G-T0XYQT12LL 原シナイ文字: 卑弥呼の逆襲

原シナイ文字

2018年4月 7日 (土)

漢字習得定説のウソ・5

●『魏志』倭人伝に「倭人」と記された正式国名の解説


◆このブログ「漢字習得定説のウソ」は前回(4)まで――「銀河」の別名は「銀漢」であるゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた事実を証明してきた。
 紀元前3000年ころ、黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は「四つ目の怪人」と名づけられた漢字を作る銀河の範囲を定め、また「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡(あしあと)」と名づけられた漢字作成原理をも発明した。倉頡が定めた漢字を作る銀河の範囲(四つ目の怪人)は、下の写真に示す秋の銀河の西部と夏の銀河であった。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。

Ginga
 ▲文字作成銀河の写真
 
 
 
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物には神罰(しんばつ)が下って直(ただ)ちに死刑にすると定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1)
 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

 紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)1点も発見されないため、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。
 また、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」について、学者たちは「とんでもない! 人間には目が四つも無い」とケチをつけて、倉頡伝説を「荒唐無稽(こうとうむけい)な空想!」と決めつけた。しかし、わがブログは前回の「漢字習得定説のウソ・1」において、「四つ目の怪人」とは上掲した「文字作成銀河の範囲」をあらわすものであることを証明した。
 上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟の伝統は現在まで受け継がれている。

◆ 上記した倉頡が死刑と定めた(2)の掟のために、「文字作成銀河各部の名称」は現在においても学問上確立されていないため、存在しない。しかし、「漢字が文字作成銀河各部の形状から作られた事実」を証明するためには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
Photo
 ▲文字作成銀河各部の名称図

 712年に成立した『古事記(こじき)』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されるが、その「序」は上巻だけの「序」であって、全巻における「序」ではない。ゆえに、『古事記』の「序」は「古事記上巻 序幷」(古事記上巻幷(あわ)せて序)と記載される。というのも、上巻だけに〔音〕という注がつく文字が随所(ずいしょ)に記載され、この文字は――わが国に紀元前2070年~紀元前2050年頃に伝来して習得された夏音(かおん)文字である。この漢字がわが国に伝来した当時は、中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭であった。わが国に以前に存在しなかった「画期的(かっきてき)な発明・文化の文字(夏音文字)」が伝来したため、中期縄文時代が幕を閉じることになり、後期縄文時代という新しい時代が始まったのである。この夏音文字の伝来と習得の歴史については、わがブログ「漢字習得定説のウソ・1」にて解説した。また、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説し、さらに詳細に「真実の日本国誕生史」の35回~40回の6回をもって解説した。
 『古事記』上巻の「序」の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)(まを)す」から「参神造化(さんしんぞうか))の首(はじめ)に作()す」という文までは「わが国に後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された」と証言していることになる。
 『古事記』上巻の「序」の全記事を要約すると「朝廷が最も崇拝する天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)すゆえ、上巻の神話には絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁じられた歴史を記述することにした。ゆえに、編纂(へんさん)スタッフは一計を企(たく)み、〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば歴史が明確に蘇(よみがえ)る仕組みにして、後世に真実を伝えることにした。したがって、上巻は夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る方法をもって作成された歴史書である」と、後世に歴史解明方法を伝えていたことになる。
 現在の全学者たちは『古事記』上巻の字面(じづら)の表層(ひょうそう)だけをつまみ食いして〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換しない。この『古事記』上巻の「序」の要旨(ようし)を無視(むし)する方法だと、天照大御神が人民を弾圧して苦しめた歴史が解明できない空論・空想・妄想(もうそう)となる。しかし、『古事記』の「序」の説明・指示(しじ)のとおりにすれば『古事記』上巻に記述された歴史は解明できる。にもかかわらず――現在、『古事記』上巻の「序」の指示にしたがって上巻に記述された真実の歴史を解明し・証明する学者は一人も存在しない。

280289年に著作(ちょさく)された『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)に登場する倭女王名の「卑弥呼」を、学者たちは「ヒミコ」と読む。現在、中国に残っている最古の漢字音である上古音で「卑弥呼」を読むと「ピミカ」となる。「ピミカ」は紀元前11世紀末の周代初頭から始まる漢字音である。一方、「ヒミコ」は紀元前21世紀末にわが国が習得した夏音文字の漢字音である。したがって、「ヒミコ」と読む字音は現在において中国に残る最古の上古音「ピミカ」よりも約1000年前の漢字音であるゆえ、現在、残っている最古の漢字音ということになる。
 『魏志』倭人伝には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
 この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字(こうこつもじ)〕の法(原理)のごとし」と伝えて、「わが国では夏音文字を習得していた」と伝えている。
 もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝える。
 つまり、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに倉頡が発明した「鳥獣の足跡」と名づけられた漢字作成原理をまもって作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察し「鳥獣の足跡」のとおりに楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであったのである。
 したがって夏音文字が学芸・文化の基盤となる2世紀末から3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝もまた――伊都国の港では夏音文字と中国・朝鮮半島の楷書とを正しく変換できた点からしても――『古事記』同様に、楷書と夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換し、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」のとおりに考えてこそ正しい歴史を解明できる文献(ぶんけん)であったことになる。

 なお、楷書は2世紀の後漢(ごかん)時代に出現して6世紀の隋代(ずいだい)に完成したが、この楷書も倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」をキチッとまもって作られた漢字であった。したがって、『魏志』倭人伝と『古事記』に用いられた楷書は「鳥獣の足跡」の漢字作成原理をまもる漢字であったことになる。というのも、『古事記』が成立した7120年当時、現在とまったく異(こと)なり地上灯火もスモッグの影響がまったくなかったので、夜となれば文字作成銀河は「あっ」と息をのんでさけぶほどに壮麗(そうれい)鮮烈(せんれつ)に輝いて「鳥獣の足跡」の原理を明確に示すものであったからである。

 現在、残っている最古の『魏志』倭人伝は、12世紀の南宋(なんそう)の紹煕刊本(しょうきかんぽん)の『三国志(さんごくし)』の魏書(ぎしょ)東夷伝(とういでん)にある一部の記事である。この「『魏志』倭人伝」と名づけられた文献の最初の文字は「倭人伝」であり、その次の本文冒頭は「倭人在帯方東南、云々(うんぬん)」であり――卑弥呼が統治(とうち)した国の正式名は「倭人国」であったと記述する。
 『魏志』倭人伝には、東西南北の方位を記す記事が全部で15ヵ所ある。この全15ヵ所に一ヵ所も【誤読】を加えなければ、日本列島の東端(ひがしはし)は南へと伸びていることになり事実の日本地理と相違する。この「方位が時計の針が進む方向に90度転回して、〔東〕が〔南〕となる方位規定」が[]の字源・字形・字義となったのである。
 つまり、倉頡が定めた漢字作成原理「鳥獣の足跡」にもとづき、[]の字源・字形・字義では「方位規定を時計回りに90度転回する」と定められていたのである。
 A図は、内側の現在方位の〔東〕は外側の[]の字源では時計回りに90度方位が転回して〔南〕となると示す解説図である。したがって、A図は「日本列島の〔東方〕は〔南方〕へと伸びると定める方位規定」を示す[]の字源解説図である。
K91
(C) 2018 OHKAWA 

 「二十四史」と呼ばれる24の中国の正史の一書に『後魏書(ごぎしょ)』または『魏書(ぎしょ)』と呼ばれる文献がある。『後魏書』は全部で130巻からなる紀伝体(きでんたい)で、本伝(ほんでん)と列伝(れつでん)554年に、志の部分は559年に成立した。
 上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)は直木孝次郎教授が論述した「邪馬臺国の位置論」の323頁において「明治の学者の内藤湖南(ないとうこなん)は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記している」と指摘(してき)する。この『後魏書』の勿吉伝の〔東南〕を〔東北〕に変換する方位規定は「時計回りの逆方向に90度回転する方位規定」であるゆえ、B図に示す[()]の字源・字形・字義となる地理における方位規定であったのである。
K92
(C) 2018 OHKAWA
 
◆倉頡がつかえた黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内経』の[]は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮に宿る胎児(たいじ)や出産器官の産道(さんどう)」をあらわした。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇時代の易に用いられた記号では黄帝の研究をあらわすことができなかった。ゆえに、倉頡が黄帝の女性の生殖器・子宮に宿る胎児・出産状況の研究をあらわす文字を発明することになったのである。

 中国では黄帝時代からシナ天文が完成した紀元前1世紀の前漢時代までは、C図に示す天頂点(てんちょうてん)と重なる銀河部位が天頂点の間近(まぢか)において西から東へと平らに横へ一直線をえがく軌道すなわち緯度線をキャッチする呪術(じゅじゅつ)が栄えていた。
K93
(C) 2018 OHKAWA
 
 この呪術は、わが国では遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)が中止された9世紀末頃まで栄えた。この天頂緯度線をキャッチする呪術は[(げん)]の字源・字形・字義となった。
 人間には原始の時から[](天頂緯度線と子午線)をキャッチする能力を鍛錬(たんれん)すると1度の60分の11分の精度で緯度が測定できる眼力と脳に本能がそなわっていた。ゆえに、[]のキャッチのおかげで人々は遠くの地へ旅しても家族が待つ家に帰ることができ、陸地から遠く離れる大海も無事に往来(おうらい)することができたのである。
 天文における「歳差(さいさ)」という現象にもとづくと、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、D図に示すように、北緯3536分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝を祭る廟(びょう)と黄帝の墓とされる黄帝陵と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に「十字の銀河」と「四つ目の銀河」(「倉頡」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」のおける鬼の横顔の銀河の両目と首につく両目で目が四つとなる銀河)がめぐってきた。
K94
(C) 2018 OHKAWA
 

黄帝時代に中国各地の天頂緯度線の基準となった「十字の銀河」は、E図に示すように乳房や子宮に相当する箇所(かしょ)があるゆえ、女体(にょたい)に相似する。
K95
(C) 2018 OHKAWA
 
 倉頡は、黄帝の医学研究をあらわすために「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての漢字は十字の銀河を母体にして生まれる」、「すべての漢字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めた。この倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と呼称(こしょう)されることになったのである。
 F図に示す[]の金文形(きんぶんけい/周代に用いられた漢字)は、「十字の銀河」を「母体の正面」に見立てて「子宮に胎児を宿る、おなかが前へつきでて円い妊婦(にんぷ)」を図案している。
K96
(C) 2018 OHKAWA
 
 G図に示すように、「十字の銀河」は[]の上部の[(べん)]の字源・字形・字義となり、「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」は[]の字源・字形・字義となり、[][]が加わって[]の字源・字形・字義となった。
K101
(C) 2018 OHKAWA
 
 前述した漢字作成原理「鳥獣の足跡」は「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての漢字は十字の銀河を母体にして生まれる」、「すべての漢字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めたゆえ、「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」は「十字の銀河の子宮から生まれた子」であることを示して[]の字源・字形・字義となった。

◆C図の右上に示した[]の金文形を、H図の右側に配した。
K102
(C) 2018 OHKAWA
 
 [][(とう)][(よう)]を加えて作られる。文字作成銀河を見て字源を解説した前漢の漢字学者の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字形を「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたどる)る」と解説する。つまり、[]の字形はH図の左図の[]の下に図示した「頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)の生子(せいし/出産児)」の図案である。
 出産をむかえて子宮口が全開大(ぜんかいだい)となってすっかり開く開口期(かいこうき)の終わりには、子宮内の胎児の頭は骨盤(こつばん)入口の上ではアゴを胸につけた姿勢で胎児の背は母体の左または右にあり、中ほどにくると胎児の頭は斜め後ろ(母体の腹側)に顔を向け、骨盤出口では顔を後方に向ける位置をとる。開口期の終わりでは、ほぼこの状態になる。次いで胎児の頭はふたたび母体の左または右を向くが、骨盤出口を肩の部分が通過する時に、胎児の肩はまず母体の腹側にあるほうから先に、ついで母体の背側の肩が出ると、あとは頭が一気に生まれて――H図に示す姿勢(胎児の顔は母体の背側を向く)となる。このような胎児が体をくねらせる生まれる様子を表現して、[]の字源「子の初生の姿」は[8]の字の形に図案されたのである。
 孔子(こうし)と並ぶ中国の思想家の紀元前54世紀頃に生存した老子(ろうし)の教えを説く『老子』第一章は、C図の[]をキャッチする時の心得(こころえ)について「常に無欲(むよく)にして以(もっ)て其()の妙(みょう)を観()、常に有欲(ゆうよく)にして以て其の徼(きょう)を観る。この両者は出()でて名を異(こと)にし、同じく之(これ)を玄と謂()う」と説明する。
 このように、[]をキャッチする時には――生まれてくる子が産道を通過する時のように常に無欲であれば1分の精度で[]をキャッチできる妙なる(不思議な)能力が人間にはそなわっているが、常に必ず[]をキャッチしようと欲を持つと川・湖・海などの岸や渚(なぎさ)にうち寄せられて風雨にさらされる徼の白骨死体となる。妙([]のキャッチ)と徼(白骨死体)は同じ字源銀河から出でたが(作られた)が、意味は異なる――と、老子は説く。
 この老子の言葉は老子みずからが考えた[]をキャッチする時の心得を述べたものではなく、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」が定めた[]をキャッチする時の心得を伝えるものであったのである。
 五帝時代、遠くの地・ツンドラ地帯に生息するジャコウウシを狩り行く人々が道すがらおこなうポーズは、I図のごとくであった。
K103
(C) 2018 OHKAWA
 
 わがブログ「真実の日本国誕生史・40」で詳細に解説し証明したように、D図に示した五帝時代の[]のキャッチで測定(そくてい)できる天頂緯度線の状況と[]をキャッチする両目(鬼の横顔に似る銀河の両目)を図にすると、J図のごとくなる。
K104
(C) 2018 OHKAWA
 
 I図の左図に示した「道すがら歩く時の狩人(かりうど)の両目」はJ図下部の「鬼の横顔に似る銀河の両目」に見立てられ、I図の右図の「[]をキャッチする時の狩人の両目」は「鬼の首(アコと後頭部に付く両目)」に見立てられた。
 K図に示すように、[]をキャッチする両目は「激流(げきりゅう)の銀河」を見ているように観える。
K105
(C) 2018 OHKAWA
 
 「激流の銀河」が[]の字源である。[]の偏(へん)[]は「行く。歩く。旅する」をあらわす。[][(きょう)]の字も用いられる。[]の偏の[]は「川・湖・海の岸や渚に打ち寄せられて風雨にさらされる白骨死体」をあらわす。「北アメリカ星雲」は「人の頭蓋骨(ずがいこつ)」の形に相似する。ゆえに、「北アメリカ星雲」は「骸骨(がいこつ/どくろ。されこうべ)」に見立てられた。K図に示すように、「[]をキャッチする目の、鬼のアゴに付く細い目」の端を貫通した太湖南岸の天頂緯度線は[][]の字源「激流の銀河」をも貫通する。「天頂緯度線のキャッチ」は「[]のキャッチ」であるゆえ、老子は「[]と徼(/白骨死体)は同じく出でて名を異にし、同じく之を玄と謂う」、つまり「[][][()]」の字源銀河は同じである」と説いたのである。
 前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・4」で解説したように、[]の古代字形は、L図の「だいぶ人らしくなる第8週中頃からの、いくらか膝(ひざ)を曲げて子宮に宿(やど)る胎児の側身形(そくしんけい)」の図案であった。
K111
(C) 2018 OHKAWA
 
 []の字源は、前述した出産第1期の開口期終わりの「母体の背側に顔を向け、頭をすっかり後方に向けて骨盤出口のおける胎児」つまり、M図に示す「胎児のポーズ」であったのである。
K112
(C) 2018 OHKAWA
 
 結局、G図に示した[]の字源の「首に[]をキャッチする両目を有する、鬼の姿に似る銀河」が[]の字源となった。つまり、倉頡は「鬼の姿に似る銀河」を「出産第1期の開口期の終わりから出産第2期の娩出期終わり(H図左図の[]の下の図)までの無欲で産道を通過する生子」に見立てて[]の字源と定めた。だから、老子は上記した『老子』の第一章で、漢字作成原理「鳥獣の足跡」において[]をキャッチする心得を定めたとおりに「産道を通過する子ども、つまり[]の字源の胎児のとおりに無欲であれ」と説いたのである。

◆したがって、『魏志』倭人伝冒頭の「倭人国」の[]の字源は「鬼の姿に似る銀河」であった。というのも、倭国では[]をキャッチする習慣が栄えていたからである。
 倭国では沙漠(さばく)のごとく毎日乾燥(かんそう)して晴れの日が続かず、雨や曇の日々もあるゆえ、少々(しょうしょう)(きり)がかかっても[]をキャッチできる呪力(じゅりょく)が求められた。だから、「倭人国」の[]は「少しぐらい霧がかかっても、[]をキャッチすることができる呪力」をあらわしていたことになる。
 N図に示すように、すべての文字を生む母体の「十字の銀河」に「頭が誕生する生子の図」を加えると、「母体(十字の銀河)の背側に向ける生子の顔」は「東を向く」ことになる。このN図の状況だと、人が住む中国の陸地は西にあり、東は大海であるゆえ不合理となる。
K113
(C) 2018 OHKAWA
 
 それゆえ合理を成立させるために、O図に示すように[]の字源「〔南〕が時計回りに90度転回して〔西〕となる方位規定」と[]の字源「〔南〕が逆時計回りに90度転回して〔東〕になる方位規定」が成立することになったのである。この[][]は人々の生命をまもる[]のキャッチの方位規定にはまったく影響(えいきょう)が及ばない、地名だけに用いられる字と定められた。
K114
(C) 2018 OHKAWA
 
 A図の[]の方位規定とB図の[]の方位規定は、O図の「十字の銀河」の下部に示した方位規定に合致する。
 したがって、P図に示すように、「禾(イネ)の穂()は十字の銀河の南から西へと垂れる」と定められる[]の字が作られることになった。
K115
(C) 2018 OHKAWA
 
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)[]の字について「いねの象形(しょうけい)。また軍門(ぐんもん)の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめき)に袖木(そでき)をつけた形」と解説する。「軍門」とは「呉の地に遠征した黄帝軍の軍門」であったにちがいない。ゆえに、黄帝は黄帝軍の兵士たちが住む建物には、倉頡が図案した[]の字を模(かたど)る標木()を袖木でささえる組木装置(くみきそうち)が「門」となって設置されたと考えられる。
 P図の下に示すように、[]の下に「十字の銀河」は女体に相似するゆえ[]が加わって[]の字が作られ、「十字の銀河」は「人」の姿にも相似するので人偏(にんべん)[]の字が加わって[]の字が作られた。
 そして、[]の字は[]の字源「時計回りに方位が90度転回する方位規定」を受け継ぐものであったゆえ、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事は「卑弥呼王朝は日本列島の〔東〕は時計回りに90度転回して〔南〕となる転回日本列島地理を制定(せいてい)した」と伝えていることになる。
 倭では、卑弥呼王朝がA図に示した[]の字源に合致する転回日本列島地理を制定し、[]の字源「鬼の姿に似る銀河」の、その首には[]をキャッチする呪力を示す両目の銀河が存在し(K図参照)、人々は[]をキャッチする呪力を最も重視するものであったゆえ、女王卑弥呼が統治(とうち)する国名の正式名は「倭人国」となったのである。

◆黄帝時代から卑弥呼が生存した三国時代においても、淮河(わいがわ)を境とする中国北方の華北(かほく)地方では中国南方の華南(かなん)地方よりも降水量が少なかったので、常に禾(稲や麦など穀物)の生育を心配することになった。このため、華北地方の地名は[]の方位規定であらわされることになった。ゆえに、三国時代、華北地方の国名は[][]が加わる[]の字で表示された。
 三国時代、淮河より南の華南地方の国名は[]であった。黄帝時代以来、降水量が多い華南地方では晴天の日々が少なかったので[]のキャッチに失敗して多数の人々が命を失ったので、人口の増加を天に願って子授(こさず)け祈願(きがん)や出産祝いが盛んにおこなわれた。
 Q図の金文形は、「十字の銀河」を「巫女(みこ)」に見立てて、「巫女が水を入れた土器の口部(こうぶ)を天頂に向けて、胎児が体をくねらせて産道を通過するように巫女が舞って子授け祈願と出産祝いをする様子」を図案するものであったのである。
K116
(C) 2018 OHKAWA
 
 R図に示すように、「十字の銀河の子宮」は「口部が南となる土器」の形に見立てられた。
K121

(C) 2018 OHKAWA
 
 R図右側の「十字の銀河の子宮」はS図の左下のごとく180度ひっくりかえされ、S図の左上のごとく「十字の銀河の子宮(上が口・産道、下が子宮底)」は解釈されることになった。というのも、「十字の銀河の子宮」に見立てられたR図右側の器(土器)は――S図の左側に示すように、胎児の命をまもる子宮内の羊水(ようすい)に見立てた水を入れて、その口部を天頂に向けて子授け祈願や出産祝いがなされたからである。この「出産祝いや子授け祈祷に用いられた器」は、[(さい)]の字源となった。
K122

(C) 2018 OHKAWA
 
 その証拠に白川静著『字統』はS図右側の[(さい)]の字について「概(おおむ)ね祝祷(しゅくとう)する器の形である」と解説する。したがって「祝祷」は「祝い祈祷する」と意味するゆえ、五帝時代においては[(さい)]は「煮炊(にた)き器具や食器にも用いられたが、主として子授け祈願や出産祝いに用いられた土器」であったことになる。
 そして、わがブログ「漢字習得定説のウソ・3」で詳細に解説した「十字の銀河の腰周辺の幽(かす)かな眉と目の銀河」にもとづくと「十字の銀河の子宮」は「鼻」に相当する。そして、鼻の下の「口」は、T図の左図に示すように、[(さい)]の字源「祝祷する器具・土器の口部」がある下の南にある。また、「十字の銀河の子宮」を「女性の生殖器(せいしょくき)」に見立てると、「子宮口(内子宮口・外子宮口)から膣口(ちつこう)までの産道」は「十字の銀河の子宮の南部」にある。だから、S図の右側に配した[(さい)]の金文の字源は「T図の左図の〔口〕の部分」と「十字の銀河の子宮の口部(子宮口から膣口までの産道」となったゆえ、字形は[]の図案となり、字音は「さい」となったである。
K123
(C) 2018 OHKAWA
 
 U図に示すように、女性の生殖器の大半を包んで胎児の命をまもる「骨盤(こつばん)」の、その「上口(じょうこう/骨盤出口上側の穴」は「十字の銀河の頭部」の形に相似する。
(
U図の上図の「十字の銀河の頭部」の上下を180度転回すると、両者の穴の形が相似する)
K124
(C) 2018 OHKAWA
 
 ゆえに、V図に示すように、[]の金文形は「巫女に見立てた十字の銀河の頭部(骨盤上口に似る頭部)の隣(となり)の右肩(みぎかた)の上に、巫女が[(さい)]の口部を天頂に向けて身をくねらせて舞う図案」となって、「〔北〕は逆時計回りに90度転回して〔西〕になる」と表示されることになった。
K125


 これゆえ、白川静著『字統』は[]の字について「身をくねらせて舞う形で、神を悞(たの)しませ、祝祷を行う意」と解説する。
 以上のごとく、B図に示したように[]の字源は「時計の逆回りに90度方位を転回する方位規定」をあらわし、またQ図に示したように[]の金文形は「十字の銀河」を「巫女」に見立てて、「巫女が水を入れた土器の口部を天頂に向けて、胎児が体をくねらせて産道を通過するように巫女が舞って子授け祈願と出産祝いをする様子」を図案するものであったことになる。

◆ただし、前述したように倉頡が発明した「鳥獣の足跡」では、地理(地図)において[]([][][])と名づけられた遠くの地に旅した人々が迷わないために、その地にあっても[]のキャッチした「東・西」の緯度と「南・北」の経度は常に不変で変わらないと定めたのである。したがって、[]のキャッチと地名だけに用いられる[][][][]の方位規定は同一ではなく、両者はまったく別なるものと定まっていたことになる。だから、人々は、なんら生活において不便ではなく不都合(ふつごう)でもなかったのである。
 なお、O図に示した[][]の転回方位規定にもとづいて、「方位がわからなくなって、道にまよう」の「まよう」の字は之繞(しんにゅう)に「禾・いねの実」の[]が加わる[]となった。
 次回は、遠くの地に行っても常に人々の命をまもる方法であった[]のキャッチの方位規定は地名に用いられた[][][][][]などの方位規定に影響をうけなかったことを伝える記事が、『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)に記述されているので、この記事について解説する。

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2015年5月16日 (土)

古代エジプト文字の字源・2

 「卑弥呼」の地上絵は朝廷に反逆する遺跡であった

◆わがブログ「日本が滅びる」でくりかえして解説・証明したように――『魏志』倭人伝末部に「13歳で王となった壱与(いよ)」と記された乙女は、『魏志』倭人伝に列記された小国・伊邪(=伊耶╱いや)国つまり旧国丹波の出身者であった。ゆえに、夏音名で「壱与」と呼ばれた女王を人民は「伊耶国の美しい女王」を略して「伊耶那美命」と愛称した。伊耶那美命の本名は「竹野比売(たかのひめ)」である。
 13歳の伊耶那美命は伊耶那岐命(『魏志』倭人伝の「載斯烏越╱そしあお」)と結婚して、卑弥呼の宗女(そうじょ╱卑弥呼が率いる巫女界を代表する巫女)として小国・日本(現在の東海・関東地方)の女王に就任して、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。
 この小国・日本の国作りの柱を、私は【日本建国の〔愛〕の理念】と呼ぶことにした。

 『魏志』倭人伝の末部は「卑弥呼の墓を作る時、百余人の奴婢(ぬひ╱18歳くらいの若者と13歳くらいの乙女)を殺して卑弥呼の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。このため、卑弥呼の後を継ぐ男王に服従しない反乱が起きて、倭政府は千余人の反乱者たちを殺した。当時、卑弥呼と素(もと)より和せない狗奴(くな)国という敵国が存在したので、徇葬を憎悪する人民の反乱は倭国が滅亡しかねない深刻な危機的状況を示すものとなった。そこで、【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した小国・日本の女王の壱与・伊耶那美命を倭国に帰還させて倭女王に就任させると、反乱者たちは伊耶那美命が倭女王に就任したならば徇葬は必ず禁止するにちがいないと信じて武器を捨てたので遂に国中が安定した」と記述する。
 この記事が伝えるように、伊耶那美命・壱与が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】は強大な倭の国家権力よりも優るほどに強大な力を示すことになった。

◆伊耶那美命は倭女王に就任してから間もなくして死去した。
 伊耶那美命の後を継ぐ倭女王に、伊耶那岐命の第二后である伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)が就任した。
 伊迦賀色許売命と伊耶那岐命の父の第8代孝元天皇の間に生まれた皇子が、第10代崇神(すじん)天皇である。したがって、伊耶那岐命の養子となった崇神天皇は伊耶那岐命の異母弟であった。
 崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は「天照大御神」という異名で呼ばれた。
 『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕は、下記のごとく【日本建国の〔愛〕の理念】をめぐって倭女王の天照大御神・伊迦賀色許売命と小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命の夫婦が対立した歴史があったと伝える。
――国家権力こそが最も勝るべきであると考える倭女王に即位した天照大御神は、国家権力よりも勝ると示された伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した。それゆえ天照大御神は、伊耶那美命が最も嫌悪した徇葬を決行して、A図に示す熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に伊耶那美命の墓を築造する事業を陣頭指揮した。

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 伊耶那美命を愛する小国・日本の軍王の伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む勇士たちの協力を得て、伊耶那美命の墓から棺を奪うクーデターを決行して成功させた。
 B図に示す現在の和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町に所在する神倉(かんのくら)神社の御神体の千引石(ちびきのいわ)は、現在は“ごとびき岩”と呼ばれる。この千引石の前(現在の神倉神社の社殿が建つ場所)で、伊耶那岐命は『古事記』に「伊耶那美命」と表記された天照大御神に離縁を言い渡した。

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 クーデターで倭女王から失脚された怨みと離縁を告げられた屈辱で激怒する天照大御神は「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ╱人民)、一日に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」つまり「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちの母親の産道が狭くなれと呪(のろ)って必ず一日千人ずつの胎児の頭を絞め殺す」と誓った。この呪いの詞(ことば)は「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を一日に必ず千人ずつ祟(たた)り殺す」と意味するものでもあった。
 天照大御神を倭女王から失脚させて天下を奪った伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と言って、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ政事(まつりごと)を継承すると誓った――というのが、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕の大要である。

◆『古事記』が成立した712年当時の朝廷は、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺に躍起になり、天照大御神を皇祖と崇拝してその聖性を汚すことを厳重に禁止していた。ところが、編纂スタッフは『古事記』上巻の作成目的を【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることと定めて朝廷から正史の認可を得ようと企んだ。これゆえ朝廷が喜ぶように編纂スタッフは敬愛する伊耶那美命を侮辱するかのごとく見せかけて、残酷な徇葬を決行した「天照大御神」の名を「伊耶那美命」に「神」の1字を加えて「伊耶那美命」と表記した。編纂スタッフは、〔事実に反する方法で事実をあらわす、反実仮装(はんじつかそう)〕という表現方法で、真実の歴史を伝えようと企んだのである。だから、前回のわがブログ「古代エジプト文字の字源・1」で指摘したように、太安万侶(おおのやすまろ)は「陰陽ここに開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)となる」という文を『古事記』序の初頭に配置した。この文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命がすべての生みの親となった」と意味する。したがって、安万侶は「伊耶那美命は、亡くなった伊耶那美命の後を継いで倭女王となった天照大御神である」と前もって『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕に設けられた〔反実仮装〕の仕掛けに注意するように告げていたことになる。
 『古事記』の序は世にも珍しく「上巻 併せて序」と表記される。ゆえに、三巻で構成される『古事記』の序は、中巻・下巻の序ではない。『古事記』の序は、上巻だけの序である。ということは、(1)『古事記』序を「上巻 併せて序」とした秘密と(2)『古事記』序の初頭に「陰陽ここに開けて、二霊群品の祖となる」と伊耶那美命と伊耶那岐命を讃える文を配置した秘密は、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕に設けた「天照大御神を伊耶那美命」と記した〔反実仮装〕にもとづくものであったことになる。

◆ 千引石(ごとびき岩)の前で離縁された「伊耶那美命」は「天照大御神・伊迦賀色許売命」である事実を現在に伝えて、伊耶那岐命が天照大御神に離縁を言い渡した千引石の前の空洞に社殿が建造された神倉神社の主祭神は「天照大御神」である。
 伊耶那美命は西暦250年ころに没したのであるまいか。したがって、伊耶那岐命・開化天皇は決行したクーデターは250年ころであったであろう。開化天皇は260年以前の、多分255年ころに崩御したと考えられる。
 開化天皇の死後、伊迦賀色許売命と崇神天皇の天照大御神母子王朝は、B図の千引石の前で「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を、一日に必ず千人ずつ殺す」と誓った通りの政事(まつりごと)をおこなって人民を苦しめた。
 このため、五人の王たちは天照大御神王朝を倒すクーデターを計画したが、このクーデター計画は失敗した。このクーデター計画に参加した一員であった建比良鳥命(たけひらとりのみこと)は、【日本国の〔愛〕の理念】を後世に正確に伝えるために必要不可欠な〔夏音文字の学芸〕を保存するC図に示す「卑弥呼」の地上絵を作成した。

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(C) 2015 OHKAWA


 C図の「卑弥呼」の地上絵は、すべての漢字は下に掲載する文字作成銀河(天体写真家 藤井旭氏 撮影)から作られた事実を今日に伝える遺跡である。さらに、「卑弥呼」の地上絵は紀元前3100年頃に完成した形で突然に出現したヒエログリフもまた文字作成銀河から作られた事実が科学的に証明できる奇跡の遺跡である。

Ginga


◆黄泉国・熊野におけるクーデターに成功した伊耶那岐命は、後の第9代開化天皇であった。
 前述したように千引石の前で伊耶那岐命に離縁されて戸籍を失った天照大御神は、崇神天皇の伯母()の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の戸籍と名を受け継いで「倭迹迹日百襲姫命」と名乗った。ゆえに、『日本書紀』崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は天皇の姑(おば)である」と記す。
 『魏志』倭人伝末部の卑弥呼の後を継いで徇葬を行った倭の男王は、開化天皇・伊耶那岐命の祖父の第7代孝霊天皇であったにちがいない。開化天皇と崇神天皇の父の孝元天皇は、卑弥呼の死より以前に亡くなっていたゆえ、孝霊天皇が倭の大王に就任した。卑弥呼の墓を百余人の奴婢を埋める徇葬を指揮した巫女は、孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命であったと推定される。この徇葬によって国中の人民が反乱した。ゆえに、反乱の責任を取らされて倭迹迹日百襲姫命は死を求められて命を失ったのであろう。したがって、亡き倭迹迹日百襲姫命の無念を受け継ぐとともに息子の崇神天皇のクーデターによって開化天皇から天下を奪い返すという復讐の念を露骨にあらわして、天照大御神・伊迦賀色許売命は「倭迹迹日百襲姫命」という名を襲名したと考えられる。
 これゆえ、開化天皇のクーデターを怨(うら)み骨髄(こつずい)に徹(てっ)する天照大御神母子のクーデターはクーデターで報復するという憎しみを絶つために、『古事記』上巻の〔三貴子の分治説話〕に記述されているように――D図に示すがごとく、開化天皇は崇神天皇・天照大御神に高天原(たかまのはら)を、開化天皇と意祁都比売命(おけつひめのみこと)と結婚して生まれた月読命(つくよみのみこと)・日子坐王(ひこいますのみこ)に夜之食国(よるのおすくに)である小国・日本を、伊耶那美命が生んだ須佐之男命に北九州から卑弥呼が居住した山陰出雲地方の邪馬壱(やまい)国やさらに裸()国・富山県までに至る海原(うなはら)を分割して治めるように定めた。
 この三貴子の分治によって、開化天皇の後を継ぐ大王(天皇)は伊耶那美命が生んだ須佐之男命ではなく、天照大御神が生んだ皇子(後の崇神天皇)と定めて天照大御神母子がクーデターをおこなう必要がないように対処したのである。

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(C) 2015 OHKAWA


◆『日本書紀』崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は箸墓(はしはか)に葬られた」と記す。伊耶那岐命・開化天皇の死後に没した天照大御神・倭迹迹日百襲姫命が葬られた箸墓古墳は、“初期大和政権の発祥の地”と指摘される奈良県桜井市に所在する。天照大御神・倭迹迹日百襲姫命が葬られた箸墓古墳は最古かつ最大の全長280メートルの前方後円墳である。
 開化天皇は天照大御神・倭迹迹日百襲姫命より以前に死去した。開化天皇を憎悪する天照大御神母子は、天下を譲られた恩に報いず逆に復讐して開化天皇陵を築造しなかった。ゆえに、奈良県奈良市油阪町に所在する開化天皇陵は3世紀後半に築造されていない。その墳丘規模からして5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。開化天皇陵は、全長105メートルの箸墓古墳の半分以下の、天照大御神母子の憎しみを今に伝える古墳である。
 天照大御神母子は、上記した千引石の前の「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を、一日に必ず千人ずつ祟り殺す」という誓いの通りに、【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し抹殺に努力する政策をおこなった。
 それゆえ、『古事記』上巻の〔須佐之男命の啼()きいさち説話〕は――天照大御神母子王朝を倒して熊野に須佐之男命王朝を樹立せんとするクーデターが計画された。しかし、この不穏な気配に気づいた死が迫った開化天皇は須佐之男命を呼びつけて「クーデターを絶対に決行してはならぬ。お前の母が提唱した〔愛〕の理念の基に多くの子どもが生まれ多くの農作物の実りを最優先する〔多賀(たが)〕に努めよと遺言して没した――と伝える。
 『古事記』上巻の〔国生み説話〕は――伊耶那美命と伊耶那岐命は二度目の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚儀式をおこなった。この時、倭女王伊耶那美命は伊予国の祭神名を「愛比売(えひめ)」と定め、現在の四国を〔愛〕をあらわす「伊予」と冠する「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」と国生みして(名づけて)、【日本建国の〔愛〕の理念を最も重んじる政策を実行すると表明した――と記述する。この〔国生み説話〕では「伊予国の祭神の名を【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす愛比売、讃岐国の祭神の名を〔豊かな飯(食物)の霊が憑依(ひょうい)する〕とあらわす飯依比古(いいよりひこ)、〔穀物の総称〕である[]を国名とする粟国の祭神の名を〔豊かな実りをもたらす農地〕をあらわす大宜都比売(おおげつひめ)、土左国の祭神の名を〔健康な子どもが多数生まれる霊が憑依する〕とあらわす建依別(たけよりわけ)と定めた」と記す。ゆえに、伊予国と土左国の祭神名は「【日本建国の〔愛〕の理念】をまもって多くの健やかな子が生まれる」とあらわすものとなり、讃岐国と粟(阿波)国の祭神名は「多くの農作物の実り」を示すことになった。わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は、[]の字について「生子儀礼や農耕儀礼に用いる字である」と解説する。ゆえに開化天皇の遺言となった「多賀」という語は〔国生み説話〕における四国の祭神名に適合して「多くの子どもが生まれ、多くの農作物・食べ物に恵まれる」と意味するものであった。
 したがって、『古事記』上巻の〔須佐之男命の啼きいさち説話〕末部の「伊耶那岐大神は淡海の多賀に坐()すなり」という文は――死が迫った開化天皇は須佐之男命に、「お前の母が伊予二名島(四国)の国生みにおける小国名と祭神名であらわした『【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづいて多くの子どもが生まれ、多くの農作物に恵まれる』をあらわす『多賀』という名が憑依する淡海の地に、わが霊魂は坐すことにする。だから、お前は母の遺志(こころざし)である「多賀」をまもってクーデターをおこしてはならぬと遺言した――と意味するものであったことになる。

◆『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命の誓約説話〕は――【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して人民を苦しめる天照大御神母子王朝を倒すために、五人の王たちが熊野に須佐之男命王朝を創設するクーデターを計画した。しかし、父・開化天皇の「多賀」の遺言にしたがった須佐之男命は天照大御神・崇神天皇と不戦の誓約を結んだために、五人の王たちが計画したクーデターは失敗した。五人の王たちの一人は北九州の宗像(むなかた)王の天菩比命(あめのほひのみこと)であった。天の菩比命が率いる一派のメンバーは七人の建比良鳥命で構成されていた。この一人が、C図の「卑弥呼」の地上絵を作成した遠江国造の先祖の建比良鳥命であった――と記す。

◆前回のわがブログで指摘したようにC図の「卑弥呼」の地上絵は、ヒエログリフが出現してから約3350年後、倉頡が漢字を発明してから約3250年後、わが国に夏音文字が伝来してから約2300年後に、漢字とヒエログリフが上に掲載した文字作成銀河から作られたと科学的に明確に証明できる遺跡である。
 上記したように、『魏志』倭人伝が280年~289年に著作された時代(とき)を同じくして、「卑弥呼」の地上絵は遠江の豪族の建比良鳥命とその一族が“愛、あざやかに永遠であれ”と願って260年~290年ころに作成した。
 わがブログ「日本は滅びる」は1回~167回をもって、「卑弥呼」の地上絵によって『魏志』倭人伝のすべての記事は事実を伝えるものであることを科学的に明確に証明した。この結果、新井白石(16571725)から現在までの学者たちが主張する邪馬台国説の立論基盤は現実に絶対にありえない荒唐無稽(こうとうむけい)の空論で成り立つものであることが明らかとなった。
 邪馬台国説のごとく『魏志』倭人伝に加える〔すべての誤読〕を「文献批判」と名づける方法だと1万年たっても論争が決着しない。しかし、『魏志』倭人伝に加える〔すべての文献批判〕を「誤読」と名づければ直ちに人々は『魏志』倭人伝に忠実に読解すると【科学】という語が成立することに気づき、従来の邪馬台国説は荒唐無稽の誤読の空論であることが判明して邪馬台国論争は決着がつく。
 E図が示すように、ヒエログリフは現代ヨーロッパ文字、現代ペルシア文字、現代アラビア文字、現代ヘブライ文字、現代アムハラ文字のルーツとなる。現代ヨーロッパ文字はすなわちアメリカ・ヨーロッパ・アフリカなどの世界の70ヵ国以上の公用語の文字として使われるABCアルファベットである。

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 したがって前回のわがブログ「古代エジプト文字の字源・1」で指摘したように、世界中の7割~8割の人々が使う漢字とABCアルファベットが上に掲載した文字作成銀河から作られた事実が「卑弥呼」の地上絵とこの遺跡の複合体エリアの地宜によって明らかとなる。
 しかし、この事実は荒唐無稽の誤読の空論の邪馬台国説によって人類は失うことになる。

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2015年2月 5日 (木)

朝日新聞社の社長様への直訴・7

朝日新聞社の日本人大虐殺が始まった!
 
ますらおたちの黙示録╱愛、あざやかに永遠であれ(21)

■信長、家康、井伊氏の
【日本建国の〔愛〕の理念】の復興の熱き願い(2)

◆今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国では【秋の銀河と夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とする原初漢字の夏音(かおん)文字】が習得された。夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名に用いられ、また『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音文字として多数記載されて現存する。
 そして中国の正史の二書すなわち『隋書』倭国伝と『新唐書』日本伝には「わが国に確かに夏音文字があった」と書く記事が存在する。
 原初漢字の夏音文字は、天皇政治の権力基盤となる学芸であった。徳川家康は没する1年前の1615年に「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定し、その第一条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とした。この「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」という文は「天子・皇室にとって夏音文字の学芸が最も重要な学問です」と意味した。だから、わが国には、上記したように後期縄文時代初頭に夏音文字の学芸は伝来し、夏音文字は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載されて現存する。
 にもかかわらず、新井白石(16571725)以後の学者たちは上記した4つの古文献に【誤読】を幾つも積み重ねて「夏音文字は存在しない」と断定して、「わが国では5世紀あるいは6世紀に始めて漢字を習得した」という意見を確立して、今日の学界の神聖にして犯してはならない定説とする。

◆前回のわがブログでは、太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』の序の初頭に「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()し、陰陽ここに開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」と記述した文は「夏代初頭、名門益氏が中国から日本列島に移住して夏音文字の学芸をもたらし、当時の日本列島に居住して土器・土偶を造化(造形)した芸術家たちによって夏音文字の学芸は習得された。この習得によって、わが国における夏音文字の学芸の歴史が始まった。陰の伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念は陽の伊耶那岐命に受け継がれた。この伊耶那美命と伊耶那岐命の国作りの柱とした【日本建国の〔愛〕の理念】は日本のすべての生みの親となった」と述べていることを証明した。
 夏音文字の学芸は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】を科学的に解明できる方法である。言い換えると、夏音文字の学芸は皇室が至上神として崇拝する皇祖・天照大御神(崇神天皇の生母の倭迹迹日百襲姫命)18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女たちを多数殺して犠牲(いけにえ)にして伊耶那美命の墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原に築造された)に埋めた残虐な徇葬(じゅんそう)を決行し、また崇神天皇=天照大御神が【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を憎悪し呪って迫害した歴史を科学的に解明できる方法であった。
 ゆえに、朝廷は皇祖・天照大御神(倭迹迹日百襲姫命・崇神天皇母子)の聖性を汚す科学的な方法の夏音文字の学芸と天照大御神が憎悪して祟(たた)った【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺に努力した。このため、16世紀末から17世紀初頭になると皇室は夏音文字の学芸の多くを失った。ゆえに、夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に一生をささげた徳川家康は、上記したように「禁中並公家諸法度」の第一条を「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」と定めて、「わが国の国家政治において夏音文字の学芸は最も重大です。ゆえに、天皇陛下・上皇陛下は夏音文字の学芸の勉学に励んでいただきたい」と要望したのである。

◆前々回と前回のわがブログでも指摘したように――1562年1月、29歳の織田信長と21歳の松平元康(のちの徳川家康)が結んだ“清洲 (きよす)同盟”は、『魏志』倭人伝末部に登場する13歳で卑弥呼の宗女(そうじょ╱卑弥呼が率いる巫女界を代表する巫女)として小国・日本の女王となり、247年より数年前に倭女王に就任した伊耶那美命を祭る熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)の牛王神璽(ごおうしんじ)に誓うものであった。伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。この伊耶那美命が提唱した〔愛〕は【日本建国理念】となって小国・日本の人民はじめ倭国の人民に尊重された。
 清洲同盟で信長と家康は熱烈に伊耶那美命に憧れていることを示した。
 二人にとって天下統一はあくまでも手段であって、この世に生きる目的は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載された【夏音文字の学芸】と『古事記』上巻の二度の淤能碁呂島の聖婚説話に示されて明記された【日本建国の〔愛〕の理念】を復興することであった。
 前々回と前回のブログで指摘したように、織田家は倭王権の祭祀を担当した忌部(いんべ)氏の血を継いでいたため、信長は『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に記載される夏音文字の学芸の勉学に励んだと考えられる。
 家康は駿河の今川義元の人質となって軍師の臨済宗妙心寺派の高僧の大原雪斎(たいげんせっさい)8歳から14歳までの7年間、夏音文字の学芸の教育を受けた。雪斎の宗派の臨済宗妙心派の寺院である竜安寺(りょうあんじ)の石庭は、現在の私たちでも夏音文字の学芸を学ぶことができる施設である。
 家康は信長に幾度も煮え湯を飲まされる仕打ちを受けながら、ついに一度も信長を裏切らず、大名たちに“律儀(りちぎ)な人よ”と皮肉られ陰口をたたかれた。家臣たちには信長に卑屈に従うものと思われても気にとめなかった。それというのも、家康は信長をわが心願(夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興)を成就してくれる君主と仰ぐものであったからである。ゆえに、家康はあきれるほど我慢つよく愚直にひたすら20年ものあいだ信長の補佐役に徹することができたのである。
 信長と家康は【夏音文字と楷書の字源・字形・字義】はA図の【銀河各部の形状】であることを知っていた。また、二人は『魏志』倭人伝の34の小国名の配置は、B図のごとくであると知っていた。

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(C)2015 OHKAWA 


 遠江(現在の静岡県西部)の武家の井伊氏は信長と家康よりも夏音文字の学芸に精通していた。井伊氏は3世紀後半の先祖以来1300年余、井伊氏は『魏志』倭人伝と同じ3世紀後半に作成された夏音文字の学芸を貯蔵・保存する遺跡を守ってきた。
 この遺跡の名称を、私はC図に示すごとく“「卑弥呼」の地上絵”と定めた。「卑弥呼」の地上絵は現在の静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形となる。「卑弥呼」の地上絵は、3世紀後半に生存した井伊氏の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)によって260290年頃に作成された。建比良鳥命は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖」と記述される。ゆえに、「卑弥呼」の地上絵は確かな歴史上の人物によって作成された。「卑弥呼」の地上絵は夏音文字の学芸をもって【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作成された遺跡である。
 信長と家康と井伊氏は共に夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】の復興をひたすら願っていた。
 井伊氏の先祖の建比良鳥命が作ったC図の「卑弥呼」の地上絵は〔夏音文字と楷書の字源・字形・字義はA図における銀河各部の形状であった歴史的事実を科学的に証明できる遺跡〕である。ゆえに、「卑弥呼」の地上絵は〔『魏志』倭人伝と『古事記』上巻の全記事は歴史的事実を伝えるものであったと科学的に証明できる遺跡〕となる。したがって、学者たちは「夏音文字の学芸が無かった」というパラダイム(理論的枠組み)の基に『古事記』上巻の全記事を読解する。ゆえに、学者たちの意見は「卑弥呼」の地上絵によって【誤読の空論】であったことが明白なる事実となる。『古事記』上巻・日本神話は虚構(きょこう)ではなく、夏音文字の学芸を用いれば科学的に証明できる厳然たる歴史的事実を伝えるものであったのである。

158262日の未明、本能寺の変で信長は明智光秀に討たれて49歳の生涯を閉じた。
 本能寺の変の4ヵ月後の10月、家康は甲斐(山梨県)に進軍した。ところが、徳川軍は信州(長野県)から南下してきた北条氏直(うじなお)の軍と甲斐で遭遇した。そこで家康は、北条軍との講和の使者に小姓組の一員として仕える弱冠22歳の井伊家24代頭首・直政(なおまさ)を任命した。直政は家康の期待にこたえて、講和の使者という大任を見事にやりとげた。この手柄を待っていた家康は、直政に武田家の遺臣74騎と坂東武者43騎を与えた。これが徳川軍最強の軍団と敵から恐れられた、紅蓮(ぐれん)の武具をまとって戦場を疾駆した“井伊の赤備(あかぞなえ)”である
 井伊直政は井伊氏の家督者である。直政は敵から“赤鬼”と恐れられ、彼を大将とする井伊の赤備えは夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】をなんとしても復興するという願いを有する真紅(しんく)の炎の軍団であった。
 関ヶ原合戦の4月後の1601年正月、家康の命令のもとに建比良鳥の地上絵の守り番の井伊直政は近江の佐和山城に入った。しかし、直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、翌16022月に42歳で没した。
 家康は信長に続いて再度同じ生きる目的を共有した直政を失った。残された家康は三人が胸に秘めて共有した天下を取って復興すると誓った事業に早速着手した。
 家康が近江の近隣7ヵ国12大名に井伊氏・彦根藩を助勢するように命令しておこなわれた彦根の大鳥の地上絵の作成事業は、1603年に着工して20年後の1622年に完成した。家康は1616年に75歳の生涯を閉じていますから、彼が何としてでもやりとげようとした大鳥の地上絵の完成を見ていない。
 D図に示すように、彦根の大鳥の地上絵(現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形)は琵琶湖の東岸に作成された。
 E図に示すように彦根の3千万坪の地上絵は〔夏至の日の出〕の方角を指し示して「夏音文字の学芸」をあらわす。彦根城の南々東にある多賀大社の主神は〔伊耶那美命と伊耶那岐命〕であるゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす。
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(C) 2015 OHKAWA 

◆D図に示す琵琶湖の古称は「鳰(にお)ノ海」である。前回のわがブログで証明して解説したように、E図の彦根の地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)は、3種の鳰=カイツブリの合体形であった。
 井伊氏はC図上部の静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町の金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)地区に居住した。F図に示すように、〔金指・井伊谷地区の地宜〕は「鳰と浮巣の形」に作られた。

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(C) 2015 OHKAWA


 前回のわがブログで証明したように、家康の生誕地であるG図に示す転回方位(B図と同じ東が南に転位する方位規定)にもとづく三河(現在の愛知県東部)の地宜は、H図下部の「ハジロカイツブリの姿」に類似すると見立てられた。というのも三河の「渥美半島」の[]について、白川静著『字統』(平凡社)は「久しく水に漬()けることを渥という」と解説するからである。これゆえ、「(久しく水に漬かって浮かぶ)のハジロカイツブリの顔と金栗色のしい飾羽(かざりばね)」を略すると「渥美」となる。だから、H図のごとく「三河の地宜」は〔水に浮かぶハジロカイツブリの姿〕に見立てられたことになる。
 前回のわがブログで証明したように、信長が居住した旧国の尾張(現在の愛知県西部)は、I図の左図に示すように、『魏志』倭人伝に記載される小国「弥奴(みな)国」であった。この小国名の「弥奴」は、I図の右図の「強い力で体を持ち上げて水面に直立姿勢となって雌雄がたがいに頭振り・水草くわえなどをおこなう[]の字源・カンムリカイツブリの繁殖行動する姿」と意味した。

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 以上のごとく、E図の彦根の地宜は、信長が住んだ尾張の地宜に相似する「カンムリカイツブリ」と、直政が居住した引佐町金指・井伊谷の地宜が示す「鳰」と、家康が生まれた三河の地宜が相似する「ハジロカイツブリ」の3種のカイツブリの合体形であった。そして、彦根の地宜はC図の1千万坪の「卑弥呼」の地上絵の3倍の3千万坪に作られた。
 H図に示すハジロカイツブリは水に浮いているあいだは黒っぽいが、飛び立つと羽根の内側に白い部分が見えるので、この「羽白(ハジロ)」が名の由来となった。「羽白」すなわち[][]が加わると「習う」の[]の字となる。
 前述したように、中国の正史『新唐書』日本伝には――702年に中国に到着した遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」と中国王朝に告げた――という記事があり、この記事は「壬申の乱の、持統上皇は歴史書編纂スタッフに天照大御神が精通した夏音文字の学芸を稍々習え(復興せよ)と欲求した」と伝える。この10年後の712年に完成した『古事記』上巻には多数の夏音文字が記載されているゆえ、わが国には夏音文字が実在した。
 3種のカイツブリの合体形となるE図の彦根の大鳥の地上絵は、上記した『新唐書』日本伝に記述された702年の遣唐使が述べた「夏音を習う」という言が設計モチーフとなった。彦根の大鳥の地上絵の〔東端のグニョグニョと複雑に曲がりくねる境界線〕は〔羽のつけ根〕の形をあらわしている。しかし、その境界線より東側の【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命とその理念を受け継いだ伊耶那岐命を祭る多賀大社が鎮座する地域には羽の形が存在しない。ゆえに、彦根の地宜の設計は「夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】は未だ習わず(復興せず)」と表現するものであった。

◆J図の彦根の大鳥の地上絵の内側に、琵琶湖南岸の地宜を図示した。
 J図に示すように、彦根市・多賀町の境界線となるA(名神高速道路と国道307号線が立体交差するあたり)からa(彦根市・多賀町・甲良(こうら)町の境界)までの境界線の形は、内側の琵琶湖南岸のCの近江八幡市の宮ヶ浜からcの日野川(ひのがわ)の河口までの湖岸の形に合致する。しかし、aからb(豊郷町)までの彦根市の境界線はcからdまでの琵琶湖の湖岸の形と異なり、bからの彦根市の境界線はdまでの湖岸の形とも異なる。

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 K図の中央に、井伊氏が居住した遠江の浜名湖北岸の大崎半島先端から都田川河口までの湖岸の地宜を示した。
 L図に、彦根市の地図の内側にK図に示した〔大崎半島先端からD地点(引佐細江の北岸)までの湖岸の形〕を図示した。

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 彦根市のaからB(愛知川 (えちがわ)上の彦根市・愛知川町・能登川町の境界)までの境界線は、大崎半島先端からD点までの湖岸の形に合致する。
 
この結果、L図の彦根市の東端の〔Aからaまでの境界線〕は安土山の西方の近江八幡市の宮ヶ浜から日野川河口までの湖岸の形に合致する。だから、近江八幡誌の宮が浜から日野川河口までの湖岸は、その東方に所在する安土城に居住した〔織田信長〕をあらわしていることになる(D図参照)
 また、L図の遠江の浜名湖北岸の大崎半島先端からDまでの引佐細江北岸の形を図化する〔aからCまでの境界線〕は〔井伊氏〕をあらわすものとなる。
 したがって、Aより北側の彦根の大鳥の頭部は、H図のハジロカイツブリの頭部を設計するものとなり、〔徳川家康〕をあらわす。
 L図の場合、彦根の東端の境界線の〔信長〕をあらわす〔Aからaまでの距離〕は、〔井伊氏〕をあらわす〔aからBまでの距離〕より短い。しかし、地図で調べると〔信長〕をあらわす〔宮ヶ浜から日野川河口までの実際距離〕と〔井伊氏〕をあらわす〔大崎半島先端からD地点(引佐細江の北岸までの実際距離)はほぼ同じである。このように、彦根の東端のグニョグニョと曲がる境界線は精緻(せいち)・玄妙(げんみょう)な設計となって「未だ夏音文字と日本建国の〔愛〕の理念」は未だ習わず」と表現するものとなる。
 以上のごとく、翼が無い3種類のカイツブリの合体形となる彦根市の行政区域を表示する地図の形は、信長・家康・井伊氏が『古事記』上巻の二度の淤能碁呂島の聖婚説話に記された【日本建国の〔愛〕の理念】を復興せんとした心願から作られた遺跡である。
◆信長・家康・井伊直政が生存した時代、A図に示す「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)の部分」が尾張・遠江そして家康が居住した駿河の天頂にめぐってきた。
 M図中央図に記すように「人の横顔に酷似する銀河の額の部分」を、天文学では「北天の最輝部(さいきぶ)」と呼ぶ。「北半球における人々にとって最も銀白色に輝いて見える」ゆえ、「北天の最輝部」と略称された。「北天の最輝部」は[]の字源「カンムリカイツブリ」に相似すると見立てられた。というのも、「北天の最輝部」の形は〔カンムリカイツブリの頸(くび)以下の胴体の下面までの形〕に相似し、その〔カンムリカイツブリの頸以下の胴体の下面まで〕は「北天の最輝部」の形のごとく銀白色だからである。ゆえに、「北天の最輝部」は[]の字源銀河となった。

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 淤能碁呂島の聖婚儀式がおこなわれた3世紀、N図に示すように現在の彦根市=彦根の大鳥の地上絵(北緯3515)となった地所の天頂に「北天の最輝部の北端」がめぐってきた。
 O図に、(1)3世紀と(2)彦根の大鳥の地上絵が作成された17世紀初頭と(3)現在の彦根市の天頂緯度線が「北天の最輝部」を貫通する様子を示した。
 P図の左図は右図に合わせて、左東右西形式の図にした。P図に示すように、彦根の大鳥の地上絵が作成された17世紀初頭、彦根の南の境界線がある愛知川(えちがわ)河口(北緯3513)の天頂に「北天の最輝部の南端」が通過した。わが国の中国古代漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]の字源について――『説文解字』に「眉目の閒(かん)なり」というのは、正面の額の部分をいうのであろう――と解説する。[][]は同義とされる。[閒は一説には「門のすきまから月の光のさしていることを表す会意字」と指摘される。「月の光」や「月面」は〔銀白色〕であるから、『説文解字』の[]の字源解説は「人の横顔に酷似する銀河の両眉・両目の間となる上部の銀白色に輝く額の部分なり」となる。したがって、『説文解字』の[]の字源解説は「人の横顔に酷似する銀河の額にある北天の最輝部なり」と意味するものとなる。

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(C) 2015 OHKAWA


 [][]を加えると[]の字となる。白川静著『字統』は[]の字形について「顔を中心とした人の側身形」であると指摘する。A図に示すように「人の横顔に酷似する銀河の南部」は〔人の上半身の側身部〕となる。ゆえに、「[]の中心部となる顔」は「人の横顔に酷似する銀河」となる。P図の右図の「人の横顔に酷似する銀河」はまさに「顔」である。また、『説文解字』の[]の字源解説は「北天の最輝部」であった。したがって、「北天の最輝部」が「彦根」の[]をあらわしていることになる。
 Q図に示すように、「北天の最輝部」は〔木の根〕の部分となる。
 だから、P図のごとく「北天の最輝部」は[]を、Q図の「北天の最輝部」は[]をあらわすので、「北天の最輝部」は地名の「彦根」をあらわすことになる。

◆P図の右図に示すように、彦根の大鳥の地上絵の天頂に「北天の最輝部の南端」がめぐってきた時、彦根の大鳥の地上絵の西南の空にR図に示す「銀河系の中心がある夏の銀河の西南部」が輝いて見えた。

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 P図の左図に示すように、彦根の大鳥の地上絵の西南に京都御所が所在した。
 前々回のわがブログで詳細に解説したように、R図の「夏の銀河の西南部」は[][]の字源となり、「出雲」の語源となって伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。
 P図の左図に示すように彦根市の南の境界線は「愛知川」である。「愛知川」は「愛を知る川」である。つまり、「愛知川」は「【日本建国の〔愛〕の理念】を知る川」であった。
 したがって、信長、家康、井伊氏は夜な夜な金色に輝く巨大な〔夏の銀河の西南部〕を眺めて夏音文字の学芸と【日本建国の〔愛〕の理念】を復興せんとする願いを胸深く秘めてその炎(ほむら)で身を焦がしていつか心願成就させると誓っていたことになる。
 だから彦根の大鳥の地上絵は、その西南に所在する皇室・京都御所に〔【日本建国の〔愛〕の理念】の復興〕を願って作成された遺跡であったのである。

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2014年5月 2日 (金)

日本が滅びる・96

愛、あざやかに永遠であれ(36)・箸墓記事と天皇の王冠(3)

 

■三輪山の奥津磐座の石像の祟りと水器があらわす【日本建国の〔愛〕の理念】 


 
◆前々回と前回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」の9495で指摘したように、A図の奈良県桜井市に在る三輪山の奥津磐座の石像は――天照大御神の「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人々の胎児の頭を、B図に示す子宮頸部を狭くなるように祟(たた)って一日に千人ずつ絞め殺す」――という呪(のろ)いをあらわす。
 だからA図の石像はC図の左図に示す天照大御神の祟りをあらわす。
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◆イワクラ(磐座)学会による2009118日掲載の調査報告電子版のブログ「三輪山のイワクラ(磐座)めぐり」は奥津磐座について下記のごとく説明する。

「奥津磐座は長径四十数メートル、短径十数メートルの楕円形をした、高さ1メートル以下の小ぶりの岩が域内に多数集まった岩群である。岩群れは無数の筋状の列石のように見えるが、人為の介在の有無は不明である。長軸をほぼ南北に置き、南端に小さな拝所が注連縄のかけられた岩の前に設けられる。(中略)。

三輪山の山頂には太陽信仰にかかわるとされる大神神社の摂社である高宮神社(こうのみや)がある。

大神神社の説明によれば、高宮神社は三輪山の頂上、いわゆる高峯(こうのみや)(あるいは神峯とも書く)に鎮座、御祭神は大物主神の御子、日向御子神である。

本殿は小さな池の中にあり、古来、旱魃の時には郷中の氏子が登拝し、降雨を祈れば霊験ありとされている。」

A図の石像は奥津磐座の一角に在る主石である。そして、天照大御神は多数の岩が群がって集まる奥津磐座には、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人々の子どもたちを一日に千人ずつ殺すと呪力(じゅりょく)が充満していると考えた。
 だから、高宮神社の日向御子神は天照大御神が雷神(いかづちがみ)に「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊ぶ人民の胎児の千人の頭を一日に狭い子宮頸部で絞め殺して犠牲(いけにえ)にささげる」と誓い雨乞いをするための祭神であった。これゆえ、「日向御子神」というぐあいに祭神の名に[]の字が配されることになった。「日向」は「東」を意味するゆえ「高宮神社の東方に在る奥津磐座」を指す。

◆小国・日本の女王であった伊耶那美命は国作りの柱を〔愛〕と定めた。この【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命は倭女王に就任し、伊耶那美命が死去すると天照大御神が倭女王に就任した。
 天照大御神は国家に繁栄をもたらす豊かな農作物の実りを祈願する雨乞いのために多数の奴婢(ぬひ╱18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女たち)や多数の【日本建国の〔愛〕の理念】を尊ぶ人民の生子たちを殺して雷神にささげるのは当然であると考えた。ゆえに、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】は天照大御神の考えを強力に批判することになったため、天照大御神は【日本建国の〔愛〕の理念】を敵視し憎悪した。

◆『古事記』が作成された当時(7世紀末から8世紀初頭)、天照大御神は皇室が最も崇拝する皇祖であり、天照大御神の聖性を汚すことは絶対にしてはならないと禁止されていた。しかし、『古事記』の編纂スタッフは――倭女王に就任した天照大御神は雷神に豊かな実りを祈願して残虐な徇葬(じゅんそう)を決行し、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人々を迫害した歴史――を『古事記』上巻に記述した。
 『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話において――残虐な徇葬を決行した「天照大御神」の名を用いることができなかったので、編纂スタッフは「伊耶那美命の墓が作られた地域」を「黄泉国」と記し、「黄泉国で徇葬を決行した天照大御神」は「伊耶那美命の後を継ぐ倭女王」であったゆえ、「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」と表記した。
 「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」と表記すれば、朝廷の「天照大御神の聖性を絶対に汚してはならぬ」という欲求に応じたことになるゆえ、元明天皇は『古事記』献呈を承認するであろうという策略に編纂スタッフは賭けたのである。
 この編纂スタッフの企みを示すために、太安万侶(おおのやすまろ)は『古事記』序の初頭に「陰陽ここに開けて、二霊群品(にれい・ぐんぴん)の祖(おや)となる」という文を配置した。この文は「陰と陽の伊耶那美命と伊耶那岐命の二神がわが国の開祖となりすべてのものの生みの親となる」と解釈しなければならない。だから、『古事記』は天照大御神が伊耶那美命と伊耶那岐命が掲げた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重した人々を迫害した事実を記述した歴史書であったことになる。
 『古事記』上巻に登場する主な先祖は八人いるが、伊耶那美命、伊耶那岐命、須佐之男命、大国主神、山幸彦(やまさちひこ)の火遠理命(ほおりのみこと)の五人は国民に慕われる先祖であったゆえ【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重したと示す。残る天照大御神、天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)、海幸彦の火照命(ほでりのみこと)の三人は国家権力を誇示して【日本建国の〔愛〕の理念】を抹殺せんとした――と、『古事記』は記述する。
 だから、「黄泉国の伊耶那美命」は「天照大御神」であると編纂スタッフは記述していたことになる。

◆『古事記』を旅行カバンにつっこんでD図の熊野に旅行すると――『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話における「黄泉国」は「伊耶那美命の墓が築造された熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)」であると察知できる。また、「黄泉国(大斎原)の墓の玄室から伊耶那美命の棺を奪い、棺を神輿に担ぐ日本兵と棺を担ぐ兵が転ばないように真っ暗な熊野路を照らす燃え盛る松明(たいまつ)を手にかざす日本兵の一行と共に伊耶那岐命が逃亡して目指した黄泉比良坂之坂本(よもつひらさかのさかもと)」は「現在の熊野速玉大社の境内」であることも察知できる。
 『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の後半は下記のごとく歴史を記述する。

「日本兵たちの松明の灯で誘導された伊耶那美命の墓を守備していた倭政府の大軍は、伊耶那岐命の指揮する熊野速玉大社の境内に待機する日本軍の本隊と熊野に住む戦士たちに撃破されて大敗した。

この後、驚くべきことに夜の熊野路をか弱い足で追跡してきた天照大御神が捕えられ、日本国の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命がいる千引石(ちびきのいわ)の前に連行されて、夫の伊耶那岐命に離縁を言い渡された。
 この千引石は、D図に示す現在の和歌山県新宮市に所在する神倉神社の参道を塞ぐ神倉山にある“ごとびき岩”である。この「千引石=ごとびき岩」は神倉神社の御神体である。
 離縁を告げられた天照大御神は千引石の前で「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」と呪い、「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の胎児の頭を一日に千人ずつ絞め殺す」と誓った。
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◆『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部は「天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)は千引石の精霊となって道反之(ちかえしの)大神、またの名は黄泉戸(よみどの)大神と呼ばれた」と記す。だから、千引石はD図に示す神倉神社の御神体となり、天照大御神は神倉神社に主神として祭られることになった。ゆえに、「黄泉国の伊耶那美命」の正体は「黄泉戸大神(道反之大神)と呼ばれた天照大御神」であったことになる。
 伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は、「伊耶那美命の墓に埋められた徇葬者たち」を「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と記す。このように、天照大御神は雷神に雨乞いを祈願して残虐な徇葬を決行したために伊耶那岐命のクーデターによって倭女王の地位を失って天下を奪われた。ゆえに、天照大御神は伊耶那岐命に復讐するために、離縁が告げられた場所にあった千引石が天照大御神の怨み骨髄(こつずい)に徹する呪力によって千個に砕け散った岩が群がり集まるような奥津磐座で――千人ずつの胎児たちの頭を一日に絞め殺して犠牲(いけにえ)にささげると呪い雷神に雨乞い祈願していたことになる。
 『日本書紀』崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命(やもとととびももそひめのみこと)を箸墓(はしはか)に葬った」と記述する。またわがブログ「日本が滅びる」シリーズで幾度も詳細に解明したように、E図に示す箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命は天照大御神の晩年の名前であった。箸墓は全面を葺石(ふきいし)で覆った全長280mの大型前方後円墳である。上記したように『古事記』上巻が「天照大御神は神倉神社の神体となる千引石の精霊となった」と記述するように、倭迹迹日百襲姫命=天照大御神の伊耶那美命と伊耶那岐命への怨みは千引石を千個に砕いたような石や岩にのりうつり強い呪力を有することになったとされたゆえ、彼女の墓(箸墓)は全面を石で覆う造りとなったのである。したがって、箸墓からほど近い南南東の三輪山(E図参照)の山頂にある多数の岩が群がる奥津磐座において、天照大御神は雷神に一日に【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民の胎児を千人ずつささげて降雨を祈願する呪術(じゅじゅつ)の儀式をおこなっていたことになる。

◆D図の左下の熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山)の主神は、【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命である。
 日本最高の高さ130mの那智の大滝は那智大社の神体である。
 13歳で小国・日本の女王となった伊耶那美命は、『魏志』倭人伝末部に登場する倭女王であり、夏音名(夏音文字の名前)で「壱与(いよ)」と表記された。伊耶那美命は『魏志』倭人伝の記載される倭国に属する小国・伊耶(いや)国出身者であったために、「伊耶国出身の美しい女王」と尊敬され「伊耶那美命」と愛称された。伊耶国は旧国の丹波(現在の京都府中部と兵庫県の一部)であり、“霧の丹波”と呼ばれるほど霧が深い地域として有名であるので丹波出身の伊耶那美命は雨・霧などの水に強い呪力を有するとされた。ゆえに、丹波のごとく霧深い山中にある那智の大滝は伊耶那美命の精霊をあらわすことになった。このように、那智の大滝=伊耶那美命の精霊であったゆえ最初は本殿を設けられず、拝所だけが存在した。

 F図は、那智の大滝の正面にある伊耶那美命を祭る三体の神具図である。
 F図の上段中央の神具は「牛頭天王(ごずてんのう)」と称される。
 G図は『説文解字』の[]の字源解説をあらわす。『説文解字』は[][]を加える[]の字源を「牛、人に触()れる。角に横木を著()く。人の告げる所以(ゆえん)なり」と解説する。G図が示すように、「牛の頭に似る銀河のおける口部」は「人の横顔の酷似する銀河の頭髪部」に接触するので「牛、人に触れる。人の告ぐる所以なり」となった。「牛の頭に似る銀河における角の部分」は「十字の銀河の子宮」に付く(著く)ので「角に横木に著く」と解説された。
 H図の[]の字源解説図に示すように、「十字の銀河」は〔横〕になり〔木立〕に見立てられたので「横木」と呼ばれ、この「横木」の解釈にもとづいて多数の文字が作られた。
 G図に示すように、壱与・伊耶那美命が生存した3世紀半ば、天頂に「長方形の暗黒天体部」がめぐってきた。F図の〔牛頭天王の頭部〕は、I図に示す「長方形の暗黒天体部」を表現する。〔牛頭天王の両脇の飾り〕は、I図の「二連菱形」をあらわす意匠である。
 これゆえ、天頂にめぐってきたG図に示した「牛の頭に似る銀河」からF図の上段中央の神具の名は「牛頭天王」となった。

◆白川静著『字統』(平凡社)[()]の字源を――〔広義校訂(こうぎていせい)〕に、字は水に従うものであるから、急流の水を本義とすべしという。わが国の〔万葉(『万葉集』)〕の用法はその意で、「雨零()れば瀧(たぎつ)山川」(巻十・2308)のようにいう。いわゆる瀧は、古くは垂水(たるみ)といった――と解説する。
 この『字統』の[]の字源解説は、J図に示す「十字の銀河」から発する「激流に似る銀河」の形状に合致する。というのも、「激流に似る銀河」は「急流の水」をあらわすイメージとなり、また「雨が降ってたぎつ流れる山谷の川」にも観え、さらに「垂水」の形状をあらわすものとなるからである。
 J図の[]の字源銀河から壱与・伊耶那美命は那智の大滝の精霊となったのである。

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◆『説文解字』は[]の字源を「壺に従ひ、吉の聲なり」と解説する。
 B図に示す「子宮」が「壺」であり、「子宮()に宿る胎児」は「目出度い」[]を示すことになるので、[]の篆文の字形は「[]の中に、[]の字が入る」ことになった。
 したがって、K図の左図に示す「十字の銀河の子宮」が[]の字源銀河となった。

 白川静著『字統』は[]の字について「正字は與。上下左右の手で四方からものをもつ舁()と、与えとに従う。四方より与をかつぐ形である。与は象牙のような貴重なものの形であろう」と解説する。K図に示すように、[]の字源となる「四方からもの()をもつ、上下左右の手」は「十字の銀河、鬼の姿に似る銀河、東側の二連菱形、西の二連菱形」である。そして、「正方形の銀河」が「貴重なものをあらわす」の[]の字源となる。[]の字源銀河にはJ図の[]の字源となる「激流に似る銀河」が隣接するので、小国・日本の女王にして倭女王であった壱与は那智の大滝の精霊となった。

◆E図に示す熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三熊野(みくまの)には“牛王神璽(ごおうしんじ)”と呼ばれる悪魔退散、陰陽和合の護符(ごふ)がある――本来、牛王神璽が有するとされた呪力(じゅりょく)の「悪魔退散」の「悪魔」は「天照大御神の祟り」を指し、「陰陽和合」は「日本建国の〔愛〕の理念」を指すものであったのである。
 三熊野ではそれぞれの意匠の牛王神璽を売っている。三熊野では年の初めに牛王神璽を刷る神事が現在も残っている。L図の熊野那智大社の牛王神璽は最も古い形式を伝える。

それぞれデザインが異なる三熊野の牛王神璽では、中央に「日本第一」と4文字がある点が共通する――この「日本第一」は『古事記』序の初頭の「陰陽ここに開けて、二霊群品の祖となる」という文で示された「日本人にとって第一に大切なものは伊耶那美命と伊耶那美命が掲げた【日本建国の〔愛〕の理念】である」と表現するものであった。
 L図の那智大社の牛王神璽の中央の最下部は八咫烏(やたがらす)を組み合わせる宝珠(ほうしゅ)の意匠でK図に示す「十字の銀河の子宮」の[]をあらわし、宝珠紋の中に入る[]が加わって、[]の字をあらした。これゆえ、[]の字を形成する宝珠紋は「伊耶那美命は『魏志』倭人伝末部に登場する壱与であった」とあらわしている。

F図の下段の右側の盤(ふね)の上に載()る神具を、M図に示した。

M図の盤上の右側の神具は「赤い皿」の上に「富士山の形」が載る。

元明天皇に献呈拒絶されて正史になれなかった『古事記』上巻のテーマの【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることを作成目的とした『万葉集』は、巻二十の43214436番までの防人歌(さきもりうた)で伊耶那美命が赴任した小国・日本の範囲を示す。
 N図に示す防人歌の作者たちの出身国の範囲となる東国が、小国・日本であった。

 N図に示す範囲は富士山が見える地域であるゆえ、M図の「富士山の形」をした神具は「伊耶那美命は小国・日本に赴任した女王であった」と表現していることになる。

◆M図の盤上に載る左側の神具は、現在、家々の神棚に載る「水器(すいき)」である。

神棚に載る水器を手の平に載せて見つめれば、水器は〔愛〕を造形するものであると確信できる。家に神棚を有さない人は、神具店や瀬戸物屋などで手の平に載せてまじまじと水器を見つめるとよい。

O図に示すように、水器の水を入れる「容器」は〔妊婦のおなかの形〕に似るように作られているゆえB図に示す「子宮」をあらわす。上から見ると同心円形のミゾが刻まれる「水器の蓋(ふた)」は、B図でミゾが描かれる「子宮頸部」と「膣(産道)」をデザインする。ゆえに、「水器の蓋の底」は〔容器の大きな口〕を塞ぐゆえ「水器具の蓋の下部」は「広い子宮頸」をあらわし、「水器の蓋の上部(突起部)」は「膣(産道)」を表現する。そして、「毎朝、取り替える水」は「羊水」をあらわす。
 『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部は「天照大御神の祟りのために一日に必ず千人死ぬことになったが、伊耶那岐命の【日本建国の〔愛〕の理念】を継承する宣言によって一日に必ず千五百人生まれることになった」と記す。だから、F図の滝の正面に向かって右側の盤上に載る「一対の酒器」は「伊耶那美命と伊耶那岐命」をあらわし、L図の「日本第一」という4字は「伊耶那美命と伊耶那岐命が掲げた【日本建国の〔愛〕の理念】が日本人にとって最も大事である」と伝えていることになる。

O図の家々の神棚に載る水器は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす。

A図の石像は【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命・天照大御神の祟りをあらわす。
 A図の石像とO図の水器によって、『古事記』上巻・日本神話は史実を語るものであったと解明できる。だから、天照大御神の祟りをまったく解明しない学者たちの意見は〔誤読=文献批判〕を駆使して真実の歴史を抹殺した虚偽説であったことになる。

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2014年4月22日 (火)

日本が滅びる・93

愛、あざやかに永遠であれ(33)・天照大御神と須佐之男命の誓約説話の解明(12)

遠江の豪族・建比良鳥命が作った「卑弥呼」の地上絵の秘密(5)

 

3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』は、下記に示す――(1)「古(いにしえ)より以来、倭の使者は中国に到着すると、皆みずからを“大夫”と称した」、(2)「魏の景初2(238)6月、倭の大夫の難升米(なしめ)らを帯方郡に派遣した」、(3)「魏の正始4(243)、倭王が大夫の伊聲耆(いてき)・掖邪狗(ややく)の八人の使節を派遣した」、(4)「正始6(245)、魏の斉王は倭の外相の難升米に魏の軍旗の黄幢(こうどう)を仮に授けた」、(5)「魏の正始8(247)、倭は載斯烏越(そしあお)などを派遣して帯方郡政庁に到着した」、(6)「倭は大夫の率善(そつぜん)中郎将の掖邪狗など20人を派遣し、彼等は魏の都(洛陽)に到着した」――これら6つの記事で、倭ではA図に示した〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を日々鍛錬する習慣が存続していたことが事実となる。
 A図に示す〔[]のキャッチ〕によって〔天頂緯度線と子午線がキャッチ〕ができたゆえ、倭の使節は大海で緯度と方角(経度)が精密に測量できた。だから、上記の6つの記事は科学的に証明されて事実であったことになる。

〔天を北極の高度を緯度に換算する方法〕だと不正確であったので、大海に入ると直ちに迷い挙げ句に命を失い家族が待つ家へ帰還することはできなかった――この科学の法則の事実に対して、“そんなことはない! 〔天の北極〕でも無事に大海を渡ることはできた”と最も権威ある日本古代史学の大学者が反論しても、この反論は空論・虚妄となる。
 〔天の北極〕では大海を渡ることができない――これは科学の法則による事実である。
 上記の6つの記事における倭の使者・使節は北九州の沖合の「玄海灘」を渡って朝鮮半島の帯方郡政庁に到着し、さらに魏都を訪問した。
 上記したように――〔天の北極〕では緯度の測量が不正確で渡ることができなかった。しかし、〔玄をキャッチする方法〕ならば精密に緯度と子午線が測量できたので往来することができた――ゆえに、倭の使節が往来した北九州の沖合の海は[玄海灘]と名づけられた。

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◆紀元前1世紀、中国では〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が完成した。このため、中国の人々は2世紀から3世紀になると、中国と日本列島を隔てる大海を渡ることができなくなった。
 もしも中国と同様に倭の卑弥呼王朝もまた〔天の北極〕を最も重視するものであったならば、倭の使節も大海を渡ることができず魏と倭は国交を結ぶことができなかったので、『魏志倭人伝』は1字も文字が書かれていなかった白紙であったことになり、上記の6つの「倭の使者たちは大海を往来できた」という記述はじめ「卑弥呼」という3字も「邪馬台国」という4字も書かれていなかったことになる。

◆B図の左図に示す沖ノ島は、上記した「〔天の北極〕で緯度換算する航法では渡ることができないが、〔玄〕をキャッチする航法ならば往来できた」と伝える「玄海灘」に浮かぶ。
 B図に示すように、沖ノ島と伊豆諸島の神津島は同緯度(北緯3415)である。この両地が同緯度であることは、〔[]をキャッチする方法〕ならば測量できた。
 B図に示す〔同緯度の沖ノ島と神津島の気候〕と〔中国全土を包みこむ海岸線地域の北部と南部の気候〕を比較して、卑弥呼王朝は『魏志倭人伝』の15ヶ所の方位記事が伝える転回日本列島地理を制定した。
 日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るゆえ〔西冷〕となり、日本列島の東端にある亜熱帯地区の神津島は冬にも雪が降らないゆえ〔東暖〕となる。
 C図に示すように、中国の海岸線地域の北部の気候は冷たいゆえ〔北冷〕となり、中国の海岸線地域の南部は気候が暖かいゆえ〔南暖〕となる。だから、卑弥呼王朝はC図の右側に示すように「日本列島の東は中国海岸線地域の会稽(かいけい)や東治(とうじ)がある南部のほうへ伸びる」と考える転回日本列島地理を制定した。

したがって、『魏志倭人伝』には「倭の道里を計るに、当(まさ)に会稽・東治の東に在るべし」という記事がある。

D図が明確に示すように、転回日本列島地理は会稽・東治の東に在る。しかし、学者たちが主張する邪馬台国説九州説・畿内説の立論基盤となる実際の日本地図は会稽・東治の東北に在るので不合理となって【科学】が成立しない。

学者たちは“〔天の北極〕にもとづけば日本列島の東は南に伸びる地理は絶対に実在するはずない”と断定して、〔誤読〕に〔文献批判〕という名を付ければ何ヵ所でも改ざんすることができると主張する。この学者たちの意見にもとづくと卑弥呼王朝は〔天の北極〕で日本列島地理を制定したことになるので、上記したように倭の使節も魏の使節同様に玄海灘を渡ることができず魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになり、『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙となり「邪馬台国」の4字も「卑弥呼」の3字もすべて消えてしまうことになる。
 このように、学者たちの主張にしたがって〔天の北極〕にもとづく日本地図で考えると『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙となるゆえ、〔空論〕であることが明白となる。他方、A図に示した〔[]のキャッチ〕で立論すると、倭の使節は大海を往来することができたことになるゆえ『魏志倭人伝』の全記事は【科学】が成立して事実を伝えるものとなる。このように、学者たちが主張する邪馬台国九州説と畿内説が〔誤読の空論〕〔荒唐無稽のデタラメ〕であることは明白なる事実である。


◆『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に「遠江国造(とうとうみのくにのみやつこ)の祖(おや╱先祖)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」と名を記載された豪族は、E図の1千万坪の大鳥の地上絵を『魏志倭人伝』が著作された3世紀後半(260290)に作製した。E図の大鳥の地上絵を、私は“「卑弥呼」の地上絵”と呼ぶことにした。「卑弥呼」の地上絵は、静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形となって現存する。
 E図に示す「卑弥呼」の地上絵は『魏志倭人伝』の全記事と『古事記』上巻の記述は歴史的事実を伝えるものであることを科学的に証明できる史跡である。いいかえると、「卑弥呼」の地上絵を調査すると、新井白石以来の邪馬台国説研究と日本神話虚構説は【科学】がまったく成立しない〔誤読の空論〕〔荒唐無稽のデタラメ〕であることが立証される。
 E図に示す「卑弥呼」の地上絵は今日の国土地理院の精密日本列島地図の作製方法と同じく、[]をキャッチして測量した経緯度原点のA地を基に滝峯不動尊・八幡宮の三角本点を設置し、さらに三角形の網や鎖を形作って、1千万坪の「卑弥呼」の地上絵を作製した。


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3世紀後半当時、倭の学識者たちは魏との国交によって中国の人々は〔天の北極〕を重視するために大海を渡ることができない事実を知った。この事実は、当時の倭の学界を激震する大きな衝撃となり、遠江の建比良鳥命も知ることとなった。
 そして、建比良鳥命は[]のキャッチする1千万坪の地上絵を作製すれば、伊耶那美命が〔愛〕の理念を提唱した日本国誕生史を後世に伝えることができることに気づいた。
 F図の右側に示すように、世界遺産で有名なナスカの地上絵における最大の鳥の地上絵は全長が約300m、翼長が約90mである。G図に示すように、「卑弥呼」の地上絵の全長は約8.5km、翼長は約9kmである。「卑弥呼」の地上絵の全長8.5km8.5cmに縮小するとナスカの最大の鳥の地上絵はわずか0.3cm(3mm)となる。
 ナスカの地上絵は原図を拡大する方法で作製できるが、F図に示すように遥かに巨大な「卑弥呼」の地上絵を作製する方法は、現在の国土地理院の日本列島地図作製方法と同じくA図に示す〔[]のキャッチ=天頂緯度線と子午線のキャッチ〕で経緯度原点を定めて三角測量する方法のみに限られる。
 だから建比良鳥命は、1千万坪の大鳥の地上絵を作製すれば後世の人々は3世紀に〔[]のキャッチ〕を基軸とする高度の学術が存在したことに気づくにちがいないと考えた。
 建比良鳥命は今日の【科学】という言葉を知らなかったが、1千万坪の「卑弥呼」の地上絵は〔[]のキャッチ〕では作製できるが〔天の北極〕では作製不可能であるゆえ、〔天の北極〕にもとづく日本地図で考えた意見はすべて即刻〔空論〕となる。だから、3世紀の【科学】を伝えて「卑弥呼」の地上絵を作製して、夏音文字の学芸を貯蔵して卑弥呼の歴史と日本国誕生史を伝えようとした方法は歴史を後世に伝える最も賢明な方法であったことになる。


 遠江の豪族の建比良鳥命は、【日本建国の〔愛〕の理念】を呪い祟って抹殺せんとする天照大御神・崇神天皇王朝を倒して伊耶那岐命と伊耶那美命を父母とする須佐之男命の熊野王朝を創設するクーデターを計画する五人の王のうちの北九州の宗像に居住する天菩比命(あめのほひのみこと)グループの一員であった。須佐之男命は父・伊耶那岐命(開化天皇)の「多賀」すなわち「戦争を避けて、平和と繁栄に努めろ」という遺言を守って、天照大御神・崇神天皇と不戦の誓いを結んだ。これゆえ、クーデターは失敗した。
 建比良鳥命は「なぜ、なぜ、なぜ、こうなるのだ。日本建国の〔愛〕の理念はなぜ葬られなければならないのだ!」と悲嘆し、“愛あざやかに永遠であれ”と願って夏音文字の学芸知識を貯蔵する「卑弥呼」の地上絵を作製した。

われわれは、今から約4050年前の後期縄文時代に日本列島の伝来した高度な夏音文字の学芸が3世紀に存続して栄えていたことを学校でまったく教育されなかった。それというのも、白石以来の学者たちが『魏志倭人伝』の記事を【科学】が成立しない〔空論〕となる〔天の北極〕に則る天文地理学のみで考えて、【科学】が成立する〔[]のキャッチ〕について学者たちはまったく考えなかったので教育されないことになったのである。


712年、【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える『古事記』が完成した。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――崇神天皇の生母の天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)は千引石(ちびきのいわ╱現在の和歌山県新宮市に所在する神倉神社の御神体の“ごとびき岩”)の前で「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」、すなわち「伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を尊重する母親たちの子宮頸部を狭くなるように呪って、一日に必ず千人ずつの胎児の頭を縊(くび)り絞()めて殺す」と誓った――と伝える。
 『古事記』は歴史の真相を伝えて皇室が至上神と崇拝する皇祖・天照大御神の聖性を汚す反逆の史書であったゆえ、即座に元明天皇は献呈を拒否して『古事記』の抹殺に努めた。


720年、『日本書紀』が完成した。
 『日本書紀』第五・崇神天皇紀に記載された箸墓古墳の築造記事は、『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部の千引石の前で「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った天照大御神の秘密を補足説明するものであった。
 つまり、『日本書紀』崇神天皇紀にある箸墓古墳の築造記事は「大物主神の妻となって箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は千引石の前で伊耶那岐命に離縁された天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)であり、天照大御神=倭迹迹日百襲姫命と息子の崇神天皇は【日本建国の〔愛〕の理念】を祟って抹殺する呪いの偶像を三輪山の頂上に設置した」と記述するものであった。
 奈良県桜井市に所在する三輪山の頂上にある偶像は倭迹迹日百襲姫命が【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した天照大御神であることが明確に証明できる遺物であったゆえ、江戸幕府は破壊せずに残した。これゆえ、この偶像は現在も残っている。
 


 
778年、“愛あざやかに永遠であれ”と願う【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える『万葉集』が完成し、巻二十の4321番から4436番の116首の防人歌(さきもりうた)で【日本建国の〔愛〕の理念】が表示され、小国・日本は旧国の駿河・伊豆・相模・甲斐・信濃・上野・下野・武蔵・安房・上総・下総・常陸の東海・関東地方であり、旧東鯷人国であったと明確に示された。『万葉集』は朝廷が抹殺せんとした『古事記』上巻のテーマとなった【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作られた和歌集であったのである。
 天照大御神=倭迹迹日百襲姫命が千引石の前で「汝の国の人草、千頭絞り殺さむ」と誓ったのは伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪するものであったからである。天照大御神は強大な権力によって国家は栄えると考え、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】は強大な権力を損なう無用なものであると敵視した。


 9世紀後半から10世紀中ごろ、日本最初の小説『竹取物語』が完成した。『竹取物語』のテーマは『古事記』上巻と『万葉集』が伝える【日本建国の〔愛〕の理念】であり、国家権力を最も重視する朝廷の政策(天照大御神の政策)を徹底的に風刺する小説である。『竹取物語』は日本の反国家権力風刺小説の最高峰である。
 ヒロインのかぐや姫は【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命をモデルとする。伊耶那美命は『魏志倭人伝』に記載された小国・伊耶(いや)(旧国の丹波)出身の竹野比売(たかのひめ)であった。だから、かぐや姫は竹の筒から生まれることになった。
 1011年ころに完成されたとされる『源氏物語』よりも、『竹取物語』ははるかに勝って日本人の精神形成、特に武士道の形成の原動力となった。源頼朝、織田信長、徳川家康が【日本建国の〔愛〕の理念】の復興に一生を捧げたのは、『竹取物語』が「武士(つはものども)があまた具()して山へ登りけるよりなん。その山を〔ふじ(富む士)の山〕とは名づけゝる。その煙(けぶり)、いまだ雲のなかへたち上るとぞ、言ひ伝へる」という文で終わり、【日本建国の〔愛〕の理念】を復興する武士こそ日本人の理想像であると訴えたからである。

 

12世紀末には、『竹取物語』の最後の文に符合して富士が見える伊豆で育った源頼朝が【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を願う関東武者たちに担がれて鎌倉幕府を創設した。弟の義経は【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺を謀る比叡山延暦寺の僧侶の弁慶を片腕として朝廷に近づいて鎌倉幕府の屋台骨を揺るがした。ゆえに、義経は鎌倉幕府から追放されて討たれたのである。『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の舞台となる黄泉比良坂(よもつひひらさか)は現在の和歌山県新宮市に所在する神倉神社の参道であるが、頼朝の寄進によって538段の石段となる。ゆえに、鎌倉幕府は【日本建国の〔愛〕の理念】を復興の基礎を固めた武家政権であったのである。


◆鎌倉幕府の後を受け継いだ室町幕府もまた【日本建国の〔愛〕の理念】を掲げた。足利義満の別荘であった金閣寺(鹿苑寺)の庭園は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された夏音文字が解明できる施設である。
 室町時代を代表する庭園の極地を示すとされる、京都市に所在する竜安寺(りょうあんじ)の枯山水(石庭)は、15個の石・5群の石組と白砂で「漢字は秋の銀河・夏の銀河から創られた」と造形表現する。したがってE図の「卑弥呼」の地上絵と同じく、竜安寺の石庭もまた『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された夏音文字の学芸が解明できる施設である。ゆえに、竜安寺の石庭は最も重大な日本古代史の真相・真理を解明できる思索(考え方)を示す施設であり、邪馬台国九州説・畿内説と日本神話虚構説は〔誤読の空論〕であると証明できる施設である。

英語では「銀河」を「the Milky Way」すなわち「ミルクのように乳白色の道」という。少し明るい光が目に入る瞳孔だと、H図に示す「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河・激流に似る銀河・長方形の暗黒天体部・人の横顔に酷似する銀河」の全面は乳白色で覆われる。だから、英語は「銀河」を「the Milky Way」と称した。竜安寺の石庭全面を覆う砂はよく見ると乳白色であり、「the Milky Wayの庭園」となって15個の石・5群の石組ですべての漢字が作られた秋の銀河と夏の銀河の各部の形状を造形表現する仕組みになっている。

 

15621月、29歳の織田信長と21歳の松平元康(後の徳川家康)は世にいう“清洲同盟”を結んだ。江戸時代の幕臣の木村高敦(たかあつ)が著した『武徳編年集成』は、清洲同盟で信長は「和議早速御許諾欣然タリ 此上は水魚ノ思ヲナシ互ニ是ヲ救ン事聊(いささか)モ偽リ有(ある)ベカラズ」と書く起請文(きしょうもん)を作ったと記す。信長は小さな紙に“牛”という字を書いて、それを三つにちぎり、信長と元康(家康)と信元(元康の生母の於大の兄)の三人で茶碗に水に浮かべて飲んだとのことである。
 この“牛”の字を書いておこなった儀式は、信長が熱烈に憧れた伊耶那美命を主神として祭る熊野那智大社のI図に示す牛王神璽(ごおうしんじ)に誓う血盟を示すものであった。
 I図の牛王神璽中央の「日本第一」は「日本人にとって第一番目に大切なものは伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】である」と伝えるものである。
 清洲同盟から9年後の1571年、信長は皇室に協力して【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺を謀って「天照大御神は密教の本尊の大日如来である」という虚偽をデッチあげた比叡山延暦寺を憎悪して焼き打ちにした。
 158262日の未明、本能寺の変で信長は明智光秀に討たれた。

 

◆関ヶ原合戦の4月後の1601年正月、家康の命令でE図の「卑弥呼」の地上絵を作った建比良鳥命の子孫の井伊直政は譜代大名の筆頭の地位につき、近江佐和山城に入った。しかし、直政は関ヶ原で島津隊から受けた鉄砲傷が悪化して、翌1602年に42歳で亡くなった。
 家康は【日本建国の〔愛〕の理念】の復興を胸深く秘めて一生をささげた信長と直政を失ったが――信長・直政・家康の心願をあらわす地宜(ちぎ╱地図の形)を作るために近江の近隣7ヵ国12大名に井伊氏・彦根藩を助勢するように命令した。この地宜は1603年から着工されて20年後の1622年に完成した。J図に示す彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は「未だ夏音文字は習わず(復興せず)」と設計する。


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 家康は1616年に没しているので、信長と結んだ清洲同盟の約束をあらわすJ図の彦根の大鳥の地上絵の完成を見ていない。
 彦根の3千万坪の「未だ夏音文字は習わず」と設計された地上絵は、E図の「卑弥呼」の地上絵と同じく夏至の日の出の方向を向くゆえ、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載された夏音文字の秘密を解明すれば日本古代史における第一番に大切な【日本建国の〔愛〕の理念】に関する歴史が解明できる史跡である。その証拠に、J図に示す彦根城の南南東に鎮座する多賀大社の主神は伊耶那美命と伊耶那岐命であり、伊耶那岐命は【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱し、この【日本建国の〔愛〕の理念】を伊耶那岐命は受け継いだ。だから、彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は夏音文字の学芸を復興して【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えるために作製された史跡であったのである。

天照大御神・崇神天皇母子を皇祖と崇拝した朝廷は【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して抹殺せんとした。この朝廷の方針に真っ向から逆らった家康の遺志を受け継ぐ江戸幕府は、上記したように天照大御神・崇神天皇母子が三輪山の頂上に設置した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と祟(たた)る政策を造形する偶像を破壊しなかった。


1725年に没した新井白石が〔誤読〕で立論する邪馬台国説の出現に“このような空論が学問と呼ばれるようになったならば、必ず日本は滅びる”と脅威を感じたのであろうか――白石の死から13年後の1738年、朝廷は江戸幕府の協力を得て皇室最大の神事の大嘗会(だいじょうえ)を復興し、天皇の即位式に用いるK図に示す王冠の上の飾りはE図に示す「卑弥呼」の地上絵の意匠に定めた。
 K図の天皇の王冠の下の飾りの菅笠(すげかさ)は、L図に示す「子宮頸部」をあらわす「細い切れ長の目の銀河と三角形の暗黒天体部」を意匠とした。
 前回のわがブログ「日本が滅びる・92」で詳細に解説したように、L図の「細い切れ長の目の銀河と三角形の暗黒天体部」はM図に示す「子宮頸部」をあらわした。
 天照大御神は「千頭絞り殺さむ」と呪って、「千人の胎児の頭を狭い子宮頸部で縊(くび)り絞()めて殺す」と祟る政策を遂行した。天皇の王冠の下の飾りの菅笠は「卑弥呼」の地上絵よりも大きく作られて「広い子宮頸部で無事に胎児が出産する」をあらわした。
 1738年の大嘗会の復興における天皇即位式の王冠の意匠をもって皇室は天照大御神の「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」という祟りは日本人と日本国を滅ぼす原因になると認めた。ゆえに、江戸幕府は大嘗会の本格的な復興に協力したのである。


◆N図に示す良県桜井市に所在する纏向(まきむく)遺跡をなんとしても邪馬台国にしようとする学者たちは『魏志倭人伝』と『日本書紀』崇神天皇紀の箸墓築造記事に多数の〔誤読〕を加えて荒唐無稽のデタラメを唱え、この虚妄説に朝日新聞は肩入れして、「なんで生きているのだ。このゴキブリ野郎めが、目障りだ。とっとと死ね。日本人は一日に千人ずつ死ね」と急()きたてて、【日本建国の〔愛〕の理念】を守ると即位式で誓った天皇の尊厳を徹底的に侮辱する残忍きわまりない畜生と化す。
 以上、先人たちが“愛あざやかに永遠であれ”と願い続けた歴史にもとづくと、〔誤読〕を駆使して改ざんする纏向遺跡邪馬台国説を唱える学者たちと朝日新聞の行為はナチスのユダヤ人の大虐殺と同じく、“日本人を大虐殺するホロコースト”となる。

日本国を脅かすまたは日本人を侮辱する最大の勢力は尖閣諸島問題で対立する中国政府でもなく慰安婦問題で攻撃する韓国政府でもなく、根も葉もない纏向遺跡邪馬台国説というデマを流布して日本国と日本人のこの世に存在して生きる理由を根こそぎ奪う学者たちと朝日新聞である。
 このまま根も葉もないデタラメ・纏向遺跡邪馬台国説を放置すると、確実に日本は衰退し挙げ句に滅びるにちがいない。先人たちが日本人の命の根元とした【日本建国の〔愛〕の理念】が未だほんとうに復興されないために少子化が進み、また【日本建国の〔愛〕の理念】という最も重大な歴史の真実を排除したために一歩先の進むべき方向もまったく見えなくなるゆえ我々はますます窮地に陥って衰退の坂道を転げ落ちていくのみとなる。

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2013年11月22日 (金)

日本が滅びる・69

愛、あざやかに永遠であれ(10)・『古事記』序が歴史を知る方法の解説() 

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・66」で解説したように、約4万年前頃から地球上に出現したわれわれ現生人類(現代型のホモ・サピエンス)は、最初からA図に示す〔[]をキャッチする能力(精密に緯度が測定できる天頂緯度線と方角を測量できる子午線をキャッチする能力)〕を本能として有し、“よく”生きていくために人間だけがそなわった創造する能力も有していた。このような〔[]をキャッチする能力〕と“よく”生きていくための創造能力は、スペイン北西のアルタミラ洞窟のうちのエルカスティーヨ洞窟の約4.1万年前の赤い点状や円形の天井画と、3.7万年前の手に赤い塗料を吹き付けて作った手形によって証明される。
 わが日本列島の縄文時代の草創期は約12000年から始まるとされる。次の早期縄文は約1万年前、前期縄文は約6000年前から始まるとされる。前回のわがブログで指摘したように、約6000年前の前期縄文時代初頭において、関東地方で土器と土偶による芸術革命がおこった。
 草創期と早期においては、B図に示すような深鉢が作られていた。B図のごとく、草創期と早期の深鉢の底を上にして置くと深鉢が安定して座りがよくなる。したがって、深鉢は底を上にして、保管されていたにちがいない。A図の天頂点を通過する銀河部の軌道は天頂点が最も高くそれ以上に上部になる天体部が存在しないという印象を表示すると楕円形となる。ゆえに、その地上にあらわれる楕円形の軌道はB図のごとく底を上にした草創期の丸底深鉢と早期の尖底(せんてい)深鉢のような形となる。だから、A図の最も大事な命を確保する方法であった〔[]をキャッチできる眼力と技(わざ)〕が研ぎ澄まされて鋭敏になることを縄文人は願って、A図に示す軌道の形に合致するようにB図のごとく深鉢の底を上にして保管していたにちがいない。
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◆太安万侶(おおのやすまろ)が作る『古事記』の序は「臣安万侶言(もう)うす。それ混元すでに凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ」という文から始まる。
 この冒頭文はB図の草創期と早期の縄文土器について述べたものであると考えられる。「臣安万侶言す」以後の文は「天地万物の情(イメージ)が混沌(こんとん)としていた縄文時代の元(はじめ)の草創期と早期においては、気象すなわち天頂点周囲の銀河各部の形状を人々は造化(ぞうか╱造形)することができず、天頂点を通過する銀河部位の軌道(A図)を造化していました。ゆえに、この世に名も存在せず、天頂点周囲の銀河を造化する創造行為が確立されていませんでした。ゆえに、今日のわれわれは草創期と早期の縄文時代にどのような銀河部が天頂にめぐってきたのか知ることができません」と解釈できる。
 次の「しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神(さんしん)造化の首(はじめ)を作()す」という文で、安万侶は「名門益氏の日本列島移住によって夏音文字が習得できた」と表現した。

 
◆C図は、〔歳差〕という天文現象に用いて、土器と土偶による芸術革命がおきた関東地方(北緯36)における約6000年前の前期縄文時代初頭、約5000年前の中期縄文時代初頭、そして約4050年前の後期縄文時代初頭に天頂点と重なった天頂緯度線が貫通した銀河図である。
 名門益氏の王子(天祖)一行は文字が無い日本列島に移住して夏音文字の学芸を根づかせた。益氏が話す夏音の言葉は、縄文人たちにはチンプンカンプンでまったく理解できなかったが、縄文人たちは夏音文字の学芸を理解し習得した。この習得方法を、太安万侶は「しかれども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す」という文で――夏音文字における「文字」は「銀河各部の形状」であった。C図の➂の天頂緯度線が貫通する「鬼の姿に似る銀河」、「十字の銀河」、「三つ輪の銀河」は夏音文字の基本字となった。これらの銀河は縄文前期初頭から縄文中期末期までの1950年間における土器と土偶のモデルとなったので、縄文の芸術家たちによって夏音文字は習得された――と説明した。
 
 その証拠に、D図は「造化参神の首を作す」という文の解説図となる。D図の➂の緯度線は日本列島で夏音文字の学芸を習得した今から約4050年前の夏代初頭の造化(造形芸術)の神・神産巣日神(かむむすひのかみ)をあらわす。D図に「首」と記した銀河部は、「参神造化の首」の[]をあらわす。そして、「参神の首を作す」という文は「前期縄文時初頭の造化の神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)から神産巣日神までの約1950年間の造化の神々の歴史によって夏音文字が習得できた」と表現するものとなる。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「1・漢字」「2・秋の銀河と夏の銀河」「3・夏音文字」「4・倉頡が死刑と定めた3つの掟」にて解説しているように、原初漢字・夏音文字は「秋の銀河と夏の銀河各部の形状」を「文字(字源・字形・字義)」と定めた。

◆E図に示したように、前期縄文の深鉢(山梨県東八代郡御坂町の花鳥山遺跡から出土した)と中期縄文の新潟県信濃川流域から出土した火炎土器は、夏音文字の基本字となった「鬼の姿に似る銀河・十字の銀河・三つ輪の銀河」で構成される「オス鹿の横顔に似る銀河」の形に相似して造化される。
 また、F図の山梨県東八代郡御坂町の桂野遺跡から出土した縄文中期の深鉢とE図右端の深鉢の胴にほどこされた渦巻文と、そしてE図の火炎土器のダイナミックな口縁部のデザインはD図左上にある➀と➁の天頂緯度線が貫通した「三つ輪の銀河全域を覆う渦巻の形状」を造化(造形)したものにちがいない。
 「三つ輪の銀河」には無数の星がひしめき、ある箇所の星と星の連なりは渦を巻き、ある箇所は円を描き、ある箇所は奔放(ほんぽう)な曲線や直線となってダイナミックに躍(おど)り輝ききらめく。ゆえに、音の無い花火あるいは豪華・巨大なシャンデリアのごとき壮麗にして燦然と輝く銀河である。このため、「三つ輪の銀河」を造化した中期縄文の土器を飾る渦巻き文様や火炎土器の口縁部は見る者が強力なエネルギーを感じる、世界に類がない複雑な形となった。

◆今から約4050年前に、文字の無い日本列島で夏音文字の学芸は習得された。夏音文字の基本字はE図の「オス鹿の横顔に似る銀河」を構成する「長方形の暗黒天体部・鬼の姿に似る銀河・十字の銀河・三つ輪の銀河」であった。夏音文字は「銀河各部の形状」を「文字」としたので、夏音文字の基本字となった銀河をモデルにして前期縄文時代以来1950年間も土器と土偶を作っていた日本列島においては、夏音文字が習得できたのである。
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 今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた、“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)は漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明して、G図の「ジャコウウシ」を漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕の基本理論を表示する聖なる獣と定めた。
 これゆえ、D図の「首」と記した銀河はG図の〔ジャコウウシの首〕に見立てられた。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は、D図の➀「天之御中主神」と➁「高御産巣日神」の名に配する[]の字について「御は祟(たた)る怨念を禦(ふせ)ぎ祓(はら)うための祭祀であった」と解説する。
 H図に示すように、「祟(たた)り」の[]の契文形(甲骨文字の字形)はD図に「首」と記した銀河を〔ジャコウウシの首〕に見立てて、「三つ輪の銀河」における「北の輪の銀河」を〔子を中心に隠して天敵のオオカミの攻撃を防御するために組むジャコウウシの円陣〕に見立てて造化された。
 倉頡はH図右端の「十字の銀河」を「すべての文字を生む母体」、「十字の銀河の子宮」を「すべての文字を生む子宮」と定めた。[]の金文形は「十字の銀河の子宮」と「毛足の長いウールのコート(防寒具)で全身がおおわれるジャコウウシ」を表現して造化された。胎児が宿る子宮は骨盤で防御され、ジャコウウシは子どもを中心に隠して円陣を組んでオオカミの攻撃を防御するので、〔骨盤〕は〔ジャコウウシの円陣〕に見立てられた。このため、女体に相似する「十字の銀河の子宮」は〔ジャコウウシが子どもを隠す円陣の中央〕に見立ててられて[]の金文形が造化された。
 ジャコウウシの肉は麝香(じょこう)の香りがする最高に美味しい。また、優れたコートとなったので、有史以前は広く北半球の寒帯に分布していたが中国はじめ多くの地方で絶滅した。ゆえに、「ジャコウウシ」は「たたり」をあらわす[]と「祟る怨念を禦ぎ祓うための祭祀」をあらわす[]の字源となった。「ジャコウウシ」は[][]の他に、「犠牲(いけにえ)」の[][]はじめ[][]などの牛偏の字はじめ多数の文字の字源・原義となった。
 I図に示す垂直に立つ柱の先端の真上は天頂点であり、垂直に立つ柱は太陽の正午の高度や銀河各部の高度を測量する時に用いられた。これゆえ、「三柱(みはしら)」など神の数を示す単位は「柱」となった。「十字の銀河」は〔垂直に立つ柱〕に見立てられて[][]の字源となり、また[]の字源にもなった。
 だから、D図の➀天頂緯度線「天之御中主神」という名に配される[]の字源は「北の輪の銀河」(H図の中央図)であり、[]の字源は「十字の銀河」であった。「天之御中主神」の[]は「ジャコウウシは円陣の真ん中に子を隠す習性」をあらわしていることになる。

◆D図の➁の天頂緯度線「高御産巣日神」にも、[]の字源となったH図の中央図の「北の輪の銀河」を貫通しているので神の名に[]という字が配されることになった。
 「高御」の後に続く「産巣日」は「鷹が卵を産みひなを育てる巣の形は日輪のごとく円形」と表示するものとなる。
 D図の「十字の銀河の子宮」を、J図右上に配置した。「十字の銀河の子宮」は[(スイ・とり)]の字源となり、「十字の銀河の子宮」は〔鷹の頭部〕の形に類似すると見立てられた。これゆえ、[]の字には[]の字が加えられることとなったのである。
 K図に示すように、[]の金文形は「鬼の横顔に似る銀河と長方形の暗黒天体部」から図案されたが、「鷹」が[]の字源となった。その証拠に、『魏志倭人伝』に記載される小国「鬼()国」は、L図右側に示す「旧国の志摩、現在の三重県南部」であった。小国「鬼奴(きぬ)国」はL図左側の「旧国の紀伊、現在の和歌山県」であった。和歌山県の平面的に図化した地図の形は〔飛翔する鷹の姿〕に類似すると見立てられ、「鷹」は[][]は「ものすごく強い力」をあらわす字であったゆえ「鷹の飛ぶ翼はものすごい力を有する」ということで[]となり、「和歌山県」の小国名は「鬼奴国」となった。
 倉頡は〔女性の生殖器官〕に相似する「十字の銀河の子宮」を「すべての文字を生む生殖器官(子宮)」と定めた。
 M図に示すように、女性の生殖器官には卵管・卵管采・卵巣は二つあるが大半の女性は一人の子どもしか産まない。鷹は14つの卵を生みが、強いひなが生き残って弱いひなは生き残ることができない。しかし、餌が十分ならば弱いひなも育つ。同様に、双子や三つ子などを産む女性もいる。だから、鷹のひなとヒトの子は共通すると考えられることになり、大半の女性が子を一人しか産まないのは、鷹のひなの生き残りのごとく、女性の生殖器には二つの卵管・卵管采・卵巣があっても強い精子だけが生き残って弱い精子は死滅すると夏音文字の学芸は考えたのである。
 これゆえ、「鷹」は[]の字源となり、[]は「神」を意味することになった。
 『後漢書』倭伝は「卑弥呼は鬼神の道を事(まつ)る」と伝え、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は鬼道を事(つか)えて、よく衆を惑わす(立派に民衆の心を一つにまとめて治めた)」と記述する。
 だから、D図の➁「高御産巣日神」と➂「神産巣日神」の「産巣日」は「三つ輪の銀河の輪の形は鷹が卵を産む巣を真上から見た形に相似し、円形の日輪の形にも相似する」とあらわすものとなる。
 D図における➂「神産巣日神」の天頂緯度線は、K図に示す[]の字源「鬼の横顔に似る銀河」の中央を貫通し、[]は「神」を意味するので、➂の神の名の先頭字は[]となったのである。

◆『日本書紀』巻第三の神武天皇紀の初頭部にある天祖降臨説話は、夏音文字の学芸をもたらした名門益氏の王子一行が日本列島に移住した歴史を記述する。この天祖降臨説話は「天祖の子孫(祖と父の尊)は、神ひじりのように徳高く、善政をかさね、恩沢もゆき渡り、多くの年月が経過した。」と説明する。このように説明されるように、D図は関東地方における天頂緯度線であるゆえ、夏音文字の学芸は益氏が居住した東北地方の男鹿半島・米代川縄文文化圏だけに止まらず、関東地方にも波及して習得されたことになる。
 『古事記』上巻には――皇室が絶対に聖性を汚してはならないと厳しく禁止する皇祖天照大御神が徇葬を決行し、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を天照大御神が憎悪し祟って人民を苦しめた歴史が記述された。このため、元明天皇が献呈を承認して『古事記』が正史になるために、安万侶は元明天皇を賞賛する文を作る必要があった。安万侶は『古事記』序の末部に近い箇所で、元明天皇を「名は文命よりも高く、徳は天乙(てんいつ)にも冠(まさ)りたりと謂()ひつべし」と讃える文を挿入した。この賛辞は「お名前は夏の帝禹よりも高く、徳は殷の湯王(とうおう)よりも勝っていると申し上げることができます」と意味する。つまり「元明陛下の名は帝禹の裨益・補佐役であった帝益のごとく高く、徳は湯王の政事を補佐した伊尹(いいん)のごとくです」と賞賛した。益が禹の遺志を新天地・日本列島で受け継ぐという決意によって夏音文字の学芸は日本列島に根づいた。だから、「名は文命よりも高い」という文は「名は文命の政事を裨益した益のごとく高く」とあらわすものとなるので、元明天皇を最大最高に褒める賛辞となった。
 帝益の孫の王子と若者たちの日本列島記事は、三十巻からなる『日本書紀』の巻第三の初頭部にあるわずか数行の記述である。にもかかわらず、『古事記』の序には帝益を讃える「名は文命よりも高い」と文を挿入した目的は、(1)元明天皇を絶賛して『古事記』献呈を許可して正史にするためと、そして(2)読者に――わが国に、「銀河各部の形状」が「文字」とする夏音文字が伝来している。すべての文字の字源・原義を銀河各部の形状で解明すれば歴史を正しく知ることができる――と、『古事記』上巻に記述した歴史の解明方法を気づかせるためのものだったのである。

◆前述したように、わが国では「銀河各部の形状」が「文字」となる夏音文字が習得され、7世紀に完成した隋代の「楷書の字源・原義」も夏音文字と同じ「銀河各部の形状」であった。ゆえに、『古事記』上巻のすべての文字の字源・原義は銀河各部の形状に直せば正しい歴史が解明できることになった。
 このような『古事記』の上巻に記述した歴史を正しく解明する方法を説明することが『古事記』の序を作成する目的であったことを、学者たちのテキストとする注釈書『古事記伝』を著作した本居宣長はまったく気づかなかった。
 したがって、宣長以降から現在まで、『古事記』上巻の日本神話に記述された歴史を正確に解明した書物は一冊も作成されていない。すべての書物は正しく文章が解釈できない、〔
誤読〕の産物となった。言い換えると、『古事記』序が説明し指摘しているように、「文字」の字源・原義となる「銀河各部の形状」に直す作業を加えないと歴史的事実は明らかにならない。

 

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2013年10月30日 (水)

日本が滅びる・63

愛、あざやかに永遠であれ(4)・天照大御神の忌瓮儀式と伊耶那美命の陵墓について

◆『魏志倭人伝』の末部には、魏が朝鮮半島に設置した帯方郡(たいほうぐん)政庁の使者の張政(ちょうせい)が最初に檄(げき╱軍書)を告喩(こくゆ)した倭女王壱与(いよ)と、二度目に檄を告喩した倭女王壱与の代役をつとめた、二人の壱与が登場する。
 「壱与」は夏音名(夏音文字による名)であり、張政が最初に檄を告喩した倭女王壱与は『古事記』上巻に登場する伊耶那美命である。彼女は『魏志倭人伝』が記載する倭国に属する小国「伊耶(いや)国」(旧国の丹波、現在の京都府中部と兵庫県の一部)出身の女性であったから人民に「伊耶那美命」と愛称された。伊耶那美命の本名は「竹野比売(たかのひめ)」である。
 伊耶那美命の代役・倭女王の役目をつとめて、帯方郡使の檄の告喩に応じて卑弥呼と素(もと)より不和であった狗奴(くな)国討伐を承諾した女性は、『古事記』上巻に登場する天照大御神である。天照大御神の本名は「伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)」である(『日本書紀』は「伊香色謎命」と記す)
 伊耶那美命と天照大御神の夫は、『魏志』倭人伝の末部の魏の正始八年(247)の記事に登場する武将・小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の載斯烏越(そしあお)であり、『古事記』に登場する伊耶那岐命である。伊耶那岐命は9代開化天皇である。
 伊耶那美命は伊耶那岐命の正妃、天照大御神は伊耶那岐命の第二后である。
 A図に示す吉備地方は帯方郡使の張政が作った檄の告喩を天照大御神が了承して、伊耶那岐命が指揮する倭と小国の軍によって討伐された狗奴国である。
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◆B図に示す小国・日本の女王に13歳の時に伊耶那美命は就任し、国作りの柱を〔愛〕と定めた。ゆえに、倭女王伊耶那美命は狗奴国討伐に反対し、狗奴国と話し合いによる平和的解決を優先すべきであると主張して、帯方郡使の張政の檄の告喩を拒絶した。
 狗奴国討伐は魏と軍事同盟の約束事であるゆえ、伊耶那美命の欲求を受け入れて約束を破れば魏に罰せられて倭が討伐されることを倭王朝は畏れた。そこで、急遽、倭王朝は倭女王の代役に天照大御神を立て、天照大御神は張政の檄の告喩を承諾し、狗奴国討伐を祈願する呪術儀式を指令した。この呪術儀式は、C図の左側に示す――現在の兵庫県加古川市加古川町の氷河(ひかわ)において、大吉備津日子命(おおきびつひののみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)が忌瓮(いわいへ)を据えておこなった。
 この呪術儀式について『古事記』孝霊天皇紀は「針間(はりま)の氷河の前(さき)に忌瓮を居()えて、針間を道の口の為()て、吉備国を言向(ことむ)け和(やわ)しき」と記載する。わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・59」において詳細に解説したように、「忌瓮」の[]の原義は「憎悪」をあらわした。また、「氷河」の地名はD図に示す「氷で凍るツンドラ地帯に生息するジャコウウシ」をあらわすゆえ「祟(たた)り」をあらわした。
 ジャコウウシは有史以前には広く北半球の寒帯に分布していたが、麝香(じゃこう)の芳香がする美味しい食肉となったために乱獲されて多くの地方で絶滅、中国でも絶滅した。ゆえに、「ジャコウウシ」は「犠牲(いけにえ)」の[][][][]、そして、E図に示す「祟り」の[]の字源となった。E図に示すように、[]の金文形は[]字形の「十字の銀河」から図案された。

◆『日本書紀』崇神天皇紀は天照大御神・伊香色謎命は「物部氏の先祖大綜麻杵(おおへそき)の女(むすめ)である」と記載する。伊香色謎命は「夏音(かおん)文字の学芸に精通する」と誇示し、「夏音文字」の先頭字の「夏」が容易に連想される「天照大御神」という名を渾名(あだな)にした。だから、夏音文字に精通する天照大御神は自らの氏族名の「物部」の[]の字源が「ジャコウウシ」であることを知っていた。
 “字書の聖典”の『説文解字』は[]の字源を「牛は大物と為す」と解説する。D図に示す「ジャコウウシ」は[]の字源であり、E図の[]の字源となる「十字の銀河」が[]の字源でもあるので、『説文解字』は[]の字源を「牛は大物と為す」と解説する。ゆえに、C図に示す氷河で行われた忌瓮儀式は天照大御神が『説文解字』が「忌」の字源解説の「憎悪するなり」とE図に示す「祟り」に則って呪(のろ)ったものであり、倭と小国・日本の兵士たちにむかって“狗奴国の兵士たちを容赦なく殺せ”と命ずるものとなった。

◆当時は――卑弥呼が死去したために倭の国情は不安定となり、卑弥呼の墓に百余人の奴(ぬ╱18歳くらいの青年)と婢(ひ╱13歳くらいの乙女)を殺して埋めた徇葬(じゅんそう)を憎悪する反乱が起きて倭国の不安定な状況は一挙に深刻化し、この窮地に乗じて狗奴国が戦争を仕掛けてきたので、馬韓の首長たちが反乱をおこしたにもかかわらず倭は魏との軍事同盟の約束を守ることができず朝鮮半島に出兵しなかった。
 B図の小国・日本で〔愛〕の国作りをおこなう伊耶那美命は倭国に属する小国・伊耶国出身者であったゆえ、倭王朝は伊耶那美命を倭女王に即位させると、徇葬を憎悪する反乱者たちは伊耶那美命ならば必ず徇葬は禁止するにちがいないと信頼して武器を捨てたので、遂に倭国の反乱は鎮静化した。そこで、次に倭王朝は狗奴国討伐に取りかかったのである。
 倭国を滅亡させることができる千載一遇(せんざいいちぐう)の好機を逃すまいと戦争を仕掛けてきた狗奴国に対する天照大御神の怒りは凄まじく、彼女が指令した「憎悪」と「祟り」の忌瓮を据える呪詛(じゅそ)儀式は全軍に“狗奴国の兵士たちを容赦なく殺せ”と命令するものとなった。というのも、倭女王の呪術儀式は敵の戦力を奪うだけでなく、倭女王は全軍に戦い方を示す役目を有する魔女であった。ゆえに、倭女王の代役で狗奴国討伐の魔女となった天照大御神が指令した「憎悪」と「祟り」の忌瓮の呪術儀式は“狗奴国の兵士たちを容赦なく殺せ”と号令する過激なものとなった。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「3・夏音文字」は、今から約4050年前の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国に伝来し、『魏志倭人』の人名・小国名に用いられ、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて多数記載され、『万葉集』にも夏音文字が多数記載されて現存する。
 この夏音文字の学芸体系は、F図上図に示す[]すなわち「天頂緯度線と子午線の測定」を基軸にして組織されるものであった。
 これゆえ、卑弥呼王朝はG図に示す日本列島西端の玄海灘に浮かぶ沖ノ島と日本列島東端の亜熱帯地区に所在する伊豆諸島の神津島が同緯度(北緯3415)であることにもとづき、H図の右側に配置した転回日本列島地理を制定した。
 H図に示すように、卑弥呼王朝は――中国北部の海岸線地域の〔北冷〕と日本列島の西端にある沖ノ島の冬になると雪が降る〔西冷〕の気候区が適合し、中国南部の海岸線地域の〔南暖〕と日本列島の東端にある神津島の冬になっても雪が降らない〔東暖〕の気候区が合致することに注目して、日本列島は東に伸びるのではなく、日本列島は中国海岸線地域の南の方に伸びる――と考える転回日本列島地理を制定した。
 H図の右上の「玄海灘」という名は「天の北極を基準にすると緯度と子午線が不明となって往来できない。しかし[]をキャッチできれば往来できる陸地から遠く離れる波の荒い大海」と示すものとなる。だから、H図右側の実在した歴史的事実であった転回日本列島地理はF図に示す夏音文字の学芸体系の基軸である〔[]のキャッチ〕にもとづく理論から生まれた地理であるゆえ、卑弥呼王朝の強力な政権基盤となった。
 転回日本列島地理は当時において強大な権力を手に入れる学術理論であったゆえ、天照大御神はC図の氷河に据えておこなった忌瓮の呪術儀式において、宗像(むなかた)大社の三女神を注目した。G図左側の宗像市大島の沖ノ島の沖津宮(おきつみや)、同市大島1811の中津宮(なかつみや)、同市田島2231の辺津宮(へつみや)の3社で宗像大社は構成される。

I図に示すように、宗像大社の中津宮が所在する大島とG図右図の神津島の地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)は類似し、大島の中津宮と神津島の物忌奈命(ものいみなのみこと)神社の緯度差はわずか18分である。また、大島と神津島の地宜はE図に示した[]の字源となる「十字の銀河の子宮」に相似する。
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 J図に示すように、天照大御神は「神津島南部」の先が尖った形と「十字の銀河の子宮の北部」の尖った先を合わせて、C図に示した氷河における「憎悪」と「祟り」で呪う忌瓮儀式をおこなった。ゆえに、神津島に所在する神社名は――天照大御神が属した物部氏の[]と忌瓮の[]と、K図に示す当時の天頂緯度軸が貫通した「長方形の暗黒天体部」が[]の字源であったので――「物忌奈命」となった。(「長方形の暗黒天体部」は「奈落の底」のごとくに観えるので、[奈]の字源銀河となった)。

◆狗奴国討伐は、伊耶那岐命が倭軍と小国・日本を指揮して行われた。

L図に示す飯野山に、伊耶那岐命は本陣を構えた。伊耶那岐命は天照大御神の忌瓮儀式によって兵士たちが狂ったごとく血みどろになって狗奴国の兵士たちを殺しまくった惨劇に慄然(りつぜん)とし、伊耶那美命が欲求した狗奴国との話し合いによる平和的な解決こそ優先すべきであったと後悔した。
 天照大御神と倭王朝は、帯方郡使の張政の檄の告喩を拒絶した伊耶那美命は倭女王を退位すべきであり、伊耶那岐命に伊耶那美命と離縁するように強く迫った。
 しかし、もしも伊耶那美命が倭女王に即位しなければ徇葬を憎悪する反乱を鎮静化しなかったので狗奴国討伐は決行できなかったことになり、また天照大御神と倭王朝は伊耶那美命の狗奴国討伐の拒否によって軍事同盟違反を罰して魏と帯方郡の軍が倭国を襲撃することになるという主張のウソに、伊耶那岐命は気づいた。中国では紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が完成したため、3世紀になると、F図に示す〔[玄]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れたために魏と帯方郡の軍は、H図に示す玄海灘を渡ることができなかったゆえ倭地に到着できない。また、呉と蜀が魏を滅ぼすチャンスをうかがっていたので魏と帯方郡の軍が倭を襲撃することは魏滅亡の原因となりかねないので、魏と帯方郡の軍が倭地へ遠征することはありえなかった。
 これゆえ天照大御神と倭王朝の主張には不正と思い込みが混在し、倭女王伊耶那美命の狗奴国との話し合いを優先すべきであるという命令を無視して、勝手に天照大御神を倭女王の代役に立てて残忍きわまりない狗奴国討伐をおこなったことのほうが倭女王の命令違反となるので正すべき重大な不正だと、伊耶那岐命は考えるようになった。
 人民はこぞって天照大御神が倭女王に即位したならば恐ろしいことになると心配して伊耶那美命の退位を猛烈と反対した。ゆえに、人民の声にも助けられた伊耶那岐命は、天照大御神と倭王朝が請求する伊耶那美命との離縁を拒絶した。

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話における国生み説話に記載される二度目の淤能碁呂島(おのころじま)の結婚儀式は、M図左図の淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮の地にておこなわれた。
 M図上部に配する淡路島の山地名の「諭鶴羽(ゆつるは)」は――伊耶那岐命が伊耶那美命に愛していると告げ、彼女に倭女王を退位しないように諭(さと)して、二人はN図に示すタンチョウツルの雌雄がたがいに羽をひろげて求愛するように――〔愛〕の国作りを目指して二度目の結婚をしたと表示するものであった。
 〔愛〕の国作りを目指した伊耶那美王朝の中心地は、O図に示す天の香具山の麓より南の地にあったと考えられる。というのも、O図の天の香具山の緯度は342945秒に対し、M図の伊弉承神宮は北緯342723秒である。したがって、天の香具山より222秒南の地が、伊弉諾神宮と同緯度となるからである。

『古事記』上巻の伊耶那美命の死説話は「伊耶那美命が臨終した地は、天の香具山の畝尾(うねお)の木本(このもと)に坐す、泣沢女神(なきさわめのかみ)である」と記述する。O図左上の哭沢(なきさわ)神社は奈良県橿原市の木之本(このもと)町に所在し、古称は「畝尾都多本(うねおのつたもと)神社」であり、「泣沢女」を祭っているゆえ、伊耶那美命が臨終した地の「泣沢女神」であったことになる。

 
◆死去した伊耶那美命の墓は、わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」にて、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉(よみのくに)国訪問説話の現代語訳にて解説して指摘したように、P図に示す熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら╱和歌山県東牟婁郡本宮町)に築造された。伊耶那岐命の黄泉国訪問における「黄泉国の伊耶那美命」の正体は「天照大御神」である。天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)は伊耶那美命が嫌悪する多数の青年と乙女を殺す徇葬を決行した。『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は、伊耶那美命の墓に埋めた徇葬者たちを「八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)」と記す。
 P図の大斎原は北緯3350分であり、Q図に示す伊予国(現在の愛媛県)の松山市は大斎原と同緯度の北緯3350分である。『古事記』の伊耶那岐命と伊耶那美命が二度目の結婚(M図)をした国生み説話は――伊耶那美命はQ図に示すように伊予国の祭神の名を日本建国の〔愛〕の理念をあらわす「愛比売(えひめ)」と定めたと記述する。
 それゆえ、伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を憎悪する天照大御神は、伊予国の中心地の松山と同緯度の大斎原に伊耶那美命の墓を築造して、多数の若者と乙女を殺す残虐な徇葬を陣頭指揮して伊耶那美命の墓に徇葬者たちを葬って復讐した。
 以上のように、わが国にはF図に示す[]を基軸とする原初漢字の夏音文字の学芸が伝来し、卑弥呼王朝はH図に示した転回日本列島地理を制定し、夏音文字に精通する天照大御神はC図に示す氷河にてI図・J図・K図をもって解説した忌瓮の呪術儀式を指令した。そして、天照大御神は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念をあらわす愛比売を祭神とするQ図の伊予国の中心地(松山)と同緯度の大斎原に多数の青年と乙女たちを殺す徇葬で伊耶那美命に復讐した。
 だから、『魏志倭人伝』のすべての方位に関する記事はF図の[]のキャッチを基に立論されたH図右側の転回日本列島地理が歴史的事実であったと伝えていたことになる。したがって、新井白石以来約280年におよぶ邪馬台国研究は学者たちが〔誤読〕に熱中するところの事実と相反する空理空論、妄想ということになる。

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2013年10月26日 (土)

日本が滅びる・61

愛、あざやかに永遠であれ(2)・伊耶那美王朝の王都中心部を考える 

◆『古事記』上巻の伊耶那美命の死説話は――火の神を生んだために死去した。伊耶那岐命は「愛するわが妻の命を、どうして一つの発明(子の一つ木)に易()えることができようか」と言って、そのまま伊耶那美命の枕方(まくらもと)に腹這いになり、足方に腹這いになって哭()いた時に、この涙になった神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木本(このもと)に鎮座する泣沢女神(なきさわめのかみ)である。そして、崩御した伊耶那美命は、出雲国と伯岐(ははきの)との境界にある比婆之山(ひばのやま)に葬った――と記述する。
 伊耶那美命の亡骸が葬られた陵墓は、現在の和歌山県東牟婁郡本宮町に所在する熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造された。熊野本宮大社の旧社殿は、1889(明治22)の大洪水で流失して現在地に移された。この旧社地は、『古事記』が完成した712(和銅5)において、『古事記』が記載するとおり、出雲国と伯伎国の堺(さかい╱境界)であった。ゆえに、当時、旧社地の大斎原に建てられた熊野本宮大社は「比婆之山」と呼ばれていたことになる。
 「大斎原」が「比婆之山の跡地」であったことは、わがブログ「日本が滅びる・19」にて『万葉集』の429番と430番の「溺れ死にし出雲娘子(いずものおとめ)を火葬(やきはぶ)る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首」を注目すれば証明できることを解説した。

◆『古事記』編纂スタッフは伊耶那岐命と伊耶那美命神話における淤能碁呂島(おのごろしま)説話や伊耶那岐命の黄泉国訪問説話はじめとする記述で、皇室が最も崇拝する至上神の皇祖天照大御神の聖性を汚す歴史的事実を後世に伝えた。
 この『古事記』の史実の暴露に怒った元明天皇は、『古事記』完成の翌713(和銅6)52日に全国(畿内・七道諸国)の郡郷の名を改めるように風土記の編纂を命じた。元明帝は――(1)郡・郷の地名は好き字の二字に改めて表記すること (2)山川原野などの地名の由来 (3)古老たちが伝える古き時代の伝承や珍しい話などを「史籍(風土記)に載せて言上せよ」――と命令した。つまり、元明帝の風土記作成の命令は、『古事記』上巻が――伊耶那美命が〔愛〕の理念を提唱して日本国は起源し、この日本建国の〔愛〕の理念を天照大御神・纏向王朝が憎悪し祟(たた)って栄えたが、日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ河内王朝の出現によって大和王朝は衰退した――という記述を後世の人々が理解できなくするために歴史的事実を伝える地名を抹殺する対策であった。
 『古事記』が伊耶那美命の陵墓を「出雲国と伯伎国との堺にある比婆之山」と記載したように――『古事記』が完成した当時、伊耶那美命と伊耶那岐命に関する歴史は郡・郷の名や山川原野などの地名で伝えられ、また古老たちの古伝承や珍しい話で伝えられるものであった。これゆえ、『古事記』上巻に記述された皇祖・天照大御神の聖性を汚す歴史を抹殺するために、元明天皇は風土記編纂を命令したのである。

◆わがブログの前回「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・60」で指摘したように、伊耶那美命は魏との軍事同盟の約束事である狗奴(吉備)国討伐を拒否したため、伊耶那美命の代役をつとめて吉備国討伐の忌瓮(いわいへ)儀式をおこなった天照大御神と倭王朝は激しく非難して倭女王の退位を迫った。しかし、夫の伊耶那岐命の擁護と人民の伊耶那美命が倭女王であることを切望する声に護られて、A図に示す伊弉諾(いざなぎ)神宮で二度目の淤能碁石島の結婚をおこない、伊耶那美命は倭女王を退位せずに〔愛〕を掲げる国作りを始めた。
 伊耶那美命が小国・日本(最初の淤能碁呂島)から去り、卑弥呼の墓に百余人の奴婢(ぬひ)を殺して埋めた徇葬を憎悪する反乱を鎮めるために倭女王に即位したのは、多分245年ころであったであろう。そして、250年ころに没したと推測される。これゆえ、56年間は伊耶那美命が倭女王であったゆえ、伊耶那美王朝は56年間の短命であったことになる。
 A図に示す「譲鶴羽(ゆずるは)山地」という地名が示すように、伊耶那岐命と伊耶那美命は〔愛〕の国作りを目指す結婚式を伊弉諾神宮の地でおこなった。B図に示すように、「淡路島の南部の地宜(ちぎ╱地図の形)」を「羽をひろげるタンチョウツルの姿」に見立てて、山地名の「諭鶴羽」はC図に示す「雌雄がたがいにひろげあって求愛するダンス」をあらわす。ゆえに、伊耶那岐命と伊耶那美命の二度目の淤能碁呂島・淡路島の結婚式は国作りの柱は〔愛〕であるとあらわすものであったことになる。
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◆この回のブログの初頭にて紹介したように、『古事記』は伊耶那美命の臨終地を――伊耶那岐命が「子の一つ木に易()ることができようか」と悲嘆して泣いた涙から成れる神は、香山の畝尾の木本に鎮座する泣沢女神である」と記載する。
 D図上部に示す、天の香具山から近い東北に奈良県橿原(かしはら)市木之本町に古称が「畝尾都多本(うねおのつたもと)神社」、現在の「哭沢(なきさわ)神社」が所在する。この哭沢神社が伊耶那美命の臨終地となる。 
 『古事記』は「伊耶那美命は火の神(火之迦具神╱ひのかぐつちのかみ)を生んだが原因で神避(かみさ)り、すなわち崩御した」と記載する。この伊耶那美命の死因となった「火の神・火之迦具土神」は「鉄製の農具(スキ、クワなど)の刃先を作るために用いられた銅鐸の鋳造炉を改造した製鉄炉、またはこの製鉄・タタラ工法」のことであった。
 今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)は――E図の右図上部に配置する「十字の銀河」を「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作った文字が生まれる母体」、「十字の銀河の子宮」を「すべての文字が生まれる子宮」と考えれば、万物の情(イメージ)に類似する多数の文字を生む(作る)ことができる――という、漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明した。そしてわが国においては「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・13」で解説したように、五帝時代の文字と夏音文字をE図の左図に示すように「十字の銀河」が「木」に観えるイメージにもとづき「刻木(こくぼく)」と呼んだ。だから、「木」は「発明」を意味することになるので伊耶那岐命が「子の一つ木に易えることができない」と悲嘆した言葉は「吾が愛する妻の伊耶那美命の命は、火之迦具土神の発明に代えることはできない」と表現するものであったことになる。
 伊耶那美命は火之迦具土神事業の製鉄炉が爆発しておこった火災事故によって大火傷を負い、上記したように古称「畝尾都多本」という神社名であった現在の哭沢神社に火傷した伊耶那美命は運ばれて臨終したことになる。

◆A図に示すように〔愛〕の国作りを目指す結婚式がおこなわれた淡路島の伊弉諾神宮は北緯342723秒に位置し、F図に示すように天の香具山は北緯342945秒である。したがって、伊弉諾神宮と天の香具山の緯度差はわずか222秒である。
 当時の政権基盤は、G図に示す精密に緯度と子午線が測量できる〔[]のキャッチ〕であった。ゆえに、伊弉諾神社とほぼ同緯度となるD図の下部に示す天岩戸神社あたりが伊耶那美王朝の王都の中心地であったと考えられる。
 天の香具山の東北45度の地点に、H図右下に配した三輪山が所在する。G図に示すように、天の香久山における[]をキャッチする銀河部位は、三輪山が所在する東北の地点から昇る。三輪山の形は、胎児を子宮に宿る妊婦の腹部(おなか)の形に相似する。したがって、〔愛〕の国作りを目指す伊耶那美命王朝の王都の中心地は天の香具山の南の麓に所在したゆえ、『万葉集』において「天の香具山」は「伊耶那美命」を象徴(意味)することになったにちがいない。 
 F図に示すように、耳梨山は北緯343053秒である。『日本書紀』崇神天皇紀は、I図に示す「天皇は都を磯城(しき)に移した。この磯城に所在した宮殿は瑞籬宮(みずかきのみや)と言った」と記載する。伊耶那岐命のちの開化天皇が住んだ春日の伊耶河宮(いざかわのみや)から、天照大御神が生んだ子の崇神天皇は磯城の瑞籬宮に都を移した。天照大御神・纏向王朝(天照大御神・崇神天皇王朝)の中心地である磯城の瑞籬宮(現在の奈良県桜井金屋)343130秒であるゆえ、約4km西方にある耳梨山との緯度差はわずか37秒である。ゆえに伊耶那岐命に疎まれて別居した天照大御神は、磯城の瑞籬宮の旧宮殿に住んでいたにちがいない。だから、『万葉集』においては磯城の瑞籬宮とわずか37秒の緯度差がない「耳梨山」は「天照大御神」を象徴することになったと考えられる。
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◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・57」において、A図に示す「淡路島」を『古事記』が「淡道之穂之狭別島(あわぢのほのさわけのしま)」と記す古称の秘密を解明し、先頭字の[]について――J図に示すように、[]の字源は「十字の銀河」であり、三水偏に[]を加える[]の字源・原義は「はじめ無色無臭・透明であるが、妊娠末期に胎児の皮膚などが混じるために淡く黄色になる羊水」である――と解明した。したがって、[]の字源は〔愛〕を表示するものとなる。

K図に示すように、淡路島の古称の2字目の[]の字源は「オス鹿の横顔に似る銀河」であり、「オス鹿の横顔に似る銀河」の角(つの)に相当するのは「十字の銀河」であり、「十字の銀河」は[之繞(しんにょう)][]の字源となる。
 淡路島の古称の4字目の[]は、L図中央図の「十字の銀河」の南に禾穂が垂れる「イネの象形」を表示するものである。J図に示したように[]の字源は「十字の銀河」であるゆえ、〔淡路島〕は「十字の銀河」に見立てられたことになる。ゆえに、L図左図に示すように、淡路島の古称の[]は〔淡路島の南部に「イネ」の象形の穂が存在し、この穂は鳴門海峡を隔てた西隣の四国を指差して垂れている〕ということになる。
 伊耶那美命は、『魏志倭人伝』において「奴()国」と「烏奴(あな)国」の二つの小国に分かれる現在の「四国」を「伊予二名島(いよのふたなのしま)」と名づけて、M図に示すように四つの小国に分けて各小国の名と祭神を誕生させた。「伊予国の愛比売(えひめ)」と「土左国の建依別(たけよりわけ)」は「健康で立派に育つ新生児が多数生まれる」と示す〔愛〕の祭神であり、「讃岐国の飯依比古(いひよりひこ)」と「粟(あはの)国の大宣比売(おほげつひめ)」は「豊かな作物の実り」をあらわす祭神である。
 L図の伊弉諾神宮の住所は兵庫県津名郡一宮町の「多賀」である。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は「多賀」の[]の字について「生子儀礼や農耕儀礼に用いる字である」と解説する。ゆえに、「多賀」は「健康で立派に育つ新生児が多数生まれ、作物が多く(豊かに)実る」と意味することになる。だから、「多賀」という地名はM図に示した伊予国・讃岐国・粟国・土左国の祭神名があらわす意味と合致する。
 したがって、淡路島の古称の「淡道之穂之狭別島」の「狭別」は「狭い鳴門海峡」を表現するものとなる。
 約1800年後の現在まで伊予・讃岐・土左(土佐)という旧国名が残り、そして伊予の「愛比売」は県名の「愛媛」で現存し、わが国は「銀河各部の形状」と「地宜」を字源・原義とした原初漢字の夏音文字が存在したことを伝えている。

◆『古事記』上巻の伊耶那美命の死説話に記載される「木本(このもと)」という地名は、D図の「木之本」という町名で現存する。この「木本」と「木之本」はE図に示す「十字の銀河」のイメージから生まれた名である。
 J図、K図、L図にて解説したように、淡路島の古称も「十字の銀河」のイメージから生まれた。
 A図に示す淡路島の伊弉諾神宮とF図に示す天の香具山の緯度はわずか122秒しか相違しないゆえ、伊耶那美王朝の王都の中心地は天の香具山の南に所在したにちがいない。
 D図に示したように、天の香具山の南の麓に「天岩戸(あまのいわと)神社」が所在する。 この神社には本殿がなく、天照大御神が隠れた「天岩窟(あまのいわや)」または「天岩戸(あまのいわと)」と呼ばれる巨石をご神体とする。境内には毎年新しい竹が7本育つ代わりに、別の7本が枯れ死するという「7本竹の不思議」という伝説がある。伊耶那美命の本名は「竹野比売(たかのひめ)」である。ゆえに、天岩戸神社は竹野比売・伊耶那美命が住んだ宮殿があった場所であるゆえ、「7本竹の不思議」伝説が生まれたのかもしれない。
 〔愛〕の女王伊耶那美命が住んだ宮殿は小さな人民の家屋のようであった可能性もあるので、天岩戸神社は伊耶那美命が住んだ宮殿跡であったかもしれないことになる。
 N図に示すように、「十字の銀河」は「天の香具山」の[]の字源であり、『古事記』が記載する「香山(かぐやま)」の[]はジャコウウシが放つ「麝香(じゃこう)」をあらわすものであるにちがいない。ジャコウウシは繁殖期にあたる79月になると眼下腺(がんかせん)から匂いのある分泌液を出す。この分泌液が名前の由来となる。ジャコウウシは天敵のオオカミに襲撃されると子ども真ん中に隠して円陣を組んで防御する。そして、女性の生殖器の大半は骨盤に包囲されているので、子宮に宿る胎児の命を骨盤に守られている。〔ジャコウウシの円陣〕は〔女性骨盤〕に見立てると、〔ジャコウウシの円陣〕は〔愛〕をあらわすものとなる。ゆえに、「香山」は「眼下腺から出す分泌液が麝香の香りがするジャコウウシの山」とあらわすものであったと考えられる。

◆わが国には夏音文字が伝来していた。このため、地名や山川原野の名に歴史的事実が秘められ、「銀河各部の形状」や「地宜」(平面的に図化した地図の形)で字源・原義を解明すると史実を知ることができるようになっているのである。
 というのも、中国の五経の第一にあげられる中国の古典『易経』の繋辞下伝(けいじげでん)は「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と伝えるように、わが国の夏音文字は天象(銀河の形状)と地宜で字源・原義が解明できる機能を有するものとなったのである。
 字源を解説する“字書の聖典”とされる『説文解字』は序で「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文で、「字源・原義を解明すれば、歴史的事実を知ることができる(前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古を識るなり)」と今日の我々に伝えている。

◆上記したように、元明天皇は『古事記』が完成した翌年の71352日に風土記の作成を命じたが、この目的は『古事記』に記載された伊耶那美命と伊耶那岐命はじめ日本建国の〔愛〕の理念を尊んだ英雄の歴史を伝える地名を抹殺することであった。しかし、朝廷は皇祖・天照大御神が残した地名や天照大御神に関する史跡の名は絶対に改めることはできないと神聖視した。だから、わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・36」にて解説したように、「箸墓」の「箸」は天照大御神が千引石の前で「日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ人民の母親たちの産道が狭くなるように呪って、一日に千人ずつ胎児の頭を絞め殺すと誓った」、この「死産した胎児をはさんで産道から掻き出す箸のような医術器具」をあらわすことになったのである。ゆえに、おぞましい歴史をそのまま伝える「箸墓」のいう古墳名が現存することになった。遺跡名の「纏向」を白川静著『字統』で字源・原義を調べると「日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ人民の首に縄をまきつけて、一日に千人ずつ絞め殺す」と意味することになる。
 伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念に対し、天照大御神は『古事記』孝霊天皇紀に「針間(はりま)の氷河(ひかわ)の前(さき)に忌瓮(いわいへ)を居()えて」と記載されたように、「憎悪」と[祟り]で対抗した。大和朝廷の基礎を築いた天照大御神・崇神天皇王朝が栄えた原動力は「憎悪」と「祟り」であった。ゆえに、「箸墓」や「纏向」などの“えっ! なんでこんなに残酷な歴史を伝える古墳や遺跡の名がそのまま残ったのだ。信じられない”と驚かざるをえない、禍々(まがまが)しい名が現存することになったのである。

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2013年10月21日 (月)

日本が滅びる・58

天照大御神・纏向王朝の「憎しみ」と「祟り」の始まり(1)
 

◆『魏志倭人伝』後半にある魏の景初二年(238)六月の記事から末尾までの記事は〔魏と倭の国交を結んだ事情〕を説明するものであり、このブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びるシリーズ」の46回~51回までに詳細に解説した。また、「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・53」の冒頭から、魏の正始八年(247)から末尾までの記事の概要を示した。これらの解説で、倭と魏の国交について理解していただきたい。

246(魏の正始7)ころ、馬韓の首長たちの反乱で魏の出張機関である帯方郡政庁の太守の弓遵(きゅうじゅん)が戦死したが、楽浪郡から水軍の応援によって韓の反乱軍を敗退させた。この反乱に、軍事同盟を結ぶ倭国は兵士を派遣しなかった。つまり、卑弥呼が没した時に、百余人の奴(18歳くらいの青年)と婢(13歳くらの乙女)を犠牲(いけにえ)にして卑弥呼の墓に葬った徇葬(じゅんそう)を憎悪する反乱がおこり、この反乱に乗じて『魏志倭人伝』が「卑弥呼と素(もと)より不和であった」と記す狗奴(くな)国が戦争を仕掛けてきたので、倭を魏との軍事同盟の約束を守れなかった。徇葬を憎悪する反乱は小国・日本の女王の伊耶那美命を倭女王・壱与(いよ)に就任させると鎮静化した。というのも、伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めて、人民に〔愛〕を尊ぶように熱心に説いていたからである。反乱者たちは伊耶那美命が倭女王になれば徇葬は禁止するにちがいないと信頼して武器を捨てた。これゆえ徇葬を憎悪する反乱は鎮まったが、狗奴国との戦いは依然と続いていた。
 247年、倭は魏との軍事同盟を守れなかった約束違反を弁明する使節一行を派遣した。この倭国の使節の長官は、夏音名「載斯烏越(そしあお)」すなわち「伊耶那岐命」であった。伊耶那岐命は日本国の軍王(いくさのおおきみ)であった。
 再度、朝鮮半島で反乱が生じた時に倭軍の協力が必要であったので、帯方郡太守は狗奴国討伐を載斯烏越・伊耶那岐命に約束させた。口約束で終わるのを警戒した帯方郡太守は、張政一行を載斯烏越が帰還する船に便乗させて派遣させた。
 早速、張政は倭と諸韓国の安定のために狗奴国を討伐して滅亡させるべきであるという檄(げき╱軍書)を作って、倭女王の壱与・伊耶那美命を告喩(こくゆ)して狗奴国討伐を要求した。しかし、伊耶那美命は狗奴国とは話し合いで平和的に解決すべきであると主張し、頑(がん)として張政の檄の告喩を拒絶して承認しなかった。しかし、狗奴国は朝鮮半島で反乱をおきた時に倭軍を出兵できない障害であったゆえ、狗奴国討伐は魏との軍事同盟における約束事であると考えた倭王朝は伊耶那美命の欲求を無視して、急遽(きゅうきょ)、伊耶那岐命の第二后の天照大御神を倭女王・壱与の代役に立てて、伊耶那岐命が日本軍と倭軍を指揮し、張政が二度目の檄を作って狗奴国を滅亡させた。
 この時の天照大御神が指図した氷河(ひかわ)に忌瓮(いわいへ)を据えて狗奴国滅亡を祈願した呪術儀式が、天照大御神・纏向王朝の「憎悪」と「祟り」の歴史の始まりとなった。

◆A図の下部に示す飯野山(讃岐富士)に、小国・日本の軍王の伊耶那岐命は本陣を構えた。飯野山の正面の岡山・倉敷の両市一帯(岡山県東部)が狗奴国であった。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・53」にて解説したように、B図に示す香川県の小豆島(しょうどしま)の地図の形は「狗(いぬ)すなわちオオカミ」の姿に相似すると見立てられた。「児島半島」は〔天敵のオオカミの襲撃を察知して、子どもを真ん中に隠して防御するために組む円陣の端のジャコウウシの姿〕に類似すると見立てられ、また〔児島半島より北側の奥の地域〕は〔ジャコウウシが組む円陣部分〕に見立てられた。このように、[]の字源は「ジャコウウシ」であった。だから、B図の小豆島と岡山県東部は狗奴国の中心部であったことになる。
 なお、「ジャコウウシ」は[][]の字源でもあった。ゆえに、『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓に殺して埋めた百余人の徇葬者における男性の犠牲者を[]と記載する。[][]の字源は「ジャコウウシ」であったから、18歳くらいの青年は犠牲(いけにえ)に選ばれて殺され卑弥呼の墓に葬られたのである。
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◆『古事記』孝霊(こうれい)天皇紀は伊耶那岐命の狗奴国討伐を下記のごとく記述する。
 「大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)の二人は、針間(はりま)の氷河の前(さき)に忌瓮を据()えて、針間を道の口として、吉備国を言向(ことむ)け和(やは)しき。」
 上記に示すように、狗奴国討伐を指揮した軍王「伊耶那岐命」の名は削除されて、「狗奴国」は「吉備」と改称された。前回のブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・57」で詳細に解説したように、伊耶那岐命は“狗奴国討伐は誤っていた。伊耶那美命のように武力ではなく、話し合いで平和的に解決すべきであった”と後悔して倭王朝と対立した。これが原因になって、狗奴(吉備)国討伐は伊耶那岐命の事績にはならなかったと考えられる。
 C図に、忌瓮が据えられた「氷河」(現在の兵庫県加古川市加古川町大野の氷丘の下を流れる加古川)の位置を示した。「氷河」は「氷にとざされた平原のツンドラ地帯」に見立てられた。というのも、「狗奴国」の[]の字源は「ジャコウウシ」であり、ジャコウウシはツンドラ地帯に生息するからである。だから、氷河に忌瓮を据える儀式は〔子どもを中心に隠して円陣を作って防御するジャコウウシの群〕を〔吉備国軍〕に見立てて、吉備国軍の戦力を奪う魔女・倭女王の代役をつとめた天照大御神の指示にしたがっておこなわれたことになる。
 山口佳紀(よしのり)・神野志隆光(こうのしたかみつ)校注・訳者『古事記』(小学館)の注は「忌瓮」を――神事に用いる瓶(かめ)。その中に神酒を入れ、幣帛として木綿(ゆう)を取り付けた。底が尖っており、土を掘って安定させるので、「居()ゑ」という――と指摘する。
 D図は、底が尖るゆえ土を掘って安定させて据えた、「いわいへ」または「いわいべ」とも読む〔忌瓮〕の想像図である。

◆学者たちは「『魏志倭人伝』の全記事は絶対に忠実に読解してはならない。〔文献批判〕と名づけた〔誤読〕をあやつって立論しなければならない」という考え方(パラダイム)を絶対視する。このため、歴史教科書にはまったく記述されていないために我々は何一つ学ばなかったが、約2000字で構成される『魏志倭人伝』に詳細に記載されているように、当時のわが国には高度の科学(学術)が実在し、この高度の学術は「夏音文字」の学術(医学・天文地理学、そして文字学)であった。
 夏音文字の学術体系は、E図に示す〔[]のキャッチ(天頂緯度線と子午線の測量)〕を基軸にして組織されていた。
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 ゆえに、F図とG図に示すように――[]をキャッチして日本列島の西端の沖ノ島と東端の伊豆諸島の神津島が同緯度(北緯3415)であることに注目して、西端の沖ノ島は冬に雪が降るが東端の神津島では冬に雪が降らないゆえ、F図の左側の中国の海岸線地帯の〔北冷南暖〕の気候区と合理になるように、日本列島は東に伸びるものではないと卑弥呼王朝は断定した。卑弥呼王朝は中国の海岸線地帯の〔北冷南暖〕と日本列島の〔西冷東暖〕の気候区において合理が成立するように、日本列島は中国の海岸線地帯の南の方に伸びると断定する転回日本列島地理を制定した。『魏志倭人伝』のすべての方位に関する記事は、F図に示す転回日本列島地理に合致して、一点の矛盾点も不合理な点もなく【科学】が成立する仕組みになっている。

◆すべての邪馬台国説のごとく〔天の北極〕にもとづく現在の日本地図を立論基盤とするところの、〔誤読〕でこじつけた荒唐無稽(こうとうむけい)の絶対にこの世にありえない滅茶苦茶な空論となる。というのも、当時、中国の人々は〔天の北極〕を最も重視するシナ天文のために、大海を往来することができる〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れてF図に示す玄海灘を渡ることができなかった。
 邪馬台国説の主張だと、倭の使節も船乗りも〔天の北極〕を重視していたことになり[]をキャッチできなかったことになるので、玄海灘を渡ることができなかったことになる。したがって、魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになる。そうすると、魏と倭が国交を結ぶことができたからこそ実在することになった『魏志倭人伝』は、邪馬台国説によると〔文字が1字も書かれていない白紙〕であったことになる。このような奇妙奇天烈な結論となる邪馬台国説は“典型的な荒唐無稽のウソ八百”と評すべきことになる。
 F図の「玄海灘」は「[]をキャッチすれば往来することができる陸地から遠く離れた波の洗い海。天の北極では位置と方位が不明になって往来できない大海」と明確に示す。だから、すべての邪馬台国説は〔誤読〕の産物の空論であることは明白である。

◆『日本書紀』崇神天皇紀は天照大御神、後の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)が夏音文字の学芸に精通したため、天照大御神を「聡明である」と記載する。
 吉備国討伐がなされた時、夏音文字の学芸に精通した天照大御神は、G図に示す卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の基点となった神津島と同緯度の玄海灘に浮かぶ沖ノ島を注目した。福岡県の宗像(むなかた)大社は宗像市大島の沖之島の沖津宮(おきつみや)、同市大島1811の中津宮(なかつみや)、同市田島2231の辺津宮(へつみや)の3社で構成される。
 H図に示すように、宗像の中津宮が所在する大島と神津島の地図の形は相似し、すべての文字が生まれる子宮と定められた「十字の銀河の子宮」にも相似する。
 D図に想像図を示した土を掘って安定させた底が尖った忌瓮は、I図のごとく〔神津島の南〕を先が尖った「十字の銀河の子宮の北」に見立てたものであったのである。その証拠に、北緯3412分の神津島に鎮座する神社名は「物忌奈命(ものいみなのみこと)」である。「忌瓮」と「物忌奈命」は同じ[]という字を有する。『日本書紀』崇神天皇紀は天照大御神・伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は「物部氏の先祖大綜麻杵(おおへそき)の女(むすめ)」と記す。だから神津島の神社名は、物部氏の[]で天照大御神の出身氏族を表示し、[]に「忌瓮」の[]が加えられて「物忌奈命」となったのである。
 氷河に忌瓮を据えて狗奴(吉備)国討伐が行われた時に伊耶那岐命が定めた本陣の飯野山は、A図に示すように北緯3416分である。神津島の物忌奈命神社は北緯3412分であるから、飯野山と物忌奈命神社はわずか4分しか緯度の差がないので同緯度と言える。
 J図の伊耶那岐命と伊耶那美命の両神を祀る伊弉諾(いざなぎ)神宮は北緯34度28
分である。しかし、淡路島南端の潮崎は神津島の物忌奈命神社と同緯度の北緯34度12分である。だから、前回のブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・57」で証明したように、伊耶那岐命は“狗奴(吉備)国討伐は誤っていた。伊耶那美命のように話し合いで平和的に解決すべきであった”と後悔する意見を表明して、伊耶那美命と二度目の結婚を淡路島の伊弉諾神宮でおこなったにちがいない。

◆K図の右図に示すように「十字の銀河の中心軸」は経度軸に対して西側に傾き、「十字の銀河の子宮の尖った先」は〔西北〕へ指す。中央図の宗像の大島の尖った先は〔東北〕を指す。ゆえに、「十字の銀河の子宮の西北→大島・地宜の東北」となるゆえ、大島はL図下部の[]の字源「時計回りに90度方位が転回する」をあらわす。しかし、K図の右図の「十字の銀河の子宮の尖った先」は〔西北〕を指すのに対し、忌瓮のモデル・神津島の尖った先は〔西南〕を指す。ゆえに、「十字の銀河の子宮の西北→神津島の地宜の西南」は、L図上部の[]の字源「時計回りの逆向きに90度方位が転回する」をあらわすことになる。
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[][]を加えると[]の字となるゆえ、神津島をモデルとした氷河に据えた〔忌瓮儀式〕は「誤りであった」と表示するものとなる。J図に示す淡路島は宗像の大島と同じく尖った先が〔東北〕を向くので、伊弉諾神宮のおける伊耶那美命との結婚儀式は“天照大御神の忌瓮儀式は誤っている”と批判することになった。だから、天照大御神のプライドはいちじるしく傷つき、その怒りと嫉妬と夫への怨念は凄まじいことになったのである。

◆『説文解字』は[]の字源を「憎悪するなり」と解説する。

M図に、「狗奴国」の[]の字源である「ジャコウウシ」を示した。天照大御神の出身氏族の物部氏の[]の字源を、『説文解字』は「牛は大物と為()す」と解説する。[]の字源解説に登場する[]の字源は「ジャコウウシ」である。
 N図左側の上部に示すように、[]の字源解説に登場する「大物」の[]の字源は大字形の「十字の銀河」である。N図左側の下部に示す「祟(たた)り」の[]の金文形は「十字の銀河と、十字の銀河の子宮から生える長い獣の毛」を図案したものである。この〔長い毛を有する獣〕の図案はツンドラ地帯の厳しい寒さに耐えられる特製の毛足の長い防寒具(コート)で身をかためる「ジャコウウシ」をあらわす。『説文解字』は[]の字源を「神の禍(わざわい)なり」と解説し、白川静著『字統』は[]の古代字形を「呪霊をもつ獣の形」と指摘する。
 ジャコウウシは有史以前には広く北半球の寒帯に分布したが、多くの地方で絶滅し、中国でも絶滅した。ゆえに、[][][][][]、そして[]などの字源となった。今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝に仕えた“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)は、〔ジャコウウシ〕を漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を象徴する〔聖なる獣〕と定めた。ジャコウウシは子を真ん中に隠して防御するように、子宮の宿る胎児の命は骨盤に包囲されて守られている。だから、〔子を真ん中に隠してジャコウウシが作る円陣〕は〔骨盤〕に見立てられて、N図の「十字の銀河の子宮」は〔骨盤〕と〔ジャコウウシの円陣〕に見立てられて[]の金文形は「ジャコウウウシの長い毛」を表現する図案となったのである。

◆以上のごとく、『古事記』孝霊天皇紀の吉備国討伐記事によっても、また――『魏志倭人伝』のすべての方位記事を〔文献批判〕という名の〔誤読〕を一点も加えないで忠実に読解すると【科学】が成立する転回日本列島地理は歴史的事実であったことが立証される。

 『説文解字』は[]の字源を「憎悪するなり」と解説し、神津島の「物忌奈命神社」という神社名先頭字の[]の字源からN図に示す[]の字源の秘密が明らかとなる。
 したがって、天照大御神が指示した氷河に忌瓮を据えて行った儀式は“憎悪と祟りで敵軍の兵士たちを虐殺して、吉備国を滅亡せよ”と呪(のろ)うものであったことになる。
 だから、吉備国討伐を指揮した伊耶那岐命は天照大御神がそら恐ろしくなり、彼女から心が離れて嫌悪するようになったのである。
 『古事記』孝霊天皇紀の吉備国討伐記事には「針間の氷河の前(さき)に忌瓮を居()えて」の後に、「吉備国を言向(ことむ)け和(やは)しき」という文がある。これゆえ、「言向け和しき」という文に惑わされたのであろうか、前頁で紹介した山口佳紀・神野志隆光校注・訳者『古事記』は「忌瓮」の注の末尾に「ここでは、土地の神の心を和めるためのもの」と誤った注釈を加える。
 銀河の形状による字源・原義を解明すると「言向け和しき」は「服従しない者たちは容赦なく武力で討伐して抹殺する」と意味したと解明される。だから、「忌瓮」の注は「憎悪と祟りをもって、吉備国の人々を呪う神酒を入れた瓶」と記述すべきことになる。
 次回は、「言向け和しき」という文の秘密を明らかにする。
 

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2013年9月 9日 (月)

日本が滅びる・39

天照大御神が考えた[]の字源と「徇葬」の因果関係

◆『魏志倭人伝』は「その地に牛馬は無し」と記して――倭地には[]の字源の「ジャコウウシ」と[]の字源「フタコブラクダ」は生息していない」と伝える。
 「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を象徴する聖獣であった。このことは、わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「5・漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕」でも指摘した。
◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・36」にて解説したように、『日本書紀』崇神天皇紀がA図に示す「箸墓に葬った」と記載する「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は」崇神天皇の生母の「伊香色謎命(いかがしこめのみこと)」である(『古事記』は「伊迦賀色許売命」と表記する)
 『日本書紀』開化天皇紀は「伊香色謎命を立てて皇后とした。后は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)すなわち崇神天皇を生んだ。これより先、天皇は丹波(たには)の竹野媛(たかのひめ)を妃とされた。」と伝え、『古事記』同様に慎重に読めば正妃は丹波出身の竹野媛、第二后は伊香色謎命であったと理解できるように文章は作られている。
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◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」にて『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話を現代語訳して明らかにしたように、小国・日本の軍王(いくさのおおみき)の「伊耶那岐命」は「開化天皇」、「黄泉国」はB図に示す「熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)」、「黄泉国の伊耶那美命」は「伊香色謎命」であった。伊香色謎命は「八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)すなわち「多数の奴(18歳くらいの青年)と婢(13歳くらいの乙女)」を殺して伊耶那美命の墓に葬った。ゆえに、『古事記』スタッフは「伊香色謎命」が「伊耶那美命の墓すなわち黄泉国において徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した倭女王」であることを後人たちが察知することを願って「黄泉国の伊耶那美命」と表現した。伊耶那岐命は残虐な徇葬の禁止を願った愛妻・伊耶那美命(竹野媛)の遺志を継ぐクーデターを決意し、少数の日本兵を率いて大斎原に築造された伊耶那美命の墓から棺(ひつぎ)を奪って逃走し、日本兵の本隊と熊野の戦士たちが待機する「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本」すなわち「熊野速玉大社の境内」にて倭政府軍を撃破した。伊香色謎命は捕らわれて、伊耶那岐命が居る場所のB図に示す和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町の神倉神社のご神体となる千引石(ちびきのいわ・現在の「ごとびき岩」)の前に連行された。
 伊耶那岐命は伊香色謎命と対面すると、夫婦離縁を言い渡した。これに怒り狂った伊香色謎命は「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」すなわち「亡き前の倭女王伊耶那美命・竹野媛が提唱した〔愛〕の理念を尊ぶ小国・日本の母親たちの子宮頸部(しきゅうけいぶ・C図参照)が狭くなるように祟(たた)って、一日に千人の胎児の頭を狭い子宮頸部で絞め殺す」と誓った。これに対して、伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ」すなわち「必ず一日に千五百の産屋が立つように、人民に亡き妻の伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を最も尊重するように説いて天下を治める」と宣言した。
 離縁されて戸籍を失った伊香色謎命は、伊耶那岐命の祖父孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命の戸籍を受け継ぎ、春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわ)に居住する開化天皇・伊耶那岐命の王朝に対抗して、“夏音文字の学芸に最も精通する”と誇示するために「天照大御神」という渾名(あだな)を名乗った。千引石の前で離縁された黄泉国の伊耶那美命・伊香色謎命が天照大御神であることは――伊耶那岐命が離縁を言い渡したB図に示す千引石(ごとびき岩)の前に建造した神倉神社の社殿に天照大御神を祭って現在の我々に伝えている。

◆『日本書紀』崇神紀は崇神天皇の生母について「伊香色謎命は物部氏の先祖大綜麻杵(おおへそき)の女(むすめ)である」と記載する。
 伊香色謎命・倭迹迹日百襲姫命の氏族名の「物部」の[]の字源を、『説文解字』は「牛は大物と為()す」と解説する。したがって[]の字源は「ジャコウウシ」であるゆえ、[]の字源は「ジャコウウシは大物と為す」ということになる。
 D図に「大物と為す」と解説される[]の字源「ジャコウウシ」を示した。
 『日本書紀』崇神紀には「大物主大神を祀る」という箇所があり、また「四道将軍」の箇所には「倭迹迹日百襲姫命が大物主神の妻となる」説話が挿入される。この説話で現在の象徴詩人のごとく象徴と暗喩(あんゆ)を用いて『日本書紀』編纂スタッフは「夏音文字の学芸に精通する物部氏の倭迹迹日百襲姫命・天照大御神は[]の字源となる大物主大神・ジャコウウシの呪霊(じゅれい)による祟りの存在を本気に信じて、奴(18歳くらいの青年)と婢(13歳くらいの乙女)を犠牲(いけにえ)にする徇葬をおこなった。彼女は“徇葬は間違っている”と否定した伊耶那美命を敵視し、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念は夏音文字の学術で真理と追究することができるジャコウウシの呪霊を侮辱する虚妄(きょもう・デタラメ)であると憎悪した。倭迹迹日百襲姫命・天照大御神は箸墓に葬られた。箸墓は“ジャコウウシの呪霊の祟りは、この世に必ず実在する”と考えた天照大御神の強烈な信念をあらわす陵墓である」と表現した。

◆『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命と大物主神の結婚説話は「倭迹迹日百襲姫命に恥をかかせられたと怒り、大虚(大空)を踏んで大物主大神は御諸山(みもろやま)に登られた。倭迹迹日百襲姫命は御諸山を仰ぎみて悔いた」と記述する。
 説話に登場する「御諸山」の別名は「三輪山」である。このブログ「日本が滅びる」シリーズの前回と前々回で解説したように、「御諸山」の[]の上部はE図に示す「十字の銀河の子宮に重なる[]をあらわす諸々の方角を示す線」である。物部氏はE図の「十字の銀河」は「大物主大神」すなわち「ジャコウウシの化身とその呪霊」をあらわすと立論した。この物部氏の立論にもとづき、『日本書紀』編纂スタッフはE図に示す「十字の銀河」は[]の字源であるゆえ、「十字の銀河」を〔大虚(おおぞら)〕と表現して「〔大虚〕を踏んで大物主神は御諸山に登った」と記述し、また「鬼の横顔に似る銀河」は「十字の銀河」を仰ぎ見る形であるので「倭迹迹日百襲姫命は仰ぎ見て後悔した」と記述した。

◆F図に示す「三つ輪の銀河の北の輪の銀河」と「十字の銀河(の子宮)」の両銀河は「祟(たた)り」の[(すい)]字源と「大物主大神の呪霊」をあらわした。これゆえ、「三つ輪の銀河の北の輪の銀河」とE図に示した[]の字源となる「十字の銀河の子宮」の両銀河は、共に[]の字源となった。ゆえに、[]の字源を秘める「御諸山」は「三輪山」とも呼ばれ、あるいは“三諸(みもろ)の神名備(かんなび)”と称されることになったのである。
 F図に示すように「三つ輪の銀河」の最も北側となる「北の輪の銀河」の北端の縁(へり)にある「首の形をした銀河部」は「ジャコウウシの顔」に見立てられ、「北の輪の銀河の円形部」は「天敵のオオカミに襲われると、子を中心にして防御するジャコウウシの円陣」に見立てられた。
 G図左上に配する[]の契文形(甲骨文字の字形)は、F図に示す「三つ輪の銀河」のうちの「北の輪の銀河」を「ジャコウウシの首と子を真ん中にして作る円陣」に見立てた図案である。G図左下の[]の金文形は「十字の銀河とその子宮部」から図案された。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)[]の字源を「呪霊をもつ獣の形」と解説し、次に――『説文解字』は「神の禍(わざわい)なり」とし、示と出、すなわち神意がそれによって示される意とされるが、卜文・金文の字形では、毛の深い獣の形にかかれている――と、『説文解字』の[]の字源解説を追加する(文中の「卜文」はG図左側上部に配した「契文」のことである)
 D図に示すように、ジャコウウシは毛の深い獣である。ゆえに、『字統』に「呪霊をもつ獣」、「卜文(契文)・金文の字形では、毛の深い獣の形がかかれている」と解説された獣は漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を象徴する聖獣「ジャコウウシ」であったことになる。

◆H図の[]の契文・金文の字形を、『字統』は「字の初文は祟(たたり)をなす呪霊をもつ獣の形。長毛の獣の形である。」と指摘する。ゆえに、[]の字源も「ジャコウウシ」ということになる。
 『字統』は[(じゅつ)]の字形について「呪霊をもつ魂の形。述・術はいずれもこの字形に従い、呪術をいう字である」と指摘し、[]の字義は「たたりをなすけもの」とする。この「たたりをなすけもの」は「ジャコウウシ」であったことになる。

「犠牲(ぎせい・いけにえ)」の[]の字源を、『説文解字』は「宗廟(そうびょう)の牲なり」と解説し、『字統』は「宗廟の牲としては毛色肢体すべて備わるものが要求された」という補足説明を加える。『説文解字』は[]の字源を「牛、完全なるなり」と解説する。
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 『説文解字』はI図に示す[]の字源を「黒にして赤色あるものを玄と為す」と解説する。D図のジャコウウシのツンドラ地帯の厳しい寒さに耐えられるように全身をおおう長い毛は「黒にして赤色の褐色(かっしょく)」である。
 だから、宗廟の毛色肢体のすべてが備わる完全なる牛は、ジャコウウシであった。
 ジャコウウシは7月から9月の繁殖期になると、眼下腺(がんかせん)から麝香(じゃこう)の香りがする分泌物(ぶんぴつぶつ)を出す。
 ジャコウウシは有史以前には広く北半球の寒帯(ツンドラ地帯)に分布していたが、多くの地方で絶滅した。シカやイノシシなどの肉は生臭いがジャコウウシの肉は麝香の香りがして美味い。中国の五帝時代にはジャコウウシは少数ながら生息していた。しかし、ジャコウウシは最高に美味い食肉にして神にささげる完全なる犠牲(いけにえ)として多数殺されたために、夏代初頭になると絶滅状態となった。ゆえに、わが国に夏音文字の学芸が伝来した夏代初頭においてジャコウウシは絶滅するものであったゆえ、夏音文字の学識に精通する物部氏は銀河を仰ぎ見て研究して[]の字源はじめ上記した[][][][]の字源、夏音文字の学芸体系の基軸となる[]の字源を習得することができた。いいかえると、“わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀、または6世紀である”と学界の定説にもとづくと、2世紀初頭の『説文解字』の字源解説はじめ契文・金文の字形と合理となる字源を物部氏は習得できなかったことになる。だから、定説は『魏志倭人伝』・『古事記』・『日本書紀』・『隋書』倭国伝・『新唐書』などが「倭には文字(夏音文字)があった」と伝える記述を誤読または無視しあるいは見逃して空想した虚妄であったのである

 夏音文字の学芸の伝来から約2300年後の3世紀、夏音文字に精通する物部氏は[]の字源を拡大解釈してジャコウウシに代わって18歳の青年と13歳の乙女たちを殺して犠牲(いけにえ)にして鬼神にささげる徇葬儀式が倭国の滅亡をふせぐために絶対に必要であると立論し、卑弥呼の陵墓を築造する時と伊耶那美命の墓を作る時に徇葬を決行した。
 ところが、伊耶那美命は“物部氏の学術理論は間違っている”と真っ向から否定する〔愛〕の理念を唱えた。だから、物部氏の天照大御神は伊耶那美命を憎悪し、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を呪い祟った。

◆F図の[]の字源となる「北の輪の銀河の中心」は「ジャコウウシが天敵オオカミの攻撃を防御して円陣を組む、子どもを隠す真ん中」となる。ゆえに、F図に「大物」と記した「北の輪の銀河の中心」は「大物主大神の呪霊の中心部」となる。
 C図の女性の生殖器の大部分は、J図の骨盤に包まれている。したがって子宮に宿る子どもの命は、母体の腹部に与えられる衝撃を骨盤が吸収・防御して守られている。ゆえに〔ジャコウウシの子どもを中心に隠す円陣〕は〔女性の生殖器を防御する骨盤〕に見立てられ、F図に「大物」と記した「十字の銀河の子宮」は「大物主大神の呪霊の中心部」となった。
 これゆえ、わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・37」にて『古事記』崇神紀の天皇の諱(いみな)の「御真木入日子印恵」と「御諸山」の先頭字の[]について説明したように――白川静著『字統』は「災禍や病気の祖霊などの下す祟りのためであると考えられ、これらを禦(ふせ)ぐ祭祀が行われた。これを禦祀(ぎょし)といい、字は御を用いる。」と解説することになったのである。
 なおK図に示すように、「十字の銀河の腹部」に幽かに見える〔人の両目〕のような形の銀河部は〔女性の骨盤の閉鎖孔〕の形に相似する。また、〔人の両目〕のような形の銀河部に呼応して「鼻」に観える「十字の銀河の子宮」を180度上下転回する形は右図の〔尾骨と仙骨〕の形に類似する。K図中央下部に配した「十字の銀河の頭部」はJ図の〔骨盤上口〕を180度を転回した形に類似する。このような銀河の形状も加わって、「十字の銀河の子宮」は「大物主大神の呪霊の中心部」となったのである。

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