古代エジプト文字の字源・2
●「卑弥呼」の地上絵は朝廷に反逆する遺跡であった
◆わがブログ「日本が滅びる」でくりかえして解説・証明したように――『魏志』倭人伝末部に「13歳で王となった壱与(いよ)」と記された乙女は、『魏志』倭人伝に列記された小国・伊邪(=伊耶╱いや)国つまり旧国丹波の出身者であった。ゆえに、夏音名で「壱与」と呼ばれた女王を人民は「伊耶国の美しい女王」を略して「伊耶那美命」と愛称した。伊耶那美命の本名は「竹野比売(たかのひめ)」である。
13歳の伊耶那美命は伊耶那岐命(『魏志』倭人伝の「載斯烏越╱そしあお」)と結婚して、卑弥呼の宗女(そうじょ╱卑弥呼が率いる巫女界を代表する巫女)として小国・日本(現在の東海・関東地方)の女王に就任して、小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。
この小国・日本の国作りの柱を、私は【日本建国の〔愛〕の理念】と呼ぶことにした。
『魏志』倭人伝の末部は「卑弥呼の墓を作る時、百余人の奴婢(ぬひ╱18歳くらいの若者と13歳くらいの乙女)を殺して卑弥呼の墓に埋める残虐な徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。このため、卑弥呼の後を継ぐ男王に服従しない反乱が起きて、倭政府は千余人の反乱者たちを殺した。当時、卑弥呼と素(もと)より和せない狗奴(くな)国という敵国が存在したので、徇葬を憎悪する人民の反乱は倭国が滅亡しかねない深刻な危機的状況を示すものとなった。そこで、【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した小国・日本の女王の壱与・伊耶那美命を倭国に帰還させて倭女王に就任させると、反乱者たちは伊耶那美命が倭女王に就任したならば徇葬は必ず禁止するにちがいないと信じて武器を捨てたので遂に国中が安定した」と記述する。
この記事が伝えるように、伊耶那美命・壱与が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】は強大な倭の国家権力よりも優るほどに強大な力を示すことになった。
◆伊耶那美命は倭女王に就任してから間もなくして死去した。
伊耶那美命の後を継ぐ倭女王に、伊耶那岐命の第二后である伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)が就任した。
伊迦賀色許売命と伊耶那岐命の父の第8代孝元天皇の間に生まれた皇子が、第10代崇神(すじん)天皇である。したがって、伊耶那岐命の養子となった崇神天皇は伊耶那岐命の異母弟であった。
崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は「天照大御神」という異名で呼ばれた。
『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕は、下記のごとく【日本建国の〔愛〕の理念】をめぐって倭女王の天照大御神・伊迦賀色許売命と小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命の夫婦が対立した歴史があったと伝える。
――国家権力こそが最も勝るべきであると考える倭女王に即位した天照大御神は、国家権力よりも勝ると示された伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪した。それゆえ天照大御神は、伊耶那美命が最も嫌悪した徇葬を決行して、A図に示す熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に伊耶那美命の墓を築造する事業を陣頭指揮した。
伊耶那美命を愛する小国・日本の軍王の伊耶那岐命は配下の日本兵と熊野に住む勇士たちの協力を得て、伊耶那美命の墓から棺を奪うクーデターを決行して成功させた。
B図に示す現在の和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町に所在する神倉(かんのくら)神社の御神体の千引石(ちびきのいわ)は、現在は“ごとびき岩”と呼ばれる。この千引石の前(現在の神倉神社の社殿が建つ場所)で、伊耶那岐命は『古事記』に「伊耶那美神命」と表記された天照大御神に離縁を言い渡した。
クーデターで倭女王から失脚された怨みと離縁を告げられた屈辱で激怒する天照大御神は「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ╱人民)、一日に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ」つまり「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちの母親の産道が狭くなれと呪(のろ)って必ず一日千人ずつの胎児の頭を絞め殺す」と誓った。この呪いの詞(ことば)は「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を一日に必ず千人ずつ祟(たた)り殺す」と意味するものでもあった。
天照大御神を倭女王から失脚させて天下を奪った伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と言って、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ政事(まつりごと)を継承すると誓った――というのが、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕の大要である。
◆『古事記』が成立した712年当時の朝廷は、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】の抹殺に躍起になり、天照大御神を皇祖と崇拝してその聖性を汚すことを厳重に禁止していた。ところが、編纂スタッフは『古事記』上巻の作成目的を【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることと定めて朝廷から正史の認可を得ようと企んだ。これゆえ朝廷が喜ぶように編纂スタッフは敬愛する伊耶那美命を侮辱するかのごとく見せかけて、残酷な徇葬を決行した「天照大御神」の名を「伊耶那美命」に「神」の1字を加えて「伊耶那美神命」と表記した。編纂スタッフは、〔事実に反する方法で事実をあらわす、反実仮装(はんじつかそう)〕という表現方法で、真実の歴史を伝えようと企んだのである。だから、前回のわがブログ「古代エジプト文字の字源・1」で指摘したように、太安万侶(おおのやすまろ)は「陰陽ここに開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)となる」という文を『古事記』序の初頭に配置した。この文は「陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命がすべての生みの親となった」と意味する。したがって、安万侶は「伊耶那美神命は、亡くなった伊耶那美命の後を継いで倭女王となった天照大御神である」と前もって『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕に設けられた〔反実仮装〕の仕掛けに注意するように告げていたことになる。
『古事記』の序は世にも珍しく「上巻 併せて序」と表記される。ゆえに、三巻で構成される『古事記』の序は、中巻・下巻の序ではない。『古事記』の序は、上巻だけの序である。ということは、(1)『古事記』序を「上巻 併せて序」とした秘密と(2)『古事記』序の初頭に「陰陽ここに開けて、二霊群品の祖となる」と伊耶那美命と伊耶那岐命を讃える文を配置した秘密は、『古事記』上巻の〔伊耶那岐命の黄泉国訪問説話〕に設けた「天照大御神を伊耶那美神命」と記した〔反実仮装〕にもとづくものであったことになる。
◆ 千引石(ごとびき岩)の前で離縁された「伊耶那美神命」は「天照大御神・伊迦賀色許売命」である事実を現在に伝えて、伊耶那岐命が天照大御神に離縁を言い渡した千引石の前の空洞に社殿が建造された神倉神社の主祭神は「天照大御神」である。
伊耶那美命は西暦250年ころに没したのであるまいか。したがって、伊耶那岐命・開化天皇は決行したクーデターは250年ころであったであろう。開化天皇は260年以前の、多分255年ころに崩御したと考えられる。
開化天皇の死後、伊迦賀色許売命と崇神天皇の天照大御神母子王朝は、B図の千引石の前で「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を、一日に必ず千人ずつ殺す」と誓った通りの政事(まつりごと)をおこなって人民を苦しめた。
このため、五人の王たちは天照大御神王朝を倒すクーデターを計画したが、このクーデター計画は失敗した。このクーデター計画に参加した一員であった建比良鳥命(たけひらとりのみこと)は、【日本国の〔愛〕の理念】を後世に正確に伝えるために必要不可欠な〔夏音文字の学芸〕を保存するC図に示す「卑弥呼」の地上絵を作成した。
(C) 2015 OHKAWA
C図の「卑弥呼」の地上絵は、すべての漢字は下に掲載する文字作成銀河(天体写真家 藤井旭氏 撮影)から作られた事実を今日に伝える遺跡である。さらに、「卑弥呼」の地上絵は紀元前3100年頃に完成した形で突然に出現したヒエログリフもまた文字作成銀河から作られた事実が科学的に証明できる奇跡の遺跡である。
◆黄泉国・熊野におけるクーデターに成功した伊耶那岐命は、後の第9代開化天皇であった。
前述したように千引石の前で伊耶那岐命に離縁されて戸籍を失った天照大御神は、崇神天皇の伯母(姑)の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の戸籍と名を受け継いで「倭迹迹日百襲姫命」と名乗った。ゆえに、『日本書紀』崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は天皇の姑(おば)である」と記す。
『魏志』倭人伝末部の卑弥呼の後を継いで徇葬を行った倭の男王は、開化天皇・伊耶那岐命の祖父の第7代孝霊天皇であったにちがいない。開化天皇と崇神天皇の父の孝元天皇は、卑弥呼の死より以前に亡くなっていたゆえ、孝霊天皇が倭の大王に就任した。卑弥呼の墓を百余人の奴婢を埋める徇葬を指揮した巫女は、孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命であったと推定される。この徇葬によって国中の人民が反乱した。ゆえに、反乱の責任を取らされて倭迹迹日百襲姫命は死を求められて命を失ったのであろう。したがって、亡き倭迹迹日百襲姫命の無念を受け継ぐとともに息子の崇神天皇のクーデターによって開化天皇から天下を奪い返すという復讐の念を露骨にあらわして、天照大御神・伊迦賀色許売命は「倭迹迹日百襲姫命」という名を襲名したと考えられる。
これゆえ、開化天皇のクーデターを怨(うら)み骨髄(こつずい)に徹(てっ)する天照大御神母子のクーデターはクーデターで報復するという憎しみを絶つために、『古事記』上巻の〔三貴子の分治説話〕に記述されているように――D図に示すがごとく、開化天皇は崇神天皇・天照大御神に高天原(たかまのはら)を、開化天皇と意祁都比売命(おけつひめのみこと)と結婚して生まれた月読命(つくよみのみこと)・日子坐王(ひこいますのみこ)に夜之食国(よるのおすくに)である小国・日本を、伊耶那美命が生んだ須佐之男命に北九州から卑弥呼が居住した山陰出雲地方の邪馬壱(やまい)国やさらに裸(ら)国・富山県までに至る海原(うなはら)を分割して治めるように定めた。
この三貴子の分治によって、開化天皇の後を継ぐ大王(天皇)は伊耶那美命が生んだ須佐之男命ではなく、天照大御神が生んだ皇子(後の崇神天皇)と定めて天照大御神母子がクーデターをおこなう必要がないように対処したのである。
(C) 2015 OHKAWA
◆『日本書紀』崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は箸墓(はしはか)に葬られた」と記す。伊耶那岐命・開化天皇の死後に没した天照大御神・倭迹迹日百襲姫命が葬られた箸墓古墳は、“初期大和政権の発祥の地”と指摘される奈良県桜井市に所在する。天照大御神・倭迹迹日百襲姫命が葬られた箸墓古墳は最古かつ最大の全長280メートルの前方後円墳である。
開化天皇は天照大御神・倭迹迹日百襲姫命より以前に死去した。開化天皇を憎悪する天照大御神母子は、天下を譲られた恩に報いず逆に復讐して開化天皇陵を築造しなかった。ゆえに、奈良県奈良市油阪町に所在する開化天皇陵は3世紀後半に築造されていない。その墳丘規模からして5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。開化天皇陵は、全長105メートルの箸墓古墳の半分以下の、天照大御神母子の憎しみを今に伝える古墳である。
天照大御神母子は、上記した千引石の前の「【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を、一日に必ず千人ずつ祟り殺す」という誓いの通りに、【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し抹殺に努力する政策をおこなった。
それゆえ、『古事記』上巻の〔須佐之男命の啼(な)きいさち説話〕は――天照大御神母子王朝を倒して熊野に須佐之男命王朝を樹立せんとするクーデターが計画された。しかし、この不穏な気配に気づいた死が迫った開化天皇は須佐之男命を呼びつけて「クーデターを絶対に決行してはならぬ。お前の母が提唱した〔愛〕の理念の基に多くの子どもが生まれ多くの農作物の実りを最優先する〔多賀(たが)〕に努めよと遺言して没した――と伝える。
『古事記』上巻の〔国生み説話〕は――伊耶那美命と伊耶那岐命は二度目の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚儀式をおこなった。この時、倭女王伊耶那美命は伊予国の祭神名を「愛比売(えひめ)」と定め、現在の四国を〔愛〕をあらわす「伊予」と冠する「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」と国生みして(名づけて)、【日本建国の〔愛〕の理念を最も重んじる政策を実行すると表明した――と記述する。この〔国生み説話〕では「伊予国の祭神の名を【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす愛比売、讃岐国の祭神の名を〔豊かな飯(食物)の霊が憑依(ひょうい)する〕とあらわす飯依比古(いいよりひこ)、〔穀物の総称〕である[粟]を国名とする粟国の祭神の名を〔豊かな実りをもたらす農地〕をあらわす大宜都比売(おおげつひめ)、土左国の祭神の名を〔健康な子どもが多数生まれる霊が憑依する〕とあらわす建依別(たけよりわけ)と定めた」と記す。ゆえに、伊予国と土左国の祭神名は「【日本建国の〔愛〕の理念】をまもって多くの健やかな子が生まれる」とあらわすものとなり、讃岐国と粟(阿波)国の祭神名は「多くの農作物の実り」を示すことになった。わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は、[賀]の字について「生子儀礼や農耕儀礼に用いる字である」と解説する。ゆえに開化天皇の遺言となった「多賀」という語は〔国生み説話〕における四国の祭神名に適合して「多くの子どもが生まれ、多くの農作物・食べ物に恵まれる」と意味するものであった。
したがって、『古事記』上巻の〔須佐之男命の啼きいさち説話〕末部の「伊耶那岐大神は淡海の多賀に坐(ま)すなり」という文は――死が迫った開化天皇は須佐之男命に、「お前の母が伊予二名島(四国)の国生みにおける小国名と祭神名であらわした『【日本建国の〔愛〕の理念】にもとづいて多くの子どもが生まれ、多くの農作物に恵まれる』をあらわす『多賀』という名が憑依する淡海の地に、わが霊魂は坐すことにする。だから、お前は母の遺志(こころざし)である「多賀」をまもってクーデターをおこしてはならぬと遺言した――と意味するものであったことになる。
◆『古事記』上巻の〔天照大御神と須佐之男命の誓約説話〕は――【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪して人民を苦しめる天照大御神母子王朝を倒すために、五人の王たちが熊野に須佐之男命王朝を創設するクーデターを計画した。しかし、父・開化天皇の「多賀」の遺言にしたがった須佐之男命は天照大御神・崇神天皇と不戦の誓約を結んだために、五人の王たちが計画したクーデターは失敗した。五人の王たちの一人は北九州の宗像(むなかた)王の天菩比命(あめのほひのみこと)であった。天の菩比命が率いる一派のメンバーは七人の建比良鳥命で構成されていた。この一人が、C図の「卑弥呼」の地上絵を作成した遠江国造の先祖の建比良鳥命であった――と記す。
◆前回のわがブログで指摘したようにC図の「卑弥呼」の地上絵は、ヒエログリフが出現してから約3350年後、倉頡が漢字を発明してから約3250年後、わが国に夏音文字が伝来してから約2300年後に、漢字とヒエログリフが上に掲載した文字作成銀河から作られたと科学的に明確に証明できる遺跡である。
上記したように、『魏志』倭人伝が280年~289年に著作された時代(とき)を同じくして、「卑弥呼」の地上絵は遠江の豪族の建比良鳥命とその一族が“愛、あざやかに永遠であれ”と願って260年~290年ころに作成した。
わがブログ「日本は滅びる」は1回~167回をもって、「卑弥呼」の地上絵によって『魏志』倭人伝のすべての記事は事実を伝えるものであることを科学的に明確に証明した。この結果、新井白石(1657-1725年)から現在までの学者たちが主張する邪馬台国説の立論基盤は現実に絶対にありえない荒唐無稽(こうとうむけい)の空論で成り立つものであることが明らかとなった。
邪馬台国説のごとく『魏志』倭人伝に加える〔すべての誤読〕を「文献批判」と名づける方法だと1万年たっても論争が決着しない。しかし、『魏志』倭人伝に加える〔すべての文献批判〕を「誤読」と名づければ直ちに人々は『魏志』倭人伝に忠実に読解すると【科学】という語が成立することに気づき、従来の邪馬台国説は荒唐無稽の誤読の空論であることが判明して邪馬台国論争は決着がつく。
E図が示すように、ヒエログリフは現代ヨーロッパ文字、現代ペルシア文字、現代アラビア文字、現代ヘブライ文字、現代アムハラ文字のルーツとなる。現代ヨーロッパ文字はすなわちアメリカ・ヨーロッパ・アフリカなどの世界の70ヵ国以上の公用語の文字として使われるABCアルファベットである。
したがって前回のわがブログ「古代エジプト文字の字源・1」で指摘したように、世界中の7割~8割の人々が使う漢字とABCアルファベットが上に掲載した文字作成銀河から作られた事実が「卑弥呼」の地上絵とこの遺跡の複合体エリアの地宜によって明らかとなる。
しかし、この事実は荒唐無稽の誤読の空論の邪馬台国説によって人類は失うことになる。
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