G-T0XYQT12LL 【用語の解説】: 卑弥呼の逆襲

【用語の解説】

2013年10月16日 (水)

日本が滅びる・56

伊耶那岐命と伊耶那美命の二度の結婚の秘密解明(2)

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話は、淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)説話から始まる。前回のブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・55」において――当時は原始的な木製のスキやクワの刃先で農地を耕すために雨が降って堅い地面が淤(どろ╱泥)のように柔らかくなることを人々は願い、卑弥呼王朝が日本列島は東ではなく南に伸びると転回日本列島地理を制定していたので、[]と「碁呂(ころ╱転)がる」から「淤能碁呂島」と言った――と説明した。
 この「淤能碁呂島」の説明は大まかで正確性に欠ける。もう少し正確性を加えると、前回(55)の「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」で解説した「伊耶那岐命と伊耶那美命が二度結婚した〔船を覆せた形〕に見立てられた2ヵ所の地域」が「淤能碁呂島」ということになる。A図の播磨平野と淡路島は、二度目の聖婚における淤能碁呂島である。

◆「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・25」で解説したように――『魏志倭人伝』の末部に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)13歳で王となった女性を倭女王に立てた」と記述される「壱与」は「伊耶那美命」であり――「開化天皇の正妃であった伊耶(いや)(丹波)出身の竹野比売(たかのひめ)」である。また、『魏志倭人伝』の末部に登場する「載斯烏越(そしあお)」が壱与・伊耶那美命と結婚した「伊耶那岐命」であり後の第9代「開化天皇」である。
 「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・23」で解説したように、伊耶那美命が女王となって就任した小国は「日本」であった。
 208年におきた中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いにおいて、わずか5万の呉・蜀(しょく)の連合軍は80万の魏軍を撃破した。この劇的な大勝利の中心的な役割を、2万の呉の水軍が担った。
 『三国志』呉書孫権伝は「呉の黄竜2年(230)、皇帝の孫権(そんけん)は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)に夷州(いしゅう)と亶州(せんしゅう╱澶洲)に分かれる東鯷人(とうていじん)国への遠征を命じた。このときの武装兵は一万であった」と記述する。2万で80万の魏軍を撃破した呉の1万の水軍は40万の魏軍に匹敵するので、この呉の無敵艦隊の遠征を知った東鯷人国王はまったく勝ち目がないと考え、卑弥呼が統治する隣国・倭国に服属するかわりに、東鯷人国の防衛を取り付けた。

◆当時は敵軍の戦力を奪う呪力が最も優るのは13歳の乙女であると信じられていたので、卑弥呼が率いる巫女界を代表して13歳の壱与・伊耶那美命が東鯷人国改めて新生・小国日本の女王に選ばれた。また、呉軍との戦いを指揮する軍王(いくさのおおきみ)に載斯烏越・伊耶那岐命が選ばれた。当時は18歳くらいの青年が最も強い武力・武運を有していると信じられていた。ゆえに、軍王の名にある「烏越(あお)」は「青」すなわち「青年」を意味したので、伊耶那美命と結婚した伊耶那岐命は18歳であったと考えられる。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「9・日本建国の〔愛〕の理念」で解説したように、旧東鯷人国、新生日本国の女王となった伊耶那美命は国の柱を〔愛〕と定めて、人民に熱心に〔愛〕を尊ぶように説いた。

◆中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と『新唐書(しんとうじょ)』日本伝にある「小国の日本が倭国の地をあわした」という文は「小国・日本の軍王伊耶那岐命が千引石(ちびきのいわ)の前で倭女王の天照大御神に離縁を言い渡した後に、小国・日本と倭国を併合した大王の開化天皇である」と説明するものである。
 この千引石の前における伊耶那岐命の絶妻(ぜっさい)の誓いは、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話の末部に記載されている。「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」にて伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の現代語訳したので、参照していただきたい。

◆中国の正史『後漢書』倭伝末部の記事を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
 ――呉の会稽(かいけい)の海外に、東鯷人国がある。分かれて二十余国となる。また、この二十余国は夷州と澶洲の二つに大きく分かれる。昔から「秦の始皇帝(紀元前246~同210年在位)が方士(天文地理学者)の徐福(じょふく)を遣(つか)わし、徐福は童男女(青年と乙女)数千人を率いて大海に入り、蓬莱の神仙の不老長寿の霊薬を手に入れてくるように徐福に命じたが探すことができなかった。徐福は死刑を畏(おそ)れて帰還せず、ついにこの洲に定住した」と伝承される。徐福とともに洲にとどまった青年男女たちの血は互いに受け継がれ、今日(3世紀)では数万家となる。東鯷人国の人民は定期的に呉の会稽港に到着して交易をする。中国の会稽の東冶の県人が海に入って暴風に遭遇して漂流して澶洲に到着した者がいる。しかし、東鯷人国は遥かに遠くに所在し、その大海の道は途中で絶えてしまって、東鯷人たちには往来できても中国の人々には往来することができない。
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◆B図に示す[](天頂緯度線と子午線)をキャッチできれば、大海を渡ることができた。しかし、中国では紀元前1世紀に天の北極を最も重視するシナ天文学が完成した。このため、紀元前3世紀に徐福一行が日本列島に渡ることができた〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕は、3世紀になると中国では廃(すた)れていた。したがって、〔玄〕をキャッチできなかった呉の遠征軍は台湾→与那国島→石垣島→宮古島までは到着できても、宮古島から硫黄島までの約1,650㎞も隔たる広大な太平洋に入ると、位置と方角がまったく不明となったために8割から9割の兵士たちは海の藻屑(もくず)と化して落命した。これゆえ、呉の遠征軍は広大な太平洋を渡れず壊滅した。

◆呉の遠征軍が到着できなかった旧東鯷人国、女王伊耶那美命と軍王伊耶那岐命が赴任した新生小国・日本の範囲は、C図に示す『万葉集』巻二十の4321番から4436ばんまでの116首の防人歌(さきもりうた)の作者の出身国で表示された(ただし、C図左下の遠江は倭国に属した不呼国であった)
 日本軍は、徐福一行が[]をキャッチして日本列島に移住できたから呉の遠征軍も必ず[]をキャッチできるちがいないと判断して、必ず南の海上に呉軍があらわれて襲撃してくると考えていた。これゆえ、D図に示す東海道・関東地方の海岸地域が呉軍との戦場となると考えて、日本軍は防衛の陣容をかためていた。
 『日本書紀』神武天皇紀には「伊耶那岐命が『日本国は浦安(うらやす)の磯輪上(しわかみ)の細戈(くわしほこ)の袍図莽国(ほつまのくに)』と言った」と書く記事がある。
 D図に示すように、日本軍が防衛する磯は輪の形となる駿河湾・相模湾・東京湾の三つの輪が連なり、この輪の形をした磯に呉軍は上陸し、また日本の軍王伊耶那岐命は〔南の海を上・陸地を下〕にして防衛戦略を組み立てるものであったので「磯輪上」となった。
 「細戈の千足る」は「勇猛果敢な精兵が多く十分にそろっている」と意味する。
 呉軍は日本国(東鯷人国)の首都を目指して、東か西に進路を決める。その呉の船団が決めた進路は、神奈川県の地から相()える。ゆえに、「呉の船団が進む模様(様子)を相る」を略して「神奈川県」の旧国名は「相模(さがみ)」となったと考えられる。呉の船団が東に首都があると判断して浦賀水道から東京湾へと進入すれば、隠れ潜んでいた日本軍の船団が狭い浦賀水道に何重にも列を作って並べば東京湾を閉じることができる。日本軍の船団が浦賀水道を閉じてしまえば、呉の船団は“袋の中のネズミ”となるので日本軍は有利に戦える。それゆえ、東京湾の西海岸地域に多数の武士(ますらお)を蔵(かく)して配備した(『説文解字』は[]の字源を「匿(かく)すなり」と解説する)。よって、この地域は武士の[][]とで「武蔵」(現在の東京都・埼玉県と神奈川県北東部)という地名になったと思われる。

◆しかし、『後漢書』倭伝が「秦の始皇帝は徐福に蓬莱の神仙(の霊薬)を得るように命令した」と記述するように、昔から中国では“東鯷人国は蓬莱の神仙郷が所在する地”であると伝えられていた。ゆえに、呉の船団は蓬莱の神仙郷へ目指すと考えられるので、富士山を目標にして駿河湾へ進入する可能性のほうが高い。「蓬莱の神仙」は「空高く隆起した、仙人が住む美しい山」であるゆえ、日本国の海岸線よりはるか遠くの伊豆諸島から「蓬莱の神仙」にふさわしい〔富士山〕が眺望できる。ゆえに、呉の船団は駿河湾を北上し、伊豆半島の付け根にある静岡県東部の沼津市の海岸地帯へ上陸する可能性が大となる。
 現在は地名だけ残っているが、3世紀当時、三島市西部・沼津市・富士市東部の海岸寄りの地域一帯は、D図に示す「浮島沼(うきしまぬま)(「浮島原」ともいう)と呼ばれた湖底や湖岸が沼地で占められる葦が群生する湖であった。この旧浮島沼の南側の一角は駿河湾に出入りできる湖口となっており、呉の船団が進入する湖口は浦賀水道よりも狭かった。これゆえ、東京湾よりさらに増して容易に呉軍を“袋の中のネズミ”にすることができた。浮島沼のどこが深くどこが浅くまたどこが沼地になっているか、日本軍は勝手を知った地の利を得て戦うことができた。ゆえに、呉の巨大な遠征船を沼地へ追い込んで立ち往生させた日本軍の船団が雨霰(あめあられ)のごとく矢を一斉射撃することも、あるいは火矢を放って呉船を次から次へと火炎の餌食にすることができた。このように、旧浮島沼は呉の船団を“袋の中のネズミ”にすることができる完璧に近い〔袋〕の形になっていた。
 これゆえ、伊耶那岐命は浮島沼の東方の現在の三島市に本陣を設け、呉軍との浮島沼の決戦にそなえた。ゆえに、三島市には三嶋大社が所在し、富士宮市の富士浅間神社より格上の伊豆の一の宮となり「大社」と称された。[][]の初文であるゆえ、もしかしたならば「伊豆」という地名は「伊耶那岐命は日本軍の頭領であった」の略称かもしれない。

◆湖口が狭く防衛範囲が少ない浮島沼のほうが東京湾よりも日本軍は有利に戦うことができる。だから、浮島沼の東岸に日本国の軍王伊耶那岐命は居住した。
 もしも東京湾側に都があると判断した呉の船団が進入する場合にもそなえて、浮島沼の湖口よりも広い浦賀水道と広い面積の東京湾には多くの武士()たちを蔵する作戦を立てたので「武蔵」という地名が生まれたのである。
 E図に示すように、伊豆半島の南端は石廊崎(いろうざき)である。石廊崎は岩窟が自然の砦のようになっており、見張りが伊豆諸島を北上してくる呉の船団をいち早くキャッチできる。遠くはるかかなたの海上にあらわれる呉の船団の影をとらえれば、見張りは“敵、来襲!”と知らせる狼煙(のろし)を上げると、日本軍はいち早く戦闘体勢に入ることができる。呉の船団が伊豆半島に近づいて駿河湾を北上する様子をキャッチすれば、狼煙で知らせることはできないが各所に配備される伝令が草原を全速力で疾走するイヌやオオカミのごとく駈けてリレーして軍事拠点に伝えれば、日本軍は呉の船団を浮島沼へと誘導する作戦配備につくことができる。また、伝令の報告は東京湾を防衛する陣営にも伝わり、兵士たちは一斉にイヌやオオカミのごとく走って武蔵から浮島沼へ駈けつけるので日本軍の兵士たちは浮島沼に多数集結できる。あるいは、呉の船団が東京湾へと向かえば、大将の伊耶那岐命と浮島沼軍の兵士たちは多数の兵士(武士)たちが戦って時間稼ぎするその数日間にイヌやオオカミのごとく走って東京湾へ到着することができる。
 このように、日本国は浮島沼と東京湾の[]つまり「衣の中に包む」言いかえると“袋の中のネズミ”にする[](はかりごと╱作戦)を立てる、[]の字が「イヌやオオカミのように草原を疾走する」と意味するところの精兵を具備する国であった。ゆえに、D図に示すように、伊耶那岐命は「日本国は磯輪上の細戈の千足る袍図莽国」と表現したのである。

◆E図に示すように、浮島沼の北側は壁のように続く愛鷹山(あしたかやま)の山麓地帯である。この愛鷹山の標高160mくらいの中腹からは、駿河湾を北上してくる呉の船団を目撃することができる。
 1978年に静岡県沼津市教育委員会によって発掘調査されて、愛鷹山の中腹の3つの尾根から84軒の竪穴住居趾が発見された。この住居趾は「八兵衛洞(はちべえぼら)遺跡」と名づけられた。この遺跡は伊耶那美命・伊耶那岐命が生存した3世紀の集落遺跡である。愛鷹山麓の高所には伊耶那美命・伊耶那岐命が生存した3世紀の集落遺跡が多数存在するが、なぜこのような農地とならない生産性の低い高地に短期間しか使用されなかった大規模の集落群が存在することになったのか謎とされる。つまり、この高地集落群は呉の遠征軍は必ず来襲してくると予想した日本軍が迎え撃つ軍事施設であったのである。
 伊耶那美命と伊耶那岐命が日本国に赴任したのは多分234年ころであったであろう。『魏志倭人伝』は「247(魏の正始8年)、載斯烏越・伊耶那岐命は倭の使節団の長官となって帯方郡政庁を訪問した」と記述するので、伊耶那美命は245年ころに小国・日本を去って、邪馬(やま)国・大和に居住して倭女王に即位していたことになる。
 ゆえに、愛鷹山の中腹に多数分布する軍事施設は10年間くらいの短期間しか使用されず、呉軍は[]をキャッチできなかったので戦闘が一度も無かった集落群となった。ゆえに、日本国誕生史の秘密を解明するに重大な遺跡でありながら、謎深い遺跡となったのである。
 また、E図に示す浮島沼の低湿地帯には伊耶那岐命・伊耶那美命が生存した3世紀の竪穴住居41軒、高床倉庫(掘立柱の建物)3棟、湧水構(井戸?)、溝、多数の土坑の中規模の集落遺跡が発掘されている。この遺跡は「雌鹿塚(めがづか)遺跡」と名づけられた。この雌鹿塚遺跡は駿河湾を北上する呉の船団を見張るための軍事集落であったと考えられる。この他にも浮島沼の低湿地帯から3世紀に属する軍事集落と思われる遺跡が沼津市教育委員会によって幾つか発掘されている。

◆「浮島沼」の[]は「船が浮かぶ」と言う時に用いられ、淤(どろ)の湖の浮島沼は呉軍の船を転覆させて日本軍が勝利するための決戦場であった。北岸(旧江戸・東京の海岸地帯)が淤の干潟となる東京湾も呉軍の船を転覆させて日本軍が勝利するための決戦場であった。
 「転覆する」は「碁呂、すなわち180度転回させる」と解釈できる。だから、日本軍が有利に戦う作戦を立てた浮島沼と東京湾は「淤能碁呂島」と称されたのである。
 A図上図に示した「船を覆せた形」の播磨平野一帯は、淤の地ではなかった。
 『古事記』下巻の仁徳天皇紀における仁徳天皇が作った「淤能碁呂島」が登場する和歌は、A図下図の淡路島を「淤能碁呂島」と詠む。この淡路島も淤の地ではない。
 伊耶那岐命と伊耶那美命が最初に結婚した磯輪上の細戈の千足る袍図莽国は呉の船団と有利に戦える聖なる淤の浮島沼と東京湾を有する「淤能碁呂島」であったので、淡路島も「淤能碁呂島」と呼ばれることになったのである。
 A図の播磨平野と淡路島は「船の覆せた形」に見立てられた。だから、「碁呂」という語は「船を転覆させる」と解釈できることになるので、浮島沼は駿河湾から見たときに「180度転回した、呉の船が転覆する形」に見立てられていたにちがいない。

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2013年7月21日 (日)

7・[玄]のキャッチ

●【[玄]のキャッチ】

 [玄]のキャッチ=[易]である。([易]については【用語の解説】の「6」を参照)
 ゆえに、【[玄]のキャッチ】は「天頂緯度線と子午線のキャッチ」を意味する。

★A図に示す〔天頂点を通過する銀河部〕は1日24時間より約4分短い、23時間56分で一周する。これを、秒数にすると86,160秒となる。
★B図に示すように、〔86,160秒のうちの4~6秒間の天頂点の西から東への天頂点を通過する銀河部位の軌道は平らな横一直線〕となる。この「4~6秒間でキャッチする天頂緯度線と子午線」が[玄]の字(字源・字形・字義)となる。
 [玄]の上は[亠とう]である。[亠]の下の[一]は、B図に示す「天頂緯度線」、[短い縦線]は「天頂点とその真北または真南にある目星(銀河部位・恒星)を結ぶ子午線」をあらわす。
 

◆字書の聖典『説文解字』は[玄]の字源を「幽遠なり」、「黒にして赤色あるものを玄と為す、幽に象り、入はこれを覆おほふなり」と解説する。
 [玄]の天頂緯度線は幽かすかな線であり、B図に示すように遥か遠くの天頂にあるので、「幽遠なり」と解説された。「黒にして赤色あるものは玄と為す」という解説は、【用語の解説】の「5・漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕」の聖獣となる「ジャコウウシの全身を覆う毛足の長い防寒具・コートとなる黒にして赤色の暗褐色の毛(ウール)」のことである。
★C図に示すように、三皇時代初頭の半坡はんぱ遺跡と五帝時代初頭の黄帝陵と華南地方の太湖南岸の天頂に「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」が通過し、この両銀河はD図の『説文解字』が解説する[告]の字源銀河となった。

★D図に、『説文解字』の[告]の字源解説において「牛」の字源となった「ジャコウウシの横顔に似る銀河」を示した。
 『説文解字』は[告]の字源を「牛、人に触れる。角に横木を著く。人に告ぐる所以ゆえんなり」と解説する。この字源解説する「牛」は「ジャコウウシの横顔に似る銀河」である。「人」は「人の横顔に酷似する銀河」、「角」は「牛・ジャコウウシの角」、「横木」は「十字の銀河」である。
◆『説文解字』の[玄]の「入はこれを覆ふなり」という解説は、E図の銅鐸のようなもの(道具や器具)で「視界の中に明るい光が入らないように覆う」と意味する。
 人間の目は、自動露出カメラのごとく、本人の意志にかかわりなく、明るさに応じて絞りが働いて瞳孔の直径が2mm~7mmくらいまで縮小・拡大する。ゆえに視界の中に入らないようにすると、視界の周りの暗闇によって瞳孔径が最大に拡大して、遠くにある幽かな天頂緯度線が見えるようになる。
◆私は『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作成された丁度1千万坪の「卑弥呼」の地上絵(静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する)から出土した滝峯鐸の原寸大の銅板製の模造鐸を、静岡県沼津市の渡辺板金所の主人(渡辺進一氏)に依頼して、1987年に作製していただいた。
◆この模造鐸の実験(実体験)によって、銅鐸は『説文解字』が「入はこれを覆うなり」と解説する、[玄]をキャッチするための道具であることがわかった。つまり、滝峯鐸は――鐸身の中に頭を入れて明るい光を遮断して真っ暗闇にして瞳孔径を最大にし、舞孔まいこうから厚さが3mmくらいの鈕ちゅうの板がつくる細線が最も極細線をキャッチしたときにおのずと鐸身は垂直に立つように作られている。この〔極細線〕を〔天頂緯度線〕に重ねて一致させると、鈕の頂部にある「渦巻状双耳うずまきじょうそうじ」は矢を射当てる〔的のごとき同心円の紋様〕となり、この〔的の文様の中心〕が〔天頂点〕と重なって精密に子午線がキャッチできる仕組みになっている。
 〔的の文様の中心〕が〔天頂点〕とぴったりと重なると、[亠]・[玄]の字源となる〔天頂緯度線と天頂点〕は〔鈕影ちゅうえいとなる極細線と的の文様の中心〕とぴったりと一体化する。だから、[玄]の字源である「天頂緯度線と天頂点」と一体化する「極細線の鈕影と的の紋様の中心」もまた[玄]となる。
 

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8・千引の石とごとびき岩

●【千引ちびきの石いわとごとびき岩】

◆和歌山県新宮市磐盾いわたて町に所在する神倉かんのくら神社の社殿を覆うようにある巨石が、【千引の石】であるととに【ことびき岩】である。
★「千引の石」という名は「神倉神社の主神として祀られる天照大御神が日本建国の〔愛〕の理念に祟たたると誓った所に在る巨石」とあらわすことになる。
★「ごとびき岩」は「伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を、伊耶那岐命が継承すると決意を示した所に在る岩」と意味することになる。

◆小国・日本の軍王いくさのおおきみの伊耶那岐命の正妃であった倭女王・伊耶那美命が死去すると、伊耶那岐命の第二后である天照大御神が倭女王に即位した。強大な権力を重視する天照大御神は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を憎悪し、強大な国家権力の基に多数の若者と乙女を殺して伊耶那美命の墓に埋葬する徇葬じゅんそうを決行した。この徇葬墓は、熊野本宮大社の旧社地の大斎原おおゆのはらである。
◆天照大御神は皇室と国家の権力の強大化をはかって大和朝廷の基礎を築いた。ゆえに、天武・持統の両天皇は天照大御神を皇室が最も崇拝する至上神・皇祖と定めた。
 『古事記』編纂スタッフは、皇祖・天照大御神が徇葬を決行した事績を『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国よみのくに訪問説話に記述した。編纂スタッフは自分たちが敬愛する「伊耶那美命」の名を用いて、「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」と解釈できる〔反実仮装はんじつかそう〕つまり〔事実に反する虚偽の記述で真実を伝える表現方法〕で天照大御神が徇葬を決行し日本建国の〔愛〕の理念を憎悪したと表現した。この方法ならば皇室が欲求する天照大御神の聖性を汚さず伊耶那美命を侮辱することになるので、天皇は献呈を承認して『古事記』は正史になるかもしれない可能性に賭けた。しかし、編纂スタッフの企みは見破られて、『古事記』は皇室と律令体制に刃向かう反逆の史書となった。

◆『古事記』上巻の作成目的は、後世に伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を伝えることであった。(㊟ 【用語の解説】の「9」は「日本建国の〔愛〕の理念」である)。
 『古事記』上巻の作成目的となった日本建国の〔愛〕の理念は、伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部にて、下記のごとく表示された。
 ――伊耶那美命は千引の石の前で天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)に離縁を言い渡した。すると、天照大御神は「汝いましの国の人草ひとくさ、一日に千頭ちがしらくびり殺さむ」と呪い祟った。この天照大御神の誓いは「〔愛〕の理念を尊重する日本国の人民の母親の産道が狭くなるように呪って、一日に千人の胎児の頭を狭い産道で絞め殺す」と意味した。この天照大御神の誓いに対抗して、伊耶那岐命は「吾あれ一日に千五百の産屋立てむ」と宣誓し、伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を人民が最も尊重して、一日に天照大御神の祟りに優る千五百人の子どもが生まれる政事をおこなうと決意を表明した。

◆天照大御神は「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓ったゆえ、この誓いがおこなわれた場所に在る巨石の名は「千頭」の[千]の字が付く「千引の石」となった。
◆千引の石は地上60メートルの絶壁にそそりたつ。ゆえに、A図に示す[蛙]の字源となる「鬼の姿に似る銀河」は夜空高くそそり立って存在するゆえ、古来より日本に生息する最大のカエルの「ごとびき」すなわち「ヒキガエル」に見立てられた。伊耶那岐命を祀る速玉大社にて「鬼の姿に似る銀河」が子午線通過するとき、速玉大社からごとびき岩がる西南の方角に、B図に示す巨大な「オタマジャクシに似る銀河」がめぐってきた。オタマジャクシはヒキガエルの子であり、ヒキガエルの一匹のメスは長いひも状のゼリー質に包んで2000~8000個の卵を産む。ゆえに、伊耶那岐命の「吾一日に千五百の産屋立てむ」という宣誓は「ごとびき(ヒキガエル)」で象徴されることになり、神倉山の巨石は「ごとびき岩」と呼称されるようになったのである。

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9・日本建国の〔愛〕の理念

●【日本建国の〔愛〕の理念)】

◆『万葉集』と書名は『日本書紀』の天平8年(736)11月11日の箇所にある橘氏の賜姓しせいに関する上表文に記された「歳に窮きわみなく、千に相伝へむことを」という文から定められた。この〔万葉(万代)まで先人たちが伝えようとした、日本人が失ってはならない最も重大なもの〕は【日本建国の〔愛〕の理念】だったのである。
◆日本建国の〔愛〕の理念は、『万葉集』最終巻の巻二十に収められる東国の防人さきもりたちが作った4321番から4436番までの116首の和歌で具体的に表示された。
 この116首のうちの110首(95%)ぐらいは、妻子や両親や恋人を思い気づかう愛の和歌である。つまり、これら95%の和歌は、東国の防人たちが小国・日本の女王伊耶那美命が国作りの柱にして人民に熱心に説いた〔愛〕の理念をまもって、妻や子どもや両親や兄弟姉妹や恋人のために兵役につとめていたと示すものとなる。
 116首のうちの4370番の「霰あられ降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍士すめらみいくさ 我は来にしを〔鹿島の神に祈りつづけて、天皇の兵士として、おれは来たのだ〕」と、4373番の「今日けふよりは かへりみなくて 大君おほきみの 醜しこのみ楯たてと 出で立つわれは〔今日からは、故郷を振り返らないで、大君のつたない護りとして、行くのだおれは〕」の2首だけが、天皇への尊敬を示す。天皇への尊敬を示す2首と圧倒的に多い110首の〔愛〕を詠む和歌をもって、日本は〔愛〕の理念を高々とかかげて建国されたと示す。
◆A図は、巻二十の防人歌の作者たちの出身地をあらわす。
 A図に示す防人たちの出身国は、『後漢書ごかんじょ』倭伝に記載された「東鯷人国とうていじんこく」であった。東鯷人国は、『魏志倭人伝』に列記される卑弥呼が統治する倭国に属する最後の33番目国の黒歯国こくしこくの次に、倭国に属することになった。『魏志倭人伝』の末部に登場する13歳の壱与いよが女王として東鯷人国に赴任して、小国・日本が誕生した。壱与は夏音名(夏音文字の名)、彼女は人民に敬愛されて「伊耶那美命」と呼ばれた。本名は「竹野比売たかのひめ」で第9代開化天皇の正妃である。
 したがって、開化天皇は若き日に「伊耶那岐命」と愛称され、彼の夏音名は『魏志倭人伝』末部に記載される「載斯烏越そしあお」、小国・日本の軍王いくさのおおきみであった。
◆『古事記』『日本書紀』そして『万葉集』が作成された万葉時代の防人たちは、A図の旧東鯷人国・小国日本の地に住む人々が徴発ちょうはつされた。彼らは故郷から遠い筑紫・壱岐・対馬と北九州の守備に当たった。なにゆえ、筑紫・壱岐・対馬に近い西国の人々が防人の兵役につとめずに、遠い東国の人々が防人として徴発されたからといえば――【用語の解説】の「8・千引の石とごとびき岩」にて説明したように、万葉時代の皇室と律令体制の至上神・皇祖天照大御神が千引きの石の前で「汝いましの国の人草ひとくさ、一日に千頭ちがしらくびり殺さむ」と誓ったからである。A図に示す東国は天照大御神が「汝の国」と呼ぶ国であったゆえ、天照大御神の祟たたりにもとづき東国の人々が防人の任務につくことになった。
◆中国の正史『旧唐書くとうじょ』倭国日本伝の「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるをもって、ゆえに日本をもって名となす云々」という記述と、正史『新唐書しんとうじょ』日本伝の「倭の名を悪にくみ、あらためて日本と号す。使者自ら言う、国出ずる所に近し、ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭のあわす所となる云々」と記述する日本国を日本地図上に示すとB図となり、B図はA図と合致する。
 A図の東国が日本国、A図より西方の西日本が倭国であった。
 小国・日本は〔愛〕を掲げて建国されたゆえ、702年に中国に渡った遣唐使は「日本国は倭国の別種なり」と説明した。また倭国は卑弥呼と伊耶那美命が死去したときに多数の若者と乙女たちを殺害して国家繁栄の犠牲いけにえにする残酷な徇葬を決行したので、遣唐使は「倭の名を憎む」と説明した。小国・日本の軍王であった伊耶那岐命・後の開化天皇が小国日本と大国倭を併合したので、遣唐使は「日本はすなわち小国、倭のあわす所となる」と中国王朝に説明したのである。 

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2013年7月19日 (金)

6・易

●【易えき

◆[易]とは「大海を渡る時または遠くの地に旅する時、精密に天頂緯度と子午線をキャッチして、家族が待つ家に帰る術」のことである。

◆国家が樹立されなかった時代や国家による道路の整備が未熟であった古代、〔天の北極〕の高度で緯度換算し方位を計測すると、不精確であったので大海を渡る人々と遠くの地に行く旅人は迷って途中で命が絶え、家族が待つ家に帰還することができなかった。
 これゆえ、A図に示すいろいろな道具で〔4~6秒ぐらいで天頂緯度線をキャッチし、天頂点の真南または真北にある目星(銀河部位・恒星・小さな黒点)などをキャッチできる眼力と技わざを鍛錬する、すなわち【易】の術の感覚を研ぎ澄ます習慣〕が栄えた。

◆〔天頂緯度線と天頂点をキャッチするときのポーズ〕は、B図に示すように〔妊婦のごとくおなかをつきだして天頂を仰ぐもの〕となった。
 これゆえ、【用語の解説】の「5・漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕」の〔すべての文字を生む母体〕となった「十字の銀河」は妊婦の姿に観え、しかも紀元前4000年ころの三皇時代から紀元前206年の秦代末まで中国大陸の天頂にめぐってきたので、【易】の術の天頂点を示す基準ものさしとなった。つまり、中国各地の天頂点と重なる「十字の銀河の北から南までの各部位」は〔中国各地の天頂緯度の相違を示す目盛〕となった。

◆『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究社)のおける「緯度の測定」と題する文章は下記のごとく指摘する。ただし、この文中の「北極」は「天の北極」のことである。
 「緯度は北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の北極からのかたよりが計算できるので、北極の高度に換算できる。もっとも精密に測る方法は、子午線経過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」

 したがって、天の北極の高度で緯度換算する方法は天頂で緯度測定する方法より不精確であり、また天の北極の高度で緯度換算する方法の場合は、上記の説明が「時刻が決まれば」という条件を付けているように、今日のような精確に時刻を示す時計が必要となった。しかし、古代には今日のように精確な時刻を表示する時計が発明されていなかったので、天の北極の高度で緯度を換算して自分のいる位置を測量するとかなり不精確となった。それゆえ、天の北極を基準にする方法の場合、遠くの地に旅する人々や大海を渡る人々は道に迷って命を落として家族が待つ家に帰ってくることができなかった。
 A図に示す道具で「天頂緯度線と天頂点の真南または真北にある目星を結ぶ子午線のキャッチする術」が、これが【易】である。
 だから、【易】は上記の「子午線経過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測って手に入れる天頂緯度線の測定」と説明する面倒くさい手間を省き、「直に天頂緯度線そのものを測定する方法」であるので精密に緯度が測量できたことになる。

◆C図の歳差状況図に示すように、ほとんどの時代、北極星は天の北極から遠く離れていたので「点」としてとらえることができない真っ暗闇であった。現在の天の北極に重なるように接近する北極星(こぐま座α星)は、天の北極の位置を示す「点」となる極めて特殊な北極星である。しかし、古代のほとんどの時代、北極星は天の北極は遠く隔たり、天の北極は「点」としてとらえることができない闇空であった。ゆえに、このような天の北極を基準にして緯度換算する方法で大海を渡る人や遠くの地に旅する人は道に迷い死に絶え、家族が待つ家へ帰還することができなかった。

◆〔【易】の術〕を言い換えると〔[玄]のキャッチ〕となる。
 次の【用語の解説】の「7」は【[玄]のキャッチ】である。ゆえに、この「6・易」に続き、「7・[玄]のキャッチ」においても【易】の術を解説することになる。
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5・漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕

●【漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕】

◆要するに、〔鳥獣の足跡〕は漢字作成原理の名称である。

◆紀元前3000年ころに生存した五帝時代初頭の黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡そうきつは“漢字の始祖”と崇拝された。
 「倉頡が始めて文字を考案した」と伝える倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」を、学者たちは「文字を考案するヒントとなった鳥と獣の足跡」と思いこむ。
 しかし、「鳥獣の足跡」は倉頡が発明した漢字作成原理の名称である。
◆中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』繋辞下伝けいじげでんは、漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を「鳥獣の文」と記載する。
◆黄帝は東洋最古の医学書『内経』を作ったと伝わる。
 この[内]・[経]の2字は「女性の生殖器と人体内臓」をあらわすものと考えられるゆえ、黄帝は女性の生殖器を中心とする人体内臓を研究したにちがいない。
 三皇時代には、女性の生殖器と人体内臓をあらわす文字が作成されていなかった。この文字を作成する役職が、記録官の倉頡であった。

◆当時、A図に示す「十字の銀河」が中国全土を包みこんで、中国各地の天頂にめぐってきた。A図に示すごとく「十字の銀河」は〔乳房〕と〔子宮(生殖器〕に相当する箇所を有する女体に相似する。
 ゆえに、倉頡は「十字の銀河」を〔文字を生む母〕、「十字の銀河の子宮」を〔銀河各部の形状から作られたすべての文字が生まれる子宮〕と定めた――ゆえに、〔鳥獣の足跡〕は倉頡が発明した漢字作成原理の名称である。
◆B図に示すように、「十字の銀河」は[文]の字(字源・字形・字義)となったので、『易経』繋辞下伝は漢字作成原理を「鳥獣の文」と記した。
◆C図に示す〔女性の生殖器〕の側身形は〔水鳥の姿〕に相似する。
◆D図に示す出産第2期の娩出期べんしゅつきの子宮の形は〔フタコブラクダ〕の〔フタコブ〕に相似し、第7週の胎児の両目はフタコブラクダの両目に相似して顔の両端にある。
◆E図に示す〔第5週はじめごろの胎児の姿〕は〔ジャコウウシの姿〕に相似すると見立てられた。天敵のオオカミに襲われると、ジャコウウシは子どもを真ん中にかくして円陣をつくってオオカミに立ち向う。女性の生殖器の大部分は、骨盤に包まれて収まっている。ゆえに、〔真ん中にかくす子ども〕を〔胎児が宿る子宮〕に見立てると、〔ジャコウウシの円陣〕は〔女性の生殖器を中心にかくしてまもる骨盤〕に見立てられた。
 司馬遷しばせん著『史記』五帝本紀(第一)が「黄帝の遠征軍は駐屯するとき、ぐるりに軍兵をめぐらして自衛した」と記述する。このように、黄帝軍はジャコウウウシの円陣を真似して駐屯していたことになる。
◆ゆえに、「ジャコウウシ」と「フタコブラクダ」は漢字作成原理を象徴する聖なる獣となった。
 C図に示すように〔女性生殖器の側身形〕が〔鳥の姿〕に相似し、漢字作成原理を象徴する〔ジャコウウシとフタコブラクダ〕の〔獣〕で――〔鳥獣〕となる。
 A図に示すように、「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足」と重なり、この「十字の銀河の右足」は東に向かって歩く人の〔足跡〕が連想できる。
 さらに、「十字の銀河の右足」の隣に「夏の銀河」が連なる。この「夏の銀河」を「足跡」と表現することによって、文字が作られた銀河の全範囲「秋の銀河と夏の銀河」が表示できる。
 だから、漢字作成原理の名は「鳥獣の足跡」となったのである。
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4・倉頡が死刑と定めた3つの掟

●【倉頡そうきつが死刑と定めた3つの掟】

◆先人たちが“漢字の始祖”と崇拝した倉頡は、紀元前3000年ころの五帝時代初頭の黄帝につかえた史官(記録官)である。
 倉頡は漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕(【用語の解説】の「5」を参照)を発明して、【用語の解説】の「2」で指摘した「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」を万物の情(イメージ)に類似するように図案すれば多数の漢字(すべての漢字の字源を知ることができる1400字前後の基本字)が作成できるようにした。

◆倉頡は自らが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法でであることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学識を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると考えた。
 ゆえに、倉頡は下に列記する3つの掟を破った人物には神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めた。

●倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1) 秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から文字が作られたことを暴露した者
(2) 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3) 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

◆上記の(3)の掟は、今から約3300年前に出現した殷代いんだい後半の契文けいぶん(甲骨文字)によって破られた。しかし、契文は(1)と(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって〔文字が銀河から作られた秘密〕は現在においても解明されず、(2)の掟によって〔銀河各部の名称〕は存在しない。
 銀河各部の形状より不鮮明な形を有する〔星座の名称〕は存在するが、〔銀河各部の名称〕は世界中探しても存在しない。これゆえ、わがブログ「卑弥呼の逆襲」における、銀河各部の名称は私が付けたものである。

★漢字が起源した中国において、(3)の掟が厳重にまもられたために――紀元前3000年から紀元前2070年までの五帝時代の遺跡から、また紀元前2070年から紀元前1600年までの夏代かだいの遺跡から、また紀元前1600年から紀元前1300年までの殷代前半期の遺跡から、学者たちが「文字」と定義した図書や記号は現在まで1点も出土していない。
★2003年~2006年、中国の浙江省の荘橋墳遺跡から出土した6つの図書・記号は、中国の学者たちによって「文字」と認められた。この原始漢字は約5000年以上前のものであるゆえ、「三皇時代の文字」ということになる。
★倉頡が生存した時より以前となる紀元前4000年から紀元前3000年までの三皇時代の遺跡から120種余の図書と記号が発掘されている。これらの図書・記号は契文と周代に出現した金文を参考にして、現在においてほとんどの図書・記号の意味が解読されている。ただし、これらの図書・記号は1個の陶器の破片に1個の図書・記号が刻まれて、複数個の図書・記号が同一の破片上に刻まれたものは1例も発見されていない。ゆえに、学界は“文字ではない”と定めて、「陶文とうぶん」と呼ぶ。
★紀元前1300年より以降の殷代後半期の遺跡から出土した契文(甲骨文字)が刻まれる亀の甲羅や獣の骨の破片は中国科学院が編纂した『甲骨文合集』に4万点が著録されている。この4万片から解読された文字は1723字、解読されていない未釈異体の字は2949字、合計4672字も存在する。

◆以上のごとく、三皇時代の陶文が遺跡から120種余も出土し、殷代後半の契文が合計4672字も遺跡から発掘されたにもかかわらず、三皇時代初頭から殷代後半初頭の中間となる五帝時代・夏代・殷代前半の遺跡から「文字」と定義される遺物が1点も出土していない。この秘密は――この時代において、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のうちの「(3)の掟を破った者は必ず神に罰せられる」という戒いましめは絶対に事実であると信じられていたことになる。 

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2013年7月18日 (木)

3・夏音文字

●【夏音文字かおんもじ

◆中国の夏代かだいは、紀元前2070年~紀元前1600年である。
 フリー百科事典『ウィキペディア』の「夏(三代)」は、「夏代の文字」を「夏文字」と呼ぶ。しかし、中国の正史『新唐書しんとうじょ』日本伝は――『古事記』が完成した10年前の702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍夏音のち・やや・かおんを習う」すなわち「壬申の乱の後、稍々夏音文字を復興することになった」と中国王朝に告げた――と記述する。
 ゆえに、わが国は「夏文字」を「夏音文字」と呼称した。
 『ウィキペディア』の「夏(三代」」の【夏文字(夏音文字)」】の仮説は全面的に誤っている。ゆえに、中国において【夏文字(夏音文字」】はまったく不明ということになる。

◆【夏音文字(夏文字)】は実在する。
 下記に示すように、『魏志倭人伝』の「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む、これは夏音文字の字音である。また、『古事記』序末部に記載される「玖沙訶」を「クサカ」、「多羅斯」を「タラシ」と読む字音はじめ、『古事記』上巻の随所に〔音」という注が付く1字1音読みは702年の日本国の遣唐使が中国王朝に「夏音文字(夏文字)が、わが国に実在した」と告げた――この夏音文字の字音を今日に伝えるものとなる。
 下記に記述するように、夏音文字はわが国には今から約4050年前(紀元前2050年頃」に伝来した。
 わがブログサイト「卑弥呼の逆襲:日本は滅びる」は1回~100回を超えて、毎回、毎回くりかえしてわが国に夏音文字が実在した証明を【科学】を優先して立証する。
 【科学】に則って立証すると、わが国には下記にて指摘する大湯環状列石おおゆかんじょうれっせきや“「卑弥呼」の地上絵”はじめ彦根の「夏音文字の学芸は未だ習わず」と設計する3千万坪の大鳥の地上絵・京都市に所在する桂離宮の庭園・京都市に所在する竜安寺の石庭など、これらは夏音文字が実在したと証明できる史跡となる。また、大嘗会だいじょうえ における天皇即位式に用いられる王冠・菅蓋かんがいは夏音文字がわが国に実在したと伝える資料となる。
 天照大御神を皇祖とする朝廷・天皇の起源と政権基盤は夏音文字の学芸であった。
 また、日本の文字(漢字)と言語の基礎は夏音文字であり、日本の学術は夏音文字の学芸から起源した。
 だから、中国で不明となった夏音文字(夏文字)は、わが国において【科学】を優先して究明・調査すれば、明確に実在したことが証明できる――2014年3月17日に追加補筆。

◆今から約4050年前の夏代初頭は、わが国の後期縄文時代初頭である。
 この紀元前2050年頃に、中国から原初漢字・夏音文字がわが国の東北地方の男鹿半島・米代川流域の縄文文化圏に伝来した。
 秋田県鹿角かづの市に所在する国の特別史跡・大湯環状列石おおゆかんじょうれっせきは夏代初頭(後期縄文時代初頭)に相当する。この大湯環状列石の万座遺跡と野中堂遺跡には、夏音文字の学芸が伝来した痕跡が現在も明確に残っている。

★『魏志倭人伝』の人名・小国名をあらわす文字が「夏音文字」である。
 この「夏音文字」は、【用語の解説】の「4・倉頡そうきつが死刑と定めた3つの掟」によって、「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」が「文字(字源・字形・字義)」となり、遺跡から出土されないことになった。
 なお、【用語の解説】の「1・漢字」と「2・秋の銀河と夏の銀河」を参照していただきたい。

 『魏志倭人伝』にある「倭の易における卜辞に用いる文字は令亀れいきの法の如き」という記述にある「令亀の法の如き」という文は「殷代の亀の甲羅に刻む甲骨文字(契文)の如き文字」と伝えるものであるゆえ、「倭には夏音文字があった」ことになる。
 また「倭女王卑弥呼が文書に書く文字は魏の都・帯方郡・諸韓国の文書に用いる文字と差錯ささく・相違していた」という記述もあり、この卑弥呼が文書に書いた文字は「夏音文字」であった。

★わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は「わが国の漢字音」と題して9頁末から10頁の3行目にて、下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 この〔わが国の国語として残された、最古の漢字音からなる文字〕が「夏音文字」である。

★1975年4月15日に初版第1刷発行された『日本古代史の旅[3] 邪馬台国』(小学館)の30頁にある「卑弥呼の発音について」と題する注は、下記のごとく記述する。
 ――卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば「ピミカ」になる。また魏以前の中古音で読めば「ピミエクゥオ」となる。
 「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は、中国に残っている最古の字音である上古音の「ピミカ」よりも古い。ゆえに、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名をあらわす文字は殷代の甲骨文字(契文)よりも古い原初漢字の「夏音文字」であったことになる。

★上記したように、中国の正史『新唐書しんとうじょ』日本伝には――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が中国王朝に「後稍のちやや夏音を習う」と伝えた――と説明する記述があり、この10年後の712年に『古事記』が完成した。この『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音文字で、多数の夏音文字が残され――これによって、今日のわれわれが夏音文字が実在したことを確信できるように、上記したとおりに先人たちは複数の史跡・遺跡・遺物を残した。このため、日本の学術の基盤は夏音文字の学芸であったことが解明できる。

◆以上のごとく、わが国にはいま残されている最古の漢字音の【夏音文字(夏文字)】が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載されて消滅せずに残った。
 『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作成された、現在の静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形となって、丁度1千万坪の巨大な鳥の地上絵が現存する。この大鳥の地上絵を、わたくしは“「卑弥呼」の地上絵”と呼ぶ。
 この「卑弥呼」の地上絵によって、わが国に確かに【夏音文字】が伝来したと証明され、『魏志倭人伝』の人名・小国名をあらわす文字と『古事記』上巻の〔音〕という注が付く1字1音文字は【夏音文字(夏文字)】であると科学的に証明できる。

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2・秋の銀河と夏の銀河

●【秋の銀河と夏の銀河】

 現在、はくちょう座は、夏の星座となる。
 はくちょう座の尾の部分を、私は【秋の銀河の西部】とした。
 紀元前4000年頃の三皇時代初頭(わが国の前期縄文時代初頭)、また紀元前3000年頃の五帝時代初頭(中期縄文時代初頭)、紀元前2070年の夏代初頭(後期証文時代初頭)、紀元前1600年の殷代初頭、紀元前1046年の周代初頭(晩期縄文時代初頭)、紀元前221年の秦代初頭から紀元前206年の秦代末まで、【秋の銀河の西部】と所属する私が「十字の銀河」と名づけた銀河が、中国と日本列島の天頂にめぐってきた。
 “漢字の始祖”と崇拝された倉頡そうきつは、「十字の銀河」を〔秋の銀河の西部と夏の銀河までの各部の形状を万物の情(イメージ)に類似して図案する(作る)、すべての文字(漢字)が生まれる母・母体〕と定めた――この倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」または「鳥獣の文」と呼ばれた。

 「十字の銀河」が天頂にめぐってきた時、天頂から西南の地平線に向かって巨大な銀河が聳そびえ立った。この銀河を【夏の銀河】と呼ぶ。
 この巨大な銀河に、「夏の星座」と分類される、はくちょう座、こと座、わし座、へび座、へびつかい座、いて座、さそり座などが漬かるので、「夏の銀河」と呼ばれる。
 中国や日本列島において、女体(乳房を有する妊婦や乙女の姿)に相似する「十字の銀河」が天頂を通過するとき、西南の地平線の近くに「銀河系宇宙の中心」がある。

 現在において、はくちょう座は夏の星座に分類されるので、はくちょう座の尾の部分に所在する「十字の銀河」は【夏の銀河】としてもよいかもしれない。しかし、「十字の銀河」は〔秋に収穫する禾(穀物)〕や〔楓かえで・秋の紅葉〕をあらわすゆえ、私は【秋の星座】とした。
 「十字の銀河」、その東隣にある「四つの輪の形をした銀河」は【秋の銀河の西部】となるが、「秋の銀河の東部」からは1字も文字が作られなかったので、「秋の銀河の西部」を【秋の銀河】と名づけることにした。

 【秋の銀河】とは――秋に最も長い時間見ることができる、「十字の銀河」と「四つ輪の形をした銀河」が漬かる銀河の帯――と言い換えることができる。
 したがって、【夏の銀河】は――夏に最も長い時間見ることができる、夏の星座が漬かる銀河の帯――と言うことになる。

 なお、2013年7月5日の「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・8」のブログの末部に、すべての漢字の字源を知ることができる1400字前後の基本字が作られた【秋の銀河と夏の銀河】の写真と私が考えて作ったく銀河各部の名称を掲載した。

 

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1 ・漢字

●【漢字】
 「銀河」の別称は「天漢」、「銀漢」である。ゆえに、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」となった。

 中国の70パーセントの人々はマンダリン(北京語・南京語)を話す。
 このマンダリン・中国語では「漢字」を「ハンジ」(hanzi)と読む。
 ゆえに、中国語の「漢字」が明確に示すように、「漢=中国から伝来した文字」の略称ではない。
また、もちろん「前漢時代にわが国に伝来した文字」あるいは「後漢時代にわが国に伝来した文字」の略称でもない。

 中国語の「漢字」は「銀から作られた文」の略称であると示す。
 ゆえに、「天にある銀河に多数の文字ありき」を略して「天文」という語が生まれ、「天」や「天体」は「天文」と称されることになったのである。

 なお、漢字が作られた銀河各部の全範囲は、2013年7月5日の「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・8」のブログ末部に掲載した。

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