G-T0XYQT12LL 日本国誕生史の証明: 卑弥呼の逆襲

日本国誕生史の証明

2024年9月 7日 (土)

漢字の起源と発明を解明す・29

魏の名将・司馬懿(しばい)による燕(えん)の公孫淵(こうそんえん)討伐と【倉頡の文字作成理論】の関係

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える銀河」のことをいう。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・28」では、
下図に示すように、
最初の対馬国から数えて30番目の「狗奴国(くなこく)」は「現在の香川県の小豆島(しょうどしま)と、広島県東部の一画(福塩線が通る地域より東部)と岡山県、いわゆる吉備地方(きびちほう)」であった。
旧国だと「狗奴国」は「小豆島と、そして備後(びんご)東部・備中(びっちゅう)・美作(みまさか)の吉備地方」であった。
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『魏志倭人伝』は「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より不和であった」と記述する。
下図に示す「小豆島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「狗(いぬ)の姿」に相似する、つまり「狩猟犬(しゅりょうけん)」に見立てられた。
また「岡山県の児島半島(こじまはんとう)の地宜」が【奴】の字源「ジャコウウシ」、つまり「狩猟犬の群れの襲撃(しゅうげき)に気づき、ジャコウウシの群れがいる方向へと逃げるジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
ゆえに、「小豆島の地宜」の【狗】「狩猟犬の姿」と、「児島半島の地宜」の【奴】「ジャコウウシの姿」にもとづき、卑弥呼は「吉備地方」の小国名を「狗奴国」と定めた。
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前回の「漢字の起源と発明を解明す・28」までをもって、
卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事には、【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り首尾一貫(しゅびいっかん)して1ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在せず、すべて合理で統一されているために【科学】が成立して正確であることを証明した。
いっぽう、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』に記されるすべての方位記事は、上記したように「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り統一されており――、
邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【論理的に合理】が成立してすべて合理・正確であったと証明される。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の錯覚(さっかく)の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」では、下記のごとく指摘した。
魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)以前の、漢は赤の火徳によって天下を治めた。
当時の五行説では、「火」の次は「土」とされた。
この土徳の色は黄色とされた。
これゆえ、220年において、後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は「黄初(こうしょ)」であった。
この「黄初」という元号はもちろん漢の赤の火徳の次を意識すると共に、司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事にもとづいていた。
というのも、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河」の光景は、
魏・蜀・呉の三国が天下を争った三国時代(220年~280)の黎明における東南の地平線から「銀河の中心方向周辺の銀河」が昇る光景に近似(きんじ)したからである。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図における左上には「三つ輪の銀河や「十字の銀河」がある。
上図の右下には「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」と「巨龍の顔の銀河」の三つの銀河がある。
上記した「銀河の中心・胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河」を、これから以後は「銀河の中心方向周辺の銀河」と呼ぶことにする。

すぐ前のページにて「220年に、後漢の献帝(けんてい)から禅譲(ぜんじょう)をうけて、魏の曹丕(そうひ・文帝)が帝位についた」と指摘(してき)した――その「220年の元号」は「黄初(こうしょ)」であった。
この「黄初」という元号は――漢は赤の火徳によって天下を治めたゆえ、当時の五行説(ごぎょうせつ)では「火」の次は「土」とされ、この「土徳」の色は「黄色」とされていたため――「黄色の初め」すなわち「黄初」という元号となった。

しかし、「黄初」という元号は、上記したように、漢の赤の火徳の次を意識した元号名であるが、
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事をも意識して「魏が天下を治める」と表示するものでもあった。
というのも、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河の光景」は――208(漢の建安十三年)に蜀の劉備(りゅうび)と呉の孫権(そんけん)が、赤壁(せきへき)の戦いで魏の曹操(そうそう)を大破(たいは)し、天下三分の大勢(たいせい)となった以来の3世紀の黎明における東南の地平線から昇る「銀河の中心方向周辺の銀河の光景」に近似(きんじ)していたからである。
ゆえに、魏の220年の「黄初」という元号は、「天下三分の大勢となった、この黄色い土徳の黎明の時(初期)に、魏が天下を治めることを誓う」と表示するものであったと考えられる。

◆下に、「歳差(さいさ)状況図(天の北極の位置図)」を配した。
この25,800年で「黄道(こうどう)の北極」を一周する「歳差状況図」にもとづいて、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代と三国時代(3世紀)の両時代における、天の北極と春分点の位置を求めて、
「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」を再現すると、
つまり「三つ輪の銀河・十字の銀河が東北の地平線から昇り、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る光景」を再現すると、両時代の「夏の銀河の光景」は近似(きんじ)することが明らかになる。
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したがって、「黄帝時代から三国時代までの、夏の銀河が地平線から昇る黎明(れいめい・夜明け)の光景」は近似していた。
これからおこなうこのブログの解説において「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」は、五帝時代から三国時代までは相似していたことを覚えていていただきたい。
〔注 しかし、現代「夏の銀河における、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る時には、現代は東北の地平線からカシオペヤ座とケフェウス座が昇る」ゆえ、黄帝時代や三国時代の光景と相違する。〕

◆上記した「銀河の中心方向周辺の銀河」はこのブログの初頭部のカラー写真で示したように「黄色」であり、
この「銀河の中心方向周辺の銀河」は「胎児の姿に似る銀河」が「女性の生殖器官と出産について研究した黄帝」をあらわし、
しかも「土、つまり地平線近くを運行する銀河」であったゆえ「土徳」をあらわした。
黄初元年・220年より2年後の222年の孫権が呉王を称した時の元号もまた「黄武(こうぶ)」で、黄色の土徳・「黄帝」という帝王名に由来(ゆらい)していたと考えられる。
つまり、「黄武」という元号をもって「呉は黄帝軍の強大な武力を有して天下を治める」と誓いを立てたにちがいない。

223
年、蜀の昭烈王(しょうれつおう)こと劉備(りゅうび)が没した。その子の劉禅(りゅうぜん)が帝に即位し、諸葛孔明がその補佐にあたった。
孔明は劉備が没すると、最初に「天下二分の計(つまり、魏を滅ぼして蜀と呉とで天下を二分する計略)」を企(たくら)む軍事同盟を着手(ちゃくしゅ)した。
当時、蜀と呉との関係はすっかりこじれていたものの、両国の間に「天下二分の計」の軍事同盟を結ばなければならないと気運(きうん)が高まっていたために、順調(じゅんちょう)にことが運んだ。
ゆえに、呉の孫権と蜀の諸葛孔明の主敵は、魏ということになった。

それから6年後の229年、呉の孫権は「大帝」と名のり、「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河」にもとづいて元号を「黄竜(こうりゅう)」とした。
下図は、「黄竜」の元号となった「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河図」である。
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いっぽう、魏は227以来の蜀の魏討伐に対抗して、過去に度々(たびたび)蜀と争った大国の大月氏国王に「親魏大月氏王」の爵位を与えた。これによって、大月氏国は蜀の背後の脅威(きょうい)となった。
この背後の脅威の大月氏国に対する備(そな)えのためであろう、蜀軍を指揮する孔明の魏討伐は234年まで、しばらくのあいだ中断(ちゅうだん)することになった。

◆燕は魏の背後の脅威であったが――燕は大国魏のために独立できず、公孫淵(こうそんえん)は燕王を名のれず、魏の持節(じせつ)・揚烈将軍(ようれつしょうぐん)・遼東太守(りょうとうたいしゅ)という地位で耐()えていた。

呉の孫権は、229(黄竜元年)に帝位につくと、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩(くず)そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否(きょひ)された。
というのも、燕の背後の脅威は倭人国であったからである。
当時、倭人国の使者たちが魏と国交を結ぶためにしばしば帯方郡に訪れていた。
このため――呉との軍事同盟が知られると魏と倭人国に挟(はさ)み討ちされて燕は滅亡すると、公孫淵は考えたと推測(すいそく)される。

上記したように、呉の孫権は燕の公孫淵が呉との同盟を拒否したのは、倭人国が燕の背後の脅威となり、魏と倭人国の軍に挟み撃ちにされて燕は滅亡すると恐れたからと推測したにちがいなく、
孫権は東鯷人国(とうていじんこく)が倭人国の背後が脅威となるように――倭人国の隣国の東鯷人国遠征を決意した。
この呉軍の遠征は、広大な太平洋を横断して日本列島に到着しなければならない。
だから、孫権が並々(なみなみ)ならぬ決意でおこなわれた東鯷人国遠征は公孫淵の同盟拒否の原因は燕の背後の脅威の倭人国にあると推定したにちがいなく――天下を手中に入れるためにはどうしても燕を天下二分の呉・蜀連合軍側に引き入れる必要があるということで、倭人国の背後の脅威となる東鯷人遠征を決行したと考えられる。

230(黄竜二年)、孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の東鯷人国における夷州(いしゅう)・亶州(たんしゅう)に向かわせた。
しかし、呉の一万の東鯷人国遠征軍は台湾沖の海域を横断できず、八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)した。
おそらく、呉の遠征軍の大型船による漕()ぎ手の力では、呉軍の大型船は台湾沖の黒潮(くろしお)に押し流されて横断できなかったのであろう。
ゆえに、呉の東鯷人国遠征軍は壊滅して、大失敗した。
遠征軍の将軍の衛温と諸葛直は、この失敗の罪で殺された。
この失敗に懲()りた孫権は再度の東鯷人国遠征を断念(だんねん)した。

◆『魏志倭人伝』の後半部には「(魏の元号の)景初(けいしょ)二年(西暦238)の六月に、魏の明帝(めいてい)は倭女王の卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)・金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えると約束した」と説明する記事がある。
この「親魏何某(なにがし)王」という爵位(しゃくい)は、229年に西域(せいいき)の大国であった大月氏国(だいげっしこく)に与えられた「親魏大月氏王」と、卑弥呼に与えた「親魏倭王」の二つだけである。
ゆえに、「親魏倭王」という名称は魏が外臣(がいしん)に与えた最高の爵位であることを示す。
上記したように、当時、下図に示すように、魏の前面の敵は呉と蜀(しょく・漢)、魏の背後の脅威(きょうい)は燕(えん)と朝鮮半島の諸韓国であった。
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ゆえに、「親魏倭王」という爵位は――つまり、「魏の背後の燕または諸韓国が反乱をおこしたときに、魏軍を助けて倭軍も出兵(しゅっぺい)し・共に戦う軍事同盟」を意味するものであった。
魏と倭人国の軍事同盟が結ばれた238(魏の景初二年)六月、魏の明帝は重病で床に伏()せていた。
したがって、238年の記事にて「倭人国の使節・難升米(なしめ)一行は明帝に面会した」と記述されてるが、実際には倭人国の使節一行は明帝に面会できなかった。
しかし、238年当時、「明帝は倭人国の使節・難升米・一行と面会した」と呉の孫権(そんけん)に思い込ませることは、魏軍にとって軍略上において必要とされた。

というのも、238年の前年の237年・景初元年の夏、魏は燕王(えんおう)の公孫淵討伐(こうそんえんとうばつ)を魏の東方出兵の最高責任者に幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)である毌丘倹(かんきゅうけん)が任命されて開始したが、この毌丘倹の公孫淵討伐は失敗し――
翌年(238)、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)と五丈原(ごじょうげん)で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり――司馬懿は4万の歩兵と騎兵を率(ひき)いて春に、首都洛陽(らくよう)を出発していたからである。

ゆえに、倭人国の使節・難升米一行が魏都洛陽に到着した238年の6月当時、すでに司馬懿は4万の歩兵と騎兵の大軍を率いて春に出発していたため――魏軍のエースの司馬懿が留守(るす)し、また魏都洛陽には兵は手薄(てうす)になって防衛戦力が弱体化していたにちがいない。
したがって、孫権が「天下二分の計」という軍事同盟を結んだ呉軍と蜀軍の連合軍を率いて魏都洛陽を一気(いっき)に襲撃すれば魏は滅亡する可能性があった。
しかし、孫権は――名将・司馬懿ならば、当然、倭の使節一行と明帝の面会の裏には何か秘策(ひさく)を企(たくら)み、大軍を率いて東方へ出兵したにちがいない。ゆえに、呉・蜀の連合軍が一気に洛陽を攻めれば多数の兵を失って窮地(きゅうち)に陥(おちい)る罠(わな)が必ず仕掛けてあると考えて慎重(しんちょう)になった孫権は呉・蜀の連合軍を待機させて洛陽を攻撃しなかった。

◆前述したように――238年より18年前の220年、魏の曹丕(そうひ)が後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫(せま)って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は【黄初】であった。
魏が毌丘倹(かんきゅうけん)を最高責任者に任命して237年に開始した燕の公孫淵討伐は【景初元年の夏】であった。
毌丘倹の公孫淵討伐は失敗したため、翌238年に司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となって首都洛陽を出発したのは【景初二年の春】であった。
司馬懿の軍は、【景初二年の六月】には遼東(りょうとう)に到着していた。
司馬懿の軍が遼東に到着した同じ【景初二年の六月】、倭人国が派遣した使節・難升米(なしめ)一行は帯方郡に到着していた。
そして、【景初二年の十二月】には、難升米一行は卑弥呼に与えられる「親魏倭王(しんぎわおう)」の爵位(しゃくい)と金印紫綬授与の約束をとりつけている。
難升米一行はすぐに帰国の途()につかずに魏都洛陽に長期滞在(ちょうきたいざい)して、重病で面会できない明帝に面会したごとく見せかける偽装工作(ぎそうこうさく)に参加している。

これらの経緯(けいい)には――司馬懿が公孫淵討伐の作戦にあって呉の孫権の動きを様々に推理しながら、公孫淵討伐を用意周到(よういしゅうとう)・綿密(めんみつ)な戦略のもとにおこなわれた一面があらわれている。
その証拠に、魏の曹丕が献帝に禅譲(ぜんじょう)を迫って帝位についた――この「禅譲」といえば、司馬遷(しばせん)著『史記』に記述された【最初の禅譲】は、夏本紀(第二)に記述された「帝益(ていえき)が帝禹(ていう)の三年の喪()が終わると、益は帝位を禹の息子の啓(けい)に譲った」という、夏代黎明期(かだいれいめいき)の歴史である。
司馬懿は『史記』を著作した司馬遷の子孫であった。
ゆえに、司馬懿は『史記』夏本紀(第二)に記述された【益が啓に禅譲した歴史】について知っていたはずである。
この帝益の先祖がなしとげた第一の功績は「天球上(てんきゅうじょう)において太陽が一年間に通過する道――つまり、黄道(こうどう)の測量方法と測量装置(そくりょうそうち)の発明」であった。
この益氏の先祖が発明した「黄道の測量装置」によって、【景】の字源・原義が成立した。

白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景】の字源について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕に「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日景測量のことをいい、「地上千里にして日景に一寸の差があるという――と指摘(してき)する。
上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説における前者の「日景を正して、以て地の中を求む」という文を具体的に説明すると、

「夏代黎明期、帝禹(ていう)が発明した測量方法と測量装置によって地面に正確に図化された【夏の銀河像】は西北の地平線下に潜(もぐ)る形状」であった。
また、上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説における後者の「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と説明する文を具体的に説明すると、
「五帝時代の4番目の帝王に就任した堯代初頭(ぎょうだいしょとう)において、夏代黎明期に帝位についた帝益(ていえき)の先祖の益が発明した黄道(こうどう)の測量方法と測量装置で明らかになった、その日の正午に南中(なんちゅう)した太陽はその翌日の正午に南中するまでの時間はちょうど一日ではなく、一日よりわずかの時間(数分)短い事象(じしょう)」を指していた。

下に、「黄道」、要するに「天球上において太陽が一年間に通過する道」、つまり「黄道の大円(大きな円軌道)」が「天の赤道」と2327分の傾きで交わる図を配した。
下図における「黄道の大円の一日の目盛り」は「その日の太陽が正午に南中(子午線通過)してから翌日の正午に南中する時間」は、今日の時間でいうと「24時間ではなく、4分短い23時間56分で一周していること」になる。
この事象を、『周礼』の〔大司徒〕は「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と説明した。
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◆下に配した【夏】の金文形は、上記した【景】の字源・原義の秘密を伝えていた。
下図に示すように、【夏】の金文形は「ぎょしゃ座とおうし座」を象(かたど)り、【夏代黎明期における春分点は、おうし座のα星の西となりに所在した。】
この「ぎょしゃ座とおうし座」を図案する【夏】の金文形は異彩(いさい)を放(はな)ち、個性的で印象ふかい形をしている。
というのも、【漢字の字形】は【夏の銀河各部の形状】を図案するが定式(ていしき)であるにかかわらず――この定式をまもらず下図の【夏】の金文は〔星座の形〕を図案するからである。
〔星座〕を図案するものは、「へびつかい座とヘルクレス座」を図案する【道】の金文形の二例のみしか、わたくしは知らない。
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上記したように、益氏の先祖は五帝時代の帝堯代(ていぎょうだい)の初頭(紀元前2500年頃)に「黄道の測量方法と測量装置」を発明したと考えられる。
下に、「帝堯代における秋分の日の午前〇時の天文図」(夏至の午前6時・冬至の夕刻6時・春分の日の正午の天文図)を配した。
下図に示したように、帝堯代には、上図の【夏】の金文形の字源「ぎょしゃ座とおうし座、そして春分点が南中(なんちゅう・子午線通過していた)
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上図が示しているように、秋分の日の午前〇時には【夏】の金文形となった「ぎょしゃ座とおうし座」が南中し、「おうし座に漬()かる春分点」が「春分の日の正午における太陽の南中高度」に合致して位置した。
このときの【大半の夏の銀河の姿】は西北の地平線(つまり、地の中)に潜(もぐ)っていた。

下図は、帝禹が生存した夏代黎明期(かだいれいめいき)における、【夏】の金文形となった「ぎょしゃ座とおうし座」が南中し、「おうし座に漬かる春分点が春分の日の正午の太陽の高度と合致する天文図」である。
下図に示すように、上図の「帝堯代初頭における秋分の日の午前〇時の天文図」と同様に、「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時における【大半の夏の銀河】」もまた地の中に潜っていた。
ゆえに、『周礼』の〔大司徒〕は【景】の字源を「日景を正して、以て地の中に求む」と解説した。
帝禹が発明した日景測量、つまり「日々【夏の銀河の各部位】を測量する方法と測量装置で地面に図化した【夏の銀河像】」は、
下図のごとく、「その大半が西北の地平線下に潜る【夏の銀河像】であった。
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帝禹(ていう)が【夏の銀河各部の測量方法と測量装置】を発明した夏代黎明期より約400年前に、帝益(ていえき)の先祖は【黄道の測量方法と測量装置】を発明していた。
ゆえに、帝禹が【夏の銀河各部の測量方法と測量装置】を発明した紀元前2080年頃? 【黄道の大円における一日の目盛り】は、つまり「その日の太陽が正午に南中してから翌日の正午に南中するまでの時間は一日よりわずか短い事象」は解明されていた。

これゆえ、上図の「夏代黎明期における秋分の日の午前〇時の天文図」において「南中した【夏】の金文形(ぎゃしゃ座とおうし座を図案する金文形)」は、
『周礼』の〔大司徒」の【景】の「日景を正して、以て地の中を求む」や「地上千里にして日景に一寸の差があるという」とする字源解説とともに、【景】の字源・字義を伝える役割を有することになった。

前述したように――魏の公孫淵討伐が開始された237年の魏の元号は――【景】に【初】が加わる【景初】であった。
しかも、毌丘倹(かんきゅうけん)が最高責任者に就()いておこなわれた公孫淵討伐の開始は、【夏】をあらわして【景初元年の夏】であった。
また、毌丘倹の公孫淵討伐が失敗したため、司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となって首都洛陽を出発したのは【景初二年の春】であった。

このような【景初】という元号の【景】の字源に、夏代黎明期に生存した帝益が密接に関係した。
前述したように、魏の曹丕(そうひ)が後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って帝位についた――この「禅譲」といえば、
司馬遷著『史記』に記述された【最初の禅譲】は夏本紀(第二)に記述された「帝益が帝禹の三年の喪が終わると、益は帝位を禹の息子の啓(けい)に譲った」という、夏代黎明期の歴史であった。
ゆえに、「景初」という元号の「【景】の字源にもとづいて決行された毌丘倹の公孫淵討伐の初め(開始)」は――金文形の【夏】の字に因(ちな)んで【景初元年の夏】と決めたにちがいない。
毌丘倹が公孫淵討伐に失敗したため、「司馬懿による公孫淵討伐」は――【景】の字源にもとづいて、上図の【夏】の金文形となった「ぎゃしゃ座とおうし座」が、帝益が禹の息子の啓(けい)に帝位を禅譲した夏代黎明期における春分の日の正午に太陽が南中(なんちゅう)した高度(位置)」に因み、「景初二年の【春】」と決めたにちがいない。

なお、参考までに、下に「卑弥呼が生存した3世紀の三国時代の秋分の日の午前〇時の天文図」を配した。
下図に示すように、3世紀の【夏】の字源「ぎょしゃ座とおうし座」は、春分の日の正午の太陽の南中高度には位置していなかった。
ゆえに、「景初」という元号の由来(ゆらい)にはならなかった。
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以上のごとく、【景初】という元号は――夏代の初め(黎明期)、その先祖が【景】の字源となった「黄道の測量方法と測量装置」を考案した益氏の子孫の帝益が禹の息子の啓へ禅譲した、その歴史に因(ちな)んで決行された」とあらわしている。

◆前述したように――【呉の黄竜元年(229)】、帝位についた呉の孫権は、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否された。
【翌黄竜二年(230)】、孫権は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の東鯷人国(とうていじんこく)に遠征(えんせい)させた。
しかし、呉の一万の東鯷人国遠征軍は台湾沖の海域を横断できず、八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)して、遠征は大失敗した。
この【黄竜】という元号は――前述したように「夏の銀河における【巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河】が地平線の東南から昇る光景は、黄帝時代と229年・230年は相似する」とあらわしていた。
ゆえに、公孫淵討伐が決行された【魏の景初】という元号について――司馬懿は英才(えいさい)・孫権ならば、【夏代黎明期と229年・230年の黎明(れいめい・夜明け)に、「夏の銀河」が東の地平線が昇る光景は相似する様子】をあらわすという知識を必ず有していると推定して――司馬懿は、「孫権は一気に魏都を攻撃しない」と推理して公孫淵討伐の戦略を組み立てたにちがいない。
言いかえると、司馬懿は――孫権は益氏(えきし)が移住した地は倭人国であろうと推定し、この推定と共に夏代黎明期の歴史を利用して――公孫淵討伐の作戦を企(くわだ)てたことになる。

魏の景初元年(237)・景初二年(238)当時――孫権は230(黄竜二年)における、一万の水軍を日本列島の倭人国の背後の東鯷人国に遠征させて台湾沖で八割から九割の兵を失って壊滅した作戦の大失敗に精神的に大ショックをうけて・トラウマになっていたにちがいない。
このため、孫権は倭人国が使節を派遣して魏と結ぶ軍事同盟に過度(かど)に反応(はんのう)して、用心(ようじん)深く・慎重(しんちょう)になりすぎたため――司馬懿が大軍を率いて兵が手薄(てうす)になって留守(るす)にした魏都洛陽を孫権が一気に攻撃する動きを封(ふう)じるに大いに役立つことになったのである。
こういう次第(しだい)であったゆえ、孫権は天下二分の呉・蜀連合軍を率いて魏都洛陽を攻撃しなかった。

◆『史記』を著作した司馬遷(しばせん)は、「太史公(たいしこう)」と称(しょう)された。
ゆえに、今日『史記』と呼ばれる歴史書の書名を、司馬遷は『太史公書(たいしこうしょ)』とした。
三国時代以後、『太史公書』は『史記』と呼ばれることになった。
「太史公」は現代風にいうと「歴史局の長・総裁(そうさい・トップ)」を意味した。

しかし、世間では「太史公」は「星占い、つまり占星(せんせい)の長」であると思われていた。
というのも、司馬遷の父の司馬談(しばだん)は占星術と易学を熱心に研究していたからである。
しかし、当時における「占星術と易学」は〔「夏の銀河各部の形状」から文字を作成した【倉頡の文字作成理論】の研究を隠蔽(いんぺい)する方法〕であった。
【倉頡の文字作成理論】は国家・王朝が最も厳重(げんじゅう)な機密であった。
ゆえに、【倉頡の文字作成理論】を世間が知るように研究すると本人はもちろん家族あるいは一族まで死刑となった。
だから、「占星術と易学の研究」という名のもとに偽(いつわ)って、司馬談は【倉頡の文字作成理論】を熱心に研究したのである。

司馬遷は『史記』五帝本紀(第一)には、倉頡や【倉頡の文字作成理論】について1字も記述していない。
しかし、司馬遷は、倉頡の歴史や【倉頡の文字作成理論】に精通(せいつう)していた。
ゆえに、倉頡についての説明は書き出すと詳細になって国家・王朝が最高の大罪(たいざい)とする【倉頡の文字作成理論を暴露(ばくろ)する行為】まで深まってしまうのを自重(じちょう)して――司馬遷は『太史公書』つまり『史記』が焚書(ふんしょ)される、つまり反逆の書とされてすべて燃やされてしまうのをふせぐために、倉頡について1字も記述しないことにしたにちがいない。
紀元前126年に二十歳になった司馬遷は、真っ先に中国南方の淮河(わいがわ)・長江の地域に旅した。
この淮江への旅は、【倉頡の文字作成理論の研究・学習】を目的にしたにちがいない。
司馬遷は淮江からはじめて中国のほとんどの全域を周遊(しゅうゆう)し、民情に接し、様々な史蹟を見学している。
これらの旅も【倉頡の文字作成理論の研究・学習】が目的であったにちがいない。
というのも、【正しい歴史書を著作するため】には、どうしても【倉頡の文字作成理論を研究し・学習する必要】があったからである。

◆司馬懿(しばい)は『史記』を著作した司馬遷の子孫であった。
だから、司馬懿は『史記』に精通していたゆえ、五帝本紀(第一)・夏本紀(第二)はじめ陳杞世家(ちんきせいか・第六)の「帝王になった益の子孫は中国のどこの地に封ぜられたか不明である」という記事についても知っていたにちがいない。
司馬懿は『史記』を著作した司馬遷の子孫であるゆえ、【倉頡の文字作成理論】に精通していた。

司馬懿は魏軍のエースにしてトップの長であった。
ゆえに、倭人国から帯方郡、帯方郡から魏都へ送られた倭人国からの文書は司馬懿の手元に届けられ集められた。
だから、【倉頡の文字作成理論】に精通する司馬懿は――公孫淵討伐より以前に送られていた卑弥呼が夏音文字で書いた文書を伊都国の港で魏が用いる楷書に書き代えた国書を読んで――「倭人国には【倉頡の文字作成理論】が存在する。益氏の子孫はおそらく倭人国に移住したと思われる」と察知したことになる。

『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名は「邪馬壱国」であったと記す。
「司馬懿」と「邪馬壱」の3字は、両者の先頭の字は【司】と【邪】と相違するが、次の【馬懿】と【馬壱】はほぼ同じである。
つまり【懿】の偏は【壹()】であるゆえ、「邪馬壱国」の後ろ2字「馬壱」の【壹()】と同じとなる。
したがって、【倉頡の文字作成理論】に精通する司馬懿は【馬】の字源は「フタコブラクダ」であり、【壹()】の字源は「十字の銀河の子宮。または女性の生殖器官の骨盤・子宮・産道」であると知っていた。

倭人国から大海を越えて帯方郡や魏都に到着する倭人国の使者たちが必ず「大夫(だいふ)」と名乗る
ゆえに、司馬懿は「大夫」の意味について興味を抱き研究した――あるいは倭人国の使者たちから聞きただして、「大夫」は「夏代黎明期、益氏の王子と若者たちが荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を越えて倭人国に到着した。その大海を越えて吾は帯方郡や魏都に到着した」と倭人国の使者たちが自画自賛(じがじさん)する語であることを知ったにちがいない。
『万葉集』の「大夫」は「ますらを」と読み、今日「ますらを」は「益荒男」と記す。
ゆえに、「大夫・益荒男」は「中国から荒波逆巻く大海を渡って日本列島に定住した益氏の王子と若者たち」をあらわす語であったことになる。

◆前記したように、白川静著『字統』(平凡社発行)は、【景(けい)】の字について――『周礼(しゅらい)』の〔大司徒(だいしと)〕に「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日量測量のことをいい、地上千里して日景に一寸の差があるという」と指摘する。
このような【景】の字の解説は、要するに「天球上において太陽が一年間に通過する道」、すなわち「黄道の大円」について説明している。
上記した『周礼』の〔大司徒〕の「地上千里して日景に一寸の差があるという」という解説を、
〔現代における時間の分〕に換算(かんざん)すると、1(黄道の円一周)÷365.25日=0.0027378時となる。一時間は60分であるゆえ、一日24時間は60×241440分となる。
ゆえに、0.0027378時×1440分=3.942432分、つまり四捨五入すると4分ということになる。
つまり、太陽は一日(前日の正午から翌日の正午まで)24時間で運行しているのではなく、一日4分短い23時間56分で運行していることになる。
このように4分短いのは地球が太陽のまわりを回っているために起()きる。
この一日4分ずつ短いずれは、一年すると前年の初めの位置にもどって360度の大きな円形となる。

『周礼』は紀元前11世紀に生存した周公旦(しゅうこうたん)が作ったと指摘されていたが、現在では戦国時代末期に成立したと考えられている。
『周礼』には「周王朝の文物・習俗・政治制度」について記述され、戦国時代以後の儒者(じゅしゃ)たちにとって理想的な制度とみなされた。このため、後漢時代や三国時代には『周礼』に通じる人々も存在し、あるいは研究する人々もいた。また、『周礼』は古来の学術や文学などを研究する人々にとって重要な経典(きょうてん)であった。
前ページに示した「ぎゃしゃ座とおうし座に漬かる、春分点」をあらわす【夏】の金文は周代に出現した古代漢字であり、上記した【景】の「日景を正して、以(もっ)て地の中を求む」と日量測量のことをいい、地上千里して日景に一寸の差があるという」字源解説の出典『周礼』の〔大司徒〕は、周代の文物・習俗・政治制度について説明する経典であった。
これゆえ、三国時代において『周礼』は人々に注目されていた経典であったゆえ、司馬懿も『周礼』を読んでいたにちがいない。
ゆえに、前述したように、司馬懿は【夏】の金文形「ぎゃしゃ座とおうし座」の秘密と、上記した『周礼』の〔大司徒〕の【景】の字源解説の秘密について精通していたにちがいない。

◆下図に示すように、邪馬壱国だ・現在の島根県松江市西部に所在する佐太神社(さだじんじゃ)の境内(けいだい)からずれて、佐太神社の門前を擦(こす)るように東経133度が貫通する。
この「佐太神社の境内から門前までの距離の差」が、上記した【景】の字源「地上千里して日景に一寸の差がある状況」をあらわした。
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日本地図で調べると、東経133度は高知県の最南端の足摺岬(あしずりみさき)を貫通している。
「足摺岬」の別称は「蹉跎岬(さだみさき)」である。
『角川日本地名大事典』(角川書店発行)は――最初は「左太岬」であったが「蹉跎岬」となり、その後「足摺岬」になった――と説明する。
「蹉跎」という語は「つまずいて転ぶ」を意味した。
【馬】の字源「フタコブラクダ」の歩き方は「側体歩(そくたいほ)」といって「同じ側の足を同時に踏み出す。この右側の前足と後ろ足を同時に踏み出した後に、左側の前足と後ろ足を同時に踏み出す」。
このような「フタコブラクダの側体歩」はあたかも「フタコブラクダがつまずいて転ぶかのように観える」。

上図に示した東経133度が佐太神社の門前を貫通する様子をあらわした「古代出雲の地宜(ちぎ)」における右上には――卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)に、「邪馬壱国」のうちの【邪馬】をあらわす「神門水海(かんどのみずうみ)」が所在した。
この「神門水海の地宜」は「出産した直後に両足で立たんとする【馬】・フタコブラクダの子どもの姿」に相似する。
「神門水海」における「フタコブラクダの前足は短く、後ろ足が長い」ゆえ、その様子は「つまずいて転ぶ」ことになる。
また、「宍道湖」は「片足の形」に相似するゆえ、「片足ではつまずいて転ぶ」ことになる。
このように、邪馬壱国の「神門水海」と「宍道湖」は「つまずいて転ぶ」という「蹉跎」という語をあらわした。

以上のごとく、烏奴国(あなこく)・高知県の蹉跎岬・佐太岬と邪馬壱国・島根県の佐太神社の門前を通過する東経133度は【景】の字源・原義をあらわした。

◆【景】の字源解説「地上千里して日景に一寸の差があるという」の「一寸の差」は、いいかえると「太陽は前日の正午から翌日の正午までを4分短い23時間56分で一周する様子」は、
下図に示す「十字の銀河の子宮の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までの距離」をもって喩(たと)えられた。
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前述したように、「司馬懿」という名は先頭の【司】と【邪】の字は異なるが、後ろの【馬壱】と【馬懿】はほぼ同じである。
ゆえに、司馬遷の子孫であるゆえ【倉頡の文字作成理論】に精通していた司馬懿は自分の名に用いられる【懿】の字源、また【壹】の字源について熟知(じゅくち)していたにちがいないので――「邪馬壹()国」という名に用いられる【壹】の字源は「十字の銀河の子宮」であり、
しかも、上記したように、彼は「十字の銀河の西端から東端まで」は【景】の字源となることを知っていたにちがいない。
このような事情から、237年の魏の元号は司馬懿の意見にしたがって、明帝は【景初】と定めたにちがいない。

司馬懿は、249年にクーデターを起こして魏の実権を掌握(しょうあく)した。
2年後の2519月7日に、司馬懿は死去した。享年(きょうねん)73歳であった。
265
年、魏が滅び、司馬懿の孫の晋王(しんおう)の司馬炎(しばえん)が、武帝と称した。
280
年、武帝が天下を統一して、西晋(せいしん)王朝が創設された。
このような経緯から、司馬懿は、西晋の礎(いしづえ)を築いた人物とされた。

前述したように、司馬懿は『魏志倭人伝』に記述されていた【倭人国から送られた国書】を読んで「倭人国は【倉頡の文字作成理論】を詳細に知っている」と察知し、
司馬懿は「【倭人国の国書】は中国にとってもきわめて重大にして貴重な学問書である」と認識(にんしき)して大事に保管(ほかん)した。
ゆえに、西晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)に任命された陳寿(ちんじゅ)は、西晋王朝に秘蔵(ひぞう)されていた【倭人国の国書】を閲覧(えつらん)して、
武帝(司馬炎)が治める太康年間(たいこうねんかん・280年~289)に完成させた『三国志』魏書東夷伝の末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』の作成資料として【倭人国の国書】を書き写して年代順にならべて記したことになる。
よって、国家と王朝が最も厳重な機密(きみつ)にして独占管理して書物に直接的に詳細に正確に記述することを厳(きび)しく禁止していたがゆえ、
中国では誰(だれ)一人も【倉頡の文字作成理論】を詳細に・正確に・組織的に説明する書物を作成すれば焚書(ふんしょ)され抹消(まっしょう)されたがために残さなかった【倉頡の文字作成理論】が詳細に・組織的に・論理が成立して説明される、きわめて希少価値(きしょうかち)の高い『魏志倭人伝』が残ることになったのである。

以上からして、名将・司馬懿は【倭人国の国書】を読んで【景初】という元号の基(もと)に孫権対策と公孫淵討伐の作戦を綿密(めんみつ)に立て、この戦略を明帝に意見を具申(ぐしん)して、公孫淵討伐を決行したと考えるべきことになる。

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2024年9月 1日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・28

x卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴国(くなこく)は討伐されて滅亡した

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
【春の銀河】、【秋の銀河】、【冬の銀河】とよばれる銀河もあるが――【夏の銀河】が「もっとも巨大で、しかも、もっとも印象深い形をしている」。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔(むかし)、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進(して)東北地方の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・27」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・27」では、
下図に示すように、
最初の対馬国から数えて25番目の「躬臣国(こじこく)」は「現在の大阪府・兵庫県東部と兵庫県南部の淡路島」であり、「旧国でいうと、摂津(せっつ)・和泉(いずみ)・河内(かわち)と淡路島」であったと証明した。
また、対馬国から26番目の「巴利国(はりこく)」は「現在の兵庫県南西部の、旧国の播磨(はりま)」であったと証明した。
また、27番目の「支惟国(しいこく)」は「現在の広島県西部と広島県東部の一部(西方)の、旧国の安芸(あき)と備後(びんご)の西部(西方)」であったと証明した。
また、28番目の「烏奴国(あなこく)」は「現在の高知県、旧国の土佐(とさ)」であったと証明した。
さらに、29番目の「奴国(なこく)」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県の、旧国の伊予(いよ)・讃岐(さぬき)・阿波(あわ)」であったと証明した。
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◆上図に示したように、対馬から数えて30番目国は「狗奴国(くなこく)」であった。
下図に示したように、「狗奴国」の範囲は「現在の香川県の小豆島(しょうどしま)と広島県東部・岡山県」であり、旧国だと「小豆島と、そして備後(びんご)東部・備中(びっちゅう)・美作(みまさか)の吉備地方(きびちほう)」であった。
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「狗奴国」という小国名の【狗】の字について、白川静著『字統』は字義を「いぬ()」とする。
そして、白川静著『字統』は【狗】の字について「狗鼠(くそ)、狗盗(くとう)・走狗(そうく)のようにいう」と解説する。
ゆえに、「狗奴国」の【狗】には「走狗、つまり狩猟犬(しゅりょうけん)」と意味すると共に「侮蔑(ぶべつ)の意」もこめられていたのであろう。
というのも、『魏志倭人伝』の末部に「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より和せず」という記事が存在するからである。
ゆえに、「狗奴国」という小国名には「卑弥呼王朝による侮蔑の意味」がこめられていたであろう。

下図に示すように、「小豆島の地宜」は「狗(走狗・狩猟犬)の姿」に相似する。
したがって、「小豆島」は「ジャコウウシの天敵(てんてき)のオオカミ」ではなく、「ジャコウウシを襲(おそ)う走狗(狩猟犬)」に見立てられたことになる。
ゆえに、「小豆島より北側の、岡山県の児島半島(こじまはんとう)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は、
「走狗の群れの襲撃に気づき、ジャコウウシの群れがいる場所へと走り逃げるジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
だから、下図に示したように、「小豆島」が【狗】、「岡山県の児島半島」が【奴】の字源「ジャコウウシ」、「児島湖」が「ジャコウウシの背中に食いつく走狗の姿」に見立てて、
卑弥呼は「小豆島と岡山県中心部の地宜」にもとづき「狗奴国」という小国名を考案したことになる。
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◆下図に示すように、「男性の前上側から見た骨盤口(こつばんこう)」は「狗(いぬ)の顔の形」に相似する。
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下図に示すように、対馬国から21番目の「鬼国(きこく)」が所在する「志摩半島の地宜」は「男性の骨盤の正面形の上下を反転した形」に相似する。
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したがって、()「【倭】の字源における男性グループ」の「最初の21番目の鬼国と最終国の30番目の狗奴国」は「男性の骨盤」が共通する仕組みになっている。

いっぽう、下図に示すように、対馬国から11番目の「伊邪国(いやくに)の地宜」は「女性の骨盤の正面形」に相似すると見立てられた。
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また、下図に示すように、「女性の骨盤の正面形」は「蝶の翼を広げる成虫の姿」に相似する。
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そして、下図に示すように、対馬国から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)の地宜」は「蝶の成虫の姿」に相似すると見立てられた。
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ゆえに、()「【倭】の字源における女性グループ」における最初国の伊邪国と最終国の華奴蘇奴国の両国も共に「翼を広げた蝶の成虫の姿」に相似し、伊邪国の地宜では「翼を広げた蝶の成虫の姿」は「女性の骨盤の正面形」に相似する。
したがって、()「【倭】の字源における女性グループ」と,()「【倭】の字源における男性グループ」は「骨盤」が共通項となる仕組みになっている。

下図に、「男性の骨盤と女性の骨盤の形の相違」を示した。
女性の擂鉢(すりばち)のような大骨盤は妊娠時に子宮を支(ささ)えるために左右に広がり、そして男性の擂鉢のような大骨盤より浅く、骨盤口は楕円形である。
男性の擂鉢のような大骨盤は深くがっしりしており、骨盤口は狗()の顔の形に相似する。
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◆『魏志倭人伝』の後半部には「(魏の元号の)景初(けいしょ)二年(西暦238)の六月に、魏の明帝(めいてい)は倭女王の卑弥呼に親魏倭王(しんぎわおう)・金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えると約束した」と説明する。
この「親魏何某(なにがし)王」という爵位(しゃくい)は、229年に西域(せいいき)の大国であった大月氏国(だいげっしこく)に与えられた「親魏大月氏王」と、卑弥呼に与えた「親魏倭王」の二つだけである。
だから、「親魏倭王」という名称は魏が外臣(がいしん)に与えた最高の爵位であることを示す。
当時、下図に示すように、魏の前面の敵は呉と蜀(しょく・漢)、魏の背後の脅威(きょうい)は燕(えん)と朝鮮半島の諸韓国であった。
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ゆえに、「親魏倭王」という爵位は――「魏の背後の燕または諸韓国が反乱をおこしたとき、魏軍を助けて倭軍が出兵(しゅっぺい)して共に戦う軍事同盟」を結んだからこそ――卑弥呼に与えられることになったのである。
魏と倭人国の軍事同盟が結ばれた238(魏の景初二年)六月、魏の明帝は重病で床に伏()せていた。
したがって、238年の記事にて「倭人国の使節・難升米(なしめ)一行は明帝に面会した」と説明するものの、実際には倭人国の使節一行は明帝に面会できなかったにちがいない。
けれども、238年当時、「明帝は倭人国の使節・難升米・一行と面会した」と呉の孫権(そんけん)に思い込ませることは、魏軍にとって軍略上において必要とされた。

というのも、238年の前年の237年・景初元年の夏、魏は燕王(えんおう)の公孫淵討伐(こうそんえんとうばつ)を魏の東方出兵の最高責任者に幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)である毌丘倹(かんきゅうけん)が任命されて開始したが、この毌丘倹の公孫淵討伐は失敗し――
翌景初二年(238)、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)と五丈原(ごじょうげん)で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり――司馬懿は4万の歩兵と騎兵を率(ひき)いて春に、首都洛陽(らくよう)を出発していたからである。

ゆえに、倭人国の使節・難升米一行が魏都洛陽に到着した景初二年・238年の6月当時、すでに司馬懿は4万の歩兵と騎兵の大軍を率いて春に出発していたため、魏都洛陽には少数の兵しか残っていなかったにちがいない。
したがって、孫権が「天下二分の計(つまり、魏を倒して天下を呉と蜀の二分する)」という軍事同盟を結んだ呉軍と蜀軍の連合軍を率いて魏都洛陽を躊躇(ちゅうちょ)せずに襲撃すれば魏は滅亡する可能性が大であった。
しかし、孫権は名将・司馬懿ならば、当然、倭の使節一行と明帝の面会の裏には、何か企(たくら)みを用意して大軍を率いて東方へ出兵したにちがいない――よって、孫権が呉・蜀の連合軍を率いて魏都洛陽を攻撃すると一気に窮地(きゅうち)に陥(おちい)る罠(わな)が必ず仕掛けてあると考えて慎重(しんちょう)になったのか――孫権は連合軍を待機させて一気に洛陽を攻撃しなかった。
ゆえに、孫権は天下を手に入れることができた千歳一隅(せんさいちぐう)のチャンスを逃した。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう『魏志倭人伝』の末部に記述された「狗奴国(くなこく)が滅亡した様子」を解説するには、【夏の銀河各部の名称】が必要である。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図における左上には「三つ輪の銀河や「十字の銀河」がある。
上図の右下には「銀河の中心(銀河系宇宙の中心)」と「胎児の姿に似る銀河」と「巨龍の顔の銀河」の三つの銀河がある。
上記の三つの銀河を、これから以後「銀河の中心方向周辺の銀河」と呼ぶことにする。

下に、「歳差(さいさ)状況図(天の北極の位置図)」を配した。
この25,800年で「黄道(こうどう)の北極」を一周する「歳差状況図」にもとづいて、今から5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代と三国時代(3世紀)の両時代における天の北極と春分点の位置を求めて――「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」を再現すると、
つまり「三つ輪の銀河・十字の銀河が東北の地平線から昇り、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る光景」を再現すると、両時代の「夏の銀河の光景」は近似(きんじ)していることになる。
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上記したように、「黄帝時代から三国時代までの、夏の銀河が地平線から昇る黎明(れいめい・夜明け)の光景」は近似していた。
これからおこなうこのブログの解説において「夏の銀河が東の地平線から昇る光景」は、五帝時代から三国時代までは相似していたことを覚えていていただきたい。
〔注 しかし、現代「夏の銀河における、銀河の中心方向周辺の銀河が東南の地平線から昇る時には、現代は東北の地平線からカシオペヤ座とケフェウス座が昇る」ゆえ、黄帝時代や三国時代の光景と相違する。〕

◆呉の孫権が「大帝」と称して黄帝に即位した229(黄竜元年)ごろは、魏の曹操(そうそう)と『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の立役者の劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)や絶世の美女・甄氏(けんし)を略奪(りゃくだつ)して皇后とした魏の曹丕(そうひ)こと文帝(ぶんてい)などはすでに亡くなっていた。
残っていたのは、『三国志演義』においての若い立役者の蜀の名補佐役の諸葛孔明(しょかつこうめい)と、15歳で呉の頭領となった孫権(そんけん)であった。

漢は赤の火徳によって天下を治めた。
当時の五行説では、「火」の次は「土」とされた。
この土徳の色は黄色とされた。
これゆえ、後漢の献帝(けんてい)に禅譲(ぜんじょう)を迫って政権を奪(うば)った魏の最初の元号は「黄初(こうしょ)(220)であった。
この「黄初」という元号はもちろん漢の赤の火徳の次を意識すると共に、司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)の「土徳の瑞祥(ずいしょう)があったので、黄帝と号した」という記事にもとづいていた。
というのも、上記したように――今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における、東南の地平線から昇った黎明(れいめい・夜明け)の「銀河の中心方向周辺の銀河」の光景は、魏・蜀・呉の三国が天下を争った三国時代(220年~280)の黎明における東南の地平線から「銀河の中心方向周辺の銀河」が昇る光景に近似(きんじ)したからである。

上記した「銀河の中心方向周辺の銀河」はこのブログの初頭部のカラー写真で示したように「黄色」であり、
この「銀河の中心方向周辺の銀河」は「胎児の姿に似る銀河」が「女性の生殖器官と出産について研究した黄帝」をあらわし、
しかも「土、つまり地平線近くを運行する銀河」であったゆえ「土徳」をあらわした。
黄初元年・220年より2年後の222年の孫権が呉王を称した時の元号もまた「黄武(こうぶ)」で、黄色の土徳・「黄帝」という帝王名に由来(ゆらい)していた。

魏におくれること一年、呉に先んじること一年にして帝位についた蜀の劉備(りゅうび)は、その最初の元号を「章武(しょうぶ)」とした。
この蜀の元号には「黄」の文字が見えない。というのも、蜀は自国こそ「漢」であると称したので、「漢」は赤の火徳を示すものであったため、「黄」の文字を元号に用いなかった。
だから、蜀の国号の正式名は「漢」もしくは「蜀漢」であるが、わが国では「蜀」のほうが馴染(なじ)み深い。

223
年、蜀の昭烈王(しょうれつおう)こと劉備(りゅうび)が没した。その子の劉禅(りゅうぜん)が帝に即位し、諸葛孔明がその補佐にあたった。
孔明は劉備が没すると、まず最初に「天下二分の計(つまり、魏を滅ぼして蜀と呉とで天下を二分する計略)」を企(たくら)む軍事同盟を着手(ちゃくしゅ)した。
当時、蜀と呉との関係はすっかりこじれていたものの、両国の間に「天下二分の計」の軍事同盟を結ばなければならないと気運(きうん)が高まっていたために、順調(じゅんちょう)にことが運んだ。
ゆえに、「天下二分の軍事同盟」は結ばれて、呉の孫権と蜀の諸葛孔明の主敵は、魏ということになった。

それから6年後の229年、呉の孫権は「大帝」と名のり、「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河」にもとづいて、元号を「黄竜(こうりゅう)」とした。
下図は、「黄竜」の元号となった「巨龍の顔の銀河がある、黄色い銀河の中心方向周辺の銀河図」である。
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いっぽう、魏は227年以来の蜀の魏討伐に対抗して、過去に度々(たびたび)蜀と争った大国の大月氏国王に「親魏大月氏王」の爵位を与えた。これによって、大月氏国は蜀の背後の脅威(きょうい)となった。
この背後の脅威の大月氏国に対する備(そな)えのためであろう、蜀軍を指揮する孔明の魏討伐は234年まで、しばらくのあいだ中断(ちゅうだん)することになった。

◆前述したように、燕は魏の背後の脅威であったが――燕は大国魏のために独立できず、公孫淵(こうそんえん)は燕王を名のれず、魏の持節(じせつ)・揚烈将軍(ようれつしょうぐん)・遼東太守(りょうとうたいしゅ)という地位で耐()えていた。
呉の孫権は、229(黄竜元年)に帝位につくと、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を魏の支配下にある燕地の遼東半島におもむかせ、燕との同盟を取りつけてくるように命令した。孫権は、燕を味方に引き入れて魏の背後から崩(くず)そうと戦略を図(はか)ったのであるが、公孫淵に拒否(きょひ)された。
というのも、燕の背後の脅威は倭人国であり、当時、倭人国の使者たちが魏と国交を結ぶためにしばしば帯方郡に訪れていたため、呉との軍事同盟が露見(ろけん)すると魏と倭人国に挟(はさ)み討ちされると心配したからと推測(すいそく)されるからである。
230(黄竜二年)、〔公孫淵が呉との同盟を拒否したのは燕の背後倭人国の脅威を心配したが原因〕と察知した孫権は、将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率(ひき)いる一万の水軍を、日本列島の倭人国の背後の脅威となる隣国の徐福(じょふく)の子孫が治める東鯷人国(とうていじんこく)のおける夷州(いしゅう)・亶州(たんしゅう)に向かわせた。
この東鯷人遠征については、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部にある東鯷人国記事に登場する、定期的に呉の会稽(かいけい)に到着して交易(こうえき)をしていた東鯷人国の人民たちが偶々(たまたま)察知して、いち早く帰国して東鯷人国王に報告したようである。

呉の黄竜二年・230年から22年前の208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いで、わずか二万の呉の水軍は約40倍の八〇万の魏の大軍を一夜にして撃破(げきは)して劇的な勝利をおさめた。
この一万の呉の水軍が日本列島の東鯷人国にめざして、呉の黄竜二年・230年に遠征が決行された。
赤壁の戦いで二万の呉軍は八〇万の魏の大軍を撃破したゆえ、魏の四〇万の兵に匹敵(ひってき)する一万の東鯷人国遠征軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えて――東鯷人国王は東鯷人国が倭の属国(ぞっこく)になることを決意して、倭女王の卑弥呼に倭から防衛軍の派遣(はけん)を要請(ようせい)した。
かくして、倭人国が背後の脅威となる東鯷人国が呉に占領されるのを防(ふせ)ぐために倭から防衛軍が派遣されることになり、黄竜二年・230年直後の、多分233年頃に東鯷人国は滅び、代わって新たに「日本」という小国が誕生した。
そして、小国・日本防衛軍の女王に、『魏志倭人伝』に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為()す」と記された「卑弥呼が統率(とうそつ)する巫女界(ふじょかい)の代表者の十三歳の壱与」が選ばれた。
また、日本軍防衛軍の大将の軍王(いくさのおおきみ)に、『魏志倭人伝』な末部に登場する18歳の載斯烏越(そしあお)が就任(しゅうにん)した。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・27」で指摘したように――
「壱与」は『古事記』上巻の〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話(せいこんせつわ)〕に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと)」であり、「載斯烏越」は「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」であった。

呉の一万の東鯷人国遠征軍は【台湾沖で八割から九割の兵を失って壊滅(かいめつ)】し、遠征は大失敗した。遠征軍の将軍の衛温と諸葛直は、この失敗の罪で殺された。
この失敗に懲()りた孫権は東鯷人国遠征を断念(だんねん)した。
しかし、卑弥呼王朝はじめ東鯷人国王や日本国防衛軍は呉の水軍は再度遠征するにちがいないと考えたため、小国・日本における防衛は十余年も続けられた。

◆上記した小国・日本の防衛軍の女王に選ばれた壱与は――『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと)」であり、『古事記』中巻の第9代開化天皇(かいかてんのう)の正妃せいひ」の「丹波(たには)の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘の竹野比売(たかのひめ)」であった。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」で解説し証明したように、「伊邪国は、旧国の丹波」であった。
ゆえに、「伊邪国・丹波出身の竹野比売」は「【伊邪(伊耶)国】の【那(桃の花)】のように美しい女王」と讃(たた)えられて「伊耶那美命」と人民たちに愛称されたことになる。
『古事記』中巻の第9代開化天皇の冒頭は「春日の伊耶河宮(いざかわのみや)に住んで、天下を治めた」と記す。
したがって、「伊耶河宮」と「伊耶那岐命」の先頭2字は共に「伊耶」で同じであるゆえ、「伊耶河宮に住んだ開化天皇」は「伊耶那美命の夫」と人民たちに愛されて「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」と呼ばれた。
だから、夏音名(夏音文字の名前)が載斯烏越(そしあお)は「伊耶那岐命」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』に登場する「壱与」が「伊耶那美命」、「載斯烏越」が「伊耶那岐命」であったという証明は、このブログの前にて紹介したわが拙著『日本国誕生史の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

そして、『古事記』上巻に登場する「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」は、第10代崇神天皇(すじんてんのう)と崇神天皇の母の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと))であったと考えられる。
『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀には「天皇は天照大御神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の二柱(にはしら)の神を、天皇の居所の中に祭った。しかし、倭大国魂神を祀る渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)は身体が痩(やせ)せ細って倭大国魂神を祀ることができなかった」と説明する記事が示しているように――「天照大御神を崇(あが)め祭った崇神天皇」は人民たちに「天照大御神」という異名で呼ばれたことになったのである。
「崇神天皇の母の倭迹迹日百襲姫が箸墓(はしはか)古墳に葬られたのは、小さな蛇(へび)が正体の大物主神の妻になったときに箸(はし)が陰部(いんぶ)につきささって死去されたからである」と説明する奇怪な記事をもって、『日本書紀』編纂スタッフは「天皇家(朝廷)が至上神として尊ぶ天照大御神は倭迹迹日百襲姫命であった」と伝えようとしていたと考えられる。
倭迹迹日百襲姫命は開化天皇の第二后として結婚しているが、開化天皇・伊耶那岐命に離縁されたために「倭迹迹日百襲姫命」と名乗った。
開化天皇と結婚したときの崇神天皇の母親(倭迹迹日百襲姫命)の名は「伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)」であった。
したがって、伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命は、開化天皇・伊耶那岐命の継母であった。
伊迦賀色許売命は開化天皇の父・孝元天皇(こうげんてんのう)と結婚して、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んだ。この比古布都押之信命は崇神天皇であった。
『古事記』中巻は「伊迦賀色許売命は伊耶那岐命・開化天皇と結婚して、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)を生んだ」と説明しているが――御真木入日子印恵命は崇神天皇であったゆえ、実際は開化天皇の養子であった。
「養父と養子の縁(えん)を結ぶ」を、上古では「生んだ」と表現したのであろう。
開化天皇は崇神天皇の実父ではなく、異母兄であった。
竹野比売・伊耶那美命が開化天皇・伊耶那岐命と結婚して生まれた比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)が、『古事記』上巻に登場する英雄・須佐之男命(すさのおのみこと)である。

234年、呉との天下二分の盟約(めいやく)を結ぶ蜀の軍は、魏を討()つために北へ進んだ。
この北伐(ほくばつ)の途上(とじょう)、諸葛孔明は秋風吹く五丈原(ごじょうげん)で病死した。享年(きょうねん)54歳であった。
孔明の死から二年前の2323月、再度、呉の孫権は将軍周賀(しゅうが)と校尉裴潜(こういせんすい)を燕への使者に任命した。今度は、この使者の要求を公孫淵は受け入れた。裴潜は、公孫淵の上表文(じょうひょうぶん)を持って無事に帰国した。孫権は、公孫淵を「燕王」に封(ほう)じるとともに使持節(しじせつ)という資格をも与えた。
しかし、将軍の周賀の配下たちは山東半島で魏に捕らえられた。このため、呉と燕が同盟を結ぶ計画は魏に事前に漏()れていた。
この燕の公孫淵が呉の孫権と結ぶ気配(けはい)を見せたことは、魏にとって心配がたえない脅威(きょうい)となった。
この(232年、翌233)頃から、魏は倭人国との国交に積極的に努力したと考えられる。
『魏志倭人伝』に記述されているように、倭は233年から5年後の238年に、難升米(なしめ)一行を魏都へ派遣し、卑弥呼の「親魏倭王」の爵位(しゃくい)と金印授与の約束をとりつけている。このような大々的な外交にさきがけて、魏と倭とのあいだになんらかの秘密の接触(せっしょく)が当然(とうぜん)あったと考えるべきであろう。なんの準備もなく、唐突(とうとつ)に魏が卑弥呼に「親魏倭王」を任命し金印紫綬(きんいんしじゅ)を授(さず)けたのは、どう考えても理屈(りくつ)にあわない。
公孫淵が信用できなくなったとき(232年、233)頃から、魏は燕の背後の脅威となる倭と外交を結ぼうと決意して着手したにちがいない。

前述したように、237(魏の景初元年)の夏、魏の公孫淵討伐は幽州(ゆうしゅう)の刺史(しし)の毌丘倹(かんきゅうけん)が最高責任者となって開始された。毌丘倹の公孫淵討伐は失敗した。
238(景初二年)、孔明と五丈原で相対(あいたい)した司馬懿(しばい)が、公孫淵討伐の最高責任者となり、毌丘倹が副将となり、4万の歩兵と騎兵を率いて春、首都洛陽を出発した。
途中、毌丘倹の軍と合流し、倭の使節・難升米一行が帯方郡(たいほうぐん)に到着した6月には、司馬懿の軍は遼東(りょうとう)に到着した。
一方、魏の明帝はあらたに劉昕(りゅうきん)を楽浪太守(らくろうたいしゅ)に任じて、海から朝鮮半島に送りこんだ。
このように、魏の大軍に挟(はさ)み撃()ちされた公孫淵は、襄平城外(じょうへいじょうがい)で司馬懿によって斬首(ざんしゅ)された。

司馬懿が公孫淵を討伐して魏都洛陽に凱旋(がいせん)したのは、239(景初三年)正月であった。
この時、明帝は危篤状態(きとくじょうたい)であった。司馬懿はようやくのことで明帝の臨終(りんじゅう)に間()に合った。
明帝には子が無かったので、8歳の曹芳(そうほう)を養子とし斉王(さいおう)とした。この斉王を補佐する役を、明帝は司馬懿と曹一族を代表する曹爽(そうそう)に託(たく)した。
240年の魏の元号は、「正始(せいし)」と定められた。

◆『魏志倭人伝』は「正始元年(240)、帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)の弓遵(きゅうじゅん)は、建忠校尉(けんちゅうこうい)の梯儁(ていしゅん)一行を倭国に派遣し、明帝が卑弥呼に「親魏倭王」の爵位を授けると約束した詔書(しょうしょ)と印綬(いんじゅ)をもたせて倭国にゆかせた。そして、帯方郡の使節一行は、倭王に拝仮(はいか)して、明帝が約束した詔書をさしだした」と説明する。つまり、この240年の記事は「倭女王」ではなく、「倭王」と記す。
ゆえに、239(景初三年)240(正始元年)、つまり帯方郡の使節一行がいまだ倭国に到着していなかった240年において、卑弥呼はすでに没していたのであろう。
これゆえ、卑弥呼に代わって倭王(男の大王)が帯方郡の使節一行に面会した。
本来ならば、明帝が約束した詔書と印綬は卑弥呼にさしだししなければならなかったゆえ、『魏志倭人伝』は「拝仮(はいか)」、つまり「仮(かり)に拝謁(はいえつ)することにした」と記述することになったのであろう。

『魏志倭人伝』は「243(正始四年)、倭王はまた大夫(だいふ)の伊聲耆(いてき)・掖邪狗(ややこ)などの八人の使節を派遣した。(中略)。魏王朝は掖邪狗らに率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の印綬を与えた。」と説明する。
また、『魏志倭人伝』は「245(正始六年)、魏の斉王は詔(しょう)を下して、倭の難升米(なしめ)に魏の軍旗(ぐんき)の黄幢(こうどう)を与えることにし、帯方郡に託(たく)して仮授(かじゅ・仮に授けることに)した。」と記述する。

『魏志倭人伝』には記述されていないが――246(正始七年)には、馬韓(ばかん)の臣濆沽国(しんふんここく)の首長(しゅちょう)を中心とする勢力が帯方郡の軍事基地を攻撃し、この叛乱(はんらん)で帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)が戦死した。
だから、倭は魏との盟約にもとづいて出兵しなければならなかったが――239年頃の卑弥呼の死から間もなくして狗奴国(くなこく)が戦争を仕掛(しか)けてきたため、この内戦をおさめるために倭は韓に軍を派遣(はけん)することができなかった。
韓の叛乱は楽浪郡からの水軍の応援によって、韓の軍は敗北して鎮圧(ちんあつ)された。

◆それゆえ、『魏志倭人伝』は「247(正始八年)、帯方郡太守に王頎(おうき)が着任した」と記す。
この247年の記事はさらに続き、「倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より不和であった。(それゆえ、卑弥呼の死後間もなくして狗奴国が倭国を攻撃してきたので、魏との盟約(めいやく)をまもれず、韓に軍兵を派遣できなかった)
ゆえに、倭は載斯烏越(小国・日本の軍王の伊耶那岐命)を帯方郡に派遣して、倭と狗奴国との相攻撃(あいこうげき)する様子を報告して、魏との盟約(めいやく)をまもれなかった事情を弁護することにした。
そこで、帯方郡太守は、塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせ)たちを派遣し、彼らに前年(245)の斉王の詔書と黄幢を託(たく)して難升米に拝仮した。
帯方郡の使者の張政は(「燕・諸韓国における平和を維持(いじ)するためには、倭の狗奴国を滅亡させなければならない」と説く)(げき・軍書)を作って、倭女王・壱与(伊耶那美命)を説得(せっとく)した。
(
しかし、【愛】の女王の壱与・伊耶那美命は「狗奴国の男王とは話し合いによって戦いを鎮(しず)める」と主張して、張政の檄による告喩(こくゆ・説得)に応じなかった。

上の記事に登場する「倭女王の卑弥呼と狗奴国の男王は素より不和であった」という事情は――、
狗奴国の男王は「現在と夏代黎明期における東の地平線に昇る【夏の銀河の形状】は同じである。だから、名門益氏の王子と若者たちがもたらした帝禹(ていう)の遺志である国家を作らないようにして、氏族共同政治体制を依然(いぜん)として維持すべきだ」と主張したのであろう。
この意見に対して、卑弥呼は「現在と夏代黎明期における東の地平線から昇る【夏の銀河の形状】は相似するがまったく同じではない。ゆえに、現在は新しい政治体制がどうしても必要である。依然として国家を作らない旧政治体制のままだと、いずれ中国の魏や呉に占領されるにちがいない」と反論したと考えられる。
このような事情であったゆえ、壱与・伊耶那美命は張政の檄の告喩に応じず――狗奴国の男王との対立・争いは話し合いで平和的に解決できると考えたのであろう。
しかし、魏との同盟は軍事同盟であった。
ゆえに、夫の載斯烏越・伊耶那岐命はじめ天照大御神・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と倭王朝の面々は――張政の檄(げき・軍書)の告喩にしたがって狗奴国を討伐(とうばつ)して滅亡させるしかない。話し合いによる解決は魏との同盟を無視することになる。だから、魏を裏切(うらぎ)り敵にまわすことになる。そうなると、むしろわが国は大いに乱れて人心が動揺(どうよう)し漂(ただよ)える状況が一層(いっそう)ひどくなり収拾(しゅうしゅう)がまったくつかない事態となる――と、主張して壱与・伊耶那美命の意見に猛反対したにちがいない。
このため、倭王朝は強引に伊耶那岐命の第二后の天照大御神・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)を壱与の代理に就任させた。

これゆえ、『魏志倭人伝』の末部は下記のごとく説明している。
――張政らは、再度、激(軍書)を作って壱与、つまり壱与・伊耶那美命の代理に就任した天照大御神・伊迦賀色許売命を告喩・説得した。
かくして伊迦賀色許売命は張政が作った檄の告諭にしたがったために、狗奴国討伐は開始され、狗奴国は日本・倭連合軍によって滅亡した。
つまり、狗奴国討伐は小国・日本国の軍王の載斯烏越(そしあお)・伊耶那岐命が最高責任者となり、邪馬国(やまくに・大和)の崇神天皇・天照大御神の軍の活躍によって討伐されて滅亡した。
その後、壱与(の代理の天照大御神・伊迦賀色許売命)は、倭の率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)たち二十人を帯方郡に派遣し、帯方郡の使節の張政らを帰還させた。
この倭の使節の掖邪狗一行は帯方郡を出発して魏都洛陽に到着した。
このような記事をもって、『魏志倭人伝』の記事は終わっている。

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の説話は、下記のごとく説明する。
――小国・日本の女王に就任した伊耶那美命と夫の伊耶那岐命は、小国・日本の建国理念を【愛】と定めた。
ところが、『魏志倭人伝』に記述されているように――卑弥呼が死去して卑弥呼を葬る陵墓を築造する時、卑弥呼の後を受け継いだ男王が百余人の奴婢(ぬひ)を殺して埋めた徇葬(じゅんそう)を決行した。この循葬儀式を人民たちは残酷すぎると否定・憎悪して武器をもって倭王朝を攻撃する叛乱が国中に広がった。
この国中の叛乱は「伊耶那美命と伊耶那岐命が日本建国理念を【愛】にしたが原因である」と倭王朝は立腹(りっぷく)・非難し、さらに倭王朝は「伊耶那美命と伊耶那岐命に小国・日本を与える」という約束を反故(ほご)にして、伊耶那美命を倭女王に就任させて「国中の叛乱を鎮(しず)めよ」と欲求した。
このような次第(しだい)で、【愛】の女王・伊耶那美命が倭女王に就任すると、国中の人民たちは伊耶那美命ならば必ず徇葬を否定して廃絶(はいぜつ)するにちがいないと信頼して武器を捨てた。ゆえに、国中は遂(つい)に平定された。
しかし、このような混乱状態に乗(じょう)じて狗奴国が倭国に戦争を仕掛(しか)けてきた。
このため、倭王朝は「狗奴国の反乱もまた壱与・伊耶那美命と載斯烏越・伊耶那岐命が小国・日本の建国理念を【愛】と定めたが原因で起きた」と責任を押しつけて――二人に狗奴国の反乱を鎮圧(ちんあつ)する最高責任者に就任させた。

小国・日本の軍王の載斯烏越・伊耶那岐命は狗奴国討伐の最高責任者(総大将)として狗奴国討伐を指揮したが――狗奴国滅亡の酷(ひど)い惨状(さんじょう)を目にして後悔し、愛妻・伊耶那美命の主張が正しかったと、倭王朝に怒りをぶつけて反抗(はんこう)した。
この倭王朝への反抗が原因で、狗奴国討伐は伊耶那岐命・開化天皇の功績ではなくなり、開化天皇の祖父・孝霊天皇(こうれいてんのう)の事績(じせき)とされた。
孝霊天皇は、卑弥呼の後を継()いだ倭王、つまり百余人の奴婢を殺して卑弥呼の墓に埋めた徇葬を決行した大王であったと考えられる。

ゆえに、『古事記』中巻の孝霊天皇紀は、狗奴国滅亡について下記のごとく説明する。
「大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)は、二人連()れ立って、播磨国(はりまのくに)の氷河(ひかわ)の岬に斎()み清めた酒甕(さかがめ)を据()えて播磨国を吉備国(きびのくに)に入る入口として吉備国を平定なさった。」
前述したように、「狗奴国」は「吉備地方」であった。
巴利国(はりこく)・播磨の西となりは「狗奴国」であった。ゆえに、「播磨国は吉備国・狗奴国に入る入口」となる。
だから、上の記事は「狗奴国討伐と狗奴国の滅亡」を説明していたことになる。

大和朝廷が栄えた基礎は、天照大御神(崇神天皇と天皇の母の伊迦賀色許売命)によって築かれたとされる。ということは、狗奴国(吉備国)討伐の戦いにおいて、邪馬国(やまくに)・大和の軍は大活躍したが原因で、一気に軍事力が増大したからにちがいない。
『日本書紀』巻第五の崇神天皇紀における「四道将軍」の冒頭記事は、下記のごとくである。
「崇神天皇十年九月九日に、大彦命(おおびこのみこと)を北陸に遣(つか)わし、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に遣わし、吉備津彦(きびつひこ)を西道に派遣し、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波に遣わした。そして詔(しょう)して『もしも教えを受けない者があれば、ただちに戦争を起こして討伐せよ』と仰(おお)せられた。」
この四道将軍の一人は「吉備津彦」である。ゆえに、上記した『古事記』孝霊天皇紀に登場した「大彦命」は「大吉備津日子命」と同一人物であり、四道将軍の「吉備津彦」は「若建吉備津日子命」と同一人物であったであったにちがいない。
したがって、「四道将軍」は狗奴国・吉備地方の討伐において大活躍した。
ゆえに、邪馬国・大和の崇神天皇・天照大御神の軍事力は、狗奴国・吉備地方討伐以後に一気に増大したと考えるべきことになる。

◆『万葉集』13番の題名は「中大兄皇子(なかのおほえのおうじ)の大和三山の和歌」である。
この「中大兄皇子、後の天智天皇が皇太子時代に作った大和三山の歌」は、下記のごとくである。
「香具山(かぐやま)は、畝傍雄男(うねびをを)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」
上記の和歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「帯方郡の使者の張政が軍書の檄をもって告諭・説得したが、天の香具山に象徴される壱与・伊耶那美命は狗奴国の男王と話し合いによる平和的解決を強く望んだ。しかし、畝傍山に象徴される夫の伊耶那岐命・載斯烏越と耳成山に象徴される天照大御神・伊迦賀色許売命は、あくまでも狗奴国は武力をもって壊滅(かいめつ)させるべきだと主張して頑(がん)としてゆずらなかった。それゆえ、伊耶那美命は、夫は雄男しすぎると嘆(なげ)いた。このように、神代の伊耶那美命と天照大御神は自分の意見を夫の伊耶那岐命に従わせようとして争った。昔がからそうであったように、男女の仲の争いは、昔も今も絶えない。」

『万葉集』14番は、13番の反歌(はんか)である。
『万葉集』14番は、下記のごとくである。
「香具山と 耳成山と あひし時 立ちに見()に来し 印南国原(いなみくにはら)
上記の短歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「香具山に象徴される伊耶那美命・竹野比売(たかのひめ)は狗奴国とは話し合いで平和的に解決すべしと主張し、耳成山に象徴される天照大御神・伊迦賀色許売命は狗奴国を壊滅すべきと主張して争ったとき、この状況を心配した阿菩大神(あぼのおおかみ)つまり卑弥呼の死霊が見に来たという伝説で有名な印南国原が、いま、眼前に見える!」

上記の13番の長歌と14番の短歌は、661(斉明天皇七年)、天皇は船団を組んで、新羅(しらぎ)と唐と争う百済(くだら)の要請(ようせい)を受けて朝鮮半島遠征を決意し、九州へと向かった。この船団が印南国原(印南野・播磨平野の東方の兵庫県加古川市周辺の平野部)が見える播磨灘(はりまなだ)を通過する時に、中大兄皇子が作ったとされる。
このように、中大兄皇子は『魏志倭人伝』の末部に記される狗奴国討伐に記された「張政が檄を二度も作った事情」を題材(だいざい)にして和歌を作っている。

中大兄皇子の実父・舒明天皇(じょめいてんのう)も、『万葉集』5番の「舒明天皇が讃岐国の安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)す時に、軍王(いくさのおおきみ)の山を見て作る歌」と題する長歌を作って――小国・日本の軍王の載斯烏越・伊耶那岐命が狗奴国討伐の最高責任者となって讃岐国の飯(いい)ノ山に陣取って指揮したと詠()む長歌を作っている。

◆これ以上、『古事記』と『日本書紀』に記述された壱与・竹野比売(たかのひめ)・伊耶那美命と載斯烏越・開化天皇・伊耶那岐命と天照大御神(崇神天皇と天皇の母の伊迦賀色許売命)について解説しないことにする。
というのも、このブログの作成目的は『魏志倭人伝』の記事について具体的に容易に理解できるように詳細に解説して合理・科学が成立するように証明することであるからである。
ゆえに、これ以上、『古事記』と『日本書紀』に深入(ふかい)りしないことにした。
これまでの解説で納得・満足できない人、あるいは疑いを抱く人は、是非とも前ページで指摘したように、わが拙著『日本国誕生史の証明』(kindle版)を読んでいただきたい。
この拙著には伊耶那美命・伊耶那岐命・天照大御神について、そして小国・日本の建国理念が【愛】であった歴史について詳細に解説して証明した。

このブログまでをもって、卑弥呼が統治した倭人国における対馬国から狗奴国までの30の小国記事には1ヵ所も誤記や誤りが存在せず、すべて合理で統一されていて科学が成立して正確であることを証明した。
邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と主張する。
しかし、『魏志倭人伝』に記される方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)り統一されて科学が成立してすべて合理・正確であったと証明される。
この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理(ひり)の産物であり、最初の立論段階から空想・空理空論であったことが明白となる。

今から約300年前、江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき・1657年―1725)は『古史通或問(こしつうつうわくもん)を著作して【邪馬台国大和説】を立論し、その後に『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』他を著作して【邪馬台国筑後山門説(ちくごやまとせつ)】を主張した。
邪馬台国説学者たちは、卑弥呼が倭人国の首都として住んだ王国名は「邪馬台国であった」と主張して、白石の意見にしたがって――「邪馬台国」の「邪馬」は「大和」の「やま」であり、また「山門」の「山(やま)」であると思い込んでいる。
しかし、このブログが証明したように「邪馬」の【馬】の字源は「フタコブラクダ」であるゆえ、「邪馬」は「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口の表情にそっくりの、出産児の頭蓋骨の小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)であった」。
また、『魏志倭人伝』は倭人国の首都が所在した王国名を「邪馬壱国(やまいこく)」と明記する。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。
だから、即刻(そっこく)、白石以来300年間も学者たちが継承(けいしょう)する「邪馬台国説は完全に空理空論であった」と断定すべきことになる。

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2024年8月26日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・27

理想の男子像をあらわす躬臣国(こじこく)・巴利国(はりこく)・支惟国(しいこく)・烏奴国(あなこく)・奴国(なこく)の5小国の解明

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から図案されて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
Photo_20240826134201

今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的に誤っていた。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

この夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成するの対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・26」では、
最初の対馬国(つしまこく)から数えて21番目の「鬼国(きこく)」は「現在の三重県南部の、旧国の志摩(しま)」、
22
番目の「為吾国(いがこく)」は「現在の三重県北西部の、旧国の伊賀(いが)」、
23
番目の「鬼奴国(きなこく)」は「現在の熊野を除く和歌山県西部、旧国の紀伊西部」、
24
番目の「邪馬国(やまこく)」は「現在の奈良県、旧国の大和」であったと証明した。

このブログでは、対馬国から25番目の「躬臣国(こじこく)」と、26番目の「巴利国(はりこく)」と、27番目の「支惟国(しいこく)」と、28番目の「烏奴国(あなこく)」と、29番目の「奴国(なこく)」の位置と範囲を解明する。
『魏志倭人伝』は、29番目の「奴国」までを「此()れ女王の境界の尽()くる所なり」と説明した後に、「其の南に狗奴国(くなこく)有り。男子を王と為()す。(中略)。女王に属さず」と追加する。
つまり、「女王・卑弥呼が統治する小国は対馬国(つしまこく)から奴国(なこく)までの29ヵ国」であり、「狗奴国」は「女王・卑弥呼と素(もと)より不和の敵対国(てきたいこく)」であったことになる。
わがブログは次回「漢字の起源と発明を解明す・28」にて、「狗奴国の位置や範囲、倭人国に討伐されて滅亡した様子」について解説する。

下図に示すように、25番目の「躬臣国」は「現在の大阪府と兵庫県東部と淡路島」であり、26番目の「巴利国」は「現在の兵庫県南西部」、27番目の「支惟国」は「現在の広島県西部」、28番目の「烏奴国」は「現在の高知県」、29番目の「奴国」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県の3県」、30番目の「狗奴国」は「現在の広島県東部・岡山県の吉備地方(きびちほう)であった」。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう解説・証明が煩雑(はんざつ)にならずに容易に明快に理解できるようにするには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
「十字の銀河」は、「倭人国」の【倭】の字源となった。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて指摘したように、
わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
【委】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)の垂れた形」と解説する。
また、同書は【年】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う男性の姿」と解説する。
さらに、同書は【倭】の字について「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被った女性と男性の姿をあらわす」と解説する。
要するに、白川静著『字統』は【倭】の字は「穀霊に象る禾(いね)のかぶりものを被った女性と男性が舞う(踊る)姿をあらわしている」と解説していることになる。

下図は、上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部の北となりの銀河」が「穀霊(稲魂・いなだま)のかぶりもの(作り物)」に見立てられたことになる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・右足と、子宮」に観える銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性の姿」をあらわした。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」に見立てることができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う男性」をもあらわした。
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だから、上図の【倭】の字源銀河解説図にもとづいて、上記したようにわたくしは、
伊邪国から狗奴国までの20ヵ国を、10ヵ国ずつ1グループに二分して、
(
)「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国」と、()「【倭】の字源における男性グループの10ヵ国」に分けることにした。

今回のブログで解明する「躬臣国(こじこく)・巴利国(はりこく)・支惟国(しいこく)・烏奴国(あなこく)・奴国(なこく)の5小国」は、(C)「【倭】の字源グループの10ヵ国グループにおける、5番目から9番目までの小国」ということになる。

◆『魏志倭人伝』は、対馬国(つしまこく)から数えて25番目の小国は「躬臣国(こじこく)」であったと記す。
卑弥呼が歴史上に始めて登場する170年頃から50年前の120年に成立していた『説文解字(せつもんかいじ)』は、【躬(きゅう)】の字源を「身()なり」と解説する。
下図の右側に配する【身(しん)】の金文形は「みごもっている女性の側身形(そくしんけい)」である。
下の左図に示したように、【身】の金文形は「顔を天頂に向けて天頂緯度線を測定する人が、みごもった女性のごとく腹部をぐーんと前につきだす姿勢」を図案する。
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偏【身】に【弓】を加えると【躬】の字となる。
下図に示す「十字の銀河」は【身】の字源銀河であった。
「十字の銀河の西半分」には「乳房」や「妊婦の腹部(おなか)・乳房」や「子宮」に相当する箇所がある。
ゆえに、「十字の銀河の西半分」は「女体(にょたい)」をあらわす。
そして、「十字の銀河の東半分」は「男性の姿」に相似する。
というのも「十字の銀河の左手(東側の手)は狩猟に用いる【弓】の形に似る銀河部を持っているからである」。
ゆえに、「妊婦(みごもった女性)の前へ突き出て円く(まる)くふくらむ腹部(おなか)を有する、十字の銀河の西半分が偏【身】をあらわし、「十字の銀河の左手が持つ弓」が【弓】をあらわす。
だから、「十字の銀河」は偏【身】に【弓】が加わる【躬】の字源となった。
K54_20240826134701
下図は、上図に示した天文図の定式〈右西・左東〉と異なり、地図の一般形式と同じく〈右東・左西〉の図にした。
下図の左上に配した小国名「躬臣(こじ)」の【臣】の金文形について、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は「目をあげて上を視()る形」と解説する。
下図の「鬼の横顔に似る銀河」は「目をあげて上(十字の銀河)を視る横顔」である。
したがって、【臣】の字源銀河は「鬼の横顔に似る銀河」であった。
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『説文解字』は、【臣】の字形について「君に事(つか)ふる者なり。屈服する形に象(かたど)る」と解説する。
これゆえ、上図における【躬】の字源「十字の銀河」は「主君」、【臣】の字源「鬼の横顔に似る銀河」が「主君(十字の銀河)を見上げて、つかえる臣下の横顔」に見立てられたことになる。

それゆえ、下図に示すように、【躬】の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)をあらわす地域は、「現在の大阪府と兵庫県東部、旧国の摂津(せっつ)・和泉(いずみ)・河内(かわち)」であった。
そして、【臣】の地宜をあらわす地域は「現在の兵庫県南部の淡路島(あわじしま)」であった。
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上図における「【躬】をあらわす地宜の大阪府と兵庫県東部」は「黄帝」をあらわしたと考えられる。
というのも、前ページの「【躬】と【臣】の字源銀河の解説図」における【躬】の字源「十字の銀河」には「子宮」に相当する銀河部があり、黄帝は【女性の生殖器官と出産】について研究したからである。
「十字の銀河」には「胎児を育てる子宮」に相当する銀河部位が存在するゆえ――「十字の銀河の子宮」から【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究】が連想される。
そして、【臣】をあらわした「淡路島」は、前ページの「【躬】と【臣】の字源銀河の解説図」では「鬼の横顔に似る銀河」に見立てられた。
下図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「目が四つ」ある。
倉頡伝説において、下図の「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の怪人(かいじん)・倉頡(そうきつ)」と表現された。
ゆえに、学者たちは「目が四つある怪人」という表現にびっくりして「人間には目が四つ無い! だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話だ」と決めつけた。
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以上からして、【躬】の「大阪府と兵庫県東部の地宜」は「天頂緯度線を測定する黄帝の姿」をあらわし、【臣】の「淡路島」は「黄帝を尊敬して、つかえた倉頡」をあらわしたことになる。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明・26」にて詳細に解説したように――25番目国の「邪馬国(やまこく)、現在の奈良県の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形」は、
下図に示すように、「【馬】・フタコブラクダが満足(まんぞく)そうに草を食べて頬(ほほ)を大きくふくらませる横顔」に相似する。
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ゆえに、上図の「邪馬国、旧国の大和す地宜」は「大和が豊かな食料に恵まれる王国」であった様子を示す。
上図の「邪馬国、大和の【馬】・フタコブラクダの横顔」は「堂々たる王者の風格」をあらわす。
だから、24番目の「奈良県・邪馬国」につづく25番目の「躬臣国、現在の大阪府・兵庫県東部の地宜」もまた「王者の風格」、つまり「徳の高い黄帝の風貌(ふうぼう)」をあらわすと解し、さらに「淡路島の地宜」は「黄帝を尊敬してつかえた倉頡の姿」に見立てて――卑弥呼は小国名を「躬臣国」と定めたにちがいない。
あるいは、「大阪府・兵庫県東部の地宜」を「夏()の始祖の帝禹(ていう)」にも見立てて、「淡路島の地宜」を「帝禹を尊敬してつかえた益(えき)」にも見立てて――卑弥呼は「男子の理想像」をあらわす「躬臣国」という小国名を考えついたにちがいない。

26番目の小国は「巴利国(はりこく)」である。
【杷()】の初文(最初の文字)は【巴】である。
【杷】の字義は「さらい」つなり「土をならしたり、穀物をかき集めた農具」である。
「巴利」を「杷利」つまり「杷(さらい)に相似した農作業に用いた利器(りき)」と解釈すると、
「巴利国(はりこく)」は「旧国の播磨(はりま)、現在の兵庫県西部」であったことになる。
というのも、下図の右側の「播磨の地宜」は左側の「エブリ」と呼ばれる農具の形に相似するからである。
卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の遺跡から、「エブリ」が出土している。
「エブリ」はその形から「いっぺんに幅広(はばひろ)く多くの土を多数の歯でつかんで掘りおこすのに便利な木製の農具」であったと考えられる。
ゆえに、「播磨の地宜」は「いっぺんに多くの土を掘りおこす利器(便利な農具)のエブリの主体部の形」に相似するということで、卑弥呼は小国名を「巴利国」と定めたと考えられる。
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エブリの主体部と柄()の形からして、エブリは屈強(くっきょう)な男子が使う農機具であったことになる。
言いかえると、エブリは男子の腰(骨盤)に多くの負担(ふたん)がかかる農具であったことになる。
ゆえに、エブリを使って何時間も働くことができる人物は頑強(がんきょう)な骨盤(こつばん)とがっしりとした骨組みの男子でなければならなかった。

【古事記上巻 并(あわ)せて序】には、712年1月28日に『古事記』を献呈した元明(げんめい)天皇を讃(たた)える、下記のごとくの文章がある。
「名は文命(ぶんめい)よりも高く、徳は天乙(てんいつ)にも冠(まさ)りたりと謂()ひつべし」
上記の文章を現代語に訳すると、
「元明(げんめい)天皇陛下のお名前の尊さは夏()の帝禹(ていう)よりも高い帝禹の政治を補佐した益(えき)のごとくであり、徳の高いことは殷(いん)の湯王(とうおう)よりもすぐれた補佐役(ほさやく)の伊尹(いいん)のごとくです」となる。
わが国には、帝禹の政治を補佐した王・益の孫の王子と若者たちが日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して【倉頡の文字作成理論】と夏音文字を教え広めた。
ゆえに、倭人国では帝禹よりも帝禹の政治を補佐した益(えき)を偉大視するようになり――「お名前の尊さは帝禹の政治を補佐した王の益のごとし」という表現が最大の賛辞(さんじ)となったのである。

司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀(第二)には、下記のごとくの帝禹について説明する記事がある。
「身を労して心血(しんけつ)をそそぎ、屋外におること十三年、自家の門前を通りかかっても入室して休息しなかった。衣食を薄(うす)くして鬼神(きじん)への供物(くもつ)を豊富にし、家室(かしつ)の造りを質素にしてその費用を田畑のあいだの溝(みぞ)づくりにまわした。」
上記したように「鬼神を事(まつ)る五帝時代の黄帝や夏代の帝禹は、衣食に費用をかけず贅(ぜい)を尽()くす王室で生活せずに、率先(そっせん)して先頭に立って重労働の農作業に勤(いそ)しんだ。」
だからこそ、「巴利国の地宜」は「エブリ」という「腰(骨盤)に多くの負担(ふたん)がかかる農具」に相似すると見立てられたにちがいない。
つまり、卑弥呼は「巴利国の地宜」をもって「王たる者、エブリのような腰に多大な負担がかかる農具を使って何時間も労働することができる、がっしりとした骨組みを有するたくましい肉体の持主でなければならないという理想像」をあらわしたことになる。

◆次の27番目の小国名を、卑弥呼は「支惟国(しいこく)」と定めた。
「支惟国」の【支()】の字義は「ささえる。わかれる」である。
そして、「支惟国」の【惟()】の字義は「頭脳で考える」である。
ゆえに、下図に示すように、【支】は「考える器官の大脳(だいのう)を支(ささ)える視床(ししょう)・小脳(しょうのう)・脳幹(のうかん)など」をあらわすことになった。
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「旧国の安芸(あき)」、つまり「現在の広島県西部の地宜」だけの場合――「頭蓋骨(ずがいこつ)、あるいは頭蓋骨でおおわれる脳の側面形」に相似しない。
しかし、下図のごとく、「支惟国の範囲」を「安芸(広島県西部)に、備後西部(びんごせいぶ・広島県東部)」を加えると、その形は「頭蓋骨や脳の側面形」に相似する。
つまり、下図に示すように、「現在の三次市(みよしし)と福山市(ふくやまし)を結ぶ福塩線が通る、馬洗川(ばせんかわ)や芦田川(あしだがわ)が流れる地域を東の境界線」にすると、
「この地域の地宜」は「頭蓋骨の側面形」、あるいは「脳の側面形」に相似する。
したがって、下図の「頭蓋骨の側面形」に相似する「現在の広島県西部(旧国の安芸)と、広島県東部の備後西部」が「支惟国の範囲」であったことになる。
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下図に示すように、金文形の【隹(すい)】と【惟()】は同一形で、両者共に「隹」、つまり「小鳥」を表現する図案となる。
『説文解字』は【隹(すい)】の字を「鳥の短尾(たんび)なるものの總名(そうめい)なり」と解説する。
【呼】の字源となった「鳰(にお)・カイツブリ」は「カモの仲間より一回り小さい小鳥であり、尾の羽根は非常に短いため、鳰の尾は外観から判別できない」。
ゆえに、「鳰」は【隹】を代表する小鳥」であった。
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『説文解字』は【惟】の字を「凡(おおよ)そ思ふなり」と解説する。
この【惟】の「凡そ思ふなり」という解説にもとづくと、「カワセミ」は「短尾ではないが、凡そ小鳥」に類別されることになる。
ゆえに、「支惟国」の【惟】の字は「鳰(にお)」をあらわさず、凡その考えにもとづいて「カワセミ」をあらわしていることになる。

前ページにて示した「背後から見た脳幹(のうかん)の形」だと、「脳幹は【惟】の小鳥・カワセミの姿」に相似しない。
しかし、下図に示す側面形の場合、「脊髄(せきずい)につながる脳幹」――つまり「脊髄につながる中脳(ちゅうのう)・橋(きょう)・延髄(えんずい)の側面形」は「尾が鳰よりも長い、【惟】の小鳥・カワセミの姿」に相似する。
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ゆえに、前者の「背後から見た脳幹のカワセミの姿に相似しない形」と、後者の「カワセミの姿に相似する側面形」は異なるゆえ、【惟】の字について、上記したように『説文解字』は「凡(おおよ)そ思ふなり」と解説した。
しかし、後者の「カワセミの姿に相似する側面形」にもとづいて、
【惟】の字義は、前者の「凡そ思ふなり」に相反(あいはん)する「脳幹がある頭脳の中心の奥深い所で考える」、つまり「深く考える」という意を有することになった。
そして、「支惟国」の【惟】の字義は後者の「深く考える」であった。
以上のごとく、卑弥呼は「支惟国」という小国名をもって
「男子たる者、知性にあふれる深い思惟力(しいりょく)で何事も思考しなければならない」と、「男子の理想像」を示した。

◆下図に示すように、対馬国から28番目の「烏奴国(あなこく)は「現在の四国の高知県、旧国の土佐(とさ)」であり、
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番目の「奴国(なこく)」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県、旧国の伊予(いよ)・讃岐(さぬき)・阿波(あわ)」であった。
「烏奴国」と「奴国」の【奴】の字義は「強大な力」である。
ゆえに、下図に示すように、北緯3415分の緯度線は「香川県の北端を貫通し、鳴門(なると)の渦潮(うずしお)をも貫通している」。
「鳴門の渦潮」は「世界的に最高級の速度で大きな渦(うず)を巻く」。ゆえに、「鳴門の渦潮」は【奴】の「強大な力」をあらわした。
だから、「奴国の範囲」は「現在の愛媛県と、鳴門の渦潮に隣接する香川県・徳島県」であり、「烏奴国の範囲」は「現在の高知県」であったと考えられる。
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また、下図に示すように――高知県中央南端に所在する「浦戸湾(うらとわん)の地宜」は【烏(からす)】、つまり「翡翠(ひすい)・カワセミの姿」に相似すると見立てられ、また、「浦戸湾の地宜」は「高知県中央の南端に生じたアナ()」のごとくに観える。
ゆえに、小国名「烏奴」は「カワセミの巣穴(すあな)」つまり、「あな()」を意味することになった。
したがって、「烏奴国」は「現在の高知県」であったと考えられる。
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天敵のヘビ・イタチ・キツネなどに襲撃(しゅうげき)されないように、カワセミは河川や湧水泉(ゆうすいせん)における垂直な土手(どて)や崖(がけ)に巣を作る。
にもかかわらず、カワセミの巣は河川・湧水泉などの増水・氾濫(はんらん)においても水没しない。
カワセミの巣は河川・湧水泉・池・湖の近くに作られる。
このように、カワセミは小魚などの餌となる水生動物が豊富にある場所に巣穴を作って、子育てに、安眠・休息できる場所を選ぶ。
巣穴の近くには、ダミー(替え玉)の穴(あな)がある。
ゆえに、カワセミは利口(りこう)・賢(かしこ)いということになり――上記したように、カワセミは「深く考える」を字義とする【惟】の字で表現されることになったのであろう。

カワセミの巣穴(すあな)は内径7㎝、深さは50100㎝である。
奥に向かって掘り、奥には広い産座(さんざ)があり、そこには「淤(お・どろ)」、つまり「やわらか土」
と親鳥が吐きだした魚の骨を敷き、その産座に卵を産む。
またカワセミのオスは、メスに餌の魚の頭をむけてあたえる習性がある。
メスはオスの魚を受け取って結婚、交尾、そして産卵して抱卵(ほうらん)する。
育雛(いくすう)はメスとオスが約30分ごとに交替(こうたい)しておこなう。

ゆえに『魏志倭人伝』には「唯々(ただ)男子一人有りて飲食を給(きゅう)し、辞()を伝えて出入りす」という記事がある。
上記のごとく、男子はカワセミのオスのごとく卑弥呼の飲食を給仕(きゅうじ)し、卑弥呼の辞(ことば)を伝えるために卑弥呼の居間に出入りする役目をつとめていた。
だから、卑弥呼はカワセミの習性を利用して、「倭人国の男子たちは、日々、妻子や両親・兄弟姉妹が飢()えないように食料を手にいれる農作業はじめ狩猟・採集に熱心(ねっしん)に努力せよ」と卑弥呼に給仕する男子をもって――「男子の理想像」をあらわしていたことになる。

カワセミが魚を捕獲(ほかく)するために水中に飛び込むと、同心円形を描く波紋(はもん)がひろがる。
この「カワセミの同心円形の波紋」と「天敵のオオカミに襲撃されると、子どもを中心に隠してジャコウウシの群れが組む円陣(えんじん)」は「同じ円形」ということで――
「カワセミ」もまた「ジャコウウシ」と同じく【奴】の「強大な力」、言いかえると「【禾】・【委】・【倭】の時計回りに90度転回する方位規定を成立させる魔力(まりょく)を有する」と考えられるようになった。
ゆえに、小国名「烏奴国」の【奴】は「方位規定を時計回りに90度方位を転回させる、ジャコウウシのような強大な力を秘める呪力(じゅりょく・魔力)」をあらわした。

上記したように、カワセミは垂直な「土手(どて)」に巣穴を作る。
下に、「土手」という名詞における【土】の字源銀河を示した。
【土】の字源銀河は「鬼の姿に似る銀河」である。
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下に、【奴()】・【又(ゆう)】・【右(ゆう)】の字源解説図を配した。
上図が示したように、【土】の字源銀河の「鬼の姿に似る銀河」が【奴】の字源銀河でもある。
【土】の字源銀河「鬼の姿に似る銀河」は【又(ゆう)】の字源銀河にして、【又】は【右(ゆう)】の初文(最初の文字)であり、【右】の金文形は「右手と渦巻の北アメリカ星雲・ペリカン星雲」で構成される。
ゆえに、【又】は【右】の初文であるとともに、【又】は【奴】の初文でもあった。
したがって、【奴】と【又】は同一形となった。
ゆえに、「鬼の姿に似る銀河」は【土】の字源にして、【奴】・【又】・【右】の「右手」の【手】の字形でもあった。
だから――「鬼の姿に似る銀河」は【土】に【手】が加わる「土手」の語源となった。
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下に、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が「カワセミの巣穴」に見立てられた解説図を配した。
上記したように「鬼の姿に似る銀河」は「土手」に、「長方形の暗黒天体部」は「平坦な水面となる河川、湧水泉、池、湖」に見立てられた。
というのも、カワセミは「平坦な水面となる河川、湧水泉、池、湖」に生息したからである。
「激流の銀河」は「増水時における急流、氾濫(はんらん)して渦巻く激流」に見立てられた。
これゆえ、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「増水時や氾濫した時にも水没しないカワセミの巣穴」に見立てられた。
というのも、カワセミは巣穴を尻(しり)から出るときに、素早く回転して飛び立つからである。
ゆえに、【奴】の金文形にあって「渦巻き」に図案された「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「カワセミの巣穴」に見立てられた。
だから、「カワセミ」は【奴】の「ジャコウウシのごとき強大な呪力(じゅりょく)を有する」と信じられるようになった。
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下に、「出産児の頭蓋骨「邪馬」の解説図を配した。
下の下図に示したように、【奴】の「渦巻きの、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」の西となりには「邪馬の銀河」がある。
「邪馬」は「出産児の頭蓋骨にある小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)」である。
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出産児の頭蓋骨の縫合は完成しておらず、骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みとなる。
出産第1期の開口期(かいこうき)の終わり、出産児はアゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢となり、後頭部の小泉門を先進(せんしん)させて、骨盤入口へ入りこむ。
出産児が骨盤入口に入りこむときに、頭()を時計回りに90度旋回(せんかい)する――この旋回を、産婦人科では「第1回旋(かいせん)」とよぶ。
そのあと、産道を通過する出産児の頭()は反時計回りに90度旋回する「第2回旋」と「第3回旋」をおこなう。
出産児第2期の娩出期(べんしゅつき)の終わりには、出産児の頭()は時計回りに90度旋回する「第4回旋」して、母体の背が正面になるように顔を曲げて、天を仰ぐかのごとく上を向くポーズとなる。

このような「出産児の第1回旋と第4回旋」は【禾()】・【委()】・【倭()】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
ゆえに、卑弥呼王朝では、【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、日本列島本州における〔東〕は〔南〕になる」と定める転回日本列島地理を制定した。
この【倭】の字源「方位規定が時計回りに90度転回して、〔東〕が〔南〕となる転回日本列島地理」を成立させた原動力は「強大な力」を意味する【奴】であった。

上記したように、カワセミの巣穴の産座には、淤(お・泥)、つまり「やわらかい土」と親鳥が吐き出した魚の骨を敷かれる。
このカワセミが垂直な土手や崖における土中を奥深く掘る巣穴の産座に敷く淤()、つまり「やわらかい土・どろ」は、日本列島の本州の〔東〕が〔南〕となる――【倭】の字源「方位規定を時計回りに90度転回させる、強大な呪力(じゅりょく)」が秘められていると信じられるようになった。

以上のような事柄から、卑弥呼は「高知県の浦戸湾の地宜」を「烏奴」と表現した。
そして、小国名「烏奴」の【奴】は「強大な力で巨大な渦巻きを描く、鳴門の渦潮」であったと考えられる。
小国名「烏奴」の【烏()】の字は今日では「カラス」を意味するが――、
【烏】の字源は「カラス」と限定できない。
白川静著『字統』は【烏】の金文形について「於()の字形に近い」と指摘する。
白川静著『字統』は【於】の金文形について「烏の羽を解()いて、縄にかけわたした形。烏は死烏の全形、於はその羽を解いて縄にかけわたした形で、これを耕作の地にさげて、烏害を避けようとしたものであろう」と推測する。
白川静著『字統』の【烏】と【於】の字説は、あくまでも推測である。
ゆえに、【烏】の字源は「カラス」であったと限定することができない。


下に【烏】と【於】の金文形を配した。
下の左端の【烏】の金文形は「死烏(死んだ烏)の姿」よりも、むしろ「小枝に止まるカワセミの姿」に相似する。
下図の【於】の二つの金文形は「死烏の羽を解いて縄にかけわたした形」に相似するが、
金文は夏音文字よりも1000年以上後世の文字であるゆえ――夏音文字の【於】の字源が「死烏の羽を解いて縄にかけわたした形」であったと限定することはできない。
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◆偏【三水(さんずい)】に【於】を加える【淤()】の字は「やわらかい土。どろ」を意味する。
ゆえに、【於】・【淤】の字源は「五帝時代・夏代において、河川の増水や氾濫の後に水が退()いて原始的な木製の鍬(くわ)でも容易に耕作できたやわらかい土」であったと考えられる。
ゆえに、五帝時代や夏代や倭における卑弥呼時代は【淤】の「やわらかい土」は「豊かな実り、つまり豊作をもたらす土」を意味したことになる。
ゆえに、【烏】の字源は「巣穴の産座に、【淤】、つまり、やわらかい土を敷くカワセミ」であったにちがいない。

次回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・28」で詳細に解説して証明するが――
『古事記』上巻に登場する「伊耶那美命(いざなみのみこと)」は、『魏志倭人伝』の末部に「卑弥呼の宗女(そうじょ)の壱与(いよ)、年十三の時に立ちて王と為()る」と記される、つまり「十三歳の時に小国・日本の女王となった、卑弥呼が統率(とうそつ)する巫女界(ふじょかい)を代表する壱与、後年に倭女王と就任したる壱与」であった。
「伊耶那美命の夫の伊耶那岐命(いざなきのみこと)」は、上記の「壱与の記事」の前の「魏の正始八年(247)の記事」に登場する「朝鮮半島の帯方郡政庁(たいほうぐんせいちょう)に訪れて倭国と狗奴国の戦況を説明した武将の載斯烏越(そしあお)」であった。

『古事記』上巻の〔伊耶那岐命(載斯烏越)と伊耶那美命(壱与)説話〕の冒頭は「淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)」についての説明である。
「淤能碁呂」の4字には〔音〕という注がつく。
ゆえに、「淤能碁呂」の4字は「楷書を音符・意符として用いた夏音文字」であったことになる。
「淤能碁呂」の先頭字【淤】は「やわらかい土。どろ」を意味する。
ゆえに、上記したように、【淤】の初文の【於】の字源は「五帝時代・夏代において、河川の増水や氾濫の後に水が退()いて原始的な木製の鍬(くわ)でも容易に耕作できたやわらかい土」であったことになる。
だから、「烏奴国」の【烏】の字源は「巣穴の産座にやわらかい土を敷くカワセミ」であったと考えるべきことになる。

淤能碁呂島の聖婚説話において、「淤能碁呂」の4字の夏音文字の、その前に「許々袁々呂々邇」という7字に〔音〕という注がつく夏音文字が記される。
この「許々袁々呂々邇」の7字の夏音文字は「こをろこをろに」と読む。
「許々袁々呂々邇」の前には「塩」という字が記される。
「塩許々袁々呂々邇」はつまり「塩こをろこをろに」は、「塩作りの窯(かま)の中で沸騰(ふっとう)するドロドロとした重くなった塩の湯をゆっくりとかき回す擬音(ぎおん)」を表現していることになる。

伊耶那岐命と伊耶那美命の結婚式において、「二人は塩を作る小屋(式場)に入り、窯(かま)の中に天沼矛(あめのぬぼこ)をさしおろし、ドロドロとした塩の湯をかきまわして、鳴門の渦潮の様子を表現する儀式」をおこなった。
ゆえに、「潮許々袁々呂々邇」ではなく、「塩を作る窯の前」で「鳴門の渦潮」をあらわす儀式をおこなったゆえ、「塩許々袁々呂々邇」と記されたことになった。
そして、「天沼矛」とは「九州の玄界灘(げんかいなだ)に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島(こうづしま)が同緯度であるとあらわすと共に、日本列島の本州の地底の土が沼()のようにやわらかいをもあらわす呪器(じゅき)の矛」であったことになる。
ゆえに、「天沼矛」はたとえば「碁石の石のような形をした沖ノ島と、将棋の駒(こま)のような形の神津島(こうづしま)の小さな飾りがついた矛」であったであろう――日本列島の西端の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と、日本列島の東端の伊豆諸島の神津島と、鳴門の渦潮」は同緯度(北緯3415)であるゆえ、
沖ノ島と神津島の飾りのついた矛(天沼矛)で窯の沸き立つドロドロとした塩の湯をコヲロコヲロに(許々袁々呂々邇)と鳴門の渦潮に見立ててかきまわして――【日本列島の本州は地底が沼のようにやわらかくなっているので、本州の方位は【倭】の字源のとおりに時計回りに90度転回する】とあらわす儀式がおこなわれた。

だから、「淤能碁呂」という4字は「地底の土が【淤】()のようにやわらかい、【能】(熊・クマ)の横穴の巣が縦穴になるがごとく、【碁】(沖ノ島と神津島)が【呂】(同緯度)となるために緯度が経度のごとく縦(たて)になって方位が90度転回して〔東〕が〔南〕となる転回日本列島本州地理」をあらわした。
このように、『古事記』の〔能碁呂島の聖婚説話〕は「伊耶那岐命と伊耶那美命は塩を作る窯(かま)の前にて、卑弥呼が提唱した転回日本列島本州地理の儀式をおこなった」と記述している。

下図に示すように、日本列島の西の端にある沖ノ島と日本列島の東の端にある神津島は同緯度(北緯3415)である。
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下図に示すように、卑弥呼は中国北部の海岸線地域が冷たい気候であり、中国南部の海岸線地域の気候が暖かい状況を注目した。
そして、日本列島における西端の沖ノ島は冬になると雪が降って冷たい気候に対して、沖ノ島と同緯度の日本列島の東端にある神津島が冬になっても雪が降らない暖かい気候であることに注目した。
ゆえに、中国の海岸線地域の〔北冷〕と倭地の〔西冷〕が示すように両地域は共に「冷たい気候区」であり、中国の海岸線地域の〔南暖〕と倭地の〔東暖〕が示すように両地域は共に「暖かい気候区」であるゆえ、
下図のごとく、卑弥呼は「日本列島の本州の〔東〕は中国海岸線地域の〔南〕のほうに延びている」と考えた。
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下図に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が立論した転回日本列島地理に則(のっと)って、末盧国(まつろくに)から邪馬壱国(やまいこく)までの方位を正確に記している。
下図に左側に示すように、沖ノ島と鳴門の渦潮と神津島は同緯度(北緯3415)である。
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上図の「転回日本列島地理」は【倭】の字源をあらわすゆえ、卑弥呼は国号を「倭人国」と定めた。
上図に示したように、〔沖ノ島と神津島〕と共に、〔沖ノ島と神津島と同緯度の鳴門の渦潮〕も転回日本列島地理を形成する原動力になった。
だから、『古事記』の〔伊耶那岐命と伊耶那美命の聖婚説話の冒頭〕では「鳴門の渦潮」をあらわす「塩を作る窯の前に立って二人が天沼矛を持ってさし入れて、コヲロコヲロに(許々袁々呂々邇)とかきまわして鳴門の渦潮を表現する儀式の様子が記述された。

『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の〔淤能碁呂島の聖婚説話〕や〔国生み説話〕は、〔音〕という注がつく【夏音文字の字源・字義】をまったく解明しないで無視する学者たちによってーー
〔淤能碁呂島の聖婚説話〕における「塩許々袁々呂々邇とかき鳴らす」という文は「伊耶那岐命と伊耶那美命が【天空に浮かぶ雲の上から天沼矛をさし下ろして】、やわらかい大地と海をかきまわして日本列島を作った」と訳する解釈が定説となる。
このため、次に続く〔国生み説話〕は「天に浮かぶ雲上に住む伊耶那美命が【淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま・淡路島)はじめ伊予之二名島(いよのふたののしま・つまり、烏奴国と奴国に分かれる四国)など様々な島や小国】を分娩(ぶんべん)・出産した」という解釈が定説となる。
しかし、このような定説の解釈は【誤訳・誤解・空論】であった。
つまり、「淤能碁呂島」は【卑弥呼が立論した本州の〔東〕を〔南〕と定めた転回日本列島地理】をあらわした。
「国生み」は「卑弥呼が【臣】という字であらわしたが、この変名が淡道之穂野狭別島(淡路島)であり、また卑弥呼が定めた四国の名を改めた、あるいは卑弥呼が名称をつけなかった様々な島や不都合(ふつごう)になった国々の名を――伊耶那美命は考えて改めた」と解釈しなければならなかったのである。

◆以上のごとく、対馬国から28番目の「烏奴国(あなこく)」は「現在の四国の高知県、旧国の土佐」であった。
次の29番目の「奴国(なこく)」は「鳴門の渦潮」に隣接する現在の四国の香川県・徳島県と愛媛県、旧国の讃岐(さぬき)・阿波(あわ)と伊予(いよ)」であった。

前述したように、沖ノ島と神津島を結ぶ北緯3415分は、日本列島の本州の〔東〕を90度転回して〔南〕にした転回日本列島地理の原動力である。
この「日本列島の本州の方位を時計回りに90度転回させる原動力」は【奴】の字源「強大な力」であった。
この【奴】の字源「強大な力」を有する緯度線上に、「鳴門の渦潮」が所在する。
「鳴門の渦潮」は世界的に最高級の速度で、ゴウゴウとすさまじい音響をたてながら豪快(ごうかい)に巨大な渦を巻く。
「鳴門の渦潮」は、巨大な日本列島の本州の〔東〕を〔南〕に変える【奴】の字源「強大な力(エネルギー)」を有する。
だから、29番目の「奴国」は「現在の愛媛県・香川県・徳島県」であったことになる。

◆卑弥呼は、「奴国」を貫通する北緯3415分の緯度線を、男子に1度の60分の1の精度で測定できる優れた眼力を有するように願った。
というのも、村々に住む男子たちは家族が幸せな生活を過ごすために食料を集め、また様々な生活用品を求め、あるいは集落の存続と繁栄を願って遠い地域の新しい文化やすぐれた発明・技術や進歩的な知性などを取り入れるために天頂緯度を測定して旅に出ていた。
ゆえに、天頂緯度測定に失敗し、または旅の途中で天頂緯度を測定していた時に崖から落下して命を絶つ事故で帰らぬ人となった事例も多数あったにちがいない。
ゆえに、卑弥呼は「優れた眼力を有して常に精確に天頂緯度測定ができるように男子や、命を絶つようなことにならないように常に用心深く天頂緯度を測定する男子を、男子の理想像」と考えていたのであろう。

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2024年8月22日 (木)

漢字の起源と発明を解明す・26

「鬼」と「食料」に関する大和近隣の志摩・伊賀・紀伊の小国名を解明する

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
「夏の銀河」のほかに、もちろん「春の銀河」、「秋の銀河」、「冬の銀河」も存在する。
しかし、「夏の銀河」が「もっとも印象的な、各部の形状なもっとも明確な、迫力にみちた銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』であった。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する文献史料」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
ゆえに、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であった。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』に登場する倭女王・卑弥呼は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬(つしま)国から狗奴(くな)国までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国(つしまこく)から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」、
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」。

◆このブログでは――前回の「漢字の起源と発明を解明す・25」までにおいて、
卑弥呼が定めた最初の対馬国から数えて20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」までの、すべての小国名に用いられる文字の字源・原義と各小国名の地宜(ちぎ)が理にかなって合理であることを詳細に解説して証明した。
このような「20ヵ国すべての小国名と地宜との関係において、まったく矛盾点が存在しない系統的な合理」が成立するのは、卑弥呼が【倉頡の文字作成理論】にもとづいて各小国名において前後の関係が共通項(きょうつうこう)で統一されるように配慮(はいりょ)していたからである。
今回のこのブログでは、(C)「【倭】の字源における男性グループ」のうちの、
対馬国から21番目の「鬼国(きこく)」・22番目の「為吾国(いがこく)」・23番目の「鬼奴国(きなこく)」・24番目の「邪馬国(やまこく)」の4小国名に用いられる文字の字源・原義は、4小国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)とすべて理にかなっていることを解説して証明する。
したがって、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国」という4小国名を定めたことになる。

下図に示すように、卑弥呼は対馬国から21番目の小国「現在の三重県南部、旧国の志摩(しま)」を「鬼国」、22番目の小国「現在の三重県北西部、旧国の伊賀」を「為吾」、23番目国となる「現在の熊野を除く和歌山県、旧国の紀伊西部」を「鬼奴国」、24番目国となる「現在の奈良県、旧国の大和」を「邪馬国」という小国名に定めた。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう〔各小国名は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて定められているという解説〕が煩雑(はんざつ)にならずに容易・明確にするためには、【夏の銀河の各部】に名称をつける必要がある。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に、「鬼の姿に似る銀河」がある。
わたくしは「鬼の姿に似る銀河の東部」を「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた。
下図に示すように、【鬼】の金文形(周代に出現した字形)は「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)・後頭部」と国際天文学で「北アメリカ星雲」と名づけられた星雲を包囲する「コールサック」と呼ばれる「暗黒天体部を細長く狭く長方形に区切った部分」が【鬼】の字源銀河となった。
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上図に示したように、「北アメリカ星雲」に隣接する銀河を、わたくしは「長方形の暗黒天体部」と名づけた。
 「長方形の暗黒天体部」は「コールサックの東の端」ということになる。
【鬼】の金文形の上部は「鬼の横顔に似る銀河の角(つの)から後頭部」を図案し、【鬼】の金文形の下部は「北アメリカ星雲を包囲する細長く長方形」に区切る。

下図に示したように、「耳」のイラストを加えた箇所は「鬼の横顔に似る銀河の、東方を見る両目」にとって、【耳】の字源銀部河となる。
「北アメリカ星雲」も「鬼の横顔に似る銀河の、東方を見る両目」にとって、【耳】の字源銀河部となる。
下図に示したように、「【鬼】の金文形上部」は「飢()えてやせて小さくなった顔」をあらわす。
そして、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく見開く目の形をした銀河部と、鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部」は「餌が無く飢えたときの、弱い鷹(たか)の雛(ひな)と同じ巣に棲()む強い鷹の雛(ひな)の両目」をあらわした。
「飢えた強い鷹の雛は同じ巣に棲む弱い雛を餌(えさ)にする」。
ゆえに、「【耳】、すなわち弱い鷹の雛を食べる」ということで、【食】に【耳】を加えた【餌】の字義は「えさ」となった。
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上図における「北アメリカ星雲の色」は、下のカラー写真に示すごとく「血のごとく、真っ赤」である。
だから、「北アメリカ星雲」は「強い鷹の雛の餌となる弱い雛の、血で真っ赤にそまる死体」に見立てられた。
下のカラー写真における左側が「北アメリカ星雲」、右側が「ペリカン星雲」である。
下のカラー写真は、PAMDirac/PIXTAから提供された。
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下に、対馬国から21番目の小国「鬼国(きこく)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形」を配した。
「鬼国」は「現在の三重県南部の、旧国の志摩(しま)」であった。
下図に示したように、「志摩の地宜」は「鷹(たか)の横顔」に相似する。
そして、「志摩の英虞湾(あごわん)周辺の地宜」は「餌を食べる鷹のくちばしと口の形」に相似する。
したがって、「志摩の地宜」は「哺乳類(ほにゅうるい)・鳥類・爬虫類(はちゅうるい)・両生類・魚類などの餌を肢(あし)のするどい爪(つめ)でつかんで、くちばしでむしりとって食べる鷹の横顔」に相似する。
また、「志摩の地宜」は「弱い雛を餌にして食べる強い鷹の雛の横顔」にも相似する。
だから、「志摩の地宜」は「鬼(かみ)が支配する自然界における冷酷で厳(きび)しい弱肉強食の法則」をあらわしているということで――卑弥呼は「旧国の志摩」の小国名を「鬼国」と定めた。
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712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』は、上巻・中巻・下巻の3巻で構成される。
この【『古事記』の序】は「上巻・中巻・下巻の3巻の【序】」ではない。
【『古事記』の序】は「上巻だけの【序】」である。
【『古事記』の序】は「上巻のみの【序】である」ため、【古事記上巻 并(あわ)せて序】と表記された。
『古事記』上巻のみの随所に〔音〕という注がついて多数の夏音文字が記されて残る。

【古事記上巻 并せて序】は「夏音文字の伝来と習得や、夏音文字は夏の銀河各部の形状から作られた秘密や、夏音文字は【倉頡の文字作成理論】にしたがって作成された秘密など」をきわめて難解な文章で解説している。
というのも、「夏音文字」は「朝廷が栄えるための政権基盤であった最高学問であったため、その学芸知識が容易(ようい)に理解できるように説明すると反体制側の人々に習得されて革命に利用されれば朝廷は滅亡すると心配された。だから、朝廷と国家は厳重に独占管理して、その秘密を容易に理解できるように説明する者はじめ、その家族および一族全員をも死刑にすると定められていた」。
これゆえ、【古事記上巻 并せて序】はきわめて難解な文章で構成されることになった。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて詳細に具体的に解説して証明したように、
【古事記上巻 并せて序】冒頭の「臣安万呂言(しんやすまろまを)す」から「参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」までの文章を要略すると、下記のごとく説明していたことになる。
「元明天皇陛下の臣下である太安万侶が申し上げます。わが国では前期縄文時代初頭から中期縄文時代、そして後期縄文時代初頭までの約2000年間の参時代、夏の銀河各部の形状をモデルにして土器・土偶(どぐう)を造っていました。この縄文参時代における土器・土偶を造る芸術(造化)の神の伝統にもとづいて、後期縄文時代初頭に、中国から大海を越えてわが日本列島に渡来して定住した名門益(えき)氏が教え広めた夏音文字の学芸を習得しました。」

【古事記上巻 并せて序】の前半部に、「天武天皇と『古事記』撰録(せんろく)の企て」に関する記事がある。
この箇所の末部には、下記の記事がある。
「時に舎人(とねり)有り、姓(うじ)は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年は是()れ廿八。人と為()り聡明にして、目に度(わた)れば口に誦()み、耳に払()るれば心に勒(しる)す。即(すなわ)ち阿礼に勅語(ちょくご)して、帝皇の日継(ひつぎ)と先代の旧辞(きゅうじ)とを誦み習はしめたまひき。然(しか)れども運(とき)移りて世異(よかは)りて、未だ其の事を行ひたまはざりき」

上記の後半の「即ち阿礼に勅語して」という文から最後までの記事を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「そこで天武天皇は稗田阿礼に命令されて、帝皇の日継(天皇記)と先代の旧辞(『古事記』上巻の原書となった、夏音文字で書く上古史書)とを誦み習得(復興)させることにした。しかしながら天武天皇は崩御(ほうぎょ)され、時勢は移り変わって、いまだその撰録の事業は完成していません。」

上記した記事前半の「時に舎人有り」から「耳に払るれば心に勒す」までの記事を、
図にすると、下図のごとくなる。
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上図が示しているように、
(
)「十字の銀河」は「夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む母体」に見立てられた。
(
)「鬼の横顔に似る銀河のおける、十字の銀河を見る両目と後頭部につく大きく見開く目・アゴにつく切れ長の細い目まで」は「目に度(わた)れば」と表現された。
(
)「鬼の横顔に似る銀河の口」は「口に誦み」と表現された。
(
)前ページにて【鬼】・【耳】・【餌】の字源解説において、「【耳】の字源銀河部位は、餌(えさ)となって存在しないこと」になった。
このため「耳に払るれば」、つまり「耳は払われて形が存在しない」と表現された。
(
)「夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む母体の十字の銀河を見る、鬼の横顔に似る銀河の両目における【心(心臓)】に相当する箇所」は「心に勒す」と記された。

以上のごとく、【古事記上巻 并せて序】は朝廷と国家が独占管理して最も厳重な秘密とした「上巻の随所に〔音〕という注がついて多数記される夏音文字は【倉頡の文字作成理論】にもとづいて夏の銀河各部の形状から作られた」と説明していたのである。

◆『魏志倭人伝』の卑弥呼が定めた34の小国名もまた朝廷と国家が最も厳重な秘密とした「【倉頡の文字作成理論】にもとづいて、夏の銀河各部の形状から作られた文字の字源・原義」を説明するものであった。

対馬国から数えて22番目の小国は「為吾国(いがこく)」である。
「為吾国」は「現在の三重県北西部の、旧国の伊賀(いが)」であった。
古語において――「為吾国」の【吾】の字は「あ」または「あれ」と読み、「男性の一人称、俺(おれ)」を意味した。
下図における右側に配した「伊賀の地宜」と左側の「鬼の横顔に似る銀河の形」は、共に【吾】の「男性の顔の形」に相似する。
また、下に示した右図の「伊賀の地宜」は左図の「頭に角(つの)を生やす、鬼の横顔に似る銀河の形」に相似する。
〔なお、「伊賀の地宜」が「鬼の横顔に似る銀河の形」に相似すると容易に見立てることが察知できるように、下図の左側の銀河図の定式は〈右西・左東〉であるが、地図の一般形式に合わせて〈右東・左西〉にあらためた。〕
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「為吾国」の【為()】の字義は「ため。なす。つくる」ではなく、【偽()】の「まねする。いつわる」であった。
下図の右下の【為】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)は、「長い鼻を有する象(ゾウ)の姿に相似する。
「象る」は「かたどる」と読み、「物の形をまねる。物の形に似せて作る」と意味する。
下図における「北アメリカ星雲」は「象の鼻と横顔の形」に相似する。
ゆえに、「北アメリカ星雲」が【為】・【偽】の字源銀河であった。
つまり、「北アメリカ星雲」は「象る(物の形にまねる。物の形に似せて作る)」の語源でもあった。
下図における「激流の銀河」は「大雨が降って洪水し、河川が氾濫(はんらん)して早瀬(はやせ)の水のごとく渦巻き瀧(たき)つあふれる急流」に酷似(こくじ)する。
だから、「激流の銀河」は「洪水・氾濫の河川の水の渦巻きあふれる形状に似せてまねる」ということで【偽】の字源となった。
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下図に、約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における天頂緯度線の状況を示した。
下図に示すように、中国南部の長江口(ちょうこうこう・北緯3130分の長江の河口の中央)を「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく切れ長の細い目の中央」を貫通していた。
下図に名称を記さなかったが、「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い目」の西となりは「北アメリカ星雲」である。
下図に示すように、「北緯3130分の長江口中央の緯度線」は「北アメリカ星雲の南部」をも貫通していたことになる。
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上図より前にて解説した「【偽】・【為】の字源銀河図」において、「北アメリカ星雲」は「象の横顔・鼻の形」に相似すると見立てられ――この「象の・鼻の形」から連想して【為】の契文形は「象の鼻・横顔や胴体・前後の両足がある全横顔身の形」に象(かたど)られた。
下図に示すように、長江口(北緯3130)の真西には「太湖(たいこ)」が所在する。
黄帝時代において「北アメリカ星雲の南部」が「太湖の北端(北緯3130)」の天頂にめぐってきた。
「太湖の地宜」は【為】の契文形と同じ「象の鼻・横顔や胴体・前後の両足がある全身の形」となる。
ゆえに、【為】の契文形の字源銀河「北アメリカ星雲」が「象の全身の形」に象られた、その事情は「北アメリカ星雲」を「太湖の象の全身の地宜に見立ててまねするもの」であったことになる。
【為】の契文形となった「北アメリカ星雲の鼻」は「激流の銀河のある南」の方に伸びる。
いっぽう、下図の「太湖における象の鼻」は「東」の方に伸びる。
だから、()【為】の字源銀河「象の鼻と横顔の北アメリカ星雲は太湖の象の全身の形」と異なり、
また、()「北アメリカ星雲の象の鼻は南に伸びるが、太湖の地宜の象の鼻は東へ伸びて」両者の形が異なるゆえ――「象の全身の姿」を象る【為】の契文形は【偽】の「いつわる」という字義を有することになったのである。
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上記したように、小国名「為吾」は「偽の吾(俺の顔)」ということになるゆえ、「頭に角(つの)を生やす鬼に似せて作る仮面をかぶる男性の顔()」を意味した。
下に示すように、「冬の銀河」に漬()かる「ぎょしゃ座とおうし座」が【夏】の金文形になった。
下図に示す「おうし座アルファ星」の西となりの「春分点」は、名門益(えき)氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して夏音文字を教え広めた紀元前2050年頃~紀元前2000年頃における春分点である。
下図の【夏】の金文形のごとく星座の形が字源になった事例はきわめて少なく――おそらく下図の【夏】のほかに【道】の「へびつかい座とヘルクレス座」の二例のみであろう。
下図の「ぎょしゃ座とおうし座」を字源とする【夏】の金文形は「鬼の仮面をかぶって舞う男性の姿」を表現している。
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下図に示すように、上図の【夏】の金文形における「鬼の仮面をかぶる顔(ぎょしゃ座)の部分の形」は「為吾国・伊賀の地宜」に相似する。
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だから、上記したように、小国名の「為吾」は「鬼の仮面をかぶって舞う男性の顔」をあらわした。
その「鬼の仮面をかぶって舞う男性の姿」は、上記したように【夏】の金文形「ぎょしゃ座とおうし座の形」をもって表現された。
というのも、上図に示したように、わが国が【倉頡の文字作成理論】と夏音文字を習得した後期縄文時代初頭(紀元前2000年頃)における春分点は「おうし座のα星の西となりに所在した」からである。
だから、【夏】の金文形が示すように、小国名の「為吾」は「夏でも春のごとく涼しい森林深き山国」と意味するものであったにちがいない。
その証拠に、「為吾国、旧国の伊賀」は「鈴鹿(すずか)山脈や室生(むろう)火山群などで周囲を山で囲まれている」。

『魏志倭人伝』には、5世紀に生存した裴松之(はいしょうし)が「其の俗、正歳四節(せいさいしせつ)を知らず、但(ただ)し、春耕(しゅんこう)・秋収(しゅうしゅう)を計って年紀を為()す」と説明する注がある。
つまり、裴松之は「倭人国では、春の耕作時を一年と数え、秋の収穫時を一年と数える、今日の一年を二年とする二倍暦であった」と指摘している。
この二倍歴にもとづいて、倭人国では春の耕作時と秋の収穫時において「豊かな食料の恵みを祈願・祝い感謝して男性が鬼の仮面をかぶって踊り舞う儀式」がおこなわれていた。
ゆえに、卑弥呼は「旧国の伊賀の地宜」から「春の耕作期と秋の収穫期に舞う鬼の仮面をかぶる男性の顔」を想像して、小国名を「為吾国(いがこく)」と定めたことになる。
上記したような為吾国における「鬼の仮面の、鬼」と「食料の儀式」が共通項(きょうつうこう)となって――対馬国から22番目国の為吾国の次となる23番目の小国は「鬼奴国」ということになった。

◆下図に示したように、対馬国(つしまこく)から数えて22番目の「為吾国(いがこく)」に隣接(りんせつ)するのは24番目の「邪馬国(やまこく)」である。
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番目の次の23番目の「鬼奴国(きなこく)」は、24番目国の「邪馬国」を飛び越えて23番目国となる。
というのも、「22番目の為吾国の地宜」と「23番目の鬼奴国の地宜」は「鬼」と「食料」が共通項(きょうつうこう)となるが――「邪馬国の地宜」は「鬼の形」となって共通しないために――卑弥呼は「邪馬国」を23番目国ではなく24番目国としたことになる。
そして、「23番の鬼奴国の地宜」と「24番目の邪馬国の地宜」は「食料」と「王者の風格」という点で共通する。
だから、卑弥呼は「為吾国」を22番目国、「鬼奴国」を23番目国、「邪馬国」を24番目国とした。
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下図に示すように、23番目の「鬼奴国(きなこく)」は「現在の熊野を除く和歌山県西部、旧国の紀伊西部」である。
前ページにて詳細に解説して証明したように「鬼国・志摩の地宜」は「鷹(たか)の横顔」に相似する。ゆえに、【鬼】は「鷹」を意味したゆえ、小国名の「鬼奴」の【鬼】も「鷹」を意味した。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・25」の小国「姐奴国(つなくに)」と「華奴蘇奴国(かなさなこく)」において詳細に解説し証明したように、
小国名「鬼奴」の【奴】は「体を空中に浮かす強力な翼」を意味した。

下図に示すように、「鬼奴国、旧国の紀伊西部の地宜」は「鬼の鷹が大空高く強大な力を示す大きな翼で悠然(ゆうぜん)と飛翔(ひしょう)する姿」に相似する。
ゆえに、卑弥呼は「現在の和歌山県西部」の小国名を「鬼奴国」と定めた。
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大型種の鷹()は食物連鎖(しょくもつれんさ)の最高位となる。
上図の「鬼奴国(きなこく)の地宜」が示す「大きな翼をひろげて悠然と大空高く飛ぶ鷹の姿」は「王者の風格(ふうかく)」をあらわして雄々(おお)しい。
(
)このように、地宜が「鬼()の仮面をかぶる男子の顔に相似する為吾国」と、地宜が「鬼()が大きな翼をひろげて大空を飛翔する、鬼奴国」は共に「鬼」で共通する。
(
)また、「為吾国の地宜が示す、顔に鬼の仮面をかぶって舞う男子の姿」は「食物が豊かに実るを祈願し、あるいは豊かな食物を祝い・感謝する儀式」であった。
また、「鬼奴国の地宜」に相似すると見立てられた「大きな翼をひろげて悠然と大空を飛翔する大型の鷹の姿」は「食物連鎖の最高位の風格」を示すことになった。
だから、前述したように、「為吾国と鬼奴国」は「食物(食料)」が共通項となった。

◆対馬国(つくしまこく)からの23番目国の「鬼奴国」の【鬼】は「食物連鎖の最高位の、大型種の鷹」をあらわした。
これゆえ、次の24番目国の「邪馬国(やまこく)」は「倭人国において最も豊かな食料に恵まれていた」と考えられる。
というのも、「鬼奴国の地宜」が示す「大きな翼をひろげて大空を悠然と飛翔する鷹の姿」が「王者の風格」をあらわすように、
「邪馬国の地宜」もまた「倭人国において最も豊かな食料に恵まれる王国の風格」をあらわしているからである。
だから、「鬼奴国と邪馬国」は「食物」と「王者の風格」で共通した。

『魏志倭人伝』は、対馬国から24番目の小国は「邪馬国(やまこく)」であったと列記(れっき)する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の13回・19回・20回・21回にて詳細に解説して証明したように、
下図に示す「餌(えさ)の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めに重なりあう表情」は、【邪馬】と名づけられた。
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上図の「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りが邪(なな)めに重なりあう表情」は、
「今日の産婦人科における医学用語の【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨(ずがいこつ)が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ねあわさることができる仕組み】をあらわす語でもあった。
というのも、「せまい産道を通過する出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」は「草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口などの表情」に酷似(こくじ)するからである。
だから、下図に示したように「出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)」もまた【邪馬】と名づけられた。
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上記したように、「食料の草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口などの表情」は【邪馬(やま)】と名づけられた。
下図に示すように、「転回方位の、旧国の大和(やまと)、現在の奈良県の地宜」は【邪馬】の「食料の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の横顔」に相似する。
ゆえに、卑弥呼は「現在の奈良県」の小国名を「邪馬国(やまこく)」と定めた。
下図の「奈良県の地宜が示す、【馬】・フタコブラクダが満足(まんぞく)そうに草を食べて頬(ほほ)を大きくふくらませる横顔」は「大和が豊かな食料に恵まれる王国」であった様子をあらわす。
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奈良県の大和盆地には多数の川が流れこみ、水量豊かな穀物の生育に恵まれていた。
ゆえに、邪馬国・大和は倭人国で最も食料(農作物)に恵まれた王国であったと考えられる。
このため、当時において最高の学術国であった首都の邪馬壱国・出雲地方よりも邪馬国・大和は豊かな経済で栄える王国であったであろう。
上図の「邪馬国・大和の地宜の、その【馬】のフタコブラクダの横顔」は「フタコブラクダのボスが泰然(たいぜん)・悠然(ゆうぜん)として草を食べる王者の風格」をあらわしている。
だから「邪馬国」は「倭人国で最も豊かな食料に恵まれた王国」であったにちがいない。
以上のごとく、「邪馬国」は「現在の奈良県、大和」であった。
したがって、「奈良県・大和」は「邪馬台国」ではなく「邪馬国」であった。
『魏志倭人伝』は「卑弥呼が倭人国の首都とした所の名は邪馬壱国(やまいこく)であった」と記す。
ゆえに、「邪馬台国」は最初から空想の世界へと迷いこんだ空理空論であり、ナンセンスきわまりない早合点(はやがってん)の錯覚(さっかく)であったことになる。

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2024年8月19日 (月)

漢字の起源と発明を解明す・25

愛あざやかに蝶が舞う琵琶湖周辺の5小国の秘密

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。
【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見える、巨大な銀河」のことをいう。
【春の銀河】、【秋の銀河】、【冬の銀河】とよばれる銀河もあるが――【夏の銀河】が「もっとも巨大で、しかも、もっとも印象深い形をしている」。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国(やまたいこく)について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕

現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――昔(むかし)、昔、夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と、【東南の地平線から「銀河系の中心方向周辺の銀河」が昇る黎明(れいめい・夜明け)の天文図の光景】をもって、喩(たと)え話(ばなし)にして説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆前回の「漢字の起源と発明を解明す・24」では、
最初の対馬国から数えて13番目の「弥奴国(みなこく)」は「現在の愛知県西部の、旧国の尾張」であったことを証明した。
また、対馬国から14番目の「好古都国(こかたこく)」は「現在の愛知県東部の、旧国の参河」であったと証明した。
さらに、対馬国から15番目の「不呼(ふこ)国」は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江」であったと証明した。
上記の「弥奴国、好古都国、不呼国」の3小国は、(B)「【倭】の字源における女性グループ」に組する。

このブログでは、対馬国から16番目の「姐奴国(つなこく)」と、17番目の「対蘇国(つさこく)」と、18番目の「蘇奴国(さなこく)」と、19番目の「呼邑国(こおこく)」と、20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」の位置と範囲を解明する。
これら「姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国」もまた、()「【倭】の字源における女性グループ」の5小国である。
これら「5小国の地宜の解説と証明」によって、()「【倭】の字源における女性グループ」に属する10ヵ国すべての小国名が【倉頡の文字作成理論】をあらわしている証明が完了する。

下の図に示したように――
16
番目の「姐奴国」は「現在の福井県中・北部の敦賀市(つるがし)以北の、旧国の越前(えちぜん)」であった。
17
番目の「対蘇国」は「現在の岐阜県中・南部の、旧国の美濃(みの)」であった。
18
番目の「蘇奴国」は「現在の福井県南西部の、旧国の若狭(わかさ)」であった。
19
番目の「呼邑国」は「現在の滋賀県であり、旧国の近江(おうみ)」であった。
20
番目の「華奴蘇奴国」は「現在の京都府南部の、旧国の山城(やましろ)」であった。
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上記した19番目の「呼邑国」の【呼】の字源は「鳰(にお)」であり、現在の滋賀県・旧国の近江の「琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」であった。
「呼邑国」以外の「姐奴国、対蘇国、蘇奴国、華奴蘇奴国」という4小国の名称は「蝶の羽化(うか)、成虫と蛹(さなぎ)、蝶の餌(えさ)となる草の華(はな)など」をあらわしている。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」にて詳細に解説して証明したように、15番目の「不呼国、現在の静岡県・旧国の遠江の浜名湖の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「花弁が集まる花冠(かかん)」に相似する。
したがって、「蝶は花(花冠)の蜜を餌」とするゆえ、
15
番目の「花の地宜の浜名湖が所在する不呼国(ふここく)」に続く16番目の「姐奴国(つなこく)」は「背中に大きな羽根が生える、アゲハチョウなどの美しい蝶の形をした小国」であった。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「5小国名の範囲と位置の秘密」を解明するには、「蝶の成虫と蛹(さなぎ)に見立てられた銀河」を表示する必要がある。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。
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上図の左上に、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。
「十字の銀河」の北となりのバック(背景)となる銀河と、「鬼の姿に似る銀河」の北となりの銀河を「羽根()の形」に相似すると見立てると――

下図のごとく、「十字の銀河」は「蝶の羽根の一部」と化し、「鬼の姿に似る銀河」が「蝶の成虫の体」となる。
また、「鬼の姿に似る銀河」のみだと、その形は「蛹(さなぎ)の姿」に相似する。   
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◆上記したように、15番目の「不呼国、遠江の浜名湖は、蝶が蜜を吸う花の形」に相似する。
ゆえに、16番目の「「姐奴国(つなこく)、現在の福井県中・北部の、旧国の越前の地宜」は「背中に大きな翼が生える蝶、アゲハチョウの成虫の姿」に相似すると見立てられた。
下に、「姐奴国の地宜」が「背中に大きな羽根が生えた美しく艶(あで)やかな蝶(チョウの姿に相似する様子」を図示した。
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これまでわがブログ「漢字の起源と発明を解明す」が詳細に解説し証明したように、「姐奴国」の【奴】の字源・原義は「ジャコウウシの強大な力」であったゆえ、要するに「強大な力」であった。
ゆえに、「姐奴国」の【奴】の字は「蝶が体を持ち上げて空を飛翔(ひしょう)する羽根の強大な力」をあらわした。

「姐奴国(つなこく)」の【姐】の字は偏【女】に【且()】が加わって成立する。
【且】は「食材をのせて包丁で切るための平らな俎板(まないた)の初文(最初の文字)」である。
【且】の古代字形(契文形・金文形)には様々も異なる形があるゆえ、字源となった銀河や事物について決定することはできない。
しかし、「女性の背中は乳房や腹部の凹凸がある正面形と異なって、俎板(まないた)の食材をのせる面のごとく平らである」。
だから、【姐】の字は「背中が美しい妖艶な気っ風(きっぷ)のよい姐御(あねご)や、また豊かな乳房を有するたくましい母親」を意味することになったと考えられる。
上図に示した「姐奴国・越前の地宜における蝶の胸部は、たくましい母親の豊かな乳房の形」をしている。
ゆえに、『説文解字』は【姐】の字を「蜀(しょく)の人、母を謂()ひて姐といふ」と解説し、
白川静著『字統』は【姐】の字について「姉御(あねご)という」と解説する。

◆下の上図に示すように、「旧国の美濃(みの)の・東部の地宜」は「ジャコウアゲハの成虫の姿」におよそ相似すると見立てられ、
「美濃の西部の地宜」は「ジャコウアゲハの蛹(さなぎ)の姿」に相似すると解釈された。
ゆえに、「美濃」は「ジャコウアゲハの成虫と蛹が一対となる小国」、つまり「成虫と蛹の一対の国」を略して、卑弥呼は小国名を「対蘇国(つさこく)」と定めた。
「対蘇国」の【蘇】は「幼虫が死んだようになった蛹(さなぎ)から蘇(よみがえ)って成虫になる」を意味した。
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「美濃」は、「現在の岐阜県の中部・南部」であり、この県名の「岐阜(ギフ)」という名がつく「ギフチョウ」と呼ばれる「アゲハチョウ」が生息する。
【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣の【牛】の字源の「ジャコウウシ」と同じく「ジャコウアゲハ」は共に麝香(ジャコウ)の匂いがする。
この点からしても、「美濃」は「ジャコウアゲハの成虫と蛹の姿が一対となる小国」ということで「対蘇(つさ)国」と、卑弥呼は名づけたことになる。
〔注 ジャコウウシのオスとジャコウアゲハのオスが麝香の匂いがはなつが――ジャコウアゲハのオスの姿は人の男性よりも女性の姿に相似するというイメージのほうが強い。ゆえに、卑弥呼は対蘇国・美濃を「【倭】の字源における女性のグループ」に組するようにしたのである。〕

白川静著『字統』は【蘇】の字について、下記のごとく解説する。
――『説文解字』は「桂荏(けいじん)なり」とあり、紫蘇(しそ)の類であるとする。字は蘇息・蘇生の意に用いる。金文には国名に用い、字を穌に作る。その字形は、あるいは魚に桂荏などを加え、生気を保たせる意をもつものであるかも知れない。国名以外の古い用法がみえず、字義を確かめがたい。

上記のごとく、白川静著『字統』の【蘇】の字源解説は不明確である。
対馬国から15番目の「不呼国(ふここく)」は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江」であった。
「遠江」の小国名【不呼】の「花の台(うてな)」に見立てられた「浜名湖の支湖の引佐細江(いなさほそえ)の北東岸」には、「都田川(みやこだがわ)が上流から運ぶ土砂と水を外()く河口」がある。
下に、中央に「都田川」、右上に「引佐細江」を配した地図を示した。
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上図中央の「都田川流域(みやこだがわりゅういき)の沖積平野(ちゅうせきへいや)の地宜(ちぎ)」は「子宮で育つ胎児」に、また「胎児が育つ子宮」に、あるいは「胎児が大きく育った出産児が通過する産道」に見立てられた。

大量の雨が降ると、都田川が氾濫(はんらん)して沖積平野一面が水に漬()かる。
洪水の水が引いてしばらくすると、都田川に魚が棲()みはじめ、禾(いね)科の草が沖積平野に繁茂(はんも)して蘇(よみがえ)り、また様々な艸(くさ)が繁茂して蘇生(そせい)する。
しかし、以前と同様に、沖積平野には小さな木が生えても、大木はほとんど生えない。
ゆえに、【蘇】の字には【木】の字が組しておらず――【蘇】の字は【艸冠(くさかんむり)】の下に【魚】と【禾】の字を加えて組織される。

つまり、漢字が起源した五帝時代初頭以来、鉄製の鍬が出現した古代まで――
わが国においては、中期縄文時代初頭(中国の五帝時代初頭)から3世紀中半の卑弥呼時代まで――河川の氾濫(はんらん)による洪水によって従来と同じ生活が再び維持(いじ)され、あるいは上流から肥沃(ひよく)な土が押し流されて豊かな実りをもたらすことになった。
つまり、洪水の後に従来と同様な生活が蘇生し、あるいはより豊かな実りを手に入れる幸運にも恵まれることもあった。
ゆえに、「様々な艸(くさ)が繁茂(はんも)して蘇生(そせい)し、川に魚がもどってきて棲()み、禾(いね)科の植物が川の流域の土地に繁茂して以前と同様の生活が蘇(よみがえ)る」ということで、【蘇】の字が成立することになったと考えられる。

中期縄文時代初頭(五帝時代初頭)から卑弥呼時代までにおいて、わが国においては、洪水・氾濫(はんらん)よりも日照り・旱魃(かんばつ)に苦しんでいたのである。
日照りが続いて乾いて堅く(かた)くなった田や畑の土を、当時の原始的な木製の鋤(すき)で耕す農作業は大変な重労働となった。
いっぽう、洪水に見舞われた土は泥状でやわらかいゆえ、当時の木製の鍬でもたやすく耕すことができた。
だから、上記したように「洪水で再びもとの生活がもどってくる」ということで、【蘇()】の字が成立したと考えられる。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館編者『シンポジウム 弥生人の四季』(六興出版発行)は、〔金属の刃先〕と題して、下記のごとく説明する。
「弥生時代後期後半にはくわやすきの刃先に鉄が用いられた。岡山県の上東(じょうとう)遺跡出土のすきの身の先端部には、鉄の刃先を挿入(そうにゅう)した痕跡が残っている。当時の刃先は薄い鉄板の両側を折り曲げただけの簡単なものだが、従来の木の刃先と比べれば、開墾・耕作に伴う負担が大幅に軽減させた。この鉄製の鍬・鋤先は中国・朝鮮半島に類品がなく、国産品と考えられている。」

上記先頭の「弥生時代後期後半」は「卑弥呼が生存した同時代」となる。
上記のごとくの「薄い鉄板の両側を折り曲げた簡単な鉄製の鋤(すき)」を用いても、日照りが続いて堅くなった土を耕すのは木製の鋤とほぼ変わらず大変な重労働であったにちがいない。

◆下に、対馬国から13番目の弥奴国(みなこく)・尾張、14番目の好古都国(こかたこく)・参河、15番目の不呼国(ふここく)・遠江、そして17番目の対蘇国(つさこく)・美濃の4小国図を配した。
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前ページにて解説したように、「不呼国・遠江の都田川流域の沖積平野(ちゅうせきへいや)」は「胎児や女性生殖器官の子宮や産道」に相似すると見立てられた。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」にて詳細に解説し証明したように、
「弥奴国・尾張の知多半島(ちたはんとう)」は「女性生殖器官の卵管采(らんかんさい)・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ・卵管」に見立てられ、「知多半島北部の陸地」は「子宮」に見立てられた。
「好古都国・参河の渥美半島(あつみはんとう)」は「女性生殖器官の卵巣(らんそう)」に見立てられ、「渥美半島北部の参河の陸地」は「子宮」に見立てられた。

上図に示したように、対蘇国・美濃は弥奴国・尾張と好古都国・参河と隣接する。
したがって、対蘇国・美濃も女性生殖器官と関連を有すると考えるべき必要がある。
下に、卵管采(らんかんさい)・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管と卵巣(らんそう)と子宮と産道の図を配した。
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下に、上図に「卵巣上体(らんそうじょうたい)と子宮広間膜(しきゅうこうかんまく)を加える女性の生殖器官の半分形」を示した。
「女性の背中側にある卵巣上体・子宮広間膜」は「羽根()」のような形をしている。
ゆえに、「女性の羽根のような形をした卵巣上体・子宮広間膜を含む生殖器官」は「羽根が背中に生える蝶の成虫」に相似すると見立てられたにちがいない。
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下図に示すよう、「女性の生殖器官の大半を包囲して、子宮で育つ胎児の命をまもる骨盤の形」もまた「蝶の成虫の姿」に相似する。
このような事情からも、「姐奴国・対蘇国・蘇奴国・華奴蘇奴国の地宜」は「蝶」や「蛹(さなぎ)」をあらわすことになった。
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◆下に、「蘇奴国・若狭の地宜」と「蛹の背中を裂()いて、羽化(うか)し始める蝶の姿」が相似する様子をあらわした。
「蘇奴」の【蘇】は「死骸(しがい)のような蛹から命がよみがえる蝶」をあらわし、【奴】は「蛹の背中を裂く強大な力」をあらわす。
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アゲハチョウの幼虫は4回の脱皮(だっぴ)をくりかえして蛹となり、その蛹の姿は強大な力を有するジャコウウシに似て太くずんぐりとしている。
「アゲハチョウの4回の脱皮」は「骨盤入口に入りこむときから膣口(ちくこう)から頭が誕生するまでの出産児の4回の回旋(かいせん)」に共通すると見立てられたにちがいない。
ジャコウアゲハは幼虫から死骸のごとき蛹となり、その蛹の背中を裂いて命が蘇(よみがえ)り、わずか数分で空中をひらひらと舞う成虫となる、強くてたくましい命を示す。
ゆえに、「現在の福井県南西部の、旧国の若狭(わかさ)」の小国名を、卑弥呼は「蘇奴国(さなこく)」と定めたことになる。

◆下図に示すように、「現在の滋賀県、旧国の近江(おうみ)」は、対馬から19番目の「呼邑国(こおこく)」であった。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・24」における「不呼国・遠江」にて詳細に解説して証明したように、【呼】の字源は「鳰(にお)」であった。
「近江、琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」であった。
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【囗()】の下に【巴()】を加える【邑(ゆう)】の字について、白川静著『字統』は「囗()は都邑(とゆう)の外郭(がいかく)、城壁を繞(めぐ)らしている形。(中略)。巴は人の跪居(ききょ)するさま。城中に多くの人のあることを示す」と解説する。
したがって、上図における「琵琶湖を包囲する比良山地(ひらさんち)・野坂山地(のさかさんち)・伊吹山地(いぶきさんち)・鈴鹿山地(すずかさんち)」は「城壁」に見立てられたことになる。
つまり、「滋賀県・近江」は【呼】の字源地宜の「鳰ノ海」の周囲に【邑】の「多くの人が住む地域」であるゆえ、
卑弥呼は「呼邑国(こおこく)」という小国名に定めたことになる。

卑弥呼は――上図における「滋賀県・近江の地宜」は【呼】の字源「鳰ノ海」が「子宮と子宮にて育つ胎児」、【邑】の字源「城壁となる山地」を「骨盤」に見立てた――と考えられる。
つまり、卑弥呼は【呼】の字源の「鳰ノ海を羊水に潜(もぐ)っていても窒息しないで死なずに生きることができる不思議な生命力を有する胎児」に見立て、
また、卑弥呼は【呼】の字源「鳰の海」を「【邑】の字源・骨盤に包囲されてまもられる子宮」に見立てて、
「旧国の近江」の小国名を「呼邑国(こおこく)」と定めたことになる。

しかし、日本一最大の湖の「琵琶湖」を、「カイツブリ科最大のカンムリカイツブリ」と見立てずに、なぜ「カイツブリ科最小の鳰の姿」に相似すると見立てたのであろうか?
その理由は、下図に示すように、「琵琶湖の南端の岸の形」が「カンムリカイツブリの頭の形」に相似しないからである。
下図に示したように「琵琶湖の南端の岸の形」は「鳰の頭の形」に相似する。
だから、「琵琶湖」の古称は「鳰ノ海」となった。
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下に、「琵琶湖の地宜」を示した。
この「琵琶湖の地宜」は「母親の鳰が翼をひろげてはばたいて巣の過熱(かねつ)をふせぎ卵に涼しい風を送って冷やしている姿」をあらわしている。
つまり、「琵琶湖の北岸」は「涼しい風を送って巣の卵をひやす母親の鳰のはばたく翼」ということになる。
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内田亨代表著作者『原色現代科学大事典 5――動物Ⅱ』(学習研究社発行)は、下記のごとく「鳰の巣の温度」について説明する。
(鳰の巣の温度は)、常に水温・気温より多少高く保持される。つまり太陽熱が巣材(すざい)中にたもたれ、巣材の醗酵(はっこう)熱も加わり(これは弱いが)、親鳥が長く巣を去っても卵はひえない。親鳥が卵を巣材でおおって去るのは、卵をかくすことのほかに直射による加熱をさけるためもあるらしい。(中略)。なお、東映製作の映画「水辺の鳥」で、露出卵(ろしゅつらん)あるいは巣材をかぶせた卵の上に親鳥が立って、翼をひろげてふるわせ、空気を送る動作が撮影されている。親鳥が巣の過熱を感じたときにおこなう反応的行動と思われる。」

上図の「琵琶湖の地宜」は「加熱する巣の卵に涼しい風を送るため、母親の鳰が卵の上に立って翼をはばたく姿」に相似すると見立てられた。
だから、「鳰の海、琵琶湖の地宜」は、上記した「鳰の親鳥が巣の温度を管理する、母親の深い強い愛」をあらわした。

◆対馬国から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」は「現在の京都府南部の、旧国の山城(やましろ)」であった。
下図に示すように、対馬国から17番目の「対蘇国の地宜」は「ギフチョウやジャコウアゲハの蛹(さなぎ)と成虫が一対となる形」に見立てられ、18番目の「蘇奴国の地宜」は「蛹の背中を裂いて羽化(うか)し始める蝶の姿」に相似すると見立てられた。
ゆえに、20番目の「華奴蘇奴国の地宜」は「蛹の背中を裂いて羽化した蝶が華(はな)の化身(けしん)となり、羽根の【奴(強大な力)】で体を持ち上げて空中をひひらと舞う姿」をあらわしている。
だから、卑弥呼は「現在の京都府南部の、旧国の山城」の小国名を「華奴蘇奴国」とした。
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したがって、「華奴蘇奴国の地宜」は「死骸のような蛹(さなぎ)から美しく命が蘇(よみがえ)り、華(はな)のように華麗な蝶の成虫がわずか数分で【奴(強大な力)】で体を浮かせて空を舞う、強くたくましい命」を示していることになる。
ということは、「華奴蘇奴国の地宜」は、前ページで解説した19番目の「呼邑国」の「鳰ノ海・琵琶湖の地宜」が示すように「母親の子への強い愛情」を示していることになる。
言いかえると、「華奴蘇奴国の地宜」は「自らの身を裂いてたとえ死んでもよいから、妊娠したわが子を生まんとする強い母性」をあらわしていることになる。

上図に右下に示したように、「華奴蘇奴国」の【華】の金文形は「蝶の形に相似する小さな花を房(ふさ)のようにつける藤のような華(はな)の形」をあらわしている。
また、「華奴蘇奴国の地宜」は「ダイコンを餌にするモンシロチョウの成虫の姿」に相似する。
モンシロチョウの餌となる「ダイコンの花」は、「小さな花が房(ふさ)のようにつく華」である。
また、「華奴蘇奴国の地宜」は「ウスバシロチョウの成虫の姿」に相似し、「ウスバシロチョウの餌となる草のムラサキケマン」は「小さな花が房のようにつく紫色の華」である。
あるいは、「華奴蘇奴国の地宜」は「スジグロシロチョウの成虫の姿」に相似し、「スジグロシロチョウの餌となるイヌガラシやタネツケバナの華」は「小さな花が房のようについている」。

以上のごとく、「華奴蘇奴国の地宜」は「小さな花が房のようにつく華が咲く草を餌とする、小さな可憐(かれん)な様々な蝶の姿」に相似する。

対馬国から20番目の「華奴蘇奴国」の【華】は「蝶の餌(えさ)となる草に咲く花」をあらわす。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて解説し証明したように、次の21番目の「鬼国(きこく)の地宜」も「鷹の巣の雛(ひな)の餌」をあらわしていた。
下図に示すように、「鬼国、旧国の志摩(しま)の英虞湾(あごわん)の地宜」は「飢()えたときに、強く育った雛(ひな)が同じ巣で育つ弱い雛を餌にして食べる形」をしている。
このように、20番目の「華奴蘇奴国」と21番目の「鬼国」という小国名は「餌」が共通する仕組みになっていて、巧妙(こうみょうにリレーがなされている。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて解説したように、
白川静著『字統』(平凡社発行)は、
【委】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)の垂れた形」と解説する。
また、同書は【年】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う男性の姿」と解説する。
さらに、同書は【倭】の字について「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被った女性と男性の姿をあらわす」と解説する。
要するに、白川静著『字統』は【倭】の字は「穀霊に象る禾(いね)のかぶりものを被った女性と男性が舞う(踊る)姿をあらわしている」と解説している。

下図は、上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部の北となりの銀河」が「穀霊(稲魂・いなだま)のかぶりもの(作り物)」に見立てられたことになる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・右足と、子宮」に観える銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性の姿」をあらわした。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」に見立てることができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊(こくれい)のかぶりものを被って舞う男性」をもあらわした。
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だから、上図の【倭】の字源銀河解説図にもとづいて、上記したようにわたくしは、
伊邪国から狗奴国までの20ヵ国を、10ヵ国ずつ1グループに二分して、
(
)「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国」と、()「【倭】の字源における男性グループの10ヵ国」に分けることにした。

そして、今回のブログをもって、対馬国から11番目の「伊邪国(いやこく)」から20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」までの、
(B)
「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国の小国名」は、
【倉頡の文字作成理論】にもとづいて「各小国の地宜と各小国に用いられる文字の字源・字義」がすべて理にかなって合理が成立する仕組みになっていることを解説して証明した。
だから、『魏志倭人伝』は学者たちが主張するように「邪馬台国を説明した古文献」ではなかった。

『魏志倭人伝』の大半の記事は「卑弥呼の死から約40年後に、晋(しん)王朝が秘蔵(ひぞう)していた卑弥呼が書いた文書を伊都国の港で魏王朝の人々は用いる楷書に書き直した文書(倭人国の国書)を晋の歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が1字も誤らないように慎重(しんちょう)に書き写した史料」、そのものであったことになる。
だから、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が【倉頡の文字作成理論】についえ詳細に具体的に組織的に説明する古文献」であったことになる。

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2024年8月 9日 (金)

漢字の起源と発明を解明す・24

愛と子宮での出来事と花をあらわす弥奴国(みなこく)・好古都国(こかたこく)・不呼国(ふここく)の秘密

◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から図案されて起源した。
【夏の銀河】とは「すべての夏の星座が漬()かる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっていた。
というのも、上記したように『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所には〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて説明したように、
『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】について、
倭人国を構成するの対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を、【10ヵ国ずつ3つのグループ】に分けて、【倉頡の文字作成理論】について説明している。
この【3つのグループ】に、わたくしは下記のごとく名称をつけた。
(
)最初の「対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国の名称」は「【瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ】」
(
)2番目の「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国の名称」は「【倭】の字源における女性グループ」、
(
)3番目の「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国の名称」を「【倭】の字源における男性グループ」と名づけることにした。

前回の「漢字の起源と発明を解明す・23」では、
最初の対馬国から数えて11番目の「伊邪国(いやこく)」は「現在の京都府中部と兵庫県の一部であり、旧国の丹波(たんば)」であったことを証明した。
また、対馬国から12番目の「都支国(たきこく)」は「旧国・志摩を除く現在の三重県と和歌山県南東部の、旧国の伊勢と紀伊南東部の熊野」であったと証明した。

このブログでは、対馬国から13番目の「弥奴国(みなこく)」と、14番目の「好古都国(こかたこく)」と、15番目の「不呼国(ふここく)」の位置と範囲を解明する。
現在方位にもとづくと、「弥奴国」は「都支国」の北隣となる「現在の愛知県西部の、旧国の尾張(おわり)」、
「好古都国」は「現在の愛知県東部の、旧国の参河(みかわ)」、
「不呼国」は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江(とおとうみ)」であった。
下図に、対馬国から「21番目の鬼国(きこく・旧国の志摩)」と、「都支国・弥奴国・好古都国・不呼国の位置と範囲」」を示した。
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◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「弥奴国・好古国・不呼国という、3小国名の秘密」を解明する説明が煩雑(はんざつ)にならずに容易に理解できるようにするには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。
「十字の銀河」は、「倭人国」の【倭】の字源となった。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて指摘したように、
わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
【委】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)の垂れた形」と解説する。
また、同書は【年】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う男性の姿」と解説する。
さらに、同書は【倭】の字について「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被った女性と男性の姿をあらわす」と解説する。
要するに、白川静著『字統』は【倭】の字は「穀霊に象る禾(いね)のかぶりものを被った女性と男性が舞う(踊る)姿をあらわしている」と解説している。

下図は、上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部の北となりの銀河」が「穀霊(稲魂・いなだま)のかぶりもの(作り物)」に見立てられたことになる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・右足と、子宮」に観える銀河部があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性の姿」をあらわした。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」に見立てることができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う男性」をもあらわした。
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だから、上図の【倭】の字源銀河解説図にもとづいて、上記したようにわたくしは、
伊邪国から狗奴国までの20ヵ国を、10ヵ国ずつ1グループに二分して、
(
)「【倭】の字源における女性グループの10ヵ国」と、()「【倭】の字源における男性グループの10ヵ国」に分けることにした。

◆前ページにて【倭】の字源解説に用いた「十字の銀河」の西となりの銀河を、
下図に示すように、わたくしは「鬼の姿に似る銀河」またの名を「四つ目の銀河」と名づけた。
この「四つ目の銀河」の南西に隣接する銀河を「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」と名づけた。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)」には国際的に天文学界において「北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」と名称が決められた銀河部がある。
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下に、「はくちょう座のε(エプシロン)星と、γ(ガンマ)星と、δ(デルタ)星と、β(ベータ)星が構成する三角形状に包囲される「人の横顔に酷似する銀河と、北天の最輝部」の図を配した。
「北天の最輝部」とは「北半球に住む人々にとって最も輝いて見える銀河部」のことをいう
下図における「点々の部分」は「銀白色」に、「点々が濃い部分」は「桃花鳥色(トキ色)」に輝く。
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わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・16」にて証明したように、
対馬国から6番目国の「不弥国(ふみこく)」の【弥】の字源は「水鳥のカンムリカイツブリ」であった。
卑弥呼は「福岡県の福津(ふくつ)市の津屋崎(つやざき町の海岸線)を【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭」に見立て、
また「釣川(つりがわ)から宗像(むなかた)平野部までの地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を【弥】の「カンムリカイツブリの首と胴体と翼」に見立てて、
これらの形状は「空を飛んで陸地に降下してこないカンムリカイツブリの姿に観える」と解して――
卑弥呼は「宗像地方」の小国名を「不弥国」と定めた。

◆【弥】の「カンムリカイツブリ」の全長は46㎝~61㎝である。
この「カンムリカイツブリの全長」は出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝の大きさに育った出産児とほぼ同じである。
ゆえに、倉頡は「出産児」を「カンムリカイツブリ」で喩(たと)えることにした。
というのも、胎児は母親の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余り・10カ月余も過ごす「水中生活者」であるからである。
出産後の人は1時間も水中に潜(もぐ)ったままでいれば確実に窒息(ちっそく)して死ぬ。
にもかかわらず、40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごす胎児は、なぜ窒息して死なないのか?
この秘密を、女性の生殖器官と出産について研究する黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この秘密を倉頡は「人間よりも長らく水中に潜(もぐ)っていることができる、カンムリカイツブリ」で喩えることにした。

【弥】の字源となった「カンムリカイツブリの首から体下面(たいかめん・胴体の下面)まで」は「すべて銀白色」である。
上記したように、「北天の最輝部」もまた「銀白色」に輝く。
ゆえに、下図に示すように、「不弥国(ふみこく)」の【弥】は「北天の最輝部」に見立てられた。
下図の右側は、【弥】の字源「カンムリカイツブリが繁殖行動するときのオスとメスが求愛ダンスする姿」をあらわしている。
(
注 この図は今泉吉典監修者代表『イラスト・アニマル【動物細密・生体画集】』 平凡社発行の143ページより転載した)
上記したように、「不弥国」の【弥】は「北天の最輝部」に見立てられたゆえ、
上図に示したように、対馬国から13番目の「弥奴国(みなこく)」の【弥】もまた「北天の最輝部」に見立てられたことになる。
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下に示した右側は「脚で水面を蹴()った水しぶきを浴()びてビショ濡()れになる、熱烈な求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメスの図」である。
下図の左側は「現在方位にもとづく上南・下北の、現在の愛知県西部の地宜」である。
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上図に示したように、「現在の愛知県西部の地宜」は「熱烈な求愛ダンスをして繁殖行動をするカンムリカイツブリのメスの姿」に見立てられたことになる。
というのも、右図の「脚で水面を蹴って水しぶきを浴びるカンムリカイツブリの姿」は「カンムリカイツブリの尾のほうの水面がざわついて張る(広がる)状態」となるからである。
この「尾のほうの水面がざわついて張る」の略称は「尾張」、つまり旧国の「尾張」となる。
ゆえに、「現在の愛知県西部、旧国の尾張」の小国名は「弥奴国」であったことになる。

「弥奴国」の【奴】の字源・原義は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・15」にて詳細に解説したように、下記のごとき3つの事柄をあらわした。
(
)「子どもを出産するための母親のジャコウウシのごとき強大な力」
(
)「子どもの出産において――母体(妊婦)が大声をあげて、いきみ・きばる怒責(どせき)
(
)「ジャコウウシのごとき強大な力を有する18歳くらいの青年」

つまり、「弥奴国」の【奴】は「求愛ダンスするとき、メスが体を水面に垂直状に立つことができる、強大な力」をあらわした。
上図に示した「現在方位にもとづく尾張の上南・下北の地宜」は【弥】の「カンムリカイツブリのメス」が【奴】の「強大な力で、体を水面に垂直状に立つ姿勢」に相似する。
だから「尾張」の小国名は「弥奴国」であったことになる。

◆旧国・尾張のとなりは旧国・参河(みかわ)、現在の愛知県東部である。
下に、「愛知県東部、旧国の参河の地宜」を示した。
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上図の「参河の地宜」を「求愛ダンスをするオスのカンムリカイツブリの姿」に見立てれれば、ことは簡単にすむ。
――しかし、「参河」は「【倭】の字源における女性グループ」の一員となる小国である。
したがって、「参河」は「求愛ダンスをする【メスのカンムリカイツブリ】の姿」と解釈すべきことになる。
ゆえに、「尾張と参河の地宜」は共に「カンムリカイツブリのメスの姿」に見立てなければならない。
このため、上記した「熱烈な求愛ダンスをするカンムリカイツブリのオスとメス」の解釈は誤っていたことになるが――
「尾張と参河の地宜」を同じ「メスのカンムリカイツブリの姿」となるという解釈も釈然(しゃくぜん)とせず、なんとも合点がいかず――このままの解釈だと中途半端(ちゅうとはんぱ)な状況で終わることになる。

下に、「参河」の【参】の周代に出現した2種の金文形(周代に出現した字形)を示した。
この【参】の2種の金文形は「巫女(みこ)が妊婦の姿に扮(ふん)して、子どもの出産をよろこび祝って踊る姿」を図案するものと考えられる。
この「巫女(みこ)の頭部の三又(みつまた)に分かれる図案」は「三又に分かれる北天の最輝部の形状を女性の生殖器官の一部分に見立ててデザインした簪(かんざし)」を表現しているにちがいない。
というのも、「おなかが円い妊婦」に適応(てきおう)するのは「女性の生殖器官の一部分の形に作られた簪」だからである。
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前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて詳細に解説したように、
対馬国から11番目の「伊邪国(いやこく)」と12番目の「都支国(たきこく)」は共に「男王の一大率(いちだいそつ)が住む伊都国(いとこく)国と女王・卑弥呼がすむ邪馬壱国(やまいこく)」を意味した。
下図に示したように、「伊都国」の【伊】の字源は「女性の生殖器の子宮で育つ胎児の胸をアゴにつける屈位(くつい)の姿勢」であった。
ゆえに、対馬国から13番目の「弥奴国(みなこく)・尾張」と14番目の「好古都国(こかたこく)・参河」は、共に上図の【参】の金文形が示す「女性の生殖器官に関する秘密」をあらわしていたと考えられる。
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下図に示すように、「邪馬壱国」の【邪馬】は「出産児が産道入口に入り込んで産道を通過して誕生するまでの、出産児の頭蓋骨にある小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜(まく)が重ねあわせて【小斜径(しょうしゃけい)】となることができる仕組み」であった。
「邪馬壱国」の【壱】の字源は「女性の生殖器官の子宮や産道」である。
だから、「弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜」は、共に「女性の生殖器官にておきる秘密」をあらわしていたにちがいない。
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◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・23」にて解説したように、
下図に示したように、対馬国から21番目の「鬼国(きこく)、旧国志摩(しま)の英虞湾(あごわん)の形」は「鷹(たか)の強い雛(ひな)が同じ巣で育つ弱い雛を餌(えさ)にして食べる弱肉強食の様子」に見立てられた。
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下に「弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜」があらわした秘密「女性の生殖器官の正面形」を配した。
下図における「卵巣(らんそう)」と「卵管采(らんかいさい)と「卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)」が、
「弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜の秘密」であったことになる。
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上図の「卵管采」は「人の指の形」に相似し、「卵管膨大部」は「人の5本指とつながる手の形」に相似する。
ゆえに、「卵管采は、卵巣(らんそう)を愛撫(あいぶ)するがごとくの形」をしている。

人の一生は女性の卵(らん)と男性の精子の合体からはじまる。
卵と精子の合体がおこなわれる場所は、一般的に卵管膨大部であるといわれている。
卵巣からでた卵は卵管膨大部で精子と合体する。これを「受精(じゅせい)」と呼ぶ。
そして、分裂をくりかえしながら、卵管膨大部とつながる卵管(らんかん)の中を子宮のほうへ移動していく。
およそ7日目ごろに、受精は子宮壁(しきゅうへき)に着床(ちゃくしょう)するといわれている。
着床が成功すれば、妊娠(にんしん)が成立したことになる。

女性の生殖器官と出産を研究した黄帝は、「卵巣あるいは卵管膨大部のいずれかの場所における、卵と精子が合体する受精のような仕組み」を想像し、
この「受精のような仕組み」を、黄帝は「左右の卵巣と卵管采・卵管膨大部・卵管と同じく二つ存在する」と推理したにちがいない。
そして、上記した「鬼国の英虞湾の形状」が示したように、
黄帝は「子宮壁に着床する際、強い受精が弱い受精を餌にして食べて死滅させる」と考えたであろう。
だから、黄帝は「人の子は、一般的に一人で誕生する」と考えたことになる。
黄帝は「双子で生まれるのは、着床の際に、受精の仕組みの弱肉強食がおこらないからである」と考え、また「双子以上の多産も、着床の際に、受精の仕組みの弱肉強食がおきないのが原因」と考えたであろう。
卑弥呼も、黄帝の同様な考え方をしたと推測される。

◆下に、「好古都国(こかたこく)」の【好(こう)】の字源銀河と契文形(けいぶんけい・殷代後半の甲骨文字の字形)を示した。
【好】の契文形について、白川静著『字統』は、下記のごとく解説する。
「女は母の形に作り、あるいは子を抱く形につくるものであって、婦人がその子女を愛好することを示す字である。」
ゆえに、下図に示すように【好】の字における【女】の字源は「十字の銀河」、【子】の字源は「鬼の姿に似る銀河」であった。
それゆえ、「十字の銀河の右腕(西側の腕)と子宮から鬼の姿に似る銀河の頭に垂れる2本の帯状の銀河」は「母親の両手が子女の頭を撫()でで愛好する(可愛がる)様子」をあらわす。
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上図の「母親の両手が子女の頭を撫()でで愛好する(可愛がる)様子」は、前ページにて「女性の生殖器官の正面形の図」をもって説明した「卵管膨大部・卵管が卵巣を愛撫(あいぶ)するがごとくの形状」と合致する。

下に、「現在方位にもとづく、上南・下北の弥奴国・尾張と好古都国・参河の地宜」を示した。
結局、前述したように、「現在の愛知県西部、旧国の尾張の地宜」を「熱烈な求愛ダンスをして繁殖(はんしょく)する【弥】・カンムリカイツブリのオスが【奴】・強大な力で水面に垂直状に立つ姿勢」に見立てて、
卑弥呼は「現在の愛知県西部の、旧国の尾張」の小国名を「弥奴国」と定めた。
また、卑弥呼は「旧国の尾張の知多半島(ちたはんとう)の地宜(ちぎ)」を「女性生殖器の卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管(らんかん)と卵巣(らんそう)」のいずれか――その形状からして、多分(たぶん)、「卵管膨大部・卵管」に相当すると解釈したと考えられる。
この解釈にもとづいて、卑弥呼は「知多半島の北部・尾張の陸地」を「卵管膨大部・卵管とつながる子宮」に見立てたことになる。
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卑弥呼は上図の「現在の愛知県東部の、参河の地宜」は前ページに配した「【好】の字源銀河の形状」に適合すると考えて、「参河」の小国名を「好古都国(こかたこく)」と決めた。
また、卑弥呼は「参河の渥美半島(あつみはんとう)の地宜」を、多分、その形状から「女性生殖器官における卵巣(らんそう)」に見立てて、
そして、「渥美半島の北部・参河の陸地」を「卵巣とつながる子宮」と解した。

以上のような考えならば、「弥奴国・尾張と好古都国・参河」は共に「女性の生殖器での受精の出来事(秘密)」をあらわすことになる。
ゆえに、「弥奴国・尾張と好古都国・参河」は共に「【倭】の字源における女性グループ」に組する小国となる。

「好古都国」の「古都」は「中国南部の呉地の杭州市(こうしゅうし)」をあらわしたと考えられる。
杭州市は浙江省(せっこうしょう)の首都、銭塘江(せんとうこう)の北岸に所在し、物産豊かな美しい都市である。
紀元前221年に秦(しん)が杭州市に銭塘県(せんとうけん)を置いて以来、約2200年の歴史が続いた。
杭州市の西側に所在する西湖(さいこ)は四季折々に美しく、杭州のシンボルとも絶賛される存在である。

下図に示すように、【倭】の字源となる「十字の銀河」は「女体(にょたい)」に相似し、
「十字の銀河の腰」には「女性の生殖器器官の子宮に相当する銀河部」がある。
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下図に示したように、杭州市のシンボル的存在の「西湖の地宜」は「十字の銀河の子宮の形」に相似する。
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上図の「西湖の地宜の天地(上下)を逆さにした形」は「虞美人草(ぐぶじんそう)の実の形」に相似する。「虞美人草」は「ケシ科の越年草」である。
ゆえに、「虞美人草の実」は「ケシの実の形」に相似するゆえ、結局、「西湖の形」にも相似する。
上記したように、紀元前221年に秦が杭州市に銭塘県を設置した。
この秦の末期(紀元前3世紀)に生存した武将の項羽(こうう)の愛人の名が「虞美人」であり、
虞美人の墓に生えて出したという伝説の「ヒナゲシ」を「虞美人草」と呼んだ。

卑弥呼は、約400年前の項羽と虞美人との恋愛を想像して、
(
)「尾張」の小国名「弥奴国」の由来となった「カンムリカイツブリのオスがメスと交わす熱烈な求愛ダンス」を「項羽が熱愛した虞美人への情熱」に見立て、
(
)「杭州湾の西側に所在する西湖の形」は「虞美人草(ヒナゲシ)の実の形」に相似すると見立て、
(
)「遠江の浜名湖の地宜をヒナゲシの花の形」に相似すると見立てて、
卑弥呼は「遠江」に隣接する「参河」の小国名において、「杭州市」を「古都」とあらわすことにした。

だから、「好古都国」の【古都】は参河に隣接する遠江の浜名湖の地宜と共通する「女性の生殖器官の子宮の形をした西湖(さいこ)が所在する、杭州市」であった。
そして、上記したように「好古都国(こかたこく)」という小国名の【好】の字は「女性の生殖器官の子宮、子宮とつながる卵巣(らんそう)」をあらわした。
つまり、卑弥呼は「渥美半島が【好】の字の卵巣」に、「渥美半島より北部の陸地」は「子宮」に見立てた。
ゆえに、「現在の愛知県東部の、旧国の参河」の小国名を、卑弥呼は「好古都国」と定めたことになる。

◆上記したように、「旧国の参河」の小国名における「古都」は「杭州市」であった。
杭州市は、杭州湾河口の近くの西側に所在する。
「杭州市の東にある杭州湾」は「不呼(ふこ)」をあらわす。
「不呼」は、対馬国から14番目の「好古都国(こかたこく)・参河」の次の隣国である15番目の「現在の静岡県西部、旧国の遠江(とおとうみ)」の小国名をあらわした。

白川静著『字統』(平凡社発行)は、「不呼国(ふここく)」の【不】の字源について「もと象形(しょうけい)で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。
つまり、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて解説したように、
【不】の字源は「花弁が輪状(わじょう)に集まる花冠(かかん)を支える台(うてな・萼拊)と、女性の生殖器官の産道は同じ役割ではない」と否定・打消しをあらわす「ず」であった。
「字書の聖典」とたたえられる『説文解字』は、【呼】の字源を「息を外()くなり」と解説する。

下に、「上東・下西の杭州湾の地宜」を示した。
この「杭州湾の地宜」を卑弥呼は「ヒナゲシの花の形に相似する」と見立て、「銭塘江(せんとうこう)の河口に近い杭州湾の西岸」を「花の台(うてな)の形に相似する」と見立てた。
ゆえに、「杭州湾の西岸」が【不】の字源をあらわすことになった。
「銭塘江の水は杭州湾の西岸へ外()かれて流れこむ」。
ゆえに、「杭州湾の西岸」は『説文解字』の【呼】の字源をあらわすことになった。
だから、「【不】と【呼】の杭州湾」は「不呼」という「静岡県西部の、遠江の小国名」をあらわした。
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◆上記したように、白川静著『字統』は【不】の字源を「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説する。
下の上図「女性の生殖器官の正面形」における「卵管采(らんかんさい)と卵管の役割」は、
下の下図の「花の生殖器官図」における「花粉をめしべにつける、花のおしべと花糸(かし)の役割」に類似する。
また、上図の「子宮の役割」は下図の「子房(しぼう)の役割」に類似すると見立てられた。
しかし、上図の「女性の生殖器官」における「出産児が通過する産道の役割」と、下図の「花の生殖器官図」における「花弁を輪状に集める花冠(かかん)をささえる台となる、萼拊(がくふ)の役割」は類似せず両者はたがいに異なる役割を有する。
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この「出産児が通過する産道と花の台(うてな・萼拊)の役割は同じでは非(あら)ず」という否定・打消しをあらわして、「不呼国」の【不】の字源・字義となった。
このため、【不】の契文(けいぶん)と金文の字形は「花の台(うてな)」を表現する図案となった。
ゆえに、白川静著『字統』は、【不】の字源を「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説した。

「遠江」は「都から遠い静岡県西部に所在する浜名湖」を意味した。
下に図示したように、「卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の浜名湖」は遠州灘(えんしゅうなだ)とつながっていなかった。
「現在の浜名湖」は遠州灘とつながる汽水湖(きすいこ)である。
下図に示したように解釈すると、「卑弥呼時代と現在の浜名湖の地宜」は「花の形」に類似する。
下図に右下の「浜名湖の支湖の、引佐細江(いなさほそえ)」は「花の萼拊(がくふ)、つまり花の台(うてな)」に相当する。
上記したように、「花の台」は【不】の字源である。
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前述したように、上図の「浜名湖の形」を、卑弥呼は「虞美人草・ヒナゲシの花の形に相似する」と見立てた。
上記したように、『説文解字』は「不呼国」の【呼】の字源を「息を外()くなり」と解説する。
下に、【不】の字源「花の台」となる「浜名湖の支湖の、引佐細江(いなさほそえ)」とその周辺の地宜を示した。
下の右側の「大崎半島の付け根から都田川(みやこだがわ)の河口まで」が「人の横顔」に相似するゆえ、「引佐細江」は「人が息を外く口(くち)」のごとくに観える。
ゆえに、【不】の「花の台」となる「引佐細江」は【呼】の字源をも示すことになった。
なお、「都田川の水は土砂を運んで引佐細江に吐()(息を外く)」ゆえ、「都田川の河口と引佐細江」もまた【呼】の字源をあらわした。
下の左側の「村櫛半島(むらくしはんとう)の地宜」は「人の長い横顔」に相似するゆえ、「舘山寺(かんざんじ)東方の内浦(うちうら)」も「息を外くなり」の【呼】の字源をあらわす。
「内浦の北となりの地宜」は「鳥の頭と翼の形」に相似する。ゆえに、【不】の「鳥飛んで上翔(じょうしょう)する。下(くだ)り来()らざるなり」という否定・打消しの「ず」をあらわすことになった。
下図の「浜名湖と支湖・引佐細江(いなさほそえ)」が示す【不】と【呼】の地宜にもとづいて、
卑弥呼は「遠江」を「不呼国」という小国名に定めた。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて詳細に解説して証明したように、
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話の末部は
「九州の宗像(むなかた)地方の男王の天菩比命(あめのほひのみこと)には七人の副官・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が従っていた」と説明する。
「宗像王の天菩比命」は、『魏志倭人伝』に登場する「外相(外務大臣)の難升米(なしめ)」であった。
「不弥(ふみ)国・宗像地方の王・難升米(天菩比命)は「精密な中国海岸線地図を知っている、精密な地図を作製する長官」であった。
『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命の誓約説話」の末部は
「難升米(天菩比命)に従う七人目の副官」は「遠江国造(とおとうみのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらどりのみこと)であった」と記す。

遠江の豪族の建比良鳥命とその一族は「遠江」の小国名は「不呼国(ふここく)」であったことを明確に示す「1千万坪の大鳥の地上絵(地図)」を作製した。
この「1千万坪の大鳥の地上絵(地図)」は、『三国志』魏書東夷伝末部の通称『魏志倭人伝』の成立時代(280年~289)と同時代の260年頃から着手され、約30年後の290年頃に完成した。
『魏志倭人伝』に記述された最終年は「250年頃」と推定されるゆえ、「遠江の1千万坪の大鳥の地上絵の作製」は、『魏志倭人伝』が成立した直後の10年後には早くも着手されていたことになる。

現在まで、卑弥呼の地上絵内(細江町内)の7ヵ所の遺跡から9口の銅鐸(どうたく)が出土している。
この銅鐸を天頂緯度の測定と三角土地測量使用して、ちょうど1千万坪にする卑弥呼の地上絵が作製されたと考えられる。
卑弥呼の地上絵内から出土した9口の近畿式・三遠式(さんえんしき)銅鐸の製作・使用年代は、260年~290年頃と推定されている。
ゆえに、前述したように、卑弥呼の地上絵は260年頃~290年頃に作製されたことになる。

「長官の難升米が居住する不弥国・宗像地方」と「副官の建比良鳥が居住した不呼国・遠江」の【不】の字源は共に「鳥の【弥】・カンムリカイツブリが飛んで上翔し、下り来らざるなり(地上に下りて来ない)」という否定・打消しの「ず」である。
下に、遠江の建比良鳥命とその一族が作製した、
現在の静岡県西部の遠江の一画の浜松市浜名区細江(ほそえ)町の行政区画を表示する地図を配した。
細江町の面積はちょうど1千万坪(33.9km)である。
かつては、1989(平成元年)頃の細江町は「静岡県引佐郡細江町」であり、つぎに細江町は「静岡県浜松市北区細江町」と変わり、現在は「静岡県浜松市浜名区細江町」である。
現在の地図帳には下の地図は消滅しているかもしれないが、
細江町が「引佐郡細江町」あるいは「浜松市北区細江町」であった、つい最近までは、下に示した「1千万坪の細江町の地図」は地図帳に存在していた。
わたくしは、下の「1千万坪の細江町の地図」を「卑弥呼の地上絵」あるいは「建比良鳥の地上絵」と呼ぶことにした。
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◆下図における中央の「卑弥呼の地上絵における、都田川(みやこだがわ)流域の沖積平野(ちゅうせきへいや)の地宜」は「子宮で育つ胎児の姿」に相似する。
ゆえに、「都田川流域の沖積平野は、胎児が育つ子宮や胎児が成長して通過する産道にも相似する」。
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上図の「都田川流域の沖積平野」は「「浜名湖の支湖の、引佐細江に上流からの土砂と水を外()く」。
だから、前ページに示した()「【不呼】となる引佐細江周辺の地宜」と、
(
)「都田川流域の沖積平野の地宜」にもとづいて、
卑弥呼は「現在の静岡県西部の、旧国の遠江」の小国名を「不呼国」と決めたことになる。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」において、
(
)「都田川流域の沖積平野の地宜」については解説しなかった。
というのも、
(
)「【不呼】となる引佐細江周辺の地宜」のあとに、()「都田川流域の沖積平野の地宜」について続いて解説すると、
卑弥呼が「遠江の小国名」を「不呼国」と定めたことが明確となって、
建比良鳥命とその一族が「不呼国」という小国名を明確に示した「1千万坪の卑弥呼の地上絵の作製」について説明する必要が無くなると考えたからである。
「不弥国の難升米(天菩比命)」と「不呼国の建比良鳥命」との「精密な中国海岸線地図を知っている、精密な地図を作製する役職の長官と副官の関係」が明確になるように説明するために、
(
)「【不呼】となる引佐細江周辺の地宜」に続いて、()「都田川流域の沖積平野の地宜」について解説しなかったのである。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・16」にて解説したように、「不呼国」の【呼】の字源は「鳰(にお・カイツブリ)」であった。

この世に生まれた人は1時間も水中に潜(もぐ)ったままだと窒息(ちっそく)して確実に死ぬ。
女性の生殖器官と出産を研究した黄帝は、長い月日、羊水の中で生活する胎児がなぜ窒息(ちっそく)して死なないのか? この秘密が解明できなかった。
それゆえ、倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(カイツブリ)」で、「水中(羊水)生活者の胎児」に喩(たと)えることを思いついた。
(にお)の全長は25㎝~29㎝である。
12週~第20週の胎児の体長は20㎝~30㎝くらいである。
鳰は湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜り、陸上で生活することはほとんどない。
鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さい体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。
だから、倉頡(そうきつ)は「鳰」で「長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外()きつづけて羊水を吸いこまずに窒息死しない胎児」に喩(たと)えることにした。

倉頡は【乎()】の字を作って()「羊水の中に潜って息を外()きつづける小さな胎児」と、()「鳰(にお)」の両者をあらわすことにした。
しかし、後世、【乎】は字源を失って「よぶ」と意味する文字としてもっぱら用いられるようになった。
このため、偏【口】に【乎】を加える【呼】の字が「長いあいだ羊水の中に潜っても、窒息死しない小さな胎児」と「鳰」をあらわすことになった。

下に、前ページにて取り上げた「【不呼】をあらわした上東・下西にした杭州湾の地宜」を、
「上南・下北に改めた杭州湾の地宜」を配した。
下図が示すように、「杭州湾の地宜」は「鳰の姿」に相似して、【呼】の字源をあらわす。
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下図における「卑弥呼の地上絵の〔翼〕と記した境界線」は【不】の字源「鳥・(【弥】のカンムリカイツブリ)が飛んで上翔(じょうしょう)し、下り来らざるなり」と否定・打消しの「ず」の形状をあらわす。
また、下図における左下の「引佐町(浜名区)の金指(かなさし)地区と井伊谷(いいのや)地区の地宜」は【呼】の字源「鳰の横顔と浮巣(うきす)の形」に設計されている。
だから、「1千万坪の卑弥呼の地上絵」は【不】と【呼】の字源を明確に示すゆえ、「遠江は不呼国であった」と確信できる。
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下に示したように、卑弥呼の地上絵の北に隣接する「浜松市浜名区引佐町の金指地区と井伊谷地区の地宜」は【呼】の字源「鳰の横顔と浮巣の形」となる。
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◆下に、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点のA地点と、滝峯不動尊(たきみねふどうそん)と八幡宮の3地点を結ぶ大三角形」を表示した。
この「大三角形」の基(もと)に三角形の網や鎖(くさり)を形作って、その頂に三角点を埋設し、1千万坪の卑弥呼の地上絵が作製された。
当時は現在のように、短期間で精密に地宜を作成できる光波測距儀(こうはそくきょぎ)による三角測量が行うことができなかった。
ゆえに、地図作製係の副官・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)とその一族は260年頃から着手して、およそ30年もの長い年月を費やして290年頃に、卑弥呼の地上絵を完成させたことになる。
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上図の「大三角形を表示する卑弥呼の地上絵」は、
紀元前2050年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき)に男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、中国にて200年~250年間、
「虞()」の重職に従事していた益氏の王子一行がもたらした「精密な中国海岸線地図と、精密な地図作製方法」をあらわしている。
前ページで説明したように、また下図に示すように、「その額(ひたい)に北天の最輝部がある、人の横顔に酷似する銀河」を
「はくちょう座のε・γ・δ・βの4つの星が三角形状に包囲する」。
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上図における北天の最輝部を三角形状に包囲する4つの星のうちの「はくちょう座のγ星」をのぞく、
「はくちょう座のε・δ・βの3つの星は三角形を形成する」。
この「三角形」を注目して、黄帝王朝は「精密な地図作製方法」を考案したと考えられる。
前述したように、「三角形に包囲される、北天の最輝部」は【不」と【弥】の字源となった。
上図の「卑弥呼の地上絵における大鳥の頭部(横顔)」は「不弥国(ふみこく)の津屋崎町の海岸線の形」に設計されている。
だから、上図の「卑弥呼の地上絵における大三角形」は益氏(えきし)がもたらした「精密な中国海岸線地図と、精密な地図作製方法」をあらわしていることになる。

◆下に、「夏の銀河における〔鳥〕の形の解説図」を配した。
「鬼の姿に似る銀河」は「生子(せいし・出産児)」に見立てられ、「北アメリカ星雲」は「象の横顔と鼻の形」に相似すると見立てられた。
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下に、「北アメリカ星雲」を「象の横顔と鼻の形に相似する」と見立てて成立した【為】の字源解説図を示した。
下図の右下の【為】の契文形(けいぶんけい・甲骨文字の字形)は「象の顔・鼻・胴体」を図案する。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・18」における「投馬国(とうまこく)」の解説では、「北アメリカ星雲」は「ジャコウウシの横顔」に見立てられた。
「象」と「ジャコウウシ」のどちらも「強大な力の持ち主」で共通する。
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下図に示したように、「卑弥呼の地上絵」は「大鳥・生子(出産児)・象の横顔と鼻の三要素」から構成されている。
下図に示したように、卑弥呼の地上絵は「象が引佐細江から吸い込んだ水をはきだす強大な力」で「【弥】のカンムリカイツブリの頭が〔南〕から〔東〕へ移動する(転回する)仕掛け」になっている。
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下に示したように、〔南(西南)〕にある【弥】の「カンムリカイツブリ」の頭を〔東〕へ移動する卑弥呼の地上絵」は、下の左図が示すように「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図」をあらわす。
ゆえに、下図が明確に示しているように、卑弥呼の地上絵を作成した遠江の豪族の建比良鳥命は、精密な中国海岸線地図を知っている不弥国・宗像地方の王の難升米(なしめ・天菩比命)に従う、
七人の副官・建比良鳥命のうちの一人であったことになる。
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なぜ、上図に示した【弥】の「〔南(西南)〕あるカンムリカイツブリの頭を〔東〕へ移動する仕掛け」が必要となったかと言えば――
「卑弥呼の地上絵」は国家と王朝が独占管理して最も厳重な機密とした【倉頡の文字作成理論】を表示するものであったからである。
多くの人々が「卑弥呼の地上絵」は最も重大な王朝お国家機密の【倉頡の文字作成理論を暴露(ばくろ)する大罪(たいざい)】を犯(おか)していることが容易に気づくような形に設計すると、たちまち噂(うわさ)になって大騒ぎになって時の天照大御神・大和王朝に報告されて、
建比良鳥命とその家族および一族全員、即刻(そっこく)死刑となる。
当時、強大な権力と武力を誇示(こじ)して人民を弾圧(だんあつ)する天照大御神・大和王朝が反逆分子たちを敵視・抹殺(まっさつ)して国家統一を目指していた。

この天照大御神・大和王朝の強行政策を憎悪した遠江の建比良鳥命と一族は、
子々孫々・後世まで大和王朝の人民を弾圧した横暴な歴史を語り受け継ぐために卑弥呼の地上絵の作成を決意した。
そして、卑弥呼の地上絵の作成途中の280年~290年ころになると――
人民を愛(いつく)しむ政治をおこなっていた邪馬壱国・出雲王権の大国主命(おおくにぬしのみこと)を敵視して、
天照大御神・大和王朝は武力で出雲王権を討伐し滅亡しようとしていた。
このように、当時は、反逆する勢力を武力で徹底的に滅亡させる天照大御神・大和王朝が天下を治めていたため、
卑弥呼の地上絵は一目(ひとめ)で【倉頡の文字作成理論】をあらわす地図であると察知できないように――工夫(くふう)を加えて得体(えたい)の知れない形にする必要があったのである。

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2024年8月 6日 (火)

漢字の起源と発明を解明す・23

花咲く【愛】の伊邪国(いやこく)と都支国(たきこく)の秘密の解明

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
この事実を詳細に説明していたのが、卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話」と断定する。
しかし、この定説は臆説(おくせつ)であった。
というのも、『魏志倭人伝』は多数の記事をもって【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明しているからである。

倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は前回(22)までに、
『魏志倭人伝』に記される対馬国(つしまくに)から巳百支国(じはきくに)までの10ヵ国の位置や範囲を
【倉頡(そうきつ)が発明した文字作成理論】にもとづいて解明した。

この解明によって、邪馬台国説学者たちはじめ学者たちの「『魏志倭人伝』には誤った記事が幾つか存在するゆえ、軽々しく全記事を正しいと信用してはならない」という主張は誤っていたことが証明された。
学者たちは「『魏志倭人伝』には幾つかの誤った記事がある」と指摘するが、
その「誤っている」というすべての記事は、倉頡が作った【禾()】の字源をそのまま受け継いだ【倭()】の字源に則(のっと)って説明されているので――結局(けっきょく)、『魏志倭人伝』のすべての記事は正しかったとことになる。
だから、学者たちの「『魏志倭人伝』には幾つかの記事に誤りがある」という主張は言いがかりであり憶測(おくそく)であったことになる。

『魏志倭人伝』に登場する対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30ヵ国を
卑弥呼は〔10ヵ国ずつ、3つのグループ〕に組織的に分類して【倉頡の文字作成理論】にもとづいて各国の名称を定めている。
ゆえに、わたくしは〔最初の対馬国から巳百支国(じはきこく)までの10ヵ国のグループ〕を、
(
)「瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ」と名づけることにした。

というのも、『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名は瀚海であった」と記述しているからである。
この「瀚海」を注目すると【倉頡の文字作成理論における基本知識】が得られるゆえ、グループ名に「瀚海」を取り入れることにした。
また、「瀚海」に注目すると、倭人国のすべての小国名は【倉頡の文字作成理論】をもって統一化され組織されていることが解明できる。
ゆえに、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を説明する文献であったことが証明される。
そして、末盧国(まつろこく)から巳百支国(じはきこく)までの方位は、すべて【倭()】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って説明されている。
ゆえに、()の最初のグループ名を「瀚海(かんかい)と【倭】の字源グループ」と定めた。

『魏志倭人伝』は「【倭】の字源に則って、日本列島の東は南へ延びる」と説明する。
ゆえに、九州の末盧国から狗奴国までの28ヵ国の方位は、
【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って決められている。
ゆえに、2番目の()「伊邪国(いやこく)から華奴蘇奴国(かなさなこく)までの10ヵ国グループ名」は、
「【倭】の字源における女性グループ」と呼ぶことにした。

そして、3番目の()「鬼国(きこく)から狗奴国(くなこく)までの10ヵ国グループ名」は、
「【倭】の字源における男性グループ」と定めた。

◆倉頡(そうきつ)はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
この掟(おきて)のためであろうか――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これから行う【卑弥呼が30ヵ国の小国を10ヵ国ずつ3グループに分けた組織の秘密】を煩雑(はんざつ)にならずに容易に理解できるように解説するためには、【夏の銀河各部の名称】がどうしても必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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◆上図の左上に「十字の銀河」がある。
この「十字の銀河」が【禾()】、【委()】、【年(ねん)】、【倭()】の字源となった。

わが国における古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
【禾】の字について「いねの象形。いねの字は禾穂(かすい)が垂れた形」と解説する。
また、同書は【委】の字について「穀霊(こくれい)に象(かたど)る禾形の作りものを被(かぶ)って舞う女の姿をいう」と解説する。
また、同書は【倭】の字について「委は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形。(中略)。委はもと田楽(でんがく)の状(じょう)をいう字で、男が稲魂を被って舞うのは年となる」と解説する。

要するに、白川静著『字統』は【禾】は「いねの穂が垂れた形」、
【委】は「穀霊に象(かたど)る禾(いね)の形の作りものを被(かぶ)って舞う女の姿」、
【年】は「穀霊に象る禾(いね)の形の作りものを被って舞う男性の姿」、
【倭】は「穀霊に象る禾(いね)の形のかぶりものを被って女性と男性の姿をあらわす」と解説していることになる。

下図は上記した白川静著『字統』の【禾】・【委】・【年】・【倭】の字源となった「十字の銀河」の解説図である。
下図に示したように、「十字の銀河の頭部より北側の銀河の形状」が「穀霊(稲魂)の形のかぶりもの(作りもの)」となる。
「十字の銀河の西半分」には「乳房・妊婦のおなか・子宮」があるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う女性」をあらわす。
「十字の銀河の東半分」は「左手に狩猟に用いる弓を持つ男性の姿」と解することができるゆえ、「十字の銀河」は「穀霊のかぶりものを被って舞う男性」をあらわす。
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だから、上図にもとづいて、上記したように、卑弥呼は伊邪国(いやこく)から狗奴国(くなこく)までの計20か国を10ヵ国ずつ二つのグループに分けている。
ゆえに、わたくしは()「【倭】の字源における女性グループ」と、()「【倭】の字源における男性グループ」に分けることにした。

◆前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・22」にて、詳細に説明して証明したように、
下図の対馬国から9番目国の「斯馬国(しまこく)」は「現在の鳥取県東部と兵庫県北部であり、旧国の因幡(いなば)と但馬(たじま)」であった。


対馬国から10番目国の「巳百支国(じはきこく)」は「現在の京都府北部であり、旧国の丹後(たんご)」であった。
対馬国から11番目国の、()「【倭】の字源における女性グループ」のトップ「伊邪国(いやこく)」は、
「現在の京都府中部と兵庫県一部であり、旧国の丹波(たんば)」であった。
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下に現在方位にもとづく「伊邪国・丹波の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を示した。
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下に「女性の骨盤図(こつばんず)の正面形」を配した。
上図における「伊邪国の北の境界線における東西の形」は、下図の「女性の骨盤(こつばん)における、腸骨翼(ちょうこつよく)に相当する」と見立てられた。
上図の「伊邪国の南の境界線における東西の形」は、下図の「女性の骨盤の、座骨(ざこつ)」に相当する」と見立てられた。
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だから、下の上下図にて示したごとく、「伊邪国の地宜は女性の骨盤の正面形に似ている」と見立てられた。
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前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・22」にて、対馬国から10番目国の「巳百支国」の【百】は「女性の骨盤をあらわす」と詳細に解説した。
というのも、「天敵のオオカミに襲われると、子どもを中心に隠して、【百頭以上】のジャコウウシの群れが円陣を作って、子どもの命をまもる防御方法」が「女性の骨盤」に相似すると見立てられたからである。
このため、「ジャコウウシ」は「女性の骨盤」に見立てられる聖獣(せいじゅう)とされた。

このように、『魏志倭人伝』の各小国名はとなりの小国名と関連しあう、あるいはとなりの小国名に用いる字義が解明できるヒントを与える役割を有している。
したがって、10番目の巳百支国の【百】が「女性の骨盤」に見立てられたゆえ、
この「巳百支国」の【百】がヒントになって、
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番目国の「伊邪国の地宜」も「女性の骨盤」に見立てられたことになる。

女性の骨盤は妊娠時の子宮を支(ささ)えるために左右に広がっている。
そして、女性の子宮に宿る胎児(たいじ)の命は堅(かた)い骨盤に包囲されてまもられている。
下に、骨盤でまもられる女性の生殖器官の正面形を図示した。
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◆「伊邪国」の【伊】の字は「伊都国(いとこく)」の【伊】である。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・14」にて詳細に解説したように、
【伊】の字は「アゴを胸につける屈位(くつい)の出産児の姿」をあらわす。
つまり、下の「伊都国の地宜」が示すように、「糸島半島(いとしまはんとう)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は、ジャコウウシがアゴを胸につける屈位の【伊】の姿勢をあらわす」と見立てられて、
【伊】に【都】(卑弥呼と共立する男王の一大率が住む都)が加えられて小国名が「伊都国」となった。
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「出産児」は常に【伊】の「屈位の姿勢」を保っておらず、その姿勢は変わるが――
下に示すように、「女性の子宮にて育つ胎児」は「ほぼ常に、【伊】のアゴを胸につける屈位の姿勢となって過ごす」。
ゆえに、「伊邪国」の【伊】は「屈位の姿勢となる胎児や出産児」を意味したことになる。

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下に図示したように、「伊邪国」の【邪】は「邪馬壱国(やまいこく)の【邪馬】の地宜」をあらわした。
「邪馬壱国の【邪馬】の形状」は、「親のフタコブラクダが舌で出産直後に両足で立つわが子の背中をなめて愛(いと)しむ様子」に観える。
だから、「伊邪国」の「伊邪」は「母親が妊娠時(にんしんじ)から出産後、そしてその後も常に子にそそぐ深い愛情」を表現するものであったにちがいない。
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「伊都国」の【伊】の字源となった「ジャコウウシのメスもオスも子の命をよくまもる」。
ゆえに、「ジャコウウシは愛情深い動物」と解釈された。
「邪馬壱国」の【邪馬】の【馬】・フタコブラクダもまた子に深い愛情をそそいだ。
子が死産したフタコブラクダの母親は、母親が死んで生まれた子には死産したわが子を愛(いと)しく思って乳を与えないという。
このように、フタコブラクダもジャコウウシと同様に子に深い愛をそそぐ聖獣とされた。
だから、【伊邪】という小国名は「親の深い愛(愛情)」を意味したことになる。
(B)
「【倭】の字源における、10ヵ国すべての女性グループ」はどの小国名も「親の深い愛」をあらわしていると考えられるゆえ、
このグループのトップの「伊邪国」という小国名は、当然、「親の深い愛」をあらわしていると考えられる。

いままで説明してきたように、「伊都国」の【伊】に「邪馬壱国」の【邪】を加えると、「伊邪(いや)」という小国名となる。
だから、簡単明瞭にいうと「伊邪国」という名称は「伊都国の【牛】の字源・ジャコウウシの親の深い愛と、邪馬壱国の【馬】の字源・フタコブラクダの親の深い愛」をあらわしている。

白川静著『字統』は、【愛】の字について「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿を写したものであろう」と解説する。
下図は、「【愛】の字源銀河解説図」である。
「十字の銀河」を「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人」に見立てると、「鬼の姿に似る銀河」が「立ち去ろうとする人が後ろに心を残す、這()って母親を追う乳飲み子」と解釈できる。
ゆえに、【愛】の字源は「常に子の様子に気くばりして、心やすまらない母親の深い愛情」であったことになる。
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◆「伊邪国・丹波」は「霧(きり)の丹波」と呼ばれて「霧」で有名である。
『説文解字』は【霧】の字を「地气(ちき)發して、天應(てんおう)ぜざるを霚(きり)といふ」と解説する。
白川静著『字統』は【伊】の字を「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意を媒介(ばいかい)する聖職者の人をいう」と解説する。

下図は、「白川静著『字統』【伊】と『説文解字』の【霧】の字源銀河の解説図」である。
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上図における「十字の銀河」が、白川静著『字統』の【伊】の字源解説における「【尹(いん)】の神聖な杖、つまり神杖(しんじょう)」である。
上図の「鬼の姿に似る銀河」が、白川静著『字統』の【伊】の字源解説における「聖職者」ということになる。
上図の「鬼の姿に似る銀河」が「气()を発する地」となり、
「十字の銀河の子宮と鬼の横顔に似る銀河の口との中間の、3本の線の帯状の銀河」が「天應ぜざる(天まで届かずに地に近い空中にただよう)地气の霧吹き、つまり霧」ということになる。
上図の「霧吹き、つまり霧の銀河の帯」は「十字の銀河の子宮に対して邪(なな)め」であるから、【邪】の字をあらわした。
だから、「伊邪国」は「霧の丹波」であったことになる。

『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約説話」は
「天照大御神と須佐之男命が天(あめ)の真名井(まない)の聖なる水を口にふくんで、息を吐きだして生じた霧吹き」を「気吹(きぶき)の狭霧(さぎり)」と表記する。
上図の下部に「谷川の【天の真名井(あめのまない)】の水」と記した銀河が「天照大御神と須佐之男命が口にふくんで霧吹きをして誓い合った、狭い谷川の清く澄んだ水」であった。
『古事記』上巻は「天照大御神と須佐之男命が口にふくんで吐きだした霧吹き」を「気吹きの狭霧」、つまり「口にふくんで谷川の水を吐きだした霧吹き」は要するに「霧」であったと表現するゆえ、
上図は「伊邪国が霧の丹波であった」と証明する解説図となる。

白川静著『字統』は【伊】の字について「尹(いん)は神杖(しんじょう)をもつ形で、神意を媒介(ばいかい)する聖職者の人をいう」と解説する。
ところが、「伊都国の地宜」が示すように、『魏志倭人伝』の【伊】の夏音文字の字源は「アゴを胸につけるジャコウウシの姿」であって、白川静著『字統』の【伊】の字源解説と差錯(ささく・相違)する。
だから、白川静著『字統』の【伊】の字の解説は字源・原義を失った中国古代漢字の解釈であったことになる。


以上のごとく、「伊邪国」は「丹波」であり、
「伊都国と邪馬壱国の二都」をあらわして「伊邪」となり、
そして「伊邪国」という名は「骨盤でまもられる子宮と胎児」から【愛】が連想されて「親の子にそそぐ深い愛情」をあらわしていたことになる。

◆1番目の「対馬国」から数えて11番目の「伊邪国」の次の12番目は「都支国(たきこく)」である。
前述したように、「伊邪国」は「伊都国(いとこく)と邪馬壱国(やまいこく)」をあらわした。
ゆえに、「都支国」もまた「男王の一大率が治める都と女王・卑弥呼が治める都の二都に支(わか)れる、倭人国における中間地域」と意味する小国であったことになる。

「伊邪国」の東方(現在方位)には20番目の「華奴蘇奴国(かなさなこく)」、19番目の「為吾国(いがこく)」、24番目の「邪馬国(やまこく)」の3小国が隣接する。
このように、「伊邪国」と「都支国」は少し離れている。
「都支国」の東側(現在方位)には21番目の「鬼国(きこく)」が隣接する。
「鬼国」は()「【倭】の字源における男性グループ」におけるトップの小国である。

下図は「現在方位の東を上・西を下にした、鬼国(きこく)と都支国(たきこく)の地宜解説図」である。
昭和の時代、下図の左上に配したように「伊都国・糸島半島の西方」は、「福岡県糸島郡の志摩町(しままち)」であった。
「伊都国における志摩町西部の湾」は「ジャコウウシの食料を食べる口の形」をしている。
「鬼国」は「伊都国の志摩町」と同名の「旧国の志摩」であり、「現在の三重県南部」である。
「鬼国・志摩の英虞湾(あごわん)」もまた「伊都国における志摩町」と同様に「食料を食べる口の形」となる
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したがって、「鬼国・旧国の英虞湾」は「餌(えさ)を食べる鷹(たか)の雛(ひな)口や嘴(くちばし)の形」と見立てられたことになる。
ゆえに、上図の「鬼国の地宜」は「同じ巣に育つ鷹の病弱の雛(ひな)を、餌が不足して飢()えたときに、餌として食べる大きく強く育つ雛の横顔」に見立てられたことになる。
この「同じ巣で育つ鷹の雛が病弱な兄弟の雛を餌とする弱肉強食の習性」は残忍(ざんにん)・獰猛(どうもう)ということで、
「自然が示す残酷(ざんこく)な厳(きび)しさ」を示すものとなり、「鬼、鬼神(きじん)」はおそれ敬(うや)われてそして尊ばれることになった。
だから、「鷹」は「鬼」の字源となった。
以上からして、「旧国の志摩」は21番目の「鬼国」であった。

「都支国」は「現在の三重県北部の旧国の伊勢と、和歌山県南東部・三重県南部の熊野地方」であった。
下図に示すように、「都支国北部の三重県北部の伊勢」は、13番目の()「【倭】の字源における女性グループ」の小国「弥奴国(みなこく)」に隣接する。
ゆえに、「伊勢」は「女王国・邪馬壱国(やまいこく)」をあらわし、また「子に深い愛をそそぐ女性」に見立てられた。
そして、「都支国(たきこく)南部の紀伊東部・熊野」は()「【倭】の字源における男性グループ」の「男王の伊都国」をあらわし、また「子や妻を愛する男性」に見立てられた。
以上からして、上記したように「男王の一大率(いちだいそつ)が治める伊都国と女王・卑弥呼が治める邪馬壱国に支(わか)れて組織される、倭人国における中間地域」ということで、卑弥呼は「旧国の伊勢と熊野(紀伊東部)」を「都支国(たきこく)」と名づけた。
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◆しかし、卑弥呼は単純に「男王の一大率が治める伊都国と女王・卑弥呼は治める邪馬壱国に支(わか)れて組織される、倭人国における中間地域」ということだけで――「都支国」という小国名を定めたとは考えられない。
「同じ巣で育つ鷹の雛が病弱な兄弟の雛を餌とする弱肉強食」をあらわす「鬼国」を「都支国」に隣接するようにしたのは、
「都支」という小国名には「女性の深い愛情を強調する意図」が秘められていたと考えられる。

『魏志倭人伝』には「其の俗、国の大人は皆四、五婦、下戸(げこ)も或いは二、三婦。婦人は淫(いん)せず妒忌(とき)せず」という記事がある。
上の記事は「倭人国では身分の高い男性たちは皆四人または五人の女性を妻とし、身分の低い男性でも二人または三人の女性を妻としている。妻たちは淫(みだ)らでなく、嫉妬(しっと)しない」と意味する。

医学の未発達の状況においては、女の子のほうが本来(ほんらい)丈夫(じょうぶ)であるゆえ出生率が高く、男の子はひ弱く出生率が低くて死産する割合が高いとされる。
また、大きく育っても男性は家族を養う食料を確保するために遠くの山野にかけめぐり、また様々な役目で遠くの地に旅するものであったゆえ、
旅の途中で迷って命を失い、あるいは事故に遭遇(そうぐう)して死亡するため――女性の数が圧倒的に男性よりも多くなったと考えられる。
この結果、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)において、身分の高い男性は四、五人の婦人と結婚し、身分の低い男性でも二、三人の婦人と結婚するということにになった。
婦人たちは淫(みだ)らにならずに夫婦生活を維持(いじ)し、嫉妬(しっと)もしなかったのは――淫らな女性は直(ただ)ちに離縁され、嫉妬する婦人は夫に嫌われてしまうために嫉妬することができなかったにちがいない。
だから、女性たちは不誠実な男性でも夫として愛せねばならなかった。

卑弥呼は、上記した女性たちの環境を思いやり、深い愛で男性たちの不誠実を許して愛せよと願っていたと考えられる。
卑弥呼は戦乱を悪(にく)み、平和を強く願っていた。
ゆえに、男たちが「鬼国」が示す「弱肉強食」のような非情で残酷な戦争に出かけないように、男性たちが家族を愛して食料の確保に努力するように願って、
卑弥呼は「男性グループの国々と女性グループの国々が相和(あいわ)す、中間地域」という意味を秘める「都支国」という小国名を思いついたと考えられる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・19」にて指摘したように――
『魏志倭人伝』には「男弟有りて佐(たす)けて国を治(おさ)む。(中略)。唯々(ただ)男子一人有りて飲食を給(きゅう)し、辞()を伝えて出入りす」という記事がある。
カワセミは求愛あるいは給餌(きゅうじ)行為において、メスがオスの魚を受け取って結婚、交尾、そして産卵して抱卵(ほうらん)する。メスとオスが交替して(30分間隔)で雛(ひな)を育てる。 

卑弥呼は、再度、倭国が大乱しないように願って――
カワセミの生態に注目して、男子に飲食を給(きゅう)じさせていたと考えられる。
卑弥呼は国中の男王はじめ男たちが再(ふたた)び戦争せずに――日々、農作業に勤(いそ)しんで豊かな食料を女性や子どもたちに与えるように願って――カワセミのメスのごとくに、男子に飲食を給じさせていた。

このようなカワセミの生態からしても、また、このブログの初頭部にて
白川静著『字統』が【倭】の字について「委は稲魂(いなだま)を被(かぶ)って舞う女の形。(中略)。委はもと田楽(でんがく)の状(じょう)をいう字で、男が稲魂を被って舞うのは年となる」と解説するとおり、
「都支国」という小国名には「男たちが戦場に向かわないように、日々、農作業に勤(いそ)しんで収穫時には稲魂のかぶりものを被(かぶ)って舞い踊って、食料を女性や子どもや老人たちに与えるように」という願いが秘められていたにちがいない。

『魏志倭人伝』には、下記の記事もある。
「婢()千人を以て自ら侍(はべら)せしむ。(中略)。居処(きょしょ)は宮室・楼観(ろうかん)・城柵(じょうさく)を厳(おごそ)かに設け、常に人有りて兵を持して守衛す。」
上の記事が伝えるように――卑弥呼は婢すなわち13歳くらいの乙女たちを千人も侍(はべ)らせていた。

「瞳がもっとも澄んで暗い銀河部までも見える特別な眼力を有する13歳の乙女」は【婢()】と呼ばれた。
ゆえ、【婢】は「強大な呪力(じゅりょく)を有する」と人々に信じられていた。
白川静著『字統』は【媚()】の字について、下記のごとく解説する。
「媚はその眉飾(びしょく)を施(ほどこ)したもので、巫女(ふじょ)をいう。(中略)。字の初義は媚蠱(びこ)と呼ばれる呪術(じゅじゅつ)を行う巫女をいう。漢代に巫蠱媚道(ふこびどう)とよばれる呪詛(じゅそ)の法があって、宮中の暗闘(あんとう)にしばしば用いられた。(中略)。敵の呪術者を殺すことによって、敵の呪的な能力を奪うことができたので、蔑(べつ)には『蔑(なみ)し』『蔑(ないがしろ)にす』の意がある。媚とは美しき魔女、媚態(びたい)・媚辞(びじ)はすべて魔女的な行為である。」

倭国の大乱において、【婢】は上記した「美しき魔女の媚蠱(びこ)」であった。
つまり、「卑弥呼に侍(はべ)っていた千人の婢たち」は――倭国の大乱においては、「美しく化粧する巫女(みこ)たち」であった。
彼女たちは、敵軍を罵(ののし)り呪(のろ)い侮蔑(ぶべつ)する媚辞(びじ)をつくって敵の魔女()を呪い殺し、あるいは敵軍の呪的戦力を奪い、自軍の兵たちを鼓舞(こぶ)して士気を奮(ふる)い立たせていた。
ゆえに、卑弥呼は再び戦乱がおきたとき、婢()たちが戦場におもむくことができないように卑弥呼が居住する城に集めていた。

澄んだ瞳を有して暗い銀河部までよく見える特別な眼力を有する13歳くらいの乙女たちを、人々は特別に強大な呪力(じゅりょく)を有すると信じられていた。
ゆえに、戦争を悪(にく)み平和を願う卑弥呼は、美しき魔女の千人の婢()たちが戦場におもむくことができないように居城(きょじょう)に集めて、再び戦争が起きないように対策していたのである。
(魔女)がいない軍の兵士たちの闘争心はいちじるしく減退(げんたい)する。
ゆえに、戦争をおこさんとする男王たちは敵の呪的戦力(じゅてきせんりょく)を奪(うば)う魔女()がいない状況では戦争をあきらめるにちがいない――と卑弥呼は考えて、呪力が優(すぐ)れるという評判の千人の魔女()たちを居城に集めていたのである。
以上のように、卑弥呼は戦争を悪(にく)み、強く平和を願っていた。

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2024年7月30日 (火)

漢字の起源と発明を解明す・22

「出産」をあらわす斯馬国と巳百支国の解説

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【文字(漢字)作成理論】を発明した。
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は作り話である」と断定する。
しかし、この定説は根本的にまちがっている。
というのも、卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によって「倉頡伝説は事実であった」と証明することができるからである。

倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見ることができる銀河」である。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆『魏志倭人伝』には――今から約4070年前(紀元前2050年頃)、夏代黎明期(かだいれいめいき)の帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住した――と示唆(しさ)する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(
)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)
(
)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)
(
)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音(かおん)文字、
(
)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究、
(
)倉頡の文字作成理論、
(
)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。

これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において人名・小国名・官職名・動物や事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。

◆学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と断定する。
この〔漢字習得の絶対的定説〕は考古学の見解にもとづく。
漢字が書かれている最も古い史料となる鉄剣や銅鏡が出土した年代は5世紀あるいは6世紀である。
ゆえに、考古学では埋蔵史料から、「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」と主張する。

しかし、この〔考古学にもとづく漢字習得の絶対的定説〕は誤っていた。
というのも、『魏志倭人伝』には下記のごとく記事が存在するからである。
「魏都・帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国の文書に用いられる文字(楷書)と、倭女王はじめ倭人国の王たちが文書に用いる文字(夏音文字)は字義が差錯(ささく・相違)していた。この魏都・帯方郡・諸韓国の楷書も、倭人国の夏音文字も共に【夏の銀河各部の形状】を字源・原義とするものであった。ゆえに、倭人国の伊都(いと)国の港では、外交に用いる文書や賜遺(しい)の物の品書きに用いる文字が差錯しないように【夏の銀河各部の形状】を観察して捜露(そうろ・一字一字ずつ点検し、確認して)、楷書と夏音文字の両者の間に差錯(相違)が生じないように正確に翻訳し変換していた。」

『魏志倭人伝』は2世紀末~3世紀半(なか)ばまでの倭人国の様子を記述する。
だから、5世紀より以前の、2世紀末~3世紀半ばにはすでに夏音文字が存在していた。
ゆえに、学界が断定する〔考古学にもとづく漢字習得の絶対的定説〕は誤っていたことになる。

わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)の9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目までが【わが国の漢字音】と題して、下記のごとく指摘する。
「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学(おんいんがく)がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」

下図の「漢字生長史」に示したように、現存する中国の最古の漢字音は「上古音」と呼ばれ、
この上古音における最古は紀元前11世紀(紀元前1046年頃)の周代初頭の漢字音である。
上記した白川静著『字統』が「わが国の国語といて残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する、中国に現存する「上古音」よりも古い、わが国に残った最古の漢字音は――
下図に示すように、中国の夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字であった。
わが国には紀元前21世紀(紀元前2050年頃)に、中国から夏音文字が伝来した。
したがって、紀元前11世紀の周代初頭の中国に現存する最古の上古音の漢字音よりも、紀元前21世紀の夏代黎明期にわが国に伝来して習得された夏音文字の字音は約1000年も古い。
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◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には「後稍(のちやや夏音を習う)という記事がある。
この記事は――702年に中国に派遣された第7回遣唐使が中国王朝に「壬申の乱(672)の後、稍々、夏音文字を復興することにした」と報告した――と説明するものであった。
この遣唐使の「後稍夏音を習う」という報告から10年後の712(和銅5)正月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の序(古事記上巻 并せて序)は――きわめて難解な文章で『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字の伝来史や夏音文字に保存された【倉頡の文字作成理論】について説明している。

『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて、楷書を音符・意符に用いて夏音文字が多数残っている。
また、上記した『魏志倭人伝』の「伊都国の記事」は「倭人国には夏音文字が存在した」と説明していた。
ゆえに、『魏志倭人伝』に登場する倭女王「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むは夏音文字の字音であった。
また、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の外相(がいしょう・外務大臣)の「難升米」を「ナシメ」、さらに帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)に倭人国と狗奴(くな)国の戦況を説明した武将の「載斯烏越」を「ソシアオ」、13歳で王となり後年に倭女王となった「壱与」を「イヨ」と読むと夏音文字の字音となる。
また、わたくしが示した「対馬国」から「邪馬壱国」までの8ヵ国の読み(字音)には「夏音」と呼べないものもあるかもしれないが、
でもこの8ヵ国の読みは中国の魏以前の中古音や魏の字音ではないことは確かであるゆえ、
きっと『魏志倭人伝』における33ヵ国の小国名には夏音で読むものが多数存在したにちがいない。
また、『魏志倭人伝』における倭人国の官職名も夏音で読むものが存在したにちがいない。

前回までの、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が解明したように、
夏音文字の【卑】は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」、【弥】は「カンムリカイツブリ」、【呼】は「鳰(にお・カイツブリ)」を意味した。
また、夏音文字では、【牛】は「ウシ」ではなく「ジャコウウシ」、【馬】は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」、【投】は「松の木」を意味した。
ゆえに、『古事記』上巻の随所に残っている多数の夏音文字が表示しているように、
夏音文字が伝来した中期縄文時代末~卑弥呼時代まで、「様々な物の名」は夏音文字で記されていたことになる。

◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手にいれる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す3つの掟(おきて)を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰がくだされて死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。この政策を裏切って文字の学芸の秘密を暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯(おか)したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする

これゆえ、倉頡が生存した紀元前3000年頃から約950年後の
紀元前2050年頃の中期縄文時代末、名門益(えき)氏の王子と若者たちが中国から大海を渡って、
日本列島の男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して、
【倉頡の文字作成理論】を教え広めたとき、
縄文人たちは上記した【3つの掟を破ると厳しく罰する倉頡の死霊は、男鹿半島・八郎潟が所在する東北地方全域にも棲()む、冷酷で恐ろしい神(つまり、地霊)】と認識したにちがいない。
〔注 「日本列島の東北地方にも倉頡の死霊が棲んでいる」と縄文人たちが考えた根拠・理由は、
このブログの後半にて解説して証明する。〕

上記した【倉頡が死刑と定めた()の掟】によって、【書いた夏音文字は消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】が発掘、発見されないことになった。
上記したように、【書かれた文字は消滅して後世に残らないことがなった】が、
しかし、【夏音文字は様々な物の名を記し用いられて残った】ゆえ
『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の随所に楷書で記されて多数残った。

以上のごとく、考古学の【文字を書いた史料が発見されないものは、文字とは言えない】と単純に断定した意見は偏見(へんけん)であり根本的に誤っていたことになる。

◆このブログ「漢字の起源と発明を解明す」は前回(21)までに、
『魏志倭人伝』の対馬国から邪馬壱国までの8ヵ国の位置と範囲を解明して証明した。
この結果、『魏志倭人伝』における全方位記事は正確であったことを証明し、
(
)邪馬台国説学者はじめ学者たちの「『魏志倭人伝』の記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用してはいけない」という指摘は空論であったことを証明した。

(
)また、邪馬台国説学者はじめ学者たちの「『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるので、中国の史料研究の観点から思考・立論しなければならない」という指摘も空論であったことを証明した。
「『魏志倭人伝』の史料」は「卑弥呼が魏との対等外交を求めて、魏の最高学問である【倉頡の文字作成理論】が倭人国にも保存されて残っている状況について夏音文字を用いて説明した文書を、伊都国の港で魏が用いる楷書に翻訳して作った文書」であった。
だから、「『魏志倭人伝』に用いられた史料は倭人国の伊都国の港で作られた文書」あった。
ゆえに、結局(けっきょく)、『魏志倭人伝』は「わが国にて保存されていた【倉頡の文字作成理論】と夏音文字について説明する史料」であったことになる。

さらに、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の19回と20回にて、
(
)「倭女王・卑弥呼が倭人国の首都とした王国の名」は『魏志倭人伝』が記したとおり「邪馬壹()国」であり、
江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)の晩年から今日までの約300年間、多数の学者たちが信じた「邪馬臺()国」ではないことを詳細に解説して証明した。
したがって、「邪馬臺()国説」は「この世に存在しなかった邪馬台国を存在した」空想した、空理空論であったことになる。

◆『魏志倭人伝』における倭人国の最初に登場する小国は対馬(つしま)国、8番目が倭人国の首都となる邪馬壱(やまい)国、9番目が斯馬(しま)国、10番目が巳百支(じはき)国、11番目が伊邪(いや)国である。

このブログでは、対馬国から9番目の「斯馬国」と、10番目の「巳百支国」の位置と範囲を解説し証明する。

下図に、斯馬国・巳百支国・伊邪国の三小国の地宜(範囲)をあらわした。
「斯馬国」は現在方位にもとづくと「邪馬壱国東部の鳥取県西部(旧国の伯耆)に隣接する、現在の鳥取県東部と兵庫県北部」である。
「斯馬国」を旧国でいうと「因幡(いなば)と但馬(たじま)」である。
「巳百支国」は「現在の京都府の北部」である。
「巳百支国」は旧国の「丹後(たんご)」である。
「伊邪国」は「現在の京都府中部と兵庫県の一部」である。旧国の「丹波(たんば)」である。
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下図に、【倭】の字源の「転回方位」にもとづく「斯馬国の地宜(範囲)」を示した。
旧国の因幡であった鳥取市にわが国最大の砂丘「鳥取砂丘」がある。
「鳥取砂丘」は「【馬】・フタコブラクダが生息する瀚海(かんかい・ゴビ沙漠)」が連想される。
ゆえに、「鳥取砂丘がある因幡」が「斯馬国」の「【馬】・フタコブラクダ」をあらわした。

2世紀前半に成立していた「字典の聖典」とたたえられた『説文解字(せつもんかいじ)』は、【斯()】の字について「柝()くなり」と解説する。
つまり、【斯】の字は「母体から子どもが裂けて勢いよく出産する」を意味した。
陣痛(じんつう)が長時間つづく女性の苦しむ様子を伝えるテレビを見ていたとき、その母親は大声で「大砲の弾丸が発射されるように、わが子よ早く生まれて頂戴(ちょうだい)よ」とさけんでいた。
下図の「斯馬国の地宜」は、その時に母親が願った「発射される大砲の弾丸のように、斯馬国南部の先端が勢いよく出産する胎児の頭の形」となる。
ゆえに、「斯馬国(因幡・但馬)の地宜」は「順調に胎児が母体の子宮から柝()けて膣口(ちくこう)から【邪馬】の頭蓋骨を有する出産児が無事に誕生する、安産の様子」をあらわしている。
だから、上図の「現在の鳥取県東部と兵庫県北部(因幡と但馬)」の小国名を、卑弥呼は「斯馬国」と定めたことになる。
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上記したように、「斯馬国・因幡」には「【馬】・フタコブラクダが生息する瀚海(かんかい)・ゴビ沙漠が連想される、日本一広い鳥取砂丘」が所在する。
『魏志倭人伝』において、小国名で【馬】の字がつくのは「斯馬国」のほかに、「対馬国」、「投馬国」、「邪馬壱国」、「邪馬国」の計5ヵ国である。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、今回までをもって、『魏志倭人伝』に記される「対馬国」・「投馬国」・「邪馬壱国」・「斯馬国」・「邪馬国」の5ヵ国のすべての【馬】の字義は「フタコブラクダ」であることを証明した。
だから、【馬】の字源は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」であったことになる。

◆下図に、「巳百支国の地宜(範囲)」を示した。
「旧国の丹後(現在の京都府北部)の地宜」は「頭の大きな出産児の姿」に相似する。
つまり「丹後半島の地宜」は「出産児の頭」、「丹後半島の付け根から大浦(おおうら)半島までの地宜」は「出産児の首から足までの形」に相似する。
下図の「旧国の丹後の地宜」は古代字形の【巳】の字形に相似する。
ゆえに、「丹後の地宜」を【巳】をあらわした。
下図の「天橋立(あまのはしだて)と阿蘇海(あそかい)を周囲する湖岸」が【百】をあらわしたと考えられる。
そして、「丹後半島東部の大浦半島の地宜」が【支】をあらわした。
つまり、「大浦半島は大きな丹後半島から支(えだわか)れてつながる小さな半島」であるゆえ、「大浦半島は【支】をあらわした。
したがって、卑弥呼は小国名を「巳百支国」と定めたことになる。
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下図に示すように、「丹後半島の付け根(首の部分)」にある「天橋立と阿蘇海」は「母体の子宮やへその緒()の形」となる。
上記したように、「天橋立と阿蘇海を周囲する湖岸」が「巳百支国」という小国名の【百】をあらわしたと考えられる。
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安芸(あき)の宮島・陸奥(むつ)の松島とならぶ日本三景の一つに数えられる「天橋立」は、
宮津湾北西岸から与謝(よさ)ノ海(宮津湾)と西方の阿蘇海を真一文字にたち切り、南西につき出した全長3.6kmの砂嘴(さし)である。
天橋立南部の文珠(もんじゅ)寄りは東西二か所で切れている。
この二か所で与謝ノ海(宮津湾)と阿蘇海がつながり、回旋橋(かいせんきょう)と大天橋(だいてんはし)がかけられて、歩いて渡れるようになっている。
上図に示したように、「与謝ノ海南部の宮津湾の地宜」は「子宮に宿る胎児の頭の形」に相似し、
「宮津港より北部の与謝ノ海の地宜」は「胎児の首から足までの形」に相似する。
そして、「天橋立南部の阿蘇海から宮津湾までの狭い水道」は「母体の臍(へそ)と胎児の臍の緒()の形」に相似する。

これゆえ、「阿蘇海」は「女性の生殖器官(子宮、産道など)」に見立てられた。
女性の生殖器官の多くは、骨盤内にある。
よって、「阿蘇海」が「女性の生殖器官」に見立てられ、「天橋立と阿蘇海の周辺地域」が「女性の生殖器を包囲して胎児の命をまもる骨盤」に見立てられた。
下図は、「女性の骨盤図」である。
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上図の「女性の骨盤」は「子宮を包囲して胎児の命をまもる」ということで――つまり「天敵のオオカミに襲われると、中心に子を隠し子の命をまもるために、円陣を組むジャコウウシの群れ」に見立てられた。
ジャコウウシは【百頭以上】で群れていたという。
つまり、「ジャコウウシの【百頭以上】の群れ」が【百】をあらわした。
ゆえに、上記したように、「天橋立と阿蘇海を周囲する湖岸」が「巳百支国」という小国名の【百】をあらわしたと考えられる。
前述したように、「丹後半島から支(えだわか)れる形の大浦半島」が【支】をあらわした。
以上からして「現在の京都府北部の丹後」が「巳百支国」であったことになる。

◆前ページにて説明したように、【倉頡が死刑と定めた3つ掟(おきて)】における()は、
「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員をも死刑にする」であった。。
この()の掟のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう小国名「【巳百支】をあらわす銀河の解説」を容易に理解していただくためには、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要となる。
ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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上図の右下に、わたくしが「胎児の姿に似る銀河」、「巨龍の顔の銀河」、「銀河の中心」と名づけた――銀河系の中心方向がある。
下に、「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心の図」を配した。
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上図の「胎児の姿に似る銀河」は、前ページにて【巳】の古代字形に相似すると指摘した「丹後半島から大浦半島までの、胎児の姿を形成する地宜」に類似する。
ゆえに、「胎児の姿に似る銀河」は【巳】をあらわした。

前ページの「夏の銀河各部の名称図」における左上の「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河」を「女性の横顔」に見立てると、
「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心周辺」は「女性の生殖器官を周囲する骨盤」に相当する。
ゆえに、「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河・銀河の中心方向」が「百頭以上の群れで円陣を組むジャコウウシ」に見立てられるゆえ、【百】をあらわすことになる。

また、下図に示すように「第5週ころの胎児の姿」は「胎児の姿に似る銀河の形」に相似する。
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さらに、下図に示すように「第5週頃の胎児の姿(側身形)」は「ジャコウウシの姿」に相似すると見立てられて、
「ジャコウウシ」は「骨盤」に見立てられた。
というのも、「円陣の中心に隠すジャコウウシの子ども」は「子宮に宿る胎児」に見立てられた。
ゆえに、「【百頭以上】のジャコウウシの群れが作る円陣」は「子宮で育つ胎児の命をまもる骨盤」に見立てられた。
ゆえに、「胎児の姿に相似するジャコウウシ」は【百】をあらわすことになった。
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下図に示すように、「巳百支」のうちの【支】をあらわす「大浦半島」は「龍の顔の形」に相似する。
ゆえに、「巨龍の顔の銀河」が【支】をあらわした。
以上のごとく、「銀河系の中心方向の銀河」は「【巳百支】の銀河」であったことになる。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」はこれまで、「対馬国から巳百支国までの10ヵ国の位置や範囲」を詳細に具体的に解説し、矛盾点が一点も無く、
「これら10ヵ国の名称」は「すべて【倉頡の文字作成理論】について説明していること」を証明した。

そして、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国の名は「邪馬壹()国」であって、「邪馬臺()国」ではないことを詳細に具体的に明確に証明した。
つまり、邪馬台国説においては【邪馬】は「大和(やまと)」の「やま」や、「山門(やまと)」などの地名の「山」であると主張する。
しかし、このブログが詳細に解説して証明したように、『魏志倭人伝』の「対馬国・投馬国・邪馬壱国・斯馬国・邪馬国」の5ヵ国名共通する【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。
したがって、下図に示す「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口が邪(なな)めになって重なりあう、その表情」は【邪馬】と名づけられた。
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そして、下図に示す「草を食べるフタコブラクダの【邪馬】の表情にそっくりの、産道を通過する出産児の頭蓋骨(後頭骨・頭頂骨・前頭骨)の5枚の骨が重なりあって小さくすることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の結合組織性の膜(まく)」もまた、【邪馬】と名づけられた。
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「産道」は【壹()】の字源であった。
ゆえに、「【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる頭蓋骨を有する人間の赤ん坊(出産児)」は「【壹()】の産道を通過して誕生する」ので――卑弥呼は倭人国の首都が所在する王国の名を【邪馬壹()】と定めたことになる。

白川静著『字統』は【不】の字源を「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形」であると解説する。
「花の萼拊」とは「花の臺(台・うてな)」のことである。
白川静著『字統』が解説する【不】の字源「花の台(萼拊)」は「花の生殖器官における花弁を支(ささ)える役割」を有する。
いっぽう、「女性生殖器官における産道」は「出産児が通過して誕生する通路である」ゆえ、両者の役割は同じではない

上記したように、【臺()】の字源は「花の台」であり、「【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる頭蓋骨を有する人間の赤ん坊」は【臺()】の字源「花の台(うてな)」を通過して誕生しない。
以上のように、【邪馬】と【臺()】が結ばれる【邪馬臺()国】という王国名は「人間の赤ん坊は花の台(うてな)を通過して誕生する」ということになるので――きわめて非理・不条理きわまりないナンセンスな意見であったことになる。.

下に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が倭人国の首都が所在した王国名は「邪馬壹()国」であったと記し、「邪馬臺()国」であったと記していない。
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だから、学者たちがもっとも正しいと信頼した「邪馬臺()国説」は『魏志倭人伝』の記事とまったく無関係の、完全なる空理空論であったことになる。

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2024年7月23日 (火)

漢字の起源と発明を解明す・21

邪馬台国説は空論、卑弥呼は邪馬壱国に居住していた()

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
『魏志倭人伝』に記される対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の説明は、【倉頡の文字作成理論】について詳細に具体的に組織的に説明している。
ゆえに、江戸時代中期の新井白石(16571725)以来300年間続く学界の「『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国について記述する文献史料であった」という定説は空理空論であった。

また、現在の「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の空想である」という定説も空理空論、すべて学者たちの軽率(けいそつ)な早合点(はやがってん)による臆説(おくせつ)であった。
というのも、上記したように――『魏志倭人伝』は対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国の記事と、後に追加した小国名が不明の1小国と侏儒(しゅじゅ)国・裸()国・黒歯(こくし)国の4小国の記事にて、【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明しているからである。

上記したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」であったゆえ略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下の【夏の銀河のカラー写真】は、PIXTA(ピクスタ)から提供された。
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◆学者たちは、『魏志倭人伝』について――『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から研究すべきであり、単純に日本の文献史料として読んではならない。というのも、『魏志倭人伝』には幾つかの誤った事柄が記述されているからである。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用することはできない。なぜその記事は疑わしいのか、どのような点が信用できないのかなどと考慮して、『魏志倭人伝』を読解しなければならない――と、前もって立論・思考条件を定める。

しかし、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・20」にて指摘したように、
『魏志倭人伝』の史料は、倭人国の伊都国の港で魏都が用いる楷書に書き直した――つまり、倭人国が魏との外交に用いた文書であった。
この倭人国の外交文書が、卑弥呼の死後から約40年後の3世紀後半(280年代)の晋(しん)王朝に秘蔵されていた。
晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)には、その役職柄(やくしょくがら)、晋王朝に秘蔵された倭国の国書を閲覧(えつらん)できた。
ゆえに、陳寿は倭の国書の文字(楷書)を1字も誤写しないように記して、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょうとういでん)末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』を著作したことになる。
というのも、『魏志倭人伝』における大多数の記事は中国人の陳寿が絶対に知ることができない事柄を説明しているからである。

たとえば、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が9回~前回(20)までに詳細に解説し証明したように、
(
)「対馬国・一大国・末盧(まつろ)国・伊都国・奴()国・不弥(ふみ)国・投馬(とうま)国・邪馬壱(やまい)国」という名称は、陳寿が知らない「8小国すべての地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」に合致して理にかなっていた。
また、今後、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、
(
)『魏志倭人伝』の全33ヵ国の小国名はすべて【倉頡の文字作成理論】をあらわすものであり、また「33の各小国の名称に用いられる文字の字源・原義と地宜」はすべて合致して理にかなっていることを証明する。
(
)また、「皆、倭種なり」と説明する「隠岐群島」にはなぜ「小国名」が記されていないのか――この小国名不明の点についても『魏志倭人伝』の史料は卑弥呼が作った外交文書であったと考えれば、その理由が解明できる。
(
)さらに、『魏志倭人伝』が記述される「夏代黎明期、名門益氏によって夏音文字がもたらされ、倭地の各地の氏族たちに習得された事情」も、『魏志倭人伝』をわが国における歴史史料としてとらえれば明白となる。

ゆえに、倭地に住んだことがない中国人の陳寿が
(
)「倭人国における、33ヵ国の各小国に用いられる文字の字源・原義と33か国の地宜(地図の形)」を詳しく知っているはずもなく、
(
)「小国名が不明の隠岐群島の事情」をくわしく知っていたはずもなく、
(
)「益氏によって倭地にもたれされた夏音文字が様々な氏族に習得された事情」を、
詳しく知っていたなんてことはあり得ない。

上記したように、『魏志倭人伝』の大多数の記事は中国の陳寿が知ることができない事柄で占められている。
だから、『魏志倭人伝』はわが国の歴史史料であったことになり、わが国における歴史的立場から研究しなければ事実・真実が解明することができない古文献であったことになる。

このように、『魏志倭人伝』の大多数の記事は中国人の陳寿が知ることができない事柄で占められている。
だから、『魏志倭人伝』はわが国の歴史史料であったことになり、わが国における歴史的立場から研究しなければ事実・真実が解明することができない古文献であったことになる。

以上のごとく、邪馬台国説学者たちが主張するがごとく、『魏志倭人伝』は中国人によって作られた歴史史料ではなかった。
魏が最高学問と崇(あが)める【倉頡の文字作成理論】が倭人国にも存在することを説明して、
卑弥呼が魏国に対等外交を求めた外交文書が『魏志倭人伝』の史料となった。
だから、邪馬台国説学者たちの立論・思考条件は根本的に誤っており、
したがって、邪馬台国説の立論・思考条件は空想であったことになる。
邪馬台国説は空想を基盤にして思考する意見であったゆえ、当然、邪馬台国説は空理空論であったことになる。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の序~前回(20)までに詳細に解説し証明してきたように、
(
)『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明した文献史料ではなく、【倉頡が発明した文字作成理論】について説明する古文献であった。
(
)「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って読解すれば、『魏志倭人伝』には誤った記事は1ヵ所も存在しないことになる。

前回までの、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、すでに【倭】の字源に則(のっと)って「末盧(まつろ)国から邪馬壱(やまい)国までの方位記事」はすべて正確であった事実を証明した。
倉頡(そうきつ)は、【禾()】「稲」の字を作って「時計回りに90度転回する方位規定」を定めた。
この【禾】の下に【女】を加える【委】の字は【禾】の字源をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
さらに、【人偏(にんべん)】に【委】を加える【倭】の字も【禾】の字源をそのまま受け継いで「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

上記のごとき【倭】の字源はこのブログにおける独特の意見であり、「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は実在しなかったと思うかもしれないが――
上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上 邪馬臺国を中心に』(光文社発行)の直木孝次郎(なおきこうじろう)教授が執筆した「邪馬臺国の位置論」は、
「内藤は、中国の古書で方向をいうとき、東と南をかね、西と北をかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の〔南〕は〔東〕と解するべきであるとした。これに対して、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある。」と指摘している。

上記の文の先頭に登場する「内藤」は、明治時代の歴史学者の「内藤湖南(ないとうこなん)博士」である。
内藤湖南教授が指摘したように、6世紀半ばに成立した『後魏書』勿吉伝に記述されているごとく――6世紀半ばにおいても、中国には3世紀後半に成立した『魏志倭人伝』に記述されていた同じ【倭】の字源・原義が保存されていた。
上記したように、内藤博士は『後魏書』勿吉伝には「中国の古書で方向をいうとき、ふつうに東と南をかね、西と北をかねていた。ゆえに、『魏志倭人伝』における〔南〕は現在方位では〔東〕と解するべきである」と指摘した。
ゆえに、3世紀に成立した『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字義は6世紀半ばに成立した『後魏書』勿吉伝と同じ「〔東〕を〔南〕と解する、現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしていた。

わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」が9回~17回までに詳細に解説して証明したように、
末盧(まつろ)国から伊都(いと)国、伊都国から奴()国、奴国から不弥(ふみ)国までの陸行の方向における〔南〕は現在方位の〔東〕であった。
だから、陸行でも【倭】の字源をあらわす方向に則っていたゆえ、
学者たちの「倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない」という批判は憶測(おくそく)によるもので誤っていたことになる。

6世紀半ばに成立した『後魏書』勿吉伝に【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」が記述されている。
ゆえに、6世紀半ばより以前の3世紀後半に成立した『魏志倭人伝』に記された【倭】の字源「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」は
当然、中国においてもわが国においても実在したことになる。
だから、【倭】の字源「現在方位を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)ると、
末盧国から邪馬壱国までの方位名はすべて正しいことになり、
「日本列島の九州以下の本州の〔東〕は〔南〕へ延びる」と説明に合致する、下図に示す「転回日本列島地理は【倭】の字源にもとづいて成立するものであった」と組織的に説明していたことになって、『魏志倭人伝』の全記事は正確であったことになる。
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わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・11」にて詳細に解説して証明したように、
学者たちが「航海者が大切な方位を誤るはずがない」と批判した根拠・理由の【天の北極を〔北〕と定める方位規定】だと、
倭の使者たちは全員、中国と倭国との中間の大海を往来できず、大海で命を失うことになった。
ゆえに、魏と倭はまったく外交をむすぶことができなかったので『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
しかし『魏志倭人伝』は約2000字で構成されている。
ゆえに、倭の使節は大海を越えて帯方郡庁(たいほうぐんちょう)や魏都に到着して帰還できたと考えるべきことになる。

◆このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の前々回(19)と前回(20)にて詳細に解説して証明したように、
【倭】の字源にもとづいて『魏志倭人伝』の記事を読解すると、
卑弥呼が倭人国の首都とした「邪馬壱国」は現在の「島根県と鳥取県西部」であり、旧国の「石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」であった。

そして、「邪馬壱国の中心地域」は【倭】の字源の「転回方位」で示す下図のごとき、
「現在の出雲市と松江市が所在する島根半島と、斐川(ひかわ)町と宍道湖(しんじこ)」であったことになる。
〔注 下図の転回方位にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の出雲の地宜は、新人物往来社『歴史読本』第52巻第4号の109ページ「出雲大社の創建の背景」の執筆者・松尾充昌(まつおみつあき)(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、わたくしがトレーシングペーパーで複写して作成した図である。)
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上図の上部に示したように、「出雲大社が所在する島根半島北端(転回方位、現在方位だと島根半島西端)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は「【馬】・フタコブラクダの母親の横顔の形」に相似すると見立てられた。
「この母親の【馬】・フタコブラクダの横顔」のとなりには「神門水海(かんどのみずうみ)」が在る。
「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸に邪(なな)めとなる、産後まもない【馬】・フタコブラクダの子が両足でたつ姿」に見立てられた。
したがって、「神門水海」が【邪馬】をあらわした。

上図の下部の「島根県の県都の松江市東端(転回方位)」は「中国の黄帝陵と同緯度(北緯3535)」である。
黄帝は【女性の生殖器官(子宮・産道など)と出産】を研究した。
ゆえに、倉頡(そうきつ)は【女性の生殖器官と出産】を【一】の字源と定めた。
後世、【一】は【壱】の字でもあらわすことになったため、【女性の生殖器官(子宮・産道など)と出産】は【壱】の字源をあらわすことになった。

だから、「黄帝陵と同緯度の松江市」は【壱】の字源をあらわした。
したがって、倭人国の首都に所在する王国の名は、「神門水海」の【邪馬】に、「松江市」の【壱】が加わる【邪馬壱(やまい)国】であった。
ゆえに、『魏志倭人伝』は「女王・卑弥呼が倭人国の首都と定めた邪馬壱国の中心地域は、現在の出雲市と松江市であった」と説明していたのである。

◆下に、【邪馬】の「神門水海の地宜」を配した。
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下図に示すように「神門水海の地宜」は、「日本全国に生息する日本最大(全長90mm)のトンボ・オニヤンマが池や水田や浅い河岸の水底の泥(どろ)に産卵する姿」に酷似(こくじ)する。
「ヤンマトンボ」は「大形のトンボの総称」である。
「神門水海」の【邪馬】は「ヤマ」と読むゆえ――「ヤンマトンボ」は「邪馬」を「ヤンマ」という訛(なま)りに由来するものであったのかもしれない。
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日本に生息するオニヤンマをはじめとするヤンマトンボの成虫は、「夏」に出現する。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が序から前回まで繰り返して解説し証明したように、
夏代黎明期(かだいれいめいき・中期縄文時代末の紀元前2050年頃)、名門益(えき)氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の偏(ほとり)に定住して【夏音文字】を教え広めた。
このため、卑弥呼時代には夏音文字が用いられていた。
ゆえに、「夏に出現するヤンマトンボ」は「夏音文字」を象徴する聖なる昆虫となったであろう。
というのも、ヤンマトンボの成虫が多数現れて飛び交()う夏季に適量の降水量()にめぐまれれば、イネ()は豊作となるからである。
ゆえに、ヤンマトンボは「秋における、イネの豊作」をもたらす聖なる昆虫になったにちがいない。
ヤンマトンボはじめとするトンボの水中に浮かぶ卵は、イネの穂にたわわに実る一粒(ひとつぶ)一粒の籾殻(もみがら・米のかたい外皮)の形に相似する。

下部に、「羽根を左右両側にひろげたトンボの絵」を配した。
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前ページに配した「【邪馬】をあらわす神門水海の地宜」に示したように、
「神門水海」の東となり(転回方位、現在方位だと北となり)に、現在、出雲大社が所在する。
下図における「出雲大社の裏山の、円形の八雲山(やくもやま)」を「トンボの頭部」に見立てると、
「出雲大社と神園(しんえん)」は「トンボの胴体と尾の形」に相似することになり、
その両側の「亀山と鶴山」は「トンボの羽根の形」に相似する。
したがって、下図の「出雲大社周辺の航空写真の映像や俯瞰図(ふかんず)」は「聖なるヤンマトンボの形」となる。

この「ヤンマトンボの頭部と体の形」となる「出雲大社の裏山と境内(けいだい)の跡地」こそが、
「毎年の稲の豊作によって国家が繁栄する」を祈願して築造された「卑弥呼が葬られた陵墓」であったと考えられる。
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◆『魏志倭人伝』の末部は、卑弥呼が葬られた陵墓について下記のごとく記す。
「卑弥呼は以(すで)に死す。大いに冢(ちょう)を作る。径(けい)百余歩。葬に徇(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人。更(さら)に男王を立てしも国中服さず、更に相攻伐(あいこうばつ)す。時に当たりて千余人を殺す。復()た卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三にて王と為(なり)しを立てると、国中が遂(つい)に定まる。」という記事がある。

この記事を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
「卑弥呼は(250年頃より以前の240年頃に)すでに死んでいた。大きな円墳(えんふん)が作られた。円墳の直径は百余歩(150)である。卑弥呼を葬る陵墓に埋葬された徇葬者は、奴(18歳くらいの青年)と婢(13歳くらいの乙女)の百余人であった。卑弥呼の死後に男王が倭の大王として就任したが、国中の人民は奴婢百余人の徇葬はあまりも冷酷非情(れいこくひじょう)だと憎悪して、武器を持って倭人国の政府軍と戦った。この反乱において、政府軍は千余人の人民を殺した。この反乱を鎮(しず)めるために、男の大王が失脚(しっきょく)して――13歳で王位につき、卑弥呼が率いる巫女界(ふじょかい)を代表となった壱与(は国中の人民たちが尊崇して信頼して愛されていたため)、壱与が倭女王に選ばれた。壱与が倭女王に就任すると(国中の人民は壱与が徇葬を廃止するにちがいないと信じて、武器を捨てたので)、遂に倭人国は平定された。」

「百余人の奴婢」は「卑弥呼の陵墓に埋められた犠牲(いけにえ)」である。
卑弥呼が歴史上に始めて登場した(170年頃)より約50年前(120年頃)に成立していた、後漢の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は
「犠牲」の【犠】の字源を「宗廟(そうびょう)の牲(せい)なり」と解説する。
また、『説文解字』は「犠牲」の【牲】の字源を「牛、完全なるなり」と解説する。
【犠】も【牲】も偏は【牛】であるゆえ、
『説文解字』の【牲】の「完全なるなり」という【牛】は「若いジャコウウシ」を意味した。

ゆえに、「人生で最も若々しく輝く、完全なる18歳くらいの青年たちと13歳の乙女たち」は殺されて、卑弥呼の墓に埋められた「奴婢」であったのである。
18歳くらいの青年」は「日照りで堅くなった田を耕すことができる強大な腕力と体躯を有し、大海を小舟で漕いで往来できるたくましくて強大な力の持主」であるゆえ、「若いオスのジャコウウシ」のごとく「完全なる犠牲(いけにえ)にふさわしい」と解釈されたのである。
また、「13歳の乙女たち」は「最も澄んだ瞳(ひとみ)を有して、暗い銀河部もよく見える呪的(じゅてき)な眼力の持主が多数存在し、彼女たちは花のように艶(つや)やかで美しく輝いている」ということで、「完全なる徇葬者」にふさわしいことになったのである。

注目すべきは――下図に示した「出雲大社の平面図」における「出雲大社の裏山の、八雲山の直径」は卑弥呼が葬られた冢(円墳)の「径百余歩」と同じく「直径が約150m」ということでである。
「現在の出雲大社の境内の平面図」は、前方墳(ぜんぽうふん)の左右対称の形が少し歪(ゆが)んでいるが――
よく見ると「かつては前方墳であった」と感じられる形となる。
ゆえに、卑弥呼の死後の240年代~250年頃に築造された「前期古墳・卑弥呼の陵墓」(八雲山が後円墳、出雲大社の境内が前方墳)であったと考えられる。

「後円墳」となる「八雲山」は「自然丘陵(しぜんきゅうりょう)」である。
上田宏範(うえだひろのり)著『前方後円墳』(学生社発行)61ページは、
「前期のものは、丘陵の先端や丘頂などに自然の地形を利用して築かれ、高い円丘の前面に方形の前方墳をつけたものが多い」と指摘する。
上記したように、出雲大社の裏山・八雲山は前期古墳の特徴の円い自然丘であり、
出雲大社の境内は八雲山より低い前方墳の形に相似する。
ゆえに、「出雲大社の裏山・八雲山と後年に境内となった跡地」は、『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼の陵墓」であったと考えられる。

上記したように、『魏志倭人伝』は、
「卑弥呼の墓に百余人の奴婢が徇葬者となって殺されて埋められた。この徇葬墓の築造を決行した卑弥呼の後を継いだ男の大王に国中の人民たちは残忍な徇葬を憎悪して服従せず反乱し、武器を持って政府軍と戦った。ゆえに、倭王朝は千余人の反乱人民を殺した」と記述する。
したがって、徇葬がおこなわれた卑弥呼の墓は人民たちに憎悪されて、結局、250年からまもない3世紀後半頃に破壊されたであろう。
この「破壊された卑弥呼陵墓の前方墳の跡地」に、出雲大社が創建されたことになる。

『古事記』上巻の「葦原中国(あしはらのなかつくに)のことむけ説話」における、「大国主神(おおくにぬしのかみ)の国譲り(くにゆずり)の条(くだり)」は、
「天照大御神・大和王朝は横暴な武力をもって出雲・大国主神王朝を滅亡させた。大国主神に国譲りして(邪馬国・大和王朝が邪馬壱国・出雲王朝にかわって倭人国を統治することになり)、その代償として大国主神は天照大御神・大和王朝に壮大な出雲大社を創建させた」と記述している。

大国主神は、勝ち誇る邪馬国・大和王朝がすっかり上機嫌(じょうきげん)になるように平伏(へいふく)して、
破壊された卑弥呼の陵墓の跡地の高天原(たかののはら・倭人国の首都・邪馬壱国の空)に、千木(ちぎ)が高くそびえる壮大な宮殿を、天照大御神・大和王朝が建造するように、企(たくら)んだ。
つまり、天照大御神・大和王朝による邪馬壱国・出雲王朝の滅亡は、国中の人民たちが憎悪した百余人の奴婢を殺して埋めた徇葬と同じ横暴きわまりない暴挙であると――
大国主神は国中の人民たちに訴え、後世に歴史が伝わるように報復(ほうふく)した。
敗北者の大国主命(おおくにぬしのみこと)の名に、「勝利者の天照大御神」と同じ「神」がつくのは、
「大国主命は大和の天照大御神王朝を騙(だま)して、壮大な出雲大社を創建させた英雄」であったからにちがいない。

上記したように、『古事記』上巻の「葦原中国のことむけ説話」における「大国主神の国譲りの条(くだり)」は、「出雲」は「大和以前の高天原(たかまのはら)であった」と伝えている。
当時、「天頂緯度のキャッチ」をもっとも尊重するゆえ「天頂緯度」を「高天」とし、「首都所在地」を「原」と表現した。
ゆえに、「高天原」は「倭国の首都所在地」をあらわした。
『古事記』上巻の「大国主神の国譲りの条」は、「卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばまでは邪馬壱国・出雲が高天原」であった、また「卑弥呼の死後に須佐之男命、その後に大国主神が邪馬壱国・出雲を統治したゆえ、須佐之男命と大国主神の時代までは邪馬壱国・出雲が高天原であった。そして大国主神が国譲りした3世紀末~4世紀初頭から、遷都されて邪馬国・大和が高天原となった」と伝えていたことになる。
だから、2世紀末~3世紀半ばまで、卑弥呼は邪馬国・大和には居住していなかった。
この点からしても、「卑弥呼は大和に居住していた」と主張する邪馬台国説は空理空論であったことになる。

◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が【倉頡の文字作成理論】を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
これゆえ、倉頡は「文字の学芸を習得しやすくするために、文字が作られた【夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその家族及び一族全員を死刑にする」と定めた。
この倉頡が死刑と定めた掟(おきて)のためであろうか――現在においても、【夏の銀河各部の名称】は存在しない。
これからおこなう「中国の海岸線が【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源となった秘密】を解明するためには、
【夏の銀河の各部の名称】を決めないと、説明が長々と煩雑(はんざつ)になって非常に難解となる。
だから、下図のごとく、わたくしは【夏の銀河各部の名称】を定めた。
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上の「夏の銀河各部の名称図」の左上に「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。
「鬼の姿に似る銀河」のうちの東側の「横顔」となる銀河部は「鬼の横顔に似る銀河」と名づけることにした。

下に、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代における黄帝陵(北緯3535)と長江口(ちょうこうこう・北緯3130分の長江の河口の湾中央)の天頂緯度線の図を配した。
下図の下部には「鬼の横顔に似る銀河」がある。
「鬼の横顔に似る銀河」の「横顔には両目(二つの目)の形」があり、「横顔の後頭部には大きく見開いた目の形」があり、「横顔のアゴには切れ長の細い目の形」がある。
ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」の別名を、わたくしは「四つ目の銀河」と定めた。
「四つ目の銀河」は、倉頡伝説においいて「四つ目の怪人・倉頡」と呼ばれた。
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『魏志倭人伝』における【邪馬壱】という語について、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・13」にて詳細に説明した。
女王国名に用いられる「邪馬壱」のうちの【邪馬】は、今日における産婦人科の医学用語【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ねあわせることができる仕組み】をあらわす語であった。
「邪馬壱」の【壱】の字源は「出産児が通過する産道」であった。

医学が未発達の黄帝時代(わが国の中期縄文時代初頭)や卑弥呼が生存した時代(2世紀末~3世紀半ば)では、【出産児が骨盤入口を通りぬけて産道を通過できない事故】が多発した。
【邪馬】という語は【出産児が骨盤入口を通りぬけることができる仕組み】をあらわすものであり、今日における医学用語の【小斜径(しょうしゃけい)】と同義語であった。
【小斜径】は「骨盤入口を通りぬけるときの斜(なな)めになって小さくなる出産児の頭の直径」を意味する。
つまり、【小斜径】は「小泉門・矢状縫合・大泉門からなる出産児の頭蓋骨が邪(なな)めになって通りぬけるときの小さい直径」を意味した。
下図は、【小斜径】と同義語の【邪馬】の解説図である。
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餌の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りは邪(なな)めに重ねあわさって、
その形は「骨盤入口を【小斜径】でぬり抜ける出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図に示す「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の形状」は
【邪馬】と呼ばれることになった。
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白川静著『字統』は【不】の古代字形(契文形・金文形)にもとづいて「もと象形で花の萼拊(がくふ)の形である」と解説する。
この白川静著『字統』の【不】の解説は「女性の生殖器官の子宮・卵管膨大部(らんかんぼうだいぶ)・卵管・卵巣(らんそう)と、花の生殖器官のめしべ・おしべ・花糸(かし)・子房・胚珠(はいしゅ)・胚のう・花弁などの両者の機能は相似する」が、「女性の産道と花の台(うてな・萼拊)の機能は相似しない」という否定・打消しの「ず」を意味した。
だから――【邪馬】の頭蓋骨からなる出産児は【壹()の字源の「女性の生殖器官の産道」を通過して誕生するゆえ、【邪馬】と【壱】が合体する【邪馬壱】という国名は合理となる。
しかし、「【邪馬】の頭蓋骨からなる人・出産児は【臺()】の字源の「花の台(うてな・萼拊)からは誕生しない」ゆえ、当然、【邪馬】と【台】を合体させる【邪馬台国】という国名は無理矢理(むりやり)にくっつけたきわめて不合理・幻想・空理空論の産物であったことになる。
だから、卑弥呼が倭人国の首都所在地と定めた王国名は【邪馬壱国】であり、明白に【邪馬台国】ではなかった。

◆下の「黄帝時代の黄帝陵と長江口の天頂緯度線の図」に示したように、
「四つ目の銀河のうちの後頭部とアゴにつく両目」と「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」に隣接して、「【邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)】の銀河」がある。
この「【邪馬】の銀河」は、13歳の瞳がもっとも澄んだ乙女たちならば肉眼でキャッチできる、暗くかすかに見える銀河部であった。
ゆえに、「【邪馬】の銀河」は【婢】の字源をあらわすことになった(「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細い目」が【婢】の字源となった)
上記したように、【婢】は「瞳がもっとも澄んだ、暗い銀河部も見える13歳くらいの乙女」を意味した。
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下図は「睥睨(へいげい)」という語の解説図である。
「四つ目の銀河の後頭部とアゴにつく両目」は「天下を睥睨する」という文における「睥睨」の語源となった。
「睥睨」は「まわりをにらみつけて、威力(いりょく)を示す両目」である。
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上図に示したように、「四つ目の銀河の後頭部にある、大きく見開いた目」は【兒()】・【睨】の字源となった。
つまり、「四つ目の銀河の後頭部にある、大きく見開いた目」は「膣口(ちくこう)から誕生した【兒(出産児)】が空を仰ぐつぶらな目」と見立てられて、【兒()】の字源となった。
また、「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細い目」は【婢】・【卑】・【睥】の字源となった。
つまり、「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細い目」は「アゴを胸につける屈位(くつい)の姿勢となって、骨盤入口に入りこむ出産児の様子」に見立てられて、【卑】の字源となった。
ゆえに、【卑】の字源は「天から俯()して観る地宜(地図の形)」をあらわした。

「四つ目の銀河のアゴにつく切れ長の細い目」に隣接する「激流の銀河」は「中国の国土の東方の大海(黄海・東シナ海)」に見立てられた。
「激流の銀河」に隣接する東側の「波の銀河」は「東の海から西の中国の海岸に寄せる波」に見立てられた。
そして上図に示したように、「鬼の姿に似る銀河」は「中国全土」に見立てられ、
「鬼の姿に似る銀河の南端」は「中国の海岸線」に見立てられた。
だから、「波の銀河」・「激流の銀河」・「鬼の姿に似る銀河の南端」は「中国全土をもれなく包む海岸線」に見立てられた。
上記したように、「中国の全土の海岸線に波が寄せる大海」に見立てられた「激流の銀河」に隣接する「四つ目の銀河のアゴにつく、切れ長の細目の銀河」は【卑】の字源をあらわした。
だから、【卑】の字源は「天から俯して観る、中国全土を洩れなく包む海岸線の地図の形」ということになった。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」で詳細に解説したように、
中国の五経の第一にあげられる古典の『易経(えききょう)』の繋辞上伝(けいじじょうでん)は、
「中国全土を洩れなく包む海岸線」を「弥綸(びりん)す」と表現する。
つまり、『易経』の繋辞上伝は、下記のごとく説明する。
「易は天地と準(なぞら)う。故に能()く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯()してもって地理を察す。」

上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
「易は天と地になぞられて作られた。ゆえに天と地の道を弥綸する(天と地の道が途中において破れ目・裂け目の状況になっても、つくろいおさまって洩れなく包みこむ)。仰いで夏の銀河各部を観察し、銀河()から俯瞰(ふかん)する地図を作製した。」

下に示したように、「十字の銀河」は「オス鹿の角(つの)」に見立てると、「十字の銀河より南の銀河の形」は「鹿の横顔」に相似する。
ゆえに、下に示したように「十字の銀河と鹿の横顔に似る銀河」は「オス鹿の横顔に似る銀河」ということになる。
よって、下の左側に配した【道】の金文形の字源銀河は右側の「オス鹿の横顔に似る銀河」である。
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上図に示したように、「廟島列島(びょうとうれっとう)の地宜」を「オス鹿の角(つの)」に見立てると、「山東半島の地宜」は「鹿の横顔」に観える。
したがって、「廟島列島と山東半島」は【道】の字源地宜であった。
だから、『易経』繋辞上伝は「易は天地と準(なぞら)う」と表現したのである。

『説文解字』は、【易】の字源を「蜥蜴(せきえき)なり」と解説する。
「蜥蜴」は「トカゲ」を意味する。
トカゲには「必ずもとのすみかにもどるという帰家性(きかせい)」がある。
つまり、遠くの地を往復する人も大海を往来する人も天頂緯度が測定できれば必ず家族が待つ家に帰還することができた。
この「天頂緯度線をキャッチして帰家する方法」を「トカゲの帰家性」に見立てて、『説文解字』は【易】の字源を「蜥蜴なり」と解説した。
だから、「遠くの地の往復や大海の往来の道(道中)において、所々にて観測した地点の緯度はその観測地点における天頂緯度と定まっている原理」を、
『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う」と表現したことになる。

下に示すように、「山東半島の地宜」は【弥】「カンムリカイツブリの頭(横顔)と首までの形」に相似する。
また、「山東半島の付け根から南と北へとつながる海岸線」は「空を飛ぶ、【弥】のカンムリカイツブリの翼の形」に相似する。
この「【弥】の南の翼」は「長江口と杭州湾にて、破れ目や裂け目となる」が、「杭州湾の南岸からはなめらかな円弧(カーブ)を描いてつくろいおさまる」。
このように、「中国の海岸線」は「中国全土を洩れなく包みこんでいる」。
だから、『易経』繋辞上伝は「故に能く天地の道を弥綸す」と表現した。
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以上からして、『易経』繋辞上伝の「仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文は、
上記の現代語訳のごとく「仰いで夏の銀河各部を観察し、銀河()から俯瞰(ふかん)する地図を作製した」と説明していたことになる。

『説文解字』は【呼】の字源を「息を外()くなり」と解説する。
下図に示すように、中国南部の海岸にある「杭州湾(こうしゅうわん)」には、「銭塘江(せんとうこう)の河口から水が外()き出される」ゆえ、「杭州湾」は【呼】の字源となった。
また、下図に示すように、「杭州湾の地宜」は「水鳥の鳰(にお)の姿」に相似すると見立てられた。
「鳰」は【呼】の字源となった。
だから、「杭州湾」は【呼】の字源地宜であった。
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いままで説明して解明したように、下図に示す「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源をあらわした。
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◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」でも解説したように、
沖ノ島と神津島は日本列島の東西の両端にあって遠く離れている。
しかし、2世紀末から3世紀半ばでも天頂緯度を測量していた慣習と伝統によって――
下図に示すように、一女子が沖ノ島と神津島は同緯度(北緯3415)であることに気づいた。
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日本列島の西端にある沖ノ島は冬に雪が降るが、日本列島の東端にある亜熱帯地区の神津島は冬になっても雪が降らない。
ゆえに、下図の右側に示すように、日本列島は「西冷・東暖」となる。
中国の北部海岸線地域の気候は冷たく、中国の南部海岸線地域の気候は暖かいゆえ、中国の海岸線地域は「北冷・南暖」となる。
このように、日本列島の「西端」と中国海岸線地域の「北部」は「冷たい気候」で合致し、日本列島の「東端」と中国海岸線地域の「南暖」は「暖かい気候」で合致する。
だから、一女子は「日本列島における暖かい気候の〔東〕は中国海岸線地域の暖かい気候の〔南〕の方に延びている」と立論した。
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前述したように、「日本列島の〔東〕は中国の〔南〕の方へ延びている」と唱えられた立論基盤の「中国全土の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源をあらわした。
ゆえに、「日本列島の〔東〕は中国の〔南〕の方に延びている」と立論して倭女王に選ばれた一女子は「卑弥呼」と呼ばれることになったのである。

男王たちは卑弥呼が立論した転回日本列島像論は真実・真理であると激しい衝撃をうけ、そして倉頡の神霊の激怒(げきど)・祟(たた)りを畏怖(いふ)した。
だから、倭国の大乱は収(おさ)まった。
卑弥呼王朝は下図のごとく、西日本にあって【東の端(はし)となる東海地方が南】となる【転回日本列島地理】を制定した。
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「日本列島の〔東〕」は〔南〕となる方位」は【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位」であった。
ゆえに、卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めた。
前述したように、6世紀半ばに成立した中国の『後魏書』の勿吉伝には【倭】の字源「方位規定に則る方位」が記述されていたゆえ、
卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばにおいては、中国においても【倉頡の文字作成理論】が最高学問として保存されていた。
だから、卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めて、「倭人国にも【倉頡の文字作成理論】が存在する」と伝える文書を魏に送って、魏との対等外交を求めた。
かくして、わが国最初の国家「倭人国」と、最初の王朝「卑弥呼王朝」が誕生した次第である。

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2024年7月14日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・20

邪馬台国説は空論、卑弥呼は邪馬壱国に居住していた()

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を考案した。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の9回から前回(19)まで、逐一(ちくいち)、詳細に具体的に組織的に解説し証明してきたように、
学者たちは「『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には幾つかの誤った記事がある」と指摘するが、
『魏志倭人伝』には1ヵ所の誤記が存在せず――
また、『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明する文献史料ではなく、
『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を詳細に具体的に組織的に説明する古文献であった。
ゆえに、江戸時代中期の新井白石(16571725)以来300年間続く学界の「『魏志倭人伝』は倭女王卑弥呼が居住した邪馬台国について記述する文献史料であった」という定説は空理空論であった。

だから、現在の「倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」という定説もまた空理空論、すべて学者たちの臆説(おくせつ)であったことになる。

◆上記したように、倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作る理論】を発明した。
【夏の銀河】とは「夏に最も長時間見える銀河の帯」である。
【夏の銀河】は、一般的に「天の川」、「銀河」、「銀漢(ぎんかん)」と呼ばれる。
「銀漢から作られた文字」であったゆえ略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

下に【夏の銀河のカラー写真】を配した。
この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
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◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰う。一大国に至る」と説明する。
したがって、対馬国は「北」、一大国は「南」となる。
ゆえに、対馬国と一大国における南北は現在の方位規定と同じである。
しかし、注目すべきことに【『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国へ至る方角」を記していない】。

というのも、対馬国が北、一大国が南の方位規定に対して――『魏志倭人伝』は【倭】の字源「現在の方位規定を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)って、【末盧国以下、日本列島の本州の東は南に延びる】と説明しているからである。
つまり、下に示した日本列島地図のごとく、『魏志倭人伝』は【末盧国より以下の本州は東ではなく、南に延びる】と説明する。
上記したように、下の【転回日本列島地図】は卑弥呼が立論し――そして卑弥呼王朝が制定した【対馬国(現在の長崎県北部の対馬)・一大国(現在の長崎県北部の壱岐)と、そして東が南に延びる本州地図】である。
この「卑弥呼が立論した転回日本列島地図」については、わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・12」にて詳細に解説した。
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◆学者たちは、『魏志倭人伝』という史料について――『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から研究すべきであり、単純に日本の文献史料として読んではならない。というのも、『魏志倭人伝』には幾つかの誤った事柄が記述されているからである。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の全記事を信用することはできない。なぜその記事は疑わしいのか、どのような点が信用できないのかなどと考慮して、『魏志倭人伝』を読解しなければならない――と、前もって立論・思考条件を定める。

しかし、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の序~前回(19)までに証明したように、
『魏志倭人伝』の記事は1ヵ所も誤りがなく、【倉頡が発明したの文字作成理論】について詳細に具体的に組織的に説明している。

『魏志倭人伝』における伊都(いと)国を説明する記事は――
卑弥呼が統治していた2世紀末~3世紀半ばにおいて、倭人国には紀元前2000年頃の夏代黎明期(かだいれいめいき・わが国の後期縄文時代初頭)に習得した夏音(かおん)文字が存在し、
卑弥呼はじめ諸国の王や大夫(だいふ)たちは夏音文字を使用していた。
中国の魏の都はじめ、魏の出張政庁が所在する朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)、諸韓国では字形が秦(しん)の隷書(れいしょ)に近い古式の楷書(かいしょ)を用いていた。

このため、倭人国の多数の字源・原義を保存する夏音文字と幾つかの字源・原義を失った魏都・帯方郡・諸韓国の楷書においては、字義が差錯(ささく・相違)するものがあった。
ゆえに、伊都国の港では魏・帯方郡・諸韓国と倭人国との外交に用いた伝送の文書や、賜遺(しい)の物の品書きに用いた文字を誤読(差錯・相違)しないように、
夏音文字と楷書の字源・原義を示す【夏の銀河各部の形状】を観察して点検・確認して正しく翻訳(ほんやく)していた。

この伊都国の港で正確に楷書に直した倭人国の外交に用いた文書(国書)が、卑弥呼の死後から約40年後の3世紀後半(280年代)の晋(しん)王朝に秘蔵されていた。
晋の著作郎(ちょさくろう・歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)には、その役職柄(やくしょくがら)、晋王朝に秘蔵された倭国の国書を閲覧(えつらん)できた。
ゆえに、陳寿は倭の国書の文字(楷書)を1字も誤写しないように記して史料にし、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょうとういでん)末部の倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』を著作したことになる。

『魏志倭人伝』における大多数の記事は中国人の陳寿が絶対に知ることができない事柄を説明している。
たとえば、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が9回~前回(19)までに詳細に解説し証明したように、
「対馬国・一大国・末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国・投馬(とうま)国・邪馬壱(やまい)国という8ヵ国の名称用いられる文字の字源・原義」は、すべて【倉頡の文字作成理論】をあらわすものであり、
また「8ヵ国の名称に用いられる文字の字源・原義は各小国の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」とすべて理にかなっていた。

また、今後、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、『魏志倭人伝』の全33ヵ国の小国名が【倉頡の文字作成理論】をあらわすものであり、また「33の各小国の名称に用いられる文字の字源・原義と地宜」はすべて適合して理にかなっていることを証明する。
また、「皆、倭種なり」と説明する「隠岐群島」にはなぜ「小国名」が記されていないのか――この点についても『魏志倭人伝』の史料は卑弥呼が作った外交文書であったと考えれば、その理由が解明できる。
さらに、『魏志倭人伝』が記述される「夏代黎明期、名門益氏によって夏音文字がもたらされ、倭地の各地の氏族たちに習得された事情」も、『魏志倭人伝』をわが国における歴史史料としてとらえれば明白となる。
ゆえに、倭地に住んだことがない中国人の陳寿が
(
)「倭人国における、33ヵ国の各小国に用いられる文字の字源・原義と33か国の地宜」を詳しく知っているはずもなく、
(
)「小国名が不明の隠岐群島の事情」を知っていたはずもなく、
(
)「益氏によって倭地にもたれされた夏音文字が様々な氏族に習得された事情」を、
すべて知っていたなんてことはあり得ない。

上記したように、『魏志倭人伝』の大多数の記事は中国の陳寿が知ることができない事柄で占められている。
だから、『魏志倭人伝』はわが国の歴史史料であったことになり、わが国における歴史的立場から研究しなければ事実・真実が解明することができない古文献であったことになる。

以上のごとく、『魏志倭人伝』は学者たちが考えたごとく、中国人によって作られた歴史史料ではなかった。
卑弥呼が夏音文字で書いた文書を倭人国の伊都国の港において魏が用いる楷書に書き改められた外交文書が『魏志倭人伝』の史料となった。
だから、邪馬台国説学者たちの立論・思考条件は根本的に誤っており、
言いかえると、邪馬台国説の立論・思考条件は空想であったことになる。
邪馬台国説は空想を思考基盤とする意見であったゆえ、邪馬台国説は空理空論であった。
その証拠に、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」について説明する記事が1ヵ所も存在しない。

◆というのも、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が都とした所の名」を、下記のごとく「邪馬壹()国」と記し、「邪馬臺()国」と記していないからである。
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前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・19」にて、詳細に具体的に解説して証明したように、
下図に示したように、「邪馬壱」の【邪馬】という語は【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづくと「島根半島北部の神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」があらわした。
というのも、「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)め」であり、
【馬】の字源は「フタコブラクダ」であり、
「神門水海」は「産後まもなくして【馬】・フタコブラクダの子が両足で立つ姿」に相似するゆえ、【邪馬】となったからである。
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上図における【邪馬】「神門水海の周辺」は「地面がやわらかい湿地地域」であるゆえ、「縫合が完成していない出産児のやわらかい頭蓋骨」に見立てられた。
ゆえに、「子宮口がすっかり開き、骨盤入口に入り込んで産道を通過する出産児のやわらかい頭蓋骨」に見立てられた「神門水海」の【邪馬】は、【壱】の字源「子宮、骨盤入口、産道」と密接に関連する。だから、【邪馬】という語と【壱】の字源は結合して、【邪馬壱国】という卑弥呼が居住した王国名となった。

【邪馬壱】の【壱】の字源は「島根県の松江市の地宜」があらわした。
というのも、上図における「島根県の松江市北部(現在方位、転回方位では東部となる)は、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と同緯度(北緯3535)であるからである。
黄帝は【女性の生殖器官(子宮、骨盤入口、産道)と出産】を研究した。
黄帝が研究した【女性の生殖器と出産】は【壱】の字源となった。
ゆえに、「黄帝陵」と同緯度の「松江市」は【壱】の字源を示すことになった。
〔上図は、新人物往来社『歴史読本』第52巻第4号の109ページ「出雲大社の創建の背景」の執筆者・松尾充昌(まつおみつあき)(鳥取埋蔵文化センター)が作製した地図を、わたくしがトレース複写して転回方位のもとづくようにした図である〕。

◆『魏志倭人伝』における【邪馬壱】という語について、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・13」にて詳細に説明した。
女王国名に用いられる「邪馬壱」のうちの【邪馬】は、今日における産婦人科の医学用語【せまい産道を通過するときの、出産児の頭蓋骨が小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって重ねあわせることができる仕組み】をあらわす語であった。
「邪馬壱」の【壱】の字源は「出産児が通過する産道」であった。

医学が未発達の黄帝時代(わが国の中期縄文時代初頭)や卑弥呼が生存した時代(2世紀末~3世紀半ば)では、
【出産児が骨盤入口を通りぬけて産道を通過できない事故】が多発した。

【邪馬】という語は【出産児が骨盤入口を通りぬけることができる仕組み】をあらわすものであり、今日における医学用語の【小斜径(しょうしゃけい)】と同義語であった。
【小斜径】は「骨盤入口を通りぬけるときの斜(なな)めになって小さくなる出産児の頭の直径」を意味する。
つまり、【小斜径】は「小泉門・矢状縫合・大泉門からなる出産児の頭蓋骨が邪(なな)めになって通りぬけるときの小さい直径」を意味した。
下図は、【小斜径】と同義語の【邪馬】の解説図である。
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上図に示したように、出産児の頭蓋骨は「左右の前頭骨(ぜんとうこつ)、左右の頭頂骨(とうちょうこつ)、後頭骨(こうとうこつ)の5枚の骨」で構成される。
後頭骨と頭頂骨の間には「小泉門」と名づけられた膜(まく)があり、頭頂骨を左右に二分する中央の膜は「矢状縫合」とよばれ、矢状縫合の両端は「小泉門」と「大泉門」と連結する。
出産児の頭蓋骨の5枚の骨と骨との間にある、小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性(けつごうそしきせい)の膜によって、出産児の頭蓋骨の5枚の骨は【小斜径】となるように重ねあわせることができる。
ゆえに、上図の左側に配したように、【邪馬】という語は【小斜径となって重ねあわせることができる小泉門・矢状縫合・大泉門】を意味した。

餌の草を食べるときの【馬】・フタコブラクダの鼻・鼻と口のあいだのミゾ・アゴ・口の仕切りは邪(なな)めに重ねあわさって、
その形は「骨盤入口を【小斜径】でぬり抜ける出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」に酷似(こくじ)する。
ゆえに、下図に示す「草を食べる【馬】・フタコブラクダの鼻・アゴ・口の形状」は【邪馬】と呼ばれることになった。
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上記したように、「子宮口がすっかり開くと、【邪馬】の小泉門・矢状縫合・大泉門から成る出産児の頭蓋骨が骨盤入口に入りこんで産道を通過して膣口(ちつこう)から出産児の頭が誕生した」。
ゆえに、「子宮、骨盤入口、産道」は【壱】の字源となった。
また、【邪馬】の【馬】の字源の「フタコブラクダ」も【壱】の字源をあらわすことになり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。

◆下に、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・10」にて詳細に解説した「一大国、現在の長崎県北部の壱岐(いき)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を示した。
下に図示したように、「一大国・壱岐の西部の地宜は【馬】の字源のフタコブラクダの姿」に相似し、「一大国・壱岐の東部の地宜は【牛】の字源のジャコウウシの姿」に相似すると見立てられた。
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上記したように、【馬】の字源の「フタコブラクダ」は【壱】の字源となった。
というのも、「骨盤入口を通りぬけることができる出産児の頭蓋骨の【小斜径】の仕組み」は【邪馬】と呼称したゆえ、
【邪馬】の【馬】「フタコブラクダ」は【一】の字源をあらわすと、倉頡が定めたからである。
【一】は後世に【壹()】となったゆえ、【馬】「フタコブラクダ」は【壹()】の字源をあらわすことになった。

【牛】の字源の「ジャコウウシ」は「天敵のオオカミに襲撃されると、ジャコウウシの群れは円陣を作り、子を円陣の中心に隠して防御(ぼうぎょ)した」。
この「ジャコウウシの群れの円陣」は「女性の骨盤」に見立てられ、「円陣で包囲されるジャコウウシの子たち」は「女性の骨盤で包囲される子宮、産道」に見立てられてたため、「ジャコウウシ」もまた【壱】の字源「子宮、骨盤入口、産道」をあらわすことになり、【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣となった。
だから、後世、「一大国」は「【壱】の字源の【牛】・ジャコウウシと【馬】・フタコブラクダの地宜が東西に分かれる岐(わかれみち)がある」ということで、「壱岐」と呼ばれることになった。

下に、前ページにて【邪馬】と解した島根半島西部(現在方位)に所在した卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の「神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」を配した。
「神門水海」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)めとなる、産後まもなく両足で立つ【馬】・フタコブラクダの子の姿」に相似すると見立てられて、【邪馬】をあらわすことになった。
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上記したように、「神門水海の地宜」に相似すると見立てられた【馬】・フタコブラクダの子」は【壹()】の字源をあらわすが、【臺()】の字源をあらわさない。
というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静(しらかわしずか)博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、
【不】の字源について「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説するからである。
「花の萼拊」は、つまり「花の花弁の集合体の花冠(かかん)をささえる台(うてな)」である。

上記した白川静著『字統』の【不】の字源解説は――【臺()】の字源「花の生殖器官における台(うてな)」と【壹()】の字源「女性の生殖器官における産道の機能・役割」は同じでは非(あら)ず――と、否定・打消しの「ず」をあらわす。
だから、「神門水海」は【壹()】の字源「【馬】・フタコブラクダの子」をあらわし、【馬】の字源「フタコブラクダ」は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の【邪馬】(小泉門・矢状縫合・大泉門)」をあらわした。
ゆえに、「松江市の地宜」は、【馬】「フタコブラクダ」と密接に関連する【壹()】の字源「女性の生殖器官の子宮・産道」をあらわすことになった。
要するに、【馬】の字源「フタコブラクダ」は【壹()】の字源をあらわす【倉頡の文字作成理論】を象徴する聖獣であった。

上記したように、「神門水海」の「【邪馬】のフタコブラクダの子」と【臺()】の「花の台(うてな)」は、白川静著『字統』の【不】の字源解説が示しているように――
【邪馬のフタコブラクダ】と【花の台(うてな)】の両者は相似せず、また両者には関連性が無い。
ゆえに、【邪馬】と【臺()】が結びつく【邪馬臺()】という国名は、本来(ほんらい)、不条理であるゆえ成立してはならない空想の産物であったことになる。
しかし、新井白石以来現在まで約300年間、学界において【邪馬】に【臺()】が加わる、理にまったくかなわない【邪馬臺()】という名称が空想上にて存在することになった。
このように、邪馬台国説は不条理きわまりない空理空論であった。

◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・17」にて詳細に解説したように、
倉頡は「出産児」を【弥】の字源「カンムリカイツブリ」に見立てた。
胎児(たいじ)は母体の子宮の羊水(ようすい)の中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。
出産後の人は1時間も水中に潜(もぐ)ったままでいれば確実に死ぬ。
にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中ですごすが、なぜ胎児は窒息死(ちっそくし)しないのか?
この秘密を、女性の生殖器と出産を研究した黄帝は解明することができなかった。
それゆえ、この未解明の秘密を【文字作成理論】に取り入れることにした倉頡(そうきつ)は、「出産児」を「人間よりも長いあいだ水中に潜(もぐ)ることができるカンムリカイツブリ」で喩(たと)えることにした。

【弥】の字源「カンムリカイツブリ」はカイツブリ目カンムリカイツブリ属最大の水鳥で、全長46㎝~61㎝である。
「カンムリカイツブリの大きさ」は「出産予定日の第38週~第40週の体長が48㎝~53㎝くらいの大きさに育つ出産児と同じくらいである。
ゆえに、倉頡は「骨盤入口に入りこんで産道を4回も回旋(かいせん)しながら通過して膣口(ちつこう)から頭が誕生するまでの出産児」を、【弥】の「カンムリカイツブリ」に喩えることにした。


◆下に、「山東半島の地宜が【弥】の字源・カンムリカイツブリの頭(横顔)から首までの形に相似すると見立てられたとあらわす図」を配した。
山東半島の北端の地名は、【石島(中国では「シータオ」と音する)】である。
山東半島における【弥】「カンムリカイツブリ」の首(山東半島の南の付け根)となる地名は、【日照(中国では「リーチャオ」と音する)】である。
「石島と日照を結ぶ」と「夏至の日の朝、日が出ずる方角」をあらわす。
ゆえに、「山東半島の石島と日照までの海岸線」では「夏至の日の朝、地平線(水平線)より上空に昇る太陽が真っ赤に輝く光景」が目撃できた。
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これゆえ、上図に示したように、「石島」は「朝日」をあらわす地となり、「日照」は「夕日」をあらわす地となった。
上図に示したように、【弥】「カンムリカイツブリの首」となる「日照」は「黄帝陵と同緯度(北緯3535)」である。
ゆえに、前述したように【壱】の字源「女性の生殖器官と出産を研究した黄帝を祀る廟(びょう)と墓の黄帝陵」は【壱】の字源をあらわしたため、
上図に示したように、「黄帝陵と同緯度の日照」は【壱】の字源をあらわすことになった。

また、「日照」は「【邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)】の出産児の頭が入りこむ骨盤入口」に見立てられ、「石島」は「出産児の頭が誕生する膣口(ちつこう)」に見立てられた。
ゆえに、「山東半島」は【壱】の字源「産道」に見立てられ、
そして、「日照」は【壱】の字源の「骨盤入口」に見立てられることになった。

◆『魏志倭人伝』の末部に「因臺詣」、つまり「因()りて臺()に詣(いた)る」という記事がある。
この「臺()」は「魏都の洛陽(らくよう)」を意味した。
かつて五帝時代――下図における「洛陽の東北にある渤海(ぼっかい)」は「夏至の日、日が没する夕方に咲く、朝顔の花の形」に相似すると見立てられた。
そして、「夏至の日、日が没する夕方に咲く朝顔の花」に見立てられた「渤海」を「黄河口(こうがこう・黄河の河口)」を中心軸にして洛陽が所在する南へ転回して、
「洛陽は、夏至の日、日出ずる朝の美しく咲き誇る朝顔の花の、その台(うてな・萼拊)の位置に合致する」と解釈されることになった。
だから、『魏志倭人伝』を著作した晋の著作郎(歴史編纂官)の陳寿(ちんじゅ)は「魏都の洛陽」を「因りて臺()に詣る」と記した。
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では、なにゆえ、「洛陽」は「朝顔の台(うてな)」に見立てられたかというと――
いわゆる「銀河ブルー」と名づけられた「美しく艶(つや)やかに吸い込まれるような青紫(あおむらさき)、つまり朝顔の花の色の銀河(暗黒天体部)」が、洛陽の夜空に輝いたからである。
五帝時代の大都会の洛陽の夜間は灯下でほのかに明るかったゆえ、新月の夜には暗い黒色に見える銀河部は毎夜、朝顔の花の色、つまり「吸い込まれるように魅力的な美しい銀河ブルー」となって輝いた。
だから、「洛陽」は「銀河ブルーの美しい青紫(あおむらさき)の朝顔の花の、台(うてな)に相当する聖なる位置に在る」と定められて、【臺()】の字源となった。

◆前述したように、白川静著『字統』は【不】の字源について「もと花の萼拊(がくふ)である」と解説する。
下に配した上図の「女性の生殖器官の正面形」における「卵管采(らんかいさい)と卵管の役割」は
下の下図の「花の生殖器官図」における「花粉をめしべにつける、おしべと花糸(かし)の役割」に類似する。
また、上図の「子宮の役割」は下図の「子房(しぼう)の役割」に類似すると見立てられた。
しかし、上図の「女性の生殖器官」における「出産児が通過する産道の役割」と
下図の「花の生殖器官」における「花弁をひとまとめにする花冠(かかん)をささえる台(うてな・萼拊)の役割」は類似せずに別々の役割となる。
だから、白川静著『字統』の【不】の「もと花の萼拊である」という字源解説は、「女性の産道と花の台の役割は同じで非(あら)ず」と否定・打消しの「ず」をあらわしていたことになる。

以上のごとく、【邪馬】つまり「子宮口がすっかり開いて、小斜径となって骨盤入口に入りこむ出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」が――【臺()】の字源「花の台(うてな)」と結びつくのは理にかなわず不条理であるゆえ、【邪馬臺()】という名称は成立してはならない空虚(くうきょ)な産物であった。
いっぽう、「産道する出産児の頭蓋骨の【邪馬】」と「産道の【壹()】」は密接に関連する。
だから、【邪馬】と【壹()】が結びつく【邪馬壹()】という名称は合理・正しいゆえ成立することになった。
このように、【邪馬臺()国】という名称は錯誤(さくご)・空想の産物であった。
だから、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国名は【邪馬壹()国】であったことになる。


前述したように、【邪馬】という語は「【馬】のフタコブラクダが草を食べるときの、鼻・ミゾ・アゴ・口の仕切りがたがいに邪(なな)めに食い込むように見える表情」を意味した。
というのも、「出産児の頭蓋骨における小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜は重なり合って小さくなって(小斜径となって)、骨盤入口に邪(なな)めに入りこむことができるからである」。
したがって、この「出産児の頭蓋骨の仕組み」をも、【邪馬】と名づけられた。

下の上図は、「転回方位の邪馬国」、つまり「現在の大和・奈良県のは地宜(白地図の形)」である。
下の上下の2図が示すように、「大和・奈良県の地宜」は「草を食べて、ふくらむ頬(ほほ)が邪(なな)めになる横顔」に相似する。
ゆえに、「草を食べて動くアゴが重なりあってふくらむ、【邪馬】のフタコブラクダの横顔に相似する奈良県・大和の地宜」にもとづいて――卑弥呼は「奈良県・大和」を「邪馬国」という小国名にした。
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『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記す。
新井白石が最初に「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と誤読した――この誤読の伝統を今日まで多数の学者たちは改めなかったので、空想上にて300年間も存在することになった。
白川静著『字統』の【不】の「もと花の萼拊の形である」という解説が示すように、
【邪馬】と【臺()】が結ばれて【邪馬臺()】という女王国名は、元来(がんらい)、成立して存在してはならない空虚な名称であったのである。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国」という記事は1ヵ所も存在しない。
『魏志倭人伝』が記していたとおり、「邪馬壱国」が正しかったのである。

『隋書(ずいしょ)』倭国伝は「邪靡堆(やまたい)、すなわち『魏志』の所謂(いわゆる)邪馬臺国というものである」と注を加えるが、
正しくは「邪馬惟(やまい)、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬壹国というものなり」と注を加えなければならなかった。

『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「邪馬臺国」に「今の名を案ずるに、邪摩惟(やまい)の音之訛(なま)り也」と注を加える。
しかし、「邪馬壹国」に「今の名を案ずるに、邪摩惟(やまい)という音なり」と注を加えるのが正しかったことになる。

◆『魏志倭人伝』は「末盧国以下の倭人国における全地図の方位」を【倭】の字源「現在の方位名を、時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)れば、
『魏志倭人伝』のすべての記事は正確であったと証明される。
したがって、邪馬台国説学者はじめとする学者たちが「『魏志倭人伝』には幾つかの誤った事柄が記述されている。ゆえに、『魏志倭人伝』の全記事を信用してはならない」と主張する意見は誤っていたことになる。

『魏志倭人伝』に記される「東治(とうじ)」は「東冶(とうや)」が正しいのか誤っているのか知らないが、
もしも「東冶」が正しかったならば、「東治」の「治」は誤字となる。
この他に、『魏志倭人伝』には「掖邪狗」を「掖邪拘」と記す箇所が1ヵ所存在するゆえ、「掖邪拘」の「拘」は誤字となる。
ゆえに、『魏志倭人伝』には2~3か所の誤字があるかもしれないが、誤った記事は1ヵ所も存在しない。

また前述したように、『魏志倭人伝』の史料は晋王朝に秘蔵されていた「倭人国が魏国と対等外交を結ぶために、わが国には【倉頡の文字作成理論の学芸】が存在することを魏に伝えた国書(文書)」であった。
したがって、学者たちが『魏志倭人伝』について――『魏志倭人伝』は中国で作られた歴史史料であるゆえ、中国の史料研究の立場から研究すべきであり、単純に日本の文献史料として読んではならない―と、前もって定めた立論・思考条件は誤っていたことになる。

上記したように、()【倭】の字源に則って読解すれば、『魏志倭人伝』には誤った記事が1ヵ所も存在しないことになる。
また、()『魏志倭人伝』は「邪馬台国」について説明した文献史料ではなく、【倉頡の文字作成理論】について詳細に具体的に説明した古文献であった。
このような事実は、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の序から前回(19)までにおいて、『魏志倭人伝』の全小国名の秘密を未だ解明していないが、すでに詳細に具体的に解明して証明したことになる。
というのも、学者たちが「誤っている」と指摘した記事は「末盧国から邪馬壱国までの方位記事」であったからである。
前回までの、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、すでに「末盧国から邪馬壱国までの方位記事」はすべて正確であった事実を証明した。

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