G-T0XYQT12LL スフィンクス: 卑弥呼の逆襲

スフィンクス

2011年12月29日 (木)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・28

 今回もまた前回〔27〕と同じ、ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島文夫訳『図説 古代エジプト文字入門』(河出書房新社)の32頁の「大熊座」と29頁の「ピラミッド」という言葉をあらわす字源や語源について解説することにする。
 今回は、前回の順序を逆にして「ピラミッド」を前に、「大熊座」を後に取り上げて解説する。

 「語(言葉)をあらわす意味がわかる絵文字」、この表意文字を「決定詞」と称する。
 発音に用いられる文字は、①単子音字(いわゆるアルファベット)、②2子音字、③3子音字、④音声補語などがある。
 これらの「発音に用いる文字」を、これからの解説では「表音文字」と一括して呼ぶことにする。

 ステファヌ・ロッシーニ著╱矢島文夫著『図説 古代エジプト文字入門』の29頁に記載される「ピラミッド」の決定詞は、右下の②「三角形」の「ピラミッド」を意味する文字である。
 〈ベネベネト〉すなわち〈bnbnt〉と発音する表音文字は③「片足」・④「さざ波」と⑤「片足」・⑥「さざ波」である。
 つまり、③「片足」の〈b〉、④「さざ波」の〈n〉、⑤「片足」の〈b〉、⑥「さざ波」の〈n〉、「ピラミッド」を意味する決定詞の上にある①「半円形」の〈t〉で〈bnbnt(ベネベネト)〉となる。
 この〈bnbnt〉の最後の〈t〉となる①「半円形」・〈トゥ〉と発音する文字は、タ行をあらわすヒエログリフの基本アルファベットである。
 このタ行をあらわす基本アルファベットの表音文字の①「半円形」は、決定詞的な役割を有していることになる――というのも、前回に指摘したように、①「半円形」の字形は「春分・夏至・秋分・冬至の日の地平線上に昇る太陽」を図案するものであり、この文字の字源は「二分二至の朝日」であるからである。
 そして、5回前の〔22〕で指摘したように、3大ピラミッドとその複合体(葬祭殿・参道・河岸神殿)と大スフィンクスは「二分二至」を表示する建造物であった。
 だから、②「ピラミッド」を意味する決定詞の上にある「二分二至の朝日」が字源である①「半円形」の文字は、決定詞を補う役割があることになる。

 上記したように、表音文字には④「音声補語」と分類される文字がある。ということは、決定詞の②「ピラミッド」の真上にある①「半円形」の文字は”決定詞補語”の役割を有するものであったことになる。
 首都であったメンフィスはナイル川の西岸に立地する。このメンフィスの東を流れるナイル川はギザのピラミッドにつながる下流ではない。ギザのピラミッドの東を流れるナイル川は本流であり、メンフィスの東に流れるナイル川は本流から分かれた西方の大地を流れる支流である。したがって、ギザのピラミッドの東を流れるナイル川はメンフィスの朝日が昇る東方に所在する。だから、決定詞の②「ピラミッド」の上に「二分二至の朝日」が字源となる決定詞補語を配置されたのである。

 メンフィスからギザのピラミドに到着するには、ナイル川の支流の西岸から東岸へと渡らなければならない。ゆえに、表音文字の〈ベネ(bn)〉の③「片足」と④「さざ波」の2字は「川を渡る」をあらわし、表音文字の〈ベネ(bn)〉の⑤「片足」と⑥「さざ波」は「ナイル川の本流の西岸を北に向かって歩く(とピラミッドに到着する)」をあらわすものとなる。
 表音文字〈ト(t)〉にして決定詞補語の①「半円形」の太陽は「ピラミッドは二分二至に地平線から昇る朝日を祭る建造物」であると示すものとなる。
 以上のように、表音文字にも「ピラミッド」という語の意味をあらわす役目がある。

 アンドルー・ロビンソン著╱片山陽子訳『文字の起源と歴史』(創元社)の116頁は、「決定詞」を「表語文字」という名で呼んで、ヒエログリフの文字について下記のごとく指摘する。
 「ヒエログリフは表音文字と表語文字が併用されるシステムで、文字の多くが、文脈によって表音文字にも表語文字にもなる。つまり、表音文字と表語文字の境がはっきりせず、固定的でない。ヒエログリフは明確な区別を維持できない文字なのだ。」
 この「ヒエログリフの表音文字と表語文字(決定詞)の境がはっきりせず、固定的でない」という特性は、上記の「ピラミッド」という語に使われる文字でも示される。

 ステフェヌ・ロッシニー著『図説 古代エジプト文字入門』の32頁の、〈ヘペシュ(hps)〉と発音する6字で「大熊座」という語の語源の秘密に、話題を変える。
 この「大熊座」の決定詞は①「神」の絵文字である。
 〈ヘパシュ(hps)〉と発音する表音文字は②「疾走するライオンの足」、③「7等分した縦長の長方形」、④「胎盤」、⑤「周囲が傾斜した池」、⑥「星」である。
 この6字で構成する言葉の決定詞を、『図説 古代エジプト文字入門』は「大熊座」と指摘する。
 しかし、③「7等分した縦長の長方形」からして、決定詞は「北斗七星」をあらわすものであったにちがいない。もっとも、北斗七星は大熊座の一部であるが、決定詞は「北斗七星」であったと考えられる。
 また、表音文字⑥「星」は「北斗七星」の7星中の一つの星を「神」と崇拝すると示すものであると考えられる。だから、決定詞①「神」は〔北斗七星の7星中の一つ星〕を「神」とするものであると考えられる。

 決定詞を「北斗七星の中の一つの星」と定めると、⑥「星」の文字は「大熊座の星たち」をあらわすものではなく、決定詞①「神」の意味に合致する、別の神聖な星をあらわしていることになる。
 ⑥「星」の文字の上は②「疾走するライオン(獅子)の片足」を図案化した文字である。
 6回前の〔22〕で指摘したように――ギザの3大ピラミッドと大スフィンクスが建造された4500年前、「獅子座のγ(ガンマ)星」(光度2.3等の美しい重星)は首都メンフィスの(北緯29度59分)の天頂にめぐってきた。また、「ぎょしゃ座のβ(ベータ)星」(光度2.1等の準巨星)もメンフィスの天頂を通過した。
 3大ピラミッドと大スフィンクスが建造された4500年前、春分の日の午前2時になる「ヘルクレス座のα(アルファ)星・ラスアルゲチ」が、3大ピラミッドと大スイフィンクスの天頂(北緯30度)の天頂で輝いた。このヘラクレス座α星・ラスアルゲチは美しい二重星で、光度が3.5等の橙色の星と5.4等の鮮緑色の星からなる。また、「ペルセウス座のγ星」も、ギザの天頂を通過した。
 これら4つの星は首都メンフィスとギザの3大ピラミッドの位置(緯度)を示す目印(めじるし)となり、メンフィスを離れ、ギザより遠い地に旅した人々が家に帰ることができる、命をまもる“守護星”となった。ゆえに、これら4つの星は神聖な星となって重視されたにちがいない。

 首都メンフィスの天頂を通過した「獅子座のγ星」は、獅子座の〔たて髪〕の箇所に位置する。
 前回〔27〕にて、〔獅子座のξ(クサイ)、ο(オミクロン)、α(アルファ)、η(エータ)の4星〕は[獅子座の前足]になるので、②「疾走するライオンの足」の字源になったと指摘した。
 獅子座の首からたて髪にかけてのα、η、γ、ζ(ゼータ)、μ(ミュー)、ε(エプシロン)の6星は西洋鎌の形となる。このため、この6星は“獅子の鎌”と呼ばれる。
 この“獅子の鎌”の星座の形は、カップと柄(え)からなる北斗七星の形に類似する。
 5000年前の第1王朝のナルメル王の時代、獅子座のγ星はギザの天頂にめぐってきた。
 3大ピラミッドが建造された4500年前当時、獅子座のγ星より40分北側、つまりγ星とζ星の中間のγ星に近い箇所が、ギザの天頂となった。
 5000年前の第1王朝時代、そして3大ピラミッドが建造された第4王朝時代、北斗七星に類似する“獅子の鎌”が子午線経過した時、北斗七星のカップがともに子午線経過(上経過)した。
 3000年前の第3中間期の第21王朝時代においても、“獅子の鎌”が子午線経過した時、北斗七星のカップが子午線通過した。
 獅子座のγ星とζ星付近の“獅子の鎌”の中に輻射点(ふくしゃてん)を有する流星群を“獅子座流星群”と称する。
 この“獅子座流星群”は、今日の暦において、11月14日から19日にかけて出現する。それゆえ、“11月流星群”とも呼ばれる。この“獅子座流星群”は約33年目ごとに、いちじるしい流星雨の現象をあらわすことが観測されている。
 3大ピラミッドが建造された4500年前、北斗七星のカップが子午線通過し、“獅子座流星群”が子午線通過するのは、今日の暦の11月14日の午前1時間ごろ、11月19日の午前0時40分ころであった――この時、“獅子座流星群”は3大ピラミッドの天頂点から約3度の北側(高度87度)から発射され、その流星雨は真下のピラミッドに向かって降ってきた。
 だから、⑥「星」の字源は「大熊座の星たち」ではない。
 ⑥「星」の文字は、その「神」と崇拝する星が――メンフィスとギザのピラミッドの天頂で輝いた4つの星「獅子座のγ星、ぎょしゃ座β星、ヘルクレス座α星、ペルセウス座γ星」の守護星のごとく神聖にして重大な星であると示す。
 また⑥「星」の文字は、その「神」と崇拝する星が――ピラミッドが作られた当時、天頂点付近にめぐってきた“獅子座流星群”の輻射点との関連がある星であったと示す。
 〔歳差(さいさ)〕という現象によって、3000年前から「獅子の鎌」が子午線通過する時に北斗七星のカップが子午線通過しなくなった。
 しかし、この〔歳差〕の影響もなく、4500年前の3大ピラミッドが建造された第4王朝時代と3000年前の第21王朝時代の「獅子の鎌」の緯度はほとんど同じであった。だから、第4王朝時代から第21王朝時代まで、“獅子座流星群”の輻射点が3大ピラミッドから3度北側を子午線通過する時、北斗七星のカップも子午線通過していた。

 ⑥「星」の真上に、前回〔27〕で解明した②「疾走する獅子・ライオンの片足」が配置される。
 この②「疾走する獅子の片足」の文字は「獅子座流星群(の輻射点)」をあらわすものであると考えられる。
 というのも、鈴木俊太郎著『星の事典』(恒星社厚生閣)の159頁は“獅子座流星群”の「流星の速度は速やかな条痕(じょうこん)を残すのが特徴である」と記述するからである。
 この流星のイメージから〔全力疾走する獅子の足〕を連想された。
 ゆえに、⑥の「星」の文字の上に、「獅子座流星群」のイメ-ジを示す②「疾走する獅子の片足」を図案する文字が配置されたのである。 

 7回前〔21〕にて指摘したように、ギザの3大ピラミッドが建造された今から約4500年前、〈ラー〉と発音する「太陽」を意味する文字[◎]の字源・字形となる「白鳥座γ星」が子午線経過する時、エジプト暦の元日となる夏至の午前零時となった。
 当時の「白鳥座γ星」の緯度は赤緯(せきい)プラス34度である。ゆえに、白鳥座γ星はギザの3大ピラミッドから4度北側を子午線経過した。ということは、獅子座流星群の輻射点は3度北側(すなわち赤緯プラス33度)を子午線経過するものであったので、白鳥座γ星と獅子座流星群の輻射点はほぼ同じ高度であったことになる。
  前回で解明したように、「北斗七星」という語に使われる④「胎盤」をあらわす文字の字源は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。
 今から4500年前の第4王朝時代、「北アメリカ星雲の北部」の赤緯はプラス33度ぐらいであったので、「北アメリカ星雲の北部」が子午線経過する時の高度は獅子座流星群の輻射点とほとんど同じであったことになる。
 第4王朝時代、「長方形の暗黒天体部の北の辺」も獅子座流星群の輻射点とほぼ同じ赤緯プラス32度を子午線経過した。
 当時、北アメリカ星雲が子午線経過する時、北斗七星の第5星の7星中最も光が強いε星が子午線のすぐ横に位置し、もうすぐ子午線上に乗ろうとしていた。「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過した時、北斗七星のε星が子午線上に乗った。この間、わずか10分である。

 ①「神」という語に使われる表音文字は②「疾走する獅子の片足」の左隣に③「7等分した縦長の長方形」、この③の文字の左隣に④「胎盤」、③・④の下に⑤「周囲が傾斜した池」が配置される。
 ②「疾走する獅子の片足」の隣に③「7等分した縦長の長方形」に配置したのは――④「胎盤」の字源「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が子午線経過し、次に⑤「周囲が傾斜した池」の字源「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過する、北斗七星のε星が子午線の直ぐ東に迫って子午線上に乗る――この「わずか10分間」を表現するためのレイアウトであると考えられる。
 ③「7等分した縦長の長方形」の〔7等分〕は「7つの星」をあらわして「北斗七星」を示すものとなる。
 この③「7等分した縦長の長方形」の左隣に④「胎盤」の文字が配置される。
 ④「胎盤」の字源「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔渦を巻く円形〕である。北斗七星は天の北極を中心にして日周(にっしゅう)運動する。この〔北斗七星の日周運動する軌道〕と〔渦を巻く円形〕の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は相似する。
 だから、「北斗七星」が字源である③「7等分した縦長の長方形」は、渦を巻く円形の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が字源となる④「胎盤」の文字の右隣に配置されたのである。

 ⑤「周囲が傾斜した池」の字形は字源の「長方形の暗黒天体部」に相似せず、長いほうの2辺が長すぎる。
 この⑤の文字の上の右側に配置される③「7等分した縦長の長方形」は子午線通過する時の「長方形の暗黒天体部」の形にほぼ近いが、少し縦に寸足らずである。
 ⑤「周囲が傾斜した池」の字形は、「池」を意味する〈シュ(sh)〉と発音する文字を基本字とする異体字(いたいじ)である。ゆえに、⑤「周囲が傾斜した池」の字形は「池」をあらわす文字の字形をそのまま受け継いだので、正方形が二つ合体する「長方形の暗黒天体部」の形に相似しないことになった。
 そこで、③「7等分した縦長の長方形」を少し寸足らずにして、③と⑤の文字の〔長方形の中間の形〕が「長方形の暗黒天体部」の形であると示したのである。

 ③「7等分した縦長の長方形」から7つの星で構成される「北斗七星」と示され、②「疾走する獅子の片足」は〔獅子座流星群〕の形状から「わずかの時間」が連想される。
 そして、⑥「星」は複数でなっく一つであるゆえ、「北斗七星」のうちの「一つの星」をあらわすものであるにちがいない
 これゆえ、ステファヌ・ロッシニー著『図説 古代エジプト文字入門』は、〈ヘベシュ(hps)〉と発音する決定詞①「神」は「大熊座」であると指摘するが、「北斗七星の7星中の一つの星」だけが「神」であると示していると考えるべきことになる。

 上に大きく赤字で示したように――ギザの3大ピラミッドが建造された当時、④「胎盤」の字源となる「北アメリカ星雲」が子午線経過する時、北斗七星の第5星のε星が子午線のすぐ横に接近していた。〔北斗七星のカップ〕をあらわす⑤「周囲が傾斜した池」の字源となる「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」が子午線経過した時、北斗七星のε星が子午線上に乗った。この間、わずか10分である。
 ゆえに、この〔わずか10分〕は②「疾走する獅子の片足」であらわされた。
 だから、②「疾走する獅子の片足」の下に配置される⑥の「星」があらわす〔北斗七星の7星中の「神」と崇拝された星〕は「ε星」となる。
 よって、決定詞①「神」は「北斗七星のε星」となり、「大熊座」でもなく「北斗七星」でもないことになる。

 決定詞「北斗七星の神」には、顎鬚(あごひげ)がつく。
 「鬼の姿に似る銀河」の顔には顎鬚がある。この顎鬚は「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」に連結する。(この連結部分は、「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河の北端」となる)。
 「北斗七星のカップ」と「長方形の暗黒天体部」は⑤「周囲が傾斜した池」の文字で表示された。
 ゆえに、「北斗七星のカップ」を「長方形の暗黒天体部」に見立てると、「北斗七星のカップ」に連結する「ε星」は「長方形の暗黒天体部の北の辺の東端」に連結する「顎鬚」の形状に合致する。
 だから、①の決定詞の「神」は「北斗七星のε星」をあらわすものであったのである。
 なお、現在のギザの大スフィンクスには顎鬚がついていたが、現在は付いていない。しかし、スフィンクスの聖なる顎鬚はカイロのエジプト博物館に所蔵されている。

 ギザの3大ピラミッドが建造された当時(4500年前)、北斗七星で最も光が強い光度1.8等のε星が、夏至点と天の北極を結ぶ子午線を擦(こす)るように東に位置した。
 これゆえ、当時の春分の日の午前零時にはε星は天の北極の西に位置し、夏至の午前零時にはε星は天の北極の北に位置し、秋分の日の午前零時にはε星は天の北極の東に位置し、当時の日の午前零時にはε星は天の北極の南に位置した。
 また、ε星は昼夜の長さが同じ春分の日の夕刻・午後6時には天の北極の南に位置し、昼の長さが最も短い夏至の日の1ヵ月前の夜の午後8字には天の北極の西に位置し、昼夜の長さが同じ秋分の日の夕刻・午後6時には天の北極の北に位置し、昼の長さが最も長い冬至の日の太陽が地平線に沈んだ時(午後4時)から2時間経過した午後6時には天の北極の東に位置した。当時から1ヵ月後には、太陽が地平線に没する午後4時頃に、天の北極の東に位置した。
 だから、春分・夏至・秋分・冬至の日を明確に示す「北斗七星のε星」は「顎鬚が生える神」となったのである。
 6回前〔22〕にて解明したように、3大ピラミッドは「夏至点・冬至点」を象徴する建造物であり、ピラミッドの複合体である大スフィンクス、葬祭殿、参道、河岸神殿は「春分点・秋分点」を象徴する建造物であった。
 ゆえに、葬祭殿・参道・河岸神殿は「神」を祀る建造物であることが明確に示されるゆえ、春分・夏至・秋分・冬至の日を明確に示す「北斗七星のε星」は①の決定詞の「神」であったのである。

 ギザの3大ピラミッドが建造された今から4500年前は、前回〔27〕で指摘した中国の五帝時代の4番目の帝である堯(ぎょう)の時代であった。
 司馬遷著『史記』五帝本紀には、春分、夏至、秋分、冬至の日の夕刻の星空の様子が記述される。この記事における「北斗七星のε星」の名は「鳥」である。
 『史記』五帝本紀は「益(益氏の首長)は帝堯の時代から挙用(きょよう)されていた」と記述する。
 『史記』五帝本紀は、次の帝舜(しゅん)の時代に「益は虞(ぐ)という重職に任命された」と記す。この「虞」という官職は「山林川沢をつかさどる官」とされるが〔川や沢が集まる中国の海岸線地域の地図を作成する官〕であったと考えられる。
 『史記』夏本紀は、「益は夏の始祖・帝禹(う)を継ぐ帝となった」と書く
 『史記』陳杞世家(ちんきせいか)は「益の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである。帝堯と帝舜の時代に、功徳をもって令名のあった臣下である。益の先祖は帝王になった。」と説明する記事がある。
 このように、中国古代史から益氏が忽然(こつぜん)と消えたのは、益氏の子孫が小舟を漕いで大海を越えて日本列島に定住したからである。
 
 今から4050年前、益の子孫である帝益の孫の王子と若者たちは、帝禹の遺志である氏族共同体制の継続を日本列島で実現するため、大海を越えて日本列島に移住した。
 ゆえに、秋田県鹿角(かづの)市に夏代初頭の国の特別遺跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)が作成されて現存することになり、この万座遺跡と野中堂遺跡には夏音文字の学芸の痕跡(こんせき)が現在も明確に残る。
 かくして、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載され、静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、竜安寺の石庭、滋賀県彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵、京都市の桂離宮の庭園などに明確に残る夏音文字の学芸が伝来し、現在まで失われずに残ったのである。

 前々回〔26〕で指摘したように、大湯環状列石の野中堂遺跡の特殊組石「日時計組石」は北斗七星の「鳥」の星を日周運動を利用して午前零時を計測する時計装置であり、この時計装置で天球上において太陽が1年間に通過する〔黄道(こうどう)〕を観測していた。
 大湯環状列石が作製された約4000年前頃、獅子座流星群の輻射点が子午線経過してから2時間後に、北斗七星の「鳥」の星(ε星)が子午線経過した。
 現在は、獅子座流星群の輻射点が子午線経過して2時間35分ぐらい後に、北斗七星の「鳥」の星が子午線経過する。
 野中堂遺跡の日時計組石は北斗七星の「鳥」の星を用いて黄道を観測する装置であった。ゆえに、北斗七星の「鳥」が子午線経過する約2時間前(古代では、「2時間」を「一刻」と称した)に子午線通過する獅子座流星群の輻射点を、古代の天皇は注目していたのである。
 鈴木俊太郎著『星の事典』の159頁~160頁にかけての獅子座流星群に関する記事は、下記のごとくである。
 「この流星群の記録はわが国の古書にも多く、醍醐天皇の延喜二年(902)にはじまり、村上天皇の康保四年(967)がこれに次ぐ。この流星群の日本における記録が諸外国に比べて豊富であることは注目に値する。」

 以上のごとく、わが国とエジプトの古代史には、〔精密に緯度が測定できる天頂緯度測定〕を基軸にした天文学と【銀河各部の形状】を【文字】の字源とした学芸を、王朝の政権基盤にして厳重な機密としたという共通点がある。
 ゆえに、わが国の特別史跡の大湯環状列石、静岡県浜松市北区細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、竜安寺の石庭、滋賀県彦根市の3千万の大鳥の地上絵、京都市の桂離宮の庭園などを調査すれば、エジプトのヒエログリフの字源の秘密の全貌が科学的に解明できるようになっている。 

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2011年12月27日 (火)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・27

 ステファヌ・ロッシニー著╱矢島文夫訳『図説 古代エジプト文字入門』(河出書房新社)の32頁に、〈ヘペシュ(bps)〉と発音する6字で「大熊座」と意味する語が記載される。
 この6字は①「神」、②「(翼が生えたように速く走る)動物の片足」、③「7等分した縦長の長方形」、④「胎盤」、⑤「周囲が傾斜した池」、⑥「星」である。

 〔顔に顎鬚(あごひげ)〕が無い、座っている人の側身形〕を図案する文字は「女」を意味する。
 「神」と「王」をあらわす文字には、顎鬚がつく。
 「大熊座」という言葉をあらわす①の〔ひざを深く折ってうずくまり、腕まで隠れる衣をまとう人の側身形〕を図案する文字には顎鬚〕が生える。
 だから、①の文字は「神」をあらわす。
 「鬼の横顔に似る銀河」の〔顎〕には〔鬚〕の形となる部分がある。また、「鬼の姿に似る銀河」は〔ひざを深く折ってうずくまり、腕まで隠れる衣をまとう人の側身形」に観える。だから、①「神」の字源は「鬼の姿に似る銀河」ということになる。
 ③「7等分した縦長の長方形」の文字は〔子午線通過する北斗七星の7つの星〕をあらわす。
 ⑥「星」の文字は〔北斗七星の星と、その他の大熊座の星〕をあらわす。

 大熊座を構成するすべての星は周極星(しゅうきょくせい)ではない。「天の北極の近くで円周運動するために、地平線の下に沈むことがない星」を「周極星」と称する。周極星は、1日2回の子午線経過をする。〔天の北極と天頂との中間の子午線経過〕を「上経過」という。〔天の北極と地平線の北(北点)との中間の子午線経過〕を「下経過」という。
 大熊座のうちの北斗七星の7つの星は周極星である。
 ①「神」の字源「鬼の姿に似る銀河」が下経過する時、北斗七星が下経過する。
 ④「胎盤」の字源「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」と顎鬚が生える「鬼の横顔に似る銀河」との中間の、その南に「長方形の暗黒天体部」がある。漢字の[池]の字源は「長方形の暗黒天体部」である。ヒエログリフにおいて、「長方形」に図案される文字は「湖、または池」を意味した。
 「大熊座」という語の中に使われる〔長方形の長いほうの2辺の真ん中に平行に短い線を入れて、2つの台形と両端が2つの三角形が形成される長方形〕は⑤「周囲が傾斜した池」を意味する文字とされた。
 「長方形の暗黒天体部」は〔台形に高くなる地所にある池〕のように観える。また、「長方形の暗黒天体部」の北側に結合する暗黒部は、「北アメリカ星雲」と「鬼の横顔に似る銀河の顎鬚」との中間にあって三角形となる。ゆえに、⑤「周囲が傾斜した池」の文字の字源は「長方形の暗黒天体部」ということになる。
 6000年前から2000年前まで、「長方形の暗黒天体部」が子午線経過する時、北斗七星が下経過した。
 紀元前3000年、ナルメル王によって第1王朝が創設された時代、「長方形の暗黒部」が子午線経過する時、北斗七星の第5星・ε(エプシロン)と第6星・ζ(ゼータ)との中間が下経過した。紀元前2000年頃の第11王朝時代、「長方形の暗黒天体部」が子午線経過する時、北斗七星の7星中最も光が強い1.8等のε星が下経過した。
 北斗七星のα(アルファ)、β(ベータ)、γ(ガンマ)、δ(デルタ)の4星が作る台形は〔カップ〕の形に相似し、ε、ζ、η(エータ)の3星は〔柄(え)〕の形に相似する。
 ⑤「周囲が傾斜した池」の字形には〔二つの台形〕がある。この〔台形〕は「北斗七星のカップ」の台形に共通する。したがって、⑤「周囲が傾斜した池」の文字の字源となる「長方形の暗黒天体部」は「北斗七星のカップ」に見立てられたことになる。
 それゆえ「長方形の暗黒天体部」を〔北斗七星の台形のカップ〕に見立てると、「長方形の暗黒天体部」から「北アメリカ星雲」にかけての形状は〔ε星からδ星までの北斗七星の柄〕の形状に類似することに気づく。また、「長方形の暗黒天体部」の東に隣接する〔「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河を経て「十字の銀河の股」まで〕の形状も、〔北斗七星のε星とζ星の中間からδ星までの柄〕の形に類似すると察知できる。
 だから、「大熊座」という語を構成する6字の中にある②「(翼が生えて速く走る)動物の片足」を図案する文字の字源は、「北アメリカ星雲から南に連結する長方形の暗黒天体部の西辺」ということになる。

10回前の〔17〕で解説したように、「北アメリカ星雲」は「ホルスの眼(の上半分)」であり、ホルス神はハヤブサの顔を持つハヤブサの姿からなる天空の神である。
 ハヤブサが降下攻撃するときに250km以上のスピードを出すといわれる。
 「北アメリカ星雲」の北側にして「鬼の姿に似る銀河」の背景となる銀河の形状は〔広げる鳥の片方の左翼〕に相似し、「十字の銀河」の背景となる銀河の形状は「広げる片方の右翼」に相似する。
 そして、『図説 古代エジプト文字入門』の113頁においては、「鳥の左翼」を図案する文字と「動物の片足」を図案する文字を上下に並べ、この2字は「翼:飛ぶ」という語をあらわすと記す。これゆえ、この「動物の片足」に、私は(翼が生えて速く走る)という説明を付け足した。
 5000年前の第1王朝時代から4000年前の第11王朝時代まで、北斗七星のカップが上経過した時、5回前の〔22〕で解説した大スフィンクスのモデルとなった獅子座のξ(クサイ)、ο(オミクロン)、主星のα(レグレス) 、ηの4星が子午線経過した。この〔獅子座のξ、ο、α、ηの4星〕は〔獅子座の前足〕となる。
 ゆえに、「(翼が生えたように速く走る)動物の片足」の文字は〔獲物を追って疾走するライオンの足〕を図案するものだったのである。
 ということは、「北アメリカ星雲から長方形の暗黒天体部の西辺まで」を〔疾走するライオンの前足〕に見立てて、「鬼の姿に似る銀河」は〔ライオンの顔・胴体・後ろ足〕に見立てていたことになる。
 そうすると、『図説 古代エジプト文字入門』は、〈ヘペシュ〉と発音する語を「大熊座」と記しているが、古代エジプトにおいては「大熊座」は「疾走するライオン座」であったのであろうか?

 前回〔26〕にて解説した司馬遷著『史記』五帝本紀にある帝堯(ぎょう)の時代の星空記事における春分点は、現在から4500年前の紀元前2500年の春分点となる。
 わが国には今から4050年前の紀元前2050年頃の夏代初頭(後期縄文時代初頭)に、夏音文字が伝来した。
 上記したように、紀元前2500年~同2050年、「長方形の暗黒天体部」が子午線経過した時、北斗七星にあって7星中最も光が強いε星が下経過した。
 『史記』五帝本紀は――帝堯代の春分の日の夕刻(現在の午後6時)に子午線経過する「北斗七星のε星」の名は、「鳥」であった――と記す。
 漢字の[鳥]の字源は「十字の銀河の背景となる銀河」と「鬼の姿に似る銀河の背景となる銀河」を〔鳥の両翼〕、「十字の銀河」を〔鳥の首〕、「鬼の姿に似る銀河」を〔鳥の胴体〕、「長方形の暗黒天体部」を〔鳥の足〕に見立てて成立する。
 ゆえに、〔鳥の足〕に見立てられた「長方形の暗黒天体部」が子午線経過した時に下経過した北斗七星のε星の名は「鳥」となったのである。
 国の特別史跡の花輪盆地に所在する大湯環状列石
(おおゆかんじょうれっせき)の野中堂(のなかどう)遺跡の日時計組石は、「鳥」(北斗七星のε星)を利用して、天球上における太陽が1年間通過する道となる黄道(こうどう)を測量する装置であったと現在に伝える。
 [命]の字源となる「長方形の暗黒天体」は〔精密に天頂緯度が測定できると憧れる天体部〕であった。ゆえに、この「長方形の暗黒天体部」が子午線経過する時に下経過する北斗七星のε星は注目され、この星は「鳥」と名づけられて、黄道を測量するための目星となったのである

 『図説 古代エジプト文字入門』の29頁に、〈ベネベネト(bnbnt)〉と発音する「ピラミッド」という言葉をあらわす6字が記載される。
 この6字は円形の下が欠けて無い①「半円形」、この「半円形」の下に②「ピラミッド」をあらわす三角形、この「半円形」と「ピラミッド」の左横に③「片足」とその下に④「さざ波」の文字が配置され、この「片足」と「さざ波」は1組セットになって隣に並び、⑤「片足」と⑥「さざ波」になって配置される。
 ⑤「片足」を図案する字の字源は「十字の銀河の子宮と重なる西の足」である。
 ⑤「片足」の文字の下の⑥「さざ波」の字源は「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」である。この「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」は「十字の銀河の両足の中央(股の部分)」から発するが、「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」は「十字の銀河の子宮と重なる西の足」がある西へ向かって流れる。ゆえに、⑥「片足」の字源は「十字の銀河の子宮と重なる西の足」となる。
 漢字の字源を研究する学者で有名な加藤常賢博士が著作した『漢字の起源』(角川書店)の「1501」と記される[足]の金文形は〔膝(ひざ)から下の足〕の図案である。この[足]の金文形は「十字の銀河の子宮と重なる西の足」と「コールサックの南北を180度転回して上南・下北した、コールサック北部の両足の内の西の足半分」を図案化したものである。
 (ただし、西に爪先がある「コールサック北部の内の西の片足」は〔西から東に流れる「黄河の水」をあらわして「地法」を示すものとなり、東に爪先がある「コールサック北部の内の東の片足」は〔東から西へ移動する天体の運行〕をあらわすものとなった。そして、この「コールサック北部の西の片足・東の片足」は、両方とも、[足]と[正]の字源となった。)

 この「コールサックの上南下北の形状」は〔膝から下の両足〕や〔腿(もも)から下の両足〕の形に相似する。
 「ピラミッド」という言葉の中で使われる③「片足」の字形は「腿から下の足」を図案したものである。
 ゆえに、[足]の金文形とヒエログリフ「ピラミッド」という言葉の中に使われる③「片足」の字源は同じとなる。
 6回前〔21〕で解説したように、ギザの3大ピラミッドの内のクフ王のピラミッドの設計モデルは「北アメリカ星雲」であり、カフラー王のピラミッドの設計モデルは「ペリカン星雲より放たれる3本線の閃光(せんこう)のような銀河部」であり、メンカウラー王のピラミッドの設計モデルは「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の左側の頭髪の生え際にある小さな三角形の銀河部」である。
 この〔3大ピラミッドの設計モデルとなった銀河部〕は、[足]の金文の字形となった「コールサックの北部の西の足の側面」となる。
 吉村作治・後藤健編者『NHKスペシャル 四大文明 エジプト』(日本放送出版局協会)の17頁には、CG画像による「三大ピラミッドのほとりまで達していた氾濫期のナイル」という写真が掲載される。このCG画像では――〔さざ波〕が立つナイル川の水はクフ王の河岸神殿より西側の参道まで達し、カフラー王の河岸神殿はナイル川の水に漬(つ)かり、メンカウラー王の河岸神殿の半分ぐらいまでナイル川の水が達している。
 したがって、「ピラミッド」という語を構成する④「さざ波」の字源は「3大ピラミッドの河岸神殿まで達するナイル川の水」ということになる。

 「ピラミッド」という語の中に使われる②「ピラミッド」を意味する文字の字形は〔三角形〕である。
 5回前〔22〕において――メンカウラーのピラミッドの参道が指差す方向は「春分の日の午前零時」をあらわし、またこの春分の日の午前零時にはメンカウラー王のピラミッドの参道が指差す東の空高く「夏の大三角(琴座、白鳥座、鷲座の主星が構成する三角形)」が昇っていた――ことを解説した。
 ゆえに、〔三角形〕であらわされる②「ピラミッド」の文字の字源は「ピラミッド」と「夏の大三角」ということになる。

 6回前〔21〕にて――「白鳥座γ星」は〔ピラミッドの頂上〕に相当し「白鳥座のα・δ・η・εの4星」は〔ピラミッドの底辺(地面と接する四角形)〕に相当する――と解説した。
 この白鳥座α星とγ星を結ぶ線は、③「コールサック北部の西の足」の〔5本指のつけ根〕に相当する。
 そして、〔21〕にて解説したように、「白鳥座γ星を中心にして円形に包囲する銀河」は「太陽」や「日」を意味する〈ラー〉と発音する字形が[◎]となる文字の字源となった。
 この「白鳥座γ星が子午線経過する時、エジプト暦の元日となる〔夏至の午前零時〕であった。
 そうすると、「ピラミッド」という語を成立させる右上の①「半円形」の文字は〔夏至の午前零時〕を示す図案であろうか。しかし、〔夏至の午前零時〕ならば〔円の中心に縦線を入れる図案〕か〔円を左右に二分した半円形の図案〕となるであろう。
 「ピラミッド」という語をあらわす6字の中にある①「半円形」は〔円を上下に二分した、上半分の形〕である。
 そうすると、この①「半円形」は〔東の地平線上にあらわれた朝の太陽〕を図案するものであると考えられる。
 全天第一の輝星おおいぬ座の主星シリウス(光度マイナス1.4等)が日の出の前に東の空に現れると、毎年きまってナイル川の洪水がおこる、エジプト暦の元日の夏至の日の朝であった。
 したがって、①「半円形」は「夏至の日の日の出」を図案化したものであったとことになる。
 「光」「輝き」を意味する〈アクゥ〉と発音する語の中に使われる「太陽と3本の光線」を図案化した「太陽」を示す上部の〔円〕の字源は円形に観える「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」である。
 この「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「ホルスの眼」の〔瞳〕となる。
 そうすると、「北アメリカ星雲」もまた①「半円形」の字源であったにちがいない。
 というのも、「ホルスの眼」の[瞳]の半分となる東の「北アメリカ星雲」と西の「ペリカン星雲」を図案化すると〔円を上下に二分した、上半分の半円形〕となるからである。
 また、「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」は③と⑤の「腿から下の足」の文字の③「片足」の字源となる「コールサック北部の西半分」と⑤「片足」の字源となる「十字の銀河の子宮と重なる西の足」の中間にある。
 ゆえに、①「半円形」の字源は「ペリカン星雲」であったにちがいない。というのも、「ペリカン星雲」は西にあり、「北アメリカ星雲」は東にあるので、西の「ペリカン星雲」のほうが先に地平線上にあらわれるからである。だから、地平線上に「ホルスの眼」の〔瞳〕が半分姿をあらわす、この半分は「ペリカン星雲」ということになる。
 5回前の〔22〕で指摘したように、カフラー王のピラミッドの前に建造されたスフィンクスの古称は「地平線のホルス」であった。「地平線のホルス」のうちの瞳となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が地平線上に現れた形状は〔半円形〕となり、この「半円形」は「ペリカン星雲」であった。ゆえに、「ピラミッド」という語に使われる①「半円形」の字源は「ペリカン星雲」ということになる……。でも、「地平線のホルス」は「春分の日の午前零時」を表示する目星であった。
 5回前の〔22〕では、下記のごとく指摘した。
 3大ピラミッドは「夏至点・冬至点」を示す〔象徴する〕建造物であり、3大ピラミッドの複合体と大スフィンクスは「春分点・秋分点」を表示する(象徴する)建造物であったのである。
 そうすると①「半円形」の字形は「地平線上の朝日」を図案するものであるからして、①「半円形」の字源は「春分・夏至・秋分・冬至の日の地平線から昇る朝日」であると考えるべきことになる。 

 いままでの解説をまとめると、〈ベネベネト〉と発音する「ピラミッド」という語に用いられる①「半円形」の字源は「春分・夏至・秋分・冬至の日の朝日」、②「ピラミッド」の字源は「ギザの3大ピラミッド」と「夏の大三角」、③「片足」の字源は「コールサック北部の西の足」、④「さざ波」の字源は「氾濫期の3大ピラミッドの河岸神殿まで達するナイル川の水」、⑤「片足」の字源は「十字の銀河の子宮と重なる西の足」、⑥「さざ波」の字源は「ナイル川の氾濫の形状に似る銀河」ということになる。

 以上のように、「ピラミッド」という語を構成する6字は、〔21〕と〔22〕で解明したギザの3大ピラミッドと大スフィンクスと参道や「地平線のホルス」の秘密に合致する。ゆえに、〔21〕と〔22〕でおこなった解明は正しく、事実であったことになる。

 2世紀初頭に成立した漢字の字源を解説する許慎(きょしん)が著作した聖典『説文解字』の序は「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識(し)るなり」と記述する。
 このように、許慎は「銀河から作られた文字は経(科学・学術)と芸(造形芸術)の根本であり、王道政治が起源した強大な権力基盤となるものであり、歴史を知る方法である(前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古を識るなり)」と指摘する。
 12回前〔15〕のナルメル王のパレット(化粧板)よりこの回の3大ピラミッドと大スフィンクスの秘密を説明したように、漢字と同じくエジプトのヒエログリフもまた銀河から作られ、科学(学術)と芸術の根本であり、王朝が起源した強大な政権基盤であり、銀河の形状を観て歴史を知る方法であったのである。

 『魏志倭人伝』は「倭の占いに用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとし、すなわち中国殷代(いんだい)の亀の甲羅に刻む甲骨文字に相似する文字を使用した」と明記し、また「伊都(いと)国の役人たちは魏と帯方郡および諸韓国と倭が使節を送って国交を結ぶ時に送ったり受け取った時に、卑弥呼が用いる文字は差錯(ささく)・相違していたので、点検し確認していた」と記述する。
 このように、倭には確かに文字があった。
 卑弥呼の用いる魏、帯方郡、諸韓国と差錯する文字は、中国の正史『新唐書』日本伝に記載される夏音文字であった。この夏音文字においては【銀河各部の形状】が【文字】であった。
 卑弥呼が生存して弥生後期、日本列島の天頂に、ヒエログリフの「大きな家」を意味する〈ファラオ〉や「霊」を意味する〈カー〉の字源となって重視された「長方形の暗黒天体部」がめぐってきた。当時、中国の天頂にも「長方形の暗黒天体部」がめぐってきた。
 倭の使者たちは、最も精密天頂緯度が測定できる[命]の字源「長方形の暗黒天体部」を測量して大海を往来していた。しかし、魏、帯方郡、諸韓国においては天頂緯度測定の慣習は廃絶(はいぜつ)されていた。これゆえ、魏・帯方郡・諸韓国の使節は「長方形の暗黒天体部」で天頂緯度測定できなくなったいたため、大海を往来することができなかった。また、魏・帯方郡・諸韓国では【銀河各部の形状】を【文字】とする習慣が廃(すた)れていた。
 したがって、魏はじめ中国、帯方郡、諸韓国では重大な字源銀河部となった「長方形の暗黒天体部」で精密に天頂緯度を測定する習慣は失われ、【銀河各部の形状】を【文字】とする学芸も廃れていた。だから、魏はじめとする中国、帯方郡、諸韓国と倭の夏音文字は差錯(相違)していたのである。
 夏音文字はじめ仏教の経典に用いられた楷書も、中国からわが国に伝来した。この漢字の原郷(げんきょう)である中国では、「長方形の暗黒天体部」が天頂にめぐってきた3世紀において、天頂緯度測定を基軸として体系づけられた天文地理学と【銀河各部の形状】を【文字】とする学芸が失われていた。いっぽう、わが国では「長方形の暗黒天体部」が重視され、「長方形の暗黒天体部」から神社に入口の門とする「鳥居」が作られるようになった。今日、欧米の人々には「鳥居」は「日本」を象徴するものであるが、漢字の原郷の「中国」を象徴するものではない。この「鳥居」が示すように、中国では【銀河各部の形状】を【文字】とする学芸は失われていたが、わが国では栄えていた。

 3回前の〔24〕で説明したように、子午線経過するときの「長方形の暗黒天体部」の南半分には「2連菱形の銀河部」がある。この「2連菱形の銀河部」は、日本で最も多い神社名の「八幡宮」の「八幡」の語源となった。「2連菱形の銀河部」の菱形[◇]は、「八幡」の[幡]の字源である。『説文解字』は[幡]の字源を「書兒(しょじ)、觚(こ)に拭(ふ)くの布なり」と解説する。この[幡]の字源解説は「黒板拭きの布である」と伝えるものである。
 [幡]の字源につづいて、〔24〕に「書く」の[書]の字源銀河を解説した。[書]の下の[日]の字源は「長方形の暗黒天体部」である([書]の上半分の[聿]の字源は「十字の銀河」である)。
 このように、「長方形の暗黒天体部」は「書く」の[書]の字源にして「書いた文字を消す道具・器具」の字源でもあった。それというのも、五帝時代、夏代、殷代前半期まで、文字が銀河から作られた秘密は強大な権力を手に入れた帝王の最も重大な政権基盤であったので、厳重な機密とされたからである。つまり、「文字は書いた後、そのまま残さずに必ず消す」と定めるものであったため、「長方形の暗黒天体部」は[書]と[幡]の両方の字の字源となった。
 このため、約1000年間の三皇時代の結縄は約130字ぐらい出土しているが、五帝時代~殷代前半期までの約1700年間の出土した文字数は30字あるかないかの状況である。殷代後半期の甲骨文字の出土した文字数は、一挙に急増して約3000(そのうち解読されているものは約1200)といわれる。
 このような五帝時代から殷代前半期までの出土した文字は極端に少ないのは、わが国に伝来した夏音文字が示すように、「文字は書いた後、そのまま残さずに必ず消す」と厳しく禁止されていたからである。
 だから、卑弥呼が用いていた夏音文字では、「文字を書いた後、そのまま残さずに必ず消す」と厳重に定められていた。
 倭の占いに用いられた夏音文字は――『説文解字』の序が「王政の始め」と伝えるように「王道政治の強大な権力基盤」であったので、卑弥呼は王朝の崩壊を警戒して書いたまま残すことを厳重に禁止し、怠った者は死刑にすると法で定めるものであった。ゆえに、書いた後に[幡]の字源「黒板拭きの布」のような道具・器具で消されていたのである。
 だから、今日、夏音文字は遺物として発掘されないのである。

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2011年12月15日 (木)

枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・22

 エジプトの史跡にあって、全長57m・高さ20mの大スフィンクスは、3大ピラミッドとともに世界的に有名である。
 古代エジプトでは多くのスフィンクスが造られたが、ギザのスフィンクスが最大にして最古のものである。
 胴体の部分はもともとあった岩山を彫ったもので、そのあと石灰岩で造った頭部を載せたのではないかと考えられている。

 この大スフィンクスの建造目的と建造した年代について諸説がある。

 そのなかの一つは、スフィンクスはカフラー王のピラミッドの前、ピラミッドに付属する河岸神殿に隣接していることから、カフラー王のピラミッドを守護するために造られたとする説である。したがって、ピラミッド複合体の一つとしてカフラー王の時代に建設され、スフィンクスの顔はカフラー王に似せて造ったと、最初は考えられていた。

 しかし、カフラー王の河岸神殿とスフィンクス神殿は石材もその組み方も違うので、スフィンクスはカフラー王のピラミッドよりも以前、クフ王の時代に建造され、スフィンクスそのものが太陽神としての信仰の対象だったという説が登場した。
 この説の場合、カフラー王のピラミッドとその他の複合建築(河岸神殿・参道・葬祭殿など)は、あらかじめ建造されていたスフィンクスを取りこむようにして、後に建設されたということになる。 

 ゆえに、これからの意見は、スフィンクスはクフ王の時代に建造されたという説にしたがうことにする。

 なお、スイフィンクスの前にある神殿跡を「スフィンクス神殿」と呼ぶ。このスフィンクス神殿は、スフィンクスの周辺から石材を運んで建設されたことが判明した。このため、スフィンクスとスフィンクス神殿は同時代に建設されたことになった。

 仁田三男著『図説 古代エジプト1』(河出書房新社)の37頁は、ギザの大スフィンクスの古称について下記のように記す。

 「古代名は〔ホル・エム・アケト(地平線のホルス)〕と太陽神ラーの化身であるホルス神と同一視されていた。ホルス神がまた、現世の王のことであるから、スフィンクスは王権と太陽信仰の結びつきを象徴するものであったのだ。」

 この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する〕の17回と18回に解説したように、ヒエログリフ「ホルスの眼」の字源となった銀河は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲とその周辺の目の形に似る銀河部」である。そして「ホルス神」は「二重冠」を頭上に戴(いただ)くゆえ、ヒエログリフ「二重冠」の字源「鬼の姿に似る銀河」から「ホルス神」が創造された。「鬼の姿に似る銀河の首から心臓部まで」の部分にヒエログリフ「ホルスの眼」の字源となった「北アメリカ星雲・ペリカン星雲とその周辺の目の形に似る銀河部」が隣接し、「鬼の姿に似る銀河の首につく両眼」が〔ホルスが父オシリスを殺した叔父セトを敵視して憎悪する両眼」となる。
 だから、上記の『図説 古代エジプト1』が指摘するように、〔ホル・エム・アケト(地平線のホルス)〕すなわち「ホルスの眼」と太陽神ラーの化身である「ホルス神」は同一視されたのである。 

 前回(21)で指摘したように、「クフ王のピラミッド」は「ホルスの眼」の一部となる「北アメリカ星雲」に呼応して造られた。
 上記に示したように、スフィンクスはクフ王の時代に建造されたゆえ、「クフ王のピラミッド」のモデルとなった「北アメリカ星雲」はヒエログリフ「ホルスの眼」の字源銀河の一部であった。ゆえに、スフィンクスは”地平線のホルス”と称されることになったのである。

 ”地平線のホルス”という名のとおり、今から約4500年前のクフ王の時代のヒエログリフ「ホルスの眼」の字源銀河部が地平線上に出現する状況を再現すると――「ホルスの眼」は春分の日の午前零時の1時間前(23時)に、東からほぼ45度の東北の地平線上から出現していたことになる。
 このとき 「ホルスの眼」の西側の「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」が東から30度の東北東の位置にあり 地平線から10度~20度の高さまで昇っていた。反対側の西の地平線にあっては 「獅子(しし)座」の鼻先が高度5度となって西から25度の西北西の地平線へ没しようとしていた。そして、地平線の北から35度・南から25度まで120度におよぶ東の地平線を占拠し 鼻の先端が高度47、8度まで達する巨大な夏の銀河全像の横顔が天頂のほうに向いて横たわっていた。

 この〔地平線の上にヒエログリフ「ホルスの眼」が出現する状況〕がいわゆる”地平線のホルス”である。
 この「ホルスの眼」が地平線上に在る状況にもとづき、スフィンクスは①オシリス神が創造された「人の横顔に酷似する銀河」、②横たわるライオンの姿に似る「獅子座」、③ライオンの顔よりちょっと長いが ライオンの横顔に相似する「夏の銀河全像」に似せて作られたのである。

 上記にて紹介した仁田三夫著『図説 古代エジプト1』の36頁には、スフィンクスについて下記のごとく説明する記事がある。

 「その起源については、おそらくライオンのもつ獰猛さ、強きもの、それでいて精悍な容姿への憧れがこの聖獣を創造させたにちがいない。スフィンクスとは古代エジプト語で〔シェセプウ アンク(またはシェセプウ)〕とよぶが、それは〔シェセプ(似姿)〕の語に由来し、文字通り〔(力強き王の)生ける似姿〕を意味している。」

 この『図説 古代エジプト1』の指摘からしても、スフィンクスは①「人の横顔に酷似する銀河」、②「獅子座」、③「夏の銀河全像」を合体させて創造されたと考えるべきことになる。
 というのもオシリス神が創造された「人の横顔に酷似する銀河」はライオンの顔にも相似するからである。
 前に足を出してすわるスフィンクスの姿は「獅子座」の形と共通する。
 ③の「夏の銀河全像」にあっても――視界に光が入らない真っ暗な場所から見ると、瞳孔の直径が最大(8mmぐらい)に拡大されて暗い銀河部まで見えるようになると「夏の銀河全像」はライオンの横顔に相似するようになる。だから、このライオンの横顔に相似する「人の横顔に酷似する銀河」・「夏の銀河全像」と前に足を出して座るライオンの姿に観える「獅子座」にシェセプ(姿が似るように)、”地平線のホルス”=スフィンクスは創造されたことになる。

 スフィンクスの頭部は”ネメス”と呼ばれる頭巾(ずきん)をかぶる。
 「人の横顔に酷似する銀河」の後部となる北側に、全天第四 北天では第一の輝星で強烈な光を放つ”空のアーク燈”と呼ばれる琴(こと)座α(アルファ)星のベガ(高度0.1等)がある。「人の横顔に酷似する銀河から後方のこと座ベガ」までの銀河の形状は スフィンクスの頭巾”ネメス”の形にそっくりである。 

 春分の日の午前零時になると、クフ王のピラミッドからスフィンクスの方角(東から49度の南南東)に、ライオンの横顔の口部となる=夏の銀河の西南部にある「銀河系の中心」が位置した。
 この「銀河系の中心」方向には、無数の星が群がり星間物質が入り乱れて、渦を巻いてわきあがる入道雲のような迫力に満ちた圧巻的な形状でせまる。
 この「銀河系の中心方向の渦巻き」と同様に、ヒエログリフ「ホルスの眼の瞳」となる「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」もまた「渦巻き」の形となる。
 つまり、「銀河系の中心方向」は”巨大なホルスの眼(の瞳)”ということになる。
 だから、360度の地平線のうち3分の1の120度の地平線を占拠してライオンの横顔に相似する「夏の銀河全像」をモデルして作られたスフィンクスは”地平線のホルス”と呼ばれたのである。 

 春分の日の午前零時の2時間後の午前2時、ヘルクレス座のα星のラスアルゲチ(美しい二重星で、光度が3.5等の橙色の星と5.4等の鮮緑色の星とから成る)が、3大ピラミッドが建造されたギザ(北緯30度)の天頂点上に重なって輝いた。
 このラスアルゲチは、ライオンの横顔に相似する「夏の銀河全像」の鼻先に隣接する。
 
ゆえに春分の日の午前零時になると、クフ王のピラミッドからライオンの横顔に相似する「夏の銀河全像」の鼻先とラスアルゲチが在る方角(南南東)に、スフィンクスが建造されたのである。

 なお、エジプト暦では夏至の日が1月1日であったゆえ、今日の3月2日は3月2日ではなかったが、春分の日より21日前の今日の3月2日となる日の午後6時、座るライオンの姿に相似する「獅子座」のγ(ガンマ)星(光度2.3等の美しい重星)が首都メンフィスの天頂点上にめぐってきた。ゆえに、スフィンクスは獅子が座る姿に似せて造られたのである。

 さらになお、この〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は”世界の文字は銀河から作られた”と証言する・5〕で指摘したように――竜安寺の石庭における第1群の石組は 獅子の横顔に相似する「夏の銀河全像」の獅子の口となる「銀河系の中心方向」の〔わきあがる入道雲のような渦巻き〕をあらわす役割があり、竜安寺の山号「大雲山」の[雲]の字源・字形・字義をあらわすものであった。

 クフ王のピラミッドの葬祭殿とつながる参道は、東から15度の東北東を指すように作られている。
 クフ王のピラミッドの東から、天の赤道が出現する。「ホルスの眼」が地平線上にあるつまり”地平線のホルス”の状況のとき、東の地平線から昇る天の赤道となるポイントはじめとする天の赤道より北の地平線上にある天体部が天の北極を中心した角距離で15度歩行(移動)すると、春分の日の午前零時となった。ゆえに、クフ王のピラミッドの「参道の先端」は「春分の日より1日前の23時」をあらわしていたのである。

 カフラー王のピラミッドの東南東(東から8度ばかり南)に、クフ王の時代に造られたスフィンクスがある。そして カフラー王のミラミッドの葬祭殿から河岸神殿をつながる参道は、東から15度の方向を指さす。 
 ということは、この参道はスフィンクスが造られたクフ王のピラミッドの東から15度の東北東を指さす参道と密接に連関するものと考えるべきことになる。
 カフラー王のピラミッドはクフ王のピラミッドより西によって建造され。スフィンクスはライオンの座る姿に似せて造られ、”地平線のホルス”の状況のとき、座るライオンの姿に似ている「獅子座」が西北西の地平線の近くに位置した。前述したように、この「獅子座のγ星」は首都メンフィス(北緯29度59分)の天頂点となり、「しし座の主星のα星・レグルス(光度1.4等)」は子午線経過するときにメンフィスより約8度南に位置した。このような獅子座を構成する光度6.5等までの肉眼星が136個の星たちは、エジプト各地の緯度を測定する羅針盤(目星や物差し)となった。
 ”地平線のホルス”の状況のとき、メンフィスの天頂点と重なった「獅子座γ星」が天の北極を中心とする角距離15度・1時間 南から北へ向かって東から33度の西北西の地平線上について没する状況になると春分の日の午前零時となった。だから、カフラー王のピラミッドの東より15度南の東南東を指差す参道もまた、「春分の日より1日前の23時」をあらわしていることになる。

 メンカウラー王のピラミッドの葬祭殿と河岸神殿をつなぐ参道は東を指さす。
 この参道が指さす東の地平線から天の赤道が出現した。天の赤道の近くに、鷲(わし)座の主星・α星の彦星=アルタイル(光度0.9等)が位置した。鷲座の彦星は天の赤道が出現する東から7度の東北東の地平線から昇った。「ホルスの眼」の目尻の隣となる箇所に 白鳥座の主星・α星のデネブ(光度1.3等)が輝く。
 この鷲座と白鳥座と上記にて取り上げた琴座の3星座の主星が形成する三角形を”夏の大三角”と称する。この”夏の大三角”は真正ピラミッドの一辺の側面形(三角形)に相似する。
 春分の日の一日前の23時における”地平線のホルス”の状況のとき、白鳥座α星と鷲座α星の両星は地平線と平行に高度5度ぐらいの位置にあった。ゆえに、この両星と琴座α星を結ぶ”夏の大三角”は 高い台地に建設されたカフラー王ピラミッドの側面形に相似する。
 春分の日の午前零時になると、”夏の大三角”は一段と高い位置にあり、鷲座α星はメンカウラー王のピラミッドの参道が指さす東の上空に昇っていた。だから、メンカウラー王のピラミッドは「春分の日の午前零時」をあらわすものとなる。  

 前回(21)にて解説したように、ギザの3大ピラミッドはエジプト暦の元旦の始めとなる「夏至の日の午前零時」をあらわす建造物であったのである。実際には人間の目では、明るい太陽光線にさえぎられて見ることができないが、「夏至の午前零時の夜空」は「冬至の正午の空」の様子を示しているものとなる。ゆえに、3大ピラミッドは「夏至の午前零時の夜空」で「冬至の正午の空」を観察する。いいかえると「冬至点と冬至点の真北の夏至点」を知るための建造物であったことになる。 

 上記にて明らかにしたように、大スフィンクスと3大ピラミッドの葬祭殿・参道・河岸神殿の複合体は「春分の日の午前零時」=「秋分点」をあらわす表示する建造物であったのである。ゆえに、大フィンクスと3大ピラミッドの複合体は「春分の日の午前零時の夜空」は「秋分の日の正午の空」=「秋分点の真北の春分点」を表示する施設であったのである。

 エジプト暦は夏至の日を元日とし、1年を「アケト(洪水)」「ペロイェト(芽生え)」「ショム(欠乏)」の3季に分けられていた。
 しかし、春分・夏至・秋分・冬至の日も重視したのである。 
 この証拠が、3大ピラミッドと3大ピラミッドの複合体(葬祭殿・参道・河岸神殿)と大スフィンクスということになる。
 3大ピラミッドは「夏至点・冬至点」を示す(象徴する)建造物であり、3大ピラミッドの複合体と大スフィンクスは「春分点・秋分点」を表示する(象徴する)建造物であったのである。

 天の赤道上の「冬至点」がある南より90度東の天の赤道上に「春分点」があり、「冬至点」がある南より90度西の天の赤道上に「秋分点」がある。だから、「夏至の日の午前零時」で「冬至点」がわかると「春分点」と「秋分点」が明らかとなり、「春分の日の午前零時」で「秋分点」の位置を知ると、「秋分点」の90度西の天の赤道上にある「夏至点」の位置もわかる。「大スフィンクス」の古称「地平線のホルス」は――3大ピラミッドが建造された当時(今から約4500年前)、春分の日の一日前の23時にヒエログリフ「ホルスの眼」の字源・字形となった銀河部が地平線上にあった――と伝えるものであった。

 3大ピラミッドの3人の王は、北緯29度59分の首都メンフィスに居住した。
 首都メンフィスは、夜間に家々で灯(とも)す燈火で「北天の最輝部」のごとく明るかく輝く都市であった。ゆえに、明るいメンフィスの街路から銀河を観察すると 瞳孔の直径が最小(1.5mm~2mm)に縮小されて暗い銀河部が見えないため、夏の銀河はライオンの横顔に相似する形に観えなかった。少し光が視界に入るメンフィスの郊外で瞳孔径(どうこうけい)が5mmぐらいとなる目で、夏の銀河を見ると〔鼻の長い象(ゾウ)の横顔〕の形に観えた。つまり、「夏の銀河」は漢字の[象]の字源・字形・字義となった。メンフィスから緯度が2分北の人家の明かりがまったくとどかない真っ暗なギザ(北緯30度1分)の砂漠だと瞳孔径が最大(7mm~8mm)に拡大するので、「夏の銀河」の形は「ライオンの横顔」に相似し、また「長い人の横顔」に似ているように観えた。ゆえに、この瞳孔径が最大になる目で観る「夏の銀河」は「人の横顔」に似ているので、漢字の[人]に[象]が加わる[像]の字源となった。
 ギザの砂漠ならば、暗い銀河部まで見て銀河の全像が見える。だから、3大ピラミッドと大スヒンクスは、首都のメンフィスではなく、人里離れた見渡すかぎり地平線で包囲されるギザの砂漠に建造されたのである。 

 前回(21)で解説した3大ピラミッドに呼応する3つの銀河部すなわち①〔三角形に近い半円形〕の「北アメリカ星雲」、②〔三角錐〕の形に観える「ペリカン星雲より放たれた3本線の閃光のような銀河部」、③〔三角形〕の「人の横顔に酷似する銀河の頭髪の生え際にある小さな三角形の銀河部」は、子午線通過するときに首都メンフィスの天頂緯度線より北側に位置した。ゆえに、3大ピラミッドは首都メンフィスの南の地ではなく、メンフィスの北の地・ギザに建造された。


 
首都メンフィスの夜は人家が灯す明るい光で瞳孔径が縮小して精密に天頂点周辺の緯度が測定ができない。しかし、360度地平線となるギザの砂漠においては、夜になれば真っ暗闇になって瞳孔径が最大に拡大される。
 だから、ギザに3人の王の棺を葬るピラミッドを建造すれば、王の魂は迷わずに天上のピラミッドに呼応する銀河に到着して霊となり、さらにその霊は最も精密に天頂緯度が測定できる「長方形の暗黒天体部」にて地上にもどる新しい生命の芽生えが生じて、やがて生前住んだメンフィスの王の家(ファラオ)に命が甦(よみがえ)って生き返る――このように古代エジプトの王たちは死んでも命は再生すると考えていた。
 ゆえに、昇天する出発点から瞳孔径が縮小して緯度が精密に測定することができないメンフィスにはピラミッドを建造しなかった。
 漆黒(しっこく)の闇となるギザならば瞳孔径が最大に拡大して、ピラミッドから魂が出発して天にて霊となり新しい生命が芽生える「長方形の暗黒天体部」に到着できると確信するものであったのである。

 現在のエジプトの首都カイロから南へ約670km、その昔”テーベ”とよばれた今日のルクソールである。
 ルクソールは中王国時代から新王国時代にかけて、エジプトの中心地であった。このルクソールのナイル川東岸に所在する王家の谷に造られた王の墓には、「死者の書」と称する壁画があり、この「死者の書」の中には 死者の再生を助ける呪文(じゅもん)が書かれている。壁の絵には、死んだ王とその埋葬用の像が生き返ったときに行う儀式が描かれている。

 だから、死んだ王が再生するために、3大ピラミッドは人家がまったく無い精密に天頂緯度が測定できる砂漠の台地に建造されたのである。

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