漢字の起源と発明を解明す・37
中国の漢字の歴史は今から5000年前から始まる
◆わたくしは長い間グラフィックデザイナーを職業していたゆえ、20歳ころから「漢字は銀河から作られたのではないか」と想像していた。
というのも、漢字のもっとも古い祖型(そけい)とされる甲骨文字(こうこつもじ)における【山】、【水】、【火】という字の形は1種のみだからである。
「山」にはさまざまな形の山があり、「水」の形をデザインするならば様々な形となり、「火」の形もさまざまであるにもかかわらず字形が1種というのは――天に輝く銀河において「山」の字はここから作る、「川」の字はここの銀河部が「川」のイメージとなるからここから作る、「火」の字はこの銀河部が「火」に観(み)えるからこの銀河部から作ると定めたのであろうと考えたゆえ、
【山】、【川】、【火】の甲骨文字の字形は1種になったのであろうと想像した。
そして、小林石寿編者『拓影展大 甲骨文字字典』(木耳社発行)には、多種様々に図案することができる事柄・事象をあらわす字においても、形が1種のみの甲骨文字が多数記載されていた。
だから、「さまざまな甲骨文字は、ここの銀河部から作る」と定めていたのであろうと考えたゆえ、1種のみの字形の字が多数存在するのであろうと推理した。
漢和辞典で調べると、中国でもわが国同様に「漢字」を「漢字」と表記することを知った。
ゆえに、漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られて起源したと考えることにした。
「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」を【夏の銀河】と呼ぶ。
「春の銀河」、「秋の銀河」は中国・わが国の天頂にめぐってこないうえに各部の形状の印象は漠然(ばくぜん)として何に似ているのか想像がつかない、「冬の銀河」は天頂にめぐってくるが様々な字形を作ることができる形状に乏(とぼ)しく多数の文字を作ることができない。
【夏の銀河】は中国・わが国の天頂にめぐってきて、もっとも巨大で、各銀河部がさまざまに印象ふかい形状からなるゆえ、それらの心象(イメージ)を図案すればさまざまな多数の文字を作ることができるいちがいないと――わたくしには思えた。
ゆえに、わたくしは「【夏の銀河】から漢字は作られた」と推定した。
というのも、星座や星の写真集には「夏の銀河の写真」が多数所載(しょさい)され、また「夏の銀河」は通称「天の川」と呼ばれ、また「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれるからである。
だから、「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記したと、わたくしは考えた。
また、【夏】の字は「中国の人」を意味する。
ゆえに、「【夏の銀河】から文字を作った」ゆえ【夏】の字は「中国の人」を意味することになったのであろうとわたくしは考えた。
また、三皇時代、五帝時代の後の時代は「夏代」であることからしても、
【夏の銀河】から王朝名が「夏」になったのであろうと思えたゆえ、「漢字は【夏の銀河】の各部の形状から作られた」と考えることにした。
下に、【夏の銀河の写真】を配した。
この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭(ふじいあきら)氏が撮影した。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、前回(36回)までにおいて、
「今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえていた倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字(漢字)作成する方法(理論)】を発明した」と解説して証明してきた。
この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、
卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』である。
江戸時代中期に生存した新井白石(1657―1725年)以来今日まで約300年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。
しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法(理論)】を説明する聖典(せいてん)であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書(秘密の書物)」であった。
〔注 上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』(kindle版)にて詳細に解説して証明した。〕
現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、この定説はまちがっている。
というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。
◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益(えき)の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
益氏の王子と若者たちは、
(1)三皇時代の易占(うらない)に用いる記号の結縄(けつじょう)、
(2)五帝時代の最初の漢字の書契(しょけい)、
(3)夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)、
(4)黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、
(5)倉頡の文字作成理論、
(6)精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法
を教え広めた。
紀元前21世紀の夏代黎明期(かだいれいめいき)から卑弥呼が生存した2世紀末の後期弥生時代までの約2200年間、
上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。
これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。
また、夏音文字は712年1月28日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。
したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。
◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に九州の港を出帆(しゅっぱん)した第7回遣唐使(けんとうし)が「後稍(のちやや)、夏音(かおん)を習(なら)う)」と中国に報告した――という記事がある。
この第7回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――672年におきた壬申(じんしん)の乱の後、天武天皇(てんむてんのう)は「稍(やや、少しだけ)、夏音文字を復興する歴史書を編纂(へんさん)せよ」と命令された――と意味した。
壬申の乱の9年後の681年(天武天皇10年)3月17日、天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて「帝紀(ていき)及び上古の諸事(しょじ)を記定(きてい)させた。
ゆえに、上記した「稍々(やや)、夏音を習うようにせよ(復興するようにせよ)」という天武天皇の命令は、681年(天武天皇10年)の3月17日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。
上記の「帝紀及び上古の諸事の記定」の原文は「令記定帝紀及上古諸事」である。
この原文の「令[記]定帝紀及上[古]諸[事]」のうちの[古]・[事]・[記]の3字をもって、『古事記』という書名が成立したという一説が存在する。
この一説は正しく、きっと『古事記』という書名は「令[記]定帝紀及上[古]諸[事]」のうちの[古]・[事]・[記]の3字をもって成立したにちがいない――とわたくしは推断(すいだん)した。
天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた681年から31年後の712年、また「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使が九州の港を出帆してから10年後の712年1月28日に『古事記』は完成して元明天皇(げんめいてんのう)に献上された。
『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。
『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」で〔中巻・下巻とは無関係〕であり、言いかえると【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。
というのも、『古事記』上巻の随所(ずいしょ)に〔音〕という注がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という注がつく「夏音文字」はまったく記されていない。
これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字】について説明している。
この「『古事記』の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と題する。
「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は、下記のごとくである。
「臣安万呂言(しんやすまろまを)す。夫(そ)れ混元既(こんげんすで)に、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)か其(そ)の形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す。」
「古事記上巻 并せて序」の全文に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。
「元明天皇陛下に臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌(こんとん)として凝(こ)り固まっていましたが、気や象(かたち)がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶(どぐう)を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージを有する銀河部がめぐってきたため、初めて天と地に分かれて認識できるようになって、天と地を表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、中期縄文の高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、後期縄文初頭の神産巣日神(かむむすひのかみ)の参柱(みはしら)の【夏の銀河各部の形状】から土器・土偶を作る芸術神(造化の神)における(約2000年間)の伝統によって、首(はじめ・後期縄文時代初頭)において、益氏(えきし)が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏の銀河各部の形状から作られた夏音文字】を習得することができました。」
◆『魏志倭人伝』には「古自(いにしえよ)り以来、其(そ)の使(し)、中国に詣(いた)るに皆(みな)、自(みずか)ら大夫(だいふ)と称す」という記事がある。
日本列島と中国の中間の大海を越えて中国に到着した使者の「大夫」は、万葉仮名では「ますらを」と読まれ、今日の「ますらお」は「益荒男」と表記される。
ゆえに、「大夫・益荒男」という語は「日本列島と中国を隔(へだ)てる、荒波逆巻(あらなみさかま)く大海を横断(おうだん)した益氏の王子と若者たちのごとく、大海を越えて中国に到着した勇敢(ゆうかん)な男性」を意味した。
前記したように、『魏志倭人伝』には――夏代黎明期(かだいれいめいき・紀元前2050年頃)、帝益の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進(ほくしん)して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住した――という歴史を説明する記事がある。
わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の30回~32回の3回をもって詳細に解説し証明したように、
『魏志倭人伝』の後半部にある、
「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)有り。復(ま)た其の東南に在りて船行(せんこう)一年にして参問(さんもん)至る可(べ)き。倭の地を参問するに、海中洲島(かいちゅうしゅうとう)の上に絶在(ぜつざい)し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り。」
という上記の文章は――益氏の王子と若者たちが中期縄文時代末(紀元前2050年頃)の夏代黎明期(かだれいめいき)に、男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住したと伝えている。
司馬遷(しばせん)著『史記』の陳杞世家(ちんきせいか・第六)には、下記のような記事がある。
「帝益の子孫はどこに封ぜられたか不明である。」
益氏の子孫への血を受け継ぐ王子と若者たちが日本列島の地に移住したため、中国に残った年寄りたちの益氏は衰退し滅亡した。だから、中国では益氏の子孫はどこに封じられたか不明となったのである。
◆益氏が教え広めた【夏音文字】について、白川静著『字統』(平凡社発行)は「わが国の漢字音」と題して、9ページの終わりから3行目~10ページの始めから3行目までで、下記のごとく指摘する。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
上記末の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音(夏音文字の字音)である。
『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく「楷書を音符・意符」に用いて記される。
つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字の字源、字形(字源となる銀河各部の形)、原義(甲骨文字の以前の字義)」が解明できる仕組みになっている。
そして、白川静著『字統』が指摘するように、【『古事記』上巻の随所に記される、〔音〕という注がつく夏音文字の字音】が「いま残されている漢字の字音において、最古の漢字音」である。
漢字の〔最も古い字形として残った甲骨文字の字音〕は、不明で現在まで残っていない。
中国における最古の漢字音は、「上古音(じょうこおん)」と呼ばれる。
下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前1046年から始まる周代初頭(しゅうだいしょとう)の字音である。
下図に示すように、『古事記』上巻に残っている夏音文字は紀元前2050年頃の夏代黎明期にわが国が習得した漢字音である。
したがって、中国の最古の字音よりもわが国の夏音文字の字音は約1000年も古い。
実は、わたくしは白川静著『字統』(平凡社発行・1985年1月7日 初版第八刷)を、1985年の11月か12月ころに購入した。
ゆえに、夏代がいつから始まるのか確かな年数を知っていなかった。
陳舜臣(ちんしゅんしん)著『中国の歴史 1 神話から歴史へ』(平凡社発行・1981年1月14日 初版第四刷)の初頭部には中国の三皇・五帝時代や古代文明の年代が記されていたゆえ、これらの記事をもとづいて「夏代(夏王朝)の始まり」は紀元前2000年頃と推定した。
というのも、後述する司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)に記される帝堯代(ていぎょうだい)の四時(しじ・四季)の天文説明における春分点の位置が「紀元前2500年頃」を表示したからである。
ゆえに、帝堯の次が帝舜(ていしゅん)の時代、その次が帝禹(ていう)や息子の帝啓(ていけい)が統治した夏代始めとなるゆえ――夏代は紀元前2000年頃から始まるであろうと推理した。
しかし、2000年の11月10日の朝日新聞の朝刊第3面の「中国最古の夏王朝 紀元前2070年成立」という記事によって、夏代の始まりは紀元前2070年であることを知った。
この記事は、下記のごとく説明していた。
――「夏商周断代工程」と名づけられた研究計画は、中華人民共和国の国家的プロジェクトとして1996年にスタートした。歴史学、考古学、天文学、科学測定などの専門家約200人が4年がかりで取り組んだ。
中国古代王朝の年代確定作業を進めてきた専門家チームは、2000年11月9日、「夏王朝」は紀元前2070年に成立、紀元前1600年に「商」(殷)に滅ぼされ、商は紀元前1046年に「周」に滅ぼされたという結論に達したと発表した。
上記のごとく、「紀元前2070年から夏代が始まる」という説は確かな意見である。
ゆえに、司馬遷著『史記』夏本紀(第二)の記事による「帝益の箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)」、そして「帝禹(ていう)の遺志(いし)・氏族共同政治体制を新天地・日本列島にて継続させる事業を益氏の王子と若者たちによって決行されて、彼らが大海を越えて九州に上陸して男鹿半島・八郎潟の西の偏(ほとり)に定住して【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】などを教え広めるまでには約20年の年月が費(つい)やされた――と推定して、紀元前2050年頃から日本列島各地の氏族たちは【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】などを習得しはじめたと、わたくしは考えることにした。
◆前述したように、わたくしは司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)に記される「帝堯代(ていぎょうだい)初頭の四時(しじ・春分、夏至、秋分、冬至)の夕刻における星の位置の説明記事に注目して、
帝堯代初頭は紀元前2500年頃であることを知った。
それというのも、司馬遷著『史記』五帝本紀における帝堯代初頭の四時の夕刻の星空を説明する記事における、春分点の位置が紀元前2500年頃を表示するからであった。
上記した司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代初頭の天文記事は、下記のごとく記述する。
「日は中(ちゅう)、星は鳥、以(もっ)て中春(ちゅうしゅん)を殷(ただ)す。」
上記の文を現代語に訳すると「昼夜が同じ長さで、【鳥】と名づけた星が夕刻(午後6時)に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めさせた」となる。
上記した「星は【鳥】」という星は、光度が1.8等の、北斗七星の第5星のおおぐま座のε(エプシロン)星である。
わたくしは、上記の帝堯代の春分の日の夕刻の天文図から、春分点の位置で帝堯代初頭の年代を算出(さんしゅつ)するために、紀元前2250年と紀元前2500年の春分点を設定(せってい)した2種の天文図を作成した。
この天文図の作成方法については、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・35」の末部に、過去の春分点の位置を知る算出方法について「歳差状況図(天の北極の位置図)」を用いて詳細に説明した。
この結果、『史記』五帝本紀に記述された帝堯代初頭の春分の日の夕刻の星空の状況が表示する春分点は現在から黄道の北極を中心とした角距離63度過去へもどった紀元前2500年の天文図の位置に合致した。
ゆえに、わたくしは帝堯代初頭を紀元前2500年頃であったと定めた。
下図は、帝堯代の春分の日の夕刻の星空図である。
下図が示し、また『史記』五帝本紀の帝堯代の記事が説明するとおり――紀元前2500年・帝堯代の春分の日の夕刻には【鳥】と名づけられた「北斗七星の第5星のおおぐま座ε星」が南中(子午線通過)しようとしていた。
◆この帝堯代初頭の春分点による時代年数の解明に先立って、
わたくしは、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭氏に【夏の銀河】の提供を依頼する事情について説明する書状を送ると――藤井氏は、早速、このブログ初頭に配した【夏の銀河の写真】を送付してくださった。
そこで、わたくしは藤井旭氏が提供してくださった【夏の銀河の各部】に、下記のごとく名称をつけることにした。
上図のごとく、わたくしは【夏の銀河の写真】の左上から、「三つ輪の銀河」、「十字の銀河」、「激流の銀河」、そして「鬼の姿に似る銀河」と名称をつけたとき、
「頭に角(つの)を生(は)やす鬼の横顔に相似する銀河」には「目が四つ存在すること」に気づいた。そこで、「鬼の姿に似る銀河」を「鬼の横顔に似る銀河」と「鬼の身に相当する銀河」に二分することにした。
下図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「横顔の両目と、後頭部の大きく見開く目の形に相似する銀河部と、アゴにつく細い切れ長の目の形に相似する銀河部があるゆえ、合計四つの目」がある。
上図の「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」こそ、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」の正体であると、わたくしは直感した。
学者たちは、下図に示す後漢の墓の内部から発見された石に刻みつけた画像や古代絵画の「四つ目の、倉頡の肖像画」を見て「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話だ」と早合点して軽率(けいそつ)に断定した。
しかし、【夏の銀河】における「鬼の横顔に似る銀河」には、石に刻まれた画や古代絵画と異なった箇所の「鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴに、目に相似する形の銀河部」がある。
つまり、「古代絵画の倉頡の肖像画」と「鬼の横顔に似る銀河における、四つ目の銀河」は、前者が虚・後者が実(本物)で、前者と後者は別物ということになる。
倉頡伝説における「四つ目の怪人・倉頡の本物」は「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」であり、
いっぽう、古代絵画の「倉頡の肖像画」は「贋物(にせもの)」であったことになる。
学者たちは「四つ目の怪人・倉頡の贋物(倉頡の肖像画)」を見て「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説は荒唐無稽の作り話」と早合点して断定したことになる。
◆「四つ目の怪人・倉頡の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」の東となりは「十字の銀河」である。
下図に示すように、「十字の銀河の左半身(東側)は男性の姿」のイメージとなるが、「十字の銀河の西半身(西側)には乳房・妊婦の腹部(おなか)・子宮に相当する箇所」がある。
ゆえに、わたくしは「十字の銀河」を「女体(にょたい)」に相似すると見立てた。
時は1980年代であった。
1970年代以来、世には「ヒトの1つの受精卵(じゅせいらん)の核(かく)にふくまれているDNAの量は、塩基(えんき)の4文字で約70億字の遺伝的命令文に相当する。この量はアルファベット文字でほぼ30億字の文章となり、大英博物館百科事典の15組分・約360冊に匹敵(ひってき)する」などという情報が満ちあふれていた。
この「DNA遺伝子学の小さな場に大きな情報が入っている」という発見に影響されたわたくしは、「十字の銀河にある子宮に相当する箇所」を「十字の銀河の子宮」と名づけることにした。
そして、現代の分子生物学のDNA遺伝子理論よりもに先駆(さきが)けて――倉頡は「現代のDNA遺伝子理論と同様に、小さな場に大きな情報が入っていると考える「一即多、多即一」という文字作成理論を発明した」と――わたくしは考えることにした。
これゆえ、わたくしは「女体に相似する十字の銀河」は「【夏の銀河各部の形状】から作られたすべての文字が生まれる母体」と考えることにした。
前述したように、わたくしはグラフィックデザイナーを職業としていたため、当時ブームとなるT・R・ブレークスリー著・大前研一訳編『右脳革命』(ブレジデント社発行 1982年3月25日第16刷)を愛読していた。
『右脳革命』が推奨(すいしょう)しているように、「感覚(イメージ)を優先して右脳思考」すると、【夏の銀河各部の形状】は「多数の甲骨文字や周代に作られた金文の字形」に相似すると感じた。
ゆえに、わたくしは「殷代(いんだい)後半から出現した甲骨文字と周代の金文は共に、現代の漢字と異なり、言葉をあらわす記号として作られた左脳思考による文字」ではないと考えることにした。
いいかえると、「甲骨文字と金文は感覚(イメージ)を優先して芸術的造形的に考えて作られた右脳思考の作品、つまり右脳思考によって作られた文字」と、わたくしは考えることにした。
そして、わたくしは【夏の銀河各部の形状】から右脳思考を発揮(はっき)すれば「多数の文字」が作ることができると感じ、また「十字の銀河の子宮」は「【夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む子宮】に見立てることができる推理した。
だから、「倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する、一即多、多即一の理論】を発明したと確信した。
下図に示すように、「腹部(おなか)に子どもが宿る形」に図案される【文】の金文は「妊娠した女性の腹部(おなか)のように腹部が丸い十字の銀河」から作られた――とわたくしは解釈した。
下図に示すように、【字】の金文の上部の【宀(べん)】は「十字の銀河」が字源・字形・字義となり、下部の【子】は「胎児・出産児・乳児などの姿に相似する、鬼の姿に似る銀河」が字源・字形・字義となった――と解した。
というのも、『説文解字』は【字】の字について「乳(にゅう)するなり」と解説するからである。
この「乳するなり」という解説を「乳房を吸う」と解釈して、下図に示すように――【「乳児の姿に似る鬼の姿に似る銀河」が「十字の銀河の乳房」を吸う様子】――に見立てた。
ゆえに、前ページに図示したように、【宀(べん)】(字義は「産屋(うぶや)」)の字源は「十字の銀河」、【子】の字源は「鬼の姿に似る銀河」と解釈して、【字】の字源は「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」と断定した。
あるいは、「古事記上巻 并(あわ)せて序」は「稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦習(しょうしゅう)」について、
「目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)す」と説明しているが、
下図のごとく、上記の文をわたくしは右脳思考して銀河の形状図で表現することにした。
「目に度れば」という文は「鬼の横顔に似る銀河の両目から後頭部につく大きく見開いた目の形をした銀河部・アゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部まで」が表示し、「口に誦み」は「鬼の横顔に似る銀河の口」が示す。
そして、「耳に払るれば」は「鬼の横顔に似る銀河の〔耳〕に相当する箇所にある北アメリカ星雲は耳の形に相似しない」ゆえ、「払って落したごとく、鬼の横顔に似る銀河の耳は存在しない」と示している。
「心に勒す」は「鬼の身に相当する銀河の心臓部にある、心に記し刻む」と意味する。
つまり、「耳に払るれば心に勒す」は――【夏の銀河各部の形状】を見て、そのイメージをあらわす言を口から小声を出して歌うように誦(よ)んで、耳を払い落すようにして雑音を入れずにそのイメ―ジを心に記し刻むようにすれば、【夏の銀河各部の形状から作られたすべての夏音文字】は「十字の銀河の子宮」から生まれたものであるゆえ、すべての夏音文字の字源・字形・字義は知ることができる――と意味したことになる。
つまり、稗田阿礼が暗誦(あんしょう)していた夏音文字で記されていた『古事記』上巻の原典『上古の諸事』の文章は――今日の流行歌手が500曲~600曲もの多数の詞を暗誦しているように、記憶力を増大させるために小声に出して歌う(これを、「口に誦み」と表現した)方法で、【夏の銀河各部の形状】を情景化して、この情景を心象化(しんしょうか)して覚えていたことになる。
◆以上のごとくからして、「十字の銀河」と「四つ目の怪人・倉頡の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は、【夏の銀河各部の形状から作られた全漢字の中枢部(ちゅうすうぶ)ということになった。
「十字の銀河の形」は【大】字形である。
前ページで指摘したように、『魏志倭人伝』には「大夫」という語が記される。
「大夫」の【夫】の字形は上部の「簪(かんざし)」をあらわす図書【一】に下部の【大】が加わって成立する。
「字書の聖典」と呼んで古代の人々が尊重した『説文解字(せつもんかいじ)』は【夫】の字について、
「丈夫(じょうぶ)なり。大に従ふ。一を以(もっ)て簪(しん)に象(かたど)るなり。周制(しゅうせい)。八寸を以て尺と為(な)し、十尺を丈と為す。人は長(たけ)八尺なり。故に丈夫といふ」と解説する。
周制の「一尺」は今日の「22.5㎝」である。
そうすると、上記した「人は長八尺なり。ゆえに丈夫といふ」という『説文解字』の解説は――【夫】の字源となる「十字の銀河」の見掛けの大きさは、健康で丈夫な背の高い男性の、八尺(180㎝)くらいの身長とほぼ同じである――と説明していることになる。
上記したように、『説文解字』は「十字の銀河の見掛けの大きさ(身長)」を「十尺を丈(一丈)と為す。人の長八尺なり」と指摘する。
ゆえに、「十字の銀河の見掛けの大きさ」は下図のごとくになる。
つまり「十字の銀河の頭部から足までの身長」は「八尺・八度」、「十字の銀河の頭が被(かぶ)る飾り」が「二尺・二度」、ゆえに「十字の銀河の頭が被る飾りから足までの大きさ」は「一丈・十尺・十度」ということになる。
わたくしは、藤井旭氏から提供された【夏の銀河の写真における「十字の銀河」】の身長を、つまり上図に示した「十字の銀河の頭が被る飾りから足まで」を――印刷用製版カメラで「10㎝(10度)」に拡大して「1㎝・1度・1尺」になるようにした。
次に、天の北極と春分点の位置が紀元前3500年と紀元前3000年となる2種の天文図を作製した。
最初に、紀元前3000年の天文図で、黄帝陵(黄帝を祀る廟と墓)と黄帝軍が遠征した長江口(長江の河口中央)の緯度線(天頂緯度線)と、全漢字の中枢部となる「四つ目の怪人・倉頡の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」と「十字の銀河」の関係を調べることにした。
そうすると、「紀元前3000年における長江口と黄帝陵の天頂緯度線」は、下図のごとくになった。
下図に示すように、紀元前3000年では――「四つ目の怪人・倉頡の銀河の後頭部につく大きく見開いた目の形の銀河部中央」を貫通する+赤緯35度35分は「十字の銀河の頭部中央」を貫通して、北緯35度35分の黄帝陵の天頂緯度線ということになった。
また、北緯31度30分の長江口の天頂緯度線(+赤緯31度30分)は「四つ目の怪人・倉頡の銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部中央を貫通して、「十字の銀河の子宮中央」を貫通していた。
ゆえに、下図の状況から、わたくしは「倉頡伝説は事実を伝えている」と確信した。
◆倉頡伝説は、下記のごとく説明する。
「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、〔鳥獣の足跡〕をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄(けつじょう)に代(か)えたので、天は祝福して禾(か・穀物)を降らせ、死霊の感泣(かんきゅう)する声が夜(よ)な夜な聞こえたという。」
前述したように、わたくしは「夜な夜なに出現する【夏の銀河各部の形状】から文字(漢字)は作られた」と考えていたため、
倉頡伝説が「倉頡がはじめて文字を作り、古来の結縄に代えたので、天は祝福して禾を降らせ、死霊の感泣する声が夜な夜な聞こえた」という説明を、
「倉頡がはじめて文字を作り、古来(三皇時代)の結縄、つまり易占(うらない)に用いた記号に代えて、倉頡がはじめて文字を作り、三皇時代に大王となって天下を治めた包犠(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)三氏族の天に昇った死霊は夜な夜なに出現する天頂の銀河の輝きとなって、いっせいに感激して涙を流して泣き祝福して、三氏族の死霊の涙は恵(めぐ)みの雨となって降り、豊かな禾(穀物)を地上にもたらした」と、芸術的に造形的に右脳思考をもって解釈した。
言語をあつかって「一度に一つずつ進行する論理的思考」に長(た)ける左脳思考の場合、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」と表現されるであろうが、
【夏の銀河の各部の形状】を感覚(イメージ)でとらえる造形的能力に優(すぐ)れる複数の心象(イメージ)を同時に進行することができる右脳思考だと――「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」を当然、「文字を発明した倉頡」と「四つ目の銀河」を合体化して「四つ目の怪人・倉頡」と表現されることになったと、わたくしは考えた。
だから、上図に示した「紀元前3000年における長江口(ちょうこうこう)と黄帝陵の天頂緯度線図」は「倉頡伝説が事実であること」を証明していると考えた。
というのも、下図に示すように――【「四つ目の怪人・倉頡の銀河」は跪(ひざまず)いて「十字の銀河」を尊び敬い仰ぎ見て拝礼(はいれい)する姿勢(ポーズ)】に観えたからである。
ゆえに、わたくしは「十字の銀河」を「黄帝」に見立て、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」を「黄帝につかえた倉頡」に見立てた。
だから、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわしていると、わたくしは確信した。
そして、下図のごとくも、倉頡伝説の説明について考えた。
倉頡伝説の「天は祝福して禾(か・穀物)を降らせた」という説明における「地上を祝福する天」は「十字の銀河」と解釈した。
禾(稲)はじめ粟(ぞく・穀物)などの作物(さくもつ)は、天から降る雨によって枯れずに育つ。
ゆえに、倉頡伝説はイメージを重視する右脳思考にもとづいて「天は祝福して禾を降らせる」と造形的に表現するものであったことになる。
下図に示すように、「四つ目の怪人・倉頡の銀河」は【倉】【蒼】【吉】【頁】【頡】【蔵】【臓】などの字源となったと解釈した。
下図に示すように、「十字の銀河が重なる乳房から四つ目の怪人・倉頡の銀河における口までに垂れる三本線の銀河部」と「十字の銀河の右手(西側の手)から四つ目の怪人・倉頡の銀河の角(つの)や額(ひたい)までに垂れる三本線の銀河部」は「天から降る雨」または「天から降る禾」をあらわすイメージとなる。
前ページに配した「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」にて示したように、「中国南部の長江の河口中央(北緯31度30分)」の天頂には「十字の銀河の子宮」がめぐってきた。
長江口の真西には太湖(たいこ)が所在する。
長江口・太湖地方は、禾(稲)がよく育つ適性育成地である。
ゆえに、下図に示すように、倉頡は「長江口・太湖地方や長江口南部で育つ、禾(稲)の穂」を「十字の銀河の子宮」や「十字の銀河の股(また)」がある南方に向け、
「禾の穂」を「鬼の姿に似る銀河(四つ目の怪人・倉頡の銀河)の食物(禾、つまり米や麦の飯)を食べる口がある西へと垂らす(転回する)」と定めて、【禾】の字を創(つく)ったと考えることにした。
だから、下図の左上に示したように、倉頡が創った【禾】の字は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
上図の「十字の銀河は、前述したように「女体」に相似するゆえ、【禾】の下に【女】が加える【委(い)】の字も倉頡が創った【禾(か)】の字源を受け継いで「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するため、【人偏(にんべん)】に【委】を加える【倭(わ)】の字も倉頡が創った【禾】の字源を受け継いで「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。
白川静著『字統』はじめすべての字典は【禾】【委】【倭】の字源が「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定をあらわす」と解説しない。
しかし、上図の右下に配した【禾】の契文形(けいぶんけい・殷代後半に出現した甲骨文字の字形)は【禾】の字源は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」を表現している。
倉頡は、上図の「【禾】の字源銀河解説図」における「横になる【禾】の字形」は、そのままだと不自然であると考えた。
上図の右下に配した契文形のごとく、倉頡は【禾】の字形を「イネ(稲)が地面に植わる形」にした。
下図に示すように、倉頡は(1)「禾の穂が南から西へ90度垂れる図書」を、(2)禾の根が地面に植わるように180度天地をひっくり返す形にしたが、「禾の穂は逆時計回りに90度転回する北から西へと垂れる形」になって矛盾した。
このため、(3)「南から西へと転回するように、禾の穂が時計回りに90度転回する北から東へ垂れる形」に、【禾】の字形を定めた。
前ページに示した「【禾】の字源銀河解説図における、右下の【禾】の契文形」は、上図の(3)の図書の形と合致して、【禾】の字形(契文形)は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしている。
なお、上図の(3)の図書(契文)が「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしていることを、
下の左図(契文形)は「禾(稲)の穂が、北から東へ垂れる(時計回りに90度転回する)形」となって明確に示すようにした。
そして、上図の左上の「十字の銀河の中央に、【禾】の稲(穂・茎・葉・根)をあらわす図書を重ねる様子」から、
下図に示すように、【大】字形の「十字の銀河」が【天】の字源・字形となることが推定できた。
というのも、【天】は【大】(大字形)の上に【一】の図書を加えて構成されるからである。
上記の推定にもとづき、不弥国(ふみこく)の宗像王の名が「天菩比命(あめのほひのみこと)」であることに注目した。
そうすると、天照大御神・大和王朝に逆らって抵抗した出雲国造(いずもこくぞう)の名も「天菩比命」であり、「天菩比命」は「天穂日命(あめのほひのみこと)」とも表記することにもおのずと注目することになった。
「稲の苗は2、3本であるが、育って実(米)がみのって穂が垂れると稲の茎の本数は倍以上に増えている。」
ゆえに、【菩】の字は「禾(稲)は穂が実るときに茎が【倍】に増える草である」とあらわしていると考えた。
つまり、【咅】の字から【菩】と【倍】の字が作られたことになる。
というのも、【咅(稲)】は「成熟すると茎が【倍】に増える草」であるから、【草冠】に【咅】が加わる【菩】という字が作られ、【人偏】に【咅】を加える【倍】の字が作られた。
このような秘密にもとづいて、「天菩比命」は「天穂日命」とも表記されることになり、【菩】の字は「穂が実ると茎が倍に増える草」と示していることになる。
だから、「天菩比命」という名は【天】の字源「十字の銀河の中央」に、「稲の穂の図書」を重ねて、【禾】【委】【倭】の字形は「現在方位を時計回りに90度転回する方位規定」を伝えているにちがいないと、わたくしは考えた。
以上をもって、わたくしは「倉頡伝説は事実を伝えている」と確信した。
◆このブログの前ページにて指摘したように、わたくしは「五帝時代初頭の黄帝時代の年代」を調べるために、紀元前3500年と紀元前3000年の天の北極・春分点をあらわす2種の天文図を作製した。
実は、この2種の天文図は天の北極と春分点の位置は異なるものの、黄帝陵(北緯35度35分)の天頂緯度線は共に「四つ目の怪人・倉頡の銀河の後頭部につく大きく見開いた目の形をした銀河中央から、十字の銀河の頭部の中央」を貫通してほぼ同一であった。
ゆえに、この「歳差状況図(天の北極の位置図)」をもとづく年代算出方法では、黄帝時代は紀元前3500年、または紀元前3000年ということになった。
そこで、このブログの前ページで紹介した「夏商周断代工程」と名づけて中華人民共和国が国家的プロジェクトとして1996年にスタートして、歴史学、考古学、天文学、科学測定などの専門家約200人が4年がかりで取り組んで2000年11月9日に結論に達した、
紀元前2070年に「夏王朝」が成立、紀元前1600年に「商王朝(殷王朝)」がはじまり、紀元前1046年に「周王朝」が始まったという意見にもとづき、
さらに、このブログの前ページにて紹介したように、司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代(ていぎょうだい)初頭の天文記事における春分点の位置・紀元前2500年をも考慮して、
五帝時代冒頭の黄帝時代初頭は紀元前3000年頃であったと、わたくしは決定することにした。
上記したように、商王朝(殷王朝)は554年間存続し、夏王朝は470年間存続し、帝堯代から夏代初頭までは430年間ということになる。
五帝時代は、(1)黄帝時代、(2)帝顓頊(ていせんぎょく)時代、(3)帝嚳(ていこく)時代、そして(4)帝堯時代・(5)帝舜(ていしゅん)時代と続くゆえ、
上記した商王朝の554年間と夏王朝の470年間の存続からして――黄帝時代初頭から帝堯代初頭までは約1000年間よりも約500年間であったと考えたほうが妥当(だとう)な意見であろうと考えて、
わたくしは「黄帝時代は、帝堯代より約500年前の紀元前3000年頃(BC3000年頃)から始まった」と決定することにした。
◆以上、わたくしの意見を図表に表示すると、下図のごとくになる。
なお、中国の西安(せいあん)郊外の半坡(はんぱ)遺跡から、合計112点の記号が発見され、記号の種類を整理すると全部で22種類にまとめられた。
中国の学界は半坡遺跡の推定年代は紀元前4800年~紀元前4300年であるとする。
また、黄河流域に栄えた大汶口(だいもんこう)文化の遺跡から発見された陶器上には絵文字にちかい図書がほどこされていた。
大汶口文化全体の年代は紀元前4300年頃から始まり、紀元前2500年頃に龍山(りゅうざん)文化へと進展したと、中国の学界では考えられている。
半坡遺跡から発見された記号と大汶口文化の遺跡から発見された図書を、中国では「陶文(とうぶん)」と呼ぶ。
この「陶文」を、わたくしは「三皇時代、つまり包犠氏(ほうぎし)の時代、女媧氏(じょかし)の時代、神農氏(しんのうし)の時代」の、易占(うらない)に用いた記号の結縄(けつじょう)であったと推定し、
三皇時代の始まりは紀元前4300年頃~紀元前4000年までであったと推定し――上図の「漢字生長史」には「三皇時代の始まりを紀元前4000年頃(BC4000年頃)」と表示した。
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