G-T0XYQT12LL 漢字の起源と発明を解明す: 卑弥呼の逆襲

漢字の起源と発明を解明す

2024年3月10日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・5

「卑弥呼」という名でも、今日の日本地図と異なって転回日本列島像となった

 

◆今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、下に示す「夏の銀河各部の形状」を図案して「文字を作る方法・理論」を発明した。

「夏の銀河」は「天の川」あるいは「銀漢」と呼ばれた。

「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

「夏の銀河」とは「夏に長時間見ることができる銀河」、あるいは「すべての夏の星座が漬()かる銀河」のことである

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黄帝は【女性の生殖器官と出産の研究】をした。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・4」で詳細に解説して証明したように――【倉頡の文字作成理論】は【夏の銀河各部の形状を造形して文字を作る方法】に、【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究】を合体して構築された。

 

胎児は母体の子宮の羊水(ようすい)中で、40週間余・10カ月余も過ごす「水中生活者」である。

超音波装置によって、1980年代ごろからようやく胎児の羊水の中での様子が少しずつ明らかになってきた。

だから、約5000年前の黄帝時代、羊水の中で過ごす胎児の様子はまったく謎のうえに謎であった。

出産後の人間は1時間も水中にもぐったままでいれば確実に死ぬ。

にもかかわらず、胎児は40週間余もの長いあいだ羊水の中で過ごすが、胎児はなぜ窒息死(ちっそくし)しないのか?――黄帝は、この秘密を解明することができなかった。

それゆえ、この秘密を「八丁もぐりの、50秒ほど潜水することができるカンムリカイツブリ」に喩(たと)えることを、倉頡は思いついた。

というのも、下図に示すように、「女性の生殖器官の側身形」は「水鳥の側身形」に相似しているからである。

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倉頡は、「カンムリカイツブリ」をあらわす【爾()】の字を作った。

【爾】、のちに【弓偏】に【爾】を加えた【彌()】が「カンムリカイツブリ」」をあらわすことになった。

カイツブリ目カンムリカイツブリ属で最大の水鳥・カンムリカイツブリの全長は4661㎝、両翼を広げた長さは8590㎝である。

カンムリカイツブリの大きさと、体長2.5㎝以下の第12週の胎児や、体長が45㎝の第36週ころの胎児より大きい。だから、「カンムリカイツブリ」は「胎児」体長に適合しない。

「カンムリカイツブリの大きさ」は「出産予定日の第38週から第40週の体長が4853㎝くらいの生子(せいし・赤ちゃん)」と同じくらいである。

ゆえに、【彌()】は「カンムリカイツブリ」と「出産予定日の第38週から第40週ころの赤ちゃん」に見立てられた。

 

倉頡は、カイツブリ目最小の「鳰(にお・カイツブリ)」で、「第12週から第20週まで、水中(羊水)で生活する胎児」に喩えることにした。

鳰の全長は2529㎝である。第12週から第20週の胎児の体長は2030㎝くらいである。

これゆえ、倉頡は「第12週から第20週の水中生活者の胎児」を「鳰」に喩えることにした。

倉頡は【乎】の字で「鳰」をあらわしたが、のちに【口】に【乎】が加わる【呼】が「鳰」をあらわすことになった。

鳰は鳥の中でも、もっとも水と深くかかわって生活している。湖や沼や川に浮かんで、頻繁(ひんぱん)に水に潜(もぐ)り、陸上で生活することはほとんどない。鳰の体は水の生活に適している。鳰は小さな体にもかかわらず、人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。

だから、倉頡は「鳰」を「第20週もの長いあいだ、母体の子宮の羊水の中で潜ったまま、息を外()きつづけて羊水を吸い込まずに窒息死しない胎児」に喩えることにした。

『説文解字』は【呼】の字について「息を外()くなり」と解説する。

したがって、「鳰」は「子宮の中で息を外きつづけて、羊水を吸い込んで窒息死しない胎児」に見立てられたことになる。

 

◆『易経(えききょう)』は中国の五経の第一に挙げられる古典である。

『易経』の周易繋辞上伝(しゅうえきけいじじょうでん)の冒頭文は「天は尊く地は卑(いや)しくして、乾坤(けんこん)定まる。卑高(ひこう)をもって陳(つら)なり、貴賎位す」である。

この文は「天の尊い夏の銀河の象(かたち)と地の卑しい形(かたち)によって、天と地が定まる。地の【卑】と天の【高】をもって、【貴】と【賤】の位が定まる」と意味するのであろうか。

上記のように訳すると【卑】の字義は【貴】「尊い」の反対語「賤(いや)しい」ということになる。

 

しかし、【卑】の字源・原義は「賤しい」ではなかったと考えられる。

前記した『易経』周易繋辞上伝の冒頭の「卑高をもって陳なり、貴賤位す」という文とその後につづく幾つかの文を省略して、「天に在りては象を成し、地に在りては形を成す」という文を冒頭の「天は尊く地は卑にして、乾坤定まる」という文に加えると、次のごとき文になる。

「天は尊く地は卑にして、乾坤定まる。(中略)。天に在りては象を成し、地に在りては形を成す」

上記の文は「天は地よりも高く尊い、地は天よりも卑つまり低い。ゆえに天と地に分かれて定まる。天の【銀河各部のかたち】は多種多様にさまざまな事物に相似するゆえ【象】ということになり、【地図における各地のかたち】は多くても三、四種の事物に相似するだけであるゆえ【形】ということになる」と解釈できる。

文字となった夏の銀河各部には名称が存在しないが、わたくしは幾つかに小分けして名称をつけた。たとえば、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河部は【天・人体・女体・男の体・妊婦・人体の正面形・人体の背面形・東から西へ歩く女性の側身形・西から東へ歩く男性の側身形・男女の交わり・木・木の枝・柱・聿()・港()・馬(フタコブラクダ)の側身形)・十字路・オス鹿の角・炎など多数の事例のかたち】に変わる。

だから、『易経』は「天に在りては象を成す」と表現した。

「中国の山東半島の地のかたち」は最初「オス鹿の横顔」に相似する、次に「天を飛翔する【彌()のカンムリカイツブリの横顔】に相似する、さらに「【馬】のフタコブラクダの横顔」に相似すると見立てられた。

このように、【天の夏の銀河各部】よりも【地図における各地のかたちが相似すると想像される事例が少ない】。

ゆえに、『易経』は「地にありては形を成す」と表現した。

つまり、上記の『易経』周易繋辞上伝は【卑】の「賤しい」は字源・原義を失った用法であるが――【卑】の字源・原義は「天から下界を見下ろすと、中国大陸と大海の境となって、地(地図)の形をあらわす、海岸線の形」であったと伝えていると考えられる。

したがって、『易経』が成立した紀元前5世紀頃は、【卑】の字は字源・原義を失う「賤しい」と字源・原義を伝える「中国の海岸線」の二つの用法が併存(へいぞん)していたことになる。

 

712年正月に成立した『古事記』上巻并(あわ)せて序の後半には「名は文命よりも高く、徳は天乙(てんいつ)に冠(まさ)りたり」という文がある。

この文を訳すると「夏の始祖の帝禹()の裨益(補佐役)であった益の名前の尊さは禹よりも高く、殷(いん)の湯王(とうおう)の裨益であった伊尹(いいん)は湯王よりも徳が高くすぐれていた」となる。

だから、上記の文は【卑】の字源・原義が「賤しい」ではなく「帝王の次に尊い」と意味したことを示している。

 

卑弥呼が歴史上に始めて登場する約50年前の120年頃に成立した『説文解字(せつもんかいじ)』は【卑】の字を「賤しきものなり」と解説する。

ゆえに、2世紀前半の中国では【卑】の字源・原義は失われていたと考えると早合点・軽率(けいそつ)となる。

というのも、卑弥呼と同年代を生存した蜀(しょく)の名臣・諸葛孔明(しょかつこうめい・181234)が書いた、「それを読んで泣かない者は人間で非ず」とたたえられるほどの名文章「出師(すいし)の表(ひょう)」には、「裨補」という語が登場するからである。

わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は【裨】の字について「裨補・裨益を原義とする」と解説する。

ゆえに、「裨補」・「裨益」の【裨】は「帝王を補佐する第二に偉大な尊い王」と意味した。

以上からして、【卑】の字源・原義は「天の夏の銀河各部の象(かたち)の次に尊い、中国の海岸線」であったと考えるべきことになる。

 

このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の3回と4回で詳細に解説したように――倉頡は【禾】の字を作って「淮河より北部の中国国土の地図における方位規定は、時計回りに90度転回して北は東・東は南・南は西・西は北に変ずる」と定めた。また、倉頡は【呉】の字を作って「淮河より南部の中国国土地図における方位規定は、逆時計回りに90度転回して北は西・西は南・南は東・東は北に変ずる」と定めた。

そうすると、下図の「中国の海岸線は地図に属するゆえ、淮河より北部の海岸線は【禾】の方位規定にのっとって曲がり変ずるのか、また淮河より南部の海岸線も【呉】の方位規定にのっとって曲がり変ずるのか」と疑われることになった。

しかし、下図に示した「中国の海岸線」を【禾】と【呉】の方位規定で曲げると「中国の海岸線ではなくなってしまう」――したがって、「中国の海岸線」は「【禾】と【呉】の方位規定で曲がり変ずることができない、【禾】と【呉】と無関係の独立した線」と定められた。

ゆえに、〔「中国の海岸線は【禾】と【呉】の方位規定には左右されない」と決める原理〕をあらわす【卑】の字が必要となった。

だから、【卑】の字源・原義は下図のごとく、「【禾】と【呉】の方位規定に左右されて曲がらない、中国の海岸線」ということになった。

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◆文字が作られた「夏の銀河各部」には「名称」が存在しない。『魏志倭人伝』が説明する【倉頡の文字作成理論】を解明・証明する際に、「夏の銀河各部の名称」が無いと非常に不便である。

それゆえ、わたくしは下記のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。

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『易経』周易繋辞上伝には、【卑】の字源・原義の「中国の海岸線」について――下記のごとく説明する記事がある。

「易は天地と準(なぞら)う。故に能く天地の道を弥綸(びりん)す。仰いでもって天文を観()、俯してもって地理を察す。」

 

上記の文は――易は天の夏の銀河各部の象と地の中国国土の形に準(なぞら)れて作られた。だから、天と地の道を弥綸する(つくろいおさめる、洩れなく包みこむ)ことになった。仰いでは天文を観、天から地上を俯瞰(ふかん・見下ろす)と地図の形を察(あきらか)になる――と意味する。

上記の「弥綸す」を「つくろいおさめる、洩れなく包みこむ」という訳は、高田真治・後藤基己訳者『易経()(岩波書店発行)を転用した。

 

上記した「夏の銀河各部の名称図」の左上には、わたくしが「十字の銀河」、「長方形の暗黒天体部」と名づけた銀河がある。

下図に示すように、「十字の銀河」は【楷書の、之繞(しんよう)】となった。また「十字の銀河」は「オス鹿の角(つの)」に見立てられ、「長方形の暗黒天体部とその南の銀河」は「鹿の首」の形に相似すると見立てられて【道】の字源・字形・字義となった。

下図に示した【道】の字源「オス鹿の首の形をした銀河」は、五帝時代初頭から現在まで、中国とわが国の全国各地の天頂を弥綸する(洩れなく包みこむ)

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下図に「山東半島と廟島(びょうとう)列島の地図の形」を配した。

「廟島列島」は「オス鹿の角」に相似すると見立てられ、「山東半島の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は「鹿の首」に相似すると見立てられた。

ゆえに、下図は【道】の字源「オス鹿の首の形をした地宜」となる。

したがって、上図の「[道の字源銀河]と下図の「[]の字源となる地宜」について、『易経』は「易は天地と準(なぞら)う」と表現した。

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下図に示す「山東半島の地宜」は【彌()】の字源「カンムリカイツブリの首(横顔)」に見立てられた。

そして、「山東半島の付け根より北の海岸線」と「山東半島の付け根より南の長江口までの海岸線」は【弥】の「カンムリカイツブリの両翼」に見立てられた。

さらに、長江口の南となりの「杭州湾(こうしゅうわん)、さらに南方に伸びる海岸線」は【綸】の字義「長江口と杭州湾の陸側に食い込む海岸線の糸は解(ほど)けるかのごとくで解けずに、杭州湾の南岸からさらに円弧を描いて・つくろいおさめる糸のごとくの海岸線」をあらわすことになった。

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上記したように、【道】の字源銀河「オス鹿の首の形をした銀河」は「中国全土を弥綸す(洩れなく包みこむ)」。

そして「中国全土に造られた道路における各地の緯度」は「北と南に伸びる中国海岸線の天頂緯度線に弥綸す。つまり、中国全土を洩れなく包みこむ海岸線における緯度で表示される」。

したがって、『易経』は「故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と表現した。

だから、上図の「中国国土図と大海の図」は【卑】の字源・原義「中国全土を弥綸す」つまり、「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」であったことになる。

 

下図に、長江口の南となりの「杭州湾(こうしゅうわん)の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」を示した。

下図に示すように、「杭州湾」は〔南を上・北を下にする〕と「鳰(にお・カイツブリ)の姿」に相似すると見立てられた。

「杭州湾」には「銭塘江(せんとうこう)の河口から水が外()き出される」。

ゆえに、「河口」の【口】に【乎】が加えられた【呼】の字は「鳰」をあらわすことになった。

鳰はカイツブリ類中、もっとも多く見られる種類である。鳰は中国の流れのゆるやかなみられる河川、湖沼、湿原などに生息し、河口や沿岸部でも一年中生息する。

【呼】の契文(けいぶん・甲骨文字)と金文の古代字形は【乎】と同一字形である。

『説文解字』は【呼】の字を「息を外()くなり」と解説する。

上記したように、「杭州湾」は「銭塘江の水が河口から外き出される」。

ゆえに、「銭塘江の水が外き出される、河口」が【口】になった。そして、【口】に【乎】が加えられる【呼】は「杭州湾の地宜」にもとづいて「鳰」をあらわすことになった。

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以上のごとく――【卑】の字源・原義は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」。

【彌()】の字源・原義は「山東半島とその付け根より北と南の長江口までの海岸線」。

【呼】の字源・原義は「杭州湾の海岸線」であった。

下図は【卑】・【弥】・【呼】つまり「卑弥呼」の語源となった「中国の海岸線」の解明図である。

『魏志倭人伝』は倭女王の名を「卑弥呼」と記す。

この「卑弥呼」という名は「中国の海岸線」を意味したのである。

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◆日本地図が示しているように、日本列島の西端に玄界灘に浮かぶ沖ノ島が在り、東端には伊豆諸島の神津島(こうづしま)が在る。

下図に示すように、沖ノ島と神津島は同緯度である。

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先史時代から現在まで、神津島からは良質な黒曜石(こくようせき)が産出する。

黒曜石は火山活動によってできた「黒いガラス」とされ、上手に刃をつけると石槍(いしやり)や鏃(やじり)はもとより、皮はぎや肉切り用の石包丁(いしほうちょう・石器)として利用された。

神津島の黒曜石は良質であったため、関東地方、東海地方、近江(滋賀県)、北陸地方(石川県能登半島)まで分布した。

神津島の黒曜石はなんと約3万年前の後期石器時代から使用されていたことが明らかととなり、縄文時代、卑弥呼が生存した後期弥生時代においても本土に運ばれて利用されていた。

神津島から伊豆半島までは30km以上も海で隔(へだ)てられ、神津島から石川県能登半島までは直線距離で約400kmも離れている。

約3万年前の旧石器人たちは【亠(とう・天頂緯度線と子午線)】をキャッチする能力を有していた。これゆえ、旧石器人たちは30km以上隔たる海を往来でき、また北陸の能登半島などの遠い地から旅した人々も神津島の黒曜石を手に入れることができた。

この神津島の黒曜石を求めて海を往来した交通の事実について、学界は世界史上でも最古の海洋航海と注目するが、その実態はいまだ謎のベールにつつまれて不明とする。

人類は原始のときから、脳に【亠】をキャッチして精密に緯度測定する本能がそなわり、鍛錬すれば1度の60分の1の1分の緯度差を測定できる神秘的な眼力を有することができた。

だから、この神秘的な呪力(じゅりょく)によって、一団を組んで日々食料を求めて移動した(旅した)原始の生活にあっても、「道に迷った! 位置(緯度)も方角もまったくわからない!死ぬ!」というようなパニック状態におちいることもなく、人類は銀河輝く天文を地理代わりにして【亠】をキャッチしてたくましく巧(たく)みに生存していたのである。

 

【亠】の下に【幺(よう)】、すなわち「産道を通過する出産児のごとく、無欲になれば【亠】をキャッチすることができるという心得」をあらわす【幺】を加えると、【玄】の字となる。

したがって、上図の「同緯度の沖ノ島と神津島」は「古代の人々が【亠】をキャッチして1度の60分の1の1分以内の誤差で精密に緯度を測定して、大海を往来した航海方法」を現在に明確に科学的に伝えていることになる。

上図の左側に配した沖ノ島は【玄】の字が名につく「玄界灘」に浮かぶ。

ゆえに、魏・帯方郡と倭国の使節と船乗りたちは大海・玄界灘を、産道を通過する出産児のごとく無欲になって【亠】(天頂緯度線と子午線)をキャッチして往来したことになる。

上記したように、沖ノ島と神津島は日本列島の東西の端にあってはるかに遠く離れているが――沖ノ島は西の大海・沖ノ島に浮かび、神津島は東の大海に浮かんで、両島は太古以来、〔【亠】をキャッチする海洋航海〕で有名であったにちがいない。

『魏志倭人伝』は倭女王に就任する以前の「卑弥呼」を、「一女子」と記す。その一女子は太古からの〔【亠】をキャッチする習慣・伝統〕に因()り、上図のごとく沖ノ島と神津島が同緯度(北緯3415)であることを知っていたのである。

沖ノ島では、福岡県宗像(むなかた)市玄海町田島に所在する宗像大社の沖津宮(おきつみや)を祭る。

 

◆日本列島の西端に在る沖ノ島は冬に雪が降る。しかし、沖ノ島と同緯度の日本列島の東端に在る神津島では冬になっても雪が降らない。

ゆえに、下図の右側に示したように、日本列島は「西冷東暖(せいれいとうだん)」となる。

中国の海岸線北部の気候は冷たく、中国の海岸線南部の気候は暖かい。

ゆえに、下図の左側に示したように、中国の海岸線地域は「北冷南暖(ほくれいなんだん)」となる。

このように、日本列島・沖ノ島の「西冷」と中国の海岸線北部の「北冷」は、「冷たい気候」で一致する。また、日本列島・神津島の「東暖」と中国海岸線南部の「南暖」は、「暖かい気候」で合致する。

したがって、倭女王に就任する一女子は――日本列島における暖かい気候の〔東〕は中国の海岸線南部の暖かい気候の〔南〕の方に伸びている――と確信した。

だから、一女子は下図の右側に示したごとく――日本列島の方位規定は倉頡が作った【禾】の字源・原義のごとく「時計回りに90度転回している」と立論した。

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170年頃に上図における「転回日本列島像論」を立論した一女子は――大乱して諸国が互いに戦っている男王たちに、このまま戦争を続けていれば中国(後漢)では戦争で多数の人命が失われているきわめて残酷な状況からして、領土の拡大を図る大国の中国(後漢)はいずれ倭国を占領するにちがいないと訴えた。

この訴えに男王たちは当時の後漢の状況から反論できず、倭国内は「中国に占領される!」という恐怖が充満(じゅうまん)することになった。これゆえ、男王たちは反省して戦争の終息を決断したため、倭国の大乱は鎮圧(ちんあつ)されることになった。

だから、後期縄文時代以来長らく氏族共同体制であった倭国において、始めて国家が樹立され、王朝が創立されることになった。

この国家を統治する最高位の女王に「転回日本列島像」を立論した一女子が選ばれた。

 

「転回日本列島像」は「中国の海岸線における北冷南暖」を基軸にして立論された。

前述したように、「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字をあらわした。

だから、倭女王は「卑弥呼」と呼ばれることになった。

卑弥呼は国家名を「倭人国」と定めた。

卑弥呼王朝は【倭】の字源・原義となった「時計回りに90度転回する日本列島地図」を制定して、下図のごとく、34ヵ国の小国名で【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字の日本列島伝来】を表示する政策を推進した。

この政策は、中国の後漢、その後の三国時代における魏の戦略や呉・蜀の天下二分同盟の戦略によって倭人国が占領されないための防衛対抗策であったと考えられる。

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『魏志倭人伝』には「其の道里を計るに当(まさ)に会稽(かけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」という記事がある。

下図に示すように、「【倭】の字源にのっとる転回日本列島地図」は「中国の会稽・東治の東に在る」。

しかし、邪馬台国説の立論基盤である「現在と同じ方位規定にもとづく日本列島地図」は「中国の会稽・東治の東北に在る」ゆえ、不合理にして矛盾する。

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「【倭】の字源・原義にのっとる転回日本列島地図」は、『魏志倭人伝』に記される全ての方位記事に合致して一点も不合理ではなく矛盾しない。

他方、邪馬台国説の立論基盤の「現在の日本地図における方位」は、『魏志倭人伝』における全記事に合致せず、幾つかの方位記事に対して不合理・矛盾する。

 

◆以上のごとく、新井白石以来300年継続する学者たちの邪馬台国説はまったく科学に反する空理空論であった。

(1)というのも、「邪馬台国説の立論基盤である日本地図」は「天の北極」を基準にして「北」を「北」と定めるからである。

しかし、卑弥呼時代の北極星(こぐま座β星)は天の北極から半径約10度・直径1200分の円周運動していた。このため、北極星のかたよりを測量して天の北極の高度を緯度換算する方法では魏・朝鮮半島の帯方郡と倭人国の間の大海・玄界灘を渡る際に必須であった1度の60分の1の1分の精密さで緯度が測定できない。

したがって、魏と倭人国は国交を結ぶことができなかったゆえ、魏では倭人国の様子をまったく知らなかったことになる。ゆえに、『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていなかった真っ白けの白紙にして空白であったことになる。

『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙ではない。『魏志倭人伝』は、約2000字で構成される。

だから、邪馬台国説が空理空論であったと断定すべきことになる。

 

(2)このブログで詳細に解説して証明したように、「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源・原義をあらわした。

原始時代以来、人類は【亠(とう・天頂緯度線と子午線)】をキャッチして大海を渡りまた遠くの地を旅していた。

ゆえに、【亠】の観測を日々鍛錬する卑弥呼時代の人々は日本列島の西端の玄界灘に浮かぶ沖ノ島と日本列島の東端に在る伊豆諸島の神津島が同緯度であることを知っていた。

日本列島の西端の沖ノ島は冬に雪が降るゆえ「西冷」となり、日本列島の東端の神津島は冬に雪が降らないゆえ「東暖」となる。

いっぽう、「中国の海岸線北方地域の気候」は「冷たい」ゆえ「北冷」となり、「中国の海岸線南方地域の気候」は「暖かい」ゆえ「南暖」となった。

このため、「中国の海岸線」における「北冷」と日本列島の沖ノ島の「西冷」は「冷たい気候」で合致し、「中国の海岸線」の「南暖」と日本列島の神津島の「東暖」は「暖かい気候」で合致する状況を注目した一女子によって「方位規定が時計回りに90度転回する、日本列島地理」が立論された。

上記したように、「転回日本列島地図」の基軸となった「中国の海岸線」は【卑】・【弥】・【呼】の3字の字源・原義となったゆえ、「転回日本列島地図」を立論した一女子は「卑弥呼」と呼ばれることになった。

魏・帯方郡と倭人国の使節は大海・玄界灘を、卑弥呼が立論した「転回日本列島地図」の原理となった【亠(天頂緯度線と子午線)】をキャッチして往来した。

だから、魏と倭人国は国交を結ぶことができたゆえ、『魏志倭人伝』には約2000字をもって倭の様子が説明されることになった。

このように「魏・帯方郡・と倭人国の使者たちは【亠】をキャッチして大海・玄界灘を往来した」と考えると『魏志倭人伝』の全記事は合理で一ヵ所も矛盾しない。

いっぽう、「現在の同じ日本地図を立論基盤とする、邪馬台国説」は科学あるいは事実にまったく反する不合理・矛盾だらけの空理空論であると証明される。

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2024年3月 3日 (日)

漢字の起源と発明を解明す・4

産道を通過する赤ちゃんの姿が地図の転回方位規定となった

 

◆下に「夏の銀河」の写真を示した。

今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は、「夏の銀河各部の形状から文字を作る方法・理論」を考案した。

「夏の銀河」は「夏に最も長時間見える銀河」であり、または「すべての夏の星座が漬()かる銀河」である。

「夏の銀河」は「天の川」や「銀漢」と呼ばれた。

「銀漢各部の形状から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

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◆上の「銀漢(夏の銀河)の写真」には、「天の北極」と「北極星」は撮影されていない。

したがって、「天の北極」と「北極星」は字源・字形・字義にはならなかった。

というのも、倉頡は「いのちあってのものだね」、なにはさておき「この世に生存している」という命の保証が得られる事柄・事象のみを文字にした。

ところが、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・3」で指摘・証明したように、「天の北極」と「北極星」は「この世に生存している」と命を保証しない・死を招く天体であった。

『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻(学習研究社発行)は「緯度の測定」と題して、次のごとく()「天の北極の高度を緯度に換算する方法」と、()「天頂緯度線と子午線による緯度の測定方法」の2種のみがあると指摘する。

「緯度は天の北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星は天の北極からのかたよりが計算できるので、精密ではないが天の北極の高度で緯度を換算することができる。もっと精密に測る方法は、天頂緯度線と子午線による測定である。」

上の記事における「もっと精密に測る」という文は――黄帝時代はじめ古代、遠くの地に旅しなければならない人々や大海を渡らなければならない人々は、1度の60分の1の1分の精密さによる緯度測定が必要であった。このように精密に緯度測定できない人々は、家族が待つ家へ帰還することができず、旅先で命を失った――と指摘していることになる。

黄帝時代、正確な日付をあらわす暦と精密な時刻を示す時計は存在しなかった。

ゆえに、当時、北極星の天の北極からのかたよりは精確に計算できなかったので、精密な天の北極の高度を測定することができなかったことになる。

今から約5000年前の黄帝時代の北極星は「りゅう座α星」であった。

黄帝時代の北極星・りゅう座α星は天の北極を中心にして半径45分・直径1.5(90分・満月の3個分)の円を描いていた。当時は正確な日付精密な時刻をあらわす時計が存在しなかったため、さまざまな技(わざ)や道具・装置を用いても――満月の3個分の直径(距離)の円の中心となる天の北極の高度を1分(90分の1)以内の精密さで測定することができなかった。

だから、黄帝時代の北極星・りゅう座α星はこの世に生存するための保証が得られない、旅先で命を失って死ぬことになる天体であった。

 

原始時代から黄帝時代まで、旅する人々は各地で1度の60分の1の1分の精度で測量できる天頂緯度線と子午線をキャッチして緯度を精密に測定していた。

原始時代から、人間の目は日々「天頂緯度線と子午線のキャッチ(測量)」を鍛錬すると1分以内の誤差内で緯度を測定できた。また、人間の頭脳には「この世に生存するために、天頂緯度線と子午線を測定する本能」がそなわっていた。だから、密林でおおわれる原始時代や氷でただ一面真っ白な氷河期においても緯度が不明になって地上をさまよいついに命を失って、人類は絶滅することがなかった。

正確な暦と精密に時刻を示す時計が存在しなかった黄帝時代、遠くの地を旅する人々や大海を渡る人々が旅先で自分の居る場所の位置(緯度)を精密に測定できる方法は、「天頂緯度線と子午線のキャッチ」、ただ一つのみであった。

 

◆倉頡が「文字を作った、夏の銀河の各部」には名称が存在しない。

【倉頡の文字作成理論】はじめ契文(けいぶん・殷代後半に用いられた甲骨文字)・金文(周代に用いられた文字)・夏音(かおん)文字・楷書などの字源は「夏の銀河の各部の形状」であった。このため、「字源となった銀河各部」を表示するためには、「夏の銀河各部の名称」が不可欠となる。

それゆえ、わたくしは下図のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。

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今から約6000年前の三皇時代初頭に作られた「易占(うらない)に用いる記号」の古称は「結縄(けつじょう)」であり、現在の中国では「陶文(とうぶん)」と名づけている。

上図の「夏の銀河各部の名称図」の左上には――「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」がある。

下図に示すように、「十字の銀河」には「縦線状(経度線のごとき縦線)の暗黒天体部」があり、「この縦線に緯度の目盛り」を加えて――下図の右上に配したように、三皇時代初頭頃の易占の記号・結縄【玉】の字源となった。

また、「鬼の姿に似る銀河の背中」にも「横線状(緯度線のごとき横線)の暗黒天体部」があり、「この横線上に経度の目盛り」を刻んだ図書も、三皇時代初頭頃の【玉】の結縄となった。

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三皇時代時代以来、上図の「十字の銀河にある縦線」に限らず、様々な夏の銀河各部や夏の星座の星々をつなげて人々は「南北の経度線」を想像して、その経度線の上に「各地における天頂緯度の目盛り」を加えて南北に離れる地を旅した。また、上図の「鬼の姿に似る銀河の背中にある、東西・横線の暗黒天体部」に限らず、様々な夏の銀河各部や夏の星座の星々をつなげて人々は「東西の緯度線」を想像して、その緯度線上に「各地点における経度の目盛り」を加えて、東西に離れる地を旅した。

この旅の習慣にもとづく「経度線と緯度線の交合」によって、地(地図)において【時計回りに90度転回して経度の「北」が緯度の「東」】となり、また【逆時計回りに90度転回して経度の「北」が緯度の「西」】となる、2種の方位規定が存在するのではないかと提唱されるようになった。

ゆえに、この意見に応えて倉頡は()【禾()】の字を作って「地(地図)における、時計回りに90度転回する方位規定」と、()【呉】の字を作って「地(地図)における、逆時計回りに90度転回する方位規定」を定めた。

下図に示すように、倉頡は「淮河より北部地域の地図における方位規定」を【禾】と名づけて「時計回りに90度転回する、つまり北は東、東は南、南は西、西は北となる」と定めた。

また、倉頡は「淮河より南部地域の地図における方位規定」を【呉】と名づけて「逆時計回りに90度転回する、つまり北は西、西は南、南は東、東は北となる」と定めた。

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下図は、【禾】【委】【倭】の字源解説図である。

黄帝時代において旱魃(かんばつ)で禾(穀物)が不作となり、人々が飢えて生存することが保証されない状況が最もおそれられた。ゆえに、【禾】の字は「人の姿に似る、十字の銀河」の上に「禾(イネ)」をあらわす図書を重ね、「十字の銀河の南にて、禾の穂が西の人の横顔に相似する鬼の横顔に似る銀河の口に垂れる様子」を表現することになった。

したがって、【禾】の字は「人々が豊かな穀物の実りに恵まれる状況」を表現している。

また、【禾】の字は「禾の穂が〔南〕から〔西〕に垂れる、時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしている。

淮河より北部の地域は人口が南部より多数であったが、禾()の生育適性地域ではない。ゆえに、人々が禾()はじめ麦などの穀物の豊かな実りにめぐまれる状況を願って、倉頡は「淮河より北部の地(地図)における方位規定」を【禾】の「時計回りに90度転回する」と定めた。

【委】と【倭】の字は、倉頡が作った【禾】の「時計回りに90度転回する方位規定」を受け継いだ。 

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下図は【呉】の字源解説図である。

倉頡の【呉】の字を「女性の姿に似る、十字の銀河」を「巫女(みこ)」に見立て、「子どもの出産を祈祷するときや、子どもの出産を願うときに用いる土器・口(さい)を北(十字の銀河の頭上)から西(十字の銀河の肩の上)に移してささげ、そして産道を赤ちゃんが容易に進んで出産する様子を巫女が身をくねらせて踊る姿に見立てる」と定めた。

ゆえに、【呉】の字は「多数の子どもが産道を無事に出産して、人口が増加する状況」をあらわす。

また、【呉】の字は「躍る巫女が子どもの出産を願うときや子どもの出産を祝う祭器・口(さい)を〔北〕(十字の銀河の頭上)から〔西〕(十字の銀河の右肩)に移してささげる様子で、逆時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしている。

淮河より南部の地域は禾()の生育適性地であったが、人口は北部地域よりも少数であった。ゆえに、多数の子どもが出産する状況を願って、倉頡は「淮河より南部の地(地図)」における方位規定を【呉】の「逆時計回りに90度転回する」と定めた。

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以上のごとく、「精密に緯度が測定できる、天頂緯度線と子午線の測量」は「この地(この世)に生存していくことができる保証」となった。

また、【禾】の「豊かな穀状物の実り」も「この地に生存していくことができる保証」となった。

また、【呉】の「多数の子どもが産道を容易に通過する出産」も「この地に生存していくことができる保証」となっった。

だから、倉頡は「天頂緯度線と子午線の測量」と【禾】の「豊かな穀物の実り」と【呉】の「子どもが産道を容易に通過する出産」の三者は「この地に生存していくことができる」という点で共通する。この共通点を注目して――倉頡は【禾】の「〔北〕が〔東〕となる・時計回りに90度転回する、地(淮河より北部地域)における方位規定」と、【呉】の「〔北〕が〔西〕となる・逆時計まわりに90度転回する、地(淮河より南部地域)における方位規定」を定めたのである。

◆『魏志倭人伝』は「女王が都とする所は、邪馬壱(やまい)国であった」と記述する。また、対馬国から数えて25番目の小国は「邪馬(やま)国」であったと伝える。

「邪馬壱国」と「邪馬国」とが共通する【邪馬】という名称は「邪(なな)めの馬」と意味する。【馬】の字源は「砂漠に生息する、フタコブラクダ」である。

「邪馬壱国」の【邪馬】は「経度線と緯度線と邪(なな)めとなって、出産したばかりの馬・フタコブラクダがたくましく四本の足で立ち上がる側身形となる地図の形」である。【壱】は「十字の銀河の子宮に合致する、倭人国の首都所在地」と意味した。

「邪馬国」の【邪馬】は「地(地図)の形が経度線と緯度線に邪(なな)めとなる。また、地(地図)の形が草をモグモグと食べる馬・フタコブラクダの横顔の形をしている」とあらわしていた。

そして、【邪馬】という名称は「せまい産道(子宮口から膣口まで)を通過するときの、出産する生子(せいし)の頭蓋骨の仕組みとその(頭の)旋回」をあらわしていた。

今日において、産婦人科では「産道を通過する生子の頭の旋回」を「回旋(かいせん)」と呼称する。

下図に「女性の生殖器の側身形」を示した。

下図に示したように、「産道」は「子宮口(外子宮口)から膣口(ちつこう)まで」である。

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医学が未発達の黄帝時代、産道を無事に通過できない生子やそのために母親も死ぬという事故が度々あった。ゆえに、黄帝は【女性の生殖器官と出産】を研究した。

倉頡が【禾】と【呉】の字を作って「地(地図)における方位規定」を2種にした。この意見には【黄帝の出産の研究における、生子が産道を容易に通過するための頭蓋骨の仕組みと頭の回旋】が大きく影響している。

下図に示すように、【産道を通過する子どもの頭蓋骨】は「骨どうしの間が結合組織性の膜(まく)となる小泉門(しょうせんもん)・矢状縫合(やじょうほうごう)・大泉門(だいせんもん)によって、頭蓋骨の骨は5枚に分かれる。ゆえに、5枚の頭蓋骨の骨は重ね合わせることができる仕組み」になっている。

下図の左側に示したように、【邪馬】は「産道を容易に通過することができるように、生子(赤ちゃん)の5枚の頭蓋骨の骨を重ね合わせて小さくすることができる小泉門・矢状縫合・大泉門」をあらわした。

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「出産第1期」を「開口期(かいこうき)」という。

出産第1期・開口器の終わりにおいて胎児の頭が骨盤入口を通りぬけると、膣の入口から生子(赤ちゃん)の頭蓋骨が見えるようになる。

上図の左側に示したように、産道を通過する生子が誕生するまでの――【小泉門・矢状縫合・大泉門がある出産児の頭蓋骨の4回、回旋する様子】は【邪馬】と呼称された。

医学が未発達の黄帝時代、【生子の頭が骨盤入口を通りぬけて産道を通過するときに4回の回旋をして頭が誕生するまで】が【出産第2期・娩出期(べんしゅつき)における最大の山場(やまば)】であった。

下図は、【邪馬】の解説図である。

前述したように、【邪馬】の【馬】の字源は「砂漠で生息する、フタコブラクダ」である。

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「草をモグモグと食べるときのフタコブラクダの顔」は「産道を通過する生子の顔のごとく無邪気」であり――そのときには「フタコブラクダの鼻・上アゴ・口・下アゴの区切りの間と間が重なり合う」。

つまり、上図における「草を食べるときのフタコブラクダの鼻・アゴ・口の表情」は「小泉門・矢状縫合・大泉門によって5枚に分かれる頭蓋骨を重ね合わせて直径を小さくして骨盤入口を通りぬけて、産道を容易に通過して出産する赤ちゃんの頭蓋骨の形状」に酷似する。

ゆえに、「草をモグモグと食べるフタコブラクダの鼻・アゴ・口の区切りの間と間が重なりあって邪(なな)めに歪む表情」は、【邪馬】と呼ばれることになった。

また、「小泉門・矢状縫合・大泉門によって5枚に分かれる頭蓋骨を重ね合わせて、頭蓋骨の直径を小さくして産道を円滑に通過して出産する赤ちゃんの頭蓋骨」も、【邪馬】と名づけられた。

だから、上図の「草をモグモグと食べる時の、馬(フタコブラクダ)の鼻・アゴ・口が邪(なな)めになって歪(ゆが)む表情」は【邪馬】と名づけられた。

 

◆赤ちゃんが産道を通過するとき、下記のごとく4回の回旋をする。

まず骨盤入口面では、児頭(じとう・赤ちゃんの頭)は横向きに入る。しかも入口部は骨盤内で一番狭い空間があるので、通常、赤ちゃんはアゴを胸に引きつけるような向きに曲げる。これを「第1回旋」と呼ぶ。

骨盤出口面は縦長(たてなが)なので、赤ちゃんは横向きから次第に正面・横向きへ方向を変えながら下降する。この過程を「第2回旋」と呼ぶ。

「第1回旋(横向き)」から「第2回旋(縦向き)」へ回る角度は90度である。

第1回旋は先に進む小泉門が時計回りに90度回り、第2回旋は先に進む小泉門が逆時計回りに90度回る。

第3回旋は第2回旋と同じく逆時計回りに90度回る。

最後の第4回旋は第1回旋と同じく時計回りに90度回って、赤ちゃんの頭は膣口から誕生する。

 

倉頡は「第1回旋と第4回旋」にもとづき、【禾】の字を作って淮河より北部の地域の方位規定を「時計回りに90度転回する」と定めた。

また、「第2回旋と第3回旋」にもとづいて、【呉】を作って淮河より南部の地域の方位規定を「逆時計回りに90度転回する」と定めた。

【禾】の字から【委】が生まれ、また【倭】の字が生まれた。ゆえに、【委】も【倭】の字は【禾】の字と同じく「地図における、時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・3」で詳細に解説し証明したように、対馬国から狗奴(くな)国なでの28ヵ国が所在する日本列島・本州西部地図は現在の地図と相違し――下図における下部に示したように【倭】の字にのっとって方位規定が「時計回り90度転回する地図」となる。

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◆産婦人科では「骨盤入口部は一番狭い空間となる」ので、「第1回旋=邪馬」を「小斜径(しょうしゃけい)」と呼称する。

つまり「赤ちゃんが頭を斜(なな)めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する」ゆえ、「小斜径」と呼ばれている。

現在は、申し込めば夫は妻の出産に立ち会うことができる。分娩室において、骨盤入口を通りぬけて産道を通過するときの子どもの頭の回旋の神秘的な光景を、夫は膣口から目撃できる。

【一番狭い産道を通りぬける、赤ちゃんの「小斜径=邪馬」の健気(けなげ)の努力】は「ものスゴク神秘的な感動的な、「命」の尊さをあらわす光景」である。「赤ちゃんはアゴを胸につける屈位の姿勢になって後頭部の最小の周囲径(最小径)で骨盤入口を通りぬけない」と、生まれることができずに「命」を失う。

下図に、骨盤入口の図を配した。

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上図に示すように、赤ちゃんの頭が通過する骨盤入口は横長である。

いっぽう、赤ちゃんの頭は縦長である。

下図に示すように、骨盤入口を通過できる平均的な最小径の小斜径は32㎝である。アゴを胸につける屈位の姿勢になれない、赤ちゃんの頭の前後径は平均34㎝だという。

ゆえに、わずか2㎝の差で生まれてくることができない。

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下図は【命】の字源解説図である。

【命】の上部は【亼(しゅう)】である。【亼】の下部の左側は【口(さい)】である。【亼】の下部の右側は【卩(せつ)】である。

【亼】の字形は「骨盤入口を通りぬけるときに先進(せんしん・先に進む)する小泉門の∨の形は、反転した∧の形」となる。

ゆえに、下図に示すように、【亼】の字形は「先進する小泉門の反転した【∧】の下部」に「骨盤入口の【一】」を加えた合体形・Α字形となる。

【亼】の下の左側の【口(さい)】は「産道、つまり子宮口から膣口(ちつこう)までの膣」をあらわす。

【亼】の下の右側の【卩】は「屈位(くつい)(アゴを胸につけた)姿勢となって骨盤入口を通りぬける赤ちゃんの姿」を表現している。

ゆえに、【命】の字形は「赤ちゃんがアゴを胸につける屈位の姿勢になって後頭部の小さい周囲径(最小径)で骨盤入口を通りぬける、第1回旋の様子」を表現している。

だから、【命】の字源は「横長の楕円形の骨盤入口を、縦長の赤ちゃんの頭蓋骨が後頭部の最小径で通りぬける、第1回旋の様子」であったことになる。

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◆下図は、出産第2期・娩出期(べんしゅつき)終わりの頭が誕生する赤ちゃんの図である。

この図では、母体の足は下部にある。

「母体の足」を「地」と見立てると、下図は「地を俯瞰(ふかん・地を見下ろす)する図」となる。

下図を反転して「母体の足」を「天頂」に見立てると、下図の「赤ちゃんの姿勢」は「天頂緯度線と子午線をキャッチする人々の姿勢」に相似する。

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下図は【亠(とう)】の字源「天頂緯度線と子午線」をあらわす解説図である。言いかえると「緯度が1分の精密に測定できる天頂点と重なる銀河部位の軌道」の解説図である。

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下図に示すように、【亠】の字形は「天頂緯度線と子午線」とで構成される。

「天頂緯度線と子午線」を測量すれば、地(観測地点)の緯度が1度の60分の1の1分の精密さで測定できる。ゆえに、遠くの地に旅する人々や大海を渡る人々は【亠】を測量すれば、旅先にて命を失わずに家族が待つ家に帰還できた。

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下図に示すように、古代の人々はいわゆる「門」の原型となった装置を作って、【亠】を測量した。

日々鍛錬した王たちや【亠】の測量に特殊能力を有する人々は「門」の装置を無くても、精密に緯度が測定できた。

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【亠】を観測する人々は、「必ず、【亠】をキャッチする」という欲を有すると失敗した。

【亠】を観測する人々は、無事に誕生する出産児が産道を通過するときのように【無欲】になれば【亠】が測定できた。

ゆえに、【亠】をキャッチするコツは「【無欲】になれ」であった。

紀元前5・4世紀頃に生存した中国の戦国時代の思想家の老子の教えを伝える『老子』上篇・第一章の末部の文は――故に常に無欲にして以て其の妙(みょう)を観()、常に有欲(ゆうよく)にして以て其の皦(きょう)を観る。此の両者は、同じく出でて名を異(こと)にし、同じく之(これ)を玄(げん)と謂う。玄の又た玄、衆妙(しゅうみょう)の門――である。

この『老子』上篇・第一章の末部の文を現代語に訳すると――ゆえに常に無欲になれば不思議なことに【亠】を測定できる、しかし常に「必ず、【亠】をキャッチする」と欲を有すると皦つまり「血の気を失い白くなって出産できずに死ぬ子ども」となる。この【妙】と【皦】は同じ字源銀河から生まれて、名が異なり、そして【玄】の字源銀河も【妙】と【皦】の字源銀河と同じである。その不思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、民衆が【亠】をキャッチすることができる「門」と呼ばれる装置を用いると不思議なことに【亠】、つまり「天頂緯度線と子午線」が測定できる――ということになる。

(注 【妙】・【皦】・【玄】の字源は()「十字の銀河」、()「鬼の姿に似る銀河」、()「激流の銀河」、()「長方形の暗黒天体部」とで構成される)

 

【玄】の字源は――()「産道を湿潤(しつじゅん)にして赤ちゃんの産道通過を容易にする羊水(ようすい)」に見立てた「激流の銀河」と、()「膣口(ちつこう)・女陰」に見立てた「長方形の暗黒天体部」と、()「黄帝時代に長江口(ちょうこうこう)の【亠】、つまり天頂緯度線と子午線」に見立てた「十字の銀河の子宮」と、()「出産第2期・娩出期(べんしゅつき)終わりの頭が誕生する赤ちゃん」に見立てた「鬼の姿に似る銀河」とで――成立した。

下図は、【玄】の字形解説図である。

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上図の【玄】の字形解説図では――()【亠】に見立てた「十字の銀河の子宮」と、()「鬼の姿に似る銀河」に見立てた「娩出期終わりの頭が誕生した生子」とで構成される。しかし、「生子・赤ちゃんの産道通過を容易にする羊水」に見立てた「激流の銀河」と、「膣口」に見立てた「長方形の暗黒天体部」については省略している。

結局、上図の【玄】の字形は【亠】の下に【幺(よう)】が加えられて成立する。

「字書の聖典」と呼ばれて尊重された『説文解字』は【幺】の字を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説する。ゆえに、【幺】の字形は「この世に初めて生まれる子の姿を象る図案」、つまり「娩出期終わりの頭が誕生する生子の姿の図案」ということになる。

【亠】を観測する人々は、【無欲】になって顔を上に向ける姿勢、つまり出産第2期・娩出期終わりの【無欲】になって産道を通過した頭が誕生する生子のような姿勢となった。

だから、上図に示したように、【玄】の字形は【亠】の下に【幺】「娩出期終わりの、この世に初めて生まれた子の姿」が加えられて成立した。

 

◆以上のごとく、【倉頡の文字作成理論】は【夏の銀河各部の形状を図案する方法】に、【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究】が結合して組織された。

なお、下図に示すように、「【邪馬】の銀河」つまり「小泉門・矢状縫合・大泉門の形をした銀河」は「鬼の横顔に似る銀河の首の西となり」に存在する。

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『魏志倭人伝』は対馬国を1番目の小国とすると、25番目の小国は「邪馬国」であったと記す。

下図に示すように、【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にもとづくと、「大和・奈良県の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)」は「草をモグモグと食べるときの頬をふくらませる、鼻・アゴ・口の区切りの間と間が邪(なな)めに重なり合った歪(ゆが)む馬・フタコブラクダの横顔」に相似する。したがって、「大和・奈良県の地図」は「馬・フタコブラクダの鼻・アゴ・口が邪めに重なり合う【邪馬】の形」をしている。

ゆえに、「大和・奈良県」は「邪馬国」であった。

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だから、「大和」は「邪馬台国」ではなかった。

邪馬台国大和説は空理空論であった、この事実は絶対に確実で否定できない。

というのも、『魏志倭人伝』には「邪馬臺()国」という名の記事が1ヵ所も存在しないからである。

また、邪馬台国大和説は――魏・帯方郡と倭人国の使者たちは、大海を【亠】「天頂緯度線と子午線」を測定して往来した――と考えない。ゆえに、倭国=日本列島・本州の地図は現在と同じで「北」は「北」と定めたと断定する。このような意見だと、魏・帯方郡と倭人国の使者たちは天の北極の高度で緯度を換算して大海を渡ったことになる。しかし、この方法だと魏・帯方郡と倭人国の使者たちは大海を渡れずに命を失った。そうすると、魏では倭人国の様子をまったく知ることができなかったゆえ、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていない白紙であったことになる。

このような約2000字の『魏志倭人伝』が忽然(こつぜん)と白紙になるという事実は絶対に信じられない。だから、邪馬台国説は空理空論だったと断定できる。

 

これまで解説したとおり、『魏志倭人伝』は邪馬台国について語る書物ではなく、【倉頡が発明した文字作成理論】を詳細に具体的に説明していた貴重な文献であったのである。

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2024年2月27日 (火)

漢字の起源と発明を解明す・3

卑弥呼が定めた日本列島・本州の地図は90度転回する

 

◆3世紀後半(280年~289)に成立した陳寿(ちんじゅ)が著作した『三国志』東夷伝の倭人条、すなわち通称『魏志倭人伝』と呼ばれる文献は――江戸時代中期に生存した新井白石(1657年~1725)が主張するがごとく「邪馬臺()国は大和であった」、あるいは「邪馬臺()国は九州に存在した」と、イッサイ(一切)説明していない。

『魏志倭人伝』は「倭女王・卑弥呼は邪馬壹(壱・やまい)国・山陰出雲地方に居住していた」と記述する。

また「倭の小国の対馬国から狗奴国までの30ヵ国の名称」で「今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成理論」を詳細に正確に今日に伝えている。

そして、『魏志倭人伝』」は、()「女王国(邪馬壱国)より東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種なり」という名称が不明の小国と、()「侏儒(しゅじゅ)国、裸()国、黒歯(こくし)国」の3か国の名称」と、()「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問至るべき。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里ばかり」という3つの記事で――「今から約4000年前(紀元前2050年頃)に、夏代黎明期(かだいれいめいき)に帝に就任した益(えき)の孫の王子と益氏を受け継ぐ若者たち一行が中国から大海を越えて九州に上陸して北進して東北地方の男鹿半島・八郎潟の東湖岸地域に定住した。

この益氏の王子(天祖)と若者たちは

(Ⅰ)【精確な中国海岸線地図】

(Ⅱ)【倉頡の文字作成理論】

(Ⅲ)【黄帝の医学研究【女性の生殖器官と出産の研究】

(Ⅳ)三皇時代の易占に用いる記号の結縄(けつじょう)

(Ⅴ)五帝時代に作られた書契(しょけい・最初の漢字)

(Ⅵ)夏代黎明期の夏音文字

などの学芸を教え広めた」と伝えている。

だから、『魏志倭人伝』には「卑弥呼」を「ヒミコ」、「難升米」を「ナシメ」、「載斯烏越」を「ソシアオ」と読む夏代黎明期の夏音を楷書が音符となって記載している。『古事記』上巻并(あわ)せて序では「夏音文字を楷書で表記する秘密が、非常に難解な文章」をもって解説され、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残っている。

中国に現存する最古の漢字音は「上古音(じょうこおん)」と名づけられる。中国の上古音は今から約3070年前(紀元前1046)頃の周代初頭から始まるとされる。

中国の上古音で「卑弥呼」を読むと「ピミカ」となる。

わが国の「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む夏代黎明期(今から約4070年前頃)紀元前の夏音は、現存する中国における最古の周代初頭(今から約3070年前頃)の上古音よりも約1000年も古い漢字音である。このような現存する最古の漢字音が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に多数現存する。
したがって、わが国の学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する絶対的定説は空理空論であったことになる。

 

◆倉頡は下に示す「夏の銀河各部の形状を図案して文字(漢字)を作る理論」発明した。

「夏の銀河」は「夏に長時間見える銀河」であり、また「夏の星座の全部が漬()かる銀河の帯」である。

「夏の銀河」は「銀漢」と呼ばれ、「銀漢から作られた文字」を略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

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「夏の銀河の範囲(一部分、夏の星座も含む)」は北緯0度(赤道)から北緯42度~北緯43までの土地に住む人々の天頂(頭上の真上)にめぐってきた。

ところが、「冬の銀河に漬かるぎょしゃ座・おうし座・昴(すばる)」をモデルにして図案された【夏】の異体字という特殊な一例が存在する。

しかし、それ以外全ての漢字は「夏の銀河各部の形状」から作られた。

「春の銀河」、「秋の銀河」は北緯30度~北緯43度の土地に住む人々の天頂にはめぐってこない。また、前述したように「冬の銀河」において「ぎょしゃ座・おうし座・昴が漬かる銀河」は北緯30度~北緯43度までの土地に住む人々の天頂にめぐってきた。ゆえに、「ぎょしゃ座・おうし座・昴の形」は【夏】の金文形(きんぶんけい・周代に用いられる文字)の異体字となった。

しかし、注目すべきは【夏】の金文形には「夏の銀河の80パーセントくらい概略形」を図案する文字がある。

上記したように、「冬の銀河に漬かる、ぎょしゃ座・おうし座・昴などの星座の形」が字形となった事例は特殊で、この【夏】の金文形以外一例も存在しない。

 

◆前ページに配した「夏の銀河の写真」において、上部が「北」、下部が「南」となった。

そして、南に多数の星や銀河が存在するゆえ「南が正面」となった。ゆえに、「東」は「左側」に配し、「西」は「右側」に配することになった。

この「上・北、下・南、左・東、右・西の形式」は「現在の星座版の定式」と同じである。

現在の地図のおける方位規定は「天の北極を北」と定め、「東を右側、西を左側に配し、北を上、南を下に配置する」。

しかし、中国でもわが国でも、古代において「天の北極」を基準にして位置(緯度)を測定すると【必ず、命を失った】。

このため、古代の地図においては、「天の北極」を「北の方角」と定める現在のような方位規定は成立しなかった。

古代においては――天頂緯度線をキャッチして緯度線と経度線(子午線)を測定した。

 

ヒトは「いのちあってのものだね」、なにはさておき先ず「生きている」という命の保証が必要となる。

天の北極、また北極星は命を保証しない天体であった。

ゆえに、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝時代においては、地図において「命を保証する天頂緯度線」を基準にして方位規定が定められた。

 

倉頡が「漢字を発明した、夏の銀河の各部」には名称が存在しない。

しかし、夏音文字・契文(けいぶん・甲骨文字)・金文、あるいは楷書などの字源は「夏の銀河各部の形状」であった。このため、「字源となった銀河」を表示するためには「夏の銀河各部の名称」がどうしても必要となった。

それゆえ、わたくしは下図のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。

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上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。

下図に示すように、「十字の銀河の西となり」は「鬼の横顔に似る銀河」である。

下に「黄帝時代の黄帝陵(こうていりょう・黄帝を祀る廟と墓)と長江口(ちょうこうこう・長江の河口)の天頂緯度線の図」を配した。

黄帝時代、黄帝陵(北緯3535)の天頂緯度線は「鬼の横顔に似る銀河の、後頭部の目の形をした銀河部の中央」と「十字の銀河の頭(あるいは顔)の中央」を貫通していた。

また、当時、長江口(北緯3130)の天頂緯度線は「鬼の横顔に似る銀河の、アゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部の中央」と「十字の銀河の子宮中央」を貫通していた。

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下図に示すように、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」には「背骨」に見立てられた「線状の暗黒天体部」がある。

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下図に示すように、「十字の銀河における線状の暗黒天体部」は「経度線」に見立てられて「緯度の目盛り」が刻まれて――右上の【玉】の結縄(けつじょう・三皇時代の易占に用いられた記号)となった。

また、「鬼の姿に似る銀河における線状の暗黒天体部」は「緯度線に見立てられて「経度の目盛り」が加えられて――右上に配した【玉】の結縄となった。

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◆上図が示すように、今から約6000年前頃から始まる三皇時代には、「経度軸に緯度の目盛り」あるいは「緯度軸に経度の目盛り」を加えていた。

この「経度軸と緯度軸の交わり」によって「地(地図)には、2種類の方位規定がる」と考えられるようになった。

その1種類の方位規定は「時計回りに90度回転して経度軸は緯度軸となるゆえ、北は東となり、東は南となり、南は西となり、西は北となる」と考えられることになった。

もう1種類の方位規定は「逆時計回りに90度転回して経度軸は緯度軸となって、北は西となり、西は南となり、南は東となり、東は北となる」と考えられることになった。

 

三皇時代以来、倉頡が生存した五帝時代初頭の黄帝時代にあっても、大多数の人々が地(地図)には、「()時計回りに90度転回する方位規定と、()逆時計回りに90度転回する方位規定が存在する」と考えるようになっていた。

ゆえに、倉頡は【禾()(字義は稲)と【呉】の字を考案した。

【禾】は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

【呉】は「逆時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

下に配する上図は【禾】【委】【倭】の字源銀河図である。この字源銀河図は「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわしている。

下に配する下図は【呉】の字源銀河図図である。

白川静著『字統』(平凡社発行)は【呉】の金文の字形を「人が一手をあげて祝祷(しゅくとう)の器である口(さい)をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。つまり、倉頡は「十字の銀河」を「巫女」に見立て、「子どもの出産を祈祷し祝う土器の口(さい)を肩の上にささげ、巫女が身をくねらせて踊る姿」をもって「逆時計回りに90度転回する方位規定」を表現した。

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下図に示すように、倉頡は「淮河より北部地域の地図における方位規定」を【禾】と名づけて「時計回りに90度転回する、つまり北は東、東は南、南は西、西は北となる」と定めた。

また、倉頡は「淮河より南部地域の地図における方位規定」を【呉】と名づけて「逆時計回りに90度転回する、つまり北は西、西は南、南は東、東は北となる」と定めた。

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下図に示すように、卑弥呼が生存した三国時代においても、「淮河より北部地域の国」は【魏】と名づけられ、【魏】の偏【委】は「時計回り90度転回する、魏の地図の方位規定」をあらわした。

また、「淮河より南部地域の国」は【呉】と名づけられ、「逆時計回りに90度転回する、呉の地図の方位規定」をあらわした。

卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばにおいて、【禾】の「時計回りに90度転回する方位規定」と【呉】の「逆時計回りに90度転回する方位規定」の2種が存在するという意見は、中国とわが国(倭国)における地理学における定説であったのである。

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このブログ・シリーズ「漢字の起源と発明を解明す・序」の後半で紹介したように、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史 上』(光文社発行)における直木孝次郎博士が執筆した「邪馬臺国の位置論」には――「内藤は、中国の古典では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうであると、『後魏書』勿吉(ぶつきつ)伝に東南を東北と記していることから、『魏志』倭人の条の〔南〕は〔東〕と解するべしとした」と指摘する文がある。

この文先頭の「内藤」は「明治時代の歴史学者の内藤湖南」である。

また、文中の『後魏書』は6世紀(554)に成立した。

だから、6世紀の中国にあっても、倉頡が立論した――【禾】の「時計回り」と【呉】の「逆時計回り」に90度転回する方位規定は失われていなかったことになる。

 

◆このブログにおける前ページで用いた「[][][]の字源解説図」では、【禾】の字源銀河は「十字の銀河」であった。

下図に示すように、「十字の銀河」は「女の姿。女体」に相似する。

ゆえに、倉頡より以後、【禾】の下に【女】が加えられる【委()】という字が作られた。また、「十字の銀河」は【人】の字源となった。このため、【人偏(にんべん)】に【委】が加えられる【倭】の字が作られた。

上記したように、【委】と【倭】の字は倉頡が作った【禾】と同じ「十字の銀河」から作成された。

ゆえに、【委】と【倭】は【禾】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」をそのまま受け継いだ。

 

『魏志倭人伝』は、卑弥呼が統治した国の名は「倭人国」であったと記す。

「倭人国」のうち【人】の字義は「十字の銀河の身長の半分大(約4尺)となる、禾(イネ)の身の丈(たけ)」をあらわした。つまり、「禾(イネ)の身の丈」を「人」と暗号化して表現するものであった。

 

『説文解字』は【夫】の字源を「丈夫(じょうぶ)なり。大に従ふ。一はもって簪(しん)に象(かたど)るなり。周制、(中略)、十尺を丈となす。人は長(たけ)八尺なり。ゆえに丈夫といふ」と解説する。

下図に示すように、「十字の銀河の頭上にある簪(かんざし)を挿す頂部までの見かけの大きさ」は「周制において、一丈・十尺・十度」と定められた。

そして、「二尺・二度の簪」を【一】と図案した。ゆえに、『説文解字』は「一をもって簪に象るなり」と解説した。だから、【夫】の契文と金文の字形は【十尺・十度の大字形の「十字の銀河の頭上に、【一】の簪を加える図書】となった。

したがって、【人】の字源となった「十字の銀河の見かけの長(たけ)」は「八尺・八度」となる。ゆえに、『説文解字』は「周制で、人の長八尺なり」と解説した。

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「周制で、八尺となる身長(たけ)の【人】」は、【倭】の字の左側の人偏(にんべん)の【人】である。

「倭人」という名詞の【人】は、上記したように「禾(イネ)の身の丈」を暗号化した「周制、人の長八尺の半分大の四尺」であった。

この「禾の身の丈四尺」について、これから解説する。

そのために、このブログの前ページに配した「黄帝時代における黄帝陵と長江口の天頂緯度線」を再度、下に示した。

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上図に示すように、黄帝時代、【黄帝陵(北緯3535)の天頂緯度線】は「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく目の形をした銀河部中央」と「十字の銀河の頭部()の中央部」を貫通していた。

また、当時、【長江口(北緯3130)の天頂緯度線】は「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部中央」と「十字の銀河の子宮の中央」を貫通していた。

上図における「鬼の横顔の後頭部につく目の形をした銀河部中央」と「鬼の横顔に似る銀河の細い切れ長の目の形をした銀河部中央」は「緯度差が約四度、ゆえに見かけの大きさは約四尺の長(たけ)」となる。

また、「十字の銀河の頭部中央」と「十字の銀河の子宮中央」は「緯度差が約四度、ゆえに見かけの大きさは約四尺の長(たけ)」となる。

この「四尺」は「十字の銀河の見かけの身長八尺の半分大」となる。

周制、つまり「周代の一尺」は「22.5㎝」であった。ゆえに、「四尺」は「90㎝」となる。

穂が実る禾(イネ)の長(たけ)は、約四尺・約90㎝である。

だから、「禾(イネ)の長(たけ)の四尺・90㎝」は「倭人国」という名における【人】の字源となった。

 

したがって、黄帝時代の「十字の銀河の頭部中央と十字の銀河の子宮中央までの距離」の「四度、四尺」は「倭人国」という名における【人】の字源となった。

ということは、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく目の形をした銀河部中央」と「鬼の姿に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部中央部までの距離」の「四度、四尺」もまた「倭人国」という名における【人】の字源となった。

このような「黄帝時代における黄帝陵と長江口までの緯度差、四度、四尺」は、黄帝時代以後の後世において、【倉頡の文字作成理論】において不可欠の重大な基本知識となった。

ゆえに、「禾(イネ)の身の丈の四尺」を【人】と暗号化して、「黄帝時代における黄帝陵と長江口の天頂緯度線」を忘れないように記憶されることになったのである。

 

卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】に精通していた。

これゆえ、卑弥呼は黄帝陵が北緯3535分、長江口が北緯3130分であることを知っていた。

そして、卑弥呼が統治した「対馬国から狗奴(くな)国までの30ヵ国は、【人】の字源となった長江口の北緯3130分~黄帝陵の北緯3535分までの緯度圏内に所在した。

『魏志倭人伝』は「対馬国(現在の長崎県北部の対馬)は一大国(長崎県北部の壱岐)の北、一大国(現在の長崎県壱岐)は対馬国の南」と説明する。

しかし、九州西部に所在する末盧(まつろ)国から狗奴国までの28ヵ国の所在する日本列島・本州西部の地図における方位は、【倭】の字源にのっとって「現在の本州西部の方位規定と異なり、時計回りに90度転回して北(山陰地方)は東、東の東海地方(愛知県と静岡県西部)は南となり、南の四国は西となり、西の九州は北となる」と、『魏志倭人伝』は記述いている。

だから、卑弥呼は国名を【倭】に【人】を加える「倭人国」と定めた。

 

◆下の上図は、「現在の日本列島・本州西部(東海地方より西側)の地図の形」である。

下の下図は、『魏志倭人伝』に記述された「卑弥呼が定めた倭人国(本州西部)全域の地図の形」である。

下図は【倭】の字源にのっとって「時計回りに90度転回する末盧国から狗奴国までの28ヵ国が所在する本州西部の地図の形」である。また、この全域は「禾(イネ)の身の丈(たけ)」をあらわす【人】の字源「北緯3130分~北緯3535分までの圏内」におさまっている。

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下に、『魏志倭人伝』が【倉頡の文字作成理論】を今日に詳細に正確に伝える対馬国から黒歯国までの34ヵ国の小国を配置する地図――【倭】の字源や「倭人国」という国名になった本州が時計回りに90度転回する日本列島像論・邪馬壱国山陰出雲説の地図を示した。

この地図の右側は東となり、現在の日本地図では「北」となる「旧国の山陰の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」つまり「現在の島根県と鳥取県西部」は、卑弥呼が居住した邪馬壱国であったことになる。

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『魏志倭人伝』は「女王国(邪馬壱国)の東、海を渡ること千余里にして復()た国有り。皆倭種なり」と記述する。

上図の、【倭】の字源にのっとって「時計回りに90度方位が転回する地図」における「女王国・邪馬壱国の東(現在の日本地図の北)、海を渡ること千余里にして復た国有り」という小国名が不明の地域は隠岐群島の島前(どうぜん)である。

隠岐群島は出雲の北方(現在方位)40kmの日本海上に浮かぶ島々をいう。島根半島・出雲に近い知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島で構成する島前と、その東北(現在方位)にある最も大きな島・島後(どうご)の4つの大島と、約180の小島からなる。

だから、『魏志倭人伝』は「4つの大島と約180の小島」を「皆」と表現した。

「隠岐群島の地図における方位規定」も【倭】の字源にのっとって「時計回りに90度転回する」ゆえ、『魏志倭人伝』は「皆倭種なり」と説明した。

島前の南端は北緯36度、島前の北端は北緯3610分ぐらいである。ゆえに、「倭人」と定義される「北緯3130分~北緯3535分」よりも高緯度に所在する。このため、『魏志倭人伝』には「隠岐群島」は「倭人」の「人」の字が削除されて「皆倭種なり」と記述されることになった。

 

『魏志倭人伝』は「皆倭種なり」という文に続いて、「又、侏儒国(しゅじゅ)国有り。其の南に在り。(中略)。女王を去ること四千余里。又、裸()国・黒歯(こくし)国有り」と説明する。

上図の右下に示したように、「隠岐群島より南に在り。女王が居住する邪馬壱国・出雲から去ること四千余里の、侏儒国・裸国・黒歯国」は北陸の三旧国であった。

「侏儒国」は「加賀」、「現在の石川県南部」である。

「裸国」は「越中」、「現在の富山県」である。

「黒歯国」は「能登」、「現在の石川県北部」である。

「侏儒国・裸国・黒歯国」は「倭人」の「北緯3130分~北緯3535分」より高緯度の「北緯3610(加賀の南端)~北緯3730(能登半島の北端)に所在する。

だから、「侏儒国・裸国・黒歯国」は「隠岐群島と同じく、皆倭種なりの国々」であったことになる。

 

◆『魏志倭人伝』はは「又、裸()国・黒歯(こくし)国有り」という文の後に、「復た其の東南に在りて船行一年にして参問至るべき。倭の地を参問するに、海中洲島(しゅうとう)の上に絶在し、或(ある)いは絶え或いは連なり、周旋(しゅうせん)五千余里可(ばか)り」という文を続ける。

下図に示すように、「黒歯国の東南」には「船で行くと一年で参問(訪問)至るべき」という、「男鹿半島はじめ東北地方が有る」。

「黒歯国の七尾湾から佐渡への船行」は「倭の地を参問するに、海中洲島」ということになる。

「佐渡から粟島(あわしま)への船行」は「海中洲島の上に絶在し」と表現された。

「粟島から飛島(とびしま)までの船行」は「或いは絶え」となった。

「飛島から船越水道・男鹿半島・八郎潟の東湖岸地域」は「或いは連なり、黒歯国から周旋五千里可りの後期縄文文化圏」ということになる。

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上記したように、【倭】の転回方位規定だと「黒歯国の東南」には「男鹿半島・東北地方がある」。

だから、『魏志倭人伝』は「倭の地を参問する」という文を挿入した。

というのも、「黒歯国・能登の七尾湾」は「北緯3712分」、「佐渡の中央」は「北緯3806分」、「粟島」は「北緯3830分」、「飛島」は「北緯3912分」、そして「男鹿半島の北端(現在方位)」は「北緯40度」だからである。これら各地は、「倭人」という語の条件「長江口の北緯3130分から黄帝陵の北緯3535分」よりも高緯度に所在る。

ゆえに、「倭人」のうちの「人」の字は削除されて「倭の地を参問する」と表現された。

 

「男鹿半島・八郎潟の東湖岸地域」は「今から約4070年前(紀元前4050前頃)に、中国から名門益氏の王子と若者たちが大海を渡って定住して、【倉頡の文字作成理論】と【黄帝の女性生殖器と出産の研究】や【精確な中国海岸線地図】・三皇時代の結縄・五帝時代の書契・夏代黎明期の夏音文字を教え広めた後期縄文文化圏であった。

 

上図の「男鹿半島から黒歯国までの船行」、そして「黒歯国から隠岐群島の船行」、さらに「隠岐群島から邪馬壱国・出雲の船行」は「卑弥呼時代における益氏が普及させた学術の渡来経路」であったことになる。

だから、女王国・邪馬壱国は倭人国における最高最大の学術都市であったことになる。

大和や九州地方の大都市を有する小国は経済的に邪馬壱国・出雲地方より優っていたかもしれないが?――邪馬壱国は大和や九州の大都市よりも学術都市として優っていたのである。

だから、卑弥呼は山陰出雲地方を倭人国の首都所在地と定めたのである。

 

以上のごとく、『魏志倭人伝』は「卑弥呼は【倭】の字源「転回方位規定」にのっとって、下図のように――東北地方が東南に伸びる、転回本州地図を定めた」と説明していた。

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下図は、明(みん)の建文(けんぶん)4年(1402)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」の概略図である。

この地図には、【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定」にのっとって「東北地方が黒歯国・能登の東南に在る、日本列島・本州地図」が描かれる。

15世紀初頭(1402)にあっても、【倭】の字源を知っていれば「倭地図」は、当然、下図のごとく東北地方は東南に伸びることになった。

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◆天の北極の水平線あるいは地平線からの高度(高さ)3130分ならば、その観測地点の緯度は北緯3130分である。また、天の北極の水平線あるいは地平線からの高度が3535分ならば、その観測地点の緯度は北緯3535分である。

したがって、天の北極の高度は緯度に換算できる。

原始時代から現代まですべての時代、天の北極は真っ暗な闇であった。

しかし、現在は真っ暗な闇の一点である天の北極の高度を、天の北極を中心にして円を描く北極星のかたよりを計算して精確に計測することができる。

というのも、現在は正確な日付けの暦と精密に時刻を示す時計が存在するので、北極星の天の北極からのかたよりが誤差なく精密に測量できる。ゆえに、現在は天の北極の高度で精密に緯度が換算できる。

しかし、原始時代から古代においては、正確な日付への暦と精密に時刻を示す時計が存在しなかった。ゆえに、北極星の天の北極からのかたよりは精確に計算できなかったので、精密な天の北極の高度をキャッチすることができなかった。

 

下図における「円(の線)」は「天の北極」の位置である。

下図示すように、天の北極の位置は25,800年で一周する。

下図の天の北極を示す円の上に、りゅう座α星とこぐま座α星が重なって重なっているように見える。しかし、この二つの北極星は天の北極から離れて円を描いていた。

ゆえに、上記したように、原始時代から現代まですべての時代、天の北極は真っ暗な闇であった。

下図において、北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前2790年のりゅう座α星と、現在から74年後のこぐま座α星である。

この二つの北極星は、天の北極を中心にして半径45分・直径1.5(90分・満月の3個分)の円を描く。この二つの天の北極に最も近づく北極星でも、様々な技(わざ)や道具を用いてもヒトの肉眼では――満月の3個分(90分・1.5)の直径(距離)の円の中心となる天の北極の位置を1分(90分の1)以内の精度で測定することができなかった。

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上図の右上に示すように、3世紀(卑弥呼時代)の北極星は、こぐま座β星であった。

この北極星は、天の北極から半径10度・直径20(1200)で円周していた。したがって、直径20度・1200分の円を描く北極星で精確に1度の60分の1の1分以内の緯度差で測定することは不可能であった。

中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して、「こぐま座β星」を「太一神(たいいちしん)」と呼ぶようになった。

『魏志倭人伝』には「魏の正始元年(240)、帯方郡太守(たいほうぐんたいしゅ)の弓遵(きゅうじゅん)が建忠校尉(けんちゅうこうい)の梯儁(ていしゅん)らを派遣し、先の詔書・印綬を奉じて(持たせて)、倭国に詣(いた)った」という記事がある。

この帯方郡の使節は、天の北極やシナ天文で「太一神」と尊重する北極星(太一)で緯度測定して倭国に到着したのではなかった。

もしも、一行が天の北極・太一神にて緯度測定する方法を用いたならば、出発して間もなく一行は全員命を失っていた。

一行は、旅路の各地点で、原始時代以来の天頂緯度線をキャッチして精密に緯度を測定して、玄界灘をわたって倭地に到着したのである。

 

上記したように、正確な暦や精密な時刻を示す時計が存在しなかった古代においては、天の北極・北極星で緯度と経度測定する方法だと、人々は旅先で命を必ず失った。

原始時代からすべての古代において、天の北極・北極星を緯度計測の目安にすると、1度の60分の1の1分の精度で測量が求められた大海を渡ることができなかった。

したがって、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半ば)、天の北極・北極星で緯度測定する方法では、九州沖の大海・玄界灘を渡ることができなかった。

シナ天文が尊重した太一神・北極星を重視して「北」を「北」と定める現在の日本地図で、『魏志倭人伝』の本州地図の方位規定を考える現在の学者たちの意見の場合――倭と帯方郡の使者たちは九州の陸地から遠く離れる大海・玄界灘を渡ることができなかったことになる。

したがって、魏・帯方郡と倭は国交を結ぶことができなかった。この結果、魏では倭国の様子について「知らぬ権兵衛(ゴンベエ)」つまりまったく知っていなかったことになる。

そうすると、『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていなかったことになる。

実際には約2000字で構成される『魏志倭人伝』には文字が1字も書かれていなかった白紙に化ける――こんなキツネにつままれるびっくり仰天(ギョウテン)真っ白けとなる事態に対して、「なるほど! そうだったのか」と呑気(ノンキ)に感心して邪馬台国説学者たちの冗談(じょうだん)に賛成するわけにはいかない。

2000字が太一神・北極星で「パッ」と白煙があがって1字も無くなる白紙になる、こんな白紙が『魏志倭人伝』の実体であったなんていう事実は、この世では絶対に存在するはずがない。

だから、本州地図の方位規定が【倭】の字源にのっとって時計回り90度に転回しない――「本州地図の〔北〕は現在の日本地図の地図の同じ〔北〕であった」と考えるすべての邪馬台国説は空理空論であったことになる。

 

◆原始時代から卑弥呼時代、さらにその後の古代において、旅する人々は旅先の各地で1度の60分の1の1分の緯度を測定できれば、家族が待つ家に帰還することができた。

下図の右上に示す「天頂緯度線」をキャッチすれば、1度の60分の1の1分以内の精度で緯度が精密に測定できた。

原始時代から、下図の右上に配する、人間の目は鍛錬すると1分以内の緯度差で「天頂緯度線と子午線」をキャッチする本能がそなわっていた。

「天頂緯度線と子午線」は【亠(とう)】の字源となり、【亠】の下に【幺(よう)】が加わって【玄】の字となった。

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卑弥呼時代はもちろんその以前の夏代黎明期あるいは原始時代、人々は中国大陸から朝鮮半島から、また倭地から【玄】(天頂緯度線と子午線)をキャッチして大海を渡っていた。

「【玄】をキャッチすれば往来できる灘(なだ)、つまり陸地から遠く離れる波の荒い海」であるから、「玄界灘」と名づけられた。つまり、「【玄】をキャッチすれば往来できる大海」であるゆえ、「玄界灘」と呼ばれることになったのである。

 

「1分以内の精度で緯度を精密に測定できる能力」を、人類は食料となる獲物を求めて旅(移住生活)をしていた原始時代から日々鍛錬して受け継いだ。

人類は本能的に、上図の右上に示した〔【亠】(天頂緯度線と子午線)をキャッチできる神秘的な呪的(じゅてき)能力を有する眼力〕を有していた。また、人類は〔【亠】をキャッチする技(わざ)〕を工夫して進歩させた。

だから原始時代や卑弥呼時代、人々は1分以内の精度で緯度が測定できた。

この〔【亠】をキャッチする眼力〕をもしも人類が有していなかったならば――人類は密林でおおわれる原始時代や氷でただ一面真っ白な氷河期において全滅していたことになる。

人類が滅びなかったのは、日々鍛錬すれば〔【亠】をキャッチすることができる眼力〕と、その能力が本能として頭脳にそなわっていたからである。

原始時代や卑弥呼時代、遠くの地を旅する人々や大海を渡る人々が旅先で自分の居る場所の位置を精確に測定できる方法は、〔【亠】のキャッチ〕、ただ一つのみであった。

北極星の高度で緯度を測量すると出発して間もなく位置(緯度)と経度(方角)が混乱して迷って命を失い、家族が待つ家に帰ることはできなかった。

だから、日々天頂緯度観測して眼力を鍛錬していた黄帝時代、前ページで「【玉】の字源解説図」を用いて解説したように――「経度と緯度の交合の習慣」つまり「経度軸に緯度の目盛りをつけ、緯度軸に経度の目盛りを加える、天頂緯度線測定する習慣」によって、地(地図)における方位規定は2種類存在するにちがいないと――多くの人々が考えるようになった。

それゆえ倉頡は、【禾】の字を作って「地(地図)における、時計回りに90度転回する方位規定」と、「地(地図)における、逆時計回りに90度転回する方位規定」を定義した。

倉頡以後、【禾】から【委】の字が作られた。さらに、【人偏(にんべん)】に【委】を加えられる【倭】の字が作られた。また【委偏】に【鬼】の字が加えられる【魏】の字が作られた。

前ページで証明したとおり――【委】・【倭】・【魏】の字は、倉頡が作った【禾】と同じく「時計回りに90度転回する方位規定」をあらわした。

 

◆『万葉集』巻一・45番は、「軽皇子(かるのみこ)が安騎野(あきの)に宿られた時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌」という題名がつく、長歌である。

この長歌の後ろに、46番・47番・48番・49番の4首の短歌が続く。

これら長歌一首と短歌四首は、軽皇子(のちの文武天皇)の成年式が行われたときに作られた。

この軽皇子の成人式は――人麻呂が軽皇子とともに安騎野(奈良県宇陀郡大宇陀町一帯の山野)に宿泊して、人麻呂が【倉頡の文字作成理論】の学問を軽皇子(のちの文武天皇)に教授して行われた。

 

『万葉集』巻一・48番は、柿本人麻呂作の有名な和歌である。

この和歌は「東の 野にかげろひの 立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ」である。

都合よいことに、この歌の光景は、具体的に何年何月何日の何時何分であるかとつきとめようとした人が、二人いる。この二人について、大和書房発行の『東アジアの古代文化』53号で、わたくしは知った。これは、大和(おおわ)岩雄著『柿本人麻呂の安騎野の歌をめぐって』で説明され、その概要は次のごとくである。

 

――画家の中山正実氏と万葉学者の犬養孝氏の二人は、人麻呂の曙の歌が成立した時点を具体的につきとめようとした。中山氏は、人麻呂の曙の和歌を題材とする壁画「阿騎野の朝」を制作しようとして、東京天文台の辻技師にその具体的な日付を調べてもらった。その結果、それは持統61117日の午前555分前後という結論を得た。犬養氏の場合は、その著書『万葉集の旅()』にかかげる写真のため、彼の友人伊藤銀造氏が冬の阿騎野へ数年がかりで通われて、ついに昭和361224日の朝、歌の光景に合致する曙の瞬間を撮影することに成功した。そして、この1224日は、旧暦(太陰暦)に換算すると中山氏と同じ1117日になる。

この二人の調査を理由として、阪下圭八氏は、『万葉集』48番の阿騎野狩猟が成年式祭儀だとすれば、「冬至の日を期して行われたにちがいないと」と考えた。

また、この歌は、持統6年の天皇の伊勢行幸に関連する歌群と、持統8年までに完成する藤原宮の造営役民の歌との間に配列されているから、持統6年か7年の冬の作歌と推定されている。

 

結局、『万葉集』巻一・48番の短歌は、持統6(691)か持統7(692)の冬至の午前555分前後の光景を詠む歌であったことになる。

冬至の午前555分頃、太陽は東南の地平線下に潜って出現していなかったが、東南の空は炎のように赤く染まっていた。

下図は――前ページで解説した〔歳差状況図(天の北極の位置図)〕にもとづいて、持統67年の冬至の日の午前555分頃の東北の空に輝く銀河の様子を再現したものである。

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当時、太陽が昇る東南より遠く離れる東北の空の地平線上には、上図に示すように、「三つ輪の銀河」・「十字の銀河」・「鬼の横顔に似る銀河」が輝いていた。

『万葉集』巻一・48番の原文は「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」である。

上図における「三つ輪の銀河」は【野】の字源である。ゆえに、人麻呂は「東北の地平線上に昇る三つ輪の銀河」を眺めて「東の野に」と詠んだ。

【炎】と【立】の字源は「十字の銀河」であった。それゆえ、人麻呂は「三つ輪の銀河の西となりの、赤くキラキラ輝く十字の銀河」「炎(かぎろひ)の 立つ」と表現した。

【反】と【見】の字源は「十字の銀河の西となりの、鬼の横顔に似る銀河の、後頭部とアゴにつく両目の銀河」であったから、人麻呂は「反(かへ)り見すれば」と詠んだ。

その時、「地平線近くの西空に月が見えた」ので、「月西渡」つまり「月かたぶきぬ」と表現した。

 

だから、48番の初句から3句目までの「東の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて」は「東の野原の地面から、ゆらゆらと陽炎(かげろう)が立ちのぼる景色が見える」と詠む和歌ではなかった。

上図に示したように、「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」の南には「春の雪解けの河川の水に見立てられる銀河」と「春の雪解けの水が流れる池・湖に見立てられる銀河」が存在するが――この48番の和歌は冬至の午前555分頃の光景を詠むものであった。

「地面からゆらゆらと立ちのぼる陽炎」は春や夏などに見られるが、冬至の日の早朝には出現しないはずである。

ゆえに、48番の短歌は上図に示した東北の地平線から昇り始めた「三つ輪の銀河」・「十字の銀河」・「鬼の横顔に似る銀河」を詠むものであったことになる。

だから、人麻呂は「地図」とは無関係の「天体・天空の景色」を詠んだので、地図における【倭】の字源の転回方位規定にのっとって〔東〕を〔南〕と記さず、〔西〕も〔北〕と記さなかった。

「天体・天空」の「東・西・南・北」は「現在の星座版はじめ、天体の方位規定」と同一であった。ゆえに、48番の「東」と「西」の表記は正しいことになる。

以上のごとく、48番の和歌を注目して、【倭】の字源「時計回りに90度転回する方位規定は存在しなかった」と反論・否定する意見は早合点(はやがてん)・言いがかり・錯誤(さくご)ということになる。

 

このブログの前ページにて、〔十字の銀河の見かけの大きさ〕と名づけて、【夫】の字源を解説した。

【夫】の字源銀河は「十字の銀河」であった。

『説文解字』は、【夫】の字源を「丈夫なり。大に従ふ。一をもって簪(しん)に象(かたど)るなり。周制、(中略)、十尺を丈となす。人は長(たけ)八尺なり。ゆえに丈夫といふ」と解説する。

【人】の字源「十字の銀河の見かけの長は、周制で八尺(180)」である。

『説文解字』が「簪(かんざし)」と指摘する「十字の銀河の頭上部分の二尺(45)」は、「簪」よりも「成年式の時に、頭上にかぶる帽子や冠」に相似する。

ゆえに、48番の和歌は「軽皇子」を「十字の銀河」に見立てて、人麻呂は「軽皇子が成年式の冠をかぶると十尺・一丈となり、皇子の身長は八尺となって丈夫となった」と称えていたことになる。

よって、「軽皇子、安騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌」という題する『万葉集』巻一・45番・46番・47番・48番・49番の5首は、持統天皇の愛孫・軽皇子の成年式が691(持統6)692(持統7)の冬至の日の午前555分頃に行われた様子を詠む作品であったことになる。

 

◆『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻(学習研究社発行)は「緯度の測定」と題して、次のごとく説明する。

「緯度は天の北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の天の北極からのかたよりが計算できるので、精密ではないが天の北極の高度で緯度を換算することができる。もっと精密に測る方法は、天頂緯度線と子午線による測定である。」

上記したように――正確な日付をあらわす暦や精密な時刻を示す時計が存在しなかった卑弥呼時代、北極星の天の北極からのかたよりで天の北極の高度を計算する方法では、1度の60分の1の1分の精密さで測定できなかった。だから、この方法だと、朝鮮半島と日本列島の中間の大海を渡ることができず人々は全員命を失った。

魏・帯方郡と倭の使者たちは、1度の60分の1の1分の誤差内で精密に測定できる【亠】つまり「天頂緯度線と子午線」をキャッチして、朝鮮半島と日本列島の中間の大海を渡った。

上記したように――「天頂緯度線と子午線」による測定における「緯度と経度(子午線)の交合」によって、三皇時代にすでに地(地図)における方位規定は2種存在するにちがいないと提唱されるようになった。ゆえに、黄帝につかえた倉頡は【禾】の字を作って「淮河より北方の地図における、時計回りに90度転回する方位規定」と、【呉】の字を作って「淮河より南方の地図における、逆時計回りに90度転回する方位規定」を定めた。

卑弥呼は「日本列島・本州地図は時計回りに90度転回している」と立論して、国号を「倭人」と定めた。この【倭】は【禾】と同じく「時計回りに90度転回する、本州地図の方位規定」をあらわした。「倭人」の【人】は「長江口の北緯3130分~黄帝陵の北緯3535分までの4度の範囲内」をあらわし、た。つまり、この【人】の字で「対馬国から狗奴国までの30ヵ国の小国は長江口から黄帝陵までの緯度内におさまっている」とあらわした。

にもかかわらず、新井白石以来今日までの300年間、学界やメディアは『魏志倭人伝』が説明する本州地図の方位規定は「現在の日本地図と同じであった」と断定する。

上記したように――「倭地図の方位規定は現在の日本地図と同じであった」と断定する天の北極・北極星を緯度の測定に用いると、倭と魏・帯方郡の使者たちは朝鮮半島と日本列島の中間の大海を渡ることができなかったことになる。

したがって、魏・帯方郡と倭は文書を送って伝える国交を結ぶことができなかったことになる。

この結果、魏では倭の様子をまったく知らなかったことになる。しかし『魏志倭人伝』は約2000字で構成され、倭の様子が詳細に記述されている。

邪馬台国説学者たちは――約2000字で倭の様子を伝える『魏志倭人伝』は、実は1字も文字が書かれていなかった――ことになる意見を、新井白石以来300年も主張し続けている。

こんなキツネにつままれたような冗談に呑気(のんき)に「ああそうですか」といつまでも賛成するわけにはいかない。

邪馬台国説は、白石が立論したハナ(最初)からリッパ(立派)な空理空論だったのである。

 

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2024年2月14日 (水)

漢字の起源と発明を解明す・2

新井白石の邪馬台国説は空理空論だった

 

◆中国には「黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字を発明した」という伝説がある。

  この伝説は、現在、学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想である」と断定される。

  しかし、280年~289年に著作された『魏志倭人伝』は、「倉頡伝説は事実を伝えている。倉頡は漢字を発明した」と説明している。

  言いかえると、『魏志倭人伝』において最も重大の記事は【倉頡が発明した文字作成理論】にのっとって構成されている。

『魏志倭人伝』は約2000字で書かれており、晋(しん)の歴史編纂官(著作郎)が著作した。

  江戸時代中期に生存した儒者(じゅしゃ)・政治家の新井白石(あらいはくせき・1657年~1725)は邪馬台国大和説をとなえ、さらに後年に邪馬台国九州説を提唱した。この邪馬台国説を絶賛し、現在の学者たちやメディアは「新井白石は、『魏志倭人伝』にはじめて学問的検討を加えた人物である」と賞賛する。

でも、しかし事実は、白石は日本史上において最初に『魏志倭人伝』に誤読の空理空論を加えて、【倉頡の文字作成理論】を抹殺(まっさつ)した実に愚かな人物であった。

『魏志倭人伝』は、白石が主張するように「倭女王卑弥呼は邪馬臺()国に居住した。邪馬臺()国は大和であり、あるいは九州に所在した」なんて、イッサイ(一切)記述していない。

『魏志倭人伝』は「卑弥呼は邪馬壹()国に居住した。邪馬壹(やまい)国の中心は山陰出雲地方(現在の島根県東部)であった。今から約5000年前の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡が発明した漢字作成理論にのっとって――卑弥呼は日本列島の本州東方の東海地方は南に伸び、東北地方は東北ではなく東南に伸びていると立論する転回日本列島像論をもって倭人国を統治した。この時計回りに方位が転回して【東の東海地方が南となり、東北地方が東北ではなく東南となる転回方位理論】は【倉頡の文字作成理論】にのっとって成立した。この【時計回りに90度転回する方位論】は、【倭】の字源・原字(最初の字形)・原義であった。ゆえに、卑弥呼は〔倭人国〕と【倭】の字がつく国家名にした――と説明していた。

言いかえると、『魏志倭人伝』の主なる記事は【黄帝軍の遠征と、黄帝の医学研究(生命の誕生・女性の生殖器官、つまり産婦人科の医学)の業績を伝えることができる、倉頡が考案した文字作成理論】について詳細に正確に説明していた。

 

倉頡は【夏の銀河各部の形状】を図案して字形を作り、字形となる銀河各部が字源と字義となる文字を発明した。「夏の銀河」は「夏に長時間見ることができる銀河」である。

「夏の銀河」は「銀漢」とも呼ばれ、「銀漢から作られた文字」を略して中国でもわが国でも「漢字」と表記した。

◆『魏志倭人伝』には「今から約4000年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭の直前)、中国から名門益氏の王子と若者たちが大海を越えて、日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に定住して、夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字(かおんもじ)の学芸を教え広めた」と解釈できる記事がある。この益氏の定住によって――「夏の銀河各部の形状を字源・字形・字義とする文字(漢字)」が習得された。この銀河文字は「書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者も、氏族共同政治体制を滅亡させる死刑にあたいする最も重い大罪を犯したゆえ、神罰が下されて罪を犯した本人はじめその家族および一族全員をも死刑にする――と、倉頡は〔死刑とする掟〕を定めた。

ゆえに、益氏から習得した夏音文字の字形を書いた史料は後世に出土しないことになった。しかし、五帝時代に作られた文字(書契)と夏代黎明期に作られた夏音文字の字源と字義は、夏の銀河各部の形状となって残った。

五帝時代の書契と夏音文字の字音は、『魏志倭人伝』に魏や朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)が用いる楷書が〔音(音をあらわす文字)〕となって表記された。『魏志倭人伝』に記載された35の小国名と人名などを表記する楷書は、夏音文字の字音をあらわした。

712年正月28日に成立した『古事記』上巻の各部には、〔音〕という注がついて多数の夏音文字の字音が残っている。『古事記』上巻并(あわ)せて序は、非常に難解な文章をもって「夏音文字の習得と〔音(夏音)〕を記す楷書について」解説している。

  したがって、考古学はじめ学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する定説もまた、邪馬台国説と同様に空理空論であった。

  170年頃~240年頃に生存していた卑弥呼は約2200年前に名門益氏の王子一行が教え広めた【倉頡の文字作成理論】に精通する、当時における最高峰の文字学者にして歴史学者であった。

だからこそ、卑弥呼は倭女王に選ばれたのである。

 

  上記したように、紀元前2050年頃の夏代初頭、わが国の後期縄文時代初頭直前に、東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に定住した益氏の王子と若者たちが【倉頡の文字作成理論】と夏音文字を教え広めたため、わが国は今から約4070年前頃に始めて漢字を習得した。

このブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕の末部で指摘したように――紀元前5世紀・同4世紀に生存した中国の戦国時代の思想家の老子の教えは『老子』と呼ばれる書物になって今日に伝えられる。第一章から第三十七章までの『老子』上篇(道経)は「【倉頡の文字作成理論】の秘密を説明し、また【倉頡の文字作成理論】にもとづく老子の意見や思想を述べる書物」であった。

『老子』第二十章の冒頭は「学を絶てば憂(うれ)い無し」である。この文は――【学】すなわち【倉頡の文字作成理論】の研究や復興運動をやめてしまえば、王朝と国家を滅亡させる大罪を犯さないことになるゆえ、役人につかまって死刑になる心配はまったく無くなる――と意味した。

老子が伝えているように、【学】の字源は【倉頡の文字作成理論】であった。

そして、【爻(こう)】の字源もまた【倉頡の文字作成理論】であった。

というのも、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、【爻】の契文形(殷代後半の甲骨文字の字形)と金文形(周代に用いられた字形)について「千木(ちぎ)のある建物の形」と解説するからである。

白川静著『字統』は【学】の契文形と金文形について「もと屋上に千木のある建物の形で、いわゆるメンズハウスを意味した。(中略)。卜文(契文)にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社建築と似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律化の生活がなされたのであろう」と解説する。

『字統』が指摘するとおり――【爻】と【学】の契文形と金文形は両者とも「屋上に千木のある建物の形」を図案している。

ゆえに、『老子』第二十章冒頭の「学を絶てば憂い無し」の【学】の字源は【倉頡の文字作成理論】であった。

また、【爻】の字源も【倉頡の文字作成理論】であった。
 下の左図は「わが国の屋上に千木のある神社建築の絵」であり、その絵の右側に【爻】・【学】の契文(卜文)前期の字形を配した。

【爻】の契文前期の字形は「わが国の神社建築の屋上にある千木」を図案し、【学】の契文前期の字形は「わが国の神社建築の屋上にある千木と神社建築の形」をデザインしている。

契文前期の字は、今から紀元前1300年頃かあるいは同1200年頃の殷代(いんだい)後半に使用された。

だから、「わが国の屋上に千木のある神社建築」が証明するように――考古学はじめ学界が主張するように、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀ではない」。

わが国は――契文前期の字形が出現した紀元前1300年頃~同1200年頃より750年前~850年前の紀元前2050年頃の夏代初頭(後期縄文時代の直前)に、【学】と【爻】の字源【倉頡の文字作成理論】と、三皇時代の結縄(けつじょう・易卜に用いる記号)と五帝時代の書契(しょけい・最初の漢字)と夏代黎明期の夏音文字を習得していたのである。

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◆下図に示すように、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壹(やまい)国」と記す。

 わがブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序と1〕で詳細に解説し証明したとおり――【臺()】の「日没する処」と、【壹()】の「日出ずる処」の字源は同じではなく、別々に独立する。

だから、新井白石や邪馬台国説学者のごとく、「邪馬壹国」を強引に「邪馬臺国であった」と断定する意見は即刻に空理空論となる。

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 『魏志倭人伝』は、倭女王卑弥呼が統治した国家名は「倭人国であった」と記す。

 【倭】の字源は「現在の日本列島の本州地図の方位を、【倉頡の文字作成理論】にもとづいて時計回りに90度転回する方位規則」であった。

  下図に示すように、円の内側が現在方位名、円の外側が『魏志倭人伝』に記載される時計回りに90度転回する方位名である。

 下図のごとく、現在の北は転回方位の東、現在の東は転回方位の南、現在方位の南は転回方位の西、現在方位の西は転回方位の北となる。

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 下図に示す「現在の長崎県対馬」を『魏志倭人伝』は「対馬国」と記し、「現在の長崎県壱岐」を『魏志倭人伝』は「一大国」と記す。

 そして、『魏志倭人伝』は「対馬国は一大国の北、一大国は対馬国の南」と説明する。ゆえに、対馬・一大国の方位は現在方位と同一である。

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 しかし、次の九州西部の末盧(まつろ)国から伊都(いと)国の旅程基点の方角は現在方位の「東北」でなく、転回方位の「東南」と記す。そして下の〔転回日本列島像論・邪馬壱国出雲地方説の図〕に示すように、【末盧国以下32の小国が所在する本州西部の地図】は【倭】の字源「転回方位」にのっとって現在の日本地図の方位を90度転回して北は東、東は南、南は西、西は北に転回する形式となっている。

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  上図の右側に示すように、卑弥呼が居住した王国「邪馬壹()国は山陰出雲地方」、つまり「現在の島根県と鳥取県西部であり、旧国の石見(いわみ)・出雲・伯耆(ほうき)」であった。

  上図の転回日本列島像論は卑弥呼が立論した日本列島地図の形と34の小国の位置をあらわしている。

この卑弥呼が考えた転回日本列島像論は、『魏志倭人伝』に記載された全方位名と一ヵ所も不合理ではなく一点も矛盾しない。

また、35の小国名と配置は互いに隣や他の小国名と密接に関連しあって合理を超える超合理が成立して、一つに系統的な合理的認識が構築されるようになっている。

言いかえると、上図の転回日本列島像論における34の小国名と配置は――現代の分子生物学でDNAという小さな場に大きな情報が入っていると事実に合致し、また、上図の転回日本列島像論は――記憶情報が大脳の全体にひろがっていて局所的ではないという現代の大脳論・ホログラフィーの科学にも適合する。

「現代科学批判に最も強力な力を秘めるという、【合理を超える超合理】」を、現代の西欧の先端科学者たちは『老子』から起源すると思ったが――『老子』上篇は【倉頡の文字作成理論】を説明するものであった。

したがって、【合理を超える超合理】は倉頡から起源する思考方法であった。【合理を超える超合理】の考え方は、【倉頡の文字作成理論】における神髄(しんずい)であった。

だから、上図の卑弥呼が考えた【倭】の字源にもとづいて立論した転回日本列島像は【倉頡の文字作成理論】を詳細に正確に説明する史料(地図)であったことになる。

 

◆名門益氏が東北地方の男鹿半島・八郎潟地域に定住して【倉頡の文字作成理論】を教え広めて習得された紀元前2050年頃から以後、卑弥呼時代(2世紀末~3世紀中半)まで【倉頡の文字作成理論】は失われずに残っていた。これゆえ、【倉頡の文字作成理論】に精通する卑弥呼は倭女王に選ばれ、卑弥呼によってわが国に初めて国家と王朝が樹立された。それ以後、【倉頡の文字作成理論】は大和王朝と国家が独占管理して厳重に機密が保持された。『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】を詳細に正確に説明する書物であるゆえ、朝廷が密かに秘蔵する書物となった。

しかし、その後台頭した天下を治めようとした武家・武将たちは朝廷が秘蔵する『魏志倭人伝』の存在に気づき、『魏志倭人伝』を手に入れて密かに【倉頡の文字作成理論】の知識を習得した。

  織田信長は『魏志倭人伝』に【倉頡の文字作成理論】が書かれていることを知っていた。彼は【倉頡の文字作成理論】を朝廷がおろそかにして衰退していることに嘆いた。信長はみずからが天下を手に入れて、【倉頡の文字作成理論】を長い間、厳重に機密保持してきた朝廷(天皇家)が本格的復興を着手する事業に協力して実現しようと夢見た。しかし、信長は158262日の未明、本能寺の変で明智光秀に討たれた。このため、信長は夢破れて、朝廷による本格的【倉頡の文字作成理論の本格的な復興】は成就しなかった。

 

  徳川家康は8歳の時(竹千代と名乗っていた時)、駿府(現在の静岡市)の今川義元の人質となり、義元の軍師の大原雪斎(たいげんせっさい)に【倉頡の文字作成理論】と夏音文字について厳しく教育された。大原雪斎は臨済宗妙心派(りんざいしゅうみょうしんは)の高僧であり、【倉頡の文字作成理論】と夏音文字に精通していた。

 竹千代(家康)14歳の時に元服し、松平次郎三郎元信と名乗った。この年に教育係の雪斎が没した。

 1562年1月、織田信長と徳川家康(松平元康)は世に「清州(きよす)同盟」を結んだ。この清州同盟における信長がおこなった儀式の様子から、家康は「信長が【倉頡の文字作成理論】と夏音文字について研究しているにちがいない」と直観した。

だから、家康は信長の天下取りを助けて【倉頡の文字作成理論】と夏音文字の本格的復興を成就しようと夢みるようになった。ゆえに、家康は信長に幾度も煮え湯を飲まされ仕打ちを受けながら、ついに一度も信長を裏切らず、大名たちには「律儀な人よ」と皮肉られて陰口をたたかれた。家臣たちに信長に卑屈に従うものと思われても気にとめず、愚直にひたすら二〇年ものあいだ信長の補佐役に徹した。このように家康が忍耐強かったのは、信長の夢と理想は家康が抱く夢と理想でもあると確信できたからである。また、8歳から14歳までの7年間において、今川義元の補佐役に徹して忠義を尽くす心得を雪斎から厳しく教育されていたからである。

  家康は信長の死や武家に天下をとられた朝廷の恨みの深さを考えて、【倉頡の文字作成理論】の本格的復興は度重なる困難や邪魔に阻止されて、長生きして一生を賭けてようやく夢がかなうものと覚悟した。

  1590年、家康は江戸城の内濠に架かる和田倉門橋から呉服橋付近までの約1km余を開削(かいさく)して平川(日本橋川)に繋げた。この内濠は和田倉門付近の八重洲河岸で荷上げして江戸城に物資を運ぶ水路とされた。この内濠に対して、外濠は江戸城の外郭にめぐらされることになった。最初の天下普請は1606年~1607年頃に行われ日比谷入江で埋め立てられ、江戸前島の尾根筋の外側に外濠が掘られた。この水路は城の防衛を目的に造られたが、同時に排水路や運河の役割を果たしていたとされる。

  しかし、江戸城の内濠と外濠には、「『魏志倭人伝』は、卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方であったと記述している」と表示する役目もあった。

 現在は外濠が埋められて失われている。

しかし、江戸城の水路のおける内濠と外濠は下図のごとくの形をしていた。

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  下図のごとく、【倭】の字源にもとづいて「江戸城から発する水路(内濠)は時計回りの渦巻となり、内濠に繋がる外濠は時計回りに90度転回して神田川となり、神田川は両国橋が架かる付近で隅田川と合流する。

ゆえに、江戸の水路(内濠と外濠)」は【雲】の初文(古文形)の字形に設計されていた。

「【雲】の古文形に合致する江戸の水路の水は、隅田川に出ずる」ゆえ、「出ずる」の【出】と【雲の字を加えると「出雲」となる。

ゆえに、家康は『魏志倭人伝』を読んで【倭】の字源「時計回りの90度の転回方位」にもとづいて「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と考えていたことになる。

というのも、【倭】の字源にもとづいて「邪馬壱国は出雲地方であった」と記述した書物は、『魏志倭人伝』の以外に一書も存在しないからである。だから、家康は密かに『魏志倭人伝』を読んでいたことになる。

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◆新井白石(1657年~1725)が邪馬台国説を提唱した時、朝廷と家康の遺志を継ぐ江戸幕府は【学】の字源【倉頡の文字作成理論】の衰退滅亡を心配して、後世に『魏志倭人伝』に詳細に記述される【倉頡の文字作成理論】をどのようにして保存するか熱心に相談しあっていた。

 白石が邪馬台国説を発表する以前――つまり、幕政に当たっていた6代家宣(いえのぶ)・7代家継(いえつぐ)の代にあっても、天皇家と幕府は、『魏志倭人伝』に組織化されて説明される【学】=【倉頡の文字作成理論】の保存について連絡しあって検討していた。だから、幕政に当たっていた白石は天皇家と幕府の融和政策の動向に注目していれば――【学】すなわち【倉頡の文字作成理論】をあらわす祭儀をどのように演ずるか(芸能的に表現するか)について計画している様子を容易に察知できる境遇にあった。

 にもかかわらず、白石は【学】とはまったく無関係の荒唐無稽(こうとうむけい)の邪馬台国説を空想した。

 1466年における83代土御門(つちみかど)天皇即位以後から約220年ものあいだ、大嘗祭(だいじょうさい)は中断していた。土御門天皇即位以前の大嘗祭は、天皇が即位後、その年の新穀を献じてみずから皇祖天照大神と天地地祇を祀る大礼であった。ゆえに、この旧大嘗祭においては、 「大嘗」の祭儀【大】と【嘗】の字源となる銀河の様子を演出・表現していなかった。

 約220年間中断していた大嘗祭は、113代東山(ひがしやま)天皇が即位した1687年、いったん略儀で再興した。この略儀では、大嘗祭に【学】(倉頡の文字作成理論)と【漢字が作られた夏の銀河全域の形状】を演出する儀式を新たに加えるものであった。しかし、【学】(倉頡の文字作成理論)と【漢字が作られた銀漢全域の形状】の表現はきわめて不明確・優雅さ・荘厳さに欠けて神聖な儀式の趣(おもむき)がとぼしく満足できなかった。

 この東山天皇の大嘗祭がおこなわれたとき、白石は邪馬台国説を立論する書物を著作していなかった。次の114代中御門(なかみかど)天皇(1709年~1735年在位)の代の東山天皇が即位した1709年は、6代家宣に登用された白石が幕政にあたった初年度であった。当時においても、白石は邪馬台国説を説明する著作物を作成していなかった。

1716年に、白石は幕府から罷免(ひめん)された。幕府に罷免される以前において、白石は邪馬台国説を論じる『古史通或問(こしつうわくもん)』を著作していた。

さらに、その後に邪馬台国九州説を唱える『外国之事調書(がいこくのことしらべしょ)』を著作した。

白石が邪馬台国大和説と九州説を唱えたときは、114代中御門天皇が在位期間であったゆえ、天皇の即位後におこなう大嘗祭を着手することができなかった。

しかし、白石が死から10年後の1735年の320日に中御門天皇は退位して、115代桜町(さくらまち・1735年~1747年在位)天皇が1735321日に即位して【学】(倉頡の文字作成理論)と【漢字が作られた銀漢全域の形状】を演出・表現する、新大嘗祭を準備することになった。

白石の死から13年後の115代桜町天皇の173811月卯日(うのひ・19)、旧来の大嘗祭に【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字が作られた夏の銀河全域の形状】を演出が加えられる新大嘗祭が本格的に復興されることになった。この新大嘗祭は、8代将軍吉宗の協力によっておこなわれた。つまり、新大嘗祭は朝廷と幕府が協力しあって成立した。

 

上記したように、白石の死から10年後の1735年には、中御門天皇が退位して桜町天皇が即位している。この事情によって、桜町天皇即位から3年後の、白石の死から13年後の17381119日に、新大嘗祭が本格的に復興されることになった。つまり、桜町天皇が即位した1735年においては、【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字が作られた夏の銀河全域の形状】を荘厳に演出する儀式が完成していなかった。このため、3年後の17381119日に、完成した新大嘗祭の儀式が粛々(しゅくしゅく)と行われたことになった。

  上記したように、白石は1716年に幕府から罷免された。というのも、176313日に、空理空論の邪馬台国大和説を立論した『古史通或問』を幕府に呈していたからである。だから、同年516日に、白石は幕府から罷免された。

  白石が幕府から罷免された3カ月後の、1716813日に、吉宗が8代将軍に就任した。吉宗は朝廷の新大嘗祭の復興に積極的に協力した。

  白石は1716年に幕府に『古史通或問』を上呈したため、この書で立論した邪馬台国大和説は【学】では非(あら)ず、荒唐無稽の空理空論、国家と朝廷と幕府の土台を崩壊する暴論であると、幕府に知られることになった。

白石の邪馬台国説が空理空論であることは、幕府から朝廷に知らされた。

邪馬台国大和説は【学】(倉頡の文字作成理論)を消滅させるデタラメ(出鱈目)である。ゆえに、白石は死刑にするべきであった。しかし、死刑にする理由を公表せずに殺すと、絶対に隠さなければならない【学】の秘密が明らかになる危険性があった。というのも、新大嘗祭では夏の銀河が出現する夜間に【学】を演出・表現することになっているので、【学】の秘密に気づく人々も出現して世間に知れ渡る可能性があった。

したがって、白石は死刑にせずに、朝廷と幕府は白石の邪馬台国大和説が空論であることを後世の学者たちが知ることができる新大嘗祭の本格的な復興の完成を急いだにちがいない。

朝廷と幕府にとって、【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字が夏の銀河各部の形状から図案された事実】はその知識を厳重に機密にして隠さなければならない政権基盤であった。ゆえに、朝廷も幕府も『魏志倭人伝』は【学】(倉頡の文字作成理論)を詳細に正確に説明する文献であることを知っていた。というのも、【学】(倉頡の文字作成理論)を事細やかに正確に記述する書物は『魏志倭人伝』のみであったからである。

【学】を演出・表現する新大嘗祭をおこなう天皇家と新大嘗祭に協力した幕府は、『魏志倭人伝』に【学】(倉頡の文字作成理論)が詳細に正確に記述されていることを知っていたのである。

『魏志倭人伝』は天皇家と幕府が密かに所蔵していることが知られてはならない、第一級の機密書物であったのである。

 

◆徳川家康は1616年に没した。その前年の1615年には『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』を制定した。

  『禁中並公家諸法度』の第一条は「天子御芸能ノ事、第一御学問也」であった。

この第一条の文は――天子(天皇)はわが国の芸能の研究に努力してください。わが国のもろもろの芸能は【学】すなわち【万物を生む母である倉頡の文字作成理論】からすべて誕生しました。したがって、第一番目に最も重大な知識は【学問=倉頡の文字作成理論】です――と、徳川家康は朝廷に願望していたことになる。

この第一条を、当時の108代後水尾(ごみずのお)天皇(1611年~1629年在位)は、はじめ幕府の干渉(かんしょう)と抑圧(よくあつ)であると反発した。

1629年、後水尾天皇は上皇となった。1663年以後、後水尾上皇は『禁中並公家諸法度』第一条の――【学】の字源・【学問】の語源となる【倉頡の文字作成理論】の衰退は、国家と朝廷と幕府の滅亡となる――と心配する幕府の真剣・誠実な忠告であると理解するようになった。

この1629年以後、朝廷と幕府は【学】(倉頡の文字作成理論)を保存事業に推進させるために融和することになった。

112代霊元(れいげん)天皇(1663年~1687年在位)は、朝廷(112代東山天皇・113代桜町天皇)を指揮して【学】(倉頡の文字作成理論)を表現する儀式の完成に努力した。1688年に、霊元天皇は上皇となり、上皇は173286日に享年79歳で没した。上皇は理想的な新大嘗祭の儀式を完成できなかった。

上記したように、114代桜町天皇の17381119日に、【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字が作られた夏の銀河全域の形状】を表現・演出する新大嘗祭が本格的に復興された

日本全国のテレビの画面に映し出された――2019(令和元年)1114日の午後630分から開始された夜間の祭儀の大嘗祭は、『魏志倭人伝』が詳細に伝える【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字が作られた夏の銀河全域の形状】を演出する大祭(たいさい)であった。

  

◆前述したように、大嘗祭は天皇が即位後、その年の新穀を献じて天照大御神および天神地祇を祀る大礼である。

ゆえに、下図に示すように――【大の字源「十字の銀河の中央」に重なる「新穀」つまり「その年に収穫された新しい禾(イネ)の穂」を「鬼の横顔に似る銀河の舌」が嘗()める様子を祀る祭儀――が「大嘗祭」であった。

下図における「十字の銀河の中央」は【禾】(イネ・稲)の契文形(甲骨文字の字形)である。

なお、「十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河」は「夏の銀河の東端」にあり、「十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河」にはくちょう座の尾の部分が漬かっている。

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◆大嘗祭が開始された令和元年1114日の午後630分、すっかり辺りは暗闇と化し、大嘗宮に焚火(たきび)の灯がともされた。

  テレビの画面に――下図に示すように、白い布でおおわれた廊下に二名の侍従(じじゅう)が巻いた葉薦(はこも)をほどき延ばして先導する後ろに天皇陛下の頭上に御菅蓋(ごかんがい)を高く差しかかげて、東の悠紀殿(ゆきでん)に向かう天皇陛下一行の行列が現れた。先導の膝行(しっこう・膝を曲げて進む)する侍従が巻いてある葉薦をほどき延ばし、最後尾の膝行する侍従が巻き収めていく。この【葉薦】は【文字を作った夏の銀河全域】をあらわす。

  天皇陛下の頭上高く差しかかげた即位式の王冠は「菅蓋(かんがい)」と呼ばれる。菅蓋の材料は「菅(草のスゲ)」であり、「夏に、スゲ()の葉を刈って笠」を作ったゆえ、天皇即位に用いられる王冠の名は「菅蓋」となった。「夏に、スゲの葉を刈って作った菅蓋」は「夏の銀河。夏音文字。夏音」をあらわした。

  菅蓋の上部の飾りは、大鳥()の意匠である。

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  下に、文字作成銀河(夏の銀河)北半分の形状を示した。

  下図に示すように、「夏の銀河の北半分」は「大鳥の形」となる。「天皇陛下」は「鬼の姿に似る銀河」あるいは「人の横顔に酷似する銀河」に見立てられた。

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  上図における左の大鳥の羽の部分(左端の上部)に、銀河の名称を示さなかったが、この銀河をわたくしは「三つ輪の銀河」と名づけた。「三つの渦巻が重なるように見える銀河」であるゆえ「三つ輪の銀河」という名前にした。

  「三つの渦巻が重なるように見える銀河の、三つ輪の銀河」は上図の「先頭の膝行する二名の侍従が渦巻状に巻く葉薦の渦巻」で表現された。

  上図の「最後尾の膝行する二名の侍従が巻いてある渦巻状をほどき延ばす葉薦」は――下図の南部(下部)の「銀河の中心(銀河系の中心)、巨龍の顔の銀河、胎児の姿に似る銀河」を表現していた。

この銀河の形状は、「銀河の中心」を中心方向にして、圧巻的な大きな渦を巻く。

つまり、「先導する侍従が巻く葉薦から、最後尾の侍従がほどき延ばす葉薦まで」が「夏の銀河全域」を表現している。

言いかえると、前者(上図)「文字作成銀河北半分」の左上端の「三つ輪の銀河」から、後者(下図)南部の「銀河の中心、巨龍の顔の銀河、胎児の姿に似る銀河まで」が「夏の銀河全域」となる。

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上図の南部の銀河の様子を――藤井旭著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光舎発行)は「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる」と表現する。

ゆえに、このブログの前ページで解説した「【雲】の古文形は、わきあがる入道雲のように迫力に満ちた姿でせまる」つまり、「銀河の中心の形状」を図案するものであった。

したがって、「【雲】の古文形に渦巻を巻く江戸の水路」は、上図における「銀河の中心、巨龍の顔の銀河、胎児の姿に似る銀河」を表現していたことになる。

前述したように、「江戸の【雲】の古文形に合致して渦を巻く水路」は「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方であった」と、徳川家康の意見を設計するものであった。

 

悠紀殿(ゆきでん)から主基殿(すきでん)に続く廊下に敷かれる白い布は、今から約5000年前の黄帝時代にジャコウウシが生息していた白い雪でおおわれる凍土(とうど)地帯をあらわした。

「天皇陛下がまとう、最も清く神聖とされる純白な御祭服(ごさいふく)」と「純白の十二単(じゅにひとえ)をまとう皇后陛下」も、「白い雪が降る吹雪の中を食料()をもとめて働くジャコウウシ」と、「白い雪が吹きすさぶ吹雪や凍土地帯」をあらわした。

黄帝陵付近から北側の砂漠は、冬になるとジャコウウシの群れが集まる凍土地帯(ツンドラ地帯)となった。

そして、「吹雪の中を餌(食料)をもとめて働くジャコウウシ」は「勤勉に農作業をする男女」を象徴する聖獣となった。ゆえに、「雪をまとう白い姿になって餌を求めて働くジャコウウシ」に見立てられた真っ白な装束(しょうぞく)をまとう天皇陛下と皇后陛下」は「その年の禾(新穀)を収穫する男女」をあらわした。

また、「先導する二人の侍従と最後尾の二人の侍従の膝を曲げて歩く姿勢」もまた「水田に禾()の苗を植える姿」を演じるものであった。

ゆえに、前ページで図を用いて解説したように、祭儀名「大嘗」の語源は――【大】の字源の「十字の銀河」と、「十字の銀河」に重なる【禾】(新穀)と、【禾】を嘗()める「鬼の横顔に似る銀河の舌」であった。

そして、「ジャコウウシの餌」は「菅蓋の材料のスゲ」であった。ゆえに、「天皇の王冠、菅蓋」はスゲで作られた。

 

◆最後に、最も注目すべきは――大嘗祭に設営された悠紀殿と主基殿は「屋上に千木のある神社建築」である――この事実である。

前ページで図を用いて解説したように、「屋上に千木のある神社建築」は【学】の字源であり、ゆえに【倉頡の文字作成理論】をあらわした。

したがって、令和の大嘗祭においては「悠紀殿と主基殿の屋上にある神社建築」で【学】(倉頡の文字作成理論)を表現していた。また、「葉薦の先頭と最後尾の渦巻」をもって【文字は夏の銀河各部の形状から図案された事実】を芸能的に演出・表現していたことになる。
 【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を詳細に正確に説明する文献は、この世に『魏志倭人伝』の一書のみしか存在しない。

以上のごとく、令和の大嘗祭は『魏志倭人伝』にて詳細に説明されている【学】(倉頡の文字作成理論)と【文字は夏の銀河各部の形状から作られた事実】を演出・表現する神事であった。

だから、新井白石の邪馬台国大和説と九州説はもとより、荒唐無稽の空理空論であったことになる。

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漢字の起源と発明を解明す・1

わが国は約4000年前に漢字を習得した


◆中国には「黄帝につかえた倉頡(そうきつ)が漢字(文字)を作った」と説明する伝説がある。この伝説は、現在、学者たちによって「荒唐無稽(こうとうむけい)の空想」と断定されている。
 
 しかし、わが国の2世紀末~3世紀中半までの様子を説明する『魏志倭人伝』には、35ヵ国の小国名や人名などで【倉頡が発明した文字作成理論】が詳細に正確に伝えられている。
  前回のブログ〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて詳細に解説したように――わが国には紀元前21世紀に名門益氏の王子と若者たちが東北地方・男鹿半島・八郎潟地域に定住して、【倉頡の文字作成理論】と三皇時代の結縄(けつじょう・占いに用いる記号)と五帝時代に作られた書契(最初の漢字)と夏代黎明期(かだいれいめいき)の夏音文字を伝えた。
  
この新しい「夏の銀河から文字を作る」という革命的な学芸は、男鹿半島・八郎潟地域および東北地方一帯の氏族たちや遠くは長野県の尖石(とがりいし)台地に住む氏族たちなどによって習得された。それから約2200年後に歴史上に始めて登場した倭女王の卑弥呼は【倉頡の文字作成理論】に精通していた。
  
夏代黎明期の夏音は、『古事記』上巻にて「音」という注がついて多数残っている。太安万侶(おおろやすまろ)が記述した『古事記』上巻并(あわ)て序は――わが国は、夏の銀河をモデルにして前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭までの約2000年間の三()時代において土器・土偶(どぐう)を作った参神造化(芸術)の伝統によって、益氏が伝える【倉頡の文字作成理論や結縄・書契・夏音文字などの学芸】を習得した。『古事記』上巻には夏音を楷書で記したが、夏音は【倉頡の文字作成理論】を色濃く残すゆえ、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】にしたがって、わが国が習得した夏音文字について難解な文章で説明することにした――と記述していたのである。
 
だから、わが国が最初に漢字を習得したのは紀元前21世紀の後期縄文時代初頭直前であった。
  『魏志倭人伝』に【倉頡の文字作成理論】が詳細に正確に記述され、『古事記』上巻に多数の夏音が残っているにもかかわらず、現在、考古学はじめとする学説によって「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定されている。
 
このような現在の学界における〔漢字習得の定説の誤り〕は、文字を書いた出土史料を優先して重視する考えが原因であり、また前回の〔漢字の起源と発明を解明す・序〕にて説明した【倉頡が死刑と定めた3つの掟】が原因となる。

倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも黄帝王朝を敵とする一族や反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡すると心配した。これゆえ、倉頡は下に示す3つの掟(おきて)を破った人物はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳(きび)しい神罰が下されて死刑にすると定めた。
★倉頡が死刑と定めた3つの掟
Ⅰ 倉頡は夏の銀河(銀漢)各部の形状から文字が作られた事実を容易に理解できるように説明してその秘密を暴露した者は最も重い罪を犯したゆえ、その者の家族そして一族全員皆殺しにすると定めた
Ⅱ 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族を皆殺しにすると定めた
Ⅲ 書いた文字が用済みになったならば、文字を消さない者、また消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪を犯したことになる。ゆえに、その者はじめ家族及び一族全員死刑にすると、倉頡は定めた

 
「文字を作った銀河」は「夏に長時間見ることができる、夏の銀河」である。
  
下に「銀漢=夏の銀河の写真」を示した。この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭氏が撮影した。
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上記した〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちの〕は【倉頡の文字作成理論】が容易に習得できるようになるため、厳(きび)しく取り締まって王朝の滅亡をふせぐ方法あった。だから、「夏の銀河各部の名称」は存在しなかった。
 
しかし、さまざまな文字の字源の秘密を解明するとき、各々の文字の字源銀河を明示しなければならない。だから、「夏の銀河各部の名称」が存在しないと、非情に不便である。
 
ゆえに、わたくしは下図のごとく「夏の銀河各部の名称」を定めた。
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〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちの〕は、紀元前1300年頃から始まる殷代(いんだい)後半に出現した亀の甲羅に文字を刻む契文(けいぶん)によって破られた。というのも、契文の文字数(文字の種類)4600以上となり、いちいち消すのが非情に面倒となった。また、夏の銀河各部の形状を字源とないで図案した文字も相当数作られるようになり、この銀河各部の形状を字源としない文字は文章を作るにあたって不可欠となった。このため、の掟は殷代後半から破られて後世に発掘されることになった。
 
しかし、〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちの〕は、殷代後半以後の王朝によって厳重まもられたため――近世・現代の学者たちは「銀漢から作られた文字」を略して「漢字」となった事実に気づかない。さらに、〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちのⅢ〕によって後世に出土しない文字となった事実にも気づかない。このため、近世・現代の学者たちは「わが国が最初に文字を習得したのは5世紀あるいは6世紀ある」と断定する。
 
しかし、『魏志倭人伝』は「倭女王卑弥呼は「今から約5000年前頃に発明された【倉頡の文字作成理論】にのっとって35の小国名や人名などを決めた。また、紀元前21世紀に名門益氏の王子と若者たちは男鹿半島・八郎潟地域に定住して、三皇時代に用いた結縄(けつじょう・易占に用いる記号)と五帝時代の書契(最初の漢字)と夏代黎明期の夏音文字を普及させた」と伝えている。

また、『古事記』上巻の随所に「音」という注がついて、夏音が楷書で記されて多数残っている。さらに、『古事記』上巻并(あわ)せて序では「夏音について」難解な文章で詳細に説明されている。

◆上に示した「夏の銀河各部の名称の図」における左上の端に、わたくしが「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河+鬼の身に相当する銀河)」がある。
 
下の上図に示すように、「十字の銀河」は【文】の字源となり、金文形(周代に用いられた文字)となった。 また、下の下図に示すように、「鬼の姿に似る銀河」は【字】の字源となり、金文形となった。【字】の上部の【宀(べん)】は「十字の銀河の子宮がある腰・骨盤の部分」が字源となり、【字】の下部の【子】の字源は「鬼の姿に似る銀河」であった。
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下図に示すように、「十字の銀河の身体部」には「線状の暗黒天体部」があり、この「線状の暗黒天体部」は「十字の銀河の背骨」に見立てられた。また、「鬼の姿に似る銀河」にもある「線状の暗黒天体部」は「鬼の姿に似る銀河の背骨」に見立てられた。
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下図に示したように、「線状の暗黒天体部」は【玉】の結縄や契文(甲骨文字)の字形になった。「結縄」は「三皇時代の易卜に用いられた記号(符合)」であり、中国では幾つか出土した結縄に「陶文(とうぶん)」と名づけている。
 わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は【玉】について「(中国だけでなく)、わが国においても縄文文化中期のころに、玉人や玉作りたちがすぐれた玉制作の技術をもち、当時の政治権力と地域的に深く結合する存在であったことは、かなり詳しく解明されている」と解説している。(注 文中の「縄文文化中期」は中国の「五帝時代」に相当する。ゆえに、後期縄文時代初頭、益氏の王子や若者たちが【倉頡の文字作成理論】・結縄・書契・夏音文字を説明するにあたって、わが国の土器・土偶を作る芸術家たちや玉人や玉作りたちにとって【玉】は同義であったことになる)
 
【玉】はわが国の将棋盤における「王将よりも位が高い、最高位の王将」の「玉」のことである。
 
下の【玉】の字源解説図は「肉眼で位置(天頂緯度)と方位・時間の経過(経度)が精密に計測できる人物・幾つかの氏族たちが集合した政治体制における最高位の王、すなわち氏族共同政治体制をささえる王たちの中で最も優れる最高位の王」をあらわした。ゆえに、【玉】は「緯度と経度の目盛り、つまり天頂緯度と方位・時間の経過をあらわす目盛り」をあらわすことになった。

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下の図に示すように、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」は共に【木】の字源となった。また、上の図における【文】の字源「十字の銀河単独」でも【木】の字源となり、【字】の下部となる【子】の字源「鬼の姿に似る銀河単独」でも【木】の字源となった。
 
中国では「五帝時代に用いられた漢字」を「書契(しょけい)」または「契刻(けいこく)」と名づけ、わが国では「刻木(こくぼく)」と呼んだ。そして、中国では「書契(契刻)」は「木に刻む文字である」と言い伝えられた。つまり、下の図に示すように、「木に【玉】の緯度・経度の目盛りを刻んだ文字」すなわちこのブログの前ページで図を用いて解説したように、「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」は【文】と【字】の字源となった。ゆえに、「書契」は「木に刻まれた文字」と言い伝えられた。わが国の呼び名の「刻木」も「木に刻まれ文字」の略称であったことになる。
 
したがって、書契(刻木)は「木に刻まれる文字」として〔後世に文字を書いた史料〕が発掘される文字ではなかった。書契(刻木)は、〔倉頡が死刑と定めた3つの掟のうちのⅢ〕によって〔後世に文字を書いた史料が出土しない文字〕となった。

ただし、書契(刻木)は「夏の銀河各部の形状」が字源・字形・字義となって残った。

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下に、邪(なな)め立体図となる〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕を示した。
 
〔天頂点と重なる銀河部位〕は東から45度の東北から地上へ出現して、また西から45度の西北の地下に潜(もぐ)った。
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下に〔上図を平面的に図化した図〕を示した。

  この下図が示すように、「天頂点の緯度と観測地点の緯度は一致する」。ゆえに、遠くの地に旅する人々が各地で観測する地点の緯度は天頂緯度(天頂点が横一直線となる線)をキャッチすれば正確に測定できた。
  北緯36度の土地(集落)の人が、遠い北緯40度の土地(集落)へ旅したとき――北緯37度の土地や北緯39度の土地において、天頂点と重なる銀河部位(天体部)が地上へ出現する方角は故郷と同じく変わらずに東から45度の東北であり、天頂点と重なる銀河部位(天体部)が地下へもぐる方角は西から45度の西北である。
 
下図は、「北緯36度の土地はじめ北緯37度の土地・北緯39度の土地・北緯40度の土地にても観測される、天頂点と重なる銀河部位が東から45度の東北から出現して、西から45度の西北の地下にもぐる様子をあらわす平面図である。

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上図では故郷の北緯36度の旅の出発地点の土地における天頂点と重なる銀河部位(天体部)は東から45度の東北の地上から出現し、西から45度の西北の地下にもぐると同じく――北緯37度の土地でも北緯39度の土地でも目的地の北緯40度の集落おいても、天頂点と重なる銀河部は東から45度の東北から出現し、西から45度の西北にもぐる事実――を示している。

 つまり、上図は北緯36度・北緯37度・北緯39度・北緯40度の土地でも、つまり中国や日本の中緯度圏の全域では――天頂点と重なる銀河部位は東から45度の東北の地上から出現し、西から45度の西北の地下へもぐる。ゆえに、各々の土地から見える天頂点と重なる銀河部位の軌道は【太い線――で示すことにした。

  つまり、「故郷の天頂緯度を計測することができる軌道の円弧線」を「一本の縄」と想定し、上図に示した「太い線は各地の天頂緯度を計測できる複数の円弧線=複数の縄をねじって一つに結んだ(からみあわせた)太くなった縄」を表現した。

 だから、「数本の縄を一本に結ぶ」を略して「結縄」という名になり、「三皇時代の易占に用いられた記号」は「結縄」と呼ばれることになったのである。

  
上記した事実によって、遠くの地に旅する人々は各地で精確に天頂緯度線をキャッチすれば目的地に到着し、家族が待つ家に帰還することができた。
 
だから、太古において、常に精確に天頂緯度線をキャッチする人物は精確に緯度を計測できる最高の能力を示すことになり、最も偉大な王()と崇拝された。よって、「玉(円い球形の宝石)」は「天頂緯度を精密にキャッチする、特別に偉大な能力を有する王を象徴する勲章」となった。
  だから、前ページにおける「[玉の字源解説図」の右上に配した【玉】の結縄は「円形の玉(宝石)」を図案するものではないが――前記した〔立体形の、天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕と上図の〔平面図となる、天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕から「円形の玉」が想像される図案となった。したがって、【玉】の結縄は「円形の玉」を表現することになったのである。
 
「字書の聖典」と尊敬される後漢の許慎(きょしん)が著した『説文解字(せつもんかいじ)』は【易】の字源を「蜥蜴(せきえき)である」と解説する。「蜥蜴」は「トカゲ」を意味する。トカゲは【必ずもとの巣にもどることができる、帰家性の習性】を有する。これゆえ、「易」は「遠くの地へ旅する人が目的地に到着して用事をすませ、トカゲのごとく故郷の家族が待つ家へ帰還できるように占う術」であった。だから、「三皇時代に作られた結縄」は「易に用いられた記号(符合)」の呼称であったことになる。

◆『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬壹(やまい)壱国」と記す。しかし、多くの学者たちやメディアは「邪馬壹国は邪馬臺国の誤記である」とこぞって主張する。この〔漢字の起源と発明を解明す・序〕で根拠・理由を挙げて詳細に証明したように、「邪馬壹国は邪馬臺国の誤記ではなく、倭女王卑弥呼は邪馬壹国に居住していた事実」を伝えていたことになる。
 
もしも学者たちがずっと以前に「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と読むのは誤読による暴論だと気づいていたならば――「空白の四世紀」とか「空白の150年」と呼ばれる時代の土台は卑弥呼時代であったゆえ――その時代の歴史もきっと空白でなく明らかになっていたにちがいない。
  これより、「邪馬臺国」の【臺】と「邪馬壹国」の【壹】の相違を解明し証明する。
  
『魏志倭人伝』の末部に「因()って臺に詣(もう)でる」(因詣臺)という文がある。
 
この文中の「臺」は「魏都の洛陽」を意味する。
 
下図に示すように、【洛陽から黄河口(黄河の河口)への方角】は【夏至の日の朝、日が出ずる水平線(渤海)上の東から30度の東北】である。この【方角】は【夏至の日の夕方、日が没する水平線(渤海)の西から30度の西北】を表現している。というのも、【洛陽】の【洛】の上に「朝顔」をあらわす【艸冠(くさかんむり)】を加えると【落】の字となる。ゆえに、【洛陽】は【落陽】となって【夏至の日の夕刻、日が没する西から30度の西北】を表示するからである。
 
しかし、【黄河口の中心と洛陽を結ぶ邪(なな)めの線】は【夏至の日の朝、日が出ずるときの方角】を示して矛盾する。
 
【洛陽】の東方には日照(中国では「リーチャオ」と音する)」がある。日照は黄帝陵と同緯度(北緯3535)である。【日照の北の、山東半島先端の南岸には石島(中国では「シータオ」と音する)がある。【日照と石島を結ぶ邪(なな)めの線は、夏至の日の朝、日が出ずる東から30度の東北】を射当(いあ)てる。
 
下図に示すように、【洛陽】が【臺()】の字源となり、【日照】が【壹()】の字源となった。
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上図の左上に示すように、【渤海(ぼっかい)の地図の形】は【夏至の日、日が没する夕方の朝顔の花】に相似すると見立てられた。この【夏至の日の夕刻の朝顔の花に形似(けいじ)すると見立てられた渤海の地図の形】を渤海の南岸で180度転回すると、上図の左下に示すように【夏至の日、日出ずる朝の朝顔の花】となる。この【朝顔の花の臺(うてな・台・萼)】は【洛陽の位置】となる。ゆえに、【洛陽】は【臺()】の字源となった。
 
【朝顔の冠をささえる土台】は【萼(がく)】であるゆえ、【萼】は【臺(台・うてな)】と名づけられたのである。
 
上図の左上の「渤海の地図の形」に相似する「夏至の日、日が没する夕方の朝顔の花はうつむいてしおれて元気がない」。一方、上図の左下の「夏至の日、日出ずる朝の朝顔の花は天をあおいで開きはじめ艶(あで)やかに元気に咲き誇る。ゆえに、【臺()=洛陽】は「常に朝の太陽の陽射しに照らされて艶やかに元気に満ち溢れて栄える都」を意味するものであったことになる。
 
注目すべきは、上図に示したように黄河の水は〔【臺】の黄河口と洛陽を結ぶ邪(なな)め線〕に沿って流れる。また、上流から流れてくる黄河の川幅は狭い(細い)が、洛陽の辺りから一気に広く(太く)なる。したがって、洛陽は、五帝時代において黄河の洪水・氾濫によって土は泥状にやわらかくなり、原始的な軽い木製の鋤(すき)を使って、たやすく耕すことができた。また、黄河の上流で大量の雨が降ると、黄河の両岸の肥沃(ひよく)な土を下流の洛陽のほうに押し流して、洛陽の台地に豊かな実りをもたらした。だから、洛陽は禾(小麦・とうもろこし・こうりゃん・粟などの穀物)の豊作にめぐまれる一大穀倉地であったことになる。
 
以上のごとく、【洛陽】が【臺()】の字源となり、【日照】が【壹()】の字源となった。
 
ゆえに、「邪馬壹()国」を強引に「邪馬臺()国である」と断定する邪馬台国説は空理空論であったことになる。

 
そして、「黄帝時代より以前の三皇時代の人々」が正確に測量しなくても、「夏至の日の朝、日照から石島までの各地の海岸から日が出ずる方角と、その朝焼けの景色」が観察できた。
 
山東省チュウシエンの陵陽河(りょうようが)というところから、下図に示す「灰陶尊(かいとうそん)」と呼ばれる、灰色の爆弾型の土器が出土した。灰陶尊が出土した陵陽河は黄帝陵・日照と同じ北緯3535分である。
 
灰陶尊は黄帝時代と同じ約5000年前の遺物と測定された。
 
灰陶尊の口縁部(こうえんぶ)の近くには、下図の右上に配置した図書がある。この図書を、中国の学界は「漢字の原型」と考えている。
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上図の右上の図書のうち、()最上部は円、()中央は細長く平らな山形の図柄、()最下部は最大の真っ赤に燃える火炎のような図柄である。そして、この三者の図柄は一体化している。
 
ということは、()最上部の図柄は「夏至の日の朝、朝焼けの日輪・太陽」をあらわす。
  (
)中央の図柄は「真っ赤に燃え盛る火炎が土器の底を焼く紫焔(朝顔の花の紫)、つまり雲の底を染める紫色?」を図案するものと推理される。
  ()最下部の図柄は「真っ赤に燃え盛る火炎」を表現しているにちがいない。
 
したがって、【灰陶尊の口縁部に近い箇所の図柄】は【夏至の日の朝、石島越しに見える水平線上に太陽()が真っ赤に照らす、朝焼けの光景】を表現していることになる。ゆえに、【壹()】の字源となった地名は「日が真っ赤に照らす」をあらわす「日照」となった。
 
上図の右上に配置した「三つの図柄」を、上記したように、中国の学界では【旦】をあらわす図書と考えている。【旦】の字義は「日が出ずる、東の空が真っ赤に焼ける朝」である。
 
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(第一)における帝尭(ぎょう)紀には「春分点・夏至点・秋分点・冬至点の精確な四時の星空状況」が詳細に記されている。この「春分点の位置」を【歳差(さいさ)】と呼ばれる天文現象で年代を算出すると、帝尭の時代は黄帝時代初頭から500年後の、今から約4500年前であったことになる。
  
帝王名の【尭】の字に【火】の偏を加えると【焼】という字になる。【焼】は「朝焼け」「夕焼け」の【焼】である。【尭】に【日】の偏を加えると【暁】の字となり、【暁】の字義は「朝明け。あかつき」である。【暁】は【旦】の字義とも共通する。
  以上からして、前ページに示した〔【臺()】と【壹()】の解説図〕は、五帝時代の四番目の帝尭の時代に精確に土地測量して、【臺()】の字源を「洛陽」と定めた事業を伝えるものであったにちがいない。
  
司馬遷著『史記』五帝本紀(第一)には「益氏は、帝尭の時代から挙用された」という記事がある。だから、約4000年前の夏代初頭、中国から大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟東方の地に定住した益氏の王子と若者たちは「【臺()】の字源は【洛陽】、【壹()の字源は【日照】である学問知識】を有し、「灰陶尊の【旦】の図書の秘密」を知っていたことになる。
  このような事情によって、卑弥呼は倭人国の中心地の王国名を「邪馬壹()国」と定めた。また、『魏志倭人伝』を著わした晋(しん)の歴史編纂官(著作郎)の陳述寿(ちんじゅ)は【臺()】の字源は【洛陽】であることを知っていたからこそ「「因詣臺」と記しつまり「因って臺に詣でる」と記述したのである。

 

◆中国の正史、628年に成立した『隋書(ずいしょ)』倭国伝には――600年、わが国の推古天皇八年に倭国から派遣された遣隋使が「文字無し。ただ刻木・結縄のみ。仏法を敬い、百済(くだら)において仏経を求得し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」と言った――という記事がある。
 
上記した遣隋使が告げた言の冒頭「文字無し」は「文字有り」と解釈するのが正しい。また、その言の後ろにある「始めて文字有り」という言もまた「読解するのに非常に難解な楷書を多数羅列(られつ)する仏教の経典に用いられる文字(楷書)を解読して、わが国には始めて大量の楷書が有るようになった(読解することができるようになった)」と解釈するのが正しい。
 
というのも、「文字無し」に続く「ただ刻木・結縄のみ」は「ただ五帝時代の最初の文字の刻木(書契)と三皇時代の易に用いる結縄のみが有る」と意味するからである

  それゆえ、刻木は最初の漢字であるので「文字有り」と解すべきことになる。また、わが国には銀河文字の刻木と夏音文字があり、夏音は楷書で表記するゆえ、文字は有ったことになる。さらに――わが国の朝廷は百済から仏教の経典を輸入し、刻木と夏音文字と夏音を楷書で表記する文字に精通する巫女と覡(げき・神官)が中国の楷書を用いる書物が説明する卜筮を学ばんとして、仏教の軽典に用いられる難解な楷書の全解読に成功した。ゆえに、世間の人々(皇族と貴族)は仏経の全楷書解読に成功した巫覡を最も信頼して尊敬した――と説明するものであったゆえ、わが国には確かに「文字が有った」ことになる。

 
『隋書』倭国伝の後半には――607年、推古天皇は大礼の小野妹子(おののいもこ)を隋へ派遣した。小野妹子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや、云々(うんぬん)」と聖徳太子が書く国書を、隋の煬帝(ようだい)に届けた。煬帝はこの国書の文を見て悦(よろこ)ばず、鴻臚卿(こうろけい・隋の外相)に「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者あり、復()た以聞(いぶん)すなかれ(このような国書は二度と上表するな)」と怒った――いう文がある。
 
しかし――暴君であったが若い時に学問好きであった煬帝は、【学】の字源「倉頡の文字作成理論」を熱心に研究した。だから、怒りがおさまって【学】の字源を思い出した煬帝は、600(推古天皇八年)の「文字無し」という遣隋使の言を「文字有り」と解釈した。また、煬帝は「倭国が仏経の楷書を解読できたのは、巫覡たちが三皇時代の結縄や【倉頡の文字作成理論】や書契に精通していたにちがいない」と判断した。
 
さらに、煬帝は「蛮夷の書(野蛮人の書)」と酷評した倭の国書の文を、このブログの前ページで詳細に解説したように――山東半島南岸の日照・石島の日出ずる処の【壹()】の天子が、書を洛陽・黄河口の日没する処の【臺()】の天子に国書を送ります。きっとご健康でありましょう――と、【倉頡が死刑と定めた3つの掟】に適(かな)う最高最良の礼を示して挨拶していることに気づいた。したがって、煬帝は倭の国書が「最も聖なる徳の【学】に精通する天子」と絶賛したいた――事実・真意に気づいた。

 
仏教では「死没」の【死】の字義を「しぬ。殺す」と定め、【没】の字義を「死ぬ」とする。しかし、仏教における【死】と【没】は字源と原義を失う歪曲字であった。
 
倉頡が作った【花】の原字は、その右下にある【ヒ】であった。ゆえに、【ヒ】の字源・原義は「花」であった。【ヒ】の図書がつく【比】の字義は「くらべる」であるゆえ、【比】の原義は「長江口と朝顔の花の形を比べて、女性の生殖器官各部の構造や機能を考える」であった。この【比】の【ヒ】の字源・字義が「死ぬ」であるならば、【比】の「比べる」という字義に矛盾し不合理となる。
  
【没】の原義は、前述したように「夏至の日の夕方、日が没するときの朝顔の花のしおれた元気の無い状態」をあらわした。ゆえに、【没】の字源・原義は「死ぬ。死亡する」という深刻な状態までをもあらわさなかった。
 
殷代――黄帝時代と同じく黄帝陵の天頂緯度線は「十字の銀河の中央」を貫通せず、「十字の銀河の首」のあたりを貫通していた。ゆえに、殷代における黄帝陵の天頂緯度線(+赤緯3535)の様子にもとづいて、殷代において【倉頡が死刑と定めた3つの掟】を破っていない人々(罪人)や死刑に処すべきでない人々(罪人)など多数の人々の首を斬って殺した。だから、【死】の字は「死ぬ。殺す」となり、【没】の字までも「夏至の日の夕方に、朝顔の花はしおれて元気がない状態なれども枯れて死んでしまわない」にもかかわらず、「死ぬ」と歪曲されることになった。
 
仏教の経典における【死】と【没】は字源・原義を失った歪曲字であることに気づいて煬帝は600年・推古天皇八年の遣隋使の「文字無し。云々」という言は「倭国には【倉頡の文字作成理論】が存在するゆえ、倭の巫覡は仏経の難解な楷書を解読できた」と伝えていることに気づいた。

  もしも遣隋使が「文字有り。云々」と言ったとすると、この言は正直に率直に「倭には【倉頡の文字作成理論】と夏の銀河各部の形状を文字とする書契が有る」と説明していることになる。したがって、遣隋使の言は【倉頡が死刑と定めた3つの掟】を犯していることになるゆえ、煬帝は最も重い大罪を犯したと怒って遣隋使を死刑にしなければならなかった。煬帝は遣隋使の言は正しく礼に適う挨拶であったと察知した。
 
よって、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。云々」と書く倭の国書は、前述した「洛陽」は【臺()】の字源となり・「日照」が【壹()】の字源となる学問知識にもとづく、大いなる礼をつくした文であることに、煬帝は気づいた。だから、この国書を届けた遣隋使の役職名は「大礼」であり、「大礼」は「大いなる礼をつくす国書の使者」と意味したことになる。
 
このため、『隋書』倭国伝は「大礼の小野妹子を遣隋使に派遣した翌年の608年、文林郎(ぶんりんろう)の裴清(はいせい)を倭国へ渡る使者にした」と記述する。「裴清」の名は中国において「裴世清」であった。【倉頡の文字作成理論】によって「地形も字源・原字・原義となった」ゆえ、中国から地形が異なる倭地の使者になる場合、名を変えるが礼儀であった。だから、煬帝は裴世清に「【世】の字を欠く名の裴清とせよ」と命令して、倭の国書を誤読した無礼をわびたのである。
 
その証拠に、『古事記』は推古天皇の名を「豊御食炊屋比売(とよみけかしきやひめ)」と記し、『隋書』倭国伝は「姓は阿毎(あめ)、字は多利比孤(たりしひこ)」と別の夏音の名で記している。
  607
年の遣隋使の大礼「小野妹子」という名は、地形の異なる中国へ渡るための変名であった。つまり、「推古天皇は崇峻(すしゅん)天皇の妹である」から「妹」とし、「皇太子の聖徳太子」の「子」を用いて、「妹子」とした。「小野」という姓の【小】の字源は「小さな砂粒(すなつぶ)」であり、【野】の字源は「砂の野原。つまり砂漠」であった。時の大臣「蘇我馬子(そがのうまこ)」の【馬】の字源・原義は「砂漠を往来する聖獣のフタコブラクダ」であった。「妹子」の【子】は「馬子の子、つまり蝦夷(えみし)」をも意味したと推定される。したがって、「蘇我蝦夷」が地形の異なる中国に渡るために「小野妹子」と変名していたのではあるまいか。

  592
年、推古天皇が即位した。
 
推古天皇の即位よりおそらく10数年前、用明天皇・崇峻天皇のいずれかが仏教を敬うために百済から仏教の経典を求得した。朝廷は仏教の経典に用いられる全楷書の解読を、【倉頡の文字作成理論】や夏音を楷書で表記する学術に精通する巫覡たちに命令した。この巫覡たちは、「夏の銀河の各部の形状から文字が作られた秘密」が明白にならないように朝廷が体制のなかに組み入れて保護する人々であった。巫覡たちは仏経に用いられる全楷書解読事業に成功した。よって、皇族・貴族たちは巫覡たちを最も信頼して尊敬した。
  594
年、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子に「三宝(さんぽう)を興隆(こうりゅ)せよ」と詔(しょう)し、積極的な崇仏(すうぶつ)政策の方向を示した。
 
巫覡たちによって中国が用いる楷書を恣(ほしいまま)に正確に読解できるようになった。このため、摂政(せっしょう)の聖徳太子は――巫覡たちが精通する【学】の「倉頡の文字作成理論」と書契と夏音文字と夏音を楷書で表記する知識はもはや必要ないと考え、さらに巫覡たちが祀る鬼道(きどう・神道の前身)は崇仏政策の最大の障害になる――と考えた。

  ゆえに、聖徳太子は朝廷がもはや巫覡たちを保護して生活をまもる必要がないと考え、巫覡たちを朝廷から追放する政策に着手した。

  朝廷から追放されることになって生活基盤を失った巫覡たちは、聖徳太子は勝手で理不尽(りふじん)で横暴であると訴えて大臣蘇我馬子に庇護を願い出た。
  
皇族・貴族たちは、太子の巫覡追放について――夏の銀河各部の形状から文字を作った【倉頡の文字作成理論】は朝廷が独占管理して厳重に機密を保持する必要があるからこそ、巫覡たちの生活を朝廷が保護しなければならなかったのである。この政策に対し摂政はあまりにも愚か! 巫覡たちを庇(かば)う蘇我家の権力が、これから朝廷の権力に勝ることになるにちがいない。巫覡たちが精通する【学】(倉頡の文字作成理論)が最も強大な権力であるから、完全な【学】の知識を失った朝廷の権力は一気に弱体化するにちがいない。こんな容易に察知できる常識つまり朝廷の衰退を、摂政は思いつくことができないのか!――と陰口(かげぐち)をたたいて、聖徳太子を虚仮(こけ)にして馬鹿にした。
 
ゆえに、天寿国繍帳(てんじゅこくしょうちょう)の銘文によれば――聖徳太子は妃の橘太郎女(たちばなのおおいらつめ)に「世間は虚仮にして、ただ仏のみ是()れ真なり」と語ったという。
  
太子は「皇族と貴族たちは吾を虚仮にしてあざ笑うが、ただ仏のみが真実である。巫覡たちの【学】(倉頡の文字作成理論)と彼らが祀る鬼道は偽りでまったく必要がない」と空しく自己弁護していたことになる。

 
蘇我馬子は皇族・貴族一同から信を失った聖徳太子の天皇即位に反対した。だから、聖徳太子は天皇に就任することはできなかった。
 
蘇我馬子家に保護されることになった巫覡たちは、朝廷が秘蔵する天皇紀・国記、また珍しい宝などを持ち出して聖徳太子に復讐した。
 
この事情は、『日本書紀』皇極(こうぎょく)天皇紀末部の645613日の記事にて明らかになる。その前日の12日、中大兄皇子(なかのおおえおうじ)・後の天智天皇は蘇我入鹿(いるか)を大極殿(だいごくでん)において殺した。この事件を「乙巳(おつし)の変」という。
 
父蝦夷は入鹿の死を聞き戦う準備を進めたが、中大兄の使者が蝦夷の兵たちに順逆の理を説いて聞かせると、兵たちはみな蘇我氏を見限って逃走した。孤立無援となった蝦夷は翌13日に自殺し、蘇我大臣家はあっけなく倒れた。
 
蘇我蝦夷は殺される前、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)はその時に素早く、国記を取り出して中大兄にたてまつった。

  天皇記と国記は天皇家が保存しなければならない文献であった。このような大事な天皇記と国記を巫覡たちは持ち出して蘇我馬子に庇護を願ったのである。だから、乙巳の変の翌13日には、蘇我大臣家に天皇記と国記が所蔵されていた。

  焼かれずに船史恵尺に救われた『国記』が『古事記』上巻の原典であった。『国記』は夏音(字音を楷書)で記述する歴史書であったゆえ、『古事記』上巻には楷書を「音」に用いる多数の夏音が残されることになったのである。
 
以上のごとく、わが国は今から約4070年前(紀元前2050年頃・後期縄文時代初頭直前)から、名門益氏がもたらした【学】の字源・原字・原義の「倉頡の文字作成理論」jはじめ三皇時代の結縄・五帝時代の刻木(書契)・夏代黎明期の夏音文字が存在することになった。
 
だからこそ、3世紀後半(280年~289)に成立した『魏志倭人伝』は、【学】の字源「倉頡の文字作成理論」を詳細に正確に説明する特別に重大な良書であったのである。

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