漢字習得定説のウソ・5
●『魏志』倭人伝に「倭人」と記された正式国名の解説
◆このブログ「漢字習得定説のウソ」は前回(4回)まで――「銀河」の別名は「銀漢」であるゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」と名づけられた事実を証明してきた。
紀元前3000年ころ、黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は「四つ目の怪人」と名づけられた漢字を作る銀河の範囲を定め、また「鳥獣(ちょうじゅう)の足跡(あしあと)」と名づけられた漢字作成原理をも発明した。倉頡が定めた漢字を作る銀河の範囲(四つ目の怪人)は、下の写真に示す秋の銀河の西部と夏の銀河であった。この「すべての漢字が作られた銀河の範囲」を、わたくしは「文字作成銀河」と名づけることにした。
▲文字作成銀河の写真
倉頡はみずからが考案した文字が最も強力な権力、莫大(ばくだい)な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易・簡単に滅亡すると心配した。ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟(おきて)を破った人物には神罰(しんばつ)が下って直(ただ)ちに死刑にすると定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1) 文字作成銀河の各部の形状から文字が作られた秘密を暴露(ばくろ)した者
(2) 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3) 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
紀元前3000年頃から始まる五帝時代の倉頡文字と、紀元前2070年頃から始まる夏代(かだい)の夏音(かおん)文字と、紀元前1600年頃~紀元前1300年頃までの殷代(いんだい)前半の原初漢字は、上記した倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳重にまもった。このため、原初漢字(倉頡文字・夏音文字・殷代前半の文字)が記された史料が中国においてもわが国においても未(いま)だ1点も発見されないため、現在の学者たちは倉頡が漢字を発明したと説明する伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想と思い込んだ。
また、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人」について、学者たちは「とんでもない! 人間には目が四つも無い」とケチをつけて、倉頡伝説を「荒唐無稽(こうとうむけい)な空想!」と決めつけた。しかし、わがブログは前回の「漢字習得定説のウソ・1」において、「四つ目の怪人」とは上掲した「文字作成銀河の範囲」をあらわすものであることを証明した。
上記した倉頡が定めた(3)の掟は紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)と(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字が文字作成銀河から作られた事実」は現在においても不明となり、また(2)の掟によって「文字作成銀河各部の名称」は存在しないことになり、この倉頡の(2)の掟の伝統は現在まで受け継がれている。
◆ 上記した倉頡が死刑と定めた(2)の掟のために、「文字作成銀河各部の名称」は現在においても学問上確立されていないため、存在しない。しかし、「漢字が文字作成銀河各部の形状から作られた事実」を証明するためには、「文字作成銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、わたくしは下に示すように各部の名称を定めた。
▲文字作成銀河各部の名称図
712年に成立した『古事記(こじき)』は上巻・中巻・下巻の三巻で構成されるが、その「序」は上巻だけの「序」であって、全巻における「序」ではない。ゆえに、『古事記』の「序」は「古事記上巻
序幷」(古事記上巻幷(あわ)せて序)と記載される。というのも、上巻だけに〔音〕という注がつく文字が随所(ずいしょ)に記載され、この文字は――わが国に紀元前2070年~紀元前2050年頃に伝来して習得された夏音(かおん)文字である。この漢字がわが国に伝来した当時は、中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭であった。わが国に以前に存在しなかった「画期的(かっきてき)な発明・文化の文字(夏音文字)」が伝来したため、中期縄文時代が幕を閉じることになり、後期縄文時代という新しい時代が始まったのである。この夏音文字の伝来と習得の歴史については、わがブログ「漢字習得定説のウソ・1」にて解説した。また、わがブログ「真実の日本国誕生史」の10回・11回で詳細に解説し、さらに詳細に「真実の日本国誕生史」の35回~40回の6回をもって解説した。
『古事記』上巻の「序」の冒頭の「臣安万侶(しんやすまろ)言(まを)す」から「参神造化(さんしんぞうか))の首(はじめ)に作(な)す」という文までは「わが国に後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来して習得された」と証言していることになる。
『古事記』上巻の「序」の全記事を要約すると「朝廷が最も崇拝する天照大御神の聖性をいちじるしく汚(けが)すゆえ、上巻の神話には絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁じられた歴史を記述することにした。ゆえに、編纂(へんさん)スタッフは一計を企(たく)み、〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば歴史が明確に蘇(よみがえ)る仕組みにして、後世に真実を伝えることにした。したがって、上巻は夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換すれば真実の歴史が鮮烈(せんれつ)に蘇(よみがえ)る方法をもって作成された歴史書である」と、後世に歴史解明方法を伝えていたことになる。
現在の全学者たちは『古事記』上巻の字面(じづら)の表層(ひょうそう)だけをつまみ食いして〔音〕という注が付く夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換しない。この『古事記』上巻の「序」の要旨(ようし)を無視(むし)する方法だと、天照大御神が人民を弾圧して苦しめた歴史が解明できない空論・空想・妄想(もうそう)となる。しかし、『古事記』の「序」の説明・指示(しじ)のとおりにすれば『古事記』上巻に記述された歴史は解明できる。にもかかわらず――現在、『古事記』上巻の「序」の指示にしたがって上巻に記述された真実の歴史を解明し・証明する学者は一人も存在しない。
◆280~289年に著作(ちょさく)された『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)に登場する倭女王名の「卑弥呼」を、学者たちは「ヒミコ」と読む。現在、中国に残っている最古の漢字音である上古音で「卑弥呼」を読むと「ピミカ」となる。「ピミカ」は紀元前11世紀末の周代初頭から始まる漢字音である。一方、「ヒミコ」は紀元前21世紀末にわが国が習得した夏音文字の漢字音である。したがって、「ヒミコ」と読む字音は現在において中国に残る最古の上古音「ピミカ」よりも約1000年前の漢字音であるゆえ、現在、残っている最古の漢字音ということになる。
『魏志』倭人伝には「わが国は、夏音文字を習得していた」と伝える記事が2ヵ所ある。
この最初の記事は「倭の卜占(うらない)に用いる辞(じ/文字とことば)は〔令亀(れいき)〕つまり〔亀の甲羅(こうら)に文字を刻んだ甲骨文字(こうこつもじ)〕の法(原理)のごとし」と伝えて、「わが国では夏音文字を習得していた」と伝えている。
もう一つの記事を要約すると「魏の都や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国(しょかんこく)が用いる楷書(かいしょ)と卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)しているので、倭の小国の伊都(いと)国の港では点検し、確認し、魏と朝鮮半島で用いる楷書と卑弥呼が用いる文字を正しく変換していた」と伝える。
つまり、この二つの記事は――魏と朝鮮半島で用いられる楷書と卑弥呼が用いる夏音文字は共に文字作成銀河の各部の形状を字源・字形・字義として、さらに倉頡が発明した「鳥獣の足跡」と名づけられた漢字作成原理をまもって作られた文字であったゆえ、伊都国の港では文字作成銀河を観察し「鳥獣の足跡」のとおりに楷書と夏音文字を考えて正しく変換していた――と証言するものであったのである。
したがって夏音文字が学芸・文化の基盤となる2世紀末から3世紀半ばまでのわが国の様子を伝える『魏志』倭人伝もまた――伊都国の港では夏音文字と中国・朝鮮半島の楷書とを正しく変換できた点からしても――『古事記』同様に、楷書と夏音文字の字源・字形・字義を文字作成銀河各部の形状に変換し、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」のとおりに考えてこそ正しい歴史を解明できる文献(ぶんけん)であったことになる。
なお、楷書は2世紀の後漢(ごかん)時代に出現して6世紀の隋代(ずいだい)に完成したが、この楷書も倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」をキチッとまもって作られた漢字であった。したがって、『魏志』倭人伝と『古事記』に用いられた楷書は「鳥獣の足跡」の漢字作成原理をまもる漢字であったことになる。というのも、『古事記』が成立した7120年当時、現在とまったく異(こと)なり地上灯火もスモッグの影響がまったくなかったので、夜となれば文字作成銀河は「あっ」と息をのんでさけぶほどに壮麗(そうれい)鮮烈(せんれつ)に輝いて「鳥獣の足跡」の原理を明確に示すものであったからである。
現在、残っている最古の『魏志』倭人伝は、12世紀の南宋(なんそう)の紹煕刊本(しょうきかんぽん)の『三国志(さんごくし)』の魏書(ぎしょ)東夷伝(とういでん)にある一部の記事である。この「『魏志』倭人伝」と名づけられた文献の最初の文字は「倭人伝」であり、その次の本文冒頭は「倭人在帯方東南、云々(うんぬん)」であり――卑弥呼が統治(とうち)した国の正式名は「倭人国」であったと記述する。
『魏志』倭人伝には、東西南北の方位を記す記事が全部で15ヵ所ある。この全15ヵ所に一ヵ所も【誤読】を加えなければ、日本列島の東端(ひがしはし)は南へと伸びていることになり事実の日本地理と相違する。この「方位が時計の針が進む方向に90度転回して、〔東〕が〔南〕となる方位規定」が[倭]の字源・字形・字義となったのである。
つまり、倉頡が定めた漢字作成原理「鳥獣の足跡」にもとづき、[倭]の字源・字形・字義では「方位規定を時計回りに90度転回する」と定められていたのである。
A図は、内側の現在方位の〔東〕は外側の[倭]の字源では時計回りに90度方位が転回して〔南〕となると示す解説図である。したがって、A図は「日本列島の〔東方〕は〔南方〕へと伸びると定める方位規定」を示す[倭]の字源解説図である。
(C) 2018 OHKAWA
「二十四史」と呼ばれる24の中国の正史の一書に『後魏書(ごぎしょ)』または『魏書(ぎしょ)』と呼ばれる文献がある。『後魏書』は全部で130巻からなる紀伝体(きでんたい)で、本伝(ほんでん)と列伝(れつでん)は554年に、志の部分は559年に成立した。
上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)は直木孝次郎教授が論述した「邪馬臺国の位置論」の323頁において「明治の学者の内藤湖南(ないとうこなん)は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記している」と指摘(してき)する。この『後魏書』の勿吉伝の〔東南〕を〔東北〕に変換する方位規定は「時計回りの逆方向に90度回転する方位規定」であるゆえ、B図に示す[呉(ご)]の字源・字形・字義となる地理における方位規定であったのである。
(C) 2018 OHKAWA
◆倉頡がつかえた黄帝は、東洋最古の医学書『内経(ないけい)』を作ったと伝わる。『内経』の[内]は「女性の生殖器(せいしょくき)・子宮に宿る胎児(たいじ)や出産器官の産道(さんどう)」をあらわした。黄帝の医学研究は中国最初の事業であったので、紀元前4000年頃~紀元前3000年頃までの三皇時代の易に用いられた記号では黄帝の研究をあらわすことができなかった。ゆえに、倉頡が黄帝の女性の生殖器・子宮に宿る胎児・出産状況の研究をあらわす文字を発明することになったのである。
中国では黄帝時代からシナ天文が完成した紀元前1世紀の前漢時代までは、C図に示す天頂点(てんちょうてん)と重なる銀河部位が天頂点の間近(まぢか)において西から東へと平らに横へ一直線をえがく軌道すなわち緯度線をキャッチする呪術(じゅじゅつ)が栄えていた。
(C) 2018 OHKAWA
この呪術は、わが国では遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)が中止された9世紀末頃まで栄えた。この天頂緯度線をキャッチする呪術は[玄(げん)]の字源・字形・字義となった。
人間には原始の時から[玄](天頂緯度線と子午線)をキャッチする能力を鍛錬(たんれん)すると1度の60分の1の1分の精度で緯度が測定できる眼力と脳に本能がそなわっていた。ゆえに、[玄]のキャッチのおかげで人々は遠くの地へ旅しても家族が待つ家に帰ることができ、陸地から遠く離れる大海も無事に往来(おうらい)することができたのである。
天文における「歳差(さいさ)」という現象にもとづくと、紀元前3000年頃の五帝時代初頭、D図に示すように、北緯35度36分の陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)の黄帝を祭る廟(びょう)と黄帝の墓とされる黄帝陵と北緯31度の太湖(たいこ)南岸の天頂に「十字の銀河」と「四つ目の銀河」(「倉頡」に見立てられた「鬼の姿に似る銀河」のおける鬼の横顔の銀河の両目と首につく両目で目が四つとなる銀河)がめぐってきた。
(C) 2018 OHKAWA
黄帝時代に中国各地の天頂緯度線の基準となった「十字の銀河」は、E図に示すように乳房や子宮に相当する箇所(かしょ)があるゆえ、女体(にょたい)に相似する。
(C) 2018 OHKAWA
倉頡は、黄帝の医学研究をあらわすために「十字の銀河」を「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての漢字は十字の銀河を母体にして生まれる」、「すべての漢字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めた。この倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と呼称(こしょう)されることになったのである。
F図に示す[文]の金文形(きんぶんけい/周代に用いられた漢字)は、「十字の銀河」を「母体の正面」に見立てて「子宮に胎児を宿る、おなかが前へつきでて円い妊婦(にんぷ)」を図案している。
(C) 2018 OHKAWA
G図に示すように、「十字の銀河」は[字]の上部の[宀(べん)]の字源・字形・字義となり、「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」は[子]の字源・字形・字義となり、[宀]に[子]が加わって[字]の字源・字形・字義となった。
(C) 2018 OHKAWA
前述した漢字作成原理「鳥獣の足跡」は「文字作成銀河各部の形状から作られたすべての漢字は十字の銀河を母体にして生まれる」、「すべての漢字は十字の銀河の子宮から生まれる」と定めたゆえ、「四つ目を有する鬼の姿に似る銀河」は「十字の銀河の子宮から生まれた子」であることを示して[子]の字源・字形・字義となった。
◆C図の右上に示した[玄]の金文形を、H図の右側に配した。
(C) 2018 OHKAWA
[玄]は[亠(とう)]に[幺(よう)]を加えて作られる。文字作成銀河を見て字源を解説した前漢の漢字学者の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は[幺]の字形を「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたどる)る」と解説する。つまり、[幺]の字形はH図の左図の[亠]の下に図示した「頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)の生子(せいし/出産児)」の図案である。
出産をむかえて子宮口が全開大(ぜんかいだい)となってすっかり開く開口期(かいこうき)の終わりには、子宮内の胎児の頭は骨盤(こつばん)入口の上ではアゴを胸につけた姿勢で胎児の背は母体の左または右にあり、中ほどにくると胎児の頭は斜め後ろ(母体の腹側)に顔を向け、骨盤出口では顔を後方に向ける位置をとる。開口期の終わりでは、ほぼこの状態になる。次いで胎児の頭はふたたび母体の左または右を向くが、骨盤出口を肩の部分が通過する時に、胎児の肩はまず母体の腹側にあるほうから先に、ついで母体の背側の肩が出ると、あとは頭が一気に生まれて――H図に示す姿勢(胎児の顔は母体の背側を向く)となる。このような胎児が体をくねらせる生まれる様子を表現して、[幺]の字源「子の初生の姿」は[8]の字の形に図案されたのである。
孔子(こうし)と並ぶ中国の思想家の紀元前5・4世紀頃に生存した老子(ろうし)の教えを説く『老子』第一章は、C図の[玄]をキャッチする時の心得(こころえ)について「常に無欲(むよく)にして以(もっ)て其(そ)の妙(みょう)を観(み)、常に有欲(ゆうよく)にして以て其の徼(きょう)を観る。この両者は出(い)でて名を異(こと)にし、同じく之(これ)を玄と謂(い)う」と説明する。
このように、[玄]をキャッチする時には――生まれてくる子が産道を通過する時のように常に無欲であれば1分の精度で[玄]をキャッチできる妙なる(不思議な)能力が人間にはそなわっているが、常に必ず[玄]をキャッチしようと欲を持つと川・湖・海などの岸や渚(なぎさ)にうち寄せられて風雨にさらされる徼の白骨死体となる。妙([玄]のキャッチ)と徼(白骨死体)は同じ字源銀河から出でたが(作られた)が、意味は異なる――と、老子は説く。
この老子の言葉は老子みずからが考えた[玄]をキャッチする時の心得を述べたものではなく、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」が定めた[玄]をキャッチする時の心得を伝えるものであったのである。
五帝時代、遠くの地・ツンドラ地帯に生息するジャコウウシを狩り行く人々が道すがらおこなうポーズは、I図のごとくであった。
(C) 2018 OHKAWA
わがブログ「真実の日本国誕生史・40」で詳細に解説し証明したように、D図に示した五帝時代の[玄]のキャッチで測定(そくてい)できる天頂緯度線の状況と[玄]をキャッチする両目(鬼の横顔に似る銀河の両目)を図にすると、J図のごとくなる。
(C) 2018 OHKAWA
I図の左図に示した「道すがら歩く時の狩人(かりうど)の両目」はJ図下部の「鬼の横顔に似る銀河の両目」に見立てられ、I図の右図の「[玄]をキャッチする時の狩人の両目」は「鬼の首(アコと後頭部に付く両目)」に見立てられた。
K図に示すように、[玄]をキャッチする両目は「激流(げきりゅう)の銀河」を見ているように観える。
(C) 2018 OHKAWA
「激流の銀河」が[徼]の字源である。[徼]の偏(へん)の[行]は「行く。歩く。旅する」をあらわす。[徼]は[皦(きょう)]の字も用いられる。[皦]の偏の[白]は「川・湖・海の岸や渚に打ち寄せられて風雨にさらされる白骨死体」をあらわす。「北アメリカ星雲」は「人の頭蓋骨(ずがいこつ)」の形に相似する。ゆえに、「北アメリカ星雲」は「骸骨(がいこつ/どくろ。されこうべ)」に見立てられた。K図に示すように、「[玄]をキャッチする目の、鬼のアゴに付く細い目」の端を貫通した太湖南岸の天頂緯度線は[徼]と[皦]の字源「激流の銀河」をも貫通する。「天頂緯度線のキャッチ」は「[玄]のキャッチ」であるゆえ、老子は「[妙]と徼(皦/白骨死体)は同じく出でて名を異にし、同じく之を玄と謂う」、つまり「[玄]と[妙]と[徼(皦)]」の字源銀河は同じである」と説いたのである。
前回のわがブログ「漢字習得定説のウソ・4」で解説したように、[人]の古代字形は、L図の「だいぶ人らしくなる第8週中頃からの、いくらか膝(ひざ)を曲げて子宮に宿(やど)る胎児の側身形(そくしんけい)」の図案であった。
(C) 2018 OHKAWA
[人]の字源は、前述した出産第1期の開口期終わりの「母体の背側に顔を向け、頭をすっかり後方に向けて骨盤出口のおける胎児」つまり、M図に示す「胎児のポーズ」であったのである。
(C) 2018 OHKAWA
結局、G図に示した[子]の字源の「首に[玄]をキャッチする両目を有する、鬼の姿に似る銀河」が[人]の字源となった。つまり、倉頡は「鬼の姿に似る銀河」を「出産第1期の開口期の終わりから出産第2期の娩出期終わり(H図左図の[亠]の下の図)までの無欲で産道を通過する生子」に見立てて[人]の字源と定めた。だから、老子は上記した『老子』の第一章で、漢字作成原理「鳥獣の足跡」において[玄]をキャッチする心得を定めたとおりに「産道を通過する子ども、つまり[人]の字源の胎児のとおりに無欲であれ」と説いたのである。
◆したがって、『魏志』倭人伝冒頭の「倭人国」の[人]の字源は「鬼の姿に似る銀河」であった。というのも、倭国では[玄]をキャッチする習慣が栄えていたからである。
倭国では沙漠(さばく)のごとく毎日乾燥(かんそう)して晴れの日が続かず、雨や曇の日々もあるゆえ、少々(しょうしょう)霧(きり)がかかっても[玄]をキャッチできる呪力(じゅりょく)が求められた。だから、「倭人国」の[人]は「少しぐらい霧がかかっても、[玄]をキャッチすることができる呪力」をあらわしていたことになる。
N図に示すように、すべての文字を生む母体の「十字の銀河」に「頭が誕生する生子の図」を加えると、「母体(十字の銀河)の背側に向ける生子の顔」は「東を向く」ことになる。このN図の状況だと、人が住む中国の陸地は西にあり、東は大海であるゆえ不合理となる。
(C) 2018 OHKAWA
それゆえ合理を成立させるために、O図に示すように[禾]の字源「〔南〕が時計回りに90度転回して〔西〕となる方位規定」と[呉]の字源「〔南〕が逆時計回りに90度転回して〔東〕になる方位規定」が成立することになったのである。この[禾]と[呉]は人々の生命をまもる[玄]のキャッチの方位規定にはまったく影響(えいきょう)が及ばない、地名だけに用いられる字と定められた。
(C) 2018 OHKAWA
A図の[倭]の方位規定とB図の[呉]の方位規定は、O図の「十字の銀河」の下部に示した方位規定に合致する。
したがって、P図に示すように、「禾(イネ)の穂(ほ)は十字の銀河の南から西へと垂れる」と定められる[禾]の字が作られることになった。
(C) 2018 OHKAWA
わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統(じとう)』(平凡社発行)は[禾]の字について「いねの象形(しょうけい)。また軍門(ぐんもん)の象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形。軍門の字は標木(しめき)に袖木(そでき)をつけた形」と解説する。「軍門」とは「呉の地に遠征した黄帝軍の軍門」であったにちがいない。ゆえに、黄帝は黄帝軍の兵士たちが住む建物には、倉頡が図案した[禾]の字を模(かたど)る標木(柱)を袖木でささえる組木装置(くみきそうち)が「門」となって設置されたと考えられる。
P図の下に示すように、[禾]の下に「十字の銀河」は女体に相似するゆえ[女]が加わって[委]の字が作られ、「十字の銀河」は「人」の姿にも相似するので人偏(にんべん)に[委]の字が加わって[倭]の字が作られた。
そして、[倭]の字は[禾]の字源「時計回りに方位が90度転回する方位規定」を受け継ぐものであったゆえ、『魏志』倭人伝の全15ヵ所の方位記事は「卑弥呼王朝は日本列島の〔東〕は時計回りに90度転回して〔南〕となる転回日本列島地理を制定(せいてい)した」と伝えていることになる。
倭では、卑弥呼王朝がA図に示した[倭]の字源に合致する転回日本列島地理を制定し、[人]の字源「鬼の姿に似る銀河」の、その首には[玄]をキャッチする呪力を示す両目の銀河が存在し(K図参照)、人々は[玄]をキャッチする呪力を最も重視するものであったゆえ、女王卑弥呼が統治(とうち)する国名の正式名は「倭人国」となったのである。
◆黄帝時代から卑弥呼が生存した三国時代においても、淮河(わいがわ)を境とする中国北方の華北(かほく)地方では中国南方の華南(かなん)地方よりも降水量が少なかったので、常に禾(稲や麦など穀物)の生育を心配することになった。このため、華北地方の地名は[禾]の方位規定であらわされることになった。ゆえに、三国時代、華北地方の国名は[委]に[鬼]が加わる[魏]の字で表示された。
三国時代、淮河より南の華南地方の国名は[呉]であった。黄帝時代以来、降水量が多い華南地方では晴天の日々が少なかったので[玄]のキャッチに失敗して多数の人々が命を失ったので、人口の増加を天に願って子授(こさず)け祈願(きがん)や出産祝いが盛んにおこなわれた。
Q図の金文形は、「十字の銀河」を「巫女(みこ)」に見立てて、「巫女が水を入れた土器の口部(こうぶ)を天頂に向けて、胎児が体をくねらせて産道を通過するように巫女が舞って子授け祈願と出産祝いをする様子」を図案するものであったのである。
(C) 2018 OHKAWA
R図に示すように、「十字の銀河の子宮」は「口部が南となる土器」の形に見立てられた。
(C) 2018 OHKAWA
R図右側の「十字の銀河の子宮」はS図の左下のごとく180度ひっくりかえされ、S図の左上のごとく「十字の銀河の子宮(上が口・産道、下が子宮底)」は解釈されることになった。というのも、「十字の銀河の子宮」に見立てられたR図右側の器(土器)は――S図の左側に示すように、胎児の命をまもる子宮内の羊水(ようすい)に見立てた水を入れて、その口部を天頂に向けて子授け祈願や出産祝いがなされたからである。この「出産祝いや子授け祈祷に用いられた器」は、[口(さい)]の字源となった。
(C) 2018 OHKAWA
その証拠に白川静著『字統』はS図右側の[口(さい)]の字について「概(おおむ)ね祝祷(しゅくとう)する器の形である」と解説する。したがって「祝祷」は「祝い祈祷する」と意味するゆえ、五帝時代においては[口(さい)]は「煮炊(にた)き器具や食器にも用いられたが、主として子授け祈願や出産祝いに用いられた土器」であったことになる。
そして、わがブログ「漢字習得定説のウソ・3」で詳細に解説した「十字の銀河の腰周辺の幽(かす)かな眉と目の銀河」にもとづくと「十字の銀河の子宮」は「鼻」に相当する。そして、鼻の下の「口」は、T図の左図に示すように、[口(さい)]の字源「祝祷する器具・土器の口部」がある下の南にある。また、「十字の銀河の子宮」を「女性の生殖器(せいしょくき)」に見立てると、「子宮口(内子宮口・外子宮口)から膣口(ちつこう)までの産道」は「十字の銀河の子宮の南部」にある。だから、S図の右側に配した[口(さい)]の金文の字源は「T図の左図の〔口〕の部分」と「十字の銀河の子宮の口部(子宮口から膣口までの産道」となったゆえ、字形は[口]の図案となり、字音は「さい」となったである。
(C) 2018 OHKAWA
U図に示すように、女性の生殖器の大半を包んで胎児の命をまもる「骨盤(こつばん)」の、その「上口(じょうこう/骨盤出口上側の穴」は「十字の銀河の頭部」の形に相似する。
(U図の上図の「十字の銀河の頭部」の上下を180度転回すると、両者の穴の形が相似する)。
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ゆえに、V図に示すように、[呉]の金文形は「巫女に見立てた十字の銀河の頭部(骨盤上口に似る頭部)の隣(となり)の右肩(みぎかた)の上に、巫女が[口(さい)]の口部を天頂に向けて身をくねらせて舞う図案」となって、「〔北〕は逆時計回りに90度転回して〔西〕になる」と表示されることになった。
これゆえ、白川静著『字統』は[呉]の字について「身をくねらせて舞う形で、神を悞(たの)しませ、祝祷を行う意」と解説する。
以上のごとく、B図に示したように[呉]の字源は「時計の逆回りに90度方位を転回する方位規定」をあらわし、またQ図に示したように[呉]の金文形は「十字の銀河」を「巫女」に見立てて、「巫女が水を入れた土器の口部を天頂に向けて、胎児が体をくねらせて産道を通過するように巫女が舞って子授け祈願と出産祝いをする様子」を図案するものであったことになる。
◆ただし、前述したように倉頡が発明した「鳥獣の足跡」では、地理(地図)において[禾]([委]・[魏]・[倭])と名づけられた遠くの地に旅した人々が迷わないために、その地にあっても[玄]のキャッチした「東・西」の緯度と「南・北」の経度は常に不変で変わらないと定めたのである。したがって、[玄]のキャッチと地名だけに用いられる[禾][委][魏][倭]の方位規定は同一ではなく、両者はまったく別なるものと定まっていたことになる。だから、人々は、なんら生活において不便ではなく不都合(ふつごう)でもなかったのである。
なお、O図に示した[禾]と[呉]の転回方位規定にもとづいて、「方位がわからなくなって、道にまよう」の「まよう」の字は之繞(しんにゅう)に「禾・いねの実」の[米]が加わる[迷]となった。
次回は、遠くの地に行っても常に人々の命をまもる方法であった[玄]のキャッチの方位規定は地名に用いられた[禾][委][魏][倭]と[呉]などの方位規定に影響をうけなかったことを伝える記事が、『易経(えききょう)』繋辞下伝(けいじげでん)に記述されているので、この記事について解説する。
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