日本国誕生史の証明

2020年11月27日 (金)

NHKテレビ・歴史秘話ヒストリアにダマされるな!

▼急遽、2020年11月25日に放送された、NHKテレビの歴史秘話ヒストリの「日本書紀神話」と題する番組は、幾人かの学者や歴史研究家たちの空理空論・捏造(ねつぞう)・歪曲(わいきょく)をNHKテレビの番組製作者たちが鵜呑(うの)みにして、国民を馬鹿にして愚弄(ぐろう)して誑(たぶら)かすデマであったのである

◆一昨日の夜(20201125日の2230)に放送されたNHKテレビの歴史秘話ヒストリアにおいては、「日本最古の歴史書は『日本書紀』であり、『日本書紀』は藤原不比等が作ったことは決まっている」と断定した。
 しかし、『日本書紀』よりも前に、『古事記』は712(和銅5)正月28日に完成して元明天皇に献上された。正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「720(養老4)5月、知太政官事(ちだいじょうかんじ/歴史局の総裁と太政大臣を兼ねる天皇に次ぐ高位の官職)の舎人親王(とねりしんのう)が『日本紀(後の「日本書紀」)』を、元正天皇に奏上した」と明記する。
 したがって、昨夜のNHKテレビの歴史秘話ヒストリアは、真っ赤なウソ・空理空論・ナンセンス・デッチあげであることがはっきりとわかる真っ赤なウソ・空理空論・ナンセンス・デッチあげを臆面(おくめん)なく垂れ流していたことになる。

 正史『続日本紀』に記述されたとおり――『日本書紀』は、舎人皇子(舎人親王)が指揮して編纂(へんさん)された。
 『日本書紀』は舎人皇子が主宰(しゅさい)して作成された――この事実は舎人皇子のドラマチックな情熱的な一生を調べればただちに明らかとなる。
 舎人皇子の幼年期の資料は『日本書紀』巻第二十八と巻第二十九の天武天皇紀・最終の巻第三十の持統天皇紀の記事が必要となり、その後の舎人皇子の様子は『続日本紀』の巻第一の文武天皇紀から巻十二の聖武天皇紀に頻繁(ひんぱん)に登場して記述されている。また、『万葉集』の様々な和歌も重要資料となる。
 舎人皇子は実父・天武天皇に捨てられて武家の名門の養父・大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじおおくに)に育てられて37歳から38歳頃まで奈良県宇陀郡榛原(はいばら)町で過ごした。ゆえに、出身地の榛原町をも調査する必要がある。
 したがって、舎人皇子の一生を知ることができる資料は豊富に存在し、上記した資料を克明(こくめい)に調査・研究すれば、NHKテレビの歴史秘話ヒストリアの「日本書紀神話」の番組は完全なる捏造・ウソ八百・荒唐無稽のデタラメであったことになる。
 舎人皇子は676(天武天皇5)に誕生し、735(天平7)1114日に死去している。享年60歳であった。
 60歳の生涯にあって37歳から38歳までの前半生は庶民として高屋(たかや/現在の奈良県宇陀郡榛原町高星)で過ごし、後半生は身分高き皇族となった。これゆえ、「舎人皇子」という名は「捨て子皇子」あるいは「庶民にして武将皇子」と意味した。このように庶民であった舎人皇子は『続日本紀』が記述するように「天武天皇の第三皇子(天武帝の多数の子であって、皇位継承順位が第三番目の皇子)」であったゆえ、42代文武天皇・43代元明天皇・44代元正天皇と同格に天皇に即位できる身分高き皇族であった。
 だから、庶民であり天皇に即位できるほど高位の皇族であった舎人皇子は、日本国民に人気があるヒーローの織田信長や坂本龍馬と肩を並べるほどのヒーロー中のヒーローであるはずであるが、なぜか学者はじめ小説家の誰一人も偉大なるヒーロー・きわめてドラマチックな人生を送った舎人皇子について注目せずまったく研究されていない。
 ただし、女流作家の永井路子氏が『美貌の女帝』という書名の小説を著述したが、ヒロインの元正天皇の恋人を長屋王とした。しかし、美貌の女帝・元正帝が一途に愛して一生独身を貫いた相手は舎人皇子であった。これゆえ、永井路子氏はさらに大傑作になったにちがいない万葉の一大ロマン・元正帝と舎人皇子の愛情物語を著述することができなかった。

 舎人皇子は『古事記』の編纂を指揮した。しかし、『古事記』は皇室が最も崇拝する先祖つまり皇祖の天照大神の聖性をいちじるしく汚す歴史を記述した反逆の歴史書であった。だから、『古事記』を献上された元明天皇は、『古事記』は朝廷が「後世に絶対に伝えてはならぬ」と厳重に禁止する皇祖・天照大御の聖性をいちじるしく汚す反逆の史書であると察知して即座に献上を拒絶した。このため、『古事記』は正史『日本書紀』よりも正確に真実の歴史を記述したが、反逆の度合いが濃かったために『古事記』は正史になれずに野史(やし/民間で編纂した歴史書)と化した。しかし、真実の歴史を記述したゆえ、心ある人々にまもられて『古事記』は失われなかったのである。
 『古事記』献呈に失敗したことに懲りた舎人皇子はじめ歴史書編纂スタッフは反逆の牙(きば)を抜く、皇祖・天照大神の聖性を汚す度合いを薄めた『日本書紀』を完成させて元正天皇に奏上した。このため、『日本書紀』は朝廷が承認する正史となったのである。しかし、舎人皇子はじめ編纂スタッフは『日本書紀』は失敗作品であると悲嘆して後悔した。
 その証拠に舎人皇子は『万葉集』四二九四番の「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人は誰(たれ)」と詠む和歌を作った。
 この和歌は「『日本紀(後の日本書紀)』を完成させた山人すなわち編纂スッタフ一同は、いま、空しさにおそわれて途方にくれています。そんな山人の編纂スタッフが悲嘆する心情(こころ)も知らないで、元正天皇陛下〔上記した小説『美貌の女帝』のヒロイン〕は山づと(山人が献上した土産/みやげ)、つまり『日本紀(日本書紀)』を手に入れたと喜んでいますが、陛下に奏上する『日本紀』は書名にまったくふさわしくない、肝心の日本国誕生史の真相が後世の人々に伝わらない失敗作品です! ですので、ここには山人(仙人)と呼べる人物、つまり強大な国家と朝廷の権力に屈せずに真実の歴史を後世に伝えることができたと誇ることができる仙人と呼べる人物は吾をふくめて誰一人もいません」と意味した。
 万葉歌人で有名な山上憶良(やまのうえのおくら)は、最晩年、政争に敗れた主君・舎人親王が天照大神崇拝派の皇族・貴族に媚()びへつらう心ない官人や利にさとい役人たちに侮辱される主君(舎人親王)の惨(みじ)めな境遇を救えず、自分が重病で床に伏す不甲斐無(ふがいな)さを憶良は涙して悲嘆して、『万葉集』九七八番「士(おのこ)やも 空(むな)しかるべき 万代(よろづよ)に 語り継()ぐべき 名は立たずして」と詠む歌を作った。
 この九七八番は、下記のごとくの秘密を有していた。
 「わが主君の舎人親王が指揮した『日本紀』は神功(じんぐう)皇后紀に『魏志倭人伝』の記事の注を加えたために神功皇后の時代は魏の景初三年(239)、正始一年(240)、正始四年(243)、正始八年(247)であったと誤ることになって大失敗した。これが原因で、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた伊耶那美命が『魏志倭人伝』に記された魏の元号の景始三年や正始八年の年代に生存したことにならなくなった。また、出典となった『帝紀』に記載されていた上古の天皇たちの享年数が百歳を超える年齢が虚偽であったことに気づかずそのまま記載したため、これまた伊耶那美命が『魏志倭人伝』末部に記された魏の元号の年代に生存したことにならず、『日本紀』は失敗作品となった。『日本紀』より前に成立した『古事記』は正史になれずいずれ消失するにちがいなく、次に作成した『日本紀』も失敗作品となって空しい結果となった。日本国誕生史の真実を後世に残さんとしたわが主君・士(おのこ)の戦いは万代(よろづよ)に語り継ぐべき偉業であったはずなのに、なんたる悲運! 空しく終わるのか! 現在、わが主君は聖武天皇陛下と藤原房前(ふささき)公が企んだ太政官処分以来、多くの人々に侮辱されて、ひどい恥辱(はずかしめ)を受けている……。こんなひどい非道、あってよいであろうか。天皇陛下と藤原房前公はじめ政府がおこなっていることはあまりにも悪辣(あくらつ)で卑劣だ!」
 この九七八番の和歌には病床に伏した憶良と、この和歌を作った状況の様子が説明されている。この説明文に登場する藤原八束(やつか)は藤原房前の第三子である。ゆえに、上記した現代語に訳したように、九七八番は憶良が敬愛する主君舎人親王を思って涙して律令体制に最後まで抵抗していたと解釈しなければならないことになる。

 山上憶良が『万葉集』九七八番の和歌を作ったのは733(天平5)であり、また、この和歌は憶良が死に際に作った辞世の和歌であると推定されている。ゆえに、憶良の最後まで朝廷に抵抗していた様子を知った舎人親王は、『万葉集』編纂を思い立ったと推測される。というのも、上記した九七八番の憶良が作った和歌の三句目は「万代に」であるゆえ、『万葉集』の「万葉」に合致するからである。
 『続日本紀』は舎人親王が没した翌736(天平8)1111日の記事は、下記のごとく説明している。
 ――天平5(憶良が九七八番の和歌を作って没したと推定される733)、生前の舎人親王と常に舎人親王を補佐した異母弟の新田部(にいたべ)親王は「葛城王(かつらぎおう)兄弟に橘宿祢(たちばなのすくね)の姓をあたえる勅(ちょく)を聖武天皇から手に入れる計画を企てた」と告げた。つまり、舎人・新田部の両親王は〔天照大神の聖性を汚す日本国誕生史の真実を後世に伝えるため、補填(ほてん)資料となる和歌集の編纂を葛城王兄弟に命じた〕のである。「聖武天皇を騙(だま)して〔橘〕の姓を手に入れるようにするゆえ、汝(なんじ)兄弟は橘の姓を名乗って和歌集を完成し、また元正上皇から献呈許可を得て勅撰和歌集とせよ」と、両親王は葛城王兄弟に計略を密かに説明した。これゆえ、「日本国誕生史の真相を後世の人々が知ることができるようにする和歌集を完成する事業の謀略」をあらわす隠語(いんご/舎人・新田部の両親王と葛城王兄弟とで通用する計略をあらわす語)は「橘」となった。だから、葛城王兄弟は「母方の〔橘〕の姓を名乗って、両親王の心願(計略)が必ず成就するようにいたします」と誓った。このとき、葛城王兄弟は両親王に「昧死(まいし)して以聞(いぶん)す」と決意を示して誓った。
 この「昧死して以聞す」という語は「目の前が暗くなって死ぬ寸前まで、和歌集の完成に努力いたします。また、死ぬ寸前まで努力しても後世の人々に【日本建国の〔愛〕の理念】をテーマにして詠む和歌が不十分であり、また日本国がどこにあったかその範囲を明確に示すことができず、また日本国誕生史が察知できる〔愛〕を詠む和歌の収録が不十分であったならば、和歌集編纂事業を引き継ぐ後継者を選んで必ず完成するようにして、元正上皇陛下に上表(献上)して承諾を得る勅撰和歌集に致します」と、固い決意をあらわす語であった。
 そして、葛城王兄弟は両親王に「ここに臣下の葛城らは、願わくは橘宿祢の姓をたまわり、先帝(元正上皇)の厚命(こうめい/厚い命令)をもいただくことにして、橘の殊名(しゅめい/格別の名)を流(つた)え、万歳(まんさい)に窮(きわ)みなく、千葉(せんよう)に相伝(あいつた)えへむことを願います』と言上(ごんじょう)した。
 この最後の「万歳に窮みなく、千葉に相伝えへむこと」という文にある[][]2字を選んで『万葉集』という書名が成立したという意見が定説である。

 聖武天皇から橘氏を賜姓(しせい)された葛城王は、「橘諸兄(たちばなもろえ)」と名乗り、聖武天皇に信頼されて左大臣まで出世した。諸兄は聖武帝につかえながら密かに、主君・舎人親王に命じられた日本国誕生史を知ることができるための補填(ほてん)資料『万葉集』完成に努力した。しかし、聖武帝に信頼されて重職につくかたわら天皇や皇族・貴族たちに作成目的を知られまいと隠す『万葉集』編纂は遅々(ちち)として進まず、とうとう諸兄は死がせまる753(天平勝宝5)70歳になった。70歳になっても、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世に伝えるための補填資料『万葉集』を完成していなかった。ゆえに、諸兄は舎人・新田部の両親王に「昧死して以聞す」と誓った約束の通りに、『万葉集』の作成目的を達成して完成させるための引継ぎをおこなった。753(天平勝宝5)の陰暦五月・橘月(たちばなづき)、つまり、舎人親王が元正帝に『日本紀(日本書紀)』を奏上した時からちょうど三十三年後の陰暦五月・橘月、橘諸兄は未完成の『万葉集』編纂を、36歳の少納言・大伴家持(おおともやかもち)に受け継がせた。「陰暦五月」の異称は「橘月」である。「【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世の人々が知ることができる『万葉集』完成」をあらわす隠語は「橘」であったゆえ、橘諸兄は753(天平勝宝5)の橘月に『万葉集』編纂事業を大伴家持に引継がせた。
 橘諸兄は『万葉集』の巻一から巻十六までを編纂し、大伴家持は諸兄が編集した巻十六に手を加え、巻十七以後巻二十までを759(天平宝字3)六月から翌758年正月までに編纂した。その後、777(宝亀8)一月から翌778年一月まで、家持は全巻に目を通して修正を加えて『万葉集』を完成させた。
 だから、『万葉集』は伊耶那美命に熱烈に憧れた山上憶良の死を悼んで舎人親王と新田部親王が企画し、聖武天皇を騙して賜姓した「橘」を「『万葉集』完成」をあらわす隠語にして、舎人親王を愛して一生独身であった元正上皇の献呈承認を得て勅撰和歌集にした、橘諸兄と大伴家持の二人によって編纂された、人民たちに愛された【日本建国の〔愛〕の理念】を詠む〔愛〕の和歌が多く集められた律令体制に反逆・抵抗を示した情熱の和歌集であったのである。
 『万葉集』の【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を後世に伝える】という作成目的は皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚す歴史を伝えることになった。だから、もちろん、朝廷は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を後世に伝えることを厳重に禁止した。ゆえに、『万葉集』編纂を引き継いだ家持は〔朝廷の政策に逆らって、謀反にかかわっているのではないか〕と疑われた。家持は785(延暦4)8月に、享年68歳で没した。その20日後、大伴継人(つぐひと)・大伴竹良(ちくら)らが藤原種継(たねつぐ)を殺害し、家持はこの殺害計画に加わったと疑われた。この嫌疑で、領地越前国加賀郡の百余町などを没収され、彼の子永主(ながぬし)は流罪となった。しかし、806(延暦25)に、この嫌疑は冤罪(えんざい)で誤っていたと認められた。

 「歴史は支配者によって都合よく作られる」という推論にもとづき、『古事記』と『日本書紀』は「皇室にとって都合のよい歴史を語る書物である」と思い込まれている。しかし、この考えは憶測(おくそく)・空想である。舎人皇子の一生を克明(こくめい)に調査すると、『古事記』と『日本書紀』は――大和朝廷の基礎を築いた天照大神(10代崇神天皇と生母の伊迦賀色許売命)を皇祖と崇拝して天皇の権力の絶対化をはかる朝廷の政策に逆らって舎人皇子が指揮して編纂された。だから、『古事記』と『日本書紀』は、本来、皇室にとって不都合な反逆の歴史書であった。『日本書紀』が正史となったのは、『日本書紀』神代紀における【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】の説明が不鮮明になって、反逆の度合いが薄まったゆえ献呈を許可されることになったからである。だから、『日本書紀』は舎人親王はじめ編纂スタッフ一同は「失敗作品」と悲嘆して後悔することになった。
 しかし現在の学者たちは太安万侶が書いた「古事記上巻 幷せて序」の記事を正しく読解できずに誤読・誤解・曲読するゆえ、『古事記』上巻・日本神話は――天照大神(10代崇神天皇と生母・伊迦賀色許売命)を皇祖と定めて天皇の絶対化をはかった律令体制が絶対に後世に伝えてはならないと厳重に禁止した【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世に伝えるための史料であった――と解釈することができない。
 舎人皇子は『古事記』上巻・日本神話冒頭の序を書く人物に、太安万侶を選んだ。ゆえに太安万侶は、『古事記』編纂スタッフが企んだ計略と『古事記』作成目的を説明する『古事記』上巻の序を「古事記上巻 幷せて序」と表記することにして――その冒頭の45字の漢字で構成するきわめて難解な文章で「1、『古事記』上巻・日本神話に記述された歴史解明方法を説明し、2、『古事記』作成目的は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相】を後世に伝えることである」と警告(けいこく)した。
 この「古事記上巻 幷せて序」冒頭の45字の文章を、振り仮名無しで書き下し文を示すと下記のごとくなる。
 「臣安万侶言す。それ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る。」
 上記の文末部の「陰陽斯(いんようここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為(なる)」という文は、上記した「2、『古事記』の作成目的」を伝えるものである。
 この文を現代語に訳すると「陰の伊耶那美命(いざなみのみこと)と陽の伊耶那岐命(いざなきのみこと)がわが国におけるすべての生みの親となりました」ということになる。
 つまり、この短い文章で太安万侶は「小国・日本の女王となった陰の伊耶那美命は日本国が誕生したときに【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えました。倭女王・壱与(いよ/夏音文字の名前)に就任した伊耶那美命が死去しますと、倭女王を受け継いだ天照大神は伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し、【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理と作成方法の学問】を絶対法則と定めて天下を治めるべきであると考えました。国民は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】よりも伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが優っていると日々の生活の目標にして伊耶那美命を熱烈に愛しました。これゆえ、崇神帝の生母・伊迦賀色許売命(いかがしこみのみこと)つまり天照大御神は【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪し敵視しました。このため、天照大神は多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の陵墓に葬る残虐な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮しました。この天照大神の愛妻伊耶那美命への嫌がらせに怒った小国・日本の王であった陽の夫の伊耶那岐命(後の伊耶河宮で天下を治めた9代開化天皇)はクーデターを決行して倭女王・天照大神を失脚させ、大国の倭と小国の日本を併合して伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぐ政事(まつりごと)をおこないました」と説明していたのである。
 上記した「古事記上巻 幷せて序」の冒頭「臣安万侶言(まお)す」から「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」までの書き下し文は、上記した「1、『古事記』上巻・日本神話における歴史解明方法」を警告するものであったのである。
 この文は「わが国では前期縄文時代から芸術革命が花開き、次の中期縄文時代、また次の後期縄文時代の参時代において銀漢(夏の銀河)各部の形状イメージを造形する土器・土偶を作る造化(芸術)が盛んとなり、後期縄文時代の首(初頭/中国の夏代初頭)に銀漢各部の形状を図案する倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音(かおん)文字が伝来しました。そして、前期縄文初頭から後期縄文初頭までの約二千年間に及ぶ銀漢から土器・土偶を造る造化(芸術)の伝統を受け継ぐ芸術家によって、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】は習得されました。ですから、『古事記』上巻の楷書と夏音文字の字音を示す楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば、銀漢各部の形状が真の字源・字形の原形・原義を表示して真の漢字となりますゆえ、『古事記』上巻に記述された全神話の記事から朝廷が後世に伝えてはならぬと厳重に禁止する真実の歴史が鮮明に甦(よみがえ)ります」と、歴史解明方法を説明するものであったことになる。

 以上のごとく、20201125日のNHKテレビの「日本書紀神話」と題する番組は「最古の歴史書は『日本書紀』、『日本書紀』は藤原不比等が作ったと決まっている」と断定した。しかし、『古事記』は『日本書紀』の8年前に成立しており、正史『続日本紀』は「『日本書紀』は歴史局の総裁にして太政大臣が兼ねた舎人親王が指揮して編纂された」と明記する。
 だから、NHKテレビは国中の国民を誑(たぶら)かす厚顔無恥(こうがんむち)の俗悪なウソ八百・空理空論・出鱈目(でたらめ)、デマをまき散らしたことになる。
 【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を後世の人々に伝える】を目的にして『古事記』が作成された事実と、舎人皇子は『古事記』と『日本書紀』の編纂を指揮した事実、舎人皇子が『万葉集』編纂を企画した事実の詳細な解説と証明は、わが拙著『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』でおこなった。『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』は書籍本と電子本にして発行したゆえ、詳細は両書にて調査・確認していただきたい。

◆【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】という魔法がある。
 【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】という魔法を知っていれば、多数の日本古代史における謎が容易に具体的に明確に正しく解明できる。現在の学者たちのごとく、この魔法を知らないと、日本古代史における様々な謎・秘密の解明に挑(いど)んでも、その意見は空想、空理・空論となる可能性が大となる。
 ゆえに、【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実は、
日本古代史の真相解くことができる魔法(立論基盤)】となる。
 だから、20201125日のNHKテレビの歴史秘話ヒストリア「日本書紀神話」の番組は、「古事記上巻 幷せて序」冒頭の45字の文章を正しく読解できない学者や歴史研究家たちが多数の【誤読】を駆使(くし)してデッチあげた話題を取り上げて、「どうだ、この番組はすごく面白いぞ!」と言わんばかりに手前みその演出をもって視聴率を稼ぐことにアクセクして、国民を誑(たぶら)かし愚弄(ぐろう)したトンデモなく馬鹿げたナンセンスきわまりない俗悪番組であったのである。

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2020年11月20日 (金)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・2

★「古代史の謎」の取説・2


▼漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる

◆今回も〔「古代史の謎」の取説・2〕とサブタイトルとして、【漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】にもとづくと――【1】【邪馬台国畿内説と九州説は完全なる誤読の空理空論、完全なる幻想であった実体】を証明する。
 というのも、前回〔古代史の謎〕の取説・1〕で指摘したように――邪馬台国畿内説と九州説を主張する学者たちが断定しているように、『魏志倭人伝』は「倭女王卑弥呼が居住した王国の所在地解明」のための文献ではなかったからである。
 『魏志倭人伝』は大半の記事で(55パーセントの記事)で「わが国は紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭に、中国から夏音(かおん)文字の学芸が伝来して習得した。この夏音文字の学芸とともに、紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理・作成方法をも習得した事実」を具体的に科学的に説明する貴重な文献であった。
 つまり、『魏志倭人伝』は【漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる、世界的に重大な第一級の文献史料】であった。
 邪馬台国畿内説と九州説は、【多数の誤読(多数の文献批判)】を加えて立論する。しかし、『魏志倭人伝』は、本来、1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加える必要がない正確無比の史料であった。
 1ヵ所も【誤読(文献批判)】を加えなければ【科学】が成立して、『魏志倭人伝』は「倭国は夏音文字を習得し、倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法を対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30の小国名で表示していた」と説明する文献であった。だから、『魏志倭人伝』は【漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる、世界的に重大な第一級の奇跡の文献史料】であった。
 学者たちやメデイアは「卑弥呼が居住した王国名は邪馬台国であった」と主張する。しかし、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した王国名は邪馬壱(やまい)国であり、邪馬壱国は山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆)であった」と説明している。
 だから、学者たちやメディアが「最も正しい意見である」とデマ・フェイクを拡散する邪馬台国畿内説と九州説は【科学】の要素が砂一粒ほど微塵(みじん)も有していない真っ赤なウソ・虚妄(デタラメ)であったのである。 
 邪馬台国畿内説と九州説が真っ赤なウソであることは、『魏志倭人伝』の冒頭の11字「倭人在帯方東南大海之中」、つまり「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」と文によって、【科学】がまったく成立しない荒唐無稽(こうとうむけい)の出鱈目(デタラメ)ということが証明される。この11字の記事にもとづくと邪馬台国畿内説と九州説の場合は「魏と帯方郡と倭の使者たちは帯方郡の東南にある大海・玄界灘を往来できなかった。したがって、倭と魏は国交を結ぶことができなかったゆえ、約2000字で構成される『魏志倭人伝』には実は1字も文字が書かれていなかった」という結果となる。だから、邪馬台国畿内説と九州説は【科学】の要素を微塵も有していない真っ赤なウソであったことになる。
 邪馬台国畿内説と九州説の実体は『魏志倭人伝』の冒頭11字の記事が明確に事実を示すように、【科学】がまったく成立しない真っ赤なウソ・空理空論・妄想であったのである。
 邪馬台国畿内説と九州説が【科学】の要素が微塵も有していない真っ赤なウソである事実の証明は、書籍本と電子本にした拙著『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』で詳細に解説して証明した。

◆「銀河」の別名は「銀漢」であるゆえ、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが日本でも、「漢字」と称した。この「漢字」という名称は、中国でも日本でも途中で滅びずに現在まで存続している。
 天文学で言う通称「夏の銀河」は「夏の星座が漬かる範囲の銀河」であり、あるいは「夏に最も長時間見える範囲の銀河」である。
 「夏の銀河」は「春の銀河」・「秋の銀河」・「冬の銀河」よりも大きく、最も巨大にして、最も明確な形状を有する。
 「春の銀河」・「秋の銀河」・「冬の銀河」の銀河の形状は鮮明でないゆえ、ほとんどの銀河の写真は「鮮明な形の、夏の銀河」を撮影するものである。ゆえに、「銀河」と言えば「夏の銀河」を指していることになる。
 天文学で言う通称「夏の銀河」、この「各部が最も明確な形をしている、夏の銀河各部の形状から作った文字」は「漢字」と名づけられた。言いかえると、「夏の銀河の各部の形状を字源・字形(原形)・字義(原義)とした銀河文字」が「漢字」であったのである。 
 「夏に最も長時間見える、最も巨大で、しかも各部が明確な形から成る、多数の文字が作ることができる形を有する銀河の各部の形状」が「漢字の字源・漢字の原形・漢字の原義」となった。ゆえに、紀元前2070年頃~紀元前1600年頃までの王朝名・国家名は、「漢字が作られた夏の銀河」にもとづき「夏()」または「夏后(かこう)」と名づけられた。「夏后」の[]の字義は「きさき」である。白川静著『字統』は[]の字について「もとは母后(ぼこう)をいう語である、字もまた母后の形に作るものであった」と解説する。
 前回の〔古代史の謎〕の取説・1にて解説したように、[][][]の字は「子を腹部(おなか)に宿す母のように、人民の胃袋が円くなるように満たす五穀豊穣」を字源・字義とした。ゆえ、に「五穀豊穣」を掲げる政治スローガンは「母后」あるいは「夏后」と表示されることになったのである。そして、「漢字は夏の銀河の各部の形状」であったゆえ、「字書の聖典」と呼ばれた古代に尊重された字書『説文解字(せつもんかいじ)』は[()]の字義「中国の人」とあったと解説する。

◆紀元前3000年頃に生存した倉頡はみずからが発明した漢字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字(文字)の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配し、倉頡は下記に3つの掟を破った本人はもちろん、その大罪は掟を破った人物の一族全員まで及び厳しく神罰が下されて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
(
)夏の銀河(文字作成銀河)各部の形状から文字が作られた秘密を容易に理解できるように明確に説明した者とその一族全員〔ただし、難解な言(説明)や叡智に満ちた説明で深く考えないと理解できない表現をもって解説する者は死刑にはならない〕
(
)文字を容易に習得するため、文字となる夏の銀河(文字作成銀河)各部に名称を付けた者とその一族
(
)書いた文字は用済みになったならば、文字を直(ただ)ちに消さない者または消し忘れた者とその一族
 倉頡が死刑と定めた()の掟のために、『魏志倭人伝』に記された[]の字源はじめ対馬国から狗奴国までの30の小国名をもって【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】を3つのグループに分けて系統的に科学的に説明している事実を、今日の学者たちは解明することができない。しかし、江戸時代半ばまでの各代の天皇たちは【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】を皇室の存続させるための基盤としていた。また、「漢字」は「銀漢から作られた字」の略称であることに気づき、【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】は天下を治めるにあたって不可欠な基礎知識であったゆえ源頼朝・足利尊氏・織田信長・徳川家康等は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法の知識】を有していた。
 にもかかわらず、「漢字」は「銀漢から作られた文字」という略称ではないかという、菅単にできる想像・推理を現在の学者は誰一人も行わない。このため、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】を説明する、【文献批判】を1ヵ所も必要としない正確無比の文献であることに、現在の学者たちは誰一人もまったく気づかない。
 上記した倉頡が死刑と定めた()の掟のために、現在においても、〔夏の銀河の各部の名称〕は存在しない。
 倉頡が死刑と定めた()の掟は、紀元前1300年頃から始まる殷代後半に出現した数万字となった甲骨文字において掟を毎度まもるのがたいへん面倒となり、またたいへん使用しにくく不便となったために破られることになった。甲骨文字の字形を示す資料は多数出土したゆえ、現代史学は「甲骨文字を最古の漢字、甲骨文字は最も古い漢字の祖型である」と断定する。しかし、甲骨文字においては()()の掟は厳重にまもったため、甲骨文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状であることに――現在の学者は誰一人も気づかない。
 甲骨文字以前の五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字は、倉頡が死刑と定めた()の掟を厳重にまもったゆえ、書いた文字の資料がいまだ出土・発見されていない。

◆【漢字】は【字源・字形・字義・字音の4つの要素】から構成される。
 【書契・夏音文字・殷代前半までの原初漢字における字源・字形(原形)・字義(原義)】は【夏の銀河各部の形状】であることを王朝が独占管理して厳重な機密にして、【字音は人の口から発せられて存在する】ことになった。
 これゆえ、【夏代に用いられた原初漢字における字音は秘密ではなく、人の口から発せられることが許可された文字】であったゆえ、わが国では夏代初頭に習得した原初漢字の名を「字音」の[]がつく「夏音文字」と定めたのである。
 したがって、【夏音文字の字源・字形・字義】は【夏の銀河の各部の形状】であったゆえ【夜空に輝いて実在したこと】になる。その証拠に【殷代後半の甲骨文字と周代の金文の大半の字形】は【夏の銀河各部の形状をリアルに表現する絵文字】である。

 『魏志倭人伝』が「魏都・帯方郡・諸韓国で用いられる楷書と倭女王卑弥呼が文書に用いる文字は、倭の伊都国の港において点検し、確認して・正しく変換できた」と説明する。この魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と倭女王卑弥呼が用いた夏音文字を正しく変換できた秘密は、楷書と夏音文字の字源・字形(原形)・原義は共に夏の銀河各部の形状であったからである。

◆後漢の建光元年(121)に安帝に上呈された字書の聖典『説文解字』の序には、次のような記事がある。

「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂()れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」
 上記の文が伝えているように、「倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法に則って作られた文字は経(学問)と芸術の根本であり、文字は王朝政治に真っ先に必要不可欠な学芸であった。また、文字の字源・原形・原義となった夏の銀河各部の形状は後人が前人の時代における真実の歴史を正確に知ることができる方法であった。」
 だから、「王朝」の定義は「漢字が起源した学芸について知らなくてもよい、とにかく巨大な国家を確立する政治体制」ではなかったのである。「王朝」の定義は、「王政の始め」、つまり「夏の銀河各部の形状が字源・原形・原義となる、倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法を識っている(精通している)政治体制」であったのである。
 したがって、卑弥呼は「王政の始め」である「夏の銀河各部の形状が字源・原形・原義となる、倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法に精通していた」ゆえ、「王朝」を創設したことになる。
 また、「前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古を識るなり」という文が示すように、『魏志倭人伝』は「『魏志倭人伝』に使用される全漢字の字源・字形・字義を夏の銀河各部の形状に変換すれば、歴史を正しく解明できる文献」であった。というのも、『魏志倭人伝』の全漢字(楷書と楷書を音記号として用いる夏音文字)の字源・字形の原形・原義は夏の銀河各部の形状であったからである。
 強大な国家・王朝を手に入れた勝利者によって捏造(ねつぞう)された偽りの歴史が文献に記述されることもあっても、強大な国家・王朝の権力に屈せずに偽りの歴史を暴(あば)いて真実の歴史を後世に残す文献を作成する方法は字源・字形の原形・原義を表示する夏の銀河各部の形状を利用して後人に伝えることができた。というのも、絶対的に強大な権力を有した国家・王朝であっても天空まで支配することができなかったゆえ、夜空に輝く夏の銀河の各部の形状を歪(ゆが)めるあるいは削除(さくじょ)することはできなかったからである。だから、字源・字形の原形・原義を表示する夏の銀河各部の形状は最も正確な文字であったゆえ、夏の銀河各部の形状は真実の歴史を後人に伝える方法となった。

◆以上のごとく、新井白石以来約300年もの長いあいだ学者たちが力説し、戦後になってメデイアが「最も正しい意見である」と囃(はや)し立てるようになった邪馬台国畿内説と九州説は【真っ赤なウソ、虚妄(きょもう)】であった。
 上記したように、邪馬台国畿内説と九州説は真っ赤なウソであることは、『魏志倭人伝』の11字の冒頭記事「倭人は、帯方の東南、大海の中にあり」という文によって、両説は【科学】がまったく成立しないことが明確となるゆえ、いとも簡単に証明できる。
 さらに、約2000字で構成される『魏志倭人伝』の記事に1ヵ所も【誤読】を加えないと【科学】が成立して「卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住していた」と証明される。したがって、邪馬台国畿内説と九州説は空理空論であったのである。
 だから、邪馬台国畿内説と九州説は『魏志倭人伝』の全記事と1ヵ所も合致しない【誇大妄想、空理空論】であったことになる。
 『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を説明する史料」ではなかった。『魏志倭人伝』は1ヵ所も【誤読=文献批判】が加える必要がない、【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】が明確となる正確無比の奇跡の文献であったのである。
 要するに、【誤読】を立論基盤とする邪馬台国畿内説と九州説は【日本古代史学における最大の科学における不正行為】であったのである。【日本古代史学における科学における不正行為】と言えば、2000年に起きた旧石器発掘捏造事件、つまり藤村新一が約30年前から
発見していた旧石器の発見が捏造であったと暴露された、影響が大きく、歴史教科書の修正までせざるを得なくなった事件が有名であるが――【誤読】を立論基盤にして【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸の記事】を排除・削除する邪馬台国畿内説と九州説は【日本古代史学における最大の科学における不正行為】ということになる。
 『魏志倭人伝』冒頭のわずか11字の記事によって、邪馬台国畿内説と九州説は空理空論であることが【科学】にもとづいて立証される。さらに、全記事に1ヵ所も【誤読】を加えずに忠実に読解すれば【科学】が成立する『魏志倭人伝』に、邪馬台国畿内説と九州説は多数の【誤読】を加えても、いっこうに【科学】が成立しない。
 だから、空理空論・虚妄の邪馬台国畿内説と九州説を立論する学者たちの正体は、《学問の基本原理を知らない似非(えせ)学者・学者擬(もど)き》であったのである。

◆『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸を説明する、文献批判が一切無用の文献】であったことは、書籍本と電子本にした拙著『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』にて詳細に解説し証明した。
 【1】の『魏志倭人伝』が有する幾つかの謎の他にも、【漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に解明できる事実】が原因で謎となって解明しなければならない多数の古代史の課題がある。
 これら多数の課題を「古代史の謎」の取説・3と「古代史の謎」の取説・4という具合に順次に回を重ねて、これから解説することにする。

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2020年11月18日 (水)

フェイク&まぼろしの邪馬台国・1

★「古代史の謎」の取説・1


▶漢字の起源の秘密は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる

【1】 わが国の古代史において、倭女王卑弥呼が統治した倭人国の範囲には定説が無く未解明な状況であり、また邪馬台国説は畿内説と九州説で決着つくかのごとく学界やメデイアは無責任にもデマを蔓延(まんえん)・流行させて日本人を洗脳している
 しかし、畿内説と九州説の実体は【完全なる誤読の空論】、【完全なる幻想】であった。

◆【畿内説と九州説が誤読の空理空論、幻想である実体】は、学者たちの誰一人も【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】についてまったく気づいていない、これが原因となる。
 したがって、学者たちは誰一人も【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる秘密】についてまったく研究しないため、この秘密はまったく解明されていない。

◆『魏志倭人伝』は、二ヵ所の記事で「わが国(倭国)には、学界がいまだ未解明の中国の甲骨(こうこつ)文字より以前の原初漢字を有していた」と明確に説明している。
 現在、「紀元前1300年頃に出現した甲骨文字は漢字の最も古い祖型」と定められている。
 現在、甲骨文字より以前に存在した原初漢字について、ほとんど解明されていない。
 しかし、『魏志倭人伝』は下記した二ヵ所の記事をふくむ約55パーセントの記事で「わが国(倭国)には、学界がいまだ未解明の中国の甲骨文字より以前の原初漢字を有していた」と記述している。ところが、『魏志倭人伝』の記事の半分よりも多い、約1100字で説明する原初漢字の秘密が明確に科学的に解明できる記事を、学者たちはまったく存在しないかのごとく無視し排除(はいじょ)する。〔注、『魏志倭人伝』は約2000字で構成される〕。
 漢字は紀元前3000年頃の五帝時代初頭の黄帝(こうてい)につかえていた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)によって発明された。五帝時代の原初漢字は中国では「書契(しょけい)」、または「契刻(けいこく)」と名づけられた。「書契」は「木に文字を刻むこと」と意味したと伝えられたゆえ、わが国では「書契」は「刻木(こくぼく)」と名づけられた。
 〔注、中国の正史『隋書』倭国伝は「わが国(倭国)には刻木(五帝時代の原初漢字)があった」と記す。〕
 『魏志倭人伝』に記述される対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の小国名(500字・約25パーセントの記事)によって、【漢字の始祖・倉頡が発明した漢字作成原理と作成方法】と【甲骨文字が出現した殷代(いんだい)後半期初頭より以前の夏代(かだい)初頭に、わが国が習得した原初漢字・夏音(かおん)文字の学芸】、この二つの重大な学問の秘密が体系的(組織的)に科学的に解明できる仕組みになっている。
 『魏志倭人伝』は【誤読】を一ヵ所も加えてはならない、正確無比の【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】が科学的に解明できる文献であったのである。
 しかし、学者たちは【誤読】に〔文献批判〕という名をつけて、『魏志倭人伝』に多数の〔文献批判〕を加える【空想・空理空論】を立論する。これゆえ、『魏志倭人伝』には【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸】を説明する記事はまったく存在しないかのごとく排除(はいじょ)されて堅牢(けんろう)な巨大な門で厳重に閉ざされた奧の奥となる朽ちた貯蔵庫の室(むろ)に閉じ込められているため、一般国民はまったくその存在について知っていない。
 『魏志倭人伝』は【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる、〔文献批判〕を1ヵ所も加えてならない正確無比の、世界的に第一級の貴重な奇跡の文献】であったのである。

◆『魏志倭人伝』は、下記の二ヵ所の記事で「わが国(倭国)には原初漢字・夏音文字があった」と証言している。
(
)『魏志倭人伝』には「倭国の卜辞(ぼくじ)は令亀の法の如く」、つまり「倭の卜辞(占いに用いる文字と言)は中国殷代(いんだ)の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字のごときであった」という記事がある。だから、2世紀末~3世紀の卑弥呼時代、わが国には学者たちが「漢字の最も古い祖型と定める中国の甲骨文字のごとき原初漢字」があったことになる
(
) 『魏志倭人伝』には「倭国の伊都(いと)国の港では、京都(けいと/魏の都・洛陽)・帯方郡(朝鮮半島の一画に所在する魏の出張政庁がある郡)・諸韓国と倭女王卑弥呼が文書に用いる文字(原初漢字)は差錯(ささく/相違)していた。しかし、倭国の伊都(いと)国の港では魏都(京都)・帯方郡・諸韓国が文書に使用する楷書と卑弥呼が文書に用いる文字(原初漢字)を点検し、確認して、間違いないように正しく変換できた。」という記事がある。
 このように、『魏志倭人伝』は「2世紀末~3世紀半ばまでのわが国(倭国)には、原初漢字が存在した」と明記する。だから、学界が主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は【フェイク、妄想、誤読の空理空論】であったことになる。したがって、邪馬台国畿内説と九州説もまた【完全なるフェイク、妄想、誤読の空理空論】であると断定しなければならない。

◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は、次のごとくである。
 「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」
 上記したように、『魏志倭人伝』の冒頭字は[]である。[]の字源・字義(原義)は「人民が飢えないように、人民の胃袋を満たす五穀豊穣(ごこくほうじょう)」であった。
 倉頡は「人民が飢えないように、人民の胃袋を満たす穀物(イネや麦、つまり五穀豊穣)」をあらわす[]の字を創(つく)った。
 「穀物を食べて胃袋を満たす腹部」は「腹部(おなか)に子どもを宿した女性(妊婦)のように円い腹部」となるゆえ、倉頡以後、[]の下に[]が加えられる[]の字が出現した。
 「人民の胃袋を満たす」という政治スローガンを示すことになって、「人民」をあらわす[](人偏)に、[]が加わって[]の字が出現した。ゆえに、[][]の字は、倉頡が創った[]の字源・字義(原義)をそのまま受け継ぐ字であった。
 卑弥呼が統治する倭国と国交を結んだ中国における三国時代の一国「魏」という国名に用いられる[][]に「鬼道(きどう)[]を加えた字である。ゆえに、[]もまた倉頡が創った[]の字源・字義をそのまま受け継ぐ字であった。
 だから、『魏志倭人伝』は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」という文が示すように、冒頭から「倉頡が発明した作成方法の基本字[]の字源・字義をそのまま受け継ぐ[]の字を国号に用いる倭人国は、帯方の東南、大海の中に在り」と説明していたことになる。
 前記したように『魏志倭人伝』に記述された対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国名の記事(500字・約25パーセントの記事)は、【漢字の始祖・倉頡が発明し漢字作成原理と作成方法】と【甲骨文字が出現した殷代後半期初頭より以前の夏代初頭に、わが国が習得した原初漢字・夏音文字】、この二つの重大な学問の秘密が体系的に科学的に解明できる仕組みになっている。
 現在の中国(中華人民共和国)にあっても、[][][]の字源・字義をあらわして「全国民が飢えないように、全国民の胃袋を満たす五穀豊穣」を政治スローガンとする。
 だから、2世紀末から3世紀半ばの卑弥呼時代においても、[]の字源・字義となった「全国民が飢えないように、全国民の胃袋を満たす五穀豊穣」は最強・最良の政治スローガンであったことになる。
 卑弥呼時代に限らず、わが国と中国の古代において、[][][][]の字源・字義となった「人民たちの胃袋を満たす五穀豊穣」という政治スローガンは最強にして最良であったのである。


◆また、『魏志倭人伝』は、下記の記事をもって「紀元前2070年頃~紀元前2050年頃、わが国の後期縄文時代初頭、言いかえると中国の夏代初頭、卑弥呼が文書に使用した原初漢字・夏音文字は日本列島の東北地方、つまり男鹿半島・米代川(よねしろがわ)縄文文化圏に伝来して習得された」と証言している。
 だから、邪馬台国説畿内説と九州説の実体は【誤読の空理空論】であった。
 「又侏儒(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺。女王を去ること四千余里。又裸()国・黒歯(こくし)国有り。復()た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可()き。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在し、或は絶え或は連なり、周旋(しゅうせん)五千里可(ばか)り。」
 上記のごとく――卑弥呼が文書に用いた漢字、つまり魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書を正しく変換できた原初漢字は、紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に習得された夏音文字であったことになる。

◆わが国の古代中国文字(漢字)研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までは、〔わが国の漢字音〕と題して、次のように「わが国の国語には、現存する最古の漢字音が残っている、つまり現存する最古の原初漢字の字音が残っている」と科学的に指摘する。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊(こと)にその音韻学史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いたから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記したように、白川静著『字統』が〔わが国の漢字音〕と題して「わが国の国語の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、科学的に解明された原初漢字の字音は卑弥呼が文書に用いた原初漢字の字音であり、また紀元前2070年頃~紀元前2050年頃の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に習得した原初漢字の夏音文字の字音であった。

◆ブログで「中国の漢字音」について入力して調べると――中国において現存する最古の漢字音は【上古音】である。【上古音】は、紀元前1046年から始まる周代初頭~後漢後期(2世紀頃)までの漢字音である――ということがわかる
 したがって、わが国に国語として残っている現存する最古の漢字音を伝える夏音文字は、中国に残っている現存する最古の漢字音の【上古音】初頭・周代初頭(紀元前1046)よりも約1000年前の原初漢字であった
 「卑弥呼」を「ひびこ」と読まずに「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となり、中国の上古音で読むと「ピミカ」となる。『魏志倭人伝』に登場する「難升米」を「なんしょうまい」と読まずに「ナシメ」と読むと夏音文字の字音、「壱与」を「いちよ」と読まずに「イヨ」と読むと夏音文字の字音、「載斯烏越」を「さいしうえつ」と読まずに「ソシアオ」と読めば夏音文字の字音となる
 このように、夏音文字の字音は『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名に用いられて現在まで残っている
 なお、古代研究家の古田武彦氏が証明したように、『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壱(やまい)国」であった。中国の正史『後漢書』倭伝には「邪馬臺国」の読みについて「今案ずるに、名は邪馬惟(ヤマイ)の音之訛(なまり)也」と説明する注がある。「邪馬惟」の[]には「だい・たい」と読む字音が無い。[]の字音は「イ()・ユイ(ユヰ)」である。ゆえに「邪馬惟」は「ヤマイ」と読むべきことになり、「邪馬惟」は「やまたい・やまだい」とは読めない。したがって、『後漢書』倭伝は「邪馬壹国」は「今案ずるに、名は邪馬惟(ヤマイ)の音之訛也」と注を記すべきことであったことになる
 『後漢書』倭伝の「邪馬惟」という注からしても、古田武彦説の「卑弥呼が居住した王国名は邪馬臺()国ではなく、邪馬壹()国であった」という意見が事実であり正しいことになる
 邪馬台国畿内説と九州説を立論する学者たちは多数の【誤読】つまり【文献批判】を加えるが、『魏志倭人伝』に【誤読=文献批判】を1ヵ所も加えないと、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は、現在の島根県と鳥取県の西部(旧国の石見・出雲・伯耆)であった」と記述(証言)していることになる。というのも、「石見」は[]の字源・字義をあらわし、「出雲」は[]の字源・字義をあらわし、「伯耆」は[]の字源・字義をあらわしているからである。だから、「石見・出雲・伯耆」は「邪馬壱国」であったと【科学】が成立して証明される。なお、邪馬壱国の中心部「出雲」もまた[][][]の字源・字義をあらわした。だから、山陰・出雲地方は「倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱国」であったことになる。さらに、「畿内・大和王朝のアマテラス母子王朝(9代崇神天皇母子王朝)に滅ぼされた出雲王朝の大国主命は、卑弥呼の墓は出雲大社であった」と後世に伝えるために――大和王朝のアマテラスオオミカミに壮大な宮殿「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を建造させた。言いかえると、「天日隅宮」は「出雲大社の起源」とされるが、「天日隅宮を建造した裏山が後円墳、境内が前方墳」であったことになる。『魏志倭人伝』は「卑弥呼の墓の円墳部の径(直径)は百余歩、つまり約150メートル」であったと記述する。この記事のとおり、「天日隅宮(出雲大社)の裏山の径は約百余歩」である。したがって、「出雲大社の裏山と境内の空中写真」は「卑弥呼の墓は前方後円墳の形を示す出雲大社であった」と表示するものとなる
 以上のごとく【漢字の起源は中国では解明できず、日本で科学的に具体的に解明できる事実】にもとづくと、邪馬台国畿内説と九州説は【誤読の空理空論、フェイク、虚妄(きょもう)、真っ赤なウソ】である事実が【科学】が成立して証明される
 学者たちとメデイアは【誤読の空理空論の邪馬台国説】をもって決着つけようと躍起(やっき)となり、われわれ日本国民を騙(だま)そうとしている!

◆ここまで解説してきたが、【1】の邪馬台国畿内説と九州説の実体は【完全なる誤読の空論】、【完全なる幻想】である解説と証明を、次回(フェイク&まぼろしの邪馬台国・2)においても続行する。
 『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成原理・作成方法と夏音文字の学芸を説明する、文献批判が一切(いっさい)無用の正確無比の文献】であったことは、書籍本と電子本にした拙著『日本国誕生史の証明』と『大嘗祭の証明』にて詳細に解説し証明した。

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2020年10月21日 (水)

kindle版の販売を開始しました

kindle版の『日本国誕生史の証明」と『大嘗祭の証明」を販売を開始しました。
各書はともに1000円とお買い求めやすい価額にしました。
いままで類をみない画期的で魅力のある著作物にしましたので、どうぞよろしくお願い申しげあげます。

 

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2019年12月 5日 (木)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・9

★#9・大嘗祭における【日本建国の〔愛〕の理念】と壬申の乱

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

(2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回(8)まで解説し証明してきたように、【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された
 弥生時代(3世紀)に生存した天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母の伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視し、強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた。
 天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を最も偉大な皇室の先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝する大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。だから、天武・持統両天皇は――天皇の権力を絶大にするための最大の障害となった【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、必ず抹殺(まっさつ)しなければならない――と考えた。
 ところが、天武・持統両天皇が「絶対に後世に伝えてはならない」と禁じた【日本建国の〔愛〕の理と日本国誕生史】は、江戸時代に復興されることになった。
 つまり、(3)天武天皇が大嘗祭を始めた673年から約1070年後の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭にて、【日本建国の〔愛〕の理念】は表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、上記した(3)1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 このように、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆このブログの前々回(6)で指摘したように――大嘗祭を起源させた第40代・天武天皇の両親・第34代・舒明(じょめい)天皇と皇后の宝(たから)皇女(35代・皇極天皇にして第37代・斉明天皇)であった。
 天武天皇の父の舒明天皇は『万葉集』2番の「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌を作って、「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命をたたえた。また、舒明天皇は『万葉集』5番の「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌を作って、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)への憧れを表現した。
 そしてわがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、また、この前回(8)のブログで要約して現代語訳して証明したように、『万葉集』485番の岡本天皇(天武天皇の生母の宝皇女)が作った長歌は【日本国誕生史の秘密】を解明できる重大な糸口(いとぐち)となる、多数の『万葉集』の和歌にあって【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に表現する最も代表的な作品である。
 岡本天皇(舒明天皇と宝皇女)の息子は66813日に即した第38代・天智(てんじ)天皇と、673227日に即位した第40代・天武天皇である。
 天智天皇は兄で皇太子の時の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であり、弟の天武天皇は皇太弟の時の名は「大海人(おおあまの)皇子」であった。

671(天智天皇10)10月、病床にあった兄天智天皇は皇太弟(こうたいてい)の大海人皇子(のちの天武天皇)を枕辺(まくらべ)にまねき、後事(こうじ)をたくそうとした。しかし大海人は用心して次の天皇になることをことわった。天智天皇は息子の大友(おおとも)皇子に譲位したかったので、大海人の出家と吉野隠退(よしのいんたい)の願いを聞き入れた。
 大海人の吉野入りに従う者は、正妃の菟野(うの)皇女(のちの持統天皇)とその子草壁(くさかべ)皇子、異母子の忍壁(おさかべ)皇子、舎人(とねり)40人余など計70人足らずであった。
 同年12月、天智天皇が近江で死去した。
 大海人が吉野に隠退してから半年ばかり経過すると、近江方の締()め付けがきびしくなり、近江から南の飛鳥(あすか)までの要所に監視人を置いて吉野の動静をうかがうようになった。
 おりしも、朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)が「私は私用で美濃に行きました。時に近江朝では、美濃・尾張両国の国司(こくじ)に『天智天皇の山科陵(やましなりょう)を作るために、あらかじめ人夫を徴集(ちょうしゅう)しておけ』と命じておりました。ところが、その人夫たちに武器を持たせておりました。思いますに、これは必ず変事があることを示しているもので、もし速(すみ)やかに避()けられないと、きっと危険な目にあいましょう」と報告した。
 672624日、危険を察知した大海人は吉野を出立して東国へ逃れた。この時、吉野方の人数は女性や子どもたちまでふくんで50人足らずであった。(つまり、吉野へ隠退した時より大海人一行を護衛する兵士の舎人が約20人も減っていた)
 吉野を出発した日の朝、大海人一行は菟田(うだ)の安騎(あき)(現在の奈良県宇陀市の阿騎野)を通過し、甘羅村(かんらのむら)つまり現在の奈良県宇陀市の榛原町(はいばら)町の方へ向かった。
 甘羅村を過ぎた交通の東西要衝(ようしょう)の地にて、20人余りの猟師一行と出会った。
 この様子を、『日本書紀』巻二十八の天武天皇紀の東国の出発の条(くだり)は、次のように記述する。
 「甘羅村(榛原町)を過ぎると、猟師二十人余と出会った。大伴朴本連大国(おおともえのもとのむらじおおくに)は猟師の首領であったので、ことごとく召して一行の仲間に入れた。また、美濃国の王(美濃国の豪族)をも召され、お供(とも)に加わった。」

◆上記したように、大伴連大国がひきいる20人余りの猟師の一団には、朴井連雄君が大海人に「近江朝が美濃に人夫を徴集して武器を持たせていた」と報告した、その美濃国の王が一緒に行動していた。
 『日本書紀』神武天皇紀は「皇軍は、熊野の神邑(みわのむら)に到着し、天磐盾(あめのいわたて)に登った」という記事の後は、八咫烏(やたがらす)について下記のごとくの記事がある。〔なお、「天磐盾」は現在の和歌山県新宮市磐盾町に所在する、天照大御神を祭神として祀る神倉神社が所在する神倉山である〕。
 「大伴氏の先祖の日臣命(ひのおみのみこと)は、山を越え道を踏み分け、八咫烏の導くままに、仰ぎ見ながら(つまり、1度の60分の11分の精度で精確に緯度が測定できる天頂緯度線と経度軸をキャッチして)追跡して皇軍を先導した。皇軍は宇陀の下県(しもつこおり)に到着し、神武天皇はこの地を宇陀の穿邑(うかちむら)と名づけられた。そのとき、天皇は『お前は忠勇(ちゅうゆう)の士で、またよく道を導いた。この手柄にもとづきお前の名を改めて道臣(みちのおみ)としよう』と仰せられた。」
 大海人一行が出会った大伴連大国は現在の奈良県宇陀市榛原町の高星(たかへ)に居住していた。672年当時、榛原町高星は「高屋(たかや)」と呼ばれていた。
 この「甘羅邑の高屋・現在の榛原町高星」が『日本書紀』神武天皇紀の八咫烏の条に記載される、大伴氏の先祖の日臣命が皇軍を先導して到着した「宇陀の下県の穿邑」であった。その証拠に、「天磐盾(現在の和歌山県新宮市磐盾町の神倉山)」と「宇陀の穿邑(甘羅邑の高屋・現在の榛原町高星)」は共に東経13559分で同経度ある。先祖が日臣命である大伴連大国は、日臣命が皇軍を天磐盾から先導して到着した同経度(真北)の宇陀の下県の穿邑=甘羅邑の高屋に居住していたのである。
 大伴連大国は道臣命(日臣命)の末裔(まつえい)の、武家の名門・大伴連家と大伴家の宗家(そうけ)の頭領であった。
 女性や子どもたちをふくんでわずか50人足らずで東国へ逃れる窮地(きゅうち)におちいった大海人一を助けようと決意した大伴連大国が「道臣命の末裔」と名乗らずに「猟師の首領」と名乗ったわけは、出世や褒美(ほうび)を欲するものではなく、『古事記』伊耶那岐命と伊耶那美命神話の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に記載された【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念の復興】を願うものであったからである。

◆上記したように、吉野を出発した大海人一行は、現在の国道370号線を北へ進んで菟田の安騎(現在の奈良県宇陀市阿騎野)を通過した。さらに、北上して甘羅村(宇陀市榛原町)を通過した時に、大国・美濃の王等の一団と出会った。
 大海人と大国が出会った場所は、現在の榛原駅のすぐ東の国道370号線・国道369号線・国道165号線の合流地点であったと考えられる。というのも、南東へ向かう国道369号線の先は伊勢であり、『日本書紀』天武天皇紀が書いてあるとおり大海人・大国たちは伊勢国へ米を運ぶ駄馬50匹と遭遇(そうぐう)しているからである。また、国道370号線から北東へ向かう国道165号線を進むと大海人・大国たちが通過した大野(奈良県室生村大野)に至り、その先は一行が夜半に到着した隠郡(なばりのこおり/今の名張)となる。そして、三本の合流地点は、大国が居住した高屋からの道とも合流する。
 大海人と大国に出会った推定地点は、古くは吉野、大和、伊賀、東海道や東山道、伊勢を結ぶ東西交通の要衝(ようしょう)であった。ゆえに、この要衝に近くにある高屋は東海道と東山道の武士たちをたばねる強力な武将・大伴連大国が居住するのに最適地であったことになる。

672624日に大海人一行が吉野を出発した時の人数は女性や子供まで数に入れて五十人足らずであった。
 大国らが加わって、夜を徹(てっ)して逃れ、伊賀の山中に至るころ、伊勢の郡司らが数百の兵をつれて従った。翌25日には五百の軍勢が、さらに26日には美濃の軍勢三千人が加わった。27日には、尾張の国司が二万の兵をひきいて加わった。
 だから、美濃の王をひきいて大海人と出会った大伴連大国は、伊賀・美濃・尾張の東海道・東山道の軍勢の頭領であったのである。
 壬申の乱は、『日本書紀』が書いてあるとおり「近江朝が美濃・尾張両国の国司に『天智天皇の陵墓を作るために、あらかじめ人夫を徴集しておけ』と命じて、その人夫に武器を持たせた指令」から始まった。
 近江朝は五十人足らずの吉野に住む大海人を簡単に殺害できる。しかし、この暗殺隊を吉野に向けると大国が住む高屋に近い交通の要衝を通過しなければならない。このため、大海人暗殺隊を吉野に向かわすと、この変事(へんじ)に高屋に住む大国は気づくちがいないゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴連大国は必ず軍勢を挙げると、近江朝は考える。したがって、近江朝の美濃・尾張の国司への命令は、先ず大伴連大国を討伐して、次に大海人を殺す陰謀をあらわすものにちがいない――と近江朝の命令を聞いた美濃の王は推察して、高屋に住む頭領の大国のもとにいち早く駆けつけたと推定される。
 だから、大海人と出会った時、美濃の王は大国と行動を共にしていたことになる。

◆当時、大伴連家の分家の大伴御行(おおとものみゆき)が、近江朝につかえていた。
 ゆえに、大伴御行は――大伴連大国は伊耶那美命・伊耶那岐命に熱烈に憧れるゆえ、【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する東海道・東山道の兵士たちに敬愛される、大伴連・大伴両家の宗家の頭領である強力な武将である――と、近江朝に報告したにちがいない。
 だから、近江朝は朝廷の威厳(いげん)に美濃・尾張の武士たちが畏怖(いふ)し服従して頭領の大国を討伐するにちがいないと推断して、次に大海人を殺すという作戦を立てたことになる。
 いっぽう、大国は近江朝による大海人の殺害を心配した。だから、吉野に隠退する大海人一行が甘羅村を通過した時から壬申の乱がおこるまでの半年間、大国は大海人に危害がおよぶ気配が発生した時の作戦を東海道・東山道の各地に赴(おもむ)いて配下の国司・郡司・王(豪族)たちと綿密(めんみつ)に相談していた。ゆえに、壬申の乱の朝、大国は素早くに各地に伝令を送って指令(しれい)した後に、大海人と合流した。これゆえ、伊賀国の郡司の数百の兵士が、翌日には五百の軍勢が、二日後には美濃の軍勢三千人が、三日後には尾張の国司が二万の武士たちをひきいて、大国が護衛する大海人一行に合流できたと考えるべきことになる。
 〔注 二日目の美濃の軍勢三千人、三日目の尾張の国司がひきいた二万の兵士の大海人一行との合流は、近江朝が美濃・尾張の国司に徴集を命じた人夫(武器を持たせた兵士)を服従させて大国を討伐する作戦の誤算・失敗を明確に示す。〕

◆尾張の国司が二万の大軍をひきいて大海人に帰順したときである――この一報が伝わると、近江方は一大恐慌(いちだいきょうこう)におちいった。募兵(ぼへい)の試みは失敗し、けっきょく、現有兵力で戦わなければならなくなった。そのころ、大和に隠退(いんたい)していた大伴馬来田(おおとものまくた)・吹負(ふけい)兄弟は、大海人の味方となり、629日に急きょ飛鳥の古京を襲って占領したことを、大海人に報告した。近江方は数万の兵を不破(ふわ)に向かわせたが、内紛(ないふん)がおこって失敗に終わった。
 吉野の出発から8日後の72日、吉野軍は近江軍を圧倒する数万の大軍となった。
 かくして、722日の瀬田(せた)の決戦で近江軍は敗(やぶ)れた。天智天皇の子の大友皇子は逃げ場をうしない、翌日、長等(ながら)の山崎(やまざき/諸説あり)で自ら首をくくって死んだ。ときに、25歳であった。
 このように、壬申の乱はまる一ヶ月で終わった。
 壬申の乱で、にわかに吉野軍が大軍になったのは、東海道・東山道の武士と同じく【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する大伴連大国がいちはやく大海人一行に合流して護衛していたからである。大国は大伴連家と大伴家の宗家の頭領であったゆえ、大伴馬来田・吹負兄弟は大和に隠退して吉野方に味方し、将軍・大伴御行は近江朝を裏切って吉野方に加わった。ゆえに、近江方に内紛がおこって、吉野軍に大敗したのである。
 673(天武天皇2)2月、大海人皇子は即位して大嘗祭を初めて実施(じっし)して天照大御神の崇拝政策を示し、天智天皇の路線を引き継ぎ律令体制の強化をはかった。
 よって、天武朝は【日本建国の〔愛〕の理念の排除】を表明したゆえ、大国が期待した【日本建国の〔愛〕の理念の復興】は成就(じょうじゅ)しなかったことになる。
 壬申の乱で天武天皇が勝利したのは、【天智天皇の政策の、日本建国の〔愛〕の理念の排除】に対する反発が【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民(下級官僚や庶民)のあいだにみなぎり、それが大海人への同情と期待となって、大伴連大国はじめ東海道・東山道の武士たちをつき動かすことになったからである。しかし、天武朝が表明した政治は【日本建国の〔愛〕の理念】に反するもので、大国たちの期待を裏切った。
 だから、吉野方に勝利を導いた最高の功労者・大伴連大国は、天武朝に参加せずに庶民となって、都から遠く離れる片田舎(かたいなか)の菟田(うだ)の高屋に居住した。 

◆このため、天武天皇にとって朝廷の律令政治に背を向け、【日本権力の〔愛〕の理念】を重んじる大伴連大国は最大最強の脅威(きょうい)となった。天皇は菟田の高屋にひきこもる大国の才能を惜しみ、なによりも彼の反乱をおそれた。また、都の東方を守備するためには、彼が有する兵力が不可欠(ふかけつ)であった。そこで、天皇は大国を懐柔(かいじゅう)するため、わが子を大国に与えることを思いついた。わが子を大国に預けて養育させれば、この子は成長して大国の後継者となる。わが子が東海道・東山道の武士たちを統率(とうそつ)する強力な武将となれば、都の東方の防衛は盤石(ばんじゃく)の備えとなる――と、天皇は目論(もくろ)んだのである。
 壬申の乱から4年後の676(天武天皇5)、新田部(にいたべ)皇女が天武天皇の子は出産した。これが、舎人(とねり)皇子である。
 797(延暦16)に完成した『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「舎人皇子は天武天皇の第三皇子」と記す。つまり、舎人皇子は多数の天武天皇の子どもたちにあって、皇位継承順位が三番目の地位が高い皇族して、大国を養父とする庶民でもあったのである。
 天武天皇の第一皇子は、正妃菟野皇女(のちの持統天皇)が生んだ草壁皇子である。天武天皇は第二皇子をもうけなかった。『日本書紀』は「大津皇子が天武天皇の第三皇子」と記す。だから、天武天皇の第二皇子というべき皇族は大津皇子と舎人皇子であったことになる。

◆舎人皇子が6歳であった681(天武天皇10)317日、『日本書紀』天武天皇紀は「天皇は大極殿(だいごくでん)にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子はじめ12人の皇族・貴族に詔(しょう)して、帝紀および上古の諸事を記し定めさせた」と記述する。
 この記事に登場する「上古の諸事」は、620(推古天皇28)に皇太子・聖徳太子と大臣・蘇我馬子に編纂を勅令(ちょくれい)した【国記】を指していたことになる。この【国記(上古の諸事)】は――645613日、乙巳(おつし)の変で蘇我蝦夷(そがのえみし)が殺される前に自邸に所管していたすべての天皇記・国記・珍宝を焼こうとしたが――船史恵尺(ふねのふびとえさか)が素早く取り出して焼失をまぬがれた。〔これについては、このブログ前々回(7)で詳細に解説した〕。
 【蘇我大臣家に所管されていていた、乙巳の変で焼失しなかった国記(上古の諸事)】を、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷わせて序)は、【国記(上古の諸事)】を「本辞(ほんじ)」、「旧辞(きゅうじ)」、「先代の旧辞」などの名称で呼ぶ。
 ゆえに、『古事記』という書名は――『日本書紀』天武天皇記における「上古の諸事を記し定めた」という記事にある[][][]3字に由来する――という説がある。
 しかし、天武天皇の【帝紀および上古の諸事の記定の勅令】は中止されて実現しなかった。
 というのも、天武天皇は皇室と国家権力を強化する律令体制を推進するため、【(1)天照大御神の聖性を絶対に汚してはならない歴史書の作成、(2)伊耶那美命がとなえた日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を削除(さくじょ)する、上古の諸事の記定】を命令するものであったからである。
 上記したように、大伴連大国は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の削除】をゆるすはずがなく挙兵するにちがいなかった。この大国の挙兵には、壬申の乱の勝利に導いた東海道・東山道の武士たちはもちろん、壬申の乱で敗れた近江軍の残党も大国軍に加わるにちがいなかった。このような大国軍と戦って、天武王朝軍の勝算は不確かで敗戦する可能性もあった。これゆえ、天武天皇は【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史を削除する、上古の諸事の記定事業】を断念した。
 しかし、天武天皇が【上古の諸事の記定】を強行していたならば、反乱を指揮する大国は天武天皇の子・舎人皇子をどのようにあつかっていたであろうか。大国は厳(きび)しく育てながら舎人皇子を深く愛していたであろうゆえ、大国は生涯でもっとも厳しい苦渋(くじゅう)の選択をしなければならなかった。天武天皇の【上古の諸事の記定の情報】は大国の耳にもとどき、また少年舎人皇子も実父天武帝と養父・大国の対立の気配は察知したにちがいない。このとき、少年舎人皇子の小さな胸は不安でおしつぶされて、自分の父は愛情をそそいで育ててくれた大国であると思いつめ、いっぽう大国は挙兵しても舎人皇子は人質であらずわが子であるゆえなんとしても彼の生命はまもると決断し、生()さぬ父子は従来に増して強い愛で結ばれたにちがいない。
 よって舎人皇子にとって、父は天武天皇ではなく、大伴連大国であったことになる。
 舎人皇子は伊耶那美命に憧れた大国の遺志を継ぎ、【日本建国の〔愛〕の理念】を伝える歴史の保存に情熱をかたむけた。生さぬ父子の〔愛〕で結ばれる堅(かた)い絆が、強大な朝廷と国家の権力にたちむかったため、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】を伝える『古事記』が成立することになったのである。

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2019年12月 4日 (水)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・8

★#8・中大兄皇子が作った「大和三山の歌」が伝える日本国誕生史の秘密

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆令和の即位式と大嘗祭では、(1)弥生時代(3世紀後半)から続く儀式は――『古事記』上巻に記述された天照大御神の歴史をあらわす「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回まで解説し証明してきたように、【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された
 弥生時代(3世紀)に生存した天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母の伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視し、強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた。
 天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を最も偉大な皇室の先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝する大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。だから、天武・持統両天皇は――天皇の権力を絶大にするための最大の障害となった【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、必ず抹殺(まっさつ)しなければならない――と考えた。
 ところが、天武・持統両天皇が「絶対に後世に伝えてはならない」と禁じた【日本建国の〔愛〕の理と日本国誕生史】は、江戸時代に復興されることになった。
 つまり、(3)天武天皇が大嘗祭を始めた673年から約1070年後の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭にて、【日本建国の〔愛〕の理念】は表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、上記した(3)1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 このように、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と【本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆このブログの前々回(6)で指摘したように――大嘗祭を起源させた第40代・天武天皇の両親・第34代・舒明(じょめい)天皇と皇后の宝(たから)皇女(35代・皇極天皇にして第37代・斉明天皇)は小国・日本の女王であった伊耶那美命(いざなみのみこと)と小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)への憧れを表現する和歌を作り、息子・天武天皇が「後世に絶対に伝えてはならない」と禁じた【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を題材にした和歌を作っている。
 舒明天皇と宝皇女が作った【日本国誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】を詠()む和歌は、7791月に完成したと考えられる『万葉集』に収められている。

 『万葉集』2番は舒明天皇が作った「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌である。この長歌で舒明天皇は「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命を讃えている。
 『万葉集』5番は舒明天皇が作った「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌である。この長歌で、舒明天皇は伊耶那岐命の憧れを示して「小国・日本の軍王のちの開化天皇が、倭女王卑弥呼と素(もと)より不和であった狗奴(くな)(吉備地方)討伐を指揮した所縁(ゆかり)の安益郡(現在の香川県坂出市と綾歌郡の東部の地)の網の浦(坂出市の海岸)に到着すると、伊耶那岐命が本陣を設営した讃岐富士の飯野山(いいのやま)から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまを見ていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、蘇我入鹿と情を通じているにちがいないと噂(うわさ)される妻の宝皇女と離縁しようかと決意したものの妻が愛(いと)しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、憂いを晴らすことができないでいる。小国・日本へ赴任する時に伊耶那美命と伊耶那岐命が〔塩許々袁々呂々邇(しおこをろこをろに)と画()き鳴らす国土生み儀式〕をおこなった舞台となった瀬戸内海の一角にある網の浦の娘たちが焼いて塩を作る時の沸騰する熱湯のように熱く重く、愛と憎しみとの間で苦悶するわが心よ」と表現している。

 そしてわがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、下記の『万葉集』485番の岡本天皇(天武天皇の生母の宝皇女)が作った長歌は【日本国誕生史の秘密】を解明できる重大な糸口(いとぐち)となる、多数の『万葉集』の和歌にあって【日本建国の〔愛〕の理念】を明確に表現する最も代表的な作品である。
 神代(かみよ)より 生()れ継ぎくれば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむろ)の 通(かよ)ひはいけど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 485番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――神代の伊耶那美命が小国・日本の女王に就任して伊耶那岐命とオノゴロ島(淤能碁呂島)で結婚したときに【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえました。そして伊耶那美命が没して墓が作られたとき、伊耶那岐命は「吾(われ)は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎました。この伊耶那美命と伊耶那岐命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を神代から国民は生まれ代々受け継いできたために、国民は国土に満ち満ちて、人々は空を覆って飛ぶ(通う)味鴨(あぢかも/トモエガモ)の無数の大群のように、わたくしの目の前を愛睦(あいむつま)まじく通りすぎていきますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたくしと蘇我入鹿との仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否して抱いてくれません。わたくしは、昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は ほうとうに長い夜でした。

◆舒明天皇と宝皇女の息子は66813日に即した第38代・天智(てんじ)天皇と、673227日に即位した第40代・天武天皇である。天智天皇は兄で皇太子の時の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であり、弟の天武天皇は皇太弟の時の名は「大海人(おおあまの)皇子」であった。
 中大兄皇子は【日本国誕生史の秘密】を詠()む、『万葉集』13番の「大和三山の歌」の長歌と14番の反歌(はんか)を作った。
 3世紀(280年~289)に中国で著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』において「景初二年六月倭の女王」という文から最終部までの記事は、中大兄皇子が作った『万葉集』13番・14番の和歌と同じく【日本誕生史の秘密】を伝える。〔注 『魏志倭人伝』の文字数は合計約2000字で構成され、【日本国誕生史の秘密】を伝える「景初二年六月倭の女王」という文から最終部までの記事は約600字・約30%である〕。

◆『魏志倭人伝』の後半にある「景初二年六月倭の女王」の記事から倭女王の壱与(いよ)が登場する末部までの約600字・約30%の記事は、下記のごとく説明するものであった。
 ――『魏志倭人伝』末部に登場する「倭女王・壱与」は、『古事記』上巻に登場する13歳で小国・日本の女王に就任した伊耶那美命の夏音名(夏音文字の名)であった。
 伊耶那美命・壱与は小国・日本の女王の就任式において18歳の伊耶那岐命と結婚する時に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という10字の夏音文字の詞(ことば)で「日本国(小国・日本)の国土生みの柱を〔愛〕にいたしましょう。やさしい男(おのこ)よ」と宣誓した。この【日本建国の〔愛〕の理念】は一気に評判となり、小国・日本はもちろん卑弥呼が治める倭国の国中すみずみまでに知れ渡った。
 倭女王・卑弥呼は没して大きな墓が造られ、百余人の奴婢(ぬひ/18歳ころの青年と13歳ころの乙女)が殺されて卑弥呼の墓に埋められる徇葬(じゅんそう)がおこなわれた。
 伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する倭国の国中の人民は、徇葬を憎悪して武器を持って倭王朝軍と戦った。倭王朝軍は反乱する人民を千余人殺した。
 この大乱(たいらん)に乗じて卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国が倭国を倒さんと戦争を大々的に仕掛けてきた。
 このため、倭国と倭王朝はにわかに滅亡の危機におちいった。
 卑弥呼の後を継()ぐ男王を大王と倭王朝の面々は「そもそも人民の反乱と狗奴国の襲撃は、壱与(伊耶那美命)がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を人民たちが憧れておきたゆえ、この禍災(わざわい)の原因は伊耶那美命にある」と非難して、倭国における小国・伊耶(いや)国出身の伊耶那美命を倭国に帰国させて、大乱を鎮圧(ちんあつ)して狗奴国を討伐(とうばつ)する倭女王に任命すると伊耶那美命に命令した。
 伊耶那美命が倭女王に就任することを知った反乱する人民たちは、〔愛〕の女王・伊耶那美命ならば必ず徇葬は否定して禁止するにちがいないと信頼して武器を捨てたゆえ、倭国は平定された。
 伊耶那美命は狗奴国討伐に反対し、狗奴国の男王との話し合いで平和的に解決するようにと命じた。
 倭女王・伊耶那美命の命令に反対する倭王朝は、狗奴国討伐を命令し鼓舞(こぶ)する壱与の代役に天照大御神を就任させた。天照大御神は、伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった。
 天照大御神・伊迦賀色許売命が伊耶那岐命の父の第8代・孝元(こうげん)天皇と結婚して、第10代・崇神(すじん)天皇を生んだ。伊耶那岐命は父の孝元帝の後を継ぐ第9代・開化(かいか)天皇であった。第10代・崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇の異母弟であった。したがって、伊迦賀色許売命は伊耶那岐命・開化天皇と結婚して第二后となったゆえ、伊耶那岐命の異母弟の崇神天皇は伊耶那岐命の養子であったことになる。伊迦賀色許売命は伊耶那岐命に離縁されたため、伊耶那岐命の妻という戸籍を失った彼女は伊耶那岐命の祖父の孝霊(こうれい)天皇の娘「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびのももそひめのみこと)」という名を受け継いだ。だから、『日本書紀』崇神天皇紀は、「倭迹迹日百襲姫命(伊耶那岐命の第二后の伊迦賀色許売命)は崇神天皇の姑(おば)である」と記す。

◆『日本書紀』崇神天皇紀6年の条(くだり)には、下記のごとく「崇神天皇の異名(いみょう/別の名)は天照大御神であった」と伝える記事がある。
 「崇神天皇に諸々の氏族(百姓)が服従せずに流離(りゅうり)し、あるいは背(そむ)く者も出て、その勢いは徳をもって治めることができなかった。これゆえ、天皇は朝早く起きられ、夜遅くまで、謹んで天神地祇(ちぎ)をお祭りになって謝罪された。これより先に、天照大御神と倭大国魂(わのおおくにたま)のニ神を、天皇の大殿(居所)の中にお祭りした。ところが、ニ神は、それぞれの勢いを畏(おそ)れて、共に大殿の中に一緒(いっしょ)に住むことを安心なされなかった。そこで、天照大御神には、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をお付けになって、倭の笠縫邑(かさぬいむら/奈良県桜井市三輪の檜原社)に移して祭ることにした。そして、檜原神社の境内に磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)を立てた。〔つまり、天皇がお住みになられる皇居〈磯城瑞垣宮(しきのみずかきみや)〉という名にちなんで磯の石を並べて垣根にする祭場(聖域)を設置した。〕また、大殿の中に住む日本大国魂神(にほんおおくにたまのかみ)には渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみこと)をお付けになって、祭るように命令した。しかし、渟名城入姫命は、髪がぬけ落ち、身体が痩()せ細って日本大国魂神をお祭りすることができなかった。」
 この記事が伝えるように、崇神天皇は天照大御神を崇拝した。だから、崇神天皇の異名は『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀において「天照大御神」と表記されたのである。
 「倭大国魂」と「日本大国魂神」を名前が異なるが同一神である。ゆえに、小国・日本の女王・伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪する崇神天皇・天照大御神は、「伊耶那美命」と「日本建国の〔愛〕の理念」に「倭大国魂」または「日本大国魂神」という名称を付けた。そして、天皇の呪詛(じゅそ/のろい)の害が天照大御神に及ばないようにするため、皇居から遠く離れる磯堅城の神籬に移して、豊鍬入姫命に祭らせることにした。
 日本大国魂神を祭ることになった渟名城入姫命は天皇の呪詛の害(多分、毒でも盛ったのであろう)によって、頭髪が抜け落ち、痩せ細って【日本建国の〔愛〕の理念=日本大国魂神】を祭ることができなかった。だから、髪が抜け落ちて痩せ細った渟名城入姫命は【天照大御神・崇神天皇が憎悪し呪詛して願った日本建国の〔愛〕の理念の消滅・抹殺】を意味した。
 『古事記』上巻は「伊耶那美命は淤能碁呂島(おのごろしま)で伊耶那岐命と結婚した時、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた」と記述する。「淤能碁呂島」の[]の字義は「どろ()、つまり稲が育つ水田の肥えた泥」である。「渟名城入姫命」の先頭字[]の字義は「水が停()まって流れないこと、つまり水田に溜まる流れない水」である。ゆえに、「渟名城入姫命」は「伊耶那美命が【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた淤能碁呂島」を表現する名であったことになる。
 『古事記』上巻に登場する天照大御神は最初に女性、後で男性となる――ゆえに、【前者の女性の天照大御神は、崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命】。【後者の男性の天照大御神は伊迦賀色許売命の息子の崇神天皇】であったのである。
 そして、『魏志倭人伝』末部に登場する武将の載斯烏越(そしあお)は、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命(いざなきのみこと)の夏音名であった。倭王朝は伊耶那岐命・載斯烏越を討伐軍の大将に就任させて、狗奴国を滅亡させた。
 伊耶那美命の出生地は『魏志倭人伝』に登場する倭の小国「伊耶国」であった。伊耶国は「旧国丹波(現在の京都府中部と兵庫県の一部)」であった。
 「伊耶国出身の那(桃の花)のように美しい女王」と人民に愛称されたゆえ「伊耶那美命」と呼ばれた小国・日本の女王は、上記したように後年に倭女王・壱与に就任し、伊耶那美命・壱与の本名は竹野比売(たかのひめ)であり、伊耶那岐命の正妃であった。
 『古事記』中巻の第9代開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に住んで天下を治めた。天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売と結婚した」と記述する。開化天皇の居殿「伊耶河宮」の先頭2字は「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」に合致する。したがって、伊耶那岐命は後の開化天皇であったことになる。

◆中大兄(なかのおおえの)皇子・後の38代天智(てんち)天皇は狗奴国討伐をテーマにして長歌と反歌(はんか)を作った。この長歌と反歌は『万葉集』13番の「大和三山の歌」と14番の短歌となる。
 『万葉集』13番の「中大兄皇子の大和三山の歌」は下記のごとくである。
 「香具山(かぐやま)は 畝傍雄男(うねびをを)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしへ)も しかにあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」
 この長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
 「大和の香具山で象徴される伊耶那美命は、畝傍山で象徴される伊耶那岐命(狗奴国を討伐する夫)は雄男しすぎると嘆(なげ)き、耳成山に象徴される天照大御神と狗奴国討伐について意見が対立して争った。伊耶那美命は平和的に解決すべきであると主張したのに対して、天照大御神は狗奴国を討伐すべきであると主張した。このように、神代の伊耶那岐命の正妃の伊耶那美命と第二后の天照大御神は争った。古代がそうであったように、今も吾と弟の大海人皇子(天武天皇)は額田王(ぬかだのおおきみ)を妻にしようとして争っている。このように、男女の仲は、昔も今も変わらず争いが絶えない。」

 『万葉集』14番の反歌は下記のごとくである。
 「香具山と 耳成山と あひし時 立ちて見に来()し 印南国原(いなみくにはら)
 この反歌を現代語訳すると、下記のごとくなる。
 「香具山・伊耶那美命(壱与・竹野比売)は狗奴国討伐に反対し、耳成山・天照大御神(壱与の代役をつとめた伊迦賀色許売命)が狗奴国討伐を賛成して、相(あい)対立したとき、この対立を心配して阿菩(あぼ)の大神が見に来たという、壱与の代役となって天照大御神が狗奴国討伐成就の願いがかなえられる地霊を呼び興(おこ)す聖地とした“印南国原”は、ここなんだ!」〔注 印南国原は伊耶那岐命と伊耶那美命を主祭神とする伊弉諾神宮の真北の、兵庫県明石市から加古川市にかけての平野部〕 
 この反歌に登場する「阿菩の大神」は「死んだ卑弥呼の霊魂」であったにちがいない。
 というのも[]の字義は、「大陵(大きな陵墓)」であるゆえ「大きな卑弥呼の陵墓」を指すからである。[]の字は「倍草。つまり、苗の時より収穫期には茎が数倍に増える禾()」を意味する。そして、[]の原字(最初の文字)は「稲」を意味する[()]であり、[]の字源は[]の字源を直接的に受け継いだ。だから、「阿菩の大神」は「大きな陵墓に葬られた倭女王・卑弥呼の霊魂」を意味したことになる。

 以上のように、661年春正月、斉明天皇(舒明天皇の皇后であった宝皇女)は船団を組んで、新羅(しらぎ)遠征のために印南野が見える播磨灘を通過する時、中大兄皇子が作った『万葉集』13番の長歌と14番の短歌は、令和元年の即位礼正殿の儀と大嘗祭において表現された【日本建国の〔愛〕の理念の秘密】を伝えていたのである。

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2019年12月 3日 (火)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・7

★#7・中大兄皇子が決行した乙巳の変は、大嘗祭の秘密を伝える

◆このブログが前回(6)でも指摘したように――令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく報道した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)【弥生時代から続く祭儀】と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統】を受け継ぐ。
 令和の即位式と大嘗祭が受け継いだ、(1)【弥生時代(3世紀後半)から続く儀式】は――天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母・伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)の歴史を伝える「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)【天武天皇からの大嘗祭の伝統】は――このブログが前回まで解説し証明してきた【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された。

◆このブログで前回(6)まで解説してきたが――【夏の銀河から漢字が作られた学問】の詳細については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆弥生時代(3世紀後半)に生存した天照大御神母子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視すれば皇室は永らく栄えるという信念にもとづいて大和朝廷の基礎を築いた。
 このブログ前回(6)で解説したように、聖徳太子(しょうとくたいし)の【夏の銀河から漢字が作られた学問】を軽視する政策失敗によって、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなった皇室の権勢は衰弱して脆弱(ぜいじゃく)となった。

 第33代・推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥(おい)の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつ)を保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に擁護(ようご)されることになった。だから、皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を支配することができた蘇我大臣家は、にわかに強大な権力を手中におさめることになったのである。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、聖徳太子が排除した巫覡(ふげき)たちは百済から輸入した仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難(むずか)しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者(皇族や貴族)たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫覡たちを時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼する事態となった。
 当時の皇族・貴族たちは、【夏の銀河から漢字が作られた学問】のほうが【鬼道(きどう/神道の先祖)】よりも【仏教】よりも勝っていると考えていたのである。なぜならば、【鬼道】は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を母として生まれた子であり、仏教の経典は【夏の銀河から作られた楷書(漢字)】で記載されていたからである。つまり、【夏の銀河から作られた楷書】によって仏教を知ることができるゆえ、「当然、【仏教】よりも【夏の銀河から作られた夏音文字や楷書の学問】のほうが勝っている」と、彼らは考えたのである。
 聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちは過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための邪魔になると考えて排除したため、大失敗した。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる皇族・貴族たちは、仏教の経典の楷書の解読を成し遂げた巫覡たちを排除した結果、皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判に対して、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆推古天皇の後を、第34代・舒明(じょめい)天皇が62914日に即位した。舒明天皇の皇后は宝(たから)皇女である。宝皇女は642115日に即位した第35代・皇極(こうぎょく)天皇であり、また宝皇女は65513日に即位した斉明(さいめい)天皇であった。
 舒明天皇と宝皇女の息子が66813日に即位した第38代・天智(てんじ)天皇であり、673227日に即位した天智天皇の弟の第40代・天武天皇であった。この天武天皇の即位から大嘗祭は始まったとされる。
 上記した聖徳太子の政策失敗によって、蘇我馬子の息子の蝦夷(えみし)と孫の入鹿(いるか)の権勢が隆盛(りょうせい)を極(きわ)めていた。
 これゆえ、天智・天武両天皇の父・舒明天皇と母・皇極天皇の時代は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占できなくなった皇室の権勢は衰弱していた。
 天智天皇の皇太子時代の名は「中大兄(なかのおおえの)皇子」であった。
 蘇我大臣家の天下は長く続かず、中大兄皇子と中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ/のちの中臣鎌足)によってほろぼされ、大化(たいか)の改新が断行された。ここに律令(りつりょう)制という新しい政治体制の基礎固めがなされた。

641年、舒明天皇が亡くなると、蘇我蝦夷は宝皇女を天皇に即位させた。これが、皇極天皇である。
 蝦夷は皇極天皇の許可も得ずにかってに大臣の位を子の入鹿にゆずった。
 643年、入鹿は兵をつかわして斑鳩宮(いかるがのみや)に住む聖徳太子の子である山背大兄(やましろおおえ)王一家を襲撃して皆殺しにした(山背大兄王の変)。この暴挙で入鹿は評判を落とし、蘇我氏打倒の気運が生じることになった。
 中大兄皇子と中臣鎌子連は、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)のところへ儒学(じゅがく)の勉強に通う往復の道で、蘇我氏打倒の計画を相談した。
 二人は仲間づくりを始め、中臣鎌子連はまず、蘇我一族のなかで蝦夷・入鹿をきらう蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだまろ)をだきこむため、彼の娘を中大兄皇子の妃(きさき)とする案を立て、倉山田麻呂を後援者にすることに成功した。またクーデターの実行にたずさわる人物として佐伯部子麻呂(さえきべのこまろ)、葛木稚犬養網田(かつらきのわかいぬかいのあみだ)の二人を引き入れた。
 645612日、宮中で三韓朝貢(さんかんちょうこう)の儀が行われ、入鹿も出席した。中大兄は倉山田麻呂に三韓の上表文を読ませ、その隙(すき)に入鹿を斬る計画を立てた。中大兄は自ら長槍(ながやり)をとって、式場内の柱の陰にかくれ、鎌子連らは弓矢をもって護衛した。しかし、子麻呂と犬養連網田は緊張(きんちょう)のあまり手足がふるえて斬りつけられなかった。上表文が終わりに近づいた倉山田麻呂は、子麻呂らが飛び出して来る気配がないため恐ろしくなり、全身に汗がふき出して、声も乱れ手も震えた。そばにいた入鹿は怪しんで「なぜ震えているのか」ととがめた。子麻呂らが恐怖で躊躇(ちゅうちょ)しているのを見た中大兄は「ヤア」と掛け声をあげるや子麻呂らも一緒になっておどり出て、中大兄は剣をもって入鹿の頭と肩に斬りつけた。おどろいた入鹿は座を立とうとすると、子麻呂らが剣をふるって入鹿の片方の足に斬りつけた。入鹿は天皇の御座の下に転落し、「日嗣(ひつぎ)の位においでいるのは天子である。私にいったいなんの罪があるのか。そのわけを言え」つまり「徳をもって私の命を救ってこそ天子である」と、天皇に必死に訴えた。
 天皇はたいへん驚き、中大兄に「これはいったい何事が起ったのか」と言われた。中大兄は平伏して「鞍作(くらつくり/入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」と奏上(そうじょう)した。
 つまり、中大兄は「棚から落ちた牡丹餅(ぼたもち)が口に入った」ごとく【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちのために権勢が隆盛になった入鹿が天子・天皇家に代わってどうして天下を治めることができるか。絶対に無理である!」と訴えたのである。
 天皇は事のあらましをさとり、奥へ退いてしまった。入鹿は子麻呂と犬養連網田にとどめをさされた。
 翌13日、蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。そのとき、船史恵尺(ふねのふびとえさか)は素早く焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。
 蝦夷は自殺し、蘇我大臣家はあっけなく滅びた。これを「乙巳(おつし)の変」という。

◆乙巳の変によって、皇室は【夏の銀河から漢字を作られた学問】を独占管理できて、従来(推古王朝以前)と同じく権勢をとりもどすことができた。
 『日本書紀』推古天皇紀は「推古天皇20(620)、皇太子・聖徳太子と大臣・蘇我馬子が相議(あいはか)って、天皇記および国記(くにつふみ)、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記(もとつふみ)を記録した」と記述する。
 したがって、【乙巳の変で、蝦夷が焼いた天皇記・国記】は620(推古天皇20)に編纂(へんさん)が勅令(ちょくれい)された書物であったことになる。
 上記したように――聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)たちを、崇仏(すうぶつ)政策を推進するのに邪魔(じゃま)になると排除した。だから、巫覡(ふげき)たちは蘇我大臣家を頼った。これゆえ、蘇我大臣家は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通した巫覡によって、皇室と二分する権勢を手に入れることができて隆盛をきわめたのである。
 蘇我大臣家に擁護(ようご)された【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡たちは、仏教の経典に羅列(られつ)される難解きわまりない楷書を解読して皇族や貴族たちに最も信頼されていたゆえ、夏音文字や楷書で書く天皇記および国記などの編纂(へんさん)を担当することになったのである。だから、蘇我大臣家は本来皇室と国家が所蔵すべき天皇記・国記を所蔵できたゆえ、蝦夷は自らの家で保管する天皇記・国記を焼くことができたのである。
 したがって、乙巳の変の時に蘇我大臣家に天皇記と国記が所蔵されていたということは、聖徳太子に排除されて蘇我大臣家が擁護した巫覡たちが【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通していたことを証明し、また620年に推古天皇が編纂を勅令(ちょくれい)した天皇記および国記、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記などを整理する編纂は蘇我大臣家に擁護された巫覡たちによって成されたことになる。

◆上記したとおり、『日本書紀』は「乙巳の変で、船史恵尺によって国記は消失しなかったが、天皇記は消失した」と記述する。
 712(和銅5)正月28日に完成して元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の下巻は推古天皇紀で終わる。
 ということは、随所に〔音〕という注が付く多数の夏音文字を記載する【『古事記』上巻の原典】は、【蘇我大臣家で擁護された巫覡たちが編纂した国記、船史恵尺によって焼失しなかった国記】であったことになる。
 また、【乙巳の変で天皇記は消失した】ため、【『古事記』中巻・下巻の天皇紀】は【天皇家・各貴族家・臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らに残っていた資料など用いて、新たに編纂しなおした記録】であったことになる。
 『古事記』の序(古事記上巻 幷わせて序)に登場する「本辞(ほんじ)」、「旧辞(きゅうじ)」、「先代の旧辞」は、推古天皇が勅令して巫覡たちが編纂された「国記」を指していることになる。
 『古事記』の序に登場する「帝紀(ていき)」、「帝皇日継(ていおうのひつぎ)」は「新たに編纂しなおした天皇紀」であったことになる。

◆以上のごとく、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は、皇室が“い”の一番・最初に必要とする最大・最強の政権基盤であった。
 聖徳太子が【夏の銀河から作られた学問】を知得する巫覡たちを排除したため、その巫覡たちが蘇我大臣家に擁護されて【夏の銀河から漢字が作られた学問】によって天下を治める権勢が二分されたように、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は独占管理して厳重(げんじゅう)に機密にしてこそ効力が発揮された。
 【夏の銀河から漢字が作られた学問の秘密】を知って、これを暴露した人物と一族は時の王朝の転覆を謀(はか)って国家安寧(こっかあんねい)を害する大罪を犯したことになるゆえ、即刻に死刑されたのである。
 【夏の銀河から作られた学問】は正(まさ)に「沈黙は金なり」で知っていても沈黙していることが賢明であったのである。沈黙していれば相当大なる権力と豊かな財力と人々に尊ばれる名誉を手に入れて安穏(あんのん)に生きていることができたからである。
 もしもある人物や家が天下を手に入れようとして「漢字は銀河から作られた」と暴露しても――この暴露によって多くの氏族・家柄・人々が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を学んで天下を手中に入れようとするため、戦乱が絶えなくなる。ゆえに、「漢字は銀河から作られた」と暴露した人物や家がたとえ一時(いっとき)天下をとっても、あっけなく滅亡することになったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は「沈黙は金なり」ということになったゆえ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理して厳重に機密を保持(ほじ)した皇室が永らく栄えて滅亡せずに現在まで存続したのである。
 したがって、令和の即位礼正殿の儀と大嘗祭は【紀元前3000年ころに生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法】と【紀元前2070年ころ~紀元前2050年ころの中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭に、習得した夏音文字の学問】と【2世紀末から出現して7世紀に完成した楷書――夏音文字の音符となった楷書も夏の銀河から作られた】などと伝える【夏の銀河から漢字が作られた学問儀式】であったことになる。

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2019年12月 1日 (日)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・6

★#6・伊耶那岐命と伊耶那美命に憧れた舒明天皇と宝皇女

◆令和元年118日の朝日新聞の朝刊は「大嘗祭 ひもとけば」と題する記事で、下記のごとく指摘した。
 ――日本古代文学が専門の工藤隆・大東文化大学名誉教授は「大嘗祭の本質は、先史時代までさかのぼって考えないとわからない」と主張する。(中略)。弥生時代から続くこれらの祭を下敷きにしつつ、7世紀の天武・持統両天皇の時代に最も重要な祭儀として整備された」とみる。
 日本書紀などには「天皇の璽印(みしるし)を奉る」などの記載がある。天武天皇より前から、継承の証しとして剣・印などを新天皇に渡す儀式は行われていたようだ。
 文献では、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る新嘗祭(にいなめさい)を大規模にした「大嘗(おおにえ)」を天武天皇の即位に際し初めて実施されている。続く持統天皇の時には即位礼に続く形で行われ、飛鳥時代にこの形式が整えられたことがわかる。

◆令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明までに行われた大嘗祭は、上記した(1)「弥生時代から続く祭儀」と(2)7世紀の天武天皇からの大嘗祭の伝統」を受け継いでいるだけでない。
 (3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において新たに【日本建国の〔愛〕の理念】をも加えられた大祭でもある。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した(1)(2)(3)の、3つの要素】から構成される学問儀式であった。

◆令和の即位式と大嘗祭では、(1)弥生時代(3世紀後半)から続く儀式は――天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母・伊迦賀色許売命/いかがしこめのみこと)の歴史をあらわす「三種の神器」をもって――表示された。

 (2)天武天皇からの大嘗祭の伝統は――このブログが前回まで解説し証明してきた【紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をもって表示された。
 つまり、令和の大嘗祭において、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000回余も繰り返す所作(しょさ)】で表示された。というのも、大嘗祭が始める午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀における所作に相似する銀河】が存在し、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。だから、【天皇陛下の供饌の儀】と【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は、共に【夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわしていたことになる。
 弥生時代(3世紀後半)に生存した天照大御神母子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最も重視すれば皇室は永らく栄えるという信念にもとづいて大和朝廷の基礎を築いた。この天照大御神母子は同じ弥生時代に生存した【伊耶那美命が唱えて、伊耶那岐命が受け継いだ〔愛〕を建国理念とした日本国誕生史】は憎悪して敵視した。というのも、【伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念】は【天照大御神が重視した夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅(おびや)かす危険な歴史にして思想であったからである。
 天皇の権力を絶大にするため、天武・持統両天皇は【夏の銀河から漢字が作られた学問を最も重視した天照大御神を皇室が最も偉大な先祖(至上神)と讃(たた)えて崇拝するための大嘗祭】を起源させて、皇室が永らく存続するように図った。このため、天武・持統両天皇は「【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は後世に絶対に伝えてはならない、抹殺(まっさつ)しなければならない」と考えた。というのも、【日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史】は【夏の銀河から漢字が作られた学問の権威】の脅威(きょうい)となり、しかも【天照大御神の聖性を著(いちじる)しく汚す】、天皇の権力を絶大にするための最大の障害となったからである。

 ところが、(3)江戸時代の1738年、桜町天皇即位の際に将軍徳川吉宗が協力して復興した大嘗祭において一大改革がなされ、天武・持統両天皇が「抹殺せよ」と命じた【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】が表現されることになった。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の悠紀殿・主基殿で行われた供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、天武・持統両天皇の命令を破棄(はき)して、1738(元文3)の第115代・桜町天皇の時に【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】を新しく加えるという、一大改革した儀式であったのである。
 だから、令和元年1022日の即位礼正殿の儀と1114日夕方から翌日未明に終了した大嘗祭は【上記した3つの要素】から構成される学問儀式であったことになる。

◆【全漢字が夏の銀河から作られた事実】と【日本国誕生史と【本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
 なお、1022日に行われた【即位式正殿の儀】が【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式である証明は、わがブログ「邪馬台国説はフェイクであった!」の1回~20回で解説し証明した。「邪馬台国説はフェイクであった!」の12回~20回までは【即位式正殿の儀】は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式であることを具体的に解説し証明した。

◆このブログの初回(1)で詳細に解説したように、『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷わせて序)初頭の記事は、下記のごとく記述する。
 【古事記上巻 幷わせて序】の冒頭は「臣安万侶言(しんやすまろまを)す」と記す。
 次の「それ混元既(こんげんすで)に凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く、為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文である。
 この文で、太安万侶はわが国に中国から夏音文字が伝来して習得された歴史を、下記のごとく説明している。
 「漢字が発明されていなかった紀元前4000年ころの中国とわが国の各地において前期縄文時代初頭以前における天頂にめぐってくる銀河の形状は混沌(こんとん)として凝り固まっていましたが、文字となる気象(イメージ)は未だ現れていませんでした。ですから、文字で名をあらわすことも無く、文字で名をあらわす方法も存在しませんでした。ゆえに、現在において(『古事記』が完成した712年当時)、前期縄文時代初頭以前の天頂にめぐってきた銀河の形状を知ることができません。しかし、紀元前4000年ころからから始まる前期縄文時代、倉頡が漢字作成方法を発明した紀元前3000年ころから始まる中期縄文時代、紀元前2070年~紀元前2050年頃の後期縄文時代初頭までの参時代においては、[]の字源・字形・字義となった【夏の銀河の最北端部にある、乾いた沙漠のようなイメージの銀河部】と、その隣に[]の字源・字形・字義となった【十字の銀河】が天頂にめぐってきましたから、わが国では造化(芸術作品)の〔【夏の銀河】の印象をあらわす、表面に渦巻き文が全面にほどこされる土器〕や〔【十字の銀河】や【人の横顔に酷似する銀河か夏の銀河の西南部】までの印象をあらわす、人体を模(かたど)る土偶(どぐう)〕が作られて、【夏の銀河を見たときの人々の印象】が伝えられ、後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)において、中国から名門益氏(えきし)の王子と青年たちが日本列島に移住してもたらした夏音文字の学芸は【夏の銀河の印象】をあらわす土器・土偶を造った芸術家たちによって習得されました。」
 したがって、【古事記上巻 幷わせて序】は――倉頡が漢字作成方法を発明した約950年後の紀元前2070年~紀元前2050年ころの後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡が定めた掟によって、夏の銀河の各部の形状が文字(字源・字形・字義)となった夏音文字の学問】が中国から伝来して習得された――と伝えていたことになる。
 皇室は権力と財力基盤であった【倉頡が発明した漢字作成方法と夏音文字の学問】を厳重な機密にして独占管理して栄えたゆえ、現在まで存続して滅びなかったのである。
 だから、現在の大嘗祭が本格的に復興された1738年当時の皇室は、上記した【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の文が伝える事実をもちろん知っていた。だから、令和の大嘗祭において悠紀殿と主基殿で天皇陛下による供饌の儀は【倉頡が発明した、夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわすことになったのである。
 しかし、現在の学者たちは一人も【古事記上巻 幷わせて序】の文を正確に読解(どっかい)できないゆえ、彼等は「学問儀式の【天皇の神々の祈り】・【即位式正殿の儀】・【大嘗祭】は宗教的儀式である」と錯覚する幻想に憑()りつかれている。

◆【古事記上巻 幷わせて序】の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字を習得した」という記述は事実であった。
 だから、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した字源を解説する字書の『字統(じとう)(平凡社発行)の〔わが国の漢字音〕と題する初頭の文は「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという定説は誤っている。中国の上古音よりも古い・現存する最古の漢字音がわが国には保存されている事実」を、次のように説明する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の文が明確に伝えるように、【古事記上巻 幷わせて序】の初頭の「後期縄文時代初頭、わが国は夏音文字の学問を習得した」という説明を学者たちは正しく読解できずに【誤読】するゆえ、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀であるという空理空論・空想・幻想に憑()りつかれる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付いて夏音文字は多数残されており、3世紀(280年~289)に中国で著作された『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の人名・小国名・官職名に用いられて夏音文字は消滅せずに残っている。だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」と断定する定説は空理空論・空想ということになる。

◆このブログの前回(5)は、「なぜ聖徳太子は天皇になれなかったか」、この原因について下記のごとく解説した。
 第33代・推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥(おい)の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 この崇仏(すうぶつ)政策において、聖徳太子は大失敗した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつを保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に擁護(ようご)されることになった。だから、皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を蘇我氏は支配することができたため、にわかに強大な権力を手中におさめることになった。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、聖徳太子が排除した巫女と覡たちは百済から輸入した仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難(むずか)しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者(皇族や貴族)たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫女と覡を時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼する事態となった。
 当時の皇族・貴族たちは、【夏の銀河から漢字が作られた学問】のほうが【鬼道(きどう/神道の先祖)】よりも【仏教】よりも勝っていると考えていたのである。なぜならば、【鬼道】は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を母として生まれた子であり、仏教の経典は【夏の銀河から作られた楷書(漢字)】で記載されていたからである。つまり、【夏の銀河から作られた楷書】によって仏教を知ることができるゆえ、「当然、【仏教】よりも【夏の銀河から作られた夏音文字や楷書の学問】のほうが勝っている」と、彼らは考えたのである。
 聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡は過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための邪魔になると考えて排除したため、大失敗した。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる皇族・貴族たちは、仏教の経典の楷書の解読を成し遂げた巫覡を排除した結果、皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判に対して、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆聖徳太子が死去した4年後の626520日、大臣(おおおみ)の蘇我馬子が没した。
 息子の蝦夷(えみし)が大臣を継いだ。上記した聖徳太子の【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫覡を排除した崇仏政策による失政によって、当時の最も強大な政権基盤である【夏の銀河から漢字が作られた学問】の威厳が蘇我大臣家と二分して脆弱(ぜいじゃく)となった天皇の権勢が弱体したため、蘇我蝦夷の権勢は馬子の時よりも盛んとなった。
 当時における有力な皇族は田村(たむら)皇子と山背大兄(やましろのおおえの)王の二人であった。田村は皇室の嫡流(ちゃくりゅう)であり、山背は推古天皇の甥の聖徳太子の子であった。
 62837日、推古天皇は次の天皇に即位するのは田村と山背のどちらとも決めかねて死去した。
 蝦夷は自邸に有力豪族を招集して田村と山背のどちらを次の天皇に即位するのかについて意向(いこう)をたずね、全員の一致を得られないと知ると、山背を天皇にと考えるおじの境部摩理勢(さかいべのまりせ)父子を武力で討ち取り、強引に田村皇子を即位させた。これが、62914日に即位した第34代・舒明(じょめい)天皇であった。舒明天皇の皇后は宝(たから)皇女であり、宝皇女は642115日に即位した第35代・皇極(こうぎょく)天皇であり、また彼女は65513日に即位した第37代・斉明(さいめい)天皇であった。
 舒明天皇と宝皇女の息子が66813日に即位した第38代・天智(てんじ)天皇であり、673227日に即位した天智天皇の弟の第40代・天武天皇であった。この天武天皇の即位から大嘗祭が始まったとされる。
 したがって、天智・天武両天皇の父・舒明天皇と母・皇極天皇の時代は、蘇我蝦夷と息子の入鹿(いるか)の権勢が隆盛(りゅうせい)を極(きわ)めていた。
 これゆえ、舒明・皇極の両天皇の時代は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室が独占管理できなかったために、その権勢は衰弱していたことになる。

◆皇族や貴族において【強大の権力】を尊重する人々は【夏の銀河から漢字が作られた学問】を最高に勝るものと考えた。
 しかし、皇族や貴族において人民と同様に「【日本建国の〔愛〕の理念】のほうが【夏の銀河から漢字が作られた学問】よりも勝っている」と考える人々もいた。
 3世紀前半期(230年ころ)13歳の小国の日本の女王・伊耶那美命(いざなみのみこと/旧国丹波国生まれの本名は竹野比売)18歳の小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命(いざなきのみこと/のちの第9代開化天皇)と結婚するとき(つまり、小国・日本国が誕生するとき)、【日本建国の〔愛〕の理念】を唱えた。【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝える『古事記』は、712年正月28日に第43代・元明(げんめい)天皇に献上して拒絶(きょぜつ)されて正史になれなかった。【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話冒頭の淤能碁呂島聖婚(おのごろしませいこん)説話に10字の夏音文字「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」で記述されている。この10字の夏音文字は「小国・日本の国土(くに)生みの柱を〔愛〕にいたしましょう、やさしき男(おのこ)よ」と意味した。
 この伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】は小国・日本はもちろん、卑弥呼が治める倭国の国中のすみずみまでたちまち知れ渡り、諸々の地方の首領(豪族)はじめ人民たちに最も尊重された。
 倭国に一員であった小国・伊耶(いや)(旧国丹波)生まれの竹野比売(たかのひめ)を、人民たちは「伊耶国出身の那(桃の花)のように美しい小国・日本の女王」を省略して「伊耶那美命」と呼んで敬愛した。

7791月に完成したと考えられる『万葉集』には、蘇我大臣家と【夏の銀河から漢字が作られた学問】を二分して苦悩した舒明天皇と皇后・宝皇女(のちの皇極天皇、斉明天皇)が伊耶那美命と伊耶那岐命に憧れて【日本国誕生史】や【日本建国の〔愛〕の理念】を題材にして作った和歌が幾つか収められている。
 『万葉集』2番は舒明天皇が作った「天皇が香具山に登って国見(くにみ)をされた時」の長歌である。この長歌で舒明天皇は「伊耶那美命を象徴する天の香具山こそが大和に所在する諸々(もろもろ)の山で最も優れている」と伊耶那美命を讃えている。
 『万葉集』5番は舒明天皇が作った「讃岐国(さぬきのくに)の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王の山を見て作る歌」と題する長歌である。この長歌で、舒明天皇は伊耶那岐命の憧れを示して「小国・日本の軍王のちの開化天皇が、倭女王卑弥呼と素(もと)より不和であった狗奴(くな)(吉備地方)討伐を指揮した所縁(ゆかり)の安益郡(現在の香川県坂出市と綾歌郡の東部の地)の網の浦(坂出市の海岸)に到着すると、伊耶那岐命が本陣を設営した讃岐富士の飯野山(いいのやま)から越えてくる風が、孤独な朕(われ)の衣の袖を朝な夕なに吹き返す。この袖が風に揺れるありさまを見ていると、いつしか宮殿に帰ろうかと思うようになり、強い男だと思っていた自分も旅先のことゆえ気弱になり、蘇我入鹿と情を通じているにちがいないという噂がある妻の宝皇女と離縁しようかと決意したものの妻が愛(いと)しくなり、愛しくなれば憎さがつのり、憂いを晴らすことができないでいる。小国・日本へ赴任する時に伊耶那美命と伊耶那岐命が〔塩許々袁々呂々邇(しおこをろこをろに)と画()き鳴らす国土生み儀式〕をおこなった舞台・瀬戸内海の一角にある網の浦の娘たちが焼いて塩を作る時の沸騰する熱湯のように熱く重く、愛と憎しみとの間で苦悶するわが心よ」と表現している。

◆わがブログ「#20 邪馬台国説はフェイクであった!」で詳細に解説したように、下記の『万葉集』485番の岡本天皇(宝皇女)が作った長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
 神代(かみよ)より 生()れ継ぎくれば 人さはに 国には満ちて 味群(あぢむろ)の 通(かよ)ひはいけど 我()が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮()るるまで 夜(よる)は 夜()の明くる極(きは)み 思ひつつ 眠()も寝()かてにと 明しつらくも 長きこの夜()(485)
 485番を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――神代の伊耶那美命が小国・日本の女王に就任して伊耶那岐命とオノゴロ島(淤能碁呂島)で結婚したときに【日本建国の〔愛〕の理念】をとなえました。そして伊耶那美命が没して墓が作られたとき、伊耶那岐命は「吾(われ)は一日に千五百の産屋(うぶや)が立つ政事(まつりごと)をおこなう」と宣誓して、故・伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継ぎました。この伊耶那美命と伊耶那岐命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】を神代から国民は生まれ代々受け継いできたために、国民は国土に満ち満ちて、人々は空を覆って飛ぶ(通う)味鴨(あぢかも/トモエガモ)の無数の大群のように、わたしの目の前を愛睦(あいむつま)まじく通りすぎていきますが、わたくしが恋い慕うあなた(舒明天皇)は、わたしと蘇我入鹿との仲を疑って、わたくしの夫であることを拒否してわたしを抱いてくれません。わたしは昼は日が暮れるまで夜は夜が明けるまで、あなたを思いつづけ、一睡(いっすい)もできませんでした。この夜は ほうとうに長い夜でした。

 このように父・舒明天皇と母・宝皇女は【伊耶那美命と伊耶那美命】に憧れ、【日本建国の〔愛〕の理念】のテーマとする和歌を作ったが――息子の天武天皇は673227日に即位に際し、天皇の権力を絶大にするため「天照大御神母子(10代崇神天皇とその生母)の聖性を著しく汚す【〔愛〕を国家理念に掲げた日本国誕生史】を抹殺せよ」と命じて、大嘗祭を起源させた。
 この【日本国誕生史における日本建国の〔愛〕の理念】が大嘗祭で表現されることになったのは、天武天皇が即位した年から約1070年後の17381119日の桜町天皇の大嘗祭からであったのである。

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2019年11月22日 (金)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・5

★#5・なぜ聖徳太子は天皇になれなかったか

◆このブログが前回(4)までで――令和元年1114日の夕方6時半から翌15日の午前4時ごろに終わった大嘗祭(だいじょうさい)における【天皇陛下の供饌(きょうせん)の儀】は「紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」をあらわす学問儀式であった――と証明してきた。
 倉頡は、天文学で「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる銀河」の各部の形状から漢字を作成する方法を発明した。この秘密は、この事実を記述する幾つかの古文献に学者たちが【誤読】を加えて排除・否定するため、学者たちは未だに解明していない。
 「全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明する代表的な古文献は中国の『史記』五帝本紀・夏本紀、孔子とならぶ中国の二大思想家の老子の教えを説く『老子』、“字書の聖典”と尊重された『説文解字』、『魏志倭人伝』そしてわが国の『古事記』上巻である。

◆大嘗祭は「紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法と、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた上古学問を現在に伝える、わが国に奇跡的に残された人類の歴史上における最も偉大な発明(文字の発明)を現在に伝えるビックイベント」であった。
 というのも、大嘗祭が始まる午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつのお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000余回も丁寧に繰り返す所作(しょさ)ソックリの銀河】が存在し、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌15日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。
 大嘗祭における【天皇陛下の供饌の儀の儀】は【倉頡が発明した漢字作成方法】を現在に伝える儀式であったのである。

◆わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において――古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた漢字と同じ【夏の銀河各部の形状】から作られた――事実を証明した。
 だから、令和元年の大嘗祭の催事と夜空に存在した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は――現在、世界中で用いられる大半の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られた事実――を示す地球規模的なビックイベントであったことになる。
 というのも、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字の先祖(ルーツ)とされるからである。古代エジプト文字をルーツとする現代ヨーロッパ文字であるABCアルファベットは、世界70ヵ国以上で公用語の文字として使用されているゆえ、漢字を含むと、世界中で使用されている7割から8割の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと証明されることになる。
 古代エジプト文字は、紀元前3100年ころ、起源したとされる。
 漢字は紀元前3000年ころに中国に生存した黄帝(こうてい)の女性生殖器と子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字の考案を目的にして、黄帝につかえていた史官(記録官)の倉頡が発明して起源した。
 だから、大嘗祭における【天皇陛下の供饌の儀】は紀元前3100年ころの古代エジプト文字と紀元前3000年ころの漢字は【夏の銀河各部の形状から作られた秘密】を現在に伝える壮大なイベントであったことになる。

◆「倉頡が【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明し、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】と定めた事実」は、712年正月28日に元明天皇に献上された『古事記』上巻の序(【古事記上巻 幷わせて序】)に説明されている。
 しかし、【古事記上巻 幷()わせて序】が説明する【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問】は(1)皇室が厳重に独占管理して革命や反乱を生じないようにするための最も強大な権力を手に入れるための方法であった。また(2)『古事記』上巻には皇祖天照大御神の聖性をいちじるしく汚す皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止した真実の歴史【日本建国の〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史】を伝える伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載されていた。この二重の大罪のため、元明天皇は『古事記』献呈を拒否した。
 したがって、『古事記』は皇室と国家を滅亡させる危険な思想を養う禁断の書物と定められた――このことが原因のうえに、さらに学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説の空想・幻想を抱くため、【古事記上巻 幷わせて序】が「わが国は後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭、中国から倉頡が発明した漢字作成方法を伝える学問が伝来して習得した。この夏音文字によって、倉頡が発明した漢字作成方法が、わが国に保存されることになった。ゆえに、大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にもとづく学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と説明していることを学者たちは読解できず、【誤読】を加えて排除するゆえ、大嘗祭を宗教的儀式と主張しているのである。
 このブログ前回(1)で詳細に解説したように、【古事記上巻 幷わせて序】は「わが国には紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された。これゆえ、わが国には紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法が保存されることになった。夏音文字は楷書を音符にして表記するが、夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義は【夏の銀河各部の形状】から作られた。だから、楷書も夏音文字も【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明していることになる。

◆上記した『古事記』の【古事記上巻 幷わせて序】に記載された【全漢字は夏の銀河から作られた事実】と【夏音文字の習得史】と【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆倉頡は自らが発明した漢字作成方法が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れることができる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が漢字作成方法を手に入れて革命に利用したならば、王朝は容易に滅亡すると心配した。
 ゆえに、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はじめ一族にも神罰が下って即刻に死刑に処すと定めた。
■倉頡が死刑と定めた三つの掟
(1)
【夏の銀河の各部の形状】から文字が作られたと暴露した者
(2)
文字を容易に習得するために、【夏の銀河の各部】に名称を付けた者
(3)
書いた文字が用済みになったならば、文字を直()ぐに消さない者または消し忘れた者
 上記の(3)の掟は、紀元前1300年ころに出現した殷代(いんだい)後半期の亀の甲羅に文字を刻んだ甲骨(こうこつ)文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟については厳重に守った。だから、(1)の掟によって「漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた秘密」について現在の学者たちは気づかない。また、点()と点()を結んで作る星座の形は素人(しろうと)にはさっぱりわからない、その星座には名称があるが、(2)の掟によって素人でもその形が容易にわかる【銀河各部の名称】は存在しない。

 中国でもわが国でも(3)の掟は厳重にまもられたため、紀元前3000年ころ~紀元前2080年ころまでの五帝時代の書契(しょけい)、紀元前2080年ころ~紀元前1600年ころまでの夏音文字、紀元前1600年ころ~紀元前1300年ころまでの殷代前半期の原初漢字は、遺跡から文字を記した資料が1点も出土していない。
 倉頡が死刑と定めた三つの掟によって、【夏の銀河各部の形状】が文字(字源・字形・字義)と定められたが――五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半の原初漢字では文字数が少なかったゆえ、(3)の掟は体制維持するためにむしろ好都合でありまた文字を絶対化・神聖化するためにもむしろ好都合であったゆえ、(3)の掟は不便ではなかったゆえ厳重にまもられることになったのである。
 しかし、殷代後半になると1万を超える膨大な文字が作られたゆえ、(3)の掟の保持は不便・不自由となった。ゆえに、王朝体制維持と文字の絶対化・神聖化が図られて文字は亀の甲羅や獣骨などに刻まれることになって、(3)の掟は破られた。
 甲骨文字の以前の五帝時代の書契・夏代の夏音文字・殷代前半期の原初漢字は(3)の掟を厳重にまもり、倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河各部の形状】を文字(字源・字形・字義)と定めていた。
 他方、甲骨文字以後の漢字は(3)の掟を破る文字であったが、倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって【夏の銀河各部の形状】を文字(字源・字形・字義)と定めていた。
 だから、甲骨文字以前の【夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とした原初漢字(書契・夏音文字・殷代前半期の漢字)】は【文字】として機能したゆえ、【最古の漢字】は【夏の銀河各部の形状】であったのである。
 したがって、学者たちは【最古の漢字】を【殷代後半の甲骨文字】と定めるが、この定説は空理空論・空想・幻想であったのである。

◆第33代・推古(すいこ)天皇の在位期間は593年~628年までである。
 600(推古天皇8)、推古天皇は隋に使節を派遣した。
 中国の正史『隋書(ずいしょ)』倭国伝には、600年に中国に渡った遣隋使(けんずいし)が隋王朝に下記のごとく述べたという記事がある。
 「文字無し。ただ刻木(こくぼく)・結縄(けつじょう)のみ。仏法を敬い、百済(くだら)において仏経を求め得て、はじめて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」
 この記事は「わが国には仏教の経典に用いる文字(楷書)が無い。ただ五帝時代の倉頡が考案した書契(わが国では「刻木」と称した)と三皇時代の卜筮(占い)に用いる記号の結縄が存在した。仏教を敬うことになり、朝鮮半島の百済から仏教の経典を求め得て、はじめて仏教の経典に用いられる極(きわ)めて難しい楷書(文字)も存在することになった。これによって、中国の発達した卜筮(易学)を知ることができて、仏教の経典から極めて難しい楷書を解読した巫女(みこ)と覡(かんなぎ/神官)は推古天皇王朝の体制者たちに最も信頼されて尊敬されることになった。」と解釈すれば、矛盾点も不合理な点も生じずに【科学】が成立する正しい現代語訳となる。

 ところが、学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という空論・幻想を抱くため、「ただ刻木・結縄のみ」という文を「わが国には木を刻む方法や縄を結ぶ方法で、文字に類似する記号や数詞をあらわす原始的な方法があった」と解釈して、「ただ木を刻み、縄を結ぶのみ」と読み下す。
 このブログの初回(1)で指摘したように――3世紀(280年~289)に著作された中国の正史『三国志』魏書東夷伝末部の通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は約2000字で構成される。そのうち【1】『魏志倭人伝』冒頭の「倭人は帯方の東南」という文から30ヵ国の小国を説明するまでの約500字・約25%の記事で【倉頡が刻木を考案して、発明した漢字作成方法】を説明し、【2】また『魏志倭人伝』の約200字・約20%の記事は【夏音文字の習得】に説明する記事である。
 そして、『魏志倭人伝』は「卑弥呼(ヒミコ)はじめ人名・小国名・官職名においては夏音文字を当時の中国と朝鮮半島で用いられていた楷書で表記することができた」と記述する。
 ゆえに、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説は空想・幻想であり、「ただ木を刻み縄を結ぶだけ」と読んで「記号や数詞をあらわす文字に類似する原始的な方法があった」という解釈は【誤読の空理空論】であったことになる。
 倉頡が作った「書契」は「木に刻むこと」と後世に伝えられた。ゆえに、わが国では「倉頡が考案した書契」を「刻木」と名づけていたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述されているとおり、3世紀、わが国では【夏の銀河各部の形状】を観察して夏音文字と楷書を正しく変換できた知識が存在していたので、仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書を【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通した巫覡(巫女と覡)は解読できたのである。
 「文字無し」を「遣隋使が中国に渡った7世紀初頭、わが国にはまったく文字が無かった」と解釈すると――漢字が1字も読めない外国人を集め、難解な漢字を次から次へと羅列(られつ)する仏教の経典の漢字は正しく解読してください――と要求して実験してみれば明白となるように、彼等には仏教の経典の楷書解読はまったく不可能ということになる。
 【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通していた倭の巫女と覡たちは、自分たちを排除しようとする聖徳太子(しょうとくたいし)に対抗して、仏教の経典に羅列されている極めて難しい楷書の解読に挑(いど)んで成功した。
 ゆえに、上記した『隋書』倭国伝の「尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」という記事が伝えるように、時の推古天皇王朝をささえる体制者たちは仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書を解読した巫覡を絶賛して聖徳太子よりも尊敬して最も信頼したのである。

◆『隋書』倭国伝には、隋の煬帝(ようだい)が治めていた大業3(西暦607)、聖徳太子が――「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々(うんぬん))」と書いた文書に対して、煬帝は「蛮夷(ばんい/野蛮な倭国)の書、無礼なる者有り(無礼だ)。ふたたび以聞(いぶん/上表)するな(つまり、天子たる吾に上げてくるな)」と怒った――という記事がある。
 しかし、『隋書』倭国伝は「翌年、煬帝は文林郎(ぶんりんろう)の裴清(はいせい)を倭国の使者として派遣(はけん)した」とも記述する。
 仏教を重んじていた煬帝は若い時に熱心に学問つまり【夏の銀河から漢字が作られた学問】に励んだ。だから、聖徳太子の書を自分が誤訳したことに気づき、煬帝は倭国の使者に裴清を遣(つか)わしたのである。
 仏教では「日没する」は「死去する」という意味あるゆえ、煬帝は「蛮夷の書、無礼なる者あり」と怒った。
 しかし、【夏の銀河から漢字が作られた学問】においては「日没する時は日出ずる時より上位」と定めた。というのも、「日没する時から始まる夜間」に【夏の銀河】が出現するゆえ「日没する処は日出ずる処より上位」となり、「日出ずる時から始まる昼間」は【夏の銀河】が見えなくなるゆえ「日出ずる処は日没する処より下位」となるからである。
 したがって、聖徳太子は「日出ずる処(ところ)の下位の倭の天子が、書を日没する処の上位の隋の天子に致す、ご元気ですか、云々」と書いていたことになる。煬帝はこの事実に気づいて、裴清を倭に派遣したのである。

◆推古(すいこ)天皇は、即位の年の593年、甥の聖徳太子を皇太子とした。
 翌年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅう)せよ」と詔(しょう)し、積極的な仏教崇拝政策の方向を示した。
 この崇仏(すうぶつ)政策において、聖徳太子は大失敗した。
 時の推古天皇王朝は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を体制のなかに組み入れ、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を皇室と国家が独占管理して厳重に機密(きみつを保持(ほじ)していた。
 崇仏政策を推進するために聖徳太子は、【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡を排除した。このため、巫女と覡は蘇我馬子に支援・擁護(ようご)を求めた。だから、蘇我氏は皇室が独占管理しなければならない【夏の銀河から漢字が作られた学問の担い手(巫女と覡)】を配下にすることができ、にわかに強大な権力を手中におさめることになった。
 聖徳太子は皇室と国家をささえている最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である事実を軽視して、仏教は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に代わることができると考えたにちがいない。
 しかし、蘇我氏に擁護された巫女と覡は百済から輸入した仏教の経典に用いられる極めて難しい楷書の解読に成功した。このため、時の体制者たちは「聖徳太子は愚か」と批判し、仏教の経典の楷書解読事業を成し遂げた巫女と覡を時の体制者たちは絶賛し最も尊敬して信頼した事態となった。
 したがって、遣隋使を派遣した600年の直前において、聖徳太子は【夏の銀河から漢字が作られた学問】に精通する巫女と覡は過去の遺物であると軽視し、彼等は崇仏政策を推進するための妨(さまた)げになると考えて排除しようとして、大失敗していたのである。
 622(推古天皇29)25日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。聖徳太子の妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)は、太子のために「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を作った。
 この「天寿国繍帳」の銘文(めいぶん)によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女に、「世間は虚仮(こけ)にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
 推古王朝をささえる体制者たちは「皇室の最も強大な政権基盤は【夏の銀河から漢字が作られた学問】である」と考えた。ゆえに彼等は、巫覡を排除して皇室が【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理できなくなって蘇我氏と二分することになった聖徳太子の崇仏政策を「なんとも愚か!」と批判した。この批判を、聖徳太子は「世間は我を虚仮(馬鹿)にしている。ただ仏教こそが真実であり、【夏の銀河から漢字が作られた学問】は廃(すた)れるべきである」と主張して、「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり」と橘太郎女に語ったのである。
 だから、【夏の銀河から漢字が作られた学問】を尊重する王こそが天皇にふさわしいと考える時の体制者たちに、聖徳太子は「天皇にふさわしくない」と反対された。
 これゆえ、聖徳太子は天皇になれなかったのである。

◆以上のごとく、令和元年の大嘗祭は皇室が強大な権力を独占管理して厳重な機密にした【夏の銀河から漢字が作られた学問】をあらわす儀式であったことになる。
 令和元年の大嘗祭においては、1114日の午後6時半ごろ、悠紀殿(ゆきでん)に向かって御菅蓋(ごかんがい/天皇の王冠)を高くさし掛けて葉薦(はごも/御筵道)を進む天皇陛下の行列の登場から【悠紀殿における供饌の儀】が始まった。また、翌15日の午前0時半ごろ、主基殿(すきでん)に向かって御菅蓋を高く差し掛けて御筵道(ごえんどう/葉薦)を進む天皇陛下の行列の登場から【主基殿における供饌の儀】が始まった。
 【天皇陛下の供饌の儀】の前に行われた【葉薦(御筵道)を進む天皇陛下の行列】は、第40代・天武天皇から始まる大嘗祭の伝統を受け継ぐものではなく、1738(元文3)の第115代・桜町(さくらまち)天皇の時に本格的に復興した時に新しく加わった【日本建国の〔愛〕の理念】を表示する儀式であった。
 いわゆる【皇祖・天照大御神の遺勅(ゆいちょく/死後に残された勅命)】は――皇室が栄えて永らく存続するために【夏の銀河から漢字が作られた学問】を独占管理して厳重な機密にせよ。この【夏の銀河から漢字が作られた学問】を滅亡させる妨(さまた)げとなる禍(わざわい)は【日本国(小国・日本)誕生史と日本建国の〔愛〕の理念】である。ゆえに、【日本国誕生史と日本建国の【愛】の理念】は絶対に後世に伝えないために必ず抹殺(まっさつ)せよ――であった。
 にもかかわらず、17381119日に皇室は皇祖天照大御神の遺勅を破棄して、即位式と大嘗祭で【日本建国の〔愛〕の理念】を復興させることになった経緯は、(1)推古天皇の後を継いだ舒明(じょめい)天皇からの紆余曲折(うよきょくせつ)の歴史と(2)1725年に没した新井白石の【誤読の空論の大和邪馬台国説と九州邪馬台国説】が関わっている。
 次回からは、舒明天皇以後から桜町天皇の代までの大嘗祭に関する歴史の経緯と新井白石の大和邪馬台国説と九州邪馬台国説によって【日本建国の〔愛〕の理念】が即位式と大嘗祭で表示されることになった経緯を順次に解説して証明することにする。

 なお、1022日に行われた【即位式正殿の儀】が【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式である証明は、わがブログ「邪馬台国説はフェイクであった!」の1回~20回で解説し証明した。「邪馬台国説はフェイクであった!」の12回~20回までは【即位式正殿の儀】は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす儀式であることを具体的に解説し証明した。

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2019年11月21日 (木)

大嘗祭は学問儀式であって、宗教的儀式ではない・4

★#4・大嘗宮の建物によって、大嘗祭は学問儀式であったと証明できる

◆このブログが前回(3)までで証明したように――令和元年1114日の夕方6時半から翌15日の午前4時ごろに終わった大嘗祭(だいじょうさい)における【天皇陛下の供饌(きょうせん)の儀】は「紀元前3000年ころの中国の五帝時代に生存した倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成方法」をあらわす学問儀式であったと考えるべきことになる。
 というのも、大嘗祭が始まる午後6時半、大嘗宮(だいじょうきゅう)の真上(天頂の高度90度~60度の夜空)に【天皇陛下の供饌の儀で、供饌から三つずつのお供え物の食べ物を選んでピンセットのような箸(はし)で小皿に入れる行為を1000余回も丁寧(ていねい)に繰り返す所作(しょさ)ソックリの銀河】が廻(めぐ)ってきて、この【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭が終了する翌15日午前4時ころに北北西の地平線に没したからである。

◆倉頡は、天文学で「夏の銀河」と呼ばれる「夏の全星座が漬()かる銀河」の各部の形状から漢字を作成する方法を発明した。
 この秘密は、この事実を記述する幾つかの古文献に学者たちが【誤読】を加えて排除・否定するため、学者たちは未だに解明していない。
 「全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明する代表的な古文献は中国の『史記』五帝本紀・夏本紀、孔子とならぶ中国の二大思想家の老子の教えを説く『老子』、“字書の聖典”と尊重された『説文解字』、倭女王卑弥呼が登場する『魏志倭人伝』、そしてわが国の『古事記』上巻である。
 大嘗祭は「紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法と、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られた上古学問を現在に伝える、わが国に奇跡的に残された人類の歴史上における最も偉大な発明の秘密を現在に伝えるビックイベント」であった。
 わがブログ「古代エジプト文字の字源」の1回~27回において――古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた漢字と同じ【夏の銀河各部の形状】から作られた――事実を証明した。
 だから、令和元年の大嘗祭の催事と夜空に存在した【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は――現在、世界中で用いられる大半の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られた事実――を示す地球規模的なビックイベントであったことになる。
 というのも、古代エジプト文字は現代ヨーロッパ文字・現代ペルシア文字・現代アラビア文字・現代ヘブライ文字・現代アムハラ文字の先祖(ルーツ)とされるからである。古代エジプト文字をルーツとする現代ヨーロッパ文字であるABCアルファベットは、世界70ヵ国以上で公用語の文字として使用されているゆえ、漢字を含むと、世界中で使用されている7割から8割の文字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと証明されることになる。
 古代エジプト文字は、紀元前3100年ころ、ちょうどエジプト第1王朝が始まる少し前に、起源したとされる。
 漢字は紀元前3000年ころの中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)の女性生殖器と子どもの出産の医学研究をあらわすことができる文字の考案を作成目的にして、黄帝につかえていた史官(記録官)の倉頡が発明して起源した。

 だから、大嘗祭は紀元前3100年ころから始まる古代エキプト文字と紀元前3000年ころから始まる漢字は【夏の銀河各部の形状から作られた】という秘密を、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】で現在に伝える壮大なイベントであったことになる。


◆「倉頡が【夏の銀河各部の形状】から【文字】を作る方法を発明し、【夏の銀河各部の形状】を【字源・字形・字義】と定めた事実」は、712年正月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』上巻の序(【古事記上巻 幷わせて序】)が説明する。
 しかし、【古事記上巻 幷()わせて序】に記述された【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問の説明】を学者たちが正確に読解(どっかい)できず、彼等は【誤読】を加えて排除・否定する。
 【古事記上巻 幷わせて序】が説明する【夏の銀河各部の形状から全漢字が作られた学問】は、(1)皇室が厳重に独占管理して革命や反乱を生じないようにするための最も強大な権力を手に入れるための方法であった。また(2)『古事記』上巻には皇祖天照大御神の聖性をいちじるしく汚す皇室が絶対に後世に伝えてはならないと禁止した真実の歴史【日本建国の〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史】を伝える伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記載されていた――この二重の大罪のため、元明(げんめい)天皇は『古事記』献呈を拒否した。
 したがって、『古事記』は皇室と国家を滅亡させる危険な思想を養う禁断の書物と定められた――このことが原因のうえに、さらに学者たちは「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀ないし6世紀である」という定説の空想・幻想を抱くため、【古事記上巻 幷わせて序】が「わが国は後期縄文時代初頭、中国の夏代(かだい)初頭、中国から原初漢字の夏音(かおん)文字の学問が伝来して習得した。この夏音文字によって、倉頡が発明した漢字作成方法が、わが国に保存されることになった。ゆえに、大嘗祭は倉頡が発明した漢字作成方法にもとづく学問儀式であって、宗教的儀式ではない」と説明していることを読解できず、【誤読】を加えて排除・否定するゆえ、大嘗祭を宗教的儀式と主張しているのである。
 このブログ前回(1)で詳細に解説したように、【古事記上巻 幷わせて序】は「わが国には紀元前2070年~紀元前2050年ころの中国の夏代初頭に夏音(かおん)文字が伝来して習得された。これゆえ、わが国には紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法が保存されることになった。夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注をつけて楷書を音符にして表記したが、夏音文字の語を表記する楷書各字の字源・字形・字義は【夏の銀河各部の形状】から作られた。だから、楷書も夏音文字も【夏の銀河各部の形状】から作られた」と説明していることになる。
 ゆえに、【古事記上巻 幷わせて序】は人類史上(学問史)にとって極めて重大な史料・証言ということになる。

◆上記した『古事記』の【古事記上巻 幷わせて序】に記載された【全漢字は夏の銀河から作られた事実】と【夏音文字の習得史】と【日本国誕生史】と【日本建国の〔愛〕の理念】については、令和元年914日に発刊された拙著『日本国誕生史の証明』(ムゲンブックス制作・エッグデザイン発刊)で詳細に具体的に科学的に容易に理解できるように解説し証明した。疑問を抱く方々は拙著『日本国誕生史の証明』にて確認していただきたい。
Nihonkokutanjoushinosyoumei
◆【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は地平線上に現われるときには【夏の銀河の東端】となり、このブログの冒頭で指摘したように大嘗祭が開始された時の最も高い天体部に登る【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は【夏の銀河の北端】となる。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】のうちの【天皇陛下の額(ひたい)に相当する人の横顔に酷似する銀河の額にある、北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)は銀白色】に輝くゆえ「銀河」と呼ばれた。
 「北天の最輝部」は国際的天文学の用語であり、「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」であり、【人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の額(ひたい)の部分】にある。【人の横顔に酷似する銀河】は「白鳥座のγ星()からβ星()の中間」にある。「北天の最輝部」は「白鳥座γ星()からη星()の中間」にある(白鳥座β星はη星の南にある)
 【北天の最輝部を含める、天皇陛下の供饌の儀の銀河】は全体的に「milky(ミルキー・母乳)のように白く輝く銀河」である。
 【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は「両翼を含まない、白鳥座の頭から胴体そして尾までが漬かる銀河」である。ということは「鳥の頭から尾まで形をした星座が漬かる銀河が白く輝く」ゆえ、その星座は「白鳥座」と名づけられたと考えるべきことになる。
 テレビの画面に映されたように、大嘗祭において天皇陛下が最も神聖な色とされる【白色の祭服(さいふく)】につつまれ、皇后雅子さまが【白色の十二単(ひとえ)姿】になった。この秘密は、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】がmilky(母乳の色)のごとく【白色】に輝いているからであったのである。

◆わが国の中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、「学問」の[]の字について「もと屋上に千木(ちぎ)のある建物の形で、いわゆるメンズハウスを意味した。(中略)。卜文(注 甲骨文字)にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社建築と似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう」と指摘する。
 したがって、[]の甲骨文字の字形はわが国の神社建築に相似すると同様に、テレビの画面に映されたように大嘗宮の建物にも相似する。ゆえに、大嘗宮の柴垣で囲まれた大小30余りのバラック建ての建物は「【夏の銀河各部の形状】から作られた漢字の字源・字形・字義を学ぶ校舎」であったことを現在に伝えているものと考えられる。
 三日月の夜の暗い場所から観察すると漢字の字源・字形・字義となる【夏の銀河各部の形状】が最も明確に見える。
 ところが、夜も明るい灯りがともされる皇居では瞳孔(どうこう)が縮小されるため、字源・字形・字義となる【夏の銀河各部の形状】をキャッチすることができない。
 だから、「【夏の銀河各部の形状】を字源・字形・字義とする漢字の学問を学ぶ校舎」は、瞳孔が拡大されて【夏の銀河各部の形状】がよく見える皇居から離れた人工灯火の影響がない人里離れた地に建てられた。
 ゆえに、大嘗宮の廻立殿(かいりゅうでん)・悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)などの建物は、「【夏の銀河各部の形状】を字源・字形・字義とする漢字の学問の校舎」をあらわすものであったにちがいない。
 テレビ画面に映った大嘗宮の入り口の「樹皮をつけたままの黒木の鳥居の門」は「皇室が独占管理して厳重な機密とした【夏の銀河各部の形状】から漢字が作られた学問を学ぶ学校の正門」をあらわしていると考えられる。
 令和元年の大嘗祭における悠紀殿と主基殿にも白川静著『字統』の[]の字源解説文に登場する「千木」が設置されていた。だから、悠紀殿と主基殿は「皇室が独占管理して厳重な機密とした【夏の銀河各部の形状】から漢字が作られた学問を学ぶ校舎の様子」を現在に伝えているにちがいない。

◆このブログが前回(3)までで指摘してきたように――令和元年1114日の午後6時半ころから始まったとき、大嘗宮の天頂付近に【白く輝く天皇陛下の供饌の儀における所作の銀河】が廻(めぐ)ってきていた。【天皇陛下の供饌の儀】の進行に呼応(こおう)して、天皇陛下が主基殿で供饌の儀を終了した15日未明の午前4時には、【天皇陛下の供饌の儀の銀河】は北北西に地平線に没した。
 前回のブログ(3)で指摘したように、【天皇陛下の供饌の儀の銀河の東端】は【人の正面形に相似する銀河】であり、この銀河を私は【十字の銀河】と名づけた。
 大嘗祭が始まった14日の午前6時半、【十字の銀河】(天皇陛下の供饌の儀の銀河の東端)は大嘗宮の天頂近くの高度80度~70度の位置に廻ってきて、【十字の銀河】は「地面に立つ人の正面形」に相似した――この【十字の銀河】が大嘗宮の真上に【廻る】と、【十字の銀河】が「地面に【立つ】人の正面形になる」ことから、大嘗宮の中核建物は【廻る】・【立つ】が合体して「廻立殿」と名づけられたにちがいない。

 【天皇陛下の供饌の儀】は五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安寧(こっかあんねい)を祈る儀式とされた。
 【天皇陛下の供饌の儀】では「供饌から三つのお供え物の食べ物を選んで、丁寧に【皿】に入れる所作が1000回余も繰り返された。
 もしも五穀豊穣に恵まれずに飢饉となった時には、皿は不用・無用の食器となる。
 日々国民が三度の食事を取るには、一日三食365日は1095回の皿を使う食事となるゆえ、天皇陛下は大嘗祭において、供饌から三つのお供え物の食べ物を箸に摘まんで丁寧に皿に入れる所作を1000回余も繰り返したのである。

 以上のごとく、このブログの冒頭で指摘した――大嘗祭が始まった14日の午後6時半、大嘗宮の天頂(高度90)~高度60度に存在した【白い、天皇陛下の供饌の儀の銀河】は大嘗祭の進行に呼応して翌日未明の午前4時に北北西の地平線に没するまでの様子で、「大嘗祭は紀元前3000年ころに生存した倉頡が発明した漢字作成方法にのっとって、全漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られたと伝える学問儀式である」と現在に伝えていたことになる。

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