ヒエログリフ(聖刻文字)

2021年9月 2日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・26

▼わが国の学界が絶対に正しいと言いきる絶対的な定説にも――学者たちの思考停止(しこうていし)・無知(むち)が原因で根本的に誤る、クレージーなデタラメが存在する。
 この代表的な事例が、学界が「わが国が最初に漢字を習得(しゅうとく)したのは5世紀あるいは6世紀である」とする、絶対的定説である。この絶対的定説はほぼ全国民が絶対的に正しい学説と信じている常識であり、またすべてのメディアとジャーナリストたちもまた絶対に正しい学説であるちがいないと信じている。
 しかし、この絶対的定説はクレージーにして不毛(ふもう)な空理空論・デタラメであった。

◆というのも、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙(だま)されるな」が前回(25)まで詳細に科学的に証明したように――倭女王・卑弥呼(ひみこ)が登場する歴史書で有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の約85パーセントの記事は「わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭、言いかえるとわが国の後期縄文時代初頭である」と記述するからである。この『魏志倭人伝』に記述された「漢字習得の真実(事実)」はわが国に現存する多数の資料(遺跡、遺物などのさまざまな種々雑多な史料)によって詳細に具体的に科学的に証明される。
 上記した『魏志倭人伝』は大半の記事で「後期縄文時代初頭に、わが国は漢字を習得した」と説明する事実はわが国の学界にとってきわめて不都合な真実である。このため、このような記事は『魏志倭人伝』には「いっさい、存在しない」と、もちろん、学界は定めている。したがって、『魏志倭人伝』が大半の記事で「中国の夏代初頭に漢字を習得した」と説明する事実は学者たちによって排除(はいじょ)され無視され、闇に葬り去られている。

◆『魏志倭人伝』だけでなく、『古事記』上巻の序もまた「わが国が漢字を最初に習得したのは、後期縄文時代初頭(今から約4000年前)であった」という事実を語っている。
 だから、学界はじめメディアやジャーナリストが太鼓判(たいこばん)を押す「わが国が漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」とする絶対的な定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に記述された真実を学者たちが排除し無視してデッチあげたクレージーな不毛の空理空論であった。
 江戸時代中期に生存した新井白石(あらいはくせき)は『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて強引(ごういん)に邪馬台国説をデッチあげた。この白石のクレージーな邪馬台国説に、学者たちはすっかり魂(たましい)をうばわれ意のままにあやつられ隷従(れいじゅう)し、約300年ものあいだ思考停止して、いっこうに【多数の誤読】を加えて成立する立論方法は根本的にあやまっているのではないかという疑問を抱かうとしない。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えなければ、その約85パーセントの記事は「わが国が漢字を最初に習得したのは後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)であった」と伝えていることが科学的に証明される事実を――学者たちはまったく知らない。

◆「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説が空理空論である事実は――現在は、誰にも容易(ようい)に理解できる明白なる事実となる。
 言いかえると、「わが国が最初に漢字を習得したのは今から約4000年前の後期縄文時代初頭、中国の夏代初頭であった」という事実は、現在、誰にも容易に理解できる明白なる事実なっている。
 現在は、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と主張する絶対的定説は学者たちの思考停止・無知がなせる完全なるデマであり、完璧(かんぺき)なる空理空論であり、非科学きわまりないデタラメである。この事実を学者たちや学界やメディアやジャーナリストたちは信じないであろうが――現在、ゴマカしたり、弁解したりすることができない学問的事実となり、明白なる科学的事実となっている。

◆隣国の韓国では「漢字は韓国が最初に作った。最古の漢字の甲骨文字(こうこつもじ)は韓国の先祖の東夷(とうい)族が作ったからである」というクレージーな下品なデマ・ウソが横行(おうこ)しているようであるが――漢字は今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。だから、韓国の学者たちが主張するように漢字は甲骨文字から始まったのではない。
 中国では、古来、「漢字は、黄帝につかえた倉頡が発明した」と伝えられていた。この倉頡伝説には「四つ目の怪人・倉頡」が登場する。この「四つ目の怪人・倉頡」について、学者たちは「人間には四つの目がない。だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである。漢字は長い歴史の中で発展してしだいに体系を整えてきたものであり、倉頡ひとりの発明品であるはずがない」と、倉頡伝説を全面否定する。
 しかし、今から約5000年前に黄帝・倉頡が生存した五帝時代初頭の中国全土の天頂(てんちょう)には「人間の横顔にソックリの銀河部」がめぐってきた。この「人間の横顔にソックリな銀河部には四つの目」がある。だから、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」をもって――漢字は銀河から作られた。「銀河」の別称は「銀漢」、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた――と伝えていたことになる。
 倉頡伝説のとおり、「漢字は倉頡が発明した」ことは事実であった。
 というのも、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序は「倉頡伝説は事実であった」と学問的に科学的に証明できる確かな資料であったからである。ところが、わが国の学者たちは新井白石以来約300年も、【多数の誤読】を加えて「『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地について記述した書物であった」とする真っ赤なウソ・デマを日本国中にまき散らした。これゆえ、いままで「倉頡伝説は事実を伝えていたこと」が詳細に学問的に科学的に証明することができなかったのである。
 世に名高い邪馬台国説九州説と邪馬台国説畿内説は学者たちがデッチあげた100パーセントの真っ赤なウソであった! アマテラスオオミカミを最高神と称賛する日本神話虚構説もまたは学者たちがデッチあげた100パーセントの真っ赤なウソであった! 『古事記』上巻は愛の女王・イザナミノミコトをわが国のすべてを生んだ祖(おや)と絶賛(ざっさん)して歴史の事実を伝える書物であった! その証拠に、織田信長と徳川家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に記述されている【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を幼少のころから学び、『古事記』上巻に記述されたイザナミノミコトの歴史を正確に読解してイザナミノミコトに熱烈にあこがれる生涯をつらぬいた。
 わが国には「【夏音文字の学芸】を習得した時に同時に【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した」と伝える確かな資料であった『魏志倭人伝』と『古事記』上巻はじめ、遺跡・遺物、地上絵(平面的に図化した地図)、文化・伝統、また【夏音文字と倉頡が発明した作成理論】を学習した多数の前人たちが存在する。というのも、【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の知識】は【学問】であったゆえ、遺跡・遺物が残り、文化・伝統としてうけ継がられことになった。だから、わが国の学問は【倉頡が発明した漢字作成理論】を習得した約4000年前の後期縄文時代初頭から始まったことになる。
 そして、現在、とうとう、「倉頡伝説は事実を伝えていたこと」が明確に学問的に科学的に証明できる状況となった。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわ・しずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの初めから3行目までで、〔わが国の漢字音〕と題して、下記のごとく指摘(してき)する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻(おんにん)学がとり入れられ、殊(こと)に音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ摘要しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 上記したように、白川静著『字統』は「西洋の言語学・音韻学の成果によって、現存する中国の最古の漢字音よりも、わが日本国の国語として残っている最古の漢字音のほうが古いことが明らかとなった」と指摘する。
 下に配した〔漢字生長史〕に示したように、現存する中国の最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、この上古音における最古は今から約3070年前(紀元前1046)ごろの漢字音である。
 学界が自信たっぷりに「わが国が、漢字を最初に習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説を下の〔漢字生長史〕に加えると――最下部、つまり『魏志倭人伝』に登場する倭女王・卑弥呼が生存した三国時代/3世紀(220年~280)より下部に記入することになる。したがって、学界が主張する絶対的定説の「5世紀あるいは6世紀に習得した漢字音」は「中国の上古音」よりも新しいことになる。だから、学界の漢字習得の絶対的定説は西洋の音韻学の成果に反する空理空論となる。
 下の〔漢字生長史〕が明確に示すように、わが国が最初に漢字を習得したのは中国から夏音文字の学芸が伝来した後期縄文時代初頭であった。だから、学界が「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は真っ赤なウソ・ナンセンス・非科学きわまりないデタラメであったという事実は、現在、明白なる事実となる。
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 【1】わが国の学者たちは、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に1ヵ所も【誤読】を加えず忠実に読解すると、「わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字を習得したとき、【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】をも習得した」と説明していることになる事実を知っていない。
 【2】わが国の学者たちは、わが国には【現存する最古の漢字音(夏音文字の字音)】が『魏志倭人伝』と『古事記』に多数残っている事実を無視する。
 【3】わが国の学者たちは『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に1ヵ所も【誤読】を加えずに読解する方法が学問における初歩的心得・基本原理・基本原則・鉄則であることを知らない。
 【4】わが国の学者たちは、『魏志倭人伝』には1ヵ所も【誤読】を加える必要がない、正確無比(せいかくむひ)の資料であることを知らない。
 【5】これゆえ、わが国の学者たちは邪馬台国説と日本神話虚構説は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に【多数の誤読】を加えたデッチあげた空理空論、非科学きわまりないデタラメであることに気づいていない。

◆上に配した〔漢字生長史〕が示すように、また、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に記述されているように――わが国は今から約4080年前ころの後期縄文時代初頭、紀元前21世紀末ころ(紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころ)の中国の夏代初頭に原初漢字・夏音文字を習得した。
 この【わが国が夏代初頭に習得した漢字音】について、白川静著『字統』は「西洋の言語学・音韻学によって、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する。
 わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、中国に現存する最古の漢字よりも約1000年前の漢字音である。だから、夏音文字の字音は現存する最古の漢字音である。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』には――702年に中国に渡来した第7回遣唐使は中国王朝に「後稍夏音(のち・やや・かおん)を習(なら)う」と告げた――という記事がある。わが国の遣唐使が中国王朝に伝えた「後稍夏音を習う」という説明は「672年の壬申(じんしん)の乱の後、稍々(少し)夏音文字を習う(復興する)にした」と意味した。
 その証拠に、第7回遣唐使が中国に渡った702年の10年後の712(和銅5)正月28日に成立した『古事記』上巻には、〔音〕という注が付く夏音文字が多数記載されて残っている。
 『古事記』上巻に〔音〕という注が付く多数の夏音文字について、白川静著『字統』は「わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘したのである。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)説話は、合計381字で構成される。そのうち、〔音〕という注が付く夏音文字は【1】「許々袁々呂々邇(こをろこをろに)」の7字、【2】「淤能碁呂(おのごろ)」の4字、【3】「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)」の7字、【4】「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」の10字、【5】「久美度邇(くみどに)」の4字、計32字である。淤能碁呂島説話における合計381字の文字のうちの32字・8パーセントの夏音文字は「稍(やや)」つまり「わずか8パーセント」ということになる。
 だから、『古事記』上巻の各説話には、702年に中国に渡った遣唐使が中国王朝に「稍夏音(やや・かおん)を習う(復興する)ことにした」と語ったとおり、夏音文字の漢字音を「稍(やや)の文字数」で記載されて残った。ゆえに、各説話に稍(やや)の文字数で記される夏音文字を合計すると、『古事記』上巻全体には多数の夏音文字が記載されていることになる。
 ゆえに、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は、『古事記』上巻の序にて太安万侶(おおのやすまろ)が「わが国が最初に漢字の習得したのは後期縄文時代である」と記述した警告(けいこく)と、『古事記』上巻に〔音〕という注がついて多数残る夏音文字の存在を無視して強引にこじつけた空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

◆現在、「中国の最古の漢字音は紀元前11世紀ころから始まる上古音である」という知識は学者ならば当然(とうぜん)そなわっていなければならない、容易に知得できる常識である。
 また、学者ならば「西洋の言語学・音韻学によって、現存する最古の漢字音は中国の上古音ではなく、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載されて残る、後期縄文時代初頭に習得された夏音文字の字音である」という事実も、当然、知っておかねばならない常識である。
 ところが、上記した当然していなければならない事実・常識をわが国の学者たちは知っていない。このような非常識な学者たちの口車(くちぐるま)に乗せられて「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」とデマを流しつづけるメディアやジャーナリストの現況は、あまりにもお粗末(おそまつ)といわざるをえない。
 というのも、メディアやジャーナリストたちは空理空論・ウソ・デマを暴(あば)き、真実・事実を伝える義務と使命を背負っているからである。上記したように、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、学者たちが「『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の記事に多数の【誤読】を加えて強引(ごういん)にこじつけたデタラメ・真っ赤なウソ・空理空論であったことは明白なる事実である。
 だから、メディアやジャーナリストたちは、いまがいま、(1)漢字習得の定説と(2)邪馬台国説と(3)日本神話は【誤読】の空理空論であったという事実を世に発表して、自らの義務と使命をはたさなければならないことになる。

◆夏音文字は3世紀後半(280年~289)に著作された『魏志倭人伝』に人名・小国名・官職名に用いられて多数残っている。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」、倭国(わこく)の外相「難升米」を夏音文字で読むと「ナシメ」、帯方郡大守(たいほうぐんたいしゅ)に倭国と狗奴(くな)国の戦況を説明した武将「載斯烏越」お「ソシアオ」と読むと、夏音文字の字音となる。
 また、令和元年1114日・15日におこなわれた大嘗祭(だいじょうさい)における重要な建物の「悠紀殿」の「悠紀」を「ゆうき」と読まずに「ユキ」という読み方、主基殿の「主基」を「しゅき」と読まずに「スキ」という読み方は夏音文字の漢字音であったのである。
 千賀四郎(せんが・しろう)編集『日本古代史の旅・3 邪馬台国』(小学館発行/1975年初版第一刷)30ページは〔卑弥呼の発音について〕と題して、下記のごとく指摘する。
 ――卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」になる。また魏以前の中古音で読めば「ピミエクゥオ」となり、(中略)。現在の中国音では「ピーミーフー」である。
 上記したように、「卑弥呼」の[]の字を中国の上古音・中古音・近古音・現代音では「ピ」または「ピー」と読み、「ヒ」とは読まない。「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むのは、夏音文字の漢字音である。
 邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説を主張する学者たちは「卑弥呼」の3字を夏音文字の字音で「ヒミコ」と読む。だから、邪馬台国説学者たちは、自らの意思に反して不本意(ふほんい)にも、「今から約4000年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)、わが国は夏音文字を習得した」という事実を承認していることになる。

◆前述したように、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」は――「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して中国で日本でも「漢字」と称した――と伝えていたキーワードであった。
 この「漢字」という名称の由来に学者たちが気づいていれば――『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する資料(書物)であることが証明されていた。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」とよぶ。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよぶ銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。ゆえに、「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」とよぶことにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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◆天文学はじめ種々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河部・字形の原形となった銀河部・原義となった銀河部》の解説と証明をおこなう際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めた。
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◆今から約5000年前に生存した倉頡(そうきつ)は「文字作成銀河各部の形状から文字を作る方法(作成理論)」を発明した。
 倉頡はみずから考案した文字が最も強力な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば黄帝王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、この大罪(たいざい)を犯(おか)した人物の一族全員まで厳(きび)しく神罰(しんばつ)が下されて即刻(そっこく)死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は銀漢(文字作成銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露(ばくろ)した者はもちろん、その者の一族全員にも神罰が下されて死刑にする
【二】多くの文字を容易に覚えやすくするため、文字作成銀河の各部に名称をつけた者、またその者の一族全員にも神罰が下されて死刑にする
【三】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者または消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰が下されて死刑にする

◆五帝時代の原初漢字は「書契(しょけい)」とよばれる。この五帝時代の書契、次のわが国の夏音文字と中国の夏代に用いられた夏代文字、次の殷代(いんだい)前半の原初漢字は上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】を厳重にまもった。したがって、五帝時代から殷代前半までの原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年以後から出現した殷代後半の甲骨文字は多数の文字数となったため、いちいち倉頡が定めた【三】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となった。このため、【三】の掟はまもらなくても死刑は免除(めんじょ)されることになった。これゆえ、甲骨文字によって【三】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料は多数出土した。甲骨文字においては、倉頡が定めた【一】と【二】の掟を厳重にまもった。ゆえに、学者たちは「銀漢から作られた文字」あるいは「銀漢各部の形状が文字であった」ゆえ、「漢字」と呼ばれることになった秘密に気づかず、また、わが国には原初漢字・夏音文字が残っていることも気づかず、さらに『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の両書は【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を伝える確かな資料であることにも気づかない。

◆漢字は字源・字形・字義と、そして字音の4つの要素によって成立する。
 上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】によって、上掲(じょうけい)した写真の「文字作成銀河の各部の形状」が「字源」となり、「文字作成銀河の各部の形状」が「字形の原形」となり、「文字作成銀河の各部の形状」が「漢字の原義」となった。
 つまり、学者たちは書いた文字の資料が多数出土した殷代後半の甲骨文字と西周時代の金文を「真の漢字」・「真の字形」「真の字義」を示すものであると断定する。しかし、【倉頡が死刑と定めた三つの掟】によって、書いた文字が用済みになると必ず消されることになったため、五帝時代・夏代・殷代前半では、人の手で消すことができない「文字作成銀河の各部の形状」が「字源・字形・字義」となった。
 実際に、「文字作成銀河の各部の形状」は「字源・字形・字義」となった。だから、倉頡は「字源・字形・字義をあらわす文字作成銀河の各部の形状」でも「ことばをあらわす記号、すなわち文字」になることに気づき、上記した【死刑と定める三つの掟】をもって【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を王朝が独占管理してもっとも厳重(げんじゅう)な機密とするようにした。だから、五帝時代の書契(しょけい)・夏音文字における「字源」・「字形」・「字義」は「文字作成銀河の各部の形状」であったことが歴史的事実となった。
 ところが、学者たちは「文字作成銀河の各部の形状」が「字源・字形・字義」をあらわすゆえ、「文字作成銀河の各部の形状」が「言葉をあらわす文字」となる事実にまったく気づかない。
 夏音文字の字音は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に、2世紀の後漢時代後半から出現して7世紀初頭の隋代(ずいだい)にて完成した楷書を音符(おんぷ)にして記載される。夏音文字の字音をあらわす音符に用いられたほとんどの楷書もまた夏音文字と同じく【倉頡が発明した漢字作成理論】に則(のっと)って作られた。ゆえに、「楷書における真の字源・真の字形・真の字義」もまた「文字作成銀河の各部の形状」であった。
 学界が「漢字の最も古い祖型(そけい)」と定める殷代後半に用いられた甲骨文字の字音を伝える資料は発見されていない。だから、甲骨文字も【倉頡が発明した漢字作成理論】に則(のっと)って作られたゆえ、「甲骨文字における真の字源・真の字形・真の字義」は「文字作成銀河の各部の形状」であった。
 上記したように、現在、甲骨文字の字音は無いと定められる。だから、甲骨文字は「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とする、字源・字形・字義の3つの要素から成る、字音が無い不完全な漢字である。
 いっぽう、夏音文字は「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とし、『魏志倭人伝』と『古事記』に楷書で「字音」が記載されるゆえ、4つの要素が成立する完全なる漢字である。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序に【多数の誤読】を加えて捏造(ねつぞう)した空理空論・真っ赤なウソであったのである。

3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』は、下記のごとく三つの記事で「倭には文字があった」と明確に伝えている。
 (1)倭における占いに用いる辞(じ/文字とことば)について、『魏志倭人伝』には「其の辞()は、令亀(れいき)の法の如(ごと)く」、つまり「其の辞は、亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨文字のごとき文字があった」と伝える記事がある。
 この「甲骨文字のごとき文字」は、今から約4000年前の後期縄文時代初頭に、中国から伝来した夏音文字であった。したがって、夏音文字は「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とする漢字であった。だから、夏音文字は「文字作成銀河の各部の形状」と存在するものであったゆえ、確かに実在した文字であったことになる。
 (2)『魏志倭人伝』には「倭の伊都(いと)国の津()では京都(けいと/中国の魏の首都洛陽)・帯方郡(たいほうぐん/魏の出張政庁が所在した朝鮮半島の一画の郡)・諸韓国が用いる文字(楷書)と倭女王の卑弥呼が文書に用いる文字を、逐一(ちくいち)点検し、確認して、楷書と倭の文字の両者の間に差錯(ささく/間違い・誤訳)が生じないように正確に変換していた」と伝える記事がある。
 魏の都と朝鮮半島(帯方郡・諸韓国)で用いられた楷書は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とした。倭女王の卑弥呼が文書に用いる文字もまた「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とした。だから、倭の伊都国の港では「文字作成銀河」を字源字書と定めて、魏都と朝鮮半島で用いる楷書と字形が差錯(相違)する卑弥呼が文書に書いた文字を逐一点検し、確認して、間違い・誤訳が生じないように正しく変換することができた。2世紀末から3世紀半ばまでの卑弥呼時代に用いられていた漢字を書いた資料は出土していない。ゆえに、『魏志倭人伝』の記述された倭の文字は【倉頡が死刑と定めた掟】によって、書いた文字が使用済みになったならば必ず消滅しなければならなかった、「文字作成銀河の各部の形状」を「字源・字形・字義」とした夏音文字であったことになる。
 (3)2000字で構成される『魏志倭人伝』の後半には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種(みなわしゅ)なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問(さんもん)至る可()き。倭の地を参問するに、海中、洲島(しゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という、76(4パーセント)の記事がある。
 上記の76(4パーセント)の記事は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の1回から16回までで、「今から約4000年前の後期縄文時代初頭、夏王朝の帝王に就任した益(えき)の孫の王子と若者たち一行が中国からわが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を伝え教えひろめた。益氏が伝授した【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】は、今から約6000年前の前期縄文時初頭~後期縄文時代初頭までの約2000年間、文字作成銀河の形状をモデルにして土器・土偶を作った東北地方から関東地方までの芸術家たちによって習得された」と伝えていたことを、詳細に具体的に科学的に解説して証明した。
 だから、上記した『魏志倭人伝』の(1)(2)(3)3つの記事は「後期縄文時代初頭、わが国は【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を習得した。これゆえ、2世紀末~3世紀半ばに生存した倭女王・卑弥呼は【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を政権基盤にして、天下を治めていた」という事実を証言するものであったことになる。

◆その証拠に、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」における17回~25(前回)までにおいても――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約85パーセント・約1700字の記事で「わが国は【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を習得した」と説明している――と詳細に明確に科学的に解説して証明した。
 (注 上記した(1)(2)(3)の記事は、この約85パーセント・約1700字の記事に含まれる)
 『魏志倭人伝』における【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を説明する約85パーセント・約1700字の記事のうち――【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を約55パーセント・約1100字で直接的に、後半の「景初二年六月」という約30パーセント・約600字で【倉頡が発明した漢字作成理論】を間接的に説明している。
 残る『魏志倭人伝』の約15パーセント・約300字は倭人国の風習・生息する動植物・作物などを伝えている。

 『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名(倭人国の首都が所在した国名)を「邪馬壱(やまい)国」と記す。だから、学者たちが主張するように「邪馬台国」とは記していない。
 中国の正史『三国志』のうち〔魏書東夷伝(ぎしょとういでん)〕末部の倭人伝を、通称『魏志倭人伝』とする。
 古代史研究家の先年に亡くなった故・古田武彦(ふるたたけひこ)氏は、著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)で、『三国志』全体に記される【壹()86字、【臺()56字を逐一(ちくいち)調査し、【壹()】の字を【臺()】と誤記した例が1字も存在しないことを証明した。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の17回「対馬国・一大国」という小国名の秘密の解明と、わがブログ20回における「邪馬壱国」という小国名の秘密の解明と、わがブログの25回において詳細に具体的に【科学】が成立するように証明したように――「邪馬壱国」の【邪馬壱】という語は【倉頡が発明した漢字作成理論における基本原理】をあらわした。だからこそ、倭女王の卑弥呼が居住した王国名は【倉頡が発明した漢字作成理論における基本原理】をあらわす「邪馬壱国」であったと記述した『魏志倭人伝』は、【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を明確に詳細に説明していた資料であったのである。
 『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。だから、学者たちが主張する邪馬台国説(邪馬台国九州説・邪馬台国畿内説)は『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加える詐術(イカサマ)の方法で【倉頡が発明した漢字作成理論】を抹殺(まっさつ)したクレージーなデタラメ・国民を小馬鹿にする不毛の空理空論だったのである。
 学者たちは多数の【誤読】を加えて空理空論の邪馬台国説と日本神話虚構説をもって日本国民を徹底的(てっていてき)に愚弄(ぐろう)し、日本国家を衰滅させる暴力・暴言・デマを蔓延(はびこ)らさせ、【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】の存続に尽力(じんりょく)した皇室の滅亡をはかる大罪(たいざい)を犯し、日本人・日本国にとって最も重大な真実を抹殺・排除して虚偽(きょぎ)を事実とせんと躍起(やっき)になっている!

 『魏志倭人伝』には34の小国が登場する。
 そのうち、前記した『魏志倭人伝』の後半部にある76(4パーセント記事)の「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種なり」の小国名不明の1国とその後に列記された侏儒国・裸国・黒歯国の4国を除くと――『魏志倭人伝』の前半部には、対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までは30の小国が登場する。
 対馬国から狗奴国までの30の小国をふり仮名無しで列記すると、下記のごとくなる。
 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壱国、斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国、狗奴国。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ、騙されるな」の17回~25(前回)までで詳細に具体的に科学的に解説して証明したように――卑弥呼は上記の30の小国名と「倭人国」という国家名をもって、【文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を理路整然(りろせいぜん)と表示した。このため、『魏志倭人伝』は【文字作成銀河の各部の形状】を目で見ながら【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を思考する書物となった。そして、中国の晋(しん)王朝につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が著作した『魏志倭人伝』は学者たちの想像を超()える、1ヵ所も【誤読】を必要としない正確無比の歴史書であった。
 一方、わが国の学者たちは真っ先に「『魏志倭人伝』には信用してはいけない多数の記述がある」という幻想にとり憑()かれる。さらに、学者たちは「わが国は漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という幻想にとり憑かれる。だから、学者たちは多数の【誤読】を加えて『魏志倭人伝』は邪馬台国の所在地を説明する書物であったという幻想にとり憑かれて、すべてを台無しにした。

◆『古事記』上巻の序は――紀元前3000年ころの五帝時代初頭から『古事記』が成立した8世紀までの漢字は、【倉頡が発明した漢字作成理論】に則って作られた」と説明する資料であった。この重大な資料をも、学者たちは多数の【誤読】を加えて台無しにした。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序が【倉頡が発明した漢字作成理論】を記述した確かな資料であったことは、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の前にて紹介したわが著書、すなわちkindle版『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』(両書とも1000)の電子書籍でも詳細に具体的に解説して証明した。
 また、無料・電子書籍「四千年前に日本には漢字が伝来した『日本四千年の学問史』」においても、詳細に具体的に解説して証明した。

◆わが国の文化・国民的思想・民度・宗教観・日本人の魂の根元などさまざまな重大な諸問題は、「『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序は【倉頡が発明した漢字作成理論】を詳細に具体的に科学的に説明する資料であった」という――この事実に則(のっと)っている。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序は【倉頡伝説は事実であった】と学問的に科学的に証明できる資料であったという――この事実は、今後、世界的に強大な力(ちから)となって社会を大きく変革させるにちがいない。
 というのも、わがブログ「古代エジプト文字の字源」(27)にて詳細に具体的に証明したように、古代エジプト文字(ヒエログリフ・聖刻文字)もまた漢字と同じく「文字作成銀河の各部の形状」から作られたからである。
 古代エジプト文字は現在におけるアメリカ・ヨーロッパ・アフリカなど世界70ヵ国以上の公用語の文字と使用されるABC・アルファベットのルーツである。また、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字(アメリカ・ヨーロッパ・アフリカのABCアルファベット)だけでなく、現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字のルーツでもある。
 ゆえに、現代における世界中の大半の人々が使用する文字は「文字作成銀河の各部の形状」から起源したことになる。したがって、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は「世界の大半の人々が使用する文字は、文字作成銀河の各部から作られた」という事実が証明できるきわめて重大な資料となる。
 太古の昔から、人類は万物の形状に相似する銀河をみつめてきた。この銀河から古代エジプト文字と漢字が起源した。この事実を具体的に学問的に科学的に検証(けんしょう)できる資料の存在に誰も気づいていなかったが、この資料が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻であったのである。この発見は、学者にとってだけでなく、人類にとってもワクワクする話題なのである。
 というのも、文字は現代の国々の繁栄や富や名誉や尊厳やまた現代文化・文明の出発点・基礎・土台・原動力となったからである。ゆえに、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序によって解明される文字の起源の学問的・科学的なワクワクする発見は、必ずや強大な力となって世界中に大きな変革をもたらすにちがいない。『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序が文字の起源を解明できる資料であった事実はわが国の学者たちやメディアやジャーナリストたちには不都合な真実のためしばらくは隠蔽(いんぺい)されるであろうが、人類にとってワクワクするエキサイティングな話題であるゆえ、この発見はいずれ世界中に知れ渡るにちがいない。それゆえ、この事実は日本社会に衝撃的(しょうげきてき)に大きな変革をもたらすことになり、結局、個々の日本人にとっても大きな変革がもたらされるにちがいない。
 だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説が空理空論であってもまったく興味無い、自分には関係ないと思うようにしても――上記したように、あなたの実生活に直接的にさまざまな影響をおよぼす、あなたが生きるうえできわめて重大なエキサイティングな問題であるゆえに、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は空理空論・デタラメ・ウソ八百であることを前もって知っておいて、自分がどのように日々を生きるべきか、大きな変革に犠牲(ぎせい)にならないように巧(たく)みにじょうずに対処しなければならないことになる。

 (1)「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という「絶対的定説」はじめ、(2)『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を伝える文献である」という「定説」や、(3)「『古事記』上巻の日本神話は歴史を伝えるものではなく、虚構(きょうこう)・作り物である」という「定説」と称される学者たちの意見の知識は正しいにちがいないと鵜呑(うの)みにしてすっかり信用し、定説や有力説に心酔(しんすい)して思い込み・贔屓(ひいき)の度が激しくなると、定説や有力説の大きな誤りが見えなくなり、明白なる決定的な間違いに気づくことができなくなる。
 上記した三つの定説は日本国民を徹底的に貶(おとし)めて愚弄(ぐろう)する空理空論、日本国家を衰滅させる元凶(げんきょう)にして、【夏音文字と、倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を存続させた皇室の滅亡をはかる大罪にして、日本人のいのちの根元となる真実を抹殺・排除して虚偽(きょぎ)を事実とせんと学者たちが夢中(むちゅう)になるクレージーな暴力・暴言である。
 現在、学者たちは前人が残した『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に1ヵ所も【誤読】を加えずに忠実に読解することを頑固(かたくな)に拒絶して、学問の初歩的心得・基本原理・基本原則・鉄則を無視して多数の【誤読】を加える方法で真実・事実を曲げ、たくみに詭弁(きべん)を駆使(くし)して、日本国民を愚弄し、日本人の生活を直(ちょく)に脅(おびや)かし、メディアやジャーナリストを手なずけて日本国家を衰滅させる、皇室の滅亡をはかるクレージーなデタラメを日本中に蔓延(まんえん)させて支配することに夢中になっている。
 絶対にゆるしてはならない!

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2021年6月26日 (土)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・23

▼日本人よ! 日本全国民よ! 学者たちが主張するいわゆる“邪馬台国説”あるいは“卑弥呼”などの意見を著(あら)わす書物や教科書、またテレビ番組、漫画日本史なる類(たぐい)までにおよぶ学者たちの意見を、いっさい信じてはならない! というのも、それらすべてが真っ赤なウソ・欺瞞(ぎまん・ぺてん)だからだ! 
 江戸中期の新井白石(あらいはくせき/16571725)以来今日まで約300年、邪馬台国説学者たちは約2000字で構成される『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』という書物に自分勝手の独断的なデタラメを仰山(ぎょうさん)に加えて、“ここ掘れ掘れワンワン! 邪馬台国はここだ!”と自分はいかに利口(りこう)なのかと自慢し、“卑弥呼はかくかく、このような女性だった”とか作り話をデッチあげる書物をつくり、メディアを騙(だま)して図々(ずうずう)しくもテレビに出演し、役立たずの大法螺(おおぼら)を吹いて荒稼(あらかせ)ぎをし――日本人の尊厳を、日本人の根源的ないのちと魂と精神(理性を知性)を冒涜(ぼうとく)して、『魏志倭人伝』に記述された真実を抹殺(まっさつ)し、踏みつぶさんとしている。
 このような学者たちの真っ赤なウソに、日本全国民よ! まんまと騙されてはならない! 怒れ! 怒れ! 憤怒(ふんぬ)せよ! 日本全国民よ、邪馬台国説学者たちはあなたのいのちと魂の根元を侮辱し凌辱(りょうじょく)し嘲笑(あざわら)っているのだ!
 このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(22)まで証明してきたように、神に誓って、『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料ではない。『魏志倭人伝』は新井白石以来約300年、学者たちの誰一人も想像しなかった【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】を理路整然(りろせいぜん)と詳細に明確に伝える書物であった。
 現在、メディアと大半の日本人たちは邪馬台国説学者たちに言いくるめられ誑(たぶら)かされて「『魏志倭人伝』は、邪馬台国を詳細に説明する書物である」と思い込んでいる。しかし、『魏志倭人伝』には1ヵ所も「邪馬台国」についての記事は存在しない!
 九州説と畿内説をとなえる学者たちは【多数の誤読・作為・詐偽(さぎ/虚偽・ぺてん)・詭弁(きべん)】を駆使(くし)して、世界的に第一級の重大な文献史料である『魏志倭人伝』を嬲(なぶ)り弄(もてあそ)び凌辱して抹殺しようとしている。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】という名の【誤読】を加えずに、ただひたすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が明確となる。
 『魏志倭人伝』に記述されている真実つまり【漢字が起源した中国で失った、この漢字が起源した学術】は、今から約4000年前に習得されて以来、日本人の花咲く尊厳と、日本人の花咲くいのちと魂と精神(理性を知性)となって受け継がれた。言いかえると、【漢字が起源した学術】は【日本人の血と肉】となって受け継がれた。その証拠に、今から約1730年前に著作された『魏志倭人伝』は「中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国が習得した【漢字が起源した学術】は【日本人の血と肉】となった」と語っている。その後も、日本民族の前人たちは【漢字の起源の真実、世界史的にも重大な真実】をまもって受け継いだ。ところが、新井白石以後から現在までの300年間もつづく邪馬台国・空理空論説のために【漢字が起源した学術】はまったく不明されることになって消滅の寸前となった。
 【『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり漢字が起源した学術】は、真っ先に人間として必ずまもらなければならない日本人の義務であり責務である。
 だから、このブログでは、九州説と畿内説は【漢字の起源を伝える真実】を凌辱する空理空論・妄想(もうそう)・欺瞞(ぺてん)であった実体を徹底的に科学的に証明して暴露する。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・32

◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・一途に頑固(がんこ)に全記事を忠実に読解すると、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
 『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の真相】を知るためには――「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的にはもはや虚妄(きょもう)・空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)の序(字統の編集について)における9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、わが国は夏音(かおん)文字の学芸を習得した。この夏音文字の漢字音が、現存する最古の漢字音である。《わが国が夏代初頭に習得した夏音文字の字音》は、《中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も古い、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では最下部に配すべき最も新しい漢字音ということになるため、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する空理空論ということになる。
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 上記した白川静著『字統』が「現存する最古の漢字音」と指摘する字音は、つまり【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)に習得した夏音文字の漢字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残って実在する。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する絶対的定説は、【1】夏音文字が『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝、また『古事記』上巻・『万葉集』などに多数記載されて残っている事実と、【2】白川静著『字統』の序(字統の編集につて)における音韻学の成果に反する空論であったことにある。
 そもそも『魏志倭人伝』に登場する「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」という字音は「現存する最古の夏音文字の漢字音」である。この夏音文字の字音よりも新しい中国の上古音だと、「卑弥呼」は「ピミカ」と発音することになる。
 邪馬台国説学者たちは「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む。だから、邪馬台国説学者たちの意見にもとづくと、【わが国は、後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸を習得していたこと】は確実な事実となる。
 だから、邪馬台国説学者たちが「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む――この事実、つまり【わが国は後期縄文時代に夏音文字の学術を習得した事実】にもとづいて、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読むと、【『魏志倭人伝』は漢字が起源したときの学術を理路整然(りろせいぜん)と説明する書物】であったことが科学的に具体的に明かとなる。

◆漢字は今から約5000年前、 中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。
 【倉頡が漢字を発明した起源の詳細】は、現在、漢字が起源した中国において解明されていない。
 上記したように、江戸時代中期の新井白石以前、【わが国は、上古(後期縄文時代初頭)、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得したという学識】は高貴な良識であった。しかし、わが国では、【倉頡が漢字を発明した起源の詳細】は邪馬台国説によって解明できなくなった。というのも、新井白石以後、学者たちが【『魏志倭人伝』に多数の誤読・作為・捏造(ねつぞう)を加える反()学術運動】に情熱をそそぐことになったからである。ゆえに、反()学術運動の空理空論の邪馬台国説によって約300年間も、【倉頡が発明した漢字作成理論】は排除されて闇に葬られることになった。
 でも、しかし、【倉頡が発明した漢字作成原理】はいまだ死に至らない、不死鳥である。
 というのも、前述したように『魏志倭人伝』に卑弥呼が理路整然と【倉頡が発明した漢字作成理論】について説明し、また中国の海岸線の約3倍にして細密なわが国の海岸線に明確に保存されているからである。
 だから、約300年間も学者たちによって禁止された『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに忠実に読解する方法を復興すれば――【倉頡が発明した漢字作成理論】は鮮烈に蘇(よみがえ)る。

◆『魏志倭人伝』には「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と具体的に説明した記事が、下記のごとく2ヵ所存在する。
 一つ目の記事は、【134字で「倭国の易卜に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える記事である。
 二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津()では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える記事である。

 上記した「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する二つの記事は、邪馬台国説によって無視され排除された。
 このため「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空論が学者たちに流布されて――そして定説となった。
 したがって、もしも学者たちが『魏志倭人伝』をただひたすら・いちずに忠実に読解していれば【倉頡によって発明された漢字作成理論】が、このブログ以前に科学的に解明できていたことになる。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この「漢字」の由来に学者たちが気づいていれば――『魏志倭人伝』は「【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する書物である」ことが証明されていた。
 「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
 『魏志倭人伝』に書き記された【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河・字形の原形となった銀河・原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕によって、【黄帝時代から殷代(いんだ)前半期の漢字】は【文字作成銀河各部の形状】となった。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員にも神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑は免除されることになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 『魏志倭人伝』において、【(1)今から約5000年前に倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義】は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、(2)《中国の海岸線地図》と、(3)そして《日本列島各部の地図の形》によって成立する。そして、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。だから、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》が全部そろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義する。だから、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。
 しかし、黄帝時代以前の約6000年前から始まる三皇(さんこう)時代には、黄帝が研究した医学をあらわすことができる漢字は発明されていなかった。したがって、倉頡が漢字作成する目的は【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字を考案すること】であった。倉頡は【文字作成銀河(夏の銀河)の各部の形状と中国全土を包む海岸線の地宜(ちぎ/地図の形)を字源・字形・字義とする漢字】を創()くって、【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字の発明】に成功した。
 したがって、【倉頡が発明した漢字作成理論】は【深遠なる銀河と黄帝が研究した深遠なる人命の神秘を合体して誕生した学問(学術)】であった。
 前述したように、わが国には、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が伝来して習得された。
 というのも、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回・5回と14回・15回の4回で詳細に解説し証明したように――『魏志倭人伝』の中半に登場する「女王国より以北の名称不明の海上に浮かぶ皆倭種なりの一小国と侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国、この4小国の東南に所在して船行一年にして参問(さんもん)できる、周旋(しゅうせん)五千余里ばかり」と説明する76字の記事をもって、『魏志倭人伝』は「今から約4000年前の後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と証言するものであったことになる。
 『魏志倭人伝』には、34の小国が登場する。
 上記した4小国以外の対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名をもって、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明することにした。言いかえると、黄帝が作った医学書『内経』を残っていないが――卑弥呼は30の小国名をもって理路整然と『内径』に説明されていた医学知識を復興することにした。というのも、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤として倭人国を統治することにしたからである。このため、卑弥呼は30の小国名をもって【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する学術体系組織論を構築(こうちく)して「倭人国」という国家と王朝を創設(そうせつ)した。
 【倉頡が発明した漢字作成理論】は【深遠なる銀河と黄帝が研究した深遠なる生命の神秘を合体して生まれた学問(学術)】であったことは、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すると一点の矛盾点もなく系統的な合理が構築されて手に取るように明白となる。この証明は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(22)までにおいて、詳細に具体的に科学的におこなってきた。
 前回では、12番目の都支(たき)国・13番目の弥奴(みな)国・14番目の好古都国(こかた)

国・15番目の不呼(ふこ)国という4ヵ国の小国名には、【黄帝の「女性の生殖器官と性の生殖細胞の精子と女性の生殖細胞の卵子」についての考え】を説明する役割があったことを具体的に解説して証明した。

◆今回は、16番目の姐奴(つな)国・17番目の対蘇国・18番目の蘇奴(さな)国・19番目の呼邑(こお)国・20番目の華奴蘇奴(かなさな)国、この5ヶ国について解説し証明する。
 前回のブログにおいて、15番目の不呼国・旧国遠江(現在の静岡県西部)における「浜名湖の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」は[]の字源「花の形」に相似すると見立てられたことを証明した。ゆえに、今回における[]の字を配する19番目の呼邑国もまた「遠江の浜名湖と同様に、花の形の湖」を有する小国であったことになる。
 この「花の形をした湖」の小国の呼邑国周辺に、姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国の4つの小国が所在する。この4カ国は「蝶の形をした国々」である。つまり、「花に蝶」というわけである。
 下の図に示したように、黄帝は「女性の骨盤の正面形」は「蝶の成虫の姿」に相似するという感想を抱いた。ゆえに、黄帝は「蝶」には「花」とむすびつけた連想にもとづき、前回にて解説したように「男性の生殖能力(今日でいう、生殖細胞)の精子(せいし)と女性の生殖能力(生殖細胞)の卵子(らんし)」について考えたことになる。
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 前回のブログで指摘したように――現在と卑弥呼時代、また黄帝が生存した五帝時代初頭の黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵(こうていりょう/北緯3535)の天頂にめぐってきた銀河部は相違する。
 下に、(1)卑弥呼時代と(2)現在の黄帝陵(黄帝が居住した本拠地周辺、すなわち[]の字源となった地域)の天頂にめぐってきた銀河部の図を配した。
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 下に、五帝時代初頭の黄帝時代に黄帝陵(北緯3535)と中国全土にめぐってきた銀河部の図を配した。下の図における「北緯30度」の地域に、中国南部の紹興市(しょうこうし/『魏志倭人伝』に登場する会稽)が所在する。
 黄帝時代、黄帝陵の天頂周辺に国際天文学会の用語「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)
と「十字の銀河の頭部とその頭部が被(かぶ)るカンムリの銀河部」がめぐってきた。
 「北天の最輝部」は「北半球で住む人々が最も輝いて見える銀河部」である。
 「北天の最輝部」は「桃色をおびた銀白色にかがやく美しい花のような銀河部」である。ゆえに、「花と蝶」から、黄帝は天頂周辺にめぐってきた西の「北天の最輝部」と東の「十字の銀河の頭部が被るカンムリの形」を注目して、「目に見えない、微小の精子と卵子の形」について考えた。 
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 下に配した上図は、黄帝時代に黄帝陵の天頂周辺にめぐってきた西の「北天の最輝部」と東の「十字の銀河の頭部が被るカンムリの銀河部」の図である。
 黄帝は「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリの銀河部」の両者の形は相似しあうと見立て、また、その両方の銀河部の形は、下図における「花の生殖器官、つまり花冠(かかん/花弁)の形」に相似すると考えた。
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 上記したように、黄帝は【1】黄帝が居住した本拠地(黄帝陵周辺地域)の天頂周辺にめぐってきた「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリの形状」は「花の形」に相似すると考えた。また前述したように、黄帝は【2】「女性の骨盤正面形は、蝶の成虫の姿は相似する」と考えた。
 だから、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】において「【1】花の形(黄帝が居住した本拠地の天頂周辺にめぐってきた東・西の銀河部の形)と、【2】蝶の形(女性の骨盤の正面形)」が結びついた。
 ゆえに【黄帝の医学研究】は「花と蝶」と譬(たと)えられた。だから、「花と蝶」に譬えられた【黄帝の医学研究】を、卑弥呼は姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国の5つの小国名をもって表示することにしたのである。

◆前回のブログで指摘したように――中国の南部の呉における「杭州湾(こうしゅうわん)の地宜)」は「花の形(花冠の形)」に相似すると見立てられて[()]の字源となった。
 下に、「〔東〕を上・〔西〕を下とする杭州湾の地宜」を配した。杭州湾の湾口(わんこう)は北緯3050分~北緯30度の中間に在る。下の図における会稽(かいけい)は北緯30度である。会稽は、現在の紹興(しょうこう)市である。
 前回のブログで解説し証明したように、「杭州湾の奥・銭塘江(せんとうこう)の河口近くの湾部」は「花冠をささえる花の台(うてな/萼柎)」に相当して[]の字源を示した。また、「花冠部となる杭州湾」は[]の字源を示した。したがって、「杭州湾の地図の形(地宜)」は[][]、つまり「不呼」と表示することになった。
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 下の図に示すように、「遠江の浜名湖の地宜」は[]の字源「杭州湾」と同様に「花冠の形」に相似すると、卑弥呼は見立てた。また、卑弥呼は「浜名湖の支湖の引佐細江(いなさほそえ)」は[]の字源「花の台(萼柎)」に相似すると見立てた。ゆえに、卑弥呼は「遠江の浜名湖」は「中国の杭州湾」と同様に「不呼」をあらわすと考えて、「浜名湖がある遠江、現在の静岡県西部」の小国名を「不呼国」と定めたのである。
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 前回のブログにおいて、下に配した図を用いて証明したように――[]の字源「杭州湾の地宜」は「鳰(にお)が水面に浮かぶ姿」にも相似する。ゆえに、「鳰」は[]の字源をあらわすことになった。
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 前回のブログにて、下に配した図を用いて証明したように――『魏志倭人伝』が著作された同時代の3世紀後半に生存した遠江の豪族・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)は「鳰」は[]の字源であることを明確に示して、「不呼国、現在の静岡県浜松市北区の引佐(いなさ)町の金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)地区の地宜」を「鳰と浮巣の形」に設計した。
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 前述したように、黄帝時代、「十字の銀河」は中国各地の天頂にめぐってきた。
 下に示すように、「十字の銀河の乳房」に「M39」と名づけられた散開星団(さんかいせいだん)が重なる。「M39」は星数の少ない、明るい星が集まった散開星団である。すこし目をこらすと、「M39」の形は「鳰と鳰の浮巣(うきす)」のような形をしているのが見える。
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 上記したように、また下に配した図に示したように、「M39」は「鳰と鳰の浮巣の形」に相似する。
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 前述したように「旧国・遠江」、つまり「浜名湖がある、浜松市を中心とする現在の静岡県西部」の小国名を、卑弥呼は15番目の「不呼国」と定めた。この不呼国であった浜松市北区の引佐町の金指・井伊谷地区の地宜は――「鳰と鳰の浮巣」の形に設計されている。したがって、引佐町の金指・井伊谷地区の地図の形は、[]の字源は「鳰」であると表示する。
 15番目の「不呼国」の次の16番目の小国名を、卑弥呼は「姐奴(つな)国」と定めた。
 というのも、上記したように、「十字の銀河の乳房と重なるM39」は「不呼国の[]の字源「鳰と鳰の浮巣の形」に見えるからである。つまり、不呼国の[]の字源「鳰」の形となる「M39」は「十字の銀河の乳房」と重なり、「姐奴国の西部」は「母となった女性の、大きな左右の乳房の形をした地宜」となる。
 だから、15番目の「不呼国」の次の16番目国を、卑弥呼は「乳房つなぎ」ということで「姐奴国」と定めたのである。

◆下の図に示すように、15番目の不呼国から16番目の姐奴国までの中間には、14番目の好古都国・13番目の弥奴国・17番目の対蘇国の三ヵ国が所在する。また、16番目の姐奴国よりも、17番目の対蘇国のほうが、15番目の不呼国には近い。ゆえに、不呼国の次は対蘇国と定めるのが順当となる。しかし、15番目の不呼国と16番目の姐奴国の両国は、上記したように「乳房」という共通点を有するる。これに対して、15番目の不呼国と17番目の対蘇国には共通点が存在しない。だから、卑弥呼は倭人国の小国の順番を不呼国の次は姐奴国と定めたのである。
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 上の図が示すように、19番目の呼邑(こお)国は、古称が「鳰の海」であった琶湖を有する旧国近江・現在の滋賀県である。「鳰の海」の[][]の字源であり、[]の字源は「花の形の、杭州湾」であった。ゆえに、卑弥呼は「琵琶湖の地図の形」を「鳰の姿」に相似すると見立て、また、卑弥呼は「琵琶湖の地宜」は「花の形をした、杭州湾」に相似すると見立てたことになる。
 前述したように、黄帝は――下の図に示す「女性の生殖器官と花の生殖器官の形」は類似すると見立てた。だから、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】は「花」に譬(たと)えられることになった。
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 さらに、前述したように、黄帝は「女性の骨盤の正面形」は「翼を有する蝶の形」に相似すると見立てた。
 だから、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】は「花と蝶」に譬えられることになった。
 16番目の「姐奴国の地宜」は「蝶の成虫の姿」に相似すると見立てられた。17番目の「対蘇国の地宜」は「蝶の幼虫・蛹(さなぎ)・羽を有する成虫の姿」に相似すると見立てられた。18番目の「蘇奴国の地宜」は「蛹にならんとする蝶の終令幼虫(しゅうれいようちゅう)の姿」に相似すると見立てられた。19番目の「呼邑国の地宜」は「花の形」に相似すると見立てられた。20番目の「華奴蘇奴国の地宜」は「華()と蝶の成虫の姿」に相似すると見立てられた。
 このように、「16番目の姐奴国から20番目の華奴蘇奴国までの小国名」をもって、卑弥呼は「【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】は【花と蝶】に譬えられた」とあらわしている。

16番目から20番目までの小国のうち、「姐奴国・蘇奴国・華奴蘇奴国」という小国名にある[]の字は【黄帝の「女性の骨盤・生殖器官と子どもの出産」の研究】をあらわした。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の19回でも詳細に解説したように――下の図に示すように、[]の字源銀河は「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」であった。
 「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は[(ゆう)][(ゆう)]の字源でもあった。
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 [又]の金文形にある「渦巻き」は「産道をくぐりぬけるときの、出産する子どの4回の旋回(せんかい)」をあらわす。この「出産児の4回の旋回」を、産婦人科では「回旋(かいせん)」と名づけている。
 「母体の子宮口(しきゅうこう)が開く出産第一期・開口期(かいこうき)から出産児の顔が誕生する出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの、子どもの頭の4回の回旋」において、第1回旋における出産児の頭の回旋は「時計回りに90度の回旋」し、第2回旋と第3回旋は「反時計回りに90度回旋」し、第4回旋は「時計回りに90度回旋」する。
 この「第1回旋、第2回旋、第3回旋、第4回旋」という語を挿入(そうにゅう)して、[]の字源となった「4回の回旋以外の、狭い産道をくぐりぬける出産児と母体の様子」を解説すると、[]の字源解説が煩雑(はんざつ)となって難解となる。
 ゆえに、これからおこなう[]の字源解説では、〔4回の回旋〕を示す語を省略することにした。
 ――開口期において、陣痛(じんつう)がはじまると、子宮口にむかった卵膜(らんまく)は羊水(ようすい)によってふくらみ、くさび状に子宮頸管(しきゅうけいかん)をひろげ子宮口が開いていき、子の頭はしだいに押し下げられてくる。子の頭は骨盤産道(こつばんさんどう)に入り込み、骨盤産道の形に応じて向きを変えていく。正常分娩の場合には、骨盤入口の上では子のアゴを胸につけた姿勢で、子の背中は母体の左または右にある。中ほどにくると子の頭は斜(なな)め後ろ(母体の背側)に顔をむけ、出口では顔をすっかり後方(母体の背側)にむける姿勢となる。開口期の終わりには、ほぼこの状態となる。
 次は出産第二期の娩出期の始まり、子の頭が骨盤出口に近づいてとき、母体の直腸(ちょくちょう)は圧迫されるので自然に怒責(どせき/いきみ。きばること)がおこり、母体の腹圧(ふくあつ)が加えられる。陣痛と腹圧との力で、子の頭はますます押し上げられ、ついに陣痛発作(じんつうほっさ)のときには膣(ちつ)の入口から子の頭が見えるようになる。さらに進んで子の頭のもっとも大きい部分が膣の入口を通過して、子の頭が誕生する。ついで、子の頭は母体の左または右に向くが、子の肩の部分が骨盤出口を通るためである。肩はまず上(母体の腹側)にあるほうが先に、ついで下(母体の背側)の肩がでると、あとは(娩出期の終わりは)、子の顔の正面は母体の背側のほうに向いて、一気に生まれる。

 []の字源は、上記した説明における「子を出産するための母体の強大な力」であった。
 「子どもの出産における、母体が大声をあげる怒責(どせき)」は「稲妻(いなづま/雷鳴)や虎が咆()える大声」に見立てられて、[]の字源をあらわすことになった。「母体の怒責」は[]の下に[]が加えられる[]の字源となった。
 以上のごとく、「姐奴国・蘇奴国・華奴蘇奴国」という3小国名にある[]の字源は、上記した「出産第一期・開口期から出産第二期・娩出期終わりまでにおける、母体が子どもを生むときの凄(すご)い強大な力」であった。
 だから、[]の字は【黄帝の「女性の骨盤・生殖器官と子どもの出産」の研究】をもあらわすことになった。
 したがって、「姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国」の4ヵ国の小国名は【黄帝の「女性の骨盤・生殖器官と子どもの出産」の研究】をもあらわしている。その証拠に、【黄帝の「女性の骨盤・生殖器官と子どもの出産」の研究】は「花と蝶」と譬えられたゆえ、「花」は「呼邑国」という小国名と地宜があらわし、「蝶」は「姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国」の4ヵ国の小国名と地宜があらわす。
 下に、〔蝶と蛹(さなぎ)の姿に相似する銀河図〕を配した。
 []の字源銀河となった「鬼の姿に似る銀河」は「蛹の姿」に相似すると見立てられ、「鬼の姿に相似する銀河と十字の銀河と、その背景となる銀河」は「羽をひろげて飛ぶ蝶の姿」に相似すると見立てられた。
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 「羽をひろげて蝶の成虫をあらわす銀河」は〔東向き〕であるが、「姐奴国の地宜」の「蝶の姿」は〔西向き〕であり、「対蘇国の地宜」「蝶の姿」は「北に向く、真上から見た羽を左右に開く正面形」であり、「華奴蘇奴国の地宜」は「東に向く、真上から見た羽を左右に開く正面形」である。
 ゆえに、上記した「三小国の地宜」は「蝶の成虫や蛹の姿をあらわす銀河」の向きと異なるが、この向きの相違は、上記した「出産児の頭の4回の回旋」をあらわしている。

◆これから、16番目の「姐奴(つな)国」から20番目の「華奴蘇奴(かなさな)国までの5ヵ国の位置と範囲を解説し証明する。
 下の図に示したように、16番目の「姐奴(つな)国」は「旧国の越前、現在の福井県中部・北部」であった。[]の字には「母。姐御(あねご)」という意味がある。この[]の字義に合致して、下の図が示すように、「敦賀(つるが)半島より南部の境界線、つまり越前西部の南限の境界線」は「たくましい母親の大きな乳房・たくましい豊かな母の胸部の形」となる。
 前述したように、[]は「強大な力」(母体が子どもを生むときの、強大な力)をあらわす。ゆえに、「姐奴」の「つな」と読む夏音は「綱(つな)」をあらわすことになり、「強大な力で作られた、太い綱」を意味したと考えられる。その証拠に、「姐奴(越前)北部の地宜」は「一本の太い綱あるいは注連縄(しめなわ)を作る際、多数の細い綱を扇状(おうぎじょう)にひろげ、これらの細い綱をよりあわせて一本の太い綱にする完成間際の綱の形」に相似する。
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 なお、下の図に示すように、「姐奴国の地宜」は「蝶の成虫の姿」のごとくに観える。
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17番目の「対蘇(つさ)国」は「旧国の美濃(みの)、現在の岐阜県中部・南部」であった。
 下に配した〔対蘇国・美濃の解説図〕における上図に示したように――「美濃の東部の地宜」を卑弥呼は「蝶の幼虫の姿」に相似すると見立て、「美濃の東部の地宜」を「蝶の成虫の姿」に相似すると見立てた。ゆえに「蝶の幼虫と成虫の姿の一対」となるゆえ、卑弥呼は「美濃」の小国名を「対蘇国」と定めたことになる。
 下の〔対蘇国・美濃の解説図〕における下図に示したように――「美濃の全域の地宜」を、卑弥呼は「ジャコウアゲハの蛹(さなぎ)の姿」に見立てたにちがいない。
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 したがって、「対蘇国・美濃」を、卑弥呼は「ジャコウアゲハの幼虫と成虫と、そして蛹の形をした小国」と考えたことになる。
 美濃は現在の岐阜県中部・南部である。「岐阜」という名がつく「ギフチョウ」は「ジャコウアゲハ科」に分離される蝶であり、その名のとおり岐阜県に生息する。ジャコウアゲハのオスの羽とジャコウウシのオスの眼下腺(がんかせん)からの分泌物(ぶんぴつぶつ)はともに麝香(じゃこう)の匂いがする。
 前回までのわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は幾度もくりかえして、黄帝が研究した「女性の生殖器官の正面形」は「ジャコウウシの顔」に相似すると見立てられた。ゆえに、【倉頡は発明した漢字作成理論】は「鳥獣の足跡」と名づけられ、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 「ジャコウウシ」は[][]の字源となって「女性の骨盤と、骨盤が包んで衛(まも)る女性生殖器官」の両方をあらわした。というのも、[]の字源となった「ジャコウウシ」は「もの凄(すご)い力を有する獣」であるからである。したがって、[]の字源・字義は「母体が子どもを生むときの、強大な力」と「ジャコウウシの、強大な力」であった。だから、[]の字義は、要するに「強大な力」ということになった。
 アゲハチョウ科のギフチョウの蛹の体は、太く短い皮膚はかたい。黒褐色(くろかっしょく)で斑紋(はんもん)はない。斑紋がない黒褐色のギフチョウの蛹に類似して、ジャコウウシもまた黒褐色の体毛(たいもう)でおおわれる。したがって、ギフチョウの蛹によって、ジャコウウシは黒褐色の毛足の長い毛のコートで体全体がおおわれている様子が伝えられていたことになる。

18番目の「蘇奴(さな)国」は「旧国の若狭(わかさ)、現在の福井県南西部」であった。
 上記したように、17番目の「対蘇国の全域の地宜」は「ジャコウアゲハの幼虫や蛹の姿」に相似すると見立てられた。ゆえに、18番目の「蘇奴国の地宜」は「ジャコウアゲハやギフチョウの幼虫や、蛹になる前の終令幼虫の姿」に見立てられたことになる。
 下の図における左上の「蘇奴国の地宜」を、卑弥呼は「アゲハチョウ科のアゲハチョウ・ギフチョウ・ジャコウアゲハの幼虫や、蛹にならんとする終令幼虫の姿」に見立てて、「若狭」の小国名を「蘇奴国」と定めたことになる。
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 蝶の幼虫は脱皮(だっぴ)が近づくと食をとらずに静止し、前の胸部が膨(ふく)らむ。子宮という密室で羊水の中で過ごす月齢の少ない胎児も静止して、前の胸部が膨らむ。蝶の蛹は、食物をとらず、ほぼ静止の状態となる。子宮の羊水に漬()かって育つ月齢の少ない胎児も、食物をとらずほぼ静止状態となって過ごす。胎児は食物をとらないゆえ、生まれるまでうんちを出さない。出産で産道をくぐる時におなかが押され、初めておしりからうんちが出てくる。汁(たんじゅう)の色素に由来して、赤ちゃんが初めて出すうんちは蝶の餌となる草木の葉の色の緑色である。だから、「出産時に初めて緑色のうんちを出す赤ちゃん」は「緑児(みどりご)、つまり「嬰児」と2字の漢字で表記されて「みどりご」と読むことになった。
 なお、「若狭」という旧国名の由来は「若い13歳くらいの乙女たちの瞳は最も澄んで暗い銀河部や星をキャッチする眼力に最も優(すぐ)れている。ゆえに、13歳くらいの乙女たちは天頂にめぐってくる銀河部や星たちが映る鏡となる谷川の水面や池岸の澄んだ水面や清らかな水汲み場の水面など、すなわち“狭井(さい)”から緯度を精確に測定できる呪能(じゅのう)を有する」ということであったと考えられる。
 これゆえ、「13歳くらいの若い乙女」の[]に「狭井」の[]を加えると「若狭」となる。

◆前掲した〔文字作成銀河(夏の銀河)の写真〕を撮影したわが国を代表する天体写真家の藤井旭(ふじいあきら)氏は「銀河や星をキャッチできる最も優秀な瞳を有する13歳の乙女を連れて、銀河はじめ天体を撮影することが度々ある」と、私に説明したことがある。このように、現在でも、銀河や星や星雲・星団をキャッチする能力に最もすぐれる眼力の持ち主は13歳くらいの乙女たちである。ゆえに、「13歳くらいの若い乙女」の[]に「狭井」の[]を加えて、「蘇奴国」の旧国名は「若狭」となったにちがいない。
 『古事記』上巻に〔天照大御神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話〕がある。この説話には「天之真名井(あめのまない)」が登場する。「天之真名井」は「天頂にめぐってくる銀河部や星などが明るく映る鏡のような水面を有する井戸、つまり天頂緯度測量地点」を意味した。奈良県桜井市の三輪町には古くから最も聖なる山とされた三輪山、大神(おおみわ)神社の摂社(せっしゃ)の狭井(さい)神社、三輪山をご神体と大神神社が所在する。狭井川(さいがわ)は三輪山の麓の東北から狭井神社と大神神社の辺(ほとり)を南西にむかって初瀬川(はつせがわ)で合流する。
 この「三輪山の麓から流れる狭い谷川・狭井川の岸辺の天頂の銀河部を明るく映す鏡のような水面・天頂緯度測量地点」が、〔天照大御神と須佐之男命の誓約説話〕に登場する「天之真名井」であった。したがって、「天頂の銀河部を明るく映す鏡のような水面の、天之真名井」は「狭井(さい)」と名づけられたのである。
 古代、「倭人国における天頂にめぐってくる銀河部を明るく映す鏡のような谷川や池岸や水汲み場などの水面・天頂緯度測量地点」は「狭井(さい)」と呼ばれた。「狭井に映る天頂の銀河部」をとらえて精確に緯度を測定できる能力に最も優れる澄んだ瞳(ひとみ)を有するのが、13歳くらいの乙女たちである。
 だから、上記したように「旧国の若狭の地宜」を「蝶の終令幼虫の姿に相似する」と見立てた卑弥呼は、「旧国の若狭」の小国名を「13歳の乙女たち」にも見立てて「蘇奴国」と定めたのである。
 古代は天頂にめぐってくる銀河部をキャッチして緯度を測定していた。この能力に最も優秀な瞳を有する13歳の乙女は、古代において、緯度を精確に測量できる能力に最も優れる、女性の人生における最盛期と称(たた)えられていた。
 『魏志倭人伝』の末部は――卑弥呼が没する時に百余人の奴婢(ぬひ)を殺して、卑弥呼の墓に埋めた残酷な徇葬(じゅんそう)に反対して、徇葬を決行した卑弥呼の後を継いだ男の倭王に服従せず、国中の人民たちは反乱して倭王朝軍と戦った。倭王朝軍は千余人の人民を殺した――と記述する。
 この徇葬を憎悪して倭人国の国中の人民たちが倭王朝軍と戦った大乱(たいらん)を平定したのは、男王の倭王の後を継いだ倭女王の壱与(いよ)であった。『魏志倭人伝』は壱与について「また卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三で王となりしを立てて、国中遂に定まる」と記述する。つまり、『魏志倭人伝』は――卑弥呼が統治する宗女(巫女界を代表する巫女)の壱与は、十三歳の時に新生「日本国」の女王に就任し、そして数年後(32歳ころ)に倭王の後を継ぐ倭女王に就任して徇葬を憎悪して倭人国の国中の人民たちが倭王朝軍と戦った大乱を平定した――と説明していたのである。
 〔注 中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「倭人国の隣国は東鯷人(とうていじん)国であった」と記述する。この「東鯷人国」が倭人国の一員の小国(倭人国の35番目の小国)となって国号が「日本国」と改められた。東鯷人国・後の小国・日本国は倭人国の不呼国(遠江)の隣りの旧国の駿河から以東の駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・飛騨・信濃・上野・下野・下総・上総・安房・常陸の東海地方東部から関東地方一円地域であった〕。
 『魏志倭人伝』の中半には、五世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が加えた「倭では春に田を耕す時を一年と数え、秋に農作物を収穫する時も一年と数える二倍暦であった」と注がある。この二倍暦だと「新生・日本国の女王となった、十三歳の壱与」は「六・五歳の幼女」であったことになる。しかし、「六・五歳の幼女」には「女王となる特別に優れた能力・呪能(じゅのう)」を有していない。だから、壱与は《緯度を精確に測量できる能力に最も優れる最盛期の十三歳の時(二倍暦では二十六歳の時)》に、新生・日本国の女王に就任したと考えるべきことになる。
 したがって、『魏志倭人伝』は「倭人国では、一年365日を二年と数える二倍暦であった。しかし、卑弥呼の晩年には365日を一年とする中国の正歳(せいさい)を使用するようにした」と説明していることになる。
 〔なお、『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼の墓に殺して埋められた徇葬者の奴婢」は「奴」が「十八歳くらいの青年」、「婢」は「十三歳くらいの乙女たち」であったと考えられる。というのも「犠牲(ぎせい/いけにえ)」の[]の字源を、『説文解字』は「宗廟の牲(せい)なり」と解説し、『説文解字』は[]の字源を「完全なるなり」と解説するからである。
 ゆえに、『説文解字』は[][]の字源を「宗廟、つまり偉大な王や女王の墓に埋める犠牲としては毛色肢体すべてがそなわったジャコウウシがささげられた」と解説している。
 だから、ジャコウウシが生息していなかった倭国の女王・卑弥呼の墓に殺されて埋められた徇葬者の「犠牲(いけにえ)」は、「男性として完全なる最盛期をあらわす大きな手と太い腕とたくましい頑丈な肉体の持ち主の十八歳くらいの若者の[]と、最も澄んだ瞳を有して天頂緯度を最も精確に測量できる完全なる能力の瞳を有する十三歳の乙女の[]」であったと考えるべきことになる〕。

19番目の「呼邑(こお)国」は、「旧国の近江、現在の滋賀県」であった。

前述したように、[]の字源は「中国の南部の呉における、水面に浮かぶ鳰の姿に相似する杭州湾(こうしゅうわん)」であり、また「花の形に相似する杭州湾」であった。
 「琵琶湖」の古称は「鳰の海」であった。したがって、下の図に示した「琵琶湖の地宜」を、卑弥呼は「杭州湾の地図の形」に相似すると見立てて、「近江、現在の滋賀県」の小国名を「呼邑国」と定めたのである。
 「呼邑国」の[(ゆう)]の字の上部は[()]、下部は[()]である。
 白川静著『字統』は[]の字について「囗()は都邑(とゆう)の外郭(がいかく)、城壁を繞(めぐら)している形。(中略)。巴()は人の跪居(ききょ)するさま。城中に多くの人のあることを示す」と解説する。
 だから、「呼邑国」の[]は、下に図に示した「琵琶湖を包囲する比良山(ひらやま)山地・野坂(のさか)山地・伊吹(いぶき)山地・鈴鹿(すずか)山脈・水口丘陵(みなくちきゅうりょう)」であったことになる。
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 下の図に示したように、琵琶湖と杭州湾の形は「花の形」に相似する。
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 「琵琶湖の地宜」は上の図に示したように「花の形」に相似すると見立てられた。
 【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】は「花と蝶」と譬(たと)えられた。
 ゆえに、「地宜が花の形の、琵琶湖」を包囲するように、卑弥呼は「花と蝶」に譬えられた【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】をあらわして、「蝶の成虫はじめ幼虫や蛹」に見立てた姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国の四ヵ国が包囲するようにした。

20番目の「華奴蘇奴(かなさな)国」は「旧国の山城(やましろ)、現在の京都府南部」であった。
 卑弥呼は「山城、京都府南部の地宜」を「藤や萩(はぎ)の華()の形」に相似すると見立てて、また「藤や萩の華()のように、美しい蝶の姿」に相似すると見立てて、小国名を「華奴蘇奴国」と定めたことになる。
 あるいは「山城、京都市南部の地宜」は山地や草原に生息する「ヒメシロチョウの姿」に相似する。ヒメシロチョウはモンシロチョウと同じくシロチョウ科に分類される。ヒメシロチョウ(羽をひろげた長さは40mm)はモンシロチョウ(羽をひろげた長さは4560mm)より小さな白い羽を有するモンシロチョウに似た蝶である。ヒメシロチョウが食べる草はクサフジやツルフジバカマである。クサフジやツルフジバカマの華()は藤の花と同じく房状(ふさじょう)で、その色はあざやかな藤色である。したがって、「華奴蘇奴国」とは「クサフジやツルフジバカマの藤色の華(はな)のごとく、白い可愛いヒメシロチョウのごとく華麗な小国」とも意味するものであったと考えられる。
 下の図における下部の図に示したように、[]の金文形の上部の[×]は「藤やクサフジなどの穂の両側にある多数咲く房状の花びら」をあらわし、その下の「下部の横二本の線」は「藤やクサフジの葉」をあらわし、「左へと[]の字に曲がる中央線」は「藤やクサフジの花穂(かほ)」をあらわしていることになる。ゆえに、[]の金文形は「その穂に小さな美しい蝶の成虫の姿に相似する房状の花が多数咲く、藤・萩(はぎ)・クサフジ・ツルフジバカマなどの花穂」をあらわしている。
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 ゆえに、卑弥呼が「華奴蘇奴国」と定めた小国名は「死骸と化したごとくにみえる蛹が背中を[]の強大な力で割()いて美しく命が蘇(よみがえ)る」と意味するものであり、また「藤や萩の花の形に相似する華麗な蝶の成虫はわずか数分で[]の強大な力で体を浮かせて空を飛び、強くたくましく美しく命を示す」とも意味するものであったにちがいない。

 以上のごとく、卑弥呼は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究】が「花と蝶」と譬えられた故事来歴(こじらいれき)を、姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国の五カ国の小国名であらわした。

◆卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。
 「倭人国」の[()]は「人民たちの胃袋を食物で満たす、五穀豊穣(ごこくほうじょう)」という政治スローガンをあらわした。
 []の初文(初めの文字)は倉頡が創(つく)った[()]である。[]の字も「人民たちの胃袋を食物で満たす、五穀豊穣(ごこくほうじょう)」という政治スローガンをあらわした。
 つまり、[]の字は黄帝王朝の政治スローガンであり、【倉頡が発明した漢字作成方法における基本字】であった。
 したがって、卑弥呼は黄帝王朝の政治スローガンを受け継いだ。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成方法における基本字】の[]の字源・字義を受け継ぐ[]の字を国号に用いたのである。
 白川静著『字統』は[]の字について「稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う男女の姿で、禾穀(かこく)の象に従う字である」と解説する。また、同書は[]の字について「声符(せいふ)は委()。委は稲魂を被(かぶ)って舞う女の形である。(中略)。男が稲魂を被って舞うのは年である」と解説する。また、同書は[]の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾形(かけい)の作りものを被(かぶ)って舞う女の姿をいう。同じく禾形の作りものを被って舞う男を年というので、同じ構造法の字であり、男女が稲魂に扮して舞う農耕儀礼を示す」と解説する。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は21回~今回の23回をもって――卑弥呼は倉頡が創った[]の字源・字義の「稲魂を被って舞う男女の姿」をあらわすため、11番目の「伊邪(いや)国」から20番目の「華奴蘇奴国」までの10ヵ国の小国名をもって、白川静著『字統』が「[]は稲魂を被って舞う女の形」と解説する「女性グループ」に分類して、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と表示するようにした事実――を証明した。
 ゆえに、次回からは――21番目の「鬼()国から30番目の「狗奴(くな)国」までの小国名をもって、卑弥呼は白川静著『字統』が「[]は稲魂を被って舞う男の姿」と解説する「男性グループ」に分類して、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と表示するようにした事実――を、詳細に解説し証明する。
 したがって、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が17回~20回までで詳細に証明し解説した1番目の「対馬(つしま)国」から10番目の「巳百支(じはき)国」までの10ヵ国を、卑弥呼は「邪馬壱(やまい)グループ」に分類したことになる。というのも、対馬国から狗奴国までの10ヵ国は――倉頡が創った[]の字源・字義をうけつぐ、国号の[]の源・字源をあらわすとともに、[]の字源・字義の中核となった「邪馬壱」という語源を表示するものであったからである。
 以上のごとく、『魏志倭人伝』は――卑弥呼は倭人国の30ヵ国を10ヵ国ずつ3つのグループ、つまり(1)「邪馬壱グループ」・(2)「女性グループ」・(3)「男性グループ」に分類して、倭人国の政権基盤は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】であると定めた――と記述する書物であった。
 他方、新井白石以来現在まで約300年間も学者たちが受け継いで主張する「邪馬台国」について説明する記事は、『魏志倭人伝』には1ヵ所も存在しない。
 だから、邪馬台国説は根拠無しの完全なる空理空論、真っ赤なウソ・欺瞞(ぎまん)・デタラメであったのは否定できない確かな事実となる。
 【1】邪馬台国説が空理空論であった事実と、【2】『魏志倭人伝』は【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する歴史書にして学術書であった事実は、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない方法によって科学的に証明できる。
 邪馬台国説をとなえる学者たちは【多数の誤読・作為・詐偽(さぎ/虚偽)・詭弁(きべん)】を駆使(くし)して、『魏志倭人伝』に記述された真実、言いかえると日本人の血と肉となった学術と、日本人の花咲く尊厳と、日本人の花咲くいのちと魂と精神を凌辱(りょうじょく)して――『魏志倭人伝』に記述された日本人の血と肉となった学術と、日本人の花咲く尊厳と、日本人の花咲くいのちと魂と精神を、消滅しようとして躍起になっている。
 その証拠に、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解する方法にのっとって思考すれば、『魏志倭人伝』は1ヵ所も【誤読(文献批判)】を必要としない正確無比の書物であった事実が証明される。にもかかわらず、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解する方法にのっとって思考する学者はわが国には一人も存在しない。

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2021年6月20日 (日)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・22

▼このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回まで、毎回証明してきたように、神に誓って――『魏志倭人伝』は、九州説と畿内説を唱える学者たちが主張する「邪馬台国研究」のための史料ではない! 
 『魏志倭人伝』は現在の学者たちの誰一人も想像しない【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】を理路整然(りろせいぜん)と詳細に伝える書物であった。だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国説研究」の史料ではなかった。
 九州説と畿内説を主張する学者たちは【多数の誤読・作為・詐偽(さぎ/虚偽)・詭弁(きべん)】をもって、世界的に第一級の重大な文献史料である『魏志倭人伝』を嬲(なぶ)り弄(もてあそ)び凌辱(りょうじょく)して抹殺(まっさつ)しようとしている。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】を加えずに、ただひたすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が明確となる。
 新井白石(16571725)以来、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料である」と【誤読の空論・詐偽・詭弁】をもって、約300年間も『魏志倭人伝』を凌辱し・蔑視(べっし)しつづけている――このような『魏志倭人伝』に対する凌辱は、実際に大罪を犯していないにもかかわらず大罪を犯した容疑で死刑が確定された冤罪(えんざい)をもって抹殺(まっさつ)されると同じ酷(ひど)い仕打ちであると言わざるをえない。だから、冤罪で抹殺されようとしている『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり【漢字の起源の真実、世界史的にも重大な抹殺されてはならない真実】は日本人ならば当然まもらなければならない義務であり責務となる。
 だから、このブログでは、九州説と畿内説は【漢字の起源を伝える歴史の真実】を凌辱する空理空論・妄想(もうそう)だった事実を徹底的に科学的に証明して暴露する。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・31

◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・一途に頑固(がんこ)に全記事を忠実に読解すると、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
 『魏志倭人伝』に記述された【漢字の起源の真相】を知るためには――当然、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的にはもはや虚妄(きょもう)・空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、現存する最古の漢字音は《わが国が、夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字の字音》であった。《わが国が夏代初頭に習得した夏音(かおん)文字は、中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も古い、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では最下部に配すべき最も新しい漢字音ということになるため、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する空理空論ということになる。
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 上記した白川静著『字統』が「現存する最古の漢字音」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)・紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に習得した夏音文字の漢字音】であった。この【現存する最古の漢字音の、夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に派遣された第7回遣唐使が中国王朝に「後(のち)、稍(やや)夏音を習う」と伝えた――という記事がある。この遣唐使が告げた言は「壬申の乱の後、稍々(少しだけ)習う、つまり復興する」と意味した。702年の時点では『古事記』上巻に「稍々、夏音文字を習う」予定であったが、10年後の712年に成立した『古事記』上巻には〔音〕という注がついた夏音文字が多数記載されている。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する絶対的定説は、【1】古事記』上巻に多数の夏音文字が習い・蘇(よみがえ)って残されている事実と、【2】音韻学の成果に反する空論・妄想であったのである。
 ――わが国は今から約4000年前の後期縄文時代初頭に夏音文字を習得していた。その証拠に、712年に成立した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を詳細に正確に伝える夏音文字が多数残っている。ゆえに、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と断定する学界の絶対的定説は、学者たちの早合点(はやがってん)の産物・空理空論であったのである。

◆漢字は今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した 黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。
 【倉頡が漢字を発明した学術の詳細】は、現在、漢字が起源した中国において解明されていない。
 わが国においては、江戸中期に生存した新井白石(16571725)が唱えた邪馬台国説によって【倉頡が漢字を発明した学術】は解明できない状況となった。
 新井白石の以前には、厳重な機密のもとに皇室はじめ、高僧たちや学問を尊重する一部の名家・氏族によって【倉頡(そうきつ)が漢字を発明した学術】は受け継がれて存在していた。この【倉頡が漢字を発明した学術】は【倉頡が定めた掟】にもとづいて厳重の機密とされた。さらに、【倉頡が漢字を発明した学術】は皇室・高僧・名家の権力、名誉、財力、徳性(理性・知性)を手に入れる特権階級基盤であった。(要するに、【倉頡が発明した漢字の学術】は現在の大会社が大会社たる財力・特権基盤となる【特許】よりも、もっと強大な威力を有していた)。ゆえに、【倉頡が漢字を発明した学術】について厳重な機密にして明確にしないことが、自分たちの「特権階級」をまもることができる方法であった。だから、学者たちによる虚偽説が出現しても正すことをせず、虚偽説を放置・無視してただひたすら沈黙を貫(つらぬ)いて、【倉頡が発明した学術】の存在を学者たちに知られないようにひた隠しにした。これゆえ、わが国には【倉頡が漢字を発明した学術】は実在するものであったが、時代が下ることに学者たちによって「わが国が漢字を初めて習得したのは中国の南北朝時代から隋代初期(5世紀あるいは6世紀)である」と錯覚・虚偽説が強まって流布されようになったため、【倉頡が漢字を発明した学術】は存在しないかの様相(ようそう)となった。この学者たちの錯覚・虚偽説の伝統を受け継いだ新井白石が邪馬台国大和説をとなえ、また後年に邪馬台国九州説をもとなえた。この新井白石から始まる空理空論の邪馬台国説は、学者たちによって「『魏志倭人伝』に始めて学問的検討を加えられた」と信仰されることになった。この信仰のため、学者たちには『魏志倭人伝』はじめ『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに記載されて残った最古の漢字音が残った夏音文字の学芸に【倉頡が漢字を発明した学術】が保存されている事実が感知することも察知することもできなくなった。
 だから、新井白石以後に学者たちが立論した約300年間の邪馬台国説による【『魏志倭人伝』に多数の誤読・作為・捏造(ねつぞう)を加える空論・反()学術運動】によって【倉頡が発明した漢字作成理論】は排除されて闇に葬られることになった。
 しかし、『魏志倭人伝』には【倉頡が発明した漢字作成理論】、いいかえると【漢字が起源した歴史と事情】が理路整然(りろせいぜん)と説明されている。
 だから、【倉頡が発明した漢字作成原理】はいまだ死に至らない、不死鳥である。
 というのも、【漢字の起源の秘密】は『魏志倭人伝』に卑弥呼が理路整然と【倉頡が発明した漢字作成理論】について説明し、また中国の海岸線の約3倍にして細密なわが国の海岸線に明確に保存されているからである。したがって、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すれば【倉頡が発明した漢字作成理論】は鮮烈に蘇(よみがえ)る。

◆『魏志倭人伝』には「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と具体的に説明した記事が、下記のごとく2ヵ所存在する。
 一つ目の記事は、【134字で「倭国の易卜に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える記事である。
 二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津()では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える記事である。
 上記した「わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する二つの記事は、邪馬台国説学者たちによって無視され排除された。
 このため「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空論が定説となった。
 したがって、もしも学者たちが『魏志倭人伝』をただひたすら・いちずに忠実に読解していれば【倉頡によって発明された漢字作成理論】が科学的に解明できていたことになる。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この「漢字」の由来に気づいていれば――『魏志倭人伝』は「【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然と説明されている書物である」ことが証明されていた。
 「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書」も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野において、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕は定められていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕によって、【黄帝時代から殷代(いんだ)前半期の漢字】は【文字作成銀河各部の形状】となった。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員にも神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑は免除されることになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 現在においても、《今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義》は【1】《文字作成銀河の各部の形状》と、【2】《中国の海岸線地図》と、【3】《日本列島各部の地図の形》によって成立する。また、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。したがって、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》がそろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義しているゆえ、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆黄帝は東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。
 しかし、黄帝時代(今から約5000年前)以前の約6000年前から始まる三皇(さんこう)時代には、黄帝が研究した医学をあらわすことができる漢字は発明されていなかった。したがって、倉頡が漢字作成する目的は【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字を考案すること】であった。倉頡は【文字作成銀河(夏の銀河)の各部の形状と中国全土を包む海岸線の地宜(ちぎ/地図の形)を字源・字形・字義とする漢字】を創()くって、【黄帝が研究した医学をあらわすことができる文字の発明】に成功した。〔注 倉頡が創った始原漢字は「書契(しょけい)」と名づけられた〕。
 したがって、【倉頡が発明した漢字作成理論】は【深遠なる銀河と黄帝が研究した深遠なる生命の神秘を合体して誕生した学問(学術)】であった。
 わが国には、倉頡が漢字を発明した黄帝時代から約1000年後の、今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が伝来して習得された。
 この【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸が習得された歴史】は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回・5回と14回・15回の4回で詳細に解説し証明したように――『魏志倭人伝』の中半に登場する「女王国より以北の名称不明の海上に浮かぶ皆倭種なりの一小国と侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国、この4小国の東南に所在して船行一年にして参問(さんもん)できる、周旋(しゅうせん)五千余里ばかり」と説明する76字の記事は、今から約4000年前の後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得した歴史】を記述するものであったことになる。
 『魏志倭人伝』には、34ヵ国の小国が登場する。
 上記した4小国以外の対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名をもって、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明している。要するに、黄帝が作った医学書『内経』は残っていないが――卑弥呼は30の小国名をもって理路整然と『内径』にて説明されていた医学知識を復興して説明することにした。というのも、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤として倭人国を支配し統治するものであったからである。このため、卑弥呼は30の小国名をもって【黄帝がつくった医学書『内径』で説明された研究成果と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然とあらわす学術体系を構築(こうちく)した。
 したがって、『魏志倭人伝』に列記された対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の小国名によって――黄帝がおこなった主なる医学研究は「子どもの出産と女性の生殖器官」であった――という事実が明確となる。
 つまり、卑弥呼は――対馬国から狗奴国までの30ヵ国の各小国の地宜と原初漢字(つまり、字源・字形・字義となる文字作成銀河各部の形状)が合理となるように――各小国名を定めて、【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明できる一つの統合体組織論を考案して「倭人国」という国家と王朝を創設した。
 だから、卑弥呼の30ヵ国の小国名の理路整然とした統合体組織論の説明によって、【黄帝が作った医学書『内経』で説明された主なる医学研究は「子どもの出産と女性の生殖器官」】であったことが明確となる。
 【倉頡が発明した漢字作成理論】は【深遠なる銀河と黄帝が研究した深遠なる生命の神秘を合体して生まれた学問(学術)】であったことは、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すると一点の矛盾点もなく系統的な合理が構築されて手に取るように明白となる。この証明は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は前回(21)までにおいて、詳細に具体的に科学的におこなってきた。
 前回では21番目国の鬼()国と12番目の都支(たき)国の小国名と地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「黄帝の男性の生殖細胞の精子と女性の生殖細胞の卵子についての考え」をあらわすものであったことを詳細に解説して証明した。

◆わが前回のブログの末部にて、12番目の都支国(旧国志摩をのぞく、現在の三重県)13番目の弥奴(みな)(旧国の尾張、現在の愛知県西部)の両国は、[]の字源「カンムリカイツブリ」で共通することを指摘した。
 下に、21番目の鬼国と12番目の都支国と13番目の弥奴国、また14番目の好古都(こかた)(旧国の三河、現在の愛知県東部)15番目の不呼(ふこ)(旧国の遠江、現在の静岡県西部)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)と範囲を示した。
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 12番目の都支国と13番目の弥奴国の両国における[]の字源「カンムリカイツブリ」の共通性について前回のブログと重複(ちょうふく)するが、これから要約して説明することにする。
 黄帝陵(こうていりょう)、つまり黄帝を祭る廟と墓は北緯3535分に位置する。
 〔注 わがブログは前回(21)まで、黄帝陵の緯度を北緯3536分と記していた。しかし、あらためて調査すると、北緯3535分が正しいことに気づいた(1分だけ違っていた)。今回から、黄帝陵の緯度を「北緯3535分」とする〕。
 現在と卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)と漢字が起源した約5000年前の黄帝陵の天頂にめぐってきた銀河部は相違する。
 「歳差(さいさ)」という天文現象にのっとると、黄帝時代の黄帝陵(北緯3535)の天頂にめぐってきた銀河部を算出して再現することができる。
 下の銀河図に、(1)卑弥呼時代と(2)現在における黄帝陵の天頂にめぐってきた緯度線を表示した。
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 下に配した上図に、黄帝時代に黄帝陵(北緯3535)と、中国南部の太湖(たいこ)南岸(北緯31)の天頂にめぐってきた緯度線を表示した。
 下に配した下図は、黄帝が研究した女性の生殖器官の正面形図である。
 上図に示すように、黄帝陵の天頂緯度は()西の「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)の北端」から約1度の北の銀河部と、()東の「十字の銀河の頭部中央」に支(わか)れる。ゆえに、卑弥呼は「都(黄帝陵)の天頂緯度線が西と東に支れる」ということで「旧国の志摩を除く、現在の三重県」の小国名を「都支国」と定めた。
 黄帝は、下に配した下図における女性の生殖器官における左右一対の「卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管采(らんかんさい)と卵巣(らんそう))を「都(黄帝が居住する本拠地・黄帝陵付近の地域)の天頂」に見立てて、「目に見えない、微小の精子と卵子の象(かたち)」を想像した。
 つまり、黄帝は目に見えない・微小な「男性の生殖能力(今日でいう生殖細胞)と女性の生殖能力の象(かたち)」は、「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリのような象」をしていると想像した。
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◆「北天の最輝部」というのは、国際的天文学における名称である。「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」ということである。「北天の最輝部」は「美しい朱鷺色(ときいろ)あるいは桃色をおびて、銀白色に輝く」ゆえ、「銀河」または「銀漢」の語源となった。
 下に、「北天の最輝部」を示した。
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 下に図示したように、「銀白色に輝く、北天の最輝部の形」を、黄帝は「情熱的な求愛ダンスをするときのカンムリカイツブリのオスとメスが水面に対して直立姿勢となって足でバチャバチャと動かして水飛沫(みずしぶき)を浴びる姿に相似する」と見立てた。ゆえに、黄帝は「目に見えない微小な精子と卵子の象」は「求愛ダンスをするオスとメスのカンムリカイツブリの姿に相似する象をしている」と推定した。というのも――カンムリカイツブリの顔とノドは白く、頸(くび)以下の体下面は「北天の最輝部」のごとく銀白色に輝く。ゆえに、黄帝は「精子と卵子の象」は「北天の最輝部の形」のごとく、また「カンムリカイツブリのオスとメスのごとき姿」をしていると推定したのである。
 〔注 下の図における右側の「求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメスの図」は、今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物綿密・生態画集】』(平凡社発行)143ページから転載した〕。
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 前述したように、今から約5000年前の黄帝時代において、黄帝陵の天頂に「十字の銀河の頭部の中央」がめぐってきた。
 下に示したように、「十字の銀河の頭部」と「真上から見た、女性の骨盤」の両者は180度向きが変わるものの、その形はたがいに相似しあう。したがって、「黄帝時代の天頂にめぐってきた、十字の銀河の頭部の中央の穴(暗黒天体部)」は「女性の骨盤口(骨盤腔/骨盤入口と骨盤出口)」の形に相似する。
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 下に、「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリの図」を示した。
 黄帝は「十字の銀河の頭部」は「女性の骨盤」の形に相似すると見立てた。これゆえ、黄帝は「十字の銀河の頭部」は「女性の骨盤と生殖器官」と「カンムリカイツブリの巣」に相似すると見立てて、また「十字の銀河の頭部が被るカンムリ」は「北天の最輝部の形」に相似すると見立てた。さらに、黄帝は「精子と卵子の象(かたち)」は「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリ」のごとく、また「求愛ダンスするときのオスとメスのカンムリカイツブリの姿」のような象をしているにちがいないと推定した。ゆえに、黄帝は「精子と卵子の結合」を「受精(じゅせい)」と定めた。
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 下に「女性の骨盤の上から見た図」を90度転回した図を配した。
 「女性の骨盤」は、前掲(ぜんけい)した「女性の生殖器官(卵管・卵管膨大部・卵管采・卵巣・子宮・産道)などの大半」を包囲して衛(まも)る。
 女性の骨盤における「腸骨翼(ちょうこつよく)」は「恥骨結合(ちこつけつごう)」でつながって向き合う「カンムリカイツブリの一対・二羽・オスとメスのカンムリカイツブリの横顔」に相似する。
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◆前述したように、「カンムリカイツブリ」は「卑弥呼」の[]の字源・字形・字義となった。『魏志倭人伝』に登場する12番目の小国は「都支国」、13番目の小国は「弥奴(みな)国」である。これまで解説してきたように、「黄帝が〔精子と卵子の象(かたち)〕を〔[]の字源の求愛するときのオスとメスのカンムリカイツブリの姿〕に相似すると推定したこと」にもとづいて、卑弥呼は「伊勢と熊野」の小国名を「都支国」と定めた。また、「女性の骨盤の腸骨翼(ちょうこつよく)の形」は[]の字源「カンムリカイツブリの横顔」に相似する。だから、12番目の「都支国」と13番目の「弥奴国」の両国は[]の字源「カンムリカイツブリ」で共通しあうようにして、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官」の医学研究】を理路整然と説明できるようにした。
 論より証拠に、下に配した図が示すように、13番目の「弥奴国」の「旧国の尾張、愛知県西部の地宜(ちぎ/地図の形)」は[]の字源「求愛ダンスをするときの、カンムリカイツブリの姿」に相似する。
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 黄帝の医学研究において――子宮で育つ胎児は、長い月日も羊水(ようすい)に潜(もぐ)ったまま呼吸できないにもかかわらず、なぜ窒息死(ちっそくし)しないのか?――この疑問が解明できなかった。そこで、黄帝は「子宮の羊水に潜って育つ胎児」を「人間よりも長い時間水中に潜ることができるカンムリカイツブリや鳰(にお/カイツブリ)」で譬(たと)えることにした。つまり、黄帝は「子宮の羊水に潜って育つ胎児」は「カンムリカイツブリや鳰よりも羊水に長時間潜っても窒息死しない能力」を有すると考えた。だから、「カンムリカイツブリ」は[()]の字源・字義となり、「鳰」は[()]の字源・字義となった。
 カンムリカイツブリは中国の河口や沿岸部、河川、湖沼(こしょう)、湿原(しつげん)などで生息する。カンムリカイツブリは長時間潜水するゆえ「八丁もぐり」という俗称がある。わが国には冬鳥として、北海道・本州・九州・琉球などに生息する。
 鳰は頻繁(ひんぱん)に水中に潜る。全身の羽は油をよく含んで密にはえているので、体を水に浮かせ、また水中でも体は水に濡れない。鳰は最も水と深くかかわって生活し、中国・日本において一年中生息する留鳥(りゅうちょう)である。
 カイツブリ目カイツブリ科に分類される鳥類において、カンムリカイツブリの全長(4661センチとほぼ同じ全長(4661センチ)のアカエリカイツブリは、中国と日本において冬鳥として飛来する。
 また、中国と日本の冬鳥として飛来するカイツブリ目カイツブリ科に分類される鳥類には、ハジロカイツブリがいる。鳰の全長(2529センチ)、ハジロカイツブリの全長は30センチほどで鳰よりも少し大きい。
 カンムリカイツブリの頭上には緑色をおびた黒色で両側に各1個の羽冠(うかん)があり、頸の周囲には赤い褐色の房状の飾羽(かざりばね)がある。
 ハジロカイツブリの顔には美しい栗色の飾羽があり、眉の部分は橙黄色(とうこうしょく)となる。
 妊娠6か月くらいの胎児の平均身長は約30センチであるゆえ、鳰やハジロカイツブリの全長とほぼ同じとなる。
 〔注 新生児の平均身長は4452センチぐらいである。ゆえに、カンムリカイツブリとアカエリカイツブリの全長とほぼ同じである。だから、「カンムリカイツブリとアカエリカイツブリ」を黄帝は「新生児」に見立てたと考えることは禁物となる。なぜならば、黄帝は[]の字源「カンムリカイツブリの姿」は「目に見えない微小の、精子と卵子の象(かたち)のごとく」と想像したからである。〕

 上記したように、「なぜ、胎児は子宮内で長い月日、羊水に潜っていても窒息死しないのか?」の疑問は、カイツブリ目カイツブリ科に分類される鳥類で譬えられることになった。
 しかし、この譬えは「疑問を完全に払拭(ふっしょく)できない、結局、解明できない、最もむずかしい問題」ということになった。ゆえに、「むずかしい」をあらわす[]の字が作られることになった。[]の左の偏は「漢字」の[]の旁(つくり)部である。[]の右側の旁部の[(すい)]の字を、卑弥呼が始め歴史上に登場する約60年前の西暦120年頃に成立した“字書の聖典”と呼ばれて尊重された『説文解字(せつもんかいじ)』は「鳥の短尾なるものの總名(そうめい)なり」と解説する。鳰の尾は非常に短く、外観からはほぼ判別できない。したがって、「鳰」は[]を代表する小鳥であり、[]の右側の[]の字源・字義は「鳰とハジロカイツブリ」、[]の左側の字の字源・字義は「銀漢・北天の最輝部の形に相似すると見立てられた、カンムリカイツブリとアカエリカイツブリ」であったことになる。
 現在の医学においてつい最近まで、子宮内の胎児は長い月日羊水に潜って過ごしてもなぜ窒息死しないのかという問題は、黄帝同様に想像をめぐらすしかなかった。しかし、超音波検査技術の発達で子宮内の胎児の様子が観察できるようになって――胎児は必要な酸素はへその緒()と胎盤(たいばん)を通じて母親からもらっていることが判明した。胎児は肺呼吸をしていない。ゆえに肺呼吸しないから、胎児は羊水を飲んで窒息死しない。

◆前掲(ぜんけい)した〔弥奴国・尾張の地宜とカンムリカイツブリの図〕が示したように、「旧国の尾張、現在の愛知県西部の地宜」は――[]の字源「オスとメスのカンムリカイツブリが求愛ダンス(繁殖行動)するときに水面に垂直に立つ姿勢――に相似する。
 下に、「弥奴国」の[]の字源銀河「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の図を配した。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の19回で詳細に解説したように、[]の字源・原義は「子を主産するための母体のスゴイ強大な力」であった。
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 []の「カンムリカイツブリが求愛ダンスするときに、オスとメスが水面に垂直に立つ姿勢」になるには[]の「強大な力」が必要となる。「尾張の地宜」は[][]の両字の字源を示す「求愛ダンスするときの、強大な力でカンムリカイツブリが直立姿勢となる姿」に相似する。ゆえに、卑弥呼は「尾張」の小国名を「弥奴国」と定めたのである。

13番目の弥奴国・尾張(現在の愛知県西部)の東の隣国の三河(現在の愛知県東部)が、14番目の好古都(こかた)国であった。
 下に配した図の右上の[()]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)について――白川静著『字統』は「女は母の形に作り、あるいは子を抱く形につくるものであって、婦人がその子女を愛好することを示す字である」と解説する。
 ゆえに、下の図が示すように、[]の字源は「十字の銀河」、[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」であったことになる。また「十字の銀河の右手(西側の手)から鬼の姿に似る銀河の頭へ垂れる帯状の銀河」は「婦人が子女の頭を撫()でて愛好する(可愛がる)様子」をあらわすイメージとなる。
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 前述した「都支国」の解説において、黄帝は黄帝が居住した本拠地(黄帝陵付近の地域)の天頂にめぐってきた「十字の銀河の頭部」を「女性の子宮と産道」に相似すると見立てた。そして、「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリ」を「卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管采(らんかんさい)と卵巣(らんそう)」に相似すると見立てた。
 下に「卵管膨大部・卵管采・卵巣の図」を配した。
 「卵管膨大部・卵管采」は「子女の頭を撫でで愛好する婦人の手」の形に相似し、「卵巣」は「婦人が撫でで可愛がる子女の頭」の形に相似する。だから、上に示した字源銀河と「卵管膨大部・卵管采と卵巣」は共に[]の字源であったことになる。
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 上記したように、「十字の銀河の頭部」は「女性の生殖器官のうちの子宮と膣(ちつ/産道)に見立てられ、「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリ」は「女性の生殖器官のうちの卵管・卵管膨大部・卵管采と卵巣」に見立てられた。
 したがって、「(1)十字の銀河の頭部と、(2)十字の銀河の頭部が被るカンムリ」は「女性の生殖器官」に見立てられたことになる。
 この「女性の生殖器官の正面形」は、「ジャコウウシの顔の正面形にも相似する」と見立てられた。
 『説文解字』は[]の字源を「美なり」と解説する。
 前回(21)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」でも解説したように――現在、カナダとグリーランドに生息する「ジャコウウシ」は氷河時代には、はるか南までを生息地域とし、約5000年前は黄帝が居住した本拠地(黄帝陵)周辺地域に生息していた。この「ジャコウウシ」は【倉頡発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 というのも、「ジャコウウシ」は天敵のオオカミに襲われると子どもを真ん中に隠し、百頭余りの群れが中央に背をむけて円陣を組んで防衛するゆえ、「ジャコウウシ」は「女性生殖器を包囲して衛(まも)る骨盤」と「女性の生殖器官」に見立てられたからである。
 下の図が示すように、「女性の生殖器官の正面形」は「ジャコウウシの顔の正面形」に相似すると見立てられて[]の字源となった。
 黄帝は「左右一対の卵管・卵管膨大部・卵管采」を「ジャコウウシの左右一対の角(つの)」に相似すると見立てた。また黄帝は「左右一対の卵巣」を「ジャコウウシの両耳」に見立てた。また黄帝は「子宮と膣(ちつ/産道)」を「ジャコウウシの顔」に見立てた。
 だから、「ジャコウウシの顔に似る女性の生殖器官」は[]の字源・原形・原義となった。
 これゆえ、『説文解字』は[]の字源「ジャコウウシの角と耳に相当する卵管膨大部・卵管采と卵巣」について「美なり」と解説したのである。
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 つまり、「うまい」が後世「美味い」と表記されることになった訳(わけ)は「ジャコウウシの肉を食べるとうまかった」からである。そして、「うつくしい」を「美」の字で表示されることになった訳は「黄帝が居住した本拠地(黄帝陵周辺地域)、つまり都はうつくしかった」と表現されることになったからである。あるいは「うつくしい」を「美」という漢字で記すことになった訳は「黄帝が居住した本拠地・都の天頂付近にめぐってきた“北天の最輝部”はうつくしい、また天頂にめぐってきた“十字の銀河の頭部とその頭部が被るカンムリの銀河”もうつくしい」ということであったことになる。
 下の図に示すように、「三河の地宜」は鳰(にお/カイツブリ)より少し大きい「夏羽のハジロカイツブリの姿」に相似すると見立てられた。
 というのも「渥美(あつみ)半島の南部」は「扇状(おうぎじょう)にひろがる金栗色(きんくりいろ)の美しい、ハジロカイツブリの飾羽(かざりばね)がある顔」に見立てられたからである。
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 下の図に示すように、「夏羽のハジロカイツブリの飾羽」は「女性の生殖器の卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管采(らんかんさい)の形」に相似する。「卵管膨大部・卵管采が、卵巣(らんそう)を撫でるように見える形状」は、前述した[]の字源「婦人が子女の頭を撫()でて愛好する(可愛がる)様子」をあらわすイメージとなる。
 これゆえ、前述したように――黄帝は黄帝が居住した本拠地(黄帝陵付近の地域)の天頂にめぐってきた「十字の銀河の頭部」を「女性の子宮と産道」に相似すると見立て、「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリ」を[]の字源「卵管膨大部・卵管采と卵巣」に相似すると見立てた。
 ゆえに、「好古都国」の「古都」は「黄帝が居住した本拠地(黄帝陵付近の地域)」であったことになる。というのも、上記したように――黄帝が「子宮と産道」に見立てた「十字の銀河の頭部」が天頂にめぐってきた「黄帝が居住した本拠地」が「好古都国」の「古都」であったと考えるべきことになるからである。
 以上のごとく、卑弥呼は「黄帝の医学研究」と「三河の地宜」にもとづいて、「三河」の小国名を「好古都国」と定めたのである。

◆好古都国・三河の東の隣国は、遠江(とおとうみ)・現在の静岡県西部である。
 ゆえに、14番目の好古都国の次の15番目の「不呼(ふこ)国」は「遠江」であった。
 『説文解字』は「不呼国」の小国名に用いられる[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来()らざるなり」、つまり「鳥・[]の字源「カンムリカイツブリ」が地上を飛び立って空を飛び下()りて来ないで去る」と解説する。
 いっぽう、白川静著『字統』は[]の字源に就いて――否定・打消しの「ず」に仮借(かしょく)して用いる。もと象形(しょうけい)で花の萼柎(がくふ)の形であるが、その義に用いられることは殆(ほとん)どなく、その本義には柎()などを用いる――解説する。
 黄帝は〔女性の生殖器官の正面形〕は〔花の生殖器官〕に類似すると見立てた。
 下に〔女性の生殖器官の正面形の図〕は〔花の生殖器官の図〕を配した。
 黄帝は「女性の卵管」は「花の花糸(かし)」に相似し、「女性の卵管膨大部・卵管采」は「花のおしべ」に相似し、「女性の卵巣」は「花のめしべ」に相似すると見立てた。ゆえに、黄帝は「おしべの花粉がめしべに付着する様子」から「卵管・卵管膨大部・卵管采を通過する精子が卵巣の卵子にむすびついて受精(じゅせい)となる」と考えたことになる。
 ゆえに、「女性の子宮」は「花の子房」に相似し、「子宮に宿る胎児」は「花の胚(はい)のう」に相当する。
 しかし、「女性の膣(ちつ」は「出産児が通過する産道」であるのに対して、「花の萼柎」は「花冠(かかん/花弁の集まり)をささえる台(うてな)」であるゆえ、両者は相似しない。
 だから、[]の字形「花の台・萼柎」を表現する図案となり、否定・打消しの「ず」をあらわすことになったのである。
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 下の図の右上に「転回方位」と示しているように――下の図は「倭国」の[]の字源「時計回りに90度方位を転回して西→北・北→東とする規定」にもとづいている。
 下の図に示す「遠江の浜名湖の地宜」は「花冠(かかん/花弁の集まり)の形」に相似すると見立てられた。
 「浜名湖の地図の形」を「花の形」に見立てると、[]の字源「花の台(萼柎)」は「浜名湖の支湖(しこ)の引佐細江(いなさほそえ)」となる。
 〔注 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)と現代の浜名湖の地図の形は少し異なる。現代の浜名湖は外海(そとうみ)と通じる汽水湖(きすいこ)であるが、卑弥呼時代の浜名湖は近江・滋賀県の琵琶湖と同じく外海と通じていなかった。というのも、1498(明応7)825日の大地震のため、遠江国の荒井崎(あらいざき/現在の静岡県浜名郡新井町の今切)が破壊されて外海と通じることになったからである〕。
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 下に配した図は、現在の北を下、南を上にする、上南・下北図である。
 下の図に示したように――[]の字源「花の台」の形をして「引佐細江」の西岸の「寸座岬(すんざみさき)」は「人の鼻の形」となる。このため、「寸座岬より南()の大崎半島の付け根までと北()の引佐細江の北端までの形」は「人の横顔」に相似する。
 『説文解字』は「不呼国」[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。
 下の図における「寸座岬より北側()の引佐細江の西岸」は「人が息を外()く口」に相当して、[]の字源をあらわす。引佐細江の北岸中央には都田川(みやこだがわ)の河口がある。「都田川の河口は上流から流れてきた水が外へ吐()き出す口」となる。ゆえに、「都田川の河口」も[]の字源をあらわす。
 都田川の河口の南にある「村櫛(むらくし)半島」は「長い人の顔」に相似するゆえ、「舘山寺(かんざんじ)の地宜」は「鼻」に相似し、舘山寺は東方の「内浦の地宜」は「人が息をはく口の形」となる。だから、「内浦」も[]の字源をあらわした。
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 上の図が示すように、[]の字源「花の台(萼柎)」に見立てられた「引佐細江」と、[]の字源「息を外くなり」の地宜となる「引佐細江周辺の湖岸の地図の形」によって、「不呼」ということになる。
 しかし、上の図に示した【1】「引佐細江周辺の湖岸」の[]の字源地宜と、【2】「花の形に相似する浜名湖」が[]の字源を示すゆえ、卑弥呼はむしろ【2】に注目して「遠州」の小国名を「不呼国」と定めたと考えられる。
 「浜名湖」が【2[]の字源を表示することになった解説・証明は、後述する。

◆前述したように――12番目の「都支(たき)国」の「都支」は、要するに「都(黄帝が居住した本拠地・黄帝陵数編地域)が“北天の最基部”と“十字の銀河の頭部”とに支(わか)れる」ということであった。
 ゆえに、13番目の「弥奴国の地宜」は「北天の最輝部」に見立てられて「都支」を表示することになり、14番目の「好古都国」の「古都」は「十字の銀河の頭部」をあらわして「都支」を示すゆえ、都支国と弥奴国・好古都国は「都」という共通点を有することになった。
 また「弥奴国の地宜」は[]の字源「カンムリカイツブリの姿」に相似し、「好古都国の渥美半島南端」は[]の字源「卵管膨大部・卵管采が卵巣を撫()でて愛好する様子」に「美しい金栗色の飾羽(かざりばね)を有するハジロカイツブリの横顔」に見立てられた。これゆえ、「弥奴国」と「好古都国」の両小国は「カイツブリ目カイツブリ科に分類された鳥」で共通する。
 15番目の不呼国は、都支国・弥奴国・好古都国の共通点「都支」つまり「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被るカンムリ」で共通する。黄帝は――「目に見えない微小の精子と卵子の形」は「求愛ダンスをするときの、オスとメスのカンムリカイツブリの姿」のごとくであると推定した。また、黄帝は「求愛ダンスをするときの、オスとメスのカンムリカイツブリの姿」は「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリ」の形に相似すると推定した。
 下に配した上図は、「都支の銀河部」とされた〔都の天頂にめぐってきた西の「北天の最輝部」と、都の天頂にめぐってきた東「十字の銀河の頭部が被(かぶ)るカンムリ」の図〕である。前述したように、黄帝は「北天の最輝部」と「十字の銀河の頭部とその頭部が被るカンムリ」を「女性の生殖器官」に相似すると見立て、さらに「女性の生殖器官」は「花の生殖器官の形」に類似すると見立てた。下に配した下図は〔花の生殖器官図〕である。
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 卑弥呼は「浜名湖と引佐細江(浜名湖の支湖)」を黄帝が「女性の生殖器官に類似すると見立てた、花の生殖器官」に見立てたゆえ、「遠江」の小国名を「不呼国」と定めた。
 ゆえに、14番目の「好古都国」の「古都」が表示する「女性の生殖器官」と15番目の「不呼国」の[]の「花の生殖器官」は「生殖器官」で共通する。
 また、12番目の都支国、13番目の弥奴国、14番目の好古都国、15番目の不呼国の4小国は黄帝が「都支の銀河部」の形に相似すると見立てた「女性の生殖器」と、また黄帝が「女性の生殖器官」に類似すると見立てた「花の生殖器官」で密接に関連する。
 15番目の「不呼国・浜名湖の地宜」は「花の形」に相似し、「花の蜜を吸って生息する昆虫」は「蝶」である。ゆえに、16番目の「姐奴(つな)国の地宜」は「蝶の成虫の姿」に相似し、17番目の「対蘇(つさ)国の地宜」は「蝶の幼虫と成虫の姿」に相似し、18番目の「蘇奴(さな)国の地宜」は「蝶の幼虫の姿」に相似して、15番目の「不呼国・浜名湖の花の形」と密接に関連するように――『魏志倭人伝』には小国名の順序が理路整然となるように列記されている。
 このように、卑弥呼は小国名をもって【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明している。
 『魏志倭人伝』に列記された対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名によって――黄帝がおこなった主なる研究は「女性の生殖器官と子どもの出産」であった――ことが明確となる。
 卑弥呼は――対馬国から狗奴国までの30ヵ国の各小国の地宜と小国名に用いられる漢字の字源が合理になるように――各小国名を定めて、【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然と説明できる統合体組織論を考案して「倭人国」という国家と王朝を創設したのである。
 だから、上記したように、卑弥呼の30ヵ国の小国名の理路整然とした統合体組織論の説明によって、【黄帝が作った医学書『内径』で説明されていた主なる内容は「女性の生殖器官と子どもの出産」】であったことになる。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の19回において、「不弥(ふみ)国」について詳細に解説して証明した。この「不弥国(九州の宗像地方)」の解説において、「不呼国・遠江」の[]の字源は「鳰(にお/カイツブリ)であると証明した。
 「鳰」は16番目から18番目までの3カ国、つまり「姐奴国・対蘇国・蘇奴国」の3カ国の小国名があらわす「蝶」とは関連しない。
 それゆえ、卑弥呼は「不呼国」という小国名で「花」をあらわし、16番目の「姐奴(つな)国」から以降の17番目の蘇奴(さな)国・18番目の対蘇(つさ)国・国20番目の華奴蘇奴(かなさな)国は「蝶の地宜の国々」とさだめて、卑弥呼は「花と蝶」という密接な関係を表示することにした。〔なお、19番目の呼邑(こお)国は「花の地宜」の小国である〕。
 しかし、15番目の「不呼国」の[]字源「鳰」は、13番目の「弥奴国」の「弥奴」の「カンムリカイツブリ」と、14番目の「好古都国」の[]の字源「ハジロカイツブリ」と共通する。つまり、三小国名は、共に「カイツブリ目カイツブリ科の鳥の種類」である。
 ゆえに、わがブログの19回にておこなった「不呼国」の詳細な解説・証明と一部分だけ重複(ちょうふく)することになるが、できるだけ簡約して「不呼国」の[]の字源「鳰」について、これから解説することにする。

 前述したように、『説文解字』は[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。
 下に配した図における「杭州湾(こうしゅうわん)」には「銭塘江(せんとうこう)を流れてきた水が河口から杭州湾へ外き出される」ゆえ、『説文解字』の[]の「息を外くなり」に符合するため、「杭州湾」は[]の字源であった。
 そして、下の図に示したように、「杭州湾の地宜(地図)の形」は「水面に浮かぶ鳰の姿」に相似する。だから、「鳰」は[]の字源となった。
 このように、[]の字源は「杭州湾の地宜」と「鳰」であった。
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 下に配する〔杭州湾の東の外海を上にする地図〕にすると「杭州湾」は「遠江の浜名湖」と同様に「花冠(かかん/花弁の集まり)の形」に相似する。ゆえに、「銭塘江の河口に近い、杭州湾の奥(西部)」が[]の字源「花の台(萼柎)」となる。
 だから、卑弥呼は【1】「浜名湖の地図の形」を「花冠の形」に見立てて、また、前述した【2】「引佐周辺の湖岸の地宜」が[]の字源を示すゆえ、「遠江」の小国名を「不呼国」と定めたことになる。
 〔だから、「花の形の杭州湾」は[]の字源であったゆえ、上記したように、19番目の呼邑国は「杭州湾の形に似て、花の形をした地宜の国」であったことになる。〕
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 下に〔[]の字源地宜「引佐細江」と引佐町の金指・井伊谷地区の図〕に配した。
 浜名湖の支湖の「引佐細江の地宜」は[]の字源「花の台(萼柎)」の形をしている。この「引佐細江()」の北側は、静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)である。
 「細江町の行政区域を表示する地図の形」を、わたくしは「卑弥呼の地上絵」、または「建比良鳥(たけひらどり)の地宜」と名づけた。というのも「卑弥呼の地上絵」は、不呼国・遠江の豪族・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)とその一族が、卑弥呼が死去した240年頃から約20年後の260年頃~290年頃の約30年間を費やして作製した1千万坪の大鳥の地上絵だからである。『魏志倭人伝』は280年~289年に成立したとされる。したがって、卑弥呼の死・『魏志倭人伝』の成立・卑弥呼の地上絵の作製は、たがいにわずか20年しかちがわない同時代(3世紀)の出来事であったことになる。
 このような「1千万坪の細江町の大鳥の地上絵・卑弥呼の地上絵・建比良鳥の地宜」の北側は「引佐町(いなさちょう/浜松市北区引佐町)」である。
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 卑弥呼の死から約20年後から着手されて約30年間の月日をかけて作製された「1千万坪の大鳥の地上絵・細江町」の北側の「引佐町の金指(かなさし)と井伊谷(いいのや)地区」は「鳰(にお)の横顔と浮巣(うきす)の形」に設計されている。
 つまり――「引佐町の金指・井伊谷の地宜」が[]の字源「鳰」をあらわし、引佐町に隣接する「細江町は1千万坪の大鳥の地上絵である」ゆえ――「花の萼柎の形」をした浜名湖の支湖は「引佐細江」という名称にしたと示している。だから、「1千万の大鳥の地上絵」を作製した豪族・建比良鳥命は「引佐細江の地宜」の[]の字源と、「引佐町の金指・井伊谷の地宜」の[]の字源で、「遠江」の小国名は「不呼国」であったと証言している。
 下に〔引佐町の金指・井伊谷の地宜(上図)と鳰と浮巣(下図)の図〕を配した。
 下の図が示すように、「引佐町の金指・井伊谷の地宜」は「卑弥呼」の[]の字源「鳰」をあらわして「鳰の顔と浮巣の形」に、建比良鳥命は設計した。鳰は水草の茎(くき)を支柱(しちゅう)にして、草の茎や葉などで浮巣をつくる。[]の字源「杭州湾」の[(こう)]の字義「くい」は「浮巣をつくるときの支柱となる水草の茎」を「杭」と解釈するものであった。ゆえに、下の図における上図の金指地区の鳰の嘴(くちばし)は「水草の茎()をくわえる形」に、建比良鳥命は設計した。
 だから、『魏志倭人伝』と同時代に建比良鳥命が作製した「卑弥呼の地上絵・細江町の大鳥の地上絵」によって、「不呼国」の[]の字源は「花の形をした杭州湾」と「鳰」であった事実が証明される。
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◆下の図に示すように、細江町の大鳥の地上絵・建比良鳥の地宜は【1】「東部の両翼を有する大鳥の地宜」と、【2】「中央の出産児の地宜となる、都田川の沖積平野(ちゅうせきへいや)」と、【3】「象の頭と鼻の形に似る地宜」の三種類の地宜で組織されている。
 【1】「東部の両翼を有する大鳥の地宜」は()[]の字源「海抜〇(ゼロ)メートルの中国の海岸線」をあらわし、また、()[]の字源「カンムリカイツブリ」の形をした海岸線・地宜、つまり「山東半島の付け根から南北に伸びる海岸線はカンムリカイツブリの両翼をひろげた形」となる。また、前述したように、下の図における右上の引佐町の金指・井伊谷の地宜は()[]の字源「鳰の顔と浮巣に設計される地宜」となる。
 だから、「細江町の大鳥の地上絵・建比良鳥の地宜」には[][][]の字源をあらわす「中国海岸線の形」が設計されている。
 ゆえに、わたくしは「[][][]の字源をあらわす、1千万坪の細江町の地図の形」を「卑弥呼の地上絵」と名づけることにした。
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 上の図における【3】「象の頭と鼻の形に似る地宜のおける鼻息」、つまり「時計まわり西→北へ方位を90度転回させる象の鼻息」で「1千万坪の大鳥の地上絵」を動かすと――下に示した2図のうちの上図のごとく「1千万坪の地上絵の頭部()」は「反時計回りに、南(南東)→東」へ転回する。この反時計回りに〔南〕に位置した頭部()が〔東〕を向くようになる上側の「卑弥呼の地上絵」は、下側の図の「中国の全土を弥綸(びりん/洩れなく包む)する海岸線」(つまり、中国の海岸線地図)」に相似する。
 だから、「1千万坪の細江町の地上絵(卑弥呼の地上絵)」には、[][][]3字の字源をあらわす「中国の海岸線の形」が設計されていることになる。
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 上図の[][][]3字の字源を設計した「1千万坪の細江町の大鳥の地上絵」は――【1】卑弥呼時代において倭人国では正確に地図が作製できた、【2】また、卑弥呼王朝は精密な中国海岸線の地宜(地図の形)を知っていた、【3】そして、【正確な地図作製方法と精密な中国海岸線地図】は、今から約4000年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、【黄帝の「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学芸】とともに習得された――という日本古代史における学問史が科学的に証明できる重大な地図遺跡である。
 このような【1】【2】【3】の詳細の証明は、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の先頭にて、「四千年前に日本には漢字が伝来した」というタイトルを表示して、紹介した『日本四千年の学問史』という書名の無料版電子書籍にて詳細に解説して証明した。
 また、【1】【2】【3】の詳細の証明は、このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」より前にて紹介した――kindle版『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』に詳細に解説して証明した。この二冊とも読まなくても、二冊のいずかの一冊を読めば、【1】【2】【3】の秘密を詳細に解説して証明した。なお、両書はともに1000円である。

◆いままで解説し証明してきたように――卑弥呼は30の小国における隣国同士の小国名と地宜をもって【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究における共通点】で結びつけて、理路整然と【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明するようにした。
 その証拠に、このブログ20回で11番目の「伊邪国・旧国丹波の地宜」は「女性の生殖器管を包囲する骨盤の正面形」に相似することを証明した。ゆえに、12番目の「都支国・旧国伊勢と熊野の地宜」は「女性の生殖器官における卵管采・卵管膨大部と卵巣」をあらわす小国名となる。ゆえに、両国は「女性の生殖器器官」で共通する。
 13番目の「弥奴国・旧国尾張の地宜」の[]の字源「カンムリカイツブリ」であり、黄帝は――黄帝が居住した本拠地・都の天頂付近にめぐってきた「北天の最輝部」は[]の字源「カンムリカイツブリの姿」に相似する――と見立てた。そして、黄帝は――「卵管・卵管膨大部・卵管采と卵巣がむすびついて受精(じゅせい)される、精子と卵子の象(かたち)」は「求愛ダンスをするときのオスとメスのカンムリカイツブリの姿」に相似する――と推定した。
 14番目の「好古都国・旧国三河の地宜」の[]の字は「ハジロカイツブリの顔にある飾羽(かざりばね)」を示した。「好古都国」の「古都」は「黄帝が居住した本拠地・都」が「古都」であり、また、[]の「ハジロカイツブリの顔の飾羽」は「女性の生殖器官における卵管膨大部・卵管采が卵巣を愛撫する様子」に相似することを示し、黄帝は――卵管・卵管膨大部・卵管采を通過した精子が、卵巣の卵子とむすびついて「受精する」と考えた――と、「好古都国」という小国名は伝えている。
 だから、13番目国の「弥奴国」と14番目の「好古都国」は(1)「黄帝が居住した本拠地(黄帝陵周辺地域)・都」と、(2)「卵管膨大部・卵管采と卵巣」と、(3)「カイツブリ目カイツブリ科の鳥の種類」の3点で共通する。
 15番目の「不呼国」という小国名の[]の字源「花の台(うてな/萼柎)」は「浜名湖の支湖・引佐細江の地図の形」となる。「不呼国」の[]の字源地宜は「浜名湖」である。というのも、「浜名湖」は「中国南部の呉の、杭州湾」と同様に「花の形」となるからである。そして、「不呼国」と小国名は――黄帝は「花の生殖器官」と「女性の生殖器官」は類似すると考え、「おしべの花粉がめしべに付着する様子」から「精子と卵子による受精」のヒントにした――と表示するものとなる。ゆえに、15番目の「不呼国」と13番目の「弥奴国」と14番目の「好古都国」は「黄帝の〔女性の生殖器官の医学研究〕」で共通する。
 15番目の「不呼国」は「花の形をした浜名湖と支湖の引佐細江の地宜の小国」であったゆえ――16番目の「姐奴(つな)国の地宜」は「花の蜜を吸う蝶の成虫」に見立てられた。また、17番目の「対蘇(つさ)国の地宜」は「蝶の成虫と蛹(さなぎ)の姿」に相似すると見立てられた。また、18番目の「蘇奴(さな)国の地宜」は「蝶の幼虫や蛹の形」に相似すると見立てられた。19番目の「呼邑(こお)国」は[]の「花の形をした杭州湾」に見立てられた。そして「華奴蘇奴(かなさな)国」は「花()と蝶の成虫の形」に相似すると見立てられた――ことになる。
 このように、卑弥呼は【黄帝がおこなった「女性の生殖器官と子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を発明した倉頡の漢字作成理論】を順次に理路整然と説明できるようにして各小国を定めている。
 だから、「邪馬台」の「ヤマタイ」は「大和・ヤマト」に相似するから「邪馬台国は大和」であった、「ヤマタイ」という音は九州・築後の「山門・ヤマト」という音に似ているから九州が邪馬台国であったと主張する【字音遊びの新井白石の、邪馬台国説】を信仰する畿内説と九州説をとなえる学者たちのメディアを騙し、日本国民を誑(たぶら)かそうとする行為は「日本人の根源たる命と魂と精神(理性・知性)を凌辱(りゅじょく)する、空理空論の反(非)学術運動」であったのである。
 日本人よ! 邪馬台国説には騙されるなかれ!

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2021年5月30日 (日)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・20

▼「はじめに結論ありき」であった。最初から邪馬台国九州説と畿内説は【科学的根拠の裏付けのまったく無い、誤読の空論】であったのである。
 『魏志倭人伝』は、九州説と畿内説が主張するように「邪馬台国研究」のための史料ではない。卑弥呼が居住した女王国の名は「邪馬台国」ではない。「邪馬壱(やまい)国」と、『魏志倭人伝』は記している。
 このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が毎回証明してきたように―― 『魏志倭人伝』は【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】を理路整然(りろせいぜん)と詳細に説明している貴重にしてきわめて重大な書物であったのである。
 だから、九州説と畿内説は【多数の文献批判という名の誤読・作為・主観】を加えて「『魏志倭人伝』は、邪馬台国研究のための文献料である」と断定した空論であった。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】を加えずに、ただひとすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解すると、愉快なほど芋(いも)づる式に次から次へと【中国では解明できなくなった、漢字の起源の秘密】が解明できる。
 新井白石(16571725)以来、学者たちは【誤読によりウソ・偽り】を巧みにあやつって「『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料である」と凌辱(りょうじょく)しつづけている――このような『魏志倭人伝』に対する酷(ひど)い凌辱は、実際に大罪を犯していないにもかかわらず大罪を犯した容疑で死刑が確定された冤罪(えんざい)をもって抹殺(まっさつ)されると同じ仕打ちと言わざるをえない。だから、冤罪で死刑とされて抹殺・消滅されようとしている『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり【漢字の起源の真実、世界史的にも重大な抹殺されてはならない真実】は日本人ならば当然まもらなければならない義務であり責務である。
 再度くりかえす――『魏志倭人伝』を全面的に信頼して、ただひたすら・いちずに全記事を忠実に読解すれば、【漢字の起源の実情】が愉快なほどに・どんどん・続々と解明できる。
 だから、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に【文献批判という名の誤読・作為・主観】を多数加えて、【漢字の起源の秘密】を凌辱して抹殺せんとする卑劣きわまりない暴力であったのである。

★「倭人国の地理学」のトリセツ・29

◆『魏志倭人伝』を、ただひたすら・一途に頑固(がんこ)に全記事を忠実に読解すると、【漢字の起源の秘密】が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る。
 『魏志倭人伝』に記述された真実を知るためには――日本古代史を研究する人々や愛する人々は全員、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の絶対的な定説は、現在、学問的には空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、現存する最古の漢字音は《わが国が、夏代(かだい)初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字の字音》であった。《わが国が夏代初頭に習得した夏音(かおん)文字は、中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も前の(古い)、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と主張する絶対的定説の漢字音だと、下に示す〔漢字生長史〕では中国の上古音よりもずっと新しい、最下部に配すべき最も新しい漢字音ということになるため、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果に反する空論ということになる。
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 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明されている。ゆえに、白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)・紀元前2070年頃~紀元前2050年頃に習得した夏音文字の漢字音】であった。
 この【現存する最古の漢字音の、夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する絶対的定説の漢字音は、中国において現存する最古の「上古音」は紀元前1046年の周代初頭よりも約1500年も新しいことになるゆえ、空理空論だったのである。
 冒頭で述べたように――『魏志倭人伝』は「わが国が【夏音文字の学芸】を習得した後期縄文時代初頭、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】も共に習得した」と説明していた【漢字の起源の秘密】を詳細に理路整然と説明する文献であったのである。
 『魏志倭人伝』は――今から約5000年前、倉頡がどのように考えて【漢字作成理論】を発明したのか――この【漢字が起源した歴史と事情】を理路整然と詳細に説明していた書物であった。ゆえに、『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための書物ではなかった。卑弥呼が居住した女王国の名称は「邪馬壱国」であり――「邪馬壱」は【倉頡が発明した漢字作成原理の核心】を説明する語であった。
 だから、「『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究】のための史料である」とメディアを騙しまた大半の日本人を洗脳する九州説と畿内説は、科学的根拠の裏付けのない完全なる空理空論だったのである。

◆『魏志倭人伝』は、下記の二つの記事で「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明している。
 この一つ目の記事は、【1】34字で「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――つまり、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと伝えている。
 また、二つ目の記事は67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡(魏の出張政庁が所在するソウル市付近の地域)・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝え、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する。
 上記した「卑弥呼時代、わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明する重大な二つの記事は、九州説と畿内説によって抹殺された。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」という空論が、現在においても絶対的定説となった。
 ゆえに、「はじめに結論ありき」であった。九州説と畿内説は空論・妄想であったのである。『魏志倭人伝』はただひたすら・いちずに忠実に読解すれば、芋づる式にどんどんと愉快なほどに「【漢字の起源の秘密】、言いかえると【倉頡が発明した漢字作成理論】」が解明できた史料だったのである。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 この「漢字」の由来に気づいていれば――『魏志倭人伝』は「中国では解明できなくなった、【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせいぜん)と説明されている書物である」ことが証明されていた。
 「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状から作られた。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」を、通称「夏の銀河」と呼ぶ。テレビの画面に時々登場する銀河は、ほとんど「夏の銀河」である。
 倉頡は、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書」も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑が免除された。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、現在の学者たちは「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかない。
 また、学者たちは学問の「過去に作られた書物は、真っ先に忠実に読解しなければならない」という初歩的鉄則をまもろうとしない。このため、『魏志倭人伝』が【漢字の起源の秘密】が芋づる式に愉快なほどどんどんと明確となる貴重かつ重大な文献史料であることに気づかなかった。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 現在においても、《今から約4000年前にわが国が習得した最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義》は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、(2)《中国の海岸線地図》と、(3)《日本列島各部の地図の形》によって成立する。また、《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。したがって、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》がそろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代(いんだい)後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義しているゆえ、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆前回まで幾度となくわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が繰り返して詳細に解説し証明したように――倉頡は[()]の字を創(つく)って「黄帝の居住地(陝西省黄陵県の黄帝陵近くの地所)から見える地平線より外の、遠くの地域における方位規定を時計回りに90度ずつ転回する」と定めた。
 この[]の字源・字義をそのまま[()][()]の字は受け継いだ。
 だから、『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」における先頭字の[]の字源・字義は「本州・日本列島における方位規定は、倉頡が創った[]の字源・字義を受け継いで、時計回りに90度転回する」と定義するものであった。
 現在は、「【1】対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)の地図と【2】本州・日本列島地図における【1】【2】の〔北〕の方位は同じで天の北極がある方角」と定まっている。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした卑弥呼王朝では、【1】と【2】の両者の〔北〕は共に同じ〔北〕ではないと考えていた。つまり、卑弥呼王朝は――【1】対馬国と一大国の〔北〕は現在方位と同じく〔北〕である。しかし、【2】本州・日本列島地理においては、現在方位で〔西〕にある九州は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔北〕に所在し、現在方位で九州の〔東〕に所在する東海地方(愛知県・静岡県)は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔南〕に所在する――と定めていた。
 だから、【2】の[]の字源・字義をあらわす転回方位規定にもとづいて、卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。

[倭]の字源をあらわす〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕にもとづいて〔前回(19)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」は、「末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国」について解説し証明した。
 〔注 なお、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」では、現在方位と同じ「対馬(つしま)(現在の長崎県対馬)・一大(いちだい)(現在の長崎県壱岐)」についても解説し証明した〕。
 『魏志倭人伝』は「末盧国より東南へ陸行五百里にして、伊都国に至る」、「伊都国より東南へ百里して奴国に至る」、「奴国より東へ百里行くと不弥国に至る」と説明する。
 下の〔転回方位による九州各小国の旅程基点図〕に示すように、「末盧国の旅程基点は長崎県松浦市、伊都国の旅程基点は松浦市の東南にある福岡県糸島(いとしま)市前原(まえばる)町、奴国の旅程基点は前原町より東南にある福岡県福岡市の香椎宮(かしいぐう)、不弥国の旅程基点は香椎宮より東方にある福岡県宗像(むなかた)玄海町田島(たじま)の宗像大社であった」、この事実を――前回までのブログで、『魏志倭人伝』は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」で各小国の旅程について記述するものであった事実を証明した。
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◆『魏志倭人伝』は「不弥国から南の投馬(つま)国に至るには水行で二十日」、また「投馬国より南、邪馬壱国に至る。女王国の都(みやこ)する所なり。水行十日・陸行一月」と説明する。
 下に配した〔[]の字源にもとづく、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕に則(のっと)ると――不弥国の宗像(むなかた)の神湊(こうのみなと)から宗像大社の沖津宮が所在する沖ノ島に到着し、沖ノ島から山口県の萩(はぎ)市の見島(みしま)、見島から山口県の荻港までの水行(航行)による旅程」は、『魏志倭人伝』に「不弥国から南の投馬国に至るには水行二十日」と記述されたと考えられる。ゆえに、不弥国の宗像大社より[]の字源「転回方位規定」で「南」となる「萩港」が「投馬国」の旅程基点となる。
 「萩港から出雲の意宇(おう)郡に所在したであろう、卑弥呼が居住した宮殿までの旅程」を、『魏志倭人伝』は「水行十日・陸行一月」と記述したと考えられる。ゆえに、投馬国の旅程基点・萩港から[]の字源「転回方位規定」で「南」となる出雲国の意宇郡が邪馬壱国の旅程基点となる。
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 『魏志倭人伝』には、5世紀の裴松之(はいしょうし)の注がある。この注は「倭では春の耕作時を一年、秋の収穫時も一年と計っている」、つまり「今日の一年を二年と数えた」と説明している。ゆえに、『魏志倭人伝』の「不弥国から投馬国までの、水行二十日」という記事は「現在暦だと、不弥国から投馬国までは航行で十日の距離である」と説明していたことになる。同様に、『魏志倭人伝』の「投馬国から邪馬壱国までは、水行で十日・陸行一月」は「現在暦だと、投馬国から邪馬壱国にある卑弥呼の宮殿所在地に到着するまでは航行で五日・陸を歩いて半月かかる」と説明していたことになる。
 卑弥呼が居住する女王国・邪馬壱国は日本海側の山陰地方(旧国の石見・出雲・伯耆)であった。ゆえに、九州沖の玄界灘から山口県・投馬国沖の響灘(ひびきなだ)を通過して日本海へと進入すれば、投馬国の萩港に到着するまでの日数は『魏志倭人伝』が「水行二十日(現在の十日)」と記述するほど掛からないはずである。
 しかし、前述したように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が政権基盤とした【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する書物であった。このため、【倉頡が発明した漢字作成理論】の基本字となる倉頡が創った[]の字源・字義をそのまま受け継ぐ[]の字源・字義に関する説明を省略するわけにはいかなかったゆえ、魏に送付された卑弥呼が書いた文書には「沖ノ島に立ち寄る旅程」が書かれていた。だから、不弥国の神湊から投馬国の萩港までの旅程には「沖ノ島に到着して、さらに幾日か過ごす日数」が加わることになって――「不弥国の宗像市の神湊から、宗像大社の沖津宮が祭られる沖ノ島、沖ノ島から投馬国の見島、見島から投馬国の萩港に到着するまでの、長い遠回りの経路」すなわち「水行で二十日(現在の十日)かかる経路」が、『魏志倭人伝』には記述されることになったにちがいない。

◆前述したように、【A】「対馬国・一大国における〔南北〕と相違し、【B】対馬国・一大国より遠く離れる東海地方(愛知県・静岡県)や北陸地方(富山県・石川県)までを含む本州・日本列島地理では[]の字源となった「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 つまり、上に配した〔卑弥呼王朝が制定した転回本州・日本列島地理〕が「倭人国」の[]の字源をあらわした。だから、「末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国の旅程記事における方位」は、上に配した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における方位規定〕にすべて合理となって、合致する。
 『魏志倭人伝』の小国記事は【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する史料であった。このため――「不弥国から投馬国に至るまでの水行二十日」という記事は「対馬国・一大国から遠く離れる東海地方や北陸地方までを含む本州・日本列島地理における方位規定の[]の字源【時計回りに90度転回する方位規定】をもって【倉頡が発明した漢字作成理論】があらわされることになった。これゆえ、宗像大社の沖津宮が所在する沖ノ島に立ち寄る経路は単に旅程を説明するものではなく、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした〔卑弥呼が立論した転回日本列島における緯度基準地となった沖ノ島〕について説明が加えられたのである。
 つまり、上の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕の左側に配したように、玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島(こうづしま)は同緯度(北緯3415)である。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の8回でも詳細に解説したように――人類は原始のときから、頭脳に[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、日々鍛錬して1度の60分の1の、1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで食料を求めて眼力を鍛錬しながら移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることなく、人類は天頂にめぐってくる銀河周辺の形状を地理の代わりにして[]をキャッチして緯度と方角を測定してたくましく巧(たく)みに生存した。
 今から約5000年前の五帝時代に生存した倉頡は【[]のキャッチ】の基(もと)に【漢字作成理論体系】を構築(こうちく)した。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)においても、沖ノ島が所在する大海・玄界灘を命を失わずに往来する方法は【[](天頂緯度線と子午線)のキャッチ】のみ一つであった。また、太平洋に浮かぶ伊豆諸島の神津島を命を失わずに往来する方法も【[]のキャッチ】のみ一つであった。
 だから、卑弥呼時代、【[]のキャッチ】によって、日本列島に西端にある沖ノ島と東端にある神津島は同緯度(北緯3415)であると測定できた。そして、上記したように、倉頡は【[]のキャッチ】を基(もと)に【漢字作成理論体系】を構築し、卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成理論】は絶対に無視してはならない絶対的に神聖かつ崇高な権威であった。だから、【[]のキャッチ】と【倉頡が発明した漢字作成理論】によって本州・日本列島の〔東〕は90度転回して〔南〕と定める転回地理基点となった、【神津島と同緯度と測定された沖ノ島に立ち寄る、長く遠回りの経路】の説明を省略することはできなかったのである。
 前回のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の19回で詳細に解説し証明したように、『魏志倭人伝』(280289年に成立した)と同時代の260年頃~290年頃に作製された「不呼国・遠江(現在の静岡県西部)」に現存する「1千万坪の大鳥の地上絵(現在の静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形)には「正確な中国の海岸線地図」が明確に示されている。
 これから始める解説には、現在の日本列島地理の方位に則(のっと)る。
 中国の北部海岸線地域は冷たい気候区であり、中国の南部海岸線地域は暖かい気候区であるゆえ、〔北冷南暖〕となる。日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるが、日本列島の東端にある亜熱帯の神津島は一年中暖かい気候区であるゆえ、〔西冷東暖〕となる。
 下に配した「中国の〔北冷南暖〕と倭の〔西冷東暖〕の図」に示したように――中国の北部海岸線地域と日本列島西端の沖ノ島の気候は共に冷たいゆえ、〔中国の北冷=日本列島の西冷〕となる。中国の南部海岸地域と日本列島東端の神津島の気候は共に暖かいゆえ、〔中国の南暖=日本列島の東暖〕となる。この考えにもとづくと、日本列島西端の沖ノ島は中国海岸線地域の北部に在り、日本列島東端の神津島は中国海岸線地域の南部に所在する。だから、下に図示したように、日本列島は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」を示して、本州・日本列島の〔東〕にある東海地方は〔南〕に所在することになった。
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 倉頡は「イネ()や麦。五穀」を字義とする[()]の字を創って「方位は時計回りに90度転回する」と定理した。[][]が加わって[()]となり、人偏(にんべん)[]が加わって[]となった。夏音文字の[][]の字は、倉頡が創った[]の字源・原義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
 ゆえに、『魏志倭人伝』の「不弥国から投馬国までは水行二十日で到着する」という「沖ノ島に立ち寄って、さらに幾日か沖ノ島で過ごす日数を加えたにちがいない」――この「水行二十日(今日の十日の航行)」という記事は、卑弥呼王朝が最も神聖視する【[]の字を創った倉頡が発明した漢字作成理論における重大な要素】を説明するものであったのである。したがって、「沖ノ島」の説明を省略することができなかったのである。
 だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための史料ではなかった。『魏志倭人伝』は、卑弥呼王朝の政権基盤【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する史料であったのである。

◆「投馬国」と「邪馬壱国」の両国名において、共に[]の字を有する。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回の中半部から、また前回(18)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の後半部から解説したように――【倉頡が発明した漢字作成理論】は倉頡伝説では「鳥獣の足跡」と名づけられた。倉頡は「牛」と「馬」を「鳥獣の足跡(漢字作成理論)」の「獣」、つまり「鳥獣の足跡」を象徴する聖獣と定めた。
 []の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」、[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」である。わが国には「牛・ジャコウウシと、馬・フタコブラクダ」は生息していない。ゆえに、『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬は無い(生息していない)」と記述する。
 だから、わが国に生息せず、生態も詳しくない「牛・ジャコウウシ」と「馬・フタコブラクダ]を意味する字を小国名に用いた事情は、卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であったからにほかならない。【倉頡が発明した漢字作成理論】においては、「牛・ジャコウウシ」と「馬・フタコブラクダ」を欠くことができない聖獣であった。
 倉頡がつかえた黄帝は「女性の生殖器官と子どもの出産」を研究した。倉頡が漢字を発明する目的は【黄帝が研究した「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を作成することであった。倉頡は「女性の骨盤と骨盤がその大半を包囲してまもる生殖器官」を「牛・ジャコウウシ」に見立て、「骨盤入口から膣口(ちつこう)までの産道を通過する出産児」を「馬・フタコブラクダ」に見立てた。これゆえ、[]は「女性の骨盤と生殖器官」を意味し、[]は「出産児」を意味することになった。

 ゆえに、「投馬国」の[]は「出産児」を意味した。「投馬国」は、「現在の山口県」、旧国の「長門(ながと)と周防(すほう)」であった。
 下に配した「山口県・投馬国の地宜」は「馬・フタコブラクダの横顔」に相似する。この観点からも、「山口県」の小国名には[]の字が付くことになった。
 下に配した上図は、転回方位にもとづく投馬国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)である。下図は現在方位にもとづく投馬国の地宜である。

出産が始まる時は「出産第一期・開口期(かいこうき)」と名づけられ、次は「出産第二期・娩出期(べんしゅつき)」と呼ばれる。
 ――出産第一期・開口期において、陣痛(じんつう)が始まると、子宮口(しきゅうこう)にむかった卵膜(らんまく)は羊水(ようすい)によってふくらみ、くさび状に子宮頚管(しきゅうけいかん)をひろげ子宮口が開いていき、出産児()の頭はしだいに押し下げられてくる。子の頭は骨盤産道にはいりこみ、骨盤産道の形に応じて向きを変えていく。正常分娩の場合には、骨盤入口の上では子のアゴを胸につけた姿勢で、子の背中は母体の左または右にある。中ほどにくると子の頭は斜(なな)め後ろの(母体の背側)に顔を向け、出口では顔をすっかり後方(母体の背側)に向ける姿勢となる。開口期の終わりには、ほぼこの状態となる。
 上記した「出産児、つまり馬(フタコブラクダ)が骨盤入口の上では出産児()がアゴを胸につけた姿勢」は、下の二図の「投馬国の地宜」に相似すると見立てられた。
 だから、「山口県」の小国名には[]の字がつくことになったのである。
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 激しい痛みの陣痛に耐え、汗と涙でグショグショとなって命がけの戦いに勝利して子ども()を出産させる母体は「ひたすら、早く愛しいわが子に会いたい」と願うゆえ、「アゴに胸につけた姿勢の子()が強い力で投げられる弾丸にように一気に生まれよ」と必死に願う。ゆえに、「山口県の地宜」は母体の「わが子()よ、おなかから分離して投げる弾丸のようになって勢いよく生まれよ」という必死の願いをあらわしているということで、卑弥呼は小国名を「投馬国」と定めたと考えられる。
 上に配した〔投馬国の地宜解説図〕の上図における旧国名の「長門」つまり「長い門」は、『魏志倭人伝』が「不弥国から投馬国に至るに水行二十日かかる」と記述する「沖ノ島回りの遠く長い航行の港の門」が「萩港」ということで「長門」と名づけられたのであるまいか。
 下図における旧国名の「周防」は「天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中に隠して[]のジャコウウシの群れが円陣を組む、その円陣が周(たて/盾)となって防備する」と意味するものであったにちがいない。アゴを胸につけた姿勢の出産児のごとくに、周()となるジャコウウシは前肢(ぜんし)で地面をたたき、頭をアゴにつけて低い姿勢となり、襲ってくるオオカミをオスが角(つの)でひっかけ肩越しに投げとばし、他のジャコウウシがオオカミをふみつぶして殺す。「投馬国」の[]には「ジャコウウシが出産児のごとくアゴを胸につける低い姿勢となって角でオオカミを投げとばして命がけの戦いに勝つように、母親がわが子をおなかから弾丸のごとく投げ飛ばして命がけの戦いに勝利する」と意味するものであったと考えられる。
 投馬国・山口県南部の周防灘と響灘(ひびきなだ)を結ぶ関門(かんもん)海峡は、出産児()が通過する狭い産道に相似する海峡である。関門海峡の古称は「馬関海峡」であった。ゆえに「馬関海峡」の[]は「投馬国」の[]であり、また「出産児」を意味したにちがいない。馬関海峡の東部(現在方位にもとづく)の早鞆(はやとも)付近は最強の8ノットの潮流が流れ、せまい馬関海峡は交通の難所である。「鞆(とも)」は「弓を射るとき、左手につけ、弓の弦(いと)が手首をうつのを防ぎ、また弦音(げんおん)を高く鳴らすのに用いる皮製の具」である。ゆえに、「早鞆」という交通の難所はその「最強の8ノットの潮流」で「弦音高く射る矢のごとく早く走る馬(フタコブラクダ)」を譬(たと)えるものであったにちがいない。だから、「早鞆」は「母体のおなかから分離して、投げられた弾丸のように狭い産道を一気に通過する出産児・馬の様子」をあらわしていることになる。

◆『魏志倭人伝』に最初に登場する「対馬国」を「一番目」と数えると、七番目が「投馬国
となり、八番目が「邪馬壱(やまい)国に至る、女王の都(みやこ)する所なり」と記述される女王国となる。したがって、九州説と畿内説が断定するように、『魏志倭人伝』は女王国の名を「邪馬台国」と記していない。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回はじめ幾回においても解説して証明したように、「邪馬壱国」は「現在の島根県と鳥取県西部、旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」という大きな範囲であった。
 倭女王・卑弥呼が住む宮殿が所在した「邪馬壱国の中心」は「山陰出雲(現在の島根県東部)」であった。
 上記した〔卑弥呼王朝が制定した転回本州・日本列島地理〕で定理された[]の字源をあらわす「転回方位規定」にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の古代出雲の地宜は――下記のごとくであった。 
 下の〔古代出雲の地宜〕の左上には「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。[]の字源「転回方位規定」にもとづくと、神門水海の東隣となる出雲大社が所在する周辺地域の地宜「親の馬・フタコブラクダの横顔」に相似すると見立てられた。これゆえ、「神門水海」は「親の馬・フタコブラクダが鼻でなでる子の馬・フタコブラクダ」に見立てられた。
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 下に配するように、「神門水海」は「緯度線と経度線に邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「神門水海」は[][]つまり「邪馬」をあらわした。
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 下の図に示したように、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭、前掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕の左上にある「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が中国全土の天頂にめぐってきた。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて幾回ともなく解説し証明したように、「十字の銀河」は[]「フタコブラクダ」の字源であった。「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つある」ゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」は「倉頡」に見立てられた。ゆえに、倉頡伝説は「漢字は銀河から作られた」と伝えるために「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」にもとづいて「倉頡」は「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。そして「四つ目の怪人、倉頡」に見立てられた「鬼の横顔に似る銀河」は[]の字源となった。ゆえに、「倭国」の正式名「倭人国」の[]の字源は「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」であると考えられる。
 「十字の銀河の子宮(に相当する銀河)」は[]の字源・字形・字義となった。さらに詳細にいうと、「十字の銀河の子宮周辺」は「牛・ジャコウウシ」に見立てられた「女性の骨盤と、骨盤がその大半をつつんでまもる女性生殖器」に見立てられて、[]の字源・字形・字義となった。
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 下の図に示したように、古代の宍道湖(しんじこ)は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「足の形に似る、宍道湖」は上に示した「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。上記したように、[]の字源となった「十字の銀河の子宮」は「女体の姿に相似する、十字の銀河の右足」の東側に隣接する。
 ゆえに、「十字の銀河の右足」に見立てられた「宍道湖の東岸(転回方位)」と接する佐太(さだ)神社が所在する「島根半島の中央部」が「十字の銀河の子宮」が在る箇所に見立てられて[]をあらわす地宜となった。
 したがって、「山陰・出雲」の「神門水海」が「邪馬」をあらわし、「島根半島の中央部」が[]をあらわすゆえ、女王国名の「邪馬壱」をあらわすことになった。
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 上の図の下部に示すように、[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた「島根半島の中央部の〔南〕から転回方位規定「時計回りに90度転回する」と〔西〕となる地域は、「意宇(おう)平野」言いかえると「出雲国内で最大の郡の、意宇郡」であった。
 733(天平5)に、国造(くにのみやつこ)出雲臣広嶋らに『出雲国風土記』は編纂され、ほぼ完全な形で残った唯一の風土記である。『出雲国風土記』の国引き神話では、「意宇郡」の地名の起源は――出雲国は狭いため、八束水臣津野命(やつかもずおみつぬのみこと)が新羅(しらぎ)や北陸などの国の余りに「綱打ち掛けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来国来(くにこくにこ)と引いてきた」。それが島根半島といい、国引きの綱は薗(その)の長浜と弓ガ浜であり、土地を繋ぎとめた杭が三瓶山(さんべさん)と大山(たいさん)といわれる――と伝えている。
 このような国引き神話の説明は、意宇郡に所在した倭女王・卑弥呼が居住した王宮が所在した歴史を懐かしむ心情をあらわしたものにちがいない。だから、「南→西」となる「意宇郡の一画」に『魏志倭人伝』に「婢千人を侍(はべ)らせ、ただ一人の男子が飲食を給仕し、女王の辞(言葉)を伝えるために出入りしている。女王の宮殿には、樓観(ろうかん/見張りやぐら)や城柵(じょうさく)が厳重に設けられ、そこには常に兵器を持った人が守衛している」と記述された――卑弥呼が住んだ王宮が所在したと推定される。

◆前述したように、「出産第一期・開口期の初めから出産第二期・娩出期終わりまでにおける、出産児の頭の回転」を、産婦人科では「回旋(かいせん)」と名づけている。回旋は4回おこなわれる。第1回旋は「時計回りに90度回旋」し、第2回旋と第3回旋は「反時計回りに90度回旋」する。第4回旋は「時計回りに90度回旋」する。
 倉頡は「出産児の第1回旋と第4回旋」の「時計回りの90度の回旋」をヒントにして「時計回りに方位が90度転回する方位規定」をあらわす[()]を創った。また「第2回旋と第3回旋」の「反時計回りに90度の回旋」をヒントにして「反時計回りに90度転回する方位規定」をあわす[()]の字を創った。
 倉頡が創った[]の字は「稲や麦。穀物。五穀豊穣」を意味することになり、また「人民の胃袋を食料で満たすという政治スローガン」」をあらわした。
 []の下に[]が加わって[()]となり、人偏(にんべん)[]が加わって[]の字となった。[][]の字は、[]の字源・字義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 西暦180年頃、若き卑弥呼は本州・日本列島の地理は[]の字源・字義を受け継ぐ[]の字源・字義「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづけば――【四つ目の怪人の、倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然(りろせいぜん)と説明できる転回本州・日本列島地理を立論して、倭国の大乱を平定した。〔注 前掲した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕が、卑弥呼が倭国の大乱を平定した地理である〕。
 倉頡は「4回の回旋がおこなわれる、出産児の頭の回旋」をヒントにして、[]の字を創った。
 下に示すように、「出産児の頭」の5枚の頭蓋骨(後頭骨・2枚の頭頂骨・2枚の前頭骨)は重ね合わせることができる仕組みになっているゆえ、狭い産道をくぐりぬけることができる。この「出産児の頭蓋骨の重ね合わせることができる機能(きのう)」を、産婦人科では「広形(こうけい)機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と呼ぶ。
 後で解説するが、下図に示す「出産児の頭蓋骨」における「小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)」は「邪馬」という語をあらわし、[]の字源は「骨盤と産道」であった。ゆえに、「出産第一期・開口期から出産第二期・娩出期おわりまでの出産児の頭蓋骨と、骨盤・産道」は女王国名の「邪馬壱」をあらわした。
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◆下に配する「倉頡」に見立てられた「四つ目の銀河における、鬼の後頭部とアゴにつく両目から人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の前頭部まで」の、太線で表示した箇所は「邪馬壱の銀河」となる。つまり、太線で表示した箇所は上図に示した「出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門の形をした銀河」ということになる。
 下の図における太線で示した「小泉門・矢状縫合・大泉門の形となる銀河」は「邪馬」をあらわすゆえ「邪馬の銀河」となり、「邪馬の銀河」は[]の字源の「骨盤と産道」をあらわすことになるゆえ、「邪馬壱の銀河」ということになる。
 注目すべきは、《黄帝時代の黄帝陵の天頂緯度線(北緯3536)》が「邪馬壱の銀河の大泉門と小泉門に相当する箇所の北部」を撫()でるがごとく貫通していることである。
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 前掲した〔産道を通過する時の出産児の頭蓋骨図〕に示したように、「出産児の頭蓋骨」は「縦長(たてなが)」である。
 下に示したように、[]の字源となる「縦長の出産児の頭がくぐりぬける、女性の骨盤入口は横長(よこなが)の楕円形」である。
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 出産第1期・開口期において、骨盤入口は横長の楕円形に対して、からだのなかでいちばん大きな出産児の頭(児頭)の形は横長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐりぬけるためには、骨盤入口では児頭は横向きになって骨盤入口に入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)、赤ちゃんはアゴを胸につける姿勢(注 つまり、前述した「投馬国の地宜に見立てられた姿勢」)となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これが「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、出産児は横向きからしだいに正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を「第2回旋」という。第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は反時計回りの90度である。第2回旋が終了した時点で子宮口(しきゅうこう)はすっかり開く全開大(ぜんかいだい)となる。第3回旋は反時計回りになって出産児を娩出(べんしゅつ)することになり、出産児は反屈して恥骨(ちこつ)をくぐりぬけるように児頭から娩出する
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめ声をあげる。この頭の誕生が、出産第二期・娩出期の終わりとなる。

 下に〔馬・のフタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの図〕を配した。
 下図に示した「馬・フタコブラクダが草をモグモグと食べる鼻の動き」は「産道を通過する出産児の小泉門の動き」にソックリであり、「草を食べるフタコブラクダの上アゴの動き」は「産道を通過する出産児の頭頂骨の動き」に酷似し、「草を食べるフタコブラクダの口の動き」は「産道を通過する出産児の大泉門の動き」に実によく相似し、「草を食べるフタコブラクダの下アゴの動き」は「産道を通過する出産児の前頭骨の動き」に相似する。
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 つまり、「産道をくぐりぬける出産児の頭蓋骨の5枚の骨の結合はゆるく少し重なる仕組みとなる。このため、「5枚の骨と小泉門・矢状縫合・大泉門の動き」は「草をモグモグと食べる時のフタコブラクダの上アゴと下アゴが合わずに食い違って邪(なな)めとなって動く様子」に酷似する。ゆえに、「草を食べる時に邪めとなる馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の動きの形状」が「邪馬」となり、[]の字源「出産児がくぐりぬける産道」も加わって、「邪馬壱」という語になった。
1】だから、女王国名の「邪馬壱」は、産婦人科の用語「広形機能(こうけいきのう)・骨重積(こつじゅうせき)」を表現するものであった。
2】だから、「投馬国」と「邪馬壱国」の解説で証明したように、[]の字は「フタコブラクダ」と「出産児」を意味することになった。
3】「馬・フタコブラクダ」はわが国では生息しない・生態をよく知らない馴染みのない獣であった。しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する学術において必要不可欠の聖獣であったゆえ、倭国の小国名には[]の字が使用されることになった。
 九州説と畿内説が断定するように、『魏志倭人伝』は女王国の名を断じて「邪馬台国」と記していない。『魏志倭人伝』は女王国の名を「邪馬壱国」と記している。この「邪馬壱国」の国名に用いられた【邪馬壱】という語は、倉頡が創った[][]の作字ヒントになった「4回の回旋がおこなわれる、出産児の頭蓋骨の機能」をあらわしている。
 したがって、九州説と畿内説は科学的根拠の裏付けがまったく無い、傲慢(ごうまん)な単純化から生まれた戯言(たわごと)・妄想であったのである。『魏志倭人伝』は九州説と畿内説が断定するような「邪馬台国研究」の史料ではなく、『魏志倭人伝』は深えんなる銀河の神秘と深えんなる生命の神秘を合体して誕生した【学問、倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する学術書にして歴史書であったのである。

 『魏志倭人伝』の末部で「卑弥呼は以(すで)に死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩(円墳の直径が約150メートル)」と記述する卑弥呼の陵墓も山陰出雲の地所に築造されたと推定できる。この「卑弥呼の陵墓」の解説が、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の12回で詳細に解説し証明したゆえ、このブログでは解説と証明を省略する。

◆『魏志倭人伝』に最初に登場するは「対馬国」を「1番目」と数えると、8番目国は「邪馬壱国」、9番目国は「斯馬(しま)国」、10番目国は「巳百支(じはき)国」、11番目国は「伊邪(いや)国」である。この斯馬国・巳百支国・伊邪国の詳細な解説と証明も、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の12回にておこなった。
 このブログでは12回との重複をさけて、斯馬国・巳百支国・伊邪国の位置と範囲について結論的に簡潔に説明することにする。
 9番目の「斯馬国」は「旧国の因幡(いなば)と但馬(たじま)、現在の鳥取県東部と兵庫県北部」であったことになる。
 下の図に示したように、邪馬壱国の旧国・伯耆(ほうき/現在の鳥取県西部)に隣接する因幡における、現在の鳥取市にはわが国最大の砂丘地帯「鳥取砂丘」が所在する。「鳥取砂丘」から「ゴビ沙漠に生息する馬・フタコブラクダ」が連想できる。「但馬」の[]の字源は「フタコブラクダ」である。「斯馬国」の[]の字を、『説文解字』は「柝()くなり」と解説する。この「柝くなり」という解説は「母体がおなかから柝く(出産児を分離する)」と意味する。前述したように、[]は「出産児」を意味した。ゆえに、前述した「投馬国」の「投馬」と同様に、「斯馬」は「母体がおなかから弾丸のように一気に赤ちゃんを投げ出して出産(誕生)する」と意味することになる。下の「斯馬国(旧国の因幡・但馬)の地宜」が示すように、転回方位にもとづく「但馬南部の地宜」は「母体から分離して投げ出された出産児の頭」のような形をしている。
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 下の図に示すように、斯馬国の但馬に隣接する「丹後(たんご/現在の京都府北部)」が10番目の「巳百支国」であった。
 下の図が示すように、「丹後の地宜」は[]の古代字形に相似する。[]の字義は「ヘビ()」であるゆえ、[]の字は「出産児の大きな頭が狭い産道につっかかって前へ進められなくならないように、ヘビ()のようにくねらせてくぐりぬける」と意味したにちがいない。
その証拠に、「大きな出産児の頭に見立てられる丹後半島」に対して「出産児の胴体に見立てられる丹後半島の付け根から大浦半島の付け根までの地宜」は「狭い産道をヘビのごとく身をくねらせる形」となる。「巳百支国」の[]は「阡陌(せんはく)」の[]の原字と考えられる。[阡陌][]は「南北」、[]は「東西」を意味する。しかし、転回方位規定によって[]は「東西」、[]が「南北」に入れ代わることが多発することになった。この[][]の「経度(南北)[]の「緯度(東西)」の入れ代わりの原因は、「出産児が縦長()の頭を横長(])の骨盤入口に合わせて横長()となる」であったからである。ゆえに、「巳百支」の[]は「出産児の縦長の頭を横長の骨盤入口に合わせて横向きになる状況」をあらわした。「巳百支」の[]は「丹後半島の付け根となる東岸にある天橋立(あまのはしだて)は宮津湾(みやづわん)と阿蘇海(あそかい)の東西に支(わか)れる状況」をあらわした。
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11番目の「伊邪国」は「霧の丹波(たんば)」と呼ばれて有名な「旧国の丹波、現在の京都府中部と兵庫県一部」であった。下の図に示すように、9番目の斯馬国と10番目の巳百支国の両小国の南(現在方位)に隣接して、11番目の伊邪国がある。
 「伊邪国の地宜」は「女性の骨盤の正面形の輪郭(りんかく)の概略の形」となる。これゆえ、「伊邪国の地宜における女性の骨盤入口の大きさ」は「斯馬国の地宜における出産児の頭の大きさ」よりも「巳百支国の地宜における出産児の頭の大きさ」よりも大きい。
 だから、上記したように「斯馬国と巳百支国の地宜」は「せまい産道をくぐりぬける出産児の姿に相似する」と見立てられたことになる。
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 下に配した二図が示すように、「伊邪国の地宜」は「女性の骨盤の正面形の輪郭の概略形」に類似する。
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 白川静著『字統』は[]の字について「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意(しんい)を媒介(ばいかい)する聖職の人をいう」と解説する。
 「十字の銀河」は「聖職の人がもつ神杖」に見立てられ、「鬼の姿に似る銀河」が「神杖をもつ聖職の人」に相当する。
 下図に示すように、「鬼の姿に似る銀河の東部」は「鬼の横顔に似る銀河」である。「鬼の横顔の銀河」には「顔の両目と、後頭部と下アゴの両目の四つの目」がある。ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の怪人・倉頡の銀河」ということになる。
 それゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」は「【倉頡が発明した漢字作成理論】に精通した聖職の人、つまり学者」に見立てられたことになる。だから、4番目の「伊都国」と11番目の「伊邪国」という小国名に共通する[]は「【倉頡が発明した漢字作成理論】に精通した人(学者)」を意味したことになる。
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 『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話〕は――須佐之男命と天照大御神は「不戦の誓い」を結ぶとき、「偽りのない純粋な心で誓いあう霧吹き儀式」をおこなった。しかし、その気(純粋な心で誓いあう気)がない天照大御神に須佐之男命は欺(あだむ)かれて「不戦の誓い」を結ぶことができなかった。このとき、天照大御神王朝を倒さんと計画していた5人の王の渾名(あだな)を須佐之男命は天照大御神に迂闊(うかつ)にも告げ、また天照大御神は須佐之男命が知らなかった宗像君もクーデターを計画していると告げた。この後、天照大御神王朝は孫の天孫の時代まで執念ぶかくクーデターを企てた5人の王たちの渾名から本名を察知して征討しあるいは懐柔(かいじゅう)しあるいは畏怖(いふ)させ、また不弥国の宗像君を征討して、大和王朝が代々栄える基礎を築いた――と伝えている。
 「須佐之男命が天照大御神とおこなおうとした、偽りのない純粋の心で誓うときにおこなう霧吹き儀式」を、『古事記』は――天之真名井(あめのまない/狭い谷川の天頂の銀河が映る井(箇所)の鏡のように清く澄んだ水面)の水を、佐賀美邇迦美て(さがみにかみ/この夏音文字の6字は「邪馬壱」つまり馬・フタコブラクダが草をモグモグと食べるがごとく噛みに噛んで)、吹き棄()つる気吹之狭霧(いぶきのさぎり/霧吹き儀式して吐いた霧)――と表現する。
 上に配した〔「伊邪・霧吹きの銀河」の解説図〕において、[]の字源「十字の銀河」より邪(なな)めの箇所にある「四つ目の銀河、鬼の横顔に似る銀河」は[]の字義に合致する。上図に示したように、[]の「鬼の横顔に似る銀河」が「谷川の水を口に含んで噛みに噛んで吐き出した霧吹きとなる箇所の銀河部」が「霧」をあらわす。
 だから、「伊邪国」は「霧の丹波」であった。

◆上記した「伊邪」の語源となった「霧吹き儀式」は、次の12番目国の「都支(たき)国」の「都支」の語源が「子宮」、つまり「胎児が宿る、子宮における出来事」を解明するために必要な知識(学識)となる。また、「都支国」の〔[]の字の秘密の解明〕には、前述した「巳百支国」の[]の「宮津湾と阿蘇海が東西に支(わか)れる様子」が重要なヒントとなる。
 以上のごとく、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が証明してきたように、卑弥呼は前後の小国名の由来が密接に関連しあって、全小国名が理路整然と説明できる仕組みにし、さらに各小国名は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】に集約できる仕組みにした。この仕組みは現代医学にあって「大脳の記憶情報は大脳の全体にひろがっていて局所ではない」と説く現代のホログラフィーの科学論に似ている。
 以上のごとく、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然と説明される書物であって、新井白石以後約300年もつづく九州説と畿内説が主張するような「邪馬台国説研究」のための史料ではなかった。
 よって、「はじめに結論ありき」であった。九州説と畿内説は最初から空理空論だった。白石以後300年間、九州説と畿内説を主張する学者たちは『魏志倭人伝』に記述してある事実を削除(さくじょ)して、記述していない事柄をさも記述してあるかのごとく捏造(ねつぞう)するという――学問において絶対にやってはいけない考え方を強行して日本国民を欺(あざむ)いている。
 『魏志倭人伝』は全記事が正確に事実を記述した書物であった。この『魏志倭人伝』に対して、いわゆる邪馬台国説という意見は詐偽(さぎ/虚偽)の産物、聞くに堪()えられない屁理屈(へりくつ)と戯言(たわごと)であったのである。

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2021年5月23日 (日)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・19

▼このブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が前回まで毎回証明しているように――邪馬台国説で有名な『魏志倭人伝』は、九州説と畿内説が主張するように「邪馬台国研究」のための史料ではない。
 『魏志倭人伝』は――【漢字の起源の秘密】を詳細に伝える文献史料であった。
 現在、漢字が起源した中国では【漢字の起源】が解明されていない。しかし、『魏志倭人伝』によって【漢字の起源の秘密】が解明される。
 九州説と畿内説は【多数の文献批判という名の作為・主観】を加えて「『魏志倭人伝』は、邪馬台国研究のための文献料である」と捏造(ねつぞう)した空理空論だったのである。
 現在、1ヵ所も【文献批判】を加えずに、ただひとすら・いちずに忠実に『魏志倭人伝』の全記事を読解する学者の方は一人もいない、つまり皆無(かいむ)である。
 このような学者の方々の『魏志倭人伝』に対する酷(ひど)い仕打ちは、実際に大罪を犯していないにもかかわらず大罪を犯した容疑で死刑が確定された冤罪(えんざい)と同じ仕打ちとなる。だから、冤罪で死刑とされて抹殺されようとしている『魏志倭人伝』に記述された真実、つまり【漢字の起源の真実、世界史的にも重大な抹殺されてはならない真実】が記述されている『魏志倭人伝』を日本人はまもらなければならない。
 新井白石(あらいはくせき)以後、学者たちは『魏志倭人伝』を信頼せずに【多数の文献批判】を加えて解釈する方法こそ正しい考え方であると断定する。このため、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための文献であると断定されている。
 しかし――『魏志倭人伝』を全面的に信頼して、ただひたすら・いちずに全記事を忠実に読解すれば、【漢字の起源の秘密】は愉快なほどに・どんどん・続々と明白となる。
 だから、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に【文献批判という名の作為・主観】を多数加えて、【漢字の起源の秘密】を排除・不明にした空理空論・妄想だったのである。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・28

◆『魏志倭人伝』には、現在とまったく異なる「日本列島地理」が説明されている。
1】倭人国における玄関口となる対馬(つしま)国と一大(いちだい)国の南北は現在の南北と同じであるが、【2】九州の末盧(まつろ)国以下の本州・日本列島の南北は「倭人国」の[]の字源・字形・字義にもとづいて「時計回りに90度転回する方位規定」にのっとって、『魏志倭人伝』は方位名を記述している。つまり、現在の〔北〕は[]の字源にのっとって時計回りに90度転回するゆえ、『魏志倭人伝』は「〔東〕となる」と指摘している。
 []の字源・字義に秘められた特殊な転回方位規定は――今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が創(つく)った[]の字源・字形・字義をそのまま受け継いだ方位規定である。
 漢字は倉頡が発明した。しかし、現在、学者たちによって「倉頡だけ一人で漢字が発明されて体系づけられたはずがない。漢字は長い歴史の中で多数の人々によって発展してしだいに体系を整えてきたはずである」と断定されて、「倉頡が発明した」と伝わる伝説はウソ・作り話であると決定されている。
 しかし、『魏志倭人伝』は――倉頡伝説は事実であった。漢字は倉頡によって発明された。倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして天下を治めた。ゆえに、卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて倭国の首都が所在する王国名を「邪馬壱(やまい)国」と定めた。また、卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづき、つまり「末盧国以下の本州・日本列島地理は倉頡が創った[]の字源・字義を受け継ぐ[]の字源・字形・字義にのっとって本州・日本列島の〔東〕ではなく、「東→南」ということで〔南〕へ伸びる」と制定した。そして、(1)前半部に列記される「対馬国以下狗奴(くな)国まで」の30ヵ国の小国について説明する記事は、【倉頡が発明した漢字作成理論】が次から次へと順次に詳細に解明できる機能(仕組み)になっている。さらに、(2)後半部に登場する「名称不明の小国・侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国」の4ヵ国記事は「今から約4000年前、つまり倉頡が漢字を発明した五帝時代初頭から約1000年後の、中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、“夏()の始祖”の帝()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海・玄界灘を横断して日本列島の東北地方に定住して、【夏音(かおん)文字の学芸】を東北地方から関東地方まで教えひろめた。この【夏音文字の学芸】が習得されたとき、【倉頡が発明した漢字作成理論】も習得された――と伝える書物あった。
 だから、九州説と畿内説が主張するように『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための文献史料ではなかった。
 九州説と畿内説のごとく【文献批判という名の作為、主観、偏見】をいっさい何も加えなければ、『魏志倭人伝』は【倉頡はどのように考えて【漢字作成理論】を発明したのか――【漢字が起源した歴史と事情】が芋づる式に・愉快に・どんどんと解明することができる正確無比の文献であった。

◆だから、日本古代史を研究する人々や愛する人々は全員、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の絶対的な定説は、現在、学問的には空理空論である事実を知っていなければならない。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の学問成果を無視・排除する空理空論だったのである。
 下に配した〔漢字生長史〕が示すように、現存する最古の漢字音は《わが国が、夏代初頭(後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字の字音》である。《わが国が夏代初頭に習得した夏音文字は、中国に現存する最古の字音「上古音(じょうこおん)」の始まり・周代初頭》よりも約1000年も古い、現存する最古の漢字音である。他方、学界が「わが国が漢字を習得したのは5世紀~6世紀である」と張する絶対的定説の漢字音は、下に示す〔漢字生長史〕では最下部に配すべき最も新しい漢字音となる。だから、学界が断定する「わが国の漢字習得の絶対的定説」は、白川静著『字統』が指摘する西洋の音韻学の研究成果に反する。
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 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音(じょうこおん)」と解明されている。
 「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の「上古音」は紀元前1046年の周代初頭よりも約1500年も新しい。ゆえに、白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭(夏代初頭)・紀元前21世紀に習得した夏音文字の漢字音】であったのである。
 この【現存する最古の漢字音の、夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、『魏志倭人伝』は「わが国が【夏音文字の学芸】を習得した後期縄文時代初頭、【倉頡が発明した漢字作成理論】も共に習得した」と説明していた文献であった。
 『魏志倭人伝』は――今から約5000年前、倉頡はどのように考えて【漢字作成理論】を発明したのか――この【漢字が起源した歴史と事情】を詳細に説明していた書物であった。ゆえに、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための書物ではなかった。卑弥呼が居住した女王国の名称は「邪馬壱(やまい)国」であり、「邪馬壱」は【倉頡が発明した漢字作成原理の秘密】を説明する語である。言いかえると、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」についてまったく説明していないゆえ、九州説と畿内説は明らかに空理空論ということになる。

◆『魏志倭人伝』は、下記の二つの記事で「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、倭国には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と説明していたことになる。
 この二つの記事は、【1】34字で「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――つまり、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと伝えている。
 また、『魏志倭人伝』には67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡(魏の出張政庁が所在するソウル市付近の地域)・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝え、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する。
 しかし、上記の二つの記事は、九州説と畿内説にとって不都合であるため、両説は徹底的に無視し排除する。また、上記の二つの記事は学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」と断定する定説に反する。ゆえに、九州説と畿内説は最初(はな)からまったく信用せずに徹底的に無視し排除する。
 しかし、上記したように、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という定説は、現在、西洋の音韻学によって空理空論であると証明された。
 中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた。
 だから、「漢字」は銀河(銀漢)の各部の形状からデザインされた。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたことになる。
 天文学において「夏の全星座が漬()かる銀河の範囲」いいかえると「夏に最も長時間観察できる銀河」は、通称「夏の銀河」と呼ばれる。
 倉頡は、今日、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書」も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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◆「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・次の夏代の原初漢字の夏音文字・次の殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑はじめ刑罰を与えなくても良いことになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、現在の学者たちは【1】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかず、学者たちは「夏の銀河の各部は夏のどの星座よりも明確な形を有するにもかかわらず、なにゆえ名称が存在しないのか?」と疑問を抱かない。
 だから、学者たちは『魏志倭人伝』が【漢字の起源の秘密】が芋づる式に愉快なほどどんどんと明確となる貴重かつ重大な文献史料であることに気づかなかった。
 「漢字」は《字源・字形・字義・字音の4つの要素》から成立する。
 《最古の漢字音を伝える、夏音文字の字源・字形・字義》は(1)《文字作成銀河の各部の形状》と、このブログによって(2)《中国の海岸線地図》と、《3》日本列島各部の地図の形》によって成立する。《夏音文字の字音》は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に楷書を音符にして多数残っている。したがって、「夏音文字」は4つの要素《字源・字形・字義・字音》がそろっているゆえ、「文字」と定義すべきことになる。
 現在、「漢字の最も古い祖型」とされる夏音文字より約750年後の殷代(いんだい)後半に出現した甲骨文字は《字源・字形・字義》の3つの要素がそろっているが、《字音》が不明である。
 このように、4つの要素がそろっていない不完全な甲骨文字を学界は「文字」と定義しているゆえ、4つの要素がそろう夏音文字は、当然、「文字」と定義すべきことになる。
 なお、「甲骨文字」をわがブログでは「契文(けいぶん)」と呼ぶ。

◆前回まで幾度となくわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が繰り返して詳細に解説し証明したように――倉頡は[()]の字を創(つく)って「黄帝の居住地(陝西省黄陵県の黄帝陵近くの地所)から見える地平線より外の、遠くの地域における方位規定を時計回りに90度ずつ転回する」と定めた。
 この[]の字源・字義をそのまま[()][()]の字は受け継いだ。
 だから、『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」における先頭字の[]の字源・字義は「本州・日本列島における方位規定は、倉頡が創った[]の字源・字義を受け継いで、時計回りに90度転回する」と説明していたことになる。
 現在は、「【1】対馬国(長崎県対馬)と一大国(長崎県壱岐)の地図と【2】本州・日本列島地図における【1】【2】の〔北〕の方位は同じで天の北極がある方角」と定まる。
 しかし、【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とした卑弥呼王朝では、【1】と【2】の両者の〔北〕は共に同じ〔北〕ではないと考えていた。つまり、卑弥呼王朝は――【1】対馬国と一大国の〔北〕は現在方位と同じく〔北〕である。しかし、【2】本州・日本列島地理においては、現在方位で〔西〕にある九州は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔北〕に所在すると定め、現在方位で九州の〔東〕に所在する東海地方(愛知県・静岡県)は時計回りに90度転回して本州・日本列島の〔南〕に所在する――と定めていた。
 だから、【2】の[]の字源・字義をあらわす転回方位規定にもとづいて、卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。
 下に、卑弥呼王朝が――[]の字源・字義にもとづいて「九州を〔北〕と定め、東海地方(愛知県・静岡県)を〔南〕と定めた――転回日本列島地理を配した。
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◆前回(18)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて「[]の転回方位規定」にもとづいて「末盧国と伊都国」について解説した。今回は、「奴()国と不弥(ふみ)国」について解説・証明する。
 『魏志倭人伝』は「末盧国より東南へ陸行五百里にして、伊都国に至る」、「伊都国より東南へ百里して奴国に至る」、「奴国より東へ百里行くと不弥国に至る」と説明する。
 下の〔[]の転回方位規定にもとづく九州地図〕に示すように、「末盧国の旅程基点は長崎県松浦市、伊都国の旅程基点は松浦市の東南にある福岡県糸島(いとしま)市前原(まえばる)町、奴国の旅程基点は前原町より東南にある福岡県福岡市の香椎宮(かしいぐう)、不弥国の旅程基点は香椎宮より東方にある福岡県宗像(むなかた)玄海町田島(たじま)の宗像大社であった」と考えられる。
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 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回の中半部から、また前回(18)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の後半部から解説したように――倉頡は【漢字作成理論】を象徴する聖獣を、[][]と定めた。[]の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」、[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」である。わが国には「牛・ジャコウウシと、馬・フタコブラクダ」は生息していない。ゆえに、『魏志倭人伝』は「倭地には牛・馬は無い」と記述する。
 []の下に[]が加わると、[]になる。“字書の聖典”と尊重された『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源銀河を「牛、人に触()る。角(つの)に横木(よこき)を著()く。人に告ぐる所以(ゆえん)なり」と解説した。
 下に、『説文解字』の[]の字源解説図を配した。
 下の〔『説文解字』の[]の字源解説図〕における「鬼の姿に似る銀河」は「牛・ジャコウウシの鼻面(はなづら)から口までの形」に相当する。「鬼の姿に似る銀河の西部」は「牛の口の形」を象(かたど)る。ゆえに、「人の横顔に酷似する銀河」を「人」と解釈して、『説文解字』は「牛・ジャコウウシは、人に触れる」と解説した。「牛の角(つの)」は、「ジャコウウシの角に相当する、激流の銀河の箇所」にある。「牛の角に著()く横木」は「牛の角の頂部が付く(隣接する)、十字の銀河」である。「十字の銀河」は「黄帝と倉頡が生存した五帝時代初頭、中国全土の天頂にめぐってきて各地の緯度を精確に測量することができる基準(ものさし)」となった。ゆえに、「十字の銀河」は「牛・ジャコウウシの体長・約2.25メートルの杖(つえ)くらいの木の基準(ものさし)」、つまり「緯(よこ/横)の度数を測量する木のものさし」に見立てられて「横木」と呼ばれた。
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◆『魏志倭人伝』は、対馬国、一大国、末盧国、伊都国と説明した後に、五番目の小国は「奴国」であったと記述する。
 下の図に示すように、「奴国」の[]の字源銀河は「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」であった。上記した〔『説文解字』の〔告〕の字源銀河解説図〕では、「鬼の姿に似る銀河」は「ジャコウウシの鼻面から口までの部分」となる。
 「鬼の姿に似る銀河」は[(ゆう)][(ゆう)]の字源銀河でもあった。[][]の字音は同音で「ゆう」、字義も[][]は同じく「右。右の手」であった。
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 [][]が加わる[]の字は「強大な力を有するジャコウウシ」、「ジャコウウシの強大な力で子どもを出産する母体の力・機能」、「ジャコウウシの強大な力を有する、乾いて石
のごとく堅(かた)い土も耕すことができる筋骨たくましい18才くらいの青年」など意味したゆえ、[]は「ものすごい、強大な力」、「大国」をも意味した。
 上に配した〔[][][]の字源解説図〕に示したように、右上の[]の金文形の「渦巻き」は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」をあらわす図案である。
 []の金文形の「渦巻き」は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の17回で詳細に解説したように、「母体の子宮口が開く出産第一期・開口期(かいこうき)から出産児の頭が誕生する出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの、出産児童の頭の、4回の回旋(かいせん)の渦巻き」をあらわしている。

◆黄帝は東洋最古の医学書『内経』を作ったと伝わる。黄帝の医学研究のテーマは「ヒトの命の研究」、つまり「女性の生殖器と子どもの出産の研究」であった。
 これゆえ、倉頡が漢字を発明する目的は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を考案することであった。
 この【黄帝の神秘的なヒトの生命の、医学研究における核心】は、下に図示した「出産第一期 開口期(かいこうき)」からドラマがはじまる「縦長の出産児の頭蓋骨が母体の横長の骨盤入口をくぐりぬけると頭を回旋(かいせん)しながら産道を通過する、まるでこの世に命(いのち)が湧き出るがごとく出産児の頭が誕生する」までの「出産第二期 娩出期(べんしゅつき)」における、〈涙が思わずでるほど心ゆさぶられて感動的な神秘的なハイライトシーン〉」ということになった。

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 上に配した上下二図におけ、〔出産第一期・開口期から出産第ニ期・娩出期までにおいて、出産児の頭の回旋・渦巻き〕は4回おこなわれる。
 第1回旋は「時計回りに90度の回旋(転回)」し、第2回旋と第3回旋は「反時計回りに90度回旋(転回)し、第4回旋は「時計回りに90度回旋(転回)する。この「第1回旋、第2回旋、第3回旋、第4回旋」という語を記入すると、[]の字源解説が煩雑(はんざつ)となって難解となる。これゆえ、これからおこなう〔出産第一期・開口期から出産第二期・娩出期終わりまでの様子〕の説明には、〔4回の回旋〕を示す語を省略すると、次のごとくなる。
 ――開口期において、陣痛(じんつう)がはじまると、子宮口に向かった卵膜(らんまく)は羊水(ようすい)によってふくらみ、くさび状に子宮頸管(しきゅうけいかん)をひろげ子宮口(しきゅうこう)が開いていき、子の頭はしだいに押し下げられてくる。子の頭は骨盤産道(こつばんさんどう)にはいりこみ、骨盤産道の形に応じて向きを変えていく。正常分娩の場合には、骨盤入口の上では子のアゴを胸につけた姿勢で、子の背中は母体の左または右にある。中ほどにくると子の頭は斜(なな)め後ろ(母体の背側)に顔を向け、出口では顔をすっかり後方(母体の背側)に向ける姿勢となる。開口期の終わりには、ほぼこの状態となる。
 次は出産第二期の娩出期が始まり、子の頭が骨盤出口に近づいたとき、母体の直腸(ちょくちょう)は圧迫されるので自然に怒責(どせき/いきみ、きばること)がおこり、母体の腹圧(ふくあつ)が加えられる。陣痛と腹圧との力で、子の頭はますます押しあげられ、ついに陣痛発作(じんつうほっさ)のときには膣(ちつ)の入口から頭が見えるようになる。さらに進んで子の頭の最も大きい部分が膣の入口を通過して、子の頭が誕生する。ついで子の頭は母体の左または右を向くが、これは肩の部分が骨盤出口を通るためである。肩はまず上(母体の腹側)にあるほうが先に、ついで下(母体の背側)の肩が出ると、あとは(娩出期の終わりは)、子の顔の正面は母体の背側のほうに向いて、一気に生まれる。

 これゆえ、[]の字源「鬼の姿に似る銀河」は「子を出産するための母体のジャコウウシのごとき強大な力」に見立てられた。[]の金文形における「渦巻き文」となった「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は前記した〔『説文解字』の[]の字源銀河解説図〕では「ジャコウウシの目」となった。ゆえに、「渦巻き文」は上記した「子どもの出産」における「母体が稲妻(いなづま/雷鳴)や虎が咆()えるがごとく大声をあげる怒責(どせき)」に見立てられ、「子どもを誕生させるスゴイ強大な力」をあらわした。[][]を加えると[]となり、[][]を加えると[]となり「怒責」の[]となる。
 一組が百頭余りのジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中に隠して、円陣を組んで防衛する。ゆえに、「真ん中に隠す子」は「女性の生殖器」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが作る円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲する骨盤」に見立てられた。ゆえに、「ジャコウウシの円陣」は「陣痛」の語源であったことになる。
 子どもを出産するときの母親はオオカミに襲われるジャコウウシのごとく怒り咆()え、子どもとわが身の命を必死にまもるために激しい痛みに耐え、汗と涙でグショグショとなる命がけの戦いに勝利して子どもを出産させる。だから、[陣痛]の語源は「ジャコウウシがオオカミと戦う時に組む円陣」であり、「オオカミに襲われたときに子どもを真ん中に隠してジャコウウシが組む円陣に見立てられた骨盤、つまり子宮や産道を包囲する骨盤全体から生じる激しい痛み」であったのである。
 したがって、「陣痛」の語源となった「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 日照りが続いて堅(かた)くなった農地は筋肉が隆々(りゅうりゅう)とたくましい強大な力を有する18歳くらいの青年ならば耕すことができた。そして祭祀(さいし)に用いる神にささげる犠牲(いけにえ)でもっとも完全な獣はジャコウウシであった。ゆえに、『魏志倭人伝』に「卑弥呼の墓に葬られた徇葬者(じゅんそうしゃ)の奴()」と記述された[]は「18歳くらいの青年たち」がつとめることになった。
 以上からして、前述したように、[]は「強大な力を有するジャコウウシ」、「ジャコウウシの強大な力で子どもを出産する母体の力」、「ジャコウウシのごとく強大な力を有する18歳くらいの青年」、そして「もの凄(すご)く強大な力」を意味することになった。

 『魏志倭人伝』は「対馬国は千余戸、一大国は三千許(ばか)りの家、末盧国は四千余戸、伊都国は千余戸、奴国は二万余戸、不弥国は千余家、投馬国は五万余戸可(ばか)り、邪馬壱国は七万余戸可り」と記述する。
 奴国は二万余戸可(ばか)りの大国であった。一戸に5(夫婦・親・子どもの5)が住んでいたと考えると二万余戸の奴国は、当時、約十万人以上の人口を有していた大国であったと算出される。このような奴国の人口密度からもとづくと――下に示すように、奴国の範囲は「福岡湾沿岸の福岡市から熊本県南端まで」であったと推定される。この「広大な範囲」こそ、[]の字源「ジャコウウシの強大な力」をあらわす「奴国」にふさわしいことになる。
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◆『魏志倭人伝』は「奴国から百里、東行すると不弥(ふみ)国に至る」と説明する。上図に示したように、奴国の旅程基点は福岡県福岡市の香椎宮(かしいぐう)であったと考えられる。これゆえ、不弥国の旅程基点は福岡県宗像(むなかた)市玄海町田島に鎮座する宗像大社であったことになる。
 宗像大社周辺の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「後期縄文時代初頭、名門の益(えき)氏が日本列島の東北地方に定住して教えひろめた「中国の海岸線地宜(地図)」にもとづいて、小国名を「不弥国」と定められた。
 小国名「不弥」の由来となった「中国の海岸線地宜(地図)の作製」は、今から約6000年前の易(えき)が起源した三皇(さんこう)時代初頭の包犧(ほうぎ)氏から始まったらしい。ゆえに、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代、倉頡は「黄帝時代に調査・測量されて作られていた、中国の海岸線地宜(地図)」を字源・字形の原形・原義に用いた。
 司馬遷(しばせん)著『史記』は「五帝時代の四番目の帝王の堯(ぎょう)の時代に益氏は挙用され、五帝時代最後の帝王の舜(しゅん)の時代に益氏は『虞()』という重職に任命された」と記述する。「虞」は「中国の正確な海岸線地図を調査・作製する官職」であった。益氏は代々約200250年間、中国の海岸線を調査し正確な地図作製に従事した。ゆえに、益氏は精密地図作製方法を開発した。
 今から約4100年前の紀元前2070年頃~紀元前2050年頃、“夏()の始祖”の帝の禹()は臨終の間際、禹の政治を補佐していた益に帝位をさずけた。帝禹は五帝時代以来の「国家を樹立しないで、多数の氏族のちで最も優秀な人物を帝王に選ぶ氏族共同体制」の維持を、益に遺言して崩じた。禹の息子の啓(けい)は父の禹の意見に反対して「国家を樹立し、特定の優秀な氏族(つまり、漢民族の禹・啓の氏族)が帝王となる世襲王朝国家体制」を欲求(よっきゅう)した。
 帝禹が没すると諸侯はみな帝益のもとを去って、啓のもとに入朝(にゅうちょう)した。
 ゆえに、帝益は、中国では禹の遺志「五帝時代以来の氏族共同体制」はもはや廃(すた)れたと考え、禹の三年の喪()が終わると、益は帝位を啓にゆずって、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい/隠居)した。そして、益は新天地・日本列島に移住して禹の遺志「五帝時代以来の氏族共同体制」を受け継いで残そうと決心した。しかし、老いた益は荒波が逆巻(さかま)く大海・玄界灘を小舟で漕いで横断できる体力を失っていた。ゆえに、禹の遺志「五帝時代以来の氏族共同体制継続事業」は、益の孫の青年王子と若者たちによってなされた。
 益の孫の青年王子一行は玄界灘を征服して九州に上陸し、日本列島を北上して東北地方にて定住した。益氏は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を東北地方から関東地方まで教えひろめた。
 益氏は帝舜の時代から代々約200250年間も「虞」の官職に従事していたゆえ、後期縄文時代初頭、【当時、最も先端的にして正確な中国の海岸線地宜(地図)と、精密地図作製方法】をわが国は習得することになった。
 益氏から起源した学問は卑弥呼が生存した時代まで受け継がれた。ゆえに、卑弥呼は【正確な中国の海岸線地宜】を知っていた。また、益氏が【精密地図作製方法】を教えひろめたゆえ、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には34の精密な小国の地宜(地図)が作製されていた。この34の小国の精密地宜と小国名に用いられた文字の字源・字形・字義によって、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための史料ではなく、【倉頡が発明した漢字作成理論】を記述した書物であった実体が具体的に科学的(学術的)に証明される。

◆現在は『古事記』上巻の日本神話は作り話と定められているが、『魏志倭人伝』と同じく〔音〕という注が付く夏音文字の字源を解明すると歴史を伝えていることが証明される。・『古事記』上巻の〔天孫(てんそん)邇邇芸命(ににぎのみこと)説話〕は、天孫(天照大御神の孫)は夏代初頭に日本列島に定住した帝益の孫の王子の名を受け継いで「日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)と称した」と説明している。
 つまり、天照大御神は不弥国の王を討伐する遠征軍の大将に任命した孫の名を帝益の孫の王子の名を拝借(はいしゃく)する策略を思いついた。ゆえに、『古事記』は「天孫の名は、帝益の孫の王子の名を受け継いで日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)であった」と記している。
 『日本書紀』巻第三・神武(じんむ)天皇紀の初頭部では、帝益の孫の王子は「天祖(てんそ)」と呼ばれ、名は「彦火瓊瓊杵尊」と表記される。「彦火瓊瓊芸命」は『古事記』上巻の〔天孫邇邇芸命説話〕の天孫の名「日子番能邇邇芸命」と同じく「ヒコホノニニギノミコト」と読む。だから、天照大御神の孫・天孫は「帝益の孫の王子」の名を拝借するものであったゆえ、「日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)」と記されたのである。
 『魏志倭人伝』にある「古(いにしえ)より以来、其の使(し)中国に詣(いた)るに皆(みな)自ら大夫と称す」という記事は「古来より倭の使者は、益氏の王子と同様に玄界灘を征服して中国に到着したゆえ、みな自ら大夫と称した」と意味する。万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、「ますらを」は今日「益荒男」と表記される。「益荒男」は「益氏の王子のごとく荒海(あらうみ)の玄界灘を往来した勇気あるりっぱな男性」の略称である。ゆえに、『魏志倭人伝』に登場する「大夫」の語源は「天祖・帝益の孫の王子」であった。
 『古事記』上巻の〔天孫邇邇芸命説話〕は「3世紀末、5人の王とともに宗像氏の王もまた天照大御神・大和王朝を倒さんとしてクーデターを計画した。ゆえに、天照大御神の孫は帝益の孫の王子の名を号する大和遠征軍の大将となって、不弥国の宗像氏を討伐した」と説明している。
 天孫に討伐された宗像君は、以後、「天照大御神の孫の天孫」を祀ることになった。
 だから、現在、宗像大社は「汝三神(いましみはしらのかみ)、宜(よろ)しく、道中(みちのなか)に、降居(くだりま)して、天孫(あめみま)を助け奉(まつ)り、天孫(あめみま)に、祭(いつ)かれよ」という、天照大御神の神勅(しんちょう)を守っている。
 ところが、天孫の遠征軍に討伐される以前、宗像神社は「沖津宮(おきつみや)の田心姫神(たごりひめのかみ)、中津宮(なかつみや)の湍津姫神(たぎつひめのかみ)、辺津宮(へつみや)の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)」の三女神を祭って、ほんものの「ヒコホノニニギノミコト・帝益の孫の王子」を祀る神社であった。

◆「不弥国」の[]は、倭女王名「卑弥呼」の[]である。
 中国の五経(ごきょう)の第一番目にあげられる古典『易経(えききょう)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)は、〔中国の海岸線地宜(地図)〕について、下記のごとく説明する。
 「易は天地と準(なぞら)う。ゆえに能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察(あきらか)にする」
 上の記事の最初に登場する[]の字源について、『説文解字』は「蜥易(せきえき)なり」、つまり「トカゲである」と解説する。トカゲには「かならずもとのすみかにもどるという帰家性(きかせい)」がある。ゆえに、遠くの地へ旅する人々や大海を往来する人々はトカゲの帰家性と同じく、下図に示す[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして、かならず家族が待つ家に帰ることができた。
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 ゆえに、上古の人々は日々[]をキャッチする眼力を鍛錬して「玄界灘」の[](天頂緯度線と子午線)がキャッチできたゆえ、「天(天頂緯度)=地(観測地点の緯度)」となった。ゆえに、「易は天地と準う(天頂緯度線と観測地点の緯度は同じ)」ということになった。
 したがって、上古、中国では[]の字源となった「中国全土の天頂にめぐってくる、十字の銀河」を測量して、中国全土を洩れなく包みこむ中国海岸線地図を作製した。だから、上に示した『易経』繋辞上伝の記事では「天地の道を弥綸す」と表現された。高田真治・後藤基巳訳者『易経()(岩波書店発行)は「弥綸」という語を「つくろいおさめる、もれなく包みこむ」と訳する。
 下に〔中国の海岸線地宜(地図)〕を配した。
 下図の「山東半島」は「鳥の頭」、「山東半島の付け根から南北へ伸びる海岸線」は「鳥が空を飛ぶ両翼」に相似すると見立てられた。この「空を飛ぶ鳥の形をした海岸線」は「中国の国土を包みこむ」ゆえ、[]の字源・字形・字義となった。この[]の「中国の国土を洩れなく包みこむ海岸線」は「長江口(ちょうこうこう)北端から杭州湾(こうしゅうわん)南端までの海岸線」は「翼が途中でやぶれて綻(ほころ)ぶ形」となる。しかし、「杭州湾より南部の海岸線」は「なだらかなカーブを描くことになる」ゆえ、[]の字義は「つくろいおさめる」とあらわすことになった。
 []の字を「いやしく」とする解釈は字源・原義を失っている。つまり、「地の卑湿(ひしつ)」の「卑湿」という語は「海抜(かいばつ)が低いために湿気が多い地」と意味するゆえ、[]の字源・字形の原形・原義は「標高(海抜)0メートルの海岸線」であった。
S132_20210523154001
 ゆえに、上図に示したように、[]は「標高0メートルの海岸線」、[]は「空を飛ぶ鳥の両翼の形をした、山東半島とその付け根から北へ伸びる海岸線と長江口北端までの海岸線」となる。[]は「杭州湾の地宜(海岸線)」となる。

◆益氏が「虞」という官職に任命されて代々約200250年間従事して作製した「中国全土の海岸線地図」は[][][]3字の字源・字形の原形・原義となったのである。
 『説文解字』は[()]の字源を「益(えき)なり」と解説する。[]の原字(最初の文字)[]である。ゆえに、[]の字源は「益なり」ということになる。益氏は約200250年間もの長いあいだ、「虞」という重職について「正確な中国海岸線地図の作製」に従事した。だから、[][]の字源は「益なり」となったのである。
 そして、益氏は日本列島に定住したため、中国では「益氏の歴史」を正確に伝える[]の字源が不明となった。その証拠に、『魏志倭人伝』は「魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた」と記述している。
 人間は個性の異なる右脳と左脳の二つ半球を有する。
 中国の漢字は夏、殷、周、秦、前漢、新、後漢と王朝が滅びるごとに字源・字形の原形・原義を失って――倉頡が発明した文字作成銀河各部の形状の感覚的概念(イメージ)で考える芸術・右脳思考文字から、次第に言葉や論理を優先する左脳思考文字へと変革し進歩した。
 一方、わが国では後期縄文時代初頭から卑弥呼時代までの約2300年間、国家も王朝も創設されなかった。このため、左脳思考文字への変革・進歩が成されず、【右脳思考にもとづく文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字】が保存されることになったのである。

◆上に配した〔[][][]の字源を示す中国の海岸線地図〕において、「弥綸」の語源となった「山東半島の付け根の南部から杭州湾南岸より円弧(カーブ)を描くさらに南の海岸線まで」は「人の横顔」に見立てられることになった。というのも、「黄海に突き出る山東半島」は「人の頭髪や頭にかぶる笠」に見立てられ、「長江口」は「息を吸う人の鼻の孔(あな)」に見立てられ、「杭州湾」は「息を外()く人の口」に見立てられたからである。
 『説文解字』は[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。
 下に配した図における「杭州湾」には「銭塘江(せんとうこう)の河口から水が杭州湾へ外き出される」ゆえ、「杭州湾」は[]の字源となった。そして、下の図に示したように、「杭州湾の地宜(地図)の形」は「水鳥の鳰(にお/カイツブリ)」に相似する。だから、「鳰」は[]の字源となった。つまり、[]の字源は「杭州湾の地宜」と「鳰」であった。
K365
 「卑弥呼」の[]、「不弥国」の[]の原義は「カンムリカイツブリ」であり、「卑弥呼」の[]、倭国の小国「不呼(ふこ)国」の[]の原義は「カイツブリ・鳰」であった。
 []の字源「鳰」はカイツブリ類中、もっとも多く見られる種類である。鳰は中国とわが国に生息する鳥、つまり留鳥(りゅうちゅう/一年中、すみ場所をかえない鳥)である。流れのゆるやかな河川、湖沼(こしょう)、湿原などに生息し、河口や沿岸部でも一年中生息する。全長は2529センチである。
 []の字源「カンムリカイツブリ」は中国とわが国において冬季に飛来する冬鳥である。青森県や滋賀県(琵琶湖)では繁殖する。流れのゆるやかな河川、湖沼、湿原などに生息するが、河口、沿岸部にも生息する。長時間水中に潜(もぐ)っていることができるゆえ「八丁もぐり」という俗称がある。全長4661センチで、鳰の2倍の大きさである。
 『説文解字』は「小鳥」を字義とする[(すい)]の字源を「鳥の短尾なるものの総名なり」と解説する。鳰の尾は非常に短く、外観からほぼ判別できない。だから、「鳰」は[]の字源「短尾の鳥たちの総名(仲間)を代表する小鳥」ということになった。したがって、[]の字源・字義を「鳰」と解すると「おおよそ正しい」となり、「誤っている」とはいえない。
 さて――黄帝の医学研究において「胎児は10ヵ月近く母親のおなかの中の羊水(ようすい)に潜って育つが、なぜ胎児は空気を吸うことができず窒息死しないのか?」――この謎が、黄帝はじめ五帝時代の人々にはまったく解明できなかった。この謎は、現在でも、すべて解明できておらず、いまだ幾つかの謎が存在する。ゆえに、「胎児が子宮という密室で何カ月も羊水に潜っていてもなぜ窒息死しないのか、このどうしても解明することができない謎」は「難解」の[]の字源・字義となった。
 胎児は羊水に何カ月も潜っていてもなぜ窒息死しないのか――この謎はまったく解明できなかったが、とにかく【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわすために欠くことができない重大事であったため、「胎児が羊水に何カ月も潜っていても窒息しない状況」をあらわす文字が考案されることになった。
 そこで、「長時間水中に潜っていることができるカンムリカイツブリ」が注目されることになった。ゆえに「カンムリカイツブリの横顔」は「山東半島の地宜」に相似すると見立てられて、[]の字源・字義は「カンムリカイツブリ」と定められた。
 そして、「大きなカンムリカイツブリ」だと、「小さな20週以下の胎児(胎児の頭は母親の頭のほうにある)」に似つかわしくないということで、[]の字源「鳰」が「小さな20週以下の胎児」に譬(たと)えられることになった。他方、[]の字源「大きなカンムリカイツブリ」は「大きく育って羊水の中を動きまわる20週以上育った胎児(胎児の頭は母親の骨盤のほうに転回する)」に譬えられることになった。
 なお――「胎児」には「カンムリカイツブリと鳰のくちばし()」が無い。[]の字源地宜となった「山東半島」にも「くちばしに相当する地宜」が無い。[]の字源地宜となった「杭州湾の形」にも「くちばしに相当する地宜」が無い。そして、[][]はともに「なぜ胎児は何カ月も羊水の中に潜っていても窒息死しないのか、まったく解明できない謎」をあらわす字であったゆえ、字源地宜では「くちばしが無いこと」が「譬える」という事情をあらわして合理になる・正しい解釈となると定められた。だから、「くちばしの地宜が無い、山東半島」は[]の字源・字義をあらわす地宜となった。また、「くちばしの形が無い、杭州湾」は[]の字源・字義をあらわす地宜となった。

このような事情で、「くちばし」のあらわす字は「文字作成銀河から作らない」と定められたため、文字作成銀河から作られた契文(甲骨文字)と金文(周代の文字)には「くちばし」をあらわす字は存在しない。
 [(たく)]の字義が「くちばし」であるのは「啄木鳥(キツツキ)が〔くちばし〕で木をつついて虫をついばむ生態」から作られた字であると考えられる。[(かい)]の字義も「くちばし」であるが『説文解字』は「口なり」と解説するゆえ、「鳥の口=くちばし」という考えにもとづいて作られた字であろう。[()]の字義も「くちばし」であるが、この字は「梟(フクロウ)の小さなくちばし」をあらわす。ゆえに、[][]を加えた[]「くちばし」は「フクロウの小さなくちばし」から作られた字であろう。
 このように、[][][][]4字は「銀漢から作られた文字」ではない。だから、「銀漢から作られた字」略して「漢字」と呼べないことになる。

◆下の図に示すように、福岡県宗像市の西方(現在方位)は福岡県の福津(ふくつ)市の津屋崎町(つやざきまち)の海岸線である。「津屋崎町の海岸線」は、[]の字源地宜「山東半島」に何となく似ているが、「相似している」と断言することができない。この「断言することができない」をあらわす字が、[]であった。
 白川静著『字統』は――[]の字は「否定・打消し」の「ず」に用いられる――と指摘する。ゆえに、卑弥呼は「津屋崎町の海岸線」は[]の字源「山東半島の海岸線形」の形に相似していない、つまり[]ということで、宗像地方の小国名を「不呼」と定めた。
000077
 下の図に示したように、「山東半島」が[]の字源「カンムリカイツブリ」の地宜となる。「津屋崎町の海岸線の地宜」は「アカエリカイツブリの横顔」に相似する。
 だから、「津屋崎町の海岸線の地宜」には[]の字源「カンムリカイツブリの横顔」に相似しない、つまり否定・打消しの[]の「ず」の字が加えられることになった。ゆえに、「津屋崎町の海岸線の地宜」は[]の字源「カンムリカイツブリの横顔」に相似するとは言えないが、「津屋崎町の海岸線」は「アカエリカイツブリの横顔」に相似するゆえ「不弥」と名づけられることになった。
000078
 アカエリカイツブリは、56月ころに湖沼の水面に、[]の「鳰(カイツブリ)」と同じく水草を支柱として枯草で浮巣を作る。
 「不弥」のアカエリカイツブリの全長は4661センチで、[]のカンムリカイツブリと同じである。[]の鳰の全長は2529センチである。ゆえに、「不弥」のアカエリカイツブリの全長は、[]の鳰の全長の約2倍ということになる。
 『説文解字』は[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来()らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
 というのも、[]の「〔カンムリカイツブリ〕に見立てられた、山東半島とその南北海岸線」は「天空(つまり、北朝鮮や日本海がある東北の天空)に目指して飛翔して、陸地に降下せずに遠くの空に去ってゆく姿」に観える――この様子は、前述した白川静著『字統』が指摘した[]の否定・打消しの「ず」と異なって、上記した『説文解字』の[]の字源解説をあらわすことになった。
 下の転回方位にもとづく図に示したように、上記した『説文解字』の[]の字源解説に合致して――「不呼」の「津屋崎町・宗像市の地宜は天(玄界灘の上空)を飛ぶアカエリカイツブリの姿となって、[一・壱]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた一大国・壱岐の方に目指し(つまり、一に従い)、なお、天空高く飛び去ってゆくかのごとく」に観える。したがって、「一大国の方へ去るように観えるアカエリカイツブリが飛翔する姿をした津屋崎町の海岸線と宗像市の平野部の地宜」は『説文解字』の[]の字源解説に合致する。
 だから、津屋崎町の海岸線と宗像市の平野部は不弥国の中心地であったことになる。
000079
◆『魏志倭人伝』には「難升米(なしめ/夏音文字の字音)」という「外相」の役割をになった倭国の有力者が登場する。
 『魏志倭人伝』は「魏の景初(けいしょ)二年(238)十二月、難升米一行は魏都・洛陽に到着した。この時、魏帝(明帝)は卑弥呼に『親魏倭王』という外臣に与える最高の爵位(しゃくい)と金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えることを約束した。そして、魏の正始(せいし)六年(245)に、魏の斉王(さいおう)は詔(みことのり)を下して、難升米に魏の軍旗(ぐんき)・黄幢(こうどう)を与えることにして、帯方郡に一時的に託して授けるようにした」と記述する。
 この倭国の外相の「難升米」は不弥国・宗像の王であったと考えられる。
 前述したように――黄帝の医学研究において「胎児は10ヵ月近く母親のおなかの中の羊水に潜って育つが、なぜ胎児は空気を吸うことができず窒息死しないのか?」――この謎がまったく解明できなかった。しかし、この謎は難(むず)しくて解くことができないが、「胎児が子宮で育つ様子」をあらわす文字を、[]の「長時間水中に潜ることができる、カンムリカイツブリ」と[]の「小魚やエビ、昆虫などを捕まえるために頻繁(ひんぱん)に水中に潜る鳰」であらわすことになった。このような事情が、「難升米」の[]の字源・字義となった。
 「不弥」の「アカエリカイツブリ」も、カンムリカイツブリと鳰と同様に、水中に頻繁に潜る。だから、「不弥」は[]の字源・字義と密接にかかわっていることになる。
 下の図に、「山東半島図」を加えた。このように「山東半島図」を加えて、[]の字源・字義を考えて、この考えのもとづいて「出産第一期・開口期(かいこうき)と出産第二期・娩出期(べんしゅつき)における出産児の4度の回旋(かいせん)」にもとづいて倉頡が[][]を創った字源・字形・字義の学術知識を理解するのはさらに難しい。ゆえに、これまた[]ということになった。
000080
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の17回の後半部で詳細に解説したように――「出産第一期・開口期から出産第ニ期・娩出期まで、出産児の頭の回旋」は4回おこなわれる。第1回旋は「時計回りに90度の回旋(転回)」し、第2回旋と第3回旋は「反時計回りに90度回旋(転回)し、第4回旋は「時計回りに90度回旋(転回)する。
 このような「出産児の頭の第1回旋と第4回旋」にもとづいて、倉頡は[]の字を創って「時計回りに90度転回する方位規定をあらわす」と定めた。また、「児頭の第2回旋と第3回旋」にもとづいて、倉頡は[()]の字を創って「反時計回りに90度転回する方位規定をあらわす」と定めた。
 下に、倉頡が考案した[]と字源銀河解説図と契文形(甲骨文字の字形)[]の字源銀河解説図と金文形を示した。
 上の〔「難升米」の解説図〕に示したように、(1)津屋崎町の海岸線を天に向かって昇る方角(南→西)90度転回させて山東半島の180度の対称形に合わせる作業は[]の転回となり、(2)宗像大社の中津宮が所在する大島の天に向かって昇らんとする向きは[]をあらわし、(3)地ノ島が天に向かって昇らんとする向きは[]をあらわし、(4)釣川の水が南東から北西に向かって流れて天に向かって昇らんとする向きは[]をあらわす。
 ゆえに、(1)(2)は「出産児の頭の第1回旋と第4回旋」をあらわし、(3)(4)は「出産児の頭の第2回旋と第3回旋」をあらわす。
 (1)(2)(3)(4)が共通する「天に向かって昇らんとする」の「昇る」の[]の原字(最初の文字)[]である。[]の下の[]が、[]の原字であった。だから、白川静著『字統』は[]の字義は「のぼる」であったと指摘する。
 上の〔「難升米」の解説図〕における「宗像市の平野部の地宜」は「禾・稲の束」に相似すると見立てられた。ゆえに、「宗像市の平野部」は「禾・稲の実の米」と「難升米」の[]をあらわした。「宗像市の平野部」の「天」は「稲束の穂が垂れる南東」、「地」は「稲が生える地面となる、釣川の河口」となる。
 「宗像市の平野部の天と地の解釈」にもとづくと、上記した(1)(2)(3)(4)における「天に向かって升(のぼ)る」という解釈が成立しない。
 だから、宗像の地宜における「難升米」の解釈は難しいということになる。

◆中国の南部の呉は、稲(水稲)のよく育つ地域である。呉には、太湖(たいこ)がある。 
 下の図に示すように、「太湖の地宜(地図の形)」に「象の姿」に相似する。「太湖北部の象の背中から鼻が南から東へ伸びるカーブ」は「反時計回りの転回」の[]の字義に合致する。したがって、宗像市には太湖は所在しないゆえ、下図に加えた「呉の太湖図」は「想像の産物」となる。だから、《宗像市の平野部の地宜》を観て《呉で良く育つ禾()と稲束》を想像し、さらに《呉に所在する太湖》をも想像するものであったゆえ――「不呼国の地宜」は、「宗像」の[]は「想像」の[]であるとあらわしていることになる。
000081
 「宗像」の[]の字義は「宗廟(そうびょう)」、つまり「祖先を祀(まつ)るみたまや」である。
 現在の宗像大社は「天照大御神の神勅(しんちょく)により、天孫・ヒコホノニニギノミコトを奉(まつ)り斎(いつ)かれることになった神社」とされる。この事情を、『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)説話〕は「天照大御神の孫の天孫が大和王朝・遠征軍を指揮して、天照大御神・大和王朝を倒すクーデターを計画した宗像氏を征討した。このため、宗像神社は天孫を助け奉って斎かれることになった神社」と伝えている。
 しかし、天照大御神の孫の天孫を祀る以前、宗像神社は「帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコト(日子番能邇邇芸命)」を祀っていた。帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコトは後期縄文時代初頭に中国から玄界灘を横断して日本列島の東北地方に定住して、【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)夏音文字と、(3)正確な中国の海岸線地宜(地図)と、(4)精密な地図作製方法】を東方地方から関東地方の諸氏族に教えひろめた。
 しかし、前述したように、〔「難升米」の解説図〕を用いても、宗像氏の王の夏音名(夏音文字の名)の「難升米(なしめ)」の[]はじめ[][]の解釈は非常に難しい。このため、宗像氏が帝益の孫の王子を祀っていたという由来は明確に示されない。
 けれども、宗像神社は――元来、わが国に【正確な中国海岸線地宜(地図)と精密地図作製方法】をもたらした帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコトを祀る神社であったこと――を明確に伝える遺跡が存在する。
 この遺跡は、「不呼(ふこ)国」に現存する「1千万坪の大鳥の地上絵」である。
 『魏志倭人伝』に、倭国の最初の小国として登場する「対馬国」を一番目国とすると、「不呼国」は六番目国となり、十五番目国として不呼(ふこ)国が登場する。『説文解字』は「不呼国」の[]の字源を「息を外()くなり」と解説し、また[]の字源は「鳰(カイツブリ)」であり「杭州湾」であった。
 前述したように、[]の字源は「標高0メートルの海岸線」、[]の字源は「山東半島の付け根から北へ伸びる海岸線と南の長江口北端まで伸びる海岸線」、[]の字源は「杭州湾」であった。
 不呼国に作製された「1千万坪の大鳥の地上絵」は[][][]の字源「中国の海岸線地図」が設計されている、3世紀後半の遺跡である。また、不呼国の「1千万坪の大鳥の地上絵」を作製した人物は不弥国・宗像君(むなかたのきみ)の子(配下)であった建比良鳥命(たけひらとりのみこと)である。この事実は、『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命の誓約説話〕に明記され、遺跡「1千万坪の大鳥の地上絵」によっても確かな事実となる。
 要するに、不呼国の「1千万坪の大鳥の地上絵」は――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)における宗像神社は「【正確な中国の海岸線地宜(地図)と精密地図作製方法をもたらした帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコト(日子番能邇邇芸命)」を祀る神社であったことが明確に科学的に証明することができる、重大な地宜遺跡であった。

◆前述したように、『説文解字』は[]の字源を「鳥飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来()らざるなり。一に従ふ。一はなほ天のごときなり」と解説する。
 他方、白川静著『字統』は[]の字源について「もと象形(しょうけい)で花の萼拊(がくふ)の形であるが、その義に用いられることは殆(ほとん)どなく、その本義には拊()などを用いる」と解説する。
 ゆえに、下の図における「花の萼拊」と呼ばれる部分が[]の字源であった。
000082
 下に配した転回方位にもとづく「静岡県西部・遠江(とおとうみ)の浜名湖」は「花の形」に相似すると見立てられ、[]の字源「花の萼拊」となる地宜は「浜名湖の支湖の、引佐細江(いなさほそえ)」と解されることになった。
K392
 下の〔現在方位にもとづく上南・下南の、[不・呼]となる引佐周辺の地宜〕が示すように、[]の字源地宜「花の萼拊に見立てられた引佐細江」の西岸に、寸座岬(すんざみさき)がある。「寸座岬」は「人の鼻の形」となる。このため、「寸座岬より北と南の湖岸」は「人の横顔」に相似する。ゆえに、「鼻に相似する寸座岬の北側となる引佐細江の西岸」は「人が呼吸する口」に相当して、[]の字源を示す。『説文解字』は[]の字源を「息を外()くなり」と解説する。引佐細江に北岸には、都田川(みやこだがわ)の河口がある。「都田川の河口は上流から流れてきた水を外()き出す口」となる。ゆえに、「都田川の河口」は[]の字源を示す。都田川の河口の南にある舘山寺(かんざんじ)東方の「内浦」も[]の字源地宜となった。
 だから、[]の字源「花の萼拊」に見立てられた「細江引佐」と、[]の字源「息を外くなり」の地宜となる「引佐細江周辺の湖岸の地図の形」にもとづいて、「遠江」の小国名は「不呼国」となった。
K393
 前述したように、福津市の「津屋崎町の海岸線」は、「卑弥呼」の[]の字源「カンムリカイツブリの頭の形」に相似せず、「アカエリカイツブリの頭の形」に相似したゆえ、否定・打消しの「ず」を意味して、宗像地方の小国名は「不弥国」となった。
 同様に、「遠江における引佐細江周辺の地宜」の[]は、「卑弥呼」の[]の字源「杭州湾」と「鳰」を示すものではない。
 だから、「遠江」の小国名に用いられる[]も否定・打消しの「ず」を意味することになり、「遠江」の小国名は「不呼国」と定められたことになる。

◆前述したように、『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命説話の誓約説話〕は「天照大御神の孫の天孫が大和王朝・遠征軍を指揮して、天照大御神・大和王朝を倒すクーデターを計画した宗像氏を征討した。このため、宗像神社は天孫を助け奉(まつ)って斎(いつ)かれることになった神社」と伝えている。
 『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命説話の誓約説話〕は「5(五柱)の有力な王と宗像氏の王を加える6人の王たちが、人民を弾圧(だんあつ)して苦しめる天照大御神・大和(邪馬国)王朝を倒さんとしてクーデターを計画したが失敗した。宗像王には七人の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)の子(つまり、配下)がクーデター計画に参加していた。その七人のうちの最後の七番目の建比良鳥命が遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命であった」と明記する。
 255258年頃におきたであろう天照大御神・大和王朝を倒すクーデター計画に失敗して、大和王朝への怒りがおさまらない遠江の建比良鳥命は子孫代々「天照大御神・大和王朝の横暴な人民弾圧史」を後世まで正確に残すことができるようにするため、《夏の銀河(文字作成銀河)各部の形状と地宜と、そして【倉頡が発明した漢字作成理論(鳥獣の足跡)】をあらわす1千万坪の大鳥の地上絵》を作製することを決意した。
 この「大鳥の地上絵作製事業」は国家と大和王朝が独占管理して厳重に機密とする【倉頡が発明した漢字作成原理と夏音文字の学芸】を暴露する最大の大罪(たいざい)であった。ゆえに、もちろん、「大鳥の地上絵作製事業」が天照大御神・大和王朝に知られて露見すれば、建比良鳥命の一族全員ただちに死刑とされて抹殺された。しかし、さいわいのことに、遠江は大和朝廷から遠く離れていた。また、大和王朝は不呼国・遠江に住む豪族について脅威を感ぜずほとんど無視していたにちがいない。というのも、倭国の片隅の草深い田舎(いなか)に住む豪族・建比良鳥命が大和の天照大御神と同じく【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字と正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】に精通する逸材(いつざい)であることは、大和王朝にとっては絶対にありえない可能性がゼロの心配無用のことであったにちがいないからである。
 遠江の豪族の建比良鳥命が【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字と、正確な中国海岸線地宜(地図)と、精密地図作製方法】に精通する逸材であり、その建比良鳥命が一族全員死刑となる大罪を犯して「1千万坪の大鳥の地上絵」を作製した事業は、日本上古史における特筆すべき奇跡となった。この奇跡によって――『魏志倭人伝』が記述された【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字と、正確な中国海岸線地図と、精密地図作製方法】が科学的に解明できる重大な手段(資料)が現在まで残ることになったからである。

◆遠江の豪族・建比良鳥命の一族は、晩期の近畿式・三遠(さんえん)式銅鐸を[](天頂緯度線・子午線)をキャッチする計測機(道具)に用いて1千万坪の大鳥の地上絵を作製した。1千万の大鳥の地上絵から、現在まで9口の近畿式・三遠式銅鐸が出土している。この出土した9口の近畿式・三遠式銅鐸の製作・使用年代は、研究者たちによって260年頃~290年頃であると推定されている。だから、6人の王たちの天照大御神・大和王朝を倒さんとしたクーデター計画に失敗した直後(260年頃)に、1千万坪の大鳥の地上絵の作製事業は着手されたことになる。
 山尾幸久著『魏志倭人伝』(講談社発行)は「『三国志』の成立は、晋(しん)の武帝の晩年である太康(たいこう)年間(280289)、著者の陳寿(ちんじゅ)が著作郎(ちょさくろう/歴史編纂官)時代という以上には限定できない」と指摘する。
 『魏志倭人伝』は「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」の通称である。したがって、『魏志倭人伝』は晋の武帝の晩年である太康年間の280289年に著作されたことになる。
 そうすると、『魏志倭人伝』は280289年に成立し、建比良鳥命の一族が作製した不呼国・遠江の1千万坪の大鳥の地上絵は260年頃から着手して290年頃に完成したゆえ、両者は同時代に作られたことになる。
 『魏志倭人伝』と同時代に作られた建比良鳥命の一族が作製した「1千万坪の大鳥の地上絵」は、途中失われて消滅する危機が幾度かあったが、建比良鳥命の子孫たちの努力によって、現在も、静岡県浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形として残っている。
 建比良鳥命の子孫は、1010(寛弘7)武家の井伊家を創設した。井伊家の遠祖が建比良鳥命であったのである。したがって、建比良鳥命を遠祖とする、現在は滋賀県彦根市に居住する井伊家は大和王朝・天照大御神が基礎を築いた皇室と並び立つ、「1千万坪の大鳥の地上絵」の保存に代々努力してまもった名家であった。伊井家の祖の名は共保(ともやす)、二代家督者の名は共家(ともいえ)、三代家督者の名は共直(ともなお)である。この三代家督者・共直から現在の四十一代家督者・直岳(なおたけ)まで、全員の家督者の名には[]の字が用いられる。倉頡は「出産児の頭の4回の回旋」を注目して、「時計回りの90度転回する方位規定」をあらわす[]と、「反時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす[]の字を創った。この[][]の字源に共通する「90度=直角状(隅を丸くする角)の転回」を[]とあらわしたのが、井伊家三代から四十一代までの家督者の名につく[]の字の秘密であったのである。
 下に「静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を示す、1千万坪大鳥の形をした地図」を配した。この「細江町・大鳥の地上絵」は井伊家の遠祖の建比良鳥命の一族が作製した。
 ゆえに、わたくしは「細江町・大鳥の地上絵」を「建比良鳥の地宜」あるいは「建比良鳥の地上絵」と呼ぶことにした。また、「細江町・大鳥の地上絵」を「卑弥呼の地上絵」とも呼んでいる。
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◆『魏志倭人伝』は、「宗像地方」の小国名は「不弥国」であり、「遠江(静岡県西部)」の小国名は「不呼国」であったと記す。
 不弥国は――「卑弥呼」の[]の字源「カンムリカイツブリの横顔」には相似しない「アカエリカイツブリの横顔」に相似する地宜を有する。
 不呼国は――「卑弥呼」の[]の字源「杭州湾の地宜と鳰」に相似しない、別の[]の字源「息を外()くなりの形(人が息を吐く形)」をした地宜を有する。
 前述したように――「不呼」の「アカエリカイツブリ」の全長は4661センチである。[]の字源の「鳰」の全長は2529センチである。したがって、鳰はアカエリカイツブリの約半分・2分の1の大きさとなる。
 このような「鳰とアカエリカイツブリの大きさの比較」をあらわして、下の図に示したように、「不呼・遠江の国の大鳥の地上絵の頭の大きさ」は、「不弥国のアカエリカイツブリの頭となる津屋崎町の海岸線」の約2分の1の大きさに作製されている。
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 下に示したように、建比良鳥命の一族が作製した1千万坪の大鳥の地上絵は[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして経緯度原点(A地点)・滝峯不動尊(たきみねふどうそん)・八幡宮の井戸(浜松市北区引佐町の井伊谷に所在する)3点を結ぶ大三角を基本にして1千万坪の大鳥の地上絵を作製した。
 つまり、A地点を経緯度原点と定めて、同緯度(北緯3448)となる三角本点(滝峯不動尊)を設定し、〔西の経度原点・A地点と東の三角本点・滝峯不動尊を貫通する子午線に対して夏至の太陽の出没角度(29)の邪(なな)めの線が結ばれるもう一つの三角本点・八幡宮の井戸を測量して、大三角形の定点を設置した。このA地点・滝峯不動尊・八幡宮の大三角形を基(もと)に様々な三角形の網や鎖を形作って、設計図どおりに1千万坪の大鳥の地上絵を約30年間費やして完成させた。
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 上記した大鳥の地上絵の作製方法の原理は、現在の日本列島精密測地網測量における経緯度原点(東京都港区麻布飯倉に所在する旧東京天文台の子午儀の中心)を定めて土地三角測量して作製する地図作製方法とほぼ同じといえる。というのも、(1)1分以内の誤差内で精確に測量できる[](天頂緯度線と子午線)をキャッチして経緯度原点を設置し、(2)この経緯度原点から土地三角測量の基となる大三角形となる三つの本点を定め、(3)大三角形の本点を基準にしては三角形の網や鎖を形作れば、設計図とおりの「1千万坪の大鳥の形をした地図」は作製できるからである。

 上の〔1千万坪の大鳥の地上絵の横顔〕は「夏至の日の出の方角(29)」に向く。ゆえに「夏至の日の出の方角」は「夏音文字の学芸」をあらわした。また、「夏至の日の出の方角」は「中国の夏代初頭、帝益の孫の王子一行が日本列島に定住して【正確な中国海岸線地宜(地図)と精密地図作製方法】を教えひろめた」とあらわしている。
 「建比良鳥の地宜の頭」の形は[]の字源「フタコブラクダの横顔」に相似するように設計された。帝益の孫の王子一行は、日本列島の東北地方に定住した。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の14回で詳細に解説し証明したように、「東北地方北端の下北半島西部」は[]の字源「フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴ」に相当する。
 下の〔東北地方北端の地宜のイラスト〕に示したように、「フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴ」は「邪馬」、下北半島に隣接する「陸奥湾」は[](女性の骨盤)をあらわすゆえ、倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名称「邪馬壱」をあらわす。
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 だから、「夏至の日の出の方角」を正面とする「フタコブラクダの横顔に相似する、建比良鳥の地宜の横顔」は卑弥呼が居住した「邪馬壱国」をあらわしている。というのも「不呼国」の[]の字源を、『説文解字』は「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなお天のごときなり」と解説するゆえ、「邪馬」に『説文解字』の[]の字源解説に登場する[]つまり[]を加えると、「邪馬壱」となるからである。

◆関ケ原合戦の4ヵ月後の1601(慶長6)正月、徳川家康に命令された井伊直政はじめ井伊氏の人々は彦根市の佐和城に入って移住した。この1601年以前に、建比良鳥命の一族・井伊氏の人々が居住していた本拠地は浜松市北区の引佐町(いなさちょう)の井伊谷(いいのや)であった。
 下の図に示すように、「引佐町の金指(かなさし)・井伊谷地区の境界線」は「卑弥呼」の[]の字源「鳰」をあらわして「鳰と浮巣の形をした地宜」となる。[]の字源「鳰」は水草の茎を支柱(しちゅう)として、草の茎や葉などで浮巣をつくる。[]の字源の「杭州湾」の[]の字義「くい」は「浮巣をつくるときの支柱となる水草の茎」を「杭」と解釈するものであった。ゆえに、下の図における上図の金指地区の鳰の嘴(くちばし)は「水草をくわえる嘴」をあらわして、「途中から嘴が切断される形」をもって「杭」が想像できるようになっている。
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 下の図に示すように、建比良鳥の地宜は【1】「東部の両翼を有する大鳥の地宜」、【2】「中央の出産児の姿となる、都田川の沖積平野(ちゅうせきへいや)」、【3】「象の頭と鼻の形に似る地宜」の三区から構成されている。
 【1】「東部の鳥の頭と両翼の形となる境界線」を[]の字源「中国の海岸線」をあらわし、また[]の字源「山東半島の付け根から南北に伸びるカンムリカイツブリの形をした海岸線(地宜)」をもあらわす。前述したように、下の図における右上は上図に示した[]の字源「鳰の横顔と浮巣に設計された引佐町金指と井伊谷」である。
 だから、「建比良鳥の地宜」には[][][]の字源をあらわす「中国海岸線の形」が設計されている。
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 上の図における【3】「象の頭と鼻の形に似る地宜」は、前述した〔「宗像」の解説図〕に加えた「象の姿に似る太湖」をあらわす役目を有する。【3】の「象の頭と鼻の形」は「宗像」の[]の字義「想像」と異なって、「象」と解釈するための設計であった。つまり、「象」は「“想像”の[]ではなく、実際の象の頭と鼻と解釈せよ」とうながしていることになる。
 下の図は、上図の〔卑弥呼の地上絵の三区からなる地宜〕のイラストである。
 このイラストの下部に、【3】の「象の鼻息」で[]の字源「西(時計の針の[9]から北(時計の針の[12])へ向かって時計回りに90度回転する円弧(カーブ)を加えた。
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 上のイラストに示したように「象の鼻息」で「1千万坪の大鳥の地上絵」を時計回りに90度転回すると、下に配する上図となる
 上図の「建比良鳥の地宜」における「細江町の大鳥の頭と両翼の設計部」は[][]の字源を明確にあらわし、「引佐町の金指・井伊谷の地宜」は[呼]の字源をあらわす。
 (注 上図の「大鳥の左翼(下の翼)につながる、支湖の引佐細江」の「引佐」は「引佐町」を指す。ゆえに、「引佐」は[]の字源「引佐町の金指・井伊谷の地宜」をあらわす。したがって、「細江町の大鳥の頭と両翼と引佐細江の地宜」は「卑弥呼」をあらわす)
 だから、「1千万坪の大鳥の地上絵」には、下図に示すように[][][]3字源をあらわす「中国の海岸線の形」が設計されている。
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 以上のごとく、『魏志倭人伝』と同時代に作られた「不呼国・浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵」は、天照大御神王朝を倒すクーデターを計画した宗像君に参加した不呼国の建比良鳥命が作製した。この1千万坪の大鳥の地上絵には【(1)中国の海岸線地宜と、(2)土地三角測量をして精密地図を作製した方法】を明確に残っている。【中国の海岸線地図と精密地図作製方法】は、帝益の孫の王子がわが国にもたらした。したがって、建比良鳥命が主君とつかえた宗像君が祀る不弥国の宗像神社は帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコチオを祀る神社であったことになる。

◆宗像神社は、天照大御神の孫の天孫を奉(まつ)り斎(いつ)かれる以前に、帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコトを祀っていた――この史実を証明できる理由と根拠を列記すると下記のごとくなる。
1】中国は「夏商周断代工程」と名づけた〔中国古代王朝の年代を確定する国家的プロジェクト〕を1996年にスタートし、歴史学、考古学、天文学、科学測定などの専門家たち約200人が4年がかりで取り組んだ。この結果、200011月、中国古代王朝の年代確定事業を進めてきた専門家チームは――紀元前2070年に夏王朝が成立し、夏王朝は紀元前1600年に殷に滅ぼされ、殷は紀元前1046年に周に滅ぼされたという――結論になったと発表した。
 わが国では、後期縄文時代初頭を紀元前2000年頃と推定する。
 だから、夏代(夏后時代)初頭は後期縄文時代初頭であったことになる。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に中国に派遣された第7回遣唐使が中国王朝に「後(のち)、稍(やや)夏音(かおん)を習う、倭の名を悪(にく)み云々」と説明した――という記事がある。この記事は遣唐使が「壬申の乱の後、歴史書(つまり、10年後の712年に成立した『古事記』)を編纂するスッタッフは朝廷の欲求(よっきゅう)を無視して、稍々(やや/少しだけ)夏音文字を習う(復興する)ことにして、天照大御神がおこなった横暴な人民弾圧史を後世に伝えようとしている」とおもわず真相を洩らした――つまり、時の持統(じとう)上皇・文武(もんむ)天皇が伊勢神宮を建造して天照大御神を皇室が最も崇拝する至上神と定める律令政治体制を痛烈に批判する言葉をもらしたことになる。だから、遣唐使は朝廷が即刻に死刑と定めて厳重に取り締まる禁句(タブー)を破るものであったゆえ、持統・文武帝の怒りを畏(おそ)れて「後、稍夏音を習う」という説明不足の意味がアインマイな短いことばで中国王朝に告げたのである。10年後の712年に成立した『古事記』の上巻には〔音〕という注がつく、最古の漢字音である夏音文字が多数記載されている。702年当時は、遣唐使が「後、稍々(少しだけ)夏音(文字)を習う」と思わず漏らしたとおり、歴史書編纂スタッフは『古事記』に少数の夏音文字を復興すると計画していた。しかし、完成した『古事記』には多数の夏音文字を記載され、このブログが歴史を解明した「文字作成銀河の各部の形状と地宜」に変換する方法をもって読解すれば、『古事記』は「大和王朝の基礎を築いた天照大御神・崇神天皇王朝が人民を弾圧して苦しめた歴史を伝える反逆の歴史書」となっていた。ゆえに、『古事記』が反逆の歴史書であることを察知した元明(げんめい)天皇は即座に献呈拒否した。だから、『古事記』は正史となれずに外史(がいし)となったが、真実を伝える貴重な文献であったのである。
 白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕と題して9ページの終わり3行目から10ページの始めの3行目までで「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する。ゆえに、『古事記』上巻に〔音〕という注が付く多数の文字は、中国に現存する最古の漢字音・紀元前1046年の周代初頭の「上古音」よりも約1000年前の夏代初頭の「夏音文字」であったことになる。
 ということは、『日本書紀』神武天皇紀初頭に「天祖」と記述された彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト)は夏王朝初頭の帝益の孫の王子であったと考えるべきことになる。

2】このブログで詳細に解説して証明しているとおり、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられる文字や[][][]などの字源・字形・字義から【倉頡が発明した漢字作成理論】を知ることができ、また、わが国は中国から【正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を習得したことも明らかとなる。
 このような【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸の習得】は、帝王級の人物が日本列島に定住して教えひろめたという歴史的根拠が必要となる。
 『日本書紀』神武天皇紀初頭に記述された天祖は、帝益の孫の王子であった。ゆえに、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得したことが事実となる。

3】わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の14回において――『魏志倭人伝』の後半部にある「名称不明の小国・侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国」の記事は「後期縄文時代初頭、名門益氏が日本列島の東北地方に定住した歴史」を伝えていることを詳細に解説して証明した。これゆえ、帝益の孫の王子と若者たちは玄界灘を横断して東北地方に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめたことになる。

4】わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の14回で証明したように――日本列島の東北地方北端の「下北半島・夏泊半島・津軽半島と陸奥湾の地宜」は、卑弥呼が居住した女王国名の「邪馬壱」をあらわす。益氏が定住して【正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】が教えさずけたからこそ、「東北地方北端の地宜」は「邪馬壱」という語を明示することになった。【正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】は、すべての中国古代王朝が独占管理して最も厳重な機密にするものであったゆえ、わが国に絶対に教えるはずがない学識であった。だから、この点からしても、帝益の孫の王子が日本列島の東北地方に定住したということは歴史上事実であったことになる。

5】このブログで証明したように、『魏志倭人伝』と同時代(3世紀後半)に作製された「不呼国(遠江)1千万坪の建比良鳥の地宜」には[][][]の字源をあらわす「中国の海岸線の形」が設計されている。ゆえに、名門益氏が日本列島の東北地方に定住したということは確かな歴史上事実であったからこそ、3世紀後半に大和から遠く離れる不呼国・遠江の片隅の草深い田舎に奇跡的な「中国の海岸線の形を設計する、1千万坪の大鳥の地上絵」が作製されることになったことになる。

6】わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の5回で詳細に解説して証明したように――後期縄文時代初頭に作られた国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき/秋田県鹿角市の花輪盆地に所在する)の「(1)野中堂遺跡の中心・日時計組石の中心と(2)万座遺跡の中心・日時計組石の中心を結ぶ線」は「夏至の日没方向」を指差す。
 不呼国・遠州の「1千万坪の大鳥の地上絵(卑弥呼の地上絵)における、大鳥の顔の正面」は「夏至の日の出の方向」に向く。
 したがって、野中堂遺跡・万座遺跡の「夏至の日没方向」と「1千万坪の大鳥の地上絵」の両遺跡は「夏至の日の出の方向」は「夏代初頭、帝益の孫の王子が日本列島の東北地方に定住したこと」は歴史上事実であったと伝えている。

7】『説文解字』は[]の字源を「益なり」と解説する。[]の原字(最初の文字)[]である。だから、[]は「益なり」ということになる。遠江の1千万坪の大鳥の地上絵によって[]の字源は「中国の海岸線地宜(地図)」であったと証明される。つまり、五帝時代最後の帝舜(しゅん)の時代に、益氏は中国の海岸線地宜(地図)を作製する「虞()」という重職を代々200250年間も従事したため、[]の字源は「益なり」となったにちがいない。
 だから、「中国の海岸線地図を設計した、遠江の1千万坪の大鳥の地上絵」によって、帝益の孫の王子が日本列島の東北地方に定住したことは歴史上事実であったことになる。

8】宗像大社と福岡県境にある基山(きざん/県立自然公園の草山)は同経度(東経13031)である。宗像大社の真南に基山が所在する。
 司馬遷著『史記』夏本紀には「帝禹()は崩御するとき、天下を益にさずけた。三年の喪()が終わると、帝益は位を帝禹の子の啓(けい)にゆずって、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した」という記事がある。
 基山は宗像大社の南に所在し、帝益が隠棲した地の北に箕山が在ったゆえ、基山と箕山は一致しない。しかし、「箕山」の[]と「基山」の[]の原字は共に[]であるゆえ、宗像氏は「基山」を「帝益が隠棲した南の地所」、「宗像市玄海町田島に所在する宗像神社」を「箕山」に見立てて、「帝益が箕山の南に隠棲した歴史」を保存していたことになる。
 だから、帝益の孫の王子の日本列島の東北地方の定住は歴史上事実であったことになる。

9】『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭の使(使者)は中国に詣(いた)るに皆、大夫と称す」という記事があり、また魏の景初(けいしょ)二年(238)の六月と十二月の記事には「大夫の難升米」が登場する。
 前述した不弥国の所在地について学術的に詳細に解説し、また〔「難升米」の解説図〕を用いて詳細に証明したように――夏音名(夏音文字の名称)の小国名「不弥」と夏音文字の人名の「難升米(なしめ)」、その5字によって、「難升米」は「不弥国の男王・宗像の君」であったにちがいないことになる。
 夏音文字が記載されている『万葉集』における万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、「ますらを」は今日「益荒男」と表記される。「益荒男」は「帝益の孫の王子と若者たちが荒海(あらうみ)・玄界灘を征服した男(おのこ)」を省略した語であったのである。したがって、「大夫」と「益荒男」の語源は「玄界灘を征服して日本列島に定住した天祖・帝益の孫の王子と若者たち」であったことになる。
 ゆえに、玄界灘を征服して中国に到着できた使者たちは皆が皆称した「大夫」は「吾(われ)は天祖・帝益の孫の王子と同じく玄界灘を征服できた」と誇るものであった。したがって、「大夫」は「荒海・玄界灘を往来できる、勇気ある立派な男(おのこ)」と意味することになったのである。
 だから、「大夫の難升米」は「帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコトを祀る不弥国・宗像君(むなかたのきみ)」であったことになる。ゆえに、宗像神社は、宗像君が天祖・帝益の孫の王子・ヒコホノニニギノミコトを祀る宗廟であったことになる。

◆以上のごとく、帝益の孫の王子と若者たちは荒海・玄界灘を小舟で漕いで征服し、九州の地から北上して東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)文化圏に定住して【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)夏音文字と、(3)正確な中国海岸線地宜(地図)と、(4)精密地図作製方法】を教えひろめたことは歴史上事実であったことになる。
 というのも、【(1)倉頡が発明した漢字作成理論と、(2)夏音文字と、(3)正確な中国海岸線地宜(地図)と、(4)精密地図作製方法】は、中国の夏・殷・周・秦・前漢・新・後漢の各王朝が独占管理して最も厳重な機密にした政権基盤であったゆえ、絶対に外国に教え授ける学識ではなかったはずだからである。このような学識は帝王に即位した氏族、つまり益氏が日本列島に定住して教えひろめたゆえに習得されたと考えるべきことになる。
 益氏が日本列島に定住したゆえに――『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国名を「邪馬壱(やまい)国」と書き記し、また「卑弥呼が天下を治める政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であった」と説明する学術書にして歴史書であったことになる。
 したがって、九州説と畿内説が主張するがごとく、『魏志倭人伝』は倭国の首都が所在した女王国を「邪馬台国」と記すものではなく、また『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための史料ではなかった。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の妄想、真っ赤なウソであり、われら日本人にとって何の益(えき)もない・役立たずの空理空論であったのである。

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2021年5月13日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・18

▼〔漢字の起源の秘密〕は、漢字が起源した中国では解明することができない。しかし、わが国では〔漢字の起源の秘密〕は解明することができる。
 ただし、学界やメディアが推奨する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説を「真面(まとも)な意見」であると信頼することをきっぱりやめて――3世紀後半(280年~289年)に著作された『魏志倭人伝』をただひたすら・いちずに全記事を忠実に読解すれば〔漢字の起源の秘密〕は愉快なほどに・どんどんと・芋(いも)づる式に明々白々となる。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に【文献批判という作為(さくい)】を多数加えるゆえ、〔漢字の起源の秘密〕が解明できない。
 『魏志倭人伝』は1ヵ所も【文献批判】を必要としない正確無比の文献史料であった。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に書かれていない「邪馬台国」を書かれていると声高(こえだか)に主張する空理空論・真っ赤なウソである。実は、『魏志倭人伝』は倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名称を「邪馬壱(やまい)国」と記す。また、九州説と畿内説は「『魏志倭人伝』は〔邪馬台国研究〕のための文献史料である」と主張するが、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕を集約的に的確に説明する、全記事が正確無比の文献であった。
 『魏志倭人伝』は合計2039字で構成される。そのうち、『魏志倭人伝』は(1)前半部の「対馬国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国・狗奴国」の計30ヵ国の説明記事と、(2)後半部に加えられる「女王国の東の名称不明の小国・侏儒国・裸国・黒歯国」の4ヵ国を説明する記事、この(1)と(2)の合計34小国名の秘密について説明する約1100字・約55パーセントの記事をもって、〔漢字の起源の秘密〕が愉快なほどに、どんどんと・芋づる式に次から次へと解明できる仕組みになっている。
 だから、「『魏志倭人伝』は〔邪馬台国研究〕のための史料である」と主張する九州説と畿内説は完全なる空理空論・真っ赤なウソだったのである。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・27

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が毎回のごとく、したがって14回~前回(17)でも繰り返して解説し証明してきたように――上記した(2)後半部の「女王国の東の名称不明の小国・侏儒国・裸国・黒歯国」の4ヵ国について説明する記事で「後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、わが国に【夏音(かおん)文字の学芸】に伝来し習得したとき、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)であった倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】も共に習得した」と説明している。
 この(2)後半部の「女王国の東の名称不明の小国・侏儒国・裸国・黒歯国」の4ヵ国を説明する記事は76字で構成される。この76字の書き下し文は下記のごとくである。
 「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(周旋)五千余里可(ばか)り。」
 つまり、上記の記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、“夏の始祖”の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と若者たち一行が中国から渡来し、わが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)文化圏に定住して東北地方から関東地方まで【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた」と伝えていた。
 日本列島の東北地方に定住した益氏は、五帝時代最後の舜(しゅん)帝の時代に[()]という重職を任命されて代々約200年間、正確な中国の海岸線地図の作製に従事し、精密地図作製方法を進展させた。この名門・益氏の定住によって、後期縄文時代初頭に正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法をも習得されることになった。
 だから、『魏志倭人伝』に登場する(1)前半部の30ヵ国と(2)後半部の4ヵ国、合計34の小国の地図の形は後期縄文時代初頭に益氏が教えひろめた精密地図作製方法にもとづいて精密に測量されて作製されており、その各小国の精密な地宜(ちぎ/平面的に図化された地図の形)にもとづいて的確な字源・字形・字義を選んで定められていた。

◆【漢字の作成理論】は、紀元前3000年頃に倉頡によって発明された。
 『魏志倭人伝』は、下記の二つの記事で「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、わが国には【原初漢字・夏音文字の学芸と倉頡が発明した漢字作成理論】が存在した」と説明していた。
 この二つの記事は、【1】34字で「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――つまり、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと伝えている。
 また、『魏志倭人伝』には67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝え、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する。
 しかし、上記の二つの記事は、九州説と畿内説にとって不都合であるため、両説は徹底的に無視し排除する。また、上記の二つの記事は学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」と断定する定説に反する。ゆえに、九州説と畿内説は定説に反する二つの記事をまったく信用せず徹底的に無視し排除する。
 しかし、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的に空理空論となる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘しているからである。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明されている。
 だから、下の〔漢字生長史〕に示したように、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音(紀元前1046年の周代初頭)よりも、明らかに新しい。ゆえに、下の〔漢字生長史〕では「▼56世紀 わが国の漢字習得の定説」は最下部に配置することになる。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は、下の〔漢字生長史〕が明確に示すように、中国の最古の上古音(紀元前1046)よりも古くないゆえ、「中国の上古音よりも古い漢字音がわが国の国語として残っている」と指摘した白川静著『字統』が指摘する学問成果(音韻史研究)を無視・排除する、虚偽説・空理空論であった。
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 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、上の〔漢字生長史〕に示した【わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音】であった。この【夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 したがって、『魏志倭人伝』に「倭国には原初漢字があった」と記述された、上記した二つの記事は「わが国は後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史」を伝えていたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕を説明する文献であった。というのも、『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤と定めて天下を治めていた」と記述する書物であったからである。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称されることになった。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたのである。
 現存する最古の漢字音を伝える「夏音文字」の[]は、天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が所在する銀河の範囲」いいかえると「夏に最も長時間観察できる銀河の範囲」をあらわしている。
 倉頡は、今日、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 「文字作成銀河」を撮影する写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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 「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の原初漢字の夏音文字・殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 『魏志倭人伝』の34ヵ国の小国の精密な地図の形は〔漢字の起源の秘密〕言いかえると【倉頡が発明した漢字作成理論】を明確に知ることができる資料であった。ゆえに、上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重に守ったように、〔34ヵ国の小国の精密な地宜(平面的な図化した地図の形)〕もまた卑弥呼王朝はじめその後の大和王朝もまた独占管理して厳重な機密とした。これゆえ、『魏志倭人伝』における33の小国名に用いられた漢字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば〔卑弥呼時代には、益氏が伝えた正確な中国海岸線地図と精密地宜(地図)作製方法が保存されていた事実〕を証明することができた。――言いかえると、「漢字」は「銀漢(銀河)から作られた文字」であるから、「銀漢各部の形状」を「漢字」と解して「銀漢各部の形状」は字源・字形・字義であったと考えれば――『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に残っている夏音文字は、後期縄文時代初頭にわが国に伝来していたと確信できた。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑はじめ刑罰を与えなくても良いことになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。
 ゆえに、現在の学者たちは【1】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかず、学者たちは「夏の銀河の各部は夏のどの星座よりも明確な形を有するにもかかわらず、なにゆえ名称が存在しないのか?」と疑問を抱かない。また、上記したように、学者たちは【3】いっこうに「漢字」を「銀漢から作られた文字」と想定しようとしない。
 これゆえ、学者たちは『魏志倭人伝』が〔漢字の起源の秘密〕を具体的に的確に後世に伝えていた貴重かつ重大な文献史料であることにいまだ気づいていない。

◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 この冒頭記事の先頭字の[]の字源・字形・字義によって「対馬国・一大国から遠く離れる、九州から東海地方(現在の愛知県・静岡県)までの西日本一帯の広大な本州・日本列島地理における方位規定は現在方位と時計回りに90度転回する。つまり、現在方位だと東海地方は九州の〔東〕にあるが、【倉頡が発明した漢字作成理論】における地理学の方位規定に則(のっと)って、東海地方は九州の〔南〕に存在する」と定められていた。
 この〔転回日本(本州)列島地理〕についての詳細な証明は、前回(17)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて解説した。
 なお、「倭人国の玄関口となる対馬国・一大国の方位規定」は『魏志倭人伝』が記述しているように現在の地図の方位規定と同じである。しかし、上記したように「末盧(まつろ)国が所在する九州から東海地方までの本州・日本列島地理の方位規定」は[]の字源・字形・字義に則って「時計回りに90度ずつ転回して、現在方位の〔東〕は〔南〕に変位する」と定められていた。
 したがって、下に示すように、卑弥呼王朝は――現在方位で〔東〕に伸びる本州・日本列島地理は時計回りに90度転回して〔南〕に伸びると定理していた。
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 この[]の字源に則る本州・日本列島地理における転回方位規定は、末盧(まつろ)国に標示されて現存する。下の図の左側にある北九州西部の松浦地方は『魏志倭人伝』に登場する末盧国の一画であった。松浦地方には「東松浦」「北松浦」「西松浦」という方位名を示す地名がある。しかし、この「東松浦」は〔東〕に所在せず、「北松浦」も〔北〕に所在せず、「西松浦」も〔西〕に所在しないゆえ、現在方位の規定だと矛盾し不合理となる。しかし、[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」だと、「〔北〕の東松浦」は「北→東」、「〔西〕の北松浦」は「西→北」、「〔南〕の西松浦」は「南→西」となるゆえ、合理となる。だから、「東松浦」「北松浦」「西松浦」という地名は、『魏志倭人伝』に記述された[]の字源にもとづいて卑弥呼王朝が制定した「本州・日本列島地理における転回方位規定」が現在まで残った重大な史料となる。
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 上の図における左下にある松浦地方と陸続きとなる「東彼杵(ひがしそのぎ)」は西彼杵(にしそのぎ)の〔北〕にあって「北→東」となり、「西彼杵」は東彼杵の〔南〕にあって「南→西」となるゆえ、[]の字源となった転回方位規定ならば合理であるが、現在方位だと矛盾する。ゆえに、「東彼杵」「西彼杵」という地名もまた卑弥呼王朝が制定した本州・日本列島地理における転回方位規定が現在まで残った史料であったことになる。
 上の図に示したように、松浦地方と東彼杵の中間地域の東方に、岩戸山(いわとやま)古墳がある。岩戸山古墳は6世紀に反乱をおこした筑後国造(ちくごのくにのみやつこ)の磐井(いわい)の墓である。『筑後国風土記』は岩戸山古墳の規模を「南北各六十丈、東西各四十丈」と記述する。森貞次郎氏の詳細な研究によって、「六十丈、四十丈」の長さの数値は正確であるが、方位の「南北」と「東西」は入れ違っていると指摘された。現在方位の「南北」は[]の転回方位だと「東西」となり、現在方位の「東西」は[]の転回方位だと「南北」となる。したがって、『筑後国風土記』の磐井の墓の規模を伝える記事は、『魏志倭人伝』に記述された卑弥呼王朝が制定した本州・日本列島地理における転回方位規定を伝える確かな史料であったのである。

◆下に、現在方位にもとづく「末盧(まつろ)国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」を配した。『説文解字』は「末盧」の[]の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。ゆえに、下図に示したように、末盧国の西端の境は唐津湾にそそぐ松浦川と有明海にそそぐ塩田川(しおたがわ)であったと考えられる。というのも、「松浦川と塩田川を境にする末盧国の地宜」は「飯器(飯を炊く土器)の形」に相似するからである。つまり、下図の「末盧国の地宜」は縄文時代に作られた深鉢(ふかばち)の形に相似し、「縄文時代の深鉢」を卑弥呼は「飯器」と見立てたにちがいない。
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 上図における「西彼杵半島・長崎半島・島原半島の地宜」は「盧(飯器)を炊く燃料に用いる柴(しば)や焚き木が燃える火炎」のような形をしている。ゆえに、「盧を炊く炎」が容易に連想できるようにするために「彼岸・お盆に迎え火として用いる松脂(まつやに)の木っ端」を略して「彼杵」という地名にしたにちがいない。したがって、「松浦」の「松」もまた「よく燃える松脂の木っ端」をあらわしていることになる。ゆえに、「彼杵」の「杵」は「上古、枯れた木の臼(うす/台)に棒をあて、力をいれて激しくもみ、火を発火させるその杵()」を指しているのであろう。そして、「末盧」の「末」を白川静著『字統』は「木の末端」と解説するゆえ、「よく燃えて焚き木となる、樹木の末端の細い枝」を意味したことになる。
 したがって、「火炎の形に観える、西彼杵半島・長崎半島・島原半島の地宜」を、卑弥呼は「焚き木を燃やす直火(じかび)で飯器を焼く炎」に見立てたことになる。
 要するに、上図の「現在佐賀県西部と長崎県の地宜」を「秋に禾(稲や麦などの穀物)を収穫して盧(飯器)を炊いて祝って、来年の豊作を祈願する様子」に見たてて、卑弥呼は小国名を「末盧国」と定めたことになる。
 下に、[]の転回方位にもとづく「末盧国の地宜」を示した。
 ゆえに、下図の「[]の転回方位にもとづく、末盧国の地宜」は「収穫祭を祝うため、炊きあがった盧(飯器)の飯を食するために、釜土の火を消して地面に転がした盧(飯器)」に見立てられたことになる。
 下図の島原半島の中央部に雲仙岳がある。雲仙岳は火が噴出する火山群の総称である。上記したように――下図の「末盧国の地宜」は「燃える火を消し、地面に転がした飯器」と解釈できるゆえ、「雲仙岳の火山群が怒りをしずめて噴火しなくなった状況」、言いかえると「噴火を心配しないで、人々が安心して日々生活することができる状況」をあらわした。ゆえに、「末盧国における[]の転回方位規定」は「吉祥(きっしょう)」すなわち「喜ぶべき良好な状況、人々が平穏に暮らすことができる状況」をあらわしたことになる。
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◆下に、〔転回方位にもとづく末盧国・伊都国・奴国の旅程基点図〕を示した。
 『魏志倭人伝』は「末盧国の東南陸行五百里、伊都国に到る」と記述する。ゆえに、下図に示したように「末盧国の旅程基点は長崎県松浦市、伊都国の旅程基点は松浦市から転回方位で東南となる福岡県糸島(いとしま)市の前原(まえばる)町であった」と考えられる。また『魏志倭人伝』は「伊都国から東南奴国に至るには百里」と記述する。したがって、下図が示すように「伊都国の旅程基点の糸島市前原町から転回方位で東南となる、福岡県福岡市の香椎宮(かしいぐう)が奴国の旅程基点」であったにちがいない。
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 下に、現在方位規定にもとづく「伊都国の範囲図」を配した。「伊都国の東の境界線」は「現在の福岡市西部の一部で区切られる境界線と旧国の肥前(ひぜん)の境界線」であったと考えられる。したがって、「伊都国」は「糸島半島と糸島半島より南の肥前東部(現在の佐賀県東部と福岡市西部の一部)」であったと推定される。
 伊都国の「糸島半島」は[]の字源「ジャコウウシ」に見立てられた。だから、「伊都国」は「ジャコウウシ」が地霊となる小国であった。
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 現在方位規定にもとづく、上図に示した「伊都国北部の海岸線地域中央の糸島半島の地宜」は[]の字源「ジャコウウシの頭(横顔)」に見立てられた。[]の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であることは、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」では幾度も繰り返して解説し証明した。前回(17)でも、[]の字源が「ジャコウウシ」であることを解説し証明した。
 「伊都国」の[]の字について、白川静著『字統』は「者は祝祷の器である曰(えつ)を土中に埋めた形。聚楽の周辺にめぐらした堰堤(えんてい)の要所に、呪禁(じゅきん)として呪符(じゅふ)を埋めたもので、これを堵()という」と解説する。要するに、[]の字源は「天敵のオオカミに襲われたとき、ジャコウウシの群れが子どもを真ん中に隠して防衛する円陣」に模(かたど)って「円形の堵(土の垣根)をめぐらした、多数の人々が居住する武装都市」であったと考えられる。
 だから、「伊都国」は[]の字源「ジャコウウシ」を地霊とする小国であったことになる。
 []の人偏の右隣の旁部(つくりぶ)[(いん)]について、白川静著『字統』は「尹に祝祷の器である口(さい)を加えたものが君(くん)で、君とはもと女巫(じょふ)にして女君たるものをいう」と解説する。この解説文に登場する「君はもと女巫にして女君たるものをいう」という説明に、「倭女王・卑弥呼」が当てはまる。「卑弥呼」は「巫女王で、女王」であったゆえ「女巫にして女君」となるからである。
 白川静著『字統』が指摘するように、[]の下に[(さい)]を加えると[]となり、偏のに[]を加えると[]となる。[]の字は[]と解釈される。
 石原道博編訳者『新訂 魏志倭人伝 他三篇』(岩波書店)は、『魏志倭人伝』に記載される小国「都支国」に「都〔群〕支国」と[][]の注を加える。ゆえに、[][]は同義とする。
 『魏志倭人伝』は「長崎県壱岐」の小国名を「一大国」と記し、「女王国より以北には特に一大率(いちだいそつ)を置いて諸国を検察(けんさつ)せしむ」と説明する。わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回はじめ幾度となく繰り返し前回でも指摘したように、「一大国・長崎県壱岐の大半の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似する。
 下に、現在方位にもとづく「一大国・長崎県壱岐の地宜」を配した。現在方位にもとづくと――「一大国・長崎県壱岐の大半の地宜」が[]の字源「ジャコウウシの姿」に相似するという解釈は少し難解かもしれない。
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 下に、上図の「南→西」とする、つまり――現代方位の〔南〕を、[]の字源「時計回りに90度転回した方位規定」で〔西〕に変位した――一大国・壱岐の地宜を示した。この〔[]の字源の転回方位にもとづく一大国・壱岐における地宜〕は「ジャコウウシの姿」に相似することが明確となる。
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◆上記したように、[]の字源は「天敵のオオカミが襲ってきたときに、ジャコウウシが防衛する円陣を模る武装都市」であったゆえ、「伊都国」は「ジャコウウシ」が地霊となる小国であった。だから、「糸島半島の地宜」を、卑弥呼は[]の字源・字形・字義となった「ジャコウウシの頭部」に相似すると見立てて、小国名を「伊都国」と定めたことになる。
 前述したように、[]の人偏の右隣の旁部(つくりぶ)[(いん)]について、白川静著『字統』は「尹に祝祷の器である口(さい)を加えたものが君で、君とはもと女巫(じょふ)にして女君たるものをいう」と解説する。この解説文に登場する「君はもと女巫にして女君たるものをいう」という説明に、「倭女王・卑弥呼」が当てはまる。「卑弥呼」は「巫女王で、女王」であったゆえ「女巫にして女君」であったからである。
 これゆえ、「ジャコウウシの頭(かしら)に相似する糸島半島の地宜」は「伊都国に居住した男王・一大率と、邪馬壱国に居住した女君・女王卑弥呼」の、「両者の頭」に見立てられたことになる。
 というのも、『魏志倭人伝』には「その国、本亦(もとまた)男子をもって王と為()す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰()う」という記事が存在するからである。つまり、『魏志倭人伝』は「西暦180年頃、倭国の国中は戦争状態となって大乱したが、卑弥呼が立論した『転回日本列島地理』によって大乱は鎮まり終息した。これゆえ、卑弥呼は倭女王に就任し、伊都国の男王の一大率と共に立つ政治体制によって、倭人国は統治された」と説明していたことになる。
 上記したように、『魏志倭人伝』には「女王国より以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ」という文があり、この文中の「特に」の[特]の字について『説文解字』は「朴特(ぼくとく)、牛父なり」と説き、白川静著『字統』は「朴特、牛父なり」は「牡牛(ぼぎゅう)をいう」と解説する。[牛]の字源は「ジャコウウシ」であるゆえ、「牡(おす)の牛」は「牡のジャコウウシ」ということになる。
 上記したように、[尹]には「女君」の意味があるゆえ、「牝(めす)のジャコウウシの頭(かしら)」が「女君」ということになる。だから、[牛]の字源「ジャコウウシの頭」の形をしている「糸島半島の地宜」は「倭女王・卑弥呼と男王・一大率の頭」に見立てられたことになるゆえ、『魏志倭人伝』は「倭人国は卑弥呼と一大率の共立体制をもって統治されていた」と説明していたことになる。

◆「糸島半島」を「倭女王・卑弥呼と男王・一大率の頭(横顔)」に見立てると、「糸島半島より南部」は「多数のジャコウウシが犇(ひし)めいて群がる地域」となる。ツンドラ地帯に生息したジャコウウシは、百頭以上の群れがふつうであったという。ゆえに、「糸島半島より南部」は「餌場(えさば)にてジャコウウシの群れが犇めき、その密集する興奮と熱気で汗が湯気となり麝香が香り立つ地域」に見立てられたことになる。
 ジャコウウシは夏にはたえまなくスゲ(菅)などを食べ、脂肪をたくわえて冬に備える。冬は繁殖の季節である。冬が近づくにつれ、群れは雪の浅い、風で雪が吹き飛ばされて地表が露出した摂食地(せっしょくち/餌場)へと向かう。この餌場で凍ったスゲや地衣(ちい)をみつけ脂肪の蓄積をおぎなう。
 ジャコウウシはウシよりもヒツジやヤギに近い動物とされる。だから、「ジャコウヒツジ」とも呼ばれる。内側のフカフカしたやわらかいウールの上を地上に達するまでの長くのびた厚い防寒具でおおわれた二重のコートは、乾燥した烈風が吹き荒ぶ状況のなかでもからだを保護し、マイナス70度の酷寒(こっかん)にも耐える。天敵のオオカミに襲われたときには、角(つの)を外に向け、子を真ん中にかくして円陣をつくる。長い毛が密に体をおおうゆえ周(盾・たて)となって子の命を吹雪から衛(まも)り、襲ってくオオカミを牡が角でひっかけ肩越しに跳(は)ねあげ、ほかのジャコウウシが跳ね上げたオオカミを踏みつぶして殺す。
 ジャコウウシの長い毛のカーテンは吹き荒ぶ酷寒の烈風から子を衛る堵(と/垣根・壁)となる。また、出産した子は母獣(ぼじゅう)の深く長い毛で保温される。
 だから、「ジャコウウシの内側のやわらかい毛糸をつつみおおう外側の地上に達するまで長くのびた厚い防寒具の糸(毛糸)」にもとづき、「ジャコウウシの頭の形をした伊都国中心部の半島」の名称は、[糸]の字がつく「糸島半島」と呼ばれることになったのである。

◆常に伊都国に居住して治めた男王・一大率の[率]の字を、白川静著『字統』は「糸をしぼる形。糸束の上下に小さな横木を通し、これを拗(ね)じて水をしぼる形」と解説する。「水をしぼる」は「水気を無くする」と意味するゆえ、「ジャコウウシが生息したツンドラ地帯の乾燥した烈風が吹き荒ぶ酷寒の状況」をあらわす。また「水をしぼって、水気を無くする状況」は「玄界灘における夜空が乾燥して快晴となって、精確に緯度が測量できて安全な海上交通にめぐまれる状況」ということになる。ゆえに、「一大率」は「玄界灘の海上交通を衛る王」であったことになる。
 『説文解字』は「一大率」の[率]の字を「鳥を捕(と)る畢(あみ)なり。絲罔(しまう)に象(かたど)る。上下はその竿柄(かんへい)なり」と解説し、「柄のついた鳥を捕獲するための網」とする。つまり「[率]は鳥網である」という解説は、要するに「羅針盤」を意味した。「羅針盤」の[羅]の契文形(甲骨文字の字形)には「畢(あみ)で鳥を捕る形」のものがある。また、[羅]の字の上は[网(もう)・「あみ」]、下の[維]は[糸]と[隹(すい)・「小鳥」]であるゆえ、[羅]は「糸で細かく編んだ小鳥までも捕獲できる网(あみ)」と意味するゆえ、「羅針盤」を意味することになった。ゆえに、[率]の字は「晴れた夜空の天頂にめぐってくる銀河は精確に[玄](天頂緯度線と子午線)がキャッチできる羅針盤となって、玄界灘の海上交通の安全が保障された」とあらわすことになった。
 [牛]の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」である。[牛]の下に[口]を加えると[告]となる。
 『説文解字』は[告]の字を「牛、人に触(ふ)る。角に横木を著(つ)く。人に告ぐる所以(ゆえん)なり」と解説する。
 下図における「鬼の姿に似る銀河」は「ジャコウウシの鼻面(はなづら)から口まで」に見立てられ、「鬼の姿に似る銀河の西部」は「ジャコウウシの口」と解釈された。ゆえに、「人の横顔に酷似する銀河」を「人」と解釈して、『説文解字』は「牛、人に触れる」と解説した。「ジャコウウシの角」は、下図における「ジャコウウシの角に相当する、激流の銀河がある長方形の暗黒天体部」にある。「角に著(つ)く横木」は「ジャコウウシの角に接する、十字の銀河」である。上記した白川静著『字統』の[率]の解説文に登場する「糸束を捩じって水をしぼる、小さな横木」は「十字の銀河」のことであったのである。
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 『説文解字』の[告]の「角に著く横木」という解説文に登場する[著]の草冠を除くと[者]となる。[者]に[邑(ゆう)]が加わる字が[都]である。ゆえに、「十字の銀河の子宮」が[者]の字源銀河、「骨盤に相当する、十字の銀河の子宮の周辺部」が[邑]の字源銀河となる。[邑]の字義は「みやこ」つまり「都」である。
 「オオカミに襲われたときに、ジャコウウシの群れが円陣に真ん中に隠す子」は「骨盤に包囲される子宮に宿る子(胎児)」に見立てられ、「ジャコウウシの群れの円陣」は「女性生殖器の大半を包んで衛(まも)る骨盤」に見立てられた。そして、上の[告]の字源解説図が示すように、「女性生殖器と骨盤」に見立てられた「十字の銀河と、その周辺部」が「ジャコウウシの角に相当する銀河部」に付く(著く)。だから、『説文解字』は[告]の字源の秘密を「角に横木を著く」と解説したのである。

◆「伊都国」の[伊]の字の字源解説において、白川静著『字統』は「尹(いん)は神杖をもつ形で、神意を媒介する聖職の人をいう」と指摘する。
 白川静著『字統』の[尹]の字源解説における「神杖(しんじょう)」は「十字の銀河」であり、「十字の銀河」は「神杖をもつ、神意を媒介する聖職の人」にも見立てられた。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように――「歳差(さいさ)」という天文事象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して表示することができる。
 黄帝時代、下に図示するように、中国全土各地の天頂に「十字の銀河」がめぐってきて、人々が緯度を精密できる羅針盤となった。
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 上図に示したように、「十字の銀河の左手(東側の手)」に付く「弓のような形」は「弓」と見立てられて、「十字の銀河」は「弓で狩りをする夫(男性)」に観えるということになって[夫(ふ)]の字源となった。
 『説文解字』は[夫]の字源を「丈夫(じょうぶ)なり。大に従ふ。一はもって簪(しん)に象(かたど)るなり。周制、八寸をもって尺となし、十尺を丈となす。人は長(たけ)八尺なり。ゆえに丈夫といふ」と解説する。この字源解説文に登場する[丈](十尺を丈となす)は、上記した[尹]の字源解説に登場する「神杖」の「杖」の右側の[丈(じょう)]の字である。
 下に、『説文解字』の[夫]の字源解説図を配した。
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 『説文解字』の[夫]の字源解説文における「一をもって簪に象る」は――[一]に[大]が加わると[夫]となり、「見かけの大きさが一つまり一丈となる十字の銀河の頭部より北部の二尺の部分」を「簪(かんざし)」に見立てる――と説明していることになる。「人は長(たけ)八尺なり」という文は――周王朝の度量衡の制度では「人の姿」に相似する「十字の銀河」の見かけの背丈(せたけ)を八尺と定めた――と説明していたことになる。周代の一尺は22.5センチであった。ゆえに、「人は長(背丈)八尺なり」という解説は――「人の姿」に相似する「十字の銀河の頭部から左足(東側の足)の足底までの見かけの大きさ」は八尺、つまり22.5 センチ掛ける八尺は180センチ・1.8メートルである――と説明していたことになる。
 ゆえに、周王朝は「見かけの、十字の銀河の背丈」を「1.8メートル」と定めていた。「1.8メートル」の背丈は当時の人の背丈より一回り大きいゆえ「大男(おおおとこ)の身長」となった。ゆえに、「大男」の[大]に「丈夫」を加えると、日本語の「大丈夫(だいじょうぶ)」となる。「大丈夫」は「まったく、心配ない」「必ず、成功する」を意味する。ゆえに、縄文時代に遠くの地へ旅する人々や大海を往来した人々は天頂を通過した「十字の銀河」を羅針盤にして1度の60分の1の1分の精度で緯度を測定するものであった。ゆえに、「大丈夫」の語源は「十字の銀河に命を委(ゆだ)ねる心境や慣習」であったことになる。
 「ジャコウウシの身長(体長)」は1.9~2.3メートルである。したがって、周制の「人の八尺」と「一丈=2.25メートル」は「ジャコウウシの体長」であったことになる。
 言いかえると「十字の銀河の体長(十字の銀河の頭から左足の足底までの身長)」は「ジャコウウシ」に見立てられたことになる。

◆すぐ上部にて〔五帝時代初頭に「十字の銀河」が中国全土の天頂にめぐってきた図〕に示したように――「中国全土各地の天頂」に「十字の銀河」がめぐってきた。したがって、「子午線通過する十字の銀河」は「中国全土」をおおった。だから、「十字の銀河の大きさ」は「広大な中国全土」と同じとなる。
 しかし、前述したように「十字の銀河の見かけの大きさ」は一丈・2.25メートルの杖ほどにきわめて小さい。
 上記した《“杖”という名の約2メートル余の棒切れ》と《中国全土ほどの大きさ「十字の銀河」》の長さが同じである、この事実にもとづいて――倉頡は「《極めて小さな棒きれの杖》と《広大な文字作成銀河》の大きさは同じである」と考えることができるという理論がこの世に存在することに気づいた。
 これゆえ、倉頡は《「十字の銀河」の見かけの大きさと同じ極めて小さな棒切れほどの事物》に《広大な文字作成銀河における万物の情(イメージ)を示す膨大な文字情報》が入っているという、漢字作成理論》を考案した。
 つまり、倉頡は銀河から文字を作成する原理を発明した。
 下に示すように、「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部」、「右足」に観える箇所に「子宮」に観える銀河もある。
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 ゆえに、倉頡は「見かけの背丈が棒切れのほどに小さな十字の銀河」を「広大な文字作成銀河全域を図案した文字はじめ文字作成銀河の各部から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。さらに小さな「十字の銀河の子宮」を「広大な文字作成銀河全域を図案した文字はじめ文字作成銀河の各部から作られた全文字が生まれる子宮」と定めた。
 だから、「十字の銀河」は「文字」の[文]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[文]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案された。
 下の下図の[字]における「十字の銀河」は[宀(べん)]の字源・字形・字義となり、「鬼の姿に似る銀河」が[子]のを字源・字形・字義となり――[宀]の下に[子]が加わって、「文字」の[字]の字源・字形・字義となった。
 したがって、「十字の銀河の子宮」よりも大きい[文]の字源「中国全土大の、十字の銀河」も、さらに大きな[字]の字源「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河」も「小さな、十字の銀河の子宮」から生まれると、倉頡を定めた。
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◆倉頡は「十字の銀河の子宮」を[一]の字源と定めた。
 倉頡は《[一]の字源「十字の銀河の子宮」という極めて小さな箇所》に《はてしもなく広がる文字作成銀河から創られて文字となる膨大な数の情報》が入っていると定める【漢字作成理論】を提唱した。この倉頡が考えた「[一]という小さな事物に広大な銀河の膨大な文字情報が入っている」という【漢字作成理論】は絵空事・空想ということにならずに事実・真実と人々に確信されて、黄帝が天下を治める王政の政権基盤となって確立されることになった。
 これゆえ、中国の学問は倉頡の 「[一]という小さな事物に広大な銀河の膨大な文字情報が入っている」という【漢字作成理論】から始まった。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された、九州説と畿内説が多数の【文献批判という名の作為】を加えて排除・無視した【倉頡が発明した漢字作成理論】は「学問」であり「学術」であり、今日でいう「科学」であり、「科学理論」であったことになる。
 17世紀初めにデカルトによって、西欧近代科学の合理思考が提唱された確立された。近代学問はデカルトの合理思考(理論的枠組み)を基礎にして大いなる発展をし、輝かしい成果を上げてきた。
 ところが、1980年代に入ると、わが国の湯川秀樹博士が先駆者となり、アメリカではニューサイエンス運動が起きてデカルト以来の西欧近代科学の考え方への不信が唱えられ、ヨーロッパでもデカルト以来の合理思考を批判する科学における新しい理論的枠組みが提唱されるようになり、いくつかの国際会議が開かれた。
 このようなデカルト以来の西欧近代科学の合理思考を乗り越える新しい思考理論の模索運動は科学者たちが東洋の神秘思想と出会い、その再発見によって進展した。
 この結果、分子生物学ではDNAという小さな場に大きな情報が入っているという理論が確立された。
 ヒトの一つの受精卵の核にふくまれているDNAの量は、塩基の4文字で約70億字の遺伝的命令文に相当するといわれる。これはアルファベット文字でほぼ30億字の文章になり、大英百科事典(ブリタニカ)15組分(約300冊)とのことである。
 したがって、今から5000年前に、すでに倉頡は現在の先端科学のDNA遺伝子学の原理となる学術理論・科学理論を考案していたことになる。
 デカルトの西洋近代科学では「極めて小さな[一]という場に一万、一億の膨大な情報が入っている」という考えは存在しなかった。
 【倉頡が発明した漢字作成原理】は――[一]の字源「十字の銀河の子宮」は広大な文字作成銀河から作られた一万、一億の文字を生むことができる」と考えるものであった。ゆえに、DNA遺伝子学の原理をあらわす理論がこの世に存在することに気づいた科学者たちはデカルト以来の西欧近代科学の合理思考を乗り越えることができた。
 このような、デカルト以来の西欧近代科学の合理思考を越える倉頡が考案した壮大な理論を現在に伝える文献が『魏志倭人伝』であったのである。
 だから、『魏志倭人伝』は「学問」、「学術」、「科学」、「科学理論」を伝える書物であったことになる。

 白川静著『字統』は[学]について「もと屋上に千木(ちぎ)のある建物の形であり、いわゆるメンズハウスを意味した。(中略)。卜文にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社建築に似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう」と指摘する。この[学]の解説文に登場する「メンズハウス」は「男たちが生活する家屋」を意味し、「卜文」は「甲骨文字」のことであり、私は「契文」と呼んでいる。
 このブログの冒頭で指摘し、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が解説し証明するように、『魏志倭人伝』に記述された33ヵ国の小国の説明記事は【倉頡が発明した漢字作成理論】を具体的に的確に学術的に説明するものとなる。ゆえに「わが国の千木がそびえる神社」は「[学]の字源・字形・字義をあらわす建物」であったことになる。

◆「[一]という小さな場に膨大な情報が入っている理論」を、先端科学者たちは「東洋の神秘思想」あるいは「超合理」と呼んだ。
 したがって、『魏志倭人伝』が「倭国に牛はいない」と伝える[牛]の字源であった「ジャコウウシ」は1980年以後の新しい科学のパラダイム(理論的枠組み)となった【東洋の神秘思想・超合理】を象徴する聖獣となった。
 というのも、「伊都国の地宜」や「男王・一大率」に見立てられた[牛]の字源「ジャコウウシ」は[大]・[丈]・「夫]の字源となった「十字の銀河」に見立てられたからである。また、「ジャコウウシ」は[率]・[尹]の字源解説で「横木」と表現された。また、「ジャコウウシ」は[尹]の字源解説で「神杖」・「神杖をもつ神意を媒介する聖職者」に見立てられた。だから、「ジャコウウシ」は【東洋神秘思想・超合理】を象徴する聖獣であった。
 したがって、「一大率」は「学術王」であったことになる。というのも、わが国の学問は今から約4000年前の後期縄文時代に、益氏が東北地方に定住して【夏音文字の学芸(夏音文字と正確な中国海岸線地図・精密地宜)作製方法)】を教えひろめた時に【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した歴史から始まったからである。また、一大率は、この回のブログの初頭部に列記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕に違反する諸国の王や氏族たちの行動を検察する役目を有していたからである。
 その証拠に、『魏志倭人伝』には「女王国より以北に、特に一大率を配置して諸国を検察させている。諸国は、一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている。常に伊都国に居住して治めている。国中において、法や刑罰に厳しい刺史(しし)のごときである。倭国の諸国の王たちが魏都・帯方郡・諸韓国に使節を派遣し、また帯方郡から倭国に使節を派遣するとき、皆ことごとく伊都国の港にて、伝え送る文書や贈り物を点検し、確認して、女王のもとに外交の状況を報告したときに間違いが生じないようにしていた」という記事がある。
 一大率は【倉頡が発明した漢字作成理論】と【夏音文字の学芸】と【魏都・帯方郡・諸韓国で用いていた楷書】に精通する、学術に長(た)けた王であった。ゆえに、一大率が治める伊都国の港では文字作成銀河を字典にして、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字・夏音文字を一字一字点検し確認して間違いが生じないように検査することになった。だから、伊都国を治めていた一大率は学術王であったことになる。
 なお、「ジャコウウシ」はわが国に生息していなかった。だから、「ジャコウウシ」は倭国の人々にとって生態も知らない無関係の獣であった。しかし、「[一]という小さな事物に広大な銀河の膨大な文字情報が入っている」という【倉頡が発明した漢字作成原理】は「ジャコウウシ」から発想されて生まれたゆえ、「伊都国」の名称に用いられた。
 だから、『魏志倭人伝』は明白に【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学術書であり科学理論書であった。
 したがって、「邪馬台国研究」のための文献史料と定めた九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論であったのである。

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2021年5月 6日 (木)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・17

▼邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説の両説の実体は空理空論である。学界とメディアは九州説と畿内説は最も正しい意見と推奨するが、箸(はし)にも棒にもかからない役立たずのデタラメ・空理空論である。
 九州説と畿内説は「『魏志倭人伝』は倭人国の首都が所在した女王国の名称を“邪馬台国”と記述する」と主張する。ゆえに、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』を「邪馬台国研究」のための史料であると断定する。このため、学界もメディアも九州説と畿内説にまんまと騙されて『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」のための文献史料であると思い込む。
 しかし、『魏志倭人伝』は「倭人国の首都が所在した女王国」の名称を「邪馬壱(やまい)国と記す。だから、『魏志倭人伝』はもとより「邪馬台国研究」のための書物ではない。
 『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕を詳細に的確に伝える貴重な文献であった。
 したがって、九州説と畿内説に騙されて正しいと信用してはいけない。九州説と畿内説を空理空論と断定して――3世紀後半(280年~289年)に著作された『魏志倭人伝』をただひたすら・いちずに全記事を忠実に読解すれば〔漢字の起源の秘密〕が愉快なほどにおもしろく・芋づる式に続々と解明することができる。
 おそらく漢字が起源した中国では〔漢字の起源の秘密〕を解明することができないであろう。でも、わが国では『魏志倭人伝』の全記事をひたすら・いちずに忠実に読解すれば〔漢字の起源の秘密〕を解明することができる。多分、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕が具体的に正確に解明できる唯一残った貴重な文献史料であると考えられる。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に【「文献を批判」という作為(さくい)・主観】を多数加えるが原因で、〔漢字の起源の秘密〕を解明・証明することができない。
 前回(16回)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で詳細に具体的に証明したように、『魏志倭人伝』に記された女王国「邪馬壱国」の「邪馬壱」の3字には〔漢字の起源の歴史〕が秘められていた。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・26

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」が毎回のごとく、したがって14回・15回・前回(16)でも繰り返して解説し証明してきたように――約2039字で構成される『魏志倭人伝』は、そのうち約1100字・55パーセントの記事で「後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、わが国に【夏音(かおん)文字の学芸】に伝来し習得したとき、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)であった倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】も共に習得した」と説明している。
 この1100字のうちの76字の記事をもって、『魏志倭人伝』は「わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と説明する。この76字の書き下し文は下記のごとくである。
 「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(周旋)五千余里可(ばか)り。」
 つまり、上記の記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、“夏の始祖”の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と若者たち一行が中国から渡来し、わが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)文化圏に定住して東北地方から関東地方まで【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた」と伝えていた。
 日本列島の東北地方に定住した益氏は、五帝時代最後の舜(しゅん)帝の時代に[()]という重職を任命されて代々約200年間、正確な中国の海岸線地図の作製に従事し、精密地図作製方法を開発した。この名門・益氏の定住によって、後期縄文時代初頭に正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法をも習得されることになった。

◆【漢字の作成理論】は、紀元前3000年頃に倉頡によって発明された。
 『魏志倭人伝』は、下記の二つの記事で「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、わが国には原初漢字・夏音文字が存在した」と説明していた。
 この二つの記事は、【1】34字で「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――つまり、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと伝えている。
 また、『魏志倭人伝』には67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡(魏の出張政庁が所在するソウル市付近の地域)・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝え、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する。
 しかし、上記の二つの記事は、九州説と畿内説にとって不都合であるため、両説は徹底的に無視し排除する。また、上記の二つの記事は学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」と断定する定説に反する。ゆえに、九州説と畿内説は最初(はな)からまったく信用せずに徹底的に無視し排除する。
 しかし、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的に空理空論となる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘しているからである。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明されている。
 だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音(紀元前1046年の周代初頭)よりも、明らかに新しい(1500年も新しい)。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は、白川静著『字統』が指摘する学問成果(音韻史研究)を無視する、虚偽説・空理空論であったのである。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音】であった。この【夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 したがって、『魏志倭人伝』に「倭国には原初漢字があった」と記述された、上記した二つの記事は「わが国は後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史」を伝えていたことになる。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕が解明・証明できる文献であったのである。というのも、『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤と定めて天下を治めていた」と説明する書物であったからである。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称されることになった。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】はもちろん、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】もまた同一銀漢から作られた。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたのである。
 現存する最古の漢字音を伝える「夏音文字」の[]は、天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が所在する銀河の範囲」いいかえると「夏に最も長時間観察できる銀河の範囲」をあらわしている。
 倉頡は、今日、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて「夏音文字の字音に用いられた記号となる楷書も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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 「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、下記に列挙する〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の原初漢字の夏音文字・殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑はじめ刑罰を与えなくても良いことになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土した。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、現在の学者たちは【1】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかず、学者たちは「夏の銀河の各部は夏のどの星座よりも明確な形を有するにもかかわらず、なにゆえ名称が存在しないのか?」と疑問を抱かない。
 これゆえ、学者たちは『魏志倭人伝』が〔漢字の起源の秘密〕を具体的に的確に後世に伝える貴重かつ重大な文献史料であることに気づかない。

◆中国には、「漢字は倉頡が発明した」と伝える、下記のごとくの伝説がある。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡が鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を創り、古来の結縄に易()えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという。」
 倉頡によって文字(漢字)が発明された。これゆえ、三皇時代の包犧氏・女媧(じょか)氏・神農(しんのう)氏の三氏族の歴史は【倉頡が発明した漢字】によって後世に伝えられることになった。だから、天に昇った包犧氏・女媧氏・神農氏の先祖たちの霊魂は銀河輝く夜な夜な感激して泣いて慈雨(じう)を降らして禾(五穀豊穣)をもたらした。この状況を――倉頡伝説は「倉頡が鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を創り、古来の結縄(易卜に用いる記号)に易()えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという」と表現した。
 上記した倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称である。しかし、学者たちは「鳥獣の足跡」を「鳥や獣の足跡をヒントにして漢字を作った」と誤解する。
 上記の倉頡伝説を、学者たちは「事実を伝えていない。漢字は長い歴史の中でしだいに発展して多数作られたものであることは、現代では常識と言ってよい。だから、一個人が漢字を発明したというのは歴史的事実ではなく、倉頡伝説は中国における古くから数多く伝えられる聖人創造伝説の一つにすぎない」と否定する。
 しかし、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は歴史的事実を伝えていた」と証明される。言いかえると『魏志倭人伝』によって――倉頡は銀漢(夏の銀河)の各部の形状を字源・字形・字義とする漢字を発明した。倉頡以後に作られた全(すべ)ての漢字は倉頡の発明に則(のっと)って銀漢各部の形状を字源・字形・字義と定めた。ゆえに、【銀漢から作られた文字】を略して【漢字】と称されることになった事実――と、証明される。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して知ることができる。
 五帝時代初頭、下に示すように――わたくしが「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国各地の天頂にめぐってきた。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は上記した「文字作成銀河各部の名称」の左上にある〕。
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 上図の下部に指摘したように「鬼の横顔に似る銀河の、横顔」には「二つの目」があり、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴ」にも「二つの目」があるゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」ということになる。したがって、上記した倉頡伝説の説明文には記載しなかったが――倉頡伝説では「倉頡」の異名を「四つ目の怪人」と伝える。学者たちは「四つ目の怪人・倉頡」という表現に対して「人間には目が四つ無い! だから倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)だ」と反応して――「倉頡伝説は歴史的事実ではない」と断定する。しかし、上図に示したように――倉頡が生存した黄帝時代、中国の全土各地の天頂に「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」がめぐってきた。だから、倉頡伝説では「倉頡」に見立てられた「鬼の横顔に似る銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現することにしたのである。
 前述したように、【倉頡が発明した漢字作成理論】を倉頡伝説では「鳥獣の足跡」と称した。【倉頡が発明した漢字作成理論=「鳥獣の足跡」】の「鳥」は、下の図が示すように「鳥の姿に似る、女性の生殖器の側身形」を意味した。
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 そして、黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は[]の字源となった。[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。ゴビ沙漠に住む人々にとって、[]の字源となった「フタコブラクダ」は生活に欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も茫漠(ぼうばく)としたゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して命をまもっていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダは精確に天頂緯度線をキャッチできる優れた眼力を有する》と憧れた。
 「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
 だから、【倉頡が発明した漢字作成理論】の名称「鳥獣の足跡」の「獣」は[]の字源・字形・字義の「フタコブラクダ」であった。
 『魏志倭人伝』には「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」という記事がある。[]
の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であり、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 []の字源「ジャコウウシ」は「天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで防衛した。ゆえに、司馬遷著『史記』五帝本紀にある黄帝の説明記事には「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)と為()す」という記事があり「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)するとき、軍兵たちは円陣を組んで自衛した」と伝えている。黄帝軍の兵士たちは「襲撃するオオカミに対して、子どもを真ん中に隠して円陣を組んで防衛するジャコウウシの習性」に習って、駐屯するときに円陣を組んでいたのである。
 「母体の子宮に宿る胎児(たいじ)」は「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」に見立てられ、「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛(まも)る骨盤」は「ジャコウウシの群れが組む円陣」に見立てられた。
 つまり「子どもが出産するとき、母体に定期的に反復しておこる子宮の収縮による痛み」を「陣痛(じんつう)」というのは、「円陣の真ん中に子どもを隠すジャコウウシの群れの習性」が語源であったことになる。
 だから、[]の字源・字形・字義となった「ジャコウウシ」は「女の生殖器の大半を包囲する骨盤」に見立てられた。ゆえに、「ジャコウウシ」もまた【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣(せいじゅう)となり、「鳥獣の足跡」という名称の[]をあらわした。

◆下に示す「十字の銀河」の東隣の「黄色くきらめく砂粒のような無数の星が群がる、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」の情(イメージ)に類似する。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に生息するフタコブラクダ」に見立てられた。
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 したがって、「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて、「十字の銀河」は[]の字源銀河・字形銀河・字義銀河となった。だから、[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。
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 下の図に示すように、「長崎県対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てた。「長崎県対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫(じょうぶ)な足の指を有するフタコブラクダの足底・足跡の形」に見立てた。だから、「長崎県対馬の上県・下県の地宜」は「馬・フタコブラクダの姿と足跡の形との一対となる」ゆえ、卑弥呼は「一対」の[][]を加えて「長崎県対馬」の小国名を「対馬国」と定めた。
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「対馬国」と小国名において[]の字を先頭字にした理由は、「鳥獣の足跡」という名称における「足跡」を重視して、卑弥呼は「長崎県対馬の下県の地宜」を「ラクダの足跡」と見立てたからと考えられる。
 『魏志倭人伝』は「対馬の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と記述する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「長崎県対馬と長崎県壱岐(一大国)の中間の海」を「瀚海」と名づけて、「長崎県対馬の上県・下県の地宜」は「馬・フタコブラクダの姿と足跡の形」と解釈できるように工夫(くふう)して、卑弥呼は「【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を政権基盤にして倭人国を統治する」と表明した。というのも、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味し、「馬・フタコブラクダは瀚海・ゴビ沙漠」に生息するからである。
 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」などの5ヵ国の小国名に用いられる[]の字源・字形・字義はすべて「フタコブラクダ」である。

◆「瀚海」は「ゴビ沙漠」を表示するとともに、「ゴビ沙漠」の南にある「毛烏素(ムウス)沙漠」をも連想するための仕掛けであった。つまり、瀚海の南の「長崎県壱岐・一大国の地宜」を[]の字源「ジャコウウシ」に見立てるようにして、卑弥呼は「長崎県壱岐(一大国)・壱岐より南の大海・玄界灘」を「瀚海の南にある毛烏素沙漠」に見立てることができるようにしたのである。
 下に「対馬国・瀚海・一大国・玄界灘の地図」を示した。
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 冬の玄界灘はジャコウウシが生息した凍原・ツンドラのごとく厳寒の地となる。
 ゆえに、卑弥呼は「一大国・玄界灘」を「瀚海・ゴビ沙漠より南にある毛烏素沙漠と黄帝の居住地の近くのツンドラ(凍原)」に見立てるようにした。つまり、卑弥呼は「禾(小麦)を収穫する秋が終わると、黄帝の居住地北方の毛烏素沙漠がある地平線から百頭以上のジャコウウシが犇(ひし)めいて一団となる、その幾組の群れが黄帝の居住地近くの凍原にある餌場(えさば)へ目指して出現した壮大な光景」が連想できるようにするため――対馬国と一大国の中間の海を「瀚海」と命名して【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をもあらわすことにしたのである。
 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していた。しかし、紀元前3000年頃になると、多くの地方で絶滅したとされる。紀元前3000年頃の黄帝時代、黄帝が居住したと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵周辺地域から北方の毛烏素沙漠は冬になるとツンドラと化してジャコウウシの生息地となり、黄帝陵の近くの凍原は摂食地(せっしょくち/餌場)となってジャコウウシの大群で占拠された。
 「ジャコウウシ」は[][][][][][][][][][][][]などの[]の部首を有する文字の字源となり、また「円陣を組んで衛る習性」から「防衛」の[]の字源となり、また「祭祀に用いる時の最も理想的な犠牲(いけにえ)」とされたうえに黄帝時代以後には黄帝陵近くの凍原ではジャコウウシが去って絶滅することになったゆえ、「ジャコウウシ」は「たたり」を意味する[(すい)]または[(じゅつ)]の字源・字形・字義となった。
 下の図に示すように、「長崎県壱岐の地宜」は[]字形に類似するということで、卑弥呼は「十字の銀河の子宮」に見立てた。
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 2世紀初頭に成立した“字書の聖典”と呼んで古代の人々が尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。このように、『説文解字』は、下に示した[]の字源解説図における「十字の銀河の子宮」を「一大に従ふ」と解説した。
 これゆえ、卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮」に類似すると見立て、『説文解字』の[]の字源解説の「一大に従ふ」と同じく、「十字の銀河の子宮」を「一大」と解して「長崎県壱岐」の小国名を「一大国」と定めたことになる。
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 下に、「現在方位にもとづく一大国・壱岐の地宜」を示した。「一大国・壱岐の西端の地宜」は[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似し、「一大国・壱岐の大半の地宜」は[]の字源「ジャコウウシの姿」に相似する。 
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 上図の「現在方位にもとづく一大国・壱岐におけるジャコウウシの姿に似る地宜におけるウシの顔」は南の玄界灘や伊都国のほうへ向く。ゆえに、「一大国におけるジャコウウシの姿に似る地宜」は「南の玄界灘や伊都国に向かって前進するジャコウウシの大群」に見立てられることになる。したがって、「冬になると季節風で海・玄界灘が荒れて厳寒となる九州海岸線地域の末盧国・伊都国・奴国・不弥国」を、卑弥呼は「乾燥した寒風で荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突き進んで到着する、風で雪が吹きとばされた地表が露出した餌場(摂食地)がある地域一帯」に見立てたことになる。
 ゆえに、『魏志倭人伝』には「一大率(いちだいそつ)を伊都国に配置した」という記事がある。「一大率」の「一大」は「一大国(壱岐)」と[]の字源「骨盤・子宮・産道などの、女性の生殖器」をあらわす。白川静著『字統』は[]の字形を「糸をしぼる形。糸束の上下に小さな横木を通し、これを拗()じて水をしぼる形で、麻糸などを作るときの作業であろう」と解説する。したがって、「一大率」の[]は「水にぬれる糸束を捩じってすっかり水をしぼったがごとく、雨が降らない日々が長らく続く乾燥した寒風吹きすさぶジャコウウシの大群で占拠された摂食地がひろがる地域一帯の状況」をあらわしていることになる。このような[]の字義をあらわすために、「昼間は水気が無い乾燥した状況にして、夜になるとツンドラ(凍原)のごとく一気に冷え込んで厳寒となる瀚海(ゴビ沙漠)」が必要となった。だから、卑弥呼は長崎県対馬と同県壱岐の中間の海を「瀚海」と命名したのである。

 下に示す「一大国・壱岐の地図の形」は「時計回りに90度転回する一大国・壱岐の地宜」である。ゆえに、「一大国の一部分の地宜」は「フタコブラクダの顔やコブの形」に相似し、「一大国の大半の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似すると解釈できる。
 前述したように、「子どもを真ん中に隠して円陣を組むジャコウウシの群れの習性」は「胎児が宿る子宮を包囲する骨盤。あるいは女性の生殖器の大半を包囲する骨盤」に見立てられて[壱]の字源・字義となった。だから、「一大国」の旧国名は「壱岐」というように[壱]の字が付く。
 下の「転回方位」にもとづく「一大国・壱岐の地宜」は「春になると、黄帝の居住地近くの餌場(えさば)となった凍原に集結した幾組から成るジャコウウシの大群がしだいに北方の毛烏素沙漠、さらに北の瀚海へ向かって去ってゆく光景」に見立てられたことになる。
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 上図の右側に配した「転回方位規定」は「現在方位の〔西〕を時計回りに90度転回して〔北〕と変位する」ゆえ、[()][()][()]の字源・字形・字義をあらわした。つまり「対馬国は一大国の北、一大国は対馬国の南に在る」のに対して、「対馬国・一大国より遠く離れる、末盧(まつろ)国以下の本州日本列島地理における方位は時計回りに90度転回して〔西〕の九州が〔北〕となり、〔東〕の東海地方(愛知県・静岡県)は〔南〕となる」と、卑弥呼は定理したことになる。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」における先頭字[]の字は――日本列島・本州の〔東〕は〔南〕となる、つまり時計回りに90度転回して〔東〕の東海地方は〔東〕ではなく〔南〕となる――と説明していたことになる。

◆黄帝は東洋最古の医学書『内経』を作ったと伝わる。黄帝の医学研究のテーマは「ヒトの命の研究」、つまり「女性の生殖器と子どもの出産」であった。
 これゆえ、倉頡が漢字を発明する目的と動機は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を考案することであった。
 だから、【黄帝の医学研究における核心】は「縦長の出産児の頭蓋骨が母体の横長の骨盤入口をくぐりぬけると頭を回旋(かいせん)しながら産道を通過する、まるでこの世に命(いのち)が湧き出るがごとく誕生する、〈涙が思わずでるほど心ゆさぶられて感動的な神秘的なハイライトシーン〉」ということになった。このような「出産児の頭蓋骨の機能」を、産婦人科では「広形機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と称する。この「出産児の頭蓋骨の骨重積によるハイライトシーン」は、倭人国の首都が所在した女王国の名称「邪馬壱」という語をあらわした。
 つまり、下図における「出産児の頭蓋骨における、小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の形」は、左側に示すように「邪馬」をあらわす。
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 上図における「出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけ、次に子宮口(しきゅうこう)がすっかり開いて出産児がせまい産道を通過する時の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門・後頭骨・頭頂骨・前頭骨の各部分が重ね合わさって動く形状」は、下の図に示した「草をモグモグと食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部分が邪(なな)めとなる形状」にソックリとなる。だから、「出産する時の赤ん坊の頭蓋骨の形状」は「邪馬」となり、「骨盤・産道」は[]の字源であったゆえ、卑弥呼は「邪馬壱」という語であらわすことにした。
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 そして、下の「対馬国・一大国の地図」が示すように、「上県の地宜が馬・フタコブラクダの姿に相似し、下県の地宜がフタコブラクダの足跡に相似する長崎県対馬の地宜」は「緯度線・経度線に邪(なな)め」となるゆえ、「邪馬」となる。そして、前述したように「長崎県壱岐の地宜」は[]の字源「十字の銀河の子宮・女性の子宮」に見立てられた。また「長崎県壱岐の地宜」は[]の字源「女性の骨盤」をあらわす聖獣「ジャコウウシの姿」と[]の字源「産道をくぐりぬける出産児の頭蓋骨の形状」をあらわす聖獣「フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「対馬国・一大国」もまた倭人国の首都が所在した女王国の名称「邪馬壱」をあらわした。
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 わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を象徴する聖獣「ジャコウウシとフタコブラクダ」は生息していなかった。ゆえに、倭人たちにとって「ジャコウウシとフタコブラクダ」は小国名に用いても馴染めない、無関係の獣であった。しかし、卑弥呼にとって「【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究と倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を政権基盤にして天下を治める」と表明するために、「ジャコウウシとフタコブラクダ」が必要となった。だから、上の地図が示すように、対馬国と一大国の中間の海を卑弥呼は「瀚海(ゴビ沙漠)」と名づけて、「対馬国と一大国の地宜はジャコウウシとフタコブラクダの姿に相似すると見立てることができる」と解釈できるようにしたのである。

◆出産児における「邪馬壱」は「横長(よこなが)の楕円形の母体の骨盤入口」を「縦長(たてなが)の出産児の頭蓋骨がくぐりぬける状況」から始まる。
 下に、「横長の楕円形の性(母体)の骨盤の入口の図」を配した。
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 「邪馬壱」の語源となった「母体の子宮口が開く出産第一期・開口期(かいこうき)から産児の頭が誕生する出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの児頭の回旋(かいせん)の様子」について――インターネット・ブログで出力した医療法人翔光会の産婦人科にしじまクリニック(埼玉県富士見市)は「赤ちゃんの進み方、回旋を知る」と題して、下記のごとく説明している。この説明を要約し、この要約に〔出産第一期・開口期と出産第ニ期・娩出期〕という注を加えると、次のようになる。
 ――骨盤の入口は横長の楕円形に対して、からだの中でいちばん大きな赤ちゃんの頭(児頭)の形は縦長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐり抜けるためには、骨盤入口では児頭は横向きで入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)赤ちゃんはアゴを胸につけた姿勢となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これを、「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を、「第2回旋」という。ちなみに、第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は90度であり、第1回旋と逆向きの反時計回り(逆時計回り)である。第1回旋から第2回旋の時の子宮口は大体7センチである。第2回旋が終了した時点で後頭部(小泉門)は恥骨側・12時方向の位置となり児頭の正面・縦向きが整う。この時、子宮口はすでにすっかり開く全開大(10センチ)となり、出産第一期・開口期の終わりとなり、いよいよお産となる。
 第3回旋は反時計回り(逆時計回り)になって児を娩出(べんしゅつ)するもので、この場合児は反屈して恥骨をくぐり抜けるように児頭が産道()から娩出する。
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめて声をあげる。この児頭の誕生が出産第二期・娩出期の終りとなる。

◆上記した「出産児の頭の第1回旋と第4回旋」にもとづいて、倉頡は[()]の字源・字形・字義となった「〔南〕が〔西〕となる、時計回りに90度転回する方位規定」を考案した。
 また、「児頭の第2回旋と第3回旋」にもとづいて、倉頡は[()]の字源・字形・字源となった「〔北〕が〔西〕となる、反時計回りに90度転回する方位規定」を考案した。
 下に、倉頡が考案した[]と字源銀河解説図と契文形(甲骨文字の字形)[]の字源銀河解説図と金文形を示した。
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 []の下に[]が加わって[]となり、人偏に[]が加わって[]となった。[][]は、倉頡が創った[]の字の字源・字義をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定、つまり北→東・東→南・南→西・西→北となる方位規定」をあらわすことになった。[]の字は最高・最良の政治スローガン「人民たちの胃袋を食料(五穀)で満たす、つまり五穀豊穣」をあらわした。
 []の字形は「巫女(みこ/女体に相似する「十字の銀河」)が、[(さい)]の祝祷(しゅくとう/出産祝いや子授け祈願に用いるの土器)を肩の上にかかげて、身をくねらせて舞って、祝祷の儀式を行う様子」をあらわしている。ゆえに、[]の字は「多数の子どもたちが生まれてこの世に満ち満ちあふれる。また、多数の人民たちが国に満ち満ちて日々幸せに楽しく生活する」という状況(政治スローガン)をあらわした。そして、上記したように[]の字は「反時計回りに90度転回(回旋)する方位規定、つまり北→西・西→南・南→東・東→北の方位規定」をあらわした。
 したがって、[][][]の字と[]の字は「出産児の頭の4回の回旋」にもとづいて創られた。というのも、上記したように[][][]の字源は「出産児の頭の第1回旋と第4回旋」であり、[]の字源は「出産児の頭の第2回旋と第3回旋」であったからである。
 下に、出産第一期・開口期(かいこうき)と出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりの状況図を示した。上図は、縦長の出産児の頭を時計回りに第1回旋して横長の骨盤入口をくぐりぬけるために横向きになる出産第1期・開口期の状況図、下図は時計回りに第4回旋してこの世に頭が誕生する出産第二期・娩出期終わりの状況図である。
 この上下の二図は、共に[][][]の「時計回りに90度に転回する方位規定」をあらわしている。
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20万年前から10万年前にかけてホモ・サピエンス(現生人類)が起源した原始のときから、ヒトは【[(とう)]をキャッチして1度の60分の11分以内の誤差を精確に測定できる本能と眼力】がそなわっていたにちがいない。「[]をキャッチする眼力」つまり「1分の緯度差を測定できる眼力」を、人類は食料となる獲物を求めて移住生活していた先史時代から日々鍛錬して受け継いだ。下に〔[]の字源・字形解説図〕を配した。
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 人類は【本能的に、[](天頂緯度線・天頂点・子午線)をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力の眼力】を有し、そして[]をキャッチする技(わざ)を磨いた。だから、先史時代から卑弥呼時代(2世紀末から3世紀半ば)まで、人々は1分以内の誤差で緯度を測定できた。この[]をキャッチする眼力をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれる原始時代や氷や雪でただ一面真っ白な氷河期において滅亡していたことになる。
 前述したように、『説文解字』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従ふ」と解説する。この字源解説は「それ以上の上が無い、天頂緯度線」を意味した。
 したがって、『説文解字』の[]の字源解説は、下の図に示した「天頂点と重なる銀河部位の軌道における最も高い天頂緯度線」を説明していたことになる。
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 上図の右上に[]の字を表示した。[]の下に[(よう)]を加えると[]という字になる。「[]のキャッチ」と「[]のキャッチ」は共に「1分以内の誤差で緯度が精確に測定できる」という意となった。下に〔[]の字源解説図と金文形〕の図を配した。
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 『説文解字』は[]の下部の[]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。つまり、上図の左側に配した「せまい産道をくぐりぬけて命が与えられた、娩出期終わりの出産児」が[]の字源となる。
 「必ず天頂緯度線をキャッチして位置と方位を精確に測量し、絶対に道に迷わない」と欲を有すると、[]のキャッチに失敗して命を失った。「[]をキャッチするときの心得」は「骨盤入口と産道をくぐりぬけるときの出産児のごとく無欲になれ」であった。ゆえに、[][]の字が加わる[]の字「[]をキャッチするときの心得」をあらわしていた。「[]のキャッチ」が成立するためには、「[]の心得(つまり、骨盤入口・産道をくぐりぬけるときの出産児のごとく無欲になれという心得)」が不可欠となるゆえ、[][]となった。したがって、「[]のキャッチ」と「[]のキャッチ」は同義となった。

◆だから、卑弥呼時代の倭国の使者と船乗りたちは【1分以内の誤差で精確に緯度ができる[]のキャッチの方法】で玄界灘を往来していたのである。
 玄界灘を往来するとき、1度の60分の11分以内の誤差で測定できる能力、つまり眼力を有していないと命を失った。
 倭地と朝鮮半島の中間の大海・玄界灘を往来するとき、【天の北極が水平線からの高度が緯度】となる。つまり、水平線からの天の北極の高度が3415分ならば、その観測場所の海の緯度は北緯3415分となる。
 下に〔黄道(こうどう)の北極を中心にして一周する天の北極の位置を示す大円と北極星の位置図〕を配した。
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 上図に示すように、天の北極の位置は〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で一周する。この〔円周(大円)上における位置〕が〔各時代の天の北極の位置〕となる。ゆえに、すべての時代において「〔黄道の北極〕を中心とする大円」と重なる北極星は存在しない。だから、すべての時代において〔天の北極〕は〔暗黒の暗闇〕であったゆえ、ヒトが1分の精度で緯度を測量できた北極星は存在しない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は、紀元前2790年頃の「りゅう座α星」と、現在から約80年後の21世紀末の「こぐま座α星」である。この「二つの北極星」は〔天の北極〕から約45(0.75)離れているゆえ、〔天の北極〕を中心にして直径約90(1.5)の円を描く。人間の目と本能には、90分ほどの直径距離で〔天の北極〕を中心にして円を描く「北極星」を測量して〔天の北極の高度を90分の11分の誤差〕で精確に測量できる能力はそなわっていない。だから、すべての時代、人類は〔天の北極の高度〕を1分以内の誤差内で緯度を測量することができなかったゆえ、日本列島に居住した人々は〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕では玄界灘を往来することができなかった。
 上の〔黄道の北極を中心にして一周する天の北極の位置図〕の右上に示したように、卑弥呼時代の「北極星・こぐま座β星」は〔天の北極〕を中心にして半径約10(600)・直径約20(1200)の円を描いていた。「直径が1200分の円を描く北極星・こぐま座β星)」で〔天の北極の高度〕を1200分の11分以内の誤差で測定できる能力を人間は有していない。
 だから、卑弥呼時代、倭の使者はじめ船乗りたちは北極星(こぐま座β星)をキャッチして〔天の北極を緯度に換算する方法〕で玄界灘に入ると必ず「命」を失った。卑弥呼時代において、「天の北極」と「北極星」は【命を失う死神の座】であった。
 したがって、「九州を〔西〕と定め、東海地方を九州の〔東〕と定める、現在と同じ本州・日本列島地理」を、卑弥呼王朝は制定するはずがなかった。
 卑弥呼王朝は、【倉頡が発明した漢字作成理論に則(のっと)る地理学の方位規定】にもとづいて日本列島地理の方位規定を定めることにしたのである。

◆前述したように、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、玄界灘を横断してわが国の東北地方に益氏が定住して――わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論】を習得して学問の歴史が始まった。この【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】の伝統は卑弥呼が歴史上に初めて登場した西暦180年頃には、約2200年間もの長いあいだ受け継がれていた。【倉頡が発明した漢字作成理論の学問】に精通していた卑弥呼は倭国の大乱を終息させるために、「第1回と第4回旋の出産児の頭蓋骨が重ね合わせることができる骨重積(こつじゅうせき)の機能」から成立させた[][][]の字源「時計まわりに90度転回する方位規定に則(のっと)る本州・日本列島地理」を立論した。
 ゆえに、卑弥呼が統治する国号は[]の字がつく「倭人国」となった。
 前述したように――石器時代、周囲が大海で囲まれる日本列島に人々が移住を決行したとき、その人々は【[][]をキャッチする方法】によってならば大海を征服して日本列島に到着できた。
 だから、浪うってつづく幾多(いくた)の森に鬱蒼(うっそう)とおおわれていた上古、日本列島に居住した人々は、日々、【[]をキャッチする方法】で位置(緯度)と方角を測って生活をいとなんでいた。この【[]のキャッチ】によって、下に示したように、日本列島の西端にある玄界灘に浮かぶ沖ノ島と日本列島の東端にある伊豆諸島の神津島(こうづしま)が同緯度(北緯3415)であると測定できた。 
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 先史時代から現在まで、伊豆諸島の神津島からは良質の黒曜石(こくようせき)が産出する。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、じょうずに刃をつけると肉切り用の石包丁や医学用のメス(女性が出産する時に用いられた小刀)として用いられ、また鋭利な石斧や戉(まさかり)の刃となり、あるいは石槍の穂先や矢の鏃(やじり)などの石器として利用された。
 神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていることが明らかとなった。神津島と伊豆半島は中間の海で30キロメートル以上も離れており、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400キロメートルも離れている。神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが――学界においては、その実態はいまだ謎のベールにつつまれて不明とする。前述したように、人類は原始のときから、産道を通過する出産児のごとくで無欲で[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする[]の能力が頭脳に本能としてそなわり、日々鍛錬して1分の緯度差を測定できる優れた眼力を有していた。『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論の歴史的事実】を解明するために不可欠な[]のキャッチ・[]のキャッチを注目すれば、約3万年前から神津島の黒曜石が本土に運ばれて利用されていた海洋航海の謎の厚いベールは寸時に消える。
 したがって、神津島は良質の黒曜石が産出することで有名であったゆえ、卑弥呼は神津島を注目したのである。下に示すように「神津島の地宜」は「長崎県壱岐・一大国の地宜」と同じく「十字の銀河の子宮の形」に相似する。
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◆前述したように、「長崎県壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮の形」に相似すると見立てて「一大国」と名づけた卑弥呼は、一大国より45度の東北にある孤島・沖ノ島と神津島は同緯度であり、しかも両島が日本列島の両端に所在することに注目した。そして、卑弥呼は――中国全土を洩れなく包みこむ海岸線の地域と日本列島の気候区の様子を注目した。さらに、中国全土を包む海岸線地域の方位規定を対馬国・一大国の方位と同じく〔北・南〕と定めれば、本州・日本列島の方位規定は【倉頡が「出産児の頭蓋骨の、重ねあわせることができる機能」から考案した[]の字源・字形・字義】が成立する――ことに気づいた。つまり、卑弥呼は――現在の方位規定にもとづくと日本列島の〔西端〕にある沖ノ島を時計回りに90度転回して本土の〔北端〕にあると定めれば、日本列島の〔東端〕にある神津島の方位を時計回りに90度転回して〔南端〕にあると定理することができる――ことに気づいた。
 これから始める解説に用いられる[]の字源に則る転回本州・日本列島地理の方位規定を、現在の日本列島の方位規定にもとづいて解説する。
 中国の北部海岸線地域は冷たい気候区であり、中国の南部海岸線地域は暖かい気候区であるゆえ、《北冷南暖》となる。日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪がふる冷たい気候区であるが、日本列島の東端にある亜熱帯の神津島は一年中暖かい気候区であるゆえ、《西冷東暖》となる。
 この結果、下に配した〔中国の海岸線地域の《北冷南暖》と本州・日本列島の《西冷東暖》の気候区図〕に示したように――中国の北部海岸線地域と日本列島西端の気候は共に冷たいゆえ、《中国の北冷=日本列島の西冷》となる。中国の南部海岸線地域と日本列島東端の気候は共に暖かいゆえ、《中国の南暖=日本列島の東暖》となる。だから、日本列島・本州西方の九州は中国の北部(北部海岸線地域)に合致し、日本列島・本州の東方の東海地方は中国の南部(南部海岸線地域)に合致して、下に図示したように、日本列島・本州の地理における方位規定は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に合致する。

ゆえに『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて「日本列島・本州の東方は南方(中国海岸線地域の南部の方)へと延びている」と説明していたことになる。
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 『魏志倭人伝』には全部で19ヵ所の方位記事がある。そのうち冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文中の「東南」から一大国の記事までの方位記事は計7ヵ所ある。ゆえに、日本列島・本州の末盧(まつろ)国から以後の記事には、計12ヵ所の方位記事がある。この日本列島・本州における計12ヵ所の方位記事は、上に配した〔中国の海岸線地域の《北冷南暖》と日本列島・本州の《西冷東暖》の気候区図〕によって成立した《[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定》にすべて合致する。
 だから、『魏志倭人伝』の19ヵ所の方位記事は全部正確であり、『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の《北・南》と日本列島・本州地理の[]の字源による転回方位規定」をもって【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝えていたのである。
 ゆえに、34ヵ国の小国で構成される倭人国の地理を、卑弥呼王朝は【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわして、下図のごとく制定していたことになる。
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◆中国の五経(ごきょう)の第一番に挙げられる『易経(えききょう)』の繋辞下伝(けいじげでん)に、下記のごとくの〔漢字起源記事〕がある。
 「古者(いにしえ)、包犧氏(ほうぎし)の天下の王たるや、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して、結縄(けつじょう)を作った。」
 上記した『易経』繋辞下伝は「紀元前4000年頃の三皇時代初頭の王であった包犧氏が万物の情(イメージ)に類似する原初漢字・結縄を作った」と記述するが、この指摘は誤っている。つまり、包犧氏は「易」に用いる記号が作ったが、万物の情に類似する漢字は前述した倉頡伝説が伝えているように、紀元前3000年頃に生存した倉頡である。
 『易経』繋辞下伝は、上記した漢字起源記事のすぐ後に「上古は結縄で治まる。後世の聖人これを易()うるに書契(しょけい)を以(もっ)てす」と記述している。この文中にある「後世の聖人」は、すなわち「倉頡」である。書契を作った倉頡こそが万物の情に類似する原初漢字を作った。そして、倉頡より以後の全時代に作られた全漢字は、【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて作られた。
 ゆえに、上記した『易経』繋辞下伝の〔漢字起源記事〕は、下記のごとく改めれば正しくなる。
 「古者、黄帝につかえた倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して、書契を作った。」
 上記の文中に登場する「天象」は「文字作成銀河(夏の銀河)」である。「地法」は「天象(文字作成銀河)の各部は東から西へ移動して去るが、〔オス鹿の姿〕や〔両翼をひろげる鳥の姿〕に類似する海岸線にもれなく包まれる中国の地宜(地図)は天象各部の移動の逆向きとなって西から東の大海に向かって去る形となる」と意味した。「鳥獣の文」は倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」と同義であり、つまり「鳥獣の文」は【倉頡が発明した漢字作成理論の名称】である。「地宜」は「平面的に図化した地図の形」である。次の「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文の解説は後におこなうことにして、その前に後ろにある「八卦」について解説する。「八卦」は「東・西・南・北の四方位と東北・西北・東南・西南の四方角、計八つの方位」を意味した。
 「近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る」という文は「黄帝の居住地から見える地平線近く(地平線内)の北・南に対して、黄帝の居住地の地平線より遠く(地平線より外界)となる地域の地理においては(1)時計回りに90度ずつ転回する[]の方位規定と(2)反時計回りに90度ずつ転回する[]の方位規定の二種がある」と意味した。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は「対馬国・一大国の方位規定と、対馬国・一大国から遠く離れて神津島が所在するまでの広範囲の本州・日本列島地理の方位規定は相違する」と説明するものであったことになる。したがって、対馬国・一大国の方位規定は現在方位と共通するが、本州・日本列島地理における方位規定は現在の方位規定と異なり、本州・日本列島の地理における方位規定は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす[]の字源を受け継いだ[]の字源「時計回りに90度ずつ転回する方位規定」に則って説明していたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える文献史料であった。

◆以上のごとく、九州説と畿内説は「卑弥呼が居住した女王国は邪馬台国であった」と断定し、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究のための史料である」と主張して、その合理性を成立させるために【多数の文献批判という作為】を加えて立論する。
 しかし、『魏志倭人伝』は女王国の名称を「邪馬壱国」と記している。また、全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すると、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕を具体的に的確に説明していることになり、「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして天下を治めた事実」が解明され、矛盾点や不合理な点が一点もなく【科学】が成立して歴史的事実が証明される。
 だから、学界やメディアは大々的に「九州説と畿内説が正しい、最も信用できる」と推奨するが、両説は「根本史料の文献に一点の【作為・主観】を加えず、真っ先に忠実に読解する」という学問の原則をまもらない、学説の体(てい)をなさない空理空論・デタラメ・真っ赤なウソであったことになる。
 言いかえると、『魏志倭人伝』は学問の原則を厳守すべき正確無比の歴史書にして学問書であったのである。

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2021年5月 3日 (月)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・16

▼〔漢字の起源の秘密〕は、漢字が起源した中国では解明することができない。でも、わが国では〔漢字の起源の秘密〕を解明することができる。
 ただし、学界やメディアが推奨する邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説を正しいと断じて信じてはいけない。九州説と畿内説を空理空論と決めて――3世紀後半(280年~289年)に著作された『魏志倭人伝』をただひたすら・いちずに全記事を忠実に読解するならば〔漢字の起源の秘密〕が愉快なほどに・芋づる式に続々と明白となる。
 邪馬台国九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に【主観にもとづく「文献を批判」という作為(さくい)】を多数加えるゆえ、〔漢字の起源の秘密〕を解明・証明することができなかった。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に1字も書かれていない「邪馬台国」を「書いてある」と声高(こえだか)に主張する空理空論であったのである。
 したがって、九州説や畿内説が主張するがごとく、『魏志倭人伝』は〔邪馬台国研究〕のための史料ではない――『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕を伝える史料であった。
 九州説と畿内説の実体は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論であったのである。
 『魏志倭人伝』の冒頭「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文から「郡(帯方郡)より女王国に至るには万二千余里なり」という文までの記事は、計556字で構成される。この556字の文中に登場する「対馬国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国・狗奴国」、計30ヵ国の小国名は〔漢字の起源の秘密〕が直接的に解明・証明できる資料となる。この556字の他に約550字が加わる計約1100字・約54パーセントの記事によって、合計2039字で構成される『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕を詳細に的確に伝えていた。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・25

◆上記した556字で説明される計30ヵ国の小国記事に加わる約550字の内の次に示す76字による書き下し文は、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の14回で詳細に解説し証明し、15回で指摘したように「後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、わが国に【夏音(かおん)文字の学芸】に伝来し習得したとき、【紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)であった倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】も共に習得した」と説明するものであった。
 この「わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と説明した76字の書き下し文は下記のごとくである。
 「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(周旋)五千余里可(ばか)り。」
 つまり、上記の記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、“夏の始祖”の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と若者たち一行が中国から渡来し、わが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)文化圏に定住して東北地方から関東地方まで【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた」と伝えていた。
 下に図示した日本列島の東北地方に定住した益氏は、五帝時代最後の舜(しゅん)帝の時代に[()]という重職を任命されて代々約200年間、正確な中国の海岸線地図の作製に従事し、精密地図作製方法を開発した。この名門・益氏の定住によって、後期縄文時代初頭に正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法をも習得されることになった。
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◆【漢字の作成理論】は、紀元前3000年頃に倉頡によって発明された。
 『魏志倭人伝』は、下記の二つの記事で「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、わが国には原初漢字・夏音文字が存在した」と説明していた。
 この二つの記事は、【1】34字で「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――つまり、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと伝えている。
 また、『魏志倭人伝』には67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡(魏の出張政庁が所在するソウル市付近の地域)・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する記事がある。
 しかし、上記の二つの記事は、九州説と畿内説にとって不都合であるため、両説は徹底的に無視し排除する。
 また、上記の二つの記事は学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」と断定する定説に反する。ゆえに、九州説と畿内説は最初(はな)からまったく信用せずに徹底的に無視し排除する。
 しかし、「わが国が最初に漢字を習得したには5世紀、あるいは6世紀である」という学界の定説は、現在、学問的に空理空論となる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘しているからである。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明された。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音(紀元前1046年の周代初頭)よりも、明らかに新しい(1500年も新しい)。だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は、白川静著『字統』が指摘する学問成果(音韻史研究)を無視する、虚偽説・空理空論であったのである。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音】であった。この【夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は学問的に正当性が確保できない【科学】に反する空理空論であった。
 したがって、『魏志倭人伝』に「倭国には原初漢字があった」と記述された二つの記事は「わが国は後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史」を伝えていたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』の34ヵ国の小国記事は【倉頡が発明した漢字作成理論】が解明・証明できる資料となったのである。というのも、倭女王・卑弥呼は34の小国名をもって「後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸と共に習得した【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王政の政権基盤とする」と表明するものであったからである。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称されることになった。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】と【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】は共に【同一銀漢から作られた文字】であった。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたのである。
 上記したように、中国に現存する最古の字音は紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。したがって、学界が「漢字の最も古い祖型と定める、周代初頭より約250年前となる殷代後半に用いられた甲骨文字(契文)の字音」は現存しない。しかし、甲骨文字が出現した時よりも約750年も古い後期縄文時代初頭にわが国が習得した「夏音文字」の字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に多数残っている。
 漢字は《字源・字形・字義・字音の四要素》から成立する。夏音文字は『魏志倭人伝』によって「楷書の字源・字形・字義であった同一銀漢各部の形状を字源・字形・字義とする漢字であった」と証明でき、字音は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に残る。ゆえに、夏音文字は《字源・字形・字義・字音の四要素》が備(そな)わる。
 他方、紀元前1300年頃から出現した甲骨文字は《字源・字形・字義の三要素》が備わっているものの、今日、《字音》が不明となる。
 だから、《字音》が不明となる不完全な甲骨文字を学界は「漢字の最も古い祖型」と定めたならば、『魏志倭人伝』の記事によって《字源・字形・字義・字音の四要素》がそろう、完全なる夏音文字こそ「漢字の最も古い祖型である」と定めなければならないことになる。
 以上のごとく、【文献批判】を1ヵ所も加えずにただひたすら・いちずに『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王政の政権基盤とした」と証明できたゆえ、おのずと〔漢字の起源の秘密〕を解明することができた。

◆現存する最古の漢字音を伝える「夏音文字」の[]は、天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が所在する銀河の範囲」いいかえると「夏に最も長時間観察できる銀河の範囲」をあらわしている。
 倉頡は、今日、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。夏音文字の字音に用いられた記号となった楷書も、夏の銀河各部の形状から作られた。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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 「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の原初漢字の夏音文字・殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 〔注 実は原初漢字を書いた資料はすでに発見されている。しかし、学者たちはその資料が文字作成銀河(夏の銀河)の部分の形状を図案する漢字であることに気づかない。ゆえに、原初漢字を書いた資料は一点も存在しないことになっている〕。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑はじめ刑罰を与えなくても良いことになった。ゆえに、甲骨文字によって始めて【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土することになった。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、現在の学者たちは【1】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかず、学者たちは誰ひとりも「夏の銀河の各部は夏のどの星座よりも明確な形を有するにもかかわらず、なにゆえ名称が存在しないのか?」と疑問を抱かない。このため、学者たちは『魏志倭人伝』が〔漢字の起源の秘密〕を具体的に説明する、おそらく唯一現存することになったであろう【倉頡が発明した漢字作成理論】を後世に伝える確かな貴重かつ重大な文献史料であることに気づかない。

◆九州説と畿内説は――「倭人国の首都となった女王国の名称は、邪馬台国であった」と主張する。しかし、『魏志倭人伝』は「女王国」の名称を「邪馬壱(やまい)国」と記載する。
 前回(15)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で詳細に解説し証明したように――卑弥呼は倭人国を統治するにあたって、下記の3つの事柄を重視して、「【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤とする」と表明した。
1】黄帝・倉頡が生存した紀元前3000年頃、中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」は「邪馬壱」という語であらわすことができた。
2】倉頡が漢字を発明する目的・動機は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産の医学研究】をあらわす文字を考案することであった。この医学研究の核心にしてハイライトシーン(涙が思わず出るほど心ゆさぶられて感動的な神秘的な輝かしい場面)は――「横長の母体の骨盤入口を縦長の出産児の頭がくぐりぬけると、子宮口(しきゅうこう)がすっかり開いて、出産児の頭蓋骨がせまい産道をくぐりぬけて命が湧き出るがごとく神秘的に誕生する場面」である。このハイライトシーンも「邪馬壱」という語であらわすことができた。この「ハイライトシーンにおける出産児の頭蓋骨の機能」は、現在、産婦人科では「広形機能(こうけいきのう)」または「骨重積(こつじゅうせき)」と称する。
3】後期縄文時代初頭、益氏が定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた日本列島の東北地方北端の「下北半島・夏泊(なつどまり)半島・津軽半島と、陸奥湾の地宜」も「邪馬壱」という語であらわすことができた。
 だから、倭人国の首都が所在する中心地域の名称を、卑弥呼は「邪馬壱国」と定めたのである。ゆえに、実際、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国の名称を「邪馬台国」と記していない。
 『魏志倭人伝』が記していない「邪馬台国」を記していると主張する九州説と畿内説は、空理空論と断定するべきことになる。
 これまで解説してきたように、上記した「邪馬壱」という語であらわすことができる【1】【2】【3】の3つの史実と【4】「〔漢字〕は〔銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた文字である〕から、略して〔漢字〕と称される」ことになった――これら4つの史実にもとづいて、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして倭人国を統治した」と伝えていたことになる。

◆中国には、「漢字は倉頡が発明した」と伝える、下記のごとくの伝説がある。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡が鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を創り、古来の結縄に易()えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという。」
 倉頡によって文字(漢字)が発明された。これゆえ、三皇時代の包犧氏・女媧(じょか)氏・神農(しんのう)氏の三氏族の歴史は【倉頡が発明した漢字】によって後世に伝えられることになった。だから、天に昇った包犧氏・女媧氏・神農氏の先祖たちの霊魂は銀河輝く夜な夜な感激して泣いて慈雨(じう)を降らして禾(五穀豊穣)をもたらした状況を――倉頡伝説は「倉頡が鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を創り、古来の結縄(易卜に用いる記号)に易()えたので、天は祝福して禾(か/穀物)を降らせ、感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な空に聞こえたという」と表現したのである。
 上記した倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称である。しかし、学者たちは「鳥獣の足跡」を「鳥や獣の足跡をヒントにして漢字を作った」と誤解する。
 上記の倉頡伝説は、学者たちによって「事実を伝えていない。漢字は長い歴史の中でしだいに発展して多数作られたものであることは、現代では常識と言ってよい。だから、一個人が漢字を発明したというのは歴史的事実ではなく、倉頡伝説は中国における古くから数多く伝えられる聖人創造伝説の一つにすぎない」と否定されている。
 しかし、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は歴史的事実を伝えていた」と証明される。言いかえると『魏志倭人伝』によって「倉頡は銀漢(夏の銀河)の各部の形状を字源・字形・字義と定める学芸を発明した。倉頡以後に作られた全漢字は倉頡の発明に則(のっと)って銀漢各部の形状を字源・字形・字義と定めた。ゆえに、【銀漢から作られた文字】を略して【漢字】と名づけられた」と証明されることになる。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して知ることができる。
 五帝時代初頭、下に示すように――わたくしが「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国各地の天頂にめぐってきた。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は上記した「文字作成銀河各部の名称」の左上にある〕。
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 上図にある「十字の銀河」は[]の字源となった。[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。
 前述したように、【倉頡が発明した漢字作成理論】は「鳥獣の足跡」と称された。「鳥獣の足跡」の「獣」は[]の字源・字形・字義となった「フタコブラクダ」であった。
 『魏志倭人伝』には「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」という記事がある。[]
の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であり、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 []の字源「ジャコウウシ」は「天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで防衛した。ゆえに、司馬遷著『史記』五帝本紀にある黄帝の説明記事には「師兵(しへい)を以(もっ)て営衛(えいえい)と為()す」という記事があり「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)するとき、軍兵たちは円陣を組んで自衛した」と伝えている。黄帝軍の兵士たちは「襲撃するオオカミに対して、子どもを真ん中に隠して円陣を組んで防衛するジャコウウシの習性」に習って、駐屯するときに円陣を組んでいたのである。
 「母体の子宮に宿る胎児(たいじ)」は「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」に見立てられ、「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛(まも)る骨盤」は「ジャコウウシの群れが組む円陣」に見立てられた。
 だから、[]の字源・字形・字義となった「ジャコウウシ」は[一・壱]の字源となった「女性の生殖器の大半を包囲する骨盤」に見立てられた。ゆえに、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣(せいじゅう)となり、「鳥獣の足跡」という名称の[]をあらわした。

 ゴビ沙漠に住む人々にとって、[]の字源となった「フタコブラクダ」は生活に欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も茫漠(ぼうばく)としたゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して命をまもっていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダは精確に天頂緯度線をキャッチできる優れた眼力を有する》と憧れた。
 下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
 だから、「フタコブラクダ」もまた【倉頡が発明した漢字作成理論】言いかえると「鳥獣の足跡」を象徴する聖獣となった。クダと胎児の両目
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◆下に示す「十字の銀河」の東隣の「黄色くきらめく砂粒のような無数の星が群がる、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」の情(イメージ)に類似する。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に生息するフタコブラクダ」に見立てられた。
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 したがって、「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて、「十字の銀河」は[]の字源銀河・字形銀河・字義銀河となった。だから、[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。
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 下の図に示すように、「長崎県対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てた。「長崎県対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫(じょうぶ)な足の指を有するフタコブラクダの足底・足跡の形」に見立てた。だから、「長崎県対馬の上県・下県の地宜」は「馬・フタコブラクダの姿と足跡の形との一対となる」ゆえ、卑弥呼は「一対」の[][]を加えて「長崎県対馬」の小国名を「対馬国」と定めた。
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「対馬国」と小国名において[]の字を先頭字にした理由は、「鳥獣の足跡」という名称における「足跡」を重視して、「長崎県対馬の下県の地宜」を「ラクダの足跡」と見立てたからと考えられる。
 下に示すように、「黄帝が研究した、女性の生殖器の側身形」は「鳥の姿」に類似する。
 だから、【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】の「鳥」は「女性の生殖器の側身形」、[]は「長崎県対馬の上県の地宜」があらわす「馬・フタコブラクダの姿」、「足跡」は「長崎県対馬の下県の地宜」があらわす「フタコブラクダの足跡」ということになる。
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 『魏志倭人伝』は「対馬の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と記述する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「長崎県対馬と長崎県壱岐(一大国)の中間の海」を「瀚海」と名づけて、「長崎県対馬の上県・下県の地宜」は「馬・フタコブラクダの姿と足跡の形」と解釈できるように工夫(くふう)して、卑弥呼は「【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を政権基盤にして倭人国を統治する」と表明した。というのも、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味し、「馬・フタコブラクダは瀚海・ゴビ沙漠」に生息するからである。
 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」などの5ヵ国の小国名に用いられる[]の字源・字形・字義はすべて「フタコブラクダ」である。

◆「瀚海」は「ゴビ沙漠」を表示するとともに、「ゴビ沙漠」の南にある「毛烏素(ムウス)沙漠」をも連想するための仕掛けであった。つまり、瀚海の南の「長崎県壱岐・一大国の地宜」を[]の字源「ジャコウウシ」に見立てるようにして、卑弥呼は「長崎県壱岐(一大国)・壱岐より南の大海・玄界灘」を「瀚海の南にある毛烏素沙漠」に見立てることができるようにしたのである。
 下に「対馬国・瀚海・一大国・玄界灘の地図」を示した。
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 冬の玄界灘はジャコウウシが生息した凍原・ツンドラのごとく厳寒の地となる。
 ゆえに、卑弥呼は「一大国・玄界灘」を「瀚海・ゴビ沙漠より南にある毛烏素沙漠と黄帝の居住地の近くのツンドラ(凍原)」に見立てた。つまり、卑弥呼は「禾(小麦)を収穫する秋が終わると、黄帝の居住地北方の毛烏素沙漠がある地平線から百頭以上のジャコウウシが犇(ひし)めいて一団となる、その幾組の群れが黄帝の居住地近くの凍原にある餌場(えさば)へ目指して出現した壮大な光景」が連想できるようにするため――対馬国と一大国の中間の海を「瀚海」と命名して【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】をもあらわすことにしたのである。
 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していた。しかし、紀元前3000年頃になると、多くの地方で絶滅したとされる。紀元前3000年頃の黄帝時代、黄帝が居住したと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵周辺地域から北方の毛烏素沙漠は冬になるとツンドラと化してジャコウウシの生息地となり、黄帝陵の近くの凍原は摂食地(せっしょくち/餌場)となってジャコウウシの大群で占拠された。だから、上記したように黄帝軍の兵士たちはジャコウウシの群れが円陣を組む習性から学ぶものであったゆえ、司馬遷著『史記』五帝本紀には「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と記述されることになった。
 「ジャコウウシ」は[][][][][][][][][][][][][][]などの[]の部首を有する文字の字源となり、また「円陣を組んで衛る習性」から「防衛」の[]の字源となり、あるいは「祭祀(さいし)に用いる完全(最も理想的)な犠牲」とされたうえに黄帝時代以後には黄帝陵近くの凍原ではジャコウウシが去って絶滅することになったゆえ、「ジャコウウシ」は「たたり」を意味する[(すい)]または[(じゅつ)]の字源・字形・字義となった。

 下の図に示すように、「長崎県壱岐の地宜」は[]字形に類似するということで、卑弥呼は「十字の銀河の子宮」に見立てた。
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 2世紀初頭に成立した“字書の聖典”と呼んで古代の人々が尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。このように、『説文解字』は、下に示した[]の字源解説図における「十字の銀河の子宮」を「一大に従ふ」と解説した。
 これゆえ、卑弥呼は「壱岐の地宜」を「十字の銀河の子宮」に類似すると見立て、『説文解字』の[]の字源解説の「一大に従ふ」と同じく、「十字の銀河の子宮」を「一大」と解して「長崎県壱岐」の小国名を「一大国」と定めたことになる。
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 下に示す「一大国・壱岐の地図の形」は「時計回りに90度転回する一大国・壱岐の地宜」である。ゆえに、「一大国の一部分の地宜」は「フタコブラクダの顔やコブの形」に相似し、「一大国の大半の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似すると解釈できる。
 前述したように、「子どもを真ん中に隠して円陣を組むジャコウウシの群れの習性」は「胎児が宿る子宮を包囲する骨盤。あるいは女性の生殖器の大半を包囲する骨盤」に見立てられて[壱]の字源・字義となった。だから、「一大国」の旧国名は「壱岐」というように[壱]の字が付く。
 上の「転回方位」にもとづく「一大国・壱岐の地宜」は「春になると、黄帝の居住地近くの餌場(えさば)となった凍原に集結した幾組から成るジャコウウシの大群がしだいに北方の毛烏素沙漠、さらに北の瀚海へ向かって去ってゆく光景」に見立てられたことになる。
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 下に、「現在方位にもとづく一大国・壱岐の地宜」を示した。
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 この「現在方位にもとづく一大国・壱岐におけるジャコウウシの姿に似る地宜におけるウシの顔」は南の玄界灘や伊都国のほうへ向く。ゆえに、「一大国におけるジャコウウシの姿に似る地宜」は「南の玄界灘や伊都国に向かって前進するジャコウウシの大群」に見立てられることになる。したがって、「冬になると季節風で海・玄界灘が荒れて厳寒となる九州海岸線地域の末盧国・伊都国・奴国・不弥国」を、卑弥呼は「乾燥した寒風で荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突き進んで到着する、風で雪が吹きとばされた地表が露出した餌場(摂食地)がある地域一帯」に見立てたことになる。
 ゆえに、『魏志倭人伝』には「一大率(いちだいそつ)を伊都国に配置した」という記事がある。「一大率」の「一大」は「一大国(壱岐)」と[]の字源「骨盤・子宮・産道などの、女性の生殖器」をあらわす。白川静著『字統』は[]の字形を「糸をしぼる形。糸束の上下に小さな横木を通し、これを拗()じて水をしぼる形で、麻糸などを作るときの作業であろう」と解説する。したがって、「一大率」の[]は「水にぬれる糸束を捩じってすっかり水をしぼったがごとく、雨が降らない日々が長らく続く乾燥した寒風吹きすさぶジャコウウシの大群で占拠された摂食地がひろがる地域一帯の状況」をあらわしていることになる。このような[]の字義をあらわすために、「昼間は水気が無い乾燥した状況にして、夜になるとツンドラ(凍原)のごとく一気に冷え込んで厳寒となる瀚海(ゴビ沙漠)」が必要となった。だから、卑弥呼は長崎県対馬と同県壱岐の中間の海を「瀚海」と命名したのである。

◆九州説と畿内説は「『魏志倭人伝』は女王国の名称を、邪馬台国と記している」と主張する。しかし、この意見はウソで、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記している。
 前述したように、【1】黄帝・倉頡が生存した五帝時代初頭(紀元前3000年頃)において中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」は、下の図に示したように「邪馬壱」という語であらわされることになった。というのも、下の図に示したように、五帝時代初頭の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は〈緯度線と経度線に対して「邪(なな)め」〉であり、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となり、「十字の銀河の子宮」は[]の字源・字形・字義となったゆえ、「邪馬壱」という語であらわすことができたからである。
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 また、【2】倉頡が漢字を発明する目的と動機は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究】をあらわすことができる文字を考案することであった。これゆえ、【黄帝の医学研究における核心】は「重ね合わせることができる機能を有しているゆえに縦長の出産児の頭蓋骨が母体の横長の骨盤入口をくぐりぬけると頭を回旋(かいせん)しながら産道を通過する、まるでこの世に命(いのち)が湧き出るがごとく誕生する、〈涙が思わずでるほど心ゆさぶられて感動的な神秘的なハイライトシーン〉」であった。この「出産児の頭蓋骨の機能」は、産婦人科では「広形機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と称する。この「出産児の頭蓋骨の骨重積によるハイライトシーン」も「邪馬壱」という語をあらわした。
 つまり、下図における「出産児の頭蓋骨における、小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の形」は、左側に示すように「邪馬」をあらわす。
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 上図における「出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけ、次に子宮口(しきゅうこう)がすっかり開いて出産児がせまい産道を通過する時の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門・後頭骨・頭頂骨・前頭骨の各部分が重ね合わさって動く形状」は、下の図に示した「草をモグモグと食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部分が邪(なな)めとなる形状」にソックリとなる。だから、「出産する時の赤ん坊の頭蓋骨の形状」は「邪馬」となり、「骨盤・産道」は[]の字源であったゆえ、卑弥呼は「邪馬壱」という語であらわすことにした。
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 また【3】後期縄文時代初頭、中国から渡来した益氏が日本列島の男鹿半島・米代川文化圏に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた歴史も「邪馬壱」という語であらわすことができた。というのも、下の図に示すように、「東北地方の北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜」は[]の字源「フタコブラクダの顔や首、前のコブ、後ろのコブの形」に相似するからである。
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 下の〔東北地方北端の「邪馬壱」の地宜解説図〕に示すように、「下北半島の西端の地宜」は上図に示した〔「邪馬」のフタコブラクダの鼻・アゴ・口の図〕に相当する「フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの箇所」となるゆえ「邪馬」となる。そして「下北半島と津軽半島で包囲される陸奥湾」は[]の字源「女性の骨盤の正面形」に相似する。
 だから、【わが国が、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得した歴史】を、卑弥呼は「邪馬壱」をあらわすことにした。したがって卑弥呼は、倭人国の首都が所在する女王国の名称を「邪馬壱国」と定めたことになる。
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 そして、【4】下の「対馬国・一大国の地図」が示すように、「上県の地宜が馬・フタコブラクダの姿に相似し、下県の地宜がフタコブラクダの足跡に相似する長崎県対馬の地宜」は「緯度線・経度線に邪(なな)め」となるゆえ、「邪馬」となる。そして、前述したように「長崎県壱岐の地宜」は[]の字源「十字の銀河の子宮・女性の子宮」に見立てられた。また「長崎県壱岐の地宜」は[]の字源「女性の骨盤」をあらわす聖獣「ジャコウウシの姿」と[]の字源「産道をくぐりぬける出産児の頭蓋骨の形状」をあらわす聖獣「フタコブラクダの姿」に相似する。だから、「対馬国・一大国」もまた倭人国の首都が所在した女王国の名称「邪馬壱」をあらわした。
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 わが国には【倉頡が発明した漢字作成理論「鳥獣の足跡」】を象徴する聖獣「ジャコウウシとフタコブラクダ」は生息していなかった。ゆえに、倭人たちにとって「ジャコウウシとフタコブラクダ」は小国名に用いても馴染めない獣であった。しかし、卑弥呼にとって「【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の研究と倉頡が発明した漢字作成理論の学問】を政権基盤にして倭人国を統治する」と表明するために、「ジャコウウシとフタコブラクダ」が必要となった。だから、上の地図が示すように、対馬国と一大国の中間の海を卑弥呼は「瀚海(ゴビ沙漠)」と名づけて、「対馬国と一大国の地宜はジャコウウシとフタコブラクダの姿に相似すると見立てることができる」と解釈できるようにしたのである。

◆『魏志倭人伝』において、倭人国における最初の地名は「対馬国」、次の二番目が「瀚海」、三番目が「一大国」である。この最初・二番目・三番目の地名は倭人国の首都が所在する女王国の名称「邪馬壱」をあらわす機能を有した。ゆえに、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして倭人国の天下を治めた」と説明する歴史書にして学問書であった。
 したがって、九州説と畿内説の「女王国は邪馬台国であった。だから、『魏志倭人伝』は邪馬台国を説明する文献史料である」という意見は真っ赤なウソ・捏造(ねつぞう)であった。九州説と畿内説の主張に反して、『魏志倭人伝』は女王国の名称を「邪馬壱国」と記し、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕を伝える書物であったのである。
 以上のごとく、九州説と畿内説は【科学】が成立して具体的に解明できた〔漢字の起源の歴史〕を抹殺・排除して闇に葬った完全なる空理空論・デタタメ・詐偽(さぎ)であった。
 九州説や畿内説の学者たちのごとく【文献批判という作為】を1ヵ所も加えずに、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すれば〔漢字の起源史〕が手に取るように明らかにすることができたのである。

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2021年4月30日 (金)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・15

▼漢字は中国にて起源した。でも、漢字の起源の秘密は中国では解明できない。ところが、漢字の起源の秘密は『魏志倭人伝』に【文献批判という作為(さくい)】を1ヵ所も加えずに全記事をただひたすら・いちずに忠実に読解すれば、わが日本で学問的に解明することができる。
 つまり、2世紀末~3世紀半ばのわが国の事情を伝える書物として有名な『魏志倭人伝』に(1)多数の【文献批判という作為】を加えて(2)「邪馬台国」の所在地を解明するための史料であったと主張する九州説と畿内説は「誤読の空理空論であった」と全面的に否定すれば――漢字の起源の秘密は、わが日本で学問的に具体的に解明することができる。
 江戸中期に生存した新井白石(1657-1725年)以来約300年間、学者たちは『魏志倭人伝』を「邪馬台国研究史料」としてあつかってきた。しかし、『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究」とはまったく無関係の、〔漢字の起源の秘密〕について説明する書物であったのである。
 その証拠に、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国名」を「邪馬壱(やまい)国」と書き記す。ゆえに、『魏志倭人伝』には九州説と畿内説の学者たちが「記述してある」と主張する「邪馬台国」と記す記事は1ヵ所も存在しない。
 だから、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に記述されていない事柄を「書いてある」と捏造(ねつぞう)した空理空論であったのである。
 『魏志倭人伝』は著者の陳寿(ちんじゅ)が書き記した文字は1983字、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が加えた注の文字は56字である。ゆえに、『魏志倭人伝』は合計2039字で構成される。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』は、【1】約1100字・約54パーセントの記事で「わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)において夏音(かおん)文字の学芸を習得したとき、紀元前3000年頃の中国の五帝時代の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と説明している。また【2】約300字・約15パーセントの記事で「倭人国の風習や動物・植物の生息状況」を伝え、【3】末部の「景初二年六月倭の女王」以下の約640字・約31パーセントの記事で「小国・日本国(倭人国の隣国)の誕生史」について説明している。
 だから、『魏志倭人伝』は現在まったく不明となった【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える貴重な書物であった。
 要するに、『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕が科学的に具体的に解明・証明できる貴重・重大な書物であったのである。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・24

◆漢字は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官の倉頡(そうきつ)が【漢字作成理論】を発明して起源した。
 この〔倉頡が発明して起源した漢字の歴史〕は、現在、学問的に解明されていない。しかし、前述したように『魏志倭人伝』の全記事をひたすら・いちずに忠実に読解すると学問的に解明し証明することができた。
 だから、上記したように、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に記述された〔漢字の起源の秘密〕、言いかえると【倉頡が発明した漢字作成理論】を【文献批判という作為】を駆使(くし)して無視・排除して闇に葬った誤読の空理空論であったのである。
 九州説と畿内説は『魏志倭人伝』に自説の不都合な記事に多数の【文献批判】を加えて自説の正当性を誇示する。ゆえに、《多数の【文献批判】を加える作為》が原因で、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』の記事と1ヵ所も合致しない空理空論・デタラメとなった。
 『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判】を加えず、『魏志倭人伝』の全記事をただひたすら忠実に読解すると、「倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王政の政権基盤とした事実」が明白となる。
 『魏志倭人伝』には34字で【1】「倭国の易卜(うらない)に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり紀元前1300年頃の殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん/甲骨文字)のような文字があった」と伝える――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)には甲骨文字のごとき漢字があったと記述する記事がある。また、『魏志倭人伝』には67字で【2】「卑弥呼が文書の用いる漢字(甲骨文字のごとき原初漢字)は魏の都・帯方郡(魏の出張政庁が所在するソウル市付近の地域)・諸韓国が文書に用いる漢字(楷書)と差錯(ささく/相違)していた。このため、倭国の小国・伊都(いと)国の津(港)では、魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる原初漢字を一字一字点検し確認して正確に変換していた」と伝える、わが国には卑弥呼時代に原初漢字があったと説明する記事がある。
 上記の二つの記事は、九州説と畿内説には不都合であるため、両説は徹底的に無視し排除する。また、上記の二つの記事は学界が断定した定説に反する記事であるゆえ、九州説と畿内説は最初(はな)から信用せず徹底的に無視し排除する。
 しかし、上記した『魏志倭人伝』に「卑弥呼時代には原初漢字が存在した」という記事の無視・排除が原因で、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の【誤読の空理空論】となった。
 上記したように、学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、あるいは6世紀である」と断定する。しかし、この学界の定説は、現在、学問的に空理空論となる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目において、「わが国の漢字音」と題して、次のごとく指摘しているからである。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 中国において現存する最古の漢字音は、西洋の言語学・音韻史研究によって、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」と解明された。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」と学界が主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音(紀元前1046年の周代初頭)よりも新しい(1500年も新しい)。だから、「わが国が漢字を最初に習得したのは5世紀または6世紀である」という定説は、白川静著『字統』が指摘する学問成果(音韻史研究)に反する、虚偽説・空理空論ということになる。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する字音は、【わが国が後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音】であった。
 この【夏音文字の字音】は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は学問的に正当性が確保できない【科学】に反する空理空論であった。
 したがって、『魏志倭人伝』に「倭国には原初漢字があった」と記述された二つの記事は「わが国は後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史」を伝えていたことになる。だから、この二つの記事を無視し排除した九州説と畿内説は空理空論であったのである。

◆中国でもわが国でも「文字」を「漢字」と呼ぶ。というのも、「銀河」の別称は「銀漢」であるゆえ「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と称されることになったからである。
 【卑弥呼が用いた夏音文字】と【魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書】は共に【同一銀漢から作られた文字】であった。ゆえに、倭国の伊都国の港では【字源・字形の原形・原義となった銀漢各部の形状】を観察して、夏音文字と楷書を正確に変換していたのである。
 上記したように、中国に現存する最古の字音は紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。したがって、学界が「漢字の最も古い祖型と定める、周代初頭より約250年前となる殷代後半に用いられた甲骨文字(契文)の字音」は現存しない。しかし、甲骨文字が出現した時よりも約750年も古い後期縄文時代初頭にわが国が習得した「夏音文字」の字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に多数残って現存する。
 漢字は《字源・字形・字義・字音の四要素》から成立する。夏音文字は『魏志倭人伝』によって「楷書と同じく銀漢各部の形状を字源・字形・字義とする漢字であった」と学問的に証明でき、字音は『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』に残っている。ゆえに、夏音文字は《字源・字形・字義・字音の四要素》が備(そな)わる。
 他方、紀元前1300年頃から出現した甲骨文字は《字源・字形・字義の三要素》が備わっているものの、《字音》が不明となる。
 だから、《字音》が不明となる不完全な甲骨文字を学界は「漢字の最も古い祖型」と定めたならば、『魏志倭人伝』の記事によって《字源・字形・字義・字音の四要素》がそろう、完全なる夏音文字こそ「漢字の最も古い祖型である」と定めなければならないことになる。
 以上のごとく、【文献批判】を1ヵ所も加えずにただひたすら・いちずに『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を国家と王政の政権基盤とした」と証明できたゆえ、おのずと〔漢字の起源の秘密〕を解明することができた。

◆上記したように、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【文献批判とう作為】を加えずに全記事をひたすら忠実に読解すれば「後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史」を解明することができた。
 「夏音文字」の[]は、天文学で通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が所在する銀河の範囲」いいかえると「夏に最も長時間観察できる銀河の範囲」をあらわしている。
 倉頡は、今日、天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論を発明した。
 ゆえに、通称「夏の銀河」を、私は「文字作成銀河」を名づけることにした。
 倉頡が漢字作成理論を発明した「文字作成銀河」の写真を、下に示した。
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 天文学はじめ諸々の学術分野においても、《漢字の字源・字形の原形・原義》を解明できる〔文字作成銀河の各部の名称〕を定めていない。ゆえに、《字源となった銀河=字形の原形となった銀河=原義となった銀河》の解説と証明をする際に非常に不便となるゆえ、私は下図のごとく「文字作成銀河の各部の名称」を定めた。
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 「文字作成銀河の各部の名称」が存在しなかった事情には、〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕が密接に関わっている。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れることができる王政をささえる最強・最大・最良の権力基盤であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝は容易に崩壊・滅亡するにちがいないと心配して、下に示す〔三つの死刑と定めた掟〕を定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
1】「文字は銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた」という秘密を暴露した者はその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする
2】多くの文字を容易に覚えるため、銀漢(夏の銀河)各部に名称をつけた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする
3】書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた神罰を下して死刑にする

 五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代の原初漢字の夏音文字・殷代前半の原初漢字は上記した〔倉頡が死刑と定めた三つの掟〕を厳重にまもった。したがって、上記した【3】の掟を厳重にももったゆえ、五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字を書いた資料はいまだ一点も発見・出土しないことになった。
 〔注 実は原初漢字を書いた資料はすでに発見されている。しかし、学者たちはその資料が文字作成銀河(夏の銀河)の部分の形状を図案する漢字であることに気づかない。ゆえに、原初漢字を書いた資料は一点も存在しないことになっている〕。
 紀元前1300年に出現した殷代後半の甲骨文字においては多数の文字数となったため、いちいち【3】の掟をまもるのが非常に面倒(めんどう)となって守らなくても死刑はじめ刑罰を与えなくても良いことになった。ゆえに、甲骨文字では【3】の掟は破られたため、甲骨文字を書いた資料が多数出土することになった。しかし、甲骨文字は【1】と【2】の掟は厳重にまもった。ゆえに、現在の学者たちは【1】「漢字は夏の銀河の各部の形状から作られた秘密」にまったく気づかず、学者たちは誰ひとりも「夏の銀河の各部は夏のどの星座よりも明確な形を有するにもかかわらず、なにゆえ名称が存在しないのか?」と疑問を抱かなかい。
 このため、学者たちは『魏志倭人伝』が〔漢字の起源の秘密〕を具体的に説明する、貴重かつ重大な書物であることに気づかなかった。

◆前回(14)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて詳細に解説して証明したように、『魏志倭人伝』の後半に――わが国は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、【夏音文字の学芸】を習得するときに【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した――と伝えていた記事が存在する。
 この記事は76字で構成され、次のごとく「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(周旋)五千余里可(ばか)り」と伝えている。
 つまり、上記の記事は「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭、“夏の始祖”の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と若者たち一行が中国から渡来し、わが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)文化圏に定住して東北地方から関東地方まで【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた」と伝えていた。
 日本列島の東北地方に定住した益氏は、五帝時代最後の舜(しゅん)帝の時代に[()]という重職を任命されて代々約200年間、正確な中国の海岸線地図の作製に従事し、精密地図作製方法を開発した。この名門・益氏の定住によって、後期縄文時代初頭に正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法をも習得されることになった。
 その証拠に、本州北端となる下北半島・陸奥湾・夏泊(なつどまり)半島・津軽半島の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は、『魏志倭人伝』が「邪馬壱国に至る、女王の都する所なり」と記述する、この「邪馬壱」の3字の字源・字形・字義を現在に伝える。
 『魏志倭人伝』には「倭地には牛と馬は無い(生息しない)」という記事があり、[]の字源は「ジャコウウシ」、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 下に、本州北端の地宜を配した。
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 上図の「本州北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜」は[]の字源は「フタコブラクダ」であることを明確に示す。というのも、「下北半島の地宜」は「フタコブラクダの頭部と首の形」に相似し、「夏泊半島と津軽半島の地宜」は「ラクダのフタコブの形」に相似するからである。
 『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海は瀚海(かんかい)であった」と伝える。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の4回で証明したように、卑弥呼は「対馬国の北部・上県(かみあがた)の地宜」は「フタコブラクダの正面の姿」に相似し、「対馬の南部・下県(しもあがた)の地宜」は「フタコブラクダの足跡の形」に相似すると見立てて、[]の字源「フタコブラクダの正面の姿と足跡の形が一対(いっつい)となる」ゆえ、「長崎県の対馬」の小国名を「対馬国」と定めた。だから、「対馬」の[]の字源は「フタコブラクダ」であると明確に示すために、卑弥呼は対馬国より南の海を「馬・フタコブラクダが生息する瀚海(ゴビ沙漠)」と名づけた。[]の字源「フタコブラクダ」は「沙漠の船」と呼ばれ、ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない大切な家畜である。「フタコブラクダ」は「船」と呼ばれていたゆえ、「ゴビ沙漠」は「瀚海」いう名の海であった。上図における本州北端の地宜における陸奥湾中央に突き出る半島は「日中、夏の強烈な陽射しが刺す瀚海の港()に停泊する船・フタコブラクダ」を省略して「夏泊半島」と名づけられたにちがいない。だから、上図における北緯4039分の緯度線上にならぶ八甲田山と岩木山の冬の山頂は、夜になると厳しく寒くなる瀚海の気候と同じとなる。ゆえに、「八甲田山と岩木山」は「馬・フタコブラクダが往来していた瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられたことになる。
 卑弥呼は「本州北端の地宜」が[]の字源「フタコブラクダ」を明確に示し、「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味することを知っていた。ゆえに、卑弥呼は「【倉頡が発明した漢字作成原理】を政権基盤と定めて倭人国を統治する」と表明するがため、「対馬国と一大国(長崎県の壱岐)の中間の海」の名を「瀚海」と名づけたのである。
 東の下北半島と西の津軽半島に包囲される陸奥湾は、下に配する「女性の骨盤の正面の形」 に相似する。「女性の骨盤」は[]の字源となった――これについては、わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」で幾度となく繰り返して解説した。
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 だから、「下北半島の西端」は「邪馬」の語源となり、「陸奥湾」の[]が加わる「本州北端の【邪馬壱】の地宜」は倭女王・卑弥呼が居住した王国名「邪馬壱(やまい)国」の由来をあらわすことになった。
 『魏志倭人伝』が伝えているように、卑弥呼は後期縄文時代初頭に益氏が男鹿半島・米代川文化圏に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた歴史を知っていた。だから、この歴史にもとづいて、卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国名を「邪馬壱国」と定めたのである。

◆現在、日本古代史学では、後期縄文時代初頭はじめ2世紀末~3世紀半ばの卑弥呼時代、精密地図作製方法は開発されていないと考えられている。しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される多数の夏音文字の字源や字形や字義を解明すると、わが国は後期縄文時代初頭に益氏が【精密地宜(地図)作製方法】を教えひろめたため、この【精密地宜(地図)作製方法】を用いて古代に作られた地宜(地図や地上絵)や庭園平面図(地宜)がわが国には多数存在することが解明・証明される。
 その証拠に、益氏が【精密地宜(地図)作製方法】を教えひろめたゆえ――《「東北地方の北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜(地図の形)」は[]の「フタコブラクダの姿」に相似し、「陸奥湾の地宜」は[]の字源「女性の骨盤の正面の形」に相似する事実》を後期縄文時代には厳重な機密の基(もと)にすでに学問的に知得されていたことになる。だから、たとえ学者たちが否定しても、わが国には後期縄文時代初頭から【精密地宜(地図)作製方法】が存在したことが事実となる。というのも、上記したように『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された多数の夏音文字の字源・字形・字義の秘密を解明すればおのずと「後期縄文時代には、すでにわが国には【精密地宜(地図)作製方法】が存在していた」という事実が【科学】が成立して学問的に証明された。にもかかわらず、学者たちは夏音文字の研究をなんら着手せずに、単に強引に「後期縄文時代に、すでに【精密地宜(地図)作製方法】が存在してなんていう事実はあるはずがない」と主張しているにすぎないからである。
 現在の学者たちと異なり、夏音文字の学芸に精通した卑弥呼は益氏が伝えた【精密地宜(地図)作製方法】によって、「東北地方の北端の地宜」は「邪馬壱」と表示することができることを知っていた。だから、《東北地方における【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】の伝来・習得の歴史》にもとづいて倭人国を統治する卑弥呼は、倭人国の都となる王国の名を「邪馬壱国」と定めることにしたのである。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の11回で詳細に解説したように――「邪馬壱国」の「邪馬」は「せまい産道を通り抜ける時における、出産児の頭蓋骨の〔小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)と後頭骨・頭頂骨・前頭骨が重ね合わせることができる仕組み(機能)」をあらわす語であった。
 下に、「邪馬」の語源となった「産道を通過する時の、出産児の頭蓋骨図」を配した。
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 上図に示した「産道をくぐり抜ける時の、出産児の頭蓋骨の形状」は「モグモグと草を食べる時の馬・フタコブラクダの顔における、後頭骨にある小泉門の形に相似する鼻・矢状縫合がある頭頂骨に相当する上アゴ・大泉門に相当する口・下アゴに相当する前頭骨の動きの形状」にソックリとなる。
 つまり、出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門・後頭骨・頭頂骨・前頭骨は重ね合わせることができるゆえ、せまい産道をくぐりぬける赤ん坊の命はこの世に湧き出るように神秘的に誕生する。この赤ん坊の命の誕生のドラマは、上図に示した「出産するときの赤ん坊の頭蓋骨の形状」は「草を食べる時の、ラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの部分がそれぞれ邪(なな)めとなって動く形状」にソックリとなる。
 下に「邪馬」の語源「馬(フタコブラクダ)の鼻・上アゴ・口・下アゴの形」を図示した。
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 ゆえに、「出産児の頭蓋骨の仕組みの形状」と「草をモグモグと食べる時の馬(フタコブラクダ)の鼻・上アゴ・口・下アゴの各部が邪(なな)めとなる形状」、この両者の形状を卑弥呼は「邪馬」と表現し、[]の字源「女性の骨盤」を加えて「邪馬壱」とあらわして――「倭人国の首都が所在する国家・王朝の中心地域」を「邪馬壱国」と名づけたのである。

◆紀元前3000年頃の五帝時代初頭に生存した黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝が作った医学書『内径』における研究テーマは「ヒトの命の研究」つまり「女性の生殖器と子どもの出産」であった。
 黄帝以前の三皇時代には「女性の生殖器と子どもの出産」は研究されていなかった。また、黄帝の医学研究を説明することができる文字も発明されていなかった。これゆえ、黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡の役目は黄帝の医学研究を説明することができる文字を発明することになった。
 だから、倉頡が【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】を説明することができる文字を発明した。
 【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】における「ヒトの命の研究」における核心にしてハイライトシーン(涙が出るほど心ゆさぶられて感動的な最も神秘的で輝かしい場面)は――卑弥呼が「邪馬壱」と表現した「母体の子宮口(しきゅうこう)が全開大(ぜんかいだい/すっかり開くこと)して、出産児がせまい産道をくぐりぬけて命が湧き出るがごとく神秘的に誕生する場面」であった。
 〔注 このハイライトシーンは出産児の父親が分娩室の入室を許可されるならば、わが子の感動的な出産の様子を目撃することができる〕。
 ゆえに、上記したように、倉頡が漢字を発明した目的・動機・核心をあらわすと「はじめに邪馬壱ありき」ということになった。だから、卑弥呼は「倭人国の首都が所在する王国名」を「邪馬壱」と定めることにしたのである。

◆出産児における「邪馬壱」は「横長(よこなが)の楕円形の母体の骨盤入口」を「縦長(たてなが)の出産児の頭蓋骨がくぐりぬける状況」から始まる。
 下に、「横長の楕円形の性(母体)の骨盤の入口の図」を配した。
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 「邪馬壱」の語源となった「母体の子宮口が開く出産第一期・開口期(かいこうき)から産児の頭が誕生する出産第二期・娩出期(べんしゅつき)終わりまでの児頭の回旋(かいせん)の様子」について――インターネット・ブログで出力した医療法人翔光会の産婦人科にしじまクリニック(埼玉県富士見市)は「赤ちゃんの進み方、回旋を知る」と題して、下記のごとく説明している。この説明を要約し、この要約に〔出産第一期・開口期と出産第ニ期・娩出期〕という注を加えると、次のようになる。
 ――骨盤の入口は横長の楕円形に対して、からだの中でいちばん大きな赤ちゃんの頭(児頭)の形は縦長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐり抜けるためには、骨盤入口では児頭は横向きで入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)赤ちゃんはアゴを胸につけた姿勢となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これを、「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を、「第2回旋」という。ちなみに、第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は90度であり、第1回旋と逆向きの反時計回り(逆時計回り)である。第1回旋から第2回旋の時の子宮口は大体7センチである。第2回旋が終了した時点で後頭部(小泉門)は恥骨側・12時方向の位置となり児頭の正面・縦向きが整う。この時、子宮口はすでにすっかり開く全開大(10センチ)となり、出産第一期・開口期の終わりとなり、いよいよお産となる。
 第3回旋は反時計回り(逆時計回り)になって児を娩出(べんしゅつ)するもので、この場合児は反屈して恥骨をくぐり抜けるように児頭が産道()から娩出する。
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめて声をあげる。この児頭の誕生が出産第二期・娩出期の終りとなる。

 卑弥呼が「邪馬」と表現した「出産児の頭蓋骨における、骨どうしの間が〔結合組織性の膜〕となって重ねあわせることができる仕組み」を、産婦人科では「広形機能(こうけいきのう)」または「骨重積(こつじゅうせき)」と称する。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河の形状を知ることができる。
 下の図に示すように、五帝時代初頭、わたくしが「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河の形状部が中国各地の天頂にめぐってきた。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、前掲した〔文字作成銀河各部の名称図〕における左上にある〕。
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 下に、五帝時代初頭の黄帝時代における黄帝陵・北緯3536分の天頂緯度線と「邪馬壱」の銀河(「小泉門・矢状縫合・大泉門」の形となる銀河部)を表示した。
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 下に、北緯3536分に位置する黄帝陵の天頂緯度線と北緯31度の中国南部の太湖南岸も天頂緯度線を縦に並べる、五帝時代初頭に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図を配した。
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 上図が示すように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は「緯度線」に対して邪(なな)めとなる。ゆえに、倉頡が漢字を発明した黄帝時代において中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」もまた、「邪馬壱」という語であらわすことができた。
 というのも、「緯度線に対して邪(なな)め」の「十字の銀河」は[]「フタコブラクダ」の字源・字形・字義となり、「十字の銀河の子宮」は[]の字源・字形・字義となったからである。さらに、「十字の銀河の子宮の周辺部」は[]の字源・字形・字義となる「子宮。あるいは骨盤はじめ女性の生殖器」をあらわした。
 だから、黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」は「邪めの[]の字源」となり、「十字の銀河の子宮」は[]の字源であるゆえ、「邪馬壱」という語をあらわした。
 これから「十字の銀河」が[]「フタコブラクダ」の字源・字形・字義となった秘密について解説する。
 下に示す「三つ輪の銀河」は「点々と黄色くきらめく無数の星たちが円を描きあるいは渦巻きを描いて重なりあう形状の銀河」であるため、「三つ輪の銀河」は「月の光で沙漠の砂が黄色く輝く瀚海・ゴビ沙漠」のイメージとなった。「三つ輪の銀河」に隣接する「十字の銀河」も「月の光できらめく沙漠の砂や瀚海・ゴビ沙漠」のイメージとなった。これゆえ、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられることになった。
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 したがって、下の図に示したように、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられたゆえ、「フタコブラクダの側身形に相似する十字の銀河」が[]の字源・字形・字義ということになった。
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 以上のごとく、黄帝時代の中国全土における各地の天頂にめぐってきた天頂緯度線に対しての邪めとなる「十字の銀河」もまた「邪馬壱」という語であらわすことができた。
 このように「漢字の起源史」もまた「はじめに邪馬壱ありき」と表現することができるゆえ、卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国の名称を「邪馬壱国」と名づけたのである。

◆前述したように、後期縄文時代初頭、名門の益氏の王子と若者たち一行は本州・日本列島における東北地方の男鹿半島・米代川文化圏に定住して、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東地方まで教えひろめた。
 【精密地宜(地図)作製方法】を伝授した名門・益氏が定住した「東北地方北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島の地宜と、そして陸奥湾の地宜」をあらわすと「邪馬壱」という語になった。下に「東北地方北端の地宜」つまり「邪馬壱」のイラストを配した。
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 上図のイラストのおける「下北半島の西端」は[]の字源「フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴ」に相当する。ゆえに「下北半島の西端」は、「草を食べる時のラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの各部が邪めとなる形状」、つまり「邪馬」ということになる。また、下北半島と津軽半島に包囲される「陸奥湾」は[]の字源「女性の骨盤の正面形」に相似する。
 ゆえに、「邪馬壱」という語は「東北地方北端の地宜」をあらわした。

 前述したように、倉頡が文字を作成する目的は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】を説明することができる文字を考案することであった。
 【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】における「ヒトの命の研究」における核心にしてハイライトシーン(涙が出るほど心ゆさぶられて感動的な最も神秘的で輝かしい場面)は――「母体の子宮口(しきゅうこう)が開いて、出産児がせまい産道をくぐりぬけて命が湧き出るがごとく誕生する場面」であった。
 このハイライトシーンもまた、「邪馬壱」とあらわすことができた。
 ゆえに、上記したように、倉頡が漢字を発明した目的・動機・核心をあらわすと「邪馬壱」ということになった。

 そして、上記したように、倉頡が生存した時代、中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」もまた「邪馬壱」という語で表現することができた。

◆これゆえ、【1】黄帝・倉頡時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」と、【2】倉頡が漢字を発明した目的・動機・核心(命が湧き出るように誕生する涙が出るほど感動的な、産道をくぐりぬける時の出産児の頭蓋骨の形状の様子)と、【3】わが国における【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸の習得史】の三者をあらわすと、共に「邪馬壱」という語であらわすことができた。
 だから、「邪馬壱」という語は【1】【2】【3】の三者を一挙に表示することができるゆえ、卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国の名称を「邪馬壱国」と定めたのである。
 したがって、「邪馬壱」という語が示すように、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡が発明した漢字作成理論】を王政の政権基盤として、倭人国を統治した」と説明していた歴史書にして学問書であったのである。
 古代史研究家の古田武彦氏は著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)にて、『三国志』全体に書き記された[()]86字、[()]56字を一字一字入念に調べ、[()]には[()]と誤記した例が存在しないと指摘した。
 「『三国志』魏書東夷伝末部にある倭人傳」を通称『魏志倭人伝』と呼ぶ。ゆえに、古田武彦氏が指摘したように、『魏志倭人伝』には「卑弥呼が居住した女王国」の名称を「邪馬壱国」と書き記し、九州説や畿内説が主張するように「邪馬台国」と誤記していない。
 このように、九州説と畿内説が主張するように『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を記述した文献史料」ではなかった。
 ゆえに、九州説と畿内説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論・暴論・デタラメであったことになる。
 また、多数の【文献批判という作為】を多数加えて立論する九州説と畿内説は、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を習得した後期縄文時代初頭から始まった四千年に及ぶわが国の学問史における最大・最悪の汚点であった。というのも、学問の鉄則・基本を厳守して、【主観的思考となる文献批判という作為】を徹底的に排除して、ただひたすら・いちずに『魏志倭人伝』を忠実に読解すれば【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸と正確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を解明し証明することができたからである。
 九州説・畿内説が駆使する【文献批判という作為】を1ヵ所も加えずに全記事を忠実に読解すれば――『魏志倭人伝』は〔漢字の起源の秘密〕が解明できる文献であったのである。

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2021年4月17日 (土)

邪馬台国説はサギ・騙されるな・11

▼学界はじめメディアは――“日本古代史最大の秘密”を伝える『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した邪馬台国を吉野ケ里遺跡がある九州、もしくは纏向(まきむく)遺跡がある畿内・大和に所在したと説明している」と主張する意見を――諸々の説にあって最も正しい意見であると信頼する。
 しかし、この九州説と畿内説の実体は【科学】がまったく成立しない完全なる空理空論・デタラメ・インチキであったのである。
 九州説と畿内説が空理空論であることは、前々回(9回)と前回(10回)のわがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」にて詳細に証明した。この11回における解説で不明な点については、9回と10回を参照していただきたい。
 『魏志倭人伝』は「倭女王が居住した王国・邪馬壱国は山陰・出雲、現在の島根県東部であった」と伝える。この邪馬壱国・出雲説ならば、『魏志倭人伝』の全記事と矛盾点も弱点も無く論理が完結し【科学】が成立して事実・真実となる。
 九州説と畿内説は――『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した首都であった王国の名は「邪馬台国」であったと断定するが、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記し、「邪馬壱国は山陰・出雲であった」と明確に説明している。
 また、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事をもって「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海・玄界灘を横断してわが国の東北地方の男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に定住して、原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸を東北地方から関東地方までの東日本一帯に広めた。この夏音文字の学芸を習得したときに、約1000年前の紀元前3000年頃の中国の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論をも習得した」と伝えている。
 だから、『魏志倭人伝』は【漢字の起源の歴史を伝える、倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える貴重な史料にして、しかも上記したように『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壱国」と記述するゆえ、九州説や畿内説が主張するような「邪馬台国」についての説明は『魏志倭人伝』には1字も書かれていない。


★「倭人国の地理学」のトリセツ・20

◆江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)は初め「邪馬台国は大和であった」と立論し、後に「邪馬台国は筑後山門郡であった」と考えた。ゆえに、畿内説は「大和」の「やま」は「邪馬台」の「邪馬(やま)」であると考えて、邪馬台国は大和にあったと主張する。九州説は「筑後山門郡」の「山門」の「山」は「邪馬台国」の「邪馬(やま)」に合致する、この合致を理由・根拠にして邪馬台国は九州に存在したと比定する。
 しかし、「邪馬」は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心】をあらわす、邪馬台国説学者たちが誰一人も思いつかなかった【ヒトの命(いのち)の神秘】つまり「せまい産道を通過する出産児するときの頭蓋骨の仕組み(機能)」をあらわす語であった。この「出産児の頭蓋骨の機能」は、今日の医学用語で「広形機能(こうけいきのう)」あるいは「骨重積(こつじゅうせき)」と呼ばれている。
 それというのも、倉頡が漢字を発明した目的は【黄帝が研究した「女性の生殖器と子どもの出産の研究」】をあらわすことができる文字を作成することであったからである。
 だから、【黄帝の《女性生殖器と子どもの出産の研究》の核心】は【倉頡が発明した漢字作成理論も核心】ということになり、この核心を卑弥呼は「邪馬壱」と表現した。これゆえ「邪馬壱」という語は「5枚の頭蓋骨を重ね合わせて、せまい産道を通り抜ける時の出産児の頭の機能と頭の4回の回旋(かいせん)」、今日の産婦人科の用語で「広形機能」または「骨重積」と呼称される【命が生まれるときの神秘的な事象】をあらわすことになったのである。
 だから、九州説と畿内説の実体は『魏志倭人伝』が最多文字数で伝える【中国で漢字が起源した歴史的事実、倉頡が発明した漢字作成理論】は葉茶目茶(はちゃめちゃ)にした空理空論・デタラメ・インチキ・詐偽(さぎ)であったのである。

◆九州説と畿内説は『魏志倭人伝』を「卑弥呼が居住した邪馬台国の所在地」を伝える史料であったと断定するが、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論体系】を伝える歴史書にして学問書であった。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた空理空論であった。
 というのも、『魏志倭人伝』は約55パーセント・約1100字の記事で「わが国は約4000年前に、中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に出現した原初漢字の夏音(かおん)を習得した。このとき、約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得した。この【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】を、卑弥呼は「邪馬壱」と名づけた。これゆえ、倭女王の卑弥呼が居住した王国は[][][]の字源をあらわす地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)がある現在の島根県東部、旧国出雲であった」と伝えていたからである。
 だから、『魏志倭人伝』には(1)「倭の易に用いる辞は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字の辞のごとく原初漢字があった」、また(2)「卑弥呼が文書に用いる漢字と魏の都と帯方郡・諸韓国が文書に用いる漢字は相違していた」と伝える二つの記事がある。このように「わが国は原初漢字の夏音文字を習得した」と明記する二つの記事が存在するにもかかわらず、九州説と畿内説をとなえる先生方は「わが国には原初漢字が存在した」という記事を徹底的に無視して、そんな記事が『魏志倭人伝』に存在することを厳重な機密にして口を「ぎゅー」かたく閉じて一言もしゃべらないことにしている。

◆上記したように、わが国が最初に習得した漢字は中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)の夏音(かおん)文字であった。その証拠に、「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は「夏音文字の字音」である。「卑弥呼」を、中国に現存する最古の漢字音の上古音で読むと「ピミカ」となる。音韻史研究にもとづくと「ヒミコ」という字音のほうが「ピミカ」よりも古いことになる。
 だから、わが国が漢字を最初に習得したのは後期縄文時代初頭であるゆえ、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は空理空論であった。
 「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は、空理空論であった――この事実を簡単明瞭に説明する科学的な意見が存在する。
 この意見は――わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士は著書『字統』(平凡社発行)9ページの終わり3行目~10ページの始めから3行目における、「わが国の漢字音」と題して解説している意見であり――この意見は、次のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 音韻史研究によって、中国において現存する最古の漢字音は、下に配した「漢字生長史」に示したように、紀元前1046年から始まる周代初頭の「上古音」である。
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 上の「漢字生長史」が明確に示すように、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する定説の漢字音は、中国において現存する最古の上古音よりも約1500年も新しい漢字音となる。したがって、「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は白川静著『字統』が「わが国の漢字音」にて指摘する音韻史研究成果に反する非科学的な意見、つまり空理空論であったことになる。
 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、わが国後期縄文時代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』などに多数残っている。
 だから、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は【科学】が成立しない空理空論であったのである。

◆「銀河」の別称は「銀漢」であり、「銀漢から作られた字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と呼んだ。
 倉頡は天文学において通称「夏の銀河」と呼ばれる「夏の星座が漬()かる巨大な銀河」から漢字を作る方法を発明した。「夏の銀河の各部の形状」から「文字」が作られたゆえ、わたくしは「夏の銀河」を「文字作成銀河」と呼ぶことにした。
 「文字作成銀河」の写真は、下に示した。
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 倉頡がつかえる黄帝は東洋最古の医学書『内径(ないけい)』を作ったと伝わる。黄帝は【女性の生殖器と子どもの出産】を研究した。このため、倉頡の漢字作成目的は【黄帝の「女性の生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわすことができる文字を発明することであった。したがって倉頡は、上に示した【文字作成銀河の各部の形状から、黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究】をあらわすことができる漢字を発明した。
 倉頡はみずからが発明した漢字の学芸は強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、この学芸知識を反体制側の人々が習得すると王朝が容易に崩壊・滅亡すると心配して、下に示す〔三つの「死刑」に処する掟〕を定めた
1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」という事実を暴露した者とその一族全員に神罰を下して即刻に死刑にする。
2】「多くの文字を容易に覚えるため、夏の銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員にも神罰を下して即刻に死刑にする。
3】「書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員もまた死刑にする。
 上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】における【2】の掟「文字を容易に覚えるため、文字作成銀河の各部に名称を付けた者とその一族全員もまた即座に死刑にする」によって、今日においても文字作成銀河の各部をあらわす名称は存在しない。文字作成銀河の各部の名称が存在しないと、〔字源となる銀河=字形となる銀河=字義となる銀河〕の解説・証明において非常に不便となるゆえ、私は下記のごとく銀河各部の名称を定めた。
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◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の2回で解説したように、「歳差(さいさ)」という天文現象を利用すると、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代初頭における中国全土の天頂にめぐってきた銀河を算出して再現することができる。
 【漢字作成理論】が発明された五帝時代初頭、下に示すように、私が「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた銀河が中国全土の天頂にめぐってきた。この「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、中国各地の人々が精確に緯度と方角を測定して、最も大事な命をまもることができる羅針盤となった。
 〔注 「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は、上に示した「文字作成銀河各部の名称図」における左上にある)
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 前述したように、倉頡が漢字を発明する目的は、黄帝がおこなった「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究をあらわすことができる文字を作成することであった。
 下の図に示すように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」の東側半分は「弓を手に持つ男性の姿」に観えるが――「十字の銀河」の西側半分には、「乳房」「妊婦の腹部(おなか)」「右足」に観える部分があり、また「子宮に相当する箇所」もある。ゆえに、「十字の銀河」は「女体・妊婦・乙女」などに見立てられた。
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 倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる母体」と定めた。また「十字の銀河の子宮」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全文字が生まれる子宮、あるいは女性の骨盤と生殖器」に見立てると定めた。
 だから、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となった。ゆえに、下の上図における[]の金文形は「十字の銀河」を「子宮に胎児が宿る妊婦の正面形」に図案した。
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 倉頡は「十字の銀河」を「黄帝が居住した地から遠くの地域に群れるジャコウウシを狩猟した男たちが帰還する、家族が待つ家」に見立てた。ゆえに、上の下図に示した[]の金文形における上部の[(べん)]は「家族が生活する家」をあらわし、その下部の[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」となった。というのも「鬼の姿に似る銀河」は「子の姿(胎児・出産児・新生児)」に相似すると見立てられたからである。
 これゆえ、「母親・妊婦」に見立てられた「十字の銀河」から図案された[]の下に、「鬼の姿に似る銀河」を字源・字形の原形・原義とした[]が加わって、[]の字源・字形・字義が成立することになった。
 上に示した「[][]の字源銀河解説図」は【黄帝の〔女性生殖器と子どもの出産〕の医学研究】と【倉頡が発明した漢字作成原理】をあらわすことになった。

◆『魏志倭人伝』は「倭地には牛と馬が無い(生息していない)」と記述する。
 []の字源は「ジャコウウシ」であった。[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 下の図に示したように、[]の「ジャコウウシ」は「第5週ごろの胎児の姿」に類似すると見立てられた。また、天敵のオオカミに襲われるとジャコウウシの群れは子どもを真ん中に隠し、円陣を組んで衛(まも)った。だから、「円陣の真ん中に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられ、「ジャコウウシの群れが組む円陣」は「女性の生殖器の大半を包囲して子宮に宿る胎児の命を衛る骨盤」に見立てられて、「ジャコウウシ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣と定められた。
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 ジャコウウシは有史以前には北半球の寒帯に生息していたが、紀元前3000年頃の黄帝時代になると、多くの地方で絶滅したとされる。黄帝時代、黄帝が居住地としたと推定される陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)周辺地域から北方の毛烏素(ムウス)沙漠は凍土・ツンドラ地帯と化していた。ゆえに、秋から冬になると百頭以上が一団となるジャコウウシの幾つかの群れが地平線かなたの毛烏素沙漠から南の黄帝の居住地近い餌場(えさば)を目指してあらわれた。その証拠に、司馬遷著『史記』五帝本紀には「師兵をもって営衛(えいえい)となす」という記事があり、この記事は「黄帝軍は駐屯(ちゅうとん)するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と意味した。黄帝軍は円陣を組むジャコウウシの習性から学んで円陣を組んで駐屯していたのである。
 『魏志倭人伝』に記載される「対馬国」「投馬国」「邪馬壱国」「斯馬国」「邪馬国」などの小国名に用いられる[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。わが国には、フタコブラクダは生息していなかったが、「フタコブラクダ」が字源・字形・字義となる[]の字がつく小国名が5ヵ国、しかも卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」である。だから、わが国には[]の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」とする倉頡が作った原初漢字・五帝時代の書契とそして夏代初頭の夏音文字が習得されて、その《字源・字形・字義》は〈文字作成銀河の各部の形状〉によって表示され、《字音》は〈『魏志倭人伝』・『隋書』倭国伝・『古事記』上巻・『万葉集』にて楷書を音記号〉に用いて多数残っている。
 ゴビ沙漠に住む人々にとって、フタコブラクダは「沙漠の船」となって欠くことができない大切な家畜である。フタコブラクダは位置も方位も判然としないゴビ沙漠を往来しても道に迷わない。ゆえに、天頂緯度線をキャッチして位置と方位を測定して日々暮らしていた黄帝時代の人々は《フタコブラクダを、精確に天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力を有する獣》と憧れて尊重した。これゆえ、フタコブラクダは【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 下の図に示すように、「フタコブラクダの両目は顔の両端にある」と同様に「第7週頃の胎児の両目も顔の両端に離れている」。また、「フタコブラクダの睫毛(まつげ)は長い」と同様に「子ども(乳児)のつぶらな目の睫毛も長い」。
 だから、「フタコブラクダ」は【倉頡が発明した漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
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◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 この記事が示すように、卑弥呼は「対馬国(現在の長崎県北部の朝鮮半島と九州本土の中間にある島)と一大国(現在の長崎県北部の壱岐島)の中間の海」を「瀚海」と名づけた。
 「瀚海」は、中国北部・モンゴルより南方にある[]の字源「フタコブラクダ」が棲む「ゴビ沙漠」を意味する。
 下に示すように、「黄色く輝く、三つ輪の銀河」は「月の光が照らして黄色く輝くゴビ沙漠」のイメージとなる。「三つ輪の銀河」に隣接する「黄色く輝く、十字の銀河」も「月の光にきらめく沙漠の沙(すな)」のイメージとなる。ゆえに、「十字の銀河」は「ゴビ沙漠に棲むフタコブラクダ」に見立てられた。
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 これゆえ、下の図に示すように、「三つ輪の銀河」は「沙漠」に見立てられ、「十字の銀河」は「フタコブラクダの側身形」に見立てられて[]の字源・字形・字義となり「フタコブラクダ」をあらわした。
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 下の図に示すように、卑弥呼は「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を「フタコブラクダの正面形」に類似すると見立てた。というのも、前にて図示した「胎児の顔の両目はフタコブラクダの両目と同じく顔の両端にある」。ゆえに、この点からして卑弥呼は「上県の地宜」を「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。
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 上の図に示す「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くのに都合(つごう)のよい、丈夫な足の指を有するフタコブラクダの足底や足跡の形」に相似すると見立てた。卑弥呼が「上県の地宜」が相似すると見立てた「フタコブラクダの顔」は〔東〕に向く。同様に[]の字源「十字の銀河におけるフタコブラクダの顔」も〔東〕に向く〔注 地宜においては「右・東(つまり、右側が東)」となり、天象・銀河図においては「つまり、左・東(左側が東)」となる〕。
 ゆえに、「上県の地宜は、下県がある西南へフタコブラクダが進む正面形」に見立てられ、「下県の地宜は、上県がある東北へ去ったフタコブラクダの足跡の形」に見立てられた。
 だから、「上県・下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足跡の形が一対となる」ゆえ、卑弥呼は「上県・下県」の小国名を「一対」の[][]が加わる「対馬」と定めた。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に証明したように、下に示すように、倉頡は「十字の銀河の中央に「イネ()、五穀」の図案を重ねる[()]の字を考案した。
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 上図の「十字の銀河の南側」に「南→西」と示したように、[]の字源・字形・字義は「時計回りに90度ずつ転回する方位規定、つまり北→東・東→南・南→西・西→北となる定理」をあらわし、「人民の胃袋を食料(五穀)で満たす、つまり五穀豊穣」という政治スローガンをあらわすことになった。この《[]の字源・字義・政治スローガン》を、[()][()]の字はそのまま受け継いだ。
 下に示した「一大国・壱岐の地宜」は「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における〔東〕を時計回りに90度転回して〔南〕となる定理する、[]の字源・字形・字義をあらわす方位規定」に則(のっと)る地図の形である。
 〔東〕が〔南〕と化()る転回方位規定に則る「一大国北端(上部)の地宜」を、卑弥呼は「毛烏素(ムウス)沙漠はるか遠くの瀚海の東西を往来するフタコブラクダの姿」に相似すると見立てた。ゆえに、「一大国の大半を占める、ジャコウウシの姿」は「春から夏にかけて、黄帝の居住地近くの餌場から次第に北方の毛烏素沙漠へ向かって去ってゆくジャコウウシの群れ」に見立てられたことになる。
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 下に、「現在の地図と同じ方位規定における一大国の地宜」を示した。この現在方位にもとづく「一大国の地宜」だと「ジャコウウシの顔は南に向いている」ゆえ、「南へと前進するジャコウウシの大群」に見立てることができる。
 したがって、この「一大国の地宜」は「穀物の収穫期の秋になると、フタコブラクダが棲む瀚海・ゴビ沙漠ある北方から南の毛烏素沙漠へと進み、凍土・ツンドラ地帯と化した毛烏素沙漠を縦断して到着した、黄帝が住む居住地からはるかに遠くの地平線上に出現したジャコウウシの大群」に見立てられたことになる。
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 これゆえ、卑弥呼は「冬になると季節風で海が荒れる玄界灘」を「乾燥した寒風が荒れ狂う吹雪の中をジャコウウシの大群が突きすすんで到着する、風で雪が吹きとばされた地表の露出した餌場・摂食地(せっしょくち)がある一帯地域」と見立てたことになる。

◆下に「対馬国・瀚海・一大国の地図」を示した。
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 上の地図が示すように、「対馬国の中心軸」は「経度線と緯度線に対して邪(なな)め」となるゆえ、[]の字義「ななめ」をあらわした。また、前述したように、卑弥呼は「対馬国の地宜」は[]の字源「フタコブラクダ」をあらわすと解釈した。
 したがって、「対馬国」は[][]2字をあらわすことになった。
 「一大国」は後に「壱岐」と呼ばれたゆえ、「一大国の地宜」は[]の字をあらわした。
 このように、卑弥呼は「対馬国と一大国の地宜」を「邪馬壱(やまい)」と解した。前述したように「邪馬壱」は【倉頡が発明した漢字作成理論の核心】をあらわした。
 だから、卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する山陰・出雲(現在の島根県東部)に居住することにした。
 先年に死去した古代史研究家の古田武彦氏は陳寿が著作した『三国志』全体に記載された[]()86個、[]()56個の文字を逐一調べ、[]()には[]()の誤記が1ヵ所も無いことを証明した。
 したがって、「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」、つまり通称「『魏志倭人伝』」は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬台国」と記せず、「邪馬壱(やまい)国」と記している。
 前述したように、黄帝と倉頡が生存した紀元前3000年頃の五帝時代時代初頭、「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が中国各地の天頂にめぐってきた。この様子を、前掲した「黄帝時代初頭に中国全土の天頂にめぐってきた銀河図」と異なり、緯度線を上下・縦にして下図にあらわした。
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 上図が示すように、[]「フタコブラクダ」の字源・字形・字義となった「十字の銀河」は「緯度線と経度線と邪(なな)め」であるゆえ[]の字義となる。「十字の銀河の子宮」は[]の字源・字形の原形・原義であった。だから、「邪馬壱」という語は黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」をあらわすことになった。前述したように、倉頡は「十字の銀河」を「文字作成銀河の各部の形状から作られた全漢字を生む母体」と定めた。ゆえに、「邪馬壱」という語は【黄帝の「女性生殖器と子どもの出産」の医学研究の核心、つまり産婦人科の医学用語である「広形機能」または「骨重積(こつじゅうせき)」と呼ばれる機能と4回の回旋】をあらわすことになったのである。
 このように、黄帝時代に中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河の形状」は【黄帝の医学研究の核心】をあらわし、この【黄帝の医学研究の核心】を卑弥呼は「邪馬壱」と名づけた。ゆえに「邪馬壱」は「体の中でいちばん大きい出産児の頭がせまい産道を通過するための、今日の産婦人科で〔広形機能〕または〔骨重積〕」と呼ばれている機能」をあらわした。そして、前述したように倭人国の玄関口となる「対馬国・一大国の地宜」も「邪馬壱」とあらわしたゆえ、卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する山陰・出雲に居住することにしたのである。
 『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)倭種なり」と、倭女王・卑弥呼が居住した王国「邪馬壱国」について説明する。
 前述したように、卑弥呼王朝が制定した[]の字源をあらわす本州・日本列島地図における転回方位規定にもとづくと、日本海がある〔北〕が〔東〕となるゆえ、山陰地方の日本海には山口県萩市見島と島根県の隠岐群島が所在するが――後者の隠岐群島が「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事に合致する。
 というのも、隠岐群島は島前(どうぜん/知夫里島・西ノ島・中ノ島)・島後(どうご)と約180の小島からなるため、この「多数の島々」は「皆」と呼ぶことになるからである。
 だから、「隠岐群島」は「山陰・出雲の東、海を渡ること千余里の位置に有る、皆倭種なり」と記述された小国となるゆえ、「旧国・出雲(現在の島根県東部)」こそが『魏志倭人伝』が「女王の都(みやこ)する所なり」と説明する「女王国・邪馬壱国」であったことになる。

◆下に、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島(本州)地理にて定理された転回方位にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の古代出雲の地宜を示した。
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 上図の右上に「[]の地宜」と記した「島根半島の北部(転回方位/現在方位の西部)の地宜」は、「馬・フタコブラクダの顔(頭部)と胸部」のごとくに観える。この「馬・フタコブラクダの左向きの顔に相似する地宜」は、前述した「邪馬」をあらわす「対馬国・上県北部(現在方位)の馬・右向きの顔の地宜」に相似する。ゆえに、前述したように、「対馬国・一大国」は「邪馬壱」をあらわし、卑弥呼が居住した王国も「邪馬壱」の地宜を有する「山陰・出雲」であったことになる。
 上の「古代出雲の地宜」における「[]の地宜」に隣接する西側(転回方位)には「神門水海(かんどのみずうみ)」がある。
 下の図に示す「神門水海」は「緯度線と経度線に邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に観える。だから、「神門水海」は[][]つまり「邪馬」をあらわした。
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 古代の宍道湖(しんじこ)は「膝(ひざ)から下の足の形」に相似し、その「足の爪先(つまさき)」は転回方位の〔西〕を指差した。したがって、「宍道湖の地宜」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に相当すると見立てられた。前述したように、[]の字源・字形・字義となった「十字の銀河の子宮」は「女体の姿に相似する、十字の右足」の東側に隣接する。
 ゆえに、「足の形に似る、宍道湖の東岸(転回方位)」と接する佐太神社が鎮座する「島根半島の中央部」が[]の字をあらわす地宜となる。
 下に、[]の字源をあらわした地宜、すなわち「佐太神社が鎮座する、島根半島の中央部の地宜」を表示した。
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 以上のように、「山陰・出雲」には卑弥呼が居住した王国名に配される「邪馬壱」の3字に合致する地宜が所在する。

◆「倉頡が漢字を発明した」と説明する伝説は、次のごとく後世に伝えられた。
 「太古、黄帝時代に、倉頡という〈四つ目の怪人〉がいて、鳥獣の足跡をもってはじめて文字を作り、古来(三皇時代)の結縄の方法を代()えたので、天は祝福して禾(五穀)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜な夜な聞こえたというのである。」
 この伝説に登場する「鳥獣の足跡」は【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわす名称であったが、学者たちは「地面や雪の上に残る鳥や獣の足跡からヒントを得て、倉頡は始めて文字を作った」と誤訳・誤解した。
 卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀にかけて、言い換えると後漢時代から三国時代にかけて、中国では黄帝と倉頡の歴史が復興した。これゆえ、後漢時代の墓の内部から〈倉頡の肖像画〉を刻む石が発見された。
 この石には、下に示すように〈倉頡の顔には、目が四つ〉刻まれていた。ゆえに、今日の学者たちは「人間の顔には目が四つも無い。だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定した。
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 前述したように、五帝時代初頭の黄帝時代、中国全土の各地の天頂に「鬼の横顔に似る銀河」がめぐってきて、緯度(位置)と方角を正確に測定できる羅針盤となった。
 下に示すように、「鬼の横顔に似る銀河の、その横顔には両目、その後頭部とアゴにも目の形を銀河」があるゆえ、「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」あった。
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 したがって、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」を、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」と伝えていたことになる。
 「漢字は銀河から作られた」と明確に暴露した人は国家と王朝を転覆させる大罪を犯していると定められて、その人とその一族はただちに死刑に処せられた。だから、〈倉頡の肖像画の顔〉には、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」のとおりには表現されなかった。「死刑はカンベン、命は惜しい」ということで「鬼の横顔に似る銀河の、四つ目の配置」と異なって、〈倉頡の肖像画〉では「顔に四つの目」が配置された。

◆わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で詳細に解説し証明したように――

倉頡は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす[]の字と、下に示すように「逆時計回りに90度転回する方位規定」を字源・字形・字義とする[]の字を作った。
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 上の図における中央の上に「北→西」と記した矢印は「逆時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす。ゆえに、[]の金文形の右上の[(さい)]は「北→西はじめ西→南・南→東・東→北をあらわし、逆時計回り90度ずつ転回する方位規定」をあらわした。だから、[]の字源・字形・字義は「逆時計回りに90度転回する方位規定」を表示した。
 上に示した「[]の字源銀河解説図と金文形」の図における北緯3536分は黄帝時代の黄帝陵の天頂緯度線である。黄帝陵は陝西省(せんせいしょう)の黄陵県に所在し、今も黄帝の廟と墓とされて祭られている。
 「[]の字源銀河解説図」における「人の横顔に酷似する銀河」を「巫女(みこ)の横顔」に見立て、「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」を「しなやかに踊る巫女の手」と見立てて、さらに「こと座を構成する明るい星たち」を「無事に子どもが出産したと祝い、また子どもの出産を祈祷する時に巫女が用いる土器、つまり祝祷(しゅくとう)の土器の[(さい)](〔逆時計回りに90度転回する方位規定〕を示す図書)に見立てて、[]の字が作られた。これゆえ、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、[]の字を「人が一手をあげて祝祷の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。この『字統』の解説に登場する「一手」の[]の字源は「十字の銀河の子宮」である。これゆえ、「一手」は「十字の銀河」を指すと考えられる。したがって、「十字の銀河」は[]字形であるからして、[]の金文形における「舞う巫女の姿」のモデルは[]字形の「十字の銀河」であるゆえ[]字形に図案されている。
 わがブログ「邪馬台国説はサギ・騙されるな」の6回で解説し証明したように――上記した「[][][]の字源銀河図」の他に、下に示す「十字の銀河からさそり座α星まで」が[]の字源・字形・字義をあらわした。上に示した「[]の字源銀河解説図」の右側に配した[]に金文形における「[]字形の巫女の姿となった字源銀河」は「人の横顔に酷似する銀河からさそり座α星まで」ということになる。
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◆前述した「[]の字源銀河解説図と金文形」における「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には国際天文学会が「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名づけた箇所がある。「北天の最輝部」は「北半球に居住する人々が最も輝いて見える銀河部」のことである。「北天の最輝部」は「銀色に輝く」ゆえ、「銀河」または「銀漢」の「銀」は「北天の最輝部」を指していたことになる。「北天の最輝部」の北側は、下に配する図が示すように、「人の横顔に酷似する銀河の、前頭部」となる。
 下に配する「四つ目の銀河における、鬼の後頭部とアゴにつく両目から人の横顔に酷似する銀河の前頭部まで」の、太線で表示した箇所が〔「邪馬壱」の銀河〕、つまり〔産道を通過するときの出産児の頭の「広形機能」または「骨重積」と呼ばれる機能をあらわす銀河〕ということになる。
 「邪馬壱」の[]は「女性生殖器における産道」である。ゆえに、下の図における「太線の図書(ずしょ)」は「邪馬」をあらわす。「邪馬の図書」と重なる箇所が[]、つまり「産道における出産児の状況」をあらわすゆえ、〔「邪馬壱」の銀河〕は〔産道を通過するときの児頭の「広形機能」または「骨重積」と呼ばれる機能〕を表示することになった。
 注目すべきは、《黄帝時代の黄帝陵における天頂緯度線(北緯3536)》が〔「邪馬壱」の銀河の北部〕を撫()でるがごとく貫通していることである。
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 下に、「小児(出産後間もない幼児)の頭蓋骨(ずがいこつ)の大泉門(だいせんもん)と小泉門(しょうせんもん)の図」を配した。小児の頭の骨の縫合は未完成で、骨どうしの間は〔結合組織性の膜〕になっている。このうち、矢状縫合(やじょうほうごう)の前端と後端は膜性の部分が大きく、前方は「大泉門」、後方は「小泉門」という名称で呼ばれる。
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 しかし、上に図示した〔この世に誕生したばかりの小児〕より以前の、下に配した「産道を通過する時の出産児の頭蓋骨図」が示すように、〔膣(ちつ)入口から膣口(膣出口)の産道を通過する時の児頭(じとう)の大泉門は、上に示したこの世に生まれてきた小児のものと異なり菱形(ひしがた)となって「広い形」つまり「広形(こうけい)」となる。
 「出産児の頭蓋骨」における「小泉門・矢状縫合・大泉門の形」は、上に示した〔「邪馬壱」の銀河図〕における「邪馬」の形状をあらわし、また前述したように「産道」は[]をあらわす。ゆえに、「出産児の頭蓋骨における、小泉門・矢状縫合・大泉門の形」は「邪馬壱」ということになる。
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◆上の図に示したように、「出産児の頭蓋骨」は「縦長(たてなが)」である。
 下に、「縦長の出産児の頭がくぐり抜ける、横長(よこなが)の楕円形の女性の骨盤入口」の図を示した。
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 出産児の頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)終わりまでの児頭の回旋の様子について、インターネット・ブログで出力した医療法人翔光会の産婦人科にしじまクリニック(埼玉県富士見市)は「赤ちゃんの進み方、回旋(かいせん)を知る」と題して、下記のごとく説明している。この説明を要約し、この要約に〔出産第1期の開口期(かいこうき)と出産第2期・娩出期(べんしゅつき)〕という注を加えると、次のようになる。
 ――骨盤の入口は横長の楕円形に対して、からだの中でいちばん大きな赤ちゃんの頭(児頭)の形は縦長であるゆえ、児頭が骨盤入口をくぐり抜けるためには、骨盤入口では児頭は横向きで入る。しかも入口部は骨盤内でいちばん狭い空間であるので、通常(正常分娩の場合には)赤ちゃんはアゴを胸につけた姿勢となり、児頭は屈曲して後頭部の小泉門が先進して時計回りに90度回旋する。これを、「第1回旋」と呼ぶ。
 骨盤出口面は縦長であるゆえ、赤ちゃんは横向きから次第に正面・縦向きへ方向を変えながら、下降する。この過程を、「第2回旋」という。ちなみに、第1回旋(横向き)から第2回旋(縦向き)へ回る角度は90度であり、第1回旋と逆向きの反時計回り(逆時計回り)である。第1回旋から第2回旋の時の子宮口は大体7センチである。第2回旋が終了した時点で後頭部(小泉門)は恥骨側・12時方向の位置となり児頭の正面・縦向きが整う。この時、子宮口はすでにすっかり開く全開大(ぜんかいだい/10センチ)となり、出産第1期・開口期の終わりとなり、いよいよお産となる。
 第3回旋は反時計回り(逆時計回り)になって児を娩出(べんしゅつ)するもので、この場合児は反屈して恥骨をくぐり抜けるように児頭が産道()から娩出する。
 最後の第4回旋は第1回旋と同じく児頭は時計回りに90度回旋して、頭が誕生した児はすぐに呼吸をはじめて声をあげる。この頭の誕生が出産第2期・娩出期の終りとなる。

◆上記したように――「出産児の頭の第1回旋と第4回旋」は、前述した[][][]の字源・字形の原形・原義となる「時計回りに90度転回する方位規定」に共通する。だから、「第1回旋と第4回旋」がヒントとなって、倉頡は[]の字を考案したことになる。
 また、「出産児の頭の第2回旋と第3回旋」は[]の字源・字形の原形・原義となる「反()時計回りに90度転回する方位規定」に共通するゆえ、「第2回旋と第3回旋」がヒントとなって倉頡は[]の字を考案したことになる。
 []の「時計回りに90度転回する方向規定」と[]の「反()時計回りに90度転回する方位規定」という字が作られたヒントとなった「産道を通過するときの出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の回旋と、少し重ねて形を変えることができる緩(ゆる)い組み合わせの機能」を卑弥呼は「邪馬壱」と名づけた。この「邪馬壱」を、現在の産婦人科では「広形機能(こうけいきのう)」または「骨重積(こつじゅうせき)」と呼称する。
 したがって、『魏志倭人伝』は――現在の産婦人科で「広形機能」と「骨重積」と名づけられている事象を「邪馬壱」と表現した卑弥呼は「邪馬壱」の地宜を有する「山陰・出雲」を「邪馬壱国」と名づけた――と伝えていたことになる。
 なお、『魏志倭人伝』にて倭人国の最初に登場する小国の「対馬国」を「1番目」と数えると、「24番目」の小国は「邪馬(やま)国」である。
 下に配した図における上図は[]の「転回方位」をそのまま受け継いだ[]の転回方位にもとづく旧国・大和全土を示す地宜である。下図は[]の「フタコブラクダの横顔」の図である。上図の「大和の地宜」は下図の「草をモグモグと食べる時のフタコブラクダの鼻・アゴ・口の動き」に相似すると見立てられて、「大和」の小国名は「邪馬」になったのである。
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 下に〔「邪馬」のフタコブラクダの鼻・アゴ・口の図〕を配した。
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 「フタコブラクダが草をモグモグと食べる鼻の動き」は「産道を通過する出産児の小泉門の動き」にソックリであり、「草を食べるフタコブラクダの上アゴの動き」は「産道する出産児の頭頂骨の動き」に酷似し、「草を食べるフタコブラクダの口の動き」は「産道を通過する出産児の大泉門の動き」に実に似ている。つまり、「産道を通過する時の出産児の頭蓋骨の5枚の骨(左右二つの前頭・左右二つの頭頂骨・後頭骨の5枚の骨)」の結合はゆるく少し重なる仕組みとなる。このため、「5枚の骨と小泉門・頭頂骨・大泉門の動き」は「草を食べる時のフタコブラクダの上アゴと下アゴが合わずに食い違って邪(なな)めとなる、またアゴの動きによって鼻は小泉門・口は大泉門のように互いに少し邪めとなる動き」に酷似する。これゆえ、「草を食べる時に邪めとなる馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の動きの形状」も、「邪馬」ということになった。
 これゆえ、「大和の地宜」は「草を食べる時のフタコブラクダの横顔」にソックリということで、卑弥呼は「大和」の小国名を「邪馬国」と定めたのである。
 以上のごとく、「邪馬壱国」と「邪馬国」という小国名で共通する「邪馬」は、現在の産婦人科の用語「広形機能・骨重積」を表現するものであったことになる。
 『魏志倭人伝』は学者たちが「倉頡伝説は歴史的事実を語っていない! 荒唐無稽(こうとうむけい)である!」と学者たちが断定して葬ってしまった歴史的事実を伝えている。『魏志倭人伝』は、黄帝につかえた史官・倉頡が発明した漢字作成理論を体系的に正確に伝える貴重な学問書にして歴史書であった。というのも、卑弥呼王朝の政権基盤は【倉頡が発明した漢字作成理論】であったからである。卑弥呼は倭人国を構成する33の小国名を【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて定めた。だから、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】が正確に残された貴重な史料であったのである。
 〔注 倭人国は34小国で構成されるが、隠岐群島の小国名は記載されていない〕。

◆新井白石は最初「大和(やまと)」の「やま」の音が「邪馬(やま)」の音に合致することを根拠・理由にして、倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国は大和であったと比定した。しかし、倭女王卑弥呼が居住した王国は山陰の出雲であった。後に白石は「筑後山門郡(ちくごやまとぐん)」の郡名「山門」の「山(やま)」が「邪馬(やま)」の音と合致することを根拠・理由にして、筑後山門郡は邪馬台国であったと比定した。しかし、「邪馬」は「山」を意味するものでなく、「経度線と緯度線に対して邪(なな)めの馬(フタコブラクダ)の姿に相似する出雲の神門水海の地宜」を「邪馬」と表現するものであった。現在の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は新井白石が『魏志倭人伝』に初めて学問的検討を加えたと定めて、白石の意見をそのまま受け継いでいるが――卑弥呼が居住した「邪馬壱国」の「邪馬壱」は【黄帝の《女性生殖器と子どもの出産の医学研究》の核心】、言い換えると【フタコブラクダが草を食べる時の鼻・アゴ・口の動きにソックリの、現在の産婦人科でいう「広形機能」と呼ばれている〔産道を通過する時の神秘的な児頭の動き・重ね合わさる機能・4回の回旋〕】をも表現するものであったのである。
 要するに、『魏志倭人伝』は[]の字源・字形・字義「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづいて、下の図のごとく「本州の日本列島地図における〔東〕に所在する東海地方は〔南〕に回旋する」と説明していた。この転回方位規定にもとづき、下図に示すように、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と記述していたのである。
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 『魏志倭人伝』には本州日本列島における方位記事は全部で12ヵ所ある。この全12ヵ所の方位記事は、上に示した「[]の字源を示す転回日本列島地理における方位」」に矛盾点・不合理な点はいっさい存在せず【科学】が成立する。
 だから、『魏志倭人伝』は九州説や畿内説のごとく「文献批判」と名づけた【誤読】を幾つも加える手間をいっさい必要としない、正確無比の文献史料であったのである。

◆次回は、『魏志倭人伝』に「卑弥呼は径百余歩(直径が約150メートル)の円墳の墓に葬られた」と記述された卑弥呼の墓は出雲・邪馬壱国に所在した秘密について究明・解説する。

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