まぼろしの邪馬台国

2022年11月13日 (日)

家康くんと『魏志倭人伝』#6

◆邪馬台国説は真っ赤なウソだ 絶対に信じてはならない アホみるから 信じるな
 邪馬台国説は正しい、誤っていないとウソをまき散らし・デマを流す学者たちはじめ NHKテレビと朝日新聞社は日本国家の土台と日本をぶっ壊す 最悪の日本のガンだ
 このままでは、日本は壊れてしまう 日本文化の学問の土台と 日本の伝統と歴史 日本の発展と前進力が 無責任な邪馬台国説学者たちや NHKテレビ・朝日新聞社のために衰弱して滅びる 
 邪馬台国説を正しいと思いこむ学者たち・NHKテレビ・朝日新聞社は単なるアホだ トンマで 大ウソつきだ
 邪馬台国説は完全なる空理空論 真っ赤なウソ 100パーセントのデタラメである事実がいとも簡単に容易に科学的に証明できる方法がある
 小学5年生でも 邪馬台国説が空理空論 真っ赤なうそ・デタラメである事実が簡単に わかる方法がある
 だから 邪馬台国説学者たち 邪馬台国が正しいとデマを流す無責任なNHKテレビと朝日新聞社は 小学5年生もわかるウソを見抜けないアホで トンマで ウソつきなんだ
 これから このブログは 小学5年生レベルで 邪馬台国説が空理空論 間違いなしのウソ・デタラメであると断定できる 【科学】が成立する方法を説明する

◆3世紀後半(280289)、中国の晋(しん)王朝につかえた著作郎(歴史編纂官)であった陳寿(ちんじゅ)は魏書・蜀書・呉書からなる『三国志』を著作した。この『三国志』魏書・東夷伝(とういでん)末部にある倭人伝を、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよぶ。
 3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』の原書は残っていない。12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)として残っている。
 南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』は、倭女王・卑弥呼が倭人国の首都と定めた地所(女王国)の名を「邪馬壹()(やまいこく)」として記す。ゆえに、学者たちやNHKテレビや朝日新聞が主張するごよく、「邪馬臺()国」と記していない。
 学者たちは3世紀後半に著作された原初が残っていないから、多分、学者たちは――12世紀の刊本は「邪馬臺()国」と記すべきところを「邪馬壹()国」と誤記した――と思っているのであろう。でも、本音(ほんね)は「邪馬臺()・やまたい」が「大和・やまと」や「山門・やまと」の音に近いから、卑弥呼が住んだ女王国名は「邪馬台国だった」と思い込んでいるにちがいない。
 古代史研究家の古田武彦氏は『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社発行)を著作した。『「邪馬台国」はなかった』にて、古田氏は『三国志』全体に記される[]()86個、[]()
56
字個一つ一つテイネイに調べ、[]()[]()のあいだには誤記の事例がないと指摘した。
 そして古田氏の指摘に合致して、約2000字構成される『魏志倭人伝』の全記事によって――卑弥呼が居住した女王国の名称は「邪馬壹()国であった」と証明できる。この「邪馬壹()国が正しい。邪馬臺()国は空理空論である」という事実を知るためには、このブログのテーマ「小学5年生レベルの科学」が第一歩となる。
 上記したように、小学5年生レベルの科学知識によって邪馬台国説は空理空論、真っ赤なウソ、デタラメであるという事実が明白になると、この延長線上に卑弥呼が居住した女王国の名は「邪馬壹()国」が正しいことが証明される。
 NHKテレビ・朝日新聞社が「事実であるにちがいない」と無責任なデマを流す邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説は、天の北極・北極星がある方角を〔北〕と定める現在の日本列島地図を立論基盤にする――この論法は、小学5年生のレベルで即刻(そっこく)空理空論・即デッチアゲだと断定できる。こんな簡単明白な小学5年生でもわかるウソをNHKテレビ・朝日新聞社が見抜けないというテイタラクはとてもじゃないがジャーナリズムと呼べない、明確にジャーナリスト失格であると言わざるをえない。

◆邪馬台国説をとなえる学者たちは――【天の北極・北極星がある方角を〔北〕と定める現在の日本地図】を用いて、日本列島における九州以下の本州地図における方位を論ずる。しかし、この考え方は即刻に空理空論ということになる。というのも、邪馬台国説学者たちが主張するように現在の日本列島地図と同じ方位規定では、中国()や帯方郡が所在す朝鮮半島と日本列島と遠く隔たる大海を、倭国の使者たちが往来できなくなるからである。
 倭国の使者たちが中国・朝鮮半島と日本列島の中間の大海を往来できなかったことになると、魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになる。したがって、中国は倭国の様子をまったく知らないことになるゆえ――『魏志倭人伝』には卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)の倭国の様子がまったく記述されていない、つまり『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていなかったことになる。この結果、邪馬台国説はただちに空理空論となる。
 要するに、中国・朝鮮半島と日本列島をはるか遠く隔たる大海を倭の使節が往来して卑弥呼が書いた文書や使者たちの言によって倭国の様子を魏に伝えることができたゆえに『魏志倭人伝』が著作されたという事実が成立するためには――現在の日本列島地図における方位規定は通用しない。
 卑弥呼王朝は現在の日本列島地図の方位規定と異なり、【倭の死使者たちが中国・朝鮮半島と日本列島の中間の大海を往来できる方位規定】で九州以下の本州における方位規定を定めていた。言いかえると、卑弥呼王朝は「倭国」の[]の字源にもとづいて九州以下の本州における方位規定を制定していた。
 つまり、国名「倭国」の[]の字源は「時計回りに90度に転回する方位規定」であった。このため、卑弥呼王朝は九州以下の本州における方位を現在の日本列島の地図における〔北〕を[]の字源にもとづいて時計回りに90度転回して〔東〕となる、また現在の日本列島地図の〔東〕は〔南〕となる、現在の日本列島地図の〔南〕は〔西〕となる、現在の日本列島地図の〔西〕は〔北〕となる――というぐあいに、九州以下の本州における方位を現在の本州地図の方位に対して時計回りに90度転回する方位を規定していたと、『魏志倭人伝』は記述していた。
 この「時計回りに90度転回する本州地理における方位論」は、上記したように、倭の使節が中国・朝鮮半島と日本列島をはるか遠く隔てる大海を往来できる科学によって成立するものであった。

 上記したように【天の北極や北極星がある方角を〔北〕の基準とする、現在の日本列島地図の考え方】の場合――倭国の使節も、魏と魏の出張政庁機関の朝鮮半島の帯方郡の使節も、魏と倭国の中間の大海を往来することができなくなる。このため、魏と倭は国交を結ぶことができなかったゆえ、約2000字で構成される『魏志倭人伝』には瞬時(しゅんじ)に文字が1字も書かれていない白紙であったことになる――だから、「『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない真っ白な白紙だった」という事態となる邪馬台国説はただちに空理空論、デッチアゲ、デタラメであったと証明されることになる。
 下図は、【25,800年で一周する天の北極(円周線上)と各時代の北極星の位置図】である。
 大地における各地あるいは大海における天の北極による緯度は、北極星が描く中心となる天の北極の高度(地平線・水平線から天の北極までの高さ)によって定まる。
 たとえば、天の北極の高度が北緯3515分である大海上の地点の緯度は、北緯3515分となる。
 下図の上部における「α」は「現在の北極星のこぐま座α星と、BC(紀元前)3000年ころの北極星のりゅう座α星」である。この二つの北極星は、天の北極と重ならずに、約0.75

(45)離れている。ゆえに、この二つの北極星は、天の北極に最も近づく北極星である。
 北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790年のりゅう座α星と、西暦2100年ころのこぐま座α星は天の北極から約0.75(45)離れていた。ゆえに、この二つの北極星は天の北極を中心にして半径約0.75(45)・直径約1.5(90)の円を描いていることになる。
 だから、この二つの北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、約90分の円の直径の中心(天の北極)をキャッチすることになるが、この方法では【人類の目は命を失わずにすむ1度の60分の11分の誤差内の精度】で測定できる能力を有していなかった。
 だから、古代においては、天の北極の高度を緯度換算する方法で大海を渡りあるいは遠くの地所まで旅すると、人々は必ず[]を失い絶たれて家族が待つ家へ帰還することができなかった。
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 上図の右上に示したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星・こぐま座β星は天の北極から約10(1度=60分の10倍の、600)も離れていた。ということは、卑弥呼時代の北極星は天の北極を中心にして直径約1200分の円を描いていたことになる。約1200分の円を描く、その円の中心となる天の北極の位置を人間の目は[]を失わずにすむ1分以内の精度で測定できる能力を有していない。だから、遠くの地に旅するときや大海を往来するとき、人々は北極星を目印にして天の北極の高度で緯度換算すると必ず[]を失うことになった。
 この科学的事実を無視・排除して、邪馬台国説は天の北極の方角を一括(いっかつ)して〔北〕を定める現在の日本列島地図を立論基盤とする。
 上記したように、もしも卑弥呼時代において現在と同じく天の北極を緯度や経度の基準に用いてたならば、倭国の使節も魏の使節も帯方郡の使節も[]を失って大海を往来できなかったことになる。したがって、邪馬台国説の論法だと『魏志倭人伝』の約2000字の全文字はパット白煙が立ち上って1字も残らず消えてしまうことになる。
 このように、現在の日本列島地図を立論基盤とする邪馬台国説の論法だと「『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていない白紙であった」という現実離れの空理空論となる。
 小学5年生のレベルの科学によって、【天の北極の高度を緯度に換算する方法では、わの使節は中国と日本列島を遠く隔てる大海を往来できなかったこと】になる。
 にもかかわらず、邪馬台国説学者たちやはじめNHKテレビや朝日新聞社は【現在の日本地図を用いて立論する邪馬台国説の空理空論、デタラメ、真っ赤なウソとなる実体】にまったく気づかず、われわれ国民をマインドコントロールしようと躍起になっている。 
 このように、邪馬台国説を絶対に正しいと思い込む学者たちとNHKテレビと朝日新聞社は小学5年生レベルの科学知識を有していない。
 このような小学5年生レベルで即刻に空理空論と断定できる邪馬台国説の悪影響は、『魏志倭人伝』の研究はもちろん、『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』の研究はじめ、あるいは日本古代史や日本古代漢字学・言語学にも甚大な損害・被害が及んで、日本の学問の土台を蝕(むしば)み日本の発展と前進力と創造力を衰弱させている。
 だから、邪馬台国説を正しいとデマを流して日本国民を洗脳することに夢中になるNHKテレビや朝日新聞社は一流ジャーナリズム気取りでいるが、小学5年生レベルで邪馬台国説の空理空論、デッチアゲ、デタラメに実体に気づかない実にお粗末な組織ということになる。なぜならば、小学5年生レベルの科学によって証明できる邪馬台国説のウソを暴露する任務がジャーナリズムの使命であって、邪馬台国説のお先棒をかついでデマを流す行為は自らが背負っている使命を放棄した愚かな自殺行為だからである。

◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭国の使者中国に詣(いた)るに皆、自(みずか)らを大夫(だいふ)と称す。夏后(かこう)少康(しょうこう)の子が会稽(かいけい)に封ぜられる」と伝える記事がある。
 この記事は「中国の夏后時代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、“夏の始祖”と呼ばれる帝禹()の遺言によって益(えき)が帝位についた。この帝益の孫の王子と若者たちが帝禹の遺志である氏族共同体制を日本列島に根付かせるため、今から約4000年前、大海を横断して日本列島の東北地方に定住した」と説明するものであった。ゆえに「倭国の使者は大海を渡って中国に到着すると、皆、自らを“大夫”と称した」という記事の「大夫」が「夏代(かだい/夏后時代)初頭に日本列島の東北地方に定住した帝益の孫の王子と若者たち」であることを表示するために「夏后(夏王朝)の帝王少康の子(王子)が浙江省(せっこうしょう)の会稽に封ぜられた」という記事が補足説明されることになったのである。
 司馬遷(しばせん)著『史記』夏本紀には「帝禹は益に政治をまかせてこと十年、東に巡行して会稽に至って崩じ、天下を益にさずけた。三年の喪()が終わると、益は帝位を禹の子の啓(けい)に譲(ゆず)って、箕山(きざん)の南に隠れ棲()んだ。禹は崩ずるときに帝位を益にさずけたが、益が禹の政治を補佐して政務にあたった日が浅かったので、天下はまだ益の徳をあまねく知らなかった。それゆえに、諸侯はみな益のもとを去って啓のもとに入朝した」と説明する記事がある。
 『史記』夏本紀に登場する「会稽」は、『魏志倭人伝』における「夏后の帝王・少康の子(王子)が封ぜられた会稽」と同じ浙江省の会稽ではなかった。『史記』夏本紀が「帝禹が崩じた」と記した「会稽」は「現在の中国の首都・北京市の東の天津市であった」と考えられる。つまり、夏代初頭・帝禹時代の首都は会計・北京市、帝禹の政治を補佐した王の益が住んでいた地が北京市の東の天津市・会稽であったと考えられる。というのも、帝益の孫の王子と若者たちは日本列島・東北地方の男鹿半島から米代川(よねしろがわ)流域に定住したからである。北京市・天津市と益氏が定住した男鹿半島から米代川流域は同緯度である。だから、益氏の王子と若者たちは帝禹が住んだ北京市・会計と補佐役の王・益が住んだ天津市・会稽と同緯度の男鹿・米代川流域圏に定住して日本列島移住の目的を達成したことになる。
 上記したように、益氏の王子と若者たちが日本列島に移住した夏代初頭は、後期縄文時代初頭に相当する。北京市・天津市と同緯度の東北地方における秋田県北秋田市に所在する伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡と秋田県鹿角市に所在する大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)には、益氏がもたらした夏代初頭の学術の痕跡が残っている。

◆司馬遷著『史記』夏本紀には説明されていないが――帝禹は五帝時代以来の多数の氏族が共同して政治体制を組織し、多数の氏族の中でもっともすぐれた人物を帝王に選び、国家を樹立しない、いわゆる氏族共同政治体制の継続を願った。一方、帝禹の息子の啓は氏族共同体制を廃止して国家を創設して特定の家が世襲して天下を治める王朝体制を願った。このように、帝禹と息子の啓が望む政治体制は相いれず対立していた。ゆえに、帝禹は崩じるとき、益に氏族共同体制の継続を遺言して帝位をあたえることにした。しかし、諸侯たちは帝禹の遺志に反対し、啓の世襲王朝国家体制に賛同して啓のもとに入朝した。このため、帝益はもはや中国では氏族共同体制は継続できないと考えて禹の喪が終わると啓に帝位をゆずって、箕山の南に地に隠居した(隠れ棲んだ)。そして、帝益は禹の遺志・氏族共同体制の継続を新天地・日本列島で成就すると決意した。ところが、老いた帝益には中国と日本列島を隔てる大海を小舟で漕いで横断できる体力を失っていた。このため、たくましい若い孫の王子と若者たちによって大海横断がなされることになり、帝禹の遺志・氏族共同体制継続事業が決行されたのである。
 これゆえ、中国では今から約4000年前に国家が最初に創設された。しかし、益氏の王子一行が定住したわが国では中国よりも約2200年も遅れて・今から約1800年前の2世紀末、卑弥呼によって国家が最初に創設されることになったのである。

 益氏の王子の日本列島定住は、『魏志倭人伝』の記事の他に、『日本書紀』の巻第三・神武天皇紀初頭の〔天祖降臨記事〕にて指摘されている。したがって、「帝益の孫の王子」を『日本書紀』は「天祖・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)であった」と伝えている。
 帝益の孫の王子・彦火瓊瓊芸命は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論を教えひろめた。また、益氏は五帝時代末の帝舜(ていしゅん)に命じられ、代々約200250年間、中国の精密な海岸線地図を作製する「虞()」という要職に従事した。ゆえに、天祖と益氏の若者たちは、当時中国における最先端の中国の精密海岸線地図と正確な地図作製方法をわが国にもたらした。
 これゆえ、上記した北秋田市の伊勢堂岱遺跡と鹿角市の大湯環状列石には、〔1〕【倉頡が発明した漢字作成理論】と、〔2〕正確な地図作製方法が渡来した痕跡が現在も残っている。
 また、『魏志倭人伝』の大半の記事は益氏の王子一行が教え広めた〔1〕【倉頡が発明した漢字作成理論】と、〔2〕【精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法】の両学術の説明で占められている。
 『魏志倭人伝』は「邪馬台国説」とはまったく無関係な古文献だったのである。
 『魏志倭人伝』は〔1〕【倉頡が発明した漢字作成理論】と、〔2〕益氏が教えひろめた【精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法】を説明する文献史料であったのである。

◆上記したように、『魏志倭人伝』は新井白石(あらいはくせき/16571725)以来の邪馬台国説とまったく無関係の、【倉頡の漢字作成理論と、益氏が伝えた精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法】を説明する文献(学術書)であった。これについては、前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」にて詳細に解説して証明した。
 前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」末部にて指摘したように――『魏志倭人伝』を正しく理解するためには、以下の四つの要素を前もって知っていなければならない。
【一】「漢字」は「銀漢・夏の銀河」から作られた。「天の川・夏の銀河」の別称は「銀河」あるいは「銀漢」であり、「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」とよぶことになったのである。『魏志倭人伝』は「銀漢から作られた文字」であるから「漢字」と名づけられた事実を【科学】が成立して証明できる書物であったのである。
【二】前述したように――邪馬台国説のごとく、現在の日本地図にもとづいて『魏志倭人伝』のおける九州以下の本州地図の方位を論ずるのは根本的に誤っており、ふつうではない異常な誤った考えということになる。卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、中国の王朝とわが国の卑弥呼王朝における学問では、地理の方位を倉頡が作った[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」と[]の字源「反時計回りに90度転回する方位規定」で定めていた。
 その証拠に、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)における直木孝次郎教授が執筆した「邪馬臺国の位置論」は――明治時代の歴史学者・内藤湖南(ないとうこなん)は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』勿吉(ぶつきち)伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「南」は「東」と解するべきであるとした―と指摘している。
 上記の『後魏書』は6世紀半ばに著作された。したがって、中国では方向をいうとき、6世紀半ばまで――【倉頡が作った[][]の字源】にもとづいて、内藤湖南が指摘したように現在の地図における〔東〕を中国北部では倉頡が作った[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定で〔南〕といい、あるいは〔南〕を中国南部では倉頡が作った[]の字源「反時計回りに90度転回する方位規定」で〔東〕と定めていたのである。(注 この詳細は、前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」を参照)
 わが国においては、新井白石以前の学問において、『魏志倭人伝』における「九州以下の本州列島地理の方位においては、倉頡が作った[]の字源を受け継ぐ[]の字源にもとづいて時計回りに90度転回して現在の日本地図における〔東〕は〔南〕であった」と考えなければならないと定まっていた。
 その証拠に、1568(永禄11)の織田信長書状における印判に用いた「天下布武」という語は現在の日本地図における九州以下の本州地理の〔東〕を〔南〕と定める倉頡が作った[][]の字源にもとづいて成立するものであった。また、徳川家康は関ケ原合戦の4カ月後の1601年正月に譜代大名の筆頭の井伊藩に[][]の字源にもとづく〔3000万坪の大鳥の形をした地図の作製〕を命じ、井伊藩は1603年から着工して20年後の1622年に現在の彦根市の行政区域を表示する地図、つまり〔3000万坪の大鳥の地上絵〕を完成させている。ゆえに、現在の彦根市の行政区域を表示する地図の形は[][]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」を表示する遺跡であったことになる。
 また、このブログの「家康くんと『魏志倭人伝』」のテーマとなる遺跡「江戸城(現在の皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路()」は、家康は[][]の字源「時計回りの90度転回する方位規定」をあらわす遺跡であった。
 下に現在の日本地図にもとづく「家康が設計した江戸城から発する渦巻の水路」を示した。
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 家康は『魏志倭人伝』における九州以下の本州地理の方位は[][]の字源にもとづいて「時計回りに90度転回する学術知識」を有していた。ゆえに、家康は「江戸城から発する隅田川までの水路」を「[]の古代字形」に合致するように、現在の日本地図の〔東〕(水路の出ずる隅田川)が時計回りに90度転回して〔南〕となるように設計して、家康は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と表示した。(注 この詳細は、前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」を参照)
 下図が示すように、家康は『魏志倭人伝』の九州以下本州地図の方位は[]の字源にもとづいて「時計回りに90度転回する学問知識」を有していた。だから、現在の日本列島地図の通りに考える邪馬台国説は空理空論であったのである。
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【三】現在、学者たちによって「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と断定されている。しかし、学説に反して「倉頡伝説」はすべてほんとうであったのである。というのも、約2000字で構成される『魏志倭人伝』に説論する学者たちの意見=主観をいっさい加えず、つまり1ヵ所も【誤読=文献批判】を加えずに客観性に徹底して読解すると「倉頡伝説はすべてほんとうであった、学者たちの意見こそが荒唐無稽のデタラメであった」と【科学】が成立して証明されるからである。
【四】上記したように、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱国・山陰の出雲に居住した。卑弥呼は【倉頡の漢字作成理論と、益氏が伝えた夏代初頭の学芸】にもとづいて天下を治めた」と理路整然と説明する教科書であったのである。ゆえに、邪馬台国説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論、デタラメの産物であったことになる。

◆上記したように、『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、倭国の使者は中国に詣(いた)るに皆、自らを大夫(だいふ)と称す。夏后少康の子が会稽に封ぜられる」と説明する記事がある。
 上記の記事が伝えていたように、中国と倭国をはるか遠く隔たる大海を横断して中国に到着した倭国の使者たちは自らを「大夫」と称した。万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、万葉仮名の「ますらを」は現在「益荒男」と記す。ゆえに、「益荒男」つまり「大夫」という語は「益氏の王子と若者たちが横断した、荒波が逆巻く中国と日本列島をはるか遠く隔たる大海を横断して中国に到着した男(おのこ)」と意味したことになる。「益氏の王子一行以後、大海を横断して中国に到着した日本列島の使者たち(住人たち)」は自らを「大夫、益氏の王子一行のごとくの立派な男児」と称(たた)えて、自画自賛していたことになる。ゆえに、司馬遷著『史記』が「夏王朝の4代帝王は少康であった」と伝える、その「少康の王子が浙江省の会稽に封ぜられた」という歴史が『魏志倭人伝』に記述されたのである。
 司馬遷著『史記』夏本紀には「少康の子が会稽に封ぜられた」という記事は存在しない。『史記』は「夏后啓帝が崩じて、その子の帝太康(たいこう)が立った。帝太康が崩じて、弟の中康(ちゅうこう)が帝位についた。帝中康が崩じて、帝相(しょう)が帝位についた。帝相が報じて、その子の少康が帝位についた」と伝える。夏王朝における初代啓帝から5代目の帝王が少康であった」のである。この「帝少康の子が会稽に封ぜられた歴史」が『魏志倭人伝』に記述されているということは、後期縄文時代に日本列島の住人は大海を渡ってはるか遠く隔たる中国(夏国)に到着して、用事をすませるとまた大海を渡って帰郷していたことになる。
 前述したように、『魏志倭人伝』は邪馬台国説とまったく無関係の、【倉頡が発明した漢字作成理論と、益氏が200250年間代々「虞」という重職について調査測量した精密な中国海岸線地図と正確な地図作製方法】を理路整然と説明していた文献であった。このような学術知識が『魏志倭人伝』に記述されたのは――益氏が中国と日本列島をはるか遠く隔てる大海を横断でき、この大海を益氏以後においても日本列島の住人が往来できたからである。
 ゆえに、これからどのような方法で益氏は大海を横断し、日本列島の住人たちは益氏が横断した太海を往来したのか――この方法について【科学】にもとづいて解明し証明する。

◆益氏はじめ古代の倭国の使者たちが中国と日本列島をはるか遠く隔てる大海を往来できた方法は、下図に示す【天頂緯度線のキャッチ】であった。
 天頂緯度線をキャッチすれば、中国と日本列島をはるか遠く隔てる大海を往来できた。
 前述した【天の北極を羅針盤とする方法(天の北極の高度を緯度換算する方法)で、遠い地や大海を旅すると位置(緯度)が不明となり必ず命を落とした】が、【天頂緯度線をキャッチすれば遠い地や大海を旅しても、家族が待つ家へ帰還できるという、この真実】は、本来、小学5年生レベルでもわかる「科学知識」である。
 しかし新井白石以後の邪馬台国説のために、現在、『魏志倭人伝』の方位記事は天の北極がある方角を一律に〔北〕と定める現在の日本列島を立論基盤と定まっている。この邪馬台国説の基軸論法は、上記したように「小学5年生レベルの科学知識」によってただちに空理空論となる。
 このような「小学5年生レベルの科学知識」は中期江戸時代の新井白石以後の邪馬台国説によって排除されることになった。
 しかし、【天頂緯度線のキャッチ】によって倭の使節・帯方郡の使節が大海を往来できたのである。だから、倭と魏は国交を結ぶことができたため、倭国における様子を伝える卑弥呼が書いた文書はじめ倭国の使者たちの言が魏王朝に保管され晋王朝に受け継がれた。ゆえに、晋の歴史編纂官の陳寿によって『魏志倭人伝』に記述されることになったのである。
 下図は【原始から古代にあって、大海や遠くの地に旅する人々が出発地点となった家族が待つ家に帰還できる方法】であった【天頂緯度線のキャッチの説明図】である。
 ゆえに、下図に示すように【天頂緯度線】は【観測地点における最も高い天体部】ということになる。
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 【天頂緯度線】は【地上で天頂緯度測量する人が4~6秒でキャッチする線】である。【天頂点と重なる銀河部位(または天体部)】は天の北極を中心にして一日24時間(正確には23時間56分で、360度の大円を描いて一周する。天頂緯度線の一周は23時間56分・1時間は60分・1分は60秒であるゆえ、結局、天頂緯度線の1日の円周運動は86,160秒となる。86,160秒の微小の曲線のうちの4~6秒はほとんど「平らな線」となる。だから、【人が4~6秒でキャッチする天頂緯度線】は、上図の右上に示したように「平らな線」ということになる。
 要するに、地球が円い事実を目撃して察知することができないように、日本列島各地のせまい入江や港湾の水平線は「平らの線」となる。この事実と同様に【4~6秒間くらいでキャッチする天頂緯度線】は、日本列島各地のせまい入江や港湾における水平線のごとく「平らの線」となる。
 下図に示すように、【天頂点と重なる銀河部位の軌道】は天頂点に接近すると「天頂緯度線・天頂点・子午線」を形成する。この「天頂緯度線・天頂点・子午線」は、漢字[(とう)]の字源・字形・字義となった。
 下図は、[]の字源・字形・字義の解説図である。
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 【4~6秒間でキャッチする天頂緯度線】は「1度の60分の11分の精度」で緯度が測定できた。
 原始のときから、人類は【日々眼力を鍛錬すると、4~6秒間で天頂緯度線をキャッチして1度の60分の11分の精度で緯度が測定できる眼力と、そして頭脳に本能】がそなわっていた。この「1分の緯度差を測定できる眼力」を、人類は食料となる獲物を求めて移住生活していた先史時代から日々鍛錬して受け継いだ。人類は〔本能的に、[](天頂緯度線・天頂点・子午線)をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)な眼力〕を有し、そして[]をキャッチする技(わざ)を工夫して磨いた。この[]をキャッチする眼力をもしも人類が有していなかったならば、人類は密林でおおわれる原始時代やまた氷と雪でただ一面が真っ白な氷河期において絶滅していたことになる。人類は滅びなかったのは、目を鍛錬すれば[]をキャッチする能力が眼にそなわり本能として頭脳にそなわっていたからである。
 先史時代や卑弥呼時代、遠くの地を旅する人々や大海を渡る人々が旅先で自分の居る場所の位置を測定する方法は[]のキャッチのみ、ただ一つであった。前述したように、【天の北極の高度を緯度に換算する方法】だと旅先で命を失って、家族が待つ家に帰ることができなかった。
 先史時代から現在まで、伊豆諸島の神津島(こうずしま)からは良質の黒曜石(こくようせき)が産出する。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、上手に磨いて刃をつけると石槍や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、その後の縄文時代・弥生時代・古墳時代においても本土に運ばれて利用されていた。神津島から伊豆半島までは30キロメートル以上も海で隔てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400キロメートルも遠く離れている。約3万年の旧石器人たちは[]をキャッチできる能力を有していたために30キロメートルも隔たる神津島と伊豆半島の中間の海を往来でき、約400キロメートルも離れる北陸の能登などの遠い地から旅した古代の人々も神津島の黒曜石を手に入れることができたのである。
 この約3万年前からおこなわれていた神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実体は謎のベールにつつまれて不明となる。というのも、学界は現在の日本列島地図の方位規定を立論基盤とする邪馬台国説が100パーセント空理空論である事実にまったく気づいていないからである。
 学界は現在の日本列島地図で思考する邪馬台国説の考えに賛同する。このため、中国と日本列島を隔てる大海を往来できる【[]のキャッチ】を、学界は排除していることになる。
 今まで解説・証明したように、『魏志倭人伝』の記事を学界・マスメディアは、真っ先に、【[]のキャッチ】を立論基盤にして考えなければならない。にもかかわらず、現在、学界とマスメディアは真っ先に【現在の日本列島地図を立論基盤】とする邪馬台国説を正しい意見と思い込んでいる。したがって、学界とマスメディアには小学5年生レベルの科学知識がそなわっていないため――空理空論の邪馬台国説のデマが日本国中に波及し、約3万年前の旧石器時代からおこなわれていた神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実が謎のベールにつつまれて不明となる。
 原始のときから、人類は頭脳に[]をキャッチして精密に緯度を測定する本能がそなわり、鍛錬すれば1分・60秒の緯度差で測定できる神秘的な眼力を有することができたのである。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない! 死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は銀漢(銀河)輝く天文を地理代わりにして[]をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存したのである。

[]の下に[(よう)]が加わると[(げん)]の字となる。
 卑弥呼が最初に歴史上に登場に登場する約80年前の100年ころに完成されていたとされる後漢の文字学者・許慎(きょしん)が著作した字書『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。ゆえに、『説文解字』は[]の字源を「小さな、膣口(ちつこう)から頭が誕生したばかりの出産児」と解説していた。
 下図に示すように、[]の字源は「骨盤入口をくぐりぬけてせまい産道を通りぬけて、母体の膣口から頭が誕生して、母体の背・臀部(おしり)を正面に顔を向ける出産児」ということになる。
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 大海を渡る人、また遠くの地へ旅する人は「必ず[]をキャッチする」という欲を有すると、[]をキャッチできずに旅先で[]を失った。だから、[]の下に[]が加わる[]の字源は「産道を通りぬけて誕生する幺(出産児)のごとく無欲になれば、[]をキャッチできる」という、「天頂緯度線をキャッチする([]をキャッチする)ときの心得」をあらわしていた。
 いっぽう、わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静著『字統』(平凡社発行)は、上図の「[]の字源解説図」の右側の[]と同字形の[]の金文形を注目して「小さな糸たばの形。糸たばを拗()じて結んだもの。幼はこれに拗()じる棒を通した形で、拗の初文」と解説する。
 しかし、上記した『字統』の[]の解説だと「幼児」の[]([][]が加わる[])の字義「おさない」が不明となる。
 『魏志倭人伝』には「女王国の以北には特に一大率(いちだいそつ)を配置して諸国を検察させた。倭国における国々は一大率の諸国を検察する強力な権限を畏(おそ)れはばかった。一大率は常に伊都国の居て治めていた」と説明する記事がある。
 「一大率」の[]の上部は[]、中間の中央は[]の字である(注 この[]上部中央の[][]を加えると[]の字となる)
 白川静著『字統』は[]の古代字形(甲骨文字の字形と金文形)にもとづいて「糸をしばる形で、糸たばの上下に小さな横木を通して、これを拗()じて水をしぼる形」と解説する。このように、白川静著『字統』の[][]の古代字形の解説は共通点を有する。
 「[]のキャッチ=天頂緯度線のキャッチ」は「雨天の夜空」で不可能となる。「[]のキャッチ」は「水気をしぼったように、乾いた晴れた夜空」ならば、[]がキャッチできる。だから、上図の「[]の字源解説図」における右側に配した[]の金文形は「糸たばを拗()じって水気をしぼる形」をもって「水気がある雨天や曇天ではない、[]がキャッチできる水気の無い晴天の夜空」を表現したのである。
 出産児は、羊水で濡()れる産道を4回も身を拗()じって通りぬける。ゆえに、「産道を無欲で通りぬける出産児」を金文は「水に濡れた糸たばを拗じる形」に見立てたのである。そして「水気の無い乾いた晴天の夜空にておこなう[]をキャッチするときの産道を通過する出産児のごとく無欲になる心得」をあらわすために、[]の金文形は「水気の無い乾いた晴天」を表現して「水で濡れる糸たばを拗じて絞る形で水気の無い様子」をあらわしたのである。ゆえに、上記したように上部中央が[]となる[]の字も、白川静著『字統』が指摘するように「水で濡れる糸たばを拗じて水を絞る形」をあらわすことになったのである。

◆「一大率が常に居住した伊都国」は「現在の福岡県糸島市の前原(まえばる)町周辺地域」であったと考えられる。というのも、『日本書紀』に登場する「伊都県(いとのあがた)」は「現在の福岡県糸島市の前原町周辺」であったからである。「糸島市前原町」は「糸島半島の付け根」に所在する。糸島半島は「玄界灘」に面する。「糸島半島」の[]と「玄界灘」の[]の字は、上記した[][][][]の字源の秘密を伝えていたのである。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼時代、倭の使者たちは糸島半島が面する玄界灘を渡って朝鮮半島の帯方郡や中国の魏都・洛陽に到着し、また玄界灘を渡って倭地に帰還した」と説明している。
 だから、前述したように「北極星を目星にして天の北極の高度を緯度に換算する方法」では【命】を失って玄界灘は往来できなかったが、「玄界灘」の[]の字が示すように「[]をキャッチする方法ならば【命】を失わずに、倭の使者たちは玄界灘を往来できた」ことになる。
 「玄界灘」という名称は「[]の字の上部の[]をキャッチする方法ならば1分・60秒の誤差内で精密に緯度(位置)が測定できたゆえ【命】を失わずに往来することができる、陸地から遠く離れる波の荒い海」と意味した。だから、現在の日本地図を立論基盤にする邪馬台国説は即刻に空理空論・デタラメ・真っ赤なウソであったことになる
 3万年前の旧石器人たちは[]をキャッチして伊豆半島から隔たる海を往来して神津島の黒曜石を手に入れていた。
 今から約4000年前の夏代初頭、益氏の王子と若者たち一行は[]をキャッチして玄界灘を渡って九州に上陸して北進して日本列島の男鹿半島・米代川流域に定住して【倉頡の漢字作成理論と、精密な中国海岸線地図と正確な地図作製方法などの学問】を教え広めて、帝禹が願った国家を作らない・氏族共同体制を日本列島に根づかせた。
 もしも、益氏の王子と若者たちが[]をキャッチできなかったとするならば、天の北極の高度を緯度に換算する方法では大海を横断できなかったゆえ、『魏志倭人伝』はこの世に存在しなかったことになる。
 しかし、益氏の王子一行は[]がキャッチできたゆえ大海を横断して帝禹の遺志・氏族共同政治体制を日本列島に根づかせ、また【倉頡の漢字作成理論と、益氏が200250年間代々「虞」という重職について調査測量した精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法と夏代初頭の学問】を日本列島に教えひろめた。
 だから、『魏志倭人伝』には【倉頡の漢字作成理論と、益氏が200250年間代々「虞」という重職について調査測量した精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法と夏代初頭の学問】が理路整然と詳細に説明されることになった。
 したがって、『魏志倭人伝』と「邪馬台国」はまったく無関係ということになる。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した女王国名は邪馬壱国であった」と記す。そして、『魏志倭人伝』は、その大半の記事で【倉頡の漢字作成理論と、精密中国海岸線地図と正確な地図作製方法と夏代初頭の学問】を理路整然と詳細に説明している。
 上記したように、倭人国の首都所在地の女王国名は「邪馬壱国」であった。また、「邪馬壱国」は「山陰・出雲」であった。前述したように、家康は「江戸城から発して隅田川に出る、古文[]の字形となる水路()」を設計して「卑弥呼が住んだ女王国・邪馬壱国の中心地は山陰・出雲であった」と表示している。家康は九州以下の本州地理における方位規定を現在の日本列島地図のように考えなかった。家康は「倭人国」という国名に用いられる[]の字源「時計回り90度転回する方位規定」にもとづいて「九州は本州の〔西〕に所在せず〔北〕に所在する、現在の日本列島地図の〔北〕となる日本海は〔東〕に所在する」と考えて、「邪馬壱国の中心地は山陰・出雲である」と断定した。この家康の[]の字源にもとづく考え方は、新井白石以前における『魏志倭人伝』のふつうの読解方法・学問における定式であったのである。

◆『魏志倭人伝』には「倭国では、様々な行事をおこなうときや遠くの地・大海を旅して帰郷するときや云為(うんい/雨乞い)するとき、骨を灼()いて吉凶を占うが、真っ先に行事を占うのか旅について占うのか雨乞いについて占うのかなど、占うテーマは何であるかを告げる。この卜占に用いる辞(ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとし」と説明する記事がある。
 つまり、『魏志倭人伝』は「倭には令亀の法、つまり殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字のような原初漢字が存在した」と伝えている。しかし、このような甲骨文字のような原初漢字が書かれた史料が出土していない。ということは、中国でも倉頡が生存した五帝時代初頭から殷代前半の原書漢字を書いた文字史料が出土しないゆえ、『魏志倭人伝』の「令亀の法のごとし」と説明する原初漢字は「益氏が教え広めた夏代初頭の夏音(かおん)文字」であったことになる。夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存する。
 したがって、学界は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定するが、この定説は空理空論であったことになる。
 『魏志倭人伝』には「魏都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に倭国の使節が派遣されるとき、また魏の出張政庁機関がある帯方郡の使節が倭国に到着するとき、魏と倭が国交を結ぶための文書に用いる魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と卑弥呼が用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。このため、伊都国の港では捜露(そうろ)、つまり楷書と夏音文字の字源は共に銀漢(夏の銀河)各部の形状であったので、楷書と夏音文字の字源銀河を捜して露わにして、楷書と夏音文字が同義になるように伊都国の港で変換していた」と説明する記事がある。
 このブログで前述したように、『魏志倭人伝』の記事は正しく理解するためには、「漢字」は銀漢(夏の銀河)から作られた文字」であったゆえ、略して「漢字」と名づけられた学問知識が必要となった。
 わがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#5」においても指摘・解説したように――倉頡はもしも反体制側が漢字作成理論密を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は滅亡すると心配して、倉頡は【死刑と定める3つの掟】を定めた。この【1】の掟は「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と容易に理解できるように直接的に暴露してはならない、【2】の掟は「多数の文字を容易に覚えることができるようにする」ため、銀漢各部に名称をつけてはならない、【3】の掟は「書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする」であった。
 これゆえ、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために中国における五帝時代・夏代・殷代前半に用いられた原初漢字が書いた史料は出土しないことになった。わが国においても、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。また、『魏志倭人伝』に記述された伊都国の港で変換された魏都・帯方郡・諸韓国で用いられた楷書と倭国で用いられていた夏音文字を書いた史料も出土しないことになったのである。

◆しかし、『魏志倭人伝』における対馬国から狗奴(くな)国までの30ヵ国の記事と、小国名が不明の1か国と裸()国・侏儒(しゅじゅ)国・黒歯(こくし)国などの4ヵ国、計34ヵ国の説明記事やその他の様々な記事は【倉頡の漢字作成理論と、益氏がもたらした精密中国の海岸線地図や正確な地図作製方法や夏音文字などの夏代初頭の学術】を伝えている。
 夏代初頭から卑弥呼時代まで【倉頡の漢字作成理論と夏代初頭の学術】は銀漢(夏の銀河)各部の形状や地図の形をあらわす地名によって保存され、また前記したように『魏志倭人伝』に「倭国では、様々な行事をおこなうときや遠くの地・大海を旅して帰郷するときや云為(うんい/雨乞い)するとき、骨を灼()いて吉凶を占う」と記述されているように卜占や様々な習慣・習俗などによって保存されていたのである。

だから、わがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#4」にて指摘したように、白川静著『字統』は9ページの終わり3行目から10ページの初めから3行目までで【わが国の漢字音】と題して下記のごとく指摘することになったのである。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 現存する中国における最古の漢字音は「上古音」とよばれ、この上古音における最古は紀元前11世紀(紀元前1046年ころ)の周代初頭の漢字音である。
 他方、上記した白川静著『字統』が【わが国の漢字音】と題して「わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった」と指摘する――この漢字音は益氏の王子一行が日本列島に定住した紀元前21世紀ころの夏代初頭(後期縄文時代初頭)の漢字音である。したがって、『魏志倭人伝』における卑弥呼(ひみこ)はじめ壱与(いよ)や難升米(なしめ)や載斯烏越(そしあお)などの人名はじめ小国名や官職名に用いられて残った夏音文字は、中国の最古の上古音よりも約1000年前も古い漢字音となる。まあ、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて多数の夏音文字が現存する。
 下図に示すように、学界が「正しい」と太鼓判を押す「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、下図における最下部に配置される。だから、わが国の漢字習得の定説は中国の上古音よりもずいぶん新しことになって、明確に「科学に反する空理空論、真っ赤なウソ」であったことになる。
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◆つまり、新井白石以前の代々の天皇はじめ高僧や源頼朝・北条氏・足利氏・織田信長・徳川家康などにとって、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と、夏代初頭の学問】を説明する、天下を治めるための王政・帝王学の教科書」であったのである。
 以上のごとく、これまで解説・指摘・証明したように『魏志倭人伝』は「現在の日本列島地図における方位規定を立論基盤とするとただちに空理空論となる、と断定することができる科学の書物」であり、「卑弥呼が居住した女王国・邪馬壱国は山陰・出雲地方であったと伝えていた、真っ先に[]のキャッチにもとづいて思考する書物」であったのである。
 『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論と、夏代初頭の学問】はわが国における学問の始まり・原点であった。だから、【倉頡の漢字作成理論と、夏代初頭の学問】は今日のグローバル化の時代にあって、日本の固有の文化と未来への前進と発展の原動力であり、そして人類の文字の発明を明確に伝える貴重な遺産ということになる。だから、小学5年生レベルの科学によって空理空論と断定できる邪馬台国説は日本をぶっ壊す、最悪の日本のガンということになる。

 邪馬台国説はすべてウソである
 邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は真っ赤なウソだったのである
 悲しいじゃないか 真っ赤なウソ・空理空論にまんまとダマされるなんて
 バカにされるな コケにされるな 愛しき日本国民よ
 ――邪馬台国説は 日本国と日本人を木っ端みじんにぶっ壊す
 デタラメ、インチキ、日本を滅ぼす最悪のガンだ
 小学5年生レベルの科学によって 邪馬台国説は空理空論だと断定できる
 日本人よ 邪馬台国説にまんまとダマされるな
 日本人よ 真実に 目覚めよ 

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2022年10月 4日 (火)

家康くんと『魏志倭人伝』#4

◆「銀河」の別名は「銀漢」である。
 「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」とよんだ。
 「漢字が作られた銀漢」は、天文学で通称「春の銀河、夏の銀河、秋の銀河、冬の銀河」とよばれるうちの「夏の銀河」から作られた。「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬()かる銀河」のことである。
 下に「銀漢=夏の銀河」の写真を示した。
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 中国の伝説は「五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」と伝える。つまり、倉頡伝説は上記の写真で示した「【銀漢(夏の銀河)各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論】を発明した」と伝えていた。
 この【倉頡が発明した漢字作成理論】は3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』に具体的に記述されている。
 倉頡が生存した五帝時代初頭は今から約5000年前、わが国の中期縄文時代初頭であった。この約1000年後の今から4000年前の中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭、中国の夏王朝の帝王であった益(えき)の孫の王子と若者たち一行が大海を越えて九州に上陸し、北に向かって進んで東北地方の秋田県に定住して【倉頡の漢字作成理論と夏代初頭の夏音文字(かおんもじ)の学芸】を教えひろめた。この噂を知った東国(東日本)の銀漢(夏の銀河)各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った芸術家たちが益氏の若者たちが居住する秋田県に旅して、前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2000年間及ぶ造化(銀漢各部形状から土器・土偶を作った造形芸術)の知識にもとづいて【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得した。だから、『魏志倭人伝』に【倉頡の漢字作成理論と、夏音文字の学芸】が記述されることになったのである。
 この詳細は、前回の「家康くんと『魏志倭人伝』#2」で詳細に解説して証明した。

◆倉頡はみずからが発明した文字が最も強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は崩壊すると心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員を死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と、明確に容易に理解できるように説明して暴露した者はもちろん、その一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、字源・字形・字義となる銀漢各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
 上記した【3】の掟のために、五帝時代の原初漢字の書契と夏代の夏音文字は文字を書いた資料が出土しないことになった。
 上記した【2】の掟のために、「銀漢(夏の銀河)各部の名称」は存在しない。ゆえに、わたくしは下記のごとく「銀漢各部の名称」を定めた。
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 だから、学界が主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的な定説は完全なる空理空論であった。
 というのも、上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】によって、わが国が今から約4000年前(紀元前21世紀)に習得した【五帝時代に作られた原初漢字・書契(しょけい)と夏音文字】は(1)夜に輝く銀漢と(2)銀漢の写真と(3)プラネタリウムにおける銀漢各部の形状が字源・字形・字義となり、字音は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存するからである。ゆえに、楷書と同じく【五帝時代の書契と夏音文字】は字源・字形・字義・字音の四拍子がそろう完全なる漢字ということになる。
 考古学は「地中から出土した漢字を書いた資料のみを、漢字の史料である」と断定した。この考古学による偏見によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界までもが断定した定説は、五帝時代の書契と夏音文字の字源・字形・字義は天上の銀漢に現在も存在するという現実と事実に反する空想・幻想であったことになる。
 その証拠に、『古事記』上巻の随所に〔音〕という目印()がつく文字を【あなたが目でしばらく見ている】という、この時間は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が断定した絶対的定説が「真っ赤なウソ」である現実と事実を直(じか)に目撃している現場となるからである。
 だから、その随所に〔音〕という注がつく多数の夏音文字を記す『古事記』上巻もまた『魏志倭人伝』と同様に【倉頡の漢字作成理論】を伝えていた重大な史料であったことになる。

◆わが国の古代中国研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(じとう/平凡社発行)は9ページの終わりから3行目~10ページの初めから3行目までで【わが国の漢字音】と題して下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった。」
 下図に示すように、現存する中国の最古の漢字音は「上古音」とよばれ、この上古音における最古は紀元前11世紀(紀元前1046年頃)の周代初頭の漢字音である。
 上記した白川静著『字統』が「わが国の国語として残っている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかとなった」と指摘する――この『古事記』上巻の随所の〔音〕という注がつく、紀元前21世紀頃の夏代初頭に習得した夏音文字は中国における最古の「上古音」よりも約1000年前も古い。
 そして、学界が正しいと太鼓判を押す「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は、下の図の最下部に配置される。だから、学界が正しいと思い込む「わが国が最初に習得した楷書の漢字音」は「中国の上古音」よりもずいぶん新しいことになって、明確に「空理空論、真っ赤なウソ」であったことになる。
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◆上記した〔空理空論の漢字習得説〕の中心勢力の考古学は、邪馬台国論争における中心勢力でもある。この考古学を中心勢力とする邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説を立論する学者たちは「『魏志倭人伝』の記事は信用できない」と声高に主張して、自分の意見にあわない記事は片っ端から自分の言いなりになるようにして歪曲(わいきょく)する。
 このような横暴なご都合主義の論法は、新井白石から始まった。
 江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)は、1716年・晩年の60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して邪馬台国大和説と日本神話説を提示した。さらに、その後、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を提唱した。
 白石は「漢字は銀漢から作られた。わが国は紀元前21世紀に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という学問知識を有していなかった。
 これが致命的欠陥となって、白石が提唱した()邪馬台国大和説と、()邪馬台国九州説と、()日本神話説は〔誤読の産物〕にして〔空想の産物〕であったのである。
 その証拠に、下図に示すように、現存する12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)の『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住していた女王国の名を「邪馬壱国(やまいこく)」と記して、「邪馬台国(やまたいこく)」と記していない。今から約300年前に新井白石が「邪馬壱国」を「邪馬台国」と誤読して以来、女王国名は「邪馬台国」であったにちがいないと思い込まれている。
 〔注 女王国名は「邪馬壱国」が正しく、『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と記されていないという指摘は、先年、古代史研究家の古田武彦氏が、その著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞発行)で詳細な調査の基におこなっている。〕
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◆『魏志倭人伝』に記された女王国名「邪馬壱国」における「邪馬壱」という語は、【倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていた。言いかえると、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を伝える教科書(書物)であった。
 だから、『魏志倭人伝』は「邪馬台国を説明する書物」ではなかった。
 要するに、『魏志倭人伝』を正しく理解するためには、上記したように「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という知識を最初から有していなければならなかった。
 その証拠に、最初から「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という素養を有していれば、『魏志倭人伝』には「倭には夏代初頭に【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸を習得した」と説明する二つの記事が存在することに気づいていた。
 『魏志倭人伝』が「わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字を習得した】と伝えていた一つ目の記事は――『魏志倭人伝』の中半にある「倭の占いに用いる辞は令亀(れいき)の法の如くであった」という記事である。「令亀の法の如く」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ・今から約3300年前に出現した甲骨文字の如き夏音文字」と意味するものであった。ゆえに、「わが国は甲骨文字が出現した殷代後半期より約1700年前の夏代初頭に、【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」ことになる。
 二つ目の記事は――『魏志倭人伝』の中半にて「中国の魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都国(いとこく)の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を捜露(そうろ/楷書と夏音文字の字源・字形・字義が銀漢各部のどの形状と合致するのかを一字一字ずつ捜して露わにして確認・点検)して、楷書と夏音文字が同義になるように正しく変換していた」と説明している。この記事もまた「わが国は夏代初頭に、【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた」と指摘していた。

◆駿府の今川義元は駿府城と同緯度の三河の岡崎城主・松平広忠の長男・竹千代(後の徳川家康)を人質として求めた。というのも、義元は「漢字は銀河から作られた。わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字】を習得していた」という学問知識を有していたからである。
 義元は、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀における黄帝と黄帝の政治を補佐した倉頡、夏本紀における帝禹()の政治を補佐した益(えき)を注目し、竹千代に【倉頡の漢字理論と夏音文字】を教育して、成長した竹千代を倉頡や益のごとく補佐役にして、いずれ上洛して天下を統一すると計画した。
 6歳の竹千代は人質として駿府へ出発したが、途中、略奪されて織田信秀(信長の父)のもとへ送られた。
 竹千代が8歳の時、今川義元の軍師・大原雪斎(たいげんせっさい)を総大将とする七〇〇〇騎の今川軍は安城(あんじょう)城を攻め、織田信広(信長の兄、2年後に没する)を捕らえて、竹千代と信広の人質交換を行った。義元が【倉頡の漢字理論と夏音文字】を政権基盤にして天下を統一する野望を実現するために、補佐役とする竹千代がどうしても必要とであった。ゆえに、義元の軍師・大原雪斎が総大将となって大がかりな七〇〇〇騎による竹千代の奪還作戦が決行されたのである。
 軍師の大原雪斎は臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうじんじは)の高僧であり、【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】に精通していた。というのも、枯山水(かれさんすい)の庭園として世界的に有名な石庭がある龍安寺(りょうあんじ)は臨済宗妙心寺派の寺であり、臨済宗の妙心寺の基礎教養は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】であったからである。
 その証拠に、京都市右京区に所在する龍安寺の石庭の5群、大小の15個の石と白砂の平庭は漢字が作られた銀漢(夏の銀河)をデザインする作品である。
 また、「龍安寺の石庭案内パンフレット」には「禅とは……」と題して「神()のない宗教である」、「老子の教え『吾れ唯だ足ることを知る』宗教である」、「『死に切る』即ち『断命根』の宗教である」と説明している。紀元前5、4世紀ごろに生存した中国の老子は中国で廃(すた)れて衰退していた【倉頡が発明した漢字作成理論の復興】を願って、自らの思想を「知足(つまり、漢字が銀漢から作られた学問)」、あるいは「吾れ唯だ足ることを知る(銀漢を観察して真理を追究する学問にもとづいて自己を深く掘り下げる修養こそがもっとも尊い)」と表現した。ゆえに、老子は中国王朝が独占管理して厳重に機密にした【倉頡の漢字作成理論】を暴露する、即刻に死刑と定められた大罪人と見なされたゆえ日々住所を変える逃亡者であった。わが国においても【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】は朝廷の政権基盤にして存続基盤であったため、老子のごとく【倉頡の作成理論と夏音文字の研究】を公表する者は朝廷を崩壊させて天下を奪おうとする死刑に処すべき大罪を犯すものと見なされた。ゆえに、臨済宗妙心寺派の僧侶たちは死刑になるのを畏れて用心して慎重に「漢字は銀漢から作られた学芸」を常に秘めやかに難解に表現するように心がけていたものの、もしも「漢字が銀漢から作られた」という機密を容易にわかるように暴露したと朝廷に見なされた時には「死刑」に処せられる覚悟が必要であったため、「死に切る(つまり、常に死んでいると思い込む)」、即ち「断命根の(つまり、命を断たれるを覚悟する根性が必要となる)宗教」ということになったのである。
 竹千代は雪斎から【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を学び、天下統一の野望を抱く今川義元の補佐役になるための心得を徹底的に教育された。
 竹千代は14歳の時に元服し、松平次郎三郎元信と名乗った。この年に、教育係の雪斎が没した。この後、1558年、17歳の時に元康(もとやす)と改名した。
 その2年後、19歳になった元康に先鋒を命じた義元は、二万五〇〇〇の大軍を率いて上洛の途についた。しかし、わずか二〇〇〇の織田信長の軍が桶狭間(おけはざま)で休憩をとる今川軍を急襲して義元の首を取った。松平軍は故郷岡崎城にめざして逃げた。元康は岡崎城に近い大樹寺で自害しようとしたが、その現場を住職の登誉上人(とうよしょうにん)に発見され、上人に説得されて思いとどまった。
 上記のごとく、徳川家康(15421616)は大原雪斎に「漢字は銀漢から作られた。中国の夏代初頭、わが国は【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得した」と教育された。だから、徳川家康にとって『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論を説明する教科書】であった。このため、新井白石(16571725)以後の学者たちの邪馬台国大和説と邪馬台国九州説とまったく異なり、家康は『魏志倭人伝』に1ヵ所も〔批判(誤読)〕を加えない方法をもって「卑弥呼は邪馬壱国に居住した。邪馬壱国は山陰出雲であった」と解釈した。

◆わがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」で指摘したように、徳川家康は下に示す「江江戸城(皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路()」を設計して、「邪馬壱国は山陰出雲であった」と表現した。
 下図は、笹山晴生(6)編著作者『日本史総合図録』(山川出版社発行)77ページにある〔江戸城(現在の皇居)から発する水路()の図〕から転載した。
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 わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作して『字統』(平凡社発行)[(うん)]の字について「雲の形で、その古文。雲気のたなびく下に、竜が尾を巻いて姿がみえる形、のち雨を加えて雲となった」と解説し、[]の字について「云は雲の初文。のち雨を加えて雲となった」と解説する。
 ゆえに、家康は「[][]の古文形」に合致するように、「時計回りに90度転回して、つまり北→東となるように、江戸城から発する渦巻文の水路」を設計したことになる。
 下図の「江戸の渦巻文の水路」は「隅田川に出(いず)る」。だから、「隅田川に出る江戸の水路」で、家康は「出る」の[]に「[]の古文形となる水路」で「出雲」と表現した。したがって、家康は「江戸の水路」で【卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住していた】と表示していたことになる。
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◆前述したように、『魏志倭人伝』は白石以来の定説「邪馬台国について説明した文献史料」ではなく、【倉頡の漢字作成理論】について説明していた書物であったのである。

言いかえると、『魏志倭人伝』に記された倭国の34の小国に用いられる漢字をもって【倉頡の漢字作成理論体系】を説明していた。したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡の漢字理論】を政権基盤にして倭人国を統治していた」と説明していたことになる。
 だから、下図に示すように――卑弥呼は【倉頡の漢字作成理論】をあらわすプロローグとして、「対馬国と一大国(現在の長崎県壱岐)における南北」は現在の日本列島地理と同じであると定めた。しかし、「倭人国」という国名に用いる[]の字源にもとづいて「九州の末盧国(まつろこく)以下の本州地理の方位規定は、対馬国・一大国の南北軸に対して時計回りに90度転回して「北(日本海)が東となるように、つまり出雲の北の日本海に浮かぶ隠岐群島は出雲の東となる」と、卑弥呼は制定した――と、『魏志倭人伝』と説明していた。
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 『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種なり」という記事がある。
 上図の「転回日本列島像論・邪馬壱国出雲地方説の図」に示したように、女王国(邪馬壱国)の中心地・松江市の北方40kmの日本海上に隠岐群島が所在する。隠岐群島は「出雲・島根半島に近い知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前三島(どうぜんさんとう)と、その東北(現在方位)にある大きな島・島後(どうご)の四つの大島と約180の小島からなる群島」である。ゆえに、「隠岐群島の多数の島々を一括する」と「皆、倭種なり」と表現されることになる。また、家康が「邪馬壱国は山陰・出雲であった」と表現した「江戸城から発する渦巻の水路を、時計回りに90度転回して〔北〕を〔東〕と定めるに転回方位」にもとづくと、上図に示したように「隠岐群島」は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り、皆、倭種なり」と説明された小国となって合理となる。
 邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説には、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り、皆、倭種なり」という文に合致する小国は存在しない。

◆倉頡は今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に正存した黄帝(こうてい)につかえる史官(記録官)であった。黄帝は【子どもの出産と女性の生殖器官】を研究した。この【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器官」の研究】をあらわすことができる文字を発明する――これが、倉頡が漢字を発明する動機であり、作成目的であった。
 出産児は5枚に分れた頭蓋骨を重ねあわせてせまい堅い骨産道(こつさんどう/骨盤産道)をくぐりぬけて軟産道(なんさんどう)つまり膣(ちつ)を通りぬけて、膣口(ちつこう)から頭が誕生した赤ん坊の顔は母体の臀部(でんぶ)のほうに向く姿勢となる。骨盤入口をくぐりぬける時の出産児の頭は膣口から見えるゆえ、黄金色の羊水に濡れる出産児の5枚の頭蓋骨が重なりあって産道を4回も転回してくぐり抜けて誕生する、その様子はまさに“生命の神秘”をあらわして、言葉で表現できないほどに驚異的な感動的なドラマである。
 倉頡は【出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけて膣口から頭が誕生するまでの神秘的な光景】にすっかり心うばわれて漢字を発明した。
 下図に示すように、骨産道と軟産道を通りぬける出産児の頭蓋骨は5枚(後頭骨、2枚の頭頂骨、2枚の前頭骨)に分れる。この5枚の頭蓋骨はV字形の「小泉門(しょうせんもん)」、「矢状縫合(やじょうほうごう)」、菱形の「大泉門(だいせんもん)」と産婦人科で名づけられた結合組織性の膜(まく)によって重ねあわせることができる仕組みになっている。この「仕組み」を、産婦人科であは「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 赤ん坊は「小泉門・矢状縫合・大泉門」による頭蓋骨が重ね合わさる「骨重積」の仕組みによって、せまくて堅い骨産道をくぐりぬけ、さらに軟産道を通り抜けて膣口から頭が誕生することができる。下図の左側に示すように「小泉門・矢状縫合・大泉門の形」を、卑弥呼は「邪馬」と名づけた。
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◆『魏志倭人伝』には「倭には牛と馬が無い(牛と馬は生息していない)」という記事がある。
 []の字源は「黄帝が居住した本拠地付近にて生息したジャコウウシ」であった。
 []の字源は「フタコブラクダ」であった。

 牛・ジャコウウシの群れは、天敵のオオカミに襲われると、子どもを円陣の真ん中に隠し、背中を円陣の中心に向けて防衛する習性がある。この「円陣」を、倉頡は「女性の生殖器を包囲して胎児の命をまもる骨盤」に、また「円陣の真ん中に隠す子ジャコウウシの子ども」は「子宮で育つ胎児」に見立てた。ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の骨盤」に見立てられる、【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 司馬遷著『史記』の五帝本紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という文があり、学者たちは「黄帝軍は駐屯するとき、兵たちは円陣を組んで自衛した」と訳す。黄帝軍の兵士たちはジャコウウシの習性に学んで円陣を組んで駐屯していたことになる。
 上記したように、[]の字源は「フタコブラクダ」であった。
 下図は「草をモグモグと食べるときの、フタコブラクダの鼻・上アゴのミゾ()・口・下アゴの図」である。
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 上図における「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口は、各部の仕切りの形状が邪(なな)めになって重なり合わさる」ゆえ、「骨盤入口をくぐりぬけて膣口にて達するまでの出産児の頭蓋骨の〔骨重積〕の形状」に瓜二つ、そっくりである。つまり、「〔フタコブラクダの鼻〕は〔小泉門〕、〔フタコブラクダの鼻と口の中間のミゾ〕は〔矢状縫合〕、〔フタコブラクダの口〕は〔大泉門〕に相当し、各パーツの仕切りが邪(なな)めになって重ね合わさる様子」は「出産児の〔骨重積〕の形状」に瓜二つ、ソックリである。
 だから、倉頡は「産道を通りぬける出産児の頭蓋骨の〔骨重積〕の形状」に酷似(こくじ)する「フタコブラクダの顔(鼻・アゴ・口)の表情」を注目して[]の字源を「フタコブラクダ」と定めた。よって、「フタコブラクダ」は「子宮に宿る胎児、産道を通過する出産児」などに見立てられて、【倉頡の漢字作成理論】を象徴する聖獣となった。
 「産道を通過する出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門と5枚の頭蓋骨の形状」と瓜二つ、そっくりの「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口は、各部の仕切りの形状が邪(なな)めになって重なり合わさる様子」にもとづいて――卑弥呼は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状」を「邪め」の[][]を加えて「邪馬」と名づけた。
 『魏志倭人伝』において倭国における1番目に登場する小国名を「対馬国」と記す。24番目の小国は「邪馬国(やまこく)」である。この「邪馬国」は「現在の奈良県、旧国の大和」であった。
 下図に示すように、「家康が設計した江戸の渦巻の水路の、時計回りに90度転回して北→東とする方位規定」にもとづくと、「奈良県の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)における鼻・ミゾ・口の部分」は「馬・フタコブラクダが草をモグモグと食べるときの鼻・ミゾ・口の形状」と瓜二つゆえ、「邪馬」をあらわす。ゆえに、卑弥呼は「大和」の小国名を「邪馬国」と名づけた。したがって、「大和」は「邪馬台国」ではなかった。
 だいいち、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した地所の名」を「邪馬壱国」と記す。だから、「邪馬台国」は学者たちがデッチあげたウソ・戯言(たわごと)であったことになる。
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◆「歳差(さいさ)」とよばれる天文現象を利用すると、〔過去と未来の天の北極と春分点の位置〕が算出でき、5000年前の黄帝時代や卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの天頂にめぐってきた銀河部・星・星雲・暗黒天体部などが自由自在に再現できる。
 下に、今から5000年前の黄帝と倉頡が生存した時代における中国の各地の天頂にめぐってきた図を示した。
 下図の下部にある「鬼の横顔に似る銀河」には「顔に二つの目の形があり、後頭部にも見開く目の形の銀河部位があり、アゴにも細い切れ長の目の形の銀河部位があり、計四つの目」がある。ゆえに、私は「鬼の横顔に似る銀河」の別名を「四つ目の銀河」とすることにした。
 倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」の正体は「四つ目の銀河」であった。学者たちは「四つ目の怪人・倉頡」について「人間には目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定したが、【倉頡の漢字作成理論の中枢部】となる「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現して、「漢字が銀漢から作られた」と後世に伝えていたのである。
 下図における上部「十字の銀河の西半分」は「女性の乳房や子宮に相当する箇所」がある。ゆえに、倉頡は「十字の銀河」は「銀漢各部の形状から作られた全漢字を生む母体」と定め、「十字の銀河の子宮(に相当する銀河)」を「全漢字が生まれる子宮」と定めた。
 「四つ目の銀河(鬼の横顔に似る銀河)」は「子宮に宿る胎児(の顔)、産道を通過する出産児(の顔)」に見立てられて[]の字源、あるいは「四つ目の怪人」から[]の字源、また「誕生するときのフタコブラクダ(の顔)」に見立てられて、あるいは「人(出産児)の顔」にも見立てられて[][]の字源となり、さらに【倉頡の漢字作成理論】を組織する様々な漢字の字源・字形・字義となった。
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 下の図に示すように、前述した〔出産児の「邪馬」、つまり「小泉門・矢状縫合・大泉門の形をした銀河」〕(注 上図参照)は、「四つ目の銀河における後頭部とアゴにつく目の形」と隣接する西側に存在する(注 下図参照)
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 下図に示したように、「十字の銀河の子宮」は[()]の字源である。
 下図における「邪馬の銀河(小泉門・矢状縫合・大泉門の銀河)」が示す「邪馬」に[]の字源銀河(十字の銀河)が加わって「邪馬壹()」という語が成立する。
 ゆえに、「邪馬壹()」という語は「出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬける出産第一期・開口期(かいこうき)から、出産児の頭が膣口(ちつこう)を通りぬけて誕生するまでの出産第二期・娩出期(べんしゅつき)までの様子」をあらわしている。
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◆下に「邪馬壹()」という語源となる「出産第一期・開口期と出産第二期・娩出期における出産児の図」を配した。
 「邪馬壹」の[][(つぼ)]の中に[]が加わる字である。[]は「骨盤入口から膣口までの産道」をあらわし、[]は「骨盤入口から膣口までを4回、転回(回旋)して通りぬける出産児の『邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)』の頭蓋骨」をあらわす。
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 []における[]すなわち「出産児の転回」は4回となり、産婦人科では「産道における出産児の頭の転回」を「回旋(かいせん)」とよぶ。
 「出産第一期・開口期」は「分娩の始まりから子宮口(しきゅうこう)がすっかり開いて(全開大となって)、横長の骨盤入口に合わせて縦長の出産児の頭が横向きになって骨盤入口をくぐりぬけるまでの時期」をいう。この「出産第一期・開口期の終わりの横長の骨盤入口にあわせて縦長の出産児の頭がくぐりぬける時の時計回りの90度の転回」は「第1回旋」とよばれている。この「第1回旋」から「第2回旋」へ回る角度は90度であり、第2回旋は第1回旋の反対方向、つまり反時計回りとなる。第3回旋は第2回旋と同じく反時計回りの90度の転回となる。「第4回旋」、つまり「出産第二期・娩出期終わりの膣口から出産児の頭が誕生する時の第4回旋は、時計回りの90度の転回」となる。
 上記したように、開口期の終わりから娩出期終わりまでの出産児の頭の回旋は4回おこなわれ、「第1回旋と第4回旋」は「時計回りの90度の転回」、「第2回旋と第3回旋」は「反時計回りの90度の転回」となる。

 【出産児が生と死にわかれる命の山場(やまば)の重大局面】における「時計回りの第1回旋と第4回旋」をあらわすために、倉頡は[()]の字を作った。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわすことになった。
 また、「反時計回りに90度転回する第2回旋と第3回旋」をあらわすために、倉頡は[()]の字を作った。ゆえに、[]の字源・字形・字義は「反時計回りの90度転回する方位規定」をあらわした。
 下の図における上図に示すように、「十字の銀河」の中央に〔禾(稲や麦などの穀物)をあらわす図書(ずしょ)〕を重ね、「鬼の横顔に似る銀河における口」を「人の口」に見立てて、〔稲や麦などの穀物の実〕が「人が口に入れる食料」となるために、倉頡は【時計回りに禾の穂が南→西へ90度転回すると定める[]】の字を作った。
 よって、[]の字源・字形・字義は「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」をあらわした。[]の下に[]が加わる[()]と、人偏に[]の字が加わる[]は、倉頡が作った[]の「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」をそのまま受け継いだ。
 下の図における下図の[]の上部の[]は「人が言う食う器官の口(くち)」ではない。その[]の字音は「さい」であり、[(さい)]は「出産祝いや子授け祈願するときに、巫女(みこ)が用いる土器」である。つまり、[(さい)]は「骨盤入口と膣口における【口】」であるゆえ、[(さい)]は「骨盤入口から膣口までの産道をデザインする土器」であった。
 白川静著『字統』は[]の字形を「人が一手をあげる祝祷(しゅくとう)の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。下に配する下図における「口(さい)をかかげる、十字の銀河の右手(西側の手)」を、『字統』は「一手」と表現する。「一手(右側の手)の上の口(さい)」は「出産児の第2回旋と第3回旋の反時計回りの90度の転回、つまり北→西となる反時計回りの方位規定」をあらわす。[]の金文形における[(さい)]の下部の「人体」をあらわす図書は「産道を通過する出産児の様子を演じて身をくねらせて舞う巫女の姿」をデザインしている。
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◆倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」に対して学者たちはこぞって「人間には目が四つ無い! 荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ!」と断定した。このように、全学者たちが否定・抹殺した倉頡伝説は、下記のごとくである。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡をもって、はじめて文字を作り、古来(三皇時代)の易に用いた記号の結縄(けつじょう)に代えたので、天は祝福して禾(穀物)を降らせ、三皇時代に生存した氏族の死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞こえたという。」
 三皇時代に生存した氏族たちの天に昇った霊魂は、倉頡の文字の発明によって自分たちの歴史が後世に伝えられることになったと感激して泣く、つまり天から恵(めぐみ)の雨の慈雨(じう)を降らせて禾(穀物)の豊作を地上にもたらした――と倉頡伝説は説明していた。そして、前述したように、「四つ目の怪人・倉頡」は「中国全土各地の天頂にめぐってきた、四つ目の銀河」のことであった。
 だから倉頡伝説は事実を伝えるものであり、断じて荒唐無稽のデタラメではなかった。

 注目すべきは倉頡伝説が「倉頡が[]の字を作った」と伝えていることであり、上記したように[]の字源「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定」は、[]にも受け継がれた。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 だから、女王・卑弥呼は統治する国名を「倭人国」と定めたことになる。しかし、『魏志倭人伝』は倭人国における1番目に登場する「対馬国(つしまこく/現在の長崎県北部の対馬)と一大国(いちだいこく/現在の長崎県北部の壱岐)は南北であった」と記している。ゆえに、倭国の「対馬国と一大国の南北」は「現在の日本地図における、対馬と壱岐の南北」に合致して、[][]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしていない。
 けれども、『魏志倭人伝』は「一大国から末盧国(まつろこく)までの方位」を記さない。ゆえに、「方位が記されない、一大国から末盧国の中間地」が分岐点になって――九州の「末盧国以下の本州におけるすべての方位」は、「倭人国」の[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則(のっと)る仕組みになっている。
 『魏志倭人伝』は「末盧国から東南へ陸行五百里、伊都国に到る」と記す。
 そうすると、[]の字源にもとづく「現在方位の東北」が「東南(時計回りの90度の転回方位が定める〔東南〕)」となる。つまり、伊都国の旅程基点は末盧国の旅程基点より東北へ陸行五百里離れて地所であったことになる。
 上記したように、『魏志倭人伝』における末盧国以下の方位は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」に則らなければならない。ゆえに、倭女王・卑弥呼が首都と定めた邪馬壱国は現在の日本地図にもとづいて九州の南の海上に所在せず、また九州にも所在せず、あるいは大和にも存在せず、上記したように「大和は邪馬国」であった。
 『魏志倭人伝』の末盧国以下本州における方位を、【倉頡が作った[]の字源】を受け継いだ[]の字源「時計回りの90度転回する方位」に変換すれば、女王国・邪馬壱国は山陰出雲であったことになる。というのも、前述したように「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り、皆、倭種なり」という記事の「東」は現在方位だと「北」となるからである。邪馬壱国・出雲の松江市より真北となる日本海上には「皆、倭種なり」と表現された通りの多数の島々からなる隠岐群島が所在して合理となる。
 このように『魏志倭人伝』の末盧国以下の本州における方位は[]の字源にもとづけば1ヵ所も矛盾点がなく、すべて合理的に【倉頡の漢字作成理論】を説明している。
 『魏志倭人伝』は学者たちが主張する「邪馬台国を説明した文献」ではなかったのである。『魏志倭人伝』は「【倉頡の漢字作成理論】を説明する教科書」であったのである。

◆『魏志倭人伝』は「一大国から海を渡ると末盧国に至る」と説明する。
 古代の人々が“字書の聖典”と尊重した100年頃に完成していたとされる『説文解字(せつもんかいじ)』は「末盧」の[]の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。
 ゆえに、下図に示すように、末盧国の東端(ただし、現在方位)の境は唐津湾に注ぐ松浦川と有明海に注ぐ塩田川(しおたがわ)であったと考えられる。というのも、松浦川と塩田川を境にすると、末盧国北部(現在方位)の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)は「飯器(飯を炊く土器)の形」に相似するからである。つまり、末盧国北部の地宜は前期縄文・中期縄文・後期縄文で作られた大型の深鉢(ふかばち)の形に相似するゆえ、深鉢の用途の一つは「飯器」であったにちがいない。
 末盧国南部の「西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島の地宜」は「盧(飯器)を炊く火炎のイメージ」となる。ということは「禾(穀物)の収穫が終了した時、また出産が終了した時」を[]とあらわし、「収穫と出産の終了を祝うために炊く飯器」を[]として――現在の「佐賀県西部と隣接する長崎県の地宜」を卑弥呼は「末盧国」と名づけたことになる。
 下図が示すように、「北」に在る地域は「東松浦」、「西」に在る地域は「北松浦」、「南」に在る地域は「西松浦」であるゆえ、「松浦」に関する方位名は矛盾して不合理となる。
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 前述したように、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を説明する教科書であった。
 ゆえに、[]の字源「時計回りに90度転回(回旋)する方位規定にもとづく末盧国の地宜」を下に配した。
 下図が示すように、[]の字源の「転回方位」にもとづくと「北松浦」は「北」、「西松浦」は「西」に、「東松浦」は「東」に在って、すべて合理となる。また、「西彼杵」は「西」に在り、「東彼杵」は「東」に在るゆえ、「彼杵(そのぎ)」に冠する方位名も合理となる。
 このように、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論】をあらわす[][]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」は末盧国(佐賀県西部とその南隣の長崎県)において、約1750年後の現在においても消滅しないで残っている。
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 現在の佐賀県西部とその南隣の長崎県に現在も残っているように、【倉頡の漢字理論をあらわす基本字[]の字源をそのまま受け継ぐ[]の字源「時計まわりに90度転回する方位規定」】に則って、『魏志倭人伝』の末盧国より以下の全方位記事は説明していたのである。
 『魏志倭人伝』は末盧国以下の全方位記事を[]の字源「転回方位」に統一して説明している。その証拠に、『魏志倭人伝』が「黒歯国の東南にある周旋(しゅうせん)五千余里ばかりの倭の地」と説明する地域は、卑弥呼が統治した倭人国よりはるか遠くの地域、つまり【倉頡の漢字理論と夏音文字】を教え広めた益氏が定住した秋田県である。このように「倭人国の範囲」ではない「秋田県」を、『魏志倭人伝』は「倭地」と記す。また「中国の会稽・東治の東に在るべし」という記事にあっても、[]の字源の「転回方位」にもとづいて説明している。
 上記したように――『魏志倭人伝』は「末盧国より東南(つまり、現在の東北)に陸を五百里行くと伊都国に到る」と説明する。次に、「伊都国から東南(つまり、現在の東北)の奴国(なこく)に至るには百里」と説明する。次に、「奴国より東(つまり、現在の北)に行くと、不弥国(ふみこく)に至るには百里」と説明する。
 下に、[]の字源「転回方位」にもとづく「末盧国から不弥国までの旅程基点をあらわす図」を配した。この図が示す「[]の字源「転回方位」にもとづく各国の旅程基点の方位」は、『魏志倭人伝』の末盧国以下のすべての記事における方位と合致する。
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◆『魏志倭人伝』は「不弥国の南(つまり、現在の東)、投馬国(つまこく)に至る」と説明する。ゆえに、「不弥国、九州の旧国の筑前北部と豊前の宗像「むなかた)地方より東の、山口県(旧国の長門・周防)」が「投馬国」であったことになる。
 『魏志倭人伝』は「投馬国から南(つまり、現在の東)は邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記述する。ゆえに、「山口県の東隣の島根県と鳥取県西部、旧国の石見・出雲・伯耆」が「邪馬壱国の範囲」であったことになる。
 ゆえに、卑弥呼が居住した宮殿は邪馬壱国の中央の「出雲」に所在したことになる。
 下に、[]の字源「転回方位」にもとづく卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)の出雲の地宜を示した。
 〔注 下図は新人物往来社『歴史読本』第524号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌氏(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、私がトレースして転回方位にもとづくようにした図である。〕
 下図に示したように、「島根半島の北端(転回方位)の地宜」は「[]の字源・フタコブラクダの親の顔の形」に相似する。そして、「神門水海(かんどのみずうみ)の地宜」は「紙のようにペラペラした二つのコブがある、誕生したばかりの足を踏ん張って立ち上がろうとする馬・フタコブラクダの赤ん坊の姿」に相似する。
 「神門水海」は「経度軸と緯度軸に対して、邪(ななめ)にして、[]の字源・フタコブラクダの赤ん坊の姿」に相似する。したがって、「神門水海」は「邪馬」をあらわす。
 「当時の宍道湖の地宜の南部(転回方位)」は「人の右足の形」に相似した。[]の字源は「十字の銀河の子宮」であり、「十字の銀河の子宮の右隣(西側)」は「十字の銀河の右足(西側の足)、あるいは妊婦の腹部・乳房」に相似すると見立てられた。
 ゆえに、「十字の銀河の右足に見立てられた宍道湖より東隣(転回方位)の、現在の松江市北部(現在方位)」は、[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられた。
 だから、「卑弥呼が都とした邪馬壱国の中心部」は、下図の「山陰・出雲、現在の出雲市・松江市」であったことになる。
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 再度くりかえす、下図における「十字の銀河の子宮」は[]の字源銀河であった。「十字の銀河の子宮の西側の銀河部」は「妊婦の腹部、乳房」、そして「右足」に見立てられた。だから、「右足に相似すると見立てられた宍道湖の東(転回方位)」に隣接する「現在の松江市北部(現在方位)」は[]の字源をあらわした。
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 下図に示すように、宍道湖の南部(転回方位)の湖岸「足の指の先端(爪先)」が指差す方向に、意宇(おう)平野がある。
 []の字源地宜となる「松江市北部(現在方位)」の〔南〕(転回方位)から[]の字源「時計回りに90度転回する〔西〕(転回方位)の地所」は「意宇平野」となる。
 したがって、『魏志倭人伝』が「卑弥呼は女王になってからは彼女に会った人々は少なく、婢()千人を侍(はべ)らせ、唯々(ただ)一人の男子が卑弥呼の飲食を給仕し、女王の辞を伝えるために卑弥呼の居間に出入りしていた。卑弥呼が居住した宮殿は楼観(ろうかん/見張り櫓)や城の柵(さく)を厳重に設け、常に兵器を持った人が守衛していた」と説明する宮殿は、意宇平野の一画に所在したと推定される。
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◆『魏志倭人伝』は「対馬国の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と記す。
 下に図示したように、『魏志倭人伝』が「対馬国と一大国の中間の海の名」は「瀚海」であったと記す。この「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味した。
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 フタコブラクダは、瀚海・ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない大切な家畜である。
 下図に示すように、倉頡は「十字の銀河」を[]の字源「フタコブラクダ」と定めた。
 「長崎県の対馬の地宜」を、卑弥呼は瀚海・ゴビ沙漠に生息する【漢字作成理論を象徴する聖獣】の[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、卑弥呼は「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を「フタコブラクダの正面形」に見立て、「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を「沙漠を歩くに都合がよい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底」あるいは「沙漠の砂に残る足跡」に見立てた。だから、「上県郡と下県郡の地宜」は「馬・フタコブラクダの姿と足底の一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]が加わる「対馬」とした。
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 卑弥呼は「対馬の地宜」を「馬・フタコブラクダの姿」に相似すると見立てたゆえ、出雲の「神門水海の地宜」を「馬・フタコブラクダの赤ちゃんの姿」に見立てた。そして、「対馬の下県の地宜」は「フタコブラクダの足」に相似し、「宍道湖の地宜」は「人の右足」に相似するゆえ、卑弥呼は「フタコブラクダ」は「人」に見立てた。これゆえ、卑弥呼は「フタコブラクダの赤ちゃん」を「人の赤ちゃん」に見立てて、「出雲市から松江市の地宜」を「邪馬」の「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門」と、[]の字源「十字の銀河の子宮」に相当する聖地と考えて、首都所在地の名を「邪馬壱国」と定めたことになる。

◆「現在の長崎県北部の壱岐」の小国名を、卑弥呼は「一大国」とした。
 『説文解字』は[]の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。ゆえに、下図に示すように、『説文解字』は[]の字源は「天頂(天頂緯度線)、つまりそれ以上の上が無い・最も高い天体部となる緯度線」と解説していることになる。
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 下に示すように、[][]の契文形(けいぶんけい/甲骨文字の字形)と金文形は「十字の銀河」から作られた。
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 下に示すように、「長崎県の壱岐の地宜」は[][]の字源「十字の銀河の子宮の形」に類似すると見立てた。その証拠に、「壱岐」の[]の字源は「十字の銀河の子宮」である。そして、「壱岐の地宜」は[]字形である。
 ゆえに、卑弥呼は「壱岐」の小国名を「一大国」と定めた。
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 下に示すように、現在方位にもとづく「一大国・壱岐の西端の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「フタコブラクダの地宜より東方の壱岐大半の地宜」は「南に顔を向ける[]の字源・ジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。
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 下に、[]の字源の「転回方位」にもとづく「一大国・壱岐の地宜」を示した。
 「一大国・壱岐の地宜」は「大きなジャコウウシの全身と、ジャコウウシの背中越しに遠くにいて胴体や足の部分が見えないフタコブラクダの顔とコブに岐(わか)れる形」となる。
ゆえに、「一大国の地宜」は「ジャコウウシとフタコブラクダの形をした地宜(海岸線の形)に岐れる」ゆえ、[]の字を表示することになった。
 上記したように「一大国の地宜」は[]の字源の「十字の銀河の子宮の形」に類似すると見立てられたゆえ、「一大国」は後に[][]を加えて「壱岐」とよばれることになった。
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◆前述したように、[]の字源の「ジャコウウシ」を倉頡は「胎児が宿る子宮を包囲して、胎児の命をまもる骨盤」に見立て、【漢字の作成理論】を象徴する聖獣と定めた。
 また、[]の字源の「フタコブラクダ」を「産道を通りぬける出産児」だけでなく、倉頡は「子宮に宿る胎児」にも見立てて、【漢字の作成理論】を象徴する聖獣と定めた。
 これゆえ、「一大国の地宜」に相似する「骨盤・ジャコウウシと子宮に宿る胎児・フタコブラクダ」もまた[][]の字をあらわす。ゆえに、「一大国」は後に「壱岐」とよばれることになったのである。
 地図で調べれば「なるほど」と納得できるように、「馬・フタコブラクダの姿」に相似す「対馬」は「経度軸と緯度軸に対して邪(なな)め」であるからして、[邪馬]ということになる。また、「一大国の地宜」は[]の字源を示す。ゆえに、「対馬国と一大国」もまた卑弥呼が首都とした女王国中心地の出雲の地宜と同じく「邪馬壱」をあらわす。
 だから、現存する12世紀の刊本『魏志倭人伝』が記しているように、女王国名は「邪馬壱国」であった。ということは、白石以来の女王国名は「邪馬台国であった」という定説は約2000字で構成される『魏志倭人伝』の1ヵ所の記事にも合致しない完全なる空理空論・空想・デタラメ・真っ赤なウソであったことになる。
 その証拠に、『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名」は「瀚海・ゴビ沙漠」であったと記述する。だから、[]の字源は「ゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」であり、前述したように、「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門と母体の産道」を、卑弥呼は「邪馬壱」と名づけたことになる。というのも、「産道を通りぬける小泉門・矢状縫合・大泉門の形状」は「草をモグモグと食べる時のフタコブラクダの鼻・上アゴのミゾ・口・下アゴの形」に瓜二つ・そっくりだからである。
 以上のごとく、【倉頡の漢字作成理論】は卑弥呼が「邪馬壱」と名づけた「草をモグモグと食べるときの鼻・アゴ・口の形状に瓜二つの、産道を通過する出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の神秘的な光景」に感激して倉頡が発明した【倉頡の漢字作成理論】は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【基本字の[][]の字源】と【夏の銀河各部の形状】を合体して合理が成立するように考えて文字を作る方法であった。
 だから、卑弥呼は女王国名を「邪馬壱国」と定めて【倉頡が感動した、骨盤入口から膣口までの産道を通過して誕生する出産児の頭蓋骨の“生命の神秘の光景”】をあらわすようにしたため、「対馬国と一大国の中間の海の名」を「馬・フタコブラクダが生息する、瀚海」と名づける必要があったのである。
 以上のごとく、「邪馬台国」は『魏志倭人伝』とまったく無関係であった。その証拠に、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記す。さらに、「邪馬台」の「邪馬」は「産道を通過する出産児の頭蓋骨の形状」であって「大和」や「山門」とはまったく無関係であった。
 『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明する教科書であったのである。
 だから、邪馬台国説は「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた」という素養を有さないが致命的欠陥となる、100パーセントの誤読の産物、完全なる空理空論であったことになる。

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2022年9月20日 (火)

家康くんと『魏志倭人伝』#3

◆「銀河」の別名は「銀漢」である。
 「銀漢から作られた文字」を略して、字書で調べてわかるように、わが国でも中国でも「漢字」とよんだ。
 「漢字が作られた銀漢」は、天文学で通称「春の銀河、夏の銀河、秋の銀河、冬の銀河」とよばれるうちの「夏の銀河」から作られた。「夏の銀河」とは「夏の全星座が漬()かる銀河」のことである。
 
下に「銀漢=夏の銀河」の写真を示した。
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 中国の伝説は「五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」と伝えていた。つまり、倉頡伝説は上の写真で示した「【銀漢(夏の銀河)各部の形状を字源・字形・字義とする漢字作成理論】を発明した」と伝えていた。
 倉頡はみずからが発明した文字が最も強大な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱・革命に利用したならば容易に王朝は崩壊すると心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員を死刑にすると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は銀漢・夏の銀河から作られた」と、明確に容易に理解できるように説明して暴露した者はもちろん、その一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、字源・字形・字義となる銀漢各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者または消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする
 上記した【3】の掟のために、五帝時代の原初漢字の書契と夏代の夏音文字においては文字を書いた資料が出土しないことになった。

◆上記した【3】の掟によって、五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)、夏代(かだい)の夏音文字(かおんもじ)の字源・字形・字義は銀漢各部の形状となった。
 ゆえに、現在においても、五帝時代の書契と夏代の夏音文字は、夜な夜な輝く銀漢各部の形状となって存在することになった。
 そして、殷代(いんだい)後半の甲骨文字(こうこつもじ)、周代の金文(きんぶん)、金文以後の大篆(だいてん)・小篆(しょうてん)・隷書(れいしょ)・そして後漢時代の1世紀頃に確立されたとされる楷書(かいしょ)は【倉頡が発明した漢字作成理論】にもとづいて作られた。このため、これらの字源・字形の原形・字義は銀漢各部の形状となった。
 したがって、五帝時代の書契・夏代の夏音文字と甲骨文字以後の金文・大篆・小篆・隷書・楷書の字源・字形・字義は、銀漢各部の形状となって永遠に存在することになった。

 このような【倉頡が発明した漢字作成理論】は、なんと! 3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』に記述されていた。
 学者たちが主張するように――『魏志倭人伝』は「邪馬台国がどこにあったか」と決定するための書物ではなかった。
 『魏志倭人伝』が記述される【倉頡が発明した漢字作成理論】に則(のっと)ると「卑弥呼が首都とした地所の名」は「邪馬壱国(やまいこく)」であったことになる。また、現存する12世紀の刊本には「邪馬壹()国」と記し、「邪馬臺()国」と記していない。学者たちは「邪馬壱国」と書いてある事実を無視して「邪馬台国と書いてある」とウソをつき、一般市民を洗脳(マインドコントロール)してまんまとダマしつづけている。今から300年前の江戸中期に生存した新井白石(あらいはくせき/16571725)以来、学者たちは300年もの長き間、【倉頡の漢字作成理論】を無視し排除して『魏志倭人伝』には「邪馬台国」と書いてあると、一般市民をダマし続けている。
 「邪馬壱国」の「邪馬壱」は【倉頡の漢字作成理論における基本理論】をあらわす語であり、また「邪馬壱」は[][]の字源・字義をあらわした。
 したがって、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論】は〔卑弥呼が天下を統治するための真っ先に必要となった学問にして知識〕であった。ゆえに、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倉頡の漢字作成理論】を政権基盤にして天下を治めていた」と伝えていたことになる。
 このブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#3」から以後数回のブログにて説明・指摘するように、ついにわれわれ国民(一般市民)は「邪馬台国説は空理空論であった」と【科学】の基(もと)に明確に完全証明できるようになったのである。
 もはや学者たちにまんまとダマされずに、マインドコントロールされずにすむようになったのである。とうとう、一般市民は邪馬台国説の空理空論・真っ赤な大ウソから解放されて〔自由な[][]の翼〕を手に入れることができる時が訪れたのである! 
 ようやく、白石以来300年も思考停止して一歩も進歩しなかった学者たちを尻目(しりめ)に見て、一般市民は「『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を説明していた書物」として扱うことができる時が到来したのである。

◆倉頡が生存した五帝時代初頭は今から約5000年前、わが国の中期縄文時代初頭であった。この約1000年後の今から4000年前の中国の夏代黎明期(れいめいき)、わが国の後期縄文時代初頭、中国の夏王朝の帝王であった益(えき)の孫の王子と若者たち一行が大海を越えて九州に上陸し、北に向かって進んで東北地方の秋田県に定住して【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめた。この噂(うわさ)を知った東国(東日本)の銀漢(夏の銀河)各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った芸術家たちが益氏の若者たちが居住する秋田県に旅して、前期縄文時代初頭から中期縄文時代そして後期縄文時代初頭までの約2000年間及ぶ造化(銀漢各部形状から土器・土偶を作った造形芸術)の神々(つまり、参神造化の伝統による知識)にもとづいて【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した。ゆえに、わが国は今から約4000年前に、【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】を習得していた。だから、『魏志倭人伝』に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が記述されることになったのである。
 そして、『魏志倭人伝』の他に、なんと『古事記』上巻にも【倉頡の漢字理論と夏音文字の学芸】に記述されていたのである。
 この詳細は、前回の「家康くんと『魏志倭人伝』#2」で詳細に解説して証明した。

 上記したように【倉頡が死刑と定めた3つの掟】によって、五帝時代の書契と夏代の夏音文字の字源・字形・字義は銀漢各部の形状となった。このため、現在でも夜な夜な現れる銀漢(夏の銀河)各部の形状で、また上記した「夏の銀河(銀漢)の写真における各部の形状」で、あるいはプラネタリウムにおける銀漢各部の形状で存在することになった。
 だから、現在の「わが国が最年初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的な定説は空理空論であった。この絶対的な定説は,そもそも「後漢時代の1世紀頃から出現されたとされる楷書を書いた資料が出土した事例において、最古のものは5世紀あるいは6世紀であった」と、学界は認識しなければならなかったのである。
 他方、【五帝時代に作られた原初漢字・書契(しょけい)と夏音文字】は(1)夜に輝く銀漢と(2)銀漢の写真と(3)プラネタリウムの銀漢各部の形状が字源・字形・字義となり、字音は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数現存する。
 だから、楷書と同じく【五帝時代の書契と夏音文字】は字源・字形・字義・字音の四拍子がそろう完全なる漢字であった。
 『古事記』上巻の随所には、約4000年前にわが国が習得した夏音文字が〔音〕という目印()がついて多数残っている。したがって、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく文字を【あなたが目で見る】という――この現場は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が断定した絶対的定説は「真っ赤なウソ」である現実と事実を目撃していることになる。
 言い換えると、『古事記』上巻を開いて、随所の〔音〕という注がつく文字が何か所あるかと数えていく――この時間は「4000年前にわが国に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」、この現場を目撃していることになる。

◆上記した〔空理空論の漢字習得説〕の中心勢力である考古学は、邪馬台国論争における中心勢力でもある。この考古学を中心勢力となる邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説を立論する学者たちは「『魏志倭人伝』の記事は信用できない」と声高に主張して、自分の意見にあわない記事は片っ端から自分の言いなりになるようにしようとする――この立論方法は当時の事実であった出来事や真実の情報を入手した『魏志倭人伝』の著者・陳寿(ちんじゅ)が慎重に深く思索して記述した文章に【横暴な主観】と【無責任な誤読】をヤタラに積み重ねる状況、つまり【意地悪なナンクセ(難癖)】と【勝手な言いがかり】をつけていたことになる。
 要するに、1ヵ所も【誤読】を加える必要がない正確無比な『魏志倭人伝』に、邪馬台国説学者たちは【300年前の新井白石の邪馬台国説から一歩も進歩しないナンセンスなイチャモン】をつけて弄(もてあそ)んで楽しんでいることになる。

 前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#2」で指摘したように――江戸時代中期に生存した新井白石は、1716年・晩年60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して邪馬台国説大和説と日本神話説を記述した。さらに、その後、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を記述した。
 このような白石の(1)邪馬台国大和説と、(2)邪馬台国九州説と、(3)日本神話説は空理空論であった。というのも、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住していた女王国の名を「邪馬壱国」と記し、「邪馬壱国の中心地域は山陰出雲であり、邪馬壱国の範囲は旧国の石見・出雲・伯耆(現在の島根県と鳥取県西部)であった」と記述しているからである。そして、上記したように、「邪馬壱」という語は【倉頡の漢字作成理論の基本理論】をあらわしていた。
 前述したように、『古事記』上巻には、約4000年前にわが国が習得した夏音文字が〔音〕という目印()がついて多数残っている。ゆえに、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字を【目で見る行為】によって、白石の日本神話説・邪馬台国大和説・邪馬台国九州説(筑後山門郡説)の三説は「無知無学の産物」であった事実を見ぬくことができる。
 というのも、上記したように[][]の字源は【倉頡の漢字作成理論の基礎理論】であったゆえ、『古事記』上巻に多数記される夏音文字を【目で見る行為】によって、「白石の日本神話説・邪馬台国大和説・邪馬台国九州説(筑後山門郡説)の三説は、[][]の字源を知らない無知無学の産物であった」という事実を知ることができるからである。

 【『古事記』上巻に、多数の夏音文字が記されている事実】に気づくと、『魏志倭人伝』は冒頭記事から狗奴(くな)国が登場するまでの約500字までの記事をもって「倉頡は文字作成目的であった【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】をあらわす【漢字作成理論】を発明した」と説明していた重大な歴史書であったと証明されることになる。また、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住した」と説明していたとおり、この首都名に用いられた「邪馬壱」という語は「【倉頡の漢字作成理論の基本論】をあらわしている」と証明することができる。だから、白石以来学者たちは300年もまもりつづけた邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』とまったく無関係の空理空論であったことになる。
 白石は「漢字は銀漢から作られた知識」を有していなかった。これゆえ、白石は『魏志倭人伝』が記述された事実と真実を見抜く眼力を失っていた。だから、白石の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説と、そして日本神話説の実体は[][]の字源を知らない無知無学の産物であったのである。

◆上記したように、当然、『魏志倭人伝』を正しく理解するためには「漢字は銀漢から作られた」という学術知識を最初から有していなければならない。
 白石はじめ現在の学者たちが、最初から「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していれば「わが国は最初に漢字を習得したの5世紀あるいは6世紀である」という定説が空理空論である事実を、下記の『魏志倭人伝』の二つの記事を読んで直(ただ)ちに察知できた。
 『魏志倭人伝』には「倭には夏代黎明期に習得した夏音文字が存在した」と説明していた二つの記事が存在する。
 この一つ目は、『魏志倭人伝』の中半にある「倭の占いに用いる辞(言と文字)は令亀(れいき)の法の如くであった」と説明する記事である。「令亀の法の如く」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ契文(けいぶん)・今から約3300年前に出現した甲骨文字の如き夏音文字」と意味したことになる。
 二つ目の記事は、『魏志倭人伝』の中半にある「中国の魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都国(いとこく)の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と卑弥呼が用いる夏音文字を捜露(そうろ)して、楷書と夏音文字が同義になるように正しく変換していた」と説明する――このような「倭には【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、【倉頡の漢字作成理論】と、【夏代初頭の夏音文字】が存在した」と伝えている記事が存在する。
 上記の記事にある、「捜露(そうろ)」という語は――前述したように、夏音文字と楷書の字源・字形・字義は銀漢(夏の銀河)各部の形状であった。ゆえに、「夏音文字と楷書を同義するには、夏音文字と楷書の一字一字の字源・字形・字義は銀漢のどの箇所と合致するのか捜(さが)し露(あらわ)にしなければならなかった。だから、『魏志倭人伝』は「夏音文字と楷書を同義にする伊都国の港で行われていた作業」を「捜露」と記したのである。

◆上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるにもかかわらず――『古事記』の序は「上巻だけの序」と限定するきわめて風変りな・特殊な序である。
 太安万侶(おおのやすまろ)が書いた『古事記』の序は900余字で構成される。
 『古事記』は上巻・中巻・下巻のうち、上巻のみに〔音〕という注がつく夏音文字が多数記されている。この【夏音文字の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に捜露・変換する作業を中心にして上巻に記述された歴史を解明する方法】を説明するために、「古事記上巻 并せて序」という名称にしたのである。
 それというのも――681年3月、40代・天武天皇は「大和朝廷の基礎を築いた天照大神(10代・崇神天皇母子)を絶賛する最も偉大な至上神にするための偽書を作れ」と命令した。しかし、681年から31年後の712128日に元明(げんめい)天皇に献上された『古事記』上巻は、天武天皇の偽書作成命令を無視する反逆の歴史書であった。その証拠に、『古事記』上巻には伊耶那岐命と伊耶那美命説話が記述されている。この伊耶那岐命と伊耶那美命説話には【朝廷が後世に伝えることを厳重に禁止した、皇祖・天照大神の聖性を汚す歴史】が記述されている。
 要するに、「古事記上巻 并せて序」という名称になったのは、『古事記』上巻が【天武天皇の天照大神を絶賛する偽書作成命令に背(そむ)く、反逆の歴史書】であったからである。
 白石と現在の学者たちは、個性的な「古事記上巻 并せて序」という名称にまったく奇異を感じず、無関心・無頓着(むとんちゃく)である。
 これゆえ、学界は、新井白石の日本神話説と同様に「『古事記』上巻は歴史を語っていない」と考える日本神話説が正しいと断定する。
 『古事記』は上巻・中巻・下巻から構成されているのに、なにゆえ〔『古事記』の序〕は〔『古事記』上巻だけの序〕なのか――現在の学者たちは誰一人、疑問を抱かない。
 太安万侶は「古事記上巻 并せて序」という名称をもって「漢字は銀漢から作られた。『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に捜露・変換すれば上巻に記述された歴史が明らかとなる。『古事記』上巻は反逆の歴史書である」と説明していた。
 だから、【序】を「古事記上巻 并せて序」という奇異な個性的な名称にした『古事記』上巻は反逆の歴史書であったのである。
 『古事記』上巻は反逆の歴史書であったからこそ、元明天皇は『古事記』献呈を拒絶し、『古事記』を政府が編纂した書物・正史として認めなかった。また、『古事記』が編纂された持統天皇・文武天皇・元明天皇の治世のおける出来事を記述する正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「『古事記』に関するすべての記事を削除・消滅して、『古事記』という書物は実際に編纂されなかった」のごとく偽装している。
 だから、「古事記上巻 并せて序」という個性的な「『古事記』の序」を見て「エっ! なんで上巻だけの序なんだ」と注目していたなられば「『古事記』上巻は反逆の歴史書である」と解明できる仕組みになっていた。なんのことはない、『古事記』上巻は反逆の歴史書であったために、「『古事記』の序」は「古事記上巻 并せて序」という名称になったのである。

◆『古事記』を開くと、最初に「古事記上巻 并序」と記す7字がある。この「古事記上巻 并序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と読まれている。
 「古事記上巻 并せて序」の本文冒頭から45字目までの書き下し文は、振り仮名をつけると煩雑(はんざつ)となる。ゆえに、振り仮名無しだと下記のごとくなる。
 「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る。」
 上記の文を、現代語に訳すると下記のごとくになる。
 「臣下の安万侶が元明天皇陛下に申し上げます。その混元の草創期縄文時代・早期縄文時代において、わが国の天頂にめぐってきた銀漢の形状はすでに一塊(ひとかたまり)に凝り固まっていましたが、その形状にはなにかの事象や事物をあらわす気(雰囲気)や象(かたち)をとらえることができませんでした。ゆえに、この混元の草創期縄文時代・早期縄文時代に天頂にめぐってきた銀漢には名称も無く、この銀漢の形を表現する技巧(わざ)も存在しませんでした。ゆえに、混元期(草創期縄文・早期縄文)に天頂にめぐってきた銀漢の形について、『古事記』を編纂することになった現在、誰も知っていません。しかしながら、前期縄文時代の首(はじめ/初頭)に天頂をめぐってきた銀漢の形状は「乾坤(けんこん)」すなわち「天と地に分れるイメージ」をあらわしました。ですから、前期縄文時代初頭、土器・土偶を作る造化・芸術革命が小国・日本の東国(関東地方)にて花開き、さまざまな芸術性豊かな優れた作品が多数作られました。そして、後期縄文時代の首(はじめ/初頭)、中国から名門益氏の王子と若者たちがわが国の東方地方(秋田県)に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教えひろめました。これを知った東国の芸術家たちは、益氏が居住する遠く離れる地所まで旅して、前期縄文時代の初頭から中期縄文時代、そして後期縄文時代の初頭までの銀漢各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った参神造化の2000年間の知識にもとづいて【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得することができました。これゆえ、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換しますと――陰の伊耶那美命と陽の伊耶那岐命と結婚した時に伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】と、伊耶那美命の没後に伊耶那岐命が【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ歴史が解明できます。この【日本建国の〔愛〕の理念】を群品(ぐんぴん)つまり倭国と小国・日本の国中の人民たちは感激して日々の生活(くらし)の中心におき心の糧(かて)として尊重しました。いっぽう、国中の人民たちは強大な権力でおさえつけて治める天照大神(10代・崇神天皇母子)に反発して抵抗しため、天照大神は人民たちを敵視しますます弾圧しました。これゆえ、群れる民衆と群れる庶民、つまり国中の人民たちはこぞって伊耶那美命と伊耶那岐命は天照大神よりも優る最も偉大な先祖と敬愛し尊重しました。」
 上記のごとく、『古事記』上巻はまさしく反逆の歴史書であったのである。
 〔注 「字書の聖典」と尊重された100年ころに完成していたとされる後漢時代の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は、上記の文末に登場する「二霊群品」の[]の字ついて「衆庶(しゅうしょ)なり」と解説する。ゆえに、「衆庶なり」は「民衆と庶民なり」と意味するゆえ、「群品」は「群れる民衆と群れる庶民」ということになる〕。

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話は、伊耶那美命が伊耶那岐命と結婚した時に宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を10字の夏音文字で「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と記す。
 この宣言のうちの[]を、『説文解字』は「大陵を阿と曰()う」と解説し、次の[]の字を「陝西(せんせい)の地名」と解説する。ゆえに「阿那」は「陝西省黄陵県に所在する大きな陵墓の黄帝陵」と意味する。桃の原産地は、[]の「陝西省辺り」とされる。[]の字源銀河は「子」の字源銀河でもあるゆえ、「那邇」は「桃のように可愛いたくさんの子供たち」と意味することになった。
 ゆえに、「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言をもって伊耶那美命は「日本の袁登古袁(おとこ・男たち)よ、中国の黄帝が慈愛つまり【愛】をそなえて万民を教化したように、妻を愛して桃のように可愛い子たちをたくさん生んでください。日本は【愛】を最も大事にする国家にしましょう」と表明したことになる。
 この夏音文字10字の「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言は、伊耶那美命が伊耶那岐命と結婚する以前にすでに、「阿那邇」つまり【愛】(慈愛)をそなえて人民たちを教化した中国の黄帝の歴史を伝えて小国・日本と倭国のあちこちで流行していたことになる。当時は、「夏音文字の字源・字形・字義」は王朝と国家が厳重な機密にして独占管理していた。ゆえに、小国・日本及び倭国の人民たちは「阿那邇夜志愛袁登古袁」の各々1字ずつの字源・字形・字義を知る由(よし)もなかった。しかし、学識者たちから「阿那邇夜志愛袁登古袁」という語意を入手した人民たちは「親が子を思う心」、「父母を敬って孝養を尽くす心」、「妻と子を愛する心」、「乙女が男子を恋する心」などとザックリと簡略化して解釈していたことになる。
 だから、小国・日本が建国された時、伊耶那美命がとなえた「阿那邇夜愛袁登古袁」という宣言は人民たちにとって夢みるような幸福感がまばゆく光の中を花吹雪のようなきらめいて輝く聖なる語となった。ゆえに、一気に爆発的・情熱的に小国・日本と倭国の国中の隅々に行き渡って、今日でいう「愛はすべてに勝る」、つまり「阿那邇夜志愛袁登古袁はすべてに勝る」と人民たちは口々にとなえるようになり、群品すなわち人民たちの生きる希望・日々の生活を支える原動力となった。そして、小国・日本と倭国の人民たちは伊耶那岐命を心から尊敬し熱烈に愛したのである。

◆前回のわがブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#2」でも指摘したように――伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話における【夏音文字と幾つかの楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する歴史解明方法】にもとづくと、下記のごとく説明したことになる。
 現在の字書は「黄泉国」を「死んだ人の魂が行くところ。あの世」を意味すると解説するが、『古事記』における「黄泉国」は「熊野」を意味した。というのも、「黄色(黄金色)に輝く[]の字源銀河周辺(つまり、銀河系中心方向周辺の銀漢)」の、その一部分が熊の姿に観える。ゆえに、「一部分が熊の姿に観える、黄色の[](地下から湧出する湧水泉に相似する)字源銀河」は「熊が住む野原」すなわち略して「熊野」という地名となり、「和歌山県南東部と三重県南部の地域」は「熊野」とよばれることになったのである。
 倭女王の伊耶那美命は、『魏志倭人伝』末部に登場する倭女王・壱与であり、伊耶那岐命・9代開化天皇の正妃・竹野比売(たかのひめ)であった。9代開化天皇・伊耶那岐命の第二后の天照大神は10代崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)であった。
 倭女王・伊耶那美命が死去すると、10代崇神天皇の生母の天照大神が倭女王に就任した。
 これゆえ、「伊耶那岐命があとを追っていた、黄泉国の伊耶那美命」は「熊野本宮大社の旧社地の大斎原に建てた仮住まいの宮殿に住む天照大神」と解釈しなければならない。というのも、『古事記』編纂スタッフは「黄泉国の伊耶那美命」という表現をもって、天武天皇の「天照大御神を絶賛する偽書を作れ」という命令に従ったと見せかけていたからである。
 黄泉国の伊耶那美命、言いかえると天照大神・伊迦賀色許売命は伊耶那岐命(9代開化天皇)の父の孝元(こうげん)天皇と結婚して天照大神・10代崇神天皇を生み、伊耶那岐命と結婚した継母(ままはは)であった。
 ゆえに、伊耶那岐命(9代開化天皇)10代崇神天皇の実父ではなく、伊耶那岐命は10代崇神天皇の養父・異母兄・伯父であった。

 伊耶那岐命の第二后の天照大神・伊迦賀色許売命は伊耶那美命の陵墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)を築造する時、伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視して、伊耶那美命がもっとも嫌悪した多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の墓に埋める残虐冷酷な徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した〔注 『古事記』は「徇葬」を「八雷神(やくさのいかづちがみ)」と記す〕。天照大神は伊耶那岐命が愛妻・伊耶那美命の亡骸(なきがら)を奪うクーデターを予想して「倭の千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)」つまり、「倭の大軍」に伊耶那美命の陵墓を衛(まも)らせた。
 真夜中、伊耶那岐命は少数の日本兵を引き連れて、伊耶那美命陵の墓室に忍び込んで伊耶那美命の亡骸を収める棺を奪い、棺は日本兵が神輿(みこし)にして担いで、伊耶那岐命一行は桃子三箇(もものみみつ/日本軍と熊野の戦士たちが集合する伊耶那岐命軍の本隊)が隠れて待機する「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本」、すなわち「現在の熊野速玉大社の境内(和歌山県新宮市)」に目指して逃走し、追跡する倭の大軍を速玉大社の境内に誘き寄せ、「桃子三箇所をとりて持ち撃てば(身を潜めて隠れていた伊耶那岐命軍の本隊が急襲して)」、倭の大軍を一挙に壊滅させた。
 おどろくべきことに、夜の真っ暗な長い熊野路を倭女王・天照大神は怒りで身を焦がして憎い伊耶那岐命を追跡してきて、日本兵の捕虜となった。日本兵に捕まった天照大神は、速玉大社から約1km真南の「黄泉比良坂(神倉神社の急坂の参道)」を塞(ふさ)ぐ「巨大な岩・千引石(ちびきのいわ)」の前にいる伊耶那岐命のもとに連行された。
 天照大神は巨大な千引石の前で、伊耶那岐命に事戸(ことど/絶妻の誓)を言い渡されて離縁された。すると、倭女王からの失脚と離縁との屈辱を怒った天照大神は伊耶那岐命に向かって「汝(いまし)の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」と呪(のろ)った。この呪詛(じゅそ/のろい)は「亡き前の倭女王(伊耶那美命)がとなえた『阿那邇夜志愛袁登古袁』と宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民(人草)たちの母親の子どもたちが骨産道(こつさんどう/骨盤の参道)をくぐりぬけるとき、そのせまくて堅い骨産道で子どもたちの頭を一日に必ず千人ずつ絞(くび)り殺すと、天の神に誓うことにした」と意味した。
 この呪いに対して、伊耶那岐命(後に伊耶河宮に居住して天下を治めた9代開化天皇)は「如此為(かくなせ)ば、吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ」と誓った。この誓いは「おまえがそうするならば、亡き愛する妻の『阿那邇夜志愛袁登古袁』の宣言を受け継いで、吾は万民に一日に必ず千五百の産屋が立つように、〔愛〕を尊ぶように日々説いて天下を治める」と意味した。

 『古事記』編纂スタッフは「天照大神・伊迦賀色許売命の名」を、黄泉国訪問説話の冒頭では「黄泉国に追いかけた伊耶那美命」と記し、末部では「伊耶那美命」に「神」の一字を加えて「伊耶那美〔神〕命」と記すようにした。「伊耶那美〔神〕命」という名から「残忍冷酷な徇葬は伊耶那美命が陣頭指揮して決行された」と解釈できるゆえ、編纂スタッフは天武天皇が欲求したとおりの偽書を作ったと、『古事記』を献上した元明天皇にせまって献呈の許可を願った。しかし、元明天皇は、後世の人々は「伊耶那美〔神〕命」を「天照大〔神〕」と解釈するにちがいないと考え、『古事記』編纂スタッフの企みに同意して承認しなかった。というのも、天照大神が伊耶那岐命に事戸(離縁)された場所「巨大な岩・千引石」は熊野の神倉(かみくら)神社のご神体であり、熊野の人々は神倉神社に天照大神を祀って「黄泉国の伊耶那美〔神〕命の正体は天照大神である」と伝えていたからである。伊耶那美命に熱烈に憧れる熊野の住人たちが神倉神社に天照大神を主神として祀るのをあきらめて「天照大神が残虐な徇葬を決行した歴史」の伝承を廃止するはずがないと、元明天皇は考えた。
 現在も、神倉神社は天照大神を主祭神にして祀っている。また、神倉神社の二月六日夜の火祭り「お燈(とう)祭り」は「天照大神は残酷な徇葬を陣頭指揮し、伊耶那岐命はクーデターを決行し、追跡してきた倭の大軍を速玉大社の境内で壊滅して、天照大神を倭女王から失脚させた」と伝える祭典であったのである。
 このように「古事記上巻 并せて序」という「『古事記』の序」という名称をもって「『古事記』上巻は反逆の歴史書である」と説明するものであったゆえ、元明天皇は反逆の歴史書『古事記』の献呈を拒絶した。だから、『古事記』は正史になれなかったのである。

◆『古事記』が元明天皇に献上された702年より11年前の701123日――「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝から承認を得る任務につく第7回遣唐使が8人選ばれた。遣唐使の中で最高位の遣唐執節使(けんとうしっせつし)には粟田真人(あわたのまひと)が選任され、最下位の幹部は万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)であった。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――702629日、九州の港を出帆して中国に渡った第7回遣唐使は「後稍(のちやや)、夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所近し。以(ゆえ)に名となすと。あるいはいう、日本乃(すなわ)ち小国、倭の并(あわ)す所となる」と説明して、「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝が承認するように求めた――という、倭国には「夏音文字があった」と説明していた記事が存在する。
 つまり、上記した第7回遣唐使が「後稍、夏音を習う」と述べた言は「わが国は672年の壬申の乱の〔後〕、〔稍々〕〔夏音(夏音文字)〕を〔習う〕ことにした」と説明していたことになる。だから、第7回遣唐使が中国王朝に報告したように、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っているゆえ、わが国には今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した夏音文字が存在したことになる。

 上記したように、第7回遣唐使が「倭の名を悪(にく)み」と中国王朝に報告した言は――「『魏志倭人伝』末部に記された卑弥呼の墓を作る時と、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記述された伊耶那美命(壱与)の墓を作る時と、二度も倭王朝は残忍冷酷の徇葬を決行した――だから、倭国と小国・日本の人民たちは二度の徇葬を憎悪して「倭」という国号を憎んだとあらわしていたことになる。
 中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』と倭国日本伝は――第7回遣唐使の言動について「その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)、実をもって対(こた)えず。故に中国焉()れを疑う」――などと記述している。というのも、下記に示した事情にもとづき、中国では日本国の使節(第7回遣唐使)の言動について疑ったからである。
 日本国の使節は漢字(楷書)を用いて「倭」から「日本」への国号の改変の承認を求めた。したがって、日本国の使節は漢字(楷書)の知識を有してているにもかかわらず、「倭」から「日本」への国号改変の事情を説明する文書を作成せず、のん気に手ブラでやって来て国号の改変を中国王朝に承認を求めるのかと――真っ先に中国の外交官と王朝は疑った。「国号の改変」は「中国王朝の承認無し」で「日本国」にて独自で決定できる。だから、わざわざ大海を渡って中国側に承認を求める必要は無い。〔国号の改変の事情を説明する文書〕を作成して、中国王朝に報告すれば、それで済む。にもかかわらず、なぜ〔国号の改変の事情を説明する文書〕を作らずに手ブラで入朝したのか――と、中国側は真っ先に疑った。ゆえに、中国側は日本国の使者たちの様子は事実を答えずにウソを言っていると考えた。さらに中国側には、日本国の使者たちは国号改変の詳しい事情の説明を嫌がっているように見える言動は矜大(尊大)に映った。
 持統(じとう)上皇(天武天皇の皇后)は「天照大神を絶賛する偽書作成」を催促しても一向に実行されない状況にシビレを切らした。そこで、上皇は「天照大神」は「日神」であるゆえ、「日神」と「日本」は一字違いであることに注目した。「日本」という国号を中国が承認したならば、後世の学者たちは「日神・天照大神が日本国を誕生させた」と考えるにちがいないと――上皇は「偽の歴史の捏造(ねつぞう)」を企んで、第7回遣唐使に「倭」から「日本」への国号改変の承認を中国王朝から入手してくるように命令したのである。
 ところが、中国王朝は真っ先に日本国の使節は国号改変を説明する文書を作らずに手ブラで中国に渡って来たのかと疑問を抱いた。第7回遣唐使は「天照大神が日本国を誕生させた」という偽の歴史を捏造するために中国に派遣された。このため、中国の要望に応えて正直に事実を語って帰還したならば、持統上皇に即刻死刑にされるゆえ事実を語ることはできなかったのである。

◆第7回遣唐使が九州の港を出帆した7026月より21年前の6813月に、天武天皇は川島皇子以下十二人に「稍、夏音文字を習う」、また「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と指示する『天照大神を絶賛する偽書の作成』を命令した。この681年から702年までの21年間、天武天皇・持統天皇・文武天皇の3代において、偽書を作成することができなかった。ゆえに、持統上皇はシビレを切らして「日神・天照大神が日本国を誕生させた」と偽の歴史の捏造を企んで第7回遣唐使を中国に派遣した。しかし、朝廷が偽書作成を願望するものであったから、【偽書作成の環境】はすこぶるめぐまれていたことになる。にもかかわらず、21年間も偽書を作成できかったということは、朝廷側(体制側・天照大神崇拝派)には【偽書を編纂する能力を有する歴史家】がいなかったことになる。

 708年、体制側・天照大神崇拝派の藤原不比等の長男にして藤原南家の武智麻呂(むちまろ)は図書頭(ずしょのかみ)であった。武智麻呂は壬申の乱以後に散逸(さんいつ)した図書寮(ずしょりょう)で保管すべき書籍について、民間の協力を求めて採集し充実をはかった。ゆえに、武智麻呂には歴史書を編纂できる能力があった。しかし、武智麻呂は父不比等を裏切って、反体制側・伊耶那美命崇拝派の頭領の舎人(とねり)皇子を尊敬し、堅い熱い友情で結ばれていた。武智麻呂は伊耶那美命を崇拝していたのである。
 武智麻呂だけでなく、不比等の後妻の県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなみちよ)も伊耶那美命を崇拝し、舎人皇子を尊敬して反体制側・伊耶那美命崇拝派を支援した。
 733年1月に県犬養橘三千代は死去したが、最後まで彼女は舎人皇子を支援しつづけた。
 737年に武智麻呂は当時流行した天然痘により没したが、彼もまた733年に舎人皇子が死去した後も4年間、舎人皇子が遺した伊耶那美命崇拝運動が終焉しないように尽力した。
 『古事記』と『日本書紀』は舎人皇子(676735)が指揮して編纂された。舎人皇子は天武天皇の第三皇子であった(多数の天武天皇の子どもにあって、皇位継承順位が第三番目。『続日本紀』による)
 特に注目すべきは、元明天皇の長女の44代・元正(げんしょう)天皇は舎人皇子を一途に愛し、朝廷が反逆児・舎人皇子に死刑を下すのを懸命に防いで一生独身を通した。
 舎人皇子が頭領、舎人皇子の異母弟の天武天皇の第七皇子の新田部(にいたべ)皇子が副頭領となって、時の律令体制への伊耶那美命を崇拝する抵抗運動が組織された。舎人皇子の異母兄の天武天皇の第九皇子の忍壁(おさかべ)皇子、舎人皇子の異母兄の天武天皇の第五皇子の穂積(ほづみ)親王も、舎人皇子の伊耶那美命崇拝運動に加担した。左大臣まで出世した辣腕(らつわん)政治家の長屋王(ながやおう)も伊耶那美命崇拝運動に参加した。
 701年1月、持統上皇・文武天皇政権の重臣の大伴御行(おおともみゆき)が没し、大伴氏の後継者は御行の弟の安麻呂(やすまろ)となった。安麻呂は御行と違って朝廷に忠誠を誓わず、舎人皇子を主君と仰いだ。翌702年、安麻呂は兵部省の長官に任命された。安麻呂の長男の旅人(たびと)も父安麻呂とともに舎人皇子に忠誠を誓った。
 もちろん、「古事記上巻 并せて序」を書いた太安万侶も舎人皇子を尊敬して主君と仰ぐ、『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。
 そして、第7回遣唐使の最下位の幹部・山上憶良も舎人皇子を主君と仰ぐ『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであり、伊耶那美命崇拝派の急先鋒であったにちがいない。
 7351114日、天武・持統・文武・元明・元正・聖武(しょうむ)の6代の天皇の時代を生きた反逆児・舎人親王は死去した。享年60歳であった。聖武天皇は皇族の男女すべて舎人親王の葬儀の場に参列させた。というのも、律令体制に歯向かえば最後はどのように惨(みじ)めになるか、その結果を示すために全皇族を葬儀に参列させたのである。聖武天皇は律令国家体制に歯向かった反逆児の舎人親王の墓を作ることを厳重に禁じた。
 だから、身分高き天武天皇の第三皇子の舎人親王には墓は無い。舎人親王には、冬の荒野で大雪に埋もれて死んだオオカミのごとく、墓は存在しない。

◆山上憶良は『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。
 
『万葉集』に収められる憶良が作った和歌には憶良が『古事記』編纂スタッフであったと証明できる歌が数多くある。その証拠に、憶良は伊耶那美命が宣誓した「阿那邇夜志愛袁登古袁」という語、つまり【日本建国の〔愛〕の理念】をテーマに詠む歌を多く残している。
 第7回遣唐使は、702629日に九州の港を出帆した。
 『万葉集』63番の題詞は「山上臣憶良、太唐(もろこし)に在る時に、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作る歌」である。だから、『万葉集』63番は、山上憶良が唐に滞在中に作った和歌である。

 いざ子ども 早く日本へ 大伴(おほとも)の 三津の浜松 待ち恋ひねらむ(83)
 〔さあ 日本建国の〔愛〕の理念のもとに生まれた子どもである遣唐使と船乗り諸君 一刻も早く日本へ帰ろうよ 本郷(もとつくに)・日本の最初の出発港であった三津(大伴氏の所領となる大阪の港の先端)に生える松も さぞ待ちわびているであろう(つまり、伊耶那美命崇拝運動を推進する舎人皇子と舎人皇子に忠誠を誓った大伴安麻呂と旅人父子の三人が、持統上皇・文武天皇に討伐されずに、吾の帰国を今か今かと待っているにちがいない〕

前述したように、伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】は、『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」と記される。
 庶民的な山上憶良は、人民たちが「阿那邇夜志愛袁登古袁」を「親が子を思う心」と簡略化して解釈しているのを知っていた。だから、憶良は、「大きく育った大人(おとな)の遣唐使と船乗りたち」は【「阿那邇夜志愛袁登古袁」にもとづいて生まれた子どもたち】であると考えて、上に配した『万葉集』63番の初句を「いざ子ども」と表現したのである。

◆前述したように、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文をもって、太安万侶は「『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば、上巻に記述された歴史が解明できる」と【『古事記』上巻の歴史解明方法】を伝えた。この「古事記上巻 并せて序」の秘密は、憶良は知っていた。
 また安万侶は、次の11字で「皇室が崇拝する皇祖・天照大神よりも伊耶那美命と伊耶那岐命のほうが偉大な先祖である」と表現した。この秘密をも、憶良は知っていた。
 「古事記上巻 并せて序」は、合計約900字で構成される。
 現在の学者たちは『魏志倭人伝』と『古事記』上巻を正しく読解できる「漢字は銀漢から作られた」という基本的学術知識を有していない。このため、「古事記上巻 并せて序」は「漢字は銀漢から作られた。後期縄文時代初頭、わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字】を習得した」と説明していると解釈することができない。これが致命的な要因となって、現在の定説・日本神話説は空理空論となり、真実の歴史を抹殺する空想となった。
 ところが、山上憶良と安万侶は共に「漢字は銀漢から作られた」という素養(学術知識)を有していた。また憶良と安万侶と共に『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。だから、憶良は安万侶が「古事記上巻 并せて序」を書いた時の詳しい事情・状況を知っていた。また、憶良は安万侶と共に〔『古事記』を編纂するという現場〕に立ち会っていたゆえ、憶良は安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の正しい解釈を詳しく知っていた。

 憶良は900余字の「古事記上巻 并せて序」の全文は要するに「『古事記』は反逆の歴史書である」と説明するものであったと伝えて、人民たちが尊重した「阿那邇夜志愛袁登古袁」(【日本建国の〔愛〕の理念】)を詠む4首の和歌を作っている。

 4首のうちの最初の『万葉集』800番に「神亀(じんき)五年(728)七月二十一日、筑前国守山上憶良、上(たてまつ)る」と記し、「惑(まと)へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首 并せて序」という題詞をつけている。
 つまり、憶良は800番の題詞を「惑へる情を反さしむる歌一首 〔并せて序〕」とした。
 いっぽう、安万侶は「古事記上巻 〔并せて序〕」と名づけた。
 このように、安万侶の「古事記上巻 〔并せて序〕」における「并序(并せて序)」をそっくり真似(まね)して、憶良の800番の題詞「惑へる情を反さしむる歌一首」の後ろに「并せて序」という語を加えた――だから、「800番の題詞」は、「安万侶が書いた「古事記上巻 【并せて序】」の900余字の説明文を要約する和歌として、憶良は『万葉集』800番を作った」とあらわしていることになる。
 『万葉集』の800番の説明文は「当世、伊耶那美命がとなえた【日本建国の〔愛〕の理念】はすっかり廃(すた)れて軽んじられ、皇祖・天照大神を尊重する強大な権力が世を支配することになったため、誰よりも親不幸であり下品で下劣で俗物であることを自慢する人々がはびこる情けない世となった」と、下記のごとく嘆いている。
 ――ある人がいて、父母を尊敬することは知っているが、親孝行することを忘れ、妻子のことを考えない。この、ある人は「イザナミのアバズレがほざいた結構な宣言はぬぎ捨てた履物(はきもの)よりも役立たず」とさも得意げに自慢して、自らを「倍俗先生(俗がさらに二倍となる、ひどい俗物となる、この生き方こそがこの世を生きる最良の方法であると世の人々に教育する先生)と称している。云々――と説明する。
 
 この和歌が作られた728(神亀五年)45代・聖武(しょうむ)天皇の時代であった。当時は天照大神を皇祖に祀って天皇の権力の絶大化を目指した律令体制の最盛期であったと同時に、律令制の基礎が根底から崩れる時期の直前でもあった。これゆえ、憶良が「ぬぎ捨てた使い物にならない履物(草履)よりも【日本建国の〔愛〕の理念】は役立たずと軽んじられていた」と表現したとおりの倫理・真理・正義が無視された退廃とした世となり、人々は「倍俗(ばいぞく)先生」と誰よりも俗物であることを誇示するようになり、【日本建国の〔愛〕の理念】を嘲(あざけ)る人々が思うままにふるまう世相となっていたのである。
 800番の和歌で、憶良は「天照大神を皇祖と祀る皇室の権力の強大化・天皇の神格化に加担する人々の声が大となり、貧窮(ひんきゅう)する人民がさらに不幸になる冷酷・非情な世となった」と嘆いている。
 801番の反歌(はんか)では「ひさかたの天路(あまじ)は遠い、つまり天照大神を尊ぶ世の中は〔愛〕からはるかに遠い冷酷非情の世の中であるから、皇室・政府におとなしく従ってどんなに貧窮していても家業につとめて皇室や政府の富が豊かにしなければならない世になった」と表現して、憶良は悲憤している。
 このように、安万侶の「古事記上巻 〔并せて序〕」と定めた、その後ろにある〔并せて序〕という部分を利用して、憶良は「800番の一首」の題詞を「惑へる情を反さしむる歌一首 〔并せて序〕」と定め、安万侶の〔「古事記上巻 并せて序」の900余字の説明文〕を要約する『万葉集』800番を作っている。
 次の「801番の反歌」では、憶良は「【日本建国の〔愛〕の理念】を軽視し排除して、天照大神を祀って天皇の権力が絶大になった律令体制によって、一段と人民が貧窮して苦しむ世の中になった」と悲嘆・悲憤している。

801番の次となる憶良が作った802番には、「子等(こら)を思ふ歌一首 并せて序」という題詞がつく。
 上記したように、安万侶『古事記』の序を「古事記上巻 〔并せて序〕」という名にした。
 憶良は、『万葉集』800番と同様に802番の題詞に〔併せて序〕という語をつけ加えて「子等を思ふ歌一首 〔并せて序〕」とした。
 つまり、安万侶の〔「古事記上巻 并せて序」の900余字の文による説明」に見立てて、憶良は『万葉集』802番の題詞を「子等を思ふ歌一首 并せて序」と定めたことになる。
 この憶良が作った「802番の説明文と和歌」は明確に安万侶が「古事記上巻 并せて序」にて「『古事記』上巻は反逆の歴史書ある」と説明した、その「反逆の歴史書」である事実を証明する「天照大神が敵視し憎悪した【日本建国の〔愛〕の理念】」をあらわしている。
 安万侶の「古事記上巻 并せて序の900余字の説明文」に見立てた憶良の『万葉集』802番「子等を思ふ歌一首 并せて序」の説明文には、下記のごとく「釈迦如来(しゃこにょらい)の息子の「ラゴラ(羅睺羅)」が登場する。
 【憶良の「子等に思ふ歌一首 并せて序」の説明文】
 ――お釈迦さまはその尊い口で「衆生(人民たち)を平等に思う気持ちはわが子ラゴラを思う愛情と同じである」とお説きになられた。また「愛は子に勝るものはないと」お説きになった。こんな至高の大聖人でさえも「わが子を思う愛情に勝るものはない」ということであるゆえ、ましてこの世の一般の人々にあっては誰が子を愛さずにおられようか。
 太安万侶が書いた【900余字の「古事記上巻 并せて序」の説明文】を要約して憶良が作った802番の和歌は下記のごとくである。

  瓜(うり)()めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ いづくより
  来(きた)りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ(802)
 〔子どもたちと遠く離れた地に旅して 瓜を食べていると 子どもらが思い出される 栗を食べていると さらにまして偲ばれる どこから 来たものなのか 目の前に しきりにちらついて 腹がへってひもじい思いをしていないか心配で心配で我を眠らせてくれない〕

 憶良は、東国から徴発(ちょうはつ)されて筑紫・壱岐・対馬などの北九州の守備にあたった兵士・防人(さきもり)の気持ちになって、802番を作った。だから、802番は「故郷から遠く離れた東国の防人が子を思う歌」となった。憶良は安万侶が「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の文で「東国における前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの2000年間に及ぶ参神造化の神の伝統によって【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が習得された」と指摘していたのを知っていた。この「縄文の土器・土偶を作る芸術革命が花開いた東国」と「防人の任務が命じられた東国」は、共に「小国・日本」であった。
 憶良は安万侶と同じ『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。安麻呂が書いた「古事記上巻 并せて序」冒頭から34字の文章は【前期縄文時代初頭に芸術革命の花が開いて後期縄文時代初頭までの約2000年間、優れた土器・土偶を作った東国(小国・日本)の芸術家たちの参神造化の知識によって、倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸が習得された】と説明するものであったことを知っていた。
 「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝から承認を得る任務についた第7回遣唐使の最下位の幹部であった憶良は、小国・日本の範囲をも知っていた。つまり、小国・日本は「現在の静岡県の中部(駿河)と東部(伊豆)、山梨県(甲斐)、長野県(信濃)、神奈川県(相模)、東京都・埼玉県(武蔵)、群馬県(上野)、栃木県(下野)、千葉県(下総・上総・安房)、茨城県(常陸)」であった。
 憶良は「『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話に「阿那邇夜志愛袁登古袁」と記された【日本建国の〔愛〕の理念】を容易に理解できるように、現在の多くの日本人が知っている、憶良の代表作で有名な和歌、下記の803番の和歌を作った。

  銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも(803)
 
 憶良は上記した803番の和歌で「日本人にとって【親が子等を思う、日本建国の〔愛〕の理念】は何ものにも勝って最も尊い。【愛】は永久不滅でなければならない」と表現した。

 803番の原文・万葉仮名は「銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母」という25字である。25字中4字は[]を用いて【日本建国の〔愛〕の理念】を明確にあらわす。憶良は25字の万葉仮名で、381字で構成される『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島聖婚説話に記述された歴史を象徴する、伊耶那美命が「阿那邇夜志愛袁登古袁」と宣言した、小国・日本と倭国の万民が尊重した「親が子を思う心」をあらあわす愛の歌を作った。
 上記したように、憶良は『万葉集』800番の題詞に「神亀五年七月二十一日」と記して、この和歌を作った年は「728年」であると示した。憶良は733年頃に74歳前後で没したと考えられている。ゆえに、『万葉集』800番と801番の二首は没する5年前頃に作った。したがって、801番の後ろにある「子等を思ふ歌」の802番と803番は没年より5年前よりさらに間近い頃に作ったと考えられる。だから、多分、802番と803番は憶良が70歳を過ぎた時に作ったと思われる。当時の70歳は、今日の90歳、100歳に相当する。
 死が間近かに迫っていた憶良は「愛の歴史書『古事記』は焚書されて消滅する。世はますます非情冷酷となって人民たちは貧窮して苦しむ」と涙(なみだ)して嘆き、あるいは「なにくそ! 『古事記』を焚書されてたまるか」と魂をふりしぼって怒り、あるいは「愛の歴史書『古事記』が後世に残るように何か方法を模索(もさく)しなければならない」と必死にもがき苦しみ、そして余命いくばくもない心身に残る【日本建国の〔愛〕の理念】への情熱をふりしぼって、「子等に思ふ歌一首 并せて序」と題する『万葉集』802番と803番の二首を作ったことになる。

◆今日、多くの日本人が知っている『万葉集』803番の25字の和歌は、単に「親が子を思う愛の和歌」ではなかったのだ。803番は「日本国誕生史は滅びるな!」と必死に願った憶良が残る余命を奮い立てた魂の叫びであったのである。だから、日本神話説と邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説の三説は〔憶良の魂の叫び〕を抹殺する空理空論であったのである。
 その証拠に憶良は、「後稍、夏音を習う」と中国に「わが国は、壬申の乱の後に稍々、夏音文字を復興することにした」と報告した現場に立ち会った第7回遣唐使の最下位の幹部であった。
 ゆえに、死に近づいた憶良が作った803番の25字にこめた余命いくばくもない老体を奮い立てて魂をふりしぼった叫び(和歌)によって、現在の学界が定める下記の三つの絶対的定説は空理空論であったことになる。
 憶良の803番の25字の和歌によって、()「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説と、()「『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した女王国がどこであったかを伝えている文献であった」という絶対的定説と、()「『古事記』上巻の日本神話は歴史を語っていない」という絶対的定説、この三つの定説は「漢字は銀河から作られた学術知識」を有さないが原因による空理空論・空想であったことになる。
 
 憶良が参加していた第7回遣唐使が九州の港を出帆した702629日から10年後の712128日に元明天皇に『古事記』は献上された。「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の文で安万侶が「漢字は銀漢から作られた。わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と説明している事実を、憶良は知っていた。というのも、憶良は安万侶と同じく『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであったからである。
 『魏志倭人伝』は憶良が学術知識として有していた【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】について説明する書物であった。したがって、新井白石以後300年も続けて学者たちが主張する「『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する書物」ではなかったのである。
 白石以後から現在までの学者たちは「漢字は銀漢から作られた」という学術知識を有していないために「『魏志倭人伝』は邪馬台国について説明する書物」と思い込む。だから、白石以後現在までの邪馬台国説は300年も日本国民をダマしつづける似非(えせ)学説、憶測(おくそく)、真っ赤なウソであったのである。
 山上憶良は()今から約4000年前に【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した歴史を無視・排除して「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と錯覚した定説と、()新井白石以来300年も「『魏志倭人伝』は邪馬台国を説明する書物である」と主張つづける定説と、()新井白石以来300年も「『古事記』上巻の日本神話は歴史を語っていない」と断定する定説――この三大定説が空理空論、デタラメ、憶説であった事実を直(じか)に目撃できる現場へ案内するキーパーソン(決定権を持っている人物)であったのである。

◆要するに、次のごとき〔誘拐事件の事例〕に譬(たと)えて考えると、上記した三大定説は空理空論、空想、憶説であった仕組み(実体)が容易にわかる。
 「ある誘拐事件が起き、容疑者が逮捕された。担当刑事は“お前が犯人だ。ウソつくな”
と問いつめて容疑者のアリバイ証言をいっさい聞き入れなかった。しかし、この事件は誘拐された児童が数日後に犯人から逃れて無事に保護された。この結果、容疑者が語っていたアリバイ証言はすべて事実であったことが証明された。よって、刑事の容疑はすべて空理空論、捏造(ねつぞう)であったことになる」という、このような冤罪事件にもとづいて考えれば、上記した三大定説は空理空論、捏造であったことが容易に理解できる。
 最初から容疑者のアリバイ証言をいっさい無視・排除した刑事のごとく、白石はじめ邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』の記事は信用できないと言って無視・排除して、自分の意見が正しく『魏志倭人伝』の記事が誤っていると断定する。だから、白石以後の邪馬台国説は最初の段階から空理空論、憶説、デタラメ、捏造であったことになる。

 「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第7回遣唐使であった山上憶良の『万葉集』800番・801番・802番・803番の4首の「并序(并せて序)」という語がつく題詞・説明文・和歌を注目すると、上記した三大定説は空理空論、空想、憶説であったことが証明される。
 わが国は今から約4000年前の後期縄文時代初頭に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた。このため、【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述されて残った。
 だから、【A】約4000年前にわが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得していた、【B】『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を記述した学術書であった、【C】『古事記』上巻は歴史書であったことになる。

◆以上のごとく、学者たちが主張する「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説と「邪馬台国説」と「日本神話説」の三説は正真正銘の空理空論・空想であった。
 というのも、一般市民が『古事記』上巻を開いて、その随所に〔音〕という目印()がつく文字を何か所あるのかと数えてしばらく見ていると――この時間はまさしく4000年前にわが国が習得した夏音文字を目撃している現場となるからである。
 このように、われわれは『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく4000年前に習得した夏音文字を目撃すれば、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された事実と真実を知ることができる。
 われわれ一般市民は、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という学説はじめ「邪馬台国説」と「日本神話説」に洗脳(マインドコントロール)されて見ることができなかった真実の歴史が、ついに目撃でき知ることができることになったのである。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は「わが国は4000年前に【夏音文字と倉頡の漢字作成理論】を習得していた」と伝えていた書物であった。
 したがって、白石以来300年も続く「邪馬台国説」と「日本神話説」は【『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論】を記述する文献であった事実】を抹殺する空理空論、空想、憶説であったのである。
 一般市民はもう学者たちにダマされずにすむことになったのである。
 憶良が作った「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」という〔愛〕の短歌が新しい視座になって、「『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を記述した文献であった」と【科学】が成立して完璧に証明できる世紀が革(あらたま)る時がとうとう到来したのである。
 われわれ一般市民は、〔憶良が真実の歴史を伝えるキーパーソン〕となって、空理空論の邪馬台国説と日本神話説にこれからはダマされないですみ、ついに真実の歴史を知ることができるようになったのである。

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2022年9月 6日 (火)

家康くんと『魏志倭人伝』#2

◆現在、学界は「わが国が漢字を最初に習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は絶対的に正しいと思い込んでいる。
 しかし、この絶対的定説はいとも簡単に真っ赤なウソであると証明できる。
 わが国は今から約4000年前の中国の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、【夏音文字(かおんもじ)】を習得していた。
 この【夏音文字】は、『古事記』上巻に随所に〔音〕という目印()がついて多数残っている。だから、当然、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭であったことになる。
 「わが国において、文字を書いた資料が出土した最古のものは5世紀あるいは6世紀のものである。だから、当然、わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀であったと断定できる」という意見は考古学の強引な単純化による思い違い・錯覚であった。
 なぜかといえば、『古事記』上巻の随所には、約4000年前にわが国が習得した夏音文字が〔音〕という注(目印)がついて多数残っているからである。つまり、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく文字を【あなたが目で見る】という――この現場は「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が断定した絶対的定説は「真っ赤なウソ」である現実と事実を目撃していることになる。

 この〔空理空論の漢字習得説〕の中心勢力の考古学は、邪馬台国論争における中心勢力でもある。
 マスメディアは考古学の研究成果を重視して「邪馬台国は九州にあった」、「いや邪馬台国は畿内にあった」などと論争に花を咲かせて夢中になる。
 このような考古学の思い違いにマインドコントロール(洗脳)されて、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀であった」、あるいは「邪馬台国説は正しい」という幻想・空想を信じているかぎり――われわれ日本人はいちばん大事な真実を永久に知ることができない。

◆学界はじめマスメディアとわれわれ日本人は冷静に客観的になって――しばらく考古学の声高な「文字習得説」と「邪馬台国説」の意見に耳をふさいで――『古事記』上巻の随所に〔音〕という目印()がつく【夏音文字】を注目し、考古学の「漢字習得説と邪馬台国説はおそらく錯覚であろう」と否定する、思い切った発想の転換が必要となる。
 というのも、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説を主張する学者たちの視座を注目すると、学者たちは「『魏志倭人伝』の記事は信用できない」と主張して、自分の意見にあわない記事を片っ端から自分の言いなりになるようにしようとするが――この様子は当時の事実であった出来事や真実の情報を入手した『魏志倭人伝』の著者・陳寿(ちんじゅ)が慎重に深く思索して記述した文章に【横暴な主観】と【無責任な誤読】をヤタラに加えている状況、つまり「意地悪なナンクセ(難癖)・勝手な言いがかり」をつけていると思えてならないないからである。要するに、1ヵ所も【誤読】を加える必要がない正確無比な『魏志倭人伝』に、学者たちは300年前の新井白石の邪馬台国説をマネして【横暴な主観、無責任な誤読】を加えて『魏志倭人伝』を弄(もてあそ)んで楽しんでいるとしか思えてならない。
 試(ため)しに、『魏志倭人伝』の全記事を信用して1ヵ所も【誤読】を加えないで読解すると――『魏志倭人伝』は「邪馬台国研究のための書物」ではなく、「邪馬台国とは別の日本史のために必要不可欠な重大な史料であった」のではないかという事実がすぐに浮かびあがる。
 だから、このブログ名を「家康くんと『魏志倭人伝』」とすることにした。
 なにゆえ、徳川家康が『魏志倭人伝』と関係するのか? と思うかもしれないが――家康の一生をたどると――家康は幼少期から【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される夏音文字を一生研究していた事実】が次から次へと明らかとなるからである。
 わが前回のブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」にて詳細に解説したように、家康は卑弥呼が居住した女王国の名称は『魏志倭人伝』に記されているとおりに「邪馬壱国(やまいこく)」であった」と考え、「邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と考えていた。だから、『魏志倭人伝』に記される「邪馬壱国」を「邪馬台国」と誤読し、「邪馬台国は畿内に存在した」あるいは「邪馬台国は九州に存在した」という新井白石の邪馬台国説の伝統を受けつぐ今日の邪馬台国説と、家康の「邪馬壱国出雲地方説」は別物にして無関係となる。

◆家康は天下取り・帝王学のために幼少期から没する直前まで【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される夏音文字】を研究していた。だから、家康にとって『魏志倭人伝』は「邪馬台国の所在地を考えるための書物」ではなかった。
 上記したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく多数の【夏音文字】を、わが国が習得したのは今から約4000年前の後期縄文時代初頭、中国の夏代初頭であった。
 わが国が中国の夏代初頭に夏音文字を習得した事実は、わが前回のブログ「家康くんと『魏志倭人伝』#1」にて詳細に解説したように、()家康が有していた「漢字は銀漢から作られた」という教養と、(2)様々な確かな文献史料と、()科学的な音韻学の研究成果によって、いとも簡単に証明できる。
 このような事情で、【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の両書は共に夏音文字研究の教科書】であったと考えるべきことになる。ゆえに、家康にとって【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻は、天下取りの夢を実現するための最良の教科書】、言いかえると【王道政治・天皇政治の権力基盤となった学問を学ぶための教科書】であったことになる。
 邪馬台国説の出発点となった新井白石(16571725)より約100年前に生存した家康(15421616)は【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記される夏音文字】を【徳川幕府を創設する天下取り】のために幼少期から没する直前まで研究していた。
 家康の天下取りの夢の実現の一生にもとづくと――【新井白石以来300年、学者たちが主張する邪馬台国説と日本神話説】は、【巧妙に学説のごとく見せかけた空理空論】であったことになる。

◆『魏志倭人伝』の冒頭の「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」から、最初に「対馬国」が登場して「狗奴(くな)国」が説明される30の小国記事までは約500字で構成される。
 この冒頭から約500字の記事のうち――【一】1番目の対馬国から10番目の巳百支(じはき)国までの記事は【倉頡(そうきつ)がつかえた黄帝の〔子どもの出産と女性の生殖器〕の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を具体的に合理的に説明している。【二】11番目の伊邪(いや)国から20番目の華奴蘇奴(かなさな)国までの記事は[]の字源を解説する女性国グループの10ヵ国である。【三】21番目の鬼()国から30番目の狗奴国までの記事は[]の字源を解説する男性グループの10ヵ国である。そして――【二】女性グループと【三】男性グループに分かれる20の小国名は男女が穀霊(こくれい)をあらわす[]()の形の冠をかぶり、稲魂(いなだま)に扮して舞う農耕儀礼(収穫を祝う祭儀)をあらわしている。
 中国の神話・古代伝説は「倉頡が漢字を発明した」と伝える。この「倉頡の漢字の発明」は〔1〕『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の記事と、〔2〕銀漢各部の形状と、〔3〕わが国の様々な遺跡・遺物と、そして〔4〕【科学】によって、今から約5000年前の中国の五帝時代初頭の黄帝時代初頭であったと証明される。
 だから、『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実を伝えていた」と記述していた、漢字が起源した学術を合理的に・体系的に・科学的に説明した古典であったことになる。
 というのも、『魏志倭人伝』は【一】1番目の対馬国から10番目の巳百支国までの10ヵ国の記事で(1)【黄帝の〔子どもの出産と女性の生殖器〕の研究】について説明し、また(2)【倉頡が発明した漢字作成理論】を説明し、さらに(3)黄帝の政治スローガンをあらわすために倉頡は[](字義は「穀物。稲。五穀豊穣」)の字を作ったと説明しているからである。
 要するに、『魏志倭人伝』は――倭女王・卑弥呼は上記した【一】の【倉頡の漢字作成理論】を倭王朝の政権基盤と定めた。ゆえに、【二】と【三】で【倉頡が作った[]の字源をうけついだ[]の字源『五穀豊穣』の政治スローガン】を表示して、倭国を治めていた――と説明していたことになる。
 このように邪馬台国説を否定すると、『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と、[]の字源】を体系的に合理的に解説していることになる。
 だから、『魏志倭人伝』は【邪馬台国研究のための史料】ではなかった。
 『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論を知ることができる、朝廷が天下を治めるための教科書】であったことになる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている事情は――わが国は、今から約4000年前の後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)、夏の始祖の禹()帝の後を継いだ益帝の孫の王子と益氏の若者たちが中国から大海を渡って、日本列島の東北地方・秋田県に定住して【夏音文字の学芸】を教えひろめた。この【夏音文字】を習得した後期縄文時代初頭、当時より約1000年前の黄帝時代初頭の【倉頡の漢字作成理論】をわが国は習得した――という歴史上の出来事が、『魏志倭人伝』・『古事記』・『日本書記』はじめ後期縄文時代の秋田県の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡や大湯環状列石遺構(おおゆかんじょうれっせきいこう)、そして縄文土器や土偶をもって証明される。
 このため、『魏志倭人伝』の冒頭から約500字までの記事によって【倉頡の漢字作成理論と、[]の字源】を体系的に合理的に説明されることになったのである。
 『魏志倭人伝』には「卑弥呼」を「ヒミコ」と読み、「難升米」を「ナシメ」と読むことができ、「壱与」を「イヨ」と読むことができ、「載斯烏越」を「ソシアオ」と読むことができる夏音文字の字音の人名はじめ、夏音文字の字音で読むことができる小国名、夏音文字の字音で読むことができる官職名が残っている。
 また、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字が多数残っている。
 だから、縄文時代初頭、わが国は【夏音文字の学芸】を習得する時に、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも一緒に習得していたことになる。
 現在、五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡は歴史上の人物ではない。また、わが国に【倉頡の漢字作成理論と夏代初頭の夏音文字の学芸】を教え広めた名門益氏の王子・天祖・彦火能瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)も歴史上の人物ではない。しかし、『魏志倭人伝』によって、倉頡と天祖・彦火能瓊瓊杵尊は歴史上の人物であったと証明される。

◆『魏志倭人伝』は「【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を知ることができる教科書」であったのである。
 ゆえに、天下取りの野望を抱いた家康にとって【『魏志倭人伝』は、倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を学ぶための教科書・学術書】であった。
 「漢字の字源を解説する字書」と言えば、100年ころに完成していたとされる後漢の文字学者の許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』が有名である。
 『説文解字』の序に「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文がある。
 上記したように、許慎は「倉頡によって発明された文字(漢字)は経(学問)と芸術の根本であり、王道政治にとっては“い”のいちばん真っ先に絶対に必要な政権基盤であり、前人たちが活躍した古(いにしえ)の歴史の真実・真相を後人が知ることができる方法である」と指摘している。
 『説文解字』は「王政の始め」という語で「倉頡の漢字作成理論は王政の始め、つまり王道政治にとっては“い”のいちばん真っ先に必要な政権基盤である」と指摘している。
 ということは、『魏志倭人伝』の冒頭から500字までの記事で「わが国は後期縄文時代初頭に【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した」と説明する――この【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が、『説文解字』の序は【王政の始め(天皇政治が真っ先に絶対に必要とする政権基盤)】であったと指摘していたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』は江戸中期の新井白石から始まった邪馬台国の所在地を研究するための文献史料でなかった。白石より約100年前に生存した家康が天下取り・帝王学のために熱心に研究したように――『魏志倭人伝』は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を学習する教科書】であったのである。
 家康は「漢字は銀漢から作られた」と認識していたが、白石は「漢字は銀漢から作られた」という知識を有していなかった。この差が原因で――家康は『魏志倭人伝』を【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を学ぶための教科書】として扱い、白石は『魏志倭人伝』を【邪馬台国はどこにあったのかを研究する書物】であると考えたのである。

◆晩年の新井白石は1716年・60歳の時に『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作して邪馬台国大和説を立論し、さらにその後、著書『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』などで邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を立論した。白石は『古史通或問』で『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された日本神話説についても論じた。
 『古史通或問』で立論した白石の邪馬台国説と日本神話説の両説は空理空論であった。
 というのも、白石は「漢字が銀漢から作られた」という素養を有していなかったからである。このため、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を理解することができなかった。また、白石は太安万侶(おおのやすまろ)が「古事記上巻 并せて序」に書いた【歴史解明方法】を理解できず、その【『古事記』上巻の歴史解明方法】を無視して空理空論の日本神話説を立論した。
 白石が無視した安万侶が【『古事記』上巻の歴史解明方法】について説明した『古事記』の序(古事記上巻 并せて序)の冒頭から34字の大意は――「漢字」は「銀河」つまり「銀漢から作られた字」であるから「漢字」とよぶことになった。このため、【漢字の字源・字形の原形・原義】は【銀漢各部の形状】であった。ゆえに、上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字といくつかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換すれば、上巻に記述された真実の歴史を知ることができる――と指摘するものであった。このような安万侶の【歴史を解明する方法の警告(注意書き)】を無視・排除して立論したゆえ、白石の邪馬台国説と日本神話説は空理空論となったのである。
 太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字で構成された文章は、結局、「五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)と夏代初頭の夏音文字と、また西暦100年ころに確立されたされる楷書の字源・字形・字義は銀漢(夏の銀河)各部の形状であった。ゆえに、夏音文字と幾つかの重要な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の歴史は解明できる」と、【歴史解明方法】と説明していた。
 もしも白石が「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していたならば、安万侶の警告をまもって『魏志倭人伝』を読解したゆえ、家康と同じく白石は「邪馬壱国出雲地方説」をとなえ、また「『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀の日本神話は歴史を語っている」と立論していたことになる。
 上記した字書『説文解字』の「けだし文字は経芸の本」から始まって「前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」と終わる文もまた――「銀漢から作られた字」であるから「漢字」と名づけられた。五帝時代の原初漢字の書契(しょけい)・夏代初頭の夏音文字、また楷書の字源・字形・字義は銀漢各部の形状であった。これゆえ、漢字の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば古代の歴史の事実・真実を識ることができる――と解説していたのである。
 下に「倉頡が漢字を作った銀漢」の写真、天文学で通称「夏の銀河」と呼ぶ写真を示した。「春の銀河・秋の銀河・冬の銀河」からは漢字は作られなかった。
 中国でもわが国でも、「銀漢(夏の銀河)各部の形状から作られた文字」を略して「漢字」とよんだのである。
 ここより以降、原則的に「夏の銀河」を「銀漢」とよぶことにする。
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◆新井白石は114代・中御門(なかみかど)天皇の在位中の1725年に69歳で没した。
 皇室は【『古史通或問』にて、白石が空理空論の邪馬台国説と日本神話説】を立論していることを知った。
 この白石の空理空論に朝廷は驚愕(きょうがく)して、まるで「日本国は滅びる! わが皇室は滅びる! わが国の学問は滅びる! わが国の文化は土台から滅びる! わが国の上古史はことごとく滅びる!」と言わんばかりに激しいショックを受け、恐怖をも示した。
 そこで、朝廷は「空理空論の白石の邪馬台国説と日本神話説」に対抗して、真実を伝える大嘗祭(だいじょうさい)を本格的に復興することにした。
 ところが、1466年に即位した103代・後土御門(ごつちみかど)天皇の即位式にて大嘗祭がおこなわれて以後、9代・約200年ものあいだ大嘗祭は中断していた。大嘗祭の中断によって【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が次第に失われ廃(すた)れていく状況を家康以来江戸幕府に度々指摘され、朝廷は幕府に指摘されるごとに次第に心配になったため、1687年の113代・東山(ひがしやま)天皇の即位式で、大嘗祭を略儀でいったん再興した。この113代・東山天皇の在位中、そして次の114代・中御門天皇が即位した1709年当時、白石はいまだ空論の邪馬台国説と日本神話説説を発表していなかった(前述したように、白石が邪馬台国説と日本神話説を発表したのは『古史通或問』を著作した1716年であった)

 40代・天武(てんむ)天皇は「大嘗祭は皇室最大の神事と定める。このため、天皇の即位式で新天皇が【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】をもって天下を治めると誓う大礼(たいれい)とする」と定めた。
 この天武天皇の命令のため、【白石の空理空論の邪馬台国説と日本神話説】に気づいた朝廷は、中御門天皇の在位中には大嘗祭を復興しなかった。大嘗祭は、中御門天皇の次の115代・桜町(さくらまち)天皇の即位式で本格的に復興された。この桜町天皇の即位式は、白石が没してから13年後の173811月におこなわれた。
 家康は『古事記』上巻に記述された「伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】」を復興するために【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻を、天下を取る野望を成就するための教科書】として一生研究した。
 家康の【日本建国の〔愛〕の理念の復興】の願い(遺志)は将軍と江戸幕府に受けつがれた。
 皇室が最も偉大な先祖と崇拝する皇祖・天照大神(10代・崇神天皇母子)は【日本建国の〔愛〕の理念】を憎悪・敵視した。また、天武天皇は天照大神の聖性をいちじるしく汚す伊耶那美命の【日本建国の〔愛〕の理念】は絶対に後世に伝えてはならないと命令した。このため、朝廷は江戸幕府の【伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念】の復興の欲求を拒否しつづけた。
 ところが、『魏志倭人伝』と『古事記』に記述されていた天皇政治の権力基盤【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を台無しにする【白石の空論の邪馬台国説と日本神話説】に激しいショックを受け、【白石の空論の邪馬台国説と日本神話説】を「皇室滅亡の原因になる」と脅(おび)えた朝廷は目覚めた。このため、朝廷は一大決心して江戸幕府の欲求【日本建国の〔愛〕の理念】を受け入れる新大嘗祭が復興することにした。
 173811月、桜町天皇の即位式の大嘗祭は将軍吉宗と幕府の協力の基(もと)におこなわれた。したがって、桜町天皇の大嘗祭は【従来の倉頡の漢字作成理論・夏音文字の学芸】にあらたに家康・江戸幕府の欲求【『古事記』上巻に記述された伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念】を加えて、【空理空論の白石の邪馬台国説と日本神話説】に対抗する皇室最大の神事となった。
 以上のごとく、白石の死から13年後の1738年に復興した新大嘗祭から今日の2019(令和元年)11月までにおこなわれた大嘗祭は【倉頡の漢字作成理論・夏音文字の学芸と、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念】をあらわす、また【白石の邪馬台国説と日本神話説は空理空論である】と日本国民に表示する学問儀式であったのである。

◆『魏志倭人伝』の中半には「倭の占いに用いる辞(言と文字)は令亀(れいき)の法の如くであった」という記事がある。「令亀の法」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ契文・今から約3300年前に出現した甲骨文字」を意味した。わが国には甲骨文字のような夏音文字が存在した。
 『魏志倭人伝』の中半には「魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が用いる文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都(いと)国の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と倭女王の文字を捜露(そうろ/一字一字づつ丁寧に確認・点検)して楷書と卑弥呼が用いる文字が同義になるように正しく変換していた」と説明する、もう一つの「倭には夏音文字があった」と伝える記事がある。
 だから、「倭には【倉頡の漢字作成理論と夏音文字】が存在した」ことは事実となる。
 現在の学者たちは「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していない。このため、「令亀の法のごとく」と記述された殷代の後半に出現した【甲骨文字の多くの字形は銀漢各部の形状をリアルに図案する作品】であることに気づかない。ゆえに、学者たちは「倭には夏音文字はあった」と伝える『魏志倭人伝』の記事を徹底的に無視・排除して「倭には夏音文字は無い」と断定する。
 しかし、上記の「令亀の法のごとく」や「伊都国の港で魏都と朝鮮半島の楷書と倭の夏音文字を正しく変換していた」という二つの記事はじめ、「倭人国」という国名や「卑弥呼」という女王名や、また上記したように【対馬国から狗奴国までの30の小国】をもって――『魏志倭人伝』は「漢字は銀漢各部から作られた。ゆえに、倭には【銀漢各部の形状を字源・字形・字義とする倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と伝えていた。
 『魏志倭人伝』の伊都国の記事が説明しているように、伊都国の港では卑弥呼が用いる夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書を正しく同義となるように変換することができた。というのも、【倉頡の漢字作成理論】にもとづいて夏音文字と楷書の字源・字形・字義は共に銀漢各部の形状であったからである。ゆえに、伊都国の役人たちは銀漢各部の形状を見て夏音文字から楷書へ・楷書から夏音文字へと正しく変換することができたのである。
 太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の末部には――姓に用いた「日下(にちげ)」と「玖沙訶(くさか)」は同義、名に用いた「帯(たい)」と「多羅斯(たらし)」は同義である――という記事がある。
 上記の安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の末部の記事は、『魏志倭人伝』の「魏の都と朝鮮半島の帯方郡と諸韓国が文書に用いる楷書と倭女王の卑弥呼が文書に用いる夏音文字を、伊都国の港では、銀漢各部の形状に変換して同義になるように正しく訳することができた」という記事と同じ事実を証言していたことになる。
 ゆえに、安万侶は――夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すると、楷書の「日下」は夏音文字の「玖沙訶」と同義となる、楷書の「帯」は夏音文字の「多羅斯」と同義になる――と具体的に【『古事記』上巻の歴史解明方法】を説明していたのである。
 考古学は「地中から出土した漢字を書いた資料のみを、漢字の史料である」と断定する。しかし、五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字の字源・字形・字義は、現在でも夜となれば銀漢各部の形状で、あるいはプラネタリウムの銀漢各部の形状で存在する。夏音文字の字音は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残っているため、夏音文字は楷書と同じく字源・字形・字義・字音の四拍子がそろう完全なる漢字であった。このため、考古学の「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は、天上の銀漢に夏音文字と楷書の字源・字形・字義が存在するという事実に気づかない空理空論であったのである。

◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本国伝には――702年に九州の港を出帆して中国に渡った第7回遣唐使は「後稍(のちやや)、夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずるに所近し。以(ゆえ)に名となすと。あるいはいう、日本乃(すなわ)ち小国、倭の并(あわ)す所となる」と説明して、「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝が承認するように求めた――という、倭国には「夏音文字があった」と説明していた記事がある。
 その証拠に、上記の第7回遣唐使が「後稍、夏音を習う」が述べた言は「わが国は672年の壬申の乱の後、稍々(やや)、夏音文字を復興することにした」と説明するものであった。
 だから、第7回遣唐使が中国王朝に告げたように、わが国には今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した夏音文字は存在したことになる。
 第7回遣唐使が九州の港を出帆した702年より21年前の681311日、第40代・天武天皇は川島皇子(かわしまおうじ)以下十二人に『帝紀及び上古の諸事を記定』を命じた。
 このとき、天武天皇は〔夏音、つまり夏音文字〕を稍々習う(復興する)ことにして『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』を作成せよ」と命令した。この天武天皇の「夏音文字の復興」を、第7回遣唐使は「後稍、夏音を習う」と中国王朝に説明したのである。
 しかし、この天武天皇の『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』の作成目的は、人民たちを苦しめて弾圧した大和王朝の基礎を築いた天照大神(10代・崇神天皇母子)を、皇室が最も偉大な先祖と定めて天皇の権力を絶対化するための偽書の作成を企むものであった。当時、壬申の乱から9年後であったゆえ、天武王朝はいまだ安定していなかった。また、当時は多数の人民たちは天照大神を憎悪・敵視していた。これゆえ、天武天皇の『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』の作成目的は人民たちが熱烈に敬愛する伊耶那美命・伊耶那岐命の歴史を抹殺する企みであることを察知して国中の反乱が起きると、朝廷は一気に崩壊する状況であった。このため、川島皇子以下十二人は〔伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史を消滅して、天照大神が最も偉大な先祖であったと絶賛する偽書の作成〕に躊躇(ちゅうちょ)した。このため、天武天皇が命令した〔夏音文字を稍々復興して、『帝紀及び上古の諸事を記定する偽書』の編纂事業〕は実現しなかった。
 そして、天武天皇が「帝紀及び上古の諸事を記定する偽書の編纂」を命令してから31年後、あるいは第7回遣唐使が九州の港から出帆した10年後の――712128日、天武天皇の「夏音文字を稍々復興する歴史書を作れ」という命令に従った書物が元明(げんめい)天皇に献上された。この書物は――天武天皇の『帝紀及び上古の諸事を記定せよ』という命令における『帝紀及び』を省いた『上古の諸事の記定』における「上古」の[]と「諸事」の[]と「記定」の[]の3字を抜粋して――書名を『古事記』と定めていた。
 ということは、天武天皇の「帝紀及び上古の諸事を記定する偽書を編纂せよ」と命令にもとづいて『古事記』は歴史を偽る書物であったと単純に考えると誤っていることになる。
 『古事記』は天武天皇の「天照大神を絶賛する偽書を作成せよ」という命令を無視する、とんでもない反逆の歴史書であった。
 というのも、天武天皇の「稍々(やや)、夏音文字を復興して天照大神を至上神とする偽書を作れ」という命令を逆手(さかて)にとって、天照大神の聖性をいちじるしく汚す伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史を記述していたからである。つまり、『古事記』上巻は天武天皇が欲求した伊耶那美命・伊耶那岐命の歴史を消滅しない、「国民は皇祖・天照大神を崇拝していなかった」と記述した、天武天皇の偽書作成命令をつっぱねる反逆の歴史書であった。

◆反逆の歴史書『古事記』の序は、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。
 安万侶は「『古事記』の序」を他に事例がない「古事記上巻 并(あわ)せて序」という、きわめて特殊な名称にした。というのも、『古事記』編纂スタッフ一同が謀った【反逆の企み】を説明する名誉ある役目に、安万侶が抜擢(ばってき)されたからである。
 『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻からなる。しかし、〔音〕という注がつく夏音文字が多数記されているのは、上巻だけである。ゆえに、安万侶は「『古事記』の序の名」を【古事記上巻 并せて序】と名づけた。というのも、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字義・字形を銀漢各部の形状に変換すれば、真実の歴史を知る仕組みになっていたからである。ゆえに、この【編纂の企み】をあらわして『古事記』の序は「古事記上巻 并せて序」というきわめて特殊な名称になったのである。
 このように編纂スタッフの企みを説明することになった太安万侶が執筆した「古事記上巻 并せて序」冒頭から34字目までの文をフリガナ無しで記すと、下記のごとくなる。
 「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」
 上記のごとく「『古事記』編纂スタッフの反逆の企み」を要約しないで、34字の書き下し文に用いられた各文字に沿ってテイネイに現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――安万侶が元明天皇陛下に申し上げます。前期縄文時代より前の元(はじめ)の時代(草創期縄文時代・早期縄文時代)、わが国の天頂にめぐってきた銀漢の形状はすでに凝り固まっていたものの、その形状には気(なにかの事象や事物をあらわす雰囲気)も事象や事物の象(かたち)をあらわしていませんでした。ゆえに、その混元の太古における天頂にめぐってきた銀漢各部に名をつけることができず、その銀漢各部の形をどのように表現してよいかその技巧(わざ)も存在しませんでした。ゆえに、草創期縄文・早期縄文における天頂にめぐってきた銀漢の形を表現した図象・土器・土偶について知識を有する人物は、『古事記』が編纂することになった現在一人もいません。しかし、前期縄文・中期縄文・後期縄文の三つの時代の天頂にめぐってきた銀漢各部の形状は「乾坤(けんこん)」に分かれて、つまり「天と地」に相似する象(イメージ)となりました。ですから、前期縄文時代初頭、土器・土偶を作る芸術革命が小国・日本の前身の東日本・関東地方にて花開き、さまざまな芸術性豊かな優れた土器・土偶が多数作られました。そして、後期縄文時代初頭、中国から名門益氏の王子(天祖・彦火瓊瓊杵尊)と若者たちがわが国の東北地方の秋田県に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を教え広めました。これを知った東日本の芸術家たちは、益氏が居住する秋田県の地所まで旅して、前期縄文初頭から中期縄文時代そして後期縄文時代初頭までの銀漢の形状をモデルにして土器・土偶を作った造化参神の伝統によって、【銀漢各部の形状を字源・字形・字義とする、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得することができました。

◆安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」において、上記した冒頭から34字目の直後に続く11字で構成される文は「陰陽斯(いんよう・ここ)に開けて、二霊群品(にれいぐんぴん)の祖(おや)と為()る」と表現された。
 この11字「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文をもって、安万侶は【『古事記』編纂スタッフの企み】、言いかえると【『古事記』編纂目的】を表示した。
 前述した「字書の聖典」と尊重された、銀漢各部の形状を観察して許慎が著作した『説文解字』は上記の「群品」の[]の字を「衆庶(しゅうしょ)なり」と解説する。したがって、「衆庶なり」は「民衆と庶民なり」と意味するゆえ、「群品」は「群れる民衆と群れる庶民」と意味し、要するに「民衆、人民」と意味した。だから、上記の「群品の祖と為る」という文は「民衆に最も敬愛され崇拝された先祖である」と意味した。
 よって、11字で構成される編纂スタッフの企みをあらわす「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という文は「【日本建国の〔愛〕の理念】を宣言した陰の伊耶那美命と伊耶那美命の死後に【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いだ陽の伊耶那岐命は人民たちに最も敬愛されて崇拝される、天照大神よりも偉大な最も偉大な先祖である」と意味した。
 【日本建国の〔愛〕の理念】を提唱した伊耶那美命と、伊耶那美命の死後に【日本建国の〔愛〕の理念】を継承した伊耶那岐命(9代開化天皇)を――安万侶が「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」と書いたように、『古事記』編纂スタッフは「人民にとって、伊耶那美命と伊耶那岐命は皇祖・天照大神よりも最も偉大な先祖である」と絶賛していたのである。

◆だから、『古事記』上巻は皇祖・天照大神の聖性を汚す反逆の歴史書であった。
 681311日、天武天皇は川島皇子以下十二人に『帝紀及び上古の諸事を記定する歴史書』を作って「皇祖・天照大神の聖性を汚す伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史は絶対に後世に伝えてならぬ」と命令した。
 しかし、712年正月28日に献上された『帝紀及び』を削除する『上古の諸事を記定』から3字を抜粋して『古事記』という書名にした書物の上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話に書かれた「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という夏音文字10字の文は【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわしていた。この伊耶那美命の宣言した言における[]の字は「五帝時代初頭に生存した黄帝を祭る廟にして墓」を意味し、[]の字は「陝西省(せんせいしょう)辺りが原産地とされる桃の実のように可愛い子」と意味し、[]の字は「たくさんの愛する子どもたちを生む」と意味した。だから、10字のうちの[][][]などの字が示すように、「阿那邇夜志愛袁登古袁」は「親が子を思う心」を示して【日本建国の〔愛〕の理念】をあらわした。

 上記したように「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字で構成される文章を各文字に沿って解読すると、【編纂スタッフの反逆の企み】の表示は不明瞭となる。しかし、次の11字で「伊耶那美命と伊耶那岐命は天照大神よりも偉大な先祖である」とあらわして【天照大神に対する明確な敵意】を示している。ゆえに、【『古事記』は反逆の歴史書】であった。
 このため、【編集スタッフの反逆の企み】にもとづいて900余字で構成される「古事記上巻 并せて序」の全文の大意を読み取ると【『古事記』上巻に記述された歴史解明方法】を「後期縄文時代初頭にわが国が習得した五帝時代の原初漢字の書契と夏代初頭の夏音文字の字源・字形・字義は銀漢各部の形状であった。後漢時代の1世紀頃から出現した楷書の字源・字形・字義も銀漢各部の形状であった。だから、上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義は銀漢各部の形状に変換すると、上巻に記述された歴史が解明できる」と説明していたことになる。
 この「古事記上巻 并せて序」の全文の大意を、「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字でコンパクトに表現していたことになる。

◆また、900余字構成される安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の大意は「皇室が至上神と崇拝する皇祖・天照大神よりも、伊耶那美命と伊耶那岐命のほうが偉大な先祖である」と【『古事記』編纂スタッフの反逆の意思】を表現するものであった。
 だから、「古事記上巻 并せて序」の全文の大意を、太安万侶は「陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為る」という11字でコンパクトに表現していたことになる。
 このように冒頭で【歴史解明方法】と【天武天皇の命令に背く反逆の意思】をあらわし、さらに約900字の「古事記上巻 并せて序」の全文でもあらわす重層的に巧妙に仕組んだ説明は元明天皇にはまったく理解できなかったことになる。
 それというのも、献上する元明天皇から献呈を許可されて『古事記』は政府が編纂した書物・正史となるからである。ゆえに、「古事記上巻 并せて序」の冒頭から34字の【『古事記』上巻の歴史解明方法】とこの文に続く11字の【伊耶那美命と伊耶那岐命を讃える編纂スタッフの反逆の意思】を、900余字の「古事記上巻 并せて序」の全文でも重層的にあらわした説明は、元明天皇にはまったく読解できないように作文されていたことになる。
 しかし、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話にある伊耶那美命が宣誓した「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」という夏音文字10字を注目すると、元明天皇にも「『古事記』編纂スタッフの激しい反逆の情念」を察知できた。というのも、この「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言は「男(おのこ)たちよ、中国の黄帝が慈愛をそなえて万民を教化したように、妻を愛して桃のような可愛い子たちをたくさん生みましょうよ。小国・日本は【愛】を最も大事にする国家にしましょうよ」と表明するものであった。すなわち、小国・日本が誕生した当時(3世紀前半)、中国の黄帝が万民を教化した〔慈愛〕の政策は「阿那邇夜志愛袁登古袁」と表現されて、小国・日本と倭国の国中の人民に語り継がれていた。当時、「漢字は銀河から作られた学術」は王朝と国家が厳重な機密にして独占管理するものであったゆえ、小国・日本及び倭国の人民たちには「阿那邇夜志愛袁登古袁」の10字における1字ずつの字源を知らせず、10字の大意を「親が子を思う心、夫が妻を思う心、乙女が好きな男子を恋する心」などとザックリと概略的にあらわした解釈が民間に伝わっていたことになる。このような伊耶那美命が宣誓した【日本建国の〔愛〕の理念】を人民たちは尊重して伊耶那美命を熱烈に敬愛した。この人民を皇祖・天照大神は憎悪・敵視して弾圧して苦しめた。ゆえに、「阿那邇夜志愛袁登古袁」という夏音文字の10字は、皇祖・天照大神の聖性をいちじるしく汚す語でもあった。このため、「阿那邇夜志愛袁登古袁」の10字を見逃さなかった元明天皇は、『古事記』献呈を拒絶したことになる。
 本来、『古事記』は消滅しなければならない反逆の史書であった。しかし、『魏志倭人伝』よりもはるかに多くの夏音文字が記されている『古事記』上巻は「皇室の権力基盤である【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を学習する教科書として優れた機能」がそなわっていた。このため、『魏志倭人伝』同様に皇室が滅亡・衰退しないために保存しなければならない帝王学を学ぶための優れた書物、つまり『魏志倭人伝』と並ぶ名著でもあった。
 このため、『古事記』は朝廷にまもられ、学問や真実を愛する皇族・貴族・豪族・巫女・神官・僧侶・武将、そして朝廷に対抗して天下を治めた鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府などにまもられて、結局、消滅されずに現在まで残ることになった。
 しかし、【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸】を記述する『魏志倭人伝』を教科書にして『古事記』上巻を読むと、伊耶那美命が唱えた【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民たちを天照大神が憎悪・敵視して苦しめた歴史が知られてしまう――朝廷にとって実に不都合で厄介(やっかい)な書物でもあった。このため、朝廷は『魏志倭人伝』と『古事記』を絶対に読んではならない・絶対に研究してはならない反乱・謀反を企む皇室と国家の転覆を謀る最も悪質な書物と定めた。

◆新井白石は【漢字は銀漢から作られたという、素養】を有していなかった。このため、白石は「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字が「夏音文字と幾つかの重大な楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換して歴史を解明せよ」と【歴史解明方法】を説明していると読解することができなかった。ゆえに、この【歴史解明方法の説明】を無視した白石の『古事記』上巻と『日本書記』神代紀から立論した日本神話説は空理空論となった。
 白石同様に「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していない現在の学者たちによる【夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換しないで立論する日本神話説】もまた空理空論であった。

 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話における【夏音文字と幾つかの楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する歴史解明方法】にもとづくと――この説話のヒロインの「黄泉国の伊耶那美神命(いざなみのかみのみこと)は「天照大神(崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命)」であったと解明できる。というのも、この説話に登場する「八雷神(やくさのいかづちのかみ)」は「多数の奴婢を殺して倭女王・伊耶那美命(『魏志倭人伝』末部に登場する壱与)の墓に埋める、残虐な徇葬(じゅんそう)」を意味したからである。また、「黄泉国」について現在の字書は「死んだ人の魂が行くところ。あの世」と意味すると解説しているが、『古事記』における「黄泉国」は現在の字書の説明と異なって「熊野」を意味した。というのも、「黄帝が居住した本拠地」は「黄色(黄金色)に輝く[]の字源銀河周辺(つまり、銀河系宇宙の中心方向周辺の銀河)の、その一部分が熊の姿に観える。ゆえに、「一部分が熊の姿に観える、黄色の[]の字源銀河」は「熊が住む野原」すなわち「熊野」と見立てられた。ゆえに、「黄泉国」は「熊野」を意味したことになる。
 天照大神・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)は伊耶那岐命(9代開化天皇)の父の孝元天皇(8代天皇)と結婚して天照大神・10代崇神天皇を生んで、伊耶那岐命と結婚した継母(ままはは)であった。ゆえに、伊耶那岐命(9代開化天皇)10代崇神天皇の養父・異母兄・伯父であった。伊耶那岐命の第二后であった天照大御神・伊迦賀色許売命は熊野の神倉(かんのくら)神社の参道を塞(ふさ)ぐ巨大の岩の前で、伊耶那岐命に離縁された。離縁された天照大神は7代・孝霊(こうれい)天皇の娘の「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」という名を継いだ。ゆえに、天照大神・伊迦賀色許売命は「孝霊天皇の娘は崇神天皇の姑(おば)」となったので、『日本書記』は「倭迹迹日百襲姫命は、崇神天皇の姑」と記している。
 『古事記』編纂スタッフは「天照大神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命」の名を「伊耶那美命」の「神」を加えて「伊耶那美神命」とした。だから、「残虐冷酷な徇葬は伊耶那美命が陣頭指揮して決行された」と解釈できるゆえ、天武天皇が欲求したとおりの偽書を作ったと元明天皇にせまって献呈の許可を願った。しかし元明天皇は、後世の人々は「伊耶那美神命」を「天照大神」と解釈するにちがいないと考え、『古事記』編纂スタッフの企みを承認しなかった。というのも、天照大神が伊耶那岐命に離縁された「巨大な岩・千引石(ちびきのいわ)」は熊野(和歌山県新宮市)の神倉神社のご神体であり、熊野の人々は神倉神社にて天照大神を祀っていたからである。伊耶那美命を熱烈に憧れる熊野の住人たちが神倉神社に天照大神を主神として祀るのをあきらめて「天照大神は残虐な徇葬を決行した」という伝承を廃止するはずがないと、元明天皇は考えた(現在も、神倉神社は天照大神を主祭神にして祀っている)。このような事情からして、上記した「阿那邇夜志愛袁登古袁」という言と同じく伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「千引石」を注目して、元明天皇は『古事記』の献呈を拒絶したにちがいない。

 天照大神(伊耶那美神命、つまり10代崇神天皇の生母・伊迦賀色許売命)は、神倉神社のご神体の巨大な千引石の前で伊耶那岐命に離縁された。その時、天照大神は伊耶那岐命に向かって「汝(いまし)の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」と呪(のろ)った。この呪詛(じゅそ/のろい)の言は「亡き伊耶那美命がとなえた『阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)』と宣誓した【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民(人草)たちの母親の子どもたちが骨産道(こつさんどう/骨盤の産道)をくぐりぬけるときに、そのせまくて堅い骨産道にて子どもたちの頭を一日に必ず千人ずつ絞(くび)りつぶして殺すと、天の神に誓うことにした」と意味した。
 この呪いに対して、伊耶那岐命(後の伊耶河宮に居住して天下を治めた9代開化天皇)は「如此為(かくなせ)ば、吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ」と誓った。この誓いは「おまえがそうするならば、亡き愛する妻の『阿那邇夜志愛袁登古袁』の宣言を受けついで、吾は人民たちに一日に必ず千五百の産屋が立つように〔愛〕を尊ぶように説いて天下を治める」と意味した。
 だから、「漢字は銀漢から作られた」という素養を有していれば【夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する、歴史解明方法】をもって、『古事記』上巻は反逆の歴史書であったと読解できる。

◆以上のごとく、「漢字は銀漢から作られた」という素養は【『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された真実の歴史を解明するために最初から知っていなければならない基本知識】であった。
 この【上古史における真実を解明することができる基本知識】を有していなかったが原因で、新井白石の邪馬台国説は空理空論となった。
 したがって、白石の邪馬台国説と同類の、現在の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説もまた空理空論であったことになる。
 【上古史の真実を解明することができる基本知識】を有していない現在の学者たちは「『魏志倭人伝』は邪馬台国がどこにあったかを説明した書物」であると思い込んでいる。
 しかし、「漢字は銀漢から作られた事実」を知っていた徳川家康にとっては【『魏志倭人伝』には1ヵ所も〔誤読〕を加える必要がない】、【天下を治めるために、“い”のいちばん真っ先に必要な〔倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸〕を研究する教科書】であった。
 現在の学者たちは「『古事記』上巻には歴史が記述されていない」と主張する。しかし、『古事記』上巻は〔なんとしても編纂スタッフのメンバーたちが【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えなければならないという使命と情念〕のもとに編纂した反逆の歴史書であった。
 現在の学者の皆が皆【「漢字は銀漢から作られた」という基本知識】を有していない。このため、太安万侶が書いた「古事記上巻 并せて序」の900余字の文章を、正確に読解することができなかい。ゆえに、現在の学者たちは『魏志倭人伝』を「邪馬台国説を説明する史料」と錯覚し、『古事記』上巻は「日本神話は歴史を語るものでない」と断定する。
 このような肝心な点を忘れて、上記したわたくしの「古事記上巻 并せて序」の解釈について、幾人かの学者たちはじめ、あるいは「邪馬台国説や日本神話の定説は正しい」と報道したNHKテレビや朝日新聞などが面目丸つぶれを挽回するために「その解釈がどうして正しいと証明できるのか。その証拠を示せ」と激怒・激高するかもしれない。

 しかし、日本古代史の特徴は予想・思い込みが絶対に禁物の奇跡の歴史であったのだ!
 【1】「古事記上巻 并せて序」の900余字による説明の大意と、【2】『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話は【愛】を国家理念にした日本国(小国・日本)が誕生した歴史を語るものであったと現代人に正確に知ることができるように要約した、少数の字数でコンパクトに説明していた、奇跡の人物が存在した。この人物は――「古事記上巻 并せて序」の文について精通する、『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった。
 そして、現在、この人物の名を多くの日本人が知っている。この『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった人物は、『古事記』編纂目的は【3】381字で構成される『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)聖婚説話に記述された日本国誕生史を後世に伝えることであったと証言し、さらに淤能碁呂島の聖婚史における伊耶那美命が宣言した「阿那邇夜志愛袁登古袁」という【日本(小国・日本)建国の〔愛〕の理念】は要するに「愛、つまり親が子を思う心」をあらわしていると――わずか25字の言(ことば)で現在の大半の日本国民が容易に理解できるようにして後世に残した。
 この25字の言は有名で現在の多くの日本人が知っている。こんな馴染み深い1300年前の人物が、まさか現在の学者たちの誰一人も正確に解釈できない難解な「古事記上巻 并せて序」の説明文は、わたくしがこのブログに記述した解釈が正しいと指摘して、現在の学者たちはじめNHKテレビ・朝日新聞が正しいと胸をはって自信たっぷりに主張する「漢字習得の定説」と「邪馬台国説」と「日本神話の定説」は真っ赤なウソ・デタラメ・空理空論であった――と証言する、そんな重要な人物であったのかと――誰しもがまったく想像しなかったのである。
 この『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった人物は『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話は「実際に起きた日本国誕生史を記述した」と、赤裸々に語っている。
 次回の「家康くんと『魏志倭人伝』#3」では、『古事記』編纂スタッフの主要メンバーであった人物が没年より5年前頃に残した、死が近づいてきた焦燥に駆られて釈迦(しゃか)にすがるかのように必死に「日本国誕生史の真実が後世に伝わるように」と心願成就を願って、悲憤・悲嘆して遺した熱き歴史証言について話題にする。
 この人物の証言によって「わが国は【倉頡の漢字作成理論と夏音文字の学芸を習得した】という事実が【科学】が成立して証明される。これゆえ、日本国民はわが国の学界やマスメディアが擁護した「漢字習得の定説」はじめ、新井白石の空理空論を受けつぐ「邪馬台国説」と「日本神話の定説」は100パーセント・完全なる空理空論であったと断定することができて、300年ぶりに虚妄(きょもう)の学説から解放されて――われら日本人は真実に祝福されてほんものの日本人にようやくなれる。
 万歳、万歳、万歳! われわれはとうとう『古事記』上巻に記述された【日本建国の〔愛〕の理念】を【歴史】として白石没後300年ぶりに語ることができるようになったのである。

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2022年8月26日 (金)

家康くんと『魏志倭人伝』#1

◆このブログから始めて回を増すごとに「徳川家康は『魏志倭人伝』に記述された真実を知っていた事実」がますます具体的に詳細に科学的に証明できるようにすることにした。

 「銀河」の別名は「銀漢」である。
 「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と表記した。
 今から約3300年前の殷代(いんだい)後半から出現した亀の甲羅に文字を刻んだ漢字は「甲骨文字」とよばれる。今から約3050年前の周代(西周時代)初頭から出現した漢字は「金文」と名づけられた。甲骨文字と金文の多数の字形は銀漢各部の形状を写実的にデザインする。また、多数の甲骨文字と金文の字源・字義は銀漢各部の形状によって成立する。だから、甲骨文字と金文は――「漢字は銀漢から作られた事実」が証明できる確かな史料となる。

◆「漢字は銀漢から作られた事実」にもとづくと――徳川家康は3世紀後半(280289)に著作された『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えないで、卑弥呼が居住した首都所在地の名は「邪馬壱国(やまいこく)であった」と考えていたことになる。また、家康は「邪馬壱国の中心地は旧国の出雲」と考えていたことになる。というのも、【家康が命を賭けて追い求めた一生の夢】をたどっていくと、家康は『魏志倭人伝』を密かに研究して「邪馬壱国は出雲地方であった」と考えていたことが具体的に科学的に解明できるからである。それというのも、家康の一生を追いかけると「家康が『魏志倭人伝』を読んでいた」と明確に証明できる3つの科学的な遺跡が現存するからである。
 家康が「邪馬壱国出雲地方説論者」であった一つの理由・根拠となる遺跡として、下図に笹山晴生(他6名)編著作者『日本史総合図録』(山川出版社発行)77ページににある〔江戸城(現在の皇居)から発する水路の図〕を配した。
 なお、下図の「江戸の水路」は〔家康が『魏志倭人伝』を読んでいたと明確に・科学的に証明できる遺跡〕ではない。それら3つの遺跡は別にある。すなわち(1)『魏志倭人伝』と同じ3世紀後半に約30年間費やして作製された「1千万坪の大鳥の地上絵」、(2)1600年の関ケ原合戦の3年後から20年間かけて作製された「3千万坪の大鳥の地上絵」である。もう一つは()家康の死後に江戸幕府によって作られた京都の桂離宮の庭園である。
 下図の「江戸の水路」は〔家康が邪馬壱国出雲説であった理由・根拠となる遺跡〕である。
 この「江戸城(現在の皇居)から発する時計回りの渦巻を描く水路〕は、家康が設計した。
0000165
◆上図は〔上を北・下を南とする、江戸の水路図〕である。
 下に、〔左の西を上の北・右の東を下の南とする、方位を時計回りに90度の転回する江戸の水路図〕である。
 下図の「転回方位にもとづく、江戸の水路の渦巻文」は、下図右側の[]の古代字形(古文形)に合致する。ゆえに、家康は「時計回り渦巻く[]の字源・字形・字義」を表現して「江戸の時計回りの渦巻文の水路」を設計したと考えられる。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)[]の古文形を「雲の初文」つまり「雲の最初の文字」と解説する。
 下図の〔転回方位の江戸の渦巻文の水路〕は「現在の隅田川へ出(いず)る」。だから、〔江戸の水路〕で、家康は「出る」の[]に「水路の渦巻文」の[]を加えて「出雲」とあらわしていたにちがいない。したがって、家康は「方位規定を時計回りに90度転回して、卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と考えていたことになる。
0000166
 今から約5000年前に漢字が発明された。この時――[](か/字義は「穀物。稲。五穀豊穣」)の字が作られた。この起源漢字の[]の字源は「時計回りに90度転回する方位規定」であった。ゆえに、[]は【漢字の作成理論をあらわす基軸字】であった。
 「漢字は銀漢から作られた」という素養を有した家康は『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに読解して「卑弥呼王朝は日本列島における本州(本土)の地理方位を、【漢字作成理論の基軸字[]の字源】にもとづいて時計回りに90度転回していた」と考えていた。
 というのも、『魏志倭人伝』の全記事に1ヵ所も【誤読】が加えない論法だと「邪馬壱国は出雲地方であった」ことになるからである。だから、家康は「[]の古文形をデザインする江戸の水路」で「邪馬壱国出雲地方説」を表現していたことになる。

◆約2000字で構成される『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】は加えないと、九州の末盧(まつろ)国以下の本州地理を説明する12か所の全方位記事は【本州の東は、本州の南になる】と説明していることになる。
 『魏志倭人伝』の冒頭の「朝鮮半島の帯方郡から末盧国までの説明」には全7か所の方位記事がある。この7か所の方位記事は、現在の日本地図と同一となる。たとえば『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県対馬)の南に一海千余里を渡ると、一大国(現在の長崎県壱岐)に至る」と記すゆえ、この対馬国と一大国の方位は現在の日本地図と同じである。
 しかし、末盧国以下の本州地理を説明する方位記事は12か所ある。この全12か所の方位記事に1ヵ所も【誤読】は加えないと、下図のごとく【本州の東は南となる】。
 下図に示すように、対馬国を1番目と数えると「信長の生地の尾張」は13番目の「弥奴(みな)国」、「家康の生地の三河」は14番目の「好古都(こかた)国」、「三河の隣国の遠江」は15番目の「不呼(ふこ)国」であった。
 現在の日本地図だと弥奴国(尾張)・好古都国(三河)・不呼国(遠江)は九州の東にある。しかし、『魏志倭人伝』の末盧国以下の方位記事に1ヵ所も【誤読】を加えないと、下図に示すように弥奴国(尾張)・好古都国(三河)・不呼国(遠江)は本州の南に所在する。
0000167
 上図に示すように――『魏志倭人伝』が「投馬(とうま)国の南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり」と記す「邪馬壱国」は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在の島根県と鳥取県の西部」となる。
 『魏志倭人伝』には上図に示した34の小国が登場するが、一国だけ小国名を記さない。
 この名を記さない小国について、『魏志倭人伝』には、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆(みな)、倭種なり」と説明する。
 上図に示したように、「女王国(山陰出雲)の中心地・松江市の北方40kmの日本海上に隠岐群島が所在する。「島根半島に近い知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前三島(どうぜんさんとう)と、その東北にある大きな島・島後(どうご)の四つの大島と約180の小島からなる群島」である。ゆえに、「隠岐群島の多数の島々を一括する」と「皆、倭種なり」という表現となる。また、「[]の字源・時計回りの90度の転回方位」の場合「北が東になる」。だから、「隠岐群島の島前」は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国あり」と説明された地所であったことになる。
 また、「隠岐群島の島前と島後の中間の海」も転回方位だと「出雲の東」となる。
 だから、「[]の転回方位にもとづくと、古代出雲の中心地より【東】の海上となる位置に隠岐群島が所在する」ゆえ、家康は「邪馬壱国は出雲地方であった」と考えたことになる。

 『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した宮殿について「宮室・楼観(ろうかん/見張り櫓)・城の柵を厳重に設計し、常に兵器をもった人が守衛している」と説明する。
 このような倭女王の宮殿は、かつて「意宇(おう)郡」とよばれた地域に所在したと考えられる。出雲国の意宇郡は、古代の神群のひとつに数えられた。神郡とは有力な神の社(やしろ)が鎮座した地域であった。意宇郡は現在の松江市の南部と安来(やすぎ)市である。宍道湖東方の中海(なかうみ)の南(現在方位)には、意宇郡であった松江市東出雲町に揖夜(いや)神社が鎮座する。この揖夜神社の近辺に卑弥呼が居住した宮殿が所在したとすると、転回方位で揖夜神社の〔真東〕となる千余里の地域は島前と島後の中間の海上となる。ゆえに、「女王国より千余里の東」は「海」であったゆえ、卑弥呼は「海と陸地の島前・島後の両者の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)の様子をもあらわす、また「漢字が銀河から作られた」とあらわす女王の学識として威厳をあらわすことができる優れた小国名を考えつかなかったのであろう。だから、隠岐群島の小国名は記されないことになったのかもしれない。
 また、意宇郡であった松江市佐草町には八重垣(やえがき)神社が鎮座する。卑弥呼の宮殿の跡地に八重垣神社が建造されたとしたならば、八重垣神社の真東は隠岐群島の島前ということになる。
 ゆえに、わたくしは卑弥呼の宮殿地の第一候補は揖夜神社近辺であったと考える。そして、須佐之男命(すさのおのみこと)が新婚生活を過ごした八重垣神社の地にはかつて卑弥呼の宮殿が建てられていたと思われるゆえ、八重垣神社が卑弥呼の宮殿の第二候補地となる。

◆『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国から東南五百里陸を行くと伊都(いと)国に到る。伊都国から奴()国に至るには東南百里である。奴国から東へ百里行くと不弥(ふみ)国に至る。不弥国から南に二十日水行(航行)すると投馬(とうま)国に至る。投馬国から南へ十日水行し一月陸行すると邪馬壱国に至る」と説明する。
 []の字源・転回方位にもとづく末盧国から不弥国までの旅程基点を下図に示した。
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 「末盧」は「まつろ」と読める。ゆえに、現在の長崎県の「松浦市」の「まつうら」は「まつろ(末盧)」という音に近い。ゆえに、上の〔[]の字源・転回方位による九州各小国の範囲と旅程基点の図〕に表示したように――末盧国の旅程基点を長崎県松浦市に比定した。
 伊都国は『日本書紀』に登場する「伊都県(いとのあがた)」であったと考えられる。伊都県は現在の福岡県糸島市の前原町(まえばるまち)に比定されるという説がある。ゆえに、転回方位にもとづくと末盧国・松浦市から東南五百里の地点は糸島市前原町に相当する。
 奴国については『後漢書(ごかんじょ)』倭伝が「建武中元二年(57)、倭の奴国は貢物を奉って朝賀した。後漢の光武帝が印綬を賜う」と記述する。江戸時代に博多湾中の志賀島(しかのしま)から「漢委奴国王」の金印が発見された。この志賀島の東方(現在方位)の福岡市東区には香椎宮がある。奴国の旅程基点を香椎宮に比定すると、転回方位だと糸島市前原町から東南百里行くと香椎宮となる。
 不呼国の旅程基点を宗像(むなかた)市の宗像大社の辺津宮(へつみや)に比定すると、香椎宮から転回方位の東へ百里行くと宗像大社の辺津宮となる。
 だから、卑弥呼王朝は【漢字作成理論の基軸字[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」】にもとづいて末盧国から不弥国までの地理方位を定めていたことになる。
 前述したように、漢字が起源した中国の五帝時代初頭において「時計回りに90度転回する方位規定」を字源とする[]の字が作られ、後に[][]が加わる[]の字が出現し、さらに後に[人偏][]の字が加えられて[]の字が作られた。『魏志倭人伝』は――対馬国から狗奴(くな)国までの30の小国名をもって[][]の字は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」を受け継いだ――と伝えている。だから、『魏志倭人伝』は「本州地理の全12か所の方位記事は、時計回りに90度転回する」と説明していたことになる。その証拠に、「倭人国」という国名の[][]の字源もまた「時計回りに90度転回する方位規定」を有するものであった。
 だから、上記したように、家康は『魏志倭人伝』の記事のとおりに本州の地理方位を「時計回りに90度転回する」ようにして「邪馬壱国出雲地方説」を考えたゆえ、「江戸の渦巻文の水路」にて「邪馬壱国出雲地方説」を表現することにしたことになる。

◆不弥国の次の投馬国は山口県であった。山口県・投馬国の長門(ながと)市の港が投馬国の旅程基点となる。
 投馬国の旅程基点を山口県長門市の港に比定すると、長門港は不弥国の宗像大社辺津宮の南となる。辺津宮から宗像大社の沖津宮(おきつみや)がある沖ノ島に立ち寄り、沖ノ島から山口県萩市の見島(みしま)を経由して長門市の港に至るまでの迂回(うかい)海路を、『魏志倭人伝』は「水行二十日」と説明している。
 『魏志倭人伝』には五世紀の裴松之(はいしょうし)が「倭は中国の正歳四節、つまり中国の正歳つまり元日から大晦日までを一年と定め、また一年を春、夏、秋、冬に分ける四節(四季)を定めていない。ただし、春耕(田を耕す春)と秋収(穀物を収穫する秋)を一年とする、中国の一年を二年と計る二倍暦(にばいれき)があった」と加えた注がある。したがって、「水行二十日」という航行日数は「現在だと、十日」であったことになる。そして「辺津宮から沖ノ島を経て、沖ノ島から見島を経由して投馬国の旅程基点の長門港へ到着するまでの十日の海路」は、〈通常航路〉ではなく《学術海路》を説明するものであったと考えられる。
 この《二倍暦による不弥国から投馬国までの学術海路》は『魏志倭人伝』の「対馬国から南へ千余里渡って一大国に至る中間の海は、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う」という記事と密接にかかわる。「瀚海」ははじめ「ゴビ砂漠」を意味し、のち「北海」を意味したとされる。「ゴビ砂漠」は「中国(中華人民共和国)より北方のモンゴルの砂漠の名称」である。ゆえに、「ゴビ砂漠は中国の北方にある大海のごとき砂漠」であるゆえ「瀚海」は「北海」、つまり「中国の北の海」を意味することになった。
 「対馬国と一大国の中間の海」が「ゴビ砂漠」であるはずがない。[][][]の字源とともに、(1)「瀚海」もまた「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす役割を有していた。さらに、(2)「不弥国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」と「投馬国東部(現在方位)の地宜」もまた「瀚海」という語源と[][][]の字源とともに「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわす役割があった。
 だから、卑弥呼は上に示した「転回本州地理」を立論し、国名を「倭人国」と定め、「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海」と名づけて、【漢字作成理論】にもとづいて倭人国を治めたていたことになる。その証拠に、「瀚海」の語源が「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしたことは、前述したように「不弥国の地宜と投馬東部の地宜」によって具体的に証明できるからである。ゆえに、卑弥呼は「不弥国から投馬国までの旅程」で「水行二十日」とする《学術海路》を表示して女王の徳と威厳を示して倭国を治めていたことになる。

◆『魏志倭人伝』は「投馬国から南へ水行十日陸行一月で、女王が首都とする邪馬壱国に至る」と説明する。したがって、現在においては「投馬国から邪馬壱国までの旅程日数は半分の水行五日陸行半月」であったことになる。
 転回方位にもとづくと、投馬国の長門港から〔南〕には、島根県松江市がある。前述したように、卑弥呼が居住した宮殿は松江市東出雲町の揖夜神社近辺か、松江市佐草町の八重垣神社の跡地であったと考えられる。この両地所とも、投馬国・長門港から水行五日陸行半月に適合する。
 揖夜神社の社号に用いられる[]の字義は「集まる」である。ゆえに「揖夜」は「漢字の字源・字形の原形・原義となった銀漢の各部が出現する夜に神々が出雲に集合する」と意味することになる。ゆえに、「揖夜」は「陰暦十月に諸国の神々が出雲に集合する、神有月」また「出雲以外の国々は神々がいなくなる、神無月(かみなづき)」の由来に適合する。つまり、「神々」は「銀漢各部の形状が字源・字形・原義となる学術知識を有する倭国中の王・王女や巫女・覡(げき/神官)たち」のことであり、「諸国の王・王女や巫覡が陰暦十月に卑弥呼が居住する出雲に揖(あつ)まって会合した習慣」が出雲における「神有月」の語源、出雲以外の諸国における「神無月」の語源であったと推定される。
 だから、揖夜神社近辺に卑弥呼が居住した宮殿が所在したのではあるまいか。

◆『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部は「熊野の黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今(『古事記』が完成した712)出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂()ふ」と記す。この「出雲国の伊賦夜坂」は「熊野の和歌山県新宮市磐盾町の神倉(かみくら)神社の参道」であった。『古事記』が完成した712年当時、「熊野の神倉神社の参道」は「出雲国の伊賦夜坂」とよばれていたのである。
 幾人かの学者たちは『古事記』の黄泉国訪問説話末部の「出雲国の伊賦夜坂」を「島根県・出雲国の伊布夜坂」と解釈するが、この意見は誤っている。
 万葉歌人の第一人者とされる柿野本人麻呂は701629日に出立して710日に還幸(かんこう)した持統上皇の吉野宮行幸に参加していた。
 この701年の持統上皇の行幸において、伊耶那美命(『魏志倭人伝』末部に登場する壱与=9代開化天皇の正妃の竹野比売)が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】と日本国誕生史の抹殺を企てて吉野宮に行幸する持統上皇に抗議して川に身を投げて溺死した出雲国・熊野に住む乙女たちと、人麻呂は遭遇した。
 吉野から山陰出雲は遥かに遠い。ゆえに、人麻呂が作った二首の和歌と山陰出雲は無関係であった。持統上皇が行幸した吉野は、伊耶那美命・伊耶那岐命・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭る熊野に近い。当時、吉野に近い熊野は「出雲」とよばれていたのである。ゆえに、人麻呂は「熊野」を「出雲」と表現したことになる。だから、『万葉集』429番と430番の「溺れ死しし出雲の娘子(をとめ)を火葬(やきはぶ)る時に、柿本朝臣人麻呂の作る和歌二首」という題詞に登場する「出雲国」は「和歌山県の熊野」であったことになる。
 人麻呂は、この名も無い出雲・熊野の乙女たちのいのちを捨てての激しい抗議に遭遇し、彼女たちの亡骸を火葬しながら、霧がかかったように視線をさえぎられて涙で潤む眼で吉野の山の嶺をながめ――激しい怒りにふるえた。体制側の横暴や不正や卑怯な陰謀などを見て見ぬふりして身をまもって宮廷歌人の席にしがみつく自分がどうしてもゆるせなくなり、深く恥じた。この二首は、人民たちが敬愛する伊耶那美命(竹野比売)と伊耶那岐命(若き日の開化天皇)が【愛】を国家理念とした小国・日本の誕生史を抹殺せんと企む持統上皇と律令国家体制を批判して抵抗を示す和歌であった。人麻呂は溺死した熊野・出雲の乙女たちを吉野で火葬する時に作った二首で、天照大神(10代崇神天皇母子)を至上神と崇拝して・国家権力の強大化を強引に推進する政策をおこなう持統上皇は誤っていると批判した。これゆえ、人麻呂は石見国(現島根県西部)へ流された。人麻呂は石見国の地で死去している。
 だから、この事件の11年後に『古事記』が元明(げんめい)天皇に献上された。ゆえに、8世紀前半において「熊野・和歌山県新宮市の神倉神社の参道」は「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」とよばれていたことになる。

◆現在の学界にとって、『魏志倭人伝』は【倭女王・卑弥呼が治めた邪馬台国はどこに住んでいたのかを研究する書物】である。
 しかし、皇室と家康はじめ江戸幕府にとって、『魏志倭人伝』は【国家を治めるための学術基盤、倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論と夏音(かおん)文字の学芸を学習する最高峰の教科書】であった。だから、皇室と家康はじめ幕府にとって、『魏志倭人伝』は【王道政治の基盤である学術書、要するに帝王学を学ぶ書物】であった。
 今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、漢字を発明した。五帝時代の漢字は「書契(しょけい)」とよばれる。
 今から約4000年前の後期縄文時代初頭、中国の夏后(かこう)時代初頭(夏代初頭)、中国から名門益氏の王子と若者たちが玄界灘を横断して北進して日本列島の東北地方・秋田県に定住して【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文字の学芸】を教えひろめた。ゆえに、『魏志倭人伝』には【今から約5000年前に生存した倉頡が発明した漢字作成理論と、今から約4000年前の夏代初頭の夏音文字の学芸】が記述されることになった。
 ゆえに、皇室と家康はじめ江戸幕府にとって、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論を最も明確に伝える最高峰の学術書】であった。
 その証拠に、江戸時代中期に生存した新井白石(あらいはくせき)1725年に死去すると、白石が邪馬台国大和説と邪馬台国九州説を立論していることを知った朝廷は驚愕(きょうがく)して、まるで「日本国が滅びる! わが皇室が滅びる! わが国の学問が滅びる! わが国の文化は根底から滅びる! わが国の上古史がことごとく滅びる!」と言わんばかりに激しいショックを受け、白石の邪馬台国説に対して「わが国を作ったすべてのものが台無しになって滅びる」とまで恐怖を抱いている。

 新井白石は114代中御門(なかみかど)天皇在位中の1725年に69歳で没した。673年に即位した40代天武天皇以後おこなってきた大嘗祭(だいじょうさい)は【倉頡から始まった五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字の学芸をわが国は習得したと表示する学問儀式】であった。ところが、1466年に即位した103代後土御門(ごつちみかど)天皇の即位式にて大嘗祭がおこなわれて以後、9代・約200年ものあいだ大嘗祭は中断していた。大嘗祭の中断によって【倉頡が発明した漢字作成理論や夏音文字の学術】が次第に失われ廃(すた)れていく状況を心配した皇室は、1687年の113代東山(ひがしやま)天皇の即位式で、大嘗祭を略儀でいったん再興した。この113代第東山天皇の在位中、そして次の114代中御門天皇が即位した1709年当時、白石はいまだ邪馬台国説を発表していなかった。上記したように、白石が邪馬台国説を発表したのは、中御門天皇の在位中であった。
 673年から686年に在位した天武天皇は「大嘗祭は――即位する天皇が【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を政権基盤にして国家を治めると誓う儀式】とする」と定めた。ゆえに、「白石の邪馬台国説は誤読の空理空論である」と表示する大嘗祭は、中御門天皇の次の115代桜町(さくらまち)天皇の即位式にておこなわれることになった。この桜町天皇の即位式は、白石が没してから13年後の173811月におこなわれた。
 前述したように、皇室と家康の遺志を継ぐ江戸幕府にとって『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した漢字作成理論を知る最高峰の学術書】であった。だから、桜町天皇の即位式は将軍吉宗と幕府の協力の基(もと)におこなわれた。
 以上からして、桜町天皇の大嘗祭は、本格的に【倉頡が発明した作成理論と夏音文字の学芸】を復興する学問儀式であった。したがって、1738年の桜町天皇の大嘗祭から今日の2019(令和元年)11月までにおこなわれた大嘗祭は【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】をあらわす学問儀式であったのである。

◆天武天皇以後、朝廷は伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史は皇祖・天照大御神の聖性を汚すゆえ、後世に伝えることを厳重に禁止した。しかし、天武天皇の命令に逆らって、『古事記』上巻に皇祖・天照大神の聖性を汚す歴史が記述された。このため、『魏志倭人伝』も『古事記』同様に読むことも研究することも厳重に禁止された。というのも、『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論】によって「倉頡は銀漢各部の形状を文字(字源・字形・字義)と定めたこと」が解明されると、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する方法によって、朝廷にとって不都合な伊耶那美命と伊耶那岐命の歴史が明らかとなるからであった。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話には――伊耶那美命(『魏志倭人伝』末部の登場する倭女王の壱与)は伊耶那岐命と結婚したとき「小国・日本の建国理念は【愛】にしましょう」と提唱した。伊耶那美命の死後、伊耶那岐命は大王(9代開化天皇)となって愛妻・伊耶那美命が宣言した【日本建国の〔愛〕の理念】を受け継いで天下をおさめた。皇祖・天照大神(10代崇神天皇母子)は【日本建国の〔愛〕の理念】を尊重する人民を弾圧して苦しめた。また、伊耶那美命の後を継いで倭女王に就任した皇祖・天照大神(10代崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命)は多数の奴婢(ぬひ)を殺して伊耶那美命の墓に埋める残忍きわまりない徇葬(じゅんそう/八雷神・やくさのいかづちがみの儀式)を陣頭指揮した――と記述されていた。
 これゆえ、1738年の桜町天皇の本格的な大嘗祭の復興から今日の2019年までにおこなわれて大嘗祭は「夏音文字と楷書の字源・字義は銀漢各部の形状である」とあらわす学問儀式であった。ゆえに――桜町天皇から今上陛下までの大嘗祭は、家康の遺志を継ぐ将軍吉宗と江戸幕府が欲求した【皇祖・天照大神が憎悪・敵視した日本建国の〔愛〕の理念】が「夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換すれば解明できる学問儀式」でもあったことになる。
 しかし、現在、学者たちは【『古事記』上巻の夏音文字と楷書の字源・字形・字義を銀漢各部の形状に変換する必要は無い】と考えているので――日本国民は日本国が【愛】を宣誓して建国されたことを知ることができない。

◆天武天皇以後、皇室が最も偉大な先祖と定めた皇祖・天照大神は三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮・皇大神宮(こうたいじんぐう)に祀られる。
 大嘗祭は天照大神を祀る大礼(たいれい)でもある。
 天照大神を祀る皇大神宮(内宮)は、X字形に交差させた木材・千木(ちぎ)を屋根の棟(むね)の両端に取り付けている。
 わが国の神社の建物は、天照大神を祀る伊勢神宮にかぎらず、屋根にX字形の千木を取りつける――「神社の屋上に千木がある」、これが神社建築の一般的形式である。
 千木を取り付けるわが国の神社建築様式は、わが国が夏代初頭に夏音文字を習得した証拠となる。
 というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社発行)は、[(こう)]の字について「千木のある建物の形」、また「氏族の伝統と秘儀について学習する秘密講的な施設であり、それが学校の起源であった。千木形式の建物は、神聖のものとされたらしく、わが国の神社建築にその形式が残されている」と解説しているからである。
 白川静著『字統』は、[]の契文(けいぶん/甲骨文字)と金文の字形について「もと屋上に千木のある建物」、あるいは「卜文(つまり甲骨文字)は千木形式の建物で、わが国の神社建築に似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう。卜辞(甲骨文字の辞)に小子・小臣を集めて教学することを卜するものがあり、小子・小臣は王族の子弟をいう」と解説する。
 下に、〔契文(甲骨文字)前期の[]の字形と、契文前期の[]の字形と、わが国の神社の千木図〕を示した。
 わが国は夏代初頭、【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を習得した。だから、天照大神を祀る伊勢神宮はじめわが国の神社建築は「学。学術。学問」をあらわす[][]の契文形に図案された「千木」が屋根のむねの両端に取り付けられることになった。
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 上記したように、白川静著『字統』が「卜辞(契文の辞)に小子・小臣を集めて教学することを卜するものがあり、小子・小臣は王族の子弟をいう」と指摘するように――中国では契文が出現した殷代後半・金文が出現した周代において、権力を有する王や高位につくにふさわしい人物が多数の王臣の子弟の中から卜されて選ばれ、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】を厳重にまもるように教育され、【銀漢各部の形状が字源・字形・字義となる学術】を厳しい戒律のもとで学習していたようである。
 上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】は下記のごとくであった。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的な表現で説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者また消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする

 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝は滅びるにちがいないと心配した。ゆえに、【3つの掟】を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
 上記した【3】の掟のために、五帝時代の「書契」とよばれた漢字、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は文字が書いた史料が出土しないことになった。

 今から約3300年前から始まる殷代後半の契文(甲骨文字)4000(4000)を越えて多数となったため、【3】の掟はまもらなくてもよいことになった。このため、契文(甲骨文字)を書いた史料が多数出土することになった。
 だから、【わが国は甲骨文字以前の夏代初頭に夏音文字を習得していた】ため――「用済みになったならば消さない人物はじめ消し忘れた人物、また、この掟を破った人物の一族全員も、死刑にする」という【3】の掟は夏代初頭以後も、厳重にまもられていたことになる。

◆白石以後の学者たちは「銀漢から作られた文字であるから、漢字と名づけられた事実」に気づかない。このため、白石以後の学者たちは全員『魏志倭人伝』に記述された【夏音文字と倉頡が発明した漢字作成理論の説明】が事実であると理解できい。
 いっぽう、白石以前の優れた中世や近世の学識者や高僧たちの中には【銀漢各部の形状が字源・字形・字義】となって五帝時代の書契と夏音文字は夜空に現存する事実を察知する人々がいた。しかし、上記した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】の伝統にもとづき、【銀漢から作られた漢字の研究は厳重な秘密のもとに研究しなければならない心得がルール】となった。中世や近世の高僧たちは仏教の経典に用いられる漢字の字源を研究するために、また天下を治めたいと夢見る武士たちの中には天下を治めるための帝王学を知得するために――誰にも研究していることが察知されないように家康のごとく直隠(ひたかく)しにして、また後世の歴史学者たちにも気づかれないように家康のごとく直隠しにして――『魏志倭人伝』に記述された【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】を研究する人々もいたのである。

◆白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく「わが国の国語として残っている漢字音が、中国に現存する最古の漢字音よりも古い、現存する最古の漢字音である」と指摘している。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として残っている漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
 下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。
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 白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」と指摘する漢字は、今から約4000年前の中国の夏代初頭に伝来して習得した【夏音文字】であった。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は上の〔漢字生長史〕にあって紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 ゆえに、わが国が中国の夏代初頭に習得した夏音文字の漢字音は、中国の上古音よりも約1000年前の・現存する最古の漢字音となる。
 ところが、〔漢字生長史〕が示すように、現在の学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説の漢字音は中国の上古音よりも新しい。ゆえに、上記したように〔漢字生長史〕の最下部に配置される。
 だから、学界が「わが国は最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した漢字習得の絶対的な定説は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の「夏音文字を習得していた」と伝える記事を強引に無視・排除した傲慢(ごうまん)な空理空論、すなわち「5世紀以前に、漢字を書いた史料が出土しない。ゆえに、わが国は漢字を5世紀以前に習得していない」と断定する考古学の見解を正しいと思い込んだ幻想、錯覚であったことになる。
 わが国が約4000年前に習得した五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字は現存する。
 というのも、五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字は銀漢各部の形状が字源・字形・字義となって、現在も夜空に存在しているからである。だから、音韻学による「わが国の国語として残る漢字の字音は中国の現存する上古音よりも古い、いま残されているもののなかで最古の漢字音である」という指摘は事実となる。
 「漢字は銀漢から作られた文字」であった。だからもしも学界が家康のごとく「漢字は銀漢から作られた事実」に気づいていれば、即座に学界は「考古学が主張する漢字習得説は空理空論である」と断定していたことになる。
 上記したように、前期の契文(甲骨文字)[][]の字形に合致してX字形の千木を屋根に取り付けるわが国の神社建築は「夏代初頭に夏音文字を習得していた」と考えるべき史料であった。だから「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は[]の字源を知らない・「学説」とは言えない空理空論であったことになる。

◆中国の正史『隋書(ずいしょ)』倭国伝には――600年、わが国の推古天皇八年に倭国から派遣された遣隋使が「文字無し。ただ刻木(こくぼく)結縄(けつじょう)のみ。仏法を敬い、百済(くだら)において仏経を求得し、初めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、もっとも巫覡を信ず」と言った――という記事がある。
 この記事に登場する「刻木」は「倉頡が作った五帝時代の書契」の別称であった。「書契」は太古より「木に文字を刻む」と意味すると伝えられていた。ゆえに、「書契」をわが国では「刻木」とよんでいたことになる。中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』には「上古は結縄によって治め、後世の聖人倉頡がこれを書契に代()える」という記事がある。「結縄」は「今から約6000年前の、三皇時代に易に用いられた記号」の名称であった。倉頡は三皇時代の易に用いた記号の結縄に代えて、書契つまり刻木を発明した。
 ということは、『隋書』倭国伝に記された「文字無し」という文は「仏教の経典に用いる画数の多く、銀漢各部の形状を見ても字源・字義の解釈が困難となる楷書は習得していない」と意味したことになる。
 ゆえに、上記した『隋書』倭国伝の文は「文字無し」から始まる文は「わが国には三皇時代の結縄と五帝時代の刻木がある。しかし、仏教の経典に用いる難しい楷書は無かった。仏教を敬い、朝鮮半島の百済から仏教の経典を輸入して、はじめて仏教の経典に用いる楷書が読解できるようになった。というのも、五帝時代の刻木と夏代の夏音文字に精通する巫女と覡(男の神官)たちが中国の卜筮の書物に用いられる漢字を読解するために、仏教の経典に用いる難解な楷書の解読に挑戦して成功した。ゆえに、この偉大な業績をなしとげた巫覡を世の人々は最も信頼して尊敬した」と、遣隋使は説明していたことになる。
 上記した『隋書』倭国伝に記された600年に中国に渡った遣隋使の「文字無し」という言は江戸時代の学者たちはじめその後の学者たちに「わが国には文字が無かった」と誤訳された。このため、考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という意見は正しいと思い込まれるようになった。ところが、この解釈は【誤読の産物】であった。遣隋使は「わが国には三皇時代の結縄と五帝時代の刻木と夏代の夏音文字を有していた。刻木と夏音文字に精通する巫女と神官たちが、みごとに仏教の経典に用いる難解な楷書を解読した」と中国に事実を報告していたことになる。
 だから、現在の学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は誤読の産物・空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

◆『魏志倭人伝』の中半には「倭の卜辞(ぼくじ/占いに用いる言と文字)は令亀(れいき)の法の如くであった」という記事がある。「令亀の法」とは「亀の甲羅に文字を刻んだ契文・甲骨文字」を意味した。だから、わが国は【甲骨文字のごとく銀漢各部の形状に似せて写実的に図案する夏代初頭の夏音文字】を習得していた――したがって、『魏志倭人伝』の「令亀の法の如く」という記事は「わが国には、銀河各部の形状を字源・字形・字義と定めた甲骨文字のごとき夏音文字が存在した」と伝えていたことになる。
 〔注 上記したように、〈1〉契文・令亀の法(甲骨文字)前期の[][]の字形に合致する「神社建築の千木」はわが国が夏音文字を習得していた証拠となる。また、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀前半)、巫女や神官たちは夜な夜な銀河各部の形状を観察して字源・字形・字義を正しく知得する夏音の言と夏音文字をもって卜していた。ゆえに、〈2〉卑弥呼時代末から約250年後の推古天皇時代の600年頃の巫女と神官たちも夜な夜な銀漢を観察して字源・字形・字義の学術に励むものであったので、百済から輸入した仏教の経典に用いられる非常に難解な楷書を解読することができたのである。〕

 『魏志倭人伝』の中半には「魏の都・魏の出張政庁機関が朝鮮半島のソウル付近にあった帯方郡(たいほうぐん)・諸韓国が用いる文書に用いる楷書と、倭の卑弥呼が文書に用いる文字(夏音文字)は差錯(ささく/相違)していた。ゆえに、倭の伊都(いと)国の港では、魏都・帯方郡・諸韓国の楷書と倭女王の文字を捜露(そうろ/一字一字づつ丁寧に確認・点検)して楷書と卑弥呼の文字が同義になるように正しく変換していた」と説明する、もう一つの「倭には夏音文字があった」と伝える記事がある。
 だから、「倭には【五帝時代の刻木と夏代の夏音文字】が存在した」ことが事実となる。
 学者たちは「倭には上古の漢字があった」と明記する『魏志倭人伝』の記事を徹底的に無視・排除して「倭には、上古の漢字は無かった」と断定した。しかし、上記の「令亀の法」や「伊都国の港で魏都と朝鮮半島の楷書と倭の夏音文字を正しく変換していた」という二つの記事はじめ、「倭人国」という国名や「卑弥呼」という女王名や「邪馬壱国」という首都名や、そして対馬国から狗奴国までの30の小国をもって――『魏志倭人伝』は「倭には【倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸】が存在した」と証言していた。

◆中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本国伝には――702年に九州の港を出帆して中国に渡った第7回遣唐使は「後稍(のちやや)、夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずるに所近し。以(ゆえ)に名となすと。あるいはいう、日本乃(すなわ)ち小国、倭の并(あわ)す所となる」と説明して、「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝が承認するように求めた――という記事がある。
 上記の第7回遣唐使が「後稍、夏音を習う」が述べたという言は「わが国は672年の壬申の乱の後、稍々(やや)、夏音文字を復興することにした」と意味した。
 第7回遣唐使が「わが国には、夏音文字が存在する」と述べた、この「夏音文字」は『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名となって記されている。
 倭女王の名「卑弥呼」の3字を〔中国に現存する最古の上古音〕で読むと「ピミカ」となる。「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は、「ピミカ」より古い夏音文字の字音であったのである。『魏志倭人伝』には「卑弥呼(ヒミコ)」はじめ「難升米」を「ナシメ」、「壱与」を「イヨ」、「載斯烏越」を「ソシアオ」と読める夏音文字の字音が残っている。「邪馬壱」を「ヤマイ」と読める女王国はじめ33の小国名にも夏音文字の字音が残っている。「卑狗」を「ヒコ」、「卑奴母離」を「ヒナモリ」と読める官職名にも幾つかの夏音文字の字音が残っている。
 だから、いままで証明してきたように、第7回遣唐使が中国王朝に告げたように、わが国には今から約4000年前の後期縄文時代初頭に習得した夏音文字が存在した。
 だいいち、【五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字】は「銀漢各部の形状】となって、銀漢輝く夜空に現在も存在する。だから、「五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字は現存しない」と断定する考古学の【『魏志倭人伝』の記事】を無視し排除する意見は空理空論、重大な真実を抹殺する傲慢(ごうまん)な意見ということになる。

 そして、中国王朝に「わが国には、壬申の乱の後に稍々(やや)夏音文字を復興することにした」と告げた第7回遣唐使が九州の港を出帆した702年から10年後の702年1月28日、『古事記』が43代元明(げんめい)天皇に献上された。
 この『古事記』上巻に現存する夏音文字によって、考古学が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説は空理空論・真っ赤なウソであったという事実が一気に証明される。
 というのも、【『古事記』の上巻の随所には、〔音〕という注がつく多数の夏音文字が残っている】からである。
 たとえば『古事記』上巻の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚説話は合計381字で構成されるが――〔音〕という注がつくのは「許々袁々呂々邇」の7字、「淤能碁呂」の4字、「美斗能麻具波比」の7字、「阿那邇夜志愛袁登古袁」の10字、「久美度邇」の4字の――5か所にして夏音文字は計32字である。
 ゆえに、上記したように、中国の正史『新唐書』日本伝に――第7回遣唐使が「壬申の乱の後、稍々、夏音文字を復興することにした」と中国王朝に言ったとおり――壬申の乱の後に編纂された『古事記』上巻の淤能碁呂島の聖婚説話には夏音文字が稍々(合計381字のうち、夏音文字は32)復興されている。
 だから、いままで詳細に解説し証明してきたように、わが国は中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に【夏音文字の学芸】を習得したときに、【倉頡が発明した漢字作成理論】をも習得していたことになる。
 したがって、夏音文字は『古事記』上巻の随所に多数の多数の【夏音文字の字音】が記され、現在も銀漢輝く夜空で【夏音文字の字源・字形・字義】は存在している。このように、現在も、夏音文字は楷書と同じく【字源・字形・字義・字音】がそろって実在する。だから、考古学が断定したわが国の習得説は空理空論、空想・錯覚であったことになる。
 以上、学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した定説は、学界が考古学に支配されて「わが国は夏代初頭に夏音文字を習得した」と記述していた『魏志倭人伝』と『古事記』上巻はじめ様々な文献の記事を誤読して無視・排除した空理空論であったことになる。

◆後漢時代の100年ころ、字源を解説する字書『説文解字』を著作したとされる文字学者の許慎(きょしん)は、『説文解字』の序で「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂()れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」と指摘している。
 許慎は「銀河各部の形状を字源・字形の原形・原義とする文字は経(学問)と芸(芸術)の根本であり、王道政治にとって真っ先に必要とする絶対に必要な政権基盤となる知識であり、前人たちの歴史を記述する書物の文字を後世の人々が銀漢各部の形状を観察して、過去の歴史の真相・真実が解明できる方法である」と指摘していた。
 新井白石から現在までの邪馬台国説者たちと異なって――徳川家康の『魏志倭人伝』の研究目的は『説文解字』の序の「けだし文字は経芸の本、王政の始め、古(いにしえ)の歴史の事実・真実を識る」という説明と合致した。つまり、家康は『魏志倭人伝』を【王政の始め、天下を治める帝王学を知る最良の学術書】とし、「楷書の字源・字形・字義を銀河各部の形状に変換して夏音文字の字源・字形・字義を知る学問」を一生研究したことになる。
 ゆえに、新井白石から現在までの邪馬台国説学者たちの「女王・卑弥呼が治めた邪馬台国の所在地を決める」という『魏志倭人伝』の研究目的とまったく異なっていた。

◆このブログをまとめると、下記のごとくなる。
【1】家康は「漢字は銀漢から作られた文字である事実」を知っていた。ゆえに、五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字の字源・字形・字義は銀漢各部の形状となって存在する事実を、家康は知っていた。
 新井白石から始まる邪馬台国説の学者たちは、「漢字は銀漢から作られた事実」をまったく知らない。ゆえに、『魏志倭人伝』研究にとって必要とする素養を有していない。
【2】『魏志倭人伝』には()「倭には令亀の法のごとき夏音文字があった」という記事と、()「魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いた楷書と卑弥呼が文書に用いた夏音文字は相違していたが、倭の伊都国の港では楷書と夏音文字を正しく変換していた」と説明する二つの記事がある。この二つの記事のとおりに、家康は「倭には夏音文字があった」と考えた。その証拠に、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に夏音文字の字音が残っている。だから、家康の考えは事実を知っていたことになり、その研究はおのずと【科学】が成立することになった。
 「漢字は銀漢から作られた事実」を知らない新井白石から現在までの邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』の()「令亀の法のごとき夏音文字があった」と()「伊都国の港で魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書と卑弥呼が用いた夏音文字が同義になるように正しく変換できた」という二つの記事を徹底的に無視・排除する。これが原因で、邪馬台国説は【誤読の産物】となり、いっこうに【科学】が成立しない矛盾・不合理だらけの意見となる。
【3】家康は『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない。この論法だと、【末盧国から邪馬壱国までの旅程記事の方位は時計回り90度転回していたこと】になり、『魏志倭人伝』が「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり。皆、倭種なり」と説明する小国は「隠岐群島」であったことになる。この「隠岐群島」による記事の合理によって、女王国は山陰・出雲であったと解明できる。したがって、『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も加える必要がなかった正確な書物であった。その証拠に、『魏志倭人伝』に【誤読】を1ヵ所も【誤読】を加えないと【科学】が成立する。
 いっぽう、新井白石から現在までの邪馬台国学者たちは「『魏志倭人伝』の全記事を軽々しく信用してはいけない」と定める。ゆえに、邪馬台国学者たちは『魏志倭人伝』の記事は「信用できない。誤っている」と指摘して、『魏志倭人伝』の記事よりも自分たちの考えのほうが正しいと決めつける主観的な意見・批判を多数加える。この論法が原因で――邪馬台国説には「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり。皆、倭種なり」という記事と合致する小国が存在しない。だから、邪馬台国説は【誤読の空論】であったことになる。というのも、『魏志倭人伝』の全記事を信用すれば【科学】が成立する仕組みとなっているにもかかわらず、「なぜ信用してはいけないのか、信用できないのはどの点なのか、どのような考え方をしたならば信用できるか」などと批判を加えた主観的意見はすべて【誤読】ということになるからである。
【4】『魏志倭人伝』は女王国名を「邪馬壹国」と記す。
 ところが新井白石から現在までの邪馬台国畿内説と九州説は、「女王国名は邪馬臺()国が正しい」と主張する。
 『後漢書』倭伝には「邪馬臺国」の後に「今、名を案ずるに邪馬惟の音之訛(なま)り也」という注がつく。この注における「邪馬臺」の音をあらわす「邪馬惟」のうちの[]の漢音は「イ()」、呉音は「ユイ(ユヰ)」で、「タイ」という字音は存在しない。ゆえに、夏音文字で「邪馬」を「ヤマ」、漢音で[]を「イ」と読むと、「邪馬惟」は「ヤマイ」と読める。ところが邪馬台国学者たちは「邪馬臺()」を「ヤマタイ」と読むゆえ、「邪馬惟(ヤマイ)」は「邪馬臺()」ではなかったことになる。他方、「邪馬壹()」は「ヤマイ」と読める。というのも、夏音文字の一字一音読みにもとづくと[()]の「イチ」の字音は先頭の「イ」となるからである。だから、『魏志倭人伝』に記された女王名国の「邪馬壹()」は「ヤマイ(邪馬惟)」と読むべきことになる。
 しかし、字形にもとづくと『後漢書』倭伝は「邪馬臺」と記しているゆえ、『魏志倭人伝』の「邪馬壹」という表記は誤りとなる。
 このように、『後漢書』倭伝にある「邪馬臺国」という女王国名と注の「邪馬惟」という音だと、「邪馬臺」と「邪馬壹」のどちらが正しいか証明することができない。
 しかし、『魏志倭人伝』も末部には「因()りて臺()に詣(いた)る」という、魏都「洛陽」を[()]と略する記事がある。
 前述したように、『魏志倭人伝』の初頭部には「対馬国と一大国の中間の海の名は瀚海・ゴビ砂漠であった」と説明する記事がある。また、「不弥国から南へ水行二十日で投馬国に至る」という記事がある。この【「瀚海」と「不弥国から投馬国までの旅程記事」】は【「魏都の洛陽」を[()]と略すると、夏代初頭に「洛陽より東方の山東半島」を[()]と略することになった経緯】を伝える。だから、『魏志倭人伝』の「因りて臺()に詣る」という記事によって、女王国名は「邪馬壹()国が正しい事実」が具体的に科学的に証明される。
 以上のごとく、現存する12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)の『魏志倭人伝』に記される「邪馬壹国」という表記は正しかったことになる。言いかえると『後漢書』倭伝の「邪馬臺国」は誤記であったことになる。
 この結果、約2000字で構成される『魏志倭人伝』には「邪馬臺()国」という記事は1ヵ所も存在しなかったことになる。ゆえに、邪馬台国説は『魏志倭人伝』の約2000字の全記事と1ヵ所も合致しない、真っ赤なウソを学説であると巧妙に見せかけた【誤読の産物】であったことになる。
【6】以上のごとく、現存する12世紀の南宋紹煕刊本の『魏志倭人伝』の全記事は正しい事実は矛盾点も不合理な点もなく【科学】が成立して証明される。
 邪馬台国説学者たちは【『魏志倭人伝』を研究する時に必ず守らなければならないルール】を「3世紀後半に著作された原書が12世紀の刊本で残った『魏志倭人伝』には、当然、多数の誤記が混じりまた信用できない多数の記事が存在すると考えるべきことになる。ゆえに、『魏志倭人伝』の全記事を絶対に軽々間しく信用してはならない」と定める。この【『魏志倭人伝』を研究する時に必ず守らなければならないルール】は【「科学」を優先して考えなければならない歴史学の鉄則】を無視した空理空論、言いかえると「西欧近代科学の学術を習得した自分たちの意見がほうが正しく、学問が未発達な3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』の説明に聞く耳を持つ必要はないと決めつけた傲慢から産まれた空理空論」であったことになる。

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2022年6月28日 (火)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆邪馬台国説はすべてウソなんだ!
 女王国名は「邪馬壱国」が真実なんだ!
 「邪馬壱国」は出雲地方であったのだ!

 だから 邪馬台国説は すべて真っ赤なウソだ!
 悲しいじゃないか ダマされるなんて!
 愛しい日本国民よ 悲しいじゃないか ダマされるなんて!
 バカにされるな コケにされるな 日本国民ョ!
 もう十分に ダマされた
 ――邪馬台国説が真っ赤なウソと断定できる遺跡を
 前人たちが作って 現在まで残っている!
 だから 学者たちの真っ赤なウソにあやつられるな!
 バカにされるな コケにされるな 
 デクのボウになるな 愛しき日本国民ョ!
 邪馬台国説は日本人をぶっ壊す最も卑劣なデタラメだ
 邪馬台国説は日本国をぶっ壊す最悪の疫病神なんだ

◆学者たちが「約1700年前、倭女王の卑弥呼が住んでいた地所は〔邪馬台国〕であった」と伝える書物は、通称『魏志倭人伝』とよばれている。というのも、3世紀後半に生存した中国の晋(しん)につかえていた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』の「魏書東夷伝末尾にある倭人伝」は通称『魏志倭人伝』とよばれることになったからである。
 3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』は残っていないが――現存する12世紀の刊本(かんぽん)の『魏志倭人伝』には「倭女王(卑弥呼)が居住した都であった地所は邪馬壱国(やまいこく)であった」と記す。だから、学者たちはじめ学界も認めてマスメディアがヤタラに力説する「邪馬台国」は【誤読の、空想の産物】、真っ赤なウソだったのである。
 学者たちは「『魏志倭人伝』の全記事は正しいと信用してはならない」という固い信念のもとに邪馬台国説を主張する。
 しかし、『魏志倭人伝』の全記事は正しく、真実であったのである。
 だから、当然、卑弥呼は「邪馬壱国」に住んでいたことになる。
 というのも、邪馬台国説の論法に疑問を抱き、「『魏志倭人伝』の全記事は正しいのではないか。だから、卑弥呼が住んだ都の名は邪馬壱国であった」と考えると、『魏志倭人伝』の全記事は正しく真実であったと【科学】が証明されることになるからである。
 江戸時代中期に生存した新井白石(16571725)以来300年間も学界の伝統となった邪馬台国説は「九州に邪馬台国があった」、「邪馬台国は畿内にあった」と論争をつづけるが、両説は矛盾点・不合理・不正・非理などが発生していっこうに【科学】が成立しないために決着することができない。それというのも「邪馬壱国」と記してあるものを「邪馬台国であった」と誤読して、さらに「『魏志倭人伝』に【多数の誤読】を加えて立論する方法が正しい」と言い張る邪馬台国説は最初から空想の産物、真っ赤なウソだったからである。

◆「わが国が中国から漢字を最初に習得(しゅうとく)したのは、5世紀あるいは6世紀である」という意見は、わが国の学界が「絶対的に正しい」とされる定説である。
 しかし、3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』には「倭国には、中国で用いられる楷書(かいしょ)で構成される語と同義になるように変換することができる上古漢字があった」と証言する記事が2か所ある。
 「倭国には上古漢字があった」と指摘する最初に登場する記事は「倭国では、挙事(きょじ/祭りはじめ何か事をおこすとき)、行来(こうらい/遠くの地へ旅して帰還するとき)、云為(うんい/神に雨ごいや子どもの誕生などの願いごとを云って祈るとき)、骨を灼()いて卜するが、まず吉凶を占う目的は〔挙事、行来、云為〕のいずれなのかを告げる。その卜辞(ぼくじ/占いに用いる言葉と文字)は令亀法(れいきのほう)、つまり中国の殷代後半に出現した亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のごとくの象形文字であった」と説明している。
 もう一つの記事は「倭国の王が使節を派遣して魏都や帯方郡(朝鮮半島のソウル市周辺にあった魏の出張政庁があった郡の名)や諸韓国に到着したときの倭国の国書、あるいは帯方郡に倭国に使節を派遣したときの文書において、倭国が国書に用いる上古漢字と魏都・帯方郡・諸韓国が文書に用いる楷書は差錯(ささく/相違)していたので、倭国の伊都国(いとこく)の港では捜露(そうろ/一字一字ずつ点検・確認して上古漢字と楷書が同義になるように変換)して、女王の卑弥呼に届いたときに差錯(誤訳)が無いように務めていた」と説明している。だから、わが国の学界が「絶対的に正しい」と信じる「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という、日本人の常識となる定説の実体は【『魏志倭人伝』を誤読した空理空論】であったことになる。

 「銀河」の別名は「銀漢」または「天漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して、わが国でも中国でも「漢字」と称することになったのである。
 『魏志倭人伝』が「令亀法」と記す「殷代(いんだい)の甲骨文字のごとき象形文字」であった「上古漢字」は「銀河文字」であったのである。
 『魏志倭人伝』に「令亀法」と記された「倭国の上古漢字の字源・字形・字義は銀河各部の形状」であった。この上古漢字は占いが終わって用済みになるとただちに消されたゆえ、文字が書かれた史料が出土しないことになった。というのも、上古漢字・銀河文字は王政(王道政治)の権力基盤であったからである。ゆえに、上古の銀河文字は反体制側の人々が習得して反乱・革命に利用すると王朝を崩壊させることができる威力を有していた。倭国で用いられていた銀河文字は、現在における世界や国家を破壊する「核」のごとき絶大な威力があった。ゆえに、倭の卜辞に用いられた上古の銀河文字は、用済みになったならば消さない人物はじめ消し忘れた人物もさらに消さない人物の一族や消し忘れた人物の一族も全員、即刻、死刑となると厳重に定められていたのである。
 卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、上古漢字・銀河文字は後漢時代後半の1世紀ごろに出現した「楷書(かいしょ)を音符(字音記号)」に用いていた。
 楷書も「漢字」とよばれるゆえ、楷書の字源・字形の原形・原義は卑弥呼が用いていた上古漢字と同じく「銀河各部の形状」であった。だから、伊都国の役人たちは港から見える・水平線から昇る銀河の帯を観察するのを日課にして、倭の銀河文字と魏都・帯方郡・諸韓国で用いる楷書における相違点を研究して、上古の銀河文字と楷書の変換における差錯(誤訳)による失敗で国交に支障が生じないように努めていたのである。
 〔注 たとえば倭の銀河文字の[]の字義は「地図の形となる海岸線」を意味した。中国の楷書の[]の字義は「身分が賤(いや)しい」であった。「賤しい」の[][]に「淺()い」の右側の[]が加わる字であるゆえ「貝が採れる海の淺い地域、つまり海岸線」となる。だから、楷書の[]の字義は銀河文字の字源・字義を失った転義であったことになる〕。

◆今から約5000年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた倉頡(そうきつ)は銀河文字を発明した。だから、漢字は倉頡によって発明された。いまだ書いた文字史料が出土しない倉頡文字は銀河各部が字源・字形・字義となる銀河文字だったのである。
 倉頡は銀河文字が反体制側の人々が習得したならば容易に黄帝王朝は崩壊するということに気づいて、「文字は銀河から作られたと暴露する人物はじめその一族全員を死刑にする」、「書いた文字が用済みになったならば、ただちに消さない人物とその一族、また消し忘れた人物とその一族全員を死刑にする」という厳重な掟を定めた。だから、中国において倉頡文字を書いた史料は出土しないことになった。
 このような倉頡が発明した銀河文字がわが国に伝来して習得されていたのである。
 したがって、『魏志倭人伝』の大半の記事は「現在まったく不明となった、倉頡が発明した銀河文字の秘密」を科学的に解明できる重大な歴史史料であったことになる。
 ところが、現在、「倉頡は漢字を発明した」と伝える伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメであると定まっている。
 でも、もしも新井白石以後の学者たちが『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えない考え方をしていたならば、「倉頡伝説は真実を伝えていた」と逆転していたことになる。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統(じとう)(平凡社)は9ページの終わりから3行目から10ページの始めから3行目までで〔わが国の漢字音〕と題して下記のごとく指摘している。
 「古紐(こちゅう)や古韻(こいん)の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によって得られた諸法則が、原理的に適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 上記の「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という文は、「わが国に国語として現存する漢字音は中国に現存する最古の漢字音よりも古い」と指摘していることになる。
 中国に現存する最古の漢字音は「上古音」と名づけられ、「上古音」は「紀元前1046年の周代初頭から始まる。
 ところが、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説の漢字音は、中国の現存する最古の上古音の漢字音よりも断然(だんぜん)新しい。このように、〔現在の学界の、漢字習得の定説〕は白川静著『字統』における〔わが国の漢字音〕における指摘に反して不合理となって【科学】が成立しない。
 いっぽう、『魏志倭人伝』の「倭国には楷書と差錯する令亀法(れいきのほう/甲骨文字)のごときの上古漢字・銀河文字があった」と説明する2ヵ所の記事は、白川静著『字統』の〔わが国の漢字音〕の指摘に合致して真実を伝えていたことになる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく上古漢字の漢字音が随所に記載されている。だから、【『古事記』上巻に記載される〔音〕という注がつく文字】は、白川静著『字統』が「現存する中国の最古の上古音よりも古い」と指摘する、【わが国の国語に残っている現存する最古の漢字音】であったことになる。
 漢字を発明した倉頡は「書いた文字は用済みになったならば、ただちに消さない者、消し忘れた者、またその者の一族全員は神罰が下されて死刑にする」と厳(きび)しい掟を定めたが、「〔音(字音)〕だけは消滅しなくてもよい」と禁止しなかった。ゆえに、『古事記』上巻に多数記載された文字は楷書を〔音〕をあらわす記号に用いているが、この『古事記』上巻に記載された上古漢字・銀河文字の【字源・字形・字義】は【銀河各部の形状】であったことになる。
 だから、『魏志倭人伝』が「倭国の卑弥呼が用いていた」と伝えている銀河文字は、中国では五帝時代・夏后(かこう)時代・殷代前半に用いられていたことになる。

 現在、学界では今から約3300年前から出現する甲骨文字を「漢字の最も古い祖型」と定める。しかし、倉頡伝説が伝えているように、今から約5000年前に倉頡が漢字を発明していたゆえ、「甲骨文字は漢字の最も古い祖型」と断定する定説は根本的に間違っていたことになる。
 「漢字の最も古い祖型」は「銀河各部の形状を字源・字形・字義」とする上古漢字・銀河文字であり、『魏志倭人伝』は2か所の記事で「漢字の最も古い祖型の銀河文字」について説明している。
 殷代後半の甲骨文字は総字数が4000字を越えた。このため、「書いた文字は用済みになっても消さなくてよい。しかし、文字は銀河から作られたと容易にわかるように暴露した人物とその一族はただちに死刑にする」と厳重に定めた。だから、この「文字は銀河から作られたと絶対に暴露してはならない」という掟のために、現在の学者たちは「漢字は銀河(銀漢)から作られた事実」に気づかない。

◆上記したように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく銀河文字は、中国において「上古音」と名づけられた最古の漢字音となる周代初頭より以前の殷代、夏代(かだい/夏后時代)、五帝時代のいずれかの時代にわが国に伝来して習得されたことになる。
 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――『古事記』成立(712)より10年前の702年、中国に渡った第7回遣唐使が中国王朝に「後稍夏音を習う」と伝えたという記事がある。この「後稍夏音を習う」という遣唐使の言は「後(のち)に稍々(やや)、夏音(かおん)を習う」と解釈すべきことになる。
 つまり、「後稍夏音を習う」という言は「672年の壬申の乱から9年後の681317日、天武天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人に命じて『帝紀および上古の諸事を記定』させました。このとき、天武天皇は『夏音』を稍々習う(復興する)ことにせよと命じました」と意味するものであったことになる。
 だから、第7回遣唐使が告げた「夏音」という語は「紀元前2070年~紀元前2050年頃の中国の夏代初頭に伝来して、わが国が習得した夏音文字」を意味したことになる。というのも、『魏志倭人伝』に記される「大夫(だいふ)」という語の語源は「夏代初頭に、中国から名門・益(えき)氏の王子と若者たち一行が荒波逆巻く玄界灘を横断して日本列島に移住して、倉頡が発明した漢字作成原理と夏音文字の学問を広めた」とあらわすものであったからである。
 ゆえに、わが国に現存する夏音文字の字音は、現存する今から約3050前の周代初頭の中国の上古音よりも約1000年も古いことになる。
 下に〔漢字生長史〕と名づけた表を配した。この〔漢字生長史〕が明確に示すように、わが国の学界が考古学の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるは6世紀である」という主張に唯々諾々(いいだくだく)と従う定説は、()『魏志倭人伝』の「倭国には令亀(れいき)の法のごとき上古漢字があった」と伝える二つの記事と、()太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)でテーマにして詳細に記述した夏音文字の説明と、()音韻学の研究成果の三つの確かな史料を無視して排除する、【科学】に反する空理空論であったのである。
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◆上記した681317日において「後稍夏音を習う」つまり「夏音文字を稍々復興する」ことにした天武天皇の「帝紀および上古の諸事の記定の命令」は、後年(720年正月28)に元明天皇に献上したが拒絶されて正史になれなかった書物『古事記』という書名になった。つまり、天武天皇の命令「上古の諸事の記定」における[][][]の3字を抜粋すると『古事記』という書名になる。その証拠に、『古事記』上巻には〔音〕という注がついて夏音文字が記載されている。たとえば、『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命説話における〔淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚〕の箇所は、総字数381字で構成されそのうち〔音〕という注がつく夏音文字は計32字である。ゆえに、総字数381字中の夏音文字の32字は「稍(やや)」ということになる。『古事記』上巻における各説話は、〔音〕という注がつく夏音文字を稍々(やや)記載して作られている。ゆえに、遣唐使が「後稍夏音を習う」と表現した「天武天皇の世で実現しなかった歴史書編纂事業における夏音文字の復興命令」は『古事記』上巻で実現されたことになる。
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字は――白川静著『字統』が「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものである」という、中国に現存する最古の上古音よりも古い、現存する最古の漢字音である。

 「『古事記』上巻の序」は「古事記上巻 并(あわ)せて序」と表記されている。
 「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字の書き下し文にフリガナをつけると、下記のごとくなる。
 「臣安万侶言(しんやすまろまを)す。夫()れ混元(こんげん)(すで)に凝()りて、気象(きしょう)(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」
 上記のフリガナつきの文章だと見た目の印象が煩雑(はんざつ)になって、むしろ文意が混沌として判然としないと思われるので、下記のごとくフリガナ無しの文章をも示すことにした
 「臣安万侶言す。夫れ混元既に凝りて、気象未だ効れず。名も無く為も無し。誰かその形を知らむ。然れども乾坤初めて分かれて、参神造化の首を作す。」
 上記の「古事記上巻 并せて序」の冒頭文は「臣下の太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇陛下に申し上げます。漢字は銀河から作られました。中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、中国から夏音文字が伝来して、わが国は五帝時代に用いられた銀河漢字・書契(しょけい)と夏代初頭の夏音文字の学術を習得しました」と説明するものであった。
 だから、【「古事記上巻 并せて序」の冒頭文を構成する34の全漢字の字源・字形・字義】は「【漢字が作られた銀河各部の形状】を観察して芸術的に思考する(つまり、右脳思考する)と正しく訳することができる」と『古事記』上巻における歴史解明方法を説明するものであったことになる。
 要するに、上記した「古事記上巻 并せて序」の冒頭34字をもって「参神造化の首」つまり「縄文時代の首(初頭)、中国からわが日本列島に移住した名門益氏の王子と若者たちによって()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が発明した漢字作成理論】と、()【夏音文字の学芸】と、()【五帝時代の最後の舜帝(しゅんてい)時代初頭から末までの約200250年間、代々、益氏がその官職を受け継いで完成させた正確な中国の海岸線地図(つまり、[]の字源の「海岸線地図」)と正確な地図作製方法】が伝来した。前期縄文の首(初頭)・中期縄文の首(初頭)・後期縄文の首(初頭)における造化(銀河各部の形状をモデルにして土器・土偶を作った造形芸術)の前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭までの約2000年に及ぶ芸術の参神(つまり、前期縄文・中期縄文・後期縄文時代初頭までの参時代の芸術の神)の伝統によって、中国の学問とわが国の芸術はともに同じ銀河範囲の各部の形状を観察して作成し成立するものであったため、益氏がもたらした学問と芸術の教えはわが日本列島の土器・土偶を作った芸術家たちによって習得された」と、太安万侶が説明していたことになる。

◆『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)()り以来、その使()中国に詣(いた)るに、皆大夫(だいふ)と称す。夏后少康(しょうこう)の子云々(うんうん)。」という記事がある。
 この記事の末部の「夏后少康の子」というのは「夏王朝の4代目の皇帝・少康の王子」と意味する。ゆえに、倭の使節が皆(みな)、中国に到着すると「大夫」と名乗ったのは「夏王朝の始祖の帝禹()の後をついで帝となった益の孫の王子や若者たちのごとく、荒海逆巻(あらなみさかま)く玄界灘を渡って中国に到着した」と誇示する、「吾は神に祝福された男だ 英雄だ」とあらわす語であったのである。
 万葉仮名の「大夫」は「ますらを」と読み、今日、「ますらを」は「益荒男」と表記する。ゆえに、「益荒男」は「益氏の王子や若者たちのごとく、荒波逆巻く玄界灘を渡ってきた男(おのこ)だ」という意味を略して成立した語であったのである。
 益氏は五帝時代の四番目の帝尭(ぎょう)の時代に初めて登場し、五番目の帝舜(しゅん)の時代に「虞()」という「正確な中国海岸線地図を作製する重職」に任命されて、代々約200年~約250年のあいだ務めた。そして、益の首長は夏王朝の始祖の帝禹の遺言で帝位についた。
 司馬遷(しばせん)著『史記』の〔陳杞世家(ちんきせいか)〕は「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである」と記す。
 「名門益氏を受け継ぐ益の孫の王子と若者たちは玄界灘を渡って日本列島に定住した」ため、益帝の子孫は中国の歴史から忽然(こつぜん)と消えたのである。
 『日本書紀』巻第三の神武天皇紀の初頭には「天祖・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)」が登場する。この「天祖・彦火瓊瓊杵尊」は「益帝の孫の王子」であった。ゆえに、天祖の名に用いられる[]の右下には[]の字が配せられる。

◆前述したように、「銀河」の別名は「銀漢」である。「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」とよばれることになった。
 漢字の発明を伝える伝説は「倉頡(そうきつ)伝説」とよばれる。漢字作成理論は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡によって発明された。
 倉頡伝説は「倉頡は四つ目の怪人であった」と伝える。これゆえ、学者たちは「人間には目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメである」と倉頡伝説を全面的に否定する。学者たちは――漢字は中国の民族の結晶であり、長い歴史のなかで発展してしだいに体系を整えてきたものであると考えるべきであると主張する。
 しかし、『魏志倭人伝』は――漢字は四つ目の怪人の倉頡が発明した漢字作成理論を出発点として、長い歴史のなかでまるで樹木の生長のごとくしだいに言葉が生まれて倉頡の漢字作成理論の基(もと)に新しい文字が生長して、文字数をふやしてきた。また、中国の夏代初頭に名門益氏の王子・彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)が日本列島に移住して、倉頡が発明した漢字作成理論と夏音文字の学芸を教えひろめた――と伝えている。
 280年~289年に著作された『魏志倭人伝』に記載される【倭国の対馬国(つしまこく)から狗奴国(くなこく)までの30の小国名】によって、上記した【漢字は四つ目の怪人の倉頡が発明した漢字作成理論を出発点として、長い歴史のなかでまるで樹木の生長のごとくしだいに言葉が生まれて倉頡の漢字作成理論の基(もと)に新しい文字が生長して、文字数をふやしてきた歴史】が【科学】が成立して証明される。
 だから、『魏志倭人伝』に記載される【対馬国から狗奴国までの30の小国名は倉頡伝説が真実を伝えていると証明することができる【科学】が成立する確かな証拠であるゆえ――学者たちの「倉頡伝説は荒唐無稽のウソである」という主張は荒唐無稽の空想であったことが決定的となる。
 〔注 なお、邪馬壱国の東の海上にある名称不明の小国と、侏儒国(しゅじゅこく)・裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)という4か国は、わが国に益氏の王子と若者たちが夏代初頭に移住して漢字(銀河文字)が伝来した状況を説明している歴史史料となる。〕

 要するに、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人倉頡」は「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」の名称であった。「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」は「出産児の顔の形」に相似する。その「出産児の顔となる銀河部には両目、出産児の頭となる銀河部の後頭部に「目の形」にソックリの銀河部位があり、出産児の顔のアゴ()には「細い切れ長の目」の銀河部位がある。ゆえに、「漢字作成理論の中枢部となる銀河部」には「目の形に相似する箇所が四つある」ゆえ、「漢字作成理論」は「四つ目」と表現され、「漢字作成理論を発明した倉頡」は「四つ目の怪人」とよばれることになったのである。
 倭女王の卑弥呼は「四つ目の銀河における横顔において、目の形がある後頭部とアゴに隣接する西側の銀河部位」を「邪馬(やま)」と名づけた。この「邪馬」は「出産児が産道を通過する頭蓋骨」をあらわし、[()]の字源銀河は「母体の子宮に相当する銀河」であったゆえ、卑弥呼は倭国の首都が所在する地所を「邪馬壱国」と名づけたのである。
 したがって、女王国名となった「邪馬壱」は「四つ目の怪人倉頡」と名づけられた秘密の銀河部と【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究を文字作成目的とした倉頡が発明した漢字作成理論】をあらわしていた。

◆「四つ目の怪人倉頡の銀河部」は「漢字」の[]の字源部の中枢部である。
 「全漢字が作られた銀河の範囲」は、天文学では通称「夏の銀河」とよばれる。
 「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。「夏の銀河」は「夏の星座がすべて漬()かる銀河」の通称である。
 「夏の銀河」は「はくちょう座の尾の部分(東の端)からさそり座の頭部(西の端)までの、壮麗で明瞭で巨大な銀河」である。
 「春の銀河」、「秋の銀河」、「冬の銀河」とよばれる銀河もあるが、「夏の銀河」は「春の銀河・秋の銀河・冬の銀河よりも壮麗で、もっとも形がはっきりしていて、もっとも巨大である」。
 ゆえに、「テレビの画面に映し出される銀河」の大半は「夏の銀河」であり、「夏の銀河」は「銀河」・「銀漢」の代名詞である。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
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 漢字作成理論を発明した倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側が文字を習得して反乱に利用したならば容易に王朝は滅びるにちがいないと心配した。また、現在のロシアのプーチンのごとき傲慢(ごうまん)・乱暴・冷酷・強欲・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して反乱をおこして帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと深刻に心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑に処せられると定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
【1】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、容易に秘密が理解できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする
【2】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする
【3】書いた文字が用済みになったならば、ただちに書いた文字を消さない者また消し忘れた者はもちろんその者の一族全員をも死刑にする

 上記の【3】の掟のために、五帝時代の「書契」とよばれた漢字、夏代の夏音文字、殷代前半の漢字は〔音(字音)〕が存在したが、文字を書いた史料は出土しないことになった。殷代後半の甲骨文字は4000字を越えて多数となったため、【3】の掟はまもらなくてもよいことにしたので、文字を書いた史料が多数出土することになったのである。
 そして、上記の【2】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「字源が解明できる・夏の銀河各部の名称」を定めていない。それゆえ、『魏志倭人伝』に記載された34の小国名に秘められた【倉頡が発明した漢字作成理論と、夏音文の学芸の秘密】を解明するためには、「夏の銀河の各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、下記のごとく「夏の銀河の名称」を定めた。
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◆以上のごとく、【A】わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」にて、『魏志倭人伝』は「女王卑弥呼が倭国の都と定めた地所の名は邪馬台国と書いてある」と主張して、「邪馬台国は九州であった」または「邪馬台国は畿内であった」と主張する学者たちの意見は【100パーセント誤読の産物】であったのである。
 『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記す。だから、女王国名は「邪馬壱国」であったと考えるべきことになる。
 というのも、「女王国名は邪馬壱国であった」と考えて、さらに「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と定めて1ヵ所も【誤読】を加えない論法にすると、『魏志倭人伝』の全記事は矛盾点や不合理な点が一点もなく【科学】が成立して「邪馬壱国は山陰の出雲地方であった」ことになる。だから、「女王国名は邪馬壱国」であったと考えるべきことになる。
 このように卑弥呼は邪馬壱国・出雲地方に居住してことになり、卑弥呼は九州にも大和・畿内にも邪馬台国にも住んでいなかったことになるゆえ、邪馬台国説は「雲をつかむような真っ赤なウソ」であったことになる。また、国名の「邪馬壱」は前述したように【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす名詞】であると証明される。このように、「卑弥呼が住んだ地所は邪馬壱国であった」と考えると、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明されて【科学】が成立して論理が完結(かんけつ)する。だから、邪馬台国九州説と邪馬台国説の実体はまぎれもなく100パーセントの空理空論・真っ赤なウソであったことになる。

 【B】わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」では「邪馬台国説は完全に空理空論である」と【科学】を用いて立証した。
 学者たちは女王国の所在地について【「天の北極」がある方角を〔北〕と定める現在の日本地図】を用いて考える。ゆえに、この論法だと「天の北極の高度を緯度に換算する方法」で、倭の使節と船乗りたちは魏と国交を結ぶために玄界灘を往来したことになる。しかし、この「天の北極の高度を緯度に換算する方法」だと、前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10」で科学的視点にもとづいて証明したように――倭の使節と船乗りは海上の位置と方角を精確に測定できなかったゆえ、倭の使節と船乗りたちは玄界灘はじめその先の大海を渡れず朝鮮半島に到着することが出来ずに全員死んでいたことになる。
 したがって、倭の使節は玄界灘を渡ることもまた往来することができなかったことが事実となると――『魏志倭人伝』には「倭人」という2字も「卑弥呼」という3字も「邪馬台国」という4字も、ましてや『魏志倭人伝』を構成する約2000字もすべて忽然(こつぜん)と消滅して、『魏志倭人伝』には1字も書かれていなかった真っ白な白紙であったことになる。
 だから、邪馬台国説の実体は「【科学】に反する、完全なる空理空論、空想、デタラメであった」ことが簡単明瞭に証明される。
 科学的視点に立って考えると――倭の使節は「原始のときから人類が精確に1度の60分の1の1分の精度で緯度が測量できた【天頂にある緯度線と子午線をキャッチする方法】」をもって玄界灘を渡って魏と国交を結んで、無事に帰還していたことが明白となる。
 下に、倭の使節が往来した海の名「玄界灘」のうちの先頭字[]の字源解説図を配した。
 下図の左側の上部は、[(とう)]の字形解説図である。[]の字形は【天頂にある緯度線と子午線の図案】である。[]の下の[(よう)]の字源は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】をあらわしている。言いかえると、[]の字形は「骨盤入口から膣口(ちつこう)までの産道を通過する胎児の図案」である。
 結局、[][]を加える[]の字は「大海を往来するとき、胎児()のごとく無欲になって[]の字源【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチすれば、命(いのち)を手に入れることができるという、大海を往来するときの心得」をあらわした。
 だから、魏と国交を結ぶために倭の使節が往来した陸地から遠く離れた波の荒い大海が「玄界灘」と名づけられた秘密は――[]の字源「産道を通過する胎児のごとく無欲」になって、[]の字源「天頂にある緯度線と子午線をキャッチ」すれば死なずに往来できたゆえ――倭の使節が往来した九州の沖の大海は「玄界灘」と名づけられたのである。
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 【C】このブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・11」で解説したように、『魏志倭人伝』にある「倭国には上古漢字があったと伝える二つの記事」は真実であった。
 『魏志倭人伝』の2ヵ所の記事が「倭には上古漢字が存在した」と伝える、この上古漢字は「夏音文字」であった。夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。わが国が習得した夏音文字は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を保存していた。
 上記したように、今から約4000年前、中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、わが国には中国から夏音文字が伝来して習得されたのである。
 だから、わが国の考古学の見解に従って「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は【科学】に反する空想であったのである。
 漢字は【字源・字形・字義・字音】の4つの要素で構成される。前述したとおり、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】のために、【夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状】であった。そして、倉頡は「口から発する言(ことば)となる字音はあらわすことができる」と定めたゆえ、『魏志倭人伝』には卑弥呼(ひみこ)はじめとする人名・小国名・官職名に用いられて残った。しかし、『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名は()夏音文字の字音(をあらわす楷書)()後漢時代後半から出現した楷書の字音が混じりあう状況となっているゆえ、人名・小国名・官職名をすべて楷書の字音で読めば「『魏志倭人伝』には夏音文字が記載されて残っていない」と主張することができる。しかし、『古事記』の上巻には〔音〕という注がつき、楷書を字音の音符に用いて多数夏音文字が記載されている。だから、『古事記』上巻にもとづいて『魏志倭人伝』の人名・小国名・官職名にも夏音文字の字音は用いられて幾つか残っていると主張することができる。

 以上のごとく、【邪馬台国説が100パーセント空理空論・虚妄(きょもう/デタラメ)であること】は、上記した【A】【B】【C】の3点によっていとも簡単に証明される。
 【A】のごとく「女王国名は『魏志倭人伝』のとおり邪馬壱国であった」と考えると、「邪馬壱」という3字は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器、の研究を作成目的として倉頡が発明した漢字作成理論をあらわす名詞」であったことが解明できる。また、【B】科学的視点に立って【魏と国交を結んだ倭の使節はどのように緯度を精確に測定して玄界灘を往来したのか】と考えると、【学者たち全員が主張する・現在の日本列島地図にもとづくの考え方では、倭の使節は玄界灘を往来できなかったこと】になる。また、【C】『魏志倭人伝』にある「2世紀末から3世紀半ばまでの卑弥呼時代に、わが国にはすでに漢字が伝来していた」と説明する二つの記事によって、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という絶対的定説は空理空論であったことになる。
 以上、邪馬台国説論者たちの「『魏志倭人伝』の全記事は正しくない」という主張に反して、『魏志倭人伝』は【誤読】を1ヵ所も必要としない全記事が正しい歴史史料であったことになる。
 この結果、『魏志倭人伝』に記述された真実は日本国の根本的な成り立ちや現在生きているわれわれ日本人の思想や行動と密接な関係をもつということが明らかになる。
 だから、学界やマスメディアの「邪馬台国説はもっとも正しい意見である」とする無責任な意見の言うとおりになってデタラメ・真っ赤なウソの邪馬台国説を破棄せずに放置していることは日本国が壊され、日本人の生活における最も大事なものを失って日本人が壊される――ということに、日本人は気づかねばならないことになる。

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2022年6月24日 (金)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・10

#女王国・邪馬壱国は出雲地方であった

◆邪馬台国説は完全に空想である
 すべての真実を何もかもぶっこわすウソだ
 邪馬台国説にはダマされるな
 邪馬台国説は徹底的に無視せよ
 日本国民はすっかりダマされている
 邪馬台国説にバカにされるな
 日本国民をコケにされている
 邪馬台国説は学者たちのタワゴトなのだ
 日本が日本である真実をぶっこわすフェイクだ
 日本人が日本人である真実をぶっこわすウソだ
 その証拠に 「邪馬台国説は空想だ」と完全証明できる遺跡が現存する

◆このブログは前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」に続いて、邪馬台国説が【空想の産物】である事実を証明できる、学者たちが徹底的に無視して偽(いつわ)る問題点を暴くことにした。
 今回は、前回に増して【邪馬台国説が完全な空想であったという事実】が簡単明瞭となる。
 邪馬台国説は【誤読の、空想】であることは誰にも否定できない明白なる事実である。
 というのも、【邪馬台国説が簡単明瞭に、完全なる空想であると断定できる遺跡】が現存するからである!

 倭女王の卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、西暦180年頃から250年頃のわが国の様子を説明する確かな歴史史料であった。
 『魏志倭人伝』は、晋(しん)の歴史編纂官であった陳寿(ちんじゅ)280年~289年に著作した『三国志』のうちの「魏書東夷伝(ぎしょとういでん)」の末部にある〔倭人伝〕の通称である。通称『魏志倭人伝』は約2000字で構成される。
 『魏志倭人伝』は陳寿が著作した原本(3世紀後半)は現在、残っていない。現存する『魏志倭人伝』は12世紀の南宋紹煕刊本(なんそうしょうきかんぽん)である。
 わが国の学界と学者たちは「倭女王・卑弥呼が居住した倭国の首都が所在した地所は邪馬台国(やまたいこく)であった」と断定する。しかし、南宋紹煕刊本『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した地所を「邪馬壱国(やまいこく)」であったと記す。
 だから、前回のグログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」で詳細に解説して証明したように、わが国の学界はじめ学者たちが「邪馬壱国」と記しているにもかかわらず「卑弥呼が居住した地は邪馬台国であった」とウソをつく邪馬台国説は、日本国民をダマしてコケにし、愚弄(ぐろう)する完全なる【誤読の、空想の産物】であったことになる。
 ためしに邪馬台国説の考え方を全部否定して、真っ先に「邪馬壱国」は「邪馬壱国」と読むことから始めて、『魏志倭人伝』に1ヵ所も【誤読】を加えずに立論してみると――さまざまな疑問が生ずるが、この疑問のすべてはいくつかの学問分野の成果によって【科学】が成立して解決することができる。だから、『魏志倭人伝』の全記事は正しいことになり、「卑弥呼は邪馬壱国に住んでいた」ことになる。また、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと証明できる証拠・理由はいくつかの遺跡・遺物のほか、さまざまな日本文化や風俗や慣習や地名などで多数残っている。前人たちは『魏志倭人伝』が歴史史料としての重大性に気づいて、「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と後世に警告(けいこく)したのである。
 特に注目すべきは、前回のブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・9」で詳細に解説して証明したように――1725年に死去した新井白石が立論した【空想の産物】の邪馬台国大和説と邪馬台国九州説(筑後山門郡説)を知って「日本国が滅びる! わが国の学問の始まりは消滅する! わが国の文化が根底から崩壊する! わが国におけるもっとも大事な上古史が失われる! わが国において上古に存在した音文字(上古漢字)が消滅する!」と激しいショックを受けた皇室は、白石の死から13年後の1738年の第115代桜町(さくらまち)天皇の即位で本格的に大嘗祭(だいじょうさい)を復興することにした。
 だから、2019(令和元年)1114日の午後6時から開始された、全国のテレビ画面に映し出されて日本国民が目撃した今上陛下の大嘗祭における様子は「邪馬台国説は空想なり」と日本国民に警告する学問儀式であったのである。

◆『魏志倭人伝』は「邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり」、つまり「倭女王・卑弥呼は邪馬壱国に居住した」と記述している。したがって、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬台国に居住していなかった」と証言している。だから、「白石以来300年間も受け継がれている邪馬台国説は【科学】がまったく成立しない空想・デタラメとなる」、このいたって簡単な絶対的な仕組み・原理を、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説をとなえる学者たちはじめわが国の学界やマスメディアはまったく理解できない。
 その証拠に、学界とマスメディアは「『魏志倭人伝』の記事を全面的に信用してはならない。信用できる記事はどのように考え方をしたならば信用できるのかと考えなければならない」と主張する。このため、【誤読】が【誤読】を生み、【空想】はさらに深く【空想】へとおちいり、【科学】がいっこうに成立せず論争は果てしなく続いて決着しない。
 「邪馬壱国」を「邪馬壱国」と読んで、『魏志倭人伝』には1ヵ所も【誤読】を加えないという立論方法を確立すれば――『魏志倭人伝』の全記事は【科学】が成立する真実となる。だから、1ヵ所も【誤読】が加えない邪馬壱国説のみが唯一真実の意見となる。この邪馬壱国説に反して、仰山(ぎょうさん)な【誤読】を加えてもいっこうに【科学】が成立しない邪馬台国説はまぎれもなく【空想】であったのである。
 邪馬台国説は【仰山な誤読を加えた空想】であったゆえ、新井白石以来300年たっても論争を決着することができないのである。

◆このブログでは、邪馬台国説は【空想】であった事実が前回のブログよりさらに簡単明瞭に決定的にわかる秘密について解説する。
 このブログでは――邪馬台国説の考え方だと、約2000字で構成される『魏志倭人伝』はすべて粉砕消滅して1字も書かれていなかったことになる。2000字の『魏志倭人伝』が一気に1字も書かれていない事態となる邪馬台国説は明らかにウソ・フェイク・空想・デタラメということになる問題点――をテーマとする。

 邪馬台国説論者たち全員と学界は現在の日本列島地図を立論基盤にして「九州は本州の西端に所在し、東海地方と北陸地方は九州の東方に在る」と考える。
 しかし、『魏志倭人伝』は「九州は本州における〔北〕に所在し、東海地方と北陸地方は九州の〔南〕に在る。つまり、卑弥呼王朝は本州地理について時計回りに90度方位は転回して〔東〕は〔南〕となると定める転回本州列島地理を制定していた」と記述する。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼王朝は人類が原始のときから生命をまもって生活した方法で九州以下の本州列島地理における方位規定を定めていた」と伝えていた。だから、九州以下の本州日本列島地理の方位規定は現在の日本地図と異なって、現在の本州において〔西〕にある九州は〔北〕、本州の〔東〕にある東海地方(愛知県・静岡県)は〔南〕に在ると、卑弥呼王朝は本州列島地理の方位規定を定理していたのである。
 だから、現在の日本列島地図を立論基盤とする邪馬台国説の正体は『魏志倭人伝』にある方位記事に多数の【誤読】を加えて立論する【空想の産物】であったのである。

 だいいち、邪馬台国説のごとく現在の日本地図にもとづいて「〔天の北極がある方角〕が〔北〕」と断定すると、【原始のときから人は緯度を精確に測定できなかったこと】になるため、大海で囲まれる日本列島はヒトが一人も居住していない無人島であったことになる。日本列島には人が一人も住んでいなかったことになると、「邪馬台国」とよばれる地所も存在しないことになり、「卑弥呼」とよばれた倭女王も住んでいなかったことになり、さらにもちろん約2000字で構成される『魏志倭人伝』には1字も存在しない白紙であったという結論になるゆえ、邪馬台国説は「完全なる空想!」とただちに断定できる。
 だから人類は【緯度を精確に測定できる眼力と本能】をもって大海に囲まれる日本列島に渡来して居住した。ゆえに、【原始のときから、人が緯度を精確にできるは方法(眼力と本能)】と【胎児の頭が骨盤入口を通りぬけて、頭が出産するまでの医学の様子】を合体する【学術】にもとづいて――『魏志倭人伝』は倭人国を構成した対馬国(つしまこく)から黒歯国(こくしこく)までの33ヵの国名に用いられる文字(ただし、1国は国名が記述されていない)をもって「本州の〔東〕は〔南〕に伸びている」と説明していたことになる。

◆『魏志倭人伝』の後半部には――238(魏の景初二年)247(魏の正始八年)まで、倭人国(わが国)の使節は帯方郡(たいほうぐん/魏の出張機関政庁が所在した朝鮮半島のソウル市近辺の郡)・魏都・洛陽(らくよう)に到着して魏と国交を結んだ様子――が詳細に記述されている。
 『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方()の東南、大海の中に在り」である。
 倭人国から帯方郡の東南にある大海は「玄界灘(げんかいなだ)」である。
 倭人国の使節は九州の港から出帆(しゅっぱん)して玄界灘を渡って帯方郡に至り、さらに魏都に到着し、任務が終わって帰路についたときにも玄界灘を渡って倭国に帰還した。
 したがって、魏は【238年ころから247年ころまでに玄界灘を往来した倭国の使節の説明や、倭国の使節がもたらした倭女王・卑弥呼が書いた国書(文書)に書かれた記事によって2世紀末~3世紀半ばの倭国の様子】を知ったことになる。この倭国に関する資料は魏王朝から晋王朝へと受け継がれて、晋王朝で秘蔵されていた倭国の資料を閲覧(えつらん)した歴史編纂官の陳寿が『三国志』魏書東夷伝末部の〔倭人伝〕に書き写したゆえに、『魏志倭人伝』が現存することになったのである。
 だから、もしもわが国(倭国)の使節が玄界灘を往来することができなかったならば魏は倭国の様子をまったく知ることができなかったことになるゆえ――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。
 したがって、1字も書かれていない白紙の『魏志倭人伝』には、前述したように「倭人」という2字も「卑弥呼」という3字も「邪馬台国」という4字も存在せず、また『魏志倭人伝』の約2000字もパッと真っ白な煙となって1字も残らずにすべて消滅してこの世にまったく存在しなかったことになる。
 これゆえ、「い」のいちばん・真っ先に〔倭国の使節と船乗りたちは【玄界灘を往来できた方法】〕を有していたと考えるべきことになる。いいかえると、〔倭国の使節・船乗りたちが【玄界灘を往来できた科学の秘密】を解明して始めて、「『魏志倭人伝』はこの世に実際に存在する歴史書であった」と証明することができる。
 ところが、前述したように、邪馬台国説学者たちのごとく【現在の日本列島地図と同じく、〔天の北極がある方角〕を〔北〕と定める方法】で考えると、〔倭国の使節・船乗りたちは【玄界灘を往来できなかったこと】〕になる。
 だから、『魏志倭人伝』に「本州の〔西〕にある九州は〔北〕に在った。本州の〔東〕にある東海地方(愛知県・静岡県)は九州の〔南〕にあった」と伝える〔転回本州列島地理〕は、【原始のときから人類が大海に囲まれる日本列島に住み着いた方法】をもって考えられていたことになる。この【科学的事実】は『魏志倭人伝』研究において真っ先・最初に必ず解明しなければならい事項となる。

◆倭国の使節と船乗りたちは〔原始からの人類の慣習と伝統〕にもとづいて、〔【天頂にある緯度線と子午線をキャッチ】して精確に緯度を測定して(1度の60分の1の1分以内の精度で緯度を測定できる方法で緯度を測定して)〕、玄界灘を往来していた。
 上記した【天頂緯度線のキャッチ】にもとづいて、卑弥呼王朝は現在の日本地図において〔西〕に在る九州は〔北〕に位置し、現在の日本地図において〔東〕に在る東海地方や北陸地方(愛知県・静岡県や石川県・富山県)は〔南〕に位置するという、転回地理・方位規定を考えていたのである。
 だから、倭人国の使節は断じて〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕で玄界灘を往来しなかったことになる。

◆上記したように、学者たちは全員「卑弥呼王朝は、現在の日本地図と同じく北極星や天の北極がある方向を〔北〕と定める本州地理を考えていた」と断定する。
 下図は〔天の北極と北極星の位置図〕である。
 下図における〔大円〕は〔各時代の、天の北極の位置〕をあらわす。下図における〔星座の星〕は〔各時代の、北極星〕となる。
 天の北極は下図中央の〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で大円を描いて一周する。
 北半球における地平線(水平線)から天の北極までの高度が3536分の地所の緯度は、北緯3536分である。ゆえに、その地の天の北極の高度が、その地の緯度を示す。
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 上図が示すように、いかなる時代においても〔天の北極〕と重なる〔北極星〕は存在しない。ゆえに、〔無・暗闇である、天の北極の高度〕は〔天の北極を中心として円周する北極星〕で測量しなければならない。
 〔天の北極に最も近づく北極星〕は紀元前2790年頃の〔りゅう座α星〕と、現在から約80年後の21世紀末の〔こぐま座α星〕である。この〔二つの北極星〕は〔天の北極から約45分離れている〕ゆえ、〔天の北極を中心にして直径が約90分の距離で円を描く〕。
 ところが、人間の脳にはもちろん、また日々鍛錬しても人間の目には【90分の直径の円を描く〔北極星〕で、その円の中心となる〔天の北極の高度〕を1度の60分の11分以内の精度で精確に測量できる能力】がそなわっていなかった。
 だから、すべての時代において、〔天の北極〕では精確に緯度が測定できなかった。
 上図の中央の右上に「10°」と記したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星(こぐま座β星)は天の北極から「約10(600)」離れていた。ゆえに、卑弥呼時代の北極星は、天の北極を中心にして直径約20度・約1200分の円を描いていた。
 上記したように【〔90分の円を描く北極星〕を目星にして〔天の北極の高度〕を1分の誤差内で測定できなかった】ゆえ、卑弥呼時代における【1200分の円周の直径の中心・緯度となる〔天の高度〕を、精確に1分の誤差内で測量できる本能と眼力】は、人類にはそなわっていなかった。だから、卑弥呼時代、倭の使節が天の北極の高度で緯度を測量する方法で九州沖の玄界灘に入ったならば、全員が命を落として帰還することができなかった。
 これゆえ、「天の北極と北極星」は【命】を奪う死神であったゆえ、日本列島全地図の【北】を表示する基準(目星)にはならなかった。
 だから、学者たち全員の視座(しざ)は【科学】にまったく反している。

◆卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ばまで)より以前――そのすべての時代において、精確に緯度を測定する手段は【天頂緯度線をキャッチする方法】であった。
 ゆえに、【天頂緯度線をキャッチすると、精確に緯度が測定できる事実】にもとづき、現在の日本列島地図における経緯度原点は旧東京天文台の子午儀の中心の緯度(北緯3539175148秒/東京都港区麻布板倉3-18)である。
 (注 旧東京天文台の子午儀の経度は東経13944405020秒である。
 だから、倭国の使節は【天頂緯度線をキャッチ】して玄界灘を往来していたことになる。この【天頂緯度線のキャッチする方法】は、原始のときから人類が精確に緯度を測量していた習慣と伝統によるものであった。
 つまり、『魏志倭人伝』は「原始以来、人類が【天頂緯度線をキャッチ】して精確に緯度を測定していた方法】に則(のっと)って、卑弥呼王朝は九州以下の本州地理を時計回りに90度転回すると定めていた」と伝えていたことになる。

 下図に〔漢字[](とう)の字源・字形解説図〕を配した。
 下図が示すように[]は「天頂緯度線と子午線」から構成される。
 これゆえ注目すべきは、現在の日本列島地図における経緯度原点となる旧東京天文台の子午儀の中心は下図の[]の字源・字形「天頂緯度線と子午線」を表示していることになる。したがって、「旧東京天文台の子午儀の中心」は[]の字源・字形・字義をあらわしている。
 だから、「旧東京天文台の子午儀の中心」は「倭国の使節と船乗りたちは【天頂にある緯度線と子午線をキャッチ】して玄界灘を往来していた」とあらわしている。
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◆下の図は〔天頂緯度線のキャッチの解説図〕である。
 下図の右上に、漢字[(とう)]を配した。
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 「天頂緯度線」イコール「観測者が居る観測地点の緯度」である。だから、【天頂緯度線のキャッチ(測定)】は「観測地点の緯度を精確に測定できた」と意味した。
 原始のときから、ヒトの脳には、【天頂緯度線をキャッチ】して精確に緯度測定できる本能がそなわっていた。また、ヒトは【天頂緯度線をキャッチする訓練】を励んできたえれば〔1度の60分の1の【1分】の緯度差を測定できる神秘的な眼力〕を有することもできた。
 だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角(経度)もまったくわからない! 死ぬ!」と一気にパニック状態におちいることもなかった。人類は星座よりもはるかにまさって壮麗な、さまざまな印象的な形を有する天頂にめぐってくる銀河部(天頂点と重なる銀河部)を地理代わりにして、【天頂緯度線(つまり、精確に緯度)をキャッチ】してたくましく巧(たく)みに生存できたのである。
 原始人たちはじめ、わが国の縄文人や弥生人も、また卑弥呼時代(後期弥生時代後半)の倭国の使節も〔頭脳にそなわる本能と目にそなわる呪力(神秘的な眼力)をもって【天頂緯度線をキャッチすること】ができた(つまり、緯度を1度の60分の11分以内の精度で測量できた)〕ゆえ、陸地から遠く離れる大海を横断でき、遠く離れる地所へ旅しても家族が待つ家に帰還することができたのである。
 したがって、『魏志倭人伝』に登場する倭人国の使節は【天頂緯度線をキャッチ】して玄界灘を往来していたことになる。
 だから、『魏志倭人伝』には「現在の日本地図における本州の〔北〕を、卑弥呼王朝は90度転回して〔東〕になると定めた」と記述されることになった。この『魏志倭人伝』に記述された【本州地理における時計回りに90度転回する方位規定】は【原始のときから受け継がれた天頂緯度線をキャッチした習慣・伝統における方位観念】であったのである。
 というのも、ヒトは【天頂緯度線をキャッチ】して〈いのち・命〉を原始のときからまもってきたからである。

[]の下に、[(よう)]を加えると[(げん)]の字となる。
 下に、〔[(げん)]の字源解説図〕を配した。
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 [] の下につく[]の字源について、“字書の聖典”と尊敬された卑弥呼が歴史上に初めて登場する約60年前の121年に成立していたとされる『説文解字』は「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたど)る」と解説する。
 だから、[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬける出産児」であった。ゆえに、[]は「天頂緯度線を必ずキャッチするという欲を有すると天頂緯度線のキャッチに失敗して死ぬが、産道を通りぬける幺(小さな出産児)のごとく無欲になれば天頂緯度線はキャッチできる」と示す、〔天頂緯度線をキャッチする心得〕をあらわした。
 だから、中国で漢字が発明された太古以来卑弥呼時代までの学(学問)において「天頂緯度線のキャッチ」と「幺(出産児)の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口(ちつこう)にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわしていると考えられていたことになる。というのも、幺(出産児)の頭が骨盤入口や骨盤出口を通りぬけてせまい産道(膣)を旋回(せんかい)しながら進み、膣口から誕生するまでの【出産児の【命】が成立する、神秘的な産道を通過する様子】は実際に目撃できたからである。
 (注 分娩室における妻の出産の様子を立ち会った夫は、上記した――幺(出産児)の頭が骨盤入口や骨盤出口を通りぬけてせまい産道(膣)を旋回(せんかい)しながら進み、膣口から誕生するまでの【出産児の【命】が成立する、神秘的な産道を通過する様子】は実際に目撃できる)。
 ゆえに、[亠]の字源は「倭人国の使節は〔天頂にある緯度線と子午線〕をキャッチして玄界灘を往来していた」と伝え、[幺]の字源「骨盤入口から膣口までの産道を通過する胎児の頭の様子」は「天頂緯度線のキャッチを成功させる心得」をあらわしていた。ゆえに、[亠]に[幺]が加わる[玄]の字は「九州から遠く離れる灘(波が荒い)となる大海」が「玄界灘」と名づけられた由来を伝えていたのである。

 前述したように、[亠]は「天頂緯度線と子午線」で構成される。[幺]の字源は「産道を通過する出産児」である。ゆえに、[亠]と[幺]で構成される[玄]の字は「[亠]、つまり天頂緯度線を瞬間的(約4秒~6秒)にキャッチできる、神秘的な能力」と「[幺]、つまりせまい産道を旋回しながら誕生する出産児の神秘的な【命】のいとなみ」をあらわした。
 人間の目には[亠]の字源【天頂緯度線を瞬間的(約4秒~6秒)にキャッチできる、神秘的な能力】がそなわっており、この〔眼力〕で人は【命】が確保できた。ゆえに、[亠]の字源「日々の生活にあって【命】を確保できた天頂緯度線をキャッチできる神秘的な眼力」と[幺]の字源となった「【命】が成立する、骨盤入口から膣口までのせまい産道を旋回しながら誕生する出産児の神秘的な様子」は同一視されて、両者ともに【命】を直接的にあらわすことになったのである。
 したがって、[玄]の字は「ヒトは原始のときから【[亠]・天頂にある緯度線と子午線】をキャッチして大海を往来し、遠くの地まで旅しても、【命】を失わずに家族が待つ家に帰還できた」とあらわすことになった。
 だから、『古事記』上巻に登場する「王・女王・英雄たちの名の後ろに付けられる尊称」は[命]の字が用いられたのである。 

◆『魏志倭人伝』に登場する倭の使節は「天の北極の高度で緯度を換算する方法」で玄界灘を往来しなかった。「玄界灘」の名の由来が明確に示すように――倭の使節は原始以来の慣習であった[]の字源・字形・字義となった【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチして玄界灘を往来した。
 卑弥呼時代の倭の使節と船乗りは、〔原始のときからの【天頂にある緯度線と子午線】をキャッチする習慣・伝統〕にもとづいて、玄界灘や朝鮮半島や中国における各地点で天頂緯度線をキャッチ(1分以内の誤差で精確に測量)して朝鮮半島の魏の出張政庁がある帯方郡や魏都に到着し役目をはたすと、倭地に帰還していたのである。
 ゆえに、〔国交を結んだ倭国の使節の説明や卑弥呼が書いた倭の国書〕から魏王朝は倭国の様子を文書に記述することができた。そして、後に晋王朝に秘蔵されていた〔魏王朝が作った資料(文書)〕を言いかえると〔倭の使節の説明や卑弥呼が書いた国書の記事〕を閲覧した陳寿(ちんじゅ)はそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝末尾の〔倭人伝〕に記載した。だから、『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝の倭人伝)が現在まで残ったのである。

 以上のごとく、卑弥呼時代、〔天の北極や北極星〕を日本列島地図の方位を定める目星(基準)にしなかった。この原因・根拠・理由は、〔天の北極の高度を緯度に変換する方法〕では、倭の使節や船乗りたちは玄界灘で死滅し、帯方郡にも魏都に到着できず国交を結ぶことができないことになったからである。
 だから、卑弥呼王朝は【天の北極と北極星がある方角を〔北〕と定める、現在の日本列島地図と同じ本州列島地理】を制定しなかった。
 というのも、学者たちの現在の日本列島地図における方位にもとづいて考える論法では倭の使節は玄界灘で死滅して帯方郡や魏都に到着できなかったことになるからである。したがって、学者たちの意見だと、倭と魏は国交を結べなかったゆえ『魏志倭人伝』には〔文字が1字も書かれていなかったこと〕になる。だから、【「約2000字で構成される『魏志倭人伝』には文字も1字も書かれていなかった」ことになる現在の日本地図で立論基盤とする学者たちの意見】は、ただちに空想、空理空論であると断定すべきことになる。
 原始のときから人々は[](天頂にある緯度線と子午線)をキャッチして大海を渡って日本列島に居住したーーこの事実は日本人が知っておくべき真実である。しかし、この事実は、今日の日本人が知らざる真実である。

◆今回のブログは、ここまでの説明で終われば「邪馬台国説が空想である事実」がすっきりと簡単明瞭となる。
 しかし、〔なぜ卑弥呼王朝は、[]の字源「天頂緯度線と子午線」と[]の字源「骨盤入口から膣口までのせまい産道を、頭を回旋(かいせん)しながら誕生する胎児の様子」を一体化する学術を用いて、転回本州列島地理を成立させたのか〕、その具体的な説明がなされていない。
 それゆえ、これから【卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理が成立した原因】について解説する。
 これからおこなう〔転回本州列島地理の成立原因の解説〕によって、新たにいくつかの疑問点が生じるが、これら疑問点はすべていくつかの学問分野の成果によって【科学】が成立して解決できる仕組みになっている。また、いくつかの遺跡・遺物のほか、風俗や慣習や地名などによって疑問は解消できる。これらの解説と証明は長大となっていろいろな問題・事柄が錯綜(さくそう)してむしろ難解となるが、これを一気に解決できる『魏志倭人伝』と同時代に製作された「1千万坪の大鳥の形をした地図」が、静岡県浜松市に現存する。
 これから、早速、卑弥呼王朝が制定した〔転回本州列島地理が成立した原因〕について解説する。

◆日本列島の東端には、亜熱帯地区の伊豆諸島の神津島(こうづしま)が所在する。
 先史時代から、神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出した。黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、じょうずに刃をつけると石槍(いしやり)と鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(石器)として利用された。神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期旧石器時代から使用されていたことが明らかとなり、縄文時代、卑弥呼は生存した後期弥生時代においても本土に運ばれて利用されていた。神津島の黒曜石は関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。神津島から伊豆諸島まで30km以上も海で隔(へで)てられ、神津島から北陸・石川県能登半島までは直線距離で約400kmも離れている。
 この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事情について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するものの、その実態は謎のベールにつつまれて不明とする。
 わが国の学者たちは全員〔どのようにして『魏志倭人伝』に登場する倭国の使節を往来できたのか〕、あるいは〔なぜ『魏志倭人伝』はなぜ「本州の〔東〕は〔南〕へ延びている」と説明するのか〕と疑問を抱かない。ゆえに、約3万年前の後期旧石器人たちが〔[](天頂の緯度線と子午線)をキャッチして大海を渡って神津島の黒曜石を入手して家族が待つ家に帰還した交通〕について知っていない。

 現代史学はまったく気づいていないが、『魏志倭人伝』は――原始のときから、人類は【天頂緯度線をキャッチできる能力】が大脳に〈いのち〉をまもる本能がそなわり、目を鍛錬すると〔天頂緯度線をキャッチできる呪力(神秘的な眼力)〕がそなわっていた。というのも、人類の本能行動と情動行動は大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)に分担されており、うまく生きてゆく適応行動と創造行為は大脳の新皮質系に分担されているからであった。このため、原始のときから人類の大脳と目には【天頂緯度線をキャッチできる能力】がそなわっていたゆえ、遠い地所に旅した人も大海を渡った人も家族が待つ家に帰還することができた。この【原始から受け継がれた天頂緯度線のキャッチの習慣】にもとづいて、卑弥呼王朝は本州における〔西〕の九州は〔北〕に在ると考え、本州の〔東〕は〔南〕となると考える、時計回りに方位が90度転回する本州列島地理を制定した――と説明していた貴重な文献史料であったのである。

◆九州沖の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と伊豆諸島の神津島は、下図に示すように共に北緯3415分で同緯度(天頂緯度線が同一)である。
 沖ノ島は日本列島の西の端に所在し、神津島は日本列島の東の端に所在する。
 神津島は約3万年前から良質の黒曜石が産出することで有名であったゆえ、日本列島の西端にある沖ノ島は日本列島の東端にある神津島と同緯度であることは、卑弥呼が生存した以前の昔から多くの人々に知られていたのである。
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 下図の左側に示す中国の海岸線地域の北部は中国の海岸線地域の南部より冷たい気候区、中国の海岸線地域の南部の暖かい気候区であるゆえ〔北冷南暖〕ということになる。
 いっぽう、日本列島の西端に在る沖ノ島は冬に雪が降る冷たい気候区であるから〔西冷〕となり、日本列島の東端にある神津島は冬でも雪が降らない亜熱帯気候区の暖かい気候区であるゆえ〔東暖〕となる。
 日本列島の沖ノ島の〔西冷〕と中国の北部海岸線地域の〔北冷〕は共に〔冷たい気候区〕、日本列島の神津島の〔東暖〕と中国の南部海岸線地域の〔南暖〕は共に〔暖かい気候区〕である。
 ゆえに、下図に示すように――日本列島の西端にある〔冷たい気候区の沖ノ島〕は中国の海岸線地域における〔冷たい気候区の北部〕に適合し、日本列島の東端にある〔暖かい気候区の神津島〕は中国の海岸線地域における〔暖かい気候区の南部〕に適合する。
 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は「倭地における本州の西→中国の北にある」と「時計回りに方位を90度転回」し、同様に「倭地における本州の東→中国の南にある」と考えて「倭地における方位は時計回りに90度転回しているにちがいない」と定理したのである。 
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 だから、下図に示すように、卑弥呼王朝は【原始から受け継がれた[]のキャッチ】を思考基盤にして「沖ノ島と同じく西にある九州は北に所在し、神津島と同じく東にある東海地区(愛知県・静岡県)は九州の南に所在する」と転回本州列島地理を制定したのである。
 卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理にもとづくと、『魏志倭人伝』が「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記す「邪馬壱国」は、前回のブログで解説したとおりに「山陰の出雲地方」であったことがいとも簡単にわかる。
 というのも、『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り、皆倭種なり」と記述しているからである。転回本州地理においては、現在の日本地図の〔北〕にある日本海は〔東〕となる。『魏志倭人伝』の「皆倭種なり」という説明は「4つの大きな島と約180の小島で構成される群島」に合致するゆえ、日本海上には「隠岐群島」のみが「邪馬壱国より東の日本海に浮かぶ皆倭種なりの小国」となる。だから、いとも簡単に「卑弥呼が居住していた邪馬壱国は山陰・出雲地方であった」と確信することができる。
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◆上図の〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理〕のごとく、卑弥呼王朝は〔原始のときからの伝統である()[]の字源(天頂にある緯度線と子午線のキャッチ)の慣習と、()[]の字源「せまい産道を、頭を回旋しながら通過する出産児の様子を注目した医学」が合体する学術に則(のっと)って【沖ノ島と神津島の〔西冷東暖〕と中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕の合致】に注目して、上図の「転回本州列島地理」を立論していたことになる。

 静岡県西部(旧国の遠江)の浜松市北区の細江町(ほそえちょう)の行政区域を表示する地図の形は、下図に示すがごとく〔1千万坪の大鳥の形〕をしている。この〔1千万坪の大鳥の地図の形〕に、わたくしは別名「卑弥呼の地上絵」、あるいは「建比良鳥(たけひらどり)の地上絵」という別名をつけた。
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 上図の「卑弥呼の地上絵」つまり「1千万坪の大鳥の地図の形」は、3世紀後半(260頃~290年頃)に約30年の年月を費やして、遠江の豪族・建比良鳥命(たけひらどりのみこと)一族が「卑弥呼が立論した転回本州地理と、伊耶那美命が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を子孫代々失われずに永久保存するために図化した遺跡である。言いかえると、現在まで残った「細江町の1千万坪の大鳥の形をした地図の形」は()『魏志倭人伝』に記述された歴史と、()『古事記』上巻にある〔伊耶那岐命と伊耶那美命説話〕に記述された【日本国(小国・日本)が起源した歴史】を永久保存するために製作された遺跡である。
 山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社発行)は『三国志』は280年~289年に成立したことになる。ゆえに、『三国志』魏書東夷伝倭人伝、つまり通称『魏志倭人伝』は280年~289年に著作されたことになる。
 上記したように浜松市北区細江町の「1千万坪の大鳥の地上絵」は260年頃~290年頃まで約30年間を費やして完成させた地図遺跡であるからして、280年~289年に著作された『魏志倭人伝』の同時代の3世紀後半に作成されたことになる。
 したがって、「細江町の1千万坪の大鳥の地上絵」によって、卑弥呼王朝には遠江の豪族・建比良鳥命のように正確な地図を作成する職(官職)につく人物たちが各地方に存在して大勢(おおぜい)参加していたにちがいない。ゆえに、正確な地図を作成する職につく人々による調査・測量によって、上に示した「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における倭国の33の小国の地図の形」が明らかになったのである。
 『魏志倭人伝』は「現在の静岡県西部・旧国の遠江は、倭国の一員の不呼国(ふここく)であった」と記す。当時、「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理」を設計して伊耶那美命・壱与(いよ)が提唱した【日本建国の〔愛〕の理念】を表示する地上絵を製作することを、3世紀後半に天下を統治していた大和王朝は、即刻に死刑すると厳重に禁止していた。しかし、熱血漢・遠江の建比良鳥命は【日本建国の〔愛〕の理念】を後世に伝えることを倫命(りんめい/人間としておこなわなければならない使命)として、大和の崇神(すじん)天皇王朝に歯向かって残した。このため、従来「全記事が正しいことは絶対にありえない」という定説となっていた『魏志倭人伝』の全記事は実は正しかったが証明されることになる。また、「『古事記』上巻の日本神話は虚構(作り物)である」という定説も【誤読の、空想の産物】であったことになり、『古事記』上巻・日本神話は歴史を伝えていた事実が明白となる。

 『魏志倭人伝』の全記事は正しく「卑弥呼王朝は時計回りに90度方位が転回する本州列島地理を制定していた」と伝えていたのである。これゆえ、『古事記』上巻の序(古事記上巻 并せて序)には――天武天皇が672年に上古の歴史書を編纂する詔(みことのり)を指令するときに「邦家(ほうけ)の経緯(けいい)、王化(おおか)の鴻基(こうき)」と述べた――と記す箇所がある。
 「邦家の経緯」は「国家組織の根本」と意味するとされる。上に示した「卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理の解説図」において、沖ノ島と神津島の緯度線(北緯3415)は「経度線」となる。ゆえに、卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理では「経度」は「緯度」に変化するゆえ、天武天皇は「国家組織の根本」を「邦家の経緯」と表現したのである。
 天武天皇の「王化の鴻基」という言は「天皇政治の基軸」と訳される。上に示した〔中国の「北冷南暖」と倭の「西冷東暖」の解説図〕における、中国の〔山東半島の海岸線の地図の形〕を〔鳥の頭の形〕に相似すると見立てると、〔山東半島の付け根から北と南に分かれる海岸線の地図の形〕は〔鳥の両翼の形〕に観える。ゆえに、天武天皇は「転回本州列島地理の基軸」となった「中国海岸線地図の形」を「王化の鴻基」と表現したのである。
 下図が示すように、〔山東半島の海岸線の地図の形〕を〔鳥の頭の形〕に相似すると見立てると、〔山東半島の付け根から北と南に分かれる海岸線の形〕は〔鳥の両翼の形〕となる。
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 天武天皇が「邦家の経緯、王化の鴻基」と表現した「卑弥呼王朝が制定した転回本州列島地理の秘密」を、遠江の建比良鳥命は「1千万坪の地図の形」を設計した。これゆえ、遠江の建比良鳥命が製作した「卑弥呼の地上絵(細江町の1千万坪の大鳥の地上絵)」は「王化の鴻基」つまり「1千万坪の大鳥()の形」に設計され、また「邦家の経緯」をあらわすため「大鳥の地上絵における緯度線が経度線になるように90度転回すると、中国の海岸線地図の形があらわれる仕掛け」が設けられている。
 したがって、「卑弥呼の地上絵」によって、上に示した〔卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における33の小国の範囲(地図)の形〕は事実であったと証明される。
 要するに、『魏志倭人伝』と同時代に製作された「卑弥呼の地上絵」は「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理における33の小国名の地図の形の秘密」を簡略的にしかも濃密にコンパクト化した遺跡であった。これゆえ、現存する「細江町の、卑弥呼の地上絵(1千万坪の大鳥の地上絵)」によって、新井白石以後から現在までの学者たちによって排除されて不明となった『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記述された上古の学問と歴史の秘密を復興することができる。

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2022年4月18日 (月)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・7

#邪馬台国説はすべてデタラメ、インチキ、ウソだった!


◆日本人ヨ!
 愛(いと)おしき日本人よ!
 邪馬台国説にはダマされるな!
 邪馬台国説は無視せよ!
 日本国民は、もういいカゲンに
 邪馬台国説にはダマされるな!
 もう十分、日本国民はダマされた!
 もうこれ以上 邪馬台国説に
 バカにされるな!
 愛おしき日本国民ヨ!
 目覚めよ!

◆倭女王・卑弥呼で登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』は、西暦280年~289年に著述された。著者は中国の晋(しん)につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)である。晋王朝に秘蔵されていた【西暦200年~250年ころに魏へ送られた倭の国書】を読んだ陳寿は「倭には太古の文字があるにちがいない」と直観した。ゆえに、陳寿は主観(自分の考え)をいっさい加えないで【倭の国書】の記事をそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)の末尾に〔倭人伝〕を配置した。この〔『三国志』魏書東夷伝末尾の倭人伝〕が通称『魏志倭人伝』とよばれる古文献である。

 約2000字で構成される『魏志倭人伝』における約85パーセント・約1700字の記事(倭人国の34の小国に関する記事)は、1世紀~2世紀頃の後漢時代から出現した楷書を用いて説明しているが――〔今から約4000年前に、【わが国が習得した夏音(かおん)文字を用いて卑弥呼が作った文書(倭の国書)の記事】を、倭の伊都国(いとこく)の港で魏が読解できるように楷書に書き直した倭の国書の記事〕がそのまま書き写されていたのである。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は――西暦180年頃から250年頃までのわが国の様子を卑弥呼が夏音文字で書いた【倭の国書】から書き写された――つまり、その実体は倭国(わが国)で作られた歴史史料であったことになる。

◆わが国が約4000年前(中国の夏代初頭、わが国の後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字は【天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする太古の漢字】であった。
 つまり、約5000年前から始まった五帝時代の書契(しょけい)、約4000年前から始まる夏音文字(夏代の文字)、約3600年から約3300年までの殷代(いんだい)前半期の漢字は【夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする文字】であった。
 前述したように、『魏志倭人伝』は「夏代初頭に習得した夏音文字を用いて卑弥呼が書いた文書(国書)」にもとづく史書であった。しかし、陳寿は「倭国には夏音文字が存在した」と読解したのではなく、多分、下記の【A】【B】【C】の三ヵ所の記事から「倭には太古の漢字がある」と直観・推断したにちがいない。
 上記の【A】【B】【C】の記事をルビ無しにして書き下し文で示すと下記のごとくなる。
 【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
 【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる。
 【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
 【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼はじめ倭国の王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換し、つまり誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであった。
 【C】『魏志倭人伝』は「倭女王名」を「卑弥呼」と記すが――倭女王名に用いる[]の字義を中国の楷書は「賤(いや)しい」と意味した。しかし、太古の漢字知識に精通する倭女王の名に用いる[]の字義が「賤しい」であるはずがない。倭の[]の字には太古の漢字の秘密があるにちがいない――と、陳寿は推断したことになる。
 この三つの事例は「5世紀あるいは6世紀に楷書を習得した以前に、わが国は夏音文字を習得していた」と明確に示していた。
 にもかかわらず、江戸時代中期の1725年に死去した新井白石以後の邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志をまったく有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。

◆わが国が約4000年前に習得した夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。そして、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)もまた「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成された。ゆえに、後漢時代後半に出現した楷書の字源・字形の原形・原義もまた「夏の銀河の各部の形状」であった。だから、伊都国の港では【夏の銀河各部の形状】を字書にして、夏音文字を楷書に正しく変換することができたのである。
 []の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
 「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
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◆約5000年前、五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は文字(漢字)を発明した。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。
 【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は――【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする 【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする 【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする――であった。
 上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
 また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。それゆえ、『魏志倭人伝』に記述された真実の歴史を解明するには、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
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◆もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解していたならば――「倭女王・卑弥呼が居住した女王国名は邪馬台国であった」と主張した、江戸中期に生存した新井白石(16571725)の意見は空理空論であると断定されていた。ゆえに、邪馬台国説は、もともと、『魏志倭人伝』をデタラメ読みした誤読の空論であったのである。
 もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解していたならば――『魏志倭人伝』は「中国の神話や伝説に登場する【黄帝が研究した医学】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明する歴史書である」と確信されていた。ゆえに、現在、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りとされており――黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という事実が【科学】が成立して証明されていたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論】は、わが国の様々な遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して、現在においても厳然(げんぜん)と残っている。
 だから、『魏志倭人伝』の【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論】の記述によって【「黄帝と倉頡は歴史上に実在した人物であった」という事実】は【唯一無二の真実】となる。

◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
 『魏志倭人伝』は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究をあらわすために発明した漢字の作成理論】を説明する学術書であったのである。
 その証拠に、前回のわがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6」でも解説したように――卑弥呼が生存した世は下記のごとき状況であった。
 中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかった。
 だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばの中国は、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。これゆえ、中国でも・諸韓国でも・わが国でも【国防のために黄帝軍の無敵であった軍事力】が渇望(かつぼう)されることになった。このため、当時は【黄帝と倉頡から始まる学問】を復興して自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であった。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前の夏代初頭、帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【()黄帝の医学と仁徳・慈愛の政策と、()倉頡が発明した漢字作成理論と、()精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
 『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
 だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視した空論であったのである。

◆倉頡は、前掲した〔夏の銀河の写真の左側は東・右側は西となる形式〕と同じく【漢字の字形を左東・右西】と定めた。
 下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】にもとづく〔黄帝時代の中国全土の天頂にめぐってきた「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の図〕を配した。
 前に提示した〔夏の銀河各部の名称図〕の左上に「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。この「鬼の姿に似る銀河のうちの、その横顔の銀河」を、私は「鬼の横顔に似る銀河」と名づけた。
 下の図における下部の「鬼の横顔に似る銀河」には、「目」と見立てられる箇所が4ヵ所ある。ゆえに、私は「鬼の横顔に似る銀河」の別名を「四つ目の銀河」と定めた。
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 中国では、古来より「漢字は倉頡によって発明された」と伝えられていた。この倉頡伝説では「倉頡」は「四つ目の怪人」とよばれた。下図の「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説において「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」であった。
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 学者たちは、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」を「人間には、目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定した。
 倉頡伝説を簡略化すると下記のごとくなる。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾(か/稲)を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
 前述したように、倉頡伝説では「四つ目の銀河」を「四つ目の怪人・倉頡」と表現した。
 倉頡伝説に登場する[]は「黄帝の遠征軍は揚子江に到着して禾(いね/稲)を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して禾()を大事に育てた」と意味した。
 なお、倉頡は[()]の字を作った。後に倉頡が作った[]の下に[]が加わる[()]の字が作られ、さらに人偏が加わる[()]の字が作られた。
 倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
 倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって変形することができなかったゆえ、後世の人々は【文字】となった【夏の銀河の各部の形状】を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
 したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察しないで無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。

◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 『魏志倭人伝』の冒頭の字[]の字源は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受けついだ。また、[()]の字源も[]の字源を受けついだ。
 ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解説図〕とした。 
 下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯3130)をあらわす。
 なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
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◆黄帝は東洋最古の医学書『内径』を作ったと伝わる。
 前述したように、『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると――『魏志倭人伝』によって「黄帝は【子どもの出産と女性の生殖器】を研究した事実」が証明される。また、『魏志倭人伝』によって、「倉頡の漢字作成目的は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究をあらわすことができる文字を発明すること】であったと証明される。

 出産時の生子(せいし/赤ちゃん)の頭蓋骨が骨盤入口(骨産道)を通りぬける様子は、膣(ちつ)の入口(膣口/ちくこう)から見える。
 出産児の頭蓋骨は骨盤入口を通りぬけるとき――骨盤入口の断面は正円形ではなく、上部では左右のほうが広く、下部では前後のほうが広いので、そこを通りぬける出産児の頭はその仕組みに応じて「時計回りに90度転回する回旋(かいせん)」をおこなう。この回旋は第1回目の回旋である。第2回目の回旋と第3回目の回旋は反()時計回りの90度の転回となる。そして、第1回目の回旋と同じく、時計回りに90度転回する第4回目の回旋をして赤ちゃんの頭は膣口から誕生する。
 このような出産児の頭が骨盤入口をくぐりぬけ膣口から頭が誕生するまでの4回の回旋の様子は、上記したように膣口から見える――つまり、分娩室に入室してわが子が誕生する瞬間を見学したいと希望して妻の出産に立ち会う夫は、わが子が産道を通過する4回の回旋の様子を目撃することができる。
 出産児の頭蓋骨が健気(けなげ)に膣口を目指して産道を通りぬける4回の回旋シーンは、言葉であらわすことができないほど感きわまって泣きたくなるほど神秘的である。
 倉頡は【出産児が産道をとおりぬける、最も神秘的な感動きわまりない光景】を表現するため、[]の字を作って「第1回と第4回の時計回りに90度転回する回旋」をあらわした。つまり、倉頡は「北→東・東→南・南→西・西→北となる方位規定、すなわち時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。また倉頡は[]の字を作って「第2回と第3回の回旋」をあらわすため、「北→西・西→南・南→東・東→北となる方位規定、言いかえると反時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。
 そして、[]は「五穀豊穣(ごこくほうじょう)、人民に豊かな実りをあたえて飢えさない」という政治スローガンを表示する字と定めて【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわすことにした。また、倉頡は[]は「人民たちが多くの子どもを生んで、この世は楽しく栄える」という政治スローガンを示す字と定めて【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわした。

◆黄帝と倉頡は、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した。当時は、わが国において中期縄文時代初頭であった。当時、わが国には【黄帝が研究した「子どもの出産と女性の生殖器」】を造形モチーフとして作られた有名な妊娠土偶(にんしんどぐう)がある。
 わが国における最古の国宝は、長野県茅野市の尖石(とがりいし)縄文考古館が所蔵する「縄文のビーナス」呼ばれる土偶である。この「縄文のビーナス」は、上記したように、黄帝と倉頡が生存した中期縄文時代初頭に制作された。
 上記したように、「縄文のビーナス」は【黄帝が研究した「子どもの出産と女性の生殖器」】をモチーフにして造形された。
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 上の写真で示した「縄文のビーナス」の身長は27センチである。この土偶は壊れた箇所が無い・完全の形で出土された。「縄文のビーナス」は妊娠土偶であると指摘されている。
 つまり、身長が27センチは子宮に宿る第12週~第20週くらいの胎児、あるいは当時は栄養が豊かではなかったゆえ第15週~第25週くらいの胎児の身長をあらわしているのであろう。(注 現在における第12週~第20週の胎児の身長は平均2030センチとされる)
 上記したように、尖石縄文考古館では「縄文のビーナス」を「妊娠土偶」と指摘する。ゆえに、「縄文のビーナス」は八ヶ岳山麓地域における「子宮に宿る胎児と出産と女性の生殖器(子宮や骨盤)に対する知識」を造形した土偶であったと考えるべきことになる。
 だから、「縄文のビーナス」の造形モチーフは【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と共通する。
 さらに、「縄文のビーナス」は【黄帝の医学研究】の造形モチーフと共通するだけではない――特に注目すべきは【倉頡が作った「十字の銀河」の中央に〔イネの茎と穂が垂れる図書〕を重ねて作った[]】の造形モチーフとも共通する。
 その証拠に、上の写真が示すように「縄文のビーナスの胸部」は「十字の銀河の胸部」と同じ「十字形」である。また「縄文のビーナス」の表面はよく磨かれて光沢があり、材料の粘土にはキラキラ輝く雲母(うんも)が混じり、「十字の銀河」の金色の輝きに合致する。
 だから、「縄文のビーナス」は上に提示した〔[][][]の字源・字形・字義となった、秋の収穫期に畑一面に黄金色に輝く禾(イネ)の穂の図書〕を重ねる「十字の銀河」をモデルにして「子どもの出産と女性の生殖器の知識」を表現する土偶であったことになる。さらに「縄文のビーナス」の「ハート形の顔、切れ長のつり上がった両目、ちょこっと尖った鼻、小さなおちょぼ口」は「胎児や出産児の顔かたち」をあらわす。あるいは、腹部は「妊婦した母親のおなか」、臀部(でんぶ)は「妊娠した母親の大きなお尻(しり)」を表現している。

◆下に示したように、「十字の銀河」は〔女体の姿〕に相似する。
 上記したように、「十字の銀河」をモデルにして「縄文のビーナス」は作られた。その証拠に、「縄文のビーナスの胸部」と「十字の銀河の胸部」は共に「十字形」である。
 しかし「縄文のビーナスの腰」と「十字の銀河の腰の形」は異なって合致しない。
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 下に、〔女性の上から見た骨盤腔(こつばんこう/骨盤の空洞)と「十字の銀河の頭の穴(暗黒天体部)」の図〕を示した。
 下図に示すように、〔女性の腹部側の骨盤腔〕と〔十字の銀河の北側の頭の穴〕の形が合致し、〔女性の臀部(おしりがある背側)の骨盤腔〕と〔十字の銀河の南側の頭の穴〕の形が合致して、〔女性の骨盤腔と十字の銀河の頭の暗黒天体部〕の両者の形は相似する。
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 下に〔縄文のビーナスの腹部から上の上半身と女性の骨盤の図〕を示した。
 この〔女性の骨盤図のおける下部は臀部側、上部が腹部側〕となる。
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 上図のおける〔縄文のビーナスの腹部から上の上半身と女性の骨盤の合体形〕のイラストを、下に配した。
 下のイラストと〔縄文のビーナスにおける腰部から上の体形〕は共通する。だから、〔縄文のビーナスの腰〕は〔女性の骨盤〕を表現したと考えるべきことになる。
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 上図における〔縄文のビーナスにおける腹部から上の上半身〕は〔正面形〕である。しかし、上図の〔骨盤の形〕は〔縄文のビーナスの腹部〕と〔臀部・背側の形〕を合致させ、〔縄文のビーナスの背側〕に〔骨盤の腹部側の形〕を合致させている。ゆえに、〔縄文のビーナスの腹背〕と〔骨盤の腹背〕の両者の向きは〔正反対〕となって不合理・矛盾する。
 しかし、下図に示すように、膣口から頭が誕生する時の出産児(赤ちゃん)の顔は、母体の背(臀部)を正面とする。だから、上図の〔縄文のビーナスの上半身と骨盤を合体するイラスト〕は「赤ちゃんの頭が誕生するときの、骨盤と赤ちゃんの顔の向き」をあらわす。ゆえに、「縄文のビーナスの腰の形」は「子の出産」を表現するデザインであったことになる。
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 下図は〔縄文のビーナスの正面と出産児の頭が誕生したときの、骨盤・出産児の顔の合体図〕である。下図が示すように、〔縄文のビーナスの顔〕と〔出産児の頭が誕生したときの、出産児の顔〕の向きは共通する。
(注 なお、下図は茅野市縄文考古館発行の『常設展示図録』の34ページにある〔縄文のビーナスの正面図〕に〔骨盤図〕を合体した)
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 「縄文のビーナス」が出土した尖石遺跡群における棚畑(たなばたけ)遺跡は北緯36度に所在する。
 下図に示すように、「縄文のビーナス」が制作された5000年前(中期縄文時代初頭)、「縄文のビーナス」が出土した北緯36度の棚畑遺跡の天頂緯度線(+赤緯36)が「上から見た女性の骨盤の形に相似する、十字の銀河の頭部の中央部」を貫通していた。
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 今から約5000年前の中国の黄帝時代とわが国の中期縄文時代初頭、そして卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、天頂緯度をキャッチして緯度と方位を精確に測定して、人々は遠くの地や大海を旅して家族が待つ家に帰還していた。
 ゆえに、下図の〔縄文のビーナスの背面図における帽子とか髪型〕と指摘されている部分の頂部には「渦巻き文」が刻まれている。
 だから、「縄文のビーナスの帽子または髪型」は「骨盤」、言いかえると「女性の骨盤の形に相似する、十字の銀河の頭部」を表現するデザインであった。したがって、「縄文のビーナスの頭がかぶる骨盤の頂部に刻まれる渦巻き」は「せまい産道を通りぬける、出産児の4回の回旋」を表現する意匠(いしょう)であった。
 (注 下図は茅野市縄文考古館発行の『常設展示図録』の35ページにある〔縄文のビーナスの背面図〕である)
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 上図における「縄文のビーナスの頭部の骨盤頂部に刻まれる渦巻き」は「尖石遺跡集落群の天頂緯度(北緯36度)」と「出産児が4度回旋して通りぬける産道」の合体意匠である。というのも、縄文人たちは「天頂緯度線のキャッチ(緯度の精確な測量)」と「出産児の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口(ちつこう)にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と同一視していたからである。
 つまり、縄文人たちは「瞬時(4~6秒間くらい)に天頂緯度線をキャッチして【命】を手に入れ」、出産児は「瞬時に産道を通りぬけて【命】を手に入れ」ていた。ゆえに、「【命】を手にいれることができる天頂緯度線をキャッチする黄金色に輝く十字の銀河の、その頭部」と、「はじめ無色透明であったもの胎児の皮脂(ひし)などで黄金色となる羊水で潤(うるお)う産道を通りぬけて【命】を手に入れる出産児の黄金色の羊水を浴びる頭」の両者は、尖石集落に住む人々にとって【黄金色に輝く、最も貴い命】をあらわすことになった。
 だから、「縄文のビーナスの頭がかぶる骨盤頂部に刻まれる渦巻き文」は「天頂緯度線のキャッチ」と「出産児が産道を通過するときの4度の回旋」を表現する意匠であった。
 「出産児が産道を通過するときの4度の回旋」を倉頡は[禾]の字で「時計回り90度転回する、第1回旋と第4回旋)」をあらわし、[呉]の字で「反時計回りに90度転回する、第2回旋と第3回旋」をあらわした。
 いっぽう、「縄文のビーナス」は「骨盤を頭にかぶる帽子のごとく造形して、その骨盤頂部に刻む渦巻き文」で「産道を通過する出産児の4回の回旋」を表現した。
 上記したように、「縄文のビーナスの頭がかぶる帽子(骨盤頭頂部)に刻まれる渦巻き文」は【縄文人たちは、日々、天頂緯度線をキャッチして精確に緯度と方位を測量するを習慣にしていた】と、現在に伝えている。
 言いかえると、「縄文のビーナス」は【縄文人たちは、天の北極を基準にして方位と緯度を測量していなかった】と、現在に伝えている。

◆下図は〔天頂緯度線のキャッチの解説図〕である。
 原始のときから、ヒトの脳には、下図に示す〔天頂緯度線〕をキャッチして精確に緯度測定できる本能がそなわり、鍛錬(たんれん)すれば〔1度の60分の1の【1分】の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角(経度)もまったくわからない! 死ぬ」と一気にパニック状態におちいることもなかった。人類は星座よりもはるかにまさって壮麗な、さまざまな印象的な形を有する天頂の銀河部を地理代わりにして、「天頂緯度線」をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存できたのである。
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 上図の右上にある漢字[亠(とう)]は「天頂緯度線と、天頂緯度線上の天頂点と90度交わる子午線」から構成される。
 下図は、〔[(げん)]の字源解説図〕である。[][]の下に[(よう)]が加わる。
 []の字源について、“字書の聖典”と尊敬された卑弥呼が歴史上に初めて登場する約60年前の121年に成立していたとされる『説文解字』は「小なり。子の初生(しょせい)の形に象(かたど)る」と解説する。だから、[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬける出産児」であった。ゆえに、[]は「天頂緯度線を必ずキャッチすると欲を有すると天頂緯度線のキャッチに失敗して死ぬが、産道を通りぬける幺(小さな子)のごとく無欲になれば天頂緯度線はキャッチできる」と示す、〔天頂緯度線をキャッチする心得〕をあらわす字であった。
 だから、[]の字源が示すように、また上記したように、中期縄文時代初頭の尖石集落の人々は「天頂緯度線のキャッチ」と「幺(出産児)の頭が骨盤入口を通りぬけて膣口にて頭が誕生するまでの経過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と考えていたことになる。また、同時代の黄帝や倉頡はじめ中国の人々も「天頂緯度線のキャッチと、幺(出産児)の産道の通過」は共に【命】をストレートにあらわす瞬間と同一視していたことになる。
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◆前述したように、学者たちは「古今、天の北極や北極星がある方角を【北】と定めるものであった。だから、『魏志倭人伝』に記された方位は現在の日本地図と同じく考えなければならない」と主張する。
 しかし、学者たちの視座(しざ)は【科学】がまったく成立しない空理空論であった。
 下図は〔天の北極と北極星の位置図〕である。
 下図における〔大円〕は〔各時代の、天の北極の位置〕をあらわす。下図における〔星座の星〕は〔各時代の、北極星〕となる。
 天の北極は下図中央の〔黄道の北極〕を中心にして25,800年で大円を描いて一周する。
 北半球における地平線(水平線)から天の北極までの高度が3536分の地所の緯度は、北緯3536分である。ゆえに、その地の天の北極の高度が、その地の緯度を示す。
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 上図が示すように、いかなる時代においても〔天の北極〕と重なる〔北極星〕は存在しない。ゆえに、〔無・暗闇である、天の北極の高度〕は〔天の北極を中心として円周する北極星〕で測量しなければならない。〔天の北極に最も近づく北極星〕は紀元前2790年頃の〔りゅう座α星〕と、現在から約80年後の21世紀末の〔こぐま座α星〕である。この〔二つの北極星〕は〔天の北極から約45分離れている〕ゆえ、〔天の北極を中心にして直径が約90分の距離で円を描く〕。ところが、人間の脳にはもちろん、また日々鍛錬しても人間の目には、〔北極星〕を目星(めぼし)にして〔天の北極の高度〕を1度の60分の11分以内の精度で精確に測量できる能力がそなわっていなかった。
 上図の中央の右上に「10°」と記したように、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばの北極星(こぐま座β星)は天の北極から「約10(600)」離れていた。ゆえに、卑弥呼時代の北極星は、天の北極を中心にして直径約20度・約1200分の円を描いていた。
 この〔1200分の直径の中心・緯度となる天の高度を、1分以内の精度で測量できる本能〕は、人の脳にはそなえていなかった。また〔精確に1分以内の精度で測量できる眼力〕も、人は有していなかった。だから、卑弥呼時代、倭の使節が天の北極の高度で緯度を測量する方法で九州沖の玄界灘に入ったならば、全員が命を落として帰還することができなかった。これゆえ、「天の北極と北極星」は人々の【命】を奪う死神(しにがみ)であった。だから、原始・上古・古代にあって「天の北極と北極星」は日本列島地図の【北】を表示する基準にはならなかった。
 邪馬台国説をとなえた新井白石以来現在まで約300年間も、学者たちは「古今、天の北極や北極星がある方角が【北】と定まっていた。ゆえに、『魏志倭人伝』に記述された方位は現在の日本地図で考えるべきである」と主張する。しかし、上記したように【天の北極は「死の闇」に閉ざされた、命が絶たれる天体部】であった。だから、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀半ば)、〔不吉な【死】の天体部、天の北極〕を〔地理における方位の基準〕とするはずがなかった。
 いっぽう、原始のときから、人類は精確に緯度が測量できる天頂緯度線をキャッチして大海を往来していた。九州沖の大海名は「玄界灘」であり、上記したように[]の字源・字形・字義は「産道を通りぬけるときの幺(出産児)のごとく無欲になれば、天頂緯度線はキャッチできる」という〔天頂緯度線をキャッチするときの心得〕をあらわした。
 卑弥呼時代の倭の使節と船乗りは大海上や旅の各地で天頂緯度線をキャッチして朝鮮半島の魏の出張政庁がある帯方郡や魏都に到着し役目をはたすと、倭地に帰還していた。だから、魏と倭の国交を結ぶ〔倭の国書〕を魏王朝は手に入れることができ、後に晋王朝に秘蔵された〔倭の国書〕を閲覧した陳寿が〔倭の国書の記事〕をそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝末尾の〔倭人伝〕に記載した。だから、『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝の倭人伝)が現在まで残ったのである。

 以上のごとく、卑弥呼王朝は〔天の北極や北極星〕を【北】と定める日本列島地図を制定するはずがなかった。というのも、〔天の北極の高度を緯度に変換する方法〕では、倭の使節や船乗りは玄界灘で死滅し、〔倭の国書〕を魏都に届けることができなかったからである。だから、もとより、卑弥呼王朝は〔天の北極と北極星がある方角を【北】と定める、日本列島地理〕を制定しなかったことになる。
 上記したように、学者たちの現在の日本地図の基(もと)に方位を考える論法では倭の使節は玄界灘で死滅して帯方郡や魏都に到着できなかったことになる。だから、学者たちの意見だと、倭と魏は国交を結べなかったゆえ『魏志倭人伝』には〔文字が1字も書かれていなかったこと〕になる。したがって、元来、『魏志倭人伝』は歴史史料として存在しなかったことになる。
 しかし、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は実在する。
 だから、【「『魏志倭人伝』には文字も1字も書かれていなかった」ことになる【学者たちの、現在の日本地図で立論する視座】は【科学】がまったく成立しない空理空論、デタラメであったのである。

◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であった。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
 邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』に記される「一大国」は「一支国」の誤記であったと主張する。
 しかし、倉頡は「十字の銀河の腰にある子宮の相当する銀河部」を「十字の銀河の子宮」と定めた。そして、倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
 だから、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて小国名を「一大国」と定めた。ゆえに、「一支国」が正しいという意見は空論であった。

 『魏志倭人伝』に記されているとおり、卑弥呼王朝は「対馬国を北、一大国を南」と定め――この【「対馬国・一大国の南北(経度軸)」を基準】にして――[]の字源「時計回りに90度転回する、西→北・東→南」とする規定にもとづいて、下図に示す【本州の西に在る九州は北に在り、本州の東の東海地方は南にある】と定める【転回日本列島地理】を卑弥呼王朝は制定したことになる。
 つまり、下に示す【対馬国と一大国を除く、九州以下の本州地理における方位】は、卑弥呼が統治した国名「倭」の字源をあらわすことになる。
 下に、【[]の字源をあらわす・卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理】を配した。
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 上に配した【転回日本列島地理における九州から邪馬壱国(山陰・出雲)までの旅程における方位】は、下記に示す『魏志倭人伝』の旅程記事に一ヵ所も矛盾せず全部合致する。
 『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国の東南五百里、伊都国に至る。伊都国の東南百里に奴()国がある。奴国の東へ百里行くと不弥(ふみ)国に到着する。不弥国の南の投馬(つま)国に至るには水行二十日。投馬国から南へ水行十日陸行一月で邪馬壱国に至る」と記述する。
 したがって、上に提示した【転回日本列島地理】に示したように――倭女王の卑弥呼が居住した「邪馬壱国」は「現在の島根県と鳥取県西部、旧国の石見・出雲・伯耆」であった。「卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心」は、下記の記事ともすべて合致して合理となる「山陰出雲、現在の島根県東部」であった。
 上記の旅程記事に関係する、下記の記事もまた[]の字源をあらわす【転回日本列島地理】にもとづいて九州における余白となる地域について説明していたことになる。
 『魏志倭人伝』は九州について「女王国(山陰出雲地方)より以北は、其の戸数・道里は略載を得べきも、其の余の旁国は遠絶して詳を得べからず」。つまり「女王国(山陰出雲地方)より以北には、その戸数・道里の概略を記載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の傍(かたわ)ら周辺に余る地域()が存在するが、この余白地域は女王国より遠く国交が絶えているゆえ詳細を説明することができない)」と説明している。ゆえに、「女王国より以北の戸数・道里を略載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の旁(かたわ)らに所在する余った空白地域」は、「現在の大分県南部(旧国の豊後)・宮崎県・鹿児島県」であった。
 さらに『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱国(山陰出雲地方)の東、海を渡ること千余里にしてまた小国があり、この小国は皆(みな)、倭種である」という記事もある。
 上に配した【転回日本列島地理】に図示したように――[]の字源は「北→東」であるゆえ「女王国(出雲)の東、海を渡ること千余里の皆が倭種となる小国」は「隠岐群島」であった。隠岐群島は知夫里島(ちぶりしま)・西ノ島・中土で構成される島前(どうぜん)と、もっとも大きな島後(どうご)と、そして約180の小島からなる。このような「多数の島々からなる群島」は「皆一つにまとめて倭種なり」と表現されることになったのである。

◆上に提示したように、卑弥呼王朝は【「九州の末盧国以下の本州の地理」を、[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」で統一する列島地理】を制定していた。
 だから、『魏志倭人伝』は「末盧国の東南五百里、伊都国に至る。伊都国の東南百里に奴国がある。奴国の東へ百里行くと不弥国に到着する」と記述する。
 下の〔[]の転回方位にもとづく九州各小国の範囲・旅程基点の地図〕が示すように――〔末盧国の松浦市・伊都国の糸島市前原町・奴国の福岡市の香椎宮・不弥国の宗像大社辺津宮までの道里(距離)と方位〕は、上記した『魏志倭人伝』の〔末盧国から不弥国までの旅程記事〕にすべて合致するゆえ、すべて合理となって【科学】が成立する。
 これゆえ、『魏志倭人伝』の全記事は正確であり「卑弥呼王朝は【[]の字源をあらわす、転回日本列島地理】を制定していた」と説明していたことになり、邪馬台国説はデタラメ読みした空理空論であったことになる。
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 さらに、下図に示すように、「末盧国」であった「佐賀県西部と長崎県(対馬と壱岐をのぞく長崎県)」には、卑弥呼王朝が制定した[]の字源の方位規定が現在も残っている。
 下図の「末盧国の地宜」は「[]の転回方位規定にもとづいて横転する飯器(はんき/飯(めし)を炊く土器」に相似すると見立てられた。というのも、「末盧国」の[]の字について、『説文解字』は「飯器」とするからである。「末盧国」の[]は「秋の収穫期の末期」を意味すると考えられる。というのも、『説文解字』は[()]の字源を「寄(かりや)なり。秋冬には去り、春夏には居る」と解説するからである。[][]の字は相似し、「末盧国の地宜」は「秋の収穫の末期に、収穫を祝って炊く飯器の形」に相似する。
 だから、「末盧」という小国名は「秋の収穫期の末期に、収穫を祝って炊く飯器」であったことになる。
 下に示す〔[]の転回方位にもとづく末盧国の地理〕における「北松浦」「東松浦」「西松浦」という地名は矛盾せず合理となる。また「西彼杵(にしそのぎ)」「東彼杵(ひがしそのぎ)」という地名も合理となる。だから、「末盧国、現在の佐賀県西部と長崎県」には、倉頡が作った[]の字「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受けついだ[]の「方位規定」が失われずに現在まで残ったことになる。
 現在の日本地図の方位規定にもとづくと――「東松浦」という地名は「北」に所在するゆえ、地名は「北松浦」でなければならない。また「西松浦」は「南」に所在するゆえ「南松浦」でなければならず不合理である。さらに「北松浦」は「西」に位置するゆえ「西松浦」と名づけるべきことになる。同様に「西彼杵」と「東彼杵」という地名も矛盾する。
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◆上に提示した【九州以下の本州の方位が[]の字源をあらわす転回日本列島地理】は、『魏志倭人伝』の方位記事と一ヵ所も矛盾しない。そして、【転回日本列島地理】は『魏志倭人伝』の記事に1ヵ所も主観を加えずに客観的思考に徹する意見であるゆえ、【科学】が成立する。
 だから、『魏志倭人伝』は、上に提示した【本州地理が[]の字源「東→南」へ時計回りに90度方位が転回する日本列島地理】を卑弥呼王朝が制定していた――と説明していたことになる。
 しかし、学者たちは全員、「北極星や天の北極は〔北〕の基準となる」ゆえ、卑弥呼王朝が〔東・西・南・北〕の方位を絶対に誤るはずがないゆえ、卑弥呼王朝は現在と同じく天の北極を〔北〕とする本州地理観を有していたと断定して、上に提示した【転回日本列島地理】を即座に「誤っている」と否定する。
 だが、前述したように、上に提示した〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕をもって解説した「天頂緯度線をキャッチして緯度測定する方法」と、〔歳差状況図(天の北極の位置図)〕をもって解説した「天の北極の高度を緯度に換算する方法」を比較すれば――〔天の北極がある方角〕を〔北〕と定める現在の日本列島地図を用いて立論する邪馬台国説はわずか1時間足らずで完全に空理空論、非科学説、臆説(おくせつ)であったと断定できる。

 以上のごとく、邪馬台国説はすべてデタラメ・インチキ・ウソであったのである。
 『魏志倭人伝』によって日本国民が日本人として生きる真理、権利が明らかとなる。
 だから、邪馬台国説に日本国民は棄てられ、日本人として生きる人権を侵害され、日本人として生きる尊厳を冒涜されて侮辱されている!

 日本人ヨ! 愛(いと)おしき日本人よ! 邪馬台国説にはダマされるな! 邪馬台国説は無視せよ! 日本国民は、もういいカゲンに 邪馬台国説にはダマされるな! もう十分、日本国民はダマされた! もうこれ以上 邪馬台国説に バカにされるな! 愛おしき日本国民ヨ! 目覚めよ!

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2022年4月 9日 (土)

邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・6

#日本人ヨ! いとおしき日本人よ!


◆日本人ヨ!

(いと)おしき日本人よ!

邪馬台国説にはダマされるな!

 邪馬台国説は相手にするな!

 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にはダマされるな!
 もう十分、日本国民はダマされた!
 日本国民ヨ! 目覚めよ!

◆西暦180年頃から250年頃までのわが国の様子を伝える歴史書にして、倭女王・卑弥呼が登場することで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんんでん)』は280年~289年に著述された。著者は中国の晋(しん)につかえた歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)である。歴史編纂官の特権から陳寿は晋王朝が秘蔵していた【魏へ送られた倭の国書】を閲覧することができた。【倭の国書】を読んだ陳寿は「倭には漢字の起源の秘密を保存する太古の文字があるにちがいない」と直観した。ゆえに、陳寿は主観・自分の考えをいっさい加えないで【倭の国書】の記事をそのまま書き写して、『三国志』魏書東夷伝(ぎしょとういでん)の末部に〔倭人伝〕を配置した。この〔『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝〕を通称『魏志倭人伝』とよんでいる。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』における約85パーセント・約1700字の記事(倭人国の34の小国に関する記事)は、1世紀~2世紀頃の後漢時代から出現した楷書を用いて説明しているが――【今から約4000年前に、わが国が習得した夏音(かおん)文字を用いて卑弥呼が作った文書(倭の国書)の記事を、倭の伊都国(いとこく)の港で魏が読解できるように楷書に書き直した倭の文書】をそのまま書き写して、陳寿は『魏志倭人伝』を著作した。
 わが国が約4000年前(中国の夏代初頭、わが国の後期縄文時代初頭)に習得した夏音文字は【天文学で通称「夏の銀河」とよばれる銀河各部の形状を字源・字形・字義とする太古の漢字】であった。つまり、約5000年前から始まった五帝時代の書契(しょけい)、約4000年前から始まる夏音文字(夏代の文字)、約3600年から約3300年までの殷代(いんだい)前半期の漢字は【夏の銀河の各部の形状を字源・字形・字義とする文字】であった。
 『魏志倭人伝』は「倭国は夏代初頭に夏音文字を習得した」という歴史の基(もと)に説明する史書であった。しかし、陳寿は「倭国には夏音文字が存在した」と読解したのではなく、多分、下記の【A】【B】【C】の三ヵ所の記事から「倭には太古の漢字がある」と直観・推断したにちがいない。

◆上記の【A】【B】【C】の記事をルビ無しにして書き下し文で示すと下記のごとくなる。
【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
 【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる。
【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
 【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭女王・卑弥呼はじめ倭国の王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換し、つまり誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであった。
 【C】『魏志倭人伝』は「倭女王名」を「卑弥呼」と記すが――倭女王名に用いる[]の字義を中国の楷書では「賤(いや)しい」とする。しかし、太古の漢字知識に精通する倭女王の名に用いる[]の字義は「賤しい」であるはずがない。倭の[]の字には漢字の起源の秘密や、もしくは太古の漢字の秘密があるにちがいない――と、陳寿は推断したことになる。
 このような三つの事例は「5世紀あるいは6世紀に楷書を習得した以前に、倭は夏音文字を習得していた」と明確に示している。にもかかわらず、江戸時代中期の1725年に死去した新井白石以後の邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志をまったく有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。

◆わが国が約4000年前に習得した夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 元来、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)もまた「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成されるものであった。ゆえに、後漢時代後半に出現した楷書の字源・字形の原形・原義もまた「夏の銀河の各部の形状」であった。
 []の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
 「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。
 下に「夏の銀河の写真」を示した。
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◆約5000年前、五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は文字(漢字)を発明した。
 倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしもウクライナを侵略したプーチンのごとき傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた。
 【倉頡が死刑と定めた三つの掟】は――【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする 【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする 【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする――であった。
 上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
 また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。しかし、『魏志倭人伝』に記述された真実の歴史を解明するには、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要であるゆえ、私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
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◆もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解していたならば――『魏志倭人伝』によって「中国の神話や伝説に登場する【黄帝が研究した医学】と【倉頡が発明した漢字作成理論】を理路整然と説明している。だから、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りで、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という事実が【科学】が成立して証明されていたことになる。
 『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論】は、わが国の様々な遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して、現在においても厳然と残っている事実――が明確となる。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論】によって【黄帝と倉頡は歴史上の人物であった事実】は【唯一無二の真実】となる。

◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
 『魏志倭人伝』は【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究をあらわすために発明した漢字の作成理論】を説明する学術書であった。
 それというのも、卑弥呼が生存した世は下記のごとき状況であったからである。
 
中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかった。
 だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばの中国は、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。このため、【黄帝軍の無敵であった軍事力と黄帝の仁徳・慈愛の政策】が渇望(かつぼう)されて、卑弥呼は自衛・国防に努力しなければならなかったのである。
 中国において三国が鼎立(ていりつ)した、その三国の国名は魏・呉・漢()であった。
 「魏」という国号は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受け継ぐ[]に黄帝が信仰した「鬼神」の[]を加えた字であるゆえ、[]は「黄帝軍のごとき最強の軍力」を表示するものであったと考えられる。倉頡は【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわすために、[]の字を作った。つまり[]の字源は「巫女(みこ)たちが祈祷し祝って生まれた人民たちの子どもたちが、この世に満ち満ちあふれる」であった。また「蜀(しょく)」の正式名の[]の字源・字義は「夏の銀河」であった。
 このように、卑弥呼が生存した時代は中国と諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡から始まる学問】を復興して自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であった。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前の夏代初頭、帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【()黄帝の医学と仁徳・慈愛の政策と、()倉頡が発明した漢字作成理論と、()精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
 『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
 だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【科学】に反する錯覚・空想であったのである。

◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術(知識)】は【絶大な恐怖心】で世を支配することになった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方をくわしく暴露した大罪人と同じくあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大悪党となった。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された夏音文字は「倉頡が死刑と定めた【三】の掟」をもって徹底的にまもられたゆえ、夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 また、中国の人口が一気に激減した残酷な獣性に支配された後漢時代末から三国時代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術】は【最強最大最高の軍力と国防力】を示すことになった。だから、中国はじめ諸韓国と倭国の自衛・国防にあって【黄帝と倉頡の学問の復興】が最も重視され、真っ先に必要とされたのである。
 したがって、卑弥呼が【倭国の国防を強化する】ために、34の小国名をもって【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡が発明した漢字作成理論】が理路整然となるように完璧化を目指したのは、当然のことであったのである。

◆『魏志倭人伝』は女王・卑弥呼が居住した都が所在した王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記す。しかし、邪馬台国説学者たちは、全員、[()]の字は[()]と記してあると押しとおして「卑弥呼は邪馬台国に居住していた」と日本国民をダマす。
 「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する児童(赤ちゃん)の頭蓋骨がせまい産道をとおりぬけることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の仕組みの、結合組織性の膜(まく)」をあらわす語であった。「邪馬壱国」の[]の字源・字形・字義は「女性の生殖器、つまり子宮・産道・骨盤や骨盤入口など」であった。
 だから、「邪馬壱」という語は【黄帝の「子どもの出産(邪馬)」の研究】と、【「女性の生殖器()」の研究】をあらわした。
 『魏志倭人伝』には「その地には牛馬は無し」、つまり「倭人国には牛と馬は生息していない」と説明する記事がある。
 「邪馬」の[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。倉頡は「フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 []の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であった。「ジャコウウシ」は[]の字源「子宮や骨盤」をあらわした。ゆえに、倉頡は「ジャコウウシ」も【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 ジャコウウシは、ツンドラ地帯のきびしい寒さにたえられるように暗褐色(あんかっしょく)の毛足の長いコートでおおわれており、すさまじい猛吹雪にも耐えることができる。群生し、黄帝時代には100頭以上の群れがふつうに見られたという。ジャコウウシのオスが興奮して咆哮(ほうこう)すると、前肢(前の足)の内側に頭をこすって眼下腺(がんかせん)からジャコウ(麝香)の分泌物をはなつ、この香りからジャコウウシと名づけられた。天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中にかくして鼻を外側にむけて円陣を作って衛(まも)る。女性の生殖器の大部分(卵管・卵管采・卵巣・子宮・産道の一部など)は骨盤内にある。ゆえに、「骨盤」を「ジャコウウシの群れが作る円陣」に見立て、「子宮や胎児」を「円陣の中心にかくすジャコウウシの子」に見立てて、倉頡は「ジャコウウシ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という記事があり、「黄帝軍は駐屯するとき、円陣を組んで自衛した」と説明する。黄帝軍はジャコウウシから自衛の方法や戦法を学んでいたのである。

◆上記したように、「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する赤ちゃんがせまい産道を通りぬけることができる、頭蓋骨の仕組み」をあらわす。産道を通りぬける赤ちゃんの頭蓋骨には「小泉門」、「矢状縫合」、「大泉門」とよばれる結合組織性の膜(マク)がある。この「小泉門・矢状縫合・大泉門の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」と表現した。
 下図は「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の図」である。
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 出産児・赤ちゃんの頭蓋骨「邪馬」の縫合は完成しておらず、骨どうしのあいだの小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みになっている。この「邪馬の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」、現在の産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 馬(フタコブラクダ)が草をモグモグと食べるときの〔ラクダの鼻〕を〔小泉門〕に見立てると、〔ラクダの鼻の下の、口までのミゾ〕は〔矢状縫合〕に相似し、〔ラクダの口〕は〔大泉門〕にそっくりとなる。つまり、〔草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・ミゾ・口が少し邪(なな)めになって重ね合わさって歪(ゆが)む形状〕は〔産道を通過する赤ちゃんの頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門が重ねあわさって小さくなる骨重積の形状〕に瓜(うり)ふたつ・ソックリである。
 下図は卑弥呼が「邪馬」と名づけた「フタコブラクダの鼻・ミゾ・口の図」である。
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 そして、〔骨盤入口をくぐりぬけるときの赤ちゃんの頭蓋骨は首に対して少し邪(なな)め、つまり少し斜(なな)めになって骨盤入口をくぐりぬける状況〕を、産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼んでいる。他方、〔赤ちゃんの頭蓋骨が首と同じく垂直に立つ状況〕を、産婦人科で「前後径(ぜんごけい)」と称する。邪馬・小斜径の頭蓋骨の前後の径(長さ)は平均32センチ、骨盤入口を通りぬけることができない赤ちゃんの前後径(頭蓋骨の前後の径)は平均34センチである。したがって、小斜径より2センチ大きい前後径の場合、赤ちゃんは頭が骨盤入口を通りぬけることができず死ぬことになる。
 ゆえに、この点からも卑弥呼は「出産児の頭蓋骨の小斜径」を「邪()めの馬」つまり「邪馬」と名づけたのである。
 だから、「馬・フタコブラクダ」は「出産児の頭蓋骨がせまい産道を通りぬけることができる仕組み」をあらわして、人間にとってもっとも大事な[][]について説明できるゆえ、倉頡は「馬・フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

◆倉頡は、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく【漢字の字形を左東・右西】と定めた。
 下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】にもとづく〔「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の天頂緯度線をあらわす図〕を配した。
 下の図における中央に、「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河」がある。「邪馬の銀河」の東方にある「十字の銀河の子宮(腰の部分)」が[]の字源である。したがって、「邪馬の銀河」と[]の中間にある「鬼の横顔に似る銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」であった。
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 下に、「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」を配した。
 「四つ目の銀河における顔と後頭部とアゴ」には〔目の形に相似する箇所〕が四つある。
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◆『魏志倭人伝』は「倉頡伝説は事実を伝えている」と証明できた文献史料であった。
 というのも、上に示した「四つ目の銀河」を、倉頡伝説は「四つ目の怪人・倉頡」と表現していたからである。
 学者たちは、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」を「人間には、目が四つ無い! 倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)のデタラメだ」と断定した。
 倉頡伝説は下記のごとく説明した。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾(か/稲)を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
 前述した「四つ目の銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわした。

 倉頡伝説に登場する[]は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江に到着して稲を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して稲を大事に育てた」と意味したことになる。
 倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
 倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって変形することができなかったゆえ、後世の人々は【文字】となった【夏の銀河の各部の形状】を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
 したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察せず無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。


◆『魏志倭人伝』の冒頭記事は「倭人は、帯方の東南、大海の中に在り」である。
 『魏志倭人伝』の冒頭の字[]の字源は、倉頡伝説に登場する[]の字源をそのまま受けついだ。また、[()]の字源も[]の字源を受けついだ。
 ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解説図〕とした。 
 下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯3130)をあらわす。
 なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。

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◆前述した「邪馬」の「出産児の小泉門・矢状縫合・大泉門からなる、小斜径の頭蓋骨」は骨盤入口をくぐりぬけるときに「時計回りに90度転回する回旋(かいせん)」をおこなう。この回旋は第1回目の回旋である。第2回目の回旋と第3回目の回旋は反()時計回りの90度の転回となる。そして、第1回目の回旋と同じく、時計回りに90度転回する第4回目の回旋をして赤ちゃんの頭は膣口(ちくこう)から脱出して誕生する。
 この出産児の骨盤入口をくぐりぬけてから膣口を脱出した頭が誕生するまでの4回の回旋の様子は目で見ることができる――つまり、分娩室に入室して妻の出産の様子に立ち会う夫は、わが子が産道を通過する4回の回旋の様子を目撃できる。
 この出産児が産道を通りぬける頭蓋骨の4回の回旋の光景は、言葉であらわすことができないほど感動的で泣きたくなるほど神秘的である。
 倉頡は【黄帝の医学研究における最も神秘的な生命のいとなみ】を表現するため、[]の字を作って「第1回と第4回の時計回りに90度転回する回旋」をあらわした。つまり、倉頡は「北→東・東→南・南→西・西→北となる方位規定、すなわち時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。また倉頡は[]の字を作って「第2回と第3回の回旋」はあらわすため、「北→西・西→南・南→東・東→北となる方位規定、言いかえると反()時計回りに90度転回する方位規定」を[]の字源・字形・字義と定めた。
 そして、[]の字は「五穀豊穣(ごこくほうじょう)、人民に飢えさないとする」という政治スローガンを表示すると定めて、黄帝の仁徳・慈愛の政策をあらわした。[]の字源「時計回りの90度の転回方位規定」をそのまま受け継いだ[][]の字も「五穀豊穣、黄帝の仁徳・慈愛の政策」を表示することになった。また、[]そして[]の字は「人民たちが多くの子どもを生んで、この世は楽しく栄える意」をあらわすことになった。

◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であった。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
 また、『魏志倭人伝』は「対馬国より南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 対馬国と一大国の中間にある「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。
 下に、〔対馬国・瀚海・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)〕を示した。
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 下に、〔「沙漠」と[]の字源銀河解説図〕を配した。
 「三つ輪の銀河における渦巻く無数の小さい星々」は沙漠の砂のようにキラキラ光る。ゆえに、「三つ輪の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられた。「三つ輪の銀河の北端」(下図の左上)は瀚海・ゴビ沙漠の天頂(北緯42度周辺)であり、また「三つ輪の銀河の北端の横顔に見える銀河部」は「フタコブラクダの横顔」に相似する。これゆえ、「三つ輪の銀河」と同様にキラキラ輝く「十字の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠に住む匈奴(きょうど)の人々にとって大切な家畜、フタコブラクダ」に見立てられて[]の字源となった。
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 下図は〔「対馬」の地宜と[]の字源解説図〕である。
 卑弥呼は「長崎県対馬の地宜」を[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くに都合よい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠に残る足跡の形」と見立てた。だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の、一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]を加える「対馬国」と定めたのである。
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 倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
 これゆえ、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、小国名を「一大国」と定めた。
 下図に示すように「壱岐の西方の海岸線の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「壱岐の大半の地宜」は[]の字源「南に顔を向けるジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。ゆえに、「一大国のジャコウウシの地宜」は「黄帝時代、黄帝陵周辺地域の餌場(えさば)に集まったジャコウウシの100頭の大群」に見立てられたことになる。
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◆〔一大国の地宜(海岸線の地図の形)〕は[]の字源「十字の銀河の子宮」に見立てられ、また【漢字作成理論を象徴する聖獣】の「フタコブラクダとジャコウウシの姿に相似する地域に岐(わか)れる〕。ゆえに、現在の地名は[][]が加わる「壱岐」となった。
 []の字源「フタコブラクダの正面形と足底の形」に見立てられた「対馬国の地宜」は「経度軸と緯度軸に対して邪()め」である。ゆえに、「対馬国の地宜」は「邪馬」を、「一大国・壱岐」は[]の字源をあらわす。
 結局、「対馬国と一大国」は卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」をあらわす。
 だから、卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であって、「邪馬台国」ではなかった。

 一大国の「一大」は伊都国に居住する「一大率」の「一大」をあらわした。
 伊都国は、一大国より南東の糸島半島より南の地域であった。
 もしも中国や諸韓国が侵略・来襲してきたならば、一大率は外敵を対馬・瀚海の北方へと逐いはらう国防の軍王(国防軍の総司令官・大将)であったことになる。
 下に「伊都国の範囲と地宜」をあらわした。
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 上図における伊都国の「糸島半島の地宜」は「牛・ジャコウウシの横顔」に見立てられ、「糸島半島より南部」は「ジャコウウシの100頭が犇(ひしめ)く群」と見立てられた。
 [伊]の字は「100頭のジャコウウシが外に鼻を・中央に背中を向けて、円陣(円形の軍陣)を組む習性」をあらわした。[]の字は「円形の城壁をめぐらす軍事都市」をあらわした。ゆえに、脊振山地(せふりさんち)の北側の現在の福岡県糸島市から脊振山地の南側の佐賀県佐賀市一帯の小国名を、卑弥呼は「伊都国」と定めたことになる。
 また、伊都国王「一大率」という名が示すように、「伊都国」という小国名は「天敵オオカミに襲撃されたときに百頭のジャコウウシの群れが円陣を組んで衛(まも)る闘い」をあらわした。ゆえに、伊都国は「倭国の自衛・国防の軍事拠点」であったことになる。
 『魏志倭人伝』には「すなわち共に一女子を立てて王と為()す」という記事がある。この記事は「一女子の卑弥呼が倭女王に就任した(立った)とき、卑弥呼と共に九州で国防を担当する軍王に就任したのが伊都国の一大率であった」と説明していたのである。だから、対馬国の「邪馬」に一大国の[]を加える「邪馬壱」という語は「対馬国と一大国の〔邪馬壱地域〕を防衛する一大率と邪馬壱国に住む女王・卑弥呼は、共に外敵を対馬国・瀚海・一大国から外へと逐()いはらう」という国防政策をあらわしていたことになる。

◆卑弥呼は、国名を「倭人国」と定めた。
 『魏志倭人伝』に記されているとおり、卑弥呼王朝は「対馬国を北、一大国を南」と定め――この「対馬国・一大国の南北(経度軸)」を基準にして[]の字源「時計回りに90度転回する、西→北・東→南」とする規定にもとづいて「本州の西に在る九州は北に在り、本州の東の東海地方は南にある」と定める転回日本列島地理を制定した。
 下に、[]の字源をあらわす・卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理を配した。
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上に配した【転回日本列島地理における九州から邪馬壱国(山陰・出雲)までの旅程における方位】は、下記に示す『魏志倭人伝』の旅程記事に一ヵ所も矛盾せず全部合致する。
 『魏志倭人伝』は「末盧(まつろ)国の東南五百里、伊都国に至る。伊都国の東南百里に奴()国がある。奴国の東へ行く百里に不弥(ふみ)国に到着する。不弥国の南の投馬(つま)国に至るには水行二十日。投馬国から南へ水行十日陸行一月で邪馬壱国に至る」と記述する。
 さらに下記の記事もまた[]の字源をあらわす【転回日本列島地理】にもとづいて九州における余白となる地域について説明していることになる。
 つまり、『魏志倭人伝』は九州について「女王国より以北は、其の戸数・道里は略載を得べきも、其の余の旁国は遠絶して詳を得べからず」、つまり「女王国より以北では、その戸数・道里の概略を記載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の傍(かたわ)ら周辺に余る地域()は、女王国より遠く国交が絶えているゆえ詳細を説明することができない)」と記述する。
 この「女王国より以北の戸数・道里を略載した末盧国・伊都国・奴国・不弥国の旁(かたわ)らに所在する余った空白地域は、現在の大分県南部(旧国の豊後)・宮崎県・鹿児島県であった。この余の旁国地域は、上の【転回日本列島地理】では『魏志倭人伝』の記事のとおり「女王国・邪馬壱国以北に所在して、女王国から遠く離れている」。
 さらに『魏志倭人伝』には「女王国・邪馬壱国の東、海を渡ること千余里にしてまた小国があり、この小国は皆(みな)、倭種である」という記事もある。
 上に示した【転回日本列島地理】の右側に記したように――[]の字源は「北→東」であるゆえ「女王国の東、海を渡ること千余里の皆が倭種となる小国」は「隠岐群島」であった。隠岐群島は知夫里島(ちぶりしま)・西ノ島・中ノ島で構成される島前(どうぜん)と、もっとも大きな島後(どうご)と、そして約180の小島からなる。このような「多数の島々からなる群島」は「皆一つにまとめて倭種なり」と表現されることになったのである。

◆現代の日本列島地図にもとづいて考える邪馬台国説学者たちは、上に提示した【[]の字源をあらわす、本州が時計回りに90度転回する日本列島地理】が『魏志倭人伝』の旅程と方位記事にすべて合致するゆえ【科学】が成立して事実を伝えていたことに気づかない。
 『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読解すると、〔卑弥呼王朝は【[]の字源をあらわす、転回日本列島地理】を制定した事実〕が【科学】が成立して証明される。
 []の字源は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受けついでいた。
 下に現在方位にもとづく「末盧国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)」を配した。
 2世紀初頭に成立した〔字書の聖典〕とよばれて尊重された『説文解字(せつもんかいじ)』は「末盧」の[]の字を「飯器(はんき)なり」と解説する。ゆえに、「末盧」は「秋の穀物の収穫作業の末期(終わり)、飯(めし)を炊く五穀豊穣の祝い」を意味したと考えられる。
 下の地図に示したように、末盧国の境界線は唐津湾にそそぐ松浦川(まつうらがわ)の上流と有明海にそそぐ塩田川(しおだがわ)の上流を結ぶ地域を結んで境界線と定めると――〔末盧国北部の地宜〕は「縄文時代の飯を炊く土器の形」に相似し、〔末盧国南部の西彼杵(にしそのぎ)半島・長崎半島・島原半島地宜〕は「飯器を炊くカマドの炎の形」に相似する。
 ゆえに、〔末盧国〕は〔松浦川と塩田川より以西の佐賀県西部と長崎県(対馬と壱岐を含まない)〕であったことになる。
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 上の末盧国における「東松浦」という地名は「北」に所在するゆえ、地名は「北松浦」でなければならない。また「西松浦」は「南」に所在するゆえ「南松浦」でなければならない。さらに「北松浦」は「西」に位置するゆえ「西松浦」と名づけるべきことになる。同様に「西彼杵(にしそのぎ)」と「東彼杵(ひがしそのぎ)」という地名も矛盾する。
 下に示す〔[]の転回方位規定にもとづく末盧国の地宜〕における「北松浦」「東松浦」「西松浦」という地名は合理となる。また「西彼杵」「東彼杵」という地名も合理となる。
 だから、「末盧国、佐賀県西部と長崎県」には、倉頡が作った[]の字「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受けついだ[]の「方位規定」が失われずに保存されて現在まで残っている。
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◆だから、前述したように、卑弥呼王朝は【末盧国以下の本州の方位規定を、[]の字源をあらわす「時計回りに90度転回させる」日本列島地理】を制定したことになる。
 前に示した【転回日本列島地理】では〔末盧国・伊都国・奴国・不弥国の旅程基点〕が明確に示されていない。
 ゆえに、下に〔[]の転回方位にもとづく九州各小国の範囲と旅程基点の地図〕を配した。
 下の図の〔末盧国の松浦市・伊都国の糸島市前原町・奴国の香椎宮・不弥国の宗像大社辺津宮までの道里(距離)と方位〕は『魏志倭人伝』の記事とすべて合致する。
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 だから、前に提示した【卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理】に表示したように、倭女王・卑弥呼が居住した邪馬壱国の範囲は「旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)、現在の島根県と鳥取県西部」であったことになる。
 そして、「現在方位の北」は「[]の字源の転回方位の東」となるゆえ、『魏志倭人伝』が「女王国の東、海を渡ること千余里にしてまた国有り。皆、倭種なり」と記述する小国は日本海に浮かぶ「隠岐群島」であったことになる。というのも、日本海には「皆、倭種なり」と説明する「多数の島からなる群島」は隠岐群島以外一ヵ所も存在しないゆえ、「皆、倭種なりの小国」は隠岐群島であったと限定することができるからである。
 したがって、隠岐群島が東となる出雲(現在の島根県東部)が、邪馬壱国の中心地であったことになる。
 下の図は、新人物往来社『歴史読本』第524号の109ページ「出雲大社創建の背景」の執筆者・松尾充昌氏(島根県埋蔵文化調査センター)が作製した地図を、私がトレース(転写)して転回方位地図としたものである。
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 上の〔古代出雲の「邪馬壱」をあらわす地図〕の左上部には、〔神門水海(かんどのみずうみ)〕があり、右下部には〔佐太神社が所在する松江市中央部〕がある。
 上の地図における「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸と邪(なな)め」となり[馬]の字源「子どものフタコブラクダの姿」に相似するゆえ、「神門水海」は「邪馬」をあらわした。また、「松江市中央部」が[壱]の字源をあらわす地宜となる。
 だから、「旧国出雲」は倭女王・卑弥呼が居住した「邪馬壱国」であった。
 「神門水海」は「子のフタコブラクダの姿」に相似する。神門水海が隣接する「[]の地宜」と記した「出雲大社が所在する、フタコブラクダの横顔に似る地域」は「母親のフタコブラクダの横顔」に相似する。「[]の地宜」と記した「母親のフタコブラクダの横顔」は「子のフタコブラクダ(神門水海)の背中を口で嘗()めて撫でている形状」となる。ゆえに、この「フタコブラクダの母親が子を慈(いつく)しみ愛(いと)おしむ情景」は【黄帝の仁徳・慈愛の政策】をあらわす。

◆注目すべきは、「[]の地宜」の転回方位の真南(現在方位の東)の「宍道湖」は「母親のフタコブラクダの足」に相当する。
 前述したように、「対馬国の上県の地宜」は「フタコブラクダの正面の姿」に相似すると見立てられ、「対馬国の下県の地宜」は「フタコブラクダの足底」に相似すると見立てられた。したがって、邪馬壱国における「[]の地宜」と「宍道湖の地宜」は「馬・フタコブラクダの正面形と足が一対」すなわち「対馬」という小国名に合致する。
 「対馬国」の南の「現在の長崎県壱岐」は「一大」とよばれた「十字の銀河の子宮」に見立てられて小国名が「一大国」になった。そうすると、上の図における[]と記した「佐太神社がある松江市中央部」が「一大国」に相当する。
 このような邪馬壱国中央は〔対馬の「邪馬」」と〔一大の[]〕」をあらわす地宜となるゆえ、卑弥呼は「対馬国と一大国の中間の海」を「瀚海(ゴビ沙漠)」と定めたのである。卑弥呼は「邪馬壱国より以北には特に伊都国の一大率を配置して、対馬国・瀚海・一大国の外へ侵略・来襲する外敵を逐いはらう軍王」に就任して、共に国防に努力していたのである。
前述したように、「神門水海の地宜」は「経度軸と緯度軸にも邪(なな)めとなる、馬・フタコブラクダの姿」に相似するゆえ、「神門水海」は「邪馬」をあらわす。
 下図に示すように、「転回方位の南端(現在方位の東端)の宍道湖の地宜」は「人の足首より下の足の側身形」に相似する。ゆえに、「人の足の側身形に相似する宍道湖の湖岸」は「十字の銀河の右足(西側の足)」に見立てられ、宍道湖に隣接する「松江市中央部」は「十字の銀河の子宮」に相当するゆえ[]の字源をあらわした。だから、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰・出雲であった」と理路整然と説明していた。
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◆上図の下部に示したように「宍道湖の足の側身形に相似する爪先(つまさき)」が指差す方向に意宇(おう)平野がある。[]の字源を示す「松江市中央部の南(転回方位)」からカーブを描く矢印の方向に意宇平野がある。ゆえに、「南→西の、時計回りの90度の転回」は[]の字源「時計回りの90度の転回方位規定」をあらわす。
 また、「南→西の、時計回りの90度の転回」は「邪馬」つまり「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門がせまい産道を通りぬけるとき、時計回りに90度転回する第1回目と第4回目の回旋」をもあらわす。
 だから、意宇平野は[]の字源と「邪馬」の語をあらわす聖地であったことになる。
 ゆえに、卑弥呼が住む宮殿は、意宇平野の一画に設営されていたと考えられる。
 『魏志倭人伝』は卑弥呼が住んだ宮殿について「倭女王の卑弥呼は婢()千人を侍(はべ)らせ、(中略)、女王の宮殿には楼観(ろうかん/見張りやぐら)や城柵(じょうさく)が厳重に設けられ、常に兵器を持った兵士が守衛している」と記述する。
 また、『魏志倭人伝』には「その国、本(もと)男子をもって王となす。住(とど)まること七、八十年にして倭国は乱れ、相攻伐(あいこうばつ)して年を歴()。すなわち共に一女子を立てて王となし、名づけて卑弥呼と曰()う」という記事もある。
 中国において獣性に支配される残忍な戦争が続いて一気に人口が激減していた西暦180年頃、倭国においても各国が憎しみあう戦争で乱れていた。ところが一女子が[]の字源と「邪馬壱」という語をあらわす転回日本列島地理を立論し、この転回日本列島地理をもって鬼神(きじん)の啓示(けいじ/鬼神がしめす真理)を説き、もしも中国や諸韓国が侵略すれば乱れた倭国は一気に滅亡すると指摘し警告して戦乱を終息させた。この一女子は後に「卑弥呼」とよばれる倭女王に就任し、伊都国の一大率と共に国防に努力したことになる。
 中国の後漢時代の戦争には、「媚蠱(びこ)」とよばれる「敵軍の呪的(じゅてき)戦力を高める巫女(みこ)、つまり敵軍の媚蠱を殺す魔女」がいた。ゆえに、西暦180年頃の倭国でも、戦いの先頭に霊力が強いとされた巫女が呪的戦力を高める魔女として活躍していたにちがいない。霊力の最も強いと信じられた女性は夏の銀河の暗い箇所までよく見える最も澄んだ瞳を有する13歳くらいの乙女であった。この「魔女となった13歳くらいの乙女たち」は[]とよばれた。ゆえに、卑弥呼は国中の千人の婢を宮殿に集めて、ふたたび婢(魔女)たちが活躍することになる大乱を防いでいたのである。
 だから、卑弥呼が住む宮殿が「敵の来襲を見張る高いやぐらを設営し、敵と戦う城柵を厳重にめぐらし、常に兵器を持った兵士が守衛していた」のは、卑弥呼が【倭国一の強大な戦力】を有して国内の反乱を防いで国家安定を図るためであったからである。

◆以上のごとく、『魏志倭人伝』は()【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と、()【倉頡が夏の銀河の各部の形状から文字を作った理論】と、()【夏代初頭に益氏が教えひろめた夏音文字の学術】を理路整然と説明していた歴史書にして学術書であったのである。
 そして、『魏志倭人伝』は、現在のウクライナ・ロシア戦争から日本国がどのように国防に努めたらよいか、その方法を学ぶことができる最良の教科書である。
【A】ウクライナ・ロシア戦争において「米国や欧州、そしてウクライナ自身はロシアに侵略されないための努力が足りなかった」と批判する人々がいる。このような批判を重視するならば、日本は侵攻されないための外交を真っ先に努めなければならないことになる。
 日本が侵攻されると心配する最大の脅威は尖閣諸島や東シナ海・南シナ海の「歴史的権利」を主張する中国である。しかし、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の歴史】にもとづいて日本が中国との国交に努力すれば、中国の脅威をとりのぞくことができるにちがいない。
 というのも、神話とされた黄帝は中国のすべての漢民族に祖先神と崇められ、中国の文物(学問、芸術、信仰)の制度を創造したとされ、中国人のアイデンティティーであるからである。この【中国の精神的支柱である黄帝の神話】は、『魏志倭人伝』によって【唯一無二の真実の歴史】となる。したがって、わが国が中国と誠実な国交に努めるならば、プーチンのごとくウクライナを理不尽に侵略したような愚行を、中国が強行するはずがない。
 『魏志倭人伝』はじめわが国の文物(学問・芸術・信仰)はじめ様々な遺跡や習慣・風俗などに残る多数の史料でも科学的に証明される【唯一無二の歴史となる黄帝の歴史】は、むしろ黄帝の国・中国にとって積極的に日本との友好・共栄共存に努めるべき重大な政策にして課題とすべきことになるゆえ、中国との友好を望むわが国を中国が侵略する原因・根拠・理由は皆無となるため、中国が侵略するという脅威は杞憂(きゆう)であったことになる。

【B】専制主義の中国と自由主義諸国との対立はじめ、尖閣諸島や台湾海峡が原因で中国の軍事的拡大が決行される事態となった場合――ウクライナ・ロシア戦争によって明白になったように、わが国はウクライナのごとく世界中の多数の国々を味方につける必要がある。
 わがブログ「邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・2」で具体的に解説したように、『魏志倭人伝』によって現代55億人余の人々が使用する文字の始祖・ルーツとなる古代エジプト文字(ヒエログリフ)もまた、漢字と同じく「夏の銀河各部の形状」から作られた事実が科学的に証明される。したがって、わが国は「文字と学術を発明した人類の歴史が科学的に証明された重大な国」と世界中の国々から注目され愛され尊敬されるにちがいない。
 これゆえ、世界制覇を目論む中国や理不尽な北朝鮮に侵攻されることになっても、北米はじめヨーロッパやアジア太平洋・アフリカ・南米などの世界中の国々は、中国や北朝鮮を野蛮な侵略国として非難し、わが国に必ず味方して援助するにちがいない。
 だから、早々にわが国は『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の歴史の解明】を国家的規模で着手する必要がある。

【C】日本の国防は【黄帝を国防の守り神とした卑弥呼の軍事政策】から始まり、国防政策は朝廷・皇室そして将軍・武家たちによって積み重ねられ――このような国防の歴史によって育成された国防意識を日本人はDNAとして受けついでいる。
 ゆえに、なぜ国家をまもらないのか、何のために戦うのか、どうして国土をまもるために戦わなければならないのか――日本国民が戦う意志や意欲を有する対策はじめとする様々な要素からなる多元的で一体性を持った国防を強化増大化するためには、『魏志倭人伝』に記述された【卑弥呼の国防政策からはじまる国防の歴史研究】が真っ先に必要となる。

◆だから、日本人ヨ! 愛(いと)おしき日本人よ! 邪馬台国説にはダマされるな! 邪馬台国説は相手にするな! 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にはダマされるな! もう十分、日本国民はダマされた! 日本国民ヨ! 目覚めよ!
 邪馬台国説は『魏志倭人伝』を〔デタラメ読みの論法〕でこじつけた空理空論、妄想であったうえに、日本国の国力を蝕(むしば)む癌(ガン)であり、亡国の元凶(がんきょう)であったのだ! 

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2022年4月 3日 (日)

邪馬台国説 邪馬台国説はプーチン・フェイクのごとし・5

#日本国民よ、いつまでも邪馬台国説にダマされるな


◆邪馬台国説にダマされるな!

 邪馬台国説は無視して相手にするな!

 日本国民は、もういいカゲンに邪馬台国説にダマされるな!
 もう十分に、日本国民はダマされた!
 日本国民ヨ! 目覚めよ!

◆邪馬台国説は『魏志倭人伝』の全記事を誤読してデッチあげたペテン、インチキである。
 もしも学者たちが『魏志倭人伝』の全記事を忠実に読んで正確に理解していたならば――『魏志倭人伝』は「中国の神話や伝説に登場する【黄帝(こうてい)が研究した医学】と【倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論】を理路整然(りろせんぜん)と説明していた史料であった。ゆえに、黄帝と倉頡は神話に登場する神々であるという学界の定説は明確に誤りで、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった」という真実が【科学】が成立して完全証明されていた。

『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と、倉頡の漢字作成理論の説明】は、わが国の幾つかの遺跡や文物(学問、芸術、信仰)はじめ、現在における日本を代表する文化・習俗や日本人の気質などに融合・同化して残っている事実――が明確となる。

だから、『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字作成理論と、黄帝と倉頡は歴史上の人物であった事実】は【唯一無二の真実の歴史】であったことになる。

歴史哲学・歴史科学を研究する学者たちの中には「唯一無二の歴史の真実は存在しない」と思いこむ人々がいるが――『魏志倭人伝』に記述された【黄帝の医学研究と倉頡の漢字発明】は、上記のごとく現在のわが国の日々の生活にも融合・同化して受け継がれているゆえ――【唯一無二の真実の歴史】は確かに存在することになる。

◆【唯一無二の真実の歴史】を伝える『魏志倭人伝』に対して――邪馬台国説学者たちはじめNHKテレビや朝日新聞出版は【一】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』のおける不都合な記事は何ヵ所でも排除・無視できる、【二】邪馬台国説にとって『魏志倭人伝』における不都合な記事は何ヵ所でも誤読・批判・主観・歪曲(わいきょく)を加えることができるという、ご都合主義の論法を駆使(くし)して日本国民をまんまとダマしている。
 『魏志倭人伝』は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の医学研究】と、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】を説明する歴史書であった。また、『魏志倭人伝』は黄帝の史官(記録官)であった【倉頡が黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究と、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論】をあらわす文字を銀河各部の形状から文字(漢字)を作った理論】を説明する学術書であった。
 倭女王・卑弥呼(ヒミコ)は、【黄帝の仁徳・慈愛の政治理論と医学研究と、倉頡が発明した漢字作成理論】を政権基盤にして倭人国を統治して、中国や諸韓国の侵攻・侵略から衛(まも)る国防に努めた。
 
というのも、中国の後漢時代の平帝元治2年(西暦2)の人口は5,959万余であったが、その後に戦乱が続いて、卑弥呼が生存した乱世・三国時代になると800万余となり、約87パーセントの人々が死亡し、約13パーセントの人口しか残っていなかったからである。
 だから、卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばは、残忍な獣性(じゅうせい)に支配されていた。このため、黄帝軍の無敵であった軍事力と黄帝の仁徳・慈愛の政策が渇望(かつぼう)されて、卑弥呼は自衛・国防に努力しなければならなかったのである。

中国において三国が鼎立(ていりつ)した、その三国の国名は魏・呉・漢()であった。

「魏」という国号は、倉頡が作った[]の字源をそのまま受け継ぐ[]に黄帝が信仰した「鬼神」の[]を加えた字であるゆえ、[]は「黄帝軍のごとき最強の軍力」を表示するものであったと考えられる。倉頡は【黄帝の医学研究】をあらわすために、[]の字を作った。また「蜀(しょく)」の正式名の[]の字源・字義は「倉頡が文字(漢字)を作るモデルとなった銀河」であった。
 上記したように、卑弥呼が生存した後漢時代末から三国時代は中国の魏・呉・漢と中国の隣国の燕地(えんち)や諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡から始まる学問と、その歴史の復興】が渇望されて自衛・国防に全精力をそそがなければならない世であったのである。

◆『魏志倭人伝』には――今から約4000年前(紀元前2070年頃~紀元前2050年頃)の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、帝禹()の後を継いだ帝益(えき)の孫の王子と若者たちが玄界灘を横断して日本列島を北上して東北地方の男鹿半島・米代川流域に定住して、【()黄帝の医学と仁徳・慈愛の政治理論と、()倉頡が発明した漢字作成理論と、()精確な中国海岸線地図と精密地図作製方法】を東北地方から関東一円に住む氏族たちに教えひろめた――と、208字で説明する記事がある。
 『古事記』上巻の序(古事記上巻 幷せて序)は冒頭から末部まで一貫して――益氏の王子と若者たちが教えひろめた夏音文字をわが国が習得した歴史はじめ、夏音文字の字源・字形・字義と後漢時代・三国時代に出現した楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は、共に「夏の銀河各部の形状」である。ゆえに、楷書の「日下(にちげ)」と夏音文字の「玖沙訶(くさか)」は同義、楷書の「帯(たい)」と夏音文字の「多羅斯(たらし)」は同義である――と、【夏音文字】について説明している。また、『古事記』上巻の随所には[]という注がついて益氏が教えひろめた夏音文字が多数記載されて現存する。
 現在、中国においては、益氏が日本列島に定住した夏代初頭は神話であって歴史ではない。しかし、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の序によって、中国の神話・伝説に登場する黄帝・倉頡・帝禹・帝益と益氏の王子と若者たちは一気に歴史上に生存した人々となる。
 『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の漢字音となる。このように、『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名・官職名には夏音文字の字音が残っている。
 だから、わが国が最初に漢字を習得したのは、約4000年前の後期縄文時代初頭であった。楷書を刻む銅鏡や銅剣などの出土史料を注目して学界が「わが国が漢字を最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定した絶対的定説は、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に残って実在する多数の夏音文字を排除・無視して捏造(ねつぞう)した【科学】に反する錯覚・空想であったのである。

1725年に死去した新井白石以後から現在までの邪馬台国説学者たちは全員、『魏志倭人伝』の記事を正確に読むことができず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。
 約2000字で構成される『魏志倭人伝』には、「倭人国には夏音文字が存在した」と伝えていたと解釈すべき記事が【A】【B】【C】の三ヵ所存在する。この記事をルビ無しで書き下し文を示すと下記のごとくなる。
 【A】「其の俗、挙事行来に云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。」
 【A】の記事は――倭国の占いに用いる「その辞(じ/ことばと文字)は令亀(れいき)の法のごとく、つまり亀の腹の甲羅に文字を辛(はり)で刻む殷代(いんだい)の卜占に用いた甲骨文字のような文字があった」、つまり「倭国には甲骨文字のごとき夏音文字があった」と説明していたことになる

【B】「女王国自り以北には特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如きところ有り。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及、郡の倭国に使するや、皆津に臨みて、伝送の文書・賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ。」
 【B】の記事は「魏の都と朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)と諸韓国が文書に用いる楷書と、倭国の女王・卑弥呼はじめ卑弥呼王朝をささえる有力な王たちが文書に用いる夏音文字は字形・字義が差錯(ささく/相違)していたので、楷書と夏音文字に精通する伊都国(いとこく)を治める男王の一大率(いちだいそつ)に教育された配下の役人たちが、魏都・帯方郡・諸韓国から送られた楷書で書く文書と倭国の王たちが夏音文字で書く文書の文字を一字一字ずつテイネイに点検し、伊都国の港からよく見える夏の銀河各部の形状で楷書と夏音文字の字源を確認して、一大率の監督のもとに楷書と夏音文字の文が同義になるように正しく変換して、誤訳が原因で誤解が生じて国交が断絶しないように努力していた」と説明するものであったことになる。
 【C】『魏志倭人伝』は女王・卑弥呼が居住した都が所在する王国名を「邪馬壱(やまい)国」と記す。しかし、邪馬台国説学者たちは、全員、[()]の字は[()]と記してあると言いはり「邪馬台国」と誤読する。
 このような三つの事例が示すように、新井白石以後の邪馬台国説学者たち全員、『魏志倭人伝』の全記事を正確に読む意志を有しておらず、ほとんど全部の記事をデタラミ読みする。

◆夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」によって形成され、これゆえ夏音文字の字源・字形・字義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 元来、楷書の字源・字形の原形(真の字形)・原義(真の字義)は「夏の銀河の各部の形状」にもとづいて形成されるものであり、ゆえに楷書の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河の各部の形状」であった。
 []の字源・字形の原形・原義は「夏の銀河」であった。ゆえに、「[](夏の銀河)から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と称したのである。
 「夏の銀河」は「夏の全星座が漬かる銀河の範囲」、言いかえると「夏に最も長時間見える銀河の範囲」である。下に「夏の銀河の写真」を示した。
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◆倉頡はみずからが考案した文字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の知識を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡することに気づいた。また【文字は夏の銀河から作られた知識】を最も厳重な機密にしないと、プーチンのごとき傲慢(ごうまん)・冷酷・狡猾(こうかつ)な人物が文字を習得して帝王になったならば人民たちに恐ろしくおぞましい不幸・苦しみと深い悲しみを与えるにちがいないと心配した。それゆえ、倉頡は下記に示す三つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その人物の一族全員に厳(きび)しい鬼神の神罰がくだされて死刑に処せられると定めた
【倉頡が死刑と定めた三つの掟】
【一】「文字は夏の銀河各部の形状から作られた」と、秘密が容易に解明できるように明確・直接的に説明して暴露する者はもちろん、その者の一族全員をも死刑にする

【二】多くの文字を容易に覚えることができるようにするため、銀河各部に名称をつけた者、またその者の一族全員をも死刑にする

【三】書いた文字が用済(ようず)みになったならば、書いた文字を消さない者また消し忘れた者も許さず、その者の一族全員をも死刑にする

 上記の【三】の掟のために、夏音文字を書いた史料はただちに消滅したゆえ後世に出土しないことになったのである。
 また、上記の【二】の掟のために「夏の銀河各部の名称」は存在しないことになった。現在、天文学はじめ種々の学問分野においても「夏の銀河各部の名称」は定めていない。しかし、【『魏志倭人伝』に記述された倉頡が発明した漢字作成理論】や、【漢字の字源・字形の原形・原義の解明】には、「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要である。私は下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めることにした。
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◆上記した【倉頡が死刑と定めた三つの掟】のために、古代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術(知識)】は【絶大な恐怖心】で世を支配することになった。これゆえ、「漢字は銀河(夏の銀河)から作られた」と容易に理解できる説明をおこなう者は、現在にあって核の作り方をくわしく暴露した大罪人と同じくあつかわれ、王朝と国家を滅亡させる即刻に死刑に処すべき反逆者・大悪党となった。
 だから、『魏志倭人伝』に記述された夏音文字は「倉頡が死刑と定めた【三】の掟」をもって徹底的にまもられたゆえ、夏音文字を書いた史料は出土しないことになった。
 また、中国の人口が一気に激減した残酷な獣性に支配された後漢時代末から三国時代において、【夏の銀河各部の形状が字源・字形の原形・原義となる学術】は【最強最大最高の軍力と国防力】を表示することになった。だから、中国と中国の隣国の燕地(えんち)や諸韓国とわが国において【黄帝と倉頡の学問と、その歴史の復興】は自衛・国防に真っ先に必要とされることになったのである。
 だから、卑弥呼が【国防を強化する】ために、34の小国名をもって【黄帝の「子どもの出産と女性の生殖器」の研究】と【倉頡の漢字作成理論】が理路整然となるように完璧化を目指したのは、当然のことであったのである。

◆『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼が居住した女王国の名は邪馬壱国であった」と記す。
 「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する児童(赤ちゃん)の頭蓋骨がせまい産道をとおりぬけることができる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)の仕組みの、結合組織性の膜(まく)」をあらわす語であった。

 「邪馬壱国」の[]の字源・字形・字義は「子宮・産道・骨盤や骨盤入口などの、女性の生殖器」であった。
 このように、「邪馬壱」という語は【黄帝の「子どもの出産(邪馬)と女性の生殖器()」の研究】をあらわした。

 『魏志倭人伝』には「その地には牛馬は無し」、つまり「倭人国には牛と馬は生息していない」と説明する記事がある。
 「邪馬」の[]の字源・字形・字義は「フタコブラクダ」であった。倉頡は「フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 []の字源・字形・字義は「ジャコウウシ」であった。「ジャコウウシ」は[]の字源「子宮や骨盤」をあらわした。ゆえに、倉頡は「ジャコウウシ」も【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。
 ジャコウウシは、ツンドラ地帯のきびしい寒さにたえられるように暗褐色(あんかっしょく)の毛足の長いコートでおおわれており、すさまじい猛吹雪にも耐えることができる。群生し、黄帝時代には100頭以上の群れがふつうに見られたという。ジャコウウシのオスが興奮して咆哮(ほうこう)すると、前肢(前の足)の内側に頭をこすって眼下腺(がんかせん)からジャコウ(麝香)の分泌物をはなつ、この香りからジャコウウシと名づけられた。天敵のオオカミに襲われると、子どもを真ん中にかくして鼻を外側にむけて円陣を作って衛(まも)る。女性の生殖器の大部分(卵管・卵管采・卵巣・子宮・産道の一部など)は骨盤内にある。ゆえに、「骨盤」は「ジャコウウシの群れが作る円陣」に見立て、「子宮や胎児」は「円陣の中心にかくすジャコウウシの子」に見立てて、倉頡は「ジャコウウシ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めた。司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「師兵(しへい)をもって営衛(えいえい)す」という記事があり、「黄帝軍は駐屯するとき、円陣を組んで自衛した」と説明する。黄帝軍はジャコウウシから自衛の方法や戦法を学んでいたのである。

◆上記したように、「邪馬壱国」の「邪馬」は「出産する赤ちゃんがせまい産道を通りぬけることができる、頭蓋骨の仕組み」をあらわす。産道を通りぬける赤ちゃんの頭蓋骨には「小泉門」、「矢状縫合」、「大泉門」とよばれる結合組織性の膜(マク)がある。この「小泉門・矢状縫合・大泉門の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」と表現した。
 下図は「出産児の頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門の図」である。
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 出産児・赤ちゃんの頭蓋骨「邪馬」の縫合は完成しておらず、骨どうしのあいだの小泉門・矢状縫合・大泉門は重ねあわせることができる仕組みになっている。この「邪馬の仕組み」を、卑弥呼は「邪馬」、現在の産婦人科では「骨重積(こつじゅうせき)」と名づけている。
 馬(フタコブラクダ)が草をモグモグと食べるときの〔ラクダの鼻〕を〔小泉門〕に見立てると、〔ラクダの鼻の下の、口までのミゾ〕は〔矢状縫合〕に相似し、〔ラクダの口〕は〔大泉門〕にそっくりとなる。つまり、〔草を食べる時の馬・フタコブラクダの鼻・ミゾ・口が少し邪(なな)めになって重ね合わさって歪(ゆが)む形状〕は〔産道を通過する赤ちゃんの頭蓋骨の小泉門・矢状縫合・大泉門が重ねあわさって小さくなる骨重積の形状〕に瓜(うり)ふたつ・ソックリである。
 下図は卑弥呼が「邪馬」と名づけた「フタコブラクダの鼻・ミゾ・口の図」である。
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 そして、〔骨盤入口をくぐりぬけるときの赤ちゃんの頭蓋骨は首に対して少し邪(なな)め、つまり少し斜(なな)めになって骨盤入口をくぐりぬける状況〕を、産婦人科では「小斜径(しょうしゃけい)」と呼んでいる。他方、〔赤ちゃんの頭蓋骨が首と同じく垂直に立つ状況〕を、産婦人科で「前後径(ぜんごけい)」と称する。前後径の状況になると、小斜径より約2センチ大きくなるため、赤ちゃんは頭が骨盤入口を通りぬけることができず死ぬことになる。
 ゆえに、この点からも卑弥呼は「出産児の小斜径となる頭蓋骨」を「邪()めの馬」つまり「邪馬」と名づけたのである。
 (注 邪馬・小斜径の頭蓋骨の前後の径(長さ)は平均32センチ、骨盤入口を通りぬけることができない赤ちゃんの前後径(頭蓋骨の前後の径)は平均34センチである)
 だから、「馬・フタコブラクダ」は「出産児の頭蓋骨の仕組み」をあらわして、人間にとってもっとも大事な[][]が説明できるゆえ、倉頡は「馬・フタコブラクダ」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

◆前掲した〔夏の銀河の写真の左上端よりやや下部〕は、〔夏の銀河各部の名称図〕において左上の「三つ輪の銀河の北端」となる。「三つ輪の銀河の北端」は〔蒙古のゴビ沙漠の天頂(北緯42)〕となる。
 したがって、前掲した〔夏の銀河の写真〕は〔夏の銀河の範囲〕をあらわす。
 だから、「夏の銀河における北の端(北限)」をあらわすため、「ゴビ沙漠」と「ゴビ沙漠に生息する馬・フタコブラクダ」が必要となった。ゆえに、倉頡は[]の字源を「フタコブラクダ」と定めて、「馬」を【漢字作成理論を象徴する聖獣】と定めたのである。

 上記したように――ゴビ沙漠からヒトが南を正面して〔夏の銀河〕を見たとき、〔ヒトの左手側は夏の銀河の東方、ヒトの右手側は夏の銀河の西方〕となる。ゆえに、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく、倉頡は【漢字の字形を左東・右西】と定めた。

 しかし、〔ゴビ沙漠から南を正面する夏の銀河の形状〕は、下の図に示すように「人体」に相似する「十字の銀河」は「頭が地のほうに向き足が天のほうに向く、逆さとなる人の(逆立ちした)姿」に見えて不自然である。
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◆倉頡は「十字の銀河」を「地面に立つ女性(妊婦)の姿」と定めるため、前掲した〔夏の銀河の写真〕と同じく【上が北、下が南】と定め、【漢字の字形の定式】は上記した通り【左東・右西】と定めた。
 これゆえ、前掲した〔夏の銀河の写真〕は倉頡が定めた【漢字の字形の定式(上が北・下が南/左が東・右が西)】をあらわす。

 下に、【倉頡が定めた漢字の字形の定式】の則(のっと)る〔「邪馬壱」の銀河と黄帝時代の天頂緯度線をあらわす図〕を配した。
 下の図における中央に、「邪馬(小泉門・矢状縫合・大泉門)の銀河」がある。「邪馬の銀河」の東方にある「十字の銀河の子宮(腰の部分)」が[]の字源である。したがって、「邪馬の銀河」と[]の中間にある「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」であったことになる。
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 下に、「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「四つ目の銀河」を配した。
 「四つ目の銀河における顔と後頭部とアゴ」には〔目の形に相似する箇所〕が四つある。
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◆下に[(か/イネ()]の字源銀河解説図を配した。[][]の字源は下に示した「[]のイネの穂が〔南から西へ〕と垂れる形式」をそのまま受けついだ。ゆえに、下の図は〔[][][]の字源銀河の解説図〕とした。 
 下図における「垂れる禾(イネ)の穂」と重なる「十字の銀河の子宮の中央部」は中国におけるイネの育成に適した穀倉地帯の揚子江・太湖の緯度(北緯3130)をあらわす。
 なお、下図の〔禾の穂が「南→西」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
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 下に〔地面に植わる禾(イネ)をあらわす、[]の字形解説図〕を配した。
 下図の右側〔[]の穂の転回図〕における〔禾の穂が「北→東」へ時計回りに90度転回して垂れている〕ように、[][][]の字源・字形・字義は、上図と同じく「時計回りに方位が90度転回する」と定められた。
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 司馬遷著『史記』五帝本紀の黄帝紀には「南のかた、江(こう)に至り、熊湘(ゆうしょう)に登り、北のかた、葷粥(くんいく)を逐()ふ」という文がある。
 この文は「黄帝が率いる遠征軍は、南は北緯3130分の長江口・揚子江に至り、熊湘という名の地に登った。熊湘から北へ引き返して、黄帝の遠征軍は本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還した。そして、馬・フタコブラクダを家畜とするゴビ沙漠の住民・葷粥の別名匈奴(きょうど)が北から来襲し侵略してきたゆえ逐いはらった」と説明していたことになる。
 したがって、上に配した〔イネの穂が南に向く[]の字源銀河解説図〕は「黄帝の遠征軍が長江の河口の長江口・揚子江に至り、熊湘の地に登った」と表現していたことになる。
 また、上に配した〔イネの穂が北に向く[]の字源銀河解説図〕は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江で育成される稲を採取して、北の本拠地に帰還して稲を大事に育てた。そして匈奴が来襲してきたゆえ逐いはらった」と表現するものとなる。

◆これまで解説してきた事情を、倉頡伝説は下記のごとく説明していたのである。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、はじめて文字を作ったので、天は祝福して禾()を降らせて、死霊が感激して泣く声が夜な夜な空から聞こえたというのである。」
 前述した「四つ目の銀河」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわした。

前述したように、倉頡伝説に登場する[]は「黄帝の遠征軍は長江口・揚子江に到着して稲を採取して、北の本拠地(黄帝陵周辺地域)に帰還して稲を大事に育てた。そして、来襲する横暴な匈奴を逐いはらった」と意味したことになる。
 倉頡伝説における「死霊が感激して泣く声」は「三皇時代に生存した氏族たちは、倉頡が発明した漢字によって自分たちの歴史が後世に伝えられると感激して涙にして泣く慈雨(じう)、すなわち稲が順調に育つ恵みの雨を降らした」と表現していたことになる。
 倉頡伝説における「夜な夜な空から聞こえた」という表現は「夜な夜なに輝く夏の銀河各部の形状が文字(字源・字形・字義)であった。ゆえに、倉頡が発明した文字(夏の銀河の各部の形状)は前人がおこなった事績や出来事を伝える方法となった。だから、後世における強大な権力を有する王朝や国家にあっても夏の銀河の形状は永遠不変であって歪(ゆが)めて変えることができなかったゆえ、後世の人々は文字、つまり夏の銀河の各部の形状を観察すれば前人がおこなった真実の歴史を知ることができる」と説明していたことになる。
 したがって、邪馬台国説学者たちのごとく【夏の銀河の各部の形状をいっさい観察せず無視する立論方法】だと、『魏志倭人伝』に記述された【真実の歴史】は全く解明できず、直(ただ)ちに空理空論・学説の体(てい)をなしていないナンセンスとなる。

 
◆『魏志倭人伝』は、倭国最初の一番目の小国は「対馬(つしま)国」で、現在の「長崎県北部の対馬」であったと説明する。二番目の小国は「一大(いちだい)国」で、現在の「対馬の南にある、長崎県の壱岐」であった。
 また、『魏志倭人伝』は「対馬国より南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う。一大国に至る」と説明する。
 対馬国と一大国の中間の「瀚海」は「ゴビ沙漠」を意味する。

 下に、〔対馬国・瀚海・一大国の地宜(ちぎ/平面的に図化した地図の形)〕を示した。
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 下に、〔「沙漠」と[]の字源銀河解説図〕を配した。
 「三つ輪の銀河における渦巻く無数の小さい星々」は沙漠の砂のようにキラキラ光る。ゆえに、「三つ輪の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられた。「三つ輪の銀河の北端」(下図の左上)は瀚海・ゴビ沙漠の天頂(北緯42度周辺)であり、また「三つ輪の銀河の北端の横顔に見える銀河部」は「フタコブラクダの横顔」に相似する。これゆえ、「三つ輪の銀河」と同様にキラキラ輝く「十字の銀河」は「瀚海・ゴビ沙漠に住む匈奴の人々にとって大切な家畜、フタコブラクダ」に見立てられて[]の字源となった。
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 下図は〔「対馬」の地宜と[]の字源解説図〕である。
 卑弥呼は「長崎県対馬の地宜」を[]の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。つまり、「対馬の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に相似すると見立てた。「対馬の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「沙漠を歩くに都合よい、じょうぶな足の指を有する大きなフタコブラクダの足底と、沙漠に残る足跡の形」と見立てた。だから、「上県と下県の地宜」は「フタコブラクダの姿と足底の、一対(いっつい)の形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の[][]を加える「対馬国」と定めたのである。
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 倉頡は「十字の銀河の子宮」を「夏の銀河各部の形状から作られた全部の文字が生まれる子宮」と定めた。ゆえに、「十字の銀河の子宮」は「[]の小さい場から大きな銀河の各部分から作られた全文字が生まれる子宮」とされ、倉頡が立論した「一即大、大即一」という超合理論をあらわす箇所となった。ゆえに、【倉頡が発明した漢字作成理論】を伝える学問において「十字の銀河の子宮」は「一大」とよばれることになった。
 これゆえ、卑弥呼は「現在の長崎県壱岐」を「十字の銀河の子宮」に見立てて、小国名を「一大国」と定めた。
 下図に示すように「壱岐の西方の海岸線の地宜」は「南に顔を向けるフタコブラクダの顔とコブの形」に相似する。「壱岐の大半の地宜」は[]の字源「南に顔を向けるジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足の形」に相似する。ゆえに、「一大国のジャコウウシの地宜」は「黄帝時代、黄帝陵周辺地域の餌場(えさば)に集まったジャコウウシの100頭の大群」に見立てられたことになる。
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◆一大国の地宜(海岸線の地図の形)が示すように、[]の字源「十字の銀河の子宮」と直接に関係する【漢字作成理論を象徴する聖獣】のジャコウウシとフタコブラクダの姿に相似する地域に岐(わか)れる」ゆえ、現在の地名は[][]が加わる「壱岐」となる。
 []の字源「フタコブラクダの正面形と足底の形」に相似すると見立てられた「対馬国の地宜」は「経度軸にも緯度軸にも邪()め」である。
 ゆえに、「対馬国の地宜」は「邪馬」を、「一大国・壱岐」は[]の字源をあらわす。
 結局、「対馬国と一大国」は卑弥呼が居住した女王国名「邪馬壱国」をあらわす。
 だから、卑弥呼が居住した女王国名は「邪馬壱国」であって、「邪馬台国」ではなかった。

 一大国の「一大」は伊都国に居住する「一大率」の「一大」をあらわした。
 伊都国は、一大国より南東の糸島半島より南の地域であった。
 もしも外敵(魏、燕(えん)、諸韓国)が来襲したならば、一大率は外敵を対馬・瀚海の北方へと逐いはらう国防の軍王(国防軍の総司令官・大将)であったことになる。
 下に「伊都国の範囲と地宜」をあらわした。
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 上図における伊都国の「糸島半島の地宜」は「牛・ジャコウウシの横顔」に見立てられ、「糸島半島より南部」は「ジャコウウシの100頭が犇(ひしめ)く群」と見立てられて「伊都国」と名づけられた。
 そして、伊都国王「一大率」という名が示すように、伊都国は「天敵オオカミに襲撃されたときに百頭のジャコウウシの群れが円陣を組んで衛(まも)る闘い」をあらわして「自衛・国防の軍事拠点」であったことになる。
 『魏志倭人伝』には「すなわち共に一女子を立てて王と為()す」という記事がある。この記事は「一女子の卑弥呼が倭女王に就任した(立った)とき、卑弥呼と共に九州で国防を担当する軍王に就任したのが伊都国の一大率であった」と説明していたのである。だから、対馬国の「邪馬」に一大国の[]を加える「邪馬壱」という語は「対馬国と一大国の〔邪馬壱地域〕を防衛する一大率と邪馬壱国に住む女王・卑弥呼は、共に外敵を対馬・瀚海で逐いはらう」という国防政策をあらわしていたことになる。

◆邪馬台国九州説の理由・根拠となる吉野ケ里遺跡は、伊都国に所在する。『魏志倭人伝』は「九州の所在する倭人国の一員となる小国は末盧(まつら)国・伊都国・奴()国・不弥(ふみ)国の四ヵ国であった」と説明する。だから、九州には女王国は存在しなかったゆえ、邪馬台国九州説は『魏志倭人伝』を〔デタラメ読みの論法〕でこじつけた空理空論・幻想であったことになる。

 下に1番目国の対馬国から数えて24番目国の「邪馬国の地宜」を配した。
 前述したように、「邪馬」は「草をモグモグと食べるフタコブラクダの鼻・ミゾ・口の形」である。前述した[]の字源「時計回りに90度転回する〔北→東・南→西〕と定める方位規定もとづく、大和の地宜」は「邪馬」の語源「草をモグモグと食べてふくらむ鼻・ミゾ・口の形」となる。ゆえに、「大和・奈良県」は「邪馬国」であった。
 だから、邪馬台国畿内(大和)説もまた〔デタラメ読みの論法〕を駆使(くし)した空理空論・幻想であったことになる。
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〔山陰・出雲地方の地宜〕は、明確に「邪馬」の語源と[]の字源をあらわす。だから、卑弥呼は山陰・出雲に居住していた。『魏志倭人伝』の山陰出雲・邪馬壱国までの方位記事は[]の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にすべて合致して【科学】が成立する。したがって、卑弥呼は出雲の一画に居住していた、これが真実であったのである。

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