漢字の起源と発明を解明す・41ー2
卑弥呼が倭国の都とした地は邪馬壱国であって邪馬台国ではなかった(2)
◆このブログが前回まで詳細に解説して証明したように――今から約5000年前(紀元前3000年頃)の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝(こうてい)につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)は、【夏の銀河各部の形状を図案して文字をつくる理論】を発明した。
よって、漢字は【夏の銀河】と呼ばれる【夏にもっとも長時間見ることができる銀河】から作られて起源した。
「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」と呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。
「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。
下に、【夏も銀河のカラー写真】を配した。この写真は、PIXTA(ピクスタ)が撮影した。
◆3世紀末に著作された『三国志』における魏書東夷伝(ぎしょとういでん)末尾の倭人伝(わじんでん)は、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』とよばれる。
3世紀末に著作された『魏志倭人伝』の原書は残っていない。
『魏志倭人伝』は12世紀末に作られた紹煕刊本(しょうきかんぽん)として残っている。
今日、『魏志倭人伝』は【女王・卑弥呼が居住した、倭人国の首都が所在した邪馬臺(台)国について主に説明する史料】として解されている。
しかし、前回までこのブログが詳細に解説して証明したように――『魏志倭人伝』は【主として倉頡の文字作成理論と、文字作成に関する五帝時代初頭の黄帝時代の黄帝と夏代黎明期(かだいれいめいき)の鯀(こん)・禹(う)・益(えき)に関する歴史について科学的に明確に伝える史料】であった。
上記したように、『魏志倭人伝』は【主として倉頡の文字作成理論】について説明する史料であった。これゆえ、下図に示すように『魏志倭人伝』紹煕刊本は「投馬国(とうまこく)より南、邪馬壹国(やまいこく)に至る、女王の都とする所なり」と明記する。
下図は、石原道博編訳者『新訂魏志倭人伝他三篇 中国正史日本伝(1)』(岩波書店発行)の107ページの紹煕刊本の記事を転載した。
江戸中期に生存した新井白石(1657~1725年)は「邪馬壹(壱)国」を「邪馬臺(台)国」と読み、最初に「邪馬臺国は大和に所在した」と説き、後に「邪馬臺国は九州に存在した」と主張した。
このため、白石以来今日まで大半の学者はじめ学界は「倭女王・卑弥呼が都とした地は邪馬臺(台)国であった」と主張する。
しかし、「邪馬臺(台)国が正しい」という先入観を排除(はいじょ)して『魏志倭人伝』全記事を科学的に慎重(しんちょう)に思考すると――「邪馬壹(壱)国」が正しく、「邪馬臺(台)国」という意見は科学に反する誤読・臆説(おくせつ)であった事実が証明される。
前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・41―1」では、全記事の3分の1を用いて、白石以来の邪馬臺国大和説(畿内説)と邪馬臺国九州説は「科学的視点に欠ける、誤読の空想・空理空論・臆説(おくせつ)であった理由・根拠」について簡単に説明した。
従来の学者たちの意見・論考に疑問を抱き、『魏志倭人伝』紹煕刊本を科学的観点にもとづいて思考すると――『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】について下に記す3種の事柄を説明していたことになる。
しかし〔『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】について科学的に明確に伝える史料〕であることにまったく気づかない学界は下記の3種の説明は誤っていると、下記のごとく否定する。
【1】『魏志倭人伝』紹煕刊本は「わが国には2世紀末から3世紀中半において漢字知識があった」と記述するが、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀である」ゆえ、この記述は誤っている
【2】『魏志倭人伝』紹煕刊本における九州の末盧国(まつろこく)以下の【方位を示す記事】は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、実際の日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びてない。だから、邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』の「日本列島の【東】は【南】に伸びていると説明する転回日本列島地理は事実を伝えるものではない」と主張する
【3】前記したように、『魏志倭人伝』紹煕刊本は、女王卑弥呼の王国名を「邪馬壹(壱)国」と記す。しかし、現在における大多数の学者たちは「邪馬臺(台)国こそが正しい」と主張する
『魏志倭人伝』紹煕刊本における上記の3種の記事はすべて正しかった。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す・39」では「わが国は、紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代黎明期)に、漢字(夏音文字)を習得した事実」を詳細に解説して証明した。
ゆえに、上記した【1】の『魏志倭人伝』の説明は正しかった。
したがって、わが国は後期縄文時代初頭(中国の夏代黎明期)に夏音文字を習得していた。
ゆえに、【倉頡の文字作成理論と、文字作成に関する黄帝時代と夏代黎明期の歴史知識】は後期縄文時代初頭(夏代黎明期)以来、【学術】となってわが国に存在することになり、『魏志倭人伝』に詳細に説明されることとなったのである。
このブログ「漢字の起源と発明を解明す・40―1と40―2」では――【2】は卑弥呼が立論した錯覚の転回日本列島地理であった。この転回日本列島地理について『魏志倭人伝』が説明していたことを詳細に解説して証明した。
この錯覚の転回日本列島地理によって、倭国の大乱が鎮(しず)まった。ゆえに、卑弥呼は倭女王に選ばれ、「倭人国」という名の国家が創設された。よって、この錯覚の転回日本列島地図は卑弥呼王朝が制定する正式の地図となった。
というのも、【卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地図】は【倉頡の文字作成理論と、文字作成に関する五帝時代初頭の黄帝時代と夏代黎明期の歴史】にもとづいて立論されていたからである。
だから、『魏志倭人伝』が説明する九州以下の本州が【東】ではなく【南】へ伸びる転回日本列島地図を「事実を伝えるものではない」と否定する――学者たちの主張は、【1】同様に【2】についても事実に反して誤っていたことになる。
【3】前記したように、『魏志倭人伝』紹煕刊本は「邪馬壹国に至る、女王の都とする所なり」と記す。
前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・41―1」では――倭人国の首都所在地の名は「邪馬臺(台)国」ではなく、『魏志倭人伝』紹煕刊本に記されたとおり「邪馬壹(壱)国」であったと証明した。
◆上記した『魏志倭人伝』紹煕刊本に記述された【1】【2】【3】の3点の事柄は――学界、あるいは考古学界における定説に反する記事・説明」である。
この3点の記事が原因となって、学者たちは「軽々しく『魏志倭人伝』の記事や説明を信用してはならない。というのも、『魏志倭人伝』には幾つかの誤記が存在するからである」と主張する。
上記したように、【1】【2】【3】の説明は「事実を伝えている」と科学的に証明することができる。
ゆえに、纏向遺跡(まきむくいせき)にもとづく邪馬臺国畿内説と吉野ヶ里遺跡を理由とする邪馬臺国九州説をはじめすべての邪馬臺国説は空想・空理空論であったことになる。
上記したように、わが国は――紀元前2000年頃の後期縄文時代初頭(中国の夏代黎明期)に、夏音文字を習得した。
この事実は『魏志倭人伝』はじめ中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝にて説明され、『日本書紀』神功天皇紀初頭においても説明されている。
また、「わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字を習得した事実」は言語学・音韻学の研究成果によっても科学的に事実であると証明される。
したがて、今日の「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と学界が主張する定説は根本的に誤っていた。
その証拠に――夏音文字は『魏志倭人伝』はじめ、『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘がついて多数残っている。また、『万葉集』において「万葉仮名」とよばれる文字となって多数残る。
〔注 ただし夏音文字の字形では残らず、夏音文字は楷書を音符・意符に用いて残る。〕
◆上記したように、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した倉頡(そうきつ)は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。
倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。
ゆえに、下記に示す【3つの掟(おきて)】を倉頡は定めた。
【倉頡が死刑と定めた3つの掟】
Ⅰ 文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする
Ⅱ 文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名(名称)をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする
Ⅲ 書いた文字が用済(ようず)みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪(たいざい)を犯したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする
上記したように、倉頡は、Ⅲ「文字を書いた後で用済みになっても消さない者、消し忘れた者はもちろんその家族および一族全員を死刑にする」と厳(きび)しい掟を定めた。
この掟だと文字作成理論や倉頡が作った字を後世の人々が知ることができない。
後世に倉頡が発明した文字作成理論を伝え、この文字作成理論にもとづいて多数の漢字が作られるようにするために――「名(な)」、つまり「地名はじめ様々な事物の名称など」を文字であらわして後世に残すことを――倉頡は許可した。
そして、倉頡は――地名は地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)にもとづいて作成されたために、地図(地宜)は王朝が独占管理して絶対に世間に知られないように厳重な機密と定めた。
このため、「倉頡の文字作成理論はじめ黄帝時代や夏代黎明期の歴史を伝える地名」は【学】の字(字源・字義)となり、中国やわが国の「学問の始まり・学術の基盤」となった。
そして、1世紀末の後漢時代に作られた楷書もまた、基本的に倉頡の文字作成理論に従って夏の銀河各部の形状から作られた――ゆえに、倉頡文字はじめ五帝時代に出現した文字(書契・しょけい)と夏代黎明期に作られた夏音文字は後世に作られた楷書の字源となって残った。だから、『魏志倭人伝』に楷書で記された対馬国(つしまこく)から黒歯国(こくしこく)までの34の小国名は【倉頡の文字作成理論はじめ黄帝時代や夏代黎明期の歴史】を解説する役割を有することになった。
五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は出土史料が発見されていない。
しかし、上記したように――五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は『魏志倭人伝』に記される楷書を音符・意符に用いる34の小国名で残った。この34の小国名に用いられた楷書の字源・原義が歴史(史実)を伝えることになったため、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論を具体的に詳細に科学的に解明できる最高・最良の書物】となった。
◆現在の学者たちは、「中国で最初に文字を作ったと伝える倉頡伝説は荒唐無稽(こうとうむけい)の作り話である」と断定する。
しかし、『魏志倭人伝』紹煕刊本に楷書で記された対馬国から黒歯国までの34の小国名によって、倉頡伝説は事実を伝えていたと科学的に証明される。
だから、「倉頡伝説は荒唐無稽の作り話」という学説は空想、憶説(おくせつ)であった。
倉頡がつかえた黄帝は〔女性の生殖器官と出産〕を研究した。
倉頡は〔黄帝の女性の生殖器官と出産の研究〕をも、【文字作成理論】に加えた。
さらに、倉頡は〔天頂緯度線の測量〕をも、【文字作成理論】に加えた。
したがって、【倉頡が発明した文字作成理論】は
〔1〕 夏の銀河各部の形状
〔2〕 黄帝の女性の生殖器官と出産の研究
〔3〕 天頂緯度線の測量
上記の3つの事柄が結合(けつごう)して造形(図化)された。
ゆえに、〔倉頡が後世に残すことを許可した名(地名はじめ事物の名など)〕はじめ――また『魏志倭人伝』に楷書で記された対馬国から黒歯国までの34の小国名は、上記した〔1〕〔2〕〔3〕の3つの事柄が結合して成立していた。
◆下に「黄帝が研究した、女性の生殖器官の正面形の上下を反転した図」を配した。
下の左図に示すように、「台形に相似する形の子宮」は「産道をのせる台(だい)」に観(み)える。
ゆえに、倉頡は「子宮。胎児期。胎児」を【台】の字(字源・字形・字義)と定めた。
「子宮で育つ児(こ)」は、今日、「胎児(たいじ)」と呼ぶ。
「胎児」の【胎】は【肉偏(月)】に【台】を加えた字である。
だから、【胎】の原字(最初の文字)は【台】であった。
そして、倉頡は「産道。出産期。出産児」を【一】の字(字源・字形・字義)と定めた。
最終月経第一日から約十ヵ月後の出産が最も多い。
ゆえに、「最終月経より出産が最も多い約十カ月の児の年齢」を、倉頡は「一才」と定めた。
〔現在は、後産期に生きている出産児の年齢を0才とする〕。
倉頡は「産道を通過できずに死亡する児」の年齢を「一才」と数えないことにした。
だから、倉頡は「産道・出産期・出産児」を【一】の字源・字形・字義とした。
◆前記したように、『魏志倭人伝』は前半部にて「邪馬壹国、女王の都とする所なり」と記述する。
そして、『魏志倭人伝』は末部で「壹与(いよ)は倭の使節の率善中郎将の掖邪狗等二十人たちを派遣した。倭の使節の掖邪狗たちが魏の出張機関政庁が所在する韓国の帯方郡(たいほうぐん)に到着すると、(247年・魏の正始8年)に張政等が帯方郡の大守(たいしゅ)に就任した魏都の洛陽(らくよう)へ送り還(かえ)らせることになった。よって倭の使節の掖邪狗一行は臺(魏都・洛陽)に詣(いた)る」と説明する。
倉頡が作った【一】の字を、“夏王朝の始祖(しそ)”とされる禹(う)は【壹】の字形に改めた。
ゆえに、上記した「倭女王・卑弥呼が都と定めた邪馬壹国」という記事における「邪馬壹国」の【壹】は、倉頡が作った【一】と同じく「産道。出産期。出産」を意味した。
また、倉頡が作った【台】「子宮。胎児期。胎児」の字を、“夏の始祖”の禹は【臺】と改めた。
これゆえ、上記した『魏志倭人伝』の「因りて臺に詣(いた)る」という記事の【臺】は、倉頡が作った【台】「子宮。胎児期。胎児」と同義であった。
そして、上記した『魏志倭人伝』の末部にある「因りて臺に詣る」という記事の【臺】は「魏の都の洛陽(らくよう)」を指しているゆえ、「洛陽」という地名は「子宮。胎児期。胎児」を意味したことになる。
そして、倉頡は【一】の「無事に産道を通過して、この世に誕生することになった出産児」から「旦(朝日)。朝(夏至の日の朝日が刺す光景)」が連想されるということで――【一】は「旦。朝。朝日」をもあらわすと定めた。ゆえに、【壹】も「旦。朝。朝日」をあらわすことになった。
そして、「母親の卵(らん)と父親の精子(せいし)が結合する受胎組織(じゅたいそしき)が子宮内に至り、そして受胎組織が子宮の側壁に結合する、その着床(ちゃくしょう)のイメージ」を、倉頡は「夏至の日に太陽が没して地平線下(地中)に至る夕方の様子」に似ていると見立てて、【台】の字は「夕日。夕(地平線下に没する夏至の日の夕日が照る光景)」をあらわすと定めた。
ゆえに、【台】と【臺】の字は「夕日。夕日の光景」をあらわすことになった。
だから、『魏志倭人伝』末部に「臺」と記された「洛陽」という地名は「夕。夕日」をあらわした。
以上のごとく、【一】と【壹】の字は「産道。出産児。朝。朝日」をあらわした。
そして、【台】と【臺】の字は「子宮。胎児。夕。夕日」をあらわした。
だから、「邪馬壹(壱)国は産道・出産のイメージをあらわす地図の形を有する国」、新井白石以後に多数の学者たちが主張する「邪馬臺(台)国は子宮・胎児のイメージをあらわす地図の形を有する国」でなければならないことになる。
◆前回のブログでも指摘したように――下図の左上に示す「渤海湾(ぼっかいわん)の西海岸・黄河口(こうがこう)の北海岸・莱州湾(らいしゅうわん)の東海岸を結ぶ、太い直線」は、【邪(なな)めの線】となる。
この【邪めの線】は「産道を通過して出産する【馬】・フタコブラクダの子の姿」をあらわした。
というのも、下図の左上に「折れ曲がる瘤(こぶ)」と記したように――「産道を通過して出産するときの【馬】・フタコブラクダの子の瘤」は「親のフタコブラクダのごとく山なりに隆起せず、背中から薄い板のごとくなって折れ曲がる」からである。
ゆえに、産道を通過するときのフタコブラクダの子の背中は平らとなる。
つまり、「出産するフタコブラクダの子の瘤は産道に突っかかって通過の邪魔(じゃま)にならないよう折れ曲がり、産道の通過が円滑(えんかつ・スムース)になるように背中が平らとなる」。
だから、下図における「山東半島」は「出産するフタコブラクダの子の頭・顔の形」に、「莱州湾」は「出産するフタコブラクダの子の後頭部の形」に、「渤海湾と黄河口の両北岸を結ぶ直線」は「産道を通過するフタコブラクダの子の瘤が折れ曲がって平らとなる背の形」になるので――「産道を通過する、瘤(こぶ)が折れ曲がって背中が平らとなる【馬】・フタコブラクダの子の体形」は「邪めに曲がる形状」となる。
なお、「山東半島東端の石島から青島(ちんたお)までの地図の形」もまた「【馬】・フタコブラクダのアゴ・首の形」に酷似する。
そして、下図の下部に示したように、日照の海岸と山東半島の東端にある石島の海岸を結ぶと東北に向かって30度となるから――「東北30度の地平線から上る夏至の日の朝日」をあらわす。
ゆえに、下図における「渤海湾と黄河口の両北岸を結ぶ直線は邪めに曲がる体形」をあらわすゆえ【邪】、「産道を通過するフタコブラクダの頭・顔の形」は【馬】、「石島が所在する山東半島の東海岸」は「旦(たん・朝)・朝日(夏至の日の朝日)・出産」を意となる【壹】をあらわした。
だから、下図に示した「山東半島とその付け根となる北と南の海岸の地図の形」は「邪馬壹(やまい)」と名づけられた。
上図の「邪馬壹の体形」は、背中と頭の状況が――窮屈(きゅうくつ)で不自然な形となる。
ゆえに、「邪馬壹の体形」が「自然体となるイメージ図」を下図に示した。
前記したように――黄帝時代や夏代黎明期はじめその後の契文(甲骨文字)や金文および楷書なども倉頡の文字作成理論にもとづいて、【(1)夏の銀河各部の形状、(2)天頂緯度観測、(3)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究を結合させるイメージ】によって図案された。
だから、黄帝時代に作られた原初漢字・書契(しょけい)と夏代黎明期に作られた夏音文字で表示された地名もまた、【(1)夏の銀河各部の形状、(2)天頂緯度観測、(3)黄帝の女性生殖器と出産の医学研究のイメージ】が結合されて成立したことになる。
このような【倉頡の文字(地名)作成理論における、イメージを重視する方法】による「邪馬壹の自然体の形」を図示すると、下図のごとくなる。
上図に示したように、「産道を通過する、瘤(こぶ)が折れ曲がって背中が平となるフタコブラクダの子の様子をあらわす線は緯度線(東経38度線と東経36度線)と邪めとなる」ゆえ、【邪めの線】すなわち【邪】をあらわす。
「山東半島の地図の形」は「フタコブラクダの顔」に相似するゆえ、【馬】「フタコブラクダ」をあらわす。
そして、「夏至の日の朝(中国時間午前5時32分ころ、日本時間・午前6時32分ころ)、朝日が上る山東半島の東海岸」は、【壹】「旦(たん)・朝日・出産」をあらわした。
したがって、「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図の形」は「産道を通過するときのフタコブラクダの子の様子」と「朝日」をあらわすゆえ、「邪馬壹」と名づけられたことになる。
だから、上記したように、黄帝時代や夏代黎明期の人々は「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図」に変形を加えて「邪馬壹」と名づけていたと考えられる。
『魏志倭人伝』紹煕刊本に「邪馬壹国に至る、女王の都とする所なり」と記された「邪馬壹国」には、「緯度線と邪めになるフタコブラクダの出産児の姿を示す地図の形」が存在した。
だから、卑弥呼は「倭人国の首都所在地」の名を「邪馬壹国」と名づけたのである。
◆前記したように、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」と定めた。
このため、現在、【夏の銀河の各部の名称】は存在しない。
しかし、【倉頡の文字作成理論】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】が無いと非常に不便である。それゆえ、わたくしは下記のごとく【夏の銀河の各部の名称】を定めた。
上図における左上に「三つ輪の銀河」と「十字の銀河」がある。
下図に示すように、「三つ輪の銀河」の小さな無数の星々は円を描き、渦(うず)を巻き――この円と渦は重なりあって三つ輪となる。この「三つ輪の銀河の渦巻く無数の小さい星々」は「沙漠の砂粒(すなつぶ)のごとくキラキラ光る。だから、「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠・瀚海(かんかい)」と相似すると見立てられた。
「キラキラ輝く、三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠・瀚海」と見立てられ、その東となりの「キラキラ輝く、十字の銀河」は「瀚海に住む人々にとって大切な家畜、駱駝(らくだ・フタコブラクダ)」に見立てられて【馬】の字源となった。
「産道を通過する児(こ)の出産期」は3期に区分される。
(1)開口期(かいこうき)は「分娩(ぶんべん)の始まりから子宮口(しきゅうこう)がすっかり開くまでの、第1期」
(2)娩出期(べんしゅつき)は「子宮口がすっかり開いてから出産児の頭が膣口(ちつこう)から誕生し、母体の背側に向いて出産するまでの、第2期」
(3)後産後(こうざんき)は「誕生した出産児の附属物が娩出(べんしゅつ)されて、出産が完了するまでの、第3期」
上記した「開口期・第1期の終わりから娩出期・第2期の終わりまで」に、産道を通過する出産児の頭は時計回りに90度2回旋回し、反時計回りに90度2回旋回する。これゆえ、出産児の頭は絞(し)める螺子(ねじ)のごとく螺旋状(らせんじょう)に渦を巻いて、産道を通過する。
この「出産児の頭の4回の旋回(せんかい)」を、産婦人科では「回旋(かいせん)」と呼ぶ。
「開口期・出産第1期の終わり」において、アゴが胸につける屈位(くつい)の姿勢となった出産児の頭が骨盤入口(骨産道)に入りこむときは時計回りに90度旋回する。これを「第1回旋」と呼ぶ。
「娩出期・出産第2期に骨産道(こつさんどう・骨盤産道)を通過する出産児の頭」は第2回旋と第3回旋をする。この第2回旋と第3回旋における出産児の頭は、反時計回りに90度旋回する。
「娩出期・出産第2期の終わり」におこなわれる第4回旋における出産児の頭は、第1回旋と同じく時計回りに90度旋回する。
だから、上図の「瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられた「三つ輪の銀河の大きな円と小さい円を描き、小さく渦を巻く、その円と渦が重なる形状」は「産道を通過する出産児の4回の回旋」に相似する。
ゆえに、「【馬】「フタコブラクダ」と「瀚海・ゴビ沙漠」は、【倉頡の作成理論における基本原理】を示す【一】・【壹】の「産道。出産。旦(朝)、朝日(夏至の日の午前4時25分ころに東北の地平線から上る朝日)」をあらわすことになった。
これゆえ、【馬】は【一】・【壹】の「産道。出産。旦。朝日」を象徴する聖獣となり、「瀚海・ゴビ沙漠」は【一】・【壹】の「産道。出産。旦。朝日」をあらわすために欠くことができない要素となった。
『魏志倭人伝』は初頭部において、「対馬国(つしまこく)の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰(い)う。一大国(いちだいこく)に至る」と記述する。
「対馬国」は現在の長崎県北部の対馬である。一大国が現在の長崎県北部の壱岐(いき)である。
現在は対馬(対馬国)の南の海は「対馬海峡」と呼ばれている。
この「対馬海峡」について、『魏志倭人伝』は「瀚海・ゴビ沙漠と名づけられていた」と明記する。
「対馬国(対馬)と一大国(壱岐)の中間の海」は「ゴビ沙漠・瀚海」であるはずがない。
しかし、【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわすために、【馬】「フタコブラクダ」が生息する「瀚海・ゴビ沙漠」が必要であった。
だから、下図に示すように、【倉頡の文字作成原理】を説明する『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海」は「瀚海であった」と説明した。
言いかえると、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわすために、「今の対馬海峡」を「瀚海」と名づけのである。
下図に示す「長崎県北部の対馬の地宜(ちぎ・地図の形)」を、卑弥呼は【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。
「対馬国の上県(かみあがた)の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に見立てた。
「対馬国の下県(しもあがた)の地宜」を、卑弥呼は「ゴビ沙漠を歩くに都合(つごう)がよい、じょうぶな指を有する大きなフタコブラクダの足底と、ゴビ沙漠に残る足跡の形」に見立てた。
だから、「上県郡と下県郡の地宜」は「フタコブラクダの姿と足跡とが一対(いっつい)となる形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の【対】と【馬】が加わる「対馬国」と定めた。
◆下図に示すように、「壱岐(壹岐)の西海岸の地図の形」は【馬】の字源「南に顔を向けるフタコブラクダの顔と瘤(こぶ)の形」に相似する。
そして、「壱岐の大半の海岸線の地図の形」を、卑弥呼は【牛】の字源「ジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足」に相似すると見立てた。
ジャコウウシは、ツンドラ地帯のきびしい寒さに耐えられるように特性の防寒具で身をかためている。暗い褐色(かっしょく)の毛足(けあし)の長いコートはジャコウウシの足をおおいかぶさるように垂れる。ゆえに、「壱岐の大半の地図の形」は「足までとどく長い毛足のウール(毛糸)が全身をおおうジャコウウシの姿」に相似する。
『魏志倭人伝』には「倭地には牛・馬は無い(つまり、生息していない)」という記事がある。
上記したように、【牛】の字源は「ウシ」ではない。【牛】の字源は「ジャコウウシ」であった。
【馬】の字源は「ウマ」ではない。【馬】の字源は「フタコブラクダ」である。
『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論を説明する学術書】であった。
だから、『魏志倭人伝』は初っ端(しょっぱな・初頭部)から、【倉頡の文字作成理論の基本原理】を説明するために――日本列島地理と無関係の「瀚海(ゴビ沙漠)」と、日本列島に生息しない無関係の【馬】の字源「フタコブラクダ」と【牛】の字源「ジャコウウシ」が登場することになった。
上図に示したように、「一大国・壱岐の地図の形」は「大きなジャコウウシの全身と小さなフタコブラクダの顔と瘤の合体形」となる。
【牛】「ジャコウウシ」は【馬】「フタコブラクダ」と同様に、倉頡が作った【一】と“夏の始祖の”禹(う)が改めた【壹】の字義「産道。出産。旦。朝日」を象徴する聖獣(せいじゅう)であった。
その証拠に、上図に示したように一大国の地宜(地図の形)は「【壹】の字源となった【牛】と【馬】の姿に岐れる」を略して、後世において「壱岐(壹岐)」と呼ばれることになった。
◆下図に示したように、黄帝が生存した紀元前3000年頃、黄帝陵(北緯35度35分)の天頂緯度線は「十字の頭部の中央を、西から東へ貫通していた」。
ゆえに、倉頡は「十字の銀河の頭部」を【一】の字源と定めた。
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀(ごていほんぎ)の黄帝の歴史を説明する箇所には、「師兵(しへい)を以(も)って営衛(えいえい)と為(な)す」という記事がある。この記事は「黄帝の遠征軍は駐屯(ちゅうとん)するとき、軍兵たちは円陣を作って防衛した」と意味した。
【牛】の字源「ジャコウウシの群れ」は天敵のオオカミに襲撃されると、子どもを円陣(えんじん)の中央に配置し、背中を子どものほうに向け頭をオオカミの方に向いて円陣を作って防衛した。
だから、黄帝陵の天頂にめぐってきた【一】の字源となった「円形の十字の銀河の頭部」は「【牛】の字源・ジャコウウシの群れが天敵オオカミの襲撃にそなえる円陣」に見立てられた。
【一】の字源となった「円形の十字の銀河の頭部」は「女性の骨盤」に見立てられた。
「女性の生殖器(子宮・産道はじめ卵管や卵巣など)の大部分」は骨盤内にある。
したがって、「出産児が通過する産道の多く」は「骨産道(こつさんどう・骨盤の産道)」である。
上記したように「ジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると、円陣を作って子どもを真ん中に隠す」。
このような「ジャコウウシの習性」から「女性の骨盤」は「ジャコウウシの群れの円陣」に、「骨産道を通過する出産児の命」は「ジャコウウシの群れが作る円陣(骨盤)中央の産道(骨産道)に隠してまもる子どもたちの命」に見立てられた。
だから、【牛】の字源「ジャコウウシ」は倉頡が作った【一】と“夏の始祖の”禹(う)が作った【壹】の字義「産道。出産。旦。朝日」を象徴する聖獣となった。
下図に示すように、「十字の銀河」は【天】と【大】の字源となった。
卑弥呼が歴史上に最初に登場する西暦170年頃より50年前の120年頃に成立したとされる、後漢の文字学者であった許慎(きょしん)が著作した『説文解字(せつもんかいじ)』は、
【天】の字源を「至高(しこう)にして上なし。一大に従ふ」と解説する。
『説文解字』は古代の字源研究者たちに“字書の聖典(せいてん)”と呼ばれて尊重された。
ゆえに、『説文解字』の【天】の字源解説に登場する「一大に従ふ」の「一大」は【牛】の字源「ジャコウウシ」を意味した。
つまり、倉頡は【一】の字源「十字の銀河の頭部」を「子どもをまもってジャコウウシの群れが作る円陣」と「女性の骨盤」に見立てた。そして、「十字の銀河の頭部より下」は「【大】字形」である。
ゆえに、「ジャコウウシ」は【一】と【大】が結合して、「一大」と呼ばれることになった。
よって、「ジャコウウシ」は「一大」と呼ばれ、「産道。出産。旦。朝日」をあらわす【一】と【壹】の字源を象徴する聖獣となった。
以上のような「一大」の語源にもとづき、卑弥呼は「大半の地図の形がジャコウウシの姿に相似する壱岐の小国名」を【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわすために「一大国」と定めた。
◆上記した『説文解字』における【天】の「至高にして上なし」という解説は「それよりも上が存在しない最も高い天体部」と意味した。
下図は天頂(天頂点と天頂緯度線)についての説明図である。
天頂点(てんちょうてん)は観測地点における90度の高度、つまり「至高にして上なし」の「最も高い天体部」である。
天頂点と重なる銀河部位の軌道(きどう)は、天頂点に接近すると、下図の右上に示すように「天頂緯度線・天頂点・子午線(しごせん)」をあらわして、漢字【亠(とう)】の字源・字形・字義となった。
下図に示した銀河部位が天頂点の西隣(にしとなり)から東隣(ひがしとなり)へと移動する軌道は、平らな【一】の字を示す天頂緯度線となる。
この【一】の字源「天頂緯度線」を4秒~6秒間でキャッチする人(観測者)は、「1度の60分の1の1分以内の誤差内の精度(せいど)で緯度が測定(そくてい)できた。
また、その人(観測者)は【亠】がキャッチできたゆえ、東西(緯度)と南北(経度)をも精確(せいかく)に計測(けいそく)できた。
下に、上記した【亠】の字源・字形の解説図を配した。
原始以来、人類は1度の60分の1の1分の誤差内で測量できる天頂緯度をキャッチして位置(緯度)と方角(経度)を定めて生命を守り、種を保存して滅亡をふせいだ。
「天の北極の高度でも緯度に換算(かんさん)できる」が――この「天の北極の高度を緯度に換算する方法」だと1度の60分の1の精度では測定できず必ず1度(60分)や2度(120分)の誤差が生じたために、人類は種が保存できずに原始時代にて全滅したことになる。
したがって、黄帝時代や卑弥呼時代においては、「命を失う天の北極を基準にして緯度と方角(東西南北)」を定めていなかった――これは、否定できない事実であり、科学における真実である。
◆江戸時代中期に生存した新井白石(1657~1725年)は初め邪馬台国大和説を立論し、後年に邪馬台国九州説を立論した。白石以来今日までの学界は「卑弥呼時代では、天の北極で緯度と方角を定めていた」と思い込み・錯覚して、「天の北極」にもとづいて立論する邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説が即刻(そっこく)非科学的な空理空論にして迷信であることに気づいていない。
『魏志倭人伝』は、対馬国・一大国の次の「末盧国(まつろくに)」以下の記事における方位を「倭人国」の【倭】の字源にもとづいて説明している。
この【倭】の字源の「方位名」は――「(1)天頂緯度観測」と「(2)黄帝が研究した出産第1期と出産第4期における出産児の頭が時計回りに90度転回する回旋(かいせん)」とが結合されて構成された――【今の東・西・南・北と異なる、倉頡の文字作成理論にもとづく方位規定】であった。
ゆえに、「【倭】の字源に則(のっと)る方位規定」は、今の「天の北極を基本とする、東・西・南・北」と同一ではなく――末盧国における今の[北]は時計回りに90度転回して[東]となり、今の[東]は[南]、今の[南]は[西]、今の[西]は[北]と名づけられた(変位することになった)。
さらに、「末盧国より以下の全記事における方位」は【倭】の字源に則(のっと)って記されて、「天の北極を基準にする今の東・西・南・北」と相違していた。
『魏志倭人伝』の末盧国以下の記事における方位名はすべて【倉頡の文字作成理論】を伝える【倭】の字源「今の東・西・南・北を時計回りに90度転回させる方位規定」に則(のっと)っていた。
だからこそ、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論を科学的に説明する古書(史料)】であった。
以上のごとく、『魏志倭人伝』は初っ端(初頭部)から「対馬国」・「瀚海」・「一大国」・【馬】「フタコブラクダ」・【牛】「ジャコウウシ」を登場させ、
さらに次の末盧国以下の全方位記事は【倉頡の文字作成理論】によって成立した【倭】の字源「今の東・西・南・北を時計回りに90度転回・変位させる方位規定」に則(のっと)っている。
ゆえに、新井白石以後の学界の伝統とする「天の北極を基準する、今の東・西・南・北」に則って、【倉頡の文字作成理論にもとづく方位規定】を排除して思考する邪馬臺(台)国説はじめ様々な学者たちの意見は空理空論・空想・幻想であったことになる。
◆前記したように――「山東半島の石島の海岸線から渤海湾北端までの地宜」は「邪馬壹(邪馬壱)」と名づけられ、「邪馬臺(邪馬台)」とは呼ばれなかった。
というのも、下の右上に示すように――「廟島列島」と「石島・山東半島北端・黄河口北端・渤海湾」によって【台】と【臺】の字義「夕日」をあらわさず、【一】と【壹】の「朝日」だけをあらわすからである。
また、前ページに示した【馬】「フタコブラクダ」の解説図において、「フタコブラクダの顔となる、十字の銀河の胸部」は「旦・朝日をあらわす、三つ輪の銀河」がある東を向く。
だから、【馬】の字源銀河解説図における「三つ輪の銀河と十字の銀河」においても、【台】と【臺】の「夕日」は成立せず、【一】と【壹】の「朝日」だけが成立する。
上図に示したように、東経118度48分の経度線から少し西に外(はず)れる場所に、山東省の莒県陵陽河(きょけんりょうようが)の遺跡が所在する。
前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・41―1」にて解説したように――
莒県陵陽河の遺跡から、「灰陶尊(かいとうそん)」と呼ばれる酒器(しゅき)が出土した。
灰陶尊は、年代測定によって約5000年前(紀元前3000年頃)に作られたとされた。
ゆえに、灰陶尊は黄帝時代の黎明期(れいめいき)の遺物であった。だから、灰陶尊は黄帝が公孫軒轅(こうそんけんえん)と名乗っていた時代の遺物であったと考えられる。
灰陶尊の口縁部(こうえんぶ)の近くには、下図の右上に配する図書(ずしょ)がある。
この図書を、中国の学界では「漢字の原型」と考えている。
中国の学界では「灰陶尊にほどこされた図書」を【旦(たん)】をあらわしていると考える。
ゆえに、灰陶尊の図書は「幽(かす)かにうす暗い、日が出ずる【旦】(朝)の東の空が赤く染まる光景」を表現していたことになる。
ゆえに、「陵陽河の遺跡から出土した灰陶尊の図書」は「夏至の日の朝(午前5時32分ころ)、日照の海岸から目撃できる石島から日が出ずる【旦】の景色」を表現していたことになる。
前回のブログで解説したように――倉頡は「日が出ずる朝」を「産道。出産」に見立てて、【一】の字を作って「朝日。産道。出産児」をあらわすことにした。
というのも、「十か月の胎児期をすごして、産道を通過して無事に誕生する、一年十二カ月に満たない新生児の年齢」を、倉頡は「一才」と定めたからである。
だから、倉頡は【一】の字を作って、【一】は「朝日。産道。出産児」をあらわした。
夏代黎明期、“夏の始祖”の禹(う)は――「産道と子宮」を「【壺】の形」に象(かたど)り、豆(頭)を前にして産道(壺の上部)を進み、膣口(ちつこう)(壺の先端)から豆(頭)が誕生するまでの様子をあらわす、倉頡が作った【一】の字源・字義をあらわす【壹】の字を作った。
ゆえに、「石島から昇る朝日」は「産道・出産」をあらわして【一】・【壹】の字源・字形・字義となった。
このため、「観測地地点の日照の海岸」も【一】・【壹】をあらわすことになり、「日照と同緯度(北緯35度35分)の黄帝陵」もまた【一】・【壹】を表示することになった。
その証拠に、「黄帝陵」は「黄帝を祀(まつ)る廟(びょう)」である。
【廟】は【广(げん)】の右下に【朝】を加わる字である。
だから、【廟】の字は【一】・【壹】と同様に「旦。朝」をあらわした。
◆下図に示すように、「灰陶尊」は「人の横顔に酷似(こくじ)する銀河の形」に相似する。
下図における中央図「灰陶尊の側身形」は右図の「人の横顔に酷似する銀河の形」に相似する。ゆえに、「灰陶尊」は「人の横顔に酷似する銀河」に似せて造形された。
下図に示すように、「黄帝」が「公孫軒轅」と呼ばれていた今から約5000年前、夏至の日の朝(午前5時32分ころ)――【廟】の字源となった「人の横顔に酷似する銀河の中心軸」は西から約32度の西北西に位置した。
はくちょう座のγ星とβ星を結ぶ軸は西から約35度の西北西に位置した。
この「人の横顔に酷似する銀河」の東となりは「十字の銀河」であり、「人の横顔に酷似する銀河」の西となりは「こと座」である。
前述したように、「黄帝陵(北緯35度35分の)天頂緯度線」は「十字の銀河の頭部中央」を貫通していた。また、「人の横顔に酷似する銀河の頭髪の生(は)え際(ぎわ)にある、はくちょう座γ星」も、黄帝陵の天頂にめぐってきた。さらに、「こと座のβ星」も黄帝陵の天頂にめぐってきた。
「人の横顔に酷似する銀河の額(ひたい)にある、北天(ほくてん)の最輝部(さいきぶ)」は「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」である。
「こと座α星・ベガ」は「夏の夜空において、最も明るく、最も青白く輝く星」、つまり「夏の夜空の最輝星(さいきせい)」である。
「夏の夜空の最輝星を有する、こと座」は「夏至の日の強い陽射し」を連想するイメージとなった。
「月光にきらめく沙(すな)のようにキラキラ輝く壮麗な十字の銀河の身体部」は「赤く炎のようにキラキラ輝く」。ゆえに、「十字の銀河」から「空を赤く染める夏至の日の朝に地平線上に出現する朝日」が連想されることになった。
だから、上図に示したように、「こと座」と「十字の銀河」の中間にあって、「西から30度の西北西の地平線に没する、夏至の日の夕方の太陽」に呼応して――「その中心軸が西から約32度の西北西に位置する、人の横顔に酷似する銀河」は「夏至の日の朝、日照の海岸から目撃すると石島の海岸から出ずる日(東から30度の東北東の地平線から出ずる太陽)」と密接に関連するとされた。
だから、「人の横顔に酷似する銀河」は【廟】の字源となった。
わが国における古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は、【廟】の字について「广(げん)」と朝とに従う。もと朝礼を行なうところで、それがまた廟所であったが、のち祭政が分離して、宗廟の意とある」と解説する。
さらに、『字統』は【廟】の字について――『説文解字』は「先祖の貌(かほ)を尊ぶなり」と、貌と、畳韻をもって解する。『礼記(らいき)』祭法の注は「宗廟なるものは、先祖の尊貌(そんぼう)なり」というのと同じである――と指摘する。
つまり、上図に示したように、【廟】の字源は「夏至の日の朝、東から30度の東北東の地平線から出ずる太陽に呼応して、夏至の日の夕刻に太陽が没する西から30度の西北西の地平線近く(地平線から約8度の高度)に位置した、人の横顔に酷似する銀河」であったことになる。
その証拠に、上記した『説文解字』の【廟】の字源解説に合致して――「灰陶尊」は「人の横顔に酷似する銀河の形」に似せて造られた。ゆえに、【廟】は「人の横顔に酷似する銀河を観て、先祖の貌(かお)を尊ぶ祭場(さいじょう)」であったことになる。
下図に示すように、「人の横顔に酷似する銀河と西側の小さな星々」は「ジャコウウシの横顔と角(つの)」のイメージとなって、『礼記』祭法の注が「先祖の尊貌なり」と指摘する【廟】の字源になった。
◆司馬遷著『史記』五帝本紀における黄帝について説明する記事は、下記のごとくである。
「黄帝が軒轅と名乗っていたとき、神農氏(しんのうし)の子孫の世であったが、その権勢は衰え、諸侯(しょこう)はたがいに侵伐(しんばつ)しあい、多くの人民を苦しめいためつけていたが、神農氏はそれを征伐(せいばつ)することができなかった。そこで、軒轅は実戦の習練をして、天子に朝貢(ちょうこう)しない諸侯を征伐した。」
ゆえに、「灰陶尊」は「軒轅が神農氏に代わって天下を治めると決意し誓った黄帝陵(軒轅の丘)に廟を設置したときの、夏至の日の朝(午前5時32分ころ)に山東半島東端から出現する朝日を祭る酒器」であったことになる。
上記したように「灰陶尊」は「ジャコウウシの横顔に相似すると見立てられた、人の横顔に酷似する銀河」を造形する酒器(酒をいれる容器)であった。
【一】と【壹】の「出産。産道。旦。朝日」を象徴する聖獣の【牛】「ジャコウウシの子」は出産後1時間以内に、酔払(よっぱら)いの足取りのごとくふらふらとよろめきながらも4本の足を踏(ふ)ん張(ば)って立ち上がり歩き始める。
だから、「生後まもなく酔っ払いのごとく体をよろめきながら立ち上がる【牛】・ジャコウウシの子」は【尊】(灰陶尊)の「酒を入れる容器」をもって表現された。
下の右側に配した【尊】の契文と金文の字形にもとづくと――下の左図に示すように、灰陶尊の尖(と)がった底は「子宮」に相当する台(土台)に埋められ、【廾(きょう)】つまり「左右両側から支えるつっかい棒」にて垂直に立たされて、「生後1時間以内に酔っ払いのごとく体がよろめきながらもがんばって立ち上がって歩き始める【牛】・ジャコウウシの子」を表現するものであったことになる。
以上のごとく、軒轅は「神農氏に代わって天下を治めると立ち上がった誓い」を実現するために、――つまり「自(みずから)の状況」を「夏至の日の午前6時に出ずる朝日」と「生後1時間以内に歩き始めるジャコウウシの子」に喩(たと)える【廟】を設営した。
現在においても、黄帝陵は陝西省(せんせいしょう)の黄陵県(こうりょうけん)に所在する。
歴代の王朝はたえず黄帝に対して鄭重(ていちょう)な祭祀(さいし)をささげ、また中国の人々は自分たちの祖先は黄帝であると信じて疑わなかった。
黄帝陵は、黄帝を祭る廟と墓とされる。
したがって、黄帝の墓は若き黄帝(軒轅)が設営した廟でもあったことになる。
ゆえに、「黄帝陵」は「軒轅の丘」に設営されたと考えられる。
司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀において黄帝について説明する記事の末部に「軒轅の丘」が登場する。「軒轅の丘」の記事は、下記のごとくである。
「黄帝は軒轅の丘にいたとき、西陵(せいりょう)氏の女(むすめ)を娶(めと)った。この女性は黄帝の正妃(せいひ)となった。」
白川静著『字統』は――『説文解字』が【丘】の字を「土の高きものなり。人の為(つく)る所に非ざるなり。北に従ひ、一に従ふ。一は地なり。人の居は丘の南に在り、ゆえに北に従ふ。中邦の居は、崑崙(こんろん)の東南に在り。一に曰(いは)く、四方高く、中央下(ひく)きを丘と為(な)す。象形」と異例の長文をもって説くが、このうちに丘に対する古い観念が伝えられている。字形を北一に従うとするは誤りで、これは墳丘の形とみてよい。(中略)。丘は墳丘の象形である――と解説する。
要するに、『説文解字』は「軒轅の氏族たちが住む集落は【廟】が設営された丘の南の地所に所在した。この住居集落の北に【一】の「出産。産道」を意味する(つまり、一に従ふ)丘が所在した。軒轅氏族の住居集落は四方が高く、中央が低い丘になっていた」と説明していたことになる。
白川静著『字統』は【丘】の字源は「墳丘であった」と解説する。
「墳丘」は「墓(陵墓)」であるゆえ、「黄帝の墓となった場所」に軒轅は【廟】を設営したことになる。
だから、「廟と墓であった黄帝陵」は「軒轅の丘(の一画)」に設営されたにちがいない。
◆前記したように、下図の右上に示すように「夏至の日の朝(午前5時32分ころ)、日照の海岸から眺めると山東半島東南端の石島の海岸から日(太陽)が出現する光景」が目撃(もくげき)される。
このため、「石島と日照の両海岸」は【一】・【壹】・【廟】・「朝日」・「出産」・「産道」をあらわした。
また、「日照と同緯度の軒轅の丘」も【一】・【壹】・【廟】・「朝日」・「出産」・「産道」をあらわした。
下図が示すように、「石島の海岸」は「【一】・【壹】をあらわす明瞭(めいりょう)な目印」となった。
上図における左上の二つの矢印が示すように、「夏至の日の夕方、日照から日が没する方角(西から30度北の西北西)には、明瞭な目印となる地点が存在せず」、漠然(ばくぜん)として内陸をはるか遠くまで延々(えんえん)と何処(どこ)まで行っても目印が無き状況となる。
だから、上図の下部に示すように、「【一】・【壹】・「朝日」・「出産」・「産道」をあらわした日照」が「夕日」・【台】・【臺】・【莫(「漠然」の【漠】の最初の字)】・「子宮」・「胎児」をもあらわす目印となった。
このため、上図に記したように、「日照と同緯度(北緯35度35分の黄帝陵(軒轅の丘)」も「夕日」・【台】・【臺】・【莫】・「子宮」・「胎児」をあらわすことになった。
前のページで解説したように、倉頡は「子宮の正面形は産道をのせる台(だい)のような形をしており、またおおむね台形」であるので、【台】の字を作って「子宮。子宮で育つ胎児」をあらわした。
ゆえに、「日照と同緯度の黄帝陵」は倉頡が作った【台(子宮)】の字と、禹が作った【臺】の字をあらわすことになった。
「漠然」の【漠】の原字(最初の文字)の【莫(ぼう)】について『説文解字』は「莫、日まさに冥(く)れんとするなり」と解説する。つまり、【莫】は【暮】で同義「夕暮れ。夕日」を意味した。
そして、【莫】の下に【土】を加えると【墓】の字となり、【墓】は「没した人を土の中に埋葬した所」を意味することになった。
ゆえに、「黄帝陵」は「黄帝を祀る墓」であった。
下に、「二分二至(夏至・春分・秋分・冬至の日)における太陽の日周弧の図」を配した。
下図に示すように、「夏至の日の朝(中国時間・午前5時32分ころ、日本時間・午前6時32分ころ)、日(太陽)は東から30度の東北の地平線(水平線)から出現し、この東北の地点から南へ向かって進み(昇り)、正午には天頂の真南に位置する」。
前のページに配した「日照の海岸と黄帝陵が【夕】・【台】・【台】・【臺】・【莫】となる解説図」を、再度、下に配した。
下図の右上に示す「夏至の日の朝、山東半島東南端の石島から出現した日(太陽)が進む方角」は、上図に示したように【太陽が正午に位置する、天頂の南へ向かって進めなければならない】。
にもかかわらず、下図のごとく地図に【太陽が進む(昇る)状況を矢印】で示すと、下図の中央上に配した【地図の「北」を示す標識】が示すように、【太陽は南ではなく、北へ進む状況】を示す。
上図における「日出ずる太陽の南進(なんしん)が北進(ほくしん)に変ずる状況」を「不正(ふせい・不合理)」と考えた軒轅は「正義(正しい字義・合理)」を成立させために、「遠征」することにした。
ゆえに、【正】は「遠征」の【征】の原字である。
このため、【正】の契文形は「北へ歩(歩数)を進める足の形」となる。
つまり、軒轅は「地図上に示される石島の海上から昇る夏至の日の朝の太陽の方角の正義(合理)を成立させるために遠征」し――遠征後に、帝となって「黄帝(こうてい)」と号した。
司馬遷著『史記』五帝本紀に記される「黄帝軍の遠征経路における北限」は、下図の下部に示した「北緯36度11分の丸山(かんざん)と岱宗(たいそう)」であった。
「丸山」は「今の、山東省の膠州市(こうしゅうし)」であったと考えられる。
「岱宗」は、現在、「泰山(たいざん)」と呼ばれている。泰山は山東省の泰安市(たいあんし)に在る山で、標高1,545m。ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されている。
軒轅は丸山と泰山が所在する北緯36度11分より北の地域には遠征しなかった。
だから、およそ北緯38度の黄河口や山東半島北端、またおよそ北緯37度の石島は軒轅の【正】「正義(正しい字義)」が成立しない地域となる。
この結果、【正】「正義」が成立しない「黄河口・山東半島北端・石島」は、依然として「朝日。出産」をあらわす【一】・【壹】をあらわす地域となった。
◆前記したように、「黄帝陵」は「産道・出産」をあらわす【一】・【壹】・【朝】・【廟】の字源にして――また黄帝が没すると、「黄帝陵」は「子宮・着床」・「夕日」をあらわす【台】・【臺】の字源にもなった。
ゆえに、「黄帝陵」が「朝日」の【一】・【壹】と「夕日」の【台】・【臺】の両方をあらわすことによる混乱・混迷をふせぐために――後世において、下図の右下に示した黄帝陵の東方にある「洛陽」が「夕日。子宮」の【台】・【臺】だけをあらわすことになった。
上図に示した黄帝陵の東方にある伊河(いかわ・現在は別名となる)と洛河(らくがわ)の水は「北から南へ」流れる。
上図における洛陽の南方にある伊河と洛河の水は、黄帝陵の東方にある伊河と洛河の水の流れに反して「南から北へ」流れる。
ゆえに、【一】・【壹】の「産道。出産児」をもあらわす軒轅の丘(黄帝陵)よりも南にある「洛陽」が【台】・【臺】の「夕日。子宮。胎児」だけをあらわすことになった。
下の左図の【各(かく)】は「洛陽」の【洛】の原字(最初の文字)である。
「洛河」の原字の【各】は「南へ進む」を意とする。
【各】の契文形が示すように、【洛(らく)】の原字の【各】は「正午の太陽が位置する南へ向かって歩(足の爪先)が進む様子」をあらわした。
そして、「遠征」の【征】の原字の【正】は「深夜の午前0時に太陽が位置する北へ向かって歩を進める様子」をあらわした。
前ページで地図上に示したように、「日照の海岸より北の石島から日が出ずる景色」は「太陽が正午に位置する南に進む状況」を示さず、「太陽が北へ進む状況」を示して不正(不合理)となる。
このため、軒轅は正義(正しい義、つまり合理)が成立させるために「北緯35度35分の軒轅の丘(黄帝陵)」より「北」となる「北緯36度11分の丸山(膠州市)・岱宗(泰山)」まで遠征することにした。
『説文解字』は、【正】の字について「止に従ふ。一を以(もっ)て止まる」と解説する。
ゆえに、【正】は【一】の下に【止】が加わる字ということになる。
だから、【一】の下に【止】の字が組み合わさる【正】の字は「軒轅は遠征経路(【一】)の北限を北緯36度11分の丸山・岱宗までで止めた(【止】)」とあらわしていたことになる。
これゆえ、軒轅は「北緯36度11分の丸山・岱宗より以北の地域」には遠征しなかった。
つまり、夏至の日の朝に空が赤く染まる景色はやがて空が青白くなって消滅する。
だから、「朝焼けの消滅時間」を「北緯36度11分の丸山・岱宗」に見立てた軒轅は、丸山・岱宗より北の地には遠征しなかったと考えられる。
上の右側に配する【足】の契文は【正】の180度反転した形となる。
『説文解字』は【足】の字を「人の足なり」と解説する。
白川静著『字統』は、【足】の字について――卜辞では「帝は雨を正(た)らしめんか」「帝は雨を正(た)らしめ、年(みなり)あらしめんか」などと、みな「足(た)る」の意である――と解説する。
この卜辞(易卜の辞)は「帝は河川が洪水・氾濫(はんらん)しないように治水工事をおこなって、穀物の実りが豊かにして食料が足りる状況にする」と意味した。
つまり、禹が治水工事に成功して以来、中国では「多くの帝が伝統的に治水工事に努力するようになった」のであろう。
以上のような非常に複雑でこみいった【一】・【壹】と【台】・【臺】の字源・字形・字義の秘密を、『魏志倭人伝』を著作した晋(しん)の歴史編纂官の陳寿(ちんじゅ)は知っていたと考えられる。
だから、陳寿は「倭人国の首都が所在する地所の名」を「邪馬壱国」と記したにちがいない。
そして、陳寿は『魏志倭人伝』の末尾に「魏都・洛陽」を【臺】と記した。
陳寿は、【一】・【壹】は「朝日」・「産道」を意とする、【台】・【臺】は「夕日」・「子宮」を意とする――この相違について知っていたゆえ、「魏都・洛陽」を【臺】と記したにちがいない。
最近のコメント