古代エジプト文字の字源・27
●なぜ「糞ころがし」は太陽神のシンボルとされて崇拝されたか
◆わがブログ「古代エジプト文字の字源」シリーズは一貫して、前回(26回)まで私が「文字作成銀河」と呼ぶ銀河範囲の各部の形から古代エジプト文字(ヒエログリフ)が作られた事実を証明してきた。この「文字作成銀河」の写真は下に掲載した。
前回のわがブログ「古代エジプト文字の字源・26」において――世界中の古代王朝は〔文字が銀河から作られた学術〕をもって起源し、この学術を権力基盤とした。そして、この文字の学術が反体制側の人々が習得して革命に利用すると容易に王朝が崩壊することに気づき、世界中の古代王朝は一様に〔文字が銀河から作られた学術〕を最も厳重な機密にした。また、この学術を手に入れて革命に成功して樹立された王朝も、前王朝を見倣(なら)って文字の学術を厳重な機密とした。このように〔文字が銀河から作られた事実〕は世界単一的に厳重な機密となり、文字が銀河から作られた学術が反体制側の人々に容易に習得されないための方法として、世界の古代王朝は「文字作成銀河」の各部に名称を付けなかった。この歴史の名残(なご)りが現在も存続して、世界中探しても文字となった銀河各部には名称が存在しない――と指摘した。
これゆえ、私は下のごとく文字作成銀河の各部の名称を定めた。
(C) 2015 OHKAWA
◆わがブログ「古代エジプト文字の字源」シリーズでは幾度となく――古代エジプト神話には文字を作って字数を増やす役目があり、また上掲した文字作成銀河は作った文字やことば(語)を知ることができる字書・辞典の役割を有した――ことを証明してきた。
古代エジプトでは、小さな虫の「タマオシコガネ」つまり俗称「糞(ふん)ころがし」が、神々の中で最も位(くらい)の高い太陽神のシンボルとされた。糞ころがしは、動物の糞を球状に丸めて転がし、そこに卵を産みつけるという習性をもつ。このような奇妙な虫が、古代エジプトにおいていったいなぜ崇拝され、お守りや印章の図案として用いられてたいへん人気のあるシンボルであったのか、この謎は解明されていない。というのも、この謎は〔すべてのヒエログリフが文字作成銀河から作られ事実〕に起因するものであったからである。けれども、〔ヒエログリフは銀河から作られた事実〕を学者や研究者たちはまったく気づいていないので、この秘密は未解明の謎となったのである。
A図に糞ころがしのヒエログリフを示した。このヒエログリフの発音は〈ケペル〉であり、「スカラベ(糞ころがし)」を意味する〈ケペレル〉を構成する単語の中の決定詞となった。
(C) 2015 OHKAWA
エジプトの北限はナイル川河口北端の北緯31度38分であり、南限は北緯21度38分~北緯22度である。このエジプト全土の天頂を通過する銀河は上掲した写真と銀河各部の名称図に示した「秋の銀河」と「夏の銀河の東北部」であり、この天頂付近にめぐってきた銀河範囲の形状を古代エジプト人たちは「スカラベ(糞ころがし)」に相似すると見立てた。
今から5100年前ころ、エジプト第1王朝が始まる少し前に、ヒエログリフは、突然、ほとんど完成された状態で出現した。第1王朝(紀元前2920-同2770年)から第6王朝(紀元前2323-同2150年)までの今から約5000年前から約4000年前の都を、北緯30度のメンフィスと定めた。
〔歳差(さいさ)〕という天文現象を利用すると、B図に示すように、今から6000年前から4000年前の第6王朝時代までの北緯30度・メンフィスの天頂緯度線を表示することができる。
(C) 2015 OHKAWA
上のB図に図示した銀河の範囲は、「糞ころがし」に見立てられた「秋の銀河・夏の銀河の東北部」となる(注 上掲した銀河各部の名称図の上半分)。
◆A図の「糞ころがし」のヒエログリフは、中央に頭・羽を有する胴体を描く。糞ころがしの頭には、〔太陽の光線のように観える鋸(のこぎり)状のギザギザ〕がある。
(C) 2015 OHKAWA
上のC図に示すように、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河の隣の銀河」は〔糞ころがしの前の両足〕に見立てられた。
また、「鬼の姿に似る銀河」と「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔太陽光線のように観える鋸状のギザギザ〕に相当する。
そして「わし座α星(アルタイル)=彦星より北側の銀河」と「人の横顔に酷似する銀河の胸部に観える銀河部」が、〔糞ころがしの後ろの両足〕のような形をしている。
結局、C図に示す「糞ころがしに似る銀河」は、「秋の銀河・夏の銀河の東北部」となる。この「糞ころがしに似る銀河」は、現在においてもエジプト全土(北緯21度38分~北緯31度35分)の天頂付近(高度70度~高度90度の天頂)にめぐってくる。
ところが、日本列島においても6000年前から現在まで、古代エジプト人たちが〔糞ころがしの姿に観えると見立てた銀河〕は天頂付近にめぐってきた。にもかかわらず、いったいどうしてわが国では〔糞ころがし〕を最高位の太陽神のシンボルとしなかったのであろうか。
わがブログ「古代エジプト文字の字源」の19回・20回で証明したように、D図左上に示したガーディナーのリスト「M5」の「太陽円盤」のヒエログリフの字源は「はくちょう座γ星とこの星を円形に囲む銀河部」であった。
(C) 2015 OHKAWA
わがブログ「古代エジプト文字の字源・23」で証明したように、D図左下のガーディナーのリスト「M8」の「光線を発する太陽円盤」のヒエログリフの字源は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲と隣接する3本の放射線の銀河部」であった。
D図左側の中央のガーディナーのリスト「M6」の「聖なるコブラがついた太陽円盤」のヒエログリフの字源は、D図中央図上部の「鬼の姿に似る銀河」である。D図右上のガーディナーのリスト「I12」の〈イアルト〉と発音するヒエログリフとなった「聖なるコブラ」をあらわす「ウラエウス」という呼称の語源となったギリシア語は、「立ち上がる女」をあらわすエジプト語であったと指摘される。「鬼の姿に似る銀河」は「立ち上がる女」に見立てられ、また「鬼の姿に似る銀河の後頭部とアゴにつく両目」は「コブラの両目」のごとく鋭い。だから、「聖なるコブラがついた太陽円盤」の字源は「鬼の姿に似る銀河」であった。
A図の「糞ころがし」のヒエログリフにおける「太陽の光線のごとくに観える鋸状のギザギザ」の部分は、C図に示す「聖なるコブラがついた太陽円盤」の字源「鬼の姿に似る銀河」と「光線を発する太陽円盤」の字源「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」であった。ゆえに、「糞ころがし」は神々の中で最高位の太陽神のシンボルとなったのである。
というのも、銀河各部の形状は立体形には見えず平面形の状態で見えるゆえ、糞ころがしが転がす球体の糞は太陽円盤の円形となるからである。また、D図右側中央の太陽円盤が加わるコブラはヒエログリフが出現する以前から、太陽と結びつけられていた。また、主だった神々はほとんどが太陽と関わりを有していた。太陽はホルス神と同一視されて崇拝され、わがブログ「古代エジプト文字の字源」の22回と23回で証明したように、「ホルス神」はD図右下の太陽円盤となった「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」から創造された。ゆえに、糞ころがし(スカラベ)もまた太陽と結びつけられることになったのである。
◆マリア・カルメラ・ベトロ著/南條郁子訳『[図説]ヒエオログリフ事典』(創元社)の116頁は古代エジプトのスカラベ(糞ころがし)への思いを、紀元前1、2世紀に生存したローマ帝政期の文人・プルタルコが下記のごとく述べていると解説する。
「彼らによるとスカラベにメスはいない。すべてはオスで、球形に丸めたある種の物資に精子をまき、天空を横切る太陽をまねて、その球を転がして歩くという」。
わがブログ「古代エジプト文字の字源・7」において、E図に示すように、〈メト〉と発音する「男根」のヒエログリフの字源は「夏の銀河の西南部と彦星・わし座α星までの銀河」であることを証明した。
(C)2015 OHKAWA
F図に示すように、「夏の銀河の西南部」は〔球形の糞とスカラベ・糞ころがしの姿(側身形)〕に相似する。
E図の「男根」のヒエログリフの字源においては、「夏の銀河の西南部」は〔男根の精巣(せいそう)を包む陰嚢(いんのう)〕に見立てられた。ゆえに、〔球形の糞とスカラベの姿〕に観える「夏の銀河の西南部」の形状にもとづいて、古代エジプト人たちは「スカラベにメスはいなく、すべてオスで、球形に丸めたある種の物質に精子をまき、天空を横切る太陽にまねて、その球を転がして歩く」と考えるようになったのである。
それというのも、「夏の銀河の西南部」には「黄道の大円の一部」が存在したからである。
「黄道」は「太陽が天球上を一年間に通過する大きな円形の道」である。
6000年前には、「夏の銀河の西南部」には9月22日~11月1日までの天球上の太陽の位置を示す黄道の円弧(カーブ)が存在した。5000年前には「夏の銀河の西南部」には10月11日~11月18日までの太陽の位置を示す黄道の円弧があった。4000年前には「夏の銀河の西南部」を10月22日~11月28日までの太陽の位置をあらわす黄道の目盛りが存在することになった。現在は、12月8日~1月8日までの太陽の位置を示す黄道の円弧がある。
このように6000年以来現在まで、「夏の銀河の西南部」には太陽が位置する黄道の大円の一部の円弧が存在した。したがって、古代エジプト人たちは球形の糞に卵を産みつける糞ころがしの生態について「球形に丸めたある種の物質に精子をまき、天空を横切る太陽にまねて、その球を転がして歩く」と考えたのである。
以上のごとく、古代エジプトでは「秋の銀河・夏の銀河の東北部と夏の銀河の西南部」で構成される「文字作成銀河」を〔糞ころがしの姿〕に見立てていたことになる。
だから、初頭部で指摘したように――文字作成銀河はヒエログリフ(文字)の字源やヒエログリフで構成されることば(単語)の語源を明確に知ることができる字書・辞典の役割を有するものであったことになる。
◆わがブログ「古代エジプト文字の字源」シリーズは、今回をもって一区切りをつけて休止することにした。というのも、つい最近、静岡県沼津市東熊堂に所在する「高尾山(たかおさん)古墳」は東日本における最大で最古の古墳であることが発見されたからである。(注 「高尾山古墳」が東日本における最大で最古の古墳であることについては、インターネットのブログ「高尾山古墳」で調べていただきたい)。
わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回や2回で訴えたように、わが古代文字=ヒエログリフの研究目的は――「漢字」もまた〔文字作成銀河から作られた文字〕であり、わが国には今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)には夏音(かおん)文字が伝来し、夏音文字は『魏志』倭人伝の「卑弥呼」はじめ人名・小国名・官職名として現存し、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音文字となって多数現存することになった――この事実を科学的に証明するためのものであった。というのも、ヒエログリフも漢字と同じく文字作成銀河から作られたと科学的に証明できれば、漢字が文字作成銀河から作成されたという解明とわが国に夏音文字が伝来したという解明は科学的に証明されて事実となるからである。
中国の正史『新唐書』日本伝は――710年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う(壬申の乱の後、稍々(やや)夏音文字を復興することにした)」と中国王朝に告げた――と記す。その10年後の712年に完成した『古事記』上巻の随所には、天照大御神・大和朝廷が後世に絶対に伝えてはならぬと厳重に禁じたタブーの歴史、つまり高尾山古墳周辺地域で〔愛〕を建国理念とすることを神に誓って日本国が誕生した淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚の歴史を伝えるために夏音文字が多数記載されることになった。
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士は著書『字統』(平凡社)の9頁終わりの2行目から10頁にかけて「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」と記載する。ゆえに、白川静博士は「中国で現存する上古音よりもわが国の『魏志』倭人伝や『古事記』上巻や『万葉集』などに残る字音のほうが古い字音である」と指摘していることになる。
千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)は30頁で――卑弥呼の発音について」と題する注で「卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」になる――と指摘する。したがって、白川静著『字統』は中国に現存する最古の上古音の「ピミカ」よりも「ヒミコ」の字音のほうが古いと指摘するものとなる。
「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は今から約4050年前に伝来した夏音文字の字音である。秋田県鹿角(かづの)市に所在する後期縄文時代初頭のわが国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡には夏音文字の学術が伝来した痕跡(こんせき)が現在も明確に残る。学者たちは「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むゆえ、夏音文字は確かに実在したことになる。
わが国に現存することになった夏音文字は今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理「鳥獣の文(鳥獣の足跡ともいう)」を伝え、倉頡が定めた3つの掟を厳重に守る文字であった。倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、反体制側の人々が文字作成銀河から文字を作った学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると考えた。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟を破った者には神罰が下されて即刻に死刑に処せられると定めた。
■倉頡が定めた3つの掟
1 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた事実を暴露した者
2 文字を容易に習得するために、文字作成銀河の各部に名称を付けた者
3 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
◆わが国では、上記の3番目の掟によって夏音文字は遺跡から出土しないことになった。しかし、約3300年前の殷代(いんだい)後半の甲骨文字以降中国では3番目の掟が破られてその後に出現した楷書は書いた文字を消せなくてもよい文字であったため、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻と日本建国の〔愛〕の理念を伝える『万葉集』などの古文献における夏音文字は楷書で表記されて現存することになった。
わが国には夏音文字が書かれた資料は出土しないことになったが、先人たちは倉頡の3つの掟によって「文字作成銀河の各部の形状が字源・初文(最初の文字の字形)・原義」であった事実を後世の人々が科学的に知ることができる遺跡や遺物を下記のごとく複数作った。
前述した(1)大湯環状列石、(2)260年~290年に作成された静岡県浜松市細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する1千万坪の大鳥の地上絵、(3)京都市に所在する金閣寺の庭園、(4)京都市に所在する竜安寺(りょうあんじ)の石庭、(5)滋賀県彦根市の行政区域をあらわす地図の形として現存する1602年~1622年に徳川家康が命じて井伊氏彦根藩が作った3千万坪の大鳥の地上絵、(6)京都市に所在する徳川幕府に命令された小堀遠州が1623年~1645年までに作った桂離宮の庭園、(7)京都市に所在する江戸幕府が1655年頃~1659年に作った修学院離宮の上御茶屋(かみのおちゃや)の庭園、(8)1738年に定められた皇室の最大の神事である大嘗会(だいじょうえ)における天皇即位式に用いられる王冠の菅蓋(かんがい)の意匠、そして(9)最近に発見された230年頃から築造が着手されて250年頃に完成した静岡県沼津市東熊堂に所在する高尾山古墳などが、夏音文字が実在したことを証明できる遺跡や遺物である。これらの遺跡や遺物によって、(一)漢字は文字作成銀河から作られ、わが国には夏音文字は確かに伝来し、(二)夏音文字の遺跡・高尾山古墳は上記の8つの夏音文字の遺跡・遺物と直接的に結びついて『古事記』上巻の記事は〔愛〕の理念の基に建国された日本国誕生の真実の歴史を伝えるものであることを科学的に具体的に証明できる。したがって、(三)〔誤読〕を用いて夏音文字の学芸を抹殺した現在の学者たちが“絶対に間違っているはずがない”と断定・主張する1725年に没した新井白石がおこなった『魏志』倭人伝に関する考え方、1801年に没した本居宣長の『古事記』研究における両意見は〔完全なる誤読の産物〕であることが決定的事実となる。つまり、高尾山古墳によって『古事記』に記載された伊耶那岐命と伊耶那美命説話の記事はまるで1カ月前の出来事のごとく鮮烈によみがえらせることができる事態となった。
ですから、日本人にとって最も大事な日本国誕生史の真実が白石以来の約290年間にわたる学者たちの〔誤読〕によって冤罪(えんざい)死刑されて抹殺されないために、〔誤読〕にひれ伏して奴隷と化す学者たちの空理空論に冤罪死刑にされて抹殺されないために、来年には真実の日本国誕生史の動画製作やブログ作成が1日でも早く私は着手しなければならないので、この「古代エジプト文字の字源」シリーズはいったん休止することにした。
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