立(のにかぎろひのたつ)」と表現したのである。
0000272

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
00003_20241015095301
上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
前述したとおり――すぐ前ページに配した「691年・692年の冬至の日の午前6時頃の天文図」の左上に表示した「東北の地平線」を人麻呂は「東(ひむかしの)」と詠み、「東北の地平線上に姿を現した十字の銀河」を「炎立(かぎろひのたつ)」と表現した。

下図に左側に配する「十字の銀河」は「〔炎(ほのお)〕の色のごとく、黄色く橙色(だいだいいろ)にキラキラと輝く」ゆえ、【炎】の字源銀河となった。
その証拠に、「十字の銀河」は【大】字形であり、【炎】の契文形は【大】字形の周囲に「炎(ほのお)」あるいは「火の粉()」をあらわす短い線を四つ加えて成立する。
また、【立】の契文形も「十字の銀河の形」に相似する【大】字形の下に【一】を加えて成立する。
0000273
人麻呂が作った『万葉集』巻一・48番の短歌を作った、この時は、すべてのものが生まれ変わると考えられた冬至の曙の時刻であった。
この時、軽皇子の成年式が行われていた。
この軽皇子は、人麻呂が仕(つか)えた草壁王子(くさかべおうじ・689年に死去)の御子(みこ)であった。

人麻呂が「東(ひむかし)の 野()に炎(かぎろひ)の 立()つ見えて」と詠んだ『万葉集』巻一・48番の短歌は、「軽皇子の安騎の野に宿りまし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」という題詞歌(だいしか)45番~49番までの5首のうちの一首である。

40
代・天武天皇(てんむてんのう)の皇后が、41代・持統天皇(じとうてんのう)である。
持統天皇の愛孫が、軽皇子である。
持統天皇は軽皇子を擁立(ようりつ)し、697年に軽皇子に天皇を譲位(じょうい)した。
つまり、成年式から5~6年後に軽皇子は、42代・文武天皇(もんむてんのう)となった。

このような文武天皇の成年式を詠む長歌が、「軽皇子、安騎(あき)の野に宿(やど)る時に、柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の作る歌」という題詞(だいし)の、『万葉集』巻一・45番である。
この長歌において、注目すべきは、11句目の「真木立(まきた)つ」という語である。
人麻呂は軽皇子の教育係となって――軽皇子に「真木立つ、経度線測量」、言いかえると【景】の字源を教える、大雪が降る安騎の野の旅に従事(じゅうじ)していた。

この『万葉集』巻一・45番の長歌は、下記のごとくである。
やすみしし 吾()が大王(おほきみ) 高照(たかて)らす 日()の皇子(みこ) 神(かむ)ながら 神さびせすと 太(ふと)しかす 京(みやこ)を置きて こもりくの 泊瀬(はつせ)の山は 真木立(まきた)つ 荒き山道(やまぢ)を 岩(いは)が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥(さかどり)の 朝越えまして 玉かぎる 夕(ゆふ)さり来()れば 三雪(みゆき)降る 阿騎の大野に はたすすき 小竹(しの)を 押しなべ 草枕(くさまくら) 旅宿(たびやど)りせす 古昔念(いにしへおも)ひて

上記の長歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
――(やすみしし)わが大王の(高照らす)日の神・天照大御神の御子でいらっしゃる軽皇子は、神であるままに神らしくふるまわれるべく、都を離れて、(こもりくの)泊瀬の山の真木立つ経度線測量の修行場に入って荒い山道や岩石や前進を遮(さえぎ)る樹木を押し伏せ、(坂鳥の)朝越えられて(玉かぎる)夕方になると雪が降る阿騎の野にすすきの穂や小竹の茂みを押し伏せて、【倉頡の文字作成理論】の学問を修得するために昔を思いながら(草枕)旅寝(たびね)をなさっている。

上記したように、人麻呂が作った軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一・45番の長歌の11句目は、

「真木立つ」という語である。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・34」にて指摘したように、
「真木立つ」という語は、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)の降臨」の箇所では「真来通りて」と表現される。
「真木立つ」と「真来通る」は「精確(せいかく)に経度線を測量する」と意味した。

前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・34」にて解説したように、
下図に示したように、鳥栖市(とすし)の真木と福岡県・佐賀県の県境に所在する基山(きざん)と宗像大社の高宮祭場(たかみやさいじょう)の三者は、「東経13030分で同経度」、つまり「真木立つ・真来通る経度線」で結ばれる。
ゆえに、「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所では、「基山」は夏音文字6字で「久士布流多気(くしふるたけ)」と記される。
この「久士布流多気」は「串触(くしふ)る岳(たけ)」とあらわすことになり、「東経13030分の串(経度線)が触れる(貫通する)山」ということであった。
0000267_20241015095501
基山を貫通する東経13030分は、下図の右上に示す宗像大社の高宮祭場をも貫通する。
下図の中央の宗像大社の辺津宮(へつみや)の本殿は、高宮祭場よりわずか東側に所在して、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説する【景】の字源をあらわした。
0000268_20241015095601

以上のごとく、691年あるいは692年の冬至の日に近い日々、柿本人麻呂は軽皇子の成年式において教育係となって、大雪が降る阿騎の野の泊瀬の山に入って軽皇子が「真木立つ、経度線測量」を学習する修行の旅に従っていた。
それから、5~6年後の697年に軽皇子は天皇を即位した。
この5~6年の間に、軽皇子は『魏志倭人伝』に「日本列島・本州の東は南に伸びる」と記述される――下図に示す【倉頡の文字作成理論における最高学問】の「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」の【禾】【委】【倭】の字源を学んだことになる。
K115_20241015095601

◆『日本書紀』の巻第七の成務天皇紀(せいむてんのうき)の末部には、
「すなわち、山河を堺(さかい)として、阡陌(せんぱく)にしたがって、邑里(むら)を定めた。こうして、東西を以(もっ)て日縦(ひのたて)と為()し、南北を以て日横(ひのよこ)と為し、山陽を影面(かげとも)と曰()ひ、山陰を背面(そとも)と曰ふ」
という記事がある。

上記の「阡陌」の【阡】の字は「南北の道」を意味するゆえ、【経】の「たて()」をあらわす「経度」を示している。
また、【陌】の字義は「東西の道」であるゆえ、【緯】の「よこ()」をあらわす「緯度」を示している。
ゆえに、【阡】は「縦(たて)の腺」を意味する「経度線」をあらわし、【陌】は「横(よこ)の線」を意味する「緯度線」をあらわした。
他方、上記した「東西を以て日縦(ひのたて)と為()す」という文は「【陌】の東西の緯度線を縦の経度線に代()える」と定義していることになる。
また、「南北を以て日横(ひのよこ)と為す」という文は「【阡】の南北の経度線を横の緯度線に代える」と定義していることになる。

だから、「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為()す」という文は、
上記した【禾】【委】【倭】の字源をあらわして、『魏志倭人伝』に記述された卑弥呼が立論した「転回日本列島地図」について説明していたことになる。
下図は、「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為す」と定義された、【倭】の字源をあらわす「転回日本列島地理図」である。
0000182_20241015095701

◆前記したように、軽皇子の成年式を詠む「軽皇子、安騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌」は、『万葉集』の巻一の45番~49番までの5首である。
この軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一の49番につづく50番「藤原宮(ふじわらんみや)の役民の作る歌」という題詞(だいし)長歌の末部には、下記のごとくの説明がある。
「日本書紀に――朱鳥(あけみとり)七年八月、藤原宮地に行幸(ぎょうこう)された。八年正月、藤原宮に行幸された。同年十二月六日に藤原宮に遷(うつ)られた。」
藤原宮に都が遷された朱鳥八年十二月六日は、69412月6日であった。
ゆえに、軽皇子の成年式がおこなわれた2~3年後の12月6日、藤原宮に遷都されたことになる。

軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一の49番から3首後の52番の題詞(だいし)は「藤原宮(ふじはらのみや)の御井(みい)の歌」である。
したがって、この『万葉集』巻一・52番の「藤原宮の御井の歌」は、軽皇子の成年式から2~3年後の69412月6日に遷都された藤原宮を詠む長歌ということになる。

この『万葉集』巻一・52番の「藤原宮の御井の歌」には、
上記した『日本書紀』の成務天皇紀の末部に、
「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為し、山陽を影面(かげとも)と曰()ひ、山陰を背面(そとも)と曰ふ」
と記される語が登場する。
だから、『万葉集』巻一・52番の長歌は――軽皇子の成年式が行われた691年・692年当時にも、『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る【転回日本列島地図】が実在していた――現在に伝えている。

『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】をあらわす「日縦(日の経)、日横(日の緯)、背面(そとも)、影面(かげとも)」という語が登場する『万葉集』巻一・52番の「藤原宮の御井の歌」は、下記のごとくである。

やすみしし わご大王(おほきみ) 高照(たかて)らす 日の皇子(みこ) あらたへの 藤井(ふじゐ)が原に 大御門(おほみかど) 始めたまひて 埴安(はにやす)の 堤(つつみ)の上(うへ)に あり立たし 見したまへば 日本(やまと)の 青香具山(あをかぐやま)は 日の経(たて)の 大(おほ)き御門(みかど)に 春山と しびさび立てり 畝傍(うねび)の この瑞山(みずやま)は 日の緯(よこ)の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳梨(みみなし)の 青菅山(あをすがやま)は 背面(そとも)の 
大き御門に よろしなへ 神(かむ)さび立てり 名ぐはしき 吉野(よしの)の山は 影面(かげとも)の 大き御門ゆ 雲居(くもゐ)にそ 遠くありける 高知(たかし)るや 天(あめ)の御陰(みかげ) 天知(あめし)るや 日の御陰の 水こそば 常(つね)にあらめ 御井(みゐ)の清水(すみみづ)

上記の長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。 
――(やすみしし)わが大王の(高照らす)日の神の御子であられる天皇が(あらたへの)藤井が原に宮殿を造り始められ、埴安の池の堤の上にお立ちになって眺(なが)められると、大和の国の青い香久山は日の経(たて)にして緯度軸を経度軸に代えて(転回日本地図をあらわす)東面の大きな御門となって、春山らしく茂り立っている。畝傍のこのみずみずしい山は、日の緯(よこ)にして経度軸を緯度軸に代えて(転回日本列島地図をあらわす)西面の大きな御門となって瑞山(みずやま)らしく香久山を佐(たす)け備わって存在する。耳梨の青い菅山は山の陰(きた)の北面(背面)の大きな御門として、宜(よろしき)名を立派(りっぱ)に示して神々(こうごう)しく立っている。名高い吉野の山は山の陽(みなみ)の南面(影面)の大きな御門から雲浮かぶ空遠く彼方(かなた)に存在する。高く聳(そび)える天つ神の御殿にして天知(あめし)る日の御子の御殿である、ここ藤原宮の水こそは永遠に栄えあれ、転回日本列島地理を映す鏡となる御井の清き水よ。

だから、『万葉集』巻一・48番の人麻呂が作った軽皇子の成年式を祝う短歌にある、
初句の「東(ひがしの)」と、結句の「月西渡(つきかたぶきぬ)」の「東と西」を注目して、
――『魏志倭人伝』に記された【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則る【転回日本列島地図】は実在しなかった――と否定することはできない。
というのも、上記して解説し証明したごとく、691年~694年当時、卑弥呼が「日本列島の東は南へ伸びる」と立論した【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】は実在していたからである。

以上のごとく、【倭】の字源に則ると『魏志倭人伝』における対馬国と一大国の方位を除く全方位記事は、一点の矛盾点も無く不合理な点も存在しないで【科学】が成立するゆえ、
このブログが詳細に解説して証明してきたとおり、2世紀末~738年の45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の時代まで、卑弥呼が立論した【倭】を字源に則る【転回日本列島地理】は実在したことになる。
いっぽう、【現在方位】に則る邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は、『魏志倭人伝』が説明する【倭】の字源に則る【転回日本列島地理】を無視するがために、『魏志倭人伝』に記される方位記事に対して幾つかの矛盾点や不合理な点が生じることになって【科学】成立しない。
だから、学界が一番正しいと評価する新井白石以来の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は【わが国の学問の起源、また根源を破壊する空理空論】であったことは否定できない事実となる。


〔追補〕
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」においいては――過去の天文図の様子や天頂緯度線の様を表示する再現図を多数用いて解説した。
この「過去の天文図・天頂緯度線の状況を再現する方法」について、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・35」では前ページで簡単に説明した。
しかし、今回まで「過去の天文図・天頂緯度線の状況を再現する算出方法」について詳細に解説するチャンスがなかった。ゆえに――前ページで簡単に説明してくりかえしになるが――この場をかりて詳細に説明することにした。
K51_20241015095801
上図の「歳差状況図(さいさじょうきょうず)」が示すように、天の北極は25,800年で黄道の北極を中心にして一周する。
円周は360度であるから、25,800年÷36071.6666年となる。
したがって、天の北極は71.6666年毎に黄道の北極を中心とする大円の円周上を角距離1度ずつ移動していることになる。

また、下図に示す天の赤道と交わる、春分点も25,800年黄道の北極を中心にして一周している。
0000250_20241015095901
ただし、黄道の北極と天の北極を結ぶ延長線上に、春分点は位置しない。
ゆえに、黄道の北極と現在の天の北極を結ぶ軸と、黄道の北極と現在の春分点を結ぶ軸は別々にしなければならない。
上記したように、春分点も71.6666年毎に黄道の北極を中心とする大円の円周上を角距離1度ずつ移動している。

現在は2024年であるから、黄帝時代は今から約5020年前となるゆえ、
5020
年÷71.666年=70.04716322となる。
ゆえに、現在の天の北極から角距離70度過去のほうに戻した黄道の北極を中心とする、上図の天の北極の大円の円周の位置が紀元前3000年ころの黄帝時代の天の北極の位置となる。
また、黄道の北極と現在の春分点を結ぶ線よりも角距離70度過去のほうにもどした、黄道の北極を中心とした円周上の位置が黄帝時代の春分点となる。
ゆえに、上図に示したように、前もって2327分の傾きで交わる黄道と天の赤道の大円が交わる春分点と秋分点、そして天の北極をも表示する透明フイルムを作り、
星座や銀河などを表示する基盤の上に、
黄帝時代の天の北極と春分点の位置を合致するように重ねあわせれば、黄帝時代の天文図、あるいは天文盤(通称、星座盤)が出来上がる。

要するに、その古代は現在から何年前になるかを計算し、その差額年数を71.6666で割れば、その古代の天の北極と春分点の位置を定めることができるゆえ、その古代の天頂緯度線や天文図の状況を再現することもできる。
もちろん、未来のほうへ角距離を移動させれば未来の天頂緯度線と天文図の状況も再現できる。
天文の緯度の表示方法はいろいろあるが、そのうち〔赤緯(せきい)〕を用いるとよい。
上図の黄道と天の赤道が交わる春分点・秋分点と天の赤道を表示した透明フイルムに印した数字は〔赤緯〕の緯度数である。
赤緯は地球における北極・北緯90(北極点)の天頂を〔+(プラス)赤緯90度、南極・南緯90(南極点)の天頂を〔-(マイナス)赤緯90度、地球の赤道の天頂を±0度〕と定める。
ゆえに、たとえば北緯3449分の天頂は+赤緯3449分となる。
このように、土地の緯度数と天頂の赤緯の緯度数は同一であるゆえ、赤緯を用いると過去・未来における各地の天頂にめぐってきた銀河部・星・星雲、そして星座のどの部分かなどを楽々と知ることができる。

| | コメント (0)

2024年10月 7日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・34

卑弥呼がとなえた【益氏の男鹿半島・八郎潟地方の定住論】の波紋について()

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏の星座が漬()かる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20241007104701

今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

◆冒頭に示した【夏の銀河】の地平線上に出現する形はドーム状に半円形である。
しかし、倉頡(そうきつ)は、このブログ冒頭のカラー写真のごとく平面化して「南を正面にして、左上に【夏の銀河の東北部】」を配置し、「右下に【夏の銀河の西南部】」を配置して、
下図の左側に示したように、倉頡は【夏の銀河の基本形として、1本の斜線」に図化(ずか)することにした。
そして、下図の左側に示したように、倉頡は「北を正面にして、右上に地理(地図)の東北部」を配置し、「左下に地理(地図)の西南部」を配置して、「地理(地図)の基本形として、1本の斜線」に図化することにした。

ゆえに、下図の左側に示したように、「【夏の銀河】の斜線と地理の斜線」は【X】字形に交わることになり――この【X】の交わりを倉頡は【文字作成理論の基本形式】と定めた。
だから、【倉頡の文字作成理論の基本形式】をあらわした【X】の図書は文字となり、下図の中央に配する【X・爻(こう)】の字源となり、また契文前期の字形(けいぶんけい・甲骨文字前期の字形)となった。
あるいは、下図の右側に配したように、上部に【X】に配し下部に「建物」をあらわす図書が加えられて文字となり、この文字は【学】の字源となり、また契文前期の字形となった。
0000271
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、【X・爻】の字を「千木(ちぎ)のある建物の形」と解説する。
また、白川静著『字統』は【学】の字を「もと屋上に千木のある建物の形」と解説する。
さらに、白川静著『字統』は【爻】の字源解説にて、【学】について「学は一定年齢のものが隔離された生活をして、氏族の伝統や秘儀について学習する秘密講的な施設であり、それが学校の起源であった。千木形式の建物は、神聖なものとされたらしく、わが国の神社建築にその形式が残されている」と指摘する。
0000168_20241007104801
ゆえに、【爻】の【X】は「学問の起源」、つまり「【倉頡の文字作成理論】における最初に知っておくべき基本知識」となった。
だから、【学】とは「【倉頡の文字作成理論】を学ぶ施設」であった。
紀元前2050年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)に、中国から大海を越えて名門益氏(えきし)の王子と若者たちが九州に上陸し、さらに北進(ほくしん)して男鹿半島・八郎潟の西の辺(ほとり)に定住して【倉頡の文字作成理論】を教え広めた。
これゆえ、わが国の神社建築は屋上に【学】の起源をあらわす千木(ちぎ)がそなえつけられることになったのである。

◆現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」までに詳細に解説して【系統的(けいとうてき)な合理】つまり【科学】を成立させて証明したように、『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実であった」と説明しているからである。

『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方(たいほう)の東南、大海の中に在り。山島に依()
国邑(こくゆう)を為()す」である。
このように『魏志倭人伝』の冒頭記事における最初の文字は「倭」であり、
【倭】の字源は「現在の方位を時計回りに90度転回する方位規定」であった。
対馬国(つしまこく)と一大国(いちだこく)の北と南の記事を除(のぞ)く、【『魏志倭人伝』に記される全方位記事】は【倭】の字源にもとづく方位規定に則(のっと)って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。

新村出(しんむらいずる)編『広辞苑(こうじえん)(岩波書店発行)は【科学】という語を、下記のごとく説明する。
「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識。研究の対象または方法によって様々に分類される(自然科学と社会科学、自然科学と精神科学、自然科学と文化科学など)。」

上記したように、対馬国と一大国の北と南とする記事を除く、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は【倭】の字源による方位規定に則って統一されており、一点の不合理な点もなく矛盾点もなくすべて合理となる。
ゆえに、約2000字構成される『魏志倭人伝』の世界において、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は『広辞苑』が「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」と説明する【科学】が成立する。
他方(たほう)、学界がいちばん正しいと評価する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説による方位解釈は不合理な点や矛盾点を幾つか有する。このため、【科学】がまったく成立しない。

『魏志倭人伝』は「日本列島の東は南に延びる」と説明する。
下図に、『魏志倭人伝』の【倭】の字源に則る全方位記事が説明する「転回日本列島像」を示した。
下図の「転回日本列島像」は確かに事実に反している。
しかし、上記したように『魏志倭人伝』が説明する対馬国と一大国の方位記事を除く、「転回日本列島像における全方位記事」は【倭】の字源に則(のっと)って一点の不合理な点もなく矛盾点(むじゅんてん)もなく【科学】が成立する。
0000182_20241007104901

今から約300年前の江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき)がとなえて以来、多数の学者たちが主張することになった邪馬台国説は『魏志倭人伝』に記された全方位記事に対して幾つかの点で矛盾し不合理となって、【科学】がまったく成立しない。
というのも、白石以来の邪馬台国畿内説と九州説を主張する学者たちは、「『魏志倭人伝』を邪馬台国について説明する古文献である」と思い込んでいるが原因で、その意見は論理が完結(かんけつ)せず幾つかの矛盾点と不合理な点を有することになって【科学】が成立しない状況になるからである。
しかし、『魏志倭人伝』は「【倉頡の文字作成理論】を説明する古文献」であったと考えれば――【倉頡の文字作成理論】から生成された【倭】の字源に則(のっと)って一点の不合理もなく矛盾点もなくなり【科学】が成立する仕組みになっている。

◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」

益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法など
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・33」では、下記の事柄について詳細に解説した。

『古事記』中巻の第9代・開化天皇紀(かいかてんのうき)の冒頭は、
「開化天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた」と説明する。この「開化天皇が居住した宮殿の伊耶河宮」という宮殿名の先頭2字「伊耶」は「伊耶那岐命」という名なの先頭2字と同じである。
ゆえに、『古事記』中巻の開化天皇紀は――「開化天皇」は『古事記』上巻に登場する「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であったと説明していることになる。

『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には〔三貴子(さんきし)の分治(ぶんじ)〕という記事がある。
この〔三貴子の分治〕において、伊耶那岐命・開化天皇は異母弟の皇太子・天照大御神(後の第10代・崇神天皇)に「高天原(たかまのはら)」を分治した。
伊耶那岐命・開化天皇は「邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方」を「海原(うなばら)」と表現して、愛妻・伊耶那美命とのあいだに生まれた息子の須佐之男命(すさのおのみこと)に分治した。

ゆえに、「三貴子」、つまり「三人の皇太子の分治」において首都は、正式には天照大御神に分治した「高天原の邪馬国・大和」に遷(うつ)されたのではなく、
首都は依然(いぜん)として須佐之男命に分治した「海原の邪馬壱国・出雲地方」に所在した。

したがって、伊耶那岐命・開化天皇は天照大御神(後の崇神天皇)には正式に帝位(天皇の位)を譲(ゆず)らず、天照大御神が住む邪馬国(やまこく)・大和に遷都しなかったことになる。
つまり、高天原を分治された天照大御神は天皇の位(くらい)にいちばん近いが、天皇にはなれない皇太子であった。

「高天原を分治された天照大御神」は、「10代・崇神天皇(すじんてんのう)の異名(いみょう)」であった。
というのも、高天原を分治された天照大御神の皇太子名は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみことと)で、後の10代・崇神天皇(すじんてんのう)であり、
『日本書紀』の崇神天皇紀は「崇神天皇・御真木入日子印恵命は天照大御神を崇拝して祭った」と記述している。
ゆえに、人々は「御真木入日子印恵命・崇神天皇」を「天照大御神」という異名で呼んだのである。
天照大御神を崇拝して祭ったゆえ「天照大御神」と人々に異名(いみょう)で呼ばれた皇太子・御真木入日子印恵命(後の崇神天皇)は、国中の敵対勢力(てきたいせいりょく)をことごとく討伐(とうばつ)して天下を掌握(しょうあく)して、邪馬国(やまこく)・大和に都を遷(うつ)す強権政策(きょうけんせいさく)を決行した。

時を移りて――須佐之男命が没して、邪馬壱国・出雲地方は大国主神(おおくにぬしのかみ)が治める時代となった。
『古事記』上巻の〔葦原中国(あしはらのなかつくに)のことむけ説話〕における「大国主神(おおくにぬしのかみ)の国譲(くにゆず)り」の箇所は、
「邪馬壱国・出雲地方を治めた王の大国主神は、大和の天照大御神王朝に討伐された。討伐された大国主神は、邪馬壱国・出雲から邪馬国・大和に首都を遷(うつ)し、天照大御・神御真木入日子印恵命が天子(天皇)の位(くらい)につくことを承認した」と説明する。
この承認の際、大国主神は「皇太子・御真木入日子印恵命が神聖な皇位におつきになったことを世に知らしめるために、壮大な天まで登る(とどく)高さの御殿を建造するため、地底の岩盤(がんばん)に太い宮柱(みやばしら)を立て、高天原・出雲の空に千木(ちぎ)を高くそびえさせる社殿を建造してくだされば、この邪馬壱国・出雲を邪馬国・大和の天子が治めることを承認します」と誓った。

また、大国主神は天照大御神に下記のごとく誓った。
「僕()は百足(ももた)らず八十坰手(やそくまで)に隠(かく)りて侍(さもち)ひなむ。亦(また)()が子等、百八十神(ももそがみ)は、即(すなは)ち八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)、神の御尾前(みをさき)と為()りて仕(つか)へ奉(まつ)らば、違(たが)ふ神は非(あらじ)」とまおしき。

上記の文を、現代語に訳すると、下記のごとくある。
「わたくし(つまり、大国主神)は多くの道の曲がり角を通って至る、遠い場所に隠れることにしましょう。また、わたくしに服属した子どもの多数の神(つまり、王)たちは、言いかえると八重事代主神と呼ばれる王たちが前後一列に並んで統率してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」と言って誓った。

だから、天照大御神・御真木入日子印恵命は大主神の国譲りの誓いを信じて、出雲大社・天日隅宮(あめのひすみのみや)を建造することにした。
したがって、出雲大社の建造着手から、首都は邪馬国・大和に遷され、皇太子・天照大御神・御真木入日子印恵命は正式に皇位に就()くことができたことになる。

◆『古事記』上巻においては、「大国主神の国譲り」の次は〔天孫邇邇芸命(てんそんににぎのみこと)の説話〕である。
「天孫」とは「天照大御神(10代・崇神天皇)の孫」であるゆえ、「天孫」は12代・景行天皇(けいこうてんのう)」であったことになる。
注目すべきことは――『古事記』上巻における「景行天皇」の異名(いみょう)を「日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)」と記すことである。
ゆえに、「天孫の日子番能邇邇芸命」という名は『日本書紀』の神武天皇紀(巻第三)初頭に登場する「帝益(ていえき)の孫の王子」の「彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)」という名と文字が異なっても、両者は共に「ヒコホノニニギノミコト」であるゆえ同名であったことになる。
つまり、大和王朝は「景行天皇を天祖・益氏の王子の生まれ代わり」に見立てたことになる。

前々回と前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の3233回で詳細に解説したように、
『魏志倭人伝』の後半部にある「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余可(ばか)り」と卑弥呼が説明した、
「天祖・益氏の王子・日子番能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊)と若者が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)は黒歯国の東南に在る」という意見は、
【景】の字源と密接に関連した。

【景】の字源は「帝禹(ていう)が発明した測量方法と測量装置で地面に図化した西北の地平線下に潜(もぐ)る【夏の銀河像】」と、
「黄道(こうどう)」、つまり「天球上において太陽が一年間に通過する大円の道における一日の目盛りの距離は、前日の正午に太陽が南中してから翌日に太陽が南中するまでの時間は、現在の時間でいうと、4分短い23時間56分で一周する状況」をあらわした。
ゆえに、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕は、【景】の字源を「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、また「地上千里して日景に一寸の差がある」と解説した。

前ページにて解説したように、大国主神は天照大御神・崇神天皇王朝に「天高く千木がそびえる壮大な神殿を大和王朝が築造してくださったならば、わたくし(大国主神)の後を継ぐ王たちは代々、皆(みな)、こぞって大和王朝を尊敬してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」と誓ったにもかかわらず、
出雲王権の後を受け継ぐことになった不弥国・宗像大社の王一族を代表する天菩比命(あめのほひのみこと・天穂日命)は、天照大御神と大国主神との約束をまもらなかった。

天照大御神・大和の崇神天皇が大国主神との約束で出雲大社を建造したとき、祭祀(さいし)を司(つかさど)ったのは不弥国(ふみこく)の宗像王・天菩比命一族を代表する天菩比命であった。
出雲大社の祭祀を司る天菩比命は、天照大御神と大国主神との約束にもとづいて「天照大御神の第二子」ということになったゆえ、
出雲大社の本殿では天照大御神を尊崇(そんすう)して祭らなければならないにもかかわらず、
出雲国の国造(こくそう)に就任した天菩比命は大国主神が誓った約束を守らず、出雲大社の本殿では大国主神を主神として祭った。

つまり、上記したように大国主神は「わたくしは多くの道の曲がり角を通って至る、遠い場所に隠れることにしましょう。また、わたくしに服属した子どもの多数の神(つまり、王)たちは、言いかえると八重事代主神と呼ばれる王たちが前後一列に並んで統率してお仕えいたしますので、そむく王は一人も存在しないでしょう」
と言って誓ったにもかかわらず――天菩比命(あめのほひのみこと)は邪馬壱国・出雲の中心地域から遠くの場所に隔離(かくり)して大国主神を祭らずに――邪馬壱国・出雲の中心地域に建造された出雲大社の主神を大国主神として祭った。
ゆえに、出雲国の国造の天菩比命は大国主神の誓いをまもらず、大和・天照大御神王朝に逆(さか)らい反抗したことになる。

だから、大和王朝は出雲王権の天菩比命に虚仮(こけ)にされ名誉を傷つけられたということで、
出雲国造の天菩比命の反抗は不弥国(ふみこく)の宗像王の天菩比命の指図(さしず)によるものと考えたにちがいなく
天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと・後の景行天皇)が、宗像王の天菩比命を征討(せいとう)するために大和軍を率いて遠征することになった。
この「天孫邇邇芸命が大和軍を率いて不弥国への遠征した様子」を、『古事記』上巻では「天孫邇邇芸命の降臨(こうりん)」と表現する。

『古事記』上巻における〔天孫邇邇芸命の説話〕は「天孫・大和の遠征軍を猿田毘古神(さるたびこのかみ)が先導(せんどう)した」と説明する。
この「猿田毘古神の先導」の箇所の冒頭は「ここに天孫日子番能邇邇芸命が天降(あも)りなされようとする(つまり、邇邇芸命が大和軍を率いて不弥国へ遠征しようとした)時に、天降りの道が多くの道に分かれている所に居て、上は高天原(たかまのはら、つまり大和)を照らし、下は葦原中国あしはらのなかつくに、つまり出雲)を照らす、神がいた」と、「猿田毘古神」について説明する。

上記のごとく、『古事記』上巻の〔天孫邇邇芸命の説話〕は、容易に理解できない難しい抽象的な文をもって「天孫邇邇芸命(後の景行天皇)の不弥国の宗像王の天菩比命の討伐」について説明する。
ゆえに、「猿田毘古神の先導」の次の「天孫の降臨」の箇所では、
「天孫邇邇芸命が率いる大和軍が宗像王の天菩比命を討伐するために遠征した道程(みちのり)」を、下記のごとく説明している。

◆「故(ゆえ)、爾(ここ)に天津日子番能邇邇芸命(あまつひこほのににぎのみこと)に詔らして、天之石位(あめのいはくら)を離れ、天之八重(あめのやえ)たな雲(ぐも)を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天浮橋(あめのうきはし)に宇岐士摩理蘇理多々弖(うきじまりそりたたして)、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くしふるたけ)に天降(あも)り坐()しき。」


上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
「ここに天照大御神と高木神(たかぎのかみ)の勅命(ちょくめい)によって、天孫邇邇芸命は天の石位(いわくら)を離れ、天(あめ)の八重(やえ)たな雲(ぐも)を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて・つまり、伊都国の地宜が示すようにジャコウウシの群れが毎年通う・知り分ける道をゆっくりと進むジャコウウシの姿のごとく、威風堂々と)、途中(とちゅう)、天(あめ)の浮橋(うきはし、つまり関門海峡)からさらに進んで空に浮いている島(夏の銀河に沿って並ぶ天頂緯度を測量できる天体部)に胸を張って立って測量して(つまり、お腹(なか)をぐーんと前に出して天頂の緯度をキャッチして)、筑紫(ちくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くしふるたけ)に到着して、その頂上に登った。」

『日本書紀』の神武天皇紀(巻第三)の初頭記事は、「益氏の王子・天祖(てんそ)の日子能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊・ひこほのににぎのみこと)」について下記のごとく説明した。
「わが天神(あまつかみ)の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と天照大御神は、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)をすべて天祖の彦火瓊瓊杵尊に授けられた。そこで、天祖・益氏の王子は天のいはくらを開き、雲路(くもじ)を押し分けて、先払いを立てて地上に降臨された。」
このように、上記した『古事記』上巻の〔天孫の降臨記事〕と『日本書紀』の神武天皇紀の天祖・益氏の王子の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した記事の両者は酷似(こくじ)する。
だから、前述したように、「大和王朝は天孫・邇邇芸命を天祖・益氏の王子の生まれ代わり」に見立てたことになる。

司馬遷(しばせん)著『史記』の夏本紀は、下記のごとく説明する。
「帝益(ていえき)は帝禹(ていう)の三年の喪()が終わると、帝位を禹の子の啓(けい)に譲って、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した。」
ゆえに、上記した『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所に登場する「筑紫の日向の高千穂(たかちほ)の久士不流多気(くしふるたけ)」は、
通説では「宮崎県西臼杵郡の高千穂」、「鹿児島県と宮崎県の境にある霧島高千穂」などと解釈されるが、
「帝益が隠棲した地の北に所在した箕山」と類似する名の「福岡県と佐賀県の県境の標高405mの基山(きざん)」であったことになる。
というのも、「箕山」と「基山」はともに「きざん」と読み、【箕】と【基】の原字(最初の文字)は共に【其】であるからである。

だから、「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」は「福岡県と佐賀県の県境にある基山」であったと考えるべきことになる。
基山から東の坊住山(ぼうじゅうやま)にかけて665年に新羅(しらぎ)・唐からの侵攻(しんこう)に備えて天智天皇が築いた基肄城跡(きいじょうせき)がある。
基山は草山で県立自然公園になっている。

「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所の末部には「真来通(まきとお)る」という語が記される。
「真来通る」が「真木立(まきた)つ」ともいい、「南と北の地所が同一経度となる」と意味した。
ゆえに、上記した「基山」をあらわす「高千穂の久士布流多気」の「久士布流多気」の6字には〔音〕という注がつくが――この6字の夏音文字「久士布流多気」は言いかえると「串触(くしふ)る岳(たけ)」とあらわすものであったと考えられるゆえ、
「串触る岳」とは「南北の地所が同経度となる串(くし・経度線)が触れる(貫通する)山」であったことになる。

下図に示すように、鳥栖市(とすし)の真木(まき)・基山・宗像神社(辺津宮)の三者は共に同一の東経13030分の串(経度線)で「真来通る」。
0000267
実は、鳥栖市の真木・基山を貫通する東経13030分の串(経度線)は、下図に示す宗像神社の辺津宮(へつみや)に築造される本殿ではなく、その西方の奥にある高宮祭場(たかみやさいじょう)を貫通している。
つまり、基山(東経130.51023)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349)はほぼ同じ経度線とされ、宗像神社の辺津宮の本殿(東経130.514333)は基山・高宮祭場の経度線から一寸の差となってわずか東寄りに位置するとされた。

高宮祭場は宗像大神の降臨の地と伝えられる。
ゆえに、下図に示す「宗像大社の高宮祭場(東経130.51349)と、その東の辺津宮の本殿(東経130.51433)の経度の差」が、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が【景】の字源を「地上千里にして一寸の差がある」と解説する、その「一寸の差」をあらわした。
0000268

◆前述したように、【箕】と【基】の原字は共に【其】であり、
下図の右上に配したように、【箕】と【其】の契文形は同一形である。
白川静著『字統』は【X・爻】の字を「千木のある建物」と解説する。
【学】の契文形について、白川静著『字統』は「もと屋上に千木のある建物の形」と解説する。

下図の左上に示したように、またこのブログの初頭の【夏の銀河のカラー写真】をもって説明したように――
【爻】の字は「〔南〕を正面にして地平線上に出現する半円形(ドーム形)の【東北部から西南部の夏の銀河】を平面化して1本の斜線」にし、
また「〔北〕を正面にして地理の東北・西南は1本の斜線に図化」して、
この「1本の斜線化した両者をX字形に交(まじ)えて【倉頡の文字作成理論の基本形式】」をあらわした。

下図の中央下に配する【其】の契文形は中央の軌道図(きどうず)が示しているように――「春分の日(秋分の日)の太陽の正午の南中高度をあらわす軌道にける、地平線下に潜(もぐ)る軌道をあらわす図書」の【U】の中に【X()】が加わって構成される。
0000269

古代、人々は、下図のごとく、日々【天頂緯度をキャッチ】して【命(いのち)】をまもっていた。
下図の右上に示すように、【亠(とう)】の字源は「天頂緯度線・天頂点・子午線」の三者から構成される。
0000157_20241007105301

下図に示すように、【亠】における「子午線は南北の経度線」に合致する。
000031_20241007105401

前ページにて解説した「[][]の原字[]の字源解説図」にて、【其】の契文形における【U】の図書が「春分の日(秋分の日)の太陽の正午の南中高度の軌道における、地平線下に潜る(もぐる)軌道」であった理由は、
「春分の日(秋分の日)の太陽は真東の地平線から登り、真西の地平線に没し、正午には天頂から真南に位置して子午線(経度線・真来通る)」を示すゆえ、結局、上図の【亠】の字のごとく「東と西を結ぶ緯度線と子午線」を示すことなったからである。

それゆえ、【U】字形に図案された「春分の日(秋分の日)の太陽の日没から翌日の日の出までの地平線下に潜る軌道」は「【景】の字源となった帝禹が発明した【地平線下に潜る夏の銀河】を地面に図化した測量方法と、帝益の先祖の益氏が発明した太陽の天球上における軌道となる黄道の測量」をあらわすことになった。
ゆえに、【周礼】が〔大司徒〕が「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」、あるいは「地上千里にして日景に一寸の差がある」と解説する――この「【景】の測量」は「春分の日の日没から翌日の日の出までの太陽が地平線下に潜(もぐ)る軌道」で表現されることになった。
だから、「春分の日の日没から翌日の日の出までの太陽が地平線下に潜る軌道」は【其】の字源となり――【其】の契文形の外枠(そとわく)は【U】の図書に図案されることになったのである。

ゆえに、東経13030分の「基山」の【基】の字は『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源を「日景を正して、以て地の中を求む」とあらわすことになった。
その証拠に、前述したように、基山(東経130.51023)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349)を結ぶ経度線より少し東に寄る宗像神社の辺津宮本殿(130.51433)は、『周礼』の〔大司徒〕の【景】の「地上千里にして日景に一寸の差がある」と字源解説をあらわした。
だから、「基山」は、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命」の説話に登場する「高千穂の久士布流多気(串触る岳)」であったことになる。

◆司馬遷著『史記』夏本紀(第二)は「帝益は帝禹の三年の喪が終わると、帝位を禹の息子の啓(けい)に譲って、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した」と説明する。
この「箕山」は、「黄河口(こうがこう)、つまり黄河の河口」であったと考えられる。
下図に示すように、「黄河口の海岸線は山形(やまなり)」であるゆえ、「黄河口の海岸線」は「地平線上の軌道」に相似すると見立てられたにちがいない。
ゆえに、「黄河口の地底」は「地平線下の軌道」をあらわすと見立てられて【U】の図書に図案されることになった。
そして、「黄河の上流は西南、黄河口は東北」に在るゆえ、「【夏の銀河】の東北・西南の形式と対称形」となって【X】字形に交わる。
だから、「黄河口」は【U】の中に【X】が加わる【箕】の字源となった。
かくして「黄河口」は【其】の字源となったが、この【其】の字形が「籾殻(もみがら)を除去(じょきょ)する農具の箕()の形」に相似すると想像されたため、「黄河口」は「箕山」と名づけられたと考えられる。
0000270

ということは、「帝益が隠棲した、箕山の南の地」は、上図に示す「日照」であったのではなかろうか。
というのも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・20」にて詳細に解説したように――、
上図に示した山東半島北端の「石島」は「夏至の日の朝日が直(じか)に刺す処(ところ)」であり、山東半島の南端にある「日照」は「夏至の夕日照る処」であるからである。

ゆえに、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」記事の末部は、下記のごとく説明する。
――是に詔()りたまはく、「此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠紗(かささ)の御前(みさき)に真来通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故(ゆえ)、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地(ところ)」と詔()りたまひて、底(そこ)つ石根(いはね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天原(たかまのはら)に氷椽(ひぎ)たかしりて坐()しき。


上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
――ここにおいて、天孫邇邇芸命は「ここは(遠くの)韓国・朝鮮半島に面し、(近くは)笠紗(かささ・つまり不弥国の津屋崎町の菅笠(すげがさ)の形に相似する地宜)の前を基山からの真来通る経度線が貫通する宗像の地域は朝日の直(じか)に刺す国、夕日の日照る国である。ゆえに、ここは実に吉なる地である」と仰せられて、地底の岩盤に太い宮柱を立て、高天原(たかまのはら)に千木(ちぎ)が高くそびえる宮殿(宗像神社の辺津宮)を建造してお住まいになった。

下図に示すように、「山東半島の付け根より南の海岸線の形」は「長江口(ちょうこうこう)が人の鼻、杭州湾が人の口」に見立てられるゆえ、「人の横顔」に類似する。
だから、「山東半島」は「頭上に被(かぶ)る笠(かさ)」に見立てられた。
「山東半島」は「カンムリカイツブリの横顔」に相似すると見立てられて【弥】の字源を示す地宜(ちぎ)となった。
【弥】の字源となった「カンムリカイツブリの顔の色」は「絹の紗(うすぎぬ)のごとくキラキラと光り輝く銀白色」である。
だから、「山東半島」は「笠」に「紗」が加わる「笠紗」と表現されることになった。
0000188_20241007105601

「山東半島」は「韓国(朝鮮半島)」に面する。
ゆえに、上記したように、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命の降臨」記事の末部は、「ここは韓国(からくに)に向かい」と説明する。

下図に示す「津屋崎町(つやざきちょう)の海岸線の地宜(ちぎ)」は、「山東半島の地宜」と同じく、【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭()部」に相似すると見立てられた。
だから、「津屋崎町の海岸線より東の、基山(東経130.51023)と宗像神社の高宮祭場(東経130.51349)とを結ぶ経度線(東経13030)」は、
上記した「天孫邇邇芸命の降臨」の記事の末部では、「津屋崎町の地宜」が「山東半島の地宜」に類似して「カンムリカイツブリの横顔」をあらわすゆえ、「笠紗の御前(みさき)に真来通(まきとお)りて」、つまり「笠紗に見立てられた津屋崎町の海岸線の前を、基山と宗像大社の高宮祭場を結ぶ経度線(東経13030)が貫通する」と表現されることになったのである。
000077_20241007105601

以上のごとく、「天孫邇邇芸命」は「【景】の字源の遠征を行った。
だから、天孫は「【景】を行った」ということで、皇位に就()くと「景行天皇」と呼ばれることになった。

この【景】の字源については、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・32」にて詳細に解説したように、『魏志倭人伝』の後半部にある、
「又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」
と記述される――男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した名門益氏の王子と若者たちの、
その孫の代に築造された秋田県の鹿角市(かづのし)に所在する大湯環状列石遺構(おおゆかんじょうれっせきいこう)」における、下に示す「万座遺跡外帯の東側の配石群の平面図が夏の銀河像」をあらわして現在に伝えている。
下図の左図は、『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と解説した「地面に図化した、地平線下に潜る【夏の銀河像】」であった。
0000261_20241007105701

また、下図に示す大湯環状列石遺構の野中堂遺跡における「日時計組石(ひどけいくみいし)」と呼ばれる特殊石組も、『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源について「地上千里にして日景に一寸の差がある」と解説する秘密を現在に伝えている。
この【景】の字源の秘密は「太陽が前日の正午から翌日の正午までを一日24時間ではなく、4分足りない(4分の差がある)23時間56分で一周する」をあらわしている。
0000259_20241007105801

しかし、いままで説明したように、「基山と宗像大社の高宮祭場とを結ぶ東経13030分の経度線より少し東に寄る宗像大社辺津宮の本殿の位置」も、「地上千里にして日景に一寸の差がある」という【景】の字源の秘密を現在に伝えていることになる。
だから、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・31」にて指摘したように――「高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)と佐太神社の本殿とを結ぶ東経133度より少し東側の佐太神社の鳥居の辺り」もまた、「地上千里に「して日景に一寸の差がある」という【景】の字源を現在に伝えていることになる。

738年、45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の時代に、全国に国郡の地図作成の命令が下された。
当時、国号は「倭人国」ではなく「日本」に改定され、【倭】の字源「時計回りに90度回転する方位規定の習慣」は朝廷はじめ地方の官庁でも衰退していたのであろう。
このため、「能登から東南に男鹿半島・八郎潟がある」という意見、あるいは「日本列島の東は南に伸びると定めた卑弥呼の転回日本列島地理」は間違っているのではないかと疑問視され否定されるようになっていたにちがいない。
そして、738年以後の796年の50代・桓武天皇(かんむてんのう)の時代でも、国郡図の修正(しゅうせい)が命じられた。
このような国郡図の改定政策は、「行基図(ぎょうぎず)」と呼ばれる稚拙(ちせつ)な概要日本列島地図が発行されて行われた。
ということは、卑弥呼が立論した転回日本列島地理は【倉頡の文字作成理論の産物】であったため、
この【倉頡の文字作成理論】は朝廷と国家が最も厳重な機密にして独占管理するものであったことからして――【倉頡の文字作成理論にもとづいて発明された地図作製方法】によって「精密な日本地図が作成されていた事実」を反体制側の人々に気づかれないようにするために、稚拙な概要日本地図、つまり通称「行基図」をもって「日本列島の東は東である」と明記する概要日本地図を多数作製して国郡図の方位を改定する事業が行われたことになる。

しかし、このような多数の「行基図」を作成しておこなった「日本列島の方位規定の改定事業」によって、「1度60分の60分の1分の精度で緯度が測定できた天頂緯度測量」を衰退し廃絶(はいぜつ)されるようになった。
ゆえに、天頂緯度をキャッチして行われていた遣唐使(けんとうし)の派遣は、59代・宇多天皇(うだてんのう)の治世(じせい)894年の第18回をもって廃止されることになった。
多数の「行基図」と二度の国郡図改定事業の影響で「天頂緯度線をキャッチする航法は間違っていた」という意見が世に次第に強まって否定されるようになったため――遣唐使はじめ遣唐使船の船乗りたちは天頂緯度を測量して大海を往来する航法に自信喪失(じしんそうしつ)して、この航法に命を委(ゆだ)ねることに信頼できなくなって大海を渡ることができなくなったが原因で、894年の第18回遣唐使の派遣は廃止されることになったのである。

原始・太古にあっても、また第18回遣唐使が廃止された9世紀末においても、大海を往来する方法は【1度・60分の60分の1の1分の精度で緯度が精確に測定できる、天頂緯度を測量する方法】のみ一つであった。
【天の北極の高度】でも緯度は測量できたが、この方法では1度・60分の60分の1の1分の精度では測量できず、おおよそにしか緯度が測量することができないため、大海を往来することができず命を失うことになった。

その証拠に、702年6月29日に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回の遣唐使の最下位の幹部であった山上憶良(やまのうえのおくら)は、
『万葉集』の894番の「好去好来(こうきょこうらい)の歌一首」と題する長歌を作り、
この長歌の後半部で、下記のごとく証言している。
「大御神(おおみかみ)たち 船舳(ふねのへ)に 御手(みて)うちかけて 墨縄(すみなわ)を 延()へたるごとく」
上記の部分を現代語に訳すると「大御神たちが船の舳先(へさき)に御手をおかけになって、まるで墨縄をまっすぐに張って延ばしたようにお導(みちび)きになさる」ということになる。

もしも「遣唐使船は【天の北極の高度】で緯度を換算して大海を往来した」としたなれば、【天の北極の高度】を「墨縄を 垂らし計(はか)るに」と憶良は詠()んだことであろう。
あるいは、【天の北極の高度】を別の方法で「高度」をあらわす語で表現していたにちがいない。
憶良は「墨縄を 延へたるごとく」と詠み、「遣唐使船は【天頂緯度を測量する方法】で大海を往来した」と明確に表現して証言している。

| | コメント (0)

2024年9月21日 (土)

漢字の起源と発明を解明す・32

【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】の伝来と習得記事の解明()

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】は「夏にもっとも長時間、見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20240921141901

今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「大和朝廷はじめ、代々の天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・31」までに詳細に解説して――【倭】の字源を論理基盤して『魏志倭人伝』の全記事は全体的に組織的に合理が成立するからである。
ゆえに――『魏志倭人伝』の記事によって「倉頡伝説は事実であった」と証明されることになる。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、“夏の始祖(しそ)”の帝禹(ていう)の遺志「五帝時代以来存続してきた、国家を作らない・氏族共同政治体制」を新天地・日本列島にて継続させるために、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが荒波逆巻(あらうみさかま)く大海を、小舟を漕()いで横断(おうだん)して日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟地方に定住した――という歴史が記述されている。
なお、上記の帝禹の遺志「国家を作らない、氏族共同政治体制」を継続させるために、益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住することになった中国における事情の経緯(けいい)の詳細は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」にて解説した。

男鹿半島・八郎潟地方の地に定住した益氏(えきし)の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した歴史について、720年に成立した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀(じんむてんのうき)の初頭部は下記のごとく説明する。
「昔(むかし)、わが天神(あまつかみ)のタカミムスビノミコトとオオヒルメノミコトは、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)をすべて天祖(てんそ)の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けられた(つまり、益氏の王子、つまり天祖・彦火瓊瓊杵尊に日本列島において帝禹の遺志【国家を作らない、氏族共同政治体制】を定着させる事業を命令じた)。そこで彦火瓊瓊杵尊は天のいわくらを開き、雲路(くもぢ)をおしわける先ばらいを立てて(つまり、曇った夜空では測量できないが晴れる夜空を待って天頂緯度を精確に測量する役目の若者を先頭にして、益氏の王子の一団は)、旅の目的地に到着した。このとき、この地域はまだ野蛮(やばん)で草眛(そうまい)であった。そこで、蒙昧(もうまい)の中にありながら、みずからの正しい教え(学術)を養(やしな)って、この西の偏(ほとり)を治めた。
その後、わが天祖・益氏の王子と皇祖(こうそ・王子の息子)は神の聖(ひじり)のように徳高く、慶(よろこび、つまり善政)を積みかさね、暉(ひかり、つまり恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した。」

上記した【夏代黎明期(かだいれいめいき)、益氏の王子(彦火瓊瓊杵尊)と若者たち一団が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)】について、
『魏志倭人伝』の後半部の記事は、下記のごとく説明する。
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種(わしゅ)なり。又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸国(らこく)、黒歯国(こくしこく)有り。復()たその東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周線(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。景初二年六月、倭の女王、云々(うんぬん)

上記したごとく、益氏の王子と若者たちが中国から大海を越えて日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した記事における最後「周旋五千余里可り」の次は、「景初二年六月」という魏の元号をあらわす記事が続く。
わが「漢字の起源と発明を解明す・30」に解説したように、
上記した魏の元号「景初二年」における【景】の字源は――
(
)「紀元前2080年頃? “夏の始祖”と呼ばれる帝禹(ていう)が発明した、夏の銀河の各部位の測量方法と測量装置」、いいかえると「夏の銀河部位の測量方法と測量装置によって、地面に図化された夏の銀河像」である。
白川静著『字統』(平凡社発行)は「『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が、
(
)【景】の字について「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と解説する――と指摘する。
というのも、()「地面に図化された夏の銀河像」は「西北の地平線の下に潜(もぐ)る状況の形状」であるゆえ、『周礼』の〔大司徒〕は「以て地の中を求む」と説明することになったのである。

また、魏の元号「景初二年」の【景】の字源は――
(
)「五帝時代の四番目の帝堯(ていぎょう)の時代(紀元前2500年頃)に、益氏(えきし)の先祖が発明した、黄道(こうどう)の測量方法と測量装置」であった。
「黄道」は「天球上において太陽が一年間に通過する道」であり、この「黄道」は「大円(おおきな円形)」となる。
上記したように、この「黄道の大円」は【景】の字源となった。

前記したように、白川静著『字統』は――『周礼』の〔大司徒〕は「日景を正して、以て地の中を求む」という字説(字源解説)の後に、
【景】の字について追加する「地上千里して日景に一寸の差があるという」という文意は、
「太陽は前日の正午から翌日の正午までを一日24時間ではなく、4分足りない(4分の差がある)23時間56分で一周する」と説明していることになる。
このような「一寸の差」は、益氏の先祖が発明した黄道の測量方法と測量装置によって明らかになった。
〔なお、上記の「魏の景初二年」は「西暦238年」である〕。

◆下図に示すように、邪馬壱国・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の本殿(東経133.00639)からずれて、佐太神社の鳥居(東経133.008)の辺(あた)りを擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この東経133度が示す「佐太神社の本殿(西・現在方位)から鳥居の辺り(東・現在方位)までの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわしている。
000037_20240921142101
日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の高知県の足摺岬(あしずりみさき・旧称は佐太岬)を貫通している。
したがって、「烏奴国(あなこく)・高知県の佐太岬(足摺岬)と邪馬壱国(やまいこく)・島根県の佐太神社の本殿を結ぶ東経133(東経133.00639)より東の鳥居の辺り(東経133.008)」が【景】の字源・原義をあらわした。
これゆえ、かつて佐太神社は出雲大社に次ぐ勢力を誇った。「お忌()みさん」と呼ばれた神在祭(じんざいさい)」には八百万(やおよろず)の神々が佐太神社に集まると伝えられていた。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
00003_20240921142201

上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
この「十字の銀河の西側の腰の部分」に「子宮」に相当する箇所がある。
この銀河部を、わたくしは「十字の銀河の子宮」と名づけた。

【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」に喩(たと)えられた。
K23_20240921142301

◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』における1300字目くらいの箇所に、
前ページで紹介した――名門・益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏に定住した記事の冒頭となる、下記の文章がある。
「女王の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種(わしゅ)なり」
この「皆、倭種なり」で説明が終わる小国の名称は記されていない。
この名称不明の「皆、倭種なり」という小国は、「倭種」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って「現在方位の北」が「東」に変位する――つまり「女王国の邪馬壱国(やまいこく)・出雲地方の島根県松江市の佐太神社の真北(現在方位)の、日本海に浮かぶ隠岐群島(おきぐんとう)」であった。

隠岐群島は、知里夫島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島の三つの島で構成される島前(どうぜん)に、もっとも大きな島後(どうご)――この四つの大きな島と約180の小島からなる。
この「四つの大きな島と約180の小島」をまとめる語は「皆(みな)」となる。
だから、『魏志倭人伝』は「隠岐群島」を「皆、倭種なり」と説明した。

『魏志倭人伝』は「女王の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆、倭種なり」の次に、
「又、侏儒国(しゅじゅこく)有り。其の南に在り。人の長(たけ)、三、四尺、女王を去ること四千余里。

又、裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り」という文が続く。

下図に示すように、「侏儒国」は「現在の石川県南部(現在方位)の、旧国の加賀(かが)」であった。
また、「裸国」は「現在の富山県であり、旧国の越中(えっちゅう)」であった。
また、「黒歯国」は「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登(のと)」であった。
000061_20240921142401
「侏儒国」の【侏】の字源銀河は「朱色に輝く、鬼の横顔に似る銀河」である。
「侏儒国」の【儒】について、『説文解字(せつもんかいじ)』は「柔(やわら)かなり」と解説する。
ゆえに、「朱色(赤色)に輝く鬼の横顔に似る銀河」は「出産したばかりの赤ん坊の顔と頭」に見立てられ、また「鬼の横顔に似る銀河の頭」は「柔らかい、縫合(ほうごう)が完成していない新生児の頭蓋骨(ずがいこつ)」に見立てられたことになる。

『魏志倭人伝』は「侏儒国」について、「人の長(たけ)三、四尺」と説明する。
下図に示すように、「朱色に輝く、鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」あるゆえ、〔倉頡伝説〕では「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。
ゆえに、「四つ目の怪人」の「怪人」の「人」と、「赤ん坊」も「人」であるゆえ、この「人」にもとづいて――「倉頡」と「赤ん坊」に見立てられた「四つ目の銀河の見掛けの身の長(たけ)」は「三、四尺(三度~四度)」と説明されることになったのである。
00009_20240921142501
上記したように、「侏儒」は「出産した直後の赤ん坊の顔と縫合(ほうごう)が完成していない柔らかい頭蓋骨」に見立てられた。
ゆえに、「裸国」の「現在の富山県、旧国の越中の地宜(ちぎ)」は「暑い夏に裸(はだか)になって過ごす赤ん坊の上半身」に見立てられた。

結局(けっきょく)、「旧国の加賀」の小国名の「侏儒」は「五帝時代初頭の黄帝時代に生存した倉頡と【倉頡が発明した文字作成理論】」をあらわした。
というのも、「倉頡が漢字を発明した」と伝える倉頡伝説では、「侏儒」という語をあらわした「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つある」ゆえ、「四つ目の怪人・倉頡」と表現したからである。
そして、「旧国の越中」の小国名の「裸」は「暑い夏に裸になって過ごす赤ん坊の上半身」をもって「夏代が生まれた初期(つまり、夏代黎明期)、【倉頡の文字作成理論と夏音文字の学術】が日本列島において初めて産声(うぶごえ)をあげた」と意味するものであったと考えられる。

下図に示すように、現在方位にもとづく「能登半島の地宜」は「人の上のアゴと下アゴの形」に相似するゆえ、「七尾湾(七尾北湾と七尾南湾)」は「人の口(くち)の形」に相似する。
このため、「七尾湾の湾口における北岸と南岸」は「食物のかみくだく歯」に見立てられた。
よって、「七尾湾に浮かぶ能登島」は「歯でかみくだく食物」に見立てられた。
「能登」の【能】の字は「黒い毛でおおわれる熊(クマ)」を意味する。
「七尾湾」は「熊が冬眠する地中の巣(横穴と縦穴)となる暗黒の洞穴(ほらあな)」に見立てられた。
だから、「七尾湾」は「熊が冬眠する暗黒の洞穴」に見立てられて「暗黒」の【黒】の字を表示することになり、「七尾湾の湾口の北岸と南岸」は「【歯】」に相似すると見立てられた。
以上からして、卑弥呼は「七尾湾周辺の能登地方の地宜」にもとづき、「旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めたことになる。
0000251_20240921142601
この小国名が「黒歯」となった「熊が冬眠する洞穴(ほらあな)」は、
前記した『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭にある「益氏の王子・天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した」と説明する記事の中に登場する
「天のいわくらを開き」という文をもってあらわされている。 

『日本書紀』の古書には「天開」の2字の横に小さな字で「アマノイハクラヲ」と記されている。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「黒歯国」の小国名の「熊が冬眠する洞穴」にもとづいて、
『日本書紀の古書には「アマノイハクラヲ」と小さい字が添えられたことになる。
というのも、『日本書紀』巻第九の神功皇后紀(じんぐうこうごうき)には『魏志倭人伝』の景初三年六月・正始元年・正始四年の記事が引用されているからである。
つまり、『日本書紀』が成立した720年当時、すでに以前から天皇家はじめ皇族や『日本書紀』編纂(へんさん)スタッフや研究者たちは朝廷が最も厳重な機密とした秘書(ひしょ)の『魏志倭人伝』を研究していた。
ゆえに、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭の「天祖・益氏の王子の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した」と説明する記事における「天開」の2字の横に「アマノイハクラヲ」という説明が加えられるようになったにちがいない。
これゆえ、『日本書紀』の神武天皇紀を現代語訳する諸々(もろもろ)の書物は「天開」の2字を「天のいわくらを開き」と訳している。

◆「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登」の小国名は「黒歯国(こくしこく)」であった。
下図に、「黒歯」の「正方形の暗黒天体部」と【歯】の契文形(けいぶんけい・殷代後半に出現した甲骨文字の字形)を示した。
【歯】の字源は「長方形の暗黒天体部における北部(現在方位)における、正方形の暗黒天体部」であった。
「正方形の暗黒天体部」は「暗黒」で「黒い」ゆえ【黒】、「正方形の暗黒天体部」は【歯】の字源であるゆえ――【黒】に【歯】が加わる「黒歯」という小国名になった。
0000254

下図の左上に示すように、小国名「黒歯」となった銀河部は「正方形の暗黒天体部」であった。
0000255 上図が示すように、【黒歯】という小国名になった「正方形の暗黒天体部」は「侏儒国の、四つ目の銀河」と「裸国の、鬼の身に相当する銀河」の〔南となり〕にある。
ゆえに、前述した解説では、【黒歯の銀河部】は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河、またの名が四つ目の怪人・倉頡の銀河)」の〔北となり〕の「暗黒天体部」に在るべきはずなのに――
上図の【黒歯】をあらわす「四つ目の銀河の南となりの、正方形の暗黒天体部」は不合理となる。

この「黒歯国」という小国名には、『古事記上巻 并(あわ)せて序』における〔天武天皇(てんむてんのう)と『古事記』の撰録(せんろく)の企て〕の箇所にある「潜龍(せんりょう)(げん)を体(たい)す」という語が関係する。
上記の「潜龍元を体す」という語は「水中に潜(ひそ)んでいまだ雲を起こさない龍」の意から、「天子たるべき徳をすでに備(そな)えている皇太子」を意味した。
しかし、上記の意は転義(てんぎ)であって、
「潜龍元を体す」の本義(ほんぎ)は「水中に潜んでいる龍が雲を起こして大雨を降らして氾濫(はんらん)することがなく、急流となって水がスムーズに流れる黄河上流」を意味するものであったと考えられる。

「黄帝陵(こうていりょう)を長方形状に包囲する黄河上流地域」は「氏族共同政治体制の元(もと・始め)となる地域であった」。
だから、「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流地域」は「元を体す」と表現された。
したがって、「潜龍」という語は「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流では、長方形状の西から北へと黄河の水が流れる隅(すみ・角)が円くなっているため大雨が降っても水中に潜む龍が暴(あば)れずに氾濫せずにスムーズに流れ、また北から東へと黄河の水が流れる隅()も円くなっているため大雨が降っても水中に潜む龍が暴れずに氾濫しない状況」を意味したことになる。

下に、「五帝時代初頭の黄帝時代における天頂緯度線の図」を配した。
黄帝陵(北緯3535)の天頂緯度線は、「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)の後頭部にある大きく開いた目の中央」を貫通していた。
0000159_20240921142901
下図は「黄帝陵を長方形に包囲する黄河上流地域の図」である。
下図が示すように――包頭がある北緯40度近辺(きんぺん)には黄河の北端が流れ、銀川がある西から北へと水が流れる隅()は円くなっているために水はスムーズに流れ、また北から東へと水が流れる隅()も円くなっているために水はスムーズに流れる。
ゆえに、この「西と東の隅丸角(すみまるかど)の水中に潜む龍、つまり雲が天におおって大雨が降っても東西の隅丸角の水は急流になっても氾濫しない状況」を
「潜龍元を体す」と表現するものであったことになる。
0000190_20240921143001
上図に示した「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流地域」は、「黒歯国」という小国名になった「長方形の暗黒天体部」に見立てられた。
「長方形の暗黒天体部」は「侏儒国」に見立てられた「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」の南となりにある。
しかし、上記したように、「長方形の暗黒天体部」に見立てた「北緯40度近辺の土地を流れる、黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流」は「黄帝陵と同緯度(北緯3535)となる、鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の中央」より北となりの「暗黒天体部」に見立てられるべきことになる。
下に、「鬼の横顔に似る銀河(四つ目の銀河)より南と北にある長方形の暗黒天体部」を図示した。
0000256


上図に示すように、「南の長方形の暗黒天体部の西の隅丸角にある、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「北では、水中に潜む潜龍」に見立てられた。
また、「南の長方形の暗黒天体部の東の隅丸角にある、激流の銀河」は「北では、水中に潜む潜龍」に見立てられた。
上図に左上に示したように、「北の長方形暗黒天体部における、正方形の暗黒天体部」が小国名の「黒歯」をあらわす。
上図に示すように、「鬼の姿に似る銀河における首の部分」が【元】の字源中央となり、
「鬼の横顔に似る銀河から鬼の身に相当する銀河まで」が【元】の字源銀河部となる。
以上のごとく、「潜龍元を体す」という語を利用して、卑弥呼は「現在の石川県北部(現在方位)の、旧国の能登」の小国名を「黒歯国」と定めた。

◆前ページにて説明したように、現在方位にもとづく「石川県北部(現在方位)の、旧国の能登における七尾湾の地宜(ちぎ)」を、卑弥呼は「熊が冬眠する暗黒の洞穴(ほらあな)」に見立てた。
ゆえに、「七尾湾」を「黒い毛でおおわれる熊」に見立てて【黒】、
また、「七尾湾」を「熊が冬眠する暗黒の洞穴」に見立てたゆえに【黒】、
そして、「七尾湾の湾口(わんこう)の北岸と南岸」を【歯】に相似すると見立てて、
前記した「潜龍元(せんりょうげん)を体す」という語にもとづく「黒歯」の解釈と共に、
「七尾湾周辺の地宜」にもとづき「能登」の小国名を、卑弥呼は「黒歯国」と定めた。

『魏志倭人伝』が「侏儒国」、次に「裸国・黒歯国」について説明する記事の後ろには、「倭の地を参問するには」と説明する。
この「倭の地」の【倭】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」である。
下図は、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国・加賀と裸国・越中と黒歯国・能登の3小国図」である。
この図における「3小国の上部は北、下部は南」である。
ゆえに、【倭】の字源「転回方位」にもとづく「侏儒国の北(上部)」は「春分の日の午前〇時」、「侏儒国の南(下部)は「春分の日の正午」をあらわして、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
ゆえに、転回方位にもとづく「裸国の北」は「夏至の日の午前〇時」、「裸国の南」は「夏至の日の正午」に見立てて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
また、転回方位にもとづく「黒歯国における北」は「午前〇時」、「黒歯国の南」は「正午」に見立てて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
つまり、【景】の字源「黄道の測量方法」では――その日の正午に太陽が南中する高度を測量して、北斗七星の第5星・【鳥】の運行を利用して、その日の午前〇時を測定して――「この午前〇時の深夜にその日の正午の太陽の南中高度に位置する天体部を、その日の太陽の位置(黄道の大円上の位置)」と定めた。
0000252_20240921143201

これゆえ、下図に示す「地中の洞穴にこもって冬眠する子熊の姿も相似する能登島の地宜における、北(尾となる部分)」は「冬至の日の午前〇時」、「南(子熊の頭となる部分)」は「冬至の日の正午」に見立てられて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
000066_20240921143301

下図は「春分の日となり、冬眠するのをやめて南中する太陽に向かって洞穴から登って地上に姿を現す子熊の姿に相似すると見立てられてた、能登島図」である。
下図における「子熊の尾がある北」は「春分の日の午前〇時」、下図の「子熊の頭がある南」が「春分の日の正午」に見立てられて、【景】の字源「黄道の測量方法」をあらわした。
000067_20240921143301
◆『魏志倭人伝』は上記した「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」という文の後に――
「倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文が続く。


上記した「黒歯国有り、復た其の東南に在りて」という文は、「黒歯国の東南に、益氏(えきし)の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が存在する」と意味した。
現在の地図の場合、「能登」の【東北】に「男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)」がある。
ところが、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ると「東北」は【東南】となる。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「能登の東南に男鹿半島・八郎潟地方が在る」という文は合理となった。

これゆえ、『魏志倭人伝』の「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶()え或いは連(つら)なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。

「黒歯国・旧国の能登の東南に、昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき)、中国から荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟地方が在る。その地は船で航行すると一年ばかりで到着できる。この倭地を船に乗って訪れると、海中に陸地と遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいは小さい島が途絶(とだ)えて海原となりあるいは小さな島々が連なり、これらの地域をめぐると五千余里ほどである。」

下図に示すように、「能登から佐渡までの船行」を『魏志倭人伝』は「海中洲島の上に絶在し」と表現し、
「佐渡から新潟県の粟島(あわしま)までの船行」を「或いは絶え」と記述し、
「粟島から山形県の飛島(とびしま)までの船行」を「或いは連なり」と説明していたことになる。
0000181_20240921143501
上図が示すように、陸行すると(陸地を進むと)佐渡・粟島・飛島が在る日本海に面する本州の海岸線は「西海岸」となり、男鹿半島は「北」となる。
この男鹿半島の「北」を【倭】の字源「転回方位」に則(のっと)ると、「東」となる。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」にて幾度もくりかえして解説し証明したように、
卑弥呼は【倭】の字源「転回方位」に則って「日本列島の本州は東ではなく、南に伸びる」と立論した。
したがって、【倭】の字源「転回方位」に則ると、上記したように陸行の場合には「男鹿半島は東」となるゆえ、
「日本列島の本州は黒歯国・能登から南から東へ直角状、つまり英字の【L】字状に折れ曲がること」になって不合理となる。

いっぽう、上図の「黒歯国から男鹿半島までの周旋船行図」にて示したように、「黒歯国・能登から船行で参問する」と、「黒歯国付近まで南に伸びていた本州の地宜は東南にある男鹿半島に向かってゆるやかなカーブをえがく形になって合理となる」。

だから、益氏の王子と若者たちは黒歯国ではなく、裸国・越中から男鹿半島に向かって陸地を進んだと考えられるが――卑弥呼は「黒歯国有り、復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き」と、合理となる船行を用いて黒歯国から男鹿半島までの道程(みちのり)を説明したことになる。

当時、【倭】の字源「時計回りに90度転回させる方位規定」に則って、
下図のごとく「本州の東は南に伸びる」と定めた、卑弥呼が立論した「転回日本列島地理論」は絶対に正しいと信じられていた。
だから、卑弥呼が「能登から船行で東南の方向に、益氏の王子と若者たちが定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)が在る」と立論した意見は正しいと信じられて、誰にも誤っていると組織的に合理が成立するように立論することができなかったゆえ否定することができなかったのである。
0000182_20240921143501
つまり、現在、大半のわが国の市民たちが「新井白石以来300年も多数の学者たちが主張する邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は、空理空論であるはずがない」と信じているように――
卑弥呼が立論した転回日本列島地理は正しいと信じられていたのである。

◆前ページにて「潜龍元を体す」という語が示す「黄帝陵を長方形状に包囲する黄河上流の北端の位置は北緯40度近辺」であった。
現在の中華人民共和国の首都の北京(ペキン)の中心座標は、北緯40度近辺となる北緯3954分である。
北京より東南約120kmへだたる天津(テンシン)の中心座標も、北緯40度近辺の北緯3907分である。
天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)、つまり益氏の王子が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)も、北緯40度近辺の地域となる。
ゆえに、司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀(第二)に記される「帝禹(ていう)が住んでいた夏の首都の、会計(かいけい)」は「現在の北京」であったにちがいない。
また、『史記』夏本紀が「帝禹は東に巡行(じゅんこう)して会稽(かいけい)に至って崩じ、天下を益に授けた」と説明する「会稽」は、「帝禹の政治を補佐した益が住んでいた、現在の天津」であったにちがいない。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・30」にて詳細に解説したように、益氏の王子と若者たちは帝禹の遺志「五帝時代以来存続した国家を作らない、氏族共同政治体制を新天地・日本列島にて継続するために移住した」。
だから、益氏の定住地は、帝禹が住んだ会計・北京と帝禹が崩じた会稽・天津とほぼ同緯度の地域、つまり男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)であったと考えるべきことになる。

下に配した図に示すように、益氏の王子と若者たちは八郎潟の出入口となる船越水道(ふなこしすいどう)の東岸、つまり現在の秋田県の潟上市(かたがみし)の天王町に上陸した。
そこは、下図に示したように、「八郎潟」を「女性の生殖器官」に見立てると「膣口(ちつこう)」に相当する地点となる。
下図における秋田県山本郡の三種町(みたねちょう)の琴丘町鹿渡(ことおかちょうかど)の南の地、つまり南秋田郡八郎潟町が、帝禹が夏の首都とした会計・北京と同緯度のあたりとなる。
000020_20240921143601


上図に示したように、益氏の王子と若者たちが上陸した船越水道の出入口の東岸から夏至の太陽の日の出の方角(東北29)に花輪盆地(はなわぼんち)が所在する。
花輪盆地には、世界文化遺産となった大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)が在る。
大湯環状列石は後期縄文時代初頭に築造されたとされる。
ゆえに、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀の初頭にある天祖・彦火瓊瓊杵尊の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)の定住記事にある「その後、わが天祖・益氏の王子と皇祖(こうそ・王子の息子)は神の聖(ひじり)のように徳高く、慶(よろこび、つまり善政)を積みかさね、暉(ひかり、つまり恩沢)もゆきとどき、かくして年月が経過した」と説明する――天祖の孫の代に大湯環状列石は築造されたと考えられる。

下図に示すように、世界文化遺産の大湯環状列石は「花の形をした盆地における、【花のめしべ】に相当する地所に築造された」。
その位置は、下図の右上に図示したように、「十字の銀河の頭がかぶる穀霊(こくれい)のかぶりものの中央」に相当する。
000022_20240921143701

下に、【倭】の字源となる「十字の銀河における〔穀霊〕のかぶりものの解説図」を配した。
この「〔穀霊〕のかぶりもの」は「花の形」にデザインされていたにちがいない。
ゆえに、大湯環状列石遺構が築造された後期縄文時代初頭、「十字の銀河の頭の北となりの、花の形をしたかぶりものの中央・めしべに相当する部分」が、大湯環状列石遺構の天頂にめぐってきていたことになる。
000057_20240921143901
◆大湯環状列石は、秋田県の鹿角市(かづのし)花輪町大湯の中通りに所在する。
下図に示すように、大湯環状列石は東側が直径42mの野中堂遺跡(のなかどういせき)、西側が直径48mの万座遺跡(まんざいせき)で構成される。
野中堂遺跡と万座遺跡には「日時計組石(ひどけいくみいし)」と名付けられた特殊組石がある。
下図に示すように、〔野中堂遺跡の中心・野中堂遺跡の日時計組石の中心〕と〔万座遺跡の中心・万座遺跡の日時計組石の中心〕を結ぶ線は、【夏至の日没方向(西北29)】を指差す。
ゆえに、大湯環状列石は益氏が【倉頡の文字作成理論はじめ夏音文字の学芸をひろめるために築造した施設】であった。
000021_20240921144001
要するに、万座遺跡は『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕が【景】の字源を「日景を正して、以て(もっ)て地の中を求む」と解説した施設、
野中堂遺跡は『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源を「地上千里して日景に一寸の差があるという」と解説した施設であった。

下図は、1951年・1952年の国営調査によって検出された野中堂遺跡の平面図である。
下図に示したように、野中堂遺跡の中心から夏至の日没方向に、日時計組石がある。
0000257
下図に示すように、野中堂遺跡の中心には垂直に柱が建てられて補助の棒を用いて日々の正午の太陽の南中高度が計測され、〔天球上における、日々の太陽の南中高度の位置〕が記録された。
0000258

太陽が地平線に沈んで姿を消しても、まだ空は真っ暗にならないので、銀河や星が見えない。
このうす暗い時間を「薄明時(はくめいじ)」といい、太陽が地平線の下に18度まで沈むと、ようやく薄明時が終わって、空が真っ暗となり、銀河と星たちが見えて天文が出そろう。
ゆえに、太陽が没する時は銀河や星は見えないため――太陽が地平線に没する夕刻、太陽がどの天球上に所在するのか、その位置を測量することはできない。
しかし、薄明時において、下図に示す北斗七星(ほくとしちせい)でもっとも光が強いおおぐま座のε星・第5星の衡(こう・漢名)は見える。北斗七星の第5星の光度は1.8等である。
0000246_20240921144101

上図に示すように、「北斗七星のε星・第5星、漢名(シナ天文の名称)の衡は、五帝時代の帝堯代(ていぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)において、【鳥】と呼ばれていた。
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の帝堯代初頭における四時(春分・夏至・秋分・冬至)の銀河・星などの天文の状況を伝える春分の夕刻の記事は、
「日は中、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す」と説明する。
この記事は「昼夜が同じ長さで、北斗七星の第5星・【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めた」と意味した。

下図は、司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代の箇所に記述された「帝堯代初頭の春分の日の太陽が西の地平線に没する午後6時の銀河・星空図」である。
下図に示すように、司馬遷著『史記』五帝本紀に記述されたとおり、帝堯代初頭の春分の日の夕刻には北斗七星の第5星の【鳥】が子午線通過(南中)しようとしていた。
0000249_20240921144201
帝堯代に生存した益氏の先祖は、前ページにて説明した「〔正午の太陽の南中光度〕の測量方法と測量装置」と、北斗七星の第5星の【鳥】を利用して野中堂遺跡の日時計組石で午前〇時を計測して
『周礼』の〔大司徒〕が【景】の字源「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説した、いいかえると「天球上において太陽が一年間に通過する道」、つまり「黄道(こうどう)」が測量できるように発明した。
これゆえ、司馬遷著『史記』五帝本紀に「益は帝堯の時代に挙用(きょよう)された」と記述されることになったと考えられる。

北斗七星の第5星の【鳥】は周極星(しゅうきょくせい)である。
周極星は地平線下に沈むことはない。
それゆえ、太陽が地平線に沈むときにも見える周極星の光度1.8等の【鳥】ならば、天球上における黄道の大円を測量することができる目星(めぼし)として最適である。

下図は、野中度遺跡の日時計組石の平面図である。
下図上部の「北」は「太陽が円を描いて運動する軌道における〔北〕の位置を示し、この〔北〕に太陽が位置する時に【午前〇時】となる。
したがって、下図に示すように、太陽が地平線に没した方角を日時計組石の縁(ふち)の地面に棒でひっかいて印(しるし)をつけ、同様にその時の【鳥】の方角にも日時計組石の縁に印をつけると、
地中に没した太陽が「北」に位置するまでの角距離Aと【鳥】が移動する角距離Bが等しくなった時が【午前〇時】となる。
0000259
【鳥】が移動する角距離Bと太陽が地平線に没して真北まで移動する角距離を等しくした【午前〇時】における、前ページにて説明した【その日の正午の太陽の南中高度に合致する天体部(銀河部や星や暗黒天体部など)の位置】を【その日の天球上における太陽の位置】と定めれば、「黄道」が測量できる。 
つまり、【その日の正午の太陽の南中高度の天体部イコールその日の午前〇時の南中天体部】と定めて――その状況を毎日記録する測量を一年間おこなえば天球上における黄道の大円が完成する。
だから、野中堂遺跡の日時計組石は北斗七星の第5星・【鳥】の運行を利用して【午前〇時】を計って黄道を測量するための装置であったことになる。

司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代の四時の天文状況記事における末部は、
「一年は三百六十六日、三年に一回閏月(うるうづき)をおいて四時を正した」と記述する。
「日時計組石の一周を360度・360寸」に見立てると、「360寸÷366日=0.98寸」となる。
ゆえに、太陽は日々、約一寸(0.98)ずつの差でその日の正午から翌日の正午までを運行していることが明らかになった。
〔注 前ページにて説明したように、太陽はその日の正午から翌日の正午までを4分短い、23時間56分で一周する。〕
ゆえに、上記した「4分短い」を、『周礼』の〔大司徒〕は【景】の字源を「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説した。

「帝禹が崩じた会稽」の【稽】の字義は「考える」である。
野中堂遺跡は、「中心における〔正午の太陽の南中高度の測量〕と〔日時計組石での午前〇時の測量〕を会()せて稽(かんが)える施設」であった。
ゆえに、野中堂遺跡は帝禹が崩じた【会稽】という地名をあらわす施設であったにちがいない。

◆下図は、前ページにて紹介した野中堂遺跡の平面図と同様に、1951年・1952年に国営調査によって検出された万座遺跡の平面図である。

0000260

下の右図は、瞳孔(どうこう)が最大に拡大される時に見える【夏の銀河の光景図】である(日本天文学会編『新星座早見』・三省堂発行における【夏の銀河図】から転載した)
前ページにおける【夏の銀河のカラー写真】は、瞳孔径(どうこうけい)が最大より少し縮小した時の絞(しぼ)りで撮影した【夏の銀河の形状】である。
ゆえに、瞳孔径・写真機の絞りの相違によって、【夏の銀河の形】は相違する。

下の左右の両図は類似しあうゆえ、万座遺跡の東側の外帯配石群(がいたいはいせきぐん)の平面図には【夏の銀河の面影(おもかげ)】が残っていたことになる。
今日まで約4000年余の長い間、時には持ち出された石もあったであろうが、万座遺跡の東側の外帯配石群には【夏の銀河の面影】が残っていた。
0000261

上記では、「万座遺跡の東側の外帯配石群」と記したが――天文図・銀河図は〔南〕を正面とし、地図・地理は〔北〕を正面とするゆえ、「地図の東側」は「天文図・銀河図の場合では西側」となる。
ゆえに、上図のおける左側は「万座遺跡の西側の【夏の銀河の形】を図化する外帯配石群」ということになる。

下に、「大湯環状列石が築造された、約4000年前の後期縄文時代初頭(夏代黎明期)の秋分の日の午前〇時の天文図」を配した。
下図が示すように、【夏の銀河の大半】は〔西北の地平線下〕に没していた。
だから、〔万座遺跡に残る【夏の銀河の面影】〕は「秋分の日の午前〇時の西北の地平線下に、その大半が潜る【夏の銀河】を地面に図化した配石群」であったことになる。
0000262_20240921144801

よって、〔万座遺跡に残る【夏の銀河像】〕は、「西北の地平線下に潜る【夏の銀河像】であったゆえ、
『周礼』の〔大司徒〕は「日景を正して、以て地の中を求む」と「【景】の字源を解説したのである。

前ページにおいて、野中堂遺跡は、「中心における〔正午の太陽の南中高度の測量〕と〔日時計組石での午前〇時の測量〕を会()せて稽(かんが)える施設」であったゆえ、【会稽】をあらわす施設であった」と指摘した。

帝禹(ていう)は、〔刻々と移動する【夏の銀河】を静止するか〕のようにして、〔万座遺跡の中心に野中堂遺跡の正午の太陽の南中高度を測量する装置同様の装置〕と〔万座遺跡の日時計組石〕を会〔あ〕わせ用いて【夏の銀河の各部の高度】を計算し計測したにちがいない。
だから、万座遺跡は帝禹が住んだ首都【会計】という名をあらわす施設であったことになる。
しかし、どのような計算・計測方法を帝禹は用いて〔刻々と移動する【夏の銀河】を静止する〕かのようにして、地面に【夏の銀河像】を図化することができたのであろうか?
わたくしにはまったく解明することができない。

◆以上のごとく、『魏志倭人伝』に記述された益氏の王子と若者たちの男鹿半島・八郎潟地方の定住記事は、
【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、
【夏の銀河各部の形状から文字を作る、倉頡の文字作成理論】を用いて一点の矛盾(むじゅん)も無く不合理な点もなく組織的に全体的に合理が成立するように論理が構築(こうちく)されている。
ゆえに、学者たちは「『魏志倭人伝』には多くの不合理な点や矛盾点がある」と指摘するが――このような意見は明白に誤っている。

| | コメント (0)

2024年9月 1日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・28

x卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴国(くなこく)は討伐されて滅亡した

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
【春の銀河】、【秋の銀河】、【冬の銀河】とよばれる銀河もあるが――【夏の銀河】が「もっとも巨大で、しかも、もっとも印象深い形をしている」。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20240901094801

今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・27」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・27」では、
下図に示すように、
最初の対馬国から数えて25番目の「躬臣国(こじこく)」は「現在の大阪府・兵庫県東部と兵庫県南部の淡路島」であり、「旧国でいうと、摂津(せっつ)・和泉(いずみ)・河内(かわち)と淡路島」であったと証明した。
また、対馬国から26番目の「巴利国(はりこく)」は「現在の兵庫県南西部の、旧国の播磨(はりま)」であったと証明した。
また、27番目の「支惟国(しいこく)」は「現在の広島県西部と広島県東部の一部(西方)の、旧国の安芸(あき)と備後(びんご)の西部(西方)」であったと証明した。
また、28番目の「烏奴国(あなこく)」は「現在の高知県、旧国の土佐(とさ)」であったと証明した。
さらに、29番目の「奴国(なこく)」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県の、旧国の伊予(いよ)・讃岐(さぬき)・阿波(あわ)」であったと証明した。
0000239_20240901094901

◆上図に示したように、対馬から数えて30番目国は「狗奴国(くなこく)」であった。
下図に示したように、「狗奴国」の範囲は「現在の香川県の小豆島(しょうどしま)と広島県東部・岡山県」であり、旧国だと「小豆島と、そして備後(びんご)東部・備中(びっちゅう)・美作(みまさか)の吉備地方(きびちほう)」であった。
0000145_20240901095001

「狗奴国」という小国名の【狗】の字について、白川静著『字統』は字義を「いぬ()」とする。
そして、白川静著『字統』は【狗】の字について「狗鼠(くそ)、狗盗(くとう)・走狗(そうく)のようにいう」と解説する。
ゆえに、「狗奴国」の【狗】には「走狗、つまり狩猟犬(しゅりょうけん)」と意味すると共に「侮蔑(ぶべつ)の意」もこめられていたのであろう。
というのも、『魏志倭人伝』の末部に「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より和せず」という記事が存在するからである。
ゆえに、「狗奴国」という小国名には「卑弥呼王朝による侮蔑の意味」がこめられていたであろう。

下図に示すように、「小豆島の地宜」は「狗(走狗・狩猟犬)の姿」に相似する。
したがって、「小豆島」は「ジャコウウシの天敵(てんてき)のオオカミ」ではなく、「ジャコウウシを襲(おそ)う走狗(狩猟犬)」に見立てられたことになる。
ゆえに、「小豆島より北側の、岡山県の児島半島(こじまはんとう)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は、
「走狗の群れの襲撃に気づき、ジャコウウシの群れがいる場所へと走り逃げるジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
だから、下図に示したように、「小豆島」が【狗】、「岡山県の児島半島」が【奴】の字源「ジャコウウシ」、「児島湖」が「ジャコウウシの背中に食いつく走狗の姿」に見立てて、
卑弥呼は「小豆島と岡山県中心部の地宜」にもとづき「狗奴国」という小国名を考案したことになる。
0000146_20240901095101

◆下図に示すように、「男性の前上側から見た骨盤口(こつばんこう)」は「狗(いぬ)の顔の形」に相似する。
0000147_20240901095101

下図に示すように、対馬国から21番目の「鬼国(きこく)」が所在する「志摩半島の地宜」は「男性の骨盤の正面形の上下を反転した形」に相似する。
0000121_20240901095201
したがって、()「【倭】の字源における男性グループ」の「最初の21番目の鬼国と最終国の30番目の狗奴国」は「男性の骨盤」が共通する仕組みになっている。

いっぽう、下図に示すように、対馬国から11番目の「伊邪国(いやくに)の地宜」は「女性の骨盤の正面形」に相似すると見立てられた。
000085_20240901095301
また、下図に示すように、「女性の骨盤の正面形」は「蝶の翼を広げる成虫の姿」に相似する。
0000108_20240901095401

そして、下図に示すように、対馬国から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)の地宜」は「蝶の成虫の姿」に相似すると見立てられた。
0000119_20240901095401
ゆえに、()「【倭】の字源における女性グループ」における最初国の伊邪国と最終国の華奴蘇奴国の両国も共に「翼を広げた蝶の成虫の姿」に相似し、伊邪国の地宜では「翼を広げた蝶の成虫の姿」は「女性の骨盤の正面形」に相似する。
したがって、()「【倭】の字源における女性グループ」と,()「【倭】の字源における男性グループ」は「骨盤」が共通項となる仕組みになっている。

下図に、「男性の骨盤と女性の骨盤の形の相違」を示した。
女性の擂鉢(すりばち)のような大骨盤は妊娠時に子宮を支(ささ)えるために左右に広がり、そして男性の擂鉢のような大骨盤より浅く、骨盤口は楕円形である。
男性の擂鉢のような大骨盤は深くがっしりしており、骨盤口は狗()の顔の形に相似する。
0000122_20240901095501

◆『魏志倭人伝』の後半部には「(魏の元号の)景初(けいしょ)二年(西暦238)の六月に、魏の明帝(めいてい)は倭女王の卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)・金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えると約束した」と説明する。
この「親魏何某(なにがし)王」という爵位(しゃくい)は、229年に西域(せいいき)の大国であった大月氏国(だいげっしこく)に与えられた「親魏大月氏王」と、卑弥呼に与えた「親魏倭王」の二つだけである。
だから、「親魏倭王」という名称は魏が外臣(がいしん)に与えた最高の爵位であることを示す。
当時、下図に示すように、魏の前面の敵は呉と蜀(しょく・漢)、魏の背後の脅威(きょうい)は燕(えん)と朝鮮半島の諸韓国であった。
0000243

ゆえに、「親魏倭王」という爵位は――「魏の背後の燕または諸韓国が反乱をおこしたとき、魏軍を助けて倭軍が出兵(しゅっぺい)して共に戦う軍事同盟」を結んだからこそ――卑弥呼に与えられることになったのである。
魏と倭人国の軍事同盟が結ばれた238(魏の景初二年)六月、魏の明帝は重病で床に伏()せていた。
したがって、238年の記事にて「倭人国の使節・難升米(なしめ)一行は明帝に面会した」と説明するものの、実際には倭人国の使節一行は明帝に面会できなかったにちがいない。
けれども、238年当時、「明帝は倭人国の使節・難升米・一行と面会した」と呉の孫権(そんけん)に思い込ませることは、魏軍にとって軍略上において必要とされた。

というのも、238年の前年の237年・景初元年の夏、魏は燕王(えんおう)の公孫淵討伐(こうそんえんとうばつ)を魏の東方出兵の最高責任者に幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)である毌丘倹(かんきゅうけん)が任命されて開始したが、この毌丘倹の公孫淵討伐は失敗し――
翌景初二年(238)、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)と五丈原(ごじょうげん)で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり――司馬懿は4万の歩兵と騎兵を率(ひき)いて春に、首都洛陽(らくよう)を出発していたからである。

ゆえに、倭人国の使節・難升米一行が魏都洛陽に到着した景初二年・238年の6月当時、すでに司馬懿は4万の歩兵と騎兵の大軍を率いて春に出発していたため、魏都洛陽には少数の兵しか残っていなかったにちがいない。
したがって、孫権が「天下二分の計(つまり、魏を倒して天下を呉と蜀の二分する)」という軍事同盟を結んだ呉軍と蜀軍の連合軍を率いて魏都洛陽を躊躇(ちゅうちょ)せずに襲撃すれば魏は滅亡する可能性が大であった。
しかし、孫権は名将・司馬懿ならば、当然、倭の使節一行と明帝の面会の裏には、何か企(たくら)みを用意して大軍を率いて東方へ出兵したにちがいない――よって、孫権が呉・蜀の連合軍を率いて魏都洛陽を攻撃すると一気に窮地(きゅうち)に陥(おちい)る罠(わな)が必ず仕掛けてあると考えて慎重(しんちょう)になったのか――孫権は連合軍を待機させて一気に洛陽を攻撃しなかった。
ゆえに、孫権は天下を手に入れることができた千歳一隅(せんさいちぐう)のチャンスを逃した。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう『魏志倭人伝』の末部に記述された「狗奴国(くなこく)が滅亡した様子」を解説するには、【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
00003_20240901095701

上図における左上には「三つ輪の銀河や「十字の銀河」がある。
上図の右下には「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」と「巨龍の顔の銀河」の三つの銀河がある。
上記の三つの銀河を、これから以後「銀河の中心方向周辺の銀河」と呼ぶことにする。

下に、「歳差(さいさ)状況図(天の北極の位置図)」を配した。
この25,800年で「黄道(こうどう)の北極」を一周する「歳差状況図」にもとづいて、今から5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代と三国時代(3世紀)の両時代における天の北極と春分点の位置を求めて――「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」を再現すると、
つまり「三つ輪の銀河・十字の銀河が東北の地平線から昇り、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る光景」を再現すると、両時代の「夏の銀河の光景」は近似(きんじ)していることになる。
K51_20240901095701

上記したように、「黄帝時代から三国時代までの、夏の銀河が地平線から昇る黎明(れいめい・夜明け)の光景」は近似していた。
これからおこなうこのブログの解説において「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」は、五帝時代から三国時代までは相似していたことを覚えていていただきたい。
〔注 しかし、現代「夏の銀河における、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る時には、現代は東北の地平線からカシオペヤ座とケフェウス座が昇る」ゆえ、黄帝時代や三国時代の光景と相違する。〕

◆呉の孫権が「大帝」と称して黄帝に即位した229(黄竜元年)ごろは、魏の曹操(そうそう)と『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の立役者の劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)や絶世の美女・甄氏(けんし)を略奪(りゃくだつ)して皇后とした魏の曹丕(そうひ)こと文帝(ぶんてい)などはすでに亡くなっていた。
残っていたのは、『三国志演義』においての若い立役者の蜀の名補佐役の諸葛孔明(しょかつこうめい)と、15歳で呉の頭領となった孫権(そんけん)であった。

漢は赤の火徳によって天下を治めた。
当時の五行説では、「火」の次は「土」とされた。
この土徳の色は黄色とされた。
これゆえ、後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は「黄初(こうしょ)(220)であった。
この「黄初」という元号はもちろん漢の赤の火徳の次を意識すると共に、司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事にもとづいていた。
というのも、上記したように――今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河」の光景は、魏・蜀・呉の三国が天下を争った三国時代(220年~280)の黎明における東南の地平線から「銀河の中心方向周辺の銀河」が昇る光景に近似(きんじ)したからである。

上記した「銀河の中心方向周辺の銀河」はこのブログの初頭部のカラー写真で示したように「黄色」であり、
この「銀河の中心方向周辺の銀河」は「胎児の姿に似る銀河」が「女性の生殖器官と出産について研究した黄帝」をあらわし、
しかも「土、つまり地平線近くを運行する銀河」であったゆえ「土徳」をあらわした。
黄初元年・220年より2年後の222年の孫権が呉王を称した時の元号もまた「黄武(こうぶ)」で、黄色の土徳・「黄帝」という帝王名に由来(ゆらい)していた。

魏におくれること一年、呉に先んじること一年にして帝位についた蜀の劉備(りゅうび)は、その最初の元号を「章武(しょうぶ)」とした。
この蜀の元号には「黄」の文字が見えない。というのも、蜀は自国こそ「漢」であると称したので、「漢」は赤の火徳を示すものであったため、「黄」の文字を元号に用いなかった。
だから、蜀の国号の正式名は「漢」もしくは「蜀漢」であるが、わが国では「蜀」のほうが馴染(なじ)み深い。

223
年、蜀の昭烈王(しょうれつおう)こと劉備(りゅうび)が没した。その子の劉禅(りゅうぜん)が帝に即位し、諸葛孔明がその補佐にあたった。
孔明は劉備が没すると、まず最初に「天下二分の計(つまり、魏を滅ぼして蜀と呉とで天下を二分する計略)」を企(たくら)む軍事同盟を着手(ちゃくしゅ)した。
当時、蜀と呉との関係はすっかりこじれていたものの、両国の間に「天下二分の計」の軍事同盟を結ばなければならないと気運(きうん)が高まっていたために、順調(じゅんちょう)にことが運んだ。
ゆえに、「天下二分の軍事同盟」は結ばれて、呉の孫権と蜀の諸葛孔明の主敵は、魏ということになった。

それから6年後の229年、呉の孫権は「大帝」と名のり、「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河」にもとづいて、元号を「黄竜(こうりゅう)」とした。
下図は、「黄竜」の元号となった「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河図」である。
S615

いっぽう、魏は227年以来の蜀の魏討伐に対抗して、過去に度々(たびたび)蜀と争った大国の大月氏国王に「親魏大月氏王」の爵位を与えた。これによって、大月氏国は蜀の背後の脅威(きょうい)となった。
この背後の脅威の大月氏国に対する備(そな)えのためであろう、蜀軍を指揮する孔明の魏討伐は234年まで、しばらくのあいだ中断(ちゅうだん)することになった。

◆前述したように、燕は魏の背後の脅威であったが――燕は大国魏のために独立できず、公孫淵(こうそんえん)は燕王を名のれず、魏の持節(じせつ)・揚烈将軍(ようれつしょうぐん)・遼東太守(りょうとうたいしゅ)という地位で耐()えていた。
呉の孫権は、229(黄竜元年)に帝位につくと、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩(くず)そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否(きょひ)された。
というのも、燕の背後の脅威は倭人国であり、当時、倭人国の使者たちが魏と国交を結ぶためにしばしば帯方郡に訪れていたため、呉との軍事同盟が露見(ろけん)すると魏と倭人国に挟(はさ)み討ちされると心配したからと推測(すいそく)されるからである。
230(黄竜二年)、〔公孫淵が呉との同盟を拒否したのは燕の背後倭人国の脅威を心配したが原因〕と察知した孫権は、将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の徐福(じょふく)の子孫が治める東鯷人国(とうていじんこく)のおける夷州(いしゅう)・亶州(たんしゅう)に向かわせた。
この東鯷人遠征については、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部にある東鯷人国記事に登場する、定期的に呉の会稽(かいけい)に到着して交易(こうえき)をしていた東鯷人国の人民たちが偶々(たまたま)察知して、いち早く帰国して東鯷人国王に報告したようである。

呉の黄竜二年・230年から22年前の208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いで、わずか二万の呉の水軍は約40倍の八〇万の魏の大軍を一夜にして撃破(げきは)して劇的な勝利をおさめた。
この一万の呉の水軍が日本列島の東鯷人国にめざして、呉の黄竜二年・230年に遠征が決行された。
赤壁の戦いで二万の呉軍は八〇万の魏の大軍を撃破したゆえ、魏の四〇万の兵に匹敵(ひってき)する一万の東鯷人国遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて――東鯷人国王は東鯷人国が倭の属国(ぞっこく)になることを決意して、倭女王の卑弥呼に倭から防衛軍の派遣(はけん)を要請(ようせい)した。
かくして、倭人国が背後の脅威となる東鯷人国が呉に占領されるのを防(ふせ)ぐために倭から防衛軍が派遣されることになり、黄竜二年・230年直後の、多分233年頃に東鯷人国は滅び、代わって新たに「日本」という小国が誕生した。
そして、小国・日本防衛軍の女王に、『魏志倭人伝』に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為()す」と記された「卑弥呼が統率(とうそつ)する巫女界(ふじょかい)の代表者の十三歳の壱与」が選ばれた。
また、日本軍防衛軍の大将の軍王(いくさのおおきみ)に、『魏志倭人伝』な末部に登場する18歳の載斯烏越(そしあお)が就任(しゅうにん)した。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・27」で指摘したように――
「壱与」は『古事記』上巻の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話(せいこんせつわ)〕に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと)」であり、「載斯烏越」は「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であった。

呉の一万の東鯷人国遠征軍は【台湾沖で八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)】し、遠征は大失敗した。遠征軍の将軍の衛温と諸葛直は、この失敗の罪で殺された。
この失敗に懲()りた孫権は東鯷人国遠征を断念(だんねん)した。
しかし、卑弥呼王朝はじめ東鯷人国王や日本国防衛軍は呉の水軍は再度遠征するにちがいないと考えたため、小国・日本における防衛は十余年も続けられた。

◆上記した小国・日本の防衛軍の女王に選ばれた壱与は――『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと)」であり、『古事記』中巻の第9代開化天皇(かいかてんのう)の正妃せいひ」の「丹波(たには)の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売(たかのひめ)」であった。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」で解説し証明したように、「伊邪国は、旧国の丹波」であった。
ゆえに、「伊邪国・丹波出身の竹野比売」は「【伊邪(伊耶)国】の【那(桃の花)】のように美しい女王」と讃(たた)えられて「伊耶那美命」と人民たちに愛称されたことになる。
『古事記』中巻の第9代開化天皇の冒頭は「春日の伊耶河宮(いざかわのみや)に住んで、天下を治めた」と記す。
したがって、「伊耶河宮」と「伊耶那岐命」の先頭2字は共に「伊耶」で同じであるゆえ、「伊耶河宮に住んだ開化天皇」は「伊耶那美命の夫」と人民たちに愛されて「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」と呼ばれた。
だから、夏音名(夏音文字の名前)が載斯烏越(そしあお)は「伊耶那岐命」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』に登場する「壱与」が「伊耶那美命」、「載斯烏越」が「伊耶那岐命」であったという証明は、このブログの前にて紹介したわが拙著『日本国誕生史の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

そして、『古事記』上巻に登場する「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」は、第10代崇神天皇(すじんてんのう)と崇神天皇の母の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと))であったと考えられる。
『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀には「天皇は天照大御神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の二柱(にはしら)の神を、天皇の居所の中に祭った。しかし、倭大国魂神を祀る渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)は身体が痩(やせ)せ細って倭大国魂神を祀ることができなかった」と説明する記事が示しているように――「天照大御神を崇(あが)め祭った崇神天皇」は人民たちに「天照大御神」という異名で呼ばれたことになったのである。
「崇神天皇の母の倭迹迹日百襲姫が箸墓(はしはか)古墳に葬られたのは、小さな蛇(へび)が正体の大物主神の妻になったときに箸(はし)が陰部(いんぶ)につきささって死去されたからである」と説明する奇怪な記事をもって、『日本書紀』編纂スタッフは「天皇家(朝廷)が至上神として尊ぶ天照大御神は倭迹迹日百襲姫命であった」と伝えようとしていたと考えられる。
倭迹迹日百襲姫命は開化天皇の第二后として結婚しているが、開化天皇・伊耶那岐命に離縁されたために「倭迹迹日百襲姫命」と名乗った。
開化天皇と結婚したときの崇神天皇の母親(倭迹迹日百襲姫命)の名は「伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)」であった。
したがって、伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命は、開化天皇・伊耶那岐命の継母であった。
伊迦賀色許売命は開化天皇の父・孝元天皇(こうげんてんのう)と結婚して、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んだ。この比古布都押之信命は崇神天皇であった。
『古事記』中巻は「伊迦賀色許売命は伊耶那岐命・開化天皇と結婚して、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)を生んだ」と説明しているが――御真木入日子印恵命は崇神天皇であったゆえ、実際は開化天皇の養子であった。
「養父と養子の縁(えん)を結ぶ」を、上古では「生んだ」と表現したのであろう。
開化天皇は崇神天皇の実父ではなく、異母兄であった。
竹野比売・伊耶那美命が開化天皇・伊耶那岐命と結婚して生まれた比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)が、『古事記』上巻に登場する英雄・須佐之男命(すさのおのみこと)である。

234年、呉との天下二分の盟約(めいやく)を結ぶ蜀の軍は、魏を討()つために北へ進んだ。
この北伐(ほくばつ)の途上(とじょう)、諸葛孔明は秋風吹く五丈原(ごじょうげん)で病死した。享年(きょうねん)54歳であった。
孔明の死から二年前の2323月、再度、呉の孫権は将軍周賀(しゅうが)と校尉裴潜(こういせんすい)を燕への使者に任命した。今度は、この使者の要求を公孫淵は受け入れた。裴潜は、公孫淵の上表文(じょうひょうぶん)を持って無事に帰国した。孫権は、公孫淵を「燕王」に封(ほう)じるとともに使持節(しじせつ)という資格をも与えた。
しかし、将軍の周賀の配下たちは山東半島で魏に捕らえられた。このため、呉と燕が同盟を結ぶ計画は魏に事前に漏()れていた。
この燕の公孫淵が呉の孫権と結ぶ気配(けはい)を見せたことは、魏にとって心配がたえない脅威(きょうい)となった。
この(232年、翌233)頃から、魏は倭人国との国交に積極的に努力したと考えられる。
『魏志倭人伝』に記述されているように、倭は233年から5年後の238年に、難升米(なしめ)一行を魏都へ派遣し、卑弥呼の「親魏倭王」の爵位(しゃくい)と金印授与の約束をとりつけている。このような大々的な外交にさきがけて、魏と倭とのあいだになんらかの秘密の接触(せっしょく)が当然(とうぜん)あったと考えるべきであろう。なんの準備もなく、唐突(とうとつ)に魏が卑弥呼に「親魏倭王」を任命し金印紫綬(きんいんしじゅ)を授(さず)けたのは、どう考えても理屈(りくつ)にあわない。
公孫淵が信用できなくなったとき(232年、233)頃から、魏は燕の背後の脅威となる倭と外交を結ぼうと決意して着手したにちがいない。

前述したように、237(魏の景初元年)の夏、魏の公孫淵討伐は幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)の毌丘倹(かんきゅうけん)が最高責任者となって開始された。毌丘倹の公孫淵討伐は失敗した。
238(景初二年)、孔明と五丈原で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が、公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり、4万の歩兵と騎兵を率いて春、首都洛陽を出発した。
途中、毌丘倹の軍と合流し、倭の使節・難升米一行が帯方郡(たいほうぐん)に到着した6月には、司馬懿の軍は遼東(りょうとう)に到着した。
一方、魏の明帝はあらたに劉昕(りゅうきん)を楽浪太守(らくろうたいしゅ)に任じて、海から朝鮮半島に送りこんだ。
このように、魏の大軍に挟(はさ)み撃()ちされた公孫淵は、襄平城外(じょうへいじょうがい)で司馬懿によって斬首(ざんしゅ)された。

司馬懿が公孫淵を討伐して魏都洛陽に凱旋(がいせん)したのは、239(景初三年)正月であった。
この時、明帝は危篤状態(きとくじょうたい)であった。司馬懿はようやくのことで明帝の臨終(りんじゅう)に間()に合った。
明帝には子が無かったので、8歳の曹芳(そうほう)を養子とし斉王(さいおう)とした。この斉王を補佐する役を、明帝は司馬懿と曹一族を代表する曹爽(そうそう)に託(たく)した。
240年の魏の元号は、「正始(せいし)」と定められた。

◆『魏志倭人伝』は「正始元年(240)、帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)の弓遵(きゅうじゅん)は、建忠校尉(けんちゅうこうい)の梯儁(ていしゅん)一行を倭国に派遣し、明帝が卑弥呼に「親魏倭王」の爵位を授けると約束した詔書(しょうしょ)と印綬(いんじゅ)をもたせて倭国にゆかせた。そして、帯方郡の使節一行は、倭王に拝仮(はいか)して、明帝が約束した詔書をさしだした」と説明する。つまり、この240年の記事は「倭女王」ではなく、「倭王」と記す。
ゆえに、239(景初三年)240(正始元年)、つまり帯方郡の使節一行がいまだ倭国に到着していなかった240年において、卑弥呼はすでに没していたのであろう。
これゆえ、卑弥呼に代わって倭王(男の大王)が帯方郡の使節一行に面会した。
本来ならば、明帝が約束した詔書と印綬は卑弥呼にさしだししなければならなかったゆえ、『魏志倭人伝』は「拝仮(はいか)」、つまり「仮(かり)に拝謁(はいえつ)することにした」と記述することになったのであろう。

『魏志倭人伝』は「243(正始四年)、倭王はまた大夫(だいふ)の伊聲耆(いてき)・掖邪狗(ややこ)などの八人の使節を派遣した。(中略)。魏王朝は掖邪狗らに率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の印綬を与えた。」と説明する。
また、『魏志倭人伝』は「245(正始六年)、魏の斉王は詔(しょう)を下して、倭の難升米(なしめ)に魏の軍旗(ぐんき)の黄幢(こうどう)を与えることにし、帯方郡に託(たく)して仮授(かじゅ・仮に授けることに)した。」と記述する。

『魏志倭人伝』には記述されていないが――246(正始七年)には、馬韓(ばかん)の臣濆沽国(しんふんここく)の首長(しゅちょう)を中心とする勢力が帯方郡の軍事基地を攻撃し、この叛乱(はんらん)で帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)が戦死した。
だから、倭は魏との盟約にもとづいて出兵しなければならなかったが――239年頃の卑弥呼の死から間もなくして狗奴国(くなこく)が戦争を仕掛(しか)けてきたため、この内戦をおさめるために倭は韓に軍を派遣(はけん)することができなかった。
韓の叛乱は楽浪郡からの水軍の応援によって、韓の軍は敗北して鎮圧(ちんあつ)された。

◆それゆえ、『魏志倭人伝』は「247(正始八年)、帯方郡太守に王頎(おうき)が着任した」と記す。
この247年の記事はさらに続き、「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より不和であった。(それゆえ、卑弥呼の死後間もなくして狗奴国が倭国を攻撃してきたので、魏との盟約(めいやく)をまもれず、韓に軍兵を派遣できなかった)
ゆえに、倭は載斯烏越(小国・日本の軍王の伊耶那岐命)を帯方郡に派遣して、倭と狗奴国との相攻撃(あいこうげき)する様子を報告して、魏との盟約(めいやく)をまもれなかった事情を弁護することにした。
そこで、帯方郡太守は、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせ)たちを派遣し、彼らに前年(245)の斉王の詔書と黄幢を託(たく)して難升米に拝仮した。
帯方郡の使者の張政は(「燕・諸韓国における平和を維持(いじ)するためには、倭の狗奴国を滅亡させなければならない」と説く)(げき・軍書)を作って、倭女王・壱与(伊耶那美命)を説得(せっとく)した。
(
しかし、【愛】の女王の壱与・伊耶那美命は「狗奴国の男王とは話し合いによって戦いを鎮(しず)める」と主張して、張政の檄による告喩(こくゆ・説得)に応じなかった。

上の記事に登場する「倭女王の卑弥呼と狗奴国の男王は素より不和であった」という事情は――、
狗奴国の男王は「現在と夏代黎明期における東の地平線に昇る【夏の銀河の形状】は同じである。だから、名門益氏の王子と若者たちがもたらした帝禹(ていう)の遺志である国家を作らないようにして、氏族共同政治体制を依然(いぜん)として維持すべきだ」と主張したのであろう。
この意見に対して、卑弥呼は「現在と夏代黎明期における東の地平線から昇る【夏の銀河の形状】は相似するがまったく同じではない。ゆえに、現在は新しい政治体制がどうしても必要である。依然として国家を作らない旧政治体制のままだと、いずれ中国の魏や呉に占領されるにちがいない」と反論したと考えられる。
このような事情であったゆえ、壱与・伊耶那美命は張政の檄の告喩に応じず――狗奴国の男王との対立・争いは話し合いで平和的に解決できると考えたのであろう。
しかし、魏との同盟は軍事同盟であった。
ゆえに、夫の載斯烏越・伊耶那岐命はじめ天照大御神・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と倭王朝の面々は――張政の檄(げき・軍書)の告喩にしたがって狗奴国を討伐(とうばつ)して滅亡させるしかない。話し合いによる解決は魏との同盟を無視することになる。だから、魏を裏切(うらぎ)り敵にまわすことになる。そうなると、むしろわが国は大いに乱れて人心が動揺(どうよう)し漂(ただよ)える状況が一層(いっそう)ひどくなり収拾(しゅうしゅう)がまったくつかない事態となる――と、主張して壱与・伊耶那美命の意見に猛反対したにちがいない。
このため、倭王朝は強引に伊耶那岐命の第二后の天照大御神・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)を壱与の代理に就任させた。

これゆえ、『魏志倭人伝』の末部は下記のごとく説明している。
――張政らは、再度、激(軍書)を作って壱与、つまり壱与・伊耶那美命の代理に就任した天照大御神・伊迦賀色許売命を告喩・説得した。
かくして伊迦賀色許売命は張政が作った檄の告諭にしたがったために、狗奴国討伐は開始され、狗奴国は日本・倭連合軍によって滅亡した。
つまり、狗奴国討伐は小国・日本国の軍王の載斯烏越(そしあお)・伊耶那岐命が最高責任者となり、邪馬国(やまくに・大和)の崇神天皇・天照大御神の軍の活躍によって討伐されて滅亡した。
その後、壱与(の代理の天照大御神・伊迦賀色許売命)は、倭の率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)たち二十人を帯方郡に派遣し、帯方郡の使節の張政らを帰還させた。
この倭の使節の掖邪狗一行は帯方郡を出発して魏都洛陽に到着した。
このような記事をもって、『魏志倭人伝』の記事は終わっている。

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の説話は、下記のごとく説明する。
――小国・日本の女王に就任した伊耶那美命と夫の伊耶那岐命は、小国・日本の建国理念を【愛】と定めた。
ところが、『魏志倭人伝』に記述されているように――卑弥呼が死去して卑弥呼を葬る陵墓を築造する時、卑弥呼の後を受け継いだ男王が百余人の奴婢(ぬひ)を殺して埋めた徇葬(じゅんそう)を決行した。この循葬儀式を人民たちは残酷すぎると否定・憎悪して武器をもって倭王朝を攻撃する叛乱が国中に広がった。
この国中の叛乱は「伊耶那美命と伊耶那岐命が日本建国理念を【愛】にしたが原因である」と倭王朝は立腹(りっぷく)・非難し、さらに倭王朝は「伊耶那美命と伊耶那岐命に小国・日本を与える」という約束を反故(ほご)にして、伊耶那美命を倭女王に就任させて「国中の叛乱を鎮(しず)めよ」と欲求した。
このような次第(しだい)で、【愛】の女王・伊耶那美命が倭女王に就任すると、国中の人民たちは伊耶那美命ならば必ず徇葬を否定して廃絶(はいぜつ)するにちがいないと信頼して武器を捨てた。ゆえに、国中は遂(つい)に平定された。
しかし、このような混乱状態に乗(じょう)じて狗奴国が倭国に戦争を仕掛(しか)けてきた。
このため、倭王朝は「狗奴国の反乱もまた壱与・伊耶那美命と載斯烏越・伊耶那岐命が小国・日本の建国理念を【愛】と定めたが原因で起きた」と責任を押しつけて――二人に狗奴国の反乱を鎮圧(ちんあつ)する最高責任者に就任させた。

小国・日本の軍王の載斯烏越・伊耶那岐命は狗奴国討伐の最高責任者(総大将)として狗奴国討伐を指揮したが――狗奴国滅亡の酷(ひど)い惨状(さんじょう)を目にして後悔し、愛妻・伊耶那美命の主張が正しかったと、倭王朝に怒りをぶつけて反抗(はんこう)した。
この倭王朝への反抗が原因で、狗奴国討伐は伊耶那岐命・開化天皇の功績ではなくなり、開化天皇の祖父・孝霊天皇(こうれいてんのう)の事績(じせき)とされた。
孝霊天皇は、卑弥呼の後を継()いだ倭王、つまり百余人の奴婢を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬を決行した大王であったと考えられる。

ゆえに、『古事記』中巻の孝霊天皇紀は、狗奴国滅亡について下記のごとく説明する。
「大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)は、二人連()れ立って、播磨国(はりまのくに)の氷河(ひかわ)の岬に斎()み清めた酒甕(さかがめ)を据()えて播磨国を吉備国(きびのくに)に入る入口として吉備国を平定なさった。」
前述したように、「狗奴国」は「吉備地方」であった。
巴利国(はりこく)・播磨の西となりは「狗奴国」であった。ゆえに、「播磨国は吉備国・狗奴国に入る入口」となる。
だから、上の記事は「狗奴国討伐と狗奴国の滅亡」を説明していたことになる。

大和朝廷が栄えた基礎は、天照大御神(崇神天皇と天皇の母の伊迦賀色許売命)によって築かれたとされる。ということは、狗奴国(吉備国)討伐の戦いにおいて、邪馬国(やまくに)・大和の軍は大活躍したが原因で、一気に軍事力が増大したからにちがいない。
『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀における「四道将軍」の冒頭記事は、下記のごとくである。
「崇神天皇十年九月九日に、大彦命(おおびこのみこと)を北陸に遣(つか)わし、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に遣わし、吉備津彦(きびつひこ)を西道に派遣し、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波に遣わした。そして詔(しょう)して『もしも教えを受けない者があれば、ただちに戦争を起こして討伐せよ』と仰(おお)せられた。」
この四道将軍の一人は「吉備津彦」である。ゆえに、上記した『古事記』孝霊天皇紀に登場した「大彦命」は「大吉備津日子命」と同一人物であり、四道将軍の「吉備津彦」は「若建吉備津日子命」と同一人物であったであったにちがいない。
したがって、「四道将軍」は狗奴国・吉備地方の討伐において大活躍した。
ゆえに、邪馬国・大和の崇神天皇・天照大御神の軍事力は、狗奴国・吉備地方討伐以後に一気に増大したと考えるべきことになる。

◆『万葉集』13番の題名は「中大兄皇子(なかのおほえのおうじ)の大和三山の和歌」である。
この「中大兄皇子、後の天智天皇が皇太子時代に作った大和三山の歌」は、下記のごとくである。
「香具山(かぐやま)は、畝傍雄男(うねびをを)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」
上記の和歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「帯方郡の使者の張政が軍書の檄をもって告諭・説得したが、天の香具山に象徴される壱与・伊耶那美命は狗奴国の男王と話し合いによる平和的解決を強く望んだ。しかし、畝傍山に象徴される夫の伊耶那岐命・載斯烏越と耳成山に象徴される天照大御神・伊迦賀色許売命は、あくまでも狗奴国は武力をもって壊滅(かいめつ)させるべきだと主張して頑(がん)としてゆずらなかった。それゆえ、伊耶那美命は、夫は雄男しすぎると嘆(なげ)いた。このように、神代の伊耶那美命と天照大御神は自分の意見を夫の伊耶那岐命に従わせようとして争った。昔がからそうであったように、男女の仲の争いは、昔も今も絶えない。」

『万葉集』14番は、13番の反歌(はんか)である。
『万葉集』14番は、下記のごとくである。
「香具山と 耳成山と あひし時 立ちに見()に来し 印南国原(いなみくにはら)
上記の短歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「香具山に象徴される伊耶那美命・竹野比売(たかのひめ)は狗奴国とは話し合いで平和的に解決すべしと主張し、耳成山に象徴される天照大御神・伊迦賀色許売命は狗奴国を壊滅すべきと主張して争ったとき、この状況を心配した阿菩大神(あぼのおおかみ)つまり卑弥呼の死霊が見に来たという伝説で有名な印南国原が、いま、眼前に見える!」

上記の13番の長歌と14番の短歌は、661(斉明天皇七年)、天皇は船団を組んで、新羅(しらぎ)と唐と争う百済(くだら)の要請(ようせい)を受けて朝鮮半島遠征を決意し、九州へと向かった。この船団が印南国原(印南野・播磨平野の東方の兵庫県加古川市周辺の平野部)が見える播磨灘(はりまなだ)を通過する時に、中大兄皇子が作ったとされる。
このように、中大兄皇子は『魏志倭人伝』の末部に記される狗奴国討伐に記された「張政が檄を二度も作った事情」を題材(だいざい)にして和歌を作っている。

中大兄皇子の実父・舒明天皇(じょめいてんのう)も、『万葉集』5番の「舒明天皇が讃岐国の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王(いくさのおおきみ)の山を見て作る歌」と題する長歌を作って――小国・日本の軍王の載斯烏越・伊耶那岐命が狗奴国討伐の最高責任者となって讃岐国の飯(いい)ノ山に陣取って指揮したと詠()む長歌を作っている。

◆これ以上、『古事記』と『日本書紀』に記述された壱与・竹野比売(たかのひめ)・伊耶那美命と載斯烏越・開化天皇・伊耶那岐命と天照大御神(崇神天皇と天皇の母の伊迦賀色許売命)について解説しないことにする。
というのも、このブログの作成目的は『魏志倭人伝』の記事について具体的に容易に理解できるように詳細に解説して合理・科学が成立するように証明することであるからである。
ゆえに、これ以上、『古事記』と『日本書紀』に深入(ふかい)りしないことにした。
これまでの解説で納得・満足できない人、あるいは疑いを抱く人は、是非とも前ページで指摘したように、わが拙著『日本国誕生史の証明』(kindle版)を読んでいただきたい。
この拙著には伊耶那美命・伊耶那岐命・天照大御神について、そして小国・日本の建国理念が【愛】であった歴史について詳細に解説して証明した。

このブログまでをもって、卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事には1ヵ所も誤記や誤りが存在せず、すべて合理で統一されていて科学が成立して正確であることを証明した。
邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』に記される方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り統一されて科学が成立してすべて合理・正確であったと証明される。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の産物であり、最初の立論段階から空想・空理空論であったことが明白となる。

今から約300年前、江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき・1657年―1725)は『古史通或問(こしつうつうわくもん)を著作して【邪馬台国大和説】を立論し、その後に『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』他を著作して【邪馬台国筑後山門説(ちくごやまとせつ)】を主張した。
邪馬台国説学者たちは、卑弥呼が倭人国の首都として住んだ王国名は「邪馬台国であった」と主張して、白石の意見にしたがって――「邪馬台国」の「邪馬」は「大和」の「やま」であり、また「山門」の「山(やま)」であると思い込んでいる。
しかし、このブログが証明したように「邪馬」の【馬】の字源は「フタコブラクダ」であるゆえ、「邪馬」は「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口の表情にそっくりの、出産児の頭蓋骨の小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)であった」。
また、『魏志倭人伝』は倭人国の首都が所在した王国名を「邪馬壱国(やまいこく)」と明記する。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。
だから、即刻(そっこく)、白石以来300年間も学者たちが継承(けいしょう)する「邪馬台国説は完全に空理空論であった」と断定すべきことになる。

| | コメント (0)

2024年8月26日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・27

理想の男子像をあらわす躬臣国(こじこく)・巴利国(はりこく)・支惟国(しいこく)・烏奴国(あなこく)・奴国(なこく)の5小国の解明

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から図案されて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Photo_20240826134201

今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的に誤っていた。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

この夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成するの対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・26」では、
最初の対馬国(つしまこく)から数えて21番目の「鬼国(きこく)」は「現在の三重県南部の、旧国の志摩(しま)」、
22
番目の「為吾国(いがこく)」は「現在の三重県北西部の、旧国の伊賀(いが)」、
23
番目の「鬼奴国(きなこく)」は「現在の熊野を除く和歌山県西部、旧国の紀伊西部」、
24
番目の「邪馬国(やまこく)」は「現在の奈良県、旧国の大和」であったと証明した。

このブログでは、対馬国から25番目の「躬臣国(こじこく)」と、26番目の「巴利国(はりこく)」と、27番目の「支惟国(しいこく)」と、28番目の「烏奴国(あなこく)」と、29番目の「奴国(なこく)」の位置と範囲を解明する。
『魏志倭人伝』は、29番目の「奴国」までを「此()れ女王の境界の尽()くる所なり」と説明した後に、「其の南に狗奴国(くなこく)有り。男子を王と為()す。(中略)。女王に属さず」と追加する。
つまり、「女王・卑弥呼が統治する小国は対馬国(つしまこく)から奴国(なこく)までの29ヵ国」であり、「狗奴国」は「女王・卑弥呼と素(もと)より不和の敵対国(てきたいこく)」であったことになる。
わがブログは次回「漢字の起源と発明を解明す・28」にて、「狗奴国の位置や範囲、倭人国に討伐されて滅亡した様子」について解説する。

下図に示すように、25番目の「躬臣国」は「現在の大阪府と兵庫県東部と淡路島」であり、26番目の「巴利国」は「現在の兵庫県南西部」、27番目の「支惟国」は「現在の広島県西部」、28番目の「烏奴国」は「現在の高知県」、29番目の「奴国」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県の3県」、30番目の「狗奴国」は「現在の広島県東部・岡山県の吉備地方(きびちほう)であった」。
0000239

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説・証明が煩雑(はんざつ)にならずに容易に明快に理解できるようにするには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
00003_20240826134401
◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
「十字の銀河」は、「倭人国」の【倭】の字源となった。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて指摘したように、
わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
【委】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)の垂れた形」と解説する。
また、同書は【年】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う男性の姿」と解説する。
さらに、同書は【倭】の字について「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被った女性と男性の姿をあらわす」と解説する。
要するに、白川静著『字統』は【倭】の字は「穀霊に象る禾(いね)のかぶりものを被った女性と男性が舞う(踊る)姿をあらわしている」と解説していることになる。

下図は、上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部の北となりの銀河」が「穀霊(稲魂・いなだま)のかぶりもの(作り物)」に見立てられたことになる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・右足と、子宮」に観える銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性の姿」をあらわした。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」に見立てることができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う男性」をもあらわした。
000057_20240826134501

だから、上図の【倭】の字源銀河解説図にもとづいて、上記したようにわたくしは、
伊邪国から狗奴国までの20ヵ国を、10ヵ国ずつ1グループに二分して、
(
)「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国」と、()「【倭】の字源における男性グループの10ヵ国」に分けることにした。

今回のブログで解明する「躬臣国(こじこく)・巴利国(はりこく)・支惟国(しいこく)・烏奴国(あなこく)・奴国(なこく)の5小国」は、(C)「【倭】の字源グループの10ヵ国グループにおける、5番目から9番目までの小国」ということになる。

◆『魏志倭人伝』は、対馬国(つしまこく)から数えて25番目の小国は「躬臣国(こじこく)」であったと記す。
卑弥呼が歴史上に始めて登場する170年頃から50年前の120年に成立していた『説文解字(せつもんかいじ)』は、【躬(きゅう)】の字源を「身()なり」と解説する。
下図の右側に配する【身(しん)】の金文形は「みごもっている女性の側身形(そくしんけい)」である。
下の左図に示したように、【身】の金文形は「顔を天頂に向けて天頂緯度線を測定する人が、みごもった女性のごとく腹部をぐーんと前につきだす姿勢」を図案する。
0000132_20240826134601
偏【身】に【弓】を加えると【躬】の字となる。
下図に示す「十字の銀河」は【身】の字源銀河であった。
「十字の銀河の西半分」には「乳房」や「妊婦の腹部(おなか)・乳房」や「子宮」に相当する箇所がある。
ゆえに、「十字の銀河の西半分」は「女体(にょたい)」をあらわす。
そして、「十字の銀河の東半分」は「男性の姿」に相似する。
というのも「十字の銀河の左手(東側の手)は狩猟に用いる【弓】の形に似る銀河部を持っているからである」。
ゆえに、「妊婦(みごもった女性)の前へ突き出て円く(まる)くふくらむ腹部(おなか)を有する、十字の銀河の西半分が偏【身】をあらわし、「十字の銀河の左手が持つ弓」が【弓】をあらわす。
だから、「十字の銀河」は偏【身】に【弓】が加わる【躬】の字源となった。
K54_20240826134701
下図は、上図に示した天文図の定式〈右西・左東〉と異なり、地図の一般形式と同じく〈右東・左西〉の図にした。
下図の左上に配した小国名「躬臣(こじ)」の【臣】の金文形について、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は「目をあげて上を視()る形」と解説する。
下図の「鬼の横顔に似る銀河」は「目をあげて上(十字の銀河)を視る横顔」である。
したがって、【臣】の字源銀河は「鬼の横顔に似る銀河」であった。
0000133_20240826134701
『説文解字』は、【臣】の字形について「君に事(つか)ふる者なり。屈服する形に象(かたど)る」と解説する。
これゆえ、上図における【躬】の字源「十字の銀河」は「主君」、【臣】の字源「鬼の横顔に似る銀河」が「主君(十字の銀河)を見上げて、つかえる臣下の横顔」に見立てられたことになる。

それゆえ、下図に示すように、【躬】の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)をあらわす地域は、「現在の大阪府と兵庫県東部、旧国の摂津(せっつ)・和泉(いずみ)・河内(かわち)」であった。
そして、【臣】の地宜をあらわす地域は「現在の兵庫県南部の淡路島(あわじしま)」であった。
0000134_20240826134801

上図における「【躬】をあらわす地宜の大阪府と兵庫県東部」は「黄帝」をあらわしたと考えられる。
というのも、前ページの「【躬】と【臣】の字源銀河の解説図」における【躬】の字源「十字の銀河」には「子宮」に相当する銀河部があり、黄帝は【女性の生殖器官と出産】について研究したからである。
「十字の銀河」には「胎児を育てる子宮」に相当する銀河部位が存在するゆえ――「十字の銀河の子宮」から【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究】が連想される。
そして、【臣】をあらわした「淡路島」は、前ページの「【躬】と【臣】の字源銀河の解説図」では「鬼の横顔に似る銀河」に見立てられた。
下図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」ある。
倉頡伝説において、下図の「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の怪人(かいじん)・倉頡(そうきつ)」と表現された。
ゆえに、学者たちは「目が四つある怪人」という表現にびっくりして「人間には目が四つ無い! だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話だ」と決めつけた。
00009_20240826134901

以上からして、【躬】の「大阪府と兵庫県東部の地宜」は「天頂緯度線を測定する黄帝の姿」をあらわし、【臣】の「淡路島」は「黄帝を尊敬して、つかえた倉頡」をあらわしたことになる。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明・26」にて詳細に解説したように――25番目国の「邪馬国(やまこく)、現在の奈良県の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形」は、
下図に示すように、「【馬】・フタコブラクダが満足(まんぞく)そうに草を食べて頬(ほほ)を大きくふくらませる横顔」に相似する。
000042_20240826135001

ゆえに、上図の「邪馬国、旧国の大和す地宜」は「大和が豊かな食料に恵まれる王国」であった様子を示す。
上図の「邪馬国、大和の【馬】・フタコブラクダの横顔」は「堂々たる王者の風格」をあらわす。
だから、24番目の「奈良県・邪馬国」につづく25番目の「躬臣国、現在の大阪府・兵庫県東部の地宜」もまた「王者の風格」、つまり「徳の高い黄帝の風貌(ふうぼう)」をあらわすと解し、さらに「淡路島の地宜」は「黄帝を尊敬してつかえた倉頡の姿」に見立てて――卑弥呼は小国名を「躬臣国」と定めたにちがいない。
あるいは、「大阪府・兵庫県東部の地宜」を「夏()の始祖の帝禹(ていう)」にも見立てて、「淡路島の地宜」を「帝禹を尊敬してつかえた益(えき)」にも見立てて――卑弥呼は「男子の理想像」をあらわす「躬臣国」という小国名を考えついたにちがいない。

26番目の小国は「巴利国(はりこく)」である。
【杷()】の初文(最初の文字)は【巴】である。
【杷】の字義は「さらい」つなり「土をならしたり、穀物をかき集めた農具」である。
「巴利」を「杷利」つまり「杷(さらい)に相似した農作業に用いた利器(りき)」と解釈すると、
「巴利国(はりこく)」は「旧国の播磨(はりま)、現在の兵庫県西部」であったことになる。
というのも、下図の右側の「播磨の地宜」は左側の「エブリ」と呼ばれる農具の形に相似するからである。
卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の遺跡から、「エブリ」が出土している。
「エブリ」はその形から「いっぺんに幅広(はばひろ)く多くの土を多数の歯でつかんで掘りおこすのに便利な木製の農具」であったと考えられる。
ゆえに、「播磨の地宜」は「いっぺんに多くの土を掘りおこす利器(便利な農具)のエブリの主体部の形」に相似するということで、卑弥呼は小国名を「巴利国」と定めたと考えられる。
0000135_20240826135101

エブリの主体部と柄()の形からして、エブリは屈強(くっきょう)な男子が使う農機具であったことになる。
言いかえると、エブリは男子の腰(骨盤)に多くの負担(ふたん)がかかる農具であったことになる。
ゆえに、エブリを使って何時間も働くことができる人物は頑強(がんきょう)な骨盤(こつばん)とがっしりとした骨組みの男子でなければならなかった。

【古事記上巻 并(あわ)せて序】には、712年1月28日に『古事記』を献呈した元明(げんめい)天皇を讃(たた)える、下記のごとくの文章がある。
「名は文命(ぶんめい)よりも高く、徳は天乙(てんいつ)にも冠(まさ)りたりと謂()ひつべし」
上記の文章を現代語に訳すると、
「元明(げんめい)天皇陛下のお名前の尊さは夏()の帝禹(ていう)よりも高い帝禹の政治を補佐した益(えき)のごとくであり、徳の高いことは殷(いん)の湯王(とうおう)よりもすぐれた補佐役(ほさやく)の伊尹(いいん)のごとくです」となる。
わが国には、帝禹の政治を補佐した王・益の孫の王子と若者たちが日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して【倉頡の文字作成理論】と夏音文字を教え広めた。
ゆえに、倭人国では帝禹よりも帝禹の政治を補佐した益(えき)を偉大視するようになり――「お名前の尊さは帝禹の政治を補佐した王の益のごとし」という表現が最大の賛辞(さんじ)となったのである。

司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀(第二)には、下記のごとくの帝禹について説明する記事がある。
「身を労して心血(しんけつ)をそそぎ、屋外におること十三年、自家の門前を通りかかっても入室して休息しなかった。衣食を薄(うす)くして鬼神(きじん)への供物(くもつ)を豊富にし、家室(かしつ)の造りを質素にしてその費用を田畑のあいだの溝(みぞ)づくりにまわした。」
上記したように「鬼神を事(まつ)る五帝時代の黄帝や夏代の帝禹は、衣食に費用をかけず贅(ぜい)を尽()くす王室で生活せずに、率先(そっせん)して先頭に立って重労働の農作業に勤(いそ)しんだ。」
だからこそ、「巴利国の地宜」は「エブリ」という「腰(骨盤)に多くの負担(ふたん)がかかる農具」に相似すると見立てられたにちがいない。
つまり、卑弥呼は「巴利国の地宜」をもって「王たる者、エブリのような腰に多大な負担がかかる農具を使って何時間も労働することができる、がっしりとした骨組みを有するたくましい肉体の持主でなければならないという理想像」をあらわしたことになる。

◆次の27番目の小国名を、卑弥呼は「支惟国(しいこく)」と定めた。
「支惟国」の【支()】の字義は「ささえる。わかれる」である。
そして、「支惟国」の【惟()】の字義は「頭脳で考える」である。
ゆえに、下図に示すように、【支】は「考える器官の大脳(だいのう)を支(ささ)える視床(ししょう)・小脳(しょうのう)・脳幹(のうかん)など」をあらわすことになった。
0000137_20240826135201
「旧国の安芸(あき)」、つまり「現在の広島県西部の地宜」だけの場合――「頭蓋骨(ずがいこつ)、あるいは頭蓋骨でおおわれる脳の側面形」に相似しない。
しかし、下図のごとく、「支惟国の範囲」を「安芸(広島県西部)に、備後西部(びんごせいぶ・広島県東部)」を加えると、その形は「頭蓋骨や脳の側面形」に相似する。
つまり、下図に示すように、「現在の三次市(みよしし)と福山市(ふくやまし)を結ぶ福塩線が通る、馬洗川(ばせんかわ)や芦田川(あしだがわ)が流れる地域を東の境界線」にすると、
「この地域の地宜」は「頭蓋骨の側面形」、あるいは「脳の側面形」に相似する。
したがって、下図の「頭蓋骨の側面形」に相似する「現在の広島県西部(旧国の安芸)と、広島県東部の備後西部」が「支惟国の範囲」であったことになる。
0000138_20240826135301

下図に示すように、金文形の【隹(すい)】と【惟()】は同一形で、両者共に「隹」、つまり「小鳥」を表現する図案となる。
『説文解字』は【隹(すい)】の字を「鳥の短尾(たんび)なるものの總名(そうめい)なり」と解説する。
【呼】の字源となった「鳰(にお)・カイツブリ」は「カモの仲間より一回り小さい小鳥であり、尾の羽根は非常に短いため、鳰の尾は外観から判別できない」。
ゆえに、「鳰」は【隹】を代表する小鳥」であった。
0000139_20240826135401
『説文解字』は【惟】の字を「凡(おおよ)そ思ふなり」と解説する。
この【惟】の「凡そ思ふなり」という解説にもとづくと、「カワセミ」は「短尾ではないが、凡そ小鳥」に類別されることになる。
ゆえに、「支惟国」の【惟】の字は「鳰(にお)」をあらわさず、凡その考えにもとづいて「カワセミ」をあらわしていることになる。

前ページにて示した「背後から見た脳幹(のうかん)の形」だと、「脳幹は【惟】の小鳥・カワセミの姿」に相似しない。
しかし、下図に示す側面形の場合、「脊髄(せきずい)につながる脳幹」――つまり「脊髄につながる中脳(ちゅうのう)・橋(きょう)・延髄(えんずい)の側面形」は「尾が鳰よりも長い、【惟】の小鳥・カワセミの姿」に相似する。
0000140_20240826135501

ゆえに、前者の「背後から見た脳幹のカワセミの姿に相似しない形」と、後者の「カワセミの姿に相似する側面形」は異なるゆえ、【惟】の字について、上記したように『説文解字』は「凡(おおよ)そ思ふなり」と解説した。
しかし、後者の「カワセミの姿に相似する側面形」にもとづいて、
【惟】の字義は、前者の「凡そ思ふなり」に相反(あいはん)する「脳幹がある頭脳の中心の奥深い所で考える」、つまり「深く考える」という意を有することになった。
そして、「支惟国」の【惟】の字義は後者の「深く考える」であった。
以上のごとく、卑弥呼は「支惟国」という小国名をもって
「男子たる者、知性にあふれる深い思惟力(しいりょく)で何事も思考しなければならない」と、「男子の理想像」を示した。

◆下図に示すように、対馬国から28番目の「烏奴国(あなこく)は「現在の四国の高知県、旧国の土佐(とさ)」であり、
29
番目の「奴国(なこく)」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県、旧国の伊予(いよ)・讃岐(さぬき)・阿波(あわ)」であった。
「烏奴国」と「奴国」の【奴】の字義は「強大な力」である。
ゆえに、下図に示すように、北緯3415分の緯度線は「香川県の北端を貫通し、鳴門(なると)の渦潮(うずしお)をも貫通している」。
「鳴門の渦潮」は「世界的に最高級の速度で大きな渦(うず)を巻く」。ゆえに、「鳴門の渦潮」は【奴】の「強大な力」をあらわした。
だから、「奴国の範囲」は「現在の愛媛県と、鳴門の渦潮に隣接する香川県・徳島県」であり、「烏奴国の範囲」は「現在の高知県」であったと考えられる。
0000141_20240826135601

また、下図に示すように――高知県中央南端に所在する「浦戸湾(うらとわん)の地宜」は【烏(からす)】、つまり「翡翠(ひすい)・カワセミの姿」に相似すると見立てられ、また、「浦戸湾の地宜」は「高知県中央の南端に生じたアナ()」のごとくに観える。
ゆえに、小国名「烏奴」は「カワセミの巣穴(すあな)」つまり、「あな()」を意味することになった。
したがって、「烏奴国」は「現在の高知県」であったと考えられる。
0000142_20240826135701
天敵のヘビ・イタチ・キツネなどに襲撃(しゅうげき)されないように、カワセミは河川や湧水泉(ゆうすいせん)における垂直な土手(どて)や崖(がけ)に巣を作る。
にもかかわらず、カワセミの巣は河川・湧水泉などの増水・氾濫(はんらん)においても水没しない。
カワセミの巣は河川・湧水泉・池・湖の近くに作られる。
このように、カワセミは小魚などの餌となる水生動物が豊富にある場所に巣穴を作って、子育てに、安眠・休息できる場所を選ぶ。
巣穴の近くには、ダミー(替え玉)の穴(あな)がある。
ゆえに、カワセミは利口(りこう)・賢(かしこ)いということになり――上記したように、カワセミは「深く考える」を字義とする【惟】の字で表現されることになったのであろう。

カワセミの巣穴(すあな)は内径7㎝、深さは50100㎝である。
奥に向かって掘り、奥には広い産座(さんざ)があり、そこには「淤(お・どろ)」、つまり「やわらか土」
と親鳥が吐きだした魚の骨を敷き、その産座に卵を産む。
またカワセミのオスは、メスに餌の魚の頭をむけてあたえる習性がある。
メスはオスの魚を受け取って結婚、交尾、そして産卵して抱卵(ほうらん)する。
育雛(いくすう)はメスとオスが約30分ごとに交替(こうたい)しておこなう。

ゆえに『魏志倭人伝』には「唯々(ただ)男子一人有りて飲食を給(きゅう)し、辞()を伝えて出入りす」という記事がある。
上記のごとく、男子はカワセミのオスのごとく卑弥呼の飲食を給仕(きゅうじ)し、卑弥呼の辞(ことば)を伝えるために卑弥呼の居間に出入りする役目をつとめていた。
だから、卑弥呼はカワセミの習性を利用して、「倭人国の男子たちは、日々、妻子や両親・兄弟姉妹が飢()えないように食料を手にいれる農作業はじめ狩猟・採集に熱心(ねっしん)に努力せよ」と卑弥呼に給仕する男子をもって――「男子の理想像」をあらわしていたことになる。

カワセミが魚を捕獲(ほかく)するために水中に飛び込むと、同心円形を描く波紋(はもん)がひろがる。
この「カワセミの同心円形の波紋」と「天敵のオオカミに襲撃されると、子どもを中心に隠してジャコウウシの群れが組む円陣(えんじん)」は「同じ円形」ということで――
「カワセミ」もまた「ジャコウウシ」と同じく【奴】の「強大な力」、言いかえると「【禾】・【委】・【倭】の時計回りに90度転回する方位規定を成立させる魔力(まりょく)を有する」と考えられるようになった。
ゆえに、小国名「烏奴国」の【奴】は「方位規定を時計回りに90度方位を転回させる、ジャコウウシのような強大な力を秘める呪力(じゅりょく・魔力)」をあらわした。

上記したように、カワセミは垂直な「土手(どて)」に巣穴を作る。
下に、「土手」という名詞における【土】の字源銀河を示した。
【土】の字源銀河は「鬼の姿に似る銀河」である。
0000241

下に、【奴()】・【又(ゆう)】・【右(ゆう)】の字源解説図を配した。
上図が示したように、【土】の字源銀河の「鬼の姿に似る銀河」が【奴】の字源銀河でもある。
【土】の字源銀河「鬼の姿に似る銀河」は【又(ゆう)】の字源銀河にして、【又】は【右(ゆう)】の初文(最初の文字)であり、【右】の金文形は「右手と渦巻の北アメリカ星雲・ペリカン星雲」で構成される。
ゆえに、【又】は【右】の初文であるとともに、【又】は【奴】の初文でもあった。
したがって、【奴】と【又】は同一形となった。
ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」は【土】の字源にして、【奴】・【又】・【右】の「右手」の【手】の字形でもあった。
だから――「鬼の姿に似る銀河」は【土】に【手】が加わる「土手」の語源となった。
000076_20240826135901

下に、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が「カワセミの巣穴」に見立てられた解説図を配した。
上記したように「鬼の姿に似る銀河」は「土手」に、「長方形の暗黒天体部」は「平坦な水面となる河川、湧水泉、池、湖」に見立てられた。
というのも、カワセミは「平坦な水面となる河川、湧水泉、池、湖」に生息したからである。
「激流の銀河」は「増水時における急流、氾濫(はんらん)して渦巻く激流」に見立てられた。
これゆえ、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「増水時や氾濫した時にも水没しないカワセミの巣穴」に見立てられた。
というのも、カワセミは巣穴を尻(しり)から出るときに、素早く回転して飛び立つからである。
ゆえに、【奴】の金文形にあって「渦巻き」に図案された「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「カワセミの巣穴」に見立てられた。
だから、「カワセミ」は【奴】の「ジャコウウシのごとき強大な呪力(じゅりょく)を有する」と信じられるようになった。
0000242
下に、「出産児の頭蓋骨「邪馬」の解説図を配した。
下の下図に示したように、【奴】の「渦巻きの、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の西となりには「邪馬の銀河」がある。
「邪馬」は「出産児の頭蓋骨にある小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)」である。
000093_20240826140101

出産児の頭蓋骨の縫合は完成しておらず、骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みとなる。
出産第1期の開口期(かいこうき)の終わり、出産児はアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢となり、後頭部の小泉門を先進(せんしん)させて、骨盤入口へ入りこむ。
出産児が骨盤入口に入りこむときに、頭()を時計回りに90度旋回(せんかい)する――この旋回を、産婦人科では「第1回旋(かいせん)」とよぶ。
そのあと、産道を通過する出産児の頭()は反時計回りに90度旋回する「第2回旋」と「第3回旋」をおこなう。
出産児第2期の娩出期(べんしゅつき)の終わりには、出産児の頭()は時計回りに90度旋回する「第4回旋」して、母体の背が正面になるように顔を曲げて、天を仰ぐかのごとく上を向くポーズとなる。

このような「出産児の第1回旋と第4回旋」は【禾()】・【委()】・【倭()】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
ゆえに、卑弥呼王朝では、【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、日本列島本州における〔東〕は〔南〕になる」と定める転回日本列島地理を制定した。
この【倭】の字源「方位規定が時計回りに90度転回して、〔東〕が〔南〕となる転回日本列島地理」を成立させた原動力は「強大な力」を意味する【奴】であった。

上記したように、カワセミの巣穴の産座には、淤(お・泥)、つまり「やわらかい土」と親鳥が吐き出した魚の骨を敷かれる。
このカワセミが垂直な土手や崖における土中を奥深く掘る巣穴の産座に敷く淤()、つまり「やわらかい土・どろ」は、日本列島の本州の〔東〕が〔南〕となる――【倭】の字源「方位規定を時計回りに90度転回させる、強大な呪力(じゅりょく)」が秘められていると信じられるようになった。

以上のような事柄から、卑弥呼は「高知県の浦戸湾の地宜」を「烏奴」と表現した。
そして、小国名「烏奴」の【奴】は「強大な力で巨大な渦巻きを描く、鳴門の渦潮」であったと考えられる。
小国名「烏奴」の【烏()】の字は今日では「カラス」を意味するが――、
【烏】の字源は「カラス」と限定できない。
白川静著『字統』は【烏】の金文形について「於()の字形に近い」と指摘する。
白川静著『字統』は【於】の金文形について「烏の羽を解()いて、縄にかけわたした形。烏は死烏の全形、於はその羽を解いて縄にかけわたした形で、これを耕作の地にさげて、烏害を避けようとしたものであろう」と推測する。
白川静著『字統』の【烏】と【於】の字説は、あくまでも推測である。
ゆえに、【烏】の字源は「カラス」であったと限定することができない。


下に【烏】と【於】の金文形を配した。
下の左端の【烏】の金文形は「死烏(死んだ烏)の姿」よりも、むしろ「小枝に止まるカワセミの姿」に相似する。
下図の【於】の二つの金文形は「死烏の羽を解いて縄にかけわたした形」に相似するが、
金文は夏音文字よりも1000年以上後世の文字であるゆえ――夏音文字の【於】の字源が「死烏の羽を解いて縄にかけわたした形」であったと限定することはできない。
0000240

◆偏【三水(さんずい)】に【於】を加える【淤()】の字は「やわらかい土。どろ」を意味する。
ゆえに、【於】・【淤】の字源は「五帝時代・夏代において、河川の増水や氾濫の後に水が退()いて原始的な木製の鍬(くわ)でも容易に耕作できたやわらかい土」であったと考えられる。
ゆえに、五帝時代や夏代や倭における卑弥呼時代は【淤】の「やわらかい土」は「豊かな実り、つまり豊作をもたらす土」を意味したことになる。
ゆえに、【烏】の字源は「巣穴の産座に、【淤】、つまり、やわらかい土を敷くカワセミ」であったにちがいない。

次回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」で詳細に解説して証明するが――
『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと)」は、『魏志倭人伝』の末部に「卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三の時に立ちて王と為()る」と記される、つまり「十三歳の時に小国・日本の女王となった、卑弥呼が統率(とうそつ)する巫女界(ふじょかい)を代表する壱与、後年に倭女王と就任したる壱与」であった。
「伊耶那美命の夫の伊耶那岐命(いざなきのみこと)」は、上記の「壱与の記事」の前の「魏の正始八年(247)の記事」に登場する「朝鮮半島の帯方郡政庁(たいほうぐんせいちょう)に訪れて倭国と狗奴国の戦況を説明した武将の載斯烏越(そしあお)」であった。

『古事記』上巻の〔伊耶那岐命(載斯烏越)と伊耶那美命(壱与)説話〕の冒頭は「淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)」についての説明である。
「淤能碁呂」の4字には〔音〕という注がつく。
ゆえに、「淤能碁呂」の4字は「楷書を音符・意符として用いた夏音文字」であったことになる。
「淤能碁呂」の先頭字【淤】は「やわらかい土。どろ」を意味する。
ゆえに、上記したように、【淤】の初文の【於】の字源は「五帝時代・夏代において、河川の増水や氾濫の後に水が退()いて原始的な木製の鍬(くわ)でも容易に耕作できたやわらかい土」であったことになる。
だから、「烏奴国」の【烏】の字源は「巣穴の産座にやわらかい土を敷くカワセミ」であったと考えるべきことになる。

淤能碁呂島の聖婚説話において、「淤能碁呂」の4字の夏音文字の、その前に「許々袁々呂々邇」という7字に〔音〕という注がつく夏音文字が記される。
この「許々袁々呂々邇」の7字の夏音文字は「こをろこをろに」と読む。
「許々袁々呂々邇」の前には「塩」という字が記される。
「塩許々袁々呂々邇」はつまり「塩こをろこをろに」は、「塩作りの窯(かま)の中で沸騰(ふっとう)するドロドロとした重くなった塩の湯をゆっくりとかき回す擬音(ぎおん)」を表現していることになる。

伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式において、「二人は塩を作る小屋(式場)に入り、窯(かま)の中に天沼矛(あめのぬぼこ)をさしおろし、ドロドロとした塩の湯をかきまわして、鳴門の渦潮の様子を表現する儀式」をおこなった。
ゆえに、「潮許々袁々呂々邇」ではなく、「塩を作る窯の前」で「鳴門の渦潮」をあらわす儀式をおこなったゆえ、「塩許々袁々呂々邇」と記されたことになった。
そして、「天沼矛」とは「九州の玄界灘(げんかいなだ)に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島(こうづしま)が同緯度であるとあらわすと共に、日本列島の本州の地底の土が沼()のようにやわらかいをもあらわす呪器(じゅき)の矛」であったことになる。
ゆえに、「天沼矛」はたとえば「碁石の石のような形をした沖ノ島と、将棋の駒(こま)のような形の神津島(こうづしま)の小さな飾りがついた矛」であったであろう――日本列島の西端の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と、日本列島の東端の伊豆諸島の神津島と、鳴門の渦潮」は同緯度(北緯3415)であるゆえ、
沖ノ島と神津島の飾りのついた矛(天沼矛)で窯の沸き立つドロドロとした塩の湯をコヲロコヲロに(許々袁々呂々邇)と鳴門の渦潮に見立ててかきまわして――【日本列島の本州は地底が沼のようにやわらかくなっているので、本州の方位は【倭】の字源のとおりに時計回りに90度転回する】とあらわす儀式がおこなわれた。

だから、「淤能碁呂」という4字は「地底の土が【淤】()のようにやわらかい、【能】(熊・クマ)の横穴の巣が縦穴になるがごとく、【碁】(沖ノ島と神津島)が【呂】(同緯度)となるために緯度が経度のごとく縦(たて)になって方位が90度転回して〔東〕が〔南〕となる転回日本列島本州地理」をあらわした。
このように、『古事記』の〔能碁呂島の聖婚説話〕は「伊耶那岐命と伊耶那美命は塩を作る窯(かま)の前にて、卑弥呼が提唱した転回日本列島本州地理の儀式をおこなった」と記述している。

下図に示すように、日本列島の西の端にある沖ノ島と日本列島の東の端にある神津島は同緯度(北緯3415)である。
K202_20240826140401
下図に示すように、卑弥呼は中国北部の海岸線地域が冷たい気候であり、中国南部の海岸線地域の気候が暖かい状況を注目した。
そして、日本列島における西端の沖ノ島は冬になると雪が降って冷たい気候に対して、沖ノ島と同緯度の日本列島の東端にある神津島が冬になっても雪が降らない暖かい気候であることに注目した。
ゆえに、中国の海岸線地域の〔北冷〕と倭地の〔西冷〕が示すように両地域は共に「冷たい気候区」であり、中国の海岸線地域の〔南暖〕と倭地の〔東暖〕が示すように両地域は共に「暖かい気候区」であるゆえ、
下図のごとく、卑弥呼は「日本列島の本州の〔東〕は中国海岸線地域の〔南〕のほうに延びている」と考えた。
K201_20240826140501

下図に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が立論した転回日本列島地理に則(のっと)って、末盧国(まつろくに)から邪馬壱国(やまいこく)までの方位を正確に記している。
下図に左側に示すように、沖ノ島と鳴門の渦潮と神津島は同緯度(北緯3415)である。
K195_20240826140601
上図の「転回日本列島地理」は【倭】の字源をあらわすゆえ、卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。
上図に示したように、〔沖ノ島と神津島〕と共に、〔沖ノ島と神津島と同緯度の鳴門の渦潮〕も転回日本列島地理を形成する原動力になった。
だから、『古事記』の〔伊耶那岐命と伊耶那美命の聖婚説話の冒頭〕では「鳴門の渦潮」をあらわす「塩を作る窯の前に立って二人が天沼矛を持ってさし入れて、コヲロコヲロに(許々袁々呂々邇)とかきまわして鳴門の渦潮を表現する儀式の様子が記述された。

『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の〔淤能碁呂島の聖婚説話〕や〔国生み説話〕は、〔音〕という注がつく【夏音文字の字源・字義】をまったく解明しないで無視する学者たちによってーー
〔淤能碁呂島の聖婚説話〕における「塩許々袁々呂々邇とかき鳴らす」という文は「伊耶那岐命と伊耶那美命が【天空に浮かぶ雲の上から天沼矛をさし下ろして】、やわらかい大地と海をかきまわして日本列島を作った」と訳する解釈が定説となる。
このため、次に続く〔国生み説話〕は「天に浮かぶ雲上に住む伊耶那美命が【淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま・淡路島)はじめ伊予之二名島(いよのふたののしま・つまり、烏奴国と奴国に分かれる四国)など様々な島や小国】を分娩(ぶんべん)・出産した」という解釈が定説となる。
しかし、このような定説の解釈は【誤訳・誤解・空論】であった。
つまり、「淤能碁呂島」は【卑弥呼が立論した本州の〔東〕を〔南〕と定めた転回日本列島地理】をあらわした。
「国生み」は「卑弥呼が【臣】という字であらわしたが、この変名が淡道之穂野狭別島(淡路島)であり、また卑弥呼が定めた四国の名を改めた、あるいは卑弥呼が名称をつけなかった様々な島や不都合(ふつごう)になった国々の名を――伊耶那美命は考えて改めた」と解釈しなければならなかったのである。

◆以上のごとく、対馬国から28番目の「烏奴国(あなこく)」は「現在の四国の高知県、旧国の土佐」であった。
次の29番目の「奴国(なこく)」は「鳴門の渦潮」に隣接する現在の四国の香川県・徳島県と愛媛県、旧国の讃岐(さぬき)・阿波(あわ)と伊予(いよ)」であった。

前述したように、沖ノ島と神津島を結ぶ北緯3415分は、日本列島の本州の〔東〕を90度転回して〔南〕にした転回日本列島地理の原動力である。
この「日本列島の本州の方位を時計回りに90度転回させる原動力」は【奴】の字源「強大な力」であった。
この【奴】の字源「強大な力」を有する緯度線上に、「鳴門の渦潮」が所在する。
「鳴門の渦潮」は世界的に最高級の速度で、ゴウゴウとすさまじい音響をたてながら豪快(ごうかい)に巨大な渦を巻く。
「鳴門の渦潮」は、巨大な日本列島の本州の〔東〕を〔南〕に変える【奴】の字源「強大な力(エネルギー)」を有する。
だから、29番目の「奴国」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県」であったことになる。

◆卑弥呼は、「奴国」を貫通する北緯3415分の緯度線を、男子に1度の60分の1の精度で測定できる優れた眼力を有するように願った。
というのも、村々に住む男子たちは家族が幸せな生活を過ごすために食料を集め、また様々な生活用品を求め、あるいは集落の存続と繁栄を願って遠い地域の新しい文化やすぐれた発明・技術や進歩的な知性などを取り入れるために天頂緯度を測定して旅に出ていた。
ゆえに、天頂緯度測定に失敗し、または旅の途中で天頂緯度を測定していた時に崖から落下して命を絶つ事故で帰らぬ人となった事例も多数あったにちがいない。
ゆえに、卑弥呼は「優れた眼力を有して常に精確に天頂緯度測定ができるように男子や、命を絶つようなことにならないように常に用心深く天頂緯度を測定する男子を、男子の理想像」と考えていたのであろう。

| | コメント (0)

2024年8月 9日 (金)

漢字の起源と発明を解明す・24

愛と子宮での出来事と花をあらわす弥奴国(みなこく)・好古都国(こかたこく)・不呼国(ふここく)の秘密

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から図案されて起源した。
【夏の銀河】とは「すべての夏の星座が漬()かる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20240809165001

今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっていた。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所には〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成するの対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて、【倉頡の文字作成理論】について説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と名づけることにした。

前回の「漢字の起源と発明を解明す・23」では、
最初の対馬国から数えて11番目の「伊邪国(いやこく)」は「現在の京都府中部と兵庫県の一部であり、旧国の丹波(たんば)」であったことを証明した。
また、対馬国から12番目の「都支国(たきこく)」は「旧国・志摩を除く現在の三重県と和歌山県南東部の、旧国の伊勢と紀伊南東部の熊野」であったと証明した。

このブログでは、対馬国から13番目の「弥奴国(みなこく)」と、14番目の「好古都国(こかたこく)」と、15番目の「不呼国(ふここく)」の位置と範囲を解明する。
現在方位にもとづくと、「弥奴国」は「都支国」の北隣となる「現在の愛知県西部の、旧国の尾張(おわり)」、
「好古都国」は「現在の愛知県東部の、旧国の参河(みかわ)」、
「不呼国」は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江(とおとうみ)」であった。
下図に、対馬国から「21番目の鬼国(きこく・旧国の志摩)」と、「都支国・弥奴国・好古都国・不呼国の位置と範囲」」を示した。
000097_20240809165201
◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「弥奴国・好古国・不呼国という、3小国名の秘密」を解明する説明が煩雑(はんざつ)にならずに容易に理解できるようにするには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
00003_20240809165201

◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
「十字の銀河」は、「倭人国」の【倭】の字源となった。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて指摘したように、
わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
【委】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)の垂れた形」と解説する。
また、同書は【年】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う男性の姿」と解説する。
さらに、同書は【倭】の字について「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被った女性と男性の姿をあらわす」と解説する。
要するに、白川静著『字統』は【倭】の字は「穀霊に象る禾(いね)のかぶりものを被った女性と男性が舞う(踊る)姿をあらわしている」と解説している。

下図は、上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部の北となりの銀河」が「穀霊(稲魂・いなだま)のかぶりもの(作り物)」に見立てられたことになる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・右足と、子宮」に観える銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性の姿」をあらわした。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」に見立てることができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う男性」をもあらわした。
000057_20240809165301

だから、上図の【倭】の字源銀河解説図にもとづいて、上記したようにわたくしは、
伊邪国から狗奴国までの20ヵ国を、10ヵ国ずつ1グループに二分して、
(
)「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国」と、()「【倭】の字源における男性グループの10ヵ国」に分けることにした。

◆前ページにて【倭】の字源解説に用いた「十字の銀河」の西となりの銀河を、
下図に示すように、わたくしは「鬼の姿に似る銀河」またの名を「四つ目の銀河」と名づけた。
この「四つ目の銀河」の南西に隣接する銀河を「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」と名づけた。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には国際的に天文学界において「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名称が決められた銀河部がある。
K483_20240809165401

下に、「はくちょう座のε(エプシロン)星と、γ(ガンマ)星と、δ(デルタ)星と、β(ベータ)星が構成する三角形状に包囲される「人の横顔に酷似する銀河と、北天の最輝部」の図を配した。
「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々にとって最も輝いて見える銀河部」のことをいう
下図における「点々の部分」は「銀白色」に、「点々が濃い部分」は「桃花鳥色(トキ色)」に輝く。
0000199_20240809165601

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・16」にて証明したように、
対馬国から6番目国の「不弥国(ふみこく)」の【弥】の字源は「水鳥のカンムリカイツブリ」であった。
卑弥呼は「福岡県の福津(ふくつ)市の津屋崎(つやざき町の海岸線)を【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭」に見立て、
また「釣川(つりがわ)から宗像(むなかた)平野部までの地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を【弥】の「カンムリカイツブリの首と胴体と翼」に見立てて、
これらの形状は「空を飛んで陸地に降下してこないカンムリカイツブリの姿に観える」と解して――
卑弥呼は「宗像地方」の小国名を「不弥国」と定めた。

◆【弥】の「カンムリカイツブリ」の全長は46㎝~61㎝である。
この「カンムリカイツブリの全長」は出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝の大きさに育った出産児とほぼ同じである。
ゆえに、倉頡は「出産児」を「カンムリカイツブリ」で喩(たと)えることにした。
というのも、胎児は母親の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余り・10カ月余も過ごす「水中生活者」であるからである。
出産後の人は1時間も水中に潜(もぐ)ったままでいれば確実に窒息(ちっそく)して死ぬ。
にもかかわらず、40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごす胎児は、なぜ窒息して死なないのか?
この秘密を、女性の生殖器官と出産について研究する黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この秘密を倉頡は「人間よりも長らく水中に潜(もぐ)っていることができる、カンムリカイツブリ」で喩えることにした。

【弥】の字源となった「カンムリカイツブリの首から体下面(たいかめん・胴体の下面)まで」は「すべて銀白色」である。
上記したように、「北天の最輝部」もまた「銀白色」に輝く。
ゆえに、下図に示すように、「不弥国(ふみこく)」の【弥】は「北天の最輝部」に見立てられた。
下図の右側は、【弥】の字源「カンムリカイツブリが繁殖行動するときのオスとメスが求愛ダンスする姿」をあらわしている。
(
注 この図は今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物細密・生体画集】』 平凡社発行の143ページより転載した)
上記したように、「不弥国」の【弥】は「北天の最輝部」に見立てられたゆえ、
上図に示したように、対馬国から13番目の「弥奴国(みなこく)」の【弥】もまた「北天の最輝部」に見立てられたことになる。
000089_20240809165701

下に示した右側は「脚で水面を蹴()った水しぶきを浴()びてビショ濡()れになる、熱烈な求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメスの図」である。
下図の左側は「現在方位にもとづく上南・下北の、現在の愛知県西部の地宜」である。
000099_20240809165701
上図に示したように、「現在の愛知県西部の地宜」は「熱烈な求愛ダンスをして繁殖行動をするカンムリカイツブリのメスの姿」に見立てられたことになる。
というのも、右図の「脚で水面を蹴って水しぶきを浴びるカンムリカイツブリの姿」は「カンムリカイツブリの尾のほうの水面がざわついて張る(広がる)状態」となるからである。
この「尾のほうの水面がざわついて張る」の略称は「尾張」、つまり旧国の「尾張」となる。
ゆえに、「現在の愛知県西部、旧国の尾張」の小国名は「弥奴国」であったことになる。

「弥奴国」の【奴】の字源・原義は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説したように、下記のごとき3つの事柄をあらわした。
(
)「子どもを出産するための母親のジャコウウシのごとき強大な力」
(
)「子どもの出産において――母体(妊婦)が大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)
(
)「ジャコウウシのごとき強大な力を有する18歳くらいの青年」

つまり、「弥奴国」の【奴】は「求愛ダンスするとき、メスが体を水面に垂直状に立つことができる、強大な力」をあらわした。
上図に示した「現在方位にもとづく尾張の上南・下北の地宜」は【弥】の「カンムリカイツブリのメス」が【奴】の「強大な力で、体を水面に垂直状に立つ姿勢」に相似する。
だから「尾張」の小国名は「弥奴国」であったことになる。

◆旧国・尾張のとなりは旧国・参河(みかわ)、現在の愛知県東部である。
下に、「愛知県東部、旧国の参河の地宜」を示した。
0000218

上図の「参河の地宜」を「求愛ダンスをするオスのカンムリカイツブリの姿」に見立てれれば、ことは簡単にすむ。
――しかし、「参河」は「【倭】の字源における女性グループ」の一員となる小国である。
したがって、「参河」は「求愛ダンスをする【メスのカンムリカイツブリ】の姿」と解釈すべきことになる。
ゆえに、「尾張と参河の地宜」は共に「カンムリカイツブリのメスの姿」に見立てなければならない。
このため、上記した「熱烈な求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメス」の解釈は誤っていたことになるが――
「尾張と参河の地宜」を同じ「メスのカンムリカイツブリの姿」となるという解釈も釈然(しゃくぜん)とせず、なんとも合点がいかず――このままの解釈だと中途半端(ちゅうとはんぱ)な状況で終わることになる。

下に、「参河」の【参】の周代に出現した2種の金文形(周代に出現した字形)を示した。
この【参】の2種の金文形は「巫女(みこ)が妊婦の姿に扮(ふん)して、子どもの出産をよろこび祝って踊る姿」を図案するものと考えられる。
この「巫女(みこ)の頭部の三又(みつまた)に分かれる図案」は「三又に分かれる北天の最輝部の形状を女性の生殖器官の一部分に見立ててデザインした簪(かんざし)」を表現しているにちがいない。
というのも、「おなかが円い妊婦」に適応(てきおう)するのは「女性の生殖器官の一部分の形に作られた簪」だからである。
0000219

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて詳細に解説したように、
対馬国から11番目の「伊邪国(いやこく)」と12番目の「都支国(たきこく)」は共に「男王の一大率(いちだいそつ)が住む伊都国(いとこく)国と女王・卑弥呼がすむ邪馬壱国(やまいこく)」を意味した。
下図に示したように、「伊都国」の【伊】の字源は「女性の生殖器の子宮で育つ胎児の胸をアゴにつける屈位(くつい)の姿勢」であった。
ゆえに、対馬国から13番目の「弥奴国(みなこく)・尾張」と14番目の「好古都国(こかたこく)・参河」は、共に上図の【参】の金文形が示す「女性の生殖器官に関する秘密」をあらわしていたと考えられる。
0000215_20240809170001
下図に示すように、「邪馬壱国」の【邪馬】は「出産児が産道入口に入り込んで産道を通過して誕生するまでの、出産児の頭蓋骨にある小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)が重ねあわせて【小斜径(しょうしゃけい)】となることができる仕組み」であった。
「邪馬壱国」の【壱】の字源は「女性の生殖器官の子宮や産道」である。
だから、「弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜」は、共に「女性の生殖器官にておきる秘密」をあらわしていたにちがいない。
000040_20240809170101
◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて解説したように、
下図に示したように、対馬国から21番目の「鬼国(きこく)、旧国志摩(しま)の英虞湾(あごわん)の形」は「鷹(たか)の強い雛(ひな)が同じ巣で育つ弱い雛を餌(えさ)にして食べる弱肉強食の様子」に見立てられた。
0000217_20240809170101

下に「弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜」があらわした秘密「女性の生殖器官の正面形」を配した。
下図における「卵巣(らんそう)」と「卵管采(らんかいさい)と「卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)」が、
「弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜の秘密」であったことになる。
0000120_20240809170201

上図の「卵管采」は「人の指の形」に相似し、「卵管膨大部」は「人の5本指とつながる手の形」に相似する。
ゆえに、「卵管采は、卵巣(らんそう)を愛撫(あいぶ)するがごとくの形」をしている。

人の一生は女性の卵(らん)と男性の精子の合体からはじまる。
卵と精子の合体がおこなわれる場所は、一般的に卵管膨大部であるといわれている。
卵巣からでた卵は卵管膨大部で精子と合体する。これを「受精(じゅせい)」と呼ぶ。
そして、分裂をくりかえしながら、卵管膨大部とつながる卵管(らんかん)の中を子宮のほうへ移動していく。
およそ7日目ごろに、受精は子宮壁(しきゅうへき)に着床(ちゃくしょう)するといわれている。
着床が成功すれば、妊娠(にんしん)が成立したことになる。

女性の生殖器官と出産を研究した黄帝は、「卵巣あるいは卵管膨大部のいずれかの場所における、卵と精子が合体する受精のような仕組み」を想像し、
この「受精のような仕組み」を、黄帝は「左右の卵巣と卵管采・卵管膨大部・卵管と同じく二つ存在する」と推理したにちがいない。
そして、上記した「鬼国の英虞湾の形状」が示したように、
黄帝は「子宮壁に着床する際、強い受精が弱い受精を餌にして食べて死滅させる」と考えたであろう。
だから、黄帝は「人の子は、一般的に一人で誕生する」と考えたことになる。
黄帝は「双子で生まれるのは、着床の際に、受精の仕組みの弱肉強食がおこらないからである」と考え、また「双子以上の多産も、着床の際に、受精の仕組みの弱肉強食がおきないのが原因」と考えたであろう。
卑弥呼も、黄帝の同様な考え方をしたと推測される。

◆下に、「好古都国(こかたこく)」の【好(こう)】の字源銀河と契文形(けいぶんけい・殷代後半の甲骨文字の字形)を示した。
【好】の契文形について、白川静著『字統』は、下記のごとく解説する。
「女は母の形に作り、あるいは子を抱く形につくるものであって、婦人がその子女を愛好することを示す字である。」
ゆえに、下図に示すように【好】の字における【女】の字源は「十字の銀河」、【子】の字源は「鬼の姿に似る銀河」であった。
それゆえ、「十字の銀河の右腕(西側の腕)と子宮から鬼の姿に似る銀河の頭に垂れる2本の帯状の銀河」は「母親の両手が子女の頭を撫()でで愛好する(可愛がる)様子」をあらわす。
0000220

上図の「母親の両手が子女の頭を撫()でで愛好する(可愛がる)様子」は、前ページにて「女性の生殖器官の正面形の図」をもって説明した「卵管膨大部・卵管が卵巣を愛撫(あいぶ)するがごとくの形状」と合致する。

下に、「現在方位にもとづく、上南・下北の弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜」を示した。
結局、前述したように、「現在の愛知県西部、旧国の尾張の地宜」を「熱烈な求愛ダンスをして繁殖(はんしょく)する【弥】・カンムリカイツブリのオスが【奴】・強大な力で水面に垂直状に立つ姿勢」に見立てて、
卑弥呼は「現在の愛知県西部の、旧国の尾張」の小国名を「弥奴国」と定めた。
また、卑弥呼は「旧国の尾張の知多半島(ちたはんとう)の地宜(ちぎ)」を「女性生殖器の卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管(らんかん)と卵巣(らんそう)」のいずれか――その形状からして、多分(たぶん)、「卵管膨大部・卵管」に相当すると解釈したと考えられる。
この解釈にもとづいて、卑弥呼は「知多半島の北部・尾張の陸地」を「卵管膨大部・卵管とつながる子宮」に見立てたことになる。
0000221

卑弥呼は上図の「現在の愛知県東部の、参河の地宜」は前ページに配した「【好】の字源銀河の形状」に適合すると考えて、「参河」の小国名を「好古都国(こかたこく)」と決めた。
また、卑弥呼は「参河の渥美半島(あつみはんとう)の地宜」を、多分、その形状から「女性生殖器官における卵巣(らんそう)」に見立てて、
そして、「渥美半島の北部・参河の陸地」を「卵巣とつながる子宮」と解した。

以上のような考えならば、「弥奴国・尾張と好古都国・参河」は共に「女性の生殖器での受精の出来事(秘密)」をあらわすことになる。
ゆえに、「弥奴国・尾張と好古都国・参河」は共に「【倭】の字源における女性グループ」に組する小国となる。

「好古都国」の「古都」は「中国南部の呉地の杭州市(こうしゅうし)」をあらわしたと考えられる。
杭州市は浙江省(せっこうしょう)の首都、銭塘江(せんとうこう)の北岸に所在し、物産豊かな美しい都市である。
紀元前221年に秦(しん)が杭州市に銭塘県(せんとうけん)を置いて以来、約2200年の歴史が続いた。
杭州市の西側に所在する西湖(さいこ)は四季折々に美しく、杭州のシンボルとも絶賛される存在である。

下図に示すように、【倭】の字源となる「十字の銀河」は「女体(にょたい)」に相似し、
「十字の銀河の腰」には「女性の生殖器器官の子宮に相当する銀河部」がある。
K23_20240809170501

下図に示したように、杭州市のシンボル的存在の「西湖の地宜」は「十字の銀河の子宮の形」に相似する。
0000222
上図の「西湖の地宜の天地(上下)を逆さにした形」は「虞美人草(ぐぶじんそう)の実の形」に相似する。「虞美人草」は「ケシ科の越年草」である。
ゆえに、「虞美人草の実」は「ケシの実の形」に相似するゆえ、結局、「西湖の形」にも相似する。
上記したように、紀元前221年に秦が杭州市に銭塘県を設置した。
この秦の末期(紀元前3世紀)に生存した武将の項羽(こうう)の愛人の名が「虞美人」であり、
虞美人の墓に生えて出したという伝説の「ヒナゲシ」を「虞美人草」と呼んだ。

卑弥呼は、約400年前の項羽と虞美人との恋愛を想像して、
(
)「尾張」の小国名「弥奴国」の由来となった「カンムリカイツブリのオスがメスと交わす熱烈な求愛ダンス」を「項羽が熱愛した虞美人への情熱」に見立て、
(
)「杭州湾の西側に所在する西湖の形」は「虞美人草(ヒナゲシ)の実の形」に相似すると見立て、
(
)「遠江の浜名湖の地宜をヒナゲシの花の形」に相似すると見立てて、
卑弥呼は「遠江」に隣接する「参河」の小国名において、「杭州市」を「古都」とあらわすことにした。

だから、「好古都国」の【古都】は参河に隣接する遠江の浜名湖の地宜と共通する「女性の生殖器官の子宮の形をした西湖(さいこ)が所在する、杭州市」であった。
そして、上記したように「好古都国(こかたこく)」という小国名の【好】の字は「女性の生殖器官の子宮、子宮とつながる卵巣(らんそう)」をあらわした。
つまり、卑弥呼は「渥美半島が【好】の字の卵巣」に、「渥美半島より北部の陸地」は「子宮」に見立てた。
ゆえに、「現在の愛知県東部の、旧国の参河」の小国名を、卑弥呼は「好古都国」と定めたことになる。

◆上記したように、「旧国の参河」の小国名における「古都」は「杭州市」であった。
杭州市は、杭州湾河口の近くの西側に所在する。
「杭州市の東にある杭州湾」は「不呼(ふこ)」をあらわす。
「不呼」は、対馬国から14番目の「好古都国(こかたこく)・参河」の次の隣国である15番目の「現在の静岡県西部、旧国の遠江(とおとうみ)」の小国名をあらわした。

白川静著『字統』(平凡社発行)は、「不呼国(ふここく)」の【不】の字源について「もと象形(しょうけい)で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。
つまり、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて解説したように、
【不】の字源は「花弁が輪状(わじょう)に集まる花冠(かかん)を支える台(うてな・萼拊)と、女性の生殖器官の産道は同じ役割ではない」と否定・打消しをあらわす「ず」であった。
「字書の聖典」とたたえられる『説文解字』は、【呼】の字源を「息を外()くなり」と解説する。

下に、「上東・下西の杭州湾の地宜」を示した。
この「杭州湾の地宜」を卑弥呼は「ヒナゲシの花の形に相似する」と見立て、「銭塘江(せんとうこう)の河口に近い杭州湾の西岸」を「花の台(うてな)の形に相似する」と見立てた。
ゆえに、「杭州湾の西岸」が【不】の字源をあらわすことになった。
「銭塘江の水は杭州湾の西岸へ外()かれて流れこむ」。
ゆえに、「杭州湾の西岸」は『説文解字』の【呼】の字源をあらわすことになった。
だから、「【不】と【呼】の杭州湾」は「不呼」という「静岡県西部の、遠江の小国名」をあらわした。
0000106_20240809170701

◆上記したように、白川静著『字統』は【不】の字源を「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説する。
下の上図「女性の生殖器官の正面形」における「卵管采(らんかんさい)と卵管の役割」は、
下の下図の「花の生殖器官図」における「花粉をめしべにつける、花のおしべと花糸(かし)の役割」に類似する。
また、上図の「子宮の役割」は下図の「子房(しぼう)の役割」に類似すると見立てられた。
しかし、上図の「女性の生殖器官」における「出産児が通過する産道の役割」と、下図の「花の生殖器官図」における「花弁を輪状に集める花冠(かかん)をささえる台となる、萼拊(がくふ)の役割」は類似せず両者はたがいに異なる役割を有する。
K391_20240809170801

この「出産児が通過する産道と花の台(うてな・萼拊)の役割は同じでは非(あら)ず」という否定・打消しをあらわして、「不呼国」の【不】の字源・字義となった。
このため、【不】の契文(けいぶん)と金文の字形は「花の台(うてな)」を表現する図案となった。
ゆえに、白川静著『字統』は、【不】の字源を「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説した。

「遠江」は「都から遠い静岡県西部に所在する浜名湖」を意味した。
下に図示したように、「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の浜名湖」は遠州灘(えんしゅうなだ)とつながっていなかった。
「現在の浜名湖」は遠州灘とつながる汽水湖(きすいこ)である。
下図に示したように解釈すると、「卑弥呼時代と現在の浜名湖の地宜」は「花の形」に類似する。
下図に右下の「浜名湖の支湖の、引佐細江(いなさほそえ)」は「花の萼拊(がくふ)、つまり花の台(うてな)」に相当する。
上記したように、「花の台」は【不】の字源である。
K392_20240809170801

前述したように、上図の「浜名湖の形」を、卑弥呼は「虞美人草・ヒナゲシの花の形に相似する」と見立てた。
上記したように、『説文解字』は「不呼国」の【呼】の字源を「息を外()くなり」と解説する。
下に、【不】の字源「花の台」となる「浜名湖の支湖の、引佐細江(いなさほそえ)」とその周辺の地宜を示した。
下の右側の「大崎半島の付け根から都田川(みやこだがわ)の河口まで」が「人の横顔」に相似するゆえ、「引佐細江」は「人が息を外く口(くち)」のごとくに観える。
ゆえに、【不】の「花の台」となる「引佐細江」は【呼】の字源をも示すことになった。
なお、「都田川の水は土砂を運んで引佐細江に吐()(息を外く)」ゆえ、「都田川の河口と引佐細江」もまた【呼】の字源をあらわした。
下の左側の「村櫛半島(むらくしはんとう)の地宜」は「人の長い横顔」に相似するゆえ、「舘山寺(かんざんじ)東方の内浦(うちうら)」も「息を外くなり」の【呼】の字源をあらわす。
「内浦の北となりの地宜」は「鳥の頭と翼の形」に相似する。ゆえに、【不】の「鳥飛んで上翔(じょうしょう)する。下(くだ)り来()らざるなり」という否定・打消しの「ず」をあらわすことになった。
下図の「浜名湖と支湖・引佐細江(いなさほそえ)」が示す【不】と【呼】の地宜にもとづいて、
卑弥呼は「遠江」を「不呼国」という小国名に定めた。
K393_20240809170901

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて詳細に解説して証明したように、
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話の末部は
「九州の宗像(むなかた)地方の男王の天菩比命(あめのほひのみこと)には七人の副官・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が従っていた」と説明する。
「宗像王の天菩比命」は、『魏志倭人伝』に登場する「外相(外務大臣)の難升米(なしめ)」であった。
「不弥(ふみ)国・宗像地方の王・難升米(天菩比命)は「精密な中国海岸線地図を知っている、精密な地図を作製する長官」であった。
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命の誓約説話」の末部は
「難升米(天菩比命)に従う七人目の副官」は「遠江国造(とおとうみのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらどりのみこと)であった」と記す。

遠江の豪族の建比良鳥命とその一族は「遠江」の小国名は「不呼国(ふここく)」であったことを明確に示す「1千万坪の大鳥の地上絵(地図)」を作製した。
この「1千万坪の大鳥の地上絵(地図)」は、『三国志』魏書東夷伝末部の通称『魏志倭人伝』の成立時代(280年~289)と同時代の260年頃から着手され、約30年後の290年頃に完成した。
『魏志倭人伝』に記述された最終年は「250年頃」と推定されるゆえ、「遠江の1千万坪の大鳥の地上絵の作製」は、『魏志倭人伝』が成立した直後の10年後には早くも着手されていたことになる。

現在まで、卑弥呼の地上絵内(細江町内)の7ヵ所の遺跡から9口の銅鐸(どうたく)が出土している。
この銅鐸を天頂緯度の測定と三角土地測量使用して、ちょうど1千万坪にする卑弥呼の地上絵が作製されたと考えられる。
卑弥呼の地上絵内から出土した9口の近畿式・三遠式(さんえんしき)銅鐸の製作・使用年代は、260年~290年頃と推定されている。
ゆえに、前述したように、卑弥呼の地上絵は260年頃~290年頃に作製されたことになる。

「長官の難升米が居住する不弥国・宗像地方」と「副官の建比良鳥が居住した不呼国・遠江」の【不】の字源は共に「鳥の【弥】・カンムリカイツブリが飛んで上翔し、下り来らざるなり(地上に下りて来ない)」という否定・打消しの「ず」である。
下に、遠江の建比良鳥命とその一族が作製した、
現在の静岡県西部の遠江の一画の浜松市浜名区細江(ほそえ)町の行政区画を表示する地図を配した。
細江町の面積はちょうど1千万坪(33.9km)である。
かつては、1989(平成元年)頃の細江町は「静岡県引佐郡細江町」であり、つぎに細江町は「静岡県浜松市北区細江町」と変わり、現在は「静岡県浜松市浜名区細江町」である。
現在の地図帳には下の地図は消滅しているかもしれないが、
細江町が「引佐郡細江町」あるいは「浜松市北区細江町」であった、つい最近までは、下に示した「1千万坪の細江町の地図」は地図帳に存在していた。
わたくしは、下の「1千万坪の細江町の地図」を「卑弥呼の地上絵」あるいは「建比良鳥の地上絵」と呼ぶことにした。
S845_20240809171101

◆下図における中央の「卑弥呼の地上絵における、都田川(みやこだがわ)流域の沖積平野(ちゅうせきへいや)の地宜」は「子宮で育つ胎児の姿」に相似する。
ゆえに、「都田川流域の沖積平野は、胎児が育つ子宮や胎児が成長して通過する産道にも相似する」。
0000223
上図の「都田川流域の沖積平野」は「「浜名湖の支湖の、引佐細江に上流からの土砂と水を外()く」。
だから、前ページに示した()「【不呼】となる引佐細江周辺の地宜」と、
(
)「都田川流域の沖積平野の地宜」にもとづいて、
卑弥呼は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江」の小国名を「不呼国」と決めたことになる。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」において、
(
)「都田川流域の沖積平野の地宜」については解説しなかった。
というのも、
(
)「【不呼】となる引佐細江周辺の地宜」のあとに、()「都田川流域の沖積平野の地宜」について続いて解説すると、
卑弥呼が「遠江の小国名」を「不呼国」と定めたことが明確となって、
建比良鳥命とその一族が「不呼国」という小国名を明確に示した「1千万坪の卑弥呼の地上絵の作製」について説明する必要が無くなると考えたからである。
「不弥国の難升米(天菩比命)」と「不呼国の建比良鳥命」との「精密な中国海岸線地図を知っている、精密な地図を作製する役職の長官と副官の関係」が明確になるように説明するために、
(
)「【不呼】となる引佐細江周辺の地宜」に続いて、()「都田川流域の沖積平野の地宜」について解説しなかったのである。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・16」にて解説したように、「不呼国」の【呼】の字源は「鳰(にお・カイツブリ)」であった。

この世に生まれた人は1時間も水中に潜(もぐ)ったままだと窒息(ちっそく)して確実に死ぬ。
女性の生殖器官と出産を研究した黄帝は、長い月日、羊水の中で生活する胎児がなぜ窒息(ちっそく)して死なないのか? この秘密が解明できなかった。
それゆえ、倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(カイツブリ)」で、「水中(羊水)生活者の胎児」に喩(たと)えることを思いついた。
(にお)の全長は25㎝~29㎝である。
12週~第20週の胎児の体長は20㎝~30㎝くらいである。
鳰は湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜り、陸上で生活することはほとんどない。
鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さい体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。
だから、倉頡(そうきつ)は「鳰」で「長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外()きつづけて羊水を吸いこまずに窒息死しない胎児」に喩(たと)えることにした。

倉頡は【乎()】の字を作って()「羊水の中に潜って息を外()きつづける小さな胎児」と、()「鳰(にお)」の両者をあらわすことにした。
しかし、後世、【乎】は字源を失って「よぶ」と意味する文字としてもっぱら用いられるようになった。
このため、偏【口】に【乎】を加える【呼】の字が「長いあいだ羊水の中に潜っても、窒息死しない小さな胎児」と「鳰」をあらわすことになった。

下に、前ページにて取り上げた「【不呼】をあらわした上東・下西にした杭州湾の地宜」を、
「上南・下北に改めた杭州湾の地宜」を配した。
下図が示すように、「杭州湾の地宜」は「鳰の姿」に相似して、【呼】の字源をあらわす。
S131_20240809171201

下図における「卑弥呼の地上絵の〔翼〕と記した境界線」は【不】の字源「鳥・(【弥】のカンムリカイツブリ)が飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来らざるなり」と否定・打消しの「ず」の形状をあらわす。
また、下図における左下の「引佐町(浜名区)の金指(かなさし)地区と井伊谷(いいのや)地区の地宜」は【呼】の字源「鳰の横顔と浮巣(うきす)の形」に設計されている。
だから、「1千万坪の卑弥呼の地上絵」は【不】と【呼】の字源を明確に示すゆえ、「遠江は不呼国であった」と確信できる。
K402
下に示したように、卑弥呼の地上絵の北に隣接する「浜松市浜名区引佐町の金指地区と井伊谷地区の地宜」は【呼】の字源「鳰の横顔と浮巣の形」となる。
K401_20240809171401

◆下に、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点のA地点と、滝峯不動尊(たきみねふどうそん)と八幡宮の3地点を結ぶ大三角形」を表示した。
この「大三角形」の基(もと)に三角形の網や鎖(くさり)を形作って、その頂に三角点を埋設し、1千万坪の卑弥呼の地上絵が作製された。
当時は現在のように、短期間で精密に地宜を作成できる光波測距儀(こうはそくきょぎ)による三角測量が行うことができなかった。
ゆえに、地図作製係の副官・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)とその一族は260年頃から着手して、およそ30年もの長い年月を費やして290年頃に、卑弥呼の地上絵を完成させたことになる。
K394

上図の「大三角形を表示する卑弥呼の地上絵」は、
紀元前2050年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)に男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、中国にて200年~250年間、
「虞()」の重職に従事していた益氏の王子一行がもたらした「精密な中国海岸線地図と、精密な地図作製方法」をあらわしている。
前ページで説明したように、また下図に示すように、「その額(ひたい)に北天の最輝部がある、人の横顔に酷似する銀河」を
「はくちょう座のε・γ・δ・βの4つの星が三角形状に包囲する」。
0000199_20240809171501

上図における北天の最輝部を三角形状に包囲する4つの星のうちの「はくちょう座のγ星」をのぞく、
「はくちょう座のε・δ・βの3つの星は三角形を形成する」。
この「三角形」を注目して、黄帝王朝は「精密な地図作製方法」を考案したと考えられる。
前述したように、「三角形に包囲される、北天の最輝部」は【不」と【弥】の字源となった。
上図の「卑弥呼の地上絵における大鳥の頭部(横顔)」は「不弥国(ふみこく)の津屋崎町の海岸線の形」に設計されている。
だから、上図の「卑弥呼の地上絵における大三角形」は益氏(えきし)がもたらした「精密な中国海岸線地図と、精密な地図作製方法」をあらわしていることになる。

◆下に、「夏の銀河における〔鳥〕の形の解説図」を配した。
「鬼の姿に似る銀河」は「生子(せいし・出産児)」に見立てられ、「北アメリカ星雲」は「象の横顔と鼻の形」に相似すると見立てられた。
0000185_20240809171601

下に、「北アメリカ星雲」を「象の横顔と鼻の形に相似する」と見立てて成立した【為】の字源解説図を示した。
下図の右下の【為】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)は「象の顔・鼻・胴体」を図案する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・18」における「投馬国(とうまこく)」の解説では、「北アメリカ星雲」は「ジャコウウシの横顔」に見立てられた。
「象」と「ジャコウウシ」のどちらも「強大な力の持ち主」で共通する。
K555

下図に示したように、「卑弥呼の地上絵」は「大鳥・生子(出産児)・象の横顔と鼻の三要素」から構成されている。
下図に示したように、卑弥呼の地上絵は「象が引佐細江から吸い込んだ水をはきだす強大な力」で「【弥】のカンムリカイツブリの頭が〔南〕から〔東〕へ移動する(転回する)仕掛け」になっている。
K403_20240809171701

下に示したように、〔南(西南)〕にある【弥】の「カンムリカイツブリ」の頭を〔東〕へ移動する卑弥呼の地上絵」は、下の左図が示すように「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図」をあらわす。
ゆえに、下図が明確に示しているように、卑弥呼の地上絵を作成した遠江の豪族の建比良鳥命は、精密な中国海岸線地図を知っている不弥国・宗像地方の王の難升米(なしめ・天菩比命)に従う、
七人の副官・建比良鳥命のうちの一人であったことになる。
0000204_20240809171801

なぜ、上図に示した【弥】の「〔南(西南)〕あるカンムリカイツブリの頭を〔東〕へ移動する仕掛け」が必要となったかと言えば――
「卑弥呼の地上絵」は国家と王朝が独占管理して最も厳重な機密とした【倉頡の文字作成理論】を表示するものであったからである。
多くの人々が「卑弥呼の地上絵」は最も重大な王朝お国家機密の【倉頡の文字作成理論を暴露(ばくろ)する大罪(たいざい)】を犯(おか)していることが容易に気づくような形に設計すると、たちまち噂(うわさ)になって大騒ぎになって時の天照大御神・大和王朝に報告されて、
建比良鳥命とその家族および一族全員、即刻(そっこく)死刑となる。
当時、強大な権力と武力を誇示(こじ)して人民を弾圧(だんあつ)する天照大御神・大和王朝が反逆分子たちを敵視・抹殺(まっさつ)して国家統一を目指していた。

この天照大御神・大和王朝の強行政策を憎悪した遠江の建比良鳥命と一族は、
子々孫々・後世まで大和王朝の人民を弾圧した横暴な歴史を語り受け継ぐために卑弥呼の地上絵の作成を決意した。
そして、卑弥呼の地上絵の作成途中の280年~290年ころになると――
人民を愛(いつく)しむ政治をおこなっていた邪馬壱国・出雲王権の大国主命(おおくにぬしのみこと)を敵視して、
天照大御神・大和王朝は武力で出雲王権を討伐し滅亡しようとしていた。
このように、当時は、反逆する勢力を武力で徹底的に滅亡させる天照大御神・大和王朝が天下を治めていたため、
卑弥呼の地上絵は一目(ひとめ)で【倉頡の文字作成理論】をあらわす地図であると察知できないように――工夫(くふう)を加えて得体(えたい)の知れない形にする必要があったのである。

| | コメント (0)

2024年7月14日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・20

邪馬台国説は空論、卑弥呼は邪馬壱国に居住していた()

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回から前回(19)まで、逐一(ちくいち)、詳細に具体的に組織的に解説し証明してきたように、
学者たちは「『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には幾つかの誤った記事がある」と指摘するが、
『魏志倭人伝』には1ヵ所の誤記が存在せず――
また、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明する文献史料ではなく、
『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明する古文献であった。
ゆえに、江戸時代中期の新井白石(16571725)以来300年間続く学界の「『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国について記述する文献史料であった」という定説は空理空論であった。

だから、現在の「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」という定説もまた空理空論、すべて学者たちの臆説(おくせつ)であったことになる。

◆上記したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」であったゆえ略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20240714151401

◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰う。一大国に至る」と説明する。
したがって、対馬国は「北」、一大国は「南」となる。
ゆえに、対馬国と一大国における南北は現在の方位規定と同じである。
しかし、注目すべきことに【『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国へ至る方角」を記していない】。

というのも、対馬国が北、一大国が南の方位規定に対して――『魏志倭人伝』は【倭】の字源「現在の方位規定を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、【末盧国以下、日本列島の本州の東は南に延びる】と説明しているからである。
つまり、下に示した日本列島地図のごとく、『魏志倭人伝』は【末盧国より以下の本州は東ではなく、南に延びる】と説明する。
上記したように、下の【転回日本列島地図】は卑弥呼が立論し――そして卑弥呼王朝が制定した【対馬国(現在の長崎県北部の対馬)・一大国(現在の長崎県北部の壱岐)と、そして東が南に延びる本州地図】である。
この「卑弥呼が立論した転回日本列島地図」については、わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて詳細に解説した。
0000182_20240714151501
◆学者たちは、『魏志倭人伝』という史料について――『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から研究すべきであり、単純に日本の文献史料として読んではならない。というのも、『魏志倭人伝』には幾つかの誤った事柄が記述されているからである。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用することはできない。なぜその記事は疑わしいのか、どのような点が信用できないのかなどと考慮して、『魏志倭人伝』を読解しなければならない――と、前もって立論・思考条件を定める。

しかし、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の序~前回(19)までに証明したように、
『魏志倭人伝』の記事は1ヵ所も誤りがなく、【倉頡が発明したの文字作成理論】について詳細に具体的に組織的に説明している。

『魏志倭人伝』における伊都(いと)国を説明する記事は――
卑弥呼が統治していた2世紀末~3世紀半ばにおいて、倭人国には紀元前2000年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき・わが国の後期縄文時代初頭)に習得した夏音(かおん)文字が存在し、
卑弥呼はじめ諸国の王や大夫(だいふ)たちは夏音文字を使用していた。
中国の魏の都はじめ、魏の出張政庁が所在する朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)、諸韓国では字形が秦(しん)の隷書(れいしょ)に近い古式の楷書(かいしょ)を用いていた。

このため、倭人国の多数の字源・原義を保存する夏音文字と幾つかの字源・原義を失った魏都・帯方郡・諸韓国の楷書においては、字義が差錯(ささく・相違)するものがあった。
ゆえに、伊都国の港では魏・帯方郡・諸韓国と倭人国との外交に用いた伝送の文書や、賜遺(しい)の物の品書きに用いた文字を誤読(差錯・相違)しないように、
夏音文字と楷書の字源・原義を示す【夏の銀河各部の形状】を観察して点検・確認して正しく翻訳(ほんやく)していた。

この伊都国の港で正確に楷書に直した倭人国の外交に用いた文書(国書)が、卑弥呼の死後から約40年後の3世紀後半(280年代)の晋(しん)王朝に秘蔵されていた。
晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)には、その役職柄(やくしょくがら)、晋王朝に秘蔵された倭国の国書を閲覧(えつらん)できた。
ゆえに、陳寿は倭の国書の文字(楷書)を1字も誤写しないように記して史料にし、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょうとういでん)末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』を著作したことになる。

『魏志倭人伝』における大多数の記事は中国人の陳寿が絶対に知ることができない事柄を説明している。
たとえば、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が9回~前回(19)までに詳細に解説し証明したように、
「対馬国・一大国・末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国・投馬(とうま)国・邪馬壱(やまい)国という8ヵ国の名称用いられる文字の字源・原義」は、すべて【倉頡の文字作成理論】をあらわすものであり、
また「8ヵ国の名称に用いられる文字の字源・原義は各小国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」とすべて理にかなっていた。

また、今後、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、『魏志倭人伝』の全33ヵ国の小国名が【倉頡の文字作成理論】をあらわすものであり、また「33の各小国の名称に用いられる文字の字源・原義と地宜」はすべて適合して理にかなっていることを証明する。
また、「皆、倭種なり」と説明する「隠岐群島」にはなぜ「小国名」が記されていないのか――この点についても『魏志倭人伝』の史料は卑弥呼が作った外交文書であったと考えれば、その理由が解明できる。
さらに、『魏志倭人伝』が記述される「夏代黎明期、名門益氏によって夏音文字がもたらされ、倭地の各地の氏族たちに習得された事情」も、『魏志倭人伝』をわが国における歴史史料としてとらえれば明白となる。
ゆえに、倭地に住んだことがない中国人の陳寿が
(
)「倭人国における、33ヵ国の各小国に用いられる文字の字源・原義と33か国の地宜」を詳しく知っているはずもなく、
(
)「小国名が不明の隠岐群島の事情」を知っていたはずもなく、
(
)「益氏によって倭地にもたれされた夏音文字が様々な氏族に習得された事情」を、
すべて知っていたなんてことはあり得ない。

上記したように、『魏志倭人伝』の大多数の記事は中国の陳寿が知ることができない事柄で占められている。
だから、『魏志倭人伝』はわが国の歴史史料であったことになり、わが国における歴史的立場から研究しなければ事実・真実が解明することができない古文献であったことになる。

以上のごとく、『魏志倭人伝』は学者たちが考えたごとく、中国人によって作られた歴史史料ではなかった。
卑弥呼が夏音文字で書いた文書を倭人国の伊都国の港において魏が用いる楷書に書き改められた外交文書が『魏志倭人伝』の史料となった。
だから、邪馬台国説学者たちの立論・思考条件は根本的に誤っており、
言いかえると、邪馬台国説の立論・思考条件は空想であったことになる。
邪馬台国説は空想を思考基盤とする意見であったゆえ、邪馬台国説は空理空論であった。
その証拠に、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」について説明する記事が1ヵ所も存在しない。

◆というのも、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が都とした所の名」を、下記のごとく「邪馬壹()国」と記し、「邪馬臺()国」と記していないからである。
0000169_20240714151701

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・19」にて、詳細に具体的に解説して証明したように、
下図に示したように、「邪馬壱」の【邪馬】という語は【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづくと「島根半島北部の神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」があらわした。
というのも、「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)め」であり、
【馬】の字源は「フタコブラクダ」であり、
「神門水海」は「産後まもなくして【馬】・フタコブラクダの子が両足で立つ姿」に相似するゆえ、【邪馬】となったからである。
000037_20240714151701
上図における【邪馬】「神門水海の周辺」は「地面がやわらかい湿地地域」であるゆえ、「縫合が完成していない出産児のやわらかい頭蓋骨」に見立てられた。
ゆえに、「子宮口がすっかり開き、骨盤入口に入り込んで産道を通過する出産児のやわらかい頭蓋骨」に見立てられた「神門水海」の【邪馬】は、【壱】の字源「子宮、骨盤入口、産道」と密接に関連する。だから、【邪馬】という語と【壱】の字源は結合して、【邪馬壱国】という卑弥呼が居住した王国名となった。

【邪馬壱】の【壱】の字源は「島根県の松江市の地宜」があらわした。
というのも、上図における「島根県の松江市北部(現在方位、転回方位では東部となる)は、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と同緯度(北緯3535)であるからである。
黄帝は【女性の生殖器官(子宮、骨盤入口、産道)と出産】を研究した。
黄帝が研究した【女性の生殖器と出産】は【壱】の字源となった。
ゆえに、「黄帝陵」と同緯度の「松江市」は【壱】の字源を示すことになった。
〔上図は、新人物往来社『歴史読本』第52巻第4号の109ページ「出雲大社の創建の背景」の執筆者・松尾充昌(まつおみつあき)(鳥取埋蔵文化センター)が作製した地図を、わたくしがトレース複写して転回方位のもとづくようにした図である〕。

◆『魏志倭人伝』における【邪馬壱】という語について、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・13」にて詳細に説明した。
女王国名に用いられる「邪馬壱」のうちの【邪馬】は、今日における産婦人科の医学用語【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ねあわせることができる仕組み】をあらわす語であった。
「邪馬壱」の【壱】の字源は「出産児が通過する産道」であった。

医学が未発達の黄帝時代(わが国の中期縄文時代初頭)や卑弥呼が生存した時代(2世紀末~3世紀半ば)では、
【出産児が骨盤入口を通りぬけて産道を通過できない事故】が多発した。

【邪馬】という語は【出産児が骨盤入口を通りぬけることができる仕組み】をあらわすものであり、今日における医学用語の【小斜径(しょうしゃけい)】と同義語であった。
【小斜径】は「骨盤入口を通りぬけるときの斜(なな)めになって小さくなる出産児の頭の直径」を意味する。
つまり、【小斜径】は「小泉門・矢状縫合・大泉門からなる出産児の頭蓋骨が邪(なな)めになって通りぬけるときの小さい直径」を意味した。
下図は、【小斜径】と同義語の【邪馬】の解説図である。
000040_20240714151901

上図に示したように、出産児の頭蓋骨は「左右の前頭骨(ぜんとうこつ)、左右の頭頂骨(とうちょうこつ)、後頭骨(こうとうこつ)の5枚の骨」で構成される。
後頭骨と頭頂骨の間には「小泉門」と名づけられた膜(まく)があり、頭頂骨を左右に二分する中央の膜は「矢状縫合」とよばれ、矢状縫合の両端は「小泉門」と「大泉門」と連結する。
出産児の頭蓋骨の5枚の骨と骨との間にある、小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜によって、出産児の頭蓋骨の5枚の骨は【小斜径】となるように重ねあわせることができる。
ゆえに、上図の左側に配したように、【邪馬】という語は【小斜径となって重ねあわせることができる小泉門・矢状縫合・大泉門】を意味した。

餌の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りは邪(なな)めに重ねあわさって、
その形は「骨盤入口を【小斜径】でぬり抜ける出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図に示す「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の形状」は【邪馬】と呼ばれることになった。
000043_20240714152001

上記したように、「子宮口がすっかり開くと、【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門から成る出産児の頭蓋骨が骨盤入口に入りこんで産道を通過して膣口(ちつこう)から出産児の頭が誕生した」。
ゆえに、「子宮、骨盤入口、産道」は【壱】の字源となった。
また、【邪馬】の【馬】の字源の「フタコブラクダ」も【壱】の字源をあらわすことになり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。

◆下に、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて詳細に解説した「一大国、現在の長崎県北部の壱岐(いき)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を示した。
下に図示したように、「一大国・壱岐の西部の地宜は【馬】の字源のフタコブラクダの姿」に相似し、「一大国・壱岐の東部の地宜は【牛】の字源のジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
000019_20240714152101

上記したように、【馬】の字源の「フタコブラクダ」は【壱】の字源となった。
というのも、「骨盤入口を通りぬけることができる出産児の頭蓋骨の【小斜径】の仕組み」は【邪馬】と呼称したゆえ、
【邪馬】の【馬】「フタコブラクダ」は【一】の字源をあらわすと、倉頡が定めたからである。
【一】は後世に【壹()】となったゆえ、【馬】「フタコブラクダ」は【壹()】の字源をあらわすことになった。

【牛】の字源の「ジャコウウシ」は「天敵のオオカミに襲撃されると、ジャコウウシの群れは円陣を作り、子を円陣の中心に隠して防御(ぼうぎょ)した」。
この「ジャコウウシの群れの円陣」は「女性の骨盤」に見立てられ、「円陣で包囲されるジャコウウシの子たち」は「女性の骨盤で包囲される子宮、産道」に見立てられてたため、「ジャコウウシ」もまた【壱】の字源「子宮、骨盤入口、産道」をあらわすことになり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。
だから、後世、「一大国」は「【壱】の字源の【牛】・ジャコウウシと【馬】・フタコブラクダの地宜が東西に分かれる岐(わかれみち)がある」ということで、「壱岐」と呼ばれることになった。

下に、前ページにて【邪馬】と解した島根半島西部(現在方位)に所在した卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の「神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」を配した。
「神門水海」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めとなる、産後まもなく両足で立つ【馬】・フタコブラクダの子の姿」に相似すると見立てられて、【邪馬】をあらわすことになった。
000035_20240714152101

上記したように、「神門水海の地宜」に相似すると見立てられた【馬】・フタコブラクダの子」は【壹()】の字源をあらわすが、【臺()】の字源をあらわさない。
というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
【不】の字源について「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説するからである。
「花の萼拊」は、つまり「花の花弁の集合体の花冠(かかん)をささえる台(うてな)」である。

上記した白川静著『字統』の【不】の字源解説は――【臺()】の字源「花の生殖器官における台(うてな)」と【壹()】の字源「女性の生殖器官における産道の機能・役割」は同じでは非(あら)ず――と、否定・打消しの「ず」をあらわす。
だから、「神門水海」は【壹()】の字源「【馬】・フタコブラクダの子」をあらわし、【馬】の字源「フタコブラクダ」は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の【邪馬】(小泉門・矢状縫合・大泉門)」をあらわした。
ゆえに、「松江市の地宜」は、【馬】「フタコブラクダ」と密接に関連する【壹()】の字源「女性の生殖器官の子宮・産道」をあらわすことになった。
要するに、【馬】の字源「フタコブラクダ」は【壹()】の字源をあらわす【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣であった。

上記したように、「神門水海」の「【邪馬】のフタコブラクダの子」と【臺()】の「花の台(うてな)」は、白川静著『字統』の【不】の字源解説が示しているように――
【邪馬のフタコブラクダ】と【花の台(うてな)】の両者は相似せず、また両者には関連性が無い。
ゆえに、【邪馬】と【臺()】が結びつく【邪馬臺()】という国名は、本来(ほんらい)、不条理であるゆえ成立してはならない空想の産物であったことになる。
しかし、新井白石以来現在まで約300年間、学界において【邪馬】に【臺()】が加わる、理にまったくかなわない【邪馬臺()】という名称が空想上にて存在することになった。
このように、邪馬台国説は不条理きわまりない空理空論であった。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて詳細に解説したように、
倉頡は「出産児」を【弥】の字源「カンムリカイツブリ」に見立てた。
胎児(たいじ)は母体の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。
出産後の人は1時間も水中に潜(もぐ)ったままでいれば確実に死ぬ。
にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごすが、なぜ胎児は窒息死(ちっそくし)しないのか?
この秘密を、女性の生殖器と出産を研究した黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この未解明の秘密を【文字作成理論】に取り入れることにした倉頡(そうきつ)は、「出産児」を「人間よりも長いあいだ水中に潜(もぐ)ることができるカンムリカイツブリ」で喩(たと)えることにした。

【弥】の字源「カンムリカイツブリ」はカイツブリ目カンムリカイツブリ属最大の水鳥で、全長46㎝~61㎝である。
「カンムリカイツブリの大きさ」は「出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝くらいの大きさに育つ出産児と同じくらいである。
ゆえに、倉頡は「骨盤入口に入りこんで産道を4回も回旋(かいせん)しながら通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生するまでの出産児」を、【弥】の「カンムリカイツブリ」に喩えることにした。


◆下に、「山東半島の地宜が【弥】の字源・カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの形に相似すると見立てられたとあらわす図」を配した。
山東半島の北端の地名は、【石島(中国では「シータオ」と音する)】である。
山東半島における【弥】「カンムリカイツブリ」の首(山東半島の南の付け根)となる地名は、【日照(中国では「リーチャオ」と音する)】である。
「石島と日照を結ぶ」と「夏至の日の朝、日が出ずる方角」をあらわす。
ゆえに、「山東半島の石島と日照までの海岸線」では「夏至の日の朝、地平線(水平線)より上空に昇る太陽が真っ赤に輝く光景」が目撃できた。
0000184_20240714152201


これゆえ、上図に示したように、「石島」は「朝日」をあらわす地となり、「日照」は「夕日」をあらわす地となった。
上図に示したように、【弥】「カンムリカイツブリの首」となる「日照」は「黄帝陵と同緯度(北緯3535)」である。
ゆえに、前述したように【壱】の字源「女性の生殖器官と出産を研究した黄帝を祀る廟(びょう)と墓の黄帝陵」は【壱】の字源をあらわしたため、
上図に示したように、「黄帝陵と同緯度の日照」は【壱】の字源をあらわすことになった。

また、「日照」は「【邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)】の出産児の頭が入りこむ骨盤入口」に見立てられ、「石島」は「出産児の頭が誕生する膣口(ちつこう)」に見立てられた。
ゆえに、「山東半島」は【壱】の字源「産道」に見立てられ、
そして、「日照」は【壱】の字源の「骨盤入口」に見立てられることになった。

◆『魏志倭人伝』の末部に「因臺詣」、つまり「因()りて臺()に詣(いた)る」という記事がある。
この「臺()」は「魏都の洛陽(らくよう)」を意味した。
かつて五帝時代――下図における「洛陽の東北にある渤海(ぼっかい)」は「夏至の日、日が没する夕方に咲く、朝顔の花の形」に相似すると見立てられた。
そして、「夏至の日、日が没する夕方に咲く朝顔の花」に見立てられた「渤海」を「黄河口(こうがこう・黄河の河口)」を中心軸にして洛陽が所在する南へ転回して、
「洛陽は、夏至の日、日出ずる朝の美しく咲き誇る朝顔の花の、その台(うてな・萼拊)の位置に合致する」と解釈されることになった。
だから、『魏志倭人伝』を著作した晋の著作郎(歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)は「魏都の洛陽」を「因りて臺()に詣る」と記した。
0000175_20240714152301
では、なにゆえ、「洛陽」は「朝顔の台(うてな)」に見立てられたかというと――
いわゆる「銀河ブルー」と名づけられた「美しく艶(つや)やかに吸い込まれるような青紫(あおむらさき)、つまり朝顔の花の色の銀河(暗黒天体部)」が、洛陽の夜空に輝いたからである。
五帝時代の大都会の洛陽の夜間は灯下でほのかに明るかったゆえ、新月の夜には暗い黒色に見える銀河部は毎夜、朝顔の花の色、つまり「吸い込まれるように魅力的な美しい銀河ブルー」となって輝いた。
だから、「洛陽」は「銀河ブルーの美しい青紫(あおむらさき)の朝顔の花の、台(うてな)に相当する聖なる位置に在る」と定められて、【臺()】の字源となった。

◆前述したように、白川静著『字統』は【不】の字源について「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説する。
下に配した上図の「女性の生殖器官の正面形」における「卵管采(らんかいさい)と卵管の役割」は
下の下図の「花の生殖器官図」における「花粉をめしべにつける、おしべと花糸(かし)の役割」に類似する。
また、上図の「子宮の役割」は下図の「子房(しぼう)の役割」に類似すると見立てられた。
しかし、上図の「女性の生殖器官」における「出産児が通過する産道の役割」と
下図の「花の生殖器官」における「花弁をひとまとめにする花冠(かかん)をささえる台(うてな・萼拊)の役割」は類似せずに別々の役割となる。
だから、白川静著『字統』の【不】の「もと花の萼拊である」という字源解説は、「女性の産道と花の台の役割は同じで非(あら)ず」と否定・打消しの「ず」をあらわしていたことになる。

以上のごとく、【邪馬】つまり「子宮口がすっかり開いて、小斜径となって骨盤入口に入りこむ出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」が――【臺()】の字源「花の台(うてな)」と結びつくのは理にかなわず不条理であるゆえ、【邪馬臺()】という名称は成立してはならない空虚(くうきょ)な産物であった。
いっぽう、「産道する出産児の頭蓋骨の【邪馬】」と「産道の【壹()】」は密接に関連する。
だから、【邪馬】と【壹()】が結びつく【邪馬壹()】という名称は合理・正しいゆえ成立することになった。
このように、【邪馬臺()国】という名称は錯誤(さくご)・空想の産物であった。
だから、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国名は【邪馬壹()国】であったことになる。


前述したように、【邪馬】という語は「【馬】のフタコブラクダが草を食べるときの、鼻・ミゾ・アゴ・口の仕切りがたがいに邪(なな)めに食い込むように見える表情」を意味した。
というのも、「出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜は重なり合って小さくなって(小斜径となって)、骨盤入口に邪(なな)めに入りこむことができるからである」。
したがって、この「出産児の頭蓋骨の仕組み」をも、【邪馬】と名づけられた。

下の上図は、「転回方位の邪馬国」、つまり「現在の大和・奈良県のは地宜(白地図の形)」である。
下の上下の2図が示すように、「大和・奈良県の地宜」は「草を食べて、ふくらむ頬(ほほ)が邪(なな)めになる横顔」に相似する。
ゆえに、「草を食べて動くアゴが重なりあってふくらむ、【邪馬】のフタコブラクダの横顔に相似する奈良県・大和の地宜」にもとづいて――卑弥呼は「奈良県・大和」を「邪馬国」という小国名にした。
000042_20240714152401
『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記す。
新井白石が最初に「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と誤読した――この誤読の伝統を今日まで多数の学者たちは改めなかったので、空想上にて300年間も存在することになった。
白川静著『字統』の【不】の「もと花の萼拊の形である」という解説が示すように、
【邪馬】と【臺()】が結ばれて【邪馬臺()】という女王国名は、元来(がんらい)、成立して存在してはならない空虚な名称であったのである。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。
『魏志倭人伝』が記していたとおり、「邪馬壱国」が正しかったのである。

『隋書(ずいしょ)』倭国伝は「邪靡堆(やまたい)、すなわち『魏志』の所謂(いわゆる)邪馬臺国というものである」と注を加えるが、
正しくは「邪馬惟(やまい)、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬壹国というものなり」と注を加えなければならなかった。

『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「邪馬臺国」に「今の名を案ずるに、邪摩惟(やまい)の音之訛(なま)り也」と注を加える。
しかし、「邪馬壹国」に「今の名を案ずるに、邪摩惟(やまい)という音なり」と注を加えるのが正しかったことになる。

◆『魏志倭人伝』は「末盧国以下の倭人国における全地図の方位」を【倭】の字源「現在の方位名を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)れば、
『魏志倭人伝』のすべての記事は正確であったと証明される。
したがって、邪馬台国説学者はじめとする学者たちが「『魏志倭人伝』には幾つかの誤った事柄が記述されている。ゆえに、『魏志倭人伝』の全記事を信用してはならない」と主張する意見は誤っていたことになる。

『魏志倭人伝』に記される「東治(とうじ)」は「東冶(とうや)」が正しいのか誤っているのか知らないが、
もしも「東冶」が正しかったならば、「東治」の「治」は誤字となる。
この他に、『魏志倭人伝』には「掖邪狗」を「掖邪拘」と記す箇所が1ヵ所存在するゆえ、「掖邪拘」の「拘」は誤字となる。
ゆえに、『魏志倭人伝』には2~3か所の誤字があるかもしれないが、誤った記事は1ヵ所も存在しない。

また前述したように、『魏志倭人伝』の史料は晋王朝に秘蔵されていた「倭人国が魏国と対等外交を結ぶために、わが国には【倉頡の文字作成理論の学芸】が存在することを魏に伝えた国書(文書)」であった。
したがって、学者たちが『魏志倭人伝』について――『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から研究すべきであり、単純に日本の文献史料として読んではならない―と、前もって定めた立論・思考条件は誤っていたことになる。

上記したように、()【倭】の字源に則って読解すれば、『魏志倭人伝』には誤った記事が1ヵ所も存在しないことになる。
また、()『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明した文献史料ではなく、【倉頡の文字作成理論】について詳細に具体的に説明した古文献であった。
このような事実は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の序から前回(19)までにおいて、『魏志倭人伝』の全小国名の秘密を未だ解明していないが、すでに詳細に具体的に解明して証明したことになる。
というのも、学者たちが「誤っている」と指摘した記事は「末盧国から邪馬壱国までの方位記事」であったからである。
前回までの、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、すでに「末盧国から邪馬壱国までの方位記事」はすべて正確であった事実を証明した。

| | コメント (0)

2024年6月23日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・16

不弥国は朝日のただ刺す国、夕日の日照る国であった・1

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していた古文献が、卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』であった。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話」と断定する。
しかし、この定説は学者たちの早呑(はやの)み込みによる臆説(おくせつ)であった。
というのも、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と証明されるからである。
『魏志倭人伝』は3世紀後半(280289)に成立した。

倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】は「夏の星座が漬()かる銀河。夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)から提供された。
Ginga_kara1_20240623070201

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、「夏の始祖」とよばれる帝禹()の後を継ぐ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが、帝禹の遺志・氏族共同政治体制を新天地にて継続(けいぞく)するため、中国から大海を越えて日本列島に定住することになり、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めて、帝禹の遺志・氏族共同空政治体制をわが国に植えつけたと示唆(しさ)する記事がある。

この益氏が定住した地は、日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)であった。
夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などで記されて残っている。
また、夏音文字は720年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
このように、『魏志倭人伝』の「夏代黎明期に夏音文字が習得された」と示唆(しさ)する記事は事実を伝えていた。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

【中国とわが国における最古の漢字音】は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っている、紀元前2050年頃の夏代黎明期の夏音文字の字音である。
また、【中国における最古の漢字の字形】として、殷代(いんだい)後半期の紀元前1300年頃の契文(けいぶん・亀の甲羅などに文字を刻んだ甲骨文字)が出土している。
この甲骨文字(契文)の字音は現在に残っていない。
中国における最古の字音として残るのは、紀元前1046年頃の周代初頭の「上古音」である。

◆このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回から『魏志倭人伝』に記述された「対馬国・瀚海・一大国の秘密【倉頡の文字作成理論】」について解明した後に、
そして、『魏志倭人伝』が説明する「末盧(まつろ)国、伊都(いと)国、そして前回(15)にて奴()国の秘密【倉頡の文字作成理論】」について詳細に解明した。
このブログでは、対馬国から数えて6番目となる小国「不弥(ふみ)国における【倉頡の文字作成理論】の秘密」を解明する。

この「漢字の起源と発明を解明す」のブログでいままで解説してきたとおり、『魏志倭人伝』は下図のごとく「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)は北、一大国(現在の長崎県北部の壱岐)は南、対馬国と一大国の中間の海の名は瀚海(かんかい)」と記述して、【倉頡の文字作成理論の基本】を説明していた。
000012_20240623070301

『魏志倭人伝』は「対馬国は北、一大国は南」と説明するのに対して、『魏志倭人伝』は「末盧国、伊都国、奴国のおける北は東・南は西となる」と指摘する。
この「末盧国から奴国までの方位名」は、「倭人国」の【倭】の字源「時計回りに90度回転する方位規定」に則(のっと)っていた。
ゆえに「一大国から末盧国の方位」は「[][]とする方位規定と、[][]とする方位規定が衝突(しょうとつ)し、互いに対立するゆえ合理的に説明することができない」。
これゆえ、『魏志倭人伝』は「一大国から、一海を渡る千余里、末盧国に至る」と説明して、「方位名」を明記していない。
以上のごとく、「末盧以下狗奴国までの28の小国における方位」は「倭人国」の【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)っている。
したがって、下図のごとく、『魏志倭人伝』は「末盧国、伊都国、奴国、不弥国」の旅程基点の方位」を指摘していたことになる。
K241_20240623070401

『魏志倭人伝』は「奴国から、東行不弥国に至るには百里」と記す。
前回の「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説し証明したように、奴国の旅程基点は福岡県福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)であった。
上図の【倭】の字源に則る「東行不弥国に至るには百里」に合致する旅程基点は福岡県の宗像市(むなかたし)の宗像大社の辺津宮(へつみや)となる。

現在方位だと香椎宮から[]に宗像大社の辺津宮が所在するゆえ、『魏志倭人伝』の説明は矛盾する。
しかし、『魏志倭人伝』は【倭】の字源にもとづいて「奴国の香椎宮から不弥国の宗像大社の辺津宮は[]に在る」と指摘していた。
ゆえに、『魏志倭人伝』の「奴国から、東行不弥国に至るには百里」という記事は正しい。

前回までのブログで繰り返して解説したように、【倭】の字源は、倉頡が作った【禾()】の字源をそのまま受け継ぐ「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
ゆえに、「香椎宮から宗像大社の辺津宮の方位」は「【倉頡の文字作成理論】による産物」ということになる。

◆下の図は、現在方位にもとづく宗像地方の「不弥(ふみ)」の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)の解説図】である。
卑弥呼は「福岡県の福津(ふくつ)市の津屋崎(つやざき)町の海岸線」を「水鳥の弥、つまりカンムリカイツブリの頭」に見立てて、
また、卑弥呼は「釣川から宗像平野部までの地宜」を「弥(カンムリカイツブリ)の首と胴体と翼」に見立てて、小国名を【弥】の字がつく「不弥国」と定めた。
000077_20240623070501


「不弥()国」の【彌()】の字源となった「カンムリカイツブリ」は海面または湖や沼にすむ水鳥である。
「カンムリカイツブリの首から体下面(たいかめん・胴体の下面)まで」は「すべて銀白色」である。
この「銀白色の首から体下面」が、【爾()】の字源となった。
「水面に浮かぶ、カンムリカイツブリの翼をたたむ背中と体下面(胴体下部)」は「弓」の形に相似すると見立てられて、偏【弓】に【爾()】が加わって【彌()】という字になった。
【弥】の「カンムリカイツブリ」は「長時間水に潜(もぐ)ることができる」ゆえ、「八丁(はっちょう)もぐり」の俗称(ぞくしょう)がある。

胎児は母体の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。
出産後の人は1時間も水中に潜ったままでいれば確実に死ぬ。
にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごす胎児は、なぜ窒息死(ちっそくし)しないのか?
この秘密を、女性の生殖器と出産を研究する黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この秘密を倉頡は「八丁もぐりの、50秒ほどで潜水できるカンムリカイツブリ」で喩(たと)えることを思いついた。

【弥】の「カンムリカイツブリ」はカイツブリ目カンムリカイツブリ属最大の水鳥で、全長4661㎝である。
この「カンムリカイツブリの大きさ」だと、体調が約2.5㎝以下の第12週の胎児や、体長が45㎝の第36週ころの胎児より大きい。
しかし、「カンムリカイツブリの大きさ」は出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝くらいの大きさに育った胎児と同じくらいである。
これゆえ、倉頡は「カンムリカイツブリの大きさ」は「産道」を4回も回旋(かいせん)しながら通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生する出産児の大きさ」に適合すると注目して、
【爾(後の【弥】】「カンムリカイツブリ」を「産道を通過して誕生する出産児」に喩えることにした。
ゆえに、「不弥国」の【弥】「カンムリカイツブリ」は「4回の回旋をして誕生する出産児」をあらわした。

◆【弥】の字源「カンムリカイツブリ」は九州と瀬戸内海に飛来(ひらい)して繁殖(はんしょく)する。
「不弥国」の【不】の字源を、『説文解字(せつもんかいじ)』は「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下(くだ)り来()らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
この【不】の字源解説は、「不弥国」の説明においては――鳥(カンムリカイツブリ)が空を飛んで行く。カンムリカイツブリは【一】の字源「十字の銀河の子宮」に向かって去っていく。「十字の銀河の子宮」は【天】の字源の一部となる(つまり、天のごときなり)」と説明していることになる。
なお、「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり」という解説文は「空を飛ぶ【弥】のカンムリカイツブリが地に下りて来ない」という否定・打消しに用いる「ず」が【不】の字義であると説明していることになる。
このような「不弥国の地宜」における【不】の字源解説の理由・根拠について、これから解説する。

下に、【倭】の「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る不弥国図を配した。
下図に示したように――「宗像地方の【弥】(カンムリカイツブリ)の地宜」は【一】の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた一大国・壱岐に向かって(つまり、【一】の字源地宜「壱岐」に向かって)、空を飛翔(ひしょうして、地に下()りて来ない姿、つまり「下りて来ない」の否定・打消しの【不】「ず」をあらわす姿――に観()える。
だから、下図は上記したように――『説文解字』の【不】の「鳥(【弥】のカンムリカイツブリ)が飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」という字源解説をあらわしている。
000079_20240623070601

カンムリカイツブリは、下図の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)を長方形状に水が流れる黄河上流が包囲する地域における、黄土高原に夏に飛来して繁殖する夏鳥(なつどり)である。
0000190_20240623070701 
◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が【倉頡の文字作成理論】を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を習得しやすくするために、文字が作られた【夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその家族及び一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のために――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう【「不弥国」という小国名の秘密】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】を決めないと、説明が長々と煩雑(はんざつ)になって非常に難解となる。
【倉頡の文字作成理論の秘密】が容易に明確に説明できるように――下図のごとく、わたくしは【夏の銀河各部の名称】を定めた。
00003_20240623070801

◆上図の左側・中央よりやや上部に、「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」がある。
下に、はくちょう座のε(エプシロン)、γ(ガンマ)、δ(デルタ)、β(ベータ)の4つの星が三角形に囲む「人の横顔に酷似する銀河」の図を配した。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には、「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と呼ばれる、国際的に天文学界で名称が定められた銀河部がある。
「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」のことである。
0000199

「北天の最輝部」は銀白色に輝く。
下図の右側は、【弥】の字源「カンムリカイツブリが繁殖行動するときのオスとメスが求愛ダンスする姿」をあらわす図である。
(
注 この図は今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物細密・生体画集】』 平凡社j発行の143ページより転載した。)
この「脚で水面を蹴()って水しぶきを浴びてビショ濡れになる、熱烈な求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメス」は、下の左側の「北天の最輝部の形状」に相似すると見立てられた。
というのも、上記したように「カンムリカイツブリ首より以下の体下面」は「北天の最輝部」同様に銀白色に輝いているからである。
000089_20240623070901

ゆえに、「カンムリカイツブリの銀白色の首より以下の体下面」は【爾()】の字源となった。
言いかえると、倉頡は【爾】の字を作って「カンムリカイツブリ」をあらわしたと考えられる。
しかし、後世、【爾】の字は通常「うつくしい。なんじ」などと意味することになり、「カンムリカイツブリ」という字源を失った。
それゆえ、「カンムリカイツブリが求愛ダンスするときの、オスとメスの首より以下の銀白色の体下面と背中は〔弓〕の形」に相似するということで――偏【弓】に【爾()】が加わった【彌()】が「カンムリカイツブリ」をあらわすことになったと考えられる。
なお、「銀白色に輝く北天の最輝部」は【漢】の字源と「銀漢」の語源であったことになる。

下図は、五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線の図」である。
下図に示すように、今から約5000年前の黄帝時代における黄帝陵(北緯3535)の天頂には、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく【目】の形の銀河中央」と「十字の銀河頭部の中央」がめぐってきた。
また、当時、「長江口(ちょうこうこう・長江の河口)の中央(北緯3130)」には「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく切れ長の細い【目】の形の銀河中央」と「十字の銀河の子宮の中央」がめぐってきた。
0000159_20240623071101


下に、上図と異なる「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線の図」を配した。
下図のおける北緯30度の地所は、長江口(北緯3130)より南の「杭州湾(こうしゅうわん)の南岸」である。
下図の右側に示したように、「杭州湾の南岸(北緯30)の天頂」には、「北天の最輝部における最南部」がめぐってきた。
黄帝時代、「北天の最輝部の最北部」にある「はくちょう座γ星とこの星を中心とする円環銀河部」は、黄帝陵(北緯3535)よりやや南部の地所の天頂にめぐってきた。
000124_20240623071201

下に「北天の最輝部のγ星・円環銀河部と【日】の金文形の図」を配した。
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、下図における【日】の金文形を「太陽の形。中に小点を加えて、実体のあることを示す」と解説する。
つまり、下図の左側の「円環銀河部と、その円形中心のはくちょう座γ星」が、金文の【日】の「太陽の形」をあらわす字源であったことになる。
0000201

下に、上図より前に配した「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線の図」における中央部の「北天の最輝部周辺に限った、黄帝陵(北緯3535)・杭州湾南岸(北緯30)の天頂緯度線の図」を示した。
0000202

下に示すように、黄帝時代、「黄帝陵の天頂緯度線」を「地平線、あるいは水平線」に見立てるために「水平」にして――【日】の金文形となった「太陽(はくちょう座γ星と円環銀河部)が地平線(水平線)より上へ昇って、東の空を赤く染める朝の光景」を表現するためには――芸術的センスを発揮(はっき)して想像力をたくましくするように求められた。
というのも、()「斜めの天頂緯度線」を「水平」になるようにすると「北天の最輝部」は「傾きが一層加わってあたかも真横に転がるようになる」――このため、「太陽が地平線(水平線)より上へ垂直に昇る景色」にはならない。
これゆえ、下図に示したように、()新たに「真横に延びる地平線(水平線)となる線」を描き、
さらに、()「垂直状に立つ北天の最輝部」を作図すればーー
(
)「赤く輝く日の出の太陽(はくちょう座γ星と円環銀河部)」が、下図のごとく「地平線(水平線)より上へ昇る景色の想像図」となる。
0000203
上図に示した、複雑な工作を加える「想像」は、わたくしの独断・推測によるものではない。
というのも、上の「はくちょう座γ星と北天の最輝部の光景の想像図」は、
【旦(たん)】の字源「東の空を赤く染めて太陽が地平線(水平線)より上へ昇って姿をあらわす光景」をあらわすことになったからである。

上の「【旦】をあらわす想像図」は、【不】の字源をもあらわした。
前述したように、『説文解字』は【不】の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下(くだ)り来()らざるなり。一に従うふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
ゆえに、上の「想像図」において――【弥】「カンムリカイツブリ」の字源「北天の最輝部」は「鳥が上の天空を飛翔(ひしょう)して、地に下りて来ない」ように観()える。
そして「地平線(水平線)」に見立てた「黄帝陵の天頂を通過した、十字の銀河の頭部中央」は【一】の字源であった。ゆえに「一に従ふ」と説明された。
前ページの「五帝時代初頭の黄帝時代の天頂緯度線」に示したようにーー【一大】の語源となった「十字の銀河の子宮中央の緯度線(北緯3130分の天頂緯度線)」は「北天の最輝部の最南部」を貫通した。ゆえに、「一はなほ天のごときなり」ということになる。
以上のごとく、「北天の最輝部」は【不】と【弥】の字源であった。
したがって、「不弥国・宗像地方」は「【不】と【弥】の字源の、北天の最輝部の地霊が棲()む地」であったことになる。

また、上図における複雑な工作を加える「想像」は【倉頡の文字作成理論】において「特に難(むずか)しい作業」ということで――上図の「想像図」は【難】の字源となった。
「銀漢」の【漢】の右側が偏となり、この偏に【隹】が加わって【難】という字が成立した。
【難】における【隹(すい)】は「北天の最輝部」を指す。
「十字の銀河の子宮」もまた「小鳥の鳰(にお・カイツブリ)」をあらわす【隹】の字源銀河である。

倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(にお・カイツブリ)」で、「水中(羊水)生活者の胎児」に喩(たと)えることを思いついた。
鳰の全長は25㎝~29㎝である。
12週~第20週の胎児の体長は20㎝~30㎝くらいである。
鳰は鳥の中でも、もっとも水と深くかかわって生活している。
湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。
鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さい体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。
だから、倉頡は「鳰」で「長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外()きつづけて羊水を吸いこまずに窒息死(ちっそくし)しない胎児」に喩えることにした。

倉頡は【乎()】の字を作って「羊水の中に潜って息を外()きつづける小さな胎児」と「鳰」の両者をあらわすことにした。
そして、後世、【乎】は字源を失って「よぶ」と意味する文字としてもっぱら用いられるようになったため、
偏【口】に【乎】を加える【呼】の字が「長いあいだ羊水の中に潜っても、窒息死しない小さな胎児」と「鳰」をあらわすことになった。
上記したように、「十字の銀河の子宮」が字源となる【隹】の字も「鳰」をあらわした。

前述したように、【弥】の字源は「全長が46㎝~61㎝の、カンムリカイツブリ」であった。
「カンムリカイツブリの大きさ」は「出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝に育った大きな胎児(つまり、出産間近い児の体長)」と同じぐらいである。
これゆえ、「十字の銀河の子宮(【隹】「小鳥」)よりもはるかに大きい、〔鳥〕と表現すべき北天の最輝部」を字源とする【弥】の「カンムリカイツブリ」もまた「鳰(十字の銀河の子宮)と同じく【隹】とあらわすことになった。
つまり、【呼】の「鳰」も【弥】の「カンムリカイツブリ」も「羊水の中に潜る、同じ水中生活者の胎児」をあらわしたゆえ、「カンムリカイツブリ」も【鳥】ではなく【隹】ということになったと考えられる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・1」で詳細に解説したように、
中国の山東省の呂県(チュウシエン)の陵陽河(りょうようが)の遺跡から「灰陶尊(かいとうそん)」と呼ばれる灰色の爆弾型の土器が出土した。
下に、「灰陶尊」と灰陶尊の胴部の口縁部(こうえんぶ)にほどこされた【旦】を表現する図書を配した。
0000176_20240623071601

中国の学界は、上図の「灰陶尊」は今から約5000年前に作られたと定めている。
ということは、灰陶尊は今から約5000年前の黄帝時代に作られたことになる。
中国の学界は、上図の右側の図書は【旦】をあらわすと解釈する。

下に、「山東半島の地宜が【弥】の字源・カンムリカイツブリの首から上の横顔に相似すると見立てられたとあらわす図」を配した。
山東半島の北端の地名は、【石島(中国では「シータオ」と音する)】である。
山東半島における【弥】「カンムリカイツブリ」の首(山東半島の南の付け根)となる地名は、【日照(中国では「リーチャオ」と音する)】である。
「石島と日照を結ぶ」と「夏至の日の朝、日が出ずる方角」をあらわす。
ゆえに、黄帝時代、「山東半島」は【弥】の「カンムリカイツブリの頭(横顔から首までの姿」に見立てられたことになる。
また、「山東半島の石島と日照までの海岸線」では「夏至の日の朝、地平線(水平線)より上空に昇る太陽が真っ赤に輝く光景」が目撃できた。
0000184


上図に示したように、【弥】「カンムリカイツブリの首」となる「日照」は「黄帝陵と同緯度(北緯3535)」である。
この黄帝陵・日照の北緯3535分より少し高緯度に、【旦】の図書をほどこした灰色尊が出土した呂県陵陽河遺跡が所在する。
「黄帝陵と日照の緯度線」を「地平線(水平線)」に見立てると、「呂県陵陽河遺跡」は「地平線(水平線)より出ずる夏至の日の朝・【旦】の真っ赤に輝く太陽」に合致する。
ゆえに、「灰陶尊の胴部の口縁部にほどこされた最上部の円形」は「夏至の日の朝・【旦】の真っ赤に輝く太陽」を表現していたことになる。
「灰陶尊における【旦】中央の図書」は「地平線(水平線)と太陽の中間に浮かぶ底部が紫色に染まる雲の図案」であろうか?
「灰陶尊における【旦】の最下部の図書」は「地平線(水平線)より下の地下から東の空を赤く染める太陽の光線」を表現する図案と考えられる。

上図の「山東半島の【弥】「カンムリカイツブリ」の地宜」に表示したように、「石島」は「朝日(日の出)」をあらわし、「日照」は「夕日(日の入り)」をあらわす。
つまり、「縦長の頭の出産児が横長の骨盤入口に入りこむ、第1回旋の様子」を「地平線(水平線)下に没するときの夕日」に見立てて、「日照」という地名になった。
そして、「石島」は「産道を通過して、第4回旋しながら膣口(ちくこう)から頭が誕生する出産児の様子」に見立てられて「地平線(水平線)の上に昇る、朝日(日の出・【旦】)」をあらわすことになった。

◆だから、「山東半島の地宜」は――出産児が骨盤入口から頭が入りこみ、さらに産道を通過して、膣口(ちつこう)から誕生する、この出産児が八丁もぐりの【弥】「カンムリカイツブリ」のごとく息を外()きつづけて羊水を吸い込んで窒息死しない様子――あらわした。
このような「山東半島の地宜解釈」を伝えて、
『古事記』上巻の「天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)の降臨(こうりん)説話」の末部には――天孫(邇邇芸命)が「ここは韓国(からくに)に向かい、笠紗(かささ)の御前(みさき)に真来通(まきとお)りて、朝日の直刺(ただ)す国、夕日の日の照る国なり。ゆえに、この地は甚吉(いとよ)き処(ところ)なり」と称したーーという文がある。

上記した「ここは韓国に向かい、笠紗の御前を真来通りて、朝日の直刺す国」という文は、「山東半島北端の石島」に由来する表現であり、「夕日の日照る国」は「山東半島南部の付け根にある日照」に由来する表現である。
上図における「【弥】・カンムリカイツブリの横顔から首までの形に相似する、山東半島の前方(東方)」は「韓国」である。ゆえに、「韓国に向かい」ということになる。
そして、「笠紗の真来通る」という表現は上図の「山東半島の【弥】・カンムリカイツブリの地宜」における「黄河口と呂県陵陽河遺跡を結ぶ経度線」が「真来通る」、つまり「同経度となる」と意味する。
だから、「山東半島」が「笠紗(かささ)」ということになった。

なお、「真来通る」という古語は、「正午、南中する太陽に向かって複数の木の棒をならべ立てて、その数本の木の棒が重なって一本に見える状態」を表現するものであるゆえ、「経度を精確に測量できる。同経度である」と意味した。
それゆえ、「真来通る」は「真木立(まきた)つ」とも言った。
上記の「正午に南中する太陽」を利用する「真来通る・真木立つ」の他に――肉眼星が191個もあるヘルクレス座(夏の星座)には複数の星が南北・経度軸に合致して並ぶ箇所があるゆえ、「真来通る」を測量できた。
この他にも、夏の銀河に漬()かる幾つかの星座には、経度線上に複数の肉眼星が並ぶ箇所があるゆえ「真木立つ」を測量することができた。
また、「斜(なな)めとなる、十字の銀河における緯度の目盛り」を巧みに利用して、「経度」を精確に測定できる呪的(じゅてき)な眼力(神通力)を有する人々もいた。

上記したように、天孫は「韓国に向かい、笠紗の御前を真来通る、【弥】の首から上の横顔に相似する山東半島の地宜」と同じく【弥】の「カンムリカイツブリの横顔から首までの形」に相似する「福津市(ふくつし)の津屋崎町(つやざきちょう)の海岸線」をも「笠紗の御前を真来通る処」と表現したことになる。
つまり、天孫は「宗像大社の辺津宮を貫通する経度線」を「御前(みさき)を真来通る」と表現した。
ゆえに、「カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの山東半島」と同じく「カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までとなる津屋崎町の海岸線」は「笠紗」ということになった。
「笠紗」は「【弥】のカンムリカイツブリが生息する水草の葦(あし)などを編んで作った笠」であると考えられる。

このような理由・根拠にもとづいて、天孫は「不弥国・宗像地方」を「朝日の直刺す国、夕日の日の照る国なり。ゆえに、この地は甚吉き処」と表現した。
以上のごとく、「不弥国・宗像地方」は「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」であった。

◆上記したように、「不弥国・宗像地方における津屋崎町の海岸線」と「山東半島の海岸線」は共に「【弥】のカンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの形」となる。
このため、不弥国・宗像地方には――夏代黎明期(紀元前2050年頃)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが教え広めた「精密な中国の海岸線地図」の秘密が存在した。

司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)には「黄帝は虎に戦闘を教えた」という文がある。
この文中の「虎」は猛獣の「トラ」ではなく、「地図作製を役職の長官となった氏族」を意味した。
ゆえに、『史記』五帝本紀は「黄帝軍の遠征軍には虎のほか、虎に似る三匹の豹(ひょう)が参加していた」と説明している。
つまり、この「三匹の豹」は「三匹の猛獣のヒョウ」ではなく、「地図作製を役職の副官となった三氏族」を意味した。

だから、『魏志倭人伝』には「倭地には牛と馬、虎と豹、羊と鵲(かささぎ)は無い(つまり生息していない)」という記事がある。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では9回以降繰り返して証明しているように、【牛】の字源・字義「ジャコウウシ」のであり、【馬】の字源・字義は「フタコブラクダ」であった。
これゆえ、【虎】は「不弥国・宗像地方を治める男王の主なる役職の、精密な地図を作製する長官」を意味したことになる。

『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話」の末部は――不弥国・宗像の王の名は「天菩比命(あめのほひのみこと)」であったと記す。
ゆえに、「天菩比命」は「精密な地図を作製する長官」であった。
この「天菩比命」には「七人の子の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)がいた」という。
この「七人の子の建比良命」は――()出雲国造(いづものくにのみやつこ)()无耶志国造(むさしのみやつこ)()上菟上国造(かみつうなかみのみやつこ)()下菟上国造(しもつうなかみのみやつこ)()伊自牟国造(いじむのくにのみやつこ)()津島県直(つしまのあがたあたひ)()遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)たちの先祖である――と列記する。
つまり、上記した「天菩比命の子」と記された「七人の建比良鳥命」は「天菩比命と血のつながった息子」ではない。

つまり、「天菩比命に従属する分子の氏族」を「子」と表現したことになる。
だから、「七人の建比良鳥命」は「天菩比命の精密な地図を作製する役職を補佐する、倭人国の各小国に住んだ副官氏族たち」であったことになる。
言いかえると、「七人の建比良鳥命」は「七人の豹」であった。

次回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」では、「不弥国・宗像の王の天菩比命は精密な地図を作製する長官の虎、つまり虞()であった秘密」を解明し、
わが国には五帝時代の五番目の帝舜(しゅん)の治世に代々200年~250年間も「虞()」の要職にあった益氏の王子と若者たちが「精密な中国海岸線地図」をわが国にもたらした史実を具体的に解説し証明することにする。
(
注 帝舜に益氏が「虞」の重職に就くように命令されたことは、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)に記述されている)

◆なお、上記したように、『魏志倭人伝』は――倭地には【牛】の字源「ジャコウウシ」と【馬】の字源「フタコブラクダ」、「地図を作製する長官と副官」を象徴する【虎】と【豹】、【羊】の字源となった「動物」と【鵲(かささぎ)】が生息しない――と説明する。
しかし、なぜ「倭地には【羊】は生息しない」と記す必要があったのであろうか?

【牛】の字源「ジャコウウシ」の別名は「ジャコウヒツジ」である。
おそらく、益氏の王子と若者たちは「倭地に生息しない、ジャコウウシ(ジャコウヒツジ)」を縄文人たちに理解させるために、【羊】の字源となった「動物」と比較して説明しようとしたが――倭地には【羊】も生息していなかったため、困惑したのであろう。
この困惑を伝えて、『魏志倭人伝』は「倭地には羊が生息しない」と記したのであろう。

【鵲(かささぎ)】の別字は【舃(せき)】である。
益氏の王子と若者たちは「秋田県の八郎潟の偏(ほとり)」に定住した。
「八郎潟」の【潟】の右側は【舃】である。
だから、夏音文字の【舃】は【潟】と密接にかかわる。
『魏志倭人伝』には「益氏が男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した」と示唆する記事が存在する。
ゆえに、「倭地には舃(かささぎ)は生息しない」と記す必要があったことになる。

| | コメント (0)

2024年6月16日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・15

奴国の志賀島の金印出土地の秘密の解明

◆倭女王・卑弥呼が登場することで有名な「『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、【卑弥呼が居住した邪馬臺()国】を説明するための書物」であったという定説は100パーセント空理空論である。
というのも、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」に関する説明は存在せず――もっぱら【今から約5000年前に生存した、倉頡(そうきつ)が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明しているからである。

したがって、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説もまた、『魏志倭人伝』を誤読した産物の100パーセントの空理空論である。
というのも、『魏志倭人伝』は「2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代には、紀元前2050年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)に習得した漢字(夏音文字)がわが国に存在していた事実」を具体的に説明しているからである。
ゆえに、『魏志倭人伝』によって「卑弥呼時代に、わが国には【倉頡の文字作成理論】が存在していた事実」も具体的に証明できる。

さらに、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて、楷書を意符・音符に用いた夏音文字、つまり夏代黎明期に習得した夏音文字が多数記されている。
このように、多数の夏音文字を『古事記』上巻の随所で実際に見ることができる。
ゆえに、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前2050年頃の中期縄文時代末(夏代黎明期)であったことは確かな事実となる。

【漢字を発明した倉頡(そうきつ)】は、今から約5000年前(紀元前3000年頃)の中国の五帝時代に生存した黄帝につかえていた。
わが国は、今から約4050年前(紀元前2050年頃)に、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海を越えて男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、【倉頡が発明した文字作成理論】と【夏代黎明期の漢字の夏音文字】を教え広めた。
ゆえに、今から4000年前(紀元前2000年頃)の後期縄文時代初頭に【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】を、わが国は習得していた。
だから、『魏志倭人伝』は邪馬台国とまったく無関係の、【卑弥呼が有していた倉頡の文字作成理論と夏音文字の伝来】について説明する文献史料であったのである。

以上からして、
(
) 「『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する文献である」という定説は空理空論であった
(
) 「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説も空理空論であった
わが国は紀元前2050年頃に最初の漢字・夏代黎明期の夏音文字をすでに習得していたからである
(
) 「倉頡が漢字を発明したと説明する倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の話である」という定説もまた空理空論であった

◆倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、あるいは「銀河」、ときには「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Ginga_kara1_20240616105301

◆このブログでは『魏志倭人伝』に記される対馬国(現在の長崎県北部の対馬)から5番目の小国・奴()国の位置と、西暦57年に後漢の光武帝(こうぶてい)から授与された「漢委奴国王」と文字を刻む金印の出土地の秘密を解明する。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回と10回において、下図に示す「対馬国・瀚海・一大国の秘密」を解明した。
000012_20240616105301

上の「対馬国・瀚海・一大国の地図」は、下に配した「瀚海・ゴビ沙漠と長方形状に水が流れる黄河上流が包囲するムウス沙漠・黄土高原・黄帝陵の概況地図」をあらわして、【倉頡の文字作成理論】を解明し証明するために必要な基本地図であった。
0000190_20240616105401
『魏志倭人伝』は「倭国には牛と馬は生息しない」と説明する。
【牛】の字源・原義は「ウシ」ではなく、上図の黄土高原・凍土(とうど)地帯に生息した「ジャコウウシ」であった。
【馬】の字源・原義は「ウマ」ではなく、上図の瀚海・ゴビ砂漠とムウス沙漠に生息した「フタコブラクダ」であった。

ゆえに、「対馬国の地宜(平面的に図化した地図の形)は、北の上県(かみあがた)の地宜が「フタコブラクダの正面形」に相似し、南の「下県(しもあがた)」の地宜は「フタコブラクダの丈夫な足底の形」に、相似する。
したがって、「フタコブラクダの姿と足底と一対(いっつい)となって、【馬】の字源をあらわす」ことになり、
この「一対の馬の姿と足底」にもとづき、卑弥呼は小国名を「対馬」と定めたことになる。

上の「対馬国と一大国の地図」に示したように、卑弥呼は「対馬国と一大国の中間の海の名」を「瀚海(ゴビ沙漠)」と定めた。
【牛】の字源・原義「ジャコウウシ」は瀚海・ゴビ砂漠の南の黄土高原・凍土地帯に生息した。
下に示すように、【瀚海の南に、一大国・壱岐】がある。
この【一大国・壱岐の地宜における西部の地宜は、瀚海・ゴビ沙漠とムウス沙漠に生息した馬・フタコブラクダの姿】に相似する。
また、【一大国・壱岐の東部の地宜は牛・ジャコウウシの姿】に類似する。
【牛】の字源「ジャコウウシ」と【馬】の字源「フタコブラクダ」は【壱】の字源となり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。
「一大国は「【壱】の字源の聖獣のジャコウウシとフタコブラクダの姿を東西に分ける岐(わかれみち)が存在する」。
ゆえに、後世、一大国は「壱岐」と呼ばれることになった。
000019_20240616105501

◆『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)の南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰()う。一大国(現在の長崎県北部の壱岐)に至る」と説明する。
したがって、対馬国は「北」、一大国は「南」となる。
ゆえに、対馬国と一大国における南北は現在方位と同じである。
しかし、一大国から末盧(まつろ)国までの方位について、『魏志倭人伝』は記していない。

というのも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の11回~14回までに詳細に解説して証明したように――『魏志倭人伝』は「末盧国からの方位」を「倭人国」の【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、【方位名】を記していたからである。
「対馬国が北、一大国が南」に対して、いっぽう「末盧国以下の伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国において北は東、南は西になる」。
ゆえに、「一大国より南にある末盧国」は【倭】の字源の方位規定にもとづくと「一大国より東に末盧国がある」ということになる。
つまり、【「対馬国と一大国における〔北〕は、末盧国・伊都国・奴国・不弥国にとっては北ではなく〔東〕となる」となるため――両者の方位は対立して矛盾する。
だから、「一大国から末盧国の方位」を明記することができなかったのである。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回から前回(14)までに詳細に解説して証明したように、
【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則る末盧国・伊都国・奴国の旅程基点は、下図のごとくであったことになる。
下図の下部に示したように――奴国の旅程基点は福岡県福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)であった。
K232_20240616105601

◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この掟(おきて)のために――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これから行う「奴国の位置と金印出土地の秘密の解説と証明」には、【夏の銀河各部の名称】がどうしても必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
00003_20240616105701

上図の左上に「鬼の姿に似る銀河」がある。
下図に示すように、「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は、「奴国」の【奴】の字源銀河であった。
「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は【又(ゆう)】と【右(ゆう)】の字源でもあった。
【又】の字音は【右】と同じく「ゆう」、【又】の字義も【右】と同じく「右手」である。
000076_20240616105801

つまり、「日照りがつづいて堅(かた)くなった農地を耕すことができる筋肉隆々の、ジャコウウシのごとき強大な力を有する18歳くらいの青年の大きな手()」を象徴して、「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「強大な力を有する太い右手」に見立てられた。
ゆえに、『魏志倭人伝』の末部に「卑弥呼の死体を葬る墓に徇(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人」という記事に登場する【奴】は「18歳くらいの青年」であった。
【婢】は「暗い銀河部までもよく見える最も優れた眼力を有する、瞳がもっとも澄んでいる13歳くらいの乙女」であった。
つまり、「人生で生命力が最も輝く、純粋な18歳の青年と13歳の乙女こそ、徇葬者(じゅんそうしゃ)にふさわしい」ということで、18歳の青年と13歳の乙女が徇葬の犠牲者に選ばれたのである。

また、【奴】の字源「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「子どもを出産するための母体のジャコウウシのごときの強大な力」をあらわした。
また、「子どもの出産において――母体(妊婦)が雷鳴や虎が吠えるがごとく大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)」をもあらわした。
その証拠に、「怒責」の【怒】の字は【奴】の下に【心】を加える字である。
要するに、【奴】の字源「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は
(
)「強大な力を有するジャコウウシ」、
(
)「ジャコウウシの強大な力を有する18歳くらいの青年」、
(
)「ジャコウウシのような強大な怒責の力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。

『魏志倭人伝』は「奴国には二万余戸有り」と記す。
下の図に示したように――二万余戸を有した奴国はその人口数からして、その範囲は「福岡湾・博多湾沿岸の福岡市から熊本県南端まで」(ただし、南端の〔南〕は現在方位)の「広大な範囲の、強大な力」をあらわす大国であったと考えられる。
あるいは「奴国の南端」は「鹿児島県の薩摩半島まで」であったかもしれない。
K241_20240616105901

◆『後漢書(ごかんじょ)』倭伝には、下記のごとく「奴国の海ノ中道と志賀島(しかのしま)」について説明する。
「建武中元二年(57)、倭の奴国は貢物(みつぎもの)を奉(ほう)じて朝賀(ちょうが)した。その使人は自(みずか)ら大夫と称した。その国は倭国の極南界である。光武帝は印綬を賜(たま)った。」
江戸時代に博多湾中の志賀島から発見された「漢委奴国王」の金印は、この時に与えられた印綬とされる。

下に、現在方位にもとづく「海ノ中道と志賀島の地図」を配した。
下図に示したように、「海の中道の[]は志賀島がある[西]の方に曲がるように陸繋(りくけい)して、時計回りに方位が90度転回する状況」をあらわす。
ゆえに、「南から西への曲線」は【委】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
また、「海ノ中道南端の足の形」は「ジャコウウシの足」に相似すると見立てられて、
この「南から西への曲線」は「ジャコウウシの強大な力」つまり「【奴】の字源・字義」をあらわしていると解釈された。
ゆえに、「南から西への曲線」は【委奴】という国名をあらわすことになった。
0000197
これまでのわがブログ「漢字の起源と発明を解明す」において毎回のごとく解説したように、
倉頡は「産道を通過する出産児の頭が旋回(せんかい)する、4回の回旋(かいせん)」に注目して、
「第1回旋と第4回旋」をあらわす「時計回りに90度転回する方位規定」を字源・原義とする【禾()】の字を作り
また「第2回旋と第3回旋」をあらわす「逆時計回に90度転回する方位規定」を字源・原義とする【呉()】の字を作った。
なお、「回旋」という語は、今日の産婦人科が用いる医学用語である。

前ページに配した「夏の銀河各部の名称図」の左上に、わたくしが「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」と名づけた銀河がある。
下図に、黄帝時代において、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と長江口(ちょうこうこう・長江の河口がある湾)中央の天頂にめぐってきた銀河部とその銀河部を貫通した天頂緯度線を示した。
下図に示したように、黄帝陵(北緯3535)の天頂には、西の「鬼の横顔に似る銀河の、後頭部につく大きく見開いた【目】の字源銀河中央」と東の「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきた。
また、長江口の中央(北緯3135)の天頂には、西の「鬼の横顔に似る銀河の、アゴにつく切れ長の細い【目】の字源銀河中央」と東の「十字の銀河の子宮の中央」がめぐってきた。
0000159_20240616110101

上図の「黄帝時代の天頂緯度線の状況」にもとづいて
倉頡は下図の「【禾】の字源解説図と字形転回解説図」に示すように――「中国全土の天頂緯度線が貫通する、十字の銀河の中央」に「禾・稲」をあらわす図書を重ねた。
()の育成に適する土地は、長江口周辺の中国南部である。
ゆえに、下図のごとく、「禾の穂」を「長江口の天頂を通過した、十字の銀河の子宮がある、南」の方に向くようにした。
そして、「禾の穂」が「鬼の横顔における口(くち)」に垂れるようにして、「時計回りに90度転回して、南が西になる方位規定」をあらわした。
「禾の穂に実る米」を炊くと「人が食べる飯(めし)」となる。
つまり、倉頡は「禾の穂」を「飯を食べる人の横顔の口」に相似する「鬼の横顔における口」の方へ向けて垂れるようにした。
0000192_20240616110201

上図の右上にある()の図書では「禾の穂は地面がある下方に向く」。
この「禾の穂が地面の方に向く形」は「地面に根を張って植わる禾の形」に合致せず不自然である。
ゆえに、「地面に植わる禾の形」になるようにした()の図書を180度転回した()の図書は、その上方に示したように、「禾の穂が北から西へと垂れる。」
しかし、この()「北から西へ禾の穂が垂れる図書」は「逆時計回りに90度転回する【呉】の字源」をあらわして矛盾する。
それゆえ、この()の図書の左右が反対になるように180度転回する(すなわち、裏返しにする)()の図書は「禾の穂が北から東へと垂れる、地面に植わる禾の形」となる。
だから、()の図書は「北が東となる、時計回りに90度転回する【禾】の字源・原義」をあらわした。

(
)の「禾」の図書は、下図の右側の「地面に植わる禾の形」と同じである。
下図の右側の()と同じ「禾の形」は、【禾】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)に合致する。
ゆえに、下図の右側の「地面に植わる禾の形」は、【禾】の字源・原義をあらわした。
下図の左側の「十字の銀河」は「女性の姿」に相似するゆえ、【禾】の下に【女】が加わる【委】の字が作られた。
「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するゆえ、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられて【倭】の字が作られた。
【委】と【倭】の字は、倉頡が作った【禾】の字源・原義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
00004_20240616110201

ゆえに、前ページに配した「海ノ中道と志賀島の地図における[]から[西]へ時計回りに90度転回する曲線」は【委】の字源・原義をあらわした。
そして前述したように、「海ノ中道」は「ジャコウウシの足」に見立てられ、「志賀島」は「強大な力を有するジャコウウシの足が掘った土」に見立てられて――「海ノ中道と志賀島」は【奴】の字源「強大な力」をあらわしていると解釈された。
だから、「海ノ中道と志賀島」は【委奴】という国名をあらわした。

◆現在は、「天の北極がある方向」を「北」と定める。
この「天の北極の高度を、緯度に換算する方法」だと、
原始や古代の人々は1度の60分の1の1分の精度で緯度が測定できず――日々の山野における狩猟や穀物・野菜などの食料採集などの日常はじめ、遠くの地を往復する旅や大海の往来にあって位置(緯度)と方向が皆目(かいもく)不明となった。
だから、道に迷って命を失うことになり、無事に家族が待つ家に帰還することができなかった。
これゆえ、「天の北極」では緯度を測定しなかった原始や古代の人々は、「天の北極」を「北」の基準点としなかった。

下に、原始や古代の人々が「1度の60分の1の1分の精度で緯度を測定できる方法」である「天頂緯度線のキャッチ」を示す図を配した。
つまり、下図は「天頂点と重なる銀河部位の軌道(きどう)」をあらわす。
下図の左上に示すように――「天頂点と重なる銀河部位の軌道」は「天頂点」に接近すると、「天頂緯度線・天頂点・子午線」となる。
下図における「天頂点」は「天頂点と重なる銀河部位の軌道において、最も[]となる点」である。
この「天頂点を重力の方向(鉛直線)の地面へと伸ばした観測地点」が、「極南界」であった。
つまり、『後漢書』倭伝に「建武中元二年(57)に倭の奴国の使者が、倭国の極南界なり」と述べたという、「極南界」は「香椎宮が鎮座する地点」であったことになる。
0000157_20240616110401

下に「男女一体となる、十字の銀河の図」を配した。
下図の「十字の銀河の東側の手」は「弓を持つ手」となる。
この「【弓】の字源となる銀河」は「【勿(ぶつ)】の字源銀河」でもあった。
K54_20240616110501

【勿】の字について、白川静著『字統』は「弓体に呪飾(じゅしょく)をつけた字形。(中略)。犂(すき)をもって土を撥()ねる形」と解説する。
「犂をもって土を撥ねる形」という字説は「ジャコウウシの足が犂のごとく土を掘り撥ねる形」と説明するものであったのである。
その証拠に、偏【牛】に【勿】を加える【物】の字源を、『説文解字』は「牛を大物と為()す。天地の数は牽牛(けんぎゅう)より起こる。故に牛に従ふ」と解説する。
だから、【牛】の字源は「ジャコウウシ」であった。
ゆえに、白川静著『字統』の【勿】の「犂をもって土を撥ねる形」という字説は「ジャコウウシの足が犂のごとく土を掘り撥ねる形」と説明するものであったことになる。

下に、「【委】の転回方位が成立する海ノ中道・志賀島の図」を配した。
(
)この図は、前ページに配した「天頂点と重なる銀河部位の軌道図を平面的に図化した円弧図」である。
(
)また、上に配した「男女一体となる十字の銀河の東の手がもつ【弓】をあらわす図」でもある。
(
)また、上に配した「男女一体となる十字の銀河の東の手が持つ【弓】の字源銀河は【勿】の字源銀河でもある」と示す図でもある。
つまり「海ノ中道」が「ジャコウウシの足」をあらわし、「志賀島」が「ジャコウウシの足が犂となって掘り撥ねる土」をあらわす。
0000198

このように転回方位にもとづいても、「海ノ中道の端の西から志賀島がある北へと、90度転回する曲線」は【委】と【奴】の字源をあらわす。
また、上図に示したように、「香椎宮」は「極南界」となる。
さらに、上図においては「海ノ中道」は「ジャコウウシの足」に、「志賀島」は「ジャコウウシの足が犂となって掘り撥ねる土」に見立てることができる。

前ページでは、現在方位にもとづく「海ノ中道と志賀島の地図」は【委奴】という国名が成立することを証明した。
上図のごとく、転回方位にもとづく「海ノ中道と志賀島の地図」でも、【委奴】という国名は成立する。
このような秘密があったゆえ、香椎宮と同緯度となる志賀島の地点に、光武帝から賜った「漢委奴国王」の金印が埋蔵されたことになる。

◆前述したように――【産道を通過する出産児の頭】は4回、回旋(かいせん)する。
【第1回旋と第4回旋】は【時計回りに90度の旋回】となり、【第2回旋と第3回旋】は【逆時計回りの90どの旋回】となる。
倉頡は【第1回旋と第4回旋】をあらわす【禾】の字を作り、【第2回旋と第3回旋】をあらわす【呉】の字を作った。
倉頡が【禾】と【呉】の字を作って定義した【2種類の方位規定】は【学問(倉頡の文字作成理論)における基本】となった。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・14」にて説明したように、奴国の隣の「伊都国の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似する。
000074_20240616110601

上図の「現在方位にもとづく、伊都国の地宜」を【倭】または【委】の字源にもとづき「時計回りに90度転回する」と「ジャコウウシの背」が「下」となり、「ジャコウウシの足」が「上」となる。
0000195_20240616110701

あるいは、【呉】の字源のごとく「逆時計回りに90度転回する」と「ジャコウウシの背となる部分」が「上」となり、「ジャコウウシの足となる部分」が「下」となる。
0000196_20240616110801

伊都国は倭人国に所在するが――上図の「【呉】の字源にもとづく伊都国の地宜」のほうが「ジャコウウシの足が地面につく」ように観えて合理となる。
いっぽう、「【倭】または【委】の字源にもとづく伊都国の地宜」は「ジャコウウシの足が地面につかずに、上空に浮く」ように観えて不自然である。
この【呉】の字源よりも劣る【倭】と【委】の字源にもとづく「ジャコウウシの姿の、伊都国の弱点」を補って倭国(つまり、伊都国)が栄えて強大な国となるように願って――志賀島に金印が埋められたと考えられる。

だから、『後漢書』倭伝にある「倭国の極南界なり」という文の「倭国」は、『魏志倭人伝』の「伊都国のみの一国」であったと考えるべきことになる。
言いかえると、『後漢書』倭伝の「倭国」は、『魏志倭人伝』に「旧百余国」または「使訳通ずる所三十国の対馬国から狗奴国までの地域」ではなかったにちがいない。
もしも『後漢書』倭伝の「倭国」が「対馬国から狗奴国までの30ヵ国の範囲」であったとしたならば――西暦57(建武中元二年)当時、委奴国王は対馬国から狗奴国までの30ヵ国を統治していたことになる。
そうすると、170年頃には、すでに対馬国から狗奴国までの30ヵ国は委奴国王の子孫の男王に統治されていたことになる。
したがって、170年頃から倭国の大乱は勃発(ぼっぱつ)するはずがなかったことになる。

上記したように、「【委】の字源にもとづく伊都国の、ジャコウウシの姿に相似する地宜にあって、ジャコウウシの足が地面につく形」には観えない。
この弱点を補うために、倭国、つまり伊都国の地霊にジャコウウシの強大な力の勢いを増大させるために、志賀島に金印が埋められと考えるべきことになる。
だから、『後漢書』倭伝の「倭国の極南界」という文の「倭国」は「伊都国」に限った表現であったにちがいない。

このように、【委奴国】の【委】には「不合理となる弱点」が存在するため、
卑弥呼は【委奴】から【委】の字を削除(さくじょ)して小国名を【奴】の1字だけであらわす「奴国」と定めたと考えられる。

以上のごとく、『魏志倭人伝』は「対馬国・瀚海・一大国という門」を入って奥へ奥へと進むほど、【倉頡の文字作成理論の全貌】が次第に次第に明らかになる仕組みになっている。
だから、『魏志倭人伝』は、邪馬台国について説明する書物ではなく――最初から、【倉頡の文字作成理論】についてもっぱら説明する文献史料であったのである。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧