漢字の起源と発明を解明す・29
魏の名将・司馬懿(しばい)による燕(えん)の公孫淵(こうそんえん)討伐と【倉頡の文字作成理論】の関係
◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(1657―1725年)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。
◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(1)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)、
(2)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)、
(3)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(4)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(5)倉頡の文字作成理論、
(6)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。
紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。
◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(A)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(B)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(C)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。
◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・28」では、
下図に示すように、
最初の対馬国から数えて30番目の「狗奴国(くなこく)」は「現在の香川県の小豆島(しょうどしま)と、広島県東部の一画(福塩線が通る地域より東部)と岡山県、いわゆる吉備地方(きびちほう)」であった。
旧国だと「狗奴国」は「小豆島と、そして備後(びんご)東部・備中(びっちゅう)・美作(みまさか)の吉備地方」であった。
『魏志倭人伝』は「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より不和であった」と記述する。
下図に示す「小豆島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「狗(いぬ)の姿」に相似する、つまり「狩猟犬(しゅりょうけん)」に見立てられた。
また「岡山県の児島半島(こじまはんとう)の地宜」が【奴】の字源「ジャコウウシ」、つまり「狩猟犬の群れの襲撃(しゅうげき)に気づき、ジャコウウシの群れがいる方向へと逃げるジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
ゆえに、「小豆島の地宜」の【狗】「狩猟犬の姿」と、「児島半島の地宜」の【奴】「ジャコウウシの姿」にもとづき、卑弥呼は「吉備地方」の小国名を「狗奴国」と定めた。
前回の「漢字の起源と発明を解明す・28」までをもって、
卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事には、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り首尾一貫(しゅびいっかん)して1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在せず、すべて合理で統一されているために【科学】が成立して正確であることを証明した。
いっぽう、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』に記されるすべての方位記事は、上記したように「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り統一されており――、
邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【論理的に合理】が成立してすべて合理・正確であったと証明される。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となる。
◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」では、下記のごとく指摘した。
魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)以前の、漢は赤の火徳によって天下を治めた。
当時の五行説では、「火」の次は「土」とされた。
この土徳の色は黄色とされた。
これゆえ、220年において、後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は「黄初(こうしょ)」であった。
この「黄初」という元号はもちろん漢の赤の火徳の次を意識すると共に、司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事にもとづいていた。
というのも、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河」の光景は、
魏・蜀・呉の三国が天下を争った三国時代(220年~280年)の黎明における東南の地平線から「銀河の中心方向周辺の銀河」が昇る光景に近似(きんじ)したからである。
◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
上図における左上には「三つ輪の銀河や「十字の銀河」がある。
上図の右下には「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」と「巨龍の顔の銀河」の三つの銀河がある。
上記した「銀河の中心・胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河」を、これから以後は「銀河の中心方向周辺の銀河」と呼ぶことにする。
すぐ前のページにて「220年に、後漢の献帝(けんてい)から禅譲(ぜんじょう)をうけて、魏の曹丕(そうひ・文帝)が帝位についた」と指摘(してき)した――その「220年の元号」は「黄初(こうしょ)」であった。
この「黄初」という元号は――漢は赤の火徳によって天下を治めたゆえ、当時の五行説(ごぎょうせつ)では「火」の次は「土」とされ、この「土徳」の色は「黄色」とされていたため――「黄色の初め」すなわち「黄初」という元号となった。
しかし、「黄初」という元号は、上記したように、漢の赤の火徳の次を意識した元号名であるが、
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事をも意識して「魏が天下を治める」と表示するものでもあった。
というのも、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河の光景」は――208年(漢の建安十三年)に蜀の劉備(りゅうび)と呉の孫権(そんけん)が、赤壁(せきへき)の戦いで魏の曹操(そうそう)を大破(たいは)し、天下三分の大勢(たいせい)となった以来の3世紀の黎明における東南の地平線から昇る「銀河の中心方向周辺の銀河の光景」に近似(きんじ)していたからである。
ゆえに、魏の220年の「黄初」という元号は、「天下三分の大勢となった、この黄色い土徳の黎明の時(初期)に、魏が天下を治めることを誓う」と表示するものであったと考えられる。
◆下に、「歳差(さいさ)状況図(天の北極の位置図)」を配した。
この25,800年で「黄道(こうどう)の北極」を一周する「歳差状況図」にもとづいて、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代と三国時代(3世紀)の両時代における、天の北極と春分点の位置を求めて、
「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」を再現すると、
つまり「三つ輪の銀河・十字の銀河が東北の地平線から昇り、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る光景」を再現すると、両時代の「夏の銀河の光景」は近似(きんじ)することが明らかになる。
したがって、「黄帝時代から三国時代までの、夏の銀河が地平線から昇る黎明(れいめい・夜明け)の光景」は近似していた。
これからおこなうこのブログの解説において「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」は、五帝時代から三国時代までは相似していたことを覚えていていただきたい。
〔注 しかし、現代「夏の銀河における、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る時には、現代は東北の地平線からカシオペヤ座とケフェウス座が昇る」ゆえ、黄帝時代や三国時代の光景と相違する。〕
◆上記した「銀河の中心方向周辺の銀河」はこのブログの初頭部のカラー写真で示したように「黄色」であり、
この「銀河の中心方向周辺の銀河」は「胎児の姿に似る銀河」が「女性の生殖器官と出産について研究した黄帝」をあらわし、
しかも「土、つまり地平線近くを運行する銀河」であったゆえ「土徳」をあらわした。
黄初元年・220年より2年後の222年の孫権が呉王を称した時の元号もまた「黄武(こうぶ)」で、黄色の土徳・「黄帝」という帝王名に由来(ゆらい)していたと考えられる。
つまり、「黄武」という元号をもって「呉は黄帝軍の強大な武力を有して天下を治める」と誓いを立てたにちがいない。
223年、蜀の昭烈王(しょうれつおう)こと劉備(りゅうび)が没した。その子の劉禅(りゅうぜん)が帝に即位し、諸葛孔明がその補佐にあたった。
孔明は劉備が没すると、最初に「天下二分の計(つまり、魏を滅ぼして蜀と呉とで天下を二分する計略)」を企(たくら)む軍事同盟を着手(ちゃくしゅ)した。
当時、蜀と呉との関係はすっかりこじれていたものの、両国の間に「天下二分の計」の軍事同盟を結ばなければならないと気運(きうん)が高まっていたために、順調(じゅんちょう)にことが運んだ。
ゆえに、呉の孫権と蜀の諸葛孔明の主敵は、魏ということになった。
それから6年後の229年、呉の孫権は「大帝」と名のり、「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河」にもとづいて元号を「黄竜(こうりゅう)」とした。
下図は、「黄竜」の元号となった「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河図」である。
いっぽう、魏は227以来の蜀の魏討伐に対抗して、過去に度々(たびたび)蜀と争った大国の大月氏国王に「親魏大月氏王」の爵位を与えた。これによって、大月氏国は蜀の背後の脅威(きょうい)となった。
この背後の脅威の大月氏国に対する備(そな)えのためであろう、蜀軍を指揮する孔明の魏討伐は234年まで、しばらくのあいだ中断(ちゅうだん)することになった。
◆燕は魏の背後の脅威であったが――燕は大国魏のために独立できず、公孫淵(こうそんえん)は燕王を名のれず、魏の持節(じせつ)・揚烈将軍(ようれつしょうぐん)・遼東太守(りょうとうたいしゅ)という地位で耐(た)えていた。
呉の孫権は、229年(黄竜元年)に帝位につくと、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩(くず)そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否(きょひ)された。
というのも、燕の背後の脅威は倭人国であったからである。
当時、倭人国の使者たちが魏と国交を結ぶためにしばしば帯方郡に訪れていた。
このため――呉との軍事同盟が知られると魏と倭人国に挟(はさ)み討ちされて燕は滅亡すると、公孫淵は考えたと推測(すいそく)される。
上記したように、呉の孫権は燕の公孫淵が呉との同盟を拒否したのは、倭人国が燕の背後の脅威となり、魏と倭人国の軍に挟み撃ちにされて燕は滅亡すると恐れたからと推測したにちがいなく、
孫権は東鯷人国(とうていじんこく)が倭人国の背後が脅威となるように――倭人国の隣国の東鯷人国遠征を決意した。
この呉軍の遠征は、広大な太平洋を横断して日本列島に到着しなければならない。
だから、孫権が並々(なみなみ)ならぬ決意でおこなわれた東鯷人国遠征は公孫淵の同盟拒否の原因は燕の背後の脅威の倭人国にあると推定したにちがいなく――天下を手中に入れるためにはどうしても燕を天下二分の呉・蜀連合軍側に引き入れる必要があるということで、倭人国の背後の脅威となる東鯷人遠征を決行したと考えられる。
翌230年(黄竜二年)、孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の東鯷人国における夷州(いしゅう)・亶州(たんしゅう)に向かわせた。
しかし、呉の一万の東鯷人国遠征軍は台湾沖の海域を横断できず、八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)した。
おそらく、呉の遠征軍の大型船による漕(こ)ぎ手の力では、呉軍の大型船は台湾沖の黒潮(くろしお)に押し流されて横断できなかったのであろう。
ゆえに、呉の東鯷人国遠征軍は壊滅して、大失敗した。
遠征軍の将軍の衛温と諸葛直は、この失敗の罪で殺された。
この失敗に懲(こ)りた孫権は再度の東鯷人国遠征を断念(だんねん)した。
◆『魏志倭人伝』の後半部には「(魏の元号の)景初(けいしょ)二年(西暦238年)の六月に、魏の明帝(めいてい)は倭女王の卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)・金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えると約束した」と説明する記事がある。
この「親魏何某(なにがし)王」という爵位(しゃくい)は、229年に西域(せいいき)の大国であった大月氏国(だいげっしこく)に与えられた「親魏大月氏王」と、卑弥呼に与えた「親魏倭王」の二つだけである。
ゆえに、「親魏倭王」という名称は魏が外臣(がいしん)に与えた最高の爵位であることを示す。
上記したように、当時、下図に示すように、魏の前面の敵は呉と蜀(しょく・漢)、魏の背後の脅威(きょうい)は燕(えん)と朝鮮半島の諸韓国であった。
ゆえに、「親魏倭王」という爵位は――つまり、「魏の背後の燕または諸韓国が反乱をおこしたときに、魏軍を助けて倭軍も出兵(しゅっぺい)し・共に戦う軍事同盟」を意味するものであった。
魏と倭人国の軍事同盟が結ばれた238年(魏の景初二年)六月、魏の明帝は重病で床に伏(ふ)せていた。
したがって、238年の記事にて「倭人国の使節・難升米(なしめ)一行は明帝に面会した」と記述されてるが、実際には倭人国の使節一行は明帝に面会できなかった。
しかし、238年当時、「明帝は倭人国の使節・難升米・一行と面会した」と呉の孫権(そんけん)に思い込ませることは、魏軍にとって軍略上において必要とされた。
というのも、238年の前年の237年・景初元年の夏、魏は燕王(えんおう)の公孫淵討伐(こうそんえんとうばつ)を魏の東方出兵の最高責任者に幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)である毌丘倹(かんきゅうけん)が任命されて開始したが、この毌丘倹の公孫淵討伐は失敗し――
翌年(238年)、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)と五丈原(ごじょうげん)で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり――司馬懿は4万の歩兵と騎兵を率(ひき)いて春に、首都洛陽(らくよう)を出発していたからである。
ゆえに、倭人国の使節・難升米一行が魏都洛陽に到着した238年の6月当時、すでに司馬懿は4万の歩兵と騎兵の大軍を率いて春に出発していたため――魏軍のエースの司馬懿が留守(るす)し、また魏都洛陽には兵は手薄(てうす)になって防衛戦力が弱体化していたにちがいない。
したがって、孫権が「天下二分の計」という軍事同盟を結んだ呉軍と蜀軍の連合軍を率いて魏都洛陽を一気(いっき)に襲撃すれば魏は滅亡する可能性があった。
しかし、孫権は――名将・司馬懿ならば、当然、倭の使節一行と明帝の面会の裏には何か秘策(ひさく)を企(たくら)み、大軍を率いて東方へ出兵したにちがいない。ゆえに、呉・蜀の連合軍が一気に洛陽を攻めれば多数の兵を失って窮地(きゅうち)に陥(おちい)る罠(わな)が必ず仕掛けてあると考えて慎重(しんちょう)になった孫権は呉・蜀の連合軍を待機させて洛陽を攻撃しなかった。
◆前述したように――238年より18年前の220年、魏の曹丕(そうひ)が後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫(せま)って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は【黄初】であった。
魏が毌丘倹(かんきゅうけん)を最高責任者に任命して237年に開始した燕の公孫淵討伐は【景初元年の夏】であった。
毌丘倹の公孫淵討伐は失敗したため、翌238年に司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となって首都洛陽を出発したのは【景初二年の春】であった。
司馬懿の軍は、【景初二年の六月】には遼東(りょうとう)に到着していた。
司馬懿の軍が遼東に到着した同じ【景初二年の六月】、倭人国が派遣した使節・難升米(なしめ)一行は帯方郡に到着していた。
そして、【景初二年の十二月】には、難升米一行は卑弥呼に与えられる「親魏倭王(しんぎわおう)」の爵位(しゃくい)と金印紫綬授与の約束をとりつけている。
難升米一行はすぐに帰国の途(と)につかずに魏都洛陽に長期滞在(ちょうきたいざい)して、重病で面会できない明帝に面会したごとく見せかける偽装工作(ぎそうこうさく)に参加している。
これらの経緯(けいい)には――司馬懿が公孫淵討伐の作戦にあって呉の孫権の動きを様々に推理しながら、公孫淵討伐を用意周到(よういしゅうとう)・綿密(めんみつ)な戦略のもとにおこなわれた一面があらわれている。
その証拠に、魏の曹丕が献帝に禅譲(ぜんじょう)を迫って帝位についた――この「禅譲」といえば、司馬遷(しばせん)著『史記』に記述された【最初の禅譲】は、夏本紀(第二)に記述された「帝益(ていえき)が帝禹(ていう)の三年の喪(も)が終わると、益は帝位を禹の息子の啓(けい)に譲った」という、夏代黎明期(かだいれいめいき)の歴史である。
司馬懿は『史記』を著作した司馬遷の子孫であった。
ゆえに、司馬懿は『史記』夏本紀(第二)に記述された【益が啓に禅譲した歴史】について知っていたはずである。
この帝益の先祖がなしとげた第一の功績は「天球上(てんきゅうじょう)において太陽が一年間に通過する道――つまり、黄道(こうどう)の測量方法と測量装置(そくりょうそうち)の発明」であった。
この益氏の先祖が発明した「黄道の測量装置」によって、【景】の字源・原義が成立した。
白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景】の字源について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕に「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、「地上千里にして日景に一寸の差があるという――と指摘(してき)する。
上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説における前者の「日景を正して、以て地の中を求む」という文を具体的に説明すると、
「夏代黎明期、帝禹(ていう)が発明した測量方法と測量装置によって地面に正確に図化された【夏の銀河像】は西北の地平線下に潜(もぐ)る形状」であった。
また、上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説における後者の「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と説明する文を具体的に説明すると、
「五帝時代の4番目の帝王に就任した堯代初頭(ぎょうだいしょとう)において、夏代黎明期に帝位についた帝益(ていえき)の先祖の益が発明した黄道(こうどう)の測量方法と測量装置で明らかになった、その日の正午に南中(なんちゅう)した太陽はその翌日の正午に南中するまでの時間はちょうど一日ではなく、一日よりわずかの時間(数分)短い事象(じしょう)」を指していた。
下に、「黄道」、要するに「天球上において太陽が一年間に通過する道」、つまり「黄道の大円(大きな円軌道)」が「天の赤道」と23度27分の傾きで交わる図を配した。
下図における「黄道の大円の一日の目盛り」は「その日の太陽が正午に南中(子午線通過)してから翌日の正午に南中する時間」は、今日の時間でいうと「24時間ではなく、4分短い23時間56分で一周していること」になる。
この事象を、『周礼』の〔大司徒〕は「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と説明した。
◆下に配した【夏】の金文形は、上記した【景】の字源・原義の秘密を伝えていた。
下図に示すように、【夏】の金文形は「ぎょしゃ座とおうし座」を象(かたど)り、【夏代黎明期における春分点は、おうし座のα星の西となりに所在した。】
この「ぎょしゃ座とおうし座」を図案する【夏】の金文形は異彩(いさい)を放(はな)ち、個性的で印象ふかい形をしている。
というのも、【漢字の字形】は【夏の銀河各部の形状】を図案するが定式(ていしき)であるにかかわらず――この定式をまもらず下図の【夏】の金文は〔星座の形〕を図案するからである。
〔星座〕を図案するものは、「へびつかい座とヘルクレス座」を図案する【道】の金文形の二例のみしか、わたくしは知らない。
上記したように、益氏の先祖は五帝時代の帝堯代(ていぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)に「黄道の測量方法と測量装置」を発明したと考えられる。
下に、「帝堯代における秋分の日の午前〇時の天文図」(夏至の午前6時・冬至の夕刻6時・春分の日の正午の天文図)を配した。
下図に示したように、帝堯代には、上図の【夏】の金文形の字源「ぎょしゃ座とおうし座、そして春分点が南中(なんちゅう・子午線通過していた)。
上図が示しているように、秋分の日の午前〇時には【夏】の金文形となった「ぎょしゃ座とおうし座」が南中し、「おうし座に漬(つ)かる春分点」が「春分の日の正午における太陽の南中高度」に合致して位置した。
このときの【大半の夏の銀河の姿】は西北の地平線(つまり、地の中)に潜(もぐ)っていた。
下図は、帝禹が生存した夏代黎明期(かだいれいめいき)における、【夏】の金文形となった「ぎょしゃ座とおうし座」が南中し、「おうし座に漬かる春分点が春分の日の正午の太陽の高度と合致する天文図」である。
下図に示すように、上図の「帝堯代初頭における秋分の日の午前〇時の天文図」と同様に、「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時における【大半の夏の銀河】」もまた地の中に潜っていた。
ゆえに、『周礼』の〔大司徒〕は【景】の字源を「日景を正して、以て地の中に求む」と解説した。
帝禹が発明した日景測量、つまり「日々【夏の銀河の各部位】を測量する方法と測量装置で地面に図化した【夏の銀河像】」は、
下図のごとく、「その大半が西北の地平線下に潜る【夏の銀河像】であった。
帝禹(ていう)が【夏の銀河各部の測量方法と測量装置】を発明した夏代黎明期より約400年前に、帝益(ていえき)の先祖は【黄道の測量方法と測量装置】を発明していた。
ゆえに、帝禹が【夏の銀河各部の測量方法と測量装置】を発明した紀元前2080年頃? 【黄道の大円における一日の目盛り】は、つまり「その日の太陽が正午に南中してから翌日の正午に南中するまでの時間は一日よりわずか短い事象」は解明されていた。
これゆえ、上図の「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時の天文図」において「南中した【夏】の金文形(ぎゃしゃ座とおうし座を図案する金文形)」は、
『周礼』の〔大司徒」の【景】の「日景を正して、以て地の中を求む」や「地上千里にして日景に一寸の差があるという」とする字源解説とともに、【景】の字源・字義を伝える役割を有することになった。
前述したように――魏の公孫淵討伐が開始された237年の魏の元号は――【景】に【初】が加わる【景初】であった。
しかも、毌丘倹(かんきゅうけん)が最高責任者に就(つ)いておこなわれた公孫淵討伐の開始は、【夏】をあらわして【景初元年の夏】であった。
また、毌丘倹の公孫淵討伐が失敗したため、司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となって首都洛陽を出発したのは【景初二年の春】であった。
このような【景初】という元号の【景】の字源に、夏代黎明期に生存した帝益が密接に関係した。
前述したように、魏の曹丕(そうひ)が後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って帝位についた――この「禅譲」といえば、
司馬遷著『史記』に記述された【最初の禅譲】は夏本紀(第二)に記述された「帝益が帝禹の三年の喪が終わると、益は帝位を禹の息子の啓(けい)に譲った」という、夏代黎明期の歴史であった。
ゆえに、「景初」という元号の「【景】の字源にもとづいて決行された毌丘倹の公孫淵討伐の初め(開始)」は――金文形の【夏】の字に因(ちな)んで【景初元年の夏】と決めたにちがいない。
毌丘倹が公孫淵討伐に失敗したため、「司馬懿による公孫淵討伐」は――【景】の字源にもとづいて、上図の【夏】の金文形となった「ぎゃしゃ座とおうし座」が、帝益が禹の息子の啓(けい)に帝位を禅譲した夏代黎明期における春分の日の正午に太陽が南中(なんちゅう)した高度(位置)」に因み、「景初二年の【春】」と決めたにちがいない。
なお、参考までに、下に「卑弥呼が生存した3世紀の三国時代の秋分の日の午前〇時の天文図」を配した。
下図に示すように、3世紀の【夏】の字源「ぎょしゃ座とおうし座」は、春分の日の正午の太陽の南中高度には位置していなかった。
ゆえに、「景初」という元号の由来(ゆらい)にはならなかった。
以上のごとく、【景初】という元号は――夏代の初め(黎明期)、その先祖が【景】の字源となった「黄道の測量方法と測量装置」を考案した益氏の子孫の帝益が禹の息子の啓へ禅譲した、その歴史に因(ちな)んで決行された」とあらわしている。
◆前述したように――【呉の黄竜元年(229年)】、帝位についた呉の孫権は、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否された。
【翌黄竜二年(230年)】、孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の東鯷人国(とうていじんこく)に遠征(えんせい)させた。
しかし、呉の一万の東鯷人国遠征軍は台湾沖の海域を横断できず、八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)して、遠征は大失敗した。
この【黄竜】という元号は――前述したように「夏の銀河における【巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河】が地平線の東南から昇る光景は、黄帝時代と229年・230年は相似する」とあらわしていた。
ゆえに、公孫淵討伐が決行された【魏の景初】という元号について――司馬懿は英才(えいさい)・孫権ならば、【夏代黎明期と229年・230年の黎明(れいめい・夜明け)に、「夏の銀河」が東の地平線が昇る光景は相似する様子】をあらわすという知識を必ず有していると推定して――司馬懿は、「孫権は一気に魏都を攻撃しない」と推理して公孫淵討伐の戦略を組み立てたにちがいない。
言いかえると、司馬懿は――孫権は益氏(えきし)が移住した地は倭人国であろうと推定し、この推定と共に夏代黎明期の歴史を利用して――公孫淵討伐の作戦を企(くわだ)てたことになる。
魏の景初元年(237年)・景初二年(238年)当時――孫権は230年(黄竜二年)における、一万の水軍を日本列島の倭人国の背後の東鯷人国に遠征させて台湾沖で八割から九割の兵を失って壊滅した作戦の大失敗に精神的に大ショックをうけて・トラウマになっていたにちがいない。
このため、孫権は倭人国が使節を派遣して魏と結ぶ軍事同盟に過度(かど)に反応(はんのう)して、用心(ようじん)深く・慎重(しんちょう)になりすぎたため――司馬懿が大軍を率いて兵が手薄(てうす)になって留守(るす)にした魏都洛陽を孫権が一気に攻撃する動きを封(ふう)じるに大いに役立つことになったのである。
こういう次第(しだい)であったゆえ、孫権は天下二分の呉・蜀連合軍を率いて魏都洛陽を攻撃しなかった。
◆『史記』を著作した司馬遷(しばせん)は、「太史公(たいしこう)」と称(しょう)された。
ゆえに、今日『史記』と呼ばれる歴史書の書名を、司馬遷は『太史公書(たいしこうしょ)』とした。
三国時代以後、『太史公書』は『史記』と呼ばれることになった。
「太史公」は現代風にいうと「歴史局の長・総裁(そうさい・トップ)」を意味した。
しかし、世間では「太史公」は「星占い、つまり占星(せんせい)の長」であると思われていた。
というのも、司馬遷の父の司馬談(しばだん)は占星術と易学を熱心に研究していたからである。
しかし、当時における「占星術と易学」は〔「夏の銀河各部の形状」から文字を作成した【倉頡の文字作成理論】の研究を隠蔽(いんぺい)する方法〕であった。
【倉頡の文字作成理論】は国家・王朝が最も厳重(げんじゅう)な機密であった。
ゆえに、【倉頡の文字作成理論】を世間が知るように研究すると本人はもちろん家族あるいは一族まで死刑となった。
だから、「占星術と易学の研究」という名のもとに偽(いつわ)って、司馬談は【倉頡の文字作成理論】を熱心に研究したのである。
司馬遷は『史記』五帝本紀(第一)には、倉頡や【倉頡の文字作成理論】について1字も記述していない。
しかし、司馬遷は、倉頡の歴史や【倉頡の文字作成理論】に精通(せいつう)していた。
ゆえに、倉頡についての説明は書き出すと詳細になって国家・王朝が最高の大罪(たいざい)とする【倉頡の文字作成理論を暴露(ばくろ)する行為】まで深まってしまうのを自重(じちょう)して――司馬遷は『太史公書』つまり『史記』が焚書(ふんしょ)される、つまり反逆の書とされてすべて燃やされてしまうのをふせぐために、倉頡について1字も記述しないことにしたにちがいない。
紀元前126年に二十歳になった司馬遷は、真っ先に中国南方の淮河(わいがわ)・長江の地域に旅した。
この淮江への旅は、【倉頡の文字作成理論の研究・学習】を目的にしたにちがいない。
司馬遷は淮江からはじめて中国のほとんどの全域を周遊(しゅうゆう)し、民情に接し、様々な史蹟を見学している。
これらの旅も【倉頡の文字作成理論の研究・学習】が目的であったにちがいない。
というのも、【正しい歴史書を著作するため】には、どうしても【倉頡の文字作成理論を研究し・学習する必要】があったからである。
◆司馬懿(しばい)は『史記』を著作した司馬遷の子孫であった。
だから、司馬懿は『史記』に精通していたゆえ、五帝本紀(第一)・夏本紀(第二)はじめ陳杞世家(ちんきせいか・第六)の「帝王になった益の子孫は中国のどこの地に封ぜられたか不明である」という記事についても知っていたにちがいない。
司馬懿は『史記』を著作した司馬遷の子孫であるゆえ、【倉頡の文字作成理論】に精通していた。
司馬懿は魏軍のエースにしてトップの長であった。
ゆえに、倭人国から帯方郡、帯方郡から魏都へ送られた倭人国からの文書は司馬懿の手元に届けられ集められた。
だから、【倉頡の文字作成理論】に精通する司馬懿は――公孫淵討伐より以前に送られていた卑弥呼が夏音文字で書いた文書を伊都国の港で魏が用いる楷書に書き代えた国書を読んで――「倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する。益氏の子孫はおそらく倭人国に移住したと思われる」と察知したことになる。
『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」であったと記す。
「司馬懿」と「邪馬壱」の3字は、両者の先頭の字は【司】と【邪】と相違するが、次の【馬懿】と【馬壱】はほぼ同じである。
つまり【懿】の偏は【壹(壱)】であるゆえ、「邪馬壱国」の後ろ2字「馬壱」の【壹(壱)】と同じとなる。
したがって、【倉頡の文字作成理論】に精通する司馬懿は【馬】の字源は「フタコブラクダ」であり、【壹(壱)】の字源は「十字の銀河の子宮。または女性の生殖器官の骨盤・子宮・産道」であると知っていた。
倭人国から大海を越えて帯方郡や魏都に到着する倭人国の使者たちが必ず「大夫(だいふ)」と名乗る
ゆえに、司馬懿は「大夫」の意味について興味を抱き研究した――あるいは倭人国の使者たちから聞きただして、「大夫」は「夏代黎明期、益氏の王子と若者たちが荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて倭人国に到着した。その大海を越えて吾は帯方郡や魏都に到着した」と倭人国の使者たちが自画自賛(じがじさん)する語であることを知ったにちがいない。
『万葉集』の「大夫」は「ますらを」と読み、今日「ますらを」は「益荒男」と記す。
ゆえに、「大夫・益荒男」は「中国から荒波逆巻く大海を渡って日本列島に定住した益氏の王子と若者たち」をあらわす語であったことになる。
◆前記したように、白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景(けい)】の字について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕に「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日量測量のことをいい、地上千里して日景に一寸の差があるという」と指摘する。
このような【景】の字の解説は、要するに「天球上において太陽が一年間に通過する道」、すなわち「黄道の大円」について説明している。
上記した『周礼』の〔大司徒〕の「地上千里して日景に一寸の差があるという」という解説を、
〔現代における時間の分〕に換算(かんざん)すると、1(黄道の円一周)÷365.25日=0.0027378時となる。一時間は60分であるゆえ、一日24時間は60×24=1440分となる。
ゆえに、0.0027378時×1440分=3.942432分、つまり四捨五入すると4分ということになる。
つまり、太陽は一日(前日の正午から翌日の正午まで)を24時間で運行しているのではなく、一日4分短い23時間56分で運行していることになる。
このように4分短いのは地球が太陽のまわりを回っているために起(お)きる。
この一日4分ずつ短いずれは、一年すると前年の初めの位置にもどって360度の大きな円形となる。
『周礼』は紀元前11世紀に生存した周公旦(しゅうこうたん)が作ったと指摘されていたが、現在では戦国時代末期に成立したと考えられている。
『周礼』には「周王朝の文物・習俗・政治制度」について記述され、戦国時代以後の儒者(じゅしゃ)たちにとって理想的な制度とみなされた。このため、後漢時代や三国時代には『周礼』に通じる人々も存在し、あるいは研究する人々もいた。また、『周礼』は古来の学術や文学などを研究する人々にとって重要な経典(きょうてん)であった。
前ページに示した「ぎゃしゃ座とおうし座に漬かる、春分点」をあらわす【夏】の金文は周代に出現した古代漢字であり、上記した【景】の「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日量測量のことをいい、地上千里して日景に一寸の差があるという」字源解説の出典『周礼』の〔大司徒〕は、周代の文物・習俗・政治制度について説明する経典であった。
これゆえ、三国時代において『周礼』は人々に注目されていた経典であったゆえ、司馬懿も『周礼』を読んでいたにちがいない。
ゆえに、前述したように、司馬懿は【夏】の金文形「ぎゃしゃ座とおうし座」の秘密と、上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説の秘密について精通していたにちがいない。
◆下図に示すように、邪馬壱国だ・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の境内(けいだい)からずれて、佐太神社の門前を擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この「佐太神社の境内から門前までの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわした。
日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の足摺岬(あしずりみさき)を貫通している。
「足摺岬」の別称は「蹉跎岬(さだみさき)」である。
『角川日本地名大事典』(角川書店発行)は――最初は「左太岬」であったが「蹉跎岬」となり、その後「足摺岬」になった――と説明する。
「蹉跎」という語は「つまずいて転ぶ」を意味した。
【馬】の字源「フタコブラクダ」の歩き方は「側体歩(そくたいほ)」といって「同じ側の足を同時に踏み出す。この右側の前足と後ろ足を同時に踏み出した後に、左側の前足と後ろ足を同時に踏み出す」。
このような「フタコブラクダの側体歩」はあたかも「フタコブラクダがつまずいて転ぶかのように観える」。
上図に示した東経133度が佐太神社の門前を貫通する様子をあらわした「古代出雲の地宜(ちぎ)」における右上には――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)に、「邪馬壱国」のうちの【邪馬】をあらわす「神門水海(かんどのみずうみ)」が所在した。
この「神門水海の地宜」は「出産した直後に両足で立たんとする【馬】・フタコブラクダの子どもの姿」に相似する。
「神門水海」における「フタコブラクダの前足は短く、後ろ足が長い」ゆえ、その様子は「つまずいて転ぶ」ことになる。
また、「宍道湖」は「片足の形」に相似するゆえ、「片足ではつまずいて転ぶ」ことになる。
このように、邪馬壱国の「神門水海」と「宍道湖」は「つまずいて転ぶ」という「蹉跎」という語をあらわした。
以上のごとく、烏奴国(あなこく)・高知県の蹉跎岬・佐太岬と邪馬壱国・島根県の佐太神社の門前を通過する東経133度は【景】の字源・原義をあらわした。
◆【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」をもって喩(たと)えられた。
前述したように、「司馬懿」という名は先頭の【司】と【邪】の字は異なるが、後ろの【馬壱】と【馬懿】はほぼ同じである。
ゆえに、司馬遷の子孫であるゆえ【倉頡の文字作成理論】に精通していた司馬懿は自分の名に用いられる【懿】の字源、また【壹】の字源について熟知(じゅくち)していたにちがいないので――「邪馬壹(壱)国」という名に用いられる【壹】の字源は「十字の銀河の子宮」であり、
しかも、上記したように、彼は「十字の銀河の西端から東端まで」は【景】の字源となることを知っていたにちがいない。
このような事情から、237年の魏の元号は司馬懿の意見にしたがって、明帝は【景初】と定めたにちがいない。
司馬懿は、249年にクーデターを起こして魏の実権を掌握(しょうあく)した。
2年後の251年9月7日に、司馬懿は死去した。享年(きょうねん)73歳であった。
265年、魏が滅び、司馬懿の孫の晋王(しんおう)の司馬炎(しばえん)が、武帝と称した。
280年、武帝が天下を統一して、西晋(せいしん)王朝が創設された。
このような経緯から、司馬懿は、西晋の礎(いしづえ)を築いた人物とされた。
前述したように、司馬懿は『魏志倭人伝』に記述されていた【倭人国から送られた国書】を読んで「倭人国は【倉頡の文字作成理論】を詳細に知っている」と察知し、
司馬懿は「【倭人国の国書】は中国にとってもきわめて重大にして貴重な学問書である」と認識(にんしき)して大事に保管(ほかん)した。
ゆえに、西晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)に任命された陳寿(ちんじゅ)は、西晋王朝に秘蔵(ひぞう)されていた【倭人国の国書】を閲覧(えつらん)して、
武帝(司馬炎)が治める太康年間(たいこうねんかん・280年~289年)に完成させた『三国志』魏書東夷伝の末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』の作成資料として【倭人国の国書】を書き写して年代順にならべて記したことになる。
よって、国家と王朝が最も厳重な機密(きみつ)にして独占管理して書物に直接的に詳細に正確に記述することを厳(きび)しく禁止していたがゆえ、
中国では誰(だれ)一人も【倉頡の文字作成理論】を詳細に・正確に・組織的に説明する書物を作成すれば焚書(ふんしょ)され抹消(まっしょう)されたがために残さなかった【倉頡の文字作成理論】が詳細に・組織的に・論理が成立して説明される、きわめて希少価値(きしょうかち)の高い『魏志倭人伝』が残ることになったのである。
以上からして、名将・司馬懿は【倭人国の国書】を読んで【景初】という元号の基(もと)に孫権対策と公孫淵討伐の作戦を綿密(めんみつ)に立て、この戦略を明帝に意見を具申(ぐしん)して、公孫淵討伐を決行したと考えるべきことになる。
最近のコメント