枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・28
今回もまた前回〔27〕と同じ、ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島文夫訳『図説 古代エジプト文字入門』(河出書房新社)の32頁の「大熊座」と29頁の「ピラミッド」という言葉をあらわす字源や語源について解説することにする。
今回は、前回の順序を逆にして「ピラミッド」を前に、「大熊座」を後に取り上げて解説する。
「語(言葉)をあらわす意味がわかる絵文字」、この表意文字を「決定詞」と称する。
発音に用いられる文字は、①単子音字(いわゆるアルファベット)、②2子音字、③3子音字、④音声補語などがある。
これらの「発音に用いる文字」を、これからの解説では「表音文字」と一括して呼ぶことにする。
ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島文夫著『図説 古代エジプト文字入門』の29頁に記載される「ピラミッド」の決定詞は、右下の②「三角形」の「ピラミッド」を意味する文字である。
〈ベネベネト〉すなわち〈bnbnt〉と発音する表音文字は③「片足」・④「さざ波」と⑤「片足」・⑥「さざ波」である。
つまり、③「片足」の〈b〉、④「さざ波」の〈n〉、⑤「片足」の〈b〉、⑥「さざ波」の〈n〉、「ピラミッド」を意味する決定詞の上にある①「半円形」の〈t〉で〈bnbnt(ベネベネト)〉となる。
この〈bnbnt〉の最後の〈t〉となる①「半円形」・〈トゥ〉と発音する文字は、タ行をあらわすヒエログリフの基本アルファベットである。
このタ行をあらわす基本アルファベットの表音文字の①「半円形」は、決定詞的な役割を有していることになる――というのも、前回に指摘したように、①「半円形」の字形は「春分・夏至・秋分・冬至の日の地平線上に昇る太陽」を図案するものであり、この文字の字源は「二分二至の朝日」であるからである。
そして、5回前の〔22〕で指摘したように、3大ピラミッドとその複合体(葬祭殿・参道・河岸神殿)と大スフィンクスは「二分二至」を表示する建造物であった。
だから、②「ピラミッド」を意味する決定詞の上にある「二分二至の朝日」が字源である①「半円形」の文字は、決定詞を補う役割があることになる。
上記したように、表音文字には④「音声補語」と分類される文字がある。ということは、決定詞の②「ピラミッド」の真上にある①「半円形」の文字は”決定詞補語”の役割を有するものであったことになる。
首都であったメンフィスはナイル川の西岸に立地する。このメンフィスの東を流れるナイル川はギザのピラミッドにつながる下流ではない。ギザのピラミッドの東を流れるナイル川は本流であり、メンフィスの東に流れるナイル川は本流から分かれた西方の大地を流れる支流である。したがって、ギザのピラミッドの東を流れるナイル川はメンフィスの朝日が昇る東方に所在する。だから、決定詞の②「ピラミッド」の上に「二分二至の朝日」が字源となる決定詞補語を配置されたのである。
メンフィスからギザのピラミドに到着するには、ナイル川の支流の西岸から東岸へと渡らなければならない。ゆえに、表音文字の〈ベネ(bn)〉の③「片足」と④「さざ波」の2字は「川を渡る」をあらわし、表音文字の〈ベネ(bn)〉の⑤「片足」と⑥「さざ波」は「ナイル川の本流の西岸を北に向かって歩く(とピラミッドに到着する)」をあらわすものとなる。
表音文字〈ト(t)〉にして決定詞補語の①「半円形」の太陽は「ピラミッドは二分二至に地平線から昇る朝日を祭る建造物」であると示すものとなる。
以上のように、表音文字にも「ピラミッド」という語の意味をあらわす役目がある。
アンドルー・ロビンソン著╱片山陽子訳『文字の起源と歴史』(創元社)の116頁は、「決定詞」を「表語文字」という名で呼んで、ヒエログリフの文字について下記のごとく指摘する。
「ヒエログリフは表音文字と表語文字が併用されるシステムで、文字の多くが、文脈によって表音文字にも表語文字にもなる。つまり、表音文字と表語文字の境がはっきりせず、固定的でない。ヒエログリフは明確な区別を維持できない文字なのだ。」
この「ヒエログリフの表音文字と表語文字(決定詞)の境がはっきりせず、固定的でない」という特性は、上記の「ピラミッド」という語に使われる文字でも示される。
ステフェヌ・ロッシニー著『図説 古代エジプト文字入門』の32頁の、〈ヘペシュ(hps)〉と発音する6字で「大熊座」という語の語源の秘密に、話題を変える。
この「大熊座」の決定詞は①「神」の絵文字である。
〈ヘパシュ(hps)〉と発音する表音文字は②「疾走するライオンの足」、③「7等分した縦長の長方形」、④「胎盤」、⑤「周囲が傾斜した池」、⑥「星」である。
この6字で構成する言葉の決定詞を、『図説 古代エジプト文字入門』は「大熊座」と指摘する。
しかし、③「7等分した縦長の長方形」からして、決定詞は「北斗七星」をあらわすものであったにちがいない。もっとも、北斗七星は大熊座の一部であるが、決定詞は「北斗七星」であったと考えられる。
また、表音文字⑥「星」は「北斗七星」の7星中の一つの星を「神」と崇拝すると示すものであると考えられる。だから、決定詞①「神」は〔北斗七星の7星中の一つ星〕を「神」とするものであると考えられる。
決定詞を「北斗七星の中の一つの星」と定めると、⑥「星」の文字は「大熊座の星たち」をあらわすものではなく、決定詞①「神」の意味に合致する、別の神聖な星をあらわしていることになる。
⑥「星」の文字の上は②「疾走するライオン(獅子)の片足」を図案化した文字である。
6回前の〔22〕で指摘したように――ギザの3大ピラミッドと大スフィンクスが建造された4500年前、「獅子座のγ(ガンマ)星」(光度2.3等の美しい重星)は首都メンフィスの(北緯29度59分)の天頂にめぐってきた。また、「ぎょしゃ座のβ(ベータ)星」(光度2.1等の準巨星)もメンフィスの天頂を通過した。
3大ピラミッドと大スフィンクスが建造された4500年前、春分の日の午前2時になる「ヘルクレス座のα(アルファ)星・ラスアルゲチ」が、3大ピラミッドと大スイフィンクスの天頂(北緯30度)の天頂で輝いた。このヘラクレス座α星・ラスアルゲチは美しい二重星で、光度が3.5等の橙色の星と5.4等の鮮緑色の星からなる。また、「ペルセウス座のγ星」も、ギザの天頂を通過した。
これら4つの星は首都メンフィスとギザの3大ピラミッドの位置(緯度)を示す目印(めじるし)となり、メンフィスを離れ、ギザより遠い地に旅した人々が家に帰ることができる、命をまもる“守護星”となった。ゆえに、これら4つの星は神聖な星となって重視されたにちがいない。
首都メンフィスの天頂を通過した「獅子座のγ星」は、獅子座の〔たて髪〕の箇所に位置する。
前回〔27〕にて、〔獅子座のξ(クサイ)、ο(オミクロン)、α(アルファ)、η(エータ)の4星〕は[獅子座の前足]になるので、②「疾走するライオンの足」の字源になったと指摘した。
獅子座の首からたて髪にかけてのα、η、γ、ζ(ゼータ)、μ(ミュー)、ε(エプシロン)の6星は西洋鎌の形となる。このため、この6星は“獅子の鎌”と呼ばれる。
この“獅子の鎌”の星座の形は、カップと柄(え)からなる北斗七星の形に類似する。
5000年前の第1王朝のナルメル王の時代、獅子座のγ星はギザの天頂にめぐってきた。
3大ピラミッドが建造された4500年前当時、獅子座のγ星より40分北側、つまりγ星とζ星の中間のγ星に近い箇所が、ギザの天頂となった。
5000年前の第1王朝時代、そして3大ピラミッドが建造された第4王朝時代、北斗七星に類似する“獅子の鎌”が子午線経過した時、北斗七星のカップがともに子午線経過(上経過)した。
3000年前の第3中間期の第21王朝時代においても、“獅子の鎌”が子午線経過した時、北斗七星のカップが子午線通過した。
獅子座のγ星とζ星付近の“獅子の鎌”の中に輻射点(ふくしゃてん)を有する流星群を“獅子座流星群”と称する。
この“獅子座流星群”は、今日の暦において、11月14日から19日にかけて出現する。それゆえ、“11月流星群”とも呼ばれる。この“獅子座流星群”は約33年目ごとに、いちじるしい流星雨の現象をあらわすことが観測されている。
3大ピラミッドが建造された4500年前、北斗七星のカップが子午線通過し、“獅子座流星群”が子午線通過するのは、今日の暦の11月14日の午前1時間ごろ、11月19日の午前0時40分ころであった――この時、“獅子座流星群”は3大ピラミッドの天頂点から約3度の北側(高度87度)から発射され、その流星雨は真下のピラミッドに向かって降ってきた。
だから、⑥「星」の字源は「大熊座の星たち」ではない。
⑥「星」の文字は、その「神」と崇拝する星が――メンフィスとギザのピラミッドの天頂で輝いた4つの星「獅子座のγ星、ぎょしゃ座β星、ヘルクレス座α星、ペルセウス座γ星」の守護星のごとく神聖にして重大な星であると示す。
また⑥「星」の文字は、その「神」と崇拝する星が――ピラミッドが作られた当時、天頂点付近にめぐってきた“獅子座流星群”の輻射点との関連がある星であったと示す。
〔歳差(さいさ)〕という現象によって、3000年前から「獅子の鎌」が子午線通過する時に北斗七星のカップが子午線通過しなくなった。
しかし、この〔歳差〕の影響もなく、4500年前の3大ピラミッドが建造された第4王朝時代と3000年前の第21王朝時代の「獅子の鎌」の緯度はほとんど同じであった。だから、第4王朝時代から第21王朝時代まで、“獅子座流星群”の輻射点が3大ピラミッドから3度北側を子午線通過する時、北斗七星のカップも子午線通過していた。
⑥「星」の真上に、前回〔27〕で解明した②「疾走する獅子・ライオンの片足」が配置される。
この②「疾走する獅子の片足」の文字は「獅子座流星群(の輻射点)」をあらわすものであると考えられる。
というのも、鈴木俊太郎著『星の事典』(恒星社厚生閣)の159頁は“獅子座流星群”の「流星の速度は速やかな条痕(じょうこん)を残すのが特徴である」と記述するからである。
この流星のイメージから〔全力疾走する獅子の足〕を連想された。
ゆえに、⑥の「星」の文字の上に、「獅子座流星群」のイメ-ジを示す②「疾走する獅子の片足」を図案する文字が配置されたのである。
7回前〔21〕にて指摘したように、ギザの3大ピラミッドが建造された今から約4500年前、〈ラー〉と発音する「太陽」を意味する文字[◎]の字源・字形となる「白鳥座γ星」が子午線経過する時、エジプト暦の元日となる夏至の午前零時となった。
当時の「白鳥座γ星」の緯度は赤緯(せきい)プラス34度である。ゆえに、白鳥座γ星はギザの3大ピラミッドから4度北側を子午線経過した。ということは、獅子座流星群の輻射点は3度北側(すなわち赤緯プラス33度)を子午線経過するものであったので、白鳥座γ星と獅子座流星群の輻射点はほぼ同じ高度であったことになる。
前回で解明したように、「北斗七星」という語に使われる④「胎盤」をあらわす文字の字源は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。
今から4500年前の第4王朝時代、「北アメリカ星雲の北部」の赤緯はプラス33度ぐらいであったので、「北アメリカ星雲の北部」が子午線経過する時の高度は獅子座流星群の輻射点とほとんど同じであったことになる。
第4王朝時代、「長方形の暗黒天体部の北の辺」も獅子座流星群の輻射点とほぼ同じ赤緯プラス32度を子午線経過した。
当時、北アメリカ星雲が子午線経過する時、北斗七星の第5星の7星中最も光が強いε星が子午線のすぐ横に位置し、もうすぐ子午線上に乗ろうとしていた。「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過した時、北斗七星のε星が子午線上に乗った。この間、わずか10分である。
①「神」という語に使われる表音文字は②「疾走する獅子の片足」の左隣に③「7等分した縦長の長方形」、この③の文字の左隣に④「胎盤」、③・④の下に⑤「周囲が傾斜した池」が配置される。
②「疾走する獅子の片足」の隣に③「7等分した縦長の長方形」に配置したのは――④「胎盤」の字源「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が子午線経過し、次に⑤「周囲が傾斜した池」の字源「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過する、北斗七星のε星が子午線の直ぐ東に迫って子午線上に乗る――この「わずか10分間」を表現するためのレイアウトであると考えられる。
③「7等分した縦長の長方形」の〔7等分〕は「7つの星」をあらわして「北斗七星」を示すものとなる。
この③「7等分した縦長の長方形」の左隣に④「胎盤」の文字が配置される。
④「胎盤」の字源「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔渦を巻く円形〕である。北斗七星は天の北極を中心にして日周(にっしゅう)運動する。この〔北斗七星の日周運動する軌道〕と〔渦を巻く円形〕の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は相似する。
だから、「北斗七星」が字源である③「7等分した縦長の長方形」は、渦を巻く円形の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が字源となる④「胎盤」の文字の右隣に配置されたのである。
⑤「周囲が傾斜した池」の字形は字源の「長方形の暗黒天体部」に相似せず、長いほうの2辺が長すぎる。
この⑤の文字の上の右側に配置される③「7等分した縦長の長方形」は子午線通過する時の「長方形の暗黒天体部」の形にほぼ近いが、少し縦に寸足らずである。
⑤「周囲が傾斜した池」の字形は、「池」を意味する〈シュ(sh)〉と発音する文字を基本字とする異体字(いたいじ)である。ゆえに、⑤「周囲が傾斜した池」の字形は「池」をあらわす文字の字形をそのまま受け継いだので、正方形が二つ合体する「長方形の暗黒天体部」の形に相似しないことになった。
そこで、③「7等分した縦長の長方形」を少し寸足らずにして、③と⑤の文字の〔長方形の中間の形〕が「長方形の暗黒天体部」の形であると示したのである。
③「7等分した縦長の長方形」から7つの星で構成される「北斗七星」と示され、②「疾走する獅子の片足」は〔獅子座流星群〕の形状から「わずかの時間」が連想される。
そして、⑥「星」は複数でなっく一つであるゆえ、「北斗七星」のうちの「一つの星」をあらわすものであるにちがいない。
これゆえ、ステファヌ・ロッシニー著『図説 古代エジプト文字入門』は、〈ヘベシュ(hps)〉と発音する決定詞①「神」は「大熊座」であると指摘するが、「北斗七星の7星中の一つの星」だけが「神」であると示していると考えるべきことになる。
上に大きく赤字で示したように――ギザの3大ピラミッドが建造された当時、④「胎盤」の字源となる「北アメリカ星雲」が子午線経過する時、北斗七星の第5星のε星が子午線のすぐ横に接近していた。〔北斗七星のカップ〕をあらわす⑤「周囲が傾斜した池」の字源となる「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過した時、北斗七星のε星が子午線上に乗った。この間、わずか10分である。
ゆえに、この〔わずか10分〕は②「疾走する獅子の片足」であらわされた。
だから、②「疾走する獅子の片足」の下に配置される⑥の「星」があらわす〔北斗七星の7星中の「神」と崇拝された星〕は「ε星」となる。
よって、決定詞①「神」は「北斗七星のε星」となり、「大熊座」でもなく「北斗七星」でもないことになる。
決定詞「北斗七星の神」には、顎鬚(あごひげ)がつく。
「鬼の姿に似る銀河」の顔には顎鬚がある。この顎鬚は「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」に連結する。(この連結部分は、「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の北端」となる)。
「北斗七星のカップ」と「長方形の暗黒天体部」は⑤「周囲が傾斜した池」の文字で表示された。
ゆえに、「北斗七星のカップ」を「長方形の暗黒天体部」に見立てると、「北斗七星のカップ」に連結する「ε星」は「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」に連結する「顎鬚」の形状に合致する。
だから、①の決定詞の「神」は「北斗七星のε星」をあらわすものであったのである。
なお、現在のギザの大スフィンクスには顎鬚がついていたが、現在は付いていない。しかし、スフィンクスの聖なる顎鬚はカイロのエジプト博物館に所蔵されている。
ギザの3大ピラミッドが建造された当時(4500年前)、北斗七星で最も光が強い光度1.8等のε星が、夏至点と天の北極を結ぶ子午線を擦(こす)るように東に位置した。
これゆえ、当時の春分の日の午前零時にはε星は天の北極の西に位置し、夏至の午前零時にはε星は天の北極の北に位置し、秋分の日の午前零時にはε星は天の北極の東に位置し、当時の日の午前零時にはε星は天の北極の南に位置した。
また、ε星は昼夜の長さが同じ春分の日の夕刻・午後6時には天の北極の南に位置し、昼の長さが最も短い夏至の日の1ヵ月前の夜の午後8字には天の北極の西に位置し、昼夜の長さが同じ秋分の日の夕刻・午後6時には天の北極の北に位置し、昼の長さが最も長い冬至の日の太陽が地平線に沈んだ時(午後4時)から2時間経過した午後6時には天の北極の東に位置した。当時から1ヵ月後には、太陽が地平線に没する午後4時頃に、天の北極の東に位置した。
だから、春分・夏至・秋分・冬至の日を明確に示す「北斗七星のε星」は「顎鬚が生える神」となったのである。
6回前〔22〕にて解明したように、3大ピラミッドは「夏至点・冬至点」を象徴する建造物であり、ピラミッドの複合体である大スフィンクス、葬祭殿、参道、河岸神殿は「春分点・秋分点」を象徴する建造物であった。
ゆえに、葬祭殿・参道・河岸神殿は「神」を祀る建造物であることが明確に示されるゆえ、春分・夏至・秋分・冬至の日を明確に示す「北斗七星のε星」は①の決定詞の「神」であったのである。
ギザの3大ピラミッドが建造された今から4500年前は、前回〔27〕で指摘した中国の五帝時代の4番目の帝である堯(ぎょう)の時代であった。
司馬遷著『史記』五帝本紀には、春分、夏至、秋分、冬至の日の夕刻の星空の様子が記述される。この記事における「北斗七星のε星」の名は「鳥」である。
『史記』五帝本紀は「益(益氏の首長)は帝堯の時代から挙用(きょよう)されていた」と記述する。
『史記』五帝本紀は、次の帝舜(しゅん)の時代に「益は虞(ぐ)という重職に任命された」と記す。この「虞」という官職は「山林川沢をつかさどる官」とされるが〔川や沢が集まる中国の海岸線地域の地図を作成する官〕であったと考えられる。
『史記』夏本紀は、「益は夏の始祖・帝禹(う)を継ぐ帝となった」と書く
『史記』陳杞世家(ちんきせいか)は「益の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである。帝堯と帝舜の時代に、功徳をもって令名のあった臣下である。益の先祖は帝王になった。」と説明する記事がある。
このように、中国古代史から益氏が忽然(こつぜん)と消えたのは、益氏の子孫が小舟を漕いで大海を越えて日本列島に定住したからである。
今から4050年前、益の子孫である帝益の孫の王子と若者たちは、帝禹の遺志である氏族共同体制の継続を日本列島で実現するため、大海を越えて日本列島に移住した。
ゆえに、秋田県鹿角(かづの)市に夏代初頭の国の特別遺跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)が作成されて現存することになり、この万座遺跡と野中堂遺跡には夏音文字の学芸の痕跡(こんせき)が現在も明確に残る。
かくして、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載され、静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、竜安寺の石庭、滋賀県彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵、京都市の桂離宮の庭園などに明確に残る夏音文字の学芸が伝来し、現在まで失われずに残ったのである。
前々回〔26〕で指摘したように、大湯環状列石の野中堂遺跡の特殊組石「日時計組石」は北斗七星の「鳥」の星を日周運動を利用して午前零時を計測する時計装置であり、この時計装置で天球上において太陽が1年間に通過する〔黄道(こうどう)〕を観測していた。
大湯環状列石が作製された約4000年前頃、獅子座流星群の輻射点が子午線経過してから2時間後に、北斗七星の「鳥」の星(ε星)が子午線経過した。
現在は、獅子座流星群の輻射点が子午線経過して2時間35分ぐらい後に、北斗七星の「鳥」の星が子午線経過する。
野中堂遺跡の日時計組石は北斗七星の「鳥」の星を用いて黄道を観測する装置であった。ゆえに、北斗七星の「鳥」が子午線経過する約2時間前(古代では、「2時間」を「一刻」と称した)に子午線通過する獅子座流星群の輻射点を、古代の天皇は注目していたのである。
鈴木俊太郎著『星の事典』の159頁~160頁にかけての獅子座流星群に関する記事は、下記のごとくである。
「この流星群の記録はわが国の古書にも多く、醍醐天皇の延喜二年(902)にはじまり、村上天皇の康保四年(967)がこれに次ぐ。この流星群の日本における記録が諸外国に比べて豊富であることは注目に値する。」
以上のごとく、わが国とエジプトの古代史には、〔精密に緯度が測定できる天頂緯度測定〕を基軸にした天文学と【銀河各部の形状】を【文字】の字源とした学芸を、王朝の政権基盤にして厳重な機密としたという共通点がある。
ゆえに、わが国の特別史跡の大湯環状列石、静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、竜安寺の石庭、滋賀県彦根市の3千万の大鳥の地上絵、京都市の桂離宮の庭園などを調査すれば、エジプトのヒエログリフの字源の秘密の全貌が科学的に解明できるようになっている。
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