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<title>卑弥呼の逆襲</title>
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<description>３世紀の遺跡でおこなう『魏志倭人伝』論
と髙尾山古墳を考える</description>
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<item rdf:about="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/07/post-3e07cd.html">
<title>漢字の起源と発明を解明す・41ー２</title>
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<description>卑弥呼が倭国の都とした地は邪馬壱国であって邪馬台国ではなかった(２)◆このブログ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>卑弥呼が倭国の都とした地は邪馬壱国であって邪馬台国ではなかった<span>(</span>２<span>)<br /><br /></span>◆このブログが前回まで詳細に解説して証明したように――今から約<span>5000</span>年前<span>(</span>紀元前<span>3000</span>年頃<span>)</span>の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝<span>(</span>こうてい<span>)</span>につかえた史官<span>(</span>記録官<span>)</span>の倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は、【夏の銀河各部の形状を図案して文字をつくる理論】を発明した。<span><br /></span>よって、漢字は【夏の銀河】と呼ばれる【夏にもっとも長時間見ることができる銀河】から作られて起源した。<span><br /></span>「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」と呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。<span><br /></span>「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。<span><br /></span>下に、【夏も銀河のカラー写真】を配した。この写真は、<span>PIXTA(</span>ピクスタ<span>)</span>が撮影した。<span><br /></span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/ginga_kara1_20250707143901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Ginga_kara1_20250707143901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/ginga_kara1_20250707143901.jpg" alt="Ginga_kara1_20250707143901" width="299" height="450" border="0" /></a> </p>
<p><br />◆３世紀末に著作された『三国志』における魏書東夷伝<span>(</span>ぎしょとういでん<span>)</span>末尾の倭人伝<span>(</span>わじんでん<span>)</span>は、通称『魏志倭人伝<span>(</span>ぎしわじんでん<span>)</span>』とよばれる。<span><br /></span>３世紀末に著作された『魏志倭人伝』の原書は残っていない。<span><br /></span>『魏志倭人伝』は<span>12</span>世紀末に作られた紹煕刊本<span>(</span>しょうきかんぽん<span>)</span>として残っている。<span><br /></span>今日、『魏志倭人伝』は【女王・卑弥呼が居住した、倭人国の首都が所在した邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国について主に説明する史料】として解されている。<span><br /></span>しかし、前回までこのブログが詳細に解説して証明したように――『魏志倭人伝』は【主として倉頡の文字作成理論と、文字作成に関する五帝時代初頭の黄帝時代の黄帝と夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき<span>)</span>の鯀<span>(</span>こん<span>)</span>・禹<span>(</span>う<span>)</span>・益<span>(</span>えき<span>)</span>に関する歴史について科学的に明確に伝える史料】であった。<span><br /><br /></span>上記したように、『魏志倭人伝』は【主として倉頡の文字作成理論】について説明する史料であった。これゆえ、下図に示すように『魏志倭人伝』紹煕刊本は「投馬国<span>(</span>とうまこく<span>)</span>より南、邪馬壹国<span>(</span>やまいこく<span>)</span>に至る、女王の都とする所なり」と明記する。<span><br /></span>下図は、石原道博編訳者『新訂魏志倭人伝他三篇　中国正史日本伝<span>(</span>１<span>)</span>』<span>(</span>岩波書店発行<span>)</span>の<span>107</span>ページの紹煕刊本の記事を転載した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000169_20250707144101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000169_20250707144101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000169_20250707144101.jpg" alt="0000169_20250707144101" width="299" height="407" border="0" /></a> <br /><br /></span>江戸中期に生存した新井白石<span>(1657</span>～<span>1725</span>年<span>)</span>は「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国」を「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国」と読み、最初に「邪馬臺国は大和に所在した」と説き、後に「邪馬臺国は九州に存在した」と主張した。<span><br /></span>このため、白石以来今日まで大半の学者はじめ学界は「倭女王・卑弥呼が都とした地は邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国であった」と主張する。<span><br /></span>しかし、「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国が正しい」という先入観を排除<span>(</span>はいじょ<span>)</span>して『魏志倭人伝』全記事を科学的に慎重<span>(</span>しんちょう<span>)</span>に思考すると――「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国」が正しく、「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国」という意見は科学に反する誤読・臆説<span>(</span>おくせつ<span>)</span>であった事実が証明される。<span><br /></span>前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>41</span>―１」では、全記事の３分の１を用いて、白石以来の邪馬臺国大和説<span>(</span>畿内説<span>)</span>と邪馬臺国九州説は「科学的視点に欠ける、誤読の空想・空理空論・臆説<span>(</span>おくせつ<span>)</span>であった理由・根拠」について簡単に説明した。<span><br /><br /></span>従来の学者たちの意見・論考に疑問を抱き、『魏志倭人伝』紹煕刊本を科学的観点にもとづいて思考すると――『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】について下に記す３種の事柄を説明していたことになる。<span><br /></span>しかし〔『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論】について科学的に明確に伝える史料〕であることにまったく気づかない学界は下記の３種の説明は誤っていると、下記のごとく否定する。<span><br /></span>【１】『魏志倭人伝』紹煕刊本は「わが国には<span>2</span>世紀末から３世紀中半において漢字知識があった」と記述するが、「わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀である」ゆえ、この記述は誤っている<span><br /></span>【２】『魏志倭人伝』紹煕刊本における九州の末盧国<span>(</span>まつろこく<span>)</span>以下の【方位を示す記事】は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、実際の日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びてない。だから、邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』の「日本列島の【東】は【南】に伸びていると説明する転回日本列島地理は事実を伝えるものではない」と主張する<span><br /></span>【３】前記したように、『魏志倭人伝』紹煕刊本は、女王卑弥呼の王国名を「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国」と記す。しかし、現在における大多数の学者たちは「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国こそが正しい」と主張する<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』紹煕刊本における上記の３種の記事はすべて正しかった。<span><br /></span>このブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>39</span>」では「わが国は、紀元前<span>2000</span>年頃の後期縄文時代初頭<span>(</span>中国の夏代黎明期<span>)</span>に、漢字<span>(</span>夏音文字<span>)</span>を習得した事実」を詳細に解説して証明した。<span><br /></span>ゆえに、上記した【１】の『魏志倭人伝』の説明は正しかった。<span><br /></span>したがって、わが国は後期縄文時代初頭<span>(</span>中国の夏代黎明期<span>)</span>に夏音文字を習得していた。<span><br /></span>ゆえに、【倉頡の文字作成理論と、文字作成に関する黄帝時代と夏代黎明期の歴史知識】は後期縄文時代初頭<span>(</span>夏代黎明期<span>)</span>以来、【学術】となってわが国に存在することになり、『魏志倭人伝』に詳細に説明されることとなったのである。<span><br /></span>このブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>40</span>―１と<span>40</span>―２」では――【２】は卑弥呼が立論した錯覚の転回日本列島地理であった。この転回日本列島地理について『魏志倭人伝』が説明していたことを詳細に解説して証明した。<span><br /></span>この錯覚の転回日本列島地理によって、倭国の大乱が鎮<span>(</span>しず<span>)</span>まった。ゆえに、卑弥呼は倭女王に選ばれ、「倭人国」という名の国家が創設された。よって、この錯覚の転回日本列島地図は卑弥呼王朝が制定する正式の地図となった。<span><br /></span>というのも、【卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地図】は【倉頡の文字作成理論と、文字作成に関する五帝時代初頭の黄帝時代と夏代黎明期の歴史】にもとづいて立論されていたからである。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』が説明する九州以下の本州が【東】ではなく【南】へ伸びる転回日本列島地図を「事実を伝えるものではない」と否定する――学者たちの主張は、【１】同様に【２】についても事実に反して誤っていたことになる。<span><br /></span>【３】前記したように、『魏志倭人伝』紹煕刊本は「邪馬壹国に至る、女王の都とする所なり」と記す。<span><br /></span>前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>41</span>―１」では――倭人国の首都所在地の名は「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国」ではなく、『魏志倭人伝』紹煕刊本に記されたとおり「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国」であったと証明した。<span><br /><br /></span>◆上記した『魏志倭人伝』紹煕刊本に記述された【１】【２】【３】の３点の事柄は――学界、あるいは考古学界における定説に反する記事・説明」である。<span><br /></span>この３点の記事が原因となって、学者たちは「軽々しく『魏志倭人伝』の記事や説明を信用してはならない。というのも、『魏志倭人伝』には幾つかの誤記が存在するからである」と主張する。<span><br /></span>上記したように、【１】【２】【３】の説明は「事実を伝えている」と科学的に証明することができる。<span><br /></span>ゆえに、纏向遺跡<span>(</span>まきむくいせき<span>)</span>にもとづく邪馬臺国畿内説と吉野ヶ里遺跡を理由とする邪馬臺国九州説をはじめすべての邪馬臺国説は空想・空理空論であったことになる。<span><br /><br /></span>上記したように、わが国は――紀元前<span>2000</span>年頃の後期縄文時代初頭<span>(</span>中国の夏代黎明期<span>)</span>に、夏音文字を習得した。<span><br /></span>この事実は『魏志倭人伝』はじめ中国の正史『新唐書<span>(</span>しんとうじょ<span>)</span>』日本伝にて説明され、『日本書紀』神功天皇紀初頭においても説明されている。<span><br /></span>また、「わが国は後期縄文時代初頭に夏音文字を習得した事実」は言語学・音韻学の研究成果によっても科学的に事実であると証明される。<span><br /></span>したがて、今日の「わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀あるいは６世紀である」と学界が主張する定説は根本的に誤っていた。<span><br /></span>その証拠に――夏音文字は『魏志倭人伝』はじめ、『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘がついて多数残っている。また、『万葉集』において「万葉仮名」とよばれる文字となって多数残る。<span><br /></span>〔注　ただし夏音文字の字形では残らず、夏音文字は楷書を音符・意符に用いて残る。〕<span><br /><br /></span>◆上記したように、今から約<span>5000</span>年前の五帝時代初頭に生存した倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。<span><br /></span>倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。<span><br /></span>ゆえに、下記に示す【３つの掟<span>(</span>おきて<span>)</span>】を倉頡は定めた。<span><br /></span>【倉頡が死刑と定めた３つの掟】<span><br /></span>Ⅰ　文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする<span><br /></span>Ⅱ　文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名<span>(</span>名称<span>)</span>をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする<span><br /></span>Ⅲ　書いた文字が用済<span>(</span>ようず<span>)</span>みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪<span>(</span>たいざい<span>)</span>を犯したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする<span><br /><br /></span>上記したように、倉頡は、Ⅲ「文字を書いた後で用済みになっても消さない者、消し忘れた者はもちろんその家族および一族全員を死刑にする」と厳<span>(</span>きび<span>)</span>しい掟を定めた。<span><br /></span>この掟だと文字作成理論や倉頡が作った字を後世の人々が知ることができない。<span><br /></span>後世に倉頡が発明した文字作成理論を伝え、この文字作成理論にもとづいて多数の漢字が作られるようにするために――「名<span>(</span>な<span>)</span>」、つまり「地名はじめ様々な事物の名称など」を文字であらわして後世に残すことを――倉頡は許可した。<span><br /></span>そして、倉頡は――地名は地宜<span>(</span>ちぎ・平面的に図化した地図の形<span>)</span>にもとづいて作成されたために、地図<span>(</span>地宜<span>)</span>は王朝が独占管理して絶対に世間に知られないように厳重な機密と定めた。<span><br /></span>このため、「倉頡の文字作成理論はじめ黄帝時代や夏代黎明期の歴史を伝える地名」は【学】の字<span>(</span>字源・字義<span>)</span>となり、中国やわが国の「学問の始まり・学術の基盤」となった。<span><br /></span>そして、１世紀末の後漢時代に作られた楷書もまた、基本的に倉頡の文字作成理論に従って夏の銀河各部の形状から作られた――ゆえに、倉頡文字はじめ五帝時代に出現した文字<span>(</span>書契・しょけい<span>)</span>と夏代黎明期に作られた夏音文字は後世に作られた楷書の字源となって残った。だから、『魏志倭人伝』に楷書で記された対馬国<span>(</span>つしまこく<span>)</span>から黒歯国<span>(</span>こくしこく<span>)</span>までの<span>34</span>の小国名は【倉頡の文字作成理論はじめ黄帝時代や夏代黎明期の歴史】を解説する役割を有することになった。<span><br /></span>五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は出土史料が発見されていない。<span><br /></span>しかし、上記したように――五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は『魏志倭人伝』に記される楷書を音符・意符に用いる<span>34</span>の小国名で残った。この<span>34</span>の小国名に用いられた楷書の字源・原義が歴史<span>(</span>史実<span>)</span>を伝えることになったため、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論を具体的に詳細に科学的に解明できる最高・最良の書物】となった。<span><br /><br /></span>◆現在の学者たちは、「中国で最初に文字を作ったと伝える倉頡伝説は荒唐無稽<span>(</span>こうとうむけい<span>)</span>の作り話である」と断定する。<span><br /></span>しかし、『魏志倭人伝』紹煕刊本に楷書で記された対馬国から黒歯国までの<span>34</span>の小国名によって、倉頡伝説は事実を伝えていたと科学的に証明される。<span><br /></span>だから、「倉頡伝説は荒唐無稽の作り話」という学説は空想、憶説<span>(</span>おくせつ<span>)</span>であった。<span><br /><br /></span>倉頡がつかえた黄帝は〔女性の生殖器官と出産〕を研究した。<span><br /></span>倉頡は〔黄帝の女性の生殖器官と出産の研究〕をも、【文字作成理論】に加えた。<span><br /></span>さらに、倉頡は〔天頂緯度線の測量〕をも、【文字作成理論】に加えた。<span><br /></span>したがって、【倉頡が発明した文字作成理論】は<span><br /></span>〔１〕　夏の銀河各部の形状<span><br /></span>〔２〕　黄帝の女性の生殖器官と出産の研究<span><br /></span>〔３〕　天頂緯度線の測量<span><br /></span>上記の３つの事柄が結合<span>(</span>けつごう<span>)</span>して造形<span>(</span>図化<span>)</span>された。<span><br /></span>ゆえに、〔倉頡が後世に残すことを許可した名<span>(</span>地名はじめ事物の名など<span>)</span>〕はじめ――また『魏志倭人伝』に楷書で記された対馬国から黒歯国までの<span>34</span>の小国名は、上記した〔１〕〔２〕〔３〕の３つの事柄が結合して成立していた。<span><br /><br /></span>◆下に「黄帝が研究した、女性の生殖器官の正面形の上下を反転した図」を配した。<span><br /></span>下の左図に示すように、「台形に相似する形の子宮」は「産道をのせる台<span>(</span>だい<span>)</span>」に観<span>(</span>み<span>)</span>える。<span><br /></span>ゆえに、倉頡は「子宮。胎児期。胎児」を【台】の字<span>(</span>字源・字形・字義<span>)</span>と定めた。<span><br /></span>「子宮で育つ児<span>(</span>こ<span>)</span>」は、今日、「胎児<span>(</span>たいじ<span>)</span>」と呼ぶ。<span><br /></span>「胎児」の【胎】は【肉偏<span>(</span>月<span>)</span>】に【台】を加えた字である。<span><br /></span>だから、【胎】の原字<span>(</span>最初の文字<span>)</span>は【台】であった。<span><br /></span>そして、倉頡は「産道。出産期。出産児」を【一】の字<span>(</span>字源・字形・字義<span>)</span>と定めた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000318_20250707144201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000318_20250707144201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000318_20250707144201.jpg" alt="0000318_20250707144201" width="300" height="230" border="0" /></a> </span></p>
<p>最終月経第一日から約十ヵ月後の出産が最も多い。<span><br /></span>ゆえに、「最終月経より出産が最も多い約十カ月の児の年齢」を、倉頡は「一才」と定めた。<span><br /></span>〔現在は、後産期に生きている出産児の年齢を０才とする〕。<span><br /></span>倉頡は「産道を通過できずに死亡する児」の年齢を「一才」と数えないことにした。<span><br /></span>だから、倉頡は「産道・出産期・出産児」を【一】の字源・字形・字義とした。<span><br /><br /></span>◆前記したように、『魏志倭人伝』は前半部にて「邪馬壹国、女王の都とする所なり」と記述する。<span><br /></span>そして、『魏志倭人伝』は末部で「壹与<span>(</span>いよ<span>)</span>は倭の使節の率善中郎将の掖邪狗等二十人たちを派遣した。倭の使節の掖邪狗たちが魏の出張機関政庁が所在する韓国の帯方郡<span>(</span>たいほうぐん<span>)</span>に到着すると、<span>(247</span>年・魏の正始<span>8</span>年<span>)</span>に張政等が帯方郡の大守<span>(</span>たいしゅ<span>)</span>に就任した魏都の洛陽<span>(</span>らくよう<span>)</span>へ送り還<span>(</span>かえ<span>)</span>らせることになった。よって倭の使節の掖邪狗一行は臺<span>(</span>魏都・洛陽<span>)</span>に詣<span>(</span>いた<span>)</span>る」と説明する。<span><br /><br /></span>倉頡が作った【一】の字を、“夏王朝の始祖<span>(</span>しそ<span>)</span>”とされる禹<span>(</span>う<span>)</span>は【壹】の字形に改めた。<span><br /></span>ゆえに、上記した「倭女王・卑弥呼が都と定めた邪馬壹国」という記事における「邪馬壹国」の【壹】は、倉頡が作った【一】と同じく「産道。出産期。出産」を意味した。<span><br /></span>また、倉頡が作った【台】「子宮。胎児期。胎児」の字を、“夏の始祖”の禹は【臺】と改めた。<span><br /></span>これゆえ、上記した『魏志倭人伝』の「因りて臺に詣<span>(</span>いた<span>)</span>る」という記事の【臺】は、倉頡が作った【台】「子宮。胎児期。胎児」と同義であった。<span><br /></span>そして、上記した『魏志倭人伝』の末部にある「因りて臺に詣る」という記事の【臺】は「魏の都の洛陽<span>(</span>らくよう<span>)</span>」を指しているゆえ、「洛陽」という地名は「子宮。胎児期。胎児」を意味したことになる。<span><br /><br /></span>そして、倉頡は【一】の「無事に産道を通過して、この世に誕生することになった出産児」から「旦<span>(</span>朝日<span>)</span>。朝<span>(</span>夏至の日の朝日が刺す光景<span>)</span>」が連想されるということで――【一】は「旦。朝。朝日」をもあらわすと定めた。ゆえに、【壹】も「旦。朝。朝日」をあらわすことになった。<span><br /></span>そして、「母親の卵<span>(</span>らん<span>)</span>と父親の精子<span>(</span>せいし<span>)</span>が結合する受胎組織<span>(</span>じゅたいそしき<span>)</span>が子宮内に至り、そして受胎組織が子宮の側壁に結合する、その着床<span>(</span>ちゃくしょう<span>)</span>のイメージ」を、倉頡は「夏至の日に太陽が没して地平線下<span>(</span>地中<span>)</span>に至る夕方の様子」に似ていると見立てて、【台】の字は「夕日。夕<span>(</span>地平線下に没する夏至の日の夕日が照る光景<span>)</span>」をあらわすと定めた。<span><br /></span>ゆえに、【台】と【臺】の字は「夕日。夕日の光景」をあらわすことになった。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』末部に「臺」と記された「洛陽」という地名は「夕。夕日」をあらわした。<span><br /><br /></span>以上のごとく、【一】と【壹】の字は「産道。出産児。朝。朝日」をあらわした。<span><br /></span>そして、【台】と【臺】の字は「子宮。胎児。夕。夕日」をあらわした。<span><br /></span>だから、「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国は産道・出産のイメージをあらわす地図の形を有する国」、新井白石以後に多数の学者たちが主張する「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国は子宮・胎児のイメージをあらわす地図の形を有する国」でなければならないことになる。<span><br /><br /></span>◆前回のブログでも指摘したように――下図の左上に示す「渤海湾<span>(</span>ぼっかいわん<span>)</span>の西海岸・黄河口<span>(</span>こうがこう<span>)</span>の北海岸・莱州湾<span>(</span>らいしゅうわん<span>)</span>の東海岸を結ぶ、太い直線」は、【邪<span>(</span>なな<span>)</span>めの線】となる。<span><br /></span>この【邪めの線】は「産道を通過して出産する【馬】・フタコブラクダの子の姿」をあらわした。<span><br /></span>というのも、下図の左上に「折れ曲がる瘤<span>(</span>こぶ<span>)</span>」と記したように――「産道を通過して出産するときの【馬】・フタコブラクダの子の瘤」は「親のフタコブラクダのごとく山なりに隆起せず、背中から薄い板のごとくなって折れ曲がる」からである。<span><br /></span>ゆえに、産道を通過するときのフタコブラクダの子の背中は平らとなる。<span><br /></span>つまり、「出産するフタコブラクダの子の瘤は産道に突っかかって通過の邪魔<span>(</span>じゃま<span>)</span>にならないよう折れ曲がり、産道の通過が円滑<span>(</span>えんかつ・スムース<span>)</span>になるように背中が平らとなる」。<span><br /></span>だから、下図における「山東半島」は「出産するフタコブラクダの子の頭・顔の形」に、「莱州湾」は「出産するフタコブラクダの子の後頭部の形」に、「渤海湾と黄河口の両北岸を結ぶ直線」は「産道を通過するフタコブラクダの子の瘤が折れ曲がって平らとなる背の形」になるので――「産道を通過する、瘤<span>(</span>こぶ<span>)</span>が折れ曲がって背中が平らとなる【馬】・フタコブラクダの子の体形」は「邪めに曲がる形状」となる。<span><br /></span>なお、「山東半島東端の石島から青島<span>(</span>ちんたお<span>)</span>までの地図の形」もまた「【馬】・フタコブラクダのアゴ・首の形」に酷似する。<span><br /></span>そして、下図の下部に示したように、日照の海岸と山東半島の東端にある石島の海岸を結ぶと東北に向かって<span>30</span>度となるから――「東北<span>30</span>度の地平線から上る夏至の日の朝日」をあらわす。<span><br /></span>ゆえに、下図における「渤海湾と黄河口の両北岸を結ぶ直線は邪めに曲がる体形」をあらわすゆえ【邪】、「産道を通過するフタコブラクダの頭・顔の形」は【馬】、「石島が所在する山東半島の東海岸」は「旦<span>(</span>たん・朝<span>)</span>・朝日<span>(</span>夏至の日の朝日<span>)</span>・出産」を意となる【壹】をあらわした。<span><br /></span>だから、下図に示した「山東半島とその付け根となる北と南の海岸の地図の形」は「邪馬壹<span>(</span>やまい<span>)</span>」と名づけられた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000322_20250707144301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000322_20250707144301" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000322_20250707144301.jpg" alt="0000322_20250707144301" width="299" height="320" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図の「邪馬壹の体形」は、背中と頭の状況が――窮屈<span>(</span>きゅうくつ<span>)</span>で不自然な形となる。<span><br /></span>ゆえに、「邪馬壹の体形」が「自然体となるイメージ図」を下図に示した。<span><br /></span>前記したように――黄帝時代や夏代黎明期はじめその後の契文<span>(</span>甲骨文字<span>)</span>や金文および楷書なども倉頡の文字作成理論にもとづいて、【<span>(</span>１<span>)</span>夏の銀河各部の形状、<span>(</span>２<span>)</span>天頂緯度観測、<span>(</span>３<span>)</span>黄帝の女性生殖器と出産の医学研究を結合させるイメージ】によって図案された。<span><br /></span>だから、黄帝時代に作られた原初漢字・書契<span>(</span>しょけい<span>)</span>と夏代黎明期に作られた夏音文字で表示された地名もまた、【<span>(</span>１<span>)</span>夏の銀河各部の形状、<span>(</span>２<span>)</span>天頂緯度観測、<span>(</span>３<span>)</span>黄帝の女性生殖器と出産の医学研究のイメージ】が結合されて成立したことになる。<span><br /></span>このような【倉頡の文字<span>(</span>地名<span>)</span>作成理論における、イメージを重視する方法】による「邪馬壹の自然体の形」を図示すると、下図のごとくなる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000323_20250707144401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000323_20250707144401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000323_20250707144401.jpg" alt="0000323_20250707144401" width="300" height="277" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図に示したように、「産道を通過する、瘤<span>(</span>こぶ<span>)</span>が折れ曲がって背中が平となるフタコブラクダの子の様子をあらわす線は緯度線<span>(</span>東経<span>38</span>度線と東経<span>36</span>度線<span>)</span>と邪めとなる」ゆえ、【邪めの線】すなわち【邪】をあらわす。<span><br /></span>「山東半島の地図の形」は「フタコブラクダの顔」に相似するゆえ、【馬】「フタコブラクダ」をあらわす。<span><br /></span>そして、「夏至の日の朝<span>(</span>中国時間午前<span>5</span>時<span>32</span>分ころ、日本時間・午前<span>6</span>時<span>32</span>分ころ<span>)</span>、朝日が上る山東半島の東海岸」は、【壹】「旦<span>(</span>たん<span>)</span>・朝日・出産」をあらわした。<span><br /></span>したがって、「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図の形」は「産道を通過するときのフタコブラクダの子の様子」と「朝日」をあらわすゆえ、「邪馬壹」と名づけられたことになる。<span><br /></span>だから、上記したように、黄帝時代や夏代黎明期の人々は「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図」に変形を加えて「邪馬壹」と名づけていたと考えられる。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』紹煕刊本に「邪馬壹国に至る、女王の都とする所なり」と記された「邪馬壹国」には、「緯度線と邪めになるフタコブラクダの出産児の姿を示す地図の形」が存在した。<span><br /></span>だから、卑弥呼は「倭人国の首都所在地」の名を「邪馬壹国」と名づけたのである。<span><br /><br /></span>◆前記したように、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」と定めた。<span><br /></span>このため、現在、【夏の銀河の各部の名称】は存在しない。<span><br /></span>しかし、【倉頡の文字作成理論】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】が無いと非常に不便である。それゆえ、わたくしは下記のごとく【夏の銀河の各部の名称】を定めた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00003_20250707144501.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00003_20250707144501" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00003_20250707144501.jpg" alt="00003_20250707144501" width="299" height="433" border="0" /></a> <br /></span>上図における左上に「三つ輪の銀河」と「十字の銀河」がある。<span><br /></span>下図に示すように、「三つ輪の銀河」の小さな無数の星々は円を描き、渦<span>(</span>うず<span>)</span>を巻き――この円と渦は重なりあって三つ輪となる。この「三つ輪の銀河の渦巻く無数の小さい星々」は「沙漠の砂粒<span>(</span>すなつぶ<span>)</span>のごとくキラキラ光る。だから、「三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠・瀚海<span>(</span>かんかい<span>)</span>」と相似すると見立てられた。<span><br /></span>「キラキラ輝く、三つ輪の銀河」は「ゴビ沙漠・瀚海」と見立てられ、その東となりの「キラキラ輝く、十字の銀河」は「瀚海に住む人々にとって大切な家畜、駱駝<span>(</span>らくだ・フタコブラクダ<span>)</span>」に見立てられて【馬】の字源となった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000014_20250707144601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000014_20250707144601" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000014_20250707144601.jpg" alt="000014_20250707144601" width="299" height="303" border="0" /></a> <br /></span>「産道を通過する児<span>(</span>こ<span>)</span>の出産期」は３期に区分される。<span><br />(</span>１<span>)</span>開口期<span>(</span>かいこうき<span>)</span>は「分娩<span>(</span>ぶんべん<span>)</span>の始まりから子宮口<span>(</span>しきゅうこう<span>)</span>がすっかり開くまでの、第１期」<span><br />(</span>２<span>)</span>娩出期<span>(</span>べんしゅつき<span>)</span>は「子宮口がすっかり開いてから出産児の頭が膣口<span>(</span>ちつこう<span>)</span>から誕生し、母体の背側に向いて出産するまでの、第２期」<span><br />(</span>３<span>)</span>後産後<span>(</span>こうざんき<span>)</span>は「誕生した出産児の附属物が娩出<span>(</span>べんしゅつ<span>)</span>されて、出産が完了するまでの、第３期」<span><br /><br /></span>上記した「開口期・第１期の終わりから娩出期・第２期の終わりまで」に、産道を通過する出産児の頭は時計回りに<span>90</span>度２回旋回し、反時計回りに<span>90</span>度２回旋回する。これゆえ、出産児の頭は絞<span>(</span>し<span>)</span>める螺子<span>(</span>ねじ<span>)</span>のごとく螺旋状<span>(</span>らせんじょう<span>)</span>に渦を巻いて、産道を通過する。<span><br /></span>この「出産児の頭の<span>4</span>回の旋回<span>(</span>せんかい<span>)</span>」を、産婦人科では「回旋<span>(</span>かいせん<span>)</span>」と呼ぶ。<span><br /></span>「開口期・出産第１期の終わり」において、アゴが胸につける屈位<span>(</span>くつい<span>)</span>の姿勢となった出産児の頭が骨盤入口<span>(</span>骨産道<span>)</span>に入りこむときは時計回りに<span>90</span>度旋回する。これを「第１回旋」と呼ぶ。<span><br /></span>「娩出期・出産第２期に骨産道<span>(</span>こつさんどう・骨盤産道<span>)</span>を通過する出産児の頭」は第２回旋と第３回旋をする。この第２回旋と第３回旋における出産児の頭は、反時計回りに<span>90</span>度旋回する。<span><br /></span>「娩出期・出産第２期の終わり」におこなわれる第４回旋における出産児の頭は、第１回旋と同じく時計回りに<span>90</span>度旋回する。<span><br /><br /></span>だから、上図の「瀚海・ゴビ沙漠」に見立てられた「三つ輪の銀河の大きな円と小さい円を描き、小さく渦を巻く、その円と渦が重なる形状」は「産道を通過する出産児の４回の回旋」に相似する。<span><br /></span>ゆえに、「【馬】「フタコブラクダ」と「瀚海・ゴビ沙漠」は、【倉頡の作成理論における基本原理】を示す【一】・【壹】の「産道。出産。旦<span>(</span>朝<span>)</span>、朝日<span>(</span>夏至の日の午前４時<span>25</span>分ころに東北の地平線から上る朝日<span>)</span>」をあらわすことになった。<span><br /></span>これゆえ、【馬】は【一】・【壹】の「産道。出産。旦。朝日」を象徴する聖獣となり、「瀚海・ゴビ沙漠」は【一】・【壹】の「産道。出産。旦。朝日」をあらわすために欠くことができない要素となった。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』は初頭部において、「対馬国<span>(</span>つしまこく<span>)</span>の南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰<span>(</span>い<span>)</span>う。一大国<span>(</span>いちだいこく<span>)</span>に至る」と記述する。<span><br /></span>「対馬国」は現在の長崎県北部の対馬である。一大国が現在の長崎県北部の壱岐<span>(</span>いき<span>)</span>である。<span><br /></span>現在は対馬<span>(</span>対馬国<span>)</span>の南の海は「対馬海峡」と呼ばれている。<span><br /></span>この「対馬海峡」について、『魏志倭人伝』は「瀚海・ゴビ沙漠と名づけられていた」と明記する。<span><br /></span>「対馬国<span>(</span>対馬<span>)</span>と一大国<span>(</span>壱岐<span>)</span>の中間の海」は「ゴビ沙漠・瀚海」であるはずがない。<span><br /></span>しかし、【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわすために、【馬】「フタコブラクダ」が生息する「瀚海・ゴビ沙漠」が必要であった。<span><br /></span>だから、下図に示すように、【倉頡の文字作成原理】を説明する『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海」は「瀚海であった」と説明した。<span><br /></span>言いかえると、卑弥呼は【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわすために、「今の対馬海峡」を「瀚海」と名づけのである。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000012_20250707144701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000012_20250707144701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000012_20250707144701.jpg" alt="000012_20250707144701" width="300" height="471" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図に示す「長崎県北部の対馬の地宜<span>(</span>ちぎ・地図の形<span>)</span>」を、卑弥呼は【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に相似すると見立てて、小国名を「対馬国」と定めた。<span><br /></span>「対馬国の上県<span>(</span>かみあがた<span>)</span>の地宜」を、卑弥呼は「フタコブラクダの正面形」に見立てた。<span><br /></span>「対馬国の下県<span>(</span>しもあがた<span>)</span>の地宜」を、卑弥呼は「ゴビ沙漠を歩くに都合<span>(</span>つごう<span>)</span>がよい、じょうぶな指を有する大きなフタコブラクダの足底と、ゴビ沙漠に残る足跡の形」に見立てた。<span><br /></span>だから、「上県郡と下県郡の地宜」は「フタコブラクダの姿と足跡とが一対<span>(</span>いっつい<span>)</span>となる形」となるゆえ、卑弥呼は小国名を「一対」の【対】と【馬】が加わる「対馬国」と定めた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000015_20250707144801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000015_20250707144801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000015_20250707144801.jpg" alt="000015_20250707144801" width="300" height="283" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆下図に示すように、「壱岐<span>(</span>壹岐<span>)</span>の西海岸の地図の形」は【馬】の字源「南に顔を向けるフタコブラクダの顔と瘤<span>(</span>こぶ<span>)</span>の形」に相似する。<span><br /></span>そして、「壱岐の大半の海岸線の地図の形」を、卑弥呼は【牛】の字源「ジャコウウシの顔・胴体・前足と後ろ足」に相似すると見立てた。<span><br /></span>ジャコウウシは、ツンドラ地帯のきびしい寒さに耐えられるように特性の防寒具で身をかためている。暗い褐色<span>(</span>かっしょく<span>)</span>の毛足<span>(</span>けあし<span>)</span>の長いコートはジャコウウシの足をおおいかぶさるように垂れる。ゆえに、「壱岐の大半の地図の形」は「足までとどく長い毛足のウール<span>(</span>毛糸<span>)</span>が全身をおおうジャコウウシの姿」に相似する。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000019_20250707145001.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000019_20250707145001" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000019_20250707145001.jpg" alt="000019_20250707145001" width="299" height="312" border="0" /></a> <br /><br /></span>『魏志倭人伝』には「倭地には牛・馬は無い<span>(</span>つまり、生息していない<span>)</span>」という記事がある。<span><br /></span>上記したように、【牛】の字源は「ウシ」ではない。【牛】の字源は「ジャコウウシ」であった。<span><br /></span>【馬】の字源は「ウマ」ではない。【馬】の字源は「フタコブラクダ」である。<span><br /></span>『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論を説明する学術書】であった。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』は初っ端<span>(</span>しょっぱな・初頭部<span>)</span>から、【倉頡の文字作成理論の基本原理】を説明するために――日本列島地理と無関係の「瀚海<span>(</span>ゴビ沙漠<span>)</span>」と、日本列島に生息しない無関係の【馬】の字源「フタコブラクダ」と【牛】の字源「ジャコウウシ」が登場することになった。<span><br /></span>上図に示したように、「一大国・壱岐の地図の形」は「大きなジャコウウシの全身と小さなフタコブラクダの顔と瘤の合体形」となる。<span><br /></span>【牛】「ジャコウウシ」は【馬】「フタコブラクダ」と同様に、倉頡が作った【一】と“夏の始祖の”禹<span>(</span>う<span>)</span>が改めた【壹】の字義「産道。出産。旦。朝日」を象徴する聖獣<span>(</span>せいじゅう<span>)</span>であった。<span><br /></span>その証拠に、上図に示したように一大国の地宜<span>(</span>地図の形<span>)</span>は「【壹】の字源となった【牛】と【馬】の姿に岐れる」を略して、後世において「壱岐<span>(</span>壹岐<span>)</span>」と呼ばれることになった。<span><br /><br /></span>◆下図に示したように、黄帝が生存した紀元前<span>3000</span>年頃、黄帝陵<span>(</span>北緯<span>35</span>度<span>35</span>分<span>)</span>の天頂緯度線は「十字の頭部の中央を、西から東へ貫通していた」。<span><br /></span>ゆえに、倉頡は「十字の銀河の頭部」を【一】の字源と定めた。<span><br /></span>司馬遷<span>(</span>しばせん<span>)</span>著『史記』五帝本紀<span>(</span>ごていほんぎ<span>)</span>の黄帝の歴史を説明する箇所には、「師兵<span>(</span>しへい<span>)</span>を以<span>(</span>も<span>)</span>って営衛<span>(</span>えいえい<span>)</span>と為<span>(</span>な<span>)</span>す」という記事がある。この記事は「黄帝の遠征軍は駐屯<span>(</span>ちゅうとん<span>)</span>するとき、軍兵たちは円陣を作って防衛した」と意味した。<span><br /></span>【牛】の字源「ジャコウウシの群れ」は天敵のオオカミに襲撃されると、子どもを円陣<span>(</span>えんじん<span>)</span>の中央に配置し、背中を子どものほうに向け頭をオオカミの方に向いて円陣を作って防衛した。<span><br /></span>だから、黄帝陵の天頂にめぐってきた【一】の字源となった「円形の十字の銀河の頭部」は「【牛】の字源・ジャコウウシの群れが天敵オオカミの襲撃にそなえる円陣」に見立てられた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000159_20250707145001.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000159_20250707145001" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000159_20250707145001.jpg" alt="0000159_20250707145001" width="299" height="321" border="0" /></a> <br /><br /></span>【一】の字源となった「円形の十字の銀河の頭部」は「女性の骨盤」に見立てられた。<span><br /></span>「女性の生殖器<span>(</span>子宮・産道はじめ卵管や卵巣など<span>)</span>の大部分」は骨盤内にある。<span><br /></span>したがって、「出産児が通過する産道の多く」は「骨産道<span>(</span>こつさんどう・骨盤の産道<span>)</span>」である。<span><br /></span>上記したように「ジャコウウシの群れは天敵のオオカミに襲われると、円陣を作って子どもを真ん中に隠す」。<span><br /></span>このような「ジャコウウシの習性」から「女性の骨盤」は「ジャコウウシの群れの円陣」に、「骨産道を通過する出産児の命」は「ジャコウウシの群れが作る円陣<span>(</span>骨盤<span>)</span>中央の産道<span>(</span>骨産道<span>)</span>に隠してまもる子どもたちの命」に見立てられた。<span><br /></span>だから、【牛】の字源「ジャコウウシ」は倉頡が作った【一】と“夏の始祖の”禹<span>(</span>う<span>)</span>が作った【壹】の字義「産道。出産。旦。朝日」を象徴する聖獣となった。<span><br /><br /></span>下図に示すように、「十字の銀河」は【天】と【大】の字源となった。<span><br /></span>卑弥呼が歴史上に最初に登場する西暦<span>170</span>年頃より<span>50</span>年前の<span>120</span>年頃に成立したとされる、後漢の文字学者であった許慎<span>(</span>きょしん<span>)</span>が著作した『説文解字<span>(</span>せつもんかいじ<span>)</span>』は、<span><br /></span>【天】の字源を「至高<span>(</span>しこう<span>)</span>にして上なし。一大に従ふ」と解説する。<span><br /></span>『説文解字』は古代の字源研究者たちに“字書の聖典<span>(</span>せいてん<span>)</span>”と呼ばれて尊重された。<span><br /></span>ゆえに、『説文解字』の【天】の字源解説に登場する「一大に従ふ」の「一大」は【牛】の字源「ジャコウウシ」を意味した。<span><br /></span>つまり、倉頡は【一】の字源「十字の銀河の頭部」を「子どもをまもってジャコウウシの群れが作る円陣」と「女性の骨盤」に見立てた。そして、「十字の銀河の頭部より下」は「【大】字形」である。<span><br /></span>ゆえに、「ジャコウウシ」は【一】と【大】が結合して、「一大」と呼ばれることになった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000017_20250707145201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000017_20250707145201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000017_20250707145201.jpg" alt="000017_20250707145201" width="300" height="278" border="0" /></a> <br /><br /></span>よって、「ジャコウウシ」は「一大」と呼ばれ、「産道。出産。旦。朝日」をあらわす【一】と【壹】の字源を象徴する聖獣となった。<span><br /></span>以上のような「一大」の語源にもとづき、卑弥呼は「大半の地図の形がジャコウウシの姿に相似する壱岐の小国名」を【倉頡の文字作成理論の基本原理】をあらわすために「一大国」と定めた。<span><br /><br /></span>◆上記した『説文解字』における【天】の「至高にして上なし」という解説は「それよりも上が存在しない最も高い天体部」と意味した。<span><br /></span>下図は天頂<span>(</span>天頂点と天頂緯度線<span>)</span>についての説明図である。<span><br /></span>天頂点<span>(</span>てんちょうてん<span>)</span>は観測地点における<span>90</span>度の高度、つまり「至高にして上なし」の「最も高い天体部」である。<span><br /></span>天頂点と重なる銀河部位の軌道<span>(</span>きどう<span>)</span>は、天頂点に接近すると、下図の右上に示すように「天頂緯度線・天頂点・子午線<span>(</span>しごせん<span>)</span>」をあらわして、漢字【亠<span>(</span>とう<span>)</span>】の字源・字形・字義となった。<span><br /></span>下図に示した銀河部位が天頂点の西隣<span>(</span>にしとなり<span>)</span>から東隣<span>(</span>ひがしとなり<span>)</span>へと移動する軌道は、平らな【一】の字を示す天頂緯度線となる。<span><br /></span>この【一】の字源「天頂緯度線」を４秒～６秒間でキャッチする人<span>(</span>観測者<span>)</span>は、「１度の<span>60</span>分の１の１分以内の誤差内の精度<span>(</span>せいど<span>)</span>で緯度が測定<span>(</span>そくてい<span>)</span>できた。<span><br /></span>また、その人<span>(</span>観測者<span>)</span>は【亠】がキャッチできたゆえ、東西<span>(</span>緯度<span>)</span>と南北<span>(</span>経度<span>)</span>をも精確<span>(</span>せいかく<span>)</span>に計測<span>(</span>けいそく<span>)</span>できた。<br /><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000157_20250707145301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000157_20250707145301" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000157_20250707145301.jpg" alt="0000157_20250707145301" width="300" height="296" border="0" /></a> <br /><span><br /></span><span> </span>下に、上記した【亠】の字源・字形の解説図を配した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000031_20250707145601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000031_20250707145601" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000031_20250707145601.jpg" alt="000031_20250707145601" width="300" height="232" border="0" /></a> <br /><br /></span>原始以来、人類は１度の<span>60</span>分の１の１分の誤差内で測量できる天頂緯度をキャッチして位置<span>(</span>緯度<span>)</span>と方角<span>(</span>経度<span>)</span>を定めて生命を守り、種を保存して滅亡をふせいだ。<span><br /></span>「天の北極の高度でも緯度に換算<span>(</span>かんさん<span>)</span>できる」が――この「天の北極の高度を緯度に換算する方法」だと１度の<span>60</span>分の１の精度では測定できず必ず１度<span>(60</span>分<span>)</span>や２度<span>(120</span>分<span>)</span>の誤差が生じたために、人類は種が保存できずに原始時代にて全滅したことになる。<span><br /></span>したがって、黄帝時代や卑弥呼時代においては、「命を失う天の北極を基準にして緯度と方角<span>(</span>東西南北<span>)</span>」を定めていなかった――これは、否定できない事実であり、科学における真実である。<span><br /><br /></span>◆江戸時代中期に生存した新井白石<span>(1657</span>～<span>1725</span>年<span>)</span>は初め邪馬台国大和説を立論し、後年に邪馬台国九州説を立論した。白石以来今日までの学界は「卑弥呼時代では、天の北極で緯度と方角を定めていた」と思い込み・錯覚して、「天の北極」にもとづいて立論する邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説が即刻<span>(</span>そっこく<span>)</span>非科学的な空理空論にして迷信であることに気づいていない。<span><br /></span>『魏志倭人伝』は、対馬国・一大国の次の「末盧国<span>(</span>まつろくに<span>)</span>」以下の記事における方位を「倭人国」の【倭】の字源にもとづいて説明している。<span><br /></span>この【倭】の字源の「方位名」は――「<span>(</span>１<span>)</span>天頂緯度観測」と「<span>(</span>２<span>)</span>黄帝が研究した出産第１期と出産第４期における出産児の頭が時計回りに<span>90</span>度転回する回旋<span>(</span>かいせん<span>)</span>」とが結合されて構成された――【今の東・西・南・北と異なる、倉頡の文字作成理論にもとづく方位規定】であった。<span><br /><br /></span>ゆえに、「【倭】の字源に則<span>(</span>のっと<span>)</span>る方位規定」は、今の「天の北極を基本とする、東・西・南・北」と同一ではなく――末盧国における今の<span>[</span>北<span>]</span>は時計回りに<span>90</span>度転回して<span>[</span>東<span>]</span>となり、今の<span>[</span>東<span>]</span>は<span>[</span>南<span>]</span>、今の<span>[</span>南<span>]</span>は<span>[</span>西<span>]</span>、今の<span>[</span>西<span>]</span>は<span>[</span>北<span>]</span>と名づけられた<span>(</span>変位することになった<span>)</span>。<span><br /></span>さらに、「末盧国より以下の全記事における方位」は【倭】の字源に則<span>(</span>のっと<span>)</span>って記されて、「天の北極を基準にする今の東・西・南・北」と相違していた。<span><br /></span>『魏志倭人伝』の末盧国以下の記事における方位名はすべて【倉頡の文字作成理論】を伝える【倭】の字源「今の東・西・南・北を時計回りに<span>90</span>度転回させる方位規定」に則<span>(</span>のっと<span>)</span>っていた。<span><br /></span>だからこそ、『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論を科学的に説明する古書<span>(</span>史料<span>)</span>】であった。<span><br /><br /></span>以上のごとく、『魏志倭人伝』は初っ端<span>(</span>初頭部<span>)</span>から「対馬国」・「瀚海」・「一大国」・【馬】「フタコブラクダ」・【牛】「ジャコウウシ」を登場させ、<span><br /></span>さらに次の末盧国以下の全方位記事は【倉頡の文字作成理論】によって成立した【倭】の字源「今の東・西・南・北を時計回りに<span>90</span>度転回・変位させる方位規定」に則<span>(</span>のっと<span>)</span>っている。<span><br /></span>ゆえに、新井白石以後の学界の伝統とする「天の北極を基準する、今の東・西・南・北」に則って、【倉頡の文字作成理論にもとづく方位規定】を排除して思考する邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国説はじめ様々な学者たちの意見は空理空論・空想・幻想であったことになる。<span><br /><br /></span>◆前記したように――「山東半島の石島の海岸線から渤海湾北端までの地宜」は「邪馬壹<span>(</span>邪馬壱<span>)</span>」と名づけられ、「邪馬臺<span>(</span>邪馬台<span>)</span>」とは呼ばれなかった。<span><br /></span>というのも、下の右上に示すように――「廟島列島」と「石島・山東半島北端・黄河口北端・渤海湾」によって【台】と【臺】の字義「夕日」をあらわさず、【一】と【壹】の「朝日」だけをあらわすからである。<span><br /></span>また、前ページに示した【馬】「フタコブラクダ」の解説図において、「フタコブラクダの顔となる、十字の銀河の胸部」は「旦・朝日をあらわす、三つ輪の銀河」がある東を向く。<span><br /></span>だから、【馬】の字源銀河解説図における「三つ輪の銀河と十字の銀河」においても、【台】と【臺】の「夕日」は成立せず、【一】と【壹】の「朝日」だけが成立する。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000321_20250707145701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000321_20250707145701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000321_20250707145701.jpg" alt="0000321_20250707145701" width="300" height="338" border="0" /></a> <br /></span>上図に示したように、東経<span>118</span>度<span>48</span>分の経度線から少し西に外<span>(</span>はず<span>)</span>れる場所に、山東省の莒県陵陽河<span>(</span>きょけんりょうようが<span>)</span>の遺跡が所在する。<span><br /></span>前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>41</span>―１」にて解説したように――<span><br /></span>莒県陵陽河の遺跡から、「灰陶尊<span>(</span>かいとうそん<span>)</span>」と呼ばれる酒器<span>(</span>しゅき<span>)</span>が出土した。<span><br /></span>灰陶尊は、年代測定によって約<span>5000</span>年前<span>(</span>紀元前<span>3000</span>年頃<span>)</span>に作られたとされた。<span><br /></span>ゆえに、灰陶尊は黄帝時代の黎明期<span>(</span>れいめいき<span>)</span>の遺物であった。だから、灰陶尊は黄帝が公孫軒轅<span>(</span>こうそんけんえん<span>)</span>と名乗っていた時代の遺物であったと考えられる。<span><br /><br /></span>灰陶尊の口縁部<span>(</span>こうえんぶ<span>)</span>の近くには、下図の右上に配する図書<span>(</span>ずしょ<span>)</span>がある。<span><br /></span>この図書を、中国の学界では「漢字の原型」と考えている。<span><br /></span>中国の学界では「灰陶尊にほどこされた図書」を【旦<span>(</span>たん<span>)</span>】をあらわしていると考える。<span><br /></span>ゆえに、灰陶尊の図書は「幽<span>(</span>かす<span>)</span>かにうす暗い、日が出ずる【旦】<span>(</span>朝<span>)</span>の東の空が赤く染まる光景」を表現していたことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000176_20250707145901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000176_20250707145901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000176_20250707145901.jpg" alt="0000176_20250707145901" width="299" height="399" border="0" /></a> <br /><br /></span>ゆえに、「陵陽河の遺跡から出土した灰陶尊の図書」は「夏至の日の朝<span>(</span>午前<span>5</span>時<span>32</span>分ころ<span>)</span>、日照の海岸から目撃できる石島から日が出ずる【旦】の景色」を表現していたことになる。<span><br /></span>前回のブログで解説したように――倉頡は「日が出ずる朝」を「産道。出産」に見立てて、【一】の字を作って「朝日。産道。出産児」をあらわすことにした。<span><br /></span>というのも、「十か月の胎児期をすごして、産道を通過して無事に誕生する、一年十二カ月に満たない新生児の年齢」を、倉頡は「一才」と定めたからである。<span><br /></span>だから、倉頡は【一】の字を作って、【一】は「朝日。産道。出産児」をあらわした。<span><br /></span>夏代黎明期、“夏の始祖”の禹<span>(</span>う<span>)</span>は――「産道と子宮」を「【壺】の形」に象<span>(</span>かたど<span>)</span>り、豆<span>(</span>頭<span>)</span>を前にして産道<span>(</span>壺の上部<span>)</span>を進み、膣口<span>(</span>ちつこう<span>)(</span>壺の先端<span>)</span>から豆<span>(</span>頭<span>)</span>が誕生するまでの様子をあらわす、倉頡が作った【一】の字源・字義をあらわす【壹】の字を作った。<span><br /></span>ゆえに、「石島から昇る朝日」は「産道・出産」をあらわして【一】・【壹】の字源・字形・字義となった。<span><br /></span>このため、「観測地地点の日照の海岸」も【一】・【壹】をあらわすことになり、「日照と同緯度<span>(</span>北緯<span>35</span>度<span>35</span>分<span>)</span>の黄帝陵」もまた【一】・【壹】を表示することになった。<span><br /></span>その証拠に、「黄帝陵」は「黄帝を祀<span>(</span>まつ<span>)</span>る廟<span>(</span>びょう<span>)</span>」である。<span><br /></span>【廟】は【广<span>(</span>げん<span>)</span>】の右下に【朝】を加わる字である。<span><br /></span>だから、【廟】の字は【一】・【壹】と同様に「旦。朝」をあらわした。<span><br /><br /></span>◆下図に示すように、「灰陶尊」は「人の横顔に酷似<span>(</span>こくじ<span>)</span>する銀河の形」に相似する。<span><br /></span>下図における中央図「灰陶尊の側身形」は右図の「人の横顔に酷似する銀河の形」に相似する。ゆえに、「灰陶尊」は「人の横顔に酷似する銀河」に似せて造形された。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000324.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000324" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000324.jpg" alt="0000324" width="300" height="198" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図に示すように、「黄帝」が「公孫軒轅」と呼ばれていた今から約<span>5000</span>年前、夏至の日の朝<span>(</span>午前<span>5</span>時<span>32</span>分ころ<span>)</span>――【廟】の字源となった「人の横顔に酷似する銀河の中心軸」は西から約<span>32</span>度の西北西に位置した。<span><br /></span>はくちょう座のγ星とβ星を結ぶ軸は西から約<span>35</span>度の西北西に位置した。<span><br /></span>この「人の横顔に酷似する銀河」の東となりは「十字の銀河」であり、「人の横顔に酷似する銀河」の西となりは「こと座」である。<span><br /></span>前述したように、「黄帝陵<span>(</span>北緯<span>35</span>度<span>35</span>分の<span>)</span>天頂緯度線」は「十字の銀河の頭部中央」を貫通していた。また、「人の横顔に酷似する銀河の頭髪の生<span>(</span>は<span>)</span>え際<span>(</span>ぎわ<span>)</span>にある、はくちょう座γ星」も、黄帝陵の天頂にめぐってきた。さらに、「こと座のβ星」も黄帝陵の天頂にめぐってきた。<span><br /></span>「人の横顔に酷似する銀河の額<span>(</span>ひたい<span>)</span>にある、北天<span>(</span>ほくてん<span>)</span>の最輝部<span>(</span>さいきぶ<span>)</span>」は「北半球に住む人々が最も輝いて見える銀河部」である。<span><br /></span>「こと座α星・ベガ」は「夏の夜空において、最も明るく、最も青白く輝く星」、つまり「夏の夜空の最輝星<span>(</span>さいきせい<span>)</span>」である。<span><br /></span>「夏の夜空の最輝星を有する、こと座」は「夏至の日の強い陽射し」を連想するイメージとなった。<span><br /></span>「月光にきらめく沙<span>(</span>すな<span>)</span>のようにキラキラ輝く壮麗な十字の銀河の身体部」は「赤く炎のようにキラキラ輝く」。ゆえに、「十字の銀河」から「空を赤く染める夏至の日の朝に地平線上に出現する朝日」が連想されることになった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000325.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000325" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000325.jpg" alt="0000325" width="300" height="264" border="0" /></a> <br /></span>だから、上図に示したように、「こと座」と「十字の銀河」の中間にあって、「西から<span>30</span>度の西北西の地平線に没する、夏至の日の夕方の太陽」に呼応して――「その中心軸が西から約<span>32</span>度の西北西に位置する、人の横顔に酷似する銀河」は「夏至の日の朝、日照の海岸から目撃すると石島の海岸から出ずる日<span>(</span>東から<span>30</span>度の東北東の地平線から出ずる太陽<span>)</span>」と密接に関連するとされた。<span><br /></span>だから、「人の横顔に酷似する銀河」は【廟】の字源となった。<span><br /><br /></span>わが国における古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』（平凡社発行）は、【廟】の字について「广（げん）」と朝とに従う。もと朝礼を行なうところで、それがまた廟所であったが、のち祭政が分離して、宗廟の意とある」と解説する。<span><br /></span>さらに、『字統』は【廟】の字について――『説文解字』は「先祖の貌<span>(</span>かほ<span>)</span>を尊ぶなり」と、貌と、畳韻をもって解する。『礼記<span>(</span>らいき<span>)</span>』祭法の注は「宗廟なるものは、先祖の尊貌<span>(</span>そんぼう<span>)</span>なり」というのと同じである――と指摘する。<span><br /></span>つまり、上図に示したように、【廟】の字源は「夏至の日の朝、東から<span>30</span>度の東北東の地平線から出ずる太陽に呼応して、夏至の日の夕刻に太陽が没する西から<span>30</span>度の西北西の地平線近く<span>(</span>地平線から約<span>8</span>度の高度<span>)</span>に位置した、人の横顔に酷似する銀河」であったことになる。<span><br /></span>その証拠に、上記した『説文解字』の【廟】の字源解説に合致して――「灰陶尊」は「人の横顔に酷似する銀河の形」に似せて造られた。ゆえに、【廟】は「人の横顔に酷似する銀河を観て、先祖の貌<span>(</span>かお<span>)</span>を尊ぶ祭場<span>(</span>さいじょう<span>)</span>」であったことになる。<span><br /></span>下図に示すように、「人の横顔に酷似する銀河と西側の小さな星々」は「ジャコウウシの横顔と角<span>(</span>つの<span>)</span>」のイメージとなって、『礼記』祭法の注が「先祖の尊貌なり」と指摘する【廟】の字源になった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000326.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000326" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000326.jpg" alt="0000326" width="300" height="241" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆司馬遷著『史記』五帝本紀における黄帝について説明する記事は、下記のごとくである。<span><br /></span>「黄帝が軒轅と名乗っていたとき、神農氏<span>(</span>しんのうし<span>)</span>の子孫の世であったが、その権勢は衰え、諸侯<span>(</span>しょこう<span>)</span>はたがいに侵伐<span>(</span>しんばつ<span>)</span>しあい、多くの人民を苦しめいためつけていたが、神農氏はそれを征伐<span>(</span>せいばつ<span>)</span>することができなかった。そこで、軒轅は実戦の習練をして、天子に朝貢<span>(</span>ちょうこう<span>)</span>しない諸侯を征伐した。」<span><br /></span>ゆえに、「灰陶尊」は「軒轅が神農氏に代わって天下を治めると決意し誓った黄帝陵<span>(</span>軒轅の丘<span>)</span>に廟を設置したときの、夏至の日の朝<span>(</span>午前<span>5</span>時<span>32</span>分ころ<span>)</span>に山東半島東端から出現する朝日を祭る酒器」であったことになる。<span><br /><br /></span>上記したように「灰陶尊」は「ジャコウウシの横顔に相似すると見立てられた、人の横顔に酷似する銀河」を造形する酒器<span>(</span>酒をいれる容器<span>)</span>であった。<span><br /></span>【一】と【壹】の「出産。産道。旦。朝日」を象徴する聖獣の【牛】「ジャコウウシの子」は出産後<span>1</span>時間以内に、酔払<span>(</span>よっぱら<span>)</span>いの足取りのごとくふらふらとよろめきながらも４本の足を踏<span>(</span>ふ<span>)</span>ん張<span>(</span>ば<span>)</span>って立ち上がり歩き始める。<span><br /></span>だから、「生後まもなく酔っ払いのごとく体をよろめきながら立ち上がる【牛】・ジャコウウシの子」は【尊】<span>(</span>灰陶尊<span>)</span>の「酒を入れる容器」をもって表現された。<span><br /></span>下の右側に配した【尊】の契文と金文の字形にもとづくと――下の左図に示すように、灰陶尊の尖<span>(</span>と<span>)</span>がった底は「子宮」に相当する台<span>(</span>土台<span>)</span>に埋められ、【廾<span>(</span>きょう<span>)</span>】つまり「左右両側から支えるつっかい棒」にて垂直に立たされて、「生後<span>1</span>時間以内に酔っ払いのごとく体がよろめきながらもがんばって立ち上がって歩き始める【牛】・ジャコウウシの子」を表現するものであったことになる。<span><br /></span>以上のごとく、軒轅は「神農氏に代わって天下を治めると立ち上がった誓い」を実現するために、――つまり「自<span>(</span>みずから<span>)</span>の状況」を「夏至の日の午前６時に出ずる朝日」と「生後１時間以内に歩き始めるジャコウウシの子」に喩<span>(</span>たと<span>)</span>える【廟】を設営した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000327.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000327" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000327.jpg" alt="0000327" width="300" height="341" border="0" /></a> <br /></span>現在においても、黄帝陵は陝西省<span>(</span>せんせいしょう<span>)</span>の黄陵県<span>(</span>こうりょうけん<span>)</span>に所在する。<span><br /></span>歴代の王朝はたえず黄帝に対して鄭重<span>(</span>ていちょう<span>)</span>な祭祀<span>(</span>さいし<span>)</span>をささげ、また中国の人々は自分たちの祖先は黄帝であると信じて疑わなかった。<span><br /></span>黄帝陵は、黄帝を祭る廟と墓とされる。<span><br /></span>したがって、黄帝の墓は若き黄帝<span>(</span>軒轅<span>)</span>が設営した廟でもあったことになる。<span><br /></span>ゆえに、「黄帝陵」は「軒轅の丘」に設営されたと考えられる。<span><br /></span>司馬遷<span>(</span>しばせん<span>)</span>著『史記』五帝本紀において黄帝について説明する記事の末部に「軒轅の丘」が登場する。「軒轅の丘」の記事は、下記のごとくである。<span><br /></span>「黄帝は軒轅の丘にいたとき、西陵<span>(</span>せいりょう<span>)</span>氏の女<span>(</span>むすめ<span>)</span>を娶<span>(</span>めと<span>)</span>った。この女性は黄帝の正妃<span>(</span>せいひ<span>)</span>となった。」<span><br /></span>白川静著『字統』は――『説文解字』が【丘】の字を「土の高きものなり。人の為<span>(</span>つく<span>)</span>る所に非ざるなり。北に従ひ、一に従ふ。一は地なり。人の居は丘の南に在り、ゆえに北に従ふ。中邦の居は、崑崙<span>(</span>こんろん<span>)</span>の東南に在り。一に曰<span>(</span>いは<span>)</span>く、四方高く、中央下<span>(</span>ひく<span>)</span>きを丘と為<span>(</span>な<span>)</span>す。象形」と異例の長文をもって説くが、このうちに丘に対する古い観念が伝えられている。字形を北一に従うとするは誤りで、これは墳丘の形とみてよい。<span>(</span>中略<span>)</span>。丘は墳丘の象形である――と解説する。<span><br /></span>要するに、『説文解字』は「軒轅の氏族たちが住む集落は【廟】が設営された丘の南の地所に所在した。この住居集落の北に【一】の「出産。産道」を意味する<span>(</span>つまり、一に従ふ<span>)</span>丘が所在した。軒轅氏族の住居集落は四方が高く、中央が低い丘になっていた」と説明していたことになる。<span><br /></span>白川静著『字統』は【丘】の字源は「墳丘であった」と解説する。<span><br /></span>「墳丘」は「墓<span>(</span>陵墓<span>)</span>」であるゆえ、「黄帝の墓となった場所」に軒轅は【廟】を設営したことになる。<span><br /></span>だから、「廟と墓であった黄帝陵」は「軒轅の丘<span>(</span>の一画<span>)</span>」に設営されたにちがいない。<span><br /><br /></span>◆前記したように、下図の右上に示すように「夏至の日の朝<span>(</span>午前<span>5</span>時<span>32</span>分ころ<span>)</span>、日照の海岸から眺めると山東半島東南端の石島の海岸から日<span>(</span>太陽<span>)</span>が出現する光景」が目撃<span>(</span>もくげき<span>)</span>される。<span><br /></span>このため、「石島と日照の両海岸」は【一】・【壹】・【廟】・「朝日」・「出産」・「産道」をあらわした。<span><br /></span>また、「日照と同緯度の軒轅の丘」も【一】・【壹】・【廟】・「朝日」・「出産」・「産道」をあらわした。<span><br /></span>下図が示すように、「石島の海岸」は「【一】・【壹】をあらわす明瞭<span>(</span>めいりょう<span>)</span>な目印」となった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000328.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000328" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000328.jpg" alt="0000328" width="300" height="243" border="0" /></a> <br /></span>上図における左上の二つの矢印が示すように、「夏至の日の夕方、日照から日が没する方角<span>(</span>西から<span>30</span>度北の西北西<span>)</span>には、明瞭な目印となる地点が存在せず」、漠然<span>(</span>ばくぜん<span>)</span>として内陸をはるか遠くまで延々<span>(</span>えんえん<span>)</span>と何処<span>(</span>どこ<span>)</span>まで行っても目印が無き状況となる。<span><br /></span>だから、上図の下部に示すように、「【一】・【壹】・「朝日」・「出産」・「産道」をあらわした日照」が「夕日」・【台】・【臺】・【莫<span>(</span>「漠然」の【漠】の最初の字<span>)</span>】・「子宮」・「胎児」をもあらわす目印となった。<span><br /></span>このため、上図に記したように、「日照と同緯度<span>(</span>北緯<span>35</span>度<span>35</span>分の黄帝陵<span>(</span>軒轅の丘<span>)</span>」も「夕日」・【台】・【臺】・【莫】・「子宮」・「胎児」をあらわすことになった。<span><br /></span>前のページで解説したように、倉頡は「子宮の正面形は産道をのせる台<span>(</span>だい<span>)</span>のような形をしており、またおおむね台形」であるので、【台】の字を作って「子宮。子宮で育つ胎児」をあらわした。<span><br /></span>ゆえに、「日照と同緯度の黄帝陵」は倉頡が作った【台<span>(</span>子宮<span>)</span>】の字と、禹が作った【臺】の字をあらわすことになった。<span><br /></span>「漠然」の【漠】の原字<span>(</span>最初の文字<span>)</span>の【莫<span>(</span>ぼう<span>)</span>】について『説文解字』は「莫、日まさに冥<span>(</span>く<span>)</span>れんとするなり」と解説する。つまり、【莫】は【暮】で同義「夕暮れ。夕日」を意味した。<span><br /></span>そして、【莫】の下に【土】を加えると【墓】の字となり、【墓】は「没した人を土の中に埋葬した所」を意味することになった。<span><br /></span>ゆえに、「黄帝陵」は「黄帝を祀る墓」であった。<span><br /><br /></span>下に、「二分二至<span>(</span>夏至・春分・秋分・冬至の日<span>)</span>における太陽の日周弧の図」を配した。<span><br /></span>下図に示すように、「夏至の日の朝<span>(</span>中国時間・午前<span>5</span>時<span>32</span>分ころ、日本時間・午前<span>6</span>時<span>32</span>分ころ<span>)</span>、日<span>(</span>太陽<span>)</span>は東から<span>30</span>度の東北の地平線<span>(</span>水平線<span>)</span>から出現し、この東北の地点から南へ向かって進み<span>(</span>昇り<span>)</span>、正午には天頂の真南に位置する」。<span><br /></span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s424_20250707150501.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S424_20250707150501" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s424_20250707150501.jpg" alt="S424_20250707150501" width="222" height="174" border="0" /></a> </p>
<p>前のページに配した「日照の海岸と黄帝陵が【夕】・【台】・【台】・【臺】・【莫】となる解説図」を、再度、下に配した。<span><br /></span>下図の右上に示す「夏至の日の朝、山東半島東南端の石島から出現した日<span>(</span>太陽<span>)</span>が進む方角」は、上図に示したように【太陽が正午に位置する、天頂の南へ向かって進めなければならない】。<span><br /></span>にもかかわらず、下図のごとく地図に【太陽が進む<span>(</span>昇る<span>)</span>状況を矢印】で示すと、下図の中央上に配した【地図の「北」を示す標識】が示すように、【太陽は南ではなく、北へ進む状況】を示す。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000328.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000328" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000328.jpg" alt="0000328" width="300" height="243" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図における「日出ずる太陽の南進<span>(</span>なんしん<span>)</span>が北進<span>(</span>ほくしん<span>)</span>に変ずる状況」を「不正<span>(</span>ふせい・不合理<span>)</span>」と考えた軒轅は「正義<span>(</span>正しい字義・合理<span>)</span>」を成立させために、「遠征」することにした。<span><br /></span>ゆえに、【正】は「遠征」の【征】の原字である。<span><br /></span>このため、【正】の契文形は「北へ歩<span>(</span>歩数<span>)</span>を進める足の形」となる。<span><br /></span>つまり、軒轅は「地図上に示される石島の海上から昇る夏至の日の朝の太陽の方角の正義<span>(</span>合理<span>)</span>を成立させるために遠征」し――遠征後に、帝となって「黄帝<span>(</span>こうてい<span>)</span>」と号した。<span><br /><br /></span>司馬遷著『史記』五帝本紀に記される「黄帝軍の遠征経路における北限」は、下図の下部に示した「北緯<span>36</span>度<span>11</span>分の丸山<span>(</span>かんざん<span>)</span>と岱宗<span>(</span>たいそう<span>)</span>」であった。<span><br /></span>「丸山」は「今の、山東省の膠州市<span>(</span>こうしゅうし<span>)</span>」であったと考えられる。<span><br /></span>「岱宗」は、現在、「泰山<span>(</span>たいざん<span>)</span>」と呼ばれている。泰山は山東省の泰安市<span>(</span>たいあんし<span>)</span>に在る山で、標高<span>1,545</span>ｍ。ユネスコの世界遺産<span>(</span>複合遺産<span>)</span>に登録されている。<span><br /></span>軒轅は丸山と泰山が所在する北緯<span>36</span>度<span>11</span>分より北の地域には遠征しなかった。<span><br /></span>だから、およそ北緯<span>38</span>度の黄河口や山東半島北端、またおよそ北緯<span>37</span>度の石島は軒轅の【正】「正義<span>(</span>正しい字義<span>)</span>」が成立しない地域となる。<span><br /></span>この結果、【正】「正義」が成立しない「黄河口・山東半島北端・石島」は、依然として「朝日。出産」をあらわす【一】・【壹】をあらわす地域となった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000329.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000329" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000329.jpg" alt="0000329" width="300" height="279" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆前記したように、「黄帝陵」は「産道・出産」をあらわす【一】・【壹】・【朝】・【廟】の字源にして――また黄帝が没すると、「黄帝陵」は「子宮・着床」・「夕日」をあらわす【台】・【臺】の字源にもなった。<span><br /></span>ゆえに、「黄帝陵」が「朝日」の【一】・【壹】と「夕日」の【台】・【臺】の両方をあらわすことによる混乱・混迷をふせぐために――後世において、下図の右下に示した黄帝陵の東方にある「洛陽」が「夕日。子宮」の【台】・【臺】だけをあらわすことになった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000330.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000330" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000330.jpg" alt="0000330" width="300" height="291" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図に示した黄帝陵の東方にある伊河<span>(</span>いかわ・現在は別名となる<span>)</span>と洛河<span>(</span>らくがわ<span>)</span>の水は「北から南へ」流れる。<span><br /></span>上図における洛陽の南方にある伊河と洛河の水は、黄帝陵の東方にある伊河と洛河の水の流れに反して「南から北へ」流れる。<span><br /></span>ゆえに、【一】・【壹】の「産道。出産児」をもあらわす軒轅の丘<span>(</span>黄帝陵<span>)</span>よりも南にある「洛陽」が【台】・【臺】の「夕日。子宮。胎児」だけをあらわすことになった。<span><br /><br /></span>下の左図の【各<span>(</span>かく<span>)</span>】は「洛陽」の【洛】の原字<span>(</span>最初の文字<span>)</span>である。<span><br /></span>「洛河」の原字の【各】は「南へ進む」を意とする。<span><br /></span>【各】の契文形が示すように、【洛<span>(</span>らく<span>)</span>】の原字の【各】は「正午の太陽が位置する南へ向かって歩<span>(</span>足の爪先<span>)</span>が進む様子」をあらわした。<span><br /></span>そして、「遠征」の【征】の原字の【正】は「深夜の午前０時に太陽が位置する北へ向かって歩を進める様子」をあらわした。<span><br /></span>前ページで地図上に示したように、「日照の海岸より北の石島から日が出ずる景色」は「太陽が正午に位置する南に進む状況」を示さず、「太陽が北へ進む状況」を示して不正<span>(</span>不合理<span>)</span>となる。<span><br /></span>このため、軒轅は正義<span>(</span>正しい義、つまり合理<span>)</span>が成立させるために「北緯<span>35</span>度<span>35</span>分の軒轅の丘<span>(</span>黄帝陵<span>)</span>」より「北」となる「北緯<span>36</span>度<span>11</span>分の丸山<span>(</span>膠州市<span>)</span>・岱宗<span>(</span>泰山<span>)</span>」まで遠征することにした。<span><br /><br /></span>『説文解字』は、【正】の字について「止に従ふ。一を以<span>(</span>もっ<span>)</span>て止まる」と解説する。<span><br /></span>ゆえに、【正】は【一】の下に【止】が加わる字ということになる。<span><br /></span>だから、【一】の下に【止】の字が組み合わさる【正】の字は「軒轅は遠征経路<span>(</span>【一】<span>)</span>の北限を北緯<span>36</span>度<span>11</span>分の丸山・岱宗までで止めた<span>(</span>【止】<span>)</span>」とあらわしていたことになる。<span><br /></span>これゆえ、軒轅は「北緯<span>36</span>度<span>11</span>分の丸山・岱宗より以北の地域」には遠征しなかった。<span><br /></span>つまり、夏至の日の朝に空が赤く染まる景色はやがて空が青白くなって消滅する。<span><br /></span>だから、「朝焼けの消滅時間」を「北緯<span>36</span>度<span>11</span>分の丸山・岱宗」に見立てた軒轅は、丸山・岱宗より北の地には遠征しなかったと考えられる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000331.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000331" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000331.jpg" alt="0000331" width="300" height="262" border="0" /></a> <br /><br /></span>上の右側に配する【足】の契文は【正】の<span>180</span>度反転した形となる。<span><br /></span>『説文解字』は【足】の字を「人の足なり」と解説する。<span><br /></span>白川静著『字統』は、【足】の字について――卜辞では「帝は雨を正<span>(</span>た<span>)</span>らしめんか」「帝は雨を正<span>(</span>た<span>)</span>らしめ、年<span>(</span>みなり<span>)</span>あらしめんか」などと、みな「足<span>(</span>た<span>)</span>る」の意である――と解説する。<span><br /></span>この卜辞<span>(</span>易卜の辞<span>)</span>は「帝は河川が洪水・氾濫<span>(</span>はんらん<span>)</span>しないように治水工事をおこなって、穀物の実りが豊かにして食料が足りる状況にする」と意味した。<span><br /></span>つまり、禹が治水工事に成功して以来、中国では「多くの帝が伝統的に治水工事に努力するようになった」のであろう。<span><br /><br /></span>以上のような非常に複雑でこみいった【一】・【壹】と【台】・【臺】の字源・字形・字義の秘密を、『魏志倭人伝』を著作した晋<span>(</span>しん<span>)</span>の歴史編纂官の陳寿<span>(</span>ちんじゅ<span>)</span>は知っていたと考えられる。<span><br /></span>だから、陳寿は「倭人国の首都が所在する地所の名」を「邪馬壱国」と記したにちがいない。<span><br /></span>そして、陳寿は『魏志倭人伝』の末尾に「魏都・洛陽」を【臺】と記した。<span><br /></span>陳寿は、【一】・【壹】は「朝日」・「産道」を意とする、【台】・【臺】は「夕日」・「子宮」を意とする――この相違について知っていたゆえ、「魏都・洛陽」を【臺】と記したにちがいない。</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>卑弥呼</dc:subject>
<dc:subject>邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源</dc:subject>
<dc:subject>ヒエログリフ(聖刻文字)</dc:subject>
<dc:subject>日本国誕生史の証明</dc:subject>
<dc:subject>大嘗祭の証明</dc:subject>
<dc:subject>まぼろしの邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源と発明を解明す</dc:subject>

<dc:creator>大川誠一</dc:creator>
<dc:date>2025-07-07T15:12:24+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/07/post-e6a901.html">
<title>『漢字の起源と発明を解明す・１～５』</title>
<link>https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/07/post-e6a901.html</link>
<description> 
【夏の銀河】PIXTA(ピクスタ)
◆総論：本書の目的と核心
本書は、次のよ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><strong><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/ginga_kara1_20250702151401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Ginga_kara1_20250702151401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/ginga_kara1_20250702151401.jpg" alt="Ginga_kara1_20250702151401" width="299" height="450" border="0" /></a> </strong></p>
<p><span>【夏の銀河】</span><span>PIXTA(</span><span>ピクスタ</span><span>)</span></p>
<p><strong>◆</strong><strong>総論：本書の目的と核心</strong></p>
<p>本書は、次のような重要主張を展開します：</p>
<p>&#x2705; 漢字は約<span>5000</span>年前、黄帝と倉頡によって「夏の銀河（天の川）」と「女性の生殖器・出産」をモデルに発明された。</p>
<p>&#x2705; 倉頡の「文字作成理論」は、単なる形象模倣ではなく、天体観測・地理・人体・出産・方位規定と密接に結びついている。</p>
<p>&#x2705; 日本列島には古代に「夏音文字」と「倉頡理論」が伝来し、『魏志倭人伝』と『古事記』にその痕跡が明確に残る。</p>
<p>&#x2705; 卑弥呼はこの理論を駆使し、倭国を統一、国名や地名、政策に反映させた。</p>
<p><strong>◆</strong><strong>第<span>1</span>～<span>2</span>部：倉頡理論の基本構造</strong></p>
<ul>
<li><strong>銀河を基にした文字創造</strong></li>
</ul>
<ul>
<li>「夏の銀河」の各部形状が漢字の原型。</li>
<li>例：【壹】は日照と東方象徴、【臺】は西方の象徴。</li>
</ul>
<ul>
<li><strong>出産・生殖の結合</strong></li>
</ul>
<ul>
<li>黄帝が研究した女性の生殖器・出産現象が漢字と地図に影響。</li>
<li>赤ちゃんの産道通過・回旋運動が地図方位転回（<span>90</span>度転回）の元。</li>
</ul>
<p>&#x2705; 重要：「漢字は天文・地理・人体・生殖の統合表現」である。</p>
<p><strong>◆</strong><strong>第<span>3</span>部：地図転回理論と方位規定</strong></p>
<ul>
<li><strong>倉頡の<span>2</span>つの方位規定</strong></li>
</ul>
<ul>
<li>【禾】：淮河以北は時計回り<span>90</span>度転回（北<span>→</span>東）</li>
<li>【呉】：淮河以南は逆時計回り<span>90</span>度転回</li>
</ul>
<ul>
<li><strong>「転回日本列島地図」の成立</strong></li>
</ul>
<ul>
<li>日本列島地図は【禾】の規定に基づき、時計回り<span>90</span>度転回。</li>
<li>これにより『魏志倭人伝』の地理記事と完全に一致。</li>
</ul>
<p>&#x2705; 重要：「現在の日本地図基準では『魏志倭人伝』は矛盾だらけ」、「転回地図理論」で全て合理的に説明可能。</p>
<p><strong>◆</strong><strong>第<span>4</span>部：邪馬壹国と出産理論の象徴</strong></p>
<ul>
<li><strong>「邪馬壹国」の正体</strong></li>
</ul>
<ul>
<li>『魏志倭人伝』は「邪馬壹（やまい）国」が正確表記。</li>
<li>【壹】は子宮・産道通過の象徴、【邪馬】は赤ちゃんの頭蓋骨回旋を示す。</li>
<li>出産の姿が国名・地理方位・国家構造に密接に関与。</li>
</ul>
<p>&#x2705; 重要：「邪馬台国」という誤読は新井白石以降の誤認、原文には存在しない。</p>
<p><strong>◆</strong><strong>第<span>5</span>部：卑弥呼の名と政策の深層</strong></p>
<ul>
<li><strong>「卑弥呼」の語源と地理学</strong></li>
</ul>
<ul>
<li>【卑】：中国の海岸線</li>
<li>【弥】：山東半島・北と南の海岸線</li>
<li>【呼】：杭州湾の形状</li>
</ul>
<p>つまり「卑弥呼」とは「中国の海岸線そのもの」を象徴。</p>
<ul>
<li><strong>気候と方位の連動</strong></li>
</ul>
<ul>
<li>日本列島：西冷東暖、中国：北冷南暖</li>
<li>沖ノ島と神津島の同緯度（北緯<span>34</span>度<span>15</span>分）を卑弥呼は認識。</li>
<li>これに基づき「日本列島は<span>90</span>度転回する」と地図政策を制定。</li>
</ul>
<p>&#x2705; 重要：「卑弥呼」という名は科学的・地理的根拠をもつ、単なる神秘的呼称ではない。</p>
<p><strong>◆</strong><strong>航海技術と【亠】理論</strong></p>
<ul>
<li>【亠】：天頂緯度線・子午線を指し、古代人は<span>1</span>分単位で緯度を測定。</li>
<li>これにより、神津島の黒曜石交易、玄界灘航海が成立。</li>
<li>魏と倭国の国交はこの【亠】観測技術に支えられた。</li>
</ul>
<p>&#x2705; 重要：北極星基準では航海は不可能、【亠】観測が古代航海の核心。</p>
<p><strong>◆</strong><strong>批判と結論</strong></p>
<ul>
<li>現代学説の「邪馬台国＝大和説・九州説」は『魏志倭人伝』の全方位記事と矛盾。</li>
<li>天文・地理・人体・出産・気候・航海の統合理論がなければ、倭国史は説明不能。</li>
<li>卑弥呼は、倉頡理論に基づく科学的政策を実践した国家統一者。</li>
</ul>
<p><strong>最重要ポイントまとめ</strong></p>
<p>&#x2705; 倉頡の漢字は「夏の銀河」「出産」「地図方位」に由来。<span><br /></span>&#x2705; 日本列島は「時計回り<span>90</span>度転回」した地図が正解。<span><br /></span>&#x2705; 『魏志倭人伝』はこの転回地図と完全一致する設計文書。<span><br /></span>&#x2705; 卑弥呼の名は「中国の海岸線」を意味し、科学的裏付けがある。<span><br /></span>&#x2705; 【亠】観測で精密航海を実現、これが国交の前提。<span><br /></span>&#x2705; 現代の「邪馬台国説」は誤認・空理空論と断定。</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>漢字の起源</dc:subject>

<dc:creator>大川誠一</dc:creator>
<dc:date>2025-07-02T14:32:53+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/06/post-fc5683.html">
<title>漢字の起源と発明を解明す・41ー１</title>
<link>https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/06/post-fc5683.html</link>
<description>卑弥呼が倭国の都とした地は邪馬壱国であって邪馬台国ではなかった(１)◆今から約5...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>卑弥呼が倭国の都とした地は邪馬壱国であって邪馬台国ではなかった<span>(</span>１<span>)<br /><br /></span>◆今から約<span>5000</span>年前<span>(</span>紀元前<span>3000</span>年ころ<span>)</span>の中国の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた史官<span>(</span>記録官<span>)</span>の倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は、【夏の銀河】各部の形状を図案して文字をつくる理論を発明した。<span><br /></span>よって、漢字は【夏の銀河】と呼ばれる【夏にもっとも長時間見ることができる銀河】から作られて起源した。<span><br /></span>「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」と呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。<span><br /></span>「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。<span><br /></span>下に、【夏も銀河のカラー写真】を配した。<span><br /></span>この写真は、<span>PIXTA(</span>ピクスタ<span>)</span>が撮影した。<span><br /></span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/ginga_kara1_20250611135601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Ginga_kara1_20250611135601" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/ginga_kara1_20250611135601.jpg" alt="Ginga_kara1_20250611135601" width="299" height="450" border="0" /></a></p>
<p><br />◆３世紀末に著作された『三国志』における魏書東夷伝<span>(</span>ぎしょとういでん<span>)</span>末尾の倭人伝<span>(</span>わじんでん<span>)</span>は、通称『魏志倭人伝<span>(</span>ぎしわじんでん<span>)</span>』とよばれる。<span><br /></span>３世紀末に著作された『魏志倭人伝』の原書は残っていない。<span><br /></span>『魏志倭人伝』は<span>12</span>世紀末に作られた紹煕刊本<span>(</span>しょうきかんぽん<span>)</span>として残っている。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』は、下に記す３種の事柄を説明していた。<span><br /></span>しかし、学界は定説はじめ有力説にもとづいて、これら３種の説明は誤っていると、下記のごとく否定する。<span><br /></span>【１】『魏志倭人伝』紹煕刊本は「わが国には<span>2</span>世紀末から３世紀中半において漢字知識があった」と記述するが、「わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀である」ゆえ、この記述は誤っている<span><br /></span>【２】『魏志倭人伝』紹煕刊本における九州の末盧国<span>(</span>まつろこく<span>)</span>以下の【方位を示す記事】は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、実際の日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びてない<span><br /></span>だから、邪馬台国説学者たちは『魏志倭人伝』の「日本列島の【東】は【南】に伸びていると説明する転回日本列島地理は事実を伝えるものではない」と主張する<span><br /></span>【３】『魏志倭人伝』紹煕刊本は、女王卑弥呼の王国名を「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国<span>(</span>やまいこく<span>)</span>」と記す。しかし、現在における大多数の学者たちは「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国こそが正しい」と主張する<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』の紹煕刊本における上記の３種の記事はすべて正しかった。<span><br /></span>このブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>39</span>」では「わが国は、紀元前<span>2000</span>年頃の後期縄文時代初頭<span>(</span>中国の夏代黎明期<span>)</span>に、漢字<span>(</span>夏音文字<span>)</span>を習得した事実」を詳細に解説して証明した。<span><br /></span>ゆえに、上記した【１】の『魏志倭人伝』の記述は正しかった。<span><br /></span>このブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>40</span>―１と<span>40</span>―２」では――【２】は卑弥呼が立論した錯覚の転回日本列島地理であった。この転回日本列島地理について『魏志倭人伝』が説明していたことを詳細に解説して証明した。<span><br /></span>この錯覚の転回日本列島地理によって、倭国の大乱が鎮<span>(</span>しず<span>)</span>まった。ゆえに、卑弥呼は倭女王に選ばれ、「倭人国」という名の国家が創設された。よって、この転回日本列島地図は卑弥呼王朝が制定する正式の地図となった。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』が説明する九州以下の本州が【東】ではなく【南】へ伸びる転回日本列島地図を「事実を伝えるものではない」と否定する――邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国説学者たちの主張は、【１】同様に【２】についても事実に反して誤っていたことになる。<span><br /></span>このブログでは、【３】『魏志倭人伝』紹煕刊本に「邪馬壹国<span>(</span>やまいこく<span>)</span>に至る、女王の都とする所なり」と記されたとおり――倭人国の首都所在地の名は「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国」であった事実を証明する。<span><br /></span>ゆえに、「卑弥呼が都とした地は邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国であった」と主張する学者たちやメディアの意見もまた、【１】と【２】と同様に、史料の表層<span>(</span>ひょうそう<span>)</span>を一瞥<span>(</span>いちべつ<span>)</span>しただけの軽率<span>(</span>けいそつ<span>)</span>で粗雑<span>(</span>そざつ<span>)</span>な意見であったことになる。<span><br /><br /></span>◆上記した『魏志倭人伝』紹煕刊本に記述された【１】【２】【３】の３点の事柄は――学界、あるいは考古学界における定説に反する記事・説明」である。<span><br /></span>この３点の記事が原因となって、学者たちは「軽々しく『魏志倭人伝』の記事や説明を信用してはならない。ゆえに、信用してはいけないのはどの点なのか、どのように解釈したならば信用できる意見となるのか、などを示して、『魏志倭人伝』を取りあつかわなければならない」と主張する。<span><br /></span>上記した【１】【２】【３】の記事・説明は「事実を伝えている」と科学的に証明することができる。<span><br /></span>ゆえに、『魏志倭人伝』紹煕刊本の記事・説明は全部正しかったことになる。<span><br /></span>いいかえると、纏向遺跡<span>(</span>まきむくいせき<span>)</span>にもとづく邪馬臺国畿内説と吉野ヶ里遺跡を理由とする邪馬臺国九州説をはじめすべての邪馬臺国説は空想・空理空論であったことになる。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』は多数の学者たちが主張する【邪馬臺国】について説明する古書ではなかった。<span><br /></span>『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論によって漢字が起源した秘密を科学的に解明できる最高・最良の史料】であった。<span><br /></span>要するに、上記した『魏志倭人伝』紹煕刊本における【１】【２】【３】の記事・説明は事実を伝えていたことを証明すれば――『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論】を具体的にしかも科学的に伝えていた書物であったことになる。<span><br /></span>言いかえると、『魏志倭人伝』は――現在、中国において神話とされる五帝時代初頭の黄帝時代<span>(</span>紀元<span>3000</span>年頃<span>)</span>における<span>(A)</span>【倉頡が発明した文字作成理論】、<span>(B)</span>【五帝時代初頭の黄帝時代における最初の文字の作成<span>(</span>字源・字形の原形・原義の成立<span>)</span>】、そして<span>(C)</span>【夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき・紀元前<span>2100</span>年～同<span>2000</span>年頃<span>)</span>における夏音文字<span>(</span>かおんもじ<span>)</span>に関する歴史】が解明できる――神話が歴史に一挙<span>(</span>いっきょ<span>)</span>に大変貌する最高・最良の史料であった。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』は「わが国は、紀元前<span>2000</span>年頃の中国における夏代黎明期<span>(</span>わが国における後期縄文時代初頭<span>)</span>に夏音文字を習得<span>(</span>しゅうとく<span>)</span>した。この夏音文字は卑弥呼時代<span>(</span>２世紀末～３世紀中半<span>)</span>において、倭人国の諸国で常用されていた」と説明している。<span><br /></span>言いかえると、倭の<span>34</span>ヵ国の小国名をあらわす文字は夏音文字を楷書に改めたものであった。<span><br /></span>だから、上記したように、『魏志倭人伝』は卑弥呼王朝が政権基盤とした【学術知識】、つまり【<span>(</span>Ａ<span>)</span>倉頡の文字作成理論、<span>(</span>Ｂ<span>)</span>五帝時代初頭の黄帝に関する歴史、<span>(</span>Ｃ<span>)</span>夏代黎明期に作られた夏音文字と夏代黎明期の歴史】を科学的に具体的に伝える学術書であった。<span><br /></span>したがて、今日の「わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀あるいは６世紀である」と学界が主張する定説は根本的に誤っていた。<span><br /></span>その証拠に――夏音文字は『魏志倭人伝』はじめ、『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘がついて多数残っている。また、『万葉集』において「万葉仮名」とよばれる文字となって多数残っている。<span><br /></span>〔注　ただし夏音文字の字形では残らず、夏音文字は楷書を音符・意符に用いて残る。〕<span><br /><br /></span>◆上記したように、今から約<span>5000</span>年前の五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は、【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。<span><br /></span>倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。<span><br /></span>ゆえに、下記に示す【３つの掟<span>(</span>おきて<span>)</span>】を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳<span>(</span>きび<span>)</span>しい神罰<span>(</span>しんばつ<span>)</span>がくだされて死刑にすると定めた。<span><br /></span>【倉頡が死刑と定めた３つの掟】<span><br /></span>Ⅰ　文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする<span><br /></span>Ⅱ　文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名<span>(</span>名称<span>)</span>をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする<span><br /></span>Ⅲ　書いた文字が用済<span>(</span>ようず<span>)</span>みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪<span>(</span>たいざい<span>)</span>を犯したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする<span><br /><br /></span>上記したように、倉頡は、Ⅲ「文字を書いた後で用済みになっても消さない者、消し忘れた者はもちろんその家族および一族全員を死刑にする」と厳<span>(</span>きび<span>)</span>しい掟を定めた。<span><br /></span>この掟だと文字作成理論や倉頡が作った字を後世の人々が知ることができない。<span><br /></span>後世に倉頡が発明した文字作成理論を伝え、この文字作成理論にもとづいて多数の漢字が作られるようにするために――「名<span>(</span>な<span>)</span>」、つまり「地名はじめ様々な事物の名称など」を文字であらわして残すことを――倉頡は許可した。<span><br /></span>そして、倉頡は――地名は地宜<span>(</span>ちぎ・平面的に図化した地図の形<span>)</span>にもとづいて作る――と定めた。ゆえに、地図<span>(</span>地宜<span>)</span>は王朝が独占管理して絶対に知られないように厳重な機密とされた。<span><br /></span>このため、「倉頡の文字作成理論はじめ黄帝時代や夏代黎明期の歴史を伝える地名」は【学】の字<span>(</span>字源・字義<span>)</span>となり、中国やわが国の「学問の始まり・学術の基盤」となった。<span><br /></span>そして、１世紀末の後漢時代に作られた楷書もまた、基本的に倉頡の文字作成理論に従って夏の銀河各部の形状から作られた。<span><br /></span>ゆえに、倉頡文字はじめ五帝時代に出現した文字<span>(</span>書契・しょけい<span>)</span>と夏代黎明期に作られた夏音文字は後世に作られた楷書の字源となって残った。<span><br /></span>五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は出土史料が発見されていない。<span><br /></span>しかし、上記したように――五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は『魏志倭人伝』に記される楷書を音符・意符に用いる名<span>(</span>地名や事物の名など<span>)</span>で残った。この地名に用いられた文字<span>(</span>漢字<span>)</span>が歴史を伝えることになったため、『魏志倭人伝』は【倉頡が発明した文字作成理論を具体的に詳細に科学的に解明できる最高・最良の書物】となった。<span><br /></span>また、前記したように五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、『古事記』上巻の随所に〔音〕と指摘される楷書で残っており、あるいはまた『万葉集』の万葉仮名<span>(</span>楷書<span>)</span>となって残っている。<span><br /><br /></span>以上のごとく、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、【五帝時代初頭の黄帝時代の書契・倉頡の文字作成理論・夏代黎明期の夏音文字は地名や事物の名をあらわす文字<span>(</span>漢字<span>)</span>となって現存する事実――そしてこの地名や事物の名をあらわす文字は歴史を伝える確かな史料となる事実】を科学的に具体的に証明する。<span><br /><br /></span>◆現在の学者たちは、「中国で最初に文字を作ったと伝える倉頡伝説は荒唐無稽<span>(</span>こうとうむけい<span>)</span>の作り話である」と否定する。<span><br /></span>しかし、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>10</span>」にて、倉頡伝説は事実を伝えていたと解説して証明した。<span><br /><br /></span>倉頡伝説は下記のごとくである。<span><br /></span>「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいた。倉頡は鳥獣の足跡を考案し、はじめて文字を作り、古来の結縄<span>(</span>三皇時代の易占に用いた記号<span>)</span>に代えたので、天は祝福して、禾<span>(</span>か・稲。稲や麦などの穀物<span>)</span>を降らせ、死霊の感泣<span>(</span>かんきゅう<span>)</span>する声が夜な夜な空に聞こえたという。」<span><br /><br /></span>中国の古代において、下図のごとく「顔に目が四つある倉頡の肖像画」が発見されている。<span><br /></span>この「倉頡の肖像画」は、事実を隠蔽<span>(</span>いんぺい<span>)</span>するための騙<span>(</span>だま<span>)</span>し絵であった。<span><br /></span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s64_20250611135701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S64_20250611135701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s64_20250611135701.jpg" alt="S64_20250611135701" width="180" height="219" border="0" /></a> <br />上に示した「倉頡の肖像画」は「人の顔面に四つの目」を描く。<span><br /></span>現代の学者たちは、この「四つ目の倉頡の肖像画」にまんまと騙された。<span><br /></span>これゆえ、彼らは倉頡の肖像画に騙された自らの大失敗にまったく気づかず、倉頡伝説の説明を歪曲<span>(</span>わきょく<span>)</span>して「倉頡伝説は荒唐無稽の作り話。倉頡伝説は信用してはいけない」と声高<span>(</span>こえだか<span>)</span>に主張する。<span><br /><br /></span>上記したように、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」と定めた。<span><br /></span>このため、現在、【夏の銀河の各部の名称】が存在しない。<span><br /></span>しかし、【倉頡の文字作成理論】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】が無いと非常に不便である。<span><br /></span>それゆえ、わたくしは下図のごとく【夏の銀河の各部の名称】を定めた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00003_20250611135801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00003_20250611135801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00003_20250611135801.jpg" alt="00003_20250611135801" width="299" height="433" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図における向かって左上に「十字の銀河」がある。<span><br /></span>この「十字の銀河」の西となりの「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「真実の四つ目の怪人・倉頡」である。<span><br /></span>下に、「十字の銀河と、四つ目の怪人・倉頡<span>(</span>つまり、「鬼の横顔に似る銀河」<span>)</span>を配した。<span><br /></span>下図が示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「顔に両眼<span>(</span>二つの目<span>)</span>となる部位」があり、「後頭部に大きく見開く目が一つ」あり、また「アゴに切れ長の細い目が一つ」ある。<span><br /></span>ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河」は、合計「四つの目」を有する。<span><br /></span>だから、「ほんものの四つ目の怪人・倉頡」は、下図に示した「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」であった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000305_20250611135901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000305_20250611135901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000305_20250611135901.jpg" alt="0000305_20250611135901" width="300" height="291" border="0" /></a><br /><br /></span>前ページで紹介した「四つ目の倉頡の肖像画」は下の「四つ目の鬼の横顔に似る銀河の形」と、まったく異なる。ゆえに、「四つ目の倉頡の肖像画」は「漢字が夏の銀河各部の形状から作られた事実を誤魔化<span>(</span>ごまか<span>)</span>して隠ぺいするための騙し絵」であったことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00009_20250611140001.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00009_20250611140001" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00009_20250611140001.jpg" alt="00009_20250611140001" width="300" height="250" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆倉頡がつかえた黄帝は〔女性の生殖器官と出産〕を研究した。<span><br /></span>倉頡は〔黄帝の女性の生殖器官と出産の研究〕をも、【文字作成理論】に加えた。<span><br /></span>さらに、倉頡は〔天頂緯度線の測量〕をも、【文字作成理論】に加えた。<span><br /><br /></span>したがって、【倉頡が発明した文字作成理論】は<span><br /></span>〔１〕　夏の銀河各部の形状<span><br /></span>〔２〕　黄帝の女性の生殖器官と出産の研究<span><br /></span>〔３〕　天頂緯度線の測量<span><br /></span>の３つの事柄が結合<span>(</span>けつごう<span>)</span>して造形<span>(</span>図化<span>)</span>された。<span><br /></span>ゆえに、〔倉頡が後世に残すことを許可した名<span>(</span>地名はじめ事物の名など<span>)</span>〕は、上記した〔１〕〔２〕〔３〕の３つの事柄が結合して成立した。<span><br /><br /></span>◆上記したように、【倉頡の文字作成理論】には、〔２　黄帝の女性の生殖器官と出産の研究〕が加えられた。<span><br /></span>下図に示すように、倉頡は「ラッパの形に相似する子宮の正面形」を【台】の字<span>(</span>字源・字形・字義<span>)</span>と定めた。<span><br /></span>そして、倉頡は【一】の字を作って「出産児が通過する産道」をあらわすことにした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000313_20250611140101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000313_20250611140101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000313_20250611140101.jpg" alt="0000313_20250611140101" width="300" height="261" border="0" /></a> <br /></span>上図の「女性の生殖器官の正面器官の正面形の上下を反転した図」を、下に示した。<span><br /></span>下の左図に示すように、「台形に相似する形の子宮」は「産道をのせる台<span>(</span>だい<span>)</span>」に観<span>(</span>み<span>)</span>える。<span><br /></span>ゆえに、「子宮の正面形」が【台】の字源となった。<span><br /></span>「子宮で育つ児<span>(</span>こ<span>)</span>」は、今日、「胎児<span>(</span>たいじ<span>)</span>」と呼ぶ。<span><br /></span>「胎児」の【胎】は【肉偏<span>(</span>月<span>)</span>】に【台】を加えた字である。<span><br /></span>だから、【胎】の原字<span>(</span>最初の文字<span>)</span>は【台】であった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000318.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000318" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000318.jpg" alt="0000318" width="300" height="230" border="0" /></a><br /><br /></span>今日、「ヒトの命は、女性が受胎<span>(</span>じゅたい<span>)</span>した卵と男性の精子<span>(</span>せいし<span>)</span>の結合<span>(</span>受精<span>)</span>から始まる」とする。女性の卵巣<span>(</span>らんそう<span>)</span>から排卵<span>(</span>はいらん<span>)</span>された卵は卵管に入り、ふつうはここで精子を受精し、卵管のはたらきによって子宮内へと送られ、肥厚<span>(</span>ひこう<span>)</span>した子宮内膜<span>(</span>しきゅうないまく<span>)</span>の中に入り込んで、着床<span>(</span>ちゃくしょう<span>)</span>する。<span><br /></span>五帝時代は医学の研究・知識が未発達であったゆえ、上記した「女性の卵と男性の精子」、「受精」、「卵管のはたらき」などは「想像・推測」の段階で未解明であった。<span><br /></span>しかし、黄帝は「着床」<span>(</span>上の右図に示した<span>)</span>については解明していた。<span><br /></span>ゆえに、黄帝は「ヒトの命は着床における胎芽期<span>(</span>たいがき<span>)</span>から始まる」と定めた。<span><br /></span>つまり、「胎児期<span>(</span>台の児が成長する時期<span>)</span>」は「<span>(</span>１<span>)</span>胎芽期と第４週前半から第<span>12</span>週ころまでの第１期」、「<span>(</span>２<span>)</span>子宮上部の子宮底<span>(</span>しきゅうてい<span>)</span>のほうに頭をむける第<span>12</span>週から第<span>20</span>週ころまでの第２期」、「<span>(</span>３<span>)</span>子宮底と<span>180</span>度の反対方向にある子宮口<span>(</span>しきゅうこう<span>)</span>のほうに頭を向ける第<span>20</span>週ころから出産予定日となる第<span>40</span>週<span>(10</span>カ月<span>)</span>までの第３期」と区分けされた。<span><br /><br /></span>「産道」は「出産児が通過する道」である。<span><br /></span>この「児の出産期」は「<span>(</span>１<span>)</span>開口期<span>(</span>かいこうき・分娩の始まりから子宮口がすっかり開くまで<span>)</span>の第１期」、「<span>(</span>２<span>)</span>娩出期<span>(</span>べんしゅつき・子宮口がすっかり開いてから出産児の頭が母体の背側に向いて誕生するまで<span>)</span>の第２期」、そして「<span>(</span>３<span>)</span>後産期<span>(</span>こうざんき・誕生した出産児の附属物が娩出されて、出産が完了するまで<span>)</span>の第３期」と区分けされた。<span><br /></span>上記した「胎児期における<span>(</span>１<span>)</span>の胎芽期から出産期において<span>(</span>３<span>)</span>の出産が完了するまでの約十カ月の児の年齢」を、倉頡は「一才」と定めた。<span><br /></span>〔現在は、後産期に生きている出産児の年齢を０才とする〕。<span><br /></span>倉頡は「産道を通過できずに死亡する児」の年齢を「一才」と数えないことにした。<span><br /></span>だから、倉頡は「産道・出産期・出産児」を【一】の字源・字形・字義とした。<span><br /><br /></span>◆前ページにて指摘したように、【倉頡が発明した文字作成理論】には〔３　天頂緯度線の測量〕が加えられて組織された。<span><br /></span>五帝時代、夏代<span>(</span>かだい<span>)</span>、また卑弥呼が生存した２世紀末～３世紀半ばにおいて、人々は〔天頂緯度線〕をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を定めていた。<span><br /></span>というのも、原始のときから人類は〔天頂緯度線をキャッチして、１度の<span>60</span>分の１の１分の精度で測定できる本能<span>(</span>頭脳<span>)</span>と眼力を有していたため生存できたからである。<span><br /></span>だから、人類は途中で滅亡せずに後世へと種<span>(</span>しゅ<span>)</span>を受け継ぐことができた。<span><br /><br /></span>原始、そして五帝時代、夏代の太古、また上古の卑弥呼時代<span>(</span>２世紀末～３世紀半ば<span>)</span>において、人々は〔天の北極の高度〕をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を測定していなかった。<span><br /></span>というのも、【天の北極を基準にして〔緯度〕と〔方角〕を定めると、必ず命を失う】からであった。<span><br /><br /></span>下図は、<span>25,800</span>年で一周する天の北極<span>(</span>円周線上<span>)</span>と北極星の位置図である。<span><br /></span>〔緯度〕は、〔北極星が描く円の中心となる天の北極の高度<span>(</span>地平線・水平線からの高さ〕によって定まる。<span><br /></span>つまり、〔天の北極の高度が<span>35</span>度<span>15</span>分の地点の緯度〕は〔北緯<span>35</span>度<span>15</span>分〕となる。<span><br /></span>北極星が天の北極に最も近づくのは紀元前<span>2790</span>年のりゅう座α星と、西暦<span>2100</span>年ころのこぐま座α星である――天の北極を中心にして円を描く、この二つの北極星の円の直径は約<span>1.5</span>度<span>(</span>約<span>90</span>分<span>)</span>である。<span><br /></span>だから、この二つの北極星で天の北極の高度を緯度に換算する方法だと、約<span>90</span>分の円の直径における中心<span>(</span>天の北極<span>)</span>をキャッチすることになるが――このような方法だと人類の目は命を失わずにすむ１度の<span>60</span>分の１の１分の誤差内で測定することができなかった。<span><br /></span>したがって、北極星と天の北極で緯度測定する方法だと、原始・太古・上古において、定住せずに日々移動するような生活をしていた人類は、その移動生活を始めた直後から緯度<span>(</span>位置<span>)</span>も経度<span>(</span>方角<span>)</span>がまったく不明となって必ず【生】を失い【命】が絶たれた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k51_20250611140301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K51_20250611140301" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k51_20250611140301.jpg" alt="K51_20250611140301" width="262" height="252" border="0" /></a> <br /></span>上図に示したように、卑弥呼時代<span>(</span>２世紀末～３世紀中半<span>)</span>の北極星<span>(</span>こぐま座β星<span>)</span>は天の北極から遠く約<span>10</span>度<span>(</span>１度<span>60</span>分の<span>10</span>倍の、<span>600</span>分<span>)</span>も離れていた。ということは、当時の北極星は天の北極を中心にして直径約<span>1200</span>分の円を描いていたことになる。<span><br /></span>卑弥呼時代の人々にとって直径・約<span>1200</span>分の円を描く、その中心となる天の北極の高度を生存できる１分以内の精度で測定することは不可能であった。<span><br /></span>だから、卑弥呼時代では、【必ず命を失う天の北極】で〔緯度〕と〔方角〕を測定していなかった。<span><br /></span>卑弥呼時代では、【原始のときから１分以内の精度で測量できた天頂点と天頂緯度線と子午線<span>(</span>南北線<span>)</span>を<span>4</span>秒～<span>6</span>秒ぐらいでキャッチする方法】で緯度と方角を測定していたのである。<span><br /><br /></span>◆下に、漢字【亠<span>(</span>とう<span>)</span>】の拡大図を示した。<span><br /></span>下図の【亠】の字形は、天頂点と重なる銀河部位が天頂に位置するときに形成される。<span><br /></span>脳にそなわる本能と神秘的な眼力によって原始のときから、ヒトは<span>[</span>天頂点と重なる銀河部位の軌道における、【亠】つまり「天頂点と天頂緯度線と南北線<span>(</span>子午線<span>)</span>」<span>]</span>をキャッチすると、１度の<span>60</span>分の１の１分以内の誤差内で測定できた。<span><br /></span>ゆえに、原始・太古・上古・古代の人々は天頂緯度線を測定する眼力と技術を日々鍛錬<span>(</span>たんれん<span>)</span>して〔緯度〕と〔方角〕を精確<span>(</span>せいかく<span>)</span>に測量できた。ゆえに、はるか遠くの地を旅してもあるいは大海を渡っても、家族が待つ家に帰還<span>(</span>きかん<span>)</span>することができた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000031_20250611140401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000031_20250611140401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000031_20250611140401.jpg" alt="000031_20250611140401" width="300" height="232" border="0" /></a> <br /><br /></span>下に、上図【亠】について説明した〔天頂点と重なる銀河部位の軌道図〕を配した。<span><br /></span>〔天頂点と重なる銀河部位が天頂に位置するとき〕、１度の<span>60</span>分の１の１分の誤差内で精確に測定できる【亠】が形成される。<span><br /></span>これゆえ、天頂緯度線測量の眼力と技術を鍛錬した人類は【亠】<span>(</span>天頂点・天頂緯度線・子午線<span>)</span>をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を知ることができた。だから、人類ははるか遠くに旅してもあるいは大海を渡っても、家族が待つ家に帰還することはできたのである。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000157_20250611140501.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000157_20250611140501" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000157_20250611140501.jpg" alt="0000157_20250611140501" width="300" height="296" border="0" /></a> <br /><br /></span>原始のときから現在まで、天の北極を基準にして〔緯度〕と〔方角〕を１分以内の精度で測量することはできなかった――これは、科学的に証明できる明白なる事実である。<span><br /></span>その証拠に、現在においても、精確に緯度を測量しなければならないときは【亠】をキャッチして〔経度〕と〔緯度〕を計測している。<span><br /></span>つまり、現在、〔精密な日本列島地図〕は〔旧東京天文台の子午儀の中心（東京都港区麻布飯倉<span>3</span>ー<span>18</span>）の経度<span>(</span>東経１<span>39</span>度<span>44</span>秒<span>)</span>と緯度<span>(</span>北緯<span>35</span>度<span>39</span>秒<span>)</span>を原点〕と定めて作製されている。<span><br /></span>現在の北極星<span>(</span>こぐま座α星<span>)</span>は天の北極に接近して約直径<span>100</span>分の円を描いているが、現在の発達した道具をもってしても精確に１秒以内の誤差内で〔緯度<span>(</span>東西<span>)</span>〕と〔経度<span>(</span>南北<span>)</span>〕が測量できない。<span><br /></span>ゆえに、旧東京天文台の子午儀の中心の天頂【亠】をキャッチして〔緯度〕と〔経度〕を測定して、精密な日本列島地図を作製している。<span><br /></span>だから、古代歴史学においては「人類は〔天の北極星〕を基準にして〔緯度〕と〔経度〕を測定して生存していたのではなく、天頂【亠】をキャッチして生存していたと断定しなければならない」。<span><br /></span>考古学者はじめ様々な分類の古代歴史学者たちは、原始のときから人類は天頂【亠】をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を測定していた事実にまったく気づいていない。彼らは、〔天の北極〕で〔緯度〕と〔方角〕を測定していたと思い込んでいる。<span><br /></span>だから、学者たちは、『魏志倭人伝』が「日本列島の【東】は【南】に伸びる」と説明する転回日本列島地理は「天頂緯度線」をあらわす【亠】と「産道を通過する出産児の時計回りに<span>90</span>度転回する第一回旋<span>(</span>だいいちかいせん<span>)</span>と第四回旋が合体して成立した方位規定」をあらわす【倭<span>(</span>わ<span>)</span>】の字源に則<span>(</span>のっと<span>)</span>って錯覚した史実であった状況を解明することができない。<span><br /></span>卑弥呼は天頂【亠】にもとづいて〔緯度〕と〔方角〕を定めるものであったゆえ、日本列島の【東】は【南】に伸びると錯覚した。<span><br /></span>当時、学術<span>(</span>倉頡の文字作成理論<span>)</span>に長<span>(</span>た<span>)</span>けた諸国の王や王女、氏族の首長、巫女<span>(</span>みこと<span>)</span>と覡<span>(</span>げき・神官<span>)</span>たちは天頂【亠】にもとづいて〔緯度〕と〔方角〕を定めていた。ゆえに、彼らは卑弥呼が提唱した転回日本列島地理は神聖な真実を示していると断定して、錯覚地理であるとは考えなかったのである。<span><br /></span>このような事情を知らない邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国説学者たちは「『魏志倭人伝』が説明する転回日本列島地理は史実ではない」と否定する。ゆえに、「天の北極で緯度と方角を定めていた」と思い込む彼らの意見はきわめて非科学的な空想や空理空論の類<span>(</span>たぐい<span>)</span>ということになる。<span><br /></span>以上のごとく、〔天の北極の高度による緯度測量〕と〔天頂緯度測量〕を比較すれば、邪馬臺国説が空理空論であることはいとも簡単に明白となる。<span><br /><br /></span>五帝時代・夏代・卑弥呼時代、「観測地点の緯度天頂緯度は同数」と定めていた。<span><br /></span>つまり、現在、「北緯<span>35</span>度<span>35</span>分の天頂緯度」は「＋赤緯<span>(</span>プラスせきい<span>)35</span>度<span>35</span>分」である。<span><br /></span>このように「観測地点の北緯」と「＋赤緯」は同数である。<span><br /></span>だから、このブログでは「観測地点の天頂緯度」と「観測地点の緯度」は同数とする。<span><br /></span>このブログでは北緯の数値を記して、この数値をもって天頂緯度<span>(</span>＋赤緯<span>)</span>をもあらわすことにした。<span><br /><br /></span>前記したように、原始のときから古代において、天頂緯度をキャッチすれば〔緯度〕と〔方角〕を正しく計測できた。<span><br /></span>だから、原始のときから人類は天頂【亠】をキャッチして〔緯度〕と〔方角〕を精確に測定して生存していたのである。<span><br /><br /></span>◆下に、「天頂緯度を測定する人の姿勢<span>(</span>側身形<span>)</span>」を図示した。<span><br /></span>天頂緯度をキャッチするためには、【身】の金文形が示しているように――胎児をみごもる出産まぢかの妊婦の側身形のごとく前へお腹<span>(</span>おなか<span>)</span>をつき出さなければならない。<span><br /></span>ゆえに、わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』<span>(</span>平凡社発行<span>)</span>は、【身】の金文形を「みごもっている人の側身形」と解説する。<span><br /><br /></span>天頂緯度を測量するときには「必ず天頂を測定するぞ」と欲を有すると天頂緯度の測定を失敗する。<span><br /></span>天頂緯度を測量するときには〔産道を通過する出産児のごとく無欲〕になれば、天頂緯度がキャッチできる。<span><br /></span>天頂緯度を測定する人の姿勢は出産第１期<span>(</span>開口期・かいこうき<span>)</span>の終わりの出産児のごとくのポーズとなる。つまり、出産児の顔は仰向<span>(</span>あおむ<span>)</span>けになって子宮口<span>(</span>しきゅうこう<span>)</span>に頭を入れる。<span><br /></span>また、出産第２期<span>(</span>娩出期・べんしゅうき<span>)</span>の終わりでは、天頂緯度を測定する人の姿勢のごとく出産児の顔は仰向けになって母体の背側に向ける。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000132_20250611140701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000132_20250611140701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000132_20250611140701.jpg" alt="0000132_20250611140701" width="300" height="374" border="0" /></a> <br /><br /></span>下に、上記末部に「出産第２期<span>(</span>娩出期・べんしゅうき<span>)</span>の終わりでは、天頂緯度を測定する人の姿勢のごとく出産児の顔は仰向けになって母体の背側に向ける」と説明した――出産第２期<span>(</span>娩出期<span>)</span>の終わりにおける出産児の側身形を示した。<span><br /></span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000319.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000319" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000319.jpg" alt="0000319" width="300" height="320" border="0" /></a></p>
<p><span><br /></span>以上のごとく、天頂緯度を測定するときの心得・ポーズ<span>(</span>姿勢<span>)</span>は産道を通過する出産児の様子に合致した。<span><br /></span>ゆえに、前記したように【倉頡が発明した文字作成理論における方位規定】では〔黄帝の女性の生殖器官<span>(</span>子宮や産道<span>)</span>と出産の研究〕と〔天頂緯度線の測量〕が結合することになった。<span><br /></span>また、〔夏の銀河における各部の形状〕は〔女性の生殖器官と出産の様子・イメージ〕を明確に印象深く示し、さらに〔夏の銀河の各部位から中国各地の天頂緯度がキャッチすることができた〕。<span><br /></span>これゆえ、前記したように【倉頡が発明した文字作成理論】では〔夏の銀河各部の形状〕をもって〔女性の生殖器官と出産の様子・イメージ〕と〔天頂緯度の測量の様子・イメージ〕が図化<span>(</span>造形<span>)</span>されることになった。<span><br /><br /></span>◆『魏志倭人伝』は前半部にて「邪馬壹国<span>(</span>やまいこく<span>)</span>、女王の都とする所なり」と記述する。<span><br /></span>そして、『魏志倭人伝』は末部で「壹与<span>(</span>いよ<span>)</span>、倭の大夫<span>(</span>たいふ<span>)</span>の率善中郎将<span>(</span>そつぜんちゅうろうしょう<span>)</span>の掖邪狗<span>(</span>ややこ<span>)</span>等二十人を遣<span>(</span>つか<span>)</span>わし、政<span>(</span>せい<span>)</span>等の還<span>(</span>かえ<span>)</span>るを送らしむ。因<span>(</span>よ<span>)</span>りて臺<span>(</span>だい<span>)</span>に詣<span>(</span>いた<span>)</span>る」と記述する。<span><br /></span>上記したように、『魏志倭人伝』は「倭の使節の率善中郎将の掖邪狗等二十人が魏の出張機関政庁が所在する韓国の帯方郡<span>(</span>たいほうぐん<span>)</span>に到着すると、<span>(247</span>年・魏の正始<span>8</span>年<span>)</span>に張政等が帯方郡の大守<span>(</span>たいしゅ<span>)</span>に就任した魏都の洛陽<span>(</span>らくよう<span>)</span>へ送り還<span>(</span>かえ<span>)</span>らせることになった。よって倭の使節の掖邪狗一行は臺<span>(</span>魏都・洛陽<span>)</span>に参詣した」と説明する。<span><br /><br /></span>上記したように、「倭女王・卑弥呼が都と定めた邪馬壹国」という記事における「邪馬壹国」の【壹】は、倉頡が作った【一】「産道<span>(</span>出産児が通過する道<span>)</span>。出産」を夏の始祖・禹が改めた字であった。<span><br /></span>したがって、【壹】の字は倉頡の【一】と同じく「産道。出産」をあらわした。<span><br /></span>また、「因りて臺に詣る」という記事の【臺】は、倉頡が作った【台】「子宮。胎児」を夏の始祖・禹が改めた字であった。<span><br /></span>ゆえに、【臺】の字は倉頡の【台】と同じく「子宮。胎児」をあらわした。<span><br /><br /></span>そして、【一】と【壹】は「無事に産道を通過して誕生した児」のイメージから「旦<span>(</span>朝日<span>)</span>。朝<span>(</span>東北の地平線上に昇る夏至の朝日が刺す光景<span>)</span>」をあらわすことになった。<span><br /></span>また、【台】と【臺】は「子宮組織と結合する着床」のイメージとなるとされて「夕日。夕<span>(</span>地平線下に没する直前の夏至の夕日が照る光景<span>)</span>」をあらわすことになった。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』を著作した晋<span>(</span>しん<span>)</span>につかえた著作郎<span>(</span>ちょさくろう・歴史編纂官<span>)</span>の陳寿<span>(</span>ちんじゅ<span>)</span>は、禹によって「魏の都・洛陽」を【臺】とあらわすことになった事情を知っていたのである。<span><br /></span>また、陳寿は上記したように――【一】と【壹】は「産道。出産。朝日。地平線上に昇る夏至の朝日の刺す光景など」をあらわし、【壹】の下の【豆】は「産道を通過する出産児の頭」、つまり【頭】の原字である秘密を知っていた。<span><br /></span>また、陳寿は倉頡が作った【台】を禹が【臺】の字に改め、その【台】と【臺】は「子宮。胎児。夕日。地平線下に没する夏至の夕日が照る光景など」をあらわし、【臺】の下の【至】は「子宮組織と結合する着床」をあらわすことを知っていたのである。<span><br /></span>だから、陳寿は「倭人国の首都所在地の名は邪馬壹国である」と確信していたにちがいない。<span><br /><br /></span>◆中国の五経<span>(</span>ごきょう<span>)</span>の第一にあげられる『易経<span>(</span>えききょう<span>)</span>』の繋辞上伝<span>(</span>けいじじょうでん<span>)</span>には、下記のごとくの文がある。<span><br /></span>「易は天地と準<span>(</span>なぞらう<span>)</span>う。故に能<span>(</span>よ<span>)</span>く天地の道を弥綸<span>(</span>びりん<span>)</span>す。仰いでもって天文を観<span>(</span>み<span>)</span>、俯<span>(</span>ふ<span>)</span>してもって地理を察<span>(</span>あきらか<span>)</span>にする」<span><br /></span>この文の先頭の【易】の字源を、『説文解字』は「蜥易<span>(</span>せきえき<span>)</span>なり」と解説する。<span><br /></span>「蜥易<span>(</span>蜥蜴<span>)</span>」は「トカゲ」を意味する。<span><br /></span>トカゲは「必ずもとの巣にもどる」という帰家性<span>(</span>きかせい<span>)</span>を有する。<span><br /></span>ゆえに、【易】の字源は「遠い地に旅する人が必ず家族が待つ家に帰還することができた、天頂緯度線をキャッチして緯度と経度を１度の<span>60</span>分の１の１分の誤差内で測量できる術<span>(</span>じゅつ・技術<span>)</span>」であった。<span><br /><br /></span>上記した『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸<span>(</span>びりん<span>)</span>す」という文中にある「弥綸」という語は「洩れなく包みこむ、つくろいおさめる」と意味する。<span><br /></span>下図に示すようにーー中国全土の地図の形は、山東半島が水鳥の【弥<span>(</span>カンムリカイツブリ<span>)</span>】の頭部に相似すると見立てられ、山東半島の付け根の胸部では左<span>(</span>北<span>)</span>と右<span>(</span>南<span>)</span>に羽根の形となって分かれる。その羽根は長江口<span>(</span>ちょうこう<span>)</span>と杭州湾<span>(</span>こうしゅうわん<span>)</span>で破れ裂ける形となるが、杭州湾の南岸から円弧を描いてつくろいおさまって羽根の形にもどる。<span><br /></span>ゆえに、中国中国全土の地図の形は「海岸線の水鳥【弥】<span>(</span>カンムリカイツブリ<span>)</span>が羽根をひろげて飛ぶ姿に洩れなく包まれる形」となる。<span><br /></span>だから、下図は上記した『易経』繋辞上伝の「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察<span>(</span>あきらか<span>)</span>にする」という文をあらわした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k361.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K361" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k361.jpg" alt="K361" width="231" height="326" border="0" /></a> <br /><br /></span>というのも、下図に示すように、地図の形は「【弥】の頭部の形に相似すると解された『山東半島の地図の形はオス鹿の横顔』にも相似する」と見立てられ、「山東半島の北にある、廟島列島<span>(</span>びょうとうれっとう<span>)</span>の地図の形」は「オス鹿の角<span>(</span>つの<span>)</span>」に見立てられたからである。<span><br /></span>ゆえに、下図の「廟島と山東半島の地宜<span>(</span>地図の形<span>)</span>」は【道】の字源となった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s114_20250611141101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S114_20250611141101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s114_20250611141101.jpg" alt="S114_20250611141101" width="195" height="286" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図に示すように、「天頂に位置する、十字の銀河」は「オス鹿の角の形」に相似すると見立てられ、「十字の銀河より南の銀河」は「オス鹿の横顔」に見立てられ、「鬼の姿に似る銀河」は「鹿の背中」に見立てられた。<span><br /></span>ゆえに、「十字の銀河・鬼の姿に似る銀河・十字の銀河より南の銀河」は【道】の字源となった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s756.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S756" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s756.jpg" alt="S756" width="256" height="272" border="0" /></a> <br /><br /></span>上の左側の【道】の字における「鹿の角の、東西南北をあらわす十字の形」は【行】の字源となる。<span><br /></span>下図の左上に【行】の契文形<span>(</span>けいぶんけい・甲骨文字の字形<span>)</span>を配した。<span><br /></span>白川静著『字統』は【行】の字を「十字路の形」と解説する。<span><br /></span>したがって、下の右図に示すように「十字の銀河の胸部」が「東西南北の十字路の形」を示すゆえ、【行】の字源・字形・字義は「十字の銀河の胸部」であった。<span><br /></span>下の左側下に、【十】の契文形を配した。<span><br /></span>【十】の字源を、『説文解字』は「数の具<span>(</span>そな<span>)</span>はれるものなり。一は東西と為<span>(</span>な<span>)</span>し、丨<span>(</span>こん<span>)</span>は「南北」と為す。則<span>(</span>すなわ<span>)</span>ち四方中央が備<span>(</span>そな<span>)</span>わり」と解説する。<span><br /></span>白川静著『字統』は契文・金文が【十】を【丨】の形に図案するのを注目して――『説文解字』の【十】の字形解説と異なり「算具に用いる縦<span>(</span>たて<span>)</span>の木の線である」と批判する。<span><br /></span>しかし、下の右図に示したように――黄帝につかえた倉頡が【文字作成理論】を発明した約<span>5000</span>年前、倉頡や黄帝が居住していた本拠地であったにちがいない黄帝陵<span>(</span>こうていいりょう<span>)</span>の天頂緯度線<span>(35</span>度<span>35</span>分<span>)</span>は「十字の銀河の頭部の中央」を貫通<span>(</span>かんつう<span>)</span>していた。<span><br /></span>この天頂緯度線【一<span>(</span>東西<span>)</span>】の中央に【丨<span>(</span>南北・経度線<span>)</span>】を交差させると――「十字の銀河の胸部」で【十】つまり「十字路」の形となる。<span><br /></span>ゆえに、【十】の契文形の【丨】は「黄帝陵の経度線」、【十】の金文形の【丨】は「南北線<span>(</span>経度線<span>)</span>上に緯度の目盛を一点加えた図案」であった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000320.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000320" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000320.jpg" alt="0000320" width="299" height="305" border="0" /></a> <br /><br /></span>黄帝時代、こと座γ星が黄帝陵の天頂にめぐってきた。<span><br /></span>「こと座α星・ベガ」は「七夕<span>(</span>たなばた<span>)</span>星」と呼ばれる。<span><br /></span>「こと座の北部」は「三角形」、「こと座の南部」は「四角形<span>(</span>菱形<span>)</span>」で構成される。ゆえに「三角形＋四角形＝七角形」となる。だから、「こと座ベガ」は「七夕星」というぐあいに【七】の字を用いて表記された。<span><br /></span>この【七】の契文と金文の両字形は、【十（十字形）】に図案された。<span><br /></span>ゆえに、【七】の【十】との混同をふせぐために、上図に示した「十字の銀河における十字形となる胸部」は【丨】の形に図案されることになった。<span><br /><br /></span>「天の十字の銀河と地の廟島列島」は共<span>(</span>とも<span>)</span>に「オス鹿の横顔の角の形」に見立てられて、【道】という名<span>(</span>な<span>)</span>、つまり【道】の字源・字形<span>(</span>原形<span>)</span>・字義<span>(</span>原義<span>)</span>となった。<span><br /></span>ゆえに、『易経』繋辞上伝は「易は天地と準う。故に能<span>(</span>よ<span>)</span>く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」と説明した。<span><br /></span>この文中にある「弥綸」という語は「【弥】の字源・水鳥のカンムリカイツブリが羽根をひろげて空を飛ぶ姿に観える地図の形は中国全土を洩れなく包みこむ」と意味した。<span><br /></span>この「弥綸」と表現される海岸線の地図の形は――五帝時代の最後<span>(</span>五番目<span>)</span>の帝に就任した舜<span>(</span>しゅん<span>)</span>が益氏<span>(</span>えきし<span>)</span>の首長に「虞<span>(</span>ぐ<span>)</span>」という重職に就<span>(</span>つ<span>)</span>くように命令し、夏代黎明期までおよそ<span>200</span>年間も益氏が「虞」の役職を代々務めた功績<span>(</span>こうせき<span>)</span>によって精確になったと考えられる。<span><br /></span>「虞」という役職は「中国全土を洩れなく包みこむ精確な海岸線地図と、中国各地の山林・湖沼・川沢の精確な地図を作製する長官」であった。<span><br /></span>五帝時代末の帝舜の時代では、すでに「十字の銀河」で「精確な地図を作製するための経緯度原点<span>(</span>経度と緯度が交わるの原点<span>)</span>」を設定し、「土地を三角測量して、精確な地図を作製する方法」、つまり「現代の精密日本列島地図を作製する方法の原則」が確立されていたことになる。<span><br /></span>ゆえに、益氏は中国全土を弥綸する中国海岸地図はじめ、各地にある山林・湖沼・川沢などの地図を精確に作製していたことになる。<span><br /><br /></span>中国において、「易」は約<span>6000</span>年前の三皇<span>(</span>さんこう<span>)</span>時代<span>(</span>わが国の前期縄文時代<span>)</span>から始まった。<span><br /></span>ゆえに、「遠い地に旅する人が必ず家族が待つ家に帰ることができる技術の易」には「地宜<span>(</span>ちぎ・平面的に図化した地図の形<span>)</span>」が必要となった――このため、包犠氏<span>(</span>ほうぎし<span>)</span>の首長が天下を治めた三皇時代初頭から地図の作製が起源したと考えられる。<span><br /></span>包犠氏、女媧氏<span>(</span>じょかし<span>)</span>、神農氏<span>(</span>しんのうし<span>)</span>が天下を治めた三皇時代から五帝時代初頭の黄帝が姓を「公孫<span>(</span>こうそん<span>)</span>」、名を「軒轅<span>(</span>けんえん<span>)</span>」であった帝王となる以前において――下図に示すように、「山東半島から南の弥<span>(</span>カンムリカイツブリ<span>)</span>の首と羽根が交わる胸部までの地図の形」と、「山東半島から西の黄河口<span>(</span>こうがこう<span>)</span>・渤海湾<span>(</span>ぼっかいわん<span>)</span>西岸までの地図の形」が明らかになっていたと考えられる。<span><br /></span>この三皇時代から五帝時代黎明期までの地図の作製方法は「十字の銀河」で「地図の経緯度原点」を設定して、「経度と緯度が四点で交わる方形」をもって地図が作製されていたと考えられる。ゆえに、当時、「三角測量」はいまだ確立されていなかったことになる。<span><br /></span>ゆえに、前記した『易経』繋辞上伝の文中における「故に能く弥綸す」という記事を省<span>(</span>はぶ<span>)</span>く「易は天地と準う。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文は、三皇時代から五帝時代黎明までの地図作製方法を伝えていたことになる。<span><br /></span>というのも、『説文解字』は【準】の字源を「平<span>(</span>たいら<span>)</span>なり」と解説するからである。<span><br /></span>ゆえに、当時は「天の夏の銀河の形は高低差がなく平らである」と定め、「地理の形にもまた高低差がなく平らである」と定めて地図が作製されていたことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000184_20250611141401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000184_20250611141401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000184_20250611141401.jpg" alt="0000184_20250611141401" width="299" height="331" border="0" /></a> <br /></span>上図に示すように、黄河口の東海岸を擦<span>(</span>こす<span>)</span>る経度線<span>(</span>東経<span>118</span>度<span>48</span>分<span>)</span>より少し西にずれる地所に所在する「莒県<span>(</span>チュウシエン<span>)</span>陵陽河<span>(</span>りょうようが<span>)</span>の遺跡」から、「灰陶尊<span>(</span>かいとうそん<span>)</span>」と呼ばれる、灰色の爆弾型の土器が出土した。<span><br /></span>県名に用いられる【莒<span>(</span>きょ<span>)</span>】の字義は「いも」である。<span><br /></span>「灰陶尊の酒器の形」は、「十字の銀河」の西方にある「人の横顔に酷似<span>(</span>こくじ<span>)</span>する銀河」に似せて作られた。この「人の横顔に酷似する銀河」は「長<span>(</span>なが<span>)</span>いも<span>(</span>俗称・とろろいも／白い色のとろろ汁を作るいも<span>)</span>の形」に相似すると見立てられた。<span><br /></span>ゆえに、「人の横顔に酷似する銀河」と「灰陶尊」は【莒】の字義「長いもの形」に似せて造形されることになった。<span><br /></span>【艸<span>(</span>草冠<span>)</span>】の下の【呂<span>(</span>りょ<span>)</span>】を『説文解字』は「背呂<span>(</span>はいりょ<span>)</span>なり」と解説して「背骨<span>(</span>せぼね<span>)</span>」であると説明する。<span><br /></span>上図に示したように、莒県陵陽河の経度線<span>(</span>東経<span>118</span>度<span>48</span>分<span>)</span>が擦<span>(</span>こす<span>)</span>る黄河口の地点は「廟島列島・山東半島が相似するオス鹿の横顔に対して、背骨の上端<span>(</span>北端<span>)</span>」となる。<span><br /></span>ゆえに、「黄河口北端と莒県陵陽河を結ぶ経度線」は「背骨」のイメージとなる。<span><br /></span>「陵陽河」の【陵】の字は上記した「字形が【丨】となった十字の銀河の銀河における十字形の胸部」と、また「【十】字形にデザインされた【七】の字源の七角形のこと座」を意味した。<span><br /></span>次の【陽】は「人の横顔に酷似する銀河におけるはくちょう座γ星」と、また「夏の夜に、もっとも明るく、もっとも青白く輝く、最輝星<span>(</span>さいきせい<span>)</span>のこと座・ベガ<span>(</span>七夕星<span>)</span>」】はあらわした。<span><br /></span>黄帝時代、【陽】の字源となった「はくちょう座γ星」と「こと座γ星」の両星は黄帝陵<span>(</span>北緯<span>35</span>度<span>35</span>分<span>)</span>の天頂にめぐってきた。<span><br /></span>最後の【河】の字は、【呂】の字と同じく「黄河口<span>(</span>黄河の河口<span>)</span>」を意味した。<span><br /></span>結局<span>(</span>けっきょく<span>)</span>、灰陶尊が出土した遺跡名「莒県陵陽河」は、「瘤<span>(</span>こぶ<span>)</span>のような形をした黄河口の東海岸をこする経度線<span>(</span>東経<span>118</span>度<span>48</span>分<span>)</span>から少し西にずれる、黄河口の南方にある地所の名<span>(</span>名称<span>)</span>」をあらわしていたことになる。<span><br /><br /></span>◆灰陶尊は、年代測定によって約<span>5000</span>年前<span>(</span>紀元前<span>3000</span>年頃<span>)</span>の遺物とされた。<span><br /></span>ゆえに、灰陶尊は五帝時代黎明期の黄帝が公孫軒轅<span>(</span>こうそんけんえん<span>)</span>と呼ばれていた時代の遺物であったと考えられる。<span><br /><br /></span>灰陶尊の口縁部<span>(</span>こうえんぶ<span>)</span>の近くには、下図の右上に配する図書<span>(</span>ずしょ<span>)</span>がある。この図書を、中国の学界では「漢字の原型」と考えている。<span><br /></span>下図の右上の図書のうち、「<span>(</span>１<span>)</span>最上部は日輪<span>(</span>太陽<span>)</span>」、「<span>(</span>２<span>)</span>中央は【幽】の原型」、「<span>(</span>３<span>)</span>最下部は真っ赤に燃える火炎、つまり地中の太陽」〕をあらわしていたと考えられる。<span><br /></span>「<span>(</span>２<span>)</span>中央」の図書は、下図の右下の【幽】の契文形<span>(</span>けいぶんけい・甲骨文字の字形<span>)</span>における下部の図書に相似する。<span><br /></span>【幽】の字は「火に燻ぶって黒くなる」を意味する。<span><br /></span>この<span>(</span>１<span>)(</span>２<span>)(</span>３<span>)</span>が一体化した図書を、中国の学界では【旦<span>(</span>たん<span>)</span>】をあらわしていると考えている。<span><br /></span>ゆえに、灰陶尊の図書は「幽<span>(</span>かす<span>)</span>かにうす暗い、日が出ずる【旦】<span>(</span>朝<span>)</span>の赤く染まる東の空」を表現していたことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000176_20250611141501.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000176_20250611141501" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000176_20250611141501.jpg" alt="0000176_20250611141501" width="299" height="399" border="0" /></a> <br /><br /></span>夏至の日の朝の太陽は、東から<span>30</span>度の東北の地点から昇る。<span><br /></span>下図に示すように、五帝時代黎明期また今日においても――「夏至の日の朝、【山東半島の付け根に所在する日照の海岸から東北<span>30</span>度の地点となる山東半島の東端の石島<span>(</span>中国では「シータオ」と音する<span>)</span>の海岸】から太陽が昇る景色<span>)</span>」が見える。<span><br /></span>だから、莒県陵陽河<span>(</span>きょけんりょうようが<span>)</span>の遺跡から出土した灰陶尊の図書は「夏至の日の朝(中国時間・午前5時32分ころ、日本時間・午前6時32分ころ)、日照の海岸にて目撃できる石島から日が出ずる【旦】の景色」を表現していたことになる。<br />前記したように、倉頡は「日が出ずる朝」を「産道・出産」に見立てて【一】と定めた。<span><br /></span>夏代黎明期、“夏の始祖”の禹<span>(</span>う<span>)</span>は――壺<span>(</span>子宮・産道<span>)</span>のうち、豆<span>(</span>頭<span>)</span>を前にして産道<span>(</span>壺の上部<span>)</span>を進み、膣口<span>(</span>ちつこう<span>)</span>から頭が誕生するまでの様子をあらわす、倉頡が作った【一】の「字源・字義」――をあらわす【壹】の字を作った。<span><br /></span>ゆえに、下図に示すように――「石島の海岸から上る朝日」は「産道・出産」をあらわして【一】・【壹】を示すことになった。<span><br /></span>このため、「観測地地点の日照の海岸」も【一】・【壹】をあらわすことになり、「日照と同緯度<span>(</span>北緯<span>35</span>度<span>35</span>分<span>)</span>の黄帝陵」もまた【一】・【壹】を表示することになった。<span><br /></span>その証拠に、「黄帝陵」は「黄帝を祀<span>(</span>まつ<span>)</span>る廟<span>(</span>びょう<span>)</span>」である。<span><br /></span>【廟】は【广<span>(</span>げん<span>)</span>】の右下に【朝】を加わる字であるから、【旦】・【朝】をあらわす【一】・【壹】となる。<span><br /></span>下図の右上にある「オス鹿の角に見立てられた廟島列島<span>(</span>びょうとうれっとう<span>)</span>」も「石島」と同じく【旦】・【朝】をあらわす【一】・【壹】の字源となった。その証拠に、「廟島列島」の【廟】もまた【广<span>(</span>げん<span>)</span>】の右下に【朝】を加える字であるから、【朝】は【一】・【壹】をあらわしている。<span><br /></span><span></span></p>
<p><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000321_20250702161801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000321_20250702161801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000321_20250702161801.jpg" alt="0000321_20250702161801" width="300" height="338" border="0" /></a> <br /><br /></span>白川静著『字統』（平凡社発行）は、【廟】の字について「广（げん）」と朝とに従う。もと朝礼を行なうところで、それがまた廟所であったが、のち祭政が分離して、宗廟の意とある」と解説する。<span><br /></span>つまり、上図に示したように――【廟】の字源は「日照の海岸と山東半島の東端の石島を結ぶ方角<span>(30</span>度の方角<span>)</span>から上る夏至の日に朝日が出ずる景色を祭る儀式・儀礼」であった。<span><br /><br /></span>◆下図の左上に、「渤海湾<span>(</span>ぼっかいわん<span>)</span>の西海岸・黄河口の北海岸・莱州湾<span>(</span>らいしゅうわん<span>)</span>の東海岸を太い直線で結んだ」。<span><br /></span>この「太い直線」は、【邪<span>(</span>なな<span>)</span>めの線】となる。<span><br /></span>この【邪めの線】は「産道を通過して出産する【馬】・フタコブラクダの子の姿」をあらわした。<span><br /></span>下図の左上に「折れ曲がる瘤<span>(</span>こぶ<span>)</span>」と記したように――「産道を通過して出産するときの【馬】・フタコブラクダの子の瘤」は「親のフタコブラクダのごとく山なりに隆起せず、背中から薄い板のごとくなって折れ曲がる。ゆえに、産道を通過するときのフタコブラクダの子の背中は平らとなる」。<span><br /></span>つまり、「出産するフタコブラクダの子の瘤は産道に突っかかって通過の邪魔<span>(</span>じゃま<span>)</span>にならないよう折れ曲がり、産道の通過が円滑<span>(</span>えんかつ・スムース<span>)</span>になるように背中が平らとなる」。<span><br /></span>だから、下図における「山東半島」は「出産するフタコブラクダの子の頭・顔の形」に、「莱州湾<span>(</span>らいしゅうわん<span>)</span>」は「出産するフタコブラクダの子の後頭部の形」に、「渤海湾と黄河口の両北岸を結ぶ直線」は「産道を通過するフタコブラクダの子の瘤が折れ曲がって平らとなる背の形」になり――「産道を通過する、瘤<span>(</span>こぶ<span>)</span>が折れ曲がって背中が平らとなる【馬】・フタコブラクダの子の体形」は「邪めに曲がる」。<span><br /></span>なお、「山東半島東端の石島から青島<span>(</span>ちんたお<span>)</span>までの地図の形」もまた「【馬】・フタコブラクダのアゴ・首の形」に酷似する。<span><br /></span>ゆえに、下図における「渤海湾と黄河口の両北岸を結ぶ直線は邪めに曲がる体形」をあらわすゆえ【邪】、「産道を通過するフタコブラクダの頭・顔の形」は【馬】、「石島が所在する山東半島の東海岸」は「旦・朝日・出産」が意となる【壹】をあらわした。<span><br /></span>だから、「山東半島とその付け根となる北と南の海岸の地図の形」は、「邪馬壹<span>(</span>やまい<span>)</span>」と名づけられることになった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000322.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000322" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000322.jpg" alt="0000322" width="299" height="320" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図の「邪馬壱の体形」は、背中と頭の状況が――不自然な形となる。<span><br /></span>ゆえに、「邪馬壱の体形」が「自然体となるイメージ図<span>(</span>印象図<span>)</span>」を下図に示した。<span><br /></span>黄帝時代や夏代黎明期はじめその後の契文<span>(</span>甲骨文字<span>)</span>や金文および楷書なども倉頡の文字作成理論にもとづいて、【<span>(</span>１<span>)</span>夏の銀河各部の形状、<span>(</span>２<span>)</span>天頂緯度観測、<span>(</span>３<span>)</span>黄帝の女性生殖器と出産の医学研究のイメージ】が結合されて図案された。<span><br /></span>だから、黄帝時代に作られた原初漢字・書契<span>(</span>しょけい<span>)</span>と夏代黎明期に作られた夏音文字で表示された地名もまた、【<span>(</span>１<span>)</span>夏の銀河各部の形状、<span>(</span>２<span>)</span>天頂緯度観測、<span>(</span>３<span>)</span>黄帝の女性生殖器と出産の医学研究のイメージ】が結合されて成立したことになる。<span><br /></span>このような文字<span>(</span>地名<span>)</span>作成方法のイメージにもとづく「邪馬壱の自然体の形」を図示すると、下図のごとくなる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000323.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000323" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000323.jpg" alt="0000323" width="300" height="277" border="0" /></a> <br /></span>上図に示したように、「産道を通過する、瘤<span>(</span>こぶ<span>)</span>が折れ曲がって背中が平となるフタコブラクダの子の様子をあらわす線は緯度線<span>(</span>東経<span>38</span>度線・東経<span>36</span>度線<span>)</span>と邪めとなる」ゆえ、【邪めの線】すなわち【邪】をあらわす。<span><br /></span>「山東半島の地図の形」は「フタコブラクダの顔」に相似するゆえ、【馬】「フタコブラクダ」をあらわす。<span><br /></span>「山東半島の東海岸」から「夏至の日の朝<span>(</span>午前5時32分ころ<span>)</span>、朝日が上る」ゆえ、【壹】「旦・朝日・出産」をあらわした。<span><br /></span>黄帝時代や夏代黎明期の人々は、上図のごとく「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図」に変形を加えて「邪馬壱」と名づけていた。<span><br /></span>したがって、「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図の形」は「産道を通過するときのフタコブラクダの子の様子」をあらわしたゆえ、「邪馬壱」と呼ばれていたことになる。<span><br /></span>『魏志倭人伝』に「邪馬壱国に至る、女王の都とする所なり」と記された「邪馬壱国」には「緯度線と邪めになるフタコブラクダの出産児の姿をした地図の形」が存在した。<span><br /></span>だから、「倭人国の首都所在地」は「邪馬壱国」と名づけられたのである。<span><br /><br /></span>以上のごとく、「山東半島と莱州湾・渤海湾の地図の形」は「邪馬壹<span>(</span>邪馬壱<span>)</span>」と名づけられ、「邪馬臺<span>(</span>邪馬台<span>)</span>」とは名づけられなかった。<span><br /></span>というのも「廟島列島」と「石島・山東半島東端」はって【臺】「夕日」をあらわさず、【壹】「朝日」のみをあらわすからである。<span><br /><br /></span>◆以上のごとく、莒県陵陽河の遺跡から出土した灰陶尊の口縁部<span>(</span>こうえんぶ<span>)</span>の近くにほどこされていた図書は、中国の学者たちが考えたとおり、【日】の下に【一】が加わる【旦】をあらわして「日照の海岸から見える、山東半島東端の石島から日が出ずる夏至の日の朝(中国時間・午前5時32分ころ、日本時間・午前6時32分ころ)の景色」を表現していたことになる。<span><br /></span>以上のような【一・壹】の字源にもとづくと――「中国の東方に所在する倭地は日が出ずる朝日の国」となるゆえ『魏志倭人伝』の原書には「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国」と記されていたにちがいなく、「日が没する夕日」をあらわす「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国」と記されていなかったことになる。<span><br /></span>だから、学界やメディアが「最も正しい科学的意見」と思いこむ邪馬臺国説は「『魏志倭人伝』に書かれていない虚偽」を主張する非理非学の作り話・空想であったことになる。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』は前半部で「邪馬壹国に至る、女王の都とする所なり」と記し、末部で「因<span>(</span>よ<span>)</span>って臺に詣<span>(</span>いた<span>)</span>る」と記す。<span><br /></span>この末部の文中の【臺】は「魏の都・洛陽<span>(</span>らくよう<span>)</span>」の意となる。<span><br /></span>このブログでは、「なぜ【臺】は「洛陽」を意味することになったのか」、この点が明確になるように解説しなかった。<span><br /></span>次回のブログでは、【臺】が「洛陽」の意となった経緯について詳細に明白となるように解説する。<sub><span><br /></span></sub></p>]]></content:encoded>


<dc:subject>卑弥呼</dc:subject>
<dc:subject>邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
<dc:subject>アルファベットの起源</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源</dc:subject>
<dc:subject>日本国誕生史の証明</dc:subject>
<dc:subject>大嘗祭の証明</dc:subject>
<dc:subject>まぼろしの邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源と発明を解明す</dc:subject>

<dc:creator>大川誠一</dc:creator>
<dc:date>2025-06-11T14:20:13+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/04/post-d1c0dd.html">
<title>漢字の起源と発明を解明す・40ー２</title>
<link>https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/04/post-d1c0dd.html</link>
<description>『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった(２)
◆前々回の...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった<span>(</span>２<span>)</span></p>
<p><br />◆前々回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>39</span>」で指摘したように、<span><br /></span>『古事記』冒頭の「古事記上巻　并<span>(</span>あわ<span>)</span>せて序」の末部には――姓<span>(</span>うじ<span>)</span>も於きて日下<span>(</span>にちげ<span>)</span>を「玖沙訶<span>(</span>くさか<span>)</span>と謂<span>(</span>い<span>)</span>ひ、名に於きて帯<span>(</span>たい<span>)</span>を「多羅斯<span>(</span>たらし<span>)</span>」と謂ふ、此<span>(</span>かく<span>)</span>の如<span>(</span>ごと<span>)</span>き類<span>(</span>たぐい<span>)</span>は、本<span>(</span>もと<span>)</span>の随<span>(</span>ずい<span>)</span>に改めず――という文がある。<span><br /></span>この文は「姓に用いる楷書の日下を夏音文字では玖沙訶と記し、名に用いる楷書の帯は夏音文字では多羅斯と記す。このような類例は従来から日常的に頻繁<span>(</span>ひんぱん<span>)</span>に用いられて知られていることゆえ、夏音文字をそのまま用いて楷書に改めませんでした」と意味した。<span><br /><br /></span>前回の「漢字の起源と発明を解明す・<span>40</span>―１」で指摘したように、「朝顔」の語源となった「人の横顔に酷似する銀河の額<span>(</span>ひたい<span>)</span>」には、「北天<span>(</span>ほくてん<span>)</span>の最輝部<span>(</span>さいきぶ<span>)</span>」がある。<span><br /></span>下に、「北天の最輝部」の図を配した。<span><br /></span>下図の上部には、はくちょう座γ星がある。<span><br /></span>はくちょう座γ星の周囲は円形となり、「円の中心に点」がある古代字の【日】の字形に合致する。<span><br /></span>だから、【日】の字の下にある「北天の最輝部」は「日下」の語源であった。<span><br /></span>楷書「日下」の語源銀河部と夏音文字「玖沙訶」の語源銀河部は同一ヵ所である。<span><br /></span>ゆえに、下図の「はくちょう座γ星と北天の最輝部」は「日下」と「玖沙訶」の語源であった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k485.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K485" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k485.jpg" alt="K485" width="265" height="282" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図は「四つ目の銀河<span>(</span>鬼の横顔に似る銀河<span>)</span>」と「十字の銀河」における<span>[</span>「日下＝玖沙訶」と「帯＝多羅斯」の語源解説図<span>]</span>である。<span><br /></span>「日下＝玖沙訶」の語源は上記した「人の横顔に酷似する銀河の額<span>(</span>ひたい<span>)</span>」と「鬼の横顔に似る銀河の額」の両者となる。<span><br /></span>ゆえに、「鬼の横顔に似る銀河の額」が楷書「日下」、夏音文字「玖沙訶」となる。<span><br /></span>また、「十字の銀河の北側<span>(</span>胸部<span>)</span>にある乳房」と「鬼の横顔に似る銀河の額」は三垂<span>(</span>さんすい・三本の線状の銀河部位<span>)</span>でつながる。<span><br /></span>したがって、「十字の銀河の胸部にある乳房」もまた「日下」にして「玖沙訶」の語源であった。<span><br /></span>「十字の銀河の乳房」は「帯<span>(</span>おび<span>)</span>をまきつける腰」にある。<span><br /></span>「帯をまきつける腰」もまた「日下＝玖沙訶の語源となる乳房」と同じく「乳房」の形をしている。<span><br /></span>ゆえに、「十字の銀河の腰にある乳房」は楷書「帯」の語源で、夏音文字「多羅斯」の語源であった。<span><br /></span>「十字の銀河の腰にある乳房」から「鬼の横顔に似る銀河の口」までも、また三垂でつながる。<span><br /></span>だから、「鬼の横顔に似る銀河の口」が「帯」と「多羅斯」の語源であった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000316.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000316" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000316.jpg" alt="0000316" width="300" height="328" border="0" /></a><br /><br /></span>古語「垂乳根<span>(</span>たらちね<span>)</span>」は「母」と「父」を意味し、「垂乳根」の「乳」の字義は「乳房」である。<span><br /></span>ゆえに、上図の「多羅斯」と「垂乳根」の語源は共に「母と父が帯を巻く腰にある乳房」であった。<span><br /></span>上図の「鬼の横顔に似る銀河」を「乳児の横顔」に見立てると、垂乳根の語源「帯をまきつける腰にある乳房」は「乳児が乳を飲む乳房」ということになる。<span><br /></span>「乳児が飲む乳の色」は、上記したように、「北天の最輝部の、銀白色と朱鷺<span>(</span>とき<span>)</span>の体のうす桃色」に相似する。<span><br /></span>だから、「帯」と「多羅斯」の語源は「十字の銀河の腰にある乳房」と「鬼の横顔に似る銀河の口<span>(</span>乳児が乳を飲む口の銀河<span>)</span>」であったことになる。<span><br /><br /></span>前回の「漢字の起源と発明を解明す・<span>40</span>―１」で解説したように、「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」は「朝顔」と呼ばれた。そのうち「コールサック」は<span>[</span>「騙し」の意味を有さない、子どもを孕<span>(</span>はら<span>)</span>む妊婦の腹部に見立てられて、聖域<span>]</span>とされた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000310_20250421154501.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000310_20250421154501" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000310_20250421154501.jpg" alt="0000310_20250421154501" width="300" height="425" border="0" /></a> <br /></span>もう一つの「朝顔」の語源は、下図に示す「四つ目の銀河・十字の銀河の顔と十字の銀河の子宮<span>(</span>子宮と産道<span>)</span>」であった。<span><br /></span>そして、「日下・玖沙訶」の語源は「四つ目の銀河と十字の銀河の右手<span>(</span>西側<span>)</span>の脇<span>(</span>わき<span>)</span>にある北側の乳房」、「帯・多羅斯」の語源は「四つ目の銀河の口と十字の銀河の子宮と重なる南側の乳房」であった。<span><br /></span>そして、「十字の銀河の子宮」もまた「胎児が育つ子宮と出産児が通過する産道」に見立てられて、「騙し」の意味を有さない聖域<span>]</span>と定められた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000311_20250421154601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000311_20250421154601" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000311_20250421154601.jpg" alt="0000311_20250421154601" width="299" height="327" border="0" /></a> <br /></span>したがって、「日下・玖沙訶」と「帯・多羅斯」は倉頡の文字作成理論はじめ倉頡が作った文字や夏代黎明期に作られた夏音文字、そして黄帝時代や夏代黎明期の歴史について語るとき――頻繁<span>(</span>ひんぱん<span>)</span>に用いられた「漢字は夏の各部の形状から作られた秘密」を示す<span>[</span>「朝顔」の語源<span>]</span>を示唆<span>(</span>しさ<span>)</span>する暗号のような語であったことになる。<span><br /></span>ゆえに、「日下・玖沙訶」と「帯・多羅斯」という語が確かな証拠となって「わが国は夏音文字を紀元前<span>2000</span>年頃に習得した」と証明されることになる。<span><br /></span>だから、学界が「わが国が漢字を最初に習得したのは５世紀である」と主張する絶対的定説は粗雑<span>(</span>そざつ<span>)</span>軽率<span>(</span>けいそつ<span>)</span>きわまりない考えにもとづく錯覚・空理空論であったことになる<span><br /><br /></span>◆上記したように、「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」は「朝顔」と呼ばれた。そのうち「コールサック」は<span>[</span>「騙し」の意味を有さない、子どもを孕<span>(</span>はら<span>)</span>む妊婦のお腹<span>(</span>なか<span>]</span>に見立てられて、聖域<span>]</span>とされた。<span><br /></span>また、「十字の銀河の顔・四つ目の銀河」と「十字の銀河の子宮<span>(</span>子宮と産道<span>)</span>もまた「朝顔」とよばれた。このうち「十字の銀河の子宮」も<span>[</span>胎児が育つ子宮と出産児が通過する産道<span>]</span>に見立てられて、「騙し」の意味を有さない聖域<span>]</span>と定められた。<span><br /><br /></span>しかし、前回の「漢字の起源と発明を解明す・<span>40</span>―１」にて解説した【扁】の字について説明した、下図における<span>(</span>１<span>)</span>と<span>(</span>２<span>)</span>の「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河<span>(</span>胎児の姿に似る銀河<span>)</span>までの、大きな夏の銀河」は「騙し」の意味を有することになった。<span><br /></span>ゆえに、「騙」の旁部<span>(</span>つくりぶ<span>)</span>は【扁】となった。<span><br /></span>ただし、【扁】の字源銀河となった<span>(</span>３<span>)</span>は「騙し」の意を有さないことになった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000308_20250421154701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000308_20250421154701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000308_20250421154701.jpg" alt="0000308_20250421154701" width="300" height="221" border="0" /></a><br /><br /></span>五帝時代初頭に生存した黄帝につかえた倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は、【馬】の字源・字形・字義を「フタコブラクダ」と定め、地理の「瀚海<span>(</span>かんかい<span>)</span>・ゴビ沙漠」と【馬】「ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない家畜の、フタコブラクダ」に「騙し」の意味を有するようにした。<span><br /></span>だから、【騙】の偏は【馬】となった。<span><br /><br /></span>奈良県高市明日香村に所在する「牽牛市塚古墳<span>(</span>けんごしづかこふん<span>)</span>」は、大・中・小の八角形が三段に積み重なる設計となる。<span><br /></span>この最下段の大の八角形は上に図を配した【扁】の字源「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河までの、大きな夏の銀河」をデザインする。<span><br /></span>この【扁】の字源銀河を説明する、上に図を配した<span>(</span>１<span>)</span>と<span>(</span>２<span>)</span>をデザインする大の八角形は「騙し」の意味を有する。<span><br /></span>中段の中の八角形は、上記した「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」をデザインする。<span><br /></span>この中の八角形は「騙し」の意味を有さない。<span><br /></span>最上部の小の八角形は、上記した「四つ目の銀河<span>(</span>鬼の横顔に似る銀河<span>)</span>と十字の銀河の顔、そして十字の銀河の子宮<span>(</span>子宮と産道<span>)</span>」をデザインする。<span><br /></span>この小の八角形も「騙し」の意味を有さない。<span><br /><br /></span>牽牛子塚古墳<span>(</span>あさがおづかこふん<span>)</span>は、７世紀中葉～８世紀初頭<span>(</span>飛鳥時代<span>)</span>の女帝、第<span>35</span>代・皇極天皇<span>(</span>こうぎょくてんのう・第<span>37</span>代・斉明天皇<span>)</span>と娘の間人皇女<span>(</span>はしひとのひめこ<span>)</span>の合葬墓とする説がある。<span><br /></span>というのも、以前より、牽牛子塚古墳の内部は巨石をくりぬいた２つの墓室を設けた特異な構造になっていることを知られていたからである。<span><br /></span>間人皇女は、第<span>36</span>代・孝徳天皇<span>(</span>こうとくてんのう<span>)</span>の皇后であった。<span><br /></span>当時は、兄妹であっても父親と母親が異なれば、恋愛あるいは結婚も普通におこなわれていた。しかし、同父同母となる関係となると、当時においても、国法を犯す重大な罪として厳<span>(</span>きび<span>)</span>しく禁止されていた。間人皇女は、このタブーを犯した。<span><br /></span>間人皇女は、同父同母の兄である中大兄皇子<span>(</span>なかのおおえのおうじ・後の第<span>38</span>代天智天皇<span>)</span>とタブーとされる密通<span>(</span>近親相姦<span>)</span>をしていた。<span><br /></span>孝徳天皇と間人皇后は形だけの夫婦にすぎず、間人の愛人は同じ血を分けた兄の中大兄皇子であった。このことは、公然の秘密であった。<span><br /></span>このタブーのために中大兄皇子は、国法を犯した大罪の報いを受けなければならなかった。<span><br /></span>孝徳天皇が没した直後、皇太子・中大兄皇子は帝位に就かなかった。中大兄皇子は、母の皇極天皇を再度担ぎ出し、帝位に就けて斉明天皇とした。<span><br /></span>孝徳天皇が亡くなった直後に中大兄皇子が天皇に即位しなかったのは、彼が同父同母の妹の間人皇后と男女関係を持ったからである。<span><br /></span>つまり、「中大兄皇子が即位すれば、神の怒り、つまり地中深く棲<span>(</span>す<span>)</span>む牽牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>の死霊が激怒して、必ず大災害<span>(</span>凶事<span>)</span>が起きる」と噂<span>(</span>うわさ<span>)</span>する世論に屈したからと考えられる。<span><br /><br /></span>斉明天皇は、上記のごとく「斉明天皇は中大兄皇子と間人皇女との兄妹の近親相姦を見て見ぬ振りして許している。しかし、中大兄と間人の密通の大罪を地中深く棲む牽牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>の死霊が許さず祟<span>(</span>たた<span>)</span>って必ず大災害が起きるにちがいない」と噂<span>(</span>うわさ<span>)</span>されていたのである。<span><br /></span>ゆえに、斉明天皇は牽牛子塚古墳を築造して――陵墓の最下段の大の八角形で「牽牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>の死霊を騙<span>(</span>だま<span>)</span>しなだめる」ようにした。<span><br /></span>また、陵墓の中段の中の八角形で「人の横顔に酷似する銀河」を「斉明天皇自身」に見立て、「コールサック」を「斉明天皇の腹部」に見立てて、自分の腹部から生んだ息子の中大兄と娘の間人を厳しくとがめて人の道にそむく密通をやめさせなかった母親の責任として――斉明天皇は死後には必ず大災害<span>(</span>ジャコウウシの死霊の激怒<span>)</span>を騙しなだめて防ぐと誓ったにちがいない。<span><br /></span>そして、最上段の小の八角形で「四つ目の銀河」を「中大兄皇子」、「十字の銀河」を「娘の間人皇女」に見立て、「十字の銀河の子宮」を「間人皇女と中大兄皇子の密通」に見立てて――先に墓に入った亡き娘の間人に近親相姦の罪を後悔させて、娘の死霊にも激怒する牽牛の死霊を騙しなだめて地上に大災害が起きるのを防ぐようにさせると決意を示すものであったと考えられる。<span><br /><br /></span>◆倉頡が発明した「辞理<span>(</span>文字作成理論<span>)</span>」において――天理<span>(</span>夏の銀河<span>)</span>の場合は南を正面にし、地理では北を正面にした。<span><br /></span>ゆえに、銀河図の場合は左<span>(</span>左手側<span>)</span>が東、地理では左は西となった。<span><br /></span>上記のごとく、倉頡が「<span>(</span>１<span>)</span>天理の場合は南を正面にし、<span>(</span>２<span>)</span>地理の場合は北を正面とする」と定めた理論は――夏代黎明期には「<span>(</span>１<span>)</span>地理の北を天理の南に変えて<span>180</span>度転位する。ゆえに、<span>(</span>２<span>)</span>地理では北は天理の場合の南となる」と定められて、【臺<span>(</span>台<span>)</span>】と【壹<span>(</span>壱<span>)</span>】の字が生まれた。<span><br /></span>つまり、夏代黎明期における帝禹<span>(</span>ていう<span>)</span>と帝益<span>(</span>ていえき<span>)</span>は、上記したように「<span>(</span>１<span>)</span>地理の北は天理の場合の南となって<span>180</span>度転位する」と定めた。<span><br /><br /></span>倉頡は「妊婦の形に相似する、十字の銀河」を「夏の銀河の各部から作られたすべての文字を生む母体」と定めた。<span><br /></span>したがって、「十字の銀河の子宮<span>(</span>子宮・産道<span>)</span>」は「夏の銀河の各部からすべての文字を生む子宮<span>(</span>子宮・産道<span>)</span>」と定めた。<span><br /></span>つまり、「夏の銀河の東端の、三つ輪の銀河」は「十字の銀河の子宮から生まれて【瀚】と【海】の字源」となり、また同様に「夏の銀河の西端の、胎児の姿に似る銀河」は「十字の銀河の子宮から生まれて【牽】と【牛】と【子】の字源」となった。<span><br /></span>「三つ輪の銀河」は「十字の銀河の子宮」より大きい。<span><br /></span>また、「胎児の姿に似る銀河」もまた「十字の銀河の子宮」よりはるかに大きい。<span><br /><br /></span>だから、倉頡は「【一<span>(</span>十字の銀河の産道<span>)</span>】より多数の文字が出産する」と定めたため、「十字の銀河の帯がまきつく腰にある子宮」の夏音文字の語「多羅斯」の先頭字は【多】である。<span><br /></span>要するに、倉頡は「【一】の字源<span>(</span>十字の銀河の産道<span>)</span>は【多<span>(</span>多数の文字<span>)</span>】を出産し、【多<span>(</span>多数の文字<span>)</span>】は【一】の字源<span>(</span>十字の銀河の産道<span>)</span>に集約される」と定める、「一即多、多即一の理論」を発明した。<span><br /><br /></span>「夏の銀河の東端の、三つ輪の銀河」は「子どもを中心にしてならぶジャコウウシの１グループ・百頭余りの群れ」に相似する見立てられた。<span><br /></span>「夏の銀河の西端の、胎児の姿に似る銀河」は、「ジャコウウシの姿に似る銀河」に相似すると見立てられた。<span><br /></span>そして、【牛】の字源は「ジャコウウシ」であった。<span><br /></span>下図に示すように、【勿<span>(</span>ぶつ<span>)</span>】の字源銀河は「三つ輪の銀河の西となりの、十字の銀河の左手が持つ銀河部」である。この銀河の形は「犂<span>(</span>すき<span>)</span>で土を撥<span>(</span>は<span>)</span>ねる形」とされた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000317.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000317" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000317.jpg" alt="0000317" width="300" height="348" border="0" /></a> <br /><br /></span>だから、「夏の銀河の西端の、ジャコウウシの姿に似る銀河」は「【牛】の字源、ジャコウウシが餌場<span>(</span>えさば<span>)</span>の土を角<span>(</span>つの、即ち犂<span>)</span>で撥ねて餌の苔<span>(</span>こけ<span>)</span>を食べる姿」に見立てられた。<span><br /></span>ゆえに、「ジャコウウシの姿に似る銀河」は【勿】の字源「ジャコウウシが犂で土を撥ねる姿」、つまり「食料の苔を食べるために、ジャコウウシが角<span>(</span>即ち、犂<span>)</span>で土を撥ねる形」ということになった。<span><br /><br /></span>わが国の古代中国漢字研究の第一人者とされる白川静博士が著作した『字統』<span>(</span>平凡社発行<span>)</span>は、<span><br /></span>偏【牛】に【勿】を加える【物】の字源を――勿は犂で土を撥ねる形。『説文解字』は「萬物なり」と訓し、「牛を大物と為<span>(</span>な<span>)</span>す。天地の数は牽牛より起こる。故に牛に従ふ」という――と解説する。<span><br /></span>前述したように、「ジャコウウシの姿に似る銀河」は「牽牛の姿に似る銀河」であった。<span><br /></span>「牽牛」は【一】の字源であり、この【一】の字源は「牽牛の姿に似る銀河」であり、また「萬物」をあらわしたので、「一即万<span>(</span>萬<span>)</span>物、万物即一」という理論となった。<span><br /></span>上記したように、「三つ輪の銀河」は「【牛】の字源・ジャコウウシの群れが作る円陣」、「三つ輪の銀河の西となりの銀河部は【勿】の字源」であるゆえ、「三つ輪の銀河の【牛】」と「三つ輪の銀河に隣接する銀河の【勿】」を加えると、【物】の字となる。<span><br /></span>『説文解字』は【物】は「万物なり」と訓するゆえ、「三つ輪の銀河と、そのとなりの【勿】の字源銀河部」は【物】の字訓は「万物なり」ということになった。<span><br /></span>上記したように、「【一】の字源の、十字の銀河の子宮につながる産道」は「夏の銀河各部から作られたすべての文字を出産する産道」であったゆえ、「一即万物、万物即一」となった。<span><br /></span>だから、倉頡は「一即万物<span>(</span>多<span>)</span>、万物<span>(</span>多<span>)</span>即一の理論」を考案したことになる。<span><br /></span>このような倉頡が考案した「一即万物<span>(</span>一即多<span>)</span>、万物即一<span>(</span>多即一<span>)</span>」の理論は、現代の分子生物学で<span>DNA</span>という「小さな場に大きな情報が入っている」という先端科学の考え方に共通する。<span><br /></span>『魏志倭人伝』の<span>34</span>の小国名は現代の先端科学の<span>DNA</span>の構造や、そして「<span>17</span>世紀のデカルトが提唱した西欧近代の合理思考の意見は必ずしもすべて正しいとは言えない。誤りも多々ある」と批判・否定する現在の先端科学の合理を超える合理を積み重ねる考え方で構成されている。<span><br /></span>約<span>5000</span>年前に生存した倉頡は、すでに現在の先端科学の考え方を発明していたのである。<span><br /><br /></span>◆白川静著『字統』は、倉頡が作った【禾<span>(</span>か<span>)</span>】の字について「いねの象形」と解説する。<span><br /></span>【禾】の字源銀河は「女体に相似する、十字の銀河」と「鬼の横顔に似る銀河の口」である。<span><br /></span>ゆえに、夏代黎明期では【禾】の下に【女】を加える【委<span>(</span>い<span>)</span>】の字が作られ、【委】の字源もまた「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口<span>(</span>くち<span>)</span>」であった。<span><br /></span>「十字の銀河」は「人<span>(</span>東半分が男性、西半分が女性。また、人の正面と背面の姿<span>)</span>」に観えるゆえ、夏代黎明期には偏【人】に【委】を加える【倭<span>(</span>わ<span>)</span>】の字が作られ、【倭】の字源もまた「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口」であった。<span><br /></span>だから、【禾】【委】【倭】の地理字源は「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」であった。<span><br /><br /></span>上記したように、「【禾】【委】【倭】の天理の字源」は「十字の銀河と鬼の横顔に似る銀河の口」であった。<span><br /></span>「【禾】【委】【倭】の地理字源」は「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」となった。<span><br /></span>この地理字源「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」は「出産児があおむけになって頭が先に子宮口に入りこむ<span>(</span>１<span>)</span>第１回旋<span>(</span>だいいちかいせん<span>)</span>」と、<span>(</span>２<span>)</span>娩出期<span>(</span>べんしゅつき<span>)</span>終わりに出産児の顔が母体の背側に向けるときの第４回旋における、頭を時計回りに<span>90</span>度転回する様子」をあらわした。<span><br /><br /></span>五帝時代初頭の黄帝時代に相当する中期縄文時代初頭、また卑弥呼時代<span>(</span>２世紀末～３世紀中半<span>)</span>、そして万葉時代の８世紀初頭――遠くの地に旅する人々や大海を往来する人々は天頂緯度線、つまり旅の各地点の天頂にめぐってきた緯度線、現在の＋赤緯<span>(</span>プラスせきい<span>)</span>を測量して命を保持して家族が待つ家に帰還していた。<span><br /></span>「＋赤緯」は「地球の赤道の天頂より北半球における各地の天頂緯度」である。<span><br /></span>したがって、「＋赤緯」は要するに「北緯」ということになる。<span><br /></span>だから、「北緯<span>35</span>度<span>35</span>分の土地の天頂緯度」もまた「北緯<span>35</span>度<span>35</span>分」ということになる。<span><br /><br /></span>下図は「五帝時代初頭の黄帝時代、中国の各地の天頂緯度線をあらわす図」である。<span><br /></span>下図が示すように、黄帝時代、北緯<span>35</span>度<span>35</span>分の黄帝陵<span>(</span>黄帝を祀る廟と墓<span>)</span>の天頂を「十字の銀河の頭部中央」が西から東へ貫通し、北緯<span>31</span>度<span>30</span>分の長江口<span>(</span>長江の河口がある湾<span>)</span>の中央<span>(</span>上海付近<span>)</span>」の天頂を「十字の銀河の子宮中央」が西から東へ貫通していた。<span><br /></span>司馬遷著『史記』五帝本紀は――黄帝の遠征軍は「江」つまり「長江口がある湾の中央の地<span>(</span>上海あたり<span>)</span>」に至って、帰還した――と記述している。<span><br /></span>したがって、黄帝の軍は、遠征各地の天頂緯度線をキャッチして南の長江口がある湾中央の地<span>(</span>上海あたり<span>)</span>まで遠征した後、帰路につき上海あたりから北上して山東半島の付け根にある日照<span>(</span>にっしょう・黄帝陵と同緯度の北緯<span>35</span>度<span>35</span>分<span>)</span>に到着し、日照から遠くの西方に洛陽<span>(</span>らくよう<span>)</span>に至り、洛陽から故郷<span>(</span>黄帝陵が所在する居住地<span>)</span>へ帰還したと考えられる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000159_20250421155001.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000159_20250421155001" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000159_20250421155001.jpg" alt="0000159_20250421155001" width="299" height="321" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図は、「十字の銀河」が「中国各地の天頂」にめぐってきたことを示す。<span><br /></span>これゆえ、倉頡は「十字の銀河」を「中国全土<span>(</span>中国全土の天頂緯度線が測量できる基準<span>(</span>ものさし<span>)</span>」に見立てた。<span><br /></span>「中国全土」に見立てた「十字の銀河の中央に、倉頡は「禾<span>(</span>稲<span>)</span>の形の図書<span>(</span>ずしょ<span>)</span>」を重ねて、【禾の図書を育成適性地・長江口がある湾中央周辺地域がある、つまり「十字の銀河の子宮」がある「南」】に配した。<span><br /></span>そして、倉頡はその「十字の銀河の南にある禾の図書」をさらに南へ伸ばし、「禾の穂」が「鬼の横顔に似る銀河の口」がある「西」へと垂れるようにした。<span><br /></span>とうのも、「禾<span>(</span>稲<span>)</span>の穂に実る米」は「人の口に入れる食料」となるからである。<span><br /></span>これゆえ、【禾】の字は「南」が「西」となる地理字源「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」をあらわした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k423_20250421155101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K423_20250421155101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k423_20250421155101.jpg" alt="K423_20250421155101" width="184" height="226" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図の左側の【禾】の字形は、右上の<span>(</span>１<span>)</span>の図書である。<span><br />(</span>１<span>)</span>の【禾】の字形は稲が地面に根をはって植わっていないとあらわす。ゆえに不自然・不合理である。<span><br />(</span>１<span>)</span>の【禾】の字形の上下を<span>180</span>度転回すると<span>(</span>２<span>)</span>となる。<span><br />(</span>２<span>)</span>は【禾】字源「時計回りに<span>90</span>度の転回方位規定」を表示しない。というのも、<span>(</span>２<span>)</span>は<span>[</span>北<span>]</span>が<span>[</span>西<span>]</span>を向くことになるゆえ、「反時計回りに<span>90</span>度の転回方位規定」を示すからである。<span><br />(</span>２<span>)</span>を裏返しにすると、<span>(</span>３<span>)</span>の【禾】の字形<span>(</span>契文形<span>)</span>となる。<span><br /></span>なお、このブログの初頭で説明したように、倉頡は「天理が正面とする南は、北を正面とする地理の北となる」という文字作成理論を確立させた。<span><br /></span>ゆえに、倉頡は【禾】の字を作り、みずからの文字作成理論に則<span>(</span>のっと<span>)</span>って下図の<span>(</span>１<span>)</span>天理」の【禾】の図書の南は、地理の【禾】の図書における<span>(</span>２<span>)</span>と<span>(</span>３<span>)</span>のごとく北となると定めた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000192_20250421155201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000192_20250421155201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000192_20250421155201.jpg" alt="0000192_20250421155201" width="300" height="286" border="0" /></a> <br /></span>下図に示したように、上図<span>(</span>３<span>)</span>の「地面に植わる【禾】の形」は、<span>[</span>北<span>]</span>が<span>[</span>東<span>]</span>に変位する「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」を明示する。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00004_20250421155201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00004_20250421155201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00004_20250421155201.jpg" alt="00004_20250421155201" width="300" height="242" border="0" /></a> <br /></span>下に、【呉】の字源地理「反時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」を配した。<span><br /></span>白川静著『字統』の【呉】について、「<span>[</span>北<span>]</span>が<span>[</span>西<span>]</span>に変わる様子をあらわす【口<span>(</span>さい<span>)</span>】は「祝祷の器。【口】の下の字形は人が一手をあげて祝祷の形である【口<span>(</span>さい<span>)</span>】をささげ、身をくねらせて舞う形」と解説する。<span><br /></span>要するに、【呉】の金文形は「巫女<span>(</span>みこ<span>)</span>が児どもの誕生を祈祷<span>(</span>きとう<span>)</span>するときに用いる土器の【口<span>(</span>さい<span>)</span>】を右肩の上にかかげて祈ると願いがかない、出産児が産道を通過して元気に誕生した様子を見て慶<span>(</span>よろこ<span>)</span>ぶ巫女が身をくねらせて舞う姿」を図案するものであった。<span><br /></span>下図は「<span>[</span>北<span>]</span>が<span>[</span>西<span>]</span>に反時計回りに<span>90</span>度転回する様子」を示す。<span><br /></span>ゆえに、【呉】の字形は「出産児が産道を通過するときの反時計回りに<span>90</span>度転回する第２回旋と第３回旋」をあらわした。<span>(</span>「回旋」は「かいせん」と読む<span>)</span>。<span><br /></span>だから、下図は、【呉】の字源は「反時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」であると表現している。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k525_20250421155301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K525_20250421155301" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k525_20250421155301.jpg" alt="K525_20250421155301" width="231" height="250" border="0" /></a><br /><br /></span>下図に示すように、倉頡は、長江口以北地域の地名は【禾】、長江口より以南地域の地名は【呉】と定めた。<span><br /></span>ゆえに、上記した倉頡が定めた地名にもとづき、【禾】の地域の川の名には【河】の字が用いられ、【呉】の地域の川の名には【江】の字が用いられて二分されている。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000030_20250421155401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000030_20250421155401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000030_20250421155401.jpg" alt="000030_20250421155401" width="300" height="466" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆現代史学は気づいていないが――原始のときから、人類には【天頂緯度を１度<span>60</span>分の<span>60</span>分の１の１分の精度でキャッチできる能力】が目にそなわり、【大脳には本能行動として１分の精度で測量できる能力】がそなわっていた。<span><br /></span>下図は、「天頂点と重なる銀河部位の軌道」、つまり「天頂緯度線」を示す。<span><br /></span>下図の右上に示したように、天頂緯度線は天頂点で子午線と<span>90</span>度・直角に交わって【亠<span>(</span>とう<span>)</span>】という漢字となった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000157_20250421155501.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000157_20250421155501" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000157_20250421155501.jpg" alt="0000157_20250421155501" width="300" height="296" border="0" /></a> <br /></span>下図に、「原始のときからの、人類が天頂緯度を測量するときの姿勢」を示した。<span><br /></span>天頂緯度を測量する人の姿勢は「時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」となった「出産児の第１回旋」をあらわした。<span><br /></span>つまり、「天頂緯度を測量する人のポーズ」は「出産児があおむけ<span>(</span>レスリングのバックドロップのような姿勢<span>)</span>になって子宮口を通りぬけるときの、時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定をあらわす第１回旋の状況」をあらわした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000132_20250421155501.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000132_20250421155501" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000132_20250421155501.jpg" alt="0000132_20250421155501" width="300" height="374" border="0" /></a> <br /></span>天頂緯度を測量する人は産道を通過する出産児のごとく無欲になれば「誤差を<span>1</span>分<span>(60</span>秒<span>)</span>の精度」で天頂緯度を測定できた。<span><br /></span>しかし、「必ず天頂緯度をキャッチする」と欲を有すると、「誤差が１分の精度」では測量できず、死産する出産児のごとく命を失った。<span><br /></span>だから、上図の「天頂緯度を測量する人の頭・顔」を「出産児の頭・顔」に見立て、原始のときから「天頂緯度を精密に測定するときには、産道を通過する児のごとく無欲になれ」という忠告を、命をまもる心得<span>(</span>こころえ<span>)</span>にして、人類は命を後世につなげてきたことになる。<span><br /><br /></span>◆上記のごとくの方法で、原始のときから人類は天頂緯度を精密に測定して命をまもってきた。<span><br /></span>これゆえ、紀元前<span>2050</span>年ころ、帝益の孫の王子一行は広大な大海で隔てる中国の会計<span>(</span>北京<span>)</span>・会稽<span>(</span>天津<span>)</span>と同緯度の日本列島・東北地方の八郎潟の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に移住できた。<span><br /></span>上記の「天頂の緯度を測量した方法」ならば「近辺の土地の緯度測量」はもちろん、「大海で遥かに隔てられる土地の緯度測量」も同様に緯度が精密に測定できた。<span><br /><br /></span>日本地図を開くと――日本列島の西端に玄界灘に浮かぶ沖ノ島があり、遠く隔てた東端には伊豆諸島の神津島<span>(</span>こづしま<span>)</span>がある。<span><br /></span>下図に示すように、沖ノ島と神津島は天頂緯度が同じ同緯度<span>(</span>北緯<span>34</span>度<span>15</span>分<span>)</span>である。<span><br /></span>沖ノ島は冬になると雪が降る冷たい気候地であり、亜熱帯地域の神津島は冬でも雪が降らず暖かい。<span><br /></span>ゆえに、下図に記したごとく、沖ノ島を「西冷」とし、神津島を「東暖」と呼ぶことにした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k202_20250421155601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K202_20250421155601" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k202_20250421155601.jpg" alt="K202_20250421155601" width="237" height="143" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図に示すように、「中国の北部<span>(</span>禾<span>)</span>の海岸線地域の気候は南部海岸線地域<span>(</span>呉<span>)</span>より冷たい」。<span><br /></span>「中国の南部の海岸線地域の気候は北部海岸線地域より暖かい。<span><br /></span>ゆえに、中国の北部の海岸線地域は「北冷」、南部の海岸線地域は「南暖」となる。<span><br /></span>下図に示すように、中国の海岸線地域の「北冷」と日本列島の「西冷」は「冷たい気候」で合致し、中国の海岸線地域の「南暖」と日本列島の「東暖」は「暖かい気候」で合致する。<span><br /></span>ゆえに、下図に示すように、日本列島の暖かい気候の「東」は中国海岸線の暖かい気候の「南」のほうへ伸びていると――卑弥呼は立論した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k201_20250421155701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K201_20250421155701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k201_20250421155701.jpg" alt="K201_20250421155701" width="233" height="256" border="0" /></a> <br /><br /></span>『魏志倭人伝』が記す末盧国<span>(</span>まつろくに<span>)</span>以下にある方位記事に則<span>(</span>のっと<span>)</span>ると、<span><br /></span>日本列島は<span>[</span>東<span>]</span>に伸びずに<span>[</span>南<span>]</span>へ伸びることになる。<span><br /></span>この方位記事によって、上図に示すように、本州の<span>[</span>西<span>]</span>にある九州が<span>[</span>北<span>]</span>に所在することになる。<span><br /></span>ゆえに、対馬国・一大国を除く日本列島は【禾】【委】【倭】の字源「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」に則って転回していたことになる。<span><br /></span>下の上図は、現代の日本列島における九州が北陸・東海地方よりも西方にある本州地図である。<span><br /></span>下の下図は、卑弥呼立論した九州が北陸・東海地方より北方にある転回本州地図である。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000179_20250421155801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000179_20250421155801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000179_20250421155801.jpg" alt="0000179_20250421155801" width="300" height="535" border="0" /></a> <br /><br /></span>上の下図の【禾】【委】【倭】の字源に則る転回日本列島地理は、卑弥呼が錯覚した事実ではない地理であった。<span><br /></span>しかし、卑弥呼は錯覚の転回日本列島地理を立論したことは事実であり、この転回日本地理によって倭女王に就任したのは歴史上の事実であった。<span><br /></span>ゆえに、『魏志倭人伝』には卑弥呼が考えた転回日本列島地理が記述されることになった。<span><br /><br /></span>卑弥呼が立論した転回日本列島地理は原始以来の人類が受け継いできた天頂緯度測量にもとづく科学的意見であり、<span><br /></span>紀元前<span>2050</span>年頃に八郎潟の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住した益氏の王子が帝禹と帝益がとなえた方位論にもとづいて「下北半島・津軽半島は東北地方の南端となる」と教えた学術意見と合致した。<span>(</span>現在は下北半島・津軽半島は東北地方の北端にあると定まっている<span>)</span>。<span><br /><br /></span>このブログの初頭部で説明したように、紀元前<span>3000</span>年頃の黄帝時代初頭に生存した倉頡は「天理は南を正面にする。地理は北を正面する」と文字作成理論を定めた。<span><br /></span>ゆえに、紀元前<span>2100</span>年頃に生存した帝禹<span>(</span>ていう<span>)</span>と帝益<span>(</span>ていえき<span>)</span>は「地理の正面の北は天理の正面の南となる」と論じて、「地理における北の地は北に在らず、南に在る」と定めた。<span><br /></span>紀元前<span>2050</span>年頃にわが国の東北地方に定住した帝益の孫の王子は「帝禹と帝益の考え方に則<span>(</span>のっと<span>)</span>って、日本列島・本州の北端の下北半島・津軽半島は北<span>(</span>北端<span>)</span>に存在せず南<span>(</span>南端<span>)</span>に位置する」と定義した。<span><br /></span>ゆえに、日本列島・本州地理は下図のごとくに転回することになった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000182_20250421155901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000182_20250421155901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000182_20250421155901.jpg" alt="0000182_20250421155901" width="299" height="545" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図に示した益氏の孫の王子が立論した転回本州地理は、東北地方の地宜<span>(</span>ちぎ・平面的に図化した地図の形<span>)</span>にもとづいて立論した考え方であった。<span><br /></span>ゆえに、日本列島の西部地域における九州は本州の最北・九州より東の北陸・東海地方が南に伸びている状況を益氏が立論して以来約<span>2200</span>年間も立証されていなかった。<span><br /></span>益氏の孫の王子か約<span>2200</span>年後の西暦<span>170</span>年頃、上図のごとく、卑弥呼によって同緯度の沖ノ島・神津島の西冷・東暖の気候状況を注目して、益氏の王子が教えた転回本州地理は正しかったと証明された。<span><br /><br /></span>これゆえ、卑弥呼が提唱した「本州の東は東ではなく、南に伸びる」という意見は、益氏が教えた倉頡の文字作成理論や夏代黎明期の夏音文字の学術を修得した本州西部地域に居住する王・女王・氏族の長<span>(</span>おさ<span>)</span>たちは「正しい。まさに真実である」と賛同した。<span><br /></span>そして、彼らは「これ以上、大乱をつづけて日々争っていると、地中に棲む牽牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>の死霊に激怒されて祟<span>(</span>たた<span>)</span>られ、大地<span>(</span>本州<span>)</span>は海中に沈没して人はじめすべてが滅亡するにちがいない」と深刻に悩<span>(</span>なや<span>)</span>んで心配するようになった。<span><br /></span>だから、卑弥呼が立論した本州・西部地域の転回地理は倭国の大乱を一気に鎮静化<span>(</span>ちんせいか<span>)</span>する強大な威力を有した。<span><br /></span>ゆえに、卑弥呼は本州・西部地域における最高位の女王に選ばれて就任し、わが国最初の「倭人国」が創立されることになった。<span><br /><br /></span>益氏の王子が教えた「下北半島・津軽半島は日本列島の北端ではなく南端となるという転回日本列島地理」は「東北地方一円の地中に棲む牽牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>の死霊が激怒しないように騙しなだめて大災害が起きないようにした地理」であった。<span><br /></span>だから、益氏の王子が立論した転回日本列島地理と同じく転回日本列島地理をとなえた卑弥呼は――卑弥呼が居住する地域辺一円の地中に棲む牽牛の死霊が激怒しないように騙しなだめて大乱が再びおきないようにしていた方策がなされて宮城を設営していた――ことになる。<span><br /></span>というのも、『魏志倭人伝』には「倭の女王の卑弥呼と狗奴国<span>(</span>くなこく<span>)</span>の男王・卑弥弓呼<span>(</span>ひみくこ<span>)</span>と素<span>(</span>もと<span>)</span>より和せず、<span>(</span>中略<span>)</span>、相攻撃しあう」と説明する記事が存在するからである。<span><br /></span>本州・西部地域の倭人国において、男王・卑弥弓呼が治める狗奴国は卑弥呼と敵対<span>(</span>てきたい<span>)</span>していた。このため、大乱は倭人国の国中が完全に鎮静化<span>(</span>ちんせいか<span>)</span>したのでなく、狗奴国とは互いに小競<span>(</span>こぜ<span>)</span>り合いをして燻<span>(</span>くすぶ<span>)</span>っており、狗奴国軍が卑弥呼が住む宮城に攻撃してくるような情勢であったのである。<span><br /><br /></span>それゆえ、『魏志倭人伝』は狗奴国との争いが拡大して大乱とならないように、卑弥呼は地中の牽牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>の死霊が激怒しないように騙しなだめていた様子を下記のごとく説明する。<span><br /></span>「名づけて卑弥呼と曰<span>(</span>い<span>)</span>う。鬼道<span>(</span>きどう<span>)</span>を事<span>(</span>まつ<span>)</span>って能<span>(</span>よ<span>)</span>く衆を惑<span>(</span>まど<span>)</span>わす。年已<span>(</span>ねんすで<span>)</span>に長大なるも夫婿<span>(</span>ふせい<span>)</span>無し。男弟有りて佐<span>(</span>たす<span>)</span>けて国を治む。王と為<span>(</span>な<span>)</span>りし以来、見る者少なく、婢<span>(</span>ひ<span>)</span>千人を以て自ら侍<span>(</span>じ<span>)</span>せしむ。唯々<span>(</span>ただ<span>)</span>男子一人有りて飲食を給<span>(</span>きゅう<span>)</span>し、辞を伝えて出入す。居処<span>(</span>きょしょ<span>)</span>は宮室・楼観<span>(</span>ろうかん・見張り櫓<span>)</span>・城柵<span>(</span>じょうさく<span>)</span>を厳<span>(</span>おごそ<span>)</span>かに設け、常に人有りて兵を持<span>(</span>じ<span>)</span>して守衛す。」<span><br /><br /></span>上記のごとく、卑弥呼は軍事的施設の城を構成する柵<span>(</span>さく<span>)</span>をおそらくジャコウウシが敵にそなえる円陣のごとく円形にならべ、この円形の柵内<span>(</span>城内<span>)</span>に見張り櫓<span>(</span>やぐら・楼観<span>)</span>を建造して狗奴国軍が攻撃してくるのを日々警戒し、城の出入り口の門に兵を配置して守衛させていた。<span><br /></span>卑弥呼は、城の柵内<span>(</span>さくない<span>)</span>の一画に建造した宮室に住んでいた。<span><br /></span>卑弥呼を弟が補佐して国を治めていた。<span><br /></span>その他に、一人の男子が飲食を給仕<span>(</span>きゅうじ<span>)</span>していた。<span><br /></span>この男子の役割は、カワセミの求愛給仕行為からオスが嘴<span>(</span>くちばし<span>)</span>にくわえる魚をメスが受け取って食べる習性を真似<span>(</span>まね<span>)</span>したものと考えられる。<span><br /></span>カワセミは、巣穴の近くにダミー<span>(</span>騙し<span>)</span>の穴を作る。<span><br /></span>ゆえに、卑弥呼が居処する宮室にはダミー<span>(</span>贋物<span>)</span>の宮室が作られていたであろう。<span><br /></span>卑弥呼を見た者は少なかったのは――おそらく地中に棲むジャコウウシの死霊が激怒するのを騙しなだめるために、卑弥呼も常に地中に潜<span>(</span>もぐ<span>)</span>るかのごとく姿を見せないようにする呪術<span>(</span>じゅずつ・まじな<span>)</span>いをおこなっていたからと考えられる。<span><br /></span>卑弥呼が婢千人を侍<span>(</span>はべら<span>)</span>せていたのは――<span>13</span>歳くらいの婢<span>(</span>乙女<span>)</span>たちは最も強大な魔力を有すると信じられていたため、婢は倭国の大乱の戦場において呪<span>(</span>のろ<span>)</span>いの儀式をおこなって敵の呪的<span>(</span>じゅてき<span>)</span>な戦力を奪うことができる魔女として従事していた。婢は敵の魔女<span>(</span>呪術者・婢<span>)</span>も殺すことができる呪力を有するとされた。<span><br /></span>だから、卑弥呼は城内に優秀な魔力を有する婢千人を生活させて、戦場で彼女たちが魔力を再び発揮しないようにして大乱が起きないようにしていたにちがいない。<span><br /><br /></span>以上のごとく、『魏志倭人伝』が説明してた「日本列島の東は南に伸びる」という転回地理は、卑弥呼が立論した【倭】の字源を表示する実在した地理であった。<span><br /></span>「卑弥呼」の【卑】の字源・原義は「偉大な地理学者」であり、『説文解字』が解説する「下賤<span>(</span>げせん<span>)</span>なり」は字源・原義を失った誤った字説であった。<span><br /></span>卑弥呼がとなえた転回日本列島地理は、倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の帝禹と帝益が立論した<span>[</span>北」<span>(</span>本州北端の下北半島・津軽半島<span>)</span>を<span>[</span>南<span>]</span>とする転回地理の意見と合致した。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』が説明する転回日本列島地理は歴史上に実在した事実であったことになる。<span><br /></span>邪馬台国説学者たちは「本州の東は東ではなく、南に伸びる」と説明する転回日本列島地理は誤っている、事実ではない」と否定するが、この意見は空理空論あったことになる。<span><br /><br /></span>◆以上のごとく、わが国には確実に【倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の夏音文字の学術】が存在し、７世紀中半～８世紀初頭の飛鳥時代にも王朝基盤となる学術として存続していた。<span><br /></span>だから、２世紀末～３世紀中半までのわが国の様子を約<span>2000</span>字で記述する『魏志倭人伝』は【倉頡の文字作成理論と夏代黎明期の夏音文字の学術】を【系統的に合理を超える合理の成立】をもって説明する、現在において先端科学的な論考で構成される最高・最良の史料であった。<span><br /><br /></span>次回の漢字の起源と発明を解明す・<span>41</span>、もしくは<span>41</span>―１」では【臺<span>(</span>台<span>)</span>】と【壹<span>(</span>壱<span>)</span>】の字源の相違を明確にし、卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国であった」ことを証明する。<span><br /></span>これゆえ、現存する<span>12</span>世紀末の紹煕刊本<span>(</span>しょうきかんぽん<span>)</span>の「邪馬壹国」という表記は誤字ではなく正しかったことになる。<span><br /></span>だから、卑弥呼が統治する倭人国には「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国」という名の王国は実在しなかったことになり，<span>18</span>世紀前半に新井白石がとなえて以来今日までの約<span>300</span>年間も多くの学者たちが継承してきた邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国説は誤読の産物の<strong>空理</strong>空論であった事実が明白となる。<span><br /><br /></span></p>]]></content:encoded>


<dc:subject>卑弥呼</dc:subject>
<dc:subject>邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
<dc:subject>アルファベットの起源</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源</dc:subject>
<dc:subject>日本国誕生史の証明</dc:subject>
<dc:subject>大嘗祭の証明</dc:subject>
<dc:subject>まぼろしの邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源と発明を解明す</dc:subject>

<dc:creator>大川誠一</dc:creator>
<dc:date>2025-04-21T15:41:52+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/04/post-9bde9d.html">
<title>漢字の起源と発明を解明す・40ー１</title>
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<description>『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった(1)◆漢字は【夏...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった<span>(1</span><span>)<br /><br /></span>◆漢字は【夏の銀河】と呼ばれる【夏にもっとも長時間見ることができる銀河】から作られて起源した。<span><br /></span>「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」と呼ばれ、時には「銀漢」と呼ばれる。<span><br /></span>「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。<span><br /></span>下に、【夏も銀河のカラー写真】を配した。<span><br /></span>この写真は、<span>PIXTA(</span>ピクスタ<span>)</span>が撮影した。<span><br /></span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/ginga_kara1_20250413144101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Ginga_kara1_20250413144101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/ginga_kara1_20250413144101.jpg" alt="Ginga_kara1_20250413144101" width="299" height="450" border="0" /></a> </p>
<p><br />◆『魏志倭人伝』は、下に記す３種の事柄を説明する。<span><br /></span>しかし、学界は定説や有力説にもとづいて、これら３種の説明は誤っていると、下記のごとく否定する。<span><br /></span>【１】「『魏志倭人伝』は「わが国には<span>2</span>世紀末から３世紀中半において漢字知識があった」と記述するが、「わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀である」ゆえ、この記述は誤っている<span><br /></span>【２】『魏志倭人伝』における九州の末盧国<span>(</span>まつろこく<span>)</span>以下の記事にある【方位記事】は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、実際の日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びてない。<span><br /></span>だから、邪馬台国説学者たちは「【南】へ伸びるといると説明する転回日本列島地理は誤っている」と否定する。<span><br /></span>【３】『魏志倭人伝』の<span>12</span>世紀末に作られた紹煕刊本<span>(</span>しょうきかんぽん<span>)</span>は、女王卑弥呼が王国名を「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国<span>(</span>やまいこく<span>)</span>」と記す。しかし、王国名は「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国」こそが正しい。<span><br /><br /></span>上記の３種の記事はすべて正しかったのである。<span><br /></span>前回の「漢字の起源と発明を解明す・<span>39</span>」では「わが国は、紀元前<span>2000</span>年頃の後期縄文時代初頭、最初に漢字<span>(</span>夏音文字<span>)</span>を習得した事実」を詳細して証明した。<span><br /></span>ゆえに、上記の【１】の『魏志倭人伝』の記述は正しかった。<span><br /></span>だから、学界の定説は根本的に誤っていた。<span><br /></span>次回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>40</span>―２」では――【２】は卑弥呼が立論した錯覚の転回日本列島地理であった。この転回日本列島地理について『魏志倭人伝』が説明していたことを解説して証明する。<span><br /></span>この錯覚の転回日本列島地理によって、倭国の大乱が鎮<span>(</span>しず<span>)</span>まった。ゆえに、倭人国は卑弥呼を倭女王に選び国家を創設することになった。よって、この転回日本列島地図は卑弥呼王朝が制定する正式の地図となった。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』が説明する九州以下の本州が【東】ではなく【南】へ伸びる転回日本列島地図を否定する、学者たちやメディアが最も正しいと思い込む邪馬台国説もまた、【１】同様に、史料の表層を一瞥<span>(</span>いちべつ<span>)</span>しただけの軽率<span>(</span>けいそつ<span>)</span>で粗雑な意見であったことになる。<span><br /><br /></span>◆今から約<span>5000</span>年前の五帝時代初頭に生存した黄帝<span>(</span>こうてい<span>)</span>につかえた史官<span>(</span>記録官<span>)</span>の倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は、【夏の銀河各部の形状から文字を作成する理論】を発明した。<span><br /></span>ところが、現在の学者たちは即座に「中国で最初に文字を作ったと伝える倉頡伝説は荒唐無稽<span>(</span>こうとうむけい<span>)</span>の作り話である」と否定する。<span><br /></span>でも、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>10</span>」にて、倉頡伝説は事実を伝えていたと解説して証明した。<span><br /><br /></span>倉頡伝説は下記のごとくである。<span><br /></span>「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいた。倉頡は鳥獣の足跡を考案し、はじめて文字を作り、古来の結縄<span>(</span>三皇時代の易占に用いた記号<span>)</span>に代えたので、天は祝福して、禾<span>(</span>か・稲。稲や麦などの穀物<span>)</span>を降らせ、死霊の感泣<span>(</span>かんきゅう<span>)</span>する声が夜な夜な空に聞こえたという。」<span><br /><br /></span>中国の古代において、下図のごとく「顔に目が四つある倉頡の肖像画」が発見されている。<span><br /></span>この「倉頡の肖像画」は、騙<span>(</span>だま<span>)</span>し絵であった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s64_20250413140701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S64_20250413140701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s64_20250413140701.jpg" alt="S64_20250413140701" width="180" height="219" border="0" /></a> <br /><br /></span>上に示した「四つ目の倉頡の肖像画」は「人物画<span>(</span>地上に住む人の顔に目を四つ描く絵<span>)</span>」であった。だから「騙し絵」ということになる。<span><br /></span>この事実も知らないで、現代の学者たちは「四つ目の倉頡の肖像画」にまんまと騙された。<span><br /></span>これゆえ、彼らは自らの大失敗にまったく気づかず「倉頡伝説は荒唐無稽の作り話。倉頡伝説は信用してはいけない」と声高<span>(</span>こえだか<span>)</span>に主張する。<span><br /><br /></span>倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河の各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」と定めた。<span><br /></span>このため、現在、【夏の銀河の各部の名称】が存在しない。<span><br /></span>しかし、【倉頡の文字作成理論】を解明するためには、【夏の銀河の各部の名称】が無いと非常に不便である。<span><br /></span>それゆえ、わたくしは下図のごとく【夏の銀河の各部の名称】を定めた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00003_20250413140801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00003_20250413140801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00003_20250413140801.jpg" alt="00003_20250413140801" width="299" height="433" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図における向かって左上に「十字の銀河」がある。<span><br /></span>この「十字の銀河」の西となりの「鬼の横顔に似る銀河」が倉頡伝説に登場する「真実の四つ目の怪人・倉頡」である。<span><br /></span>下に、「天理<span>(</span>天にある道理<span>)</span>の十字の銀河」と「天理の四つ目の怪人・倉頡」つまり「鬼の横顔に似る銀河」を配した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000305_20250413140901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000305_20250413140901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000305_20250413140901.jpg" alt="0000305_20250413140901" width="300" height="291" border="0" /></a><br /><br /></span>下に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「顔に両眼<span>(</span>二つの目<span>)</span>となる部位」があり、「後頭部に大きく見開く目が一つ」あり、また「アゴに切れ長の細い目は一つ」あるゆえ、<span><br /></span>「鬼の横顔に似る銀河」は、合計「四つの目」を有する。<span><br /></span>だから、「ほんものの四つ目の怪人・倉頡」は、下図の「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」であった。<span><br /></span>前ページで紹介した「四つ目の倉頡の肖像画」は下の「四つ目の鬼の横顔に似る銀河の形」と、まったく異なる。「四つ目の倉頡の肖像画」は「漢字が夏の銀河各部の形状から作られた事実を誤魔化<span>(</span>ごまか<span>)</span>して隠ぺいするための騙し絵」であったのである。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00009_20250413140901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00009_20250413140901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00009_20250413140901.jpg" alt="00009_20250413140901" width="300" height="250" border="0" /></a><br /><br /></span>倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は「天理<span>(</span>夏の銀河各部の形状<span>)</span>と、天理と異なる地理とで構成される」と「辞理<span>(</span>文作成理論<span>)</span>」を定めた。<span><br /></span>わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>39</span>」において、「辞理」という語は「古事記上巻　并せて序」の末部に登場すると指摘した。<span><br /></span>つまり、「古事記上巻　并せて序」末部の「辞理の見え叵<span>(</span>がた<span>)</span>きは、注を以<span>(</span>も<span>)</span>ちて明らかにし、意況<span>(</span>いきょう<span>)</span>の解<span>(</span>さと<span>)</span>り易<span>(</span>やす<span>)</span>きは、更<span>(</span>さら<span>)</span>に注せず」という文の先頭が「辞理」という語である。<span><br /></span>前述したように、【天理<span>(</span>夏の銀河各部の形状<span>)</span>は完全なる合理からなり、地理は天理と異なって少数の不合理な点や欠点や弱点を有する」という理論】が【辞理】であった。<span> <br /></span>ゆえに、中国の五経の第一にあげられる『周易<span>(</span>しゅうえき<span>)</span>』の繋辞上伝<span>(</span>けいじじょうでん<span>)</span>の冒頭文は「天尊地卑」、つまり「天理は尊く、地理は卑し<span>(</span>地理は天理より劣る<span>)</span>」と記述する。<span><br /></span>倭女王名の「卑弥呼」の【卑】は「地理は卑し」の【卑】と同義であり、<span><br /></span>つまり、夏音文字【卑】は「地理に精通する大学者」を意味し、断じて今日のごとく「下賤<span>(</span>げせん<span>)</span>である」と意味するものではなかった。<span><br /><br /></span>◆このブログが幾度となく解説したように、『魏志倭人伝』の「倭人国には牛と馬は無い<span>(</span>つまり、生息していない<span>)</span>」という記述における【牛】は「ウシ」ではなく「ジャコウウシ」を意味し、【馬】は「ウマ」ではなく「フタコブラクダ」と意味した。<span><br /></span>これゆえ、【現代の学者たちは四つ目の肖像画を見て「倉頡伝説は荒唐無稽<span>(</span>こうとうむけ<span>)</span>作り話である」と騙<span>(</span>だま<span>)</span>された】の【騙】の偏に用いられた【馬】の字源は「フタコブラクダ」であった。<span><br /><br /></span>下図に示すように、【馬】の字源となった銀河は【「十字の銀河」とその東となりの「三つ輪の銀河」】であった。<span><br /></span>「十字の銀河」は「月光にきらめく沙<span>(</span>すな<span>)</span>のように壮麗な妊婦の姿」をしており、「三つ輪の銀河」は「月光に沙がきらめく土地の沙漠、つまり瀚海<span>(</span>かんかい・ゴビ沙漠<span>)</span>をあらわす、天理」となった。<span><br /></span>「三つ輪の銀河」は夏の銀河において最も東に位置し、「三つ輪の銀河」の東となりは「秋の銀河の西端<span>(</span>にしはし<span>)</span>」である。<span><br /></span><span> <a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000013_20250413141001.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000013_20250413141001" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000013_20250413141001.jpg" alt="000013_20250413141001" width="300" height="398" border="0" /></a> <br /></span>ゆえに、【馬】の字形は「天理」の「十字の銀河」から図案された。<span><br /></span>下図に示すように、「十字の銀河」が【馬】の字形となり、「三つ輪の銀河」の字形は「馬<span>(</span>フタコブラクダ<span>)</span>が生息するゴビ沙漠」に相当すると見立てられて図案された。<span><br /></span>だから、【馬】の契文形<span>(</span>けいぶんけい・甲骨文字の字形<span>)</span>は「十字の銀河」を「フタコブラクダの姿」に相似するように図案された。<span> <br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000014_20250413141101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000014_20250413141101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000014_20250413141101.jpg" alt="000014_20250413141101" width="299" height="303" border="0" /></a> <br /><br /></span>『魏志倭人伝』は「対馬国<span>(</span>現在の長崎県北部の対馬<span>)</span>の南一海を度<span>(</span>わた<span>)</span>る千余里、名づけて瀚海<span>(</span>かんかい<span>)</span>と曰<span>(</span>い<span>)</span>う。一大国<span>(</span>長崎県北部の壱岐<span>)</span>に至る」と記述する。<span><br /></span>これゆえ「対馬国の南の海」は「瀚海<span>(</span>かんかい<span>)</span>」と名づけられ、「瀚海は対馬国と一大国の中間の、現在の東水道」であった。<span><br /></span>上記したように、「瀚海」は「馬が生息するゴビ沙漠」を意味した。<span><br /></span>下に、「対馬国・瀚海・一大国の図」を配した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000012_20250413141201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000012_20250413141201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000012_20250413141201.jpg" alt="000012_20250413141201" width="300" height="471" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図に示す「対馬の上県<span>(</span>かみあがた<span>)</span>の地宜<span>(</span>ちぎ・平面的に図化した地図の形<span>)</span>」を見て――卑弥呼は「ゴビ沙漠に住む人々にとって欠くことができない家畜のフタコブラクダの正面の姿」に相似すると見立てた。<span><br /></span>「対馬の下県<span>(</span>しもあがた<span>)</span>の地宜」を、卑弥呼は「ゴビ沙漠・瀚海を歩くのに都合<span>(</span>つごう<span>)</span>がよい、じょうぶな足の指を有する大きな足底、あるいは沙漠の砂に残る足跡の形」に見立てた。<span><br /></span>【馬】の字源銀河は、上記したように「十字の銀河」である。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000015_20250413141501.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000015_20250413141501" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000015_20250413141501.jpg" alt="000015_20250413141501" width="300" height="283" border="0" /></a>  <br /><br /></span>上図に示したように――「下県の、フタコブラクダの足底の形<span>(</span>爪先の形<span>)</span>」は<span>[</span>北<span>]</span>に向く。ゆえに、卑弥呼は、瀚海<span>(</span>ゴビ沙漠<span>)</span>を対馬の<span>[</span>南<span>]</span>に配置したが、<span><br /></span>「対馬の<span>[</span>北<span>]</span>にある現在の西水道」もまた「瀚海」であったと示していた。<span><br /></span>だから、「対馬の上県の地宜」は「馬<span>(</span>フタコブラクダ<span>)</span>の正面形」となって【対】し、<span><br /></span>「対馬・下県の地宜」は「馬<span>(</span>フタコブラクダ<span>)</span>の足底の形で【対】するゆえ、<span><br /></span>卑弥呼は小国名を【対】に【馬】を加える「対馬国」と定めた。<span><br /></span>また、「対馬国の上県の地宜は「<span>[</span>南<span>]</span>に進む【馬】の形となって、<span>[</span>南<span>]</span>に瀚海がある形」、<span><br /></span>「対馬国の下県の地宜」は<span>[</span>北<span>]</span>に進む【馬】の形」となって、<span>[</span>北<span>]</span>にも瀚海がある形」を示す。<span><br /></span>したがって、【瀚海の位置が<span>[</span>南<span>]</span>と<span>[</span>北<span>]</span>に対することになる】ゆえ、卑弥呼は小国を「対馬国」と名づけることにしたのである。<span><br /><br /></span>前ページで図示したように、「天理の馬は瀚海<span>(</span>かんかい<span>)</span>・ゴビ沙漠の西となり」にある。<span><br /></span>それに対し、「地理の瀚海・ゴビ沙漠は対馬国の南の一海」となる。<span><br /></span>だから、「瀚海の北にある<span>[</span>対馬<span>]</span>の【馬】」は、「だまし」の漢字【騙】の偏となる【馬<span>(</span>フタコブラクダ<span>)</span>】をあらわした。<span><br /><br /></span>下図は、瀚海の南にある「一大国、現在の長崎県北部の壱岐」の地図である。<span><br /></span>一大国における、「現在方位の西部は、馬の顔とコブ」に見立てられ、「壱岐の大半を占める東部<span>(</span>現在方位<span>)</span>の地域は「牛の全身の形」に見立てられた。<span><br /></span>夏音文字【牛】は「ジャコウウシ」を意味したゆえ、「壱岐の大半を占める東部地域」は「ジャコウウシの全身の形」に見立てられて、「地宜<span>(</span>ちぎ・平面的に図化した地図の形<span>)</span>」になった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000019_20250413141701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000019_20250413141701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000019_20250413141701.jpg" alt="000019_20250413141701" width="299" height="312" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図に示したように、一大国は「【牛】と【馬】の地宜に岐<span>(</span>わか<span>)</span>れる」。<span><br /></span>だから、後世、「一大国」は「壱岐」と表記された。<span><br /></span>というのも、倉頡は【牛】と【馬】」を【一】の字源と定め、また【一】の字源は「子が子宮口<span>(</span>しきゅうこう<span>)</span>から産道を通過して膣口<span>(</span>ちつこう<span>)</span>から頭が誕生し、その後の後産期<span>(</span>こうざんき<span>)</span>までの様子」をあらわすようにした。<span><br /></span>言いかえると、倉頡は【一】の字源を【牛】と【馬】と定めるため、「子どもが出産するに通過する産道」と「後産期の様子」をも【一】の字源にした。<span><br /></span>ゆえに、【牛】と【馬】は【一】の字源「人の出産の様子」をあらわす聖獣<span>(</span>せいじゅう<span>)</span>となった。<span><br /><br /></span>司馬遷著<span>(</span>しばせんちょ<span>)</span>『史記』夏本紀<span>(</span>かほんぎ<span>)</span>初頭部は下記のごとく説明する。<span><br /></span>「禹<span>(</span>う<span>)</span>の父の鯀<span>(</span>こん<span>)</span>が帝舜<span>(</span>ていしゅん<span>)</span>に治水工事<span>(</span>ちすいこうじ<span>)</span>を命じられた。しかし鯀の治水が実状にそぐわず、なんにも成果をあげていなかったので、鯀を羽山<span>(</span>うざん<span>)</span>におしこめられて死にいたらしめた。<span><br /></span>帝舜は、鯀の子の禹に、鯀の治水事業を継続させた。」<span><br /></span>禹の治水工事の成功しでたとき、倉頡が作った【一】は、夏音文字で【壹<span>(</span>壱<span>)</span>】と表記されるようになったと考えられる。<span><br /></span>また、倉頡が作った【台】を、夏音文字では【臺】と表記されるようになったと考えられる。<span><br /></span>〔注　この【壹】と【臺】の誕生の秘密は、「漢字の起源と発明を解明す・<span>41</span>、もしくは４１－１」にて解説する。〕<span><br /><br /></span>【壱】の旧字は禹が作った【壹】である。<span><br /></span>【壹】の上部<span>(</span>【壺】の上部<span>)</span>は「分娩のはじまりとなって、子宮口<span>(</span>しきゅうこう<span>)</span>が全開大<span>(</span>ぜんかいだい・すっかり開く<span>)</span>状態から出産が始まる」を表現し、<span><br /></span>【壹】の下部の【豆】は「出産の始まりから後産期で出産が完了するまで、出産児が頭を前にして産道を通過し、さらに後産期の出産児の様子」をあらわした。<span><br /></span>つまり、「レスリングのバックドロップのように出産児はあおむけになって子宮口<span>(</span>しきゅうこう<span>)</span>に頭が入れると、その後、頭を前にして産道を進むと膣口<span>(</span>ちつこう<span>)</span>から頭が誕生し、さらに後産期に卵膜<span>(</span>らんまく<span>)</span>・臍帯<span>(</span>さいたい<span>)</span>・胎盤後血腫<span>(</span>たいばんこうけいしゅ<span>)</span>などが押し出されて出産が完了するまで、出産児の頭は５回も転回する」。<span><br /></span>したがって、【頭】の原字<span>(</span>げんじ・最初の文字<span>)</span>は【豆】であった。<span><br /></span>だから、【壹】の字は「子宮口の全開大から始まる出産は、後産期で完了する様子」をあらわした。<span><br /><br /></span>下に、五帝時代に生存した黄帝<span>(</span>こうてい<span>)</span>を祀<span>(</span>まつ<span>)</span>る廟<span>(</span>びょう<span>)</span>と墓となる黄帝陵<span>(</span>こうていりょう<span>)</span>の位置を示す地図を示した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000190_20250413141801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000190_20250413141801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000190_20250413141801.jpg" alt="0000190_20250413141801" width="299" height="355" border="0" /></a> <br /><br /></span>上の図における「黄帝陵より左側の黄河上流の形」は「頭が縦<span>(</span>たて・アゴから頭までの距離<span>)</span>に長くなる、その出産児の鼻の形」に相似する。<span><br /></span>ゆえに、「長方形状の黄河上流地域の地図」は「出産児が西に顔を向ける形の地理」となった。<span><br /></span>その「地理の瀚海・ゴビ沙漠は出産児の頭の上から遠く離れた北にあり、そして東西に広がる」。<span><br /></span>ところが、前ページで示した「瀚海<span>(</span>かんかい<span>)</span>と【馬】の天理図<span>(</span>字源解説図<span>)</span>」では、「三つ輪の銀河・瀚海<span>(</span>かんかい<span>)</span>は東にあって南北に広がり、十字の銀河・【馬】も南北に伸び」、「三つ輪の銀河と十字の銀河は連結する」。<span><br /></span>そして、倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は「天理の四つ目の怪人・倉頡<span>(</span>鬼の横顔に似る銀河<span>)</span>」を「出産児の頭<span>(</span>顔<span>)</span>」に見立てた。<span><br /></span>また、倉頡は「地理の黄河上流の長方形状の形」も「出産児の頭<span>(</span>顔<span>)</span>」に見立てた。<span><br /></span>ゆえに、「天理の瀚海図<span>(</span>字源図<span>)</span>」と「地理の瀚海図」は同一ではなく、その相違は明確である。<span><br /></span>「天理・銀河の瀚海」を「フタコブラクダが生息する地のゴビ沙漠」と解釈する考えは、イメージ<span>(</span>映像や心像<span>)</span>をもって同じであると誤魔化<span>(</span>ごまか<span>)</span>し騙<span>(</span>だま<span>)</span>す産物であった。<span><br /></span>だから、「瀚海に生息する【馬】・フタコブラクダ」は、「だまし」を意味する文字【騙】の偏となった。<span><br /><br /></span>上記した【馬】の天理字源は「十字の銀河」、【馬】の地理字源は「フタコブラクダ」、「瀚海」の天理字源は「三つ輪の銀河」、「瀚海」の地理語源は「ゴビ沙漠」とする定理は、倉頡の発明であった。だから、【馬】の字源と「瀚海」の語源は「辞理<span>(</span>文字作成理論<span>)</span>」を学ぶにあたって真っ先に知らなければならない基本中の基本知識であった。<span><br /><br /></span>貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編者『角川漢中和辞典』<span>(</span>角川書店発行<span>)</span>は「【翰<span>(</span>かん<span>)</span>】の字義は「やまどり。雉<span>(</span>きじ<span>)</span>の一種」とする。<span><br /></span>ゆえに、【翰】・「やまどり」は「ヤマセミ」であったと考えられる。<span><br /></span>というのも、偏【三水】に【翰】を加えると【瀚】になるからである。<span><br /></span>「三つ輪の銀河」は「水鳥のカワセミが飛び込んだ水面にできる水輪<span>(</span>みなわ・円形の波紋<span>)</span>の形」にソックリである。<span><br /></span>ゆえに、扁が【三水】の【瀚】は「水鳥のカワセミ」を意味したにちがいない。<span><br /></span>瀚・カワセミの巣穴<span>(</span>すあな<span>)</span>の近くには「ダミー・贋物<span>(</span>にせもの<span>)</span>の穴」がある。<span><br /></span>この「ダミーの穴」は言いかえると「騙<span>(</span>だま<span>)</span>しの穴」である。<span><br /></span>だから、「ゴビ沙漠に生息する馬<span>(</span>フタコブラクダ<span>)</span>」と共に、「地理のゴビ沙漠」もまた「騙しの穴を作るカワセミの海」、つまり「瀚海」と名づけられたのである。<span><br /><br /></span>◆なぜ、「騙し」が必要になったかといえば――黄帝が居住した黄帝陵周辺を黄河が長方形状に包囲し、黄河陵周辺の東方の近くには黄河の水が北<span>(</span>上流<span>)</span>から南<span>(</span>下流<span>)</span>に一直線状に流れる。<span><br /></span>このため、黄河の水は急流となり、大雨が降れば洪水となり氾濫<span>(</span>はんらん<span>)</span>して大災害となっていたにちがいない。<span><br /></span>黄帝陵周辺に住む人々は――夏の銀河の西端の形状を観<span>(</span>み<span>)</span>て<span>[</span>亡くなった牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)]</span>が地中深く潜<span>(</span>ひそ<span>)</span>み、その<span>[</span>牛の死霊が激怒して暴れる<span>]</span>のが原因で洪水となり、黄河は氾濫する――と考えたようである。<span><br /><br /></span>下に、「巨龍の銀河の尾」から「さそり座α星」までの夏の銀河の東部から西端までの図を配した。<span><br /></span>この図における右下にある「銀河の中心<span>(</span>銀河系宇宙の中心<span>)</span>」を、黄帝や倉頡はじめ黄帝陵周辺に住む人々は「牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>の群れが円陣を組む、その円陣の中心」と見立てた。<span><br /></span>というのも、牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>は敵の気配を察知すると１グループ・百頭ぐらいの群れが円陣を組み、この防御体勢となる円陣の中心に「牛の子ども」を配置して隠したからである。<span><br /></span>ゆえに、下図の右下の「胎児の姿に似る銀河」は［メスの牛が孕<span>(</span>はら<span>)</span>む胎児］に見立てられた。<span><br /></span>また、「胎児の姿に似る銀河」と「銀河の中心」と「巨龍の銀河の顔がある、夏の銀河の西南部」は「百頭余りの牛の群れが組む円陣」と見立てられた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s892_20250413141901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S892_20250413141901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s892_20250413141901.jpg" alt="S892_20250413141901" width="300" height="345" border="0" /></a> <br /></span>上図における右下の「胎児の姿に似る銀河」は「天敵のオオカミが襲来する気配を察知すると、防御<span>(</span>ぼうぎょ<span>)</span>する牛・ジャコウウシの姿勢」に相似する。<span><br /></span>「防御の姿勢となる、牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>の姿に銀河<span>(</span>胎児の姿に似る銀河<span>)</span>」を「１グループ・百頭余りの牛の群れを牽引<span>(</span>けんいん<span>)</span>する先頭の牛」に見立てると、<span><br />(A)</span>「巨龍の銀河の顔」は「群れを牽引する先頭の牛に従う二番目の牛」 に見立てられ、「巨龍の銀河の最後尾となる、わし座α星<span>(</span>牽牛星・彦星<span>)</span>付近の巨龍の最後尾の銀河」は「百頭余りの群れの最後尾の牛」と見立てられた。<span><br /><br /></span></p>
<p>上図における下部の左下「巨龍の銀河の顔から牽牛星<span>(</span>彦星<span>)</span>付近の巨龍の最後尾」までは、上記した<span>(A)</span>「百頭余りの牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>を牽引する先頭<span>(</span>胎児の姿に似る銀河<span>)</span>にしたがう二番目の牛から最後尾の牛」に見立てられた――この<span>(A)</span>の他に、「巨龍の銀河の顔」は<span>(B)</span>と<span>(C)</span>つまり計３種の物に相似すると見立てられた。<span><br /><br /></span>上図における左下<span>(</span>Ｂ<span>)</span>「巨龍の銀河の顔」は「北から南に下って黄帝陵周辺地域に生息した、牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>の群れに従ってついてきた野性の馬<span>(</span>フタコブラクダ<span>)</span>の群れを牽引する先頭の馬」に見立てられた。<span><br /></span>ゆえに、上図における左上の<span>(</span>Ｂ<span>)</span>「わし座α星・彦星」は「牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>の群れに従ってついてきた野生の馬<span>(</span>フタコブラクダ<span>)</span>における最後尾の馬」に見立てられた。<span><br /></span>実は、<span>(B)</span>「彦星」の【彦】は「牛・ジャコウウシ」を意味せず、【彦】の字は「大きく育った馬<span>(</span>フ<span>(</span>タコブラクダ<span>)</span>を意味した。<span><br /></span>また、【彦】は【顔】の原字<span>(</span>最初の文字・【顔】の偏は【馬】<span>)</span>であり、【彦】の字源は「大きく育った馬<span>(</span>フタコブラクダ<span>)</span>の顔」に見立てられた「巨龍の銀河の顔」であった。<span><br /><br /></span>作家にして詩人であった故・井上靖<span>(</span>いのうえやすし<span>)</span>氏は、『地中海』という詩集にある「落日」と題する詩にて「匈奴という遊牧民族の伝説」について、冒頭から<span><br /></span>「匈奴<span>(</span>きょうど<span>)</span>は平原に何百尺かの殆<span>(</span>ほとん<span>)</span>ど信じられぬくらいの深い穴を穿<span>(</span>うが<span>)</span>ち、死者をそこに葬り、一匹の駱駝<span>(</span>ラクダ<span>)</span>を殉死<span>(</span>じゅんし<span>)</span>せしめて、その血をその墓所の上に注<span>(</span>そそ<span>)</span>風習があった。云々」<span><br /></span>と表現する。<span><br /><br /></span>上図における<span>(B)</span>「巨龍の銀河の顔から尾までの全体像」は――上記したように、<span>[</span>牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)]</span>の群れについてきた<span>[</span>野性の馬<span>(</span>フタコブラクダ<span>)</span>群れ<span>]</span>をあらわし、そして「巨龍の銀河の顔」は「<span>[</span>牛<span>]</span>の子<span>(</span>銀河の中心と胎児の姿に似る銀河<span>)</span>の死霊を襲って追い回していじめる地中深く葬られた<span>[</span>馬<span>]</span>の死霊」をあらわした。<span><br /></span>これゆえ、【死霊の<span>[</span>牛<span>]</span>の群れは死霊の<span>[</span>牛<span>]</span>の子たちをまもって激怒<span>(</span>げきど<span>)</span>する。だから、黄河の水が氾濫して災害をもたらす】――と黄帝陵周辺に住む人々は考えたのである。<span><br /><br /></span>下に、長方形状に水が流れる黄河上流に包囲される黄帝陵の地図を配した。<span><br /></span>この黄河上流における北部から東部には、黄河から枝分かれする細い川がある。<span><br /></span>その細い川を参考にして、黄帝は黄帝陵東部の黄河から細い水路を造成する治水工事を命じて、激流する黄河の水をゆるやかにして氾濫を防<span>(</span>ふせ<span>)</span>ぐとともに田<span>(</span>農地<span>)</span>に用いる水とした。<span><br /></span>また、黄帝は「黄河と水路の連結部に堤防を築いて、氾濫をふせぐ治水工事」を命じたと考えられる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000191_20250413142101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000191_20250413142101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000191_20250413142101.jpg" alt="0000191_20250413142101" width="299" height="382" border="0" /></a> <br /><br /></span>上記したように、黄帝陵周辺に住む人々は――地中深く葬られた<span>[</span>馬<span>]</span>の群れの死霊が、「銀河の中心」と「胎児の姿に似る銀河」に見立てられた<span>[</span>牛<span>]</span>の子たちの死霊を襲って追い回しいじめる様子を、<span>[</span>牛<span>]</span>の親の死霊の群れが激怒して洪水となり黄河が氾濫する――と考えた。<span><br /></span>ゆえに、下図における左の<span>(C)</span>「東側にある、巨龍の銀河の顔」は「黄帝陵より東側の地域を流れる黄河」に見立てられた。<span><br /></span>また、下図における<span>(C)</span>「東側にある、巨龍の銀河の顔」は「洪水で、氾濫する黄河」に見立てられた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000309_20250413150201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000309_20250413150201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000309_20250413150201.jpg" alt="0000309_20250413150201" width="300" height="339" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図における「巨龍の銀河の顔」と「銀河の中心<span>(</span>銀河系宇宙の中心<span>)</span>」と「胎児の姿に似る銀河」の形状について――<span><br /></span>藤井旭<span>(</span>ふじいあきら<span>)</span>氏が著作した『透視版　星座アルバム』<span>(</span>誠文堂新光社発行<span>)</span>は<span>115</span>ページにて、「わが銀河系の中心方向にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力に満ちた姿でせまる」と説明する。<span><br /></span>ゆえに、黄帝陵周辺に住む人々は「銀河系の中心と、その東側の巨龍の銀河の顔、その西側の胎児の姿に似る銀河<span>(</span>防御の姿勢となるジャコウウシの姿に似る銀河<span>)</span>」は「洪水で大きな渦を巻いて氾濫して濁流<span>(</span>だくりゅう<span>)</span>する黄河の水」を連想した。<span><br /></span>だから、<span>(</span>Ｃ<span>)</span>「黄帝陵より東側の地域を流れる黄河の氾濫は、馬・フタコブラクダたちの死霊が牛・ジャコウウシの子たちの死霊を追い回していじめる様子を親の牛・ジャコウウシたちの死霊が激怒して起きる」と、黄帝陵周辺に住む人々は考えたのである。<span><br /><br /></span>以上のごとく、黄帝陵周辺に住む人々は「急流の黄河や地中」には「強大な力を有するジャコウウシの死霊が棲<span>(</span>す<span>)</span>む」とおそれた。このため、「急流の黄河に棲むジャコウウシの死霊を騙<span>(</span>だま<span>)</span>して宥<span>(</span>なだ<span>)</span>めて氾濫をふせぐ必要」があった。<span><br /></span>だから、倉頡は【馬】の字源「フタコブラクダ」と「瀚海<span>(</span>かんかい<span>)</span>」つまり「ゴビ沙漠」をもって「牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>の死霊が激怒するのを騙してなだめる方法」を考案することにしたのである。<span><br /><br /></span>いままで解説してきたように、五帝時代初頭の黄帝時代には、すでに地図が作製されていたことになる。<span><br /></span>ゆえに、倉頡は黄帝陵を包囲する黄河上流地域はほぼ長方形にして、出産児の頭の形に相似することを知っていた。<span><br /></span>倉頡が発明した文字作成理論は【黄河上流地域の地宜<span>(</span>ちぎ・平面的に図化した地図の形<span>)</span>】から始まった。<span><br /></span>したがって、黄帝時代には、かなり精度の高い地図を作製されていたと考えるべきことになる。<span><br /></span>倉頡は「文字を書いた後で用済みになっても消さない者、消し忘れた者はもちろんその家族および一族全員を死刑にする」と厳<span>(</span>きび<span>)</span>しい掟を定めた。<span><br /></span>この掟だと文字作成理論や倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>が作った字を後世の人々が知ることができない。<span><br /></span>後世に倉頡が発明した文字作成理論を伝えて、この文字作成理論にもとづいて多数の漢字が作られるようにするため――地宜<span>(</span>ちぎ・地図の形<span>)</span>をあらわす地名を作って残すことを、倉頡は許可した。<span><br /></span>しかし、倉頡は容易に地図の形が察知できる文字で地名を作ることを厳重に禁止し、地名には「騙し」を加えあるいは難<span>(</span>むずか<span>)</span>しく考えて作らなければならないと定めた。<span><br /></span>このため、「倉頡の文字作成理論はじめ『騙し』を加えて難解する作業」は【学】の字となり、中国やわが国の「学問の始まり・学術の基盤」となった。<span><br /></span>ゆえに、倉頡文字はじめ五帝時代に出現した文字<span>(</span>書契・しょけい<span>)</span>、夏代黎明期に作られた文字は後世において基本的に夏の銀河各部の形状から作られた楷書に変換できて残った。<span><br /></span>したがって、倉頡が作った文字は司馬遷<span>(</span>しばせん<span>)</span>著『史記』に残り、倉頡の文字作成理論や夏代黎明期の夏音文字は『魏志倭人伝』に記される楷書の字源・字形・字義や語句となって残った。<span><br /></span>五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は出土史料が発見されていないが――『史記』や『魏志倭人伝』や『古事記』上巻における様々な名をあらわす楷書や『万葉集』の万葉仮名となって残っている。<span><br /><br /></span>倉頡は、地図を王朝が独占管理して厳重な機密とするようにした。<span><br /></span>だから、独自に地図を作製する人物・家族・一族全員には、「騙し」を加えて難しい知識にしてあらわした地名の秘密を容易に理解できるように説明した人物・家族・一族全員には、厳しい神罰が下されて死刑とするという掟を倉頡は定めたことになる。<span><br /><br /></span>前述したように、倉頡は反体制者たちが辞理<span>(</span>文字作成理論<span>)</span>を理解し手に入れて革命に利用したならば、容易に黄帝王朝は滅亡すると心配して、辞理を難解・複雑にした。<span><br /></span>ゆえに、倉頡は<span>[</span>辞理に「瀚海・三つ輪の銀河と【馬】の「十字の銀河」と、「瀚海・ゴビ沙漠」の【馬】の「フタコブラクダ」との形状の差錯<span>(</span>ささく・相違<span>)]</span>を辞理に加えて、辞理が容易に理解できないように難解・複雑にしたのである。<span><br /></span>だから、黄帝時代や夏代黎明期には高度な地図が作製されていたと考えて――『魏志倭人伝』の<span>34</span>の小国はじめ、中国の黄河流域やわが国の東北地方の地宜<span>(</span>平面的に図化した地図の形<span>)</span>と地名に用いられる文字を注目して――小国名に用いられる文字の字源・字形・字義について字源字書の説明にもとづいて推理すると――『魏志倭人伝』の全<span>34</span>の小国の地宜・位置・範囲は４～６時間ぐらいで解明でき、また中国の黄帝時代と夏代黎明期の歴史、そしてわが国の東北地方の地宜と地名に残った夏代黎明期の歴史も解明できるようになっている。<span><br /><br /></span>◆次に【騙】の旁部<span>(</span>つくりぶ<span>)</span>の【扁】の字源銀河と、「だまし」を意味することになった理由・根拠について解明する。<span><br /></span>古代の人々が“字書の聖典”と尊重した許慎<span>(</span>きょしん<span>)</span>著『説文解字<span>(</span>せつもんかいじ<span>)</span>』は、<span><br /></span>【扁<span>(</span>へん<span>)</span>】の字源を「署<span>(</span>しょ<span>)</span>するなり。戸册<span>(</span>こさつ<span>)</span>に従ふ。戸册なるものは、門に署するの文なり」と解説する。<span><br /></span>白川静著『字統』<span>(</span>平凡社発行<span>)</span>は、上記の「『説文解字』の字源解説は「網戸<span>(</span>あみど<span>)</span>の形。戸の下部を網戸の形に作る。その両扁のものを扉という」と説明する。<span><br /></span>このような『説文解字』と『字統』の解説は字源を失っている。その証拠に【扁】の字が「だまし」の意を有することなったのかまったく不明である。<span><br /><br /></span>下の左図は「夏の銀河点描図<span>(</span>夏の銀河の全域図<span>)</span>」である。<span><br /></span>この左図は日本天文学会編『新星座早見』<span>(</span>三省堂発行<span>)</span>の夏の銀河の全域図を、わたくしがトレシングペーパーに点描しなおして作製した。<span><br /></span>右図は「夏の銀河輪郭<span>(</span>りんかく<span>)</span>図」である。したがって、輪郭の中は空白ではなく、空白部の全面もまた銀河ということになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000306_20250413150301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000306_20250413150301" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000306_20250413150301.jpg" alt="0000306_20250413150301" width="300" height="326" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図は、【「三つ輪の銀河」から「胎児の姿に似る銀河」までの夏の銀河の図】である。<span><br /></span>下の左図は、【「三つ輪の銀河」から夏の銀河の中間にある「わし座α星のアルタイル・牽牛星<span>(</span>けんぎゅうせい<span>)</span>・彦星までの銀河」を削除<span>(</span>さくじょ<span>)</span>した――【「わし座α星・牽牛星・彦星」から「胎児に似る銀河」までの夏の銀河の図】である。<span><br /></span>つまり、下の左図は【扁】の字源となった【「牽牛星・彦星」から「胎児に似る銀河」までを全域とした図】である。<span><br /></span>右図は、【扁】の字源銀河の全域輪郭図である。<span><br /></span>〔注　下の２図における右下には、出産児の誕生における後産期<span>(</span>こうざんき<span>)</span>をあらわすさそり座α星・アンタレスがある。しかし、この２図とも、さそり座α星が欠けている。〕<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000307_20250413150401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000307_20250413150401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000307_20250413150401.jpg" alt="0000307_20250413150401" width="300" height="262" border="0" /></a> <br /><br /></span>下の左図<span>(</span>Ⅰ<span>)</span>は、【扁】の字源銀河全域輪郭図を<span>180</span>度転回した図である。<span><br /></span>中央図<span>(</span>Ⅱ<span>)</span>は、左図<span>(</span>Ⅰ<span>)</span>の上下を<span>180</span>度転回した図である。<span><br /></span>右図<span>(</span>Ⅲ<span>)</span>は、中央図<span>(</span>Ⅱ<span>)</span>を書いた薄い紙の裏面からも見えるようにして、その裏面の形をあらわした図、つまりこの「裏返しの図」が【扁】の字源銀河図である。<span><br /></span>「右図<span>(</span>Ⅲ<span>)</span>の裏返しとなる中央図<span>(</span>Ⅱ<span>)</span>」は「内裏<span>(</span>だいり<span>)</span>」の語源となった。<span><br /></span>「内裏」とは「昔の天皇の御殿<span>(</span>ごてん<span>)</span>。つまり皇居・禁裏」を意味する。<span><br /></span>下の<span>(</span>Ⅰ<span>)</span>と<span>(</span>Ⅱの<span>)</span>図は、【扁】の字が「騙<span>(</span>だま<span>)</span>し」の字義を有することになった秘密の解明図である。<span><br /></span>つまり、<span>(</span>Ⅰ<span>)</span>と<span>(</span>Ⅱ<span>)</span>【扁】の字源銀河による「騙し」は――洪水で黄河が氾濫して大災害とならないように、【牛】の字源・ジャコウウシの死霊が激怒しないようにやわらげ静める――を表示している。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000308_20250413150601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000308_20250413150601" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000308_20250413150601.jpg" alt="0000308_20250413150601" width="300" height="221" border="0" /></a> <br /></span>上の左の銀河図<span>(</span>Ⅰ<span>)</span>は、実際に見えない――今から約<span>4100</span>年～<span>4000</span>年前頃の夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき<span>)</span>、現代の暦による冬至<span>(12</span>月の<span>21</span>日<span>)</span>の夕刻<span>6</span>時<span>(18</span>時<span>)</span>、その全域は北の地中深く<span>(</span>地平線下<span>)</span>に潜<span>(</span>もぐ<span>)</span>って見えない。<span><br /></span>上の中央の銀河図<span>(</span>Ⅱ<span>)</span>は、左図<span>(</span>Ⅰ<span>)</span>の銀河の上下を<span>180</span>度転回した「内裏」の語源銀河であるが、偽<span>(</span>にせ<span>)</span>の銀河であって実際にはまったく見ることができない。<span><br /></span>ゆえに、上記したように、<span>(</span>Ⅰ<span>)</span>と<span>(</span>Ⅱ<span>)</span>の２図は「激怒する死霊の牛<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>を騙しなだめる」という意味を有することになった。<span><br /><br /></span>上の右の銀河図<span>(</span>Ⅲ<span>)</span>は、夏至の日の<span>6</span>月<span>22</span>日の<span>18</span>時の夕刻、東南東<span>(</span>東から約<span>10</span>度の南<span>)</span>の地平線<span>(</span>水平線<span>)</span>を擦<span>(</span>こす<span>)</span>るように牽牛星・彦星が昇る様子をあらわしている。<span><br /></span>しかし、この夏至の日の夕刻<span>18</span>時には銀河は見えない。というのも、夏至の日の夕刻<span>18</span>時は太陽が地平線と重なるため、この太陽の光によって【扁】の字源銀河は見えない。<span><br /></span>右図<span>(</span>Ⅲ<span>)</span>は夏至の日の夕刻<span>18</span>時と<span>20</span>時の銀河図の両方をかねている。<span><br /></span>太陽が地平線下に没して<span>18</span>度の深さに至って星や銀河が見える夜となる夏至の日の<span>20</span>時、牽牛星・彦星は東南東<span>(</span>東から約<span>30</span>度の方角<span>)</span>に位置し、地平線から約<span>30</span>度の高度に輝いていた。<span><br /></span>だから、夏至の日の<span>20</span>時ならば右図<span>(</span>Ⅲ<span>)</span>の【扁】の字源銀河は見えた。<span><br /></span>したがって、<span>(</span>Ⅲ<span>)</span>における夏至の日の<span>20</span>時の【扁】の字源銀河は「騙<span>(</span>だま<span>)</span>し」の意味を有さないことになった。<span><br /><br /></span>奈良県高市明日香村には「牽牛子古墳<span>(</span>けんごしづかこふん<span>)</span>」と呼ぶ国の指定遺跡がある。<span><br /></span>この古墳の墳丘<span>(</span>ふんきゅう<span>)</span>は大・中・小の八角形を積み重ねて設計されている。<span><br /></span>ここからは、「上記したように、この古墳名と同じく「牽牛子」の振り仮名<span>(</span>ルビ<span>)</span>を「けんごし」とする。<span><br /></span>「牽牛子<span>(</span>けんごし<span>)</span>」は「朝顔<span>(</span>あさがお<span>)</span>」の別称ということで、国の史跡に指定されたときには、「牽牛子塚古墳」は「あさがおつかこふん」という読みがついていた。<span><br /><br /></span>下に、「牽牛子<span>(</span>けんごし<span>)</span>」の語源解説図を示した。<span><br /></span>「胎児の姿に似る銀河」は、「ジャコウウシがアゴを地面に向けて正面を見て、頭を首より低くする姿勢」に酷似<span>(</span>こくじ<span>)</span>する。<span><br /></span>言いかえると、「胎児の姿に似る銀河」は「天敵のオオカミが襲来するとき、人がジャコウウシを狩猟するときの牛・ジャコウウシの姿勢、あるいはオスのジャコウウシがメスをめぐって闘う姿勢」などに相似する。<span><br /></span>ゆえに、ここからは「胎児の姿に似る銀河」を「牽牛子<span>(</span>けんごし<span>)</span>の銀河」、または「牛・ジャコウウシに似る銀河」と呼ぶ場合もある。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000309_20250413150701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000309_20250413150701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000309_20250413150701.jpg" alt="0000309_20250413150701" width="300" height="339" border="0" /></a> <br /><br /></span>前述したように、防御体勢となる牛・ジャコウウシの群れは円陣を組み、ジャコウウシの群れは皆円陣の中心にいる子のほうに背中をむけ、敵に顔を向ける。<span><br /></span>ゆえに、「銀河の中心<span>(</span>銀河系宇宙の中心<span>)</span>」は「牛・ジャコウウシの子がいる所」となる。<span><br /></span>「胎児の姿に似る銀河・巨龍の顔の銀河から成る円形」は「牽牛・ジャコウウシの群れが組む円陣」に見立てられたゆえ、「ジャコウウシの子がいる銀河の中心」は「牽牛の子」略して「牽牛子」となる。<span><br /><br /></span>前述したように、「牛・ジャコウウシに似る銀河」は「胎児の姿に似る銀河」でもある。<span><br /></span>ゆえに、「牛・ジャコウウシに似る銀河＝胎児の姿に似る銀河」を「ジャコウウシの子の姿に似る銀河」と名づけると、<span><br /></span>これまた「牛・ジャコウウシに似る銀河」は「牽牛子」という名となる。<span><br /><br /></span>◆下図に示すように、夏至の日の朝日は東から<span>30</span>度の地平線<span>(</span>水平線<span>)</span>の方角から出<span>(</span>い<span>)</span>ずる。<span><br /></span>春分・秋分の日の朝日は東の地平線から出ずる。<span><br /></span>冬至の日の朝日は東から<span>30</span>度の地平線の方角から出ずる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s424_20250413150801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S424_20250413150801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s424_20250413150801.jpg" alt="S424_20250413150801" width="222" height="174" border="0" /></a> <br /><br /></span>下に図示したように、夏の銀河の東端に「三つ輪の銀河」がある。<span><br /></span>「三つ輪の銀河」は「北の輪<span>(</span>円形<span>)</span>の銀河・中央の輪<span>(</span>円形<span>)</span>の銀河・南の輪<span>(</span>円形<span>)</span>の銀河」という三つの輪の銀河が重なりあう形となる。<span><br /></span>したがって、「北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」に見立てられ、「中央の輪の銀河」は「春分・秋分の日の朝日」に見立てられ、「南の輪の銀河」は「冬至の日の朝日」に見立てられた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000303_20250413151001.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000303_20250413151001" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000303_20250413151001.jpg" alt="0000303_20250413151001" width="300" height="346" border="0" /></a> <br /><br /></span>すぐ前のページに図示したように、夏の銀河の西端には「さそり座α星・アンタレス」が在る。<span><br /></span>再度、この図を下に配置した。<span><br /></span>下図が示すように、「牽牛子の銀河の腰からさそり座α星までの銀河」は「ラッパの形に似る朝顔の花」に形似する。<span><br /></span>上記したように、「三つ輪の銀河における北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」に見立てられた。<span><br /></span>「朝顔の花」は「夏の朝方」に咲く。<span><br /></span>ゆえに、上記したように「牽牛子の銀河の腰からさそり座までの銀河」は「夏の朝方に咲く朝顔」に見立てられた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000309_20250413151101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000309_20250413151101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000309_20250413151101.jpg" alt="0000309_20250413151101" width="300" height="339" border="0" /></a> <br /><br /></span>東端の「三つ輪の銀河」から西端の「さそり座α星」までの夏の銀河は巨大である。<span><br /></span>だから、奈良県高市明日香村に所在する牽牛子塚古墳の墳丘における最下段の八角形は「三つ輪の銀河からさそり座α星・朝顔の花の台<span>(</span>うてな・萼拊<span>)</span>までの巨大な夏の銀河」をあらわした。<span><br /><br /></span>◆「牽牛星・彦星が漬<span>(</span>つ<span>)</span>かる銀河<span>(</span>【扁】の字源となる東端の銀河<span>)</span>」から西北の方角の隣<span>(</span>となり<span>)</span>には、「人の横顔に酷似<span>(</span>こくじ<span>)</span>する銀河」がある。<span><br /></span>「人の横顔に酷似する銀河の額<span>(</span>ひたい<span>)</span>」には、国際的に天文学界が「北天<span>(</span>ほくてん<span>)</span>の最輝部<span>(</span>さいきぶ<span>)</span>」と名づけた箇所がある。<span><br /></span>「北天の最輝部」は「北半球の人々が最も輝いて見える銀河の部分」と意味する。<span><br /></span>「人の横顔に酷似する銀河」の東となりの暗黒天体部は、国際的に天文学界において「コールサック」と呼ばれている。<span><br /></span>「コールサック」の「コール」は「石炭」を、「サック」は「袋」を意味する。ゆえに、「コールサック」は「石炭を入れる袋のごとく真っ黒の天体部」ということになる。<span><br /></span>「コールサックの形」は「丸くなって前につきだした妊婦の腹部<span>(</span>おなか<span>)</span>の正面形」に相似する。<span><br /><br /></span>下に、「コールサックと人の横顔に酷似する銀河の図」を配した。<span><br /></span>光がまったく目に入らない暗闇から「コールサック」を見ると、瞳孔<span>(</span>どうこう<span>)</span>が最大に拡大して「コールサック」は真っ黒く見える。<span><br /></span>「人の横顔に酷似する銀河の額<span>(</span>ひたい<span>)</span>にある、北天の最輝部がはなつ光」を「人の目に入る光」と見立てると――光が目に少し入ったために瞳孔が最大より少し縮小して、「コールサックの色」は「夏の朝にラッパの形に似る美しい花が咲く朝顔の紫色」に見える。<span><br /></span>ゆえに、「コールサック」は「紫色の朝顔の花」にも見立てられた。<span><br /></span>上記したように、「コールサック」は「子どもを孕<span>(</span>はら<span>)</span>む妊婦の腹部<span>(</span>おなか<span>)</span>の正面形」に相似する。<span><br /><br /></span>よって、「コールサック」は「朝顔」と、そして「人の横顔に似る銀河」は「子どもを生む女性の横顔」に見立てられた。<span><br /></span>だから、「人の横顔に酷似する銀河」もまた「コールサック」同様に「朝顔」と呼ばれることになった。<span><br /></span>というのも、「人の横顔に似る銀河」は「東の空が明るくなる朝」を示して<span>[</span>東<span>]</span>に顔を向けているゆえ、「人の横顔に酷似する銀河」は「夏の強い朝日が直射<span>(</span>ちょくしゃ<span>)</span>する顔」に見立てられ、略して「朝顔」と呼ばれることになった。<span><br /></span>というのも、「人の横顔に酷似する銀河の額にある、北天の最輝部の眩<span>(</span>まばゆ<span>)</span>い銀白色の輝き」は「夏の朝の強い陽射し」が連想されるからである。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000310_20250413151201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000310_20250413151201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000310_20250413151201.jpg" alt="0000310_20250413151201" width="300" height="425" border="0" /></a> <br /><br /></span>朝顔の花は夜間に咲かない。<span><br /></span>ところが、「コールサック」と「人の横顔に似る銀河」の「夜間に咲く朝顔の解釈」は「騙し」の意味を有するものと解釈されないことになった。<span><br /></span>というのも、「コールサック」は「妊婦の腹部、つまり胎児が生活するところ」に相似するからである。<span><br /></span>だから、「胎児が生活するところ」と見立てられた「コールサック」は「神聖なところ、つまり聖域<span>(</span>せいいき<span>)</span>」であるゆえ、「騙し」の意味は有さないと定められた。<span><br /><br /></span>このような「人の横顔に酷似する銀河とコールサックの朝顔」は、明日香村の牽牛子塚古墳における中くらいの大きさの中段の八角形をあらわした。<span><br /><br /></span>◆すぐ前ページにて指摘したように、夏の銀河の東端は「三つ輪の銀河」である。<span><br /></span>この「三つ輪の銀河における、北の輪の銀河」は「夏至の日の朝日」及び「夏の強い朝の陽射し」に見立てられた。<span><br /></span>「三つ輪の銀河」の西隣<span>(</span>にしとなり<span>)</span>は「十字の銀河」、「十字の銀河」の西隣には「四つ目の銀河<span>(</span>鬼の横顔に似る銀河<span>)</span>」がある。<span><br /></span>下に図示した「十字の銀河」は「夏の強い朝日の陽射し」に見立てられた「北の輪の銀河がある、東を向く」。<span><br /></span>ゆえに、「十字の銀河の顔」は「夏の強い朝日を浴<span>(</span>あ<span>)</span>びる顔」、略して「朝顔」と呼称されることになった。<span><br /></span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000311_20250413151301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000311_20250413151301" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000311_20250413151301.jpg" alt="0000311_20250413151301" width="299" height="327" border="0" /></a></p>
<p><br />また、上図に示したように、「四つ目の銀河<span>(</span>鬼の横顔に似る銀河の顔<span>)</span>」も「「北の輪の銀河がある、東を向く」。<span><br /></span>ゆえに、「四つ目の銀河」もまた「夏の強い朝日の陽射を浴びる顔」と見立てられ、略して「朝顔」と呼ばれることになった。<span><br /></span>そして、「十字の銀河の子宮」もまた「朝顔の花」に見立てられた。<span><br /><br /></span>朝顔の花は夜に咲かない。<span><br /></span>しかし、「十字の銀河の顔」・「四つ目の銀河」と「十字の銀河の子宮」は、前述した「人の横顔に酷似する銀河」・「コールサック」と同様に「騙し」の意味を有さないと定められた。<span><br /></span>というのも、前述したように、「胎児が生活する女性<span>(</span>妊婦<span>)</span>の正面形」に相似する「コールサック」は「騙しの意味を有さない、聖域」と解釈されることになったからである。<span><br /></span>だから、「十字の銀河の子宮」の、「子宮」も「胎児が羊水<span>(</span>ようすい<span>)</span>に潜<span>(</span>もぐ<span>)</span>って水中生活するところ」であるゆえ、「騙しを有さない、聖域」と定められた。<span><br /><br /></span>「十字の銀河の顔の朝顔」と「四つ目の銀河の朝顔」と「十字の銀河の子宮の朝顔」との三者グループの大きさは、上記した「人の横顔に酷似する銀河の朝顔」と「コールサックの朝顔」よりも小さい。<span><br /></span>だから、「十字の銀河の顔・四つ目の銀河の朝顔」と「十字の銀河の子宮の朝顔」は明日香村の牽牛子塚古墳における最上段・小の八角形をあらわした。<span><br /><br /></span>◆下図は「十字の銀河」と子宮」の図である。<span><br /></span>わたくしが「十字の銀河の子宮」とつけた名は、実は「十字の銀河の子宮と産道」の略称であった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000312.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000312" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000312.jpg" alt="0000312" width="300" height="470" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図の左図は、「女性の生殖器官」における「産道」と「子宮」と「卵管<span>(</span>らんかん<span>)</span>」と「卵管膨大部<span>(</span>らんかんぼうだいぶ<span>)</span>と「卵巣<span>(</span>らんそう<span>)</span>」の図である。<span><br /></span>「子宮」から左右に分かれる「卵管・卵管膨大部」と「卵巣」を削除<span>(</span>さくじょ<span>)</span>すると、右図のごとく「産道」と「子宮」の形になる。<span><br /></span>倉頡は、【台】という字を作り、「子宮」を「台形」に見立てて、「子宮で<span>40</span>週間余も生活する子」を「台の子」とした<span>(</span>つまり後世に「台の子」は「胎児」と表記された<span>)</span>。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000313.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000313" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000313.jpg" alt="0000313" width="300" height="261" border="0" /></a> <br /></span>上図に示したように、倉頡は【一】の字を作り、【一】は「産道」を意味するようにした。<span><br /></span>台の子<span>(</span>胎児<span>)</span>が育って出産するとき、子宮口<span>(</span>しきゅうこう<span>)</span>にあおむけになって頭を入れ、さらに頭を前にして産道を進み、膣口<span>(</span>ちつこう<span>)</span>から頭が誕生し、さらに後産後期<span>(</span>こうざんき<span>)</span>に出産児の付属物が娩出<span>(</span>べんしゅつ<span>)</span>されて出産が完了するまでに生きている児の年齢を「一才」と数えた。<span><br /><br /></span>つまり、倉頡は【一】の字源・字義を「出産の第一期の開口期<span>(</span>かいこうき・分娩の始まりから子宮口がすっかり開くまでの時期<span>)</span>から、第二期の娩出期<span>(</span>べんしゅつき・子宮口がすっかり開いてから胎児の頭が母体の背側に向いて誕生するまでの時期<span>)</span>、そして第三期の後産期<span>(</span>誕生した出産児の附属物が娩出されて、出産が完了する<span>)</span>まで」と定めた。<span><br /></span>だから、古代では後産期において生きている出産児の年齢を「一才」と数えた。<span><br /></span>〔現在は、後産後に生きている出産児の年齢を〇歳とする〕。<span><br /><br /></span>すぐ前ページに配した「女性の産道と子宮の形」の図を、再度、下に配した。<span><br /></span>下の右図に記したように、倉頡は「子宮」は「朝顔の花の形」に相似すると見立てた。<span><br /></span>そして、倉頡は「産道」を「朝顔の花<span>(</span>花弁<span>)</span>をのせる台」と定めた。<span><br /></span>この「朝顔の花をのせる台」の「台」を、現在では「うてな」と読み、「萼拊<span>(</span>がくふ<span>)</span>」とも呼ぶ。<span><br /></span>上記したように、倉頡は【一】の字源を「産道」と定めたにもかかわらず、「産道」を「台<span>(</span>朝顔の花をのせる台<span>)</span>」と呼んだ。<span><br /></span>このように、「産道」は【一】の字源にして「台<span>(</span>朝顔の花をのせる台<span>)</span>」を解されたゆえ、矛盾することになった。<span><br /></span>ゆえに、白川静著『字統』<span>(</span>平凡社発行<span>)</span>は【不】の字について――否定・打消しの「ず」に仮借<span>(</span>かしょく<span>)</span>して用いる。もと象形で花の萼拊の形である――と解説する。<span><br /></span>要するに、『字統』は――朝顔の萼拊は「朝顔の花をのせる台」ではあるが、「子宮」を「朝顔の花」に見立てたときは「産道」は【一】の字源であるゆえ、「あくまで産道は【一】の字源であるから、産道を<span>[</span>台<span>]</span>と解釈してはいけない」と否定された――と説明するものであったことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000313_20250413151601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000313_20250413151601" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000313_20250413151601.jpg" alt="0000313_20250413151601" width="300" height="261" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆黄帝は「女性の生殖器官<span>(</span>せいしょくきかん<span>)</span>と出産」について研究した。<span><br /></span>ゆえに、倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は「黄帝の医学研究の教えや意見」と「自分の意見」を合体して、卵から第４週の前半に心臓ができる胎芽期<span>(</span>たいがき<span>)</span>より出産が完了する後産期<span>(</span>こうざんき<span>)</span>までの児<span>(</span>こ<span>)</span>は八変化して誕生すると考えることにした。<span><br /></span>この「児の八変化」における黄帝と倉頡の合体意見を、現在の医学用語を用いて説明する。<span><br /></span>倉頡は「児の八変化」を<span><br />(</span>一<span>)</span>胎芽期と第４週前半から第<span>12</span>週ころまでの胎児期<span>(</span>たいじき<span>)</span>、<span>(</span>二<span>)</span>子宮上部の子宮底<span>(</span>しきゅうてい<span>)</span>のほうに頭をむける第<span>12</span>週から第<span>20</span>週ころまで育つ胎児期、<span>(</span>三<span>)</span>子宮底と<span>180</span>度の反対方向にある子宮口<span>(</span>しきゅうこう<span>)</span>のほうに頭を向ける第<span>20</span>週ころから出産予定日の第<span>40</span>週までの胎児期、<span>(</span>四<span>)</span>あおむけになって子宮口<span>(</span>骨盤の入口<span>)</span>に頭を時計回りに<span>90</span>度転回する時、<span>(</span>五<span>)</span>出産児が頭を反時計回りに<span>90</span>度転回して産道を進む時、<span>(</span>六<span>)</span>出産児が頭を反時計回りに<span>90</span>度転回して産道を進む時、<span>(</span>七<span>)</span>出産児が頭を時計回りに<span>90</span>度転回して母体の背側に顔を向ける時、<span>(</span>八<span>)</span>後産期における出産児の姿勢、<span><br /></span>上記のごとく、八種類に分けた。<span><br /><br /></span>上記の「<span>(</span>四<span>)</span>から<span>(</span>七<span>)</span>までにおける四回の出産児の変化」を、現在医学では「回旋<span>(</span>かいせん<span>)</span>」とよぶ。つまり、<span>(</span>四<span>)</span>時計回りの<span>90</span>度の転回」は「第１回旋」、<span>(</span>五<span>)</span>反時計回りの<span>90</span>度の転回」は「第２回旋」、<span>(</span>六<span>)</span>反時計回りの<span>90</span>度の転回」は「第３回旋」、<span>(</span>七<span>)</span>時計回りの<span>90</span>度の転回」は「第４回旋」とよぶ。<span><br /><br /></span>黄帝は、<span>(</span>一<span>)</span>の胎芽期における児どもは水稲<span>(</span>すいとう・水田の稲<span>)</span>が牛・ジャコウウシの餌場<span>(</span>えさば<span>)</span>のような形をした田の周辺の粘膜<span>(</span>ねんまく<span>)</span>に、苔<span>(</span>こけ<span>)</span>のような細胞が餌場のような形をした田へ向かって侵入して――児どもの命が始まると考えたようである。<span><br /></span>その後、つまり第８週の中頃の児どもは、だいぶ人らしく見える胎児となる。<span><br /></span>ゆえに、胎芽期から始まる児どもは子宮の中の羊水<span>(</span>ようすい<span>)</span>に漬かって約<span>10</span>ヶ月も長い期間過ごす水中生活者である。<span><br /></span>出産した人は１時間も水中に潜っていれば窒息死<span>(</span>ちっそくし<span>)</span>して確実に死ぬ。<span><br /></span>にもかかわらず、子宮内の児どもは約<span>40</span>週間もの長いあいだ羊水に潜ったまま過ごしても、なぜか窒息しないのいか、黄帝はこの秘密を解明できなかった。<span><br /></span>ゆえに、倉頡は<span>(</span>二<span>)</span>の胎児を鳰<span>(</span>にお<span>)</span>で、<span>(</span>三<span>)</span>の胎児をカンムリカイツブリで喩<span>(</span>たと<span>)</span>えることにした。<span><br /></span>倉頡は、<span>(</span>二<span>)</span>胎児の体長<span>(</span>たいちょう<span>)</span>は<span>20</span>～<span>30</span>センチである。この体長さは水鳥の鳰と同じぐらいであった。<span><br /></span>鳰<span>(</span>にお<span>)</span>は鳥の中でも、もっとも水と深くかかわって生活する。湖や川や沼の池に浮かんで、頻繁<span>(</span>ひんぱん<span>)</span>に水に潜<span>(</span>もぐ<span>)</span>り、陸上で生活することはほとんどない。鳰は人間よりもずっと長く水中に潜っていることができる。ゆえに、倉頡は約９週間も母体の子宮の羊水の中にもぐったまま、息を外<span>(</span>は<span>)</span>きつづけて羊水を吸い込まずに窒息しない胎児」に喩えることにした。<span><br /></span>カンムリカイツブリ目カイツブリ属最大のカンムリカイツブリの体長<span>(46</span>～<span>61</span>センチ<span>)</span>は<span>(</span>三<span>)</span>出産予定日の第<span>38</span>週ころから第<span>40</span>ころの胎児の体長<span>(48</span>～<span>53</span>センチ<span>)</span>と同じくらいである。<span><br /></span>カンムリカイツブリは鳰よりも長く水中に潜ることができるゆえ、「八丁もぐり」とも呼ばれる。<span><br /></span>ゆえに、倉頡は「<span>(</span>三<span>)</span>の胎児」を「カンムリカイツブリ」で喩えることにした。<span><br /></span>そして、倉頡は「カンムリカイツブリの姿」を図案する【爾<span>(</span>に<span>)</span>】の字を作り、「鳰の姿」を図案する【乎<span>(</span>を<span>)</span>】の字を作った。<span><br /></span>夏代黎明期では【爾】の字に偏【弓】が加わって【彌<span>(</span>弥・み<span>)</span>】となり、【乎】には偏【口】が加わって【呼<span>(</span>こ<span>)</span>】となった。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』に記される「卑弥呼」の【弥】は「カンムリカイツブリ」を意味し、【呼】は「鳰」を意味した。<span><br /><br /></span>以上のごとく、奈良県高市明日香村に所在する古墳名に用いられる「牽牛子<span>(</span>けんごし<span>)</span>」は「朝顔<span>(</span>あさがお<span>)</span>」とも解されることになった。<span><br /></span>上記したように、倉頡は「胎芽期」から「後産期」までの出産児の状況を八種類に分けた。<span><br /></span>ゆえに、「牽牛子」と「２種類の朝顔」は「八角形」にされるようになった。<span><br /></span>上記の「２種類の朝顔」は「<span>(</span>１<span>)</span>人の横顔に酷似する銀河・コールサック」と、<span>(</span>２<span>)</span>「十字の銀河の顔・四つ目の銀河と十字の銀河の子宮<span>(</span>子宮と産道<span>)</span>」である。<span><br /></span>だから、牽牛子塚古墳の墳丘は「牽牛子」と「２種類の朝顔」の計３種の銀河を大・中・小の八角形を三段積み重なる形に設計されている。<span><br /><br /></span>なお、特に注目すべきは――メスをめぐってジャコウウシのオスが角<span>(</span>つの<span>)</span>と角をつきあわせて押し合い闘うときの、二頭の角の形である。<span><br /></span>下に、闘う二頭のオスの写真を配した。<span><br /></span>この写真は、星野道夫記念ライブラリーが発行した絵葉書から転載した。<span><br /></span>この写真が示すように、ジャコウウシの二頭の角は【八】の金文形をあらわす。<span><br /></span>白川静著『字統』は【八】の字について――両分の形。左右に両分して数える数えかたによって、数の八を示す。『説文解字』は「別るるなり」と訓し、その形について「分別して相背く形に象<span>(</span>かたど<span>)</span>る」という――と解説する。<span><br /></span>下の写真の二頭のオスの角の形は、白川静著『字統』と『説文解字』の【八】の字説に合致する。<span><br /></span>ゆえに、【八】の字源は「メスをめぐって闘うときの二頭のオスの角の形」であった。<span><br /></span>ということは、倉頡は「闘うジャコウウシのオス二頭の角の形」を【八】の字源にしたと考えられる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/photo_20250413151801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Photo_20250413151801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/photo_20250413151801.jpg" alt="Photo_20250413151801" width="300" height="213" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆下図は、「上半分」が「中の人の横顔に酷似する銀河・コールサック」、下半分が「牽牛子<span>(</span>ジャコウウシ<span>)</span>」をデザインする――「大・中・小の積み重なる三段」の「三」をあらわす<span>[</span>【参】の金文形における「朝顔」の語源銀河と【扁】の字源銀河との合体形<span>]</span>となる――【参】の字源銀河説明図である。<span><br /></span>この左右の両図には、「東に向く顔を向ける妊婦の胸部を西に向くように<span>180</span>度転回して、東を向いていた妊婦の顔から腹部までを西に向くようにした」という工作が加えられている。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000314.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000314" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000314.jpg" alt="0000314" width="300" height="302" border="0" /></a> </span>「<br />上図における上半分」は「人の横顔に酷似する銀河の額<span>(</span>ひたい<span>)</span>にある、北天の最輝部」の図案をもって「人の横顔に酷似する銀河とコールサック」を表現する。<span><br /></span>ゆえに、「上図の上半分」は「人の横顔に酷似する銀河とコールサックの、朝顔」の語源銀河図となる。<span><br /></span>上の左図<span>(</span>１<span>)</span>に記した「彦星・牽牛星」は「向きが東から西へ<span>180</span>度転回する胸部」をあらわす。<span><br /></span>上の左図<span>(</span>１<span>)</span>における「牽牛子の銀河」は「向きが東から西へ<span>180</span>度転回する腹部」をあらわす。<span><br /></span>ゆえに、「上の<span>(</span>１<span>)(</span>２<span>)(</span>３<span>)</span>の３図の下半分」は「彦星・牽牛星から牽牛子の銀河までの範囲の、夏の銀河」をあらわし、前ページで解説した【扁】の字源銀河をあらわす。<span><br /><br /></span>下に、【参】の金文形の解説図を配した。<span><br /></span>左図は<span>(</span>１<span>)</span>「東に向く妊婦の横顔と西に向く妊婦の腹部」をあらわす「牽牛星・彦星から牽牛子の銀河までの女体図」である。この左図<span>(</span>１<span>)</span>は【参】の金文形ではない。<span><br /></span>中央図は<span>(</span>２<span>)</span>「右図の【参】の金文形の裏返しの、東に向いて踊る妊婦図<span>(</span>女体図<span>)</span>」である。この中央図<span>(</span>２<span>)</span>もまた【参】の金文形ではない。<span><br /></span>右図は、前ページに配した<span>(</span>３<span>)</span>【参】の金文形である。<span><br />(</span>３<span>)</span>【参】の金文形は「子どもが誕生して喜ぶ、西を向いて踊る女性の姿」を表現している。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000315.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000315" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000315.jpg" alt="0000315" width="300" height="203" border="0" /></a> <br /></span>◆ここまでの解説に至っても、斉明天皇は奈良県高市明日香村に所在する八角形に設計された牽牛子塚<span>(</span>けんごしづか<span>)</span>古墳を築造したのか、その秘密についていまだ解説していない。<span><br /></span>次回「漢字の起源と発明を解明す・<span>40</span>―２」では、斉明天皇が牽牛子塚古墳を築造した秘密について説明した後に――いまだ全貌を説明していない【倉頡の文字作成理論】について解説した後に、<span><br /></span>今回のブログのテーマ「『魏志倭人伝』における九州の末盧国<span>(</span>まつろくに<span>)</span>以下の記事にある【方位記事】が「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する――について解説する。<span><br /></span>邪馬台国説学者たちは「【南】へ伸びると説明する転回日本列島地理は誤っている」と断定して、このような不合理な転回日本列島の解釈は誤りで、実際には存在しなかったと主張する。<span><br /></span>この邪馬台国説学者たちの転回日本列島地理の否定意見は『魏志倭人伝』の文字面<span>(</span>もじづら<span>)</span>を撫<span>(</span>な<span>)</span>でただけの粗雑<span>(</span>そざつ<span>)</span>な考えによる邪推<span>(</span>じゃすい<span>)</span>で、要するに空理空論であった。<span><br /></span>つまり、卑弥呼王朝は錯覚の転回日本列島地理を制定していた。<span><br /></span>だから、この「漢字の起源と発明を解明す・<span>40</span>―１」と「漢字の起源と発明を解明す・<span>40</span>―２」のテーマ「日本列島地理は卑弥呼王朝が制定した地図であったゆえ、歴史上に実在した」という解説と証明は、次の「漢字の起源と発明を解明す・<span>40</span>―２」でおこなうことにした。<span><br /><br /></span></p>]]></content:encoded>


<dc:subject>邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
<dc:subject>アルファベットの起源</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源</dc:subject>
<dc:subject>ヒエログリフ(聖刻文字)</dc:subject>
<dc:subject>日本国誕生史の証明</dc:subject>
<dc:subject>大嘗祭の証明</dc:subject>
<dc:subject>まぼろしの邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源と発明を解明す</dc:subject>

<dc:creator>大川誠一</dc:creator>
<dc:date>2025-04-13T14:31:25+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/03/post-828727.html">
<title>漢字の起源と発明を解明す・39</title>
<link>https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/03/post-828727.html</link>
<description>『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった(１)◆【漢字】は...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>『魏志倭人伝』は漢字の起源の秘密を伝える最高最良の史料であった<span>(</span>１<span>)<br /><br /></span>◆<strong>【漢字】は、【</strong>夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。<span><br /></span>【夏の銀河】とは「夏の星座が漬<span>(</span>つ<span>)</span>かる銀河」のことをいう。<span><br /></span>「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ぶ。<span><br /></span>「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。<span><br /><br /></span>下に、【銀漢・夏の銀河のカラー写真】を配した。<span><br /></span>この写真は、<span>PIXTA(</span>ピクスタ<span>)</span>が撮影した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/ginga_kara1_20250309102201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Ginga_kara1_20250309102201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/ginga_kara1_20250309102201.jpg" alt="Ginga_kara1_20250309102201" width="299" height="450" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆邪馬台国や卑弥呼について説明する古書は通称『魏志倭人伝<span>(</span>ぎしわじんでん<span>)</span>』とよばれる。<span><br /></span>『魏志倭人伝』は著者の陳寿<span>(</span>ちんじゅ・<span>233</span>―<span>297)</span>が記述した計<span>1983</span>字と、<span>5</span>世紀に生存した裴松之<span>(</span>はいしょうし<span>)</span>が加えた注の<span>56</span>字、合計<span>2039</span>字で構成される。<span><br /></span>『魏志倭人伝』は陳寿著『三国志』魏書東夷伝<span>(</span>ぎしょとういでん<span>)</span>末尾にある〔倭人伝〕である。<span><br /></span>つまり、晋<span>(</span>しん<span>)</span>王朝の著作郎<span>(</span>ちょさくろう・歴史編纂官<span>)</span>であった陳寿が著作した正史『三国志』の<span>65</span>巻のうちの〔魏書東夷伝末尾の倭人伝〕を通称『魏志倭人伝』と呼ぶ。<span><br /><br /></span>山尾幸久<span>(</span>やまおゆきひさ<span>)</span>著『魏志倭人伝』<span>(</span>講談社発行・<span>1981</span>年<span>11</span>月<span>30</span>日第<span>18</span>刷発行<span>)</span>は、<span>29</span>ページで「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間<span>(</span>二八〇―二八九<span>)</span>、陳寿の著作郎時代という以上には限定できない」と指定する。<span><br /></span>ゆえに、『三国志』<span>65</span>巻における〔魏書東夷伝末尾の「倭人伝」〕、つまり『魏志倭人伝』は西暦<span>280</span>年～<span>289</span>年に著作された。<span><br /></span>現在、３世紀後半に成立した『魏志倭人伝』の原書は現存せず、成立から約<span>900</span>年後の<span>12</span>世紀末における紹煕刊本<span>(</span>しょうきかんぽん<span>)</span>として現存する。<span><br /></span>このため、約<span>900</span>年後の刊本がすべて原本のとおりに正確に写して残したのであろうか？　<span><br /></span>当然、誤記・誤解が加えられて一部分が不正確になったにちがいないと疑われる。<span><br /><br /></span>◆ゆえに、現在、学界においては、上記したように<span>3</span>世紀後半に著作された『魏志倭人伝』の原本が残らずに、<span>900</span>年後の紹煕年間に作成された刊本として残った点や、<span><br /></span>下記の３点の説明は「事実に反して誤っている」と断定する。<span><br /></span>【１】「『魏志倭人伝』は「わが国には<span>2</span>世紀末から３世紀中半において漢字知識があった」と記述する。しかし、「わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀のであるのは確かなことである」ゆえ、この記述は誤っている<span><br /></span>【２】また『魏志倭人伝』は「日本列島は【東】に伸びずに【南】に伸びる」と説明する。しかし、「日本列島は【東】へ伸びて【南】には伸びていない」。だから、「【南】へ伸びる」と説明する転回日本列島地理は事実に反して誤っている<span><br /></span>【３】紹煕刊本は、女王卑弥呼が居住した王国名を「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国<span>(</span>やまいこく<span>)</span>」と記す。しかし、王国名は「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国<span>(</span>やまたいこく<span>)</span>」こそが正しい<span><br /></span>下に示すように、『魏志倭人伝』紹煕刊本は「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国」ではなく、「邪馬<span>(</span>壹<span>)</span>壱国」と記す。</p>
<p><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000169_20250309102401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000169_20250309102401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000169_20250309102401.jpg" alt="0000169_20250309102401" width="299" height="407" border="0" /></a>   <br /><br /></span>この「漢字の起源と発明を解明す」題するブログは、上記した【１】を<span>39</span>回<span>(</span>今回<span>)</span>の問題をテーマとし、【２】を次回<span>(40</span>回<span>)</span>の問題をテーマとし、【３】は<span>41</span>回の問題をテーマとして詳細に解説し、【１】【２】【３】の記事は事実を伝えることを証明して――【『魏志倭人伝』は倉頡が発明した文字作成理論と夏音文字をわが国は約<span>4000</span>年前の後期縄文時代初頭に習得した事実を記述する最高最良の書物】であることを、<span>(</span>１<span>)(</span>２<span>)(</span>３<span>)</span>の３回に分けて詳細に解説して証明することにした。<span><br /><br /></span>上記の『魏志倭人伝』に記述される【<span>1</span>】【２】【３】の３点の事柄は、「学界、あるいは考古学における定説に反する説明」である。<span><br /></span>ゆえに、上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史　上』〔邪馬臺台国を中心に〕<span>(</span>光文社発行・<span>1980</span>年<span>6</span>月<span>25</span>日第４刷発行<span>)</span>における考古学学者・江上波夫<span>(</span>えがみなみお<span>)</span>氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」では、上記した『魏志倭人伝』における３点の事柄の記述について、下記のごとく批判する。<span><br /></span>「軽々しく文献史料を信用してはいけないというが、なぜ信用してはならないのか、信用してはならないのはどのような点なのか、あるいは、どのようなとらえ方をしたならば信用できるものとなるのか、などを見きわめて、史料を利用することが必要である。」<span><br /><br /></span>ところが、わが国の言語学・音韻学<span>(</span>おんいんがく<span>)</span>・文献史料史学の視点のもとづくと、<span><br /></span>――【わが国が最初に漢字を習得したのは、考古学が定める５世紀】ではないことになる。<span><br /></span>言語学・音韻学・文献史料にもとづくと、【わが国が最初に漢字を習得したのは、今から約<span>4000</span>年前の紀元前<span>21</span>世紀末<span>(</span>後期縄文時代初頭<span>)</span>であった】ことになる。<span><br /></span>ゆえに、上記した『魏志倭人伝』の【１】「わが国には<span>2</span>世紀末から３世紀中半において、すでに漢字知識があった」という記述は【事実】であったがことになり、また【科学】が成立して正しかったことになる。<span><br /></span>また、【２】も【３】も【１】と同様に確かな証拠によって【事実】が成立し、また【科学】が成立する。<span><br /></span>だから、考古学の「【１】わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀である」という定説は【事実】に反する非科学的な意見であり、根本的に錯覚<span>(</span>さっかく<span>)</span>にして幻想であったことになる。<span><br /><br /></span>◆わが国における古代中国文字研究の第一人者は白川静<span>(</span>しらかわしずか<span>)</span>博士とされる。<span><br /></span>白川静博士は字書『字統<span>(</span>じとう<span>)</span>』<span>(</span>平凡社発行<span>)</span>を著作した。<span><br /></span>白川静著『字統』の序におけるの９ージ末尾の３行目～<span>10</span>ページの最初から３行目までは、下記のごとく指摘する。<span><br /></span>「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」<span><br /><br /></span>上記末尾の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、<span><br /></span>今から約<span>4000</span>年前の、紀元前<span>2000</span>年頃<span>(</span>わが国の後期縄文時代初頭<span>)</span>に、わが国が習得した夏音文字<span>(</span>かおんもじ<span>)</span>の字音である。<span><br /></span>上記の紀元前<span>2000</span>年頃は、中国の夏代<span>(</span>かだい<span>)</span>の黎明期<span>(</span>れいめいき<span>)</span>に相当する。<span><br /><br /></span>白川静著『字統』が指摘するように、わが国には中国における最古の漢字音よりも古い漢字音が残っている。<span><br /></span>中国において、学界が定説とする「漢字の最も古い字形として残った殷代<span>(</span>いんだい<span>)</span>後半に出現した甲骨文字<span>(</span>契文<span>)</span>の字音」は、不明で現在において残っていない。<span><br /></span>中国における最古の漢字音は、「上古音<span>(</span>じょうこおん<span>)</span>」と呼ばれる。<span><br /></span>下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前<span>1046</span>年から始まる周代初頭<span>(</span>しゅうだいしょとう<span>)</span>の字音である。<span><br /></span>わが国の古書に多数残っている夏音文字は、紀元前<span>2050</span>年頃の夏代黎明期に中国から名門氏族が渡来し教えひろめて――紀元前<span>2000</span>年頃にはわが国の各地・各氏族が習得していた漢字音である。<span><br /></span>したがって、中国の最古の字音・上古音よりもわが国の夏音<span>(</span>夏音文字の字音<span>)</span>は約<span>1000</span>年も古い。<span><br /></span>だから、わが国は最初に中国の漢字を習得したのは、考古学が断定する５世紀ではなく、<span><br /></span>言語学・音韻学の研究成果にともとづくと、下図に示すように、紀元前<span>2000</span>年頃の夏代黎明期<span>(</span>わが国の後期縄文時代初頭<span>)</span>であったことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/photo_20250309102601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Photo_20250309102601" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/photo_20250309102601.jpg" alt="Photo_20250309102601" width="299" height="424" border="0" /></a> <br /></span>◆わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>37</span>」にて、紀元前<span>2000</span>年頃<span>(</span>後期縄文時代初頭<span>)</span>にわが国が習得した【夏音文字】について、下記のごとく説明した。<span><br /><br /></span>中国の正史『新唐書<span>(</span>しんとうじょ<span>)</span>』日本伝には――<span>702</span>年に九州の港を出帆<span>(</span>しゅっぱん<span>)</span>した第７回遣唐使<span>(</span>けんとうし<span>)</span>が「後稍<span>(</span>のちやや<span>)</span>、夏音<span>(</span>かおん<span>)</span>を習<span>(</span>なら<span>)</span>う<span>)</span>」と中国に報告した――という記事がある。<span><br /></span>この第７回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――<span>672</span>年におきた壬申<span>(</span>じんしん<span>)</span>の乱の後、天武天皇<span>(</span>てんむてんのう<span>)</span>が「稍<span>(</span>やや、少しだけ<span>)</span>、夏音文字を復興する歴史書を編纂<span>(</span>へんさん<span>)</span>せよ」と命令された――と意味した。<span><br /><br /></span>壬申の乱の９年後の<span>681</span>年<span>(</span>天武天皇<span>10</span>年<span>)</span>３月<span>17</span>日、天皇は川島皇子<span>(</span>かわしまのみこ<span>)</span>以下十二人に命じて、「帝紀<span>(</span>ていき<span>)</span>及び上古の諸事<span>(</span>しょじ<span>)</span>」を記定<span>(</span>きてい<span>)</span>させた。<span><br /></span>ゆえに、上記した「稍々<span>(</span>やや<span>)</span>、夏音を習うようにせよ<span>(</span>復興せよ<span>)</span>」という天武天皇の命令は、<span>681</span>年<span>(</span>天武天皇<span>10</span>年<span>)</span>の３月<span>17</span>日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。<span><br /></span>天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた<span>681</span>年から<span>3</span>１年後の<span>712</span>年１月<span>28</span>日、言いかえると――「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第７回遣唐使が九州の港を出帆してから<span>10</span>年後の<span>712</span>年１月<span>28</span>日に『古事記』は完成して元明天皇<span>(</span>げんめいてんのう<span>)</span>に献上された。<span><br /><br /></span>◆『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。<span><br /></span>『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」であって、〔中巻・下巻の記事とは無関係〕であり、したがって【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。<span><br /></span>というのも、『古事記』上巻の随所<span>(</span>ずいしょ<span>)</span>に〔音〕という指摘がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という指摘がつく「夏音文字」はまったく記されていない。<span><br /></span>これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という指摘がつく夏音文字】について説明する。<span><br /></span>この「〔音〕と指摘される夏音文字について説明する『古事記』の序」は「古事記上巻　并<span>(</span>あわ<span>)</span>せて序」と題する。<span><br /><br /></span>「古事記上巻　并せて序」の冒頭文は下記のごとくであり――この冒頭文は「【わが国は後期縄文時代初頭<span>(</span>紀元前<span>2000</span>年頃<span>)</span>に夏音文字を習得した】と説明していた。<span><br /></span>「臣安万呂言<span>(</span>しんやすまろまを<span>)</span>す。夫<span>(</span>そ<span>)</span>れ混元既<span>(</span>こんげんすで<span>)</span>に、気象未<span>(</span>いま<span>)</span>だ効<span>(</span>あらは<span>)</span>れず。名も無く為<span>(</span>わざ<span>)</span>も無し。誰<span>(</span>たれ<span>)</span>か其<span>(</span>そ<span>)</span>の形を知らむ。然<span>(</span>しか<span>)</span>れども乾坤<span>(</span>けんこん<span>)</span>初めて分かれて、参神造化<span>(</span>さんしんぞうか<span>)</span>の首<span>(</span>はじめ<span>)</span>を作<span>(</span>な<span>)</span>す。」<span><br /><br /></span>「古事記上巻　并せて序」の全文や〔創世の神々説話〕冒頭の三柱<span>(</span>みはしら<span>)</span>の神々記事に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。<span><br /></span>「元明天皇陛下に臣下の太安万侶<span>(</span>おおのやすまろ<span>)</span>が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌<span>(</span>こんとん<span>)</span>として凝<span>(</span>こ<span>)</span>り固まっていましたが、気や象<span>(</span>かたち<span>)</span>がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶<span>(</span>どぐう<span>)</span>を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージをあらわす銀河部がめぐってきたため、初めて、天と地のイメージを表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神<span>(</span>あめのみなかぬしのかみ<span>)</span>、中期縄文の高御産巣日神<span>(</span>たかみむすひのかみ<span>)</span>、後期縄文初頭の神産巣日神<span>(</span>かむむすひのかみ<span>)</span>の三柱<span>(</span>みはしら<span>)</span>の芸術神<span>(</span>造化の神<span>)</span>における<span>(</span>約<span>2000</span>年間<span>)</span>の伝統によって、首<span>(</span>はじめ・後期縄文時代初頭・紀元前<span>2000</span>年頃<span>)</span>、【倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>が発明した漢字作成理論】によって【漢字は銀漢各部の形状から作られて起源した知識】や【夏代黎明期の夏音文字】を習得して、また【五帝時代から夏代黎明期までの歴史】を知ることができました。」<span><br /><br /></span>「古事記上巻　并せて序」の末部は、【夏音文字を楷書に変換した作業】を下記のごとく説明する。<span><br /></span>「上古の時、言<span>(</span>ことば<span>)</span>・意<span>(</span>こころ<span>)</span>並びに朴<span>(</span>すなほ<span>)</span>にして、文を敷き句を構ふること、字に於<span>(</span>お<span>)</span>きて即<span>(</span>すなわ<span>)</span>ち難<span>(</span>かた<span>)</span>し。已<span>(</span>すで<span>)</span>に訓<span>(</span>くん<span>)</span>に因<span>(</span>よ<span>)</span>りて述べたるは、詞<span>(</span>ことば<span>)</span>心に逮<span>(</span>およ<span>)</span>ばず、全<span>(</span>また<span>)</span>く音を以ちて連ねたるは、事の趣<span>(</span>おもむき<span>)</span>更<span>(</span>さら<span>)</span>に長し。是<span>(</span>ここ<span>)</span>を以ちて今、或<span>(</span>ある<span>)</span>は一句の中に、音訓を交<span>(</span>まじ<span>)</span>へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録<span>(</span>しる<span>)</span>す。即ち辞理の見え叵<span>(</span>がた<span>)</span>きは注を以ちて明<span>(</span>あきらか<span>)</span>にし、意況<span>(</span>いきょう<span>)</span>の解<span>(</span>さと<span>)</span>り易きは更に注せず。亦<span>(</span>また<span>)</span>姓<span>(</span>うぢ<span>)</span>に於きて日下<span>(</span>にちげ<span>)</span>を玖沙訶<span>(</span>くさか<span>)</span>と謂<span>(</span>い<span>)</span>ひ、名に於きて帯<span>(</span>たい<span>)</span>の字を多羅斯<span>(</span>たらし<span>)</span>と謂ふ、此<span>(</span>かく<span>)</span>の如き類<span>(</span>たぐひ<span>)</span>は、本<span>(</span>もと<span>)</span>の随に改めず。」<span><br /><br /></span>上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくになる。<span><br /></span>「上古の<span>(</span>夏音文字<span>)</span>の語と語意は<span>(</span>夏の銀河各部の形状<span>)</span>を素直<span>(</span>すなお<span>)</span>に図案するものであったゆえ、夏の銀河各部の形状にもとづかない字を多数有する現在の楷書の文章に書き改める作業は難<span>(</span>むずか<span>)</span>しいです。すべて楷書の字訓であらわしますと、ただ声に出してあらわす楷書の字音と異なって節<span>(</span>ふし<span>)</span>をつけて歌う夏音文字の歌詞の心をすべて表現することはできません。そうかといって、すべて夏音文字の〔音〕を連ねるようにしますと、文章がたいへん長くなります。ゆえに、ここ<span>(</span>『古事記』上巻<span>)</span>では、ある一句の場合には〔音〕<span>(</span>夏音文字の字音<span>)</span>と〔訓〕<span>(</span>楷書の字訓<span>)</span>とを混じえて用い、ある場合は一つの事柄を記すのに、すべて楷書の字訓を用いて記すことにしました。そして、辞理<span>(</span>辞の作成理論、つまり「天理と地理を重ね積み重ねた辞の理論」<span>)</span>を捜<span>(</span>さが<span>)</span>し見つけることができない場合は〔注〕を加えて明らかにし、意味がわかりやすい場合には〔注〕を加えませんでした。また姓<span>(</span>うじ<span>)</span>における楷書の【日下】は夏音文字では【玖沙訶】と言い、名における楷書の【帯】を夏音文字では【多羅斯】と言うような、日常的に常用して知れわたる類には、従来の記述に従いそのまま楷書で記して〔音〕と記す指摘を加えませんでした。」<span><br /></span>〔注　上記した文中にある「辞理」という語は「天理<span>(</span>銀河各部の形状<span>)</span>と地理を重ね積み重ねた辞の理論」の略称――つまり、「辞理」は「倉頡が発明した文字作成理論」であった。〕<span><br /><br /></span>前述したように、『古事記』の中巻と下巻には、〔音〕という指摘が存在しない。<span><br /></span>〔音〕という指摘は、『古事記』の上巻だけに限って随所<span>(</span>ずいしょ<span>)</span>に加えられている。<span><br /></span>だから、「『古事記』の序」は「古事記上巻　并せて序」と題されることになった。<span><br /></span>したがって、「古事記上巻　并せて序」末部にある文中にある〔音〕は、「夏音文字。または夏音文字の字音」と解釈すべきことになる。<span><br /></span>〔音〕を「夏音文字。または夏音文字の字音」と解釈すると、「古事記上巻　并せて序」の末部にある文章は、上記したように現代語に訳することができる。<span><br /></span>上記の現代語訳が正しい事実は、幾種類<span>(</span>いくしゅるい<span>)</span>かの史料<span>(</span>証拠<span>)</span>を提示して具体的に明確に証明することができる。<span><br /></span>ゆえに、従来の学者たちの解釈は文字面<span>(</span>もじつら<span>)</span>だけを撫<span>(</span>な<span>)</span>でる、誤訳であったことになる。<span><br /></span>このブログ「漢字の起源と発明を解明す」は、上記した【「古事記上巻　并せて序」の末部の説明】を次回<span>(40</span>回<span>)</span>～<span>46</span>回？までのテーマにして解説して事実であったことを証明する。<span><br /><br /></span>◆夏音文字は、紀元前<span>2050</span>年頃、“夏<span>(</span>か<span>)</span>の始祖”の帝禹<span>(</span>ていう<span>)</span>の後を継ぐ帝益<span>(</span>ていえき<span>)</span>の孫の王子と益氏の青年たちが日本列島の東北地方・秋田県の男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住し――紀元前<span>2000</span>年頃、東北地方や関東地方の各地に住む氏族たちによって夏音文字は習得された。<span><br /></span>〔夏音文字の日本列島習得史〕は、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の<span>30</span>回～<span>36</span>回まで７回をもって詳細に解説して証明した。<span><br /></span>この７回における〔夏音文字の日本列島習得史の解説〕を、これから要略する。<span><br /><br /></span>司馬遷<span>(</span>しばせん<span>)</span>著『史記』の夏本紀<span>(</span>かほんぎ<span>)</span>・第二は、下記のごとく帝益について説明する。<span><br /></span>「帝禹は益を挙<span>(</span>あ<span>)</span>げて十年間、政治をまかせた。<span><br /></span>帝禹は東に巡行<span>(</span>じゅんこう<span>)</span>して会稽<span>(</span>かいけい・北緯<span>39</span>度の中国の天津であろう<span>)</span>にいたって崩<span>(</span>ほう<span>)</span>じ、天下を益にさずけた。<span><br /></span>帝益は三年の禹の喪<span>(</span>も<span>)</span>が終わると、禹の息子の啓<span>(</span>けい<span>)</span>に帝位を譲<span>(</span>ゆず<span>)</span>って、箕山<span>(</span>きざん・北緯<span>38</span>度の黄河の河口地域、つまり黄河口地域であろう<span>)</span>の南の地<span>(</span>天津より南東の北緯<span>35</span>度近辺の、山東半島の付け根の辺りの地所であろう<span>)</span>に隠棲<span>(</span>いんせい・隠居<span>)</span>した。<span><br /></span>禹が崩ずるにおよんで帝位を益にさずけたが、益は禹を補佐して政務に浅かったので、天下はまだ益の徳についてあまねく知らなかった。<span><br /></span>ゆえに、諸侯<span>(</span>しょこう<span>)</span>は賢人<span>(</span>けんじん<span>)</span>であった啓のもとに入朝<span>(</span>にゅうちょう<span>)</span>した。」<span><br /></span>〔注、なお、「帝禹が居住した会計<span>(</span>かいけい<span>)</span>」は「八郎潟の西の偏<span>(</span>北緯<span>40</span>度<span>)</span>と同緯度の、現在の中国北部の、北緯<span>40</span>度の北京」であったと考えられる。<span><br /></span>つまり、帝禹は会計・北京市を首都とし、補佐役の益は会稽・天津に居住していたと考えられる。〕<span><br /><br /></span>上記したように、司馬遷著『史記』夏本紀<span>(</span>第二<span>)</span>は〔帝益が禹の子の啓に譲った理由〕を「啓が賢人であり、益が禹を補佐して政務についたのが短期間であったため、諸侯はみな帝益から去って啓のもとに入朝した」と指摘する。<span><br /></span>しかし、この理由はほんとうの理由でなかった。<span><br /></span>ほんとうの理由は――帝禹と啓の父子は政治体制について意見が対立して争っていた。<span><br /></span>帝禹は〔五帝時代以来の、国家を作らずに、多数の氏族から最も優秀な人物を帝に選ぶ、多数の氏族が共同する政治体制〕の継続<span>(</span>けいぞく<span>)</span>、つまり〔国家を作らない・氏族共同政治体制の継続〕を願った。<span><br /></span>一方、啓は〔国家を樹立<span>(</span>じゅりつ<span>)</span>して、最も優秀な氏族が子孫代々帝位を世襲<span>(</span>せしゅう<span>)</span>して王朝を継続させる政治体制〕、つまり〔世襲王朝・国家政治体制〕を欲求<span>(</span>よっきゅう<span>)</span>した。<span><br /></span>だから、帝禹は臨終の際、益に「国家を樹立しない、氏族共同政治体制を継続せよ」と遺言して、帝位を益に継がせた。<span><br /></span>しかし、諸侯は禹が願った「国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続」を望まず、啓が主張する〔世襲王朝・国家政治体制〕に賛同して、帝益のもとを去った。<span><br /></span>ゆえに、帝益は中国ではもはや禹が継続を切望した〔国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続〕はまったく望まれていないと判断して――三年の禹の喪が終わると、啓に帝位を禅譲<span>(</span>ぜんじょう<span>)</span>して箕山の南の地に隠居したのである。<span><br /><br /></span>そして、益は禹の遺志<span>(</span>いし<span>)</span>である〔国家を樹立しない、氏族共同政治体制の継続〕を新天地・日本列島にて成就<span>(</span>じょうじゅ<span>)</span>すると決意した。<span><br /></span>しかし、益は老いていたため、中国と日本列島を隔<span>(</span>へだ<span>)</span>てる大海を小舟で漕<span>(</span>こ<span>)</span>いで横断できる体力をすっかり失っていた。<span><br /></span>ゆえに、〔禹の遺志の、氏族共同政治体制の継続事業〕は、広大荒漠<span>(</span>こうだいこうばく<span>)</span>たる大海を小舟で漕いで横断できる、たくましい体力と強大な腕力を有する益の孫の王子と将来益氏を継ぐ青年たちによって決行された。<span><br /></span>このため、司馬遷著『史記』陳杞世家<span>(</span>ちんきせいか・第六<span>)</span>には「帝王になった益の子孫は、中国のどこに封<span>(</span>ほいう<span>)</span>ぜられたか不明である」と記述されている。<span><br /></span>このように、名門・益氏が中国のどの地に封ぜられたか不明になったのは、益氏を受け継ぐ青年王子と若者たちが大海を渡って日本列島の東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>帝禹が首都とした会計・北京と同じ北緯<span>40</span>度の地<span>)</span>に移住したからである。<span><br /></span>中国には益氏の老人や女性たちが残ったために勢力が年々衰退した。ゆえに、中国では益氏が封ぜられた地が不明になって、益氏は忽然<span>(</span>こつぜん<span>)</span>と消えることになったのである。<span><br /><br /></span>益氏の王子と若者たちが男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住した歴史について、<span><br />720</span>年に成立した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀<span>(</span>じんむてんのうき<span>)</span>初頭部は下記のごとく説明する。<span><br /></span>「昔、わが天神<span>(</span>あまつかみ・つまり字源となる天の銀漢が神<span>)</span>のタカムスビノミコト<span>(</span>中期縄文時代を支配した男神の高産巣日神<span>)</span>とオオヒルメノミコト<span>(</span>中期縄文時代を支配した女神<span>)</span>は、この豊原瑞穂国<span>(</span>とよあしはらのみずほのくに、つまり日本列島<span>)</span>を天祖<span>(</span>てんそ<span>)</span>の彦火瓊瓊杵尊<span>(</span>ひこほのににぎのみこと、つまり帝益の孫の王子<span>)</span>に授けられた。そこで彦火瓊瓊杵尊は天のいわくらを開き、雲露<span>(</span>くもじ<span>)</span>をおしわける先ばらいを立てて<span>)</span>、益氏の王子一行は旅の目的地<span>(</span>つまり、会計・北京と同緯度の八郎潟の西の偏<span>)</span>に到着した。このとき、この地域はいまだ野蛮<span>(</span>やばん<span>)</span>で草昧<span>(</span>そうまい・辞理が確立されていない状況<span>)</span>であった。そこで、蒙昧<span>(</span>もうまい・学術が存在せずに文化が低い状況<span>)</span>の中にありながら、みずからの正しい教え<span>(</span>倉頡が発明した文字作成理論や夏音文字の教えなど<span>)</span>を養育して、この八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>より一帯を治めた。<span><br /></span>その後、わが天祖<span>(</span>帝益の孫の王子<span>)</span>と皇祖<span>(</span>こうそ・帝益の孫の王子の子<span>)</span>は神の聖<span>(</span>ひじり<span>)</span>のように徳高く、慶<span>(</span>よろこび、つまり善政<span>)</span>を積みかさね、暉<span>(</span>ひかり、つまり恩沢<span>)</span>もゆきとどき、かくして年月が経過した。」<span><br /><br /></span>〔注、<span>(</span>１<span>)</span>上記の「彦火瓊瓊杵尊<span>(</span>帝益の孫の王子<span>)</span>は天のいわくらを開き、雲露をおしわける先ばらいを立てて」という説明は――「旅路をさえぎる大きな岩のような障害を乗り越え、曇った夜空では旅路の位置を精確に知ることができないが晴れた夜空を待って精確に旅路の位置を知ることができる天頂緯度線を精確にキャッチする役目の緯度測定能力が優秀な若者を王子一団の先頭に立てて」と意味したことになる。<span><br /></span>また、<span>(</span>２<span>)</span>上記の末尾の「その後、倭が天祖と皇祖は神の聖のように徳高く、慶<span>(</span>善政<span>)</span>を積みかさね、暉<span>(</span>恩沢<span>)</span>もゆきとどき、かくして年月が経過した。」という説明は――要するに「紀元前<span>2050</span>年頃に八郎潟の西の地に定住した天祖と天祖の息子の皇祖が教え広めた【倉頡が発明した文字作成理論や夏音文字など、中国で開発された先端学術】は、紀元前<span>2000</span>年頃には東北地方・関東地方における各地の氏族にゆきとどいて習得された」と意味したことになる。<span><br />(</span>３<span>)</span>だから、上記した『日本書紀』巻第三・神武天皇紀初頭部の説明は、「天祖<span>(</span>帝益の孫の王子<span>)</span>が、箕山の南に隠棲した帝益に帝禹の遺志【国家を作らない、氏族共同政治体制を新天地・日本列島に定着させる事業】を命じられて、男鹿半島・八郎潟より西の地に定住した」と伝えていたことになる。〕<span><br /><br /></span>◆『魏志倭人伝』の冒頭文は「倭人は帯方<span>(</span>たいほう<span>)</span>の東南、大海の中に在り」である。<span><br /></span>このように、『魏志倭人伝』の冒頭の字は【倭】である。<span><br /></span>このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が幾度となく解説して証明したように――【倭】の字源は<span><br /></span>「現在方位の【東】が時計回りに転回して【南】となる」がごとく、「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」である。<span><br /></span>このブログの前ページにて紹介した上田正昭・直木孝次郎・森浩一・松本清張編集委員『ゼミナール日本古代史　上』の〔邪馬臺国を中心に〕<span>(</span>光文社発行<span>)</span>の直木孝次郎氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」には、下記のような指摘がある。<span><br /></span>――内藤は、中国の古書では方向をいうとき、東と南をかね、西と北とをかねるのはふつうのことであると、『後魏書』の勿吉<span>(</span>ぶつきつ<span>)</span>伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある。<span><br /><br /></span>上の記事に登場する「内藤」は「明治時代の学者・内藤湖南<span>(</span>ないとうこなん<span>)</span>氏」である。<span><br /></span>上の記事の後半の「『後魏書』の勿吉<span>(</span>ぶつきつ<span>)</span>伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある」という否定意見はまちがっていた。<span><br /></span>このブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>18</span>」にて――<span><br /></span>『魏志倭人伝』の「不弥国<span>(</span>ふみこく<span>)</span>から南、投馬国<span>(</span>とうまこく<span>)</span>に至るには水行二十日」という水行の【南】」は、<span><br /></span>「不弥国・宗像市<span>(</span>むなかたし<span>)</span>の神湊<span>(</span>こうのみなと<span>)</span>から出発し、宗像市神湊の【西】にある沖ノ島に立ち寄って、沖ノ島から【東】<span>(</span>現在方位<span>)</span>にある山口県萩市の見島<span>(</span>みしま<span>)</span>を【倭】の字源の【南】<span>(</span>転回方位<span>)</span>にする」ものであった――そして、『魏志倭人伝』は「見島から山口県の長門市<span>(</span>ながとし<span>)</span>の港に到着する」と説明していたのである。<span><br /></span>〔注　上記した「漢字の起源と発明を解明す・<span>18</span>」において、〔宗像国から投馬国までの水行〕について――「【倭】の字源の転回方位の真西<span>(</span>現在方位の真南<span>)</span>となる長門港までの航路」が「二十日の水行<span>(</span>航路<span>)</span>」であったことになる――と解説した。<span><br /></span>この【西】が【南】になる解釈は、【呉】の字源「現在方位を逆時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」を説明していることになる。この誤記について、「漢字の起源と発明を解明す・<span>18</span>」を読んだ人々にご迷惑・混乱をあたえてしまったゆえ、なにとぞここで訂正することをご寛容<span>(</span>かんよう<span>)</span>のほどお許しねがいたい。<span><br /></span>このブログの何回かの後の回にて――【倭】の字源の転回方位にもとづき宗像市の神湊を【沖ノ島より南】と定め、【倭】の字源の転回方位だと山口県萩市は【東】となる。ゆえに、【北<span>(</span>沖ノ島<span>)</span>から東<span>(</span>見島】によって【倭】の字源が成立する。しかし、なにゆえ不弥国の宗像市から投馬国の山口県の長門港は【東】にあるのにもかかわらず、『魏志倭人伝』は【南】にあると記述したのかについての秘密――についてこのブログの後の回で解明する予定である。<span><br /><br /></span>わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>19</span>」にて――<span><br /></span>『魏志倭人伝』が「女王の都とする所なり」と記す、「邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国」は「旧国の石見<span>(</span>いわみ<span>)</span>・出雲・伯耆<span>(</span>ほうき<span>)</span>、現在における島根県の西部・東部と鳥取県の西部」であったと解説し証明した。<span><br /></span>邪馬壹<span>(</span>壱<span>)</span>国の中心地域は、旧国の出雲・島根県東部の松江市であった。<span><br /></span>『魏志倭人伝』には「女王国の東、海を渡ること千余里にして復<span>(</span>ま<span>)</span>た国有り。皆倭種<span>(</span>みなわしゅ<span>)</span>なり」という、水行記事がある。<span><br /></span>【松江市の北<span>(</span>現在方位<span>)</span>にある隠岐群島を【東】<span>(</span>転回方位<span>)</span>にする】と、【倭】の字源「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」が合理となる。ゆえに、【倭】の字源に従うと【北】が【東】となる。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』の「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」という記事は間違いではなく、【倭】の字源の方位にもとづいて説明して正しかったことになる。<span><br /></span>したがって、上記した直木孝次郎氏が執筆した「邪馬臺国の位置論」の文中にある――『後魏書』の勿吉<span>(</span>ぶつきつ<span>)</span>伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある――という意見は『魏志倭人伝』の記事の表層の所々をつまみ食いした粗雑な意見・軽率な論考であったことになる。<span><br /><br /></span>『後魏書』の【魏】の字の偏<span>(</span>へん<span>)</span>は【委】であり、【倭】の旁部<span>(</span>つくりぶ<span>)</span>もまた【委】である。<span><br /></span>ゆえに、【魏】の偏【委】の字源は「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」であった。<span><br /></span>だから、――『後魏書』の勿吉<span>(</span>ぶつきつ<span>)</span>伝に東南を東北と記していることをあげ、『魏志』倭人の条の「東」は「南」であるべきとした。これに対しては、倭人の条の南は勿吉伝とちがって水行の場合で、航海者が大切な方位を誤るはずがない、という批判がある――という意見は、軽率な愚見<span>(</span>ぐけん<span>)</span>であったことになる。<span><br /><br /></span>『後魏書』は６世紀半ばで成立した。<span><br /></span>ゆえに、倭人国のみにかぎって保存されていたのではなく――中国でも「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」は保存されて実在したことになる。<span><br /></span>古代のわが国と中国の航海者たちは、水行において【委】の字源【「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」と、【呉】の字源「現在方位を反時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」を駆使<span>(</span>くし<span>)</span>して大海原の藻屑<span>(</span>もぐず<span>)</span>となって命を失わないようにして航海していたのである。<span><br /></span>つまり、古代の航海者たちや人々は「地理<span>(</span>大海の方位<span>)</span>には【委】の字源と【呉】の字源の転回方位が存在する」と信じていた。<span><br /></span>〔注　原始から人類は円周運動をする天頂の緯度を観測して生命をまもって生存したゆえ「方位も円周する」と考えていた。ゆえに、縄文人・弥生人もまた方位は円周<span>(</span>周旋<span>)</span>して変位して３種類存在すると確信していた。だから、縄文時代・弥生時代では、方位は現在のように天の北極を基準にして一つではなかった。一つではなく、<span>[(</span>１<span>)</span>【北】は【南】となって<span>180</span>度変位する方位規定と、<span>(</span>２<span>)</span>「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」と<span>(</span>３<span>)</span>「現在方位を反時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」が存在し、それら３種類の方位規定が合体して成立する<span>]</span>と定めていた。このため、方位規定は【難解な学問】となった。ゆえに、【倉頡が発明した文字作成理論と夏代黎明期に出現した方位理論は学問】となった。後世、この【学問<span>(</span>方位理論<span>)</span>】を最も理解した人物が帝王となり、あるいは理解した人が身分の高い地位につき、あるいは氏族の長となった。この【学論】が理解できない人々は道に迷って命を落とすことになった。〕<span><br /><br /></span>◆下記の『魏志倭人伝』の記事もまた、【倭】の字源に則<span>(</span>のっと<span>)</span>って「時計回りに<span>90</span>度方位を転回して、現在方位の【東北】は【東南】になる」と説明する。<span><br /><br /></span>わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の<span>30</span>回～<span>36</span>回までに詳細に解説して証明したように、<span><br /></span>下の『魏志倭人伝』の後半部にある記事もまた、「帝益の孫の王子一行が八郎潟の南の海岸に上陸して、八郎潟の西の偏に定住した」と説明して、【倭】の字源を表示する。<span><br /></span>この『魏志倭人伝』の後半部にある記述は下記のごとくである。<span><br /></span>「黒歯国<span>(</span>こくしこく<span>)</span>有り。復<span>(</span>ま<span>)</span>た其の東南に在りて船行<span>(</span>せんこう<span>)</span>一年にして参問<span>(</span>さんもん<span>)</span>至る可<span>(</span>べ<span>)</span>き。倭地を参問するに、海中洲島<span>(</span>かいちゅうしゅうとう<span>)</span>の上に絶在<span>(</span>ぜつざい<span>)</span>し、或<span>(</span>ある<span>)</span>いは絶え或いは連なり、周旋<span>(</span>しゅうせん<span>)</span>五千余里可<span>(</span>ばか<span>)</span>り。」<span><br /><br /></span>上記の文を現代語に訳すると、下記のごとくとなる。<span><br /></span>――黒歯国<span>(</span>現在の石川県北部の能登<span>)</span>がある。黒歯国・能登の東南に、船で行くと一年ばかりで到着できる地がある。その倭地を船に乗って訪れると、海中に陸から遠く離れた海上に大きな島が存在し、あるいはこの大きな島から遠く離れて小さい島が存在し、あるいはこの小さい島からまた小さい島が連なり、これらの黒歯国から周旋方位<span>(</span>【倭】の字源の「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回して「東北」が【東南】となる方位規定<span>)</span>にて五千余里ばかりの距離に、<span>(</span>帝益の孫の王子一行が上陸した地がある<span>)</span>。<span><br /></span>〔注１　上記の文中には「倭地を参問するに」という文があるように――この文先頭の【倭】の字源は「現在の方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」である。<span><br /></span>ゆえに、『魏志倭人伝』の九州の末盧国<span>(</span>まつろこく<span>)</span>以下本州の黒歯国・能登までの方位記事にもとづくと、「倭地<span>(</span>日本列島<span>)</span>の【東】は時計回りに<span>90</span>度転回して【南】に伸びる」と説明している。<span><br /></span>注２　上記した文の末部は「周旋五千余里可り」である。ゆえに、「倭地は【東】に伸びずに【南】に伸びる、時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」について「周旋」と表現したのである。<span><br /></span>「周旋」という語は「天頂となる天体部は円周運動をする」と意味した。だから周旋<span>(</span>円周運動をする<span>)</span>方位規定にもとづくと、「黒歯国から東南に益氏が上陸した八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に近い海岸が存在する」と『魏志倭人伝』は説明していた。つまり、「周旋」は上記した「倉頡が発明した３種の方位論と夏代黎明期に出現した３種の方位論」を表現していた。<span><br /></span>要するに、黒歯国・能登から帝益の孫の王子一行が上陸した地点は、現在方位で能登の【東北】となる八郎潟より南の、現在の秋田県の潟上市<span>(</span>かたがみし<span>)</span>天王町の海岸に上陸したことになる。<span><br /></span>夏代黎明期に定住した益氏は【東北地方の北端】を【東北地方の南端】であると立論した。ゆえに、日本列島・本州の【北<span>(</span>北端<span>)</span>】は【南】となり、本州は【北】ではなく【南】に伸びることになった。<span><br /></span>卑弥呼もまた「九州以下の本州の【東】は【南】へ伸びると立論して証明した。<span><br /></span>このため、卑弥呼が立論した転回日本列島地理と益氏の東北地方転回地理は合致して、九州から東北地方までは本州の能登地方のあたりから曲がっても【南】へ伸びることになった。<span><br /></span>この結果、『魏志倭人伝』は「日本列島は能登からもまた【南】へ伸びて、天王町は能登の【東南】にある」と記述したのである。<span><br /></span>注３　『魏志倭人伝』には５世紀に生存した裴松之<span>(</span>はいしょうし<span>)</span>の「春に耕作を始める日を一年とし、秋に収穫する日を一年とする、中国の暦の一年を二年と数える二倍歴がある」という注がある。したがって、上記した「船行一年」は「船行して現在の半年であった」と意味したと考えられる。〕<span><br /><br /></span>下図に、【倭】の字源や「周旋」という語に則<span>(</span>のっと<span>)</span>り「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」にもとづいて【東】に伸びずに【南】に伸びる転回倭地図<span>(</span>転回日本列島地図<span>)</span>を示した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000182_20250309102801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000182_20250309102801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000182_20250309102801.jpg" alt="0000182_20250309102801" width="299" height="545" border="0" /></a> </span></p>
<p>下に、【倭】の字源や「周旋」という語の秘密にもとづいて「現在方位が時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定の黒歯国・能登から帝益の孫の王子一行が上陸した秋田県潟上市の天王町の海岸までの地図」を配した。　<span><br /></span>下図に示したように、上記した『魏志倭人伝』の「海中洲島の上に絶在し」という文は「新潟県、日本海上の佐渡島」をあらわし、「或いは絶え」という文は「日本海に浮かぶ、新潟県北部の孤島・粟島<span>(</span>あわしま<span>)</span>」を説明し、「或いは連なり」という文は「山形県方西端の、日本海上の孤島・飛島<span>(</span>とびしま<span>)</span>」を説明していたことになる。<span><br /></span>現在方位の場合、黒歯国・能登から天王町の海岸までは【東北】である。<span><br /></span>しかし、下図に示すように、【倭】の字源や「周旋<span>(</span>天体部が円を描く運行<span>)</span>」に則<span>(</span>のっと<span>)</span>ると、黒歯国・能登から天王町の海岸の方位は、『魏志倭人伝』の記事に合致して【東南】となる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000181_20250309103901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000181_20250309103901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000181_20250309103901.jpg" alt="0000181_20250309103901" width="300" height="271" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆『魏志倭人伝』の前半部には「古自<span>(</span>いにしえよ<span>)</span>り以来、其<span>(</span>そ<span>)</span>の使<span>(</span>し<span>)</span>中国に詣<span>(</span>いた<span>)</span>るに自ら大夫<span>(</span>だいふ<span>)</span>と称す」と伝える記事がある。<span><br /></span>上記のごとく、「大海を越えて中国に到着した倭人国の使者は、昔から自ら【大夫】と名乗った」。<span><br /></span>『万葉集』<span>(</span>万葉仮名の音文字<span>)</span>における【大夫】は「ますらを」と読む。<span><br /></span>「ますらを」は、現在では【益荒男」】表記する。<span><br /></span>したがって、【益荒男】は「名門・益氏の王子と若者たちは中国から日本列島に渡来<span>(</span>とらい<span>)</span>して定住した。ゆえに、荒波逆巻<span>(</span>あらなみさかま<span>)</span>く大海を越えて中国に到着した、名門益氏の王子と若者のごとく勇敢な男性である」を意味した語の略称<span>(</span>りゃくしょう<span>)</span>であったことになる。<span><br /></span>ゆえに、【大夫】は【益荒男】は同義であり、【大夫】の語源は「帝益の孫の王子と若者たち」であったことになる。<span><br /><br /></span>◆『魏志倭人伝』の中半部には、下のような記事があり――この記事は「２世紀後半<span>(1</span>７<span>0</span>年頃～<span>240</span>年頃<span>)</span>の卑弥呼時代には漢字知識、つまり夏音文字が存在した」と説明している。<span><br /></span>「女王国より以北には、特に一大率<span>(</span>いちだいそつ<span>)</span>を置きて諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚<span>(</span>いたん<span>)</span>す。常に伊都国<span>(</span>いとこく<span>)</span>に治<span>(</span>じ<span>)</span>す。国中において刺史<span>(</span>しし<span>)</span>のごときところ有り。王、使<span>(</span>し<span>)</span>を遣<span>(</span>つか<span>)</span>わして京都<span>(</span>けいと・魏の都の洛陽<span>)</span>・帯方郡<span>(</span>たいほうぐん<span>)</span>・諸韓国に詣<span>(</span>いた<span>)</span>り、また、郡の倭国に使<span>(</span>つかい<span>)</span>するや、皆<span>(</span>みな<span>)</span>津<span>(</span>つ<span>)</span>に臨<span>(</span>のぞ<span>)</span>みて、伝送の文書・賜遺<span>(</span>しい<span>)</span>を捜露<span>(</span>そうろ<span>)</span>し、女王に詣るに差錯<span>(</span>ささく<span>)</span>あるを得<span>(</span>え<span>)</span>ざらしむ。」<span><br /><br /></span>上記の記事を現代語に訳すると、下記のごとくなる。<span><br /></span>「卑弥呼が居住する倭の首都が所在する女王国<span>(</span>邪馬壱国<span>)</span>より以北には、特別に男王の一大率を配置して倭国における諸国<span>(34</span>の小国<span>)</span>の様子を検察していた。ゆえに、諸国は彼<span>(</span>一大率<span>)</span>を畏<span>(</span>おそ<span>)</span>れ憚<span>(</span>はばか<span>)</span>っていた。一大率は常に伊都国に居住して治めていた。一大率の権限は刺史<span>(</span>現在の警視総監・検事総長・防衛大臣を兼ねる、卑弥呼と共に立って倭国を治める強大な権力を有する王<span>)</span>のごときであった。倭女王・卑弥呼が使節を魏都・朝鮮半島北部に魏の出張政庁機関が所在する帯方郡・諸韓国に派遣するときには、すべて伊都国の港において、卑弥呼が夏音文字で書いた文書と魏都・帯方郡・諸韓国が楷書で書いた文書<span>(</span>つまり、伝送の文書<span>)</span>の文や語句の意味が合致して同じとなるように、また倭国と魏都・帯方郡・諸韓国と取り交わす賜物<span>(</span>しぶつ・贈り物<span>)</span>の名称をあらわす夏音文字と楷書の意味が同義となるように、逐一<span>(</span>ちくいち<span>)</span>点検し確認して、すなわち夏の銀河各部の形状で捜し露<span>(</span>あら<span>)</span>わにして、倭女王・卑弥呼のもとに届いたときに差錯<span>(</span>間違い<span>)</span>が生じないようにしていた。」<span><br /><br /></span>上の『魏志倭人伝』の記事には「伝送の文書、賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯あるを得ざらしむ」という文がある。<span><br /></span>この文は「魏都・帯方郡・諸韓国と倭人国が取り交わす文書、または贈り物の名称に用いられた文字は、伊都国の港で、楷書を連ねる語と夏音文字で連なる語の意味が合致する夏の銀河の部分を捜し露わにして<span>(</span>見つけて<span>)</span>、卑弥呼のもとに到着した時に差錯<span>(</span>誤記<span>)</span>が生じないようにしていた」と意味した。<span><br /></span>というのも、【魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書の大半の字源・字形・字義と卑弥呼が用いる夏音文字の字源・字形・字義のすべて】は、夏の銀河各部の形状から図案するものであったからである。<span><br /></span>ゆえに、楷書と夏音文字で構成される語は、夏の銀河の部分で合致することになった。<span><br /></span>だから、「捜露」つまり「楷書と夏音文字の両者の語義が合致する夏の銀河の部分を捜し露わにした<span>(</span>見つけた<span>)</span>。」と記されたのである。<span><br /><br /></span>このブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>39</span>回」にて記したように、</p>
<p>「古事記上巻　并せて序」の末部の記事には「辞理の見え叵<span>(</span>がた<span>)</span>きは」という文がある。<span><br /></span>前述したように、夏音文字の字源・字形・字義は夏の銀河各部の形状から作られて生まれた。<span><br /></span>楷書の字源・字形・字義もまた、夏の銀河各部の形状から作られた。<span><br /></span>しかし、夏音文字の語に用いられる字を楷書に変換して両者の意味が一致する夏の銀河の部分を捜し露わにする、つまり見つけだす作業<span>(</span>楷書と夏音文字の辞の意味が合致する夏の銀河の部分を見つける作業<span>)</span>は困難であった。<span><br /><br /></span>ゆえに、「古事記上巻　并せて序」の末部には、夏音文字と楷書との変換作業について「夏の銀河各部の形状を見て、両者の辞が合致させる作業は難<span>(</span>むず<span>)</span>かしい」と説明されて、「辞理は見え叵きは」と記されたのである。<span><br /></span>【辞理】という語は「辞は完全な合理からなる天理<span>(</span>夏の銀河各部の形状・位置<span>)</span>と、不合理な点や弱点を少数有する地理から構成される」と定めた、倉頡が発明した理論】の略称である。<span><br /><br /></span>このような「地理には不合理な点が少数存在すると定めた理論」は【卑】の字源となった。<span><br /></span>「夏の銀河の形状・位置は完全で不合理な点が存在しないと定める道理」は、【尊】の字源となった。<span><br /></span>中国の五経<span>(</span>ごきょう<span>)</span>の第一に挙げられる古典『易経<span>(</span>えききょう<span>)</span>』である。<span><br /></span>『易経』における周易繋辞上伝<span>(</span>しゅうえきけいじじょうでん<span>)</span>冒頭にある「天尊地卑<span>(</span>天は尊く地は卑し<span>)</span>」という文は「天理は完全であるゆえ【尊】の字源となり、地理には少数の不合理な点があるゆえ【卑】の字源となった」と解釈しなければならない。<span><br /></span>ゆえに、「天は尊く、地は下賤<span>(</span>げせん<span>)</span>である」という解釈は誤訳となる。<span><br /></span>だから、「卑弥呼」の【卑】は「地理、つまり【倭】の字源をあらわす転回日本列島地理をとなえた、最高に優れる地理学者」と意味した。<span><br /><br /></span>◆上の「伊都国の記事」が説明しているように、倭人国には【夏音文字】が存在した。<span><br /></span>前記したように、『魏志倭人伝』を著作した陳寿<span>(</span>ちんじゅ<span>)</span>は晋<span>(</span>しん<span>)</span>の歴史編纂官であったため、【晋王朝に秘蔵されていた――西暦<span>200</span>年～<span>250</span>年頃に帯方郡や魏に送られた倭人国の国書<span>(</span>つまり、卑弥呼が夏音文字で書いた文書を伊都国の港で楷書に変換した倭人国の国書<span>)</span>】を閲覧<span>(</span>えつらん<span>)</span>することができる権利を特別に許可されていたのである。<span><br /></span>陳寿は倭の国書にある『魏志倭人伝』の「対馬国の南は瀚海<span>(</span>かんかい・ゴビ沙漠<span>)</span>で、瀚海の南は一大国である」という記述は「倉頡が発明した文字作成理論を最初に学習する基本知識」を説明するものでははないかと推理した。<span><br /></span>また、【倭】は夏音文字で倉頡伝説に登場する【禾<span>(</span>か・稲<span>)</span>】と字源は同じではないか、「邪馬壱国」の【邪馬】の語源は「瀚海に生息するフタコブラクダ」ではないか、「卑弥呼」の【卑】は【益】と同義で「地理学の最高知識者」を意味するものだはないか、倭人国の諸国名に登場する「不弥国」と「不呼国」の【不】は夏王朝を始まったときに帝禹<span>(</span>ていう<span>)</span>が作った字ではないか、また「不弥国」の夏音文字【弥<span>(</span>彌<span>)</span>】は倉頡が作った【爾】が進化した字ではないか、あるいは「不呼国」の夏音文字【呼】は倉頡が作った【乎】が進化した字ではないかなどと推理した。<span><br /></span>ゆえに、陳寿は「一大率が治める伊都国の港で卑弥呼が用いる文字を魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に書き直して意味が同じようにする」と説明する倭の国書から「倭国には太古に習得した漢字が存在する。この太古文字は魏や晋、そして朝鮮半島で使用される楷書の字源・字義を正しく変換できる能力<span>(</span>学術知識<span>)</span>がある」と推定した。<span><br /></span>言いかえると、陳寿は「倭人国の太古漢字は楷書と同じく夏の銀河各部の形状から作られた秘密」に精通し、「漢字は五帝時代初頭に生存した黄帝<span>(</span>こうてい<span>)</span>につかえた倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>が発明して起源した」と伝える伝説は事実を伝えていることを知っていたのである。<span><br /></span>だから、陳寿は主観<span>(</span>自分の考え<span>)</span>を一切<span>(</span>いっさい<span>)</span>加えず、【倭の国書】にある記事をそのまま書き写すようにして『三国志』魏書東夷伝の末尾に〔倭人伝〕<span>(</span>つまり『魏志倭人伝』<span>)</span>を配置した。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』の後半部の記事を注目すると――上記したように、倭の国書は<span>200</span>年～<span>250</span>年頃に作成されたと推測される。<span><br /></span>ゆえに、陳寿は３世紀初頭～３世紀中半に作られた倭の国書の記事を抜粋<span>(</span>ばっすい<span>)</span>・書写して『魏志倭人伝』を構成した。<span><br /></span>多数の考古学や邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』は中国人が作った歴史史料であるゆえ、倭の様子を正しく伝えることができず、幾つかの誤記や矛盾や不合理な記事が存在するのが当然である」と主張するが――<span><br /></span>上記したように、『魏志倭人伝』は倭人国で作られた国書をほとんどそのまま書写するようにして作成されたゆえ、「わが国で作られた文献史料」と解して読まなければならない。<span><br /><br /></span>現在の学界は「漢字は中国の五帝時代の初頭に生存した黄帝につかえた倉頡が発明して起源したと伝える伝説は、を荒唐無稽<span>(</span>こうとうむけい<span>)</span>の作り話である」と指摘して否定する。<span><br /></span>しかし、このブログ「漢字の起源と発明を解明す」の<span>10</span>回と<span>37</span>回などで詳細に解説して証明したように――倉頡伝説は「倉頡が夏の銀河各部の形状から文字を作成する方法を発明し起源した」と事実を語るものであった。<span><br /></span>ゆえに、倉頡伝説は作り話であると疑う人々は「漢字の起源と発明を解明す」の<span>10</span>回と<span>37</span>回を参照していただきたい。<span><br /><br /></span>倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。<span><br /></span>ゆえに、下記に示す【３つの掟<span>(</span>おきて<span>)</span>】を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳<span>(</span>きび<span>)</span>しい神罰<span>(</span>しんばつ<span>)</span>がくだされて死刑にすると定めた。<span><br /></span>【倉頡が死刑と定めた３つの掟】<span><br /></span>Ⅰ　文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密<span>(</span>きみつ<span>)</span>とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員を皆殺しにする<span><br /></span>Ⅱ　文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする<span><br /></span>Ⅲ　書いた文字が用済<span>(</span>ようず<span>)</span>みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪<span>(</span>たいざい<span>)</span>を犯<span>(</span>おか<span>)</span>したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする<span><br /></span>〔注　上記したように倉頡は文字作成理論<span>(</span>文字の学芸知識<span>)</span>を容易に理解できるように説明する者はその一族全員にも神罰がくだって厳しく罰せられて死滅することになると忠告するゆえ、前記した「古事上巻　并せて序」の全文は非常に難解に作られている。〕<span><br /><br /></span>【倉頡が死刑と定めた<span>(</span>Ⅲ<span>)</span>の掟】によって、【書いた夏音文字を消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】は発見されないことになった。<span><br /></span>しかし、前記したように、【夏音文字は様々な多数の物の名をあらわして残った】ゆえ<span><br /></span>３世紀後半に著作された『魏志倭人伝』・８世紀初頭に成立した『古事記』上巻・８世紀後半に編集された『万葉集』の随所に、楷書を音符・意符に用いて多数保存された。<span><br /><br /></span>上記したように――倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配して――【死刑となる３つの掟】を定めた。<span><br /></span>この【３つの掟】を破ると、犯した本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員が死刑に処せたれた。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』の伊都国の記事は「卑弥呼が居住する倭の首都が所在する女王国<span>(</span>邪馬壱国<span>)</span>より以北には、特別に男王の一大率を配置し、一大率は倭国における諸国の様子を検察していたのである。ゆえに、諸国は彼<span>(</span>一大率<span>)</span>を畏<span>(</span>おそ<span>)</span>れ憚<span>(</span>はばか<span>)</span>っていた。一大率は常に伊都国に居住して治めていた。一大率の権限は刺史<span>(</span>現在の警視総監・検事総長・防衛大臣を兼ねる、卑弥呼と共に立って倭国を治める強大な権力を有する王<span>)</span>のごときであった」と説明していたのである。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』には「乃<span>(</span>すなわ<span>)</span>ち共に一女子を立てて王と為<span>(</span>な<span>)</span>し、名づけて卑弥呼と曰<span>(</span>い<span>)</span>う」という記事がある。<span><br /></span>したがって、倭王朝<span>(</span>卑弥呼王朝<span>)</span>は夏音文字と楷書に精通する伊都国の男王・一大率と夏音文字の最高権威者の卑弥呼が共に立って、【倉頡が定めた３つの掟】を厳重にまもって検察し統治する政権であったことになる。<span><br /><br /></span>◆前記したように、「わが国には夏代黎明期に用いられた夏音文字が存在した」と記述する古書には――<span>702</span>年に九州の港を出帆<span>(</span>しゅっぱん<span>)</span>した第７回遣唐使が「後稍<span>(</span>のちやや<span>)</span>、夏音を習う」と中国に報告した――と伝える『新唐書』日本伝はじめ、<span><br /></span>下記に示すように、『魏志倭人伝』・『古事記』の「上巻　并せて序」と上巻・『万葉集』などがある。<span><br /><br />(</span>Ⅰ<span>)</span>『魏志倭人伝』はさまざまな記事で「卑弥呼時代<span>(170</span>年～<span>240</span>年頃<span>)</span>、倭人国には紀元前<span>2000</span>年頃の夏代黎明期に習得した夏音文字が存在した」と説明する<span><br />(</span>Ⅱ<span>)</span>また、夏音文字は「古事記上巻　并せて序」にて意符・音符に用いた楷書との関係が説明され、さらに夏音文字は『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘が加えられて多数残っている<span><br />(</span>Ⅲ<span>)</span>『万葉集』に収まれられる多数の和歌に用いられる万葉仮名<span>(</span>和歌の原文に用いられる文字<span>)</span>にも夏音文字が楷書で記されて多数残っている<span><br /><br /></span>上記したように『古事記』上巻の随所に〔音〕という指摘が加えられて残る【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく――『魏志倭人伝』と同様に「楷書を音符・意符」に用いて記される。<span><br /></span>つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字に秘められる字源、字形<span>(</span>字源となる銀河各部の形<span>)</span>、原義<span>(</span>甲骨文字の以前の字義<span>)</span>」が解明できる。<span><br /><br /></span>このように、上記した文献史料史学に則<span>(</span>のっと<span>)</span>り、<span><br /></span>また、白川静著『字統』の序にある言語学・音韻学の研究成果を説明する「わが国の漢字音」と題する記事を注目すると、<span><br /></span>考古学が「わが国が漢字を最初に習得したのは５世紀である」と主張する意見の実体は臆測<span>(</span>おくそく<span>)</span>・偏見<span>(</span>へんけん<span>)</span>の産物であり錯覚・幻想であったことになる。<span><br /></span>上記した考古学における漢字習得説は埼玉県行田<span>(</span>なめた<span>)</span>市に所在する稲荷山古墳<span>(</span>いなりやまこふん<span>)</span>から出土した鉄剣銘」に刻まれていた楷書にもとづく。<span><br /><br /></span>注目すべきは――「わが国が漢字を最初に習得したのは５世紀である」という定説の証拠となる稲荷山鉄剣銘に刻まれる「意富比垝」は「おほひこ」、「弖已加利獲居」は「てよかりわけ」と読み、『古事記』上巻の随所に〔音〕と指摘される文字、そして『万葉集』の万葉仮名と同じく楷書を字音と字義に用いる。<span><br /></span>だから、稲荷山鉄剣銘の文字は「夏音文字の字音を楷書で表記した遺物」であったと考えられる。<span><br /></span>ゆえに、「わが国が漢字を最初に習得したのは５世紀である」と断定することはできない。<span><br /><br /></span>◆以上のごとく、このブログの初頭部で――『魏志倭人伝』は「２世紀末から３世紀中半、倭人国<span>(</span>わが国<span>)</span>には漢字知識があった」と記述する。<span><br /></span>しかし、わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀であるのは確かなことである」ゆえ、この記述は誤っている――と学界やメディアは即座に否定するがちがいない。<span><br /></span>しかし、『魏志倭人伝』の<span>(</span>１<span>)</span>「古<span>(</span>いにしえ<span>)</span>より以来、倭の使者は中国に詣<span>(</span>いた<span>)</span>ると自らを大夫と称した」という記事や</p>
<p>(２<span>)</span>「伊都国を治める一大率」について説明する記事や、<span><br />(</span>３<span>)</span>「黒歯国の東南に在りて船行一年にして参問至るべき云々」から「周旋五千余里ばかり」という文までの３種の記事は<span><br /></span>「今から約<span>4000</span>年前の紀元前<span>2050</span>年頃、中国から名門・益氏の王子と若者たちが大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住して、夏音文字はじめとする当時の中国における先端学術を教え広めた。ゆえに、日本列島の東北地方・関東地方の各地に住む氏族たちは、紀元前<span>2000</span>年頃の後期縄文時代初頭<span>(</span>中国の夏代黎明期<span>)</span>、夏音文字を習得していた」と事実を語っていたことになる。<span><br /></span>だから、「わが国が最初に漢字を習得したのは約<span>4000</span>年前であった」。<span><br /></span>ゆえに、『魏志倭人伝』の「２世紀末から３世紀中半には、わが国には中国の三皇時代の結縄<span>(</span>けつじょう・易占に用いた記号<span>)</span>・五帝時代に作られた書契<span>(</span>しょけい<span>)</span>・夏代黎明期に出現した音文字<span>(</span>夏音文字<span>)</span>などの漢字知識が保存されて残っていた」ことになって、<span><br /></span>『魏志倭人伝』の説明は正しく、今日の「わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀である」と学界やメディアが主張する定説は誤っていたことになる。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』は考古学が主張する【邪馬台国】について説明する古書ではなかった。<span><br /></span>『魏志倭人伝』は「漢字が起源した秘密が科学的に解明できる最高・最良の史料」であった。<span><br /></span>『魏志倭人伝』は「わが国は夏代黎明期に夏音文字を習得した。この夏音文字は卑弥呼時代<span>(</span>２世紀末から３世紀中半<span>)</span>において、倭人国の諸国で常用される漢字であった」と説明する古書であった。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』の全記事が正しいことを証明すれば――倉頡が発明した文字作成理論<span>(</span>辞理<span>)</span>の秘密が具体的にしかも【科学】が成立して解明できる仕組みになっている。</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>卑弥呼</dc:subject>
<dc:subject>邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
<dc:subject>アルファベットの起源</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源</dc:subject>
<dc:subject>日本国誕生史の証明</dc:subject>
<dc:subject>大嘗祭の証明</dc:subject>
<dc:subject>まぼろしの邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源と発明を解明す</dc:subject>

<dc:creator>大川誠一</dc:creator>
<dc:date>2025-03-09T10:43:20+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/02/post-b958df.html">
<title>漢字の起源と発明を解明す・38</title>
<link>https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/02/post-b958df.html</link>
<description>わが国には中国の甲骨文字より約700年前の【最古の漢字出土史料】が実在した◆漢字...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>わが国には中国の甲骨文字より約<span>700</span>年前の【最古の漢字出土史料】が実在した<span><br /><strong><br /></strong></span><strong>◆漢字は、【</strong>夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。<span><br /></span>【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」のことをいう。<span><br /></span>「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。<span><br /></span>「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。<span><br /><br /></span>下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。<span><br /></span>この写真は、<span>PIXTA(</span>ピクスタ<span>)</span>が撮影した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/ginga_kara1_20250214142901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Ginga_kara1_20250214142901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/ginga_kara1_20250214142901.jpg" alt="Ginga_kara1_20250214142901" width="299" height="450" border="0" /></a> <br /><br /></span>今から約<span>5000</span>年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝<span>(</span>こうてい<span>)</span>につかえていた倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は【夏の銀河各部の形状から文字<span>(</span>漢字<span>)</span>作成する方法<span>(</span>理論<span>)</span>】を発明した。<span><br /></span>この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、<span><br /></span>卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝<span>(</span>ぎしわじんでん<span>)</span>』である。<span><br /></span>江戸時代中期に生存した新井白石<span>(1657</span>―<span>1725</span>年<span>)</span>以来今日まで約<span>300</span>年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。<span><br /></span>しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法<span>(</span>理論<span>)</span>】を説明する聖典<span>(</span>せいてん<span>)</span>であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書<span>(</span>秘密の書物<span>)</span>」であった。<span><br /></span>〔注　上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』<span>(</span>ｋｉｎｄｌｅ版<span>)</span>にて詳細に解説して証明した。〕<span> <br /><br /></span>現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽<span>(</span>こうとうむけい<span>)</span>の作り話である」と断定する。<span><br /></span>しかし、この定説はまちがっている。<span><br /></span>というのも、上記したように、『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。<span><br /><br /></span>◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき・紀元前<span>2050</span>年頃<span>)</span>、帝益<span>(</span>えき<span>)</span>の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進<span>(</span>ほくしん<span>)</span>して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住した――という歴史を説明する記事がある。<span><br /><br /></span>益氏の王子と若者たちは、<span><br />(</span>１<span>)</span>三皇時代の易占<span>(</span>うらない<span>)</span>に用いる記号の結縄<span>(</span>けつじょう<span>)</span>、<span><br />(</span>２<span>)</span>五帝時代の最初の漢字の書契<span>(</span>しょけい<span>)</span>、<span><br />(</span>３<span>)</span>夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき<span>)</span>の夏音文字<span>(</span>かおんもじ<span>)</span>、<span><br />(</span>４<span>)</span>黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、<span><br />(</span>５<span>)</span>倉頡の文字作成理論、<span><br />(</span>６<span>)</span>精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法<span><br /></span>を教え広めた。<span><br /><br /></span>紀元前<span>21</span>世紀の夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき<span>)</span>から卑弥呼が生存した２世紀末の後期弥生時代までの約<span>2200</span>年間、<span><br /></span>上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。<span><br /></span>これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。<span><br /></span>また、夏音文字は<span>712</span>年１月<span>28</span>日に元明<span>(</span>げんめい<span>)</span>天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。<span><br /></span>したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀あるいは６世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。<span><br /><br /></span>◆倉頡はみずから発明した文字は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得<span>(</span>しゅうとく<span>)</span>して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。<span><br /></span>ゆえに、下記に示す【３つの掟<span>(</span>おきて<span>)</span>】を破った本人はもちろん、その者の家族さらに一族全員に厳<span>(</span>きび<span>)</span>しい神罰<span>(</span>しんばつ<span>)</span>がくだされて死刑にすると定めた。<span><br /></span>【倉頡が死刑と定めた３つの掟】<span><br /></span>Ⅰ　文字の学芸知識は王朝が独占管理して最も厳重な機密<span>(</span>きみつ<span>)</span>とする。ゆえに文字の学芸の秘密を容易に理解できるように明確に暴露した者は、その本人はもちろん家族そして一族全員皆殺しにする<span><br /></span>Ⅱ　文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする<span><br /></span>Ⅲ　書いた文字が用済<span>(</span>ようず<span>)</span>みになったならば、文字を消さない者や消し忘れた者も、王朝を滅ぼす大罪<span>(</span>たいざい<span>)</span>を犯<span>(</span>おか<span>)</span>したことにする。ゆえに、その者はじめ家族および一族全員を死刑にする<span><br /><br /></span>【倉頡が死刑と定めた<span>(</span>Ⅲ<span>)</span>の掟】によって、【書いた夏音文字を消されていた】ために、後世に【夏音文字を書いた史料】が発掘、発見されないことになった。<span><br /></span>【書かれた夏音文字は消されて後世に残らないことになった】が<span><br /></span>前記したように、【夏音文字は様々な多数の物の名をあらわして残った】ゆえ<span><br /></span>３世紀後半に著作された『魏志倭人伝』と８世紀初頭に成立した『古事記』上巻の随所に、楷書を音符・意符に用いて多数残った。<span><br /><br /></span>◆わが前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>37</span>」にて、紀元前<span>2000</span>年頃<span>(</span>後期縄文時代初頭<span>)</span>にわが国が習得した【夏音文字】について、下記のごとく説明した。<span><br /><br /></span>中国の正史『新唐書<span>(</span>しんとうじょ<span>)</span>』日本伝には――<span>702</span>年に九州の港を出帆<span>(</span>しゅっぱん<span>)</span>した第７回遣唐使<span>(</span>けんとうし<span>)</span>が「後稍<span>(</span>のちやや<span>)</span>、夏音<span>(</span>かおん<span>)</span>を習<span>(</span>なら<span>)</span>う<span>)</span>」と中国に報告した――という記事がある。<span><br /></span>この第７回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――<span>672</span>年におきた壬申<span>(</span>じんしん<span>)</span>の乱の後、天武天皇<span>(</span>てんむてんのう<span>)</span>は「稍<span>(</span>やや、少しだけ<span>)</span>、夏音文字を復興する歴史書を編纂<span>(</span>へんさん<span>)</span>せよ」と命令された――と意味した。<span><br /><br /></span>壬申の乱の９年後の<span>681</span>年<span>(</span>天武天皇<span>10</span>年<span>)</span>３月<span>17</span>日、天皇は川島皇子<span>(</span>かわしまのみこ<span>)</span>以下十二人に命じて「帝紀<span>(</span>ていき<span>)</span>及び上古の諸事<span>(</span>しょじ<span>)</span>を記定<span>(</span>きてい<span>)</span>させた。<span><br /></span>ゆえに、上記した「稍々<span>(</span>やや<span>)</span>、夏音を習うようにせよ<span>(</span>復興するようにせよ<span>)</span>」という天武天皇の命令は、<span>681</span>年<span>(</span>天武天皇<span>10</span>年<span>)</span>の３月<span>17</span>日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。<span><br /></span>天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた<span>681</span>年から<span>3</span>１年後の<span>712</span>年１月<span>28</span>日、また「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第７回遣唐使が九州の港を出帆してから<span>10</span>年後の<span>712</span>年１月<span>28</span>日に『古事記』が完成して元明天皇<span>(</span>げんめいてんのう<span>)</span>に献上された。<span><br /></span>『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。<span><br /></span>『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」で〔中巻・下巻とは無関係〕であり、言いかえると【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。<span><br /></span>というのも、『古事記』上巻の随所<span>(</span>ずいしょ<span>)</span>に〔音〕という注がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という注がつく「夏音文字」はまったく記されていない。<span><br /></span>これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字】について説明している。<span><br /></span>この「〔音〕という注がつく夏音文字について説明する『古事記』の序」は「古事記上巻　并<span>(</span>あわ<span>)</span>せて序」と題する。<span><br /><br /></span>「古事記上巻　并せて序」の冒頭文は、下記のごとく【わが国が後期縄文時代初頭<span>(</span>紀元前<span>2050</span>年頃<span>)</span>に習得した夏音文字】についてである。<span><br /></span>「臣安万呂言<span>(</span>しんやすまろまを<span>)</span>す。夫<span>(</span>そ<span>)</span>れ混元既<span>(</span>こんげんすで<span>)</span>に、気象未<span>(</span>いま<span>)</span>だ効<span>(</span>あらは<span>)</span>れず。名も無く為<span>(</span>わざ<span>)</span>も無し。誰<span>(</span>たれ<span>)</span>か其<span>(</span>そ<span>)</span>の形を知らむ。然<span>(</span>しか<span>)</span>れども乾坤<span>(</span>けんこん<span>)</span>初めて分かれて、参神造化<span>(</span>さんしんぞうか<span>)</span>の首<span>(</span>はじめ<span>)</span>を作<span>(</span>な<span>)</span>す。」<span><br /></span>「古事記上巻　并せて序」の全文に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。<span><br /></span>「元明天皇陛下に臣下の太安万侶<span>(</span>おおのやすまろ<span>)</span>が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌<span>(</span>こんとん<span>)</span>として凝<span>(</span>こ<span>)</span>り固まっていましたが、気や象<span>(</span>かたち<span>)</span>がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶<span>(</span>どぐう<span>)</span>を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージをあらわす銀河部がめぐってきたため、初めて天と地に分かれて認識できるようになって、天と地のイメージを表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神<span>(</span>あめのみなかぬしのかみ<span>)</span>、中期縄文の高御産巣日神<span>(</span>たかみむすひのかみ<span>)</span>、後期縄文初頭の神産巣日神<span>(</span>かむむすひのかみ<span>)</span>の参柱<span>(</span>みはしら<span>)</span>の芸術神<span>(</span>造化の神<span>)</span>における<span>(</span>約<span>2000</span>年間<span>)</span>の伝統によって、首<span>(</span>はじめ・後期縄文時代初頭・紀元前<span>2050</span>年頃<span>)</span>において、益氏<span>(</span>えきし<span>)</span>がもたらした【倉頡の文字作成理論】や【夏の銀河各部の形状から作られた夏音文字】を習得することができました。」<span><br /><br /></span>◆前記したように、『魏志倭人伝の後半部』には、下記のごとく――夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき・紀元前<span>2050</span>年頃<span>)</span>、帝益の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進<span>(</span>ほくしん<span>)</span>して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住した――と説明する。<span><br /></span>「裸国<span>(</span>らこく<span>)</span>・黒歯国<span>(</span>こくしこく<span>)</span>有り。復<span>(</span>ま<span>)</span>た其の東南に在りて船行<span>(</span>せんこう<span>)</span>一年にして参問<span>(</span>さんもん<span>)</span>至る可<span>(</span>べ<span>)</span>き。倭の地を参問するに、海中洲島<span>(</span>かいちゅうしゅうとう<span>)</span>の上に絶在<span>(</span>ぜつざい<span>)</span>し、或<span>(</span>ある<span>)</span>いは絶え或いは連なり、周旋<span>(</span>しゅうせん<span>)</span>五千余里可<span>(</span>ばか<span>)</span>り。」<span><br /></span>わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の<span>30</span>回～<span>32</span>回の３回をもって詳細に解説し証明したように、<span><br /></span>上記したように、『魏志倭人伝』の後半部にある文章は――益氏の王子と若者たちが中期縄文時代末<span>(</span>紀元前<span>2050</span>年頃<span>)</span>の夏代黎明期<span>(</span>かだれいめいき<span>)</span>に、男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住したと伝えている。<span><br /><br /></span>◆白川静博士は、わが国の古代中国文字<span>(</span>漢字<span>)</span>研究の第一人者とされる。<span><br /></span>白川静博士は『字統』<span>(</span>平凡社発行<span>)</span>を著作した。<span><br /></span>白川静著『字統』は「わが国の漢字音」と題して、９ページの終わりから３行目～<span>10</span>ページの始めから３行目までで、下記のごとく指摘する。<span><br /></span>「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」<span><br /></span>上記末の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、<span><br /></span>益氏が、紀元前<span>2050</span>年頃<span>(</span>わが国の後期縄文時代初頭、中国の夏代黎明期<span>)</span>から、わが国に教え広めた夏音文字の字音である。<span><br /></span>益氏が教え広めた夏音<span>(</span>夏音文字の字音<span>)</span>は、『魏志倭人伝』に人名・小国名・官職名はじめ動物や事物の名称などになって、楷書を意符・音符にして多数残っている。<span><br /></span>また、夏音は、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数実在する。<span><br /></span>『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて残る【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく――『魏志倭人伝』同様に「楷書を音符・意符」に用いて記される。<span><br /></span>つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字の字源、字形<span>(</span>字源となる銀河各部の形<span>)</span>、原義<span>(</span>甲骨文字の以前の字義<span>)</span>」が解明できる仕組みになっている。<span><br /></span>そして、白川静著『字統』が指摘するように、【『古事記』上巻の記される夏音文字の字音】が「いま残されている漢字の字音において、最古の漢字音」である。<span><br /><br /></span>中国において、学界が定説とする「漢字の最も古い字形として残った甲骨文字<span>(</span>契文<span>)</span>の字音」は、不明で現在において残っていない。<span><br /></span>中国における最古の漢字音は、「上古音<span>(</span>じょうこおん<span>)</span>」と呼ばれる。<span><br /></span>下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前<span>1046</span>年から始まる周代初頭<span>(</span>しゅうだいしょとう<span>)</span>の字音である。<span><br /></span>下図に示すように、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残って実在する夏音文字は益氏の王子と若者たちが紀元前<span>2050</span>年頃の夏代黎明期にわが国にもたらした漢字音である。<span><br /></span>したがって、中国の最古の字音よりもわが国の夏音文字の字音は約<span>1000</span>年も古い。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/photo_20250214143101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Photo_20250214143101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/photo_20250214143101.jpg" alt="Photo_20250214143101" width="299" height="424" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆<span>1955</span>年<span>(</span>昭和<span>30</span>年<span>)</span>の夏、長野県茅野市の尖石<span>(</span>とがりいし<span>)</span>の縄文住居跡から石板<span>(</span>せきばん<span>)</span>が出土した。<span><br /></span>この石板には、５つの図書が刻まれていた。<span><br /></span>この【石板に刻まれていた５つの図書】は、【『魏志倭人伝』の随所】と【『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が<strong>ついて</strong>多数実在する、最古の漢字音を示す夏音<strong>文字】</strong>、つまり【中国の甲骨文字<span>(</span>契文<span>)</span>よりも約<span>700</span>年前の、最古の漢字の夏音文字】であったと可能性大となる。<span><br /><br /></span>要するに、わが国には【甲骨文字<span>(</span>契文<span>)</span>よりも古い、最古の夏音文字の出土史料】が実在したと考えられる。<span><br /></span>ところが、この石板の図書<span>(</span>夏音文字の出土史料<span>)</span>は偽作と解釈されて、現在廃棄<span>(</span>はいき<span>)</span>され失われて残っていない。<span><br /><br /></span>この石板は、三笠宮一行によって発見された。<span><br /></span>この石板の出土地は、昔から「尖り石さま」といって祭られていた土地であった。<span><br /></span>「尖り石さま」の丘の麓には、直径１ｍ、高さ１ｍぐらいの三角錐状<span>(</span>さんかくすいじょう<span>)</span>の岩石がある。その表面には、多年にわたる刃物の研<span>(</span>と<span>)</span>いだ痕<span>(</span>あと<span>)</span>が残っている。<span><br /></span>この石板は、「尖り石さま」の丘の麓にある岩石から<span>100</span>ｍほど斜面を登った台地から発掘された。<span><br /></span>そこは、縄文時代の住居跡であった。<span><br /><br /></span>長野県茅野市の尖石縄文考古館の玄関近くには、約<span>5000</span>年前<span>(</span>紀元前<span>2500</span>年頃、中期縄文時代初頭<span>)</span>に作られた「縄文のビーナス」と名づけられた土偶が常設展示<span>(</span>じょうせつてんじ<span>)</span>されている。<span><br /></span>この「縄文のビーナス」は尖石の棚畑遺跡<span>(</span>たなばたけいせき<span>)</span>、つまり尖石の環状集落<span>(</span>かんじょうしゅうらく<span>)</span>の中央広場の穴の中に埋蔵<span>(</span>まいぞう<span>)</span>されていた。<span><br /></span>「縄文のビーナス」は<span>27</span>㎝の完形<span>(</span>かんけい<span>)</span>・大形の妊娠土偶とされ、わが国最古の国宝である。<span><br /><br /></span>尖石縄文考古館の玄関近くには、「縄文のビーナス」の傍<span>(</span>かたわ<span>)</span>らに、もう一つの国宝「仮面の女神」という土偶が常設展示されている。<span><br /></span>この国宝「仮面の女神」もまた、大形の妊娠土偶である。<span><br /></span>「仮面の女神」は尖石の中ッ原遺跡<span>(</span>なかっぱらいせき<span>)</span>から出土した、約<span>4000</span>年前<span>(</span>わが国において益氏から夏音文字を習得した紀元前<span>2000</span>年頃、後期縄文時代初頭<span>)</span>に作られた、<span>34</span>㎝の完形・大形の妊娠土偶とされる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000284_20250214143701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000284_20250214143701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000284_20250214143701.jpg" alt="0000284_20250214143701" width="300" height="296" border="0" /></a> <br /> </span>だから、尖石縄文考古館に所蔵された「石板に刻まれる５つの図書」は、「仮面の女神が作られた約<span>4000</span>年前の後期縄文時代初頭<span>(</span>夏代黎明期<span>)</span>に習得された夏音文字」であった可能性がある。<span><br /></span>あるいは、この「５つの石板画」は後世に刻まれた夏音文字の出土史料であったにちがいない。<span><br /><br /></span>前々回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>36</span>」にて詳細に解説したように、<span><br /></span>「仮面の女神」は「わが国が習得した、精確<span>(</span>せいかく<span>)</span>な中国海岸線地図」と密接に関連する。<span><br /></span>「仮面の女神」が被<span>(</span>かぶ<span>)</span>る「三角形の仮面」は紀元前<span>3000</span>年頃の五帝時代初頭の黄帝<span>(</span>こうてい<span>)</span>時代より開発<span>(</span>かいはつ<span>)</span>された「精確な地図の作成方法となる土地三角測量法」をあらわしていた。<span><br /></span>これゆえ、司馬遷<span>(</span>しばせん<span>)</span>著『史記』五帝本紀の黄帝時代を説明する記事には「黄帝が虎に戦闘を教えた」という文がある。<span><br /></span>この文中の「虎」は「猛獣のトラ」ではなく、「土地三角測量をおこなって地図を作製する役職の長官。また、長官となった氏族」を意味した。<span><br /></span>ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は土地三角測量して地図を作製する長官とその氏族に戦闘を教えた」と説明していたことになる。<span><br /><br /></span>司馬遷著『史記』五帝本紀には、「益氏は、五帝時代最後の帝王・舜<span>(</span>しゅん<span>)</span>に、【虞<span>(</span>ぐ<span>)</span>】という重職<span>(</span>じゅうしょく<span>)</span>に就<span>(</span>つ<span>)</span>くように命令された」という記事がある。<span><br /></span>【虞】という字は【虎】の下に【呉】を加える字である。<span><br /></span>ゆえに、益氏の首長は「虎」つまり「精確<span>(</span>せいかく<span>)</span>な中国海岸線地図を作製する長官」に任命されたことになる。<span><br /></span>この「益氏が命令された精確な中国海岸線地図の作製と測量」は「中国の南部の呉から着手<span>(</span>ちゃくしゅ<span>)</span>する」と定められた。<span><br /></span>このため、上記したように、「益氏の役職」は【虎】の下に【呉】が加えられる【虞】と名づけられた。<span><br /></span>ゆえに、「夏王朝<span>(</span>かおうちょう<span>)</span>が始まるまでの約<span>200</span>年～<span>250</span>年間、代々益氏の首長は【虞】の重職に就<span>(</span>つ<span>)</span>き、一族の先頭に立って中国海岸線測量に従事<span>(</span>じゅうじ<span>)</span>して【精確な中国海岸線地図の作製】に努力したことになる。<span><br /><br /></span>「虎」といえば、夏音文字の【奴<span>(</span>な<span>)</span>】の字と密接に関連した。<span><br /></span>夏音文字の【奴】は「子どもの出産」において――「母体<span>(</span>妊婦<span>)</span>が雷鳴<span>(</span>らいめい<span>)</span>や【虎のごとく】大声をあげていきみ・きある怒責<span>(</span>どせき<span>)</span>」をあらわした。<span><br /></span>だから、「土地三角測量の三角形の仮面をかぶる、仮面の女神」の土偶は「【奴】の強大な力をもって子どもを出産するときの、虎のごとく大声を出して怒責する妊婦」をも表現するものであったと考えられる。<span><br /><br /></span>夏音文字の【奴】の字源・字義は<span><br />(</span>１<span>)</span>「強大な力を有するジャコウウシ」<span><br />(</span>２<span>)</span>「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」<span><br />(</span>３<span>)</span>「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する<span>18</span>歳くらいの青年」<span><br />(</span>４<span>)</span>ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器官」などをあらわした。<span><br /><br /></span>下図は、「仮面の女神の正面図」である。<span><br /></span>下図に示すように、「仮面の女神」の「妊娠」を形つくる腹部中央は「同心円形文様」となる。<span><br /></span>司馬遷『史記』五帝本紀の黄帝について説明する箇所には、<span><br /></span>「師兵<span>(</span>しへい<span>)</span>を以<span>(</span>もっ<span>)</span>て営衛<span>(</span>えいえい<span>)</span>す」という記事があり、<span><br /></span>この文は「黄帝軍は駐屯<span>(</span>ちゅうとん<span>)</span>する時には、ジャコウウシの群れが組む円陣を参考にして、軍兵たちは円陣を作って自衛した」と意味した。<span><br /></span>ジャコウウシの群れは危険を察知すると、子どもを真ん中に隠して円陣を組む。<span><br /></span>ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の生殖器官の大半を包囲して衛<span>(</span>まも<span>)</span>る骨盤<span>(</span>こつばん<span>)</span>」に見立てられ、<span><br /></span>また、「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中にかくすジャコウウシの子」は「子宮で育つ胎児<span>(</span>たいじ<span>)</span>」に見立てられて、<span><br /></span>「ジャコウウシ」は【黄帝の女性の生殖器官と出産の研究を象徴<span>(</span>しょうちょう<span>)</span>する聖獣<span>(</span>せいじゅう<span>)</span>】と定められた。<span><br /></span>だから、「仮面の女神の腹部に刻まれる同心円形文様」は「ジャコウウシの群れが作る円陣」を表現するものであったにちがいない。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000285_20250214143801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000285_20250214143801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000285_20250214143801.jpg" alt="0000285_20250214143801" width="299" height="358" border="0" /></a> <br /></span>◆上図に示す「仮面の女神」は「わが国が夏音文字を習得した後期縄文時代初頭」に作られた<span>(</span>上図は尖石縄文考古館発行『仮面土偶発掘の記録』の<span>20</span>ページ<span>21</span>ページから転載<span>)</span>。<span><br /></span>そして、中国から大海を越えて日本列島の男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住した益氏の王子と若者たちが教えひろめた【倉頡の文字作成理論】と【夏音文字】を、「仮面の女神」が作られた後期縄文時代初頭において日本列島各地の氏族たちが習得した。<span><br /></span>この「紀元前<span>2000</span>年頃に、日本列島の各地で習得された夏音文字」は「紀元前<span>1300</span>年頃から出現した契文<span>(</span>けいぶん・甲骨文字<span>)</span>や紀元前<span>1046</span>年頃から出現した金文よりも字源・原義を失わない、【倉頡の文字作成理論】により失わない漢字の祖型<span>(</span>そけい<span>)</span>」であった。<span><br /></span>ゆえに、前記した「尖石の縄文住居跡から発掘された石板に刻まれていた５つの図書」は「夏音文字」であったと考えるべきことになる。<span><br /><br /></span>「５つの夏音文字が刻まれていた石板」は<span>1955</span>年<span>(</span>昭和<span>30</span>年<span>)</span>の夏以降から<span>1994</span>年<span>(</span>平成６年<span>)</span>頃までは尖石縄文考古館に所蔵されていた。<span><br /></span>その以後いつであったかは定かではないが、新聞記事で「石板に刻まれる５つの絵柄は、後世によくある作品に相似するゆえ、後世の偽作と考えられるゆえ――尖石縄文考古館は廃棄<span>(</span>はいき<span>)</span>することにした」ということを知った。<span><br /></span>しかし、「後世によくある作品に相似するゆえ、後世の偽作」と考えるのは、早計<span>(</span>そうけい<span>)</span>で軽率<span>(</span>けいそつ<span>)</span>で独断<span>(</span>どくだん<span>)</span>であったことになる。<span><br /></span>もしも「石板に刻まれた５つの図象」が「仮面の女神と同時代の後期縄文時代初頭の作品」であったとしたならば、「仮面の女神」と同様に「国宝」に値<span>(</span>あたい<span>)</span>する貴重な出土史料であったことになる。<span><br /></span>たとえ、尖石縄文考古館が考えたとおりに「後世の作品」であったとしても――この「石板画」は「夏音文字であった可能性」はとなる。<span><br /><br /></span></p>
<p>その証拠に、前記したように「夏音文字」は、<span>712</span>年１月<span>28</span>日に元明天皇<span>(</span>げんめいてんのう<span>)</span>に献上された『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数残って実在するからである。<span><br /></span>【中国の最古の漢字よりも約<span>1000</span>年も古い、現在における最古の夏音文字の字音】が『古事記』上巻の随所に、あるいは『魏志倭人伝』に多数記載されて残って実在する。<span><br /></span>だから、――【尖石遺跡における縄文時代の住居跡から発掘された、石板に刻まれた５つの図書】は「音文字であった可能性」が大となる。<span><br /><br />712</span>年当時、『上古の諸事』・『本辞<span>(</span>ほんじ<span>)</span>」』・『旧辞<span>(</span>きゅうじ<span>)</span>』・『先代<span>(</span>せんだい<span>)</span>の旧辞』などと呼ばれた『古事記』上巻の原典<span>(</span>げんてん<span>)</span>となった古文書には「夏音文字」が多数記されて残っていた。<span><br /></span>ゆえに、「わが国に、夏音文字が存在していた年代」は「紀元前<span>2050</span>年頃～<span>712</span>年頃まで」ということになる。<span><br /></span>したがって、「尖石の縄文住居跡から発掘された石板画」がたとえ「<span>712</span>年とほぼ同時代の８世紀初頭の作品であった」としても「後期縄文時代と８世紀の夏音文字の字体・字形はほぼ同じ」となるゆえ「後世の偽作」ということにはならない。<span><br /></span>だから、尖石縄文考古館の判断は非情に軽率な独断であったことになり、「尖石の縄文遺跡から出土した５つの石板画」は「夏音文字であった」可能性が大となる。<span><br /><br /></span>◆下図に、「尖石の縄文住居跡から発掘された５つの石板画」を示した。<span><br /></span>この石板の大きさは、幅<span>40</span>㎝、長さ<span>30</span>㎝、厚さ<span>20</span>㎝である。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000293.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000293" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000293.jpg" alt="0000293" width="300" height="276" border="0" /></a> <br /></span>前述したように、【倉頡が死刑と定めた３つの掟】における<span><br />(</span>Ⅱ<span>)</span>は「文字の学芸を容易に習得するために、【文字が作られた夏の銀河各部】に名称をつけた者はじめその者の家族および一族全員を死刑にする」であった。<span><br /></span>この<span>(</span>Ⅱ<span>)</span>の掟のためであろうか――現在においても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。<span><br /></span>これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。<span><br /></span>ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00003_20250214144101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00003_20250214144101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00003_20250214144101.jpg" alt="00003_20250214144101" width="299" height="433" border="0" /></a> <br /></span>上図の左上の端に、わたくしが「三つ輪の銀河」と名づけた銀河がある。<span><br /></span>この「三つ輪の銀河」の西となりの銀河を「十字の銀河」、「十字の銀河」の西となりの銀河を「鬼の横顔に似る銀河」、「十字の銀河」の南となりの銀河を「激流の銀河」と、わたくしは名づけた。<span><br /></span>下図は「三つ輪銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河の図」である。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000294.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000294" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000294.jpg" alt="0000294" width="300" height="292" border="0" /></a> <br /></span>上図の「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」を観察した心象<span>(</span>イメージ<span>)</span>にもとづいて、<span><br /></span>前ページに示した「尖石の縄文住居跡から発掘された石板に線で刻まれた５つの夏音文字<span>)</span>」を、<span><br /></span>わたくしは「来る日も来る日も日照りつづく　草と木が枯<span>(</span>か<span>)</span>れ　川の水も涸<span>(</span>か<span>)</span>れる　天の神に　雨が　大量に降るように祈<span>(</span>の<span>)</span>る」<span><br /></span>と解読した。<span><br /><br /></span>下に、<span>(A)</span>「来る日も来る日も日照りつづく」、　<span>(B)</span>「草と木が枯れ　川の水も涸れる」、<span>(C)</span>「天の神に」、<span>(D)</span>「雨が」、<span>(E)</span>「大量に降るように祈<span>(</span>の<span>)</span>る」の解読図を配した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000295.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000295" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000295.jpg" alt="0000295" width="300" height="281" border="0" /></a> <br /></span>下図に示すように、<span>(A)</span>「夏音文字」は「日光」をあらわす「複数の放射線の中央」に、「二つの太陽がならぶ」ゆえ「来る日も来る日も」と解読した。<span><br /></span>この「二つの太陽の夏音文字」には斜体【ｙ】字形の夏音文字が重なる。<span><br /></span>この斜体【<span>y</span>】字状の図書は、「日照り。水がれ」を意味する「干魃<span>(</span>かんばつ<span>)</span>」の【Ｙ】字形の【干】の契文形<span>(</span>けいぶんけい・甲骨文字の字形<span>)</span>や金文形に相似する。<span><br /></span>ゆえに、この「斜体【<span>y</span>】字形の図書」は「【干】の夏音文字」であったと考えられる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000296.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000296" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000296.jpg" alt="0000296" width="300" height="251" border="0" /></a> </span></p>
<p>下図は、<span>(B)</span>「石板の右下の夏音文字の上部」における「川岸に群生する葦<span>(</span>あし<span>)</span>の穂と茎と、木の絵柄」の解読図である。<span><br /></span>下図に示すように<span>(B)</span>「葦の穂と茎の絵柄」は「茂<span>(</span>しげ<span>)</span>る葉が落ちて葉冠部<span>(</span>ようかんぶ<span>)</span>が枯れて細る木の形」に観<span>(</span>み<span>)</span>える。<span><br /></span>ゆえに、<span>(B)</span>の絵柄<span>(</span>夏音文字<span>)</span>を「草と木は枯れる」と解読した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000297.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000297" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000297.jpg" alt="0000297" width="299" height="341" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図に示す、<span>(B)</span>「石板の右下の、下部の絵柄」を「縦の線」と、そして「川底がむき出しの水が流れていない川」を表現していると解釈した。<span><br /></span>下図の右の端<span>(</span>はし<span>)</span>にある<span>(B)</span>「長い縦線<span>(</span>たてせん<span>)</span>」は「葉が落ちて枯れて茎だけになった草」と、「葉が落ちてやせ細って枯れた、幹だけになった木の幹<span>(</span>みき<span>)</span>」を表現していると解した。<span><br /></span>この<span>(B)</span>「枯れた草と木をあらわす、長い縦線」は「上部の右端<span>(</span>みぎはし<span>)</span>の、枯れた葦の穂と茎の絵柄」と重なる。<span><br /></span>ゆえに、上記したように、上図における<span>(B)</span>「石板における右下の上部の絵柄」は「草と木が枯れる」と解読した。<span><br /></span>また、下図の上部の<span>(B)</span>における「川」をあらわす図書は「川底がむきだしの水が流れない川の様子」をあらわしているのに対して、下図に下部の<span>(B)</span>「激流の銀河」は「水があふれんばかりに豊富な川の様子」をあらわしている。<span><br /></span>ゆえに、この<span>(B)</span>石板画の「川」の図書の形状から「川の水も涸れる」と解読した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000298.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000298" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000298.jpg" alt="0000298" width="300" height="544" border="0" /></a> <br /></span>下図に示すように、<span>(C)</span>「石板画中央の絵柄」は【天】の金文形に相似する。<span><br /></span>ゆえに、<span>(C)</span>「石板画中央の絵柄<span>(</span>夏音文字<span>)</span>」を「天に。つまり天の神に」と解読した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000299.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000299" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000299.jpg" alt="0000299" width="300" height="300" border="0" /></a> <br /></span>下図に示すように、<span>(D)</span>「縦線<span>(</span>たてせん<span>)</span>」は「雨」と解読した。<span><br /></span>縦線からなる漢字【丨】の字音は「こん」と「し」である。<span><br /></span>白川静著『字統』は漢字【丨】について――上下の通ずる関係をあらわす・『説文解字』は「上下、通ずるなり。引いて上行するは、讀みて恖<span>(</span>し<span>)</span>の若<span>(</span>ごと<span>)</span>くし、引いて下行するは、讀みて退<span>(</span>很・こん<span>)</span>の若くす」という。上行の字は草が初生とされるものであるから、象形となる――と解説する。<span><br /></span>だから、<span>(D)</span>「縦線」は夏音文字の【丨<span>(</span>こん<span>)</span>】、つまり「上<span>(</span>天<span>)</span>から下<span>(</span>地<span>)</span>へと落下する雨が。下行する雨が」と解読した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000300.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000300" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000300.jpg" alt="0000300" width="300" height="411" border="0" /></a> <br /><br /></span></p>
<p>下図に示すように、「十字の銀河の胸部から鬼の横顔に似る銀河の角<span>(</span>つの<span>)</span>と額<span>(</span>ひたい<span>)</span>」にかけて「三垂（さんすい・三本の縦線）が垂れる銀河部」があり、また「十字の銀河の乳房から鬼の横顔に似る銀河の口」にかけて「三垂（三本の縦線）が垂れる銀河部」がある。<span><br /></span>この「二か所の銀河部から三垂」は「三本の線」で「大量の雨」を表現していると考えたゆえ、<span><br />(E)</span>「三垂（三本の縦線）」を「<span>(</span>雨が天から<span>)</span>大量に降るように祈<span>(</span>の<span>)</span>る」と解読した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000301" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000301.jpg" alt="0000301" width="300" height="239" border="0" /></a> <br /></span>以上のごとく、「尖石の縄文住居跡から出土した５つの石板画」は、<span><br /></span>「来る日も来る日も日照りつづく　草と木が枯れ　川の水も涸れる　天の神に　雨が　大量に降るように祈<span>(</span>の<span>)</span>る」という文を構成する夏音文字であったことになる。<span><br /><br /></span>◆尖石縄文考古館は、「５つの夏音文字の石板画」の他に、もう一つ夏音文字が線刻<span>(</span>せんこく<span>)</span>された石刻画を所蔵した。<span><br /></span>この石刻画も廃棄<span>(</span>はいき<span>)</span>されたのであろうか？　それとも残っているのかについては、わたくしは知らない。<span><br /></span>この「夏音文字の石刻画」は、下図のごとくである。<span><br /></span>下図に示したように、この夏音文字は「左手<span>(</span>東側の手<span>)</span>に弓を持つ人物」が描<span>(</span>えが<span>)</span>かれている。<span><br /></span>ゆえに、この絵柄は【射】の夏音文字を刻む遺物と考え在られる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000302.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000302" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000302.jpg" alt="0000302" width="299" height="488" border="0" /></a> <br /></span>古語では「弓を持つほうの手」を「弓手（ゆんで）」とよび、つまり「左手（ひだりて）」を意味する。</p>
<p>ゆえに、前述したように――上図の線刻画のおける「弓を持つ手」は「左手」となる。<span><br /></span>下図に示すように、「十字の銀河」は「左手<span>(</span>東側の手<span>)</span>」に「弓」を持つ。<span><br /></span>つまり、下部の「十字の銀河の図」において、【南】を正面とするゆえ【向かって左側】は【左＝東】となる。<span><br /></span>【夏音文字・甲骨文字<span>(</span>契文<span>)</span>・金文・篆文<span>(</span>てんぶん<span>)</span>や楷書など全漢字の形式】は、【左＝東・右＝西】と定まる。<span><br /></span>ゆえに、上図の石刻画の人物は、「十字の銀河」と同じく「左手に弓を持っている」ことになる。<span><br /></span>このよに、上図の石板における人物画は全漢字の形式【左＝東・右＝西】に合致している。<span><br /></span>だから、上図の「尖石縄文考古館蔵の左手に弓を持つ人物の石刻画」」は【「十字の銀河」を図案する夏音文字】であったと考えるべきことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000303.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000303" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000303.jpg" alt="0000303" width="300" height="346" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図の「左手に弓を持つ人物の石刻画」は、もしかしたならば「後期縄文時代初頭の造化の神の、神産巣日神<span>(</span>かむむすひのかみ<span>)</span>」を表現しているのではあるまいか。<span><br /></span>前ページにて現代語に訳したように、「古事記上巻　并<span>(</span>あわ<span>)</span>せて序」の冒頭文にある「参神造化<span>(</span>さんしんぞうか<span>)</span>の首<span>(</span>はじめ<span>)</span>を作<span>(</span>な<span>)</span>す」という文は、<span><br /></span>「【夏の銀河各部の形状】から土器・土偶<span>(</span>どぐう<span>)</span>を作った、前期縄文時代の天之御中主神<span>(</span>あめのみなかぬしのかみ<span>)</span>、中期縄文時代の高御産巣日神<span>(</span>たかみむすひのかみ<span>)</span>、さらに後期縄文時代初頭の神産巣日神などの約<span>2000</span>年間における造化芸術の神の伝統によって、首<span>(</span>はじめ・後期縄文時代初頭<span>)</span>に益氏が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】や【三角土地測量して精確<span>(</span>せいかく<span>)</span>な地図を作製する方法】を習得した」と説明していたことになる。<span><br /><br /></span>下図は、尖石台地<span>(</span>北緯<span>36</span>度<span>)</span>における「造化参神の図」である。<span><br /></span>下図に示すように、「十字の銀河における左手に持つ弓」の東となりは「三つ輪における、もっとも南の輪の銀河」である。<span><br /></span>下図に示すように、<span>(</span>３<span>)</span>「神産巣日神の天頂緯度線」は「三つ輪の銀河におけるもっとも南の輪の銀河中央」を貫通している。<span><br /></span>だから、尖石縄文考古館が所蔵した「左手に弓を持つ人物を描く石刻画」は「益氏が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】や【三角土地測量して精確な地図を作製する方法】を習得した、後期縄文時代の造化芸術の神・神産業巣日神」を表現するものであったと推測される。<span><br /></span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s263.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S263" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s263.jpg" alt="S263" width="237" height="314" border="0" /></a></p>
<p><br />以上のごとく、前ページにて示した「尖石の縄文住居跡から出土した５つの石板画」は「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」から図案された【夏音文字】であったと考えられる。<span><br /></span>また、「尖石縄文考古館蔵の弓手（左手）に弓を持つ人物の石刻画」も、「十字の銀河」を図案する【夏音文字】であったと考えられる。<span><br /><br /></span>前ページで解説した「尖石の縄文住居跡から出土した５つの石板画」のモデルとなった「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」は【倉頡の文字作成理論の基幹<span>(</span>きかん<span>)</span>銀河】となる。<span><br /></span>言いかえると、「三つ輪の銀河・十字の銀河・鬼の横顔に似る銀河・激流の銀河」は、<span><br /></span>倉頡伝説が「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、〔鳥獣の足跡〕をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄<span>(</span>けつじょう<span>)</span>に代<span>(</span>か<span>)</span>えたので、天は祝福して禾<span>(</span>か・穀物<span>)</span>を降らせ、死霊の感泣<span>(</span>かんきゅう<span>)</span>する声が夜<span>(</span>よ<span>)</span>な夜な聞こえたという」と説明する銀河となる。<span><br /><br /></span>前回のブログ」漢字の起源と発明を解明・<span>37</span>」にて解説したように、下図に示す「鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の怪人・倉頡」をあらわし、「銀漢<span>(</span>夏の銀河<span>)</span>各部の形状から作られた文字」を略して「漢字」となった秘密をあらわす。<span><br /></span>その証拠に、下図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「横顔の両目と、後頭部の大きく見開く目の形に相似する銀河部と、アゴにつく細い切れ長の目の形に相似する銀河部があるゆえ、合計四つの目」がある。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00009_20250214145001.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00009_20250214145001" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00009_20250214145001.jpg" alt="00009_20250214145001" width="300" height="250" border="0" /></a> <br /></span>だから、このような観点からしても「尖石の縄文住居跡から発掘された５つの石板画」と「尖石縄文考古館蔵の左手に弓を持つ人物の石刻画」は、両方とも「夏音文字の出土史料」であったと考えるべきことになる。<span><br /><br /></span>◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>17</span>」にて詳細に解説して証明したように、<span><br /></span>『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命<span>(</span>すさのおのみこと<span>)</span>の誓約説話の末部は<span><br /></span>「九州の宗像<span>(</span>むなかた<span>)</span>地方の男王の天菩比命<span>(</span>あめのほひのみこと<span>)</span>は七人の子、つまり子弟の副官・建比良鳥命<span>(</span>たけひらどりのみこと<span>)</span>が従っていた」と記述する。<span><br /></span>「不弥国<span>(</span>ふみこく<span>)</span>の宗像王の天菩比命」は「精確阿な中国海岸線地図を知っている、三角土地測量して精確な地図を作製する長官」であった。<span><br /></span>『古事記』上巻の「天照大御神と須佐之男命の誓約説話」の末部は、<span><br /></span>「宗像王の天菩比命に従う七人目の副官」は「遠江国造<span>(</span>とおとうみのみやつこ<span>)</span>の建比良鳥命」であった。<span><br /><br /></span>下に、遠江<span>(</span>現在の静岡県西部<span>)</span>の豪族・建比良鳥命とその一族が作製した、<span><br /></span>現在の静岡県浜松市浜名区の細江町<span>(</span>ほそえちょう<span>)</span>の行政区画を表示する地図を配した。<span><br /></span>現在は「静岡県浜松市浜名区細江町」であるが、その以前は「静岡県浜松市北区細江町」であった。<span><br /></span>細江町の面積はちょうど１千万坪<span>(33.9km</span><sup>２</sup><span>)</span>である。<span><br /></span>わたくしは、下の「１千万坪の細江町の地図」を「卑弥呼の地上絵」または「建比良鳥の地上絵」と呼ぶことにした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k541_20250214145101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K541_20250214145101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k541_20250214145101.jpg" alt="K541_20250214145101" width="269" height="241" border="0" /></a> <br /></span>下に、卑弥呼の地上絵における「経緯度原点のＡ地点と、滝峯不動尊<span>(</span>たきみねふどうそん<span>)</span>と八幡宮<span>(</span>はちまんぐう<span>)</span>の３地点を結ぶ大三角形」を表示した。<span><br /></span>この「大三角形」は、このブログの前ページで解説した尖石縄文考古館が常設展示する国宝「仮面の女神」が顔に被<span>(</span>かぶ<span>)</span>る「三角形の仮面」と密接に関連する。<span><br /></span>つまり、「仮面の女神の、三角形の仮面」は紀元前<span>3000</span>年頃の五帝時代初頭の黄帝<span>(</span>こうてい<span>)</span>時代より開発<span>(</span>かいはつ<span>)</span>された「精確な地図作成方法の基礎となる土地三角測量法」をあらわした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k204_20250214145201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K204_20250214145201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k204_20250214145201.jpg" alt="K204_20250214145201" width="257" height="305" border="0" /></a> </span></p>
<p>このような「大三角形」の基<span>(</span>もと<span>)</span>に三角形の網<span>(</span>あみ<span>)</span>や鎖<span>(</span>くさり<span>)</span>を形作<span>(</span>かたちづく<span>)</span>って、その頂<span>(</span>いただき<span>)</span>に三角点を埋設<span>(</span>まいせつ<span>)</span>し、ちょうど１千万坪の卑弥呼の地上絵が作製された。<span><br /></span>当時は現在のように、短期間で精確な地図を作製できる光波測距儀<span>(</span>こうはそくきょぎ<span>)</span>による土地三角測量を行うことができなかった。<span><br /></span>ゆえに、建比良鳥命とその一族は卑弥呼の地上絵の作製を<span>260</span>年頃から着手して、およそ<span>30</span>年もの長い年月を費やして<span>290</span>年頃に、卑弥呼の地上絵を完成させた。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』に記された最終年号は「魏の正始八年」、つまり西暦<span>247</span>年であり、その以後にも記事が少し続くゆえ、『魏志倭人伝』の記事は<span>250</span>年頃の様子を伝えて終わることになる。<span><br /></span>ゆえに、「１千万坪の卑弥呼の地上絵の作製」は『魏志倭人伝』の記事の終末年直後の<span>10</span>年後には早くも着手されていたことになる。<span><br /></span>通称『魏志倭人伝』と呼ばれる文献は、陳寿著<span>(</span>ちんじゅちょ<span>)</span>『三国志』魏書東夷伝<span>(</span>ぎしょとういでん<span>)</span>の末部にある〔倭人伝〕である。『三国志』魏書は<span>280</span>年～<span>289</span>年に成立した。<span><br /></span>だから、上記したように卑弥呼の地上絵は<span>260</span>年に作製が着手されて<span>290</span>年頃に完成したゆえ、<span><br /></span>『魏志倭人伝』と卑弥呼の地上絵は同時代に作成されたことになる。<span><br /><br /></span>現在まで、細江町内<span>(</span>卑弥呼の地上絵内<span>)</span>の７ヵ所の遺跡から９口の銅鐸<span>(</span>どたく<span>)</span>が出土している。<span><br /></span>これらの銅鐸を天頂緯度の測定<span>(</span>そくてい<span>)</span>と三角土地測量に使用して、ちょうど１千万坪の卑弥呼の地上絵が作製されたと考えられる。<span><br /></span>卑弥呼の地上絵内から出土した９口の近畿式・三遠式<span>(</span>さんえんしき<span>)</span>銅鐸の製作・使用年代は、<span>260</span>年～<span>290</span>年頃と推定されている。<span><br /></span>ゆえに、前述したように、卑弥呼の地上絵は<span>260</span>年～<span>290</span>年頃に作製されたことになる。<span><br /><br /></span>◆卑弥呼の地上絵内<span>(</span>細江町の中川<span>)</span>の悪ヶ谷<span>(</span>あくがたに<span>)</span>遺跡から１口の悪ヶ谷鐸<span>(</span>総高<span>64</span>㎝　明治<span>45</span>年３月２日に発見<span>)</span>が出土した。<span><br /></span>悪ヶ谷鐸は、三遠式の縦横凸線帯<span>(</span>じゅうおうとっせんたい<span>)</span>の六区画・袈裟襷文<span>(</span>けさだすきもん<span>)</span>銅鐸である。<span><br /></span>この悪ヶ谷鐸の鐸身<span>(</span>たくしん・胴体<span>)</span>には【夏音文字と同じく線描<span>(</span>せんびょう<span>)</span>の――オス鹿と二羽の鳥の絵画】が鋳出<span>(</span>ちゅうしゅつ<span>)</span>されていた。<span><br /></span>悪ヶ谷鐸は東京国立博物館が所蔵している。<span><br /><br /></span>悪ヶ谷鐸の胴体に鋳込<span>(</span>いこ<span>)</span>まれていた【オス鹿と二羽の鳥の絵画】は、<span><br /></span>中国の五経<span>(</span>ごきょう<span>)</span>の第一にあげられる古典『易経<span>(</span>えききょう<span>)</span>』繋辞上伝<span>(</span>けいじじょうでん<span>)</span>に、<span><br /></span>「精確な中国海岸線地図」について説明する、下記のごとくの文をあらわしていると考えられる。<span><br /></span>「易<span>(</span>えき<span>)</span>は天地と準<span>(</span>なぞら<span>)</span>う。故<span>(</span>ゆえ<span>)</span>に能<span>(</span>よ<span>)</span>く天地の道を弥綸<span>(</span>びりん<span>)</span>す。仰いでもって天文を観<span>(</span>み<span>)</span>、俯<span>(</span>ふ<span>)</span>してもって地理を察す。」<span><br /></span>高田真治・後藤基己<span>(</span>もとみ<span>)</span>訳者『易経<span>(</span>下<span>)</span>』<span>(</span>岩波書店発行<span>)</span>は、上記の「弥綸」という語を「つくろいおさめる、洩<span>(</span>も<span>)</span>れなく包みこむ」と訳する。<span><br /><br /></span>上記した『易経』繋辞上伝の「「易は天地と準う」という文の先頭の【易】の字について、『説文解字』は「蜥易<span>(</span>せきえき<span>)</span>」と解説する。<span><br /></span>「蜥易」は「トカゲ」を意味する。<span><br /></span>トカゲには、かならずもとのすみみかにもどるという帰家性<span>(</span>きかせい<span>)</span>がある。<span><br /></span>ゆえに、「易は天地と準う」という文は「遠くの地に旅する人や大海を渡る人は、旅の途中における各地点で観測する天頂緯度と観測地点の緯度を同一とする原理に則<span>(</span>のっと<span>)</span>れば、かならず家族が待つ家に帰還<span>(</span>きかん<span>)</span>することができる」と意味した。<span><br /><br /></span>下図に示すように、【道】の字源銀河は「オス鹿の横顔に似る銀河」である。<span><br /></span>「オス鹿の横顔に似る銀河」における「オス鹿の角<span>(</span>つの<span>)</span>」は「十字の銀河」、そして「オス鹿の横顔」は「鬼の横顔に似る銀河や、北アメリカ星雲・ペリカン星雲、長方形の暗黒天体部、長方形の暗黒天体部の南の銀河部」によって形成される。<span><br /></span>「オス鹿の横顔に似る銀河」は紀元前<span>3000</span>年頃の五帝時代初頭の黄帝時代<span>(</span>わが国の中期縄文時代初頭<span>)</span>から現在まで、中国とわが国の天頂にめぐってきた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s822.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S822" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s822.jpg" alt="S822" width="241" height="268" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図に示すように、中国の「廟島列島<span>(</span>びょうとうれっとう<span>)</span>」は「オス鹿の角」に見立てられ、「山東半島<span>(</span>さんとうはんとう<span>)</span>の地宜<span>(</span>ちぎ・平面的に図化した地図の形<span>)</span>」は「鹿の横顔」に相似する。<span><br /></span>ゆえに、下図の「廟島列島と山東半島」は【道】の字源をあらわす地宜となった。<span><br /></span>だから、悪ヶ谷鐸の胴体に鋳込まれていた「オス鹿の絵」は「天のオス鹿の横顔に似る銀河と、地の廟島列島・山東半島」、つまり上記した『易経』繋辞上伝における「天地の道」をあらわすものであったことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s821.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S821" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s821.jpg" alt="S821" width="199" height="274" border="0" /></a> <br /></span>下図に示す「山東半島の地宜」は【弥】の字源「水鳥のカンムリカイツブリの頭部の形」に相似するとも見立てられ、「山東半島の付け根から北と南へ延びる海岸線の形」は「空を飛翔<span>(</span>ひしょう<span>)</span>するカンムリカイツブリの両翼」に見立てられた。<span><br /></span>「山東半島から南に延びる海岸線」は「長江口<span>(</span>長江の河口<span>)</span>と杭州湾<span>(</span>こうしゅうわん<span>)</span>」で「裂<span>(</span>さ<span>)</span>けて破れるような形状」となるが、「杭州湾の南端からは、もとどおりにつくろいおさめる形」となって緩<span>(</span>ゆる<span>)</span>やかな曲線を描く海岸線となる。<span><br /></span>だから、『易経』繋辞上伝は「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線」を「故に能く天地の道を弥綸す」と表現した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k245_20250214145401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K245_20250214145401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k245_20250214145401.jpg" alt="K245_20250214145401" width="178" height="349" border="0" /></a> <br /></span>下図に示すように、【綸】の字をあらわす「杭州湾の地宜」は夏音文字の【呼】の字源でもある「水鳥の鳰<span>(</span>にお・カイツブリ<span>)</span>の姿」に相似する。<span><br /></span>ゆえに、悪ヶ谷鐸の胴部にある「二羽の鳥の絵柄」は【弥】の字源「カンムリカイツブリ」と、【綸】の字をあらわす「鳰の姿に相似する杭州湾の地宜」を表示するものであったと考えられる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s213.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S213" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s213.jpg" alt="S213" width="173" height="241" border="0" /></a> <br /><br /></span>以上からして、『易経』繋辞上伝の「易は天地と準<span>(</span>なぞら<span>)</span>う。故<span>(</span>ゆえ<span>)</span>に能<span>(</span>よ<span>)</span>く天地の道を弥綸<span>(</span>びりん<span>)</span>す。仰いでもって天文を観<span>(</span>み<span>)</span>、俯<span>(</span>ふ<span>)</span>してもって地理を察す」という文は、<span><br /></span>――遠くの地を旅する人や大海を渡る人が、かならず家族が待つ家に帰ることができる方法は、旅の途中で度々（たびたび）観測する地点における天頂緯度とその観測各地点の緯度は同じと定める方法のみ一つである。ゆえに、中国各地の天頂には【道】の字源銀河「オス鹿の横顔に似る銀河」が通過し、「廟島列島と山東半島」は【道】の字源地宜となり、中国全土を洩れなく包みこむ海岸線の形は【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭部と両翼の形」に相似し、「杭州湾」は【綸】の字をあらわすことになった。仰いで各地点で天頂緯度をキャッチして、その緯度を俯してもって観測地点の緯度と定めて、各地域で土地三角測量すれば、中国全土を洩れなく包みこむ精確な中国海岸線地図が作製できた――と説明していたことになる。<span><br /><br /></span>◆前述したように、わが国の男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住した益氏の王子は「精確な中国海岸線地図と、精確な地図を作製する土地三角測量」を教え広めた。<span><br /></span>ゆえに、３世紀後半<span>(260</span>年頃～<span>290</span>年頃<span>)</span>、不呼国<span>(</span>ふここく<span>)</span>・遠江の一画に１千万坪の「精確な中国海岸線地図を図化する、卑弥呼の地上絵」が作製された。<span><br /><br /></span>下図に示す「卑弥呼の地上絵における頭部と両翼<span>(</span>細江町の境界線<span>)</span>」は【弥】の字源「カンムリカイツブリの頭部と両翼の形」となって「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図」を表示している。<span><br /></span>下図の左下の「細江町の境界線」、言いかえると「細江町と隣接する引佐町<span>(</span>いなさちょう<span>)</span>の金指<span>(</span>かなさし<span>)</span>・井伊谷<span>(</span>いいのや<span>)</span>地区の地宜」は【綸】の字をあらわす「杭州湾・鳰の形」となる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k402_20250214145601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K402_20250214145601" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k402_20250214145601.jpg" alt="K402_20250214145601" width="248" height="212" border="0" /></a> <br /><br /></span>その証拠に、下図に示すように、「引佐町の金指地区・井伊谷地区の地宜」は「鳰の横顔と浮巣<span>(</span>うきす<span>)</span>の形」に設計されている。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k401_20250214145701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K401_20250214145701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k401_20250214145701.jpg" alt="K401_20250214145701" width="240" height="384" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図に示すように、<span>(</span>１<span>)</span>【弥】の「カンムリカイツブリの頭部を有する大鳥の地宜」と、<span>(</span>２<span>)</span>「都田川<span>(</span>みやこだがわ<span>)</span>の沖積平野<span>(</span>ちゅうせきへいや<span>)</span>」と、<span>(</span>３<span>)</span>「象の顔と鼻の形の地宜」とで構成される。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s183.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S183" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s183.jpg" alt="S183" width="289" height="228" border="0" /></a> <br /></span>上図における<span>(</span>３<span>)</span>「象の地宜における強力の鼻息<span>(</span>はないき<span>)</span>」を【弥】の「大鳥の地宜の西南の翼」に吹きかけて、「大鳥の地宜」における【弥】の頭を東に向くように引佐<span>(</span>いなさ<span>)</span>すると、要するに「左へ引く」と、下図における右図のごとくになる。<span><br /></span>下図の右図「【弥】の頭と東の境界線の形」は、左図の「中国全土を洩れなく包みこむ海岸線地図の形」に相似する。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000204_20250214145901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000204_20250214145901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000204_20250214145901.jpg" alt="0000204_20250214145901" width="300" height="199" border="0" /></a> <br /></span>すぐ前にて図示したように、「細江町の境界線で区切られる引佐町の金指・井伊谷地区の地宜」は夏音文字の字源【呼】の字源をあらわすとともに、【綸】の字をあらわす「鳰の姿に相似する杭州湾の地宜」に合致して「鳰の横顔と浮巣の形」となる。<span><br /></span>だから、「卑弥呼の地上絵」は『易経』繋辞上伝における<span><br /></span>「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文をあらわす図書であったことになる。<span><br /><br /></span>下図に、悪ヶ谷鐸の鐸身<span>(</span>たくしん<span>)</span>に鋳込めらた「オス鹿と、二羽の鳥の絵画」を示した。<span><br /></span>いままで解説してきたように、下図の「オス鹿の絵」は【道】つまり「天地の道」、「二羽の鳥の絵」は【弥】と【綸】をあらわしている。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000304.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000304" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000304.jpg" alt="0000304" width="300" height="178" border="0" /></a> <br /><br /></span></p>
<p>上図の「悪ヶ谷鐸のオス鹿の二羽の鳥の絵柄」は「文字」ではなく、要するに「易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す」という文をあらわす図書であった。<span><br /></span>ゆえに、この「悪ヶ鐸の絵画」は「夏音文字」の字形を用いる、あるいは「夏音文字」の字形を真似<span>(</span>まね<span>)</span>する図書であったと考えられる。<span><br /><br /></span>だから、今日まで多数出土して発見されたいわゆる「銅鐸絵画」は「夏音文字の字形に影響されて、線で描く図書」であったと考えられる。<span><br /><br /></span></p>]]></content:encoded>


<dc:subject>卑弥呼</dc:subject>
<dc:subject>邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
<dc:subject>アルファベットの起源</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源</dc:subject>
<dc:subject>日本国誕生史の証明</dc:subject>
<dc:subject>大嘗祭の証明</dc:subject>
<dc:subject>まぼろしの邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源と発明を解明す</dc:subject>

<dc:creator>大川誠一</dc:creator>
<dc:date>2025-02-14T15:01:37+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2025/01/post-29158e.html">
<title>漢字の起源と発明を解明す・37</title>
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<description>中国の漢字の歴史は今から５０００年前から始まる◆わたくしは長い間グラフィックデザ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>中国の漢字の歴史は今から５０００年前から始まる<span><br /><br /></span>◆わたくしは長い間グラフィックデザイナーを職業していたゆえ、<span>20</span>歳ころから「漢字は銀河から作られたのではないか」と想像していた。<span><br /></span>というのも、漢字のもっとも古い祖型<span>(</span>そけい<span>)</span>とされる甲骨文字<span>(</span>こうこつもじ<span>)</span>における【山】、【水】、【火】という字の形は１種のみだからである。<span><br /></span>「山」にはさまざまな形の山があり、「水」の形をデザインするならば様々な形となり、「火」の形もさまざまであるにもかかわらず字形が１種というのは――天に輝く銀河において「山」の字はここから作る、「川」の字はここの銀河部が「川」のイメージとなるからここから作る、「火」の字はこの銀河部が「火」に観<span>(</span>み<span>)</span>えるからこの銀河部から作ると定めたのであろうと考えたゆえ、<span><br /></span>【山】、【川】、【火】の甲骨文字の字形は１種になったのであろうと想像した。<span><br /><br /></span>そして、小林石寿編者『拓影展大　甲骨文字字典』<span>(</span>木耳社発行<span>)</span>には、多種様々に図案することができる事柄・事象をあらわす字においても、形が１種のみの甲骨文字が多数記載されていた。<span><br /></span>だから、「さまざまな甲骨文字は、ここの銀河部から作る」と定めていたのであろうと考えたゆえ、１種のみの字形の字が多数存在するのであろうと推理した。<span><br /><br /></span>漢和辞典で調べると、中国でもわが国同様に「漢字」を「漢字」と表記することを知った。<span><br /></span>ゆえに、漢字は【夏の銀河各部の形状】から作られて起源したと考えることにした。<span><br /></span>「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」を【夏の銀河】と呼ぶ。<span><br /></span>「春の銀河」、「秋の銀河」は中国・わが国の天頂にめぐってこないうえに各部の形状の印象は漠然<span>(</span>ばくぜん<span>)</span>として何に似ているのか想像がつかない、「冬の銀河」は天頂にめぐってくるが様々な字形を作ることができる形状に乏<span>(</span>とぼ<span>)</span>しく多数の文字を作ることができない。<span><br /></span>【夏の銀河】は中国・わが国の天頂にめぐってきて、もっとも巨大で、各銀河部がさまざまに印象ふかい形状からなるゆえ、それらの心象<span>(</span>イメージ<span>)</span>を図案すればさまざまな多数の文字を作ることができるいちがいないと――わたくしには思えた。<span><br /><br /></span>ゆえに、わたくしは「【夏の銀河】から漢字は作られた」と推定した。<span><br /></span>というのも、星座や星の写真集には「夏の銀河の写真」が多数所載<span>(</span>しょさい<span>)</span>され、また「夏の銀河」は通称「天の川」と呼ばれ、また「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれるからである。<span><br /></span>だから、「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記したと、わたくしは考えた。<span><br /></span>また、【夏】の字は「中国の人」を意味する。<span><br /></span>ゆえに、「【夏の銀河】から文字を作った」ゆえ【夏】の字は「中国の人」を意味することになったのであろうとわたくしは考えた。<span><br /></span>また、三皇時代、五帝時代の後の時代は「夏代」であることからしても、<span><br /></span>【夏の銀河】から王朝名が「夏」になったのであろうと思えたゆえ、「漢字は【夏の銀河】の各部の形状から作られた」と考えることにした。<span><br /><br /></span>下に、【夏の銀河の写真】を配した。<span><br /></span>この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭<span>(</span>ふじいあきら<span>)</span>氏が撮影した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/ginga00_20250106150801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Ginga00_20250106150801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/ginga00_20250106150801.jpg" alt="Ginga00_20250106150801" width="300" height="438" border="0" /></a> <br /><br /></span>このブログ「漢字の起源と発明を解明す」では、前回<span>(36</span>回<span>)</span>までにおいて、<span><br /></span>「今から約<span>5000</span>年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝<span>(</span>こうてい<span>)</span>につかえていた倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は【夏の銀河各部の形状から文字<span>(</span>漢字<span>)</span>作成する方法<span>(</span>理論<span>)</span>】を発明した」と解説して証明してきた。<span><br /></span>この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、<span><br /></span>卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝<span>(</span>ぎしわじんでん<span>)</span>』である。<span><br /></span>江戸時代中期に生存した新井白石<span>(1657</span>―<span>1725</span>年<span>)</span>以来今日まで約<span>300</span>年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。<span><br /></span>しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法<span>(</span>理論<span>)</span>】を説明する聖典<span>(</span>せいてん<span>)</span>であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書<span>(</span>秘密の書物<span>)</span>」であった。<span><br /></span>〔注　上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『<a href="https://amzn.to/4jIa6Tg">大嘗祭の証明</a>』<span>(</span>ｋｉｎｄｌｅ版<span>)</span>にて詳細に解説して証明した。〕<span> <br /><br /></span>現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽<span>(</span>こうとうむけい<span>)</span>の作り話である」と断定する。<span><br /></span>しかし、この定説はまちがっている。<span><br /></span>というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。<span><br /><br /></span>◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき・紀元前<span>2050</span>年頃<span>)</span>、帝益<span>(</span>えき<span>)</span>の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進<span>(</span>ほくしん<span>)</span>して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住した――という歴史を説明する記事がある。<span><br /><br /></span>益氏の王子と若者たちは、<span><br />(</span>１<span>)</span>三皇時代の易占<span>(</span>うらない<span>)</span>に用いる記号の結縄<span>(</span>けつじょう<span>)</span>、<span><br />(</span>２<span>)</span>五帝時代の最初の漢字の書契<span>(</span>しょけい<span>)</span>、<span><br />(</span>３<span>)</span>夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき<span>)</span>の夏音文字<span>(</span>かおんもじ<span>)</span>、<span><br />(</span>４<span>)</span>黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、<span><br />(</span>５<span>)</span>倉頡の文字作成理論、<span><br />(</span>６<span>)</span>精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法<span><br /></span>を教え広めた。<span><br /><br /></span>紀元前<span>21</span>世紀の夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき<span>)</span>から卑弥呼が生存した２世紀末の後期弥生時代までの約<span>2200</span>年間、<span><br /></span>上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。<span><br /></span>これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。<span><br /></span>また、夏音文字は<span>712</span>年１月<span>28</span>日に元明<span>(</span>げんめい<span>)</span>天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。<span><br /></span>したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀あるいは６世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。<span><br /><br /></span>◆中国の正史『新唐書<span>(</span>しんとうじょ<span>)</span>』日本伝には――<span>702</span>年に九州の港を出帆<span>(</span>しゅっぱん<span>)</span>した第７回遣唐使<span>(</span>けんとうし<span>)</span>が「後稍<span>(</span>のちやや<span>)</span>、夏音<span>(</span>かおん<span>)</span>を習<span>(</span>なら<span>)</span>う<span>)</span>」と中国に報告した――という記事がある。<span><br /></span>この第７回遣唐使の中国に報告した「後稍、夏音を習う」という言は――<span>672</span>年におきた壬申<span>(</span>じんしん<span>)</span>の乱の後、天武天皇<span>(</span>てんむてんのう<span>)</span>は「稍<span>(</span>やや、少しだけ<span>)</span>、夏音文字を復興する歴史書を編纂<span>(</span>へんさん<span>)</span>せよ」と命令された――と意味した。<span><br /><br /></span>壬申の乱の９年後の<span>681</span>年<span>(</span>天武天皇<span>10</span>年<span>)</span>３月<span>17</span>日、天皇は川島皇子<span>(</span>かわしまのみこ<span>)</span>以下十二人に命じて「帝紀<span>(</span>ていき<span>)</span>及び上古の諸事<span>(</span>しょじ<span>)</span>を記定<span>(</span>きてい<span>)</span>させた。<span><br /></span>ゆえに、上記した「稍々<span>(</span>やや<span>)</span>、夏音を習うようにせよ<span>(</span>復興するようにせよ<span>)</span>」という天武天皇の命令は、<span>681</span>年<span>(</span>天武天皇<span>10</span>年<span>)</span>の３月<span>17</span>日の、川島皇子以下十二人に「帝紀及び上古の諸事を記定せよ」と命令した時に述べた言であったと考えられる。<span><br /><br /></span>上記の「帝紀及び上古の諸事の記定」の原文は「令記定帝紀及上古諸事」である。<span><br /></span>この原文の「令<span>[</span>記<span>]</span>定帝紀及上<span>[</span>古<span>]</span>諸<span>[</span>事<span>]</span>」のうちの<span>[</span>古<span>]</span>・<span>[</span>事<span>]</span>・<span>[</span>記<span>]</span>の３字をもって、『古事記』という書名が成立したという一説が存在する。<span><br /></span>この一説は正しく、きっと『古事記』という書名は「令<span>[</span>記<span>]</span>定帝紀及上<span>[</span>古<span>]</span>諸<span>[</span>事<span>]</span>」のうちの<span>[</span>古<span>]</span>・<span>[</span>事<span>]</span>・<span>[</span>記<span>]</span>の３字をもって成立したにちがいない――とわたくしは推断<span>(</span>すいだん<span>)</span>した。<span><br /><br /></span>天武天皇の川島皇子以下十二人に歴史書編纂事業を命じた<span>681</span>年から<span>3</span>１年後の<span>712</span>年、また「後稍、夏音を習う」と中国に報告した第７回遣唐使が九州の港を出帆してから<span>10</span>年後の<span>712</span>年１月<span>28</span>日に『古事記』は完成して元明天皇<span>(</span>げんめいてんのう<span>)</span>に献上された。<span><br /></span>『古事記』の最初にある【『古事記』の序】は非常に特殊な「序」である。<span><br /></span>『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から構成されるが、【『古事記』の序】は「上巻だけの序」で〔中巻・下巻とは無関係〕であり、言いかえると【『古事記』の序】は「中巻・下巻の序」ではない。<span><br /></span>というのも、『古事記』上巻の随所<span>(</span>ずいしょ<span>)</span>に〔音〕という注がつく「夏音文字」が多数記されているからである。中巻と下巻には〔音〕という注がつく「夏音文字」はまったく記されていない。<span><br /></span>これゆえ、「『古事記』の序」は非常に難解な文章を用いて、【上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音文字】について説明している。<span><br /></span>この「『古事記』の序」は「古事記上巻　并<span>(</span>あわ<span>)</span>せて序」と題する。<span><br /><br /></span>「古事記上巻　并せて序」の冒頭文は、下記のごとくである。<span><br /></span>「臣安万呂言<span>(</span>しんやすまろまを<span>)</span>す。夫<span>(</span>そ<span>)</span>れ混元既<span>(</span>こんげんすで<span>)</span>に、気象未<span>(</span>いま<span>)</span>だ効<span>(</span>あらは<span>)</span>れず。名も無く為<span>(</span>わざ<span>)</span>も無し。誰<span>(</span>たれ<span>)</span>か其<span>(</span>そ<span>)</span>の形を知らむ。然<span>(</span>しか<span>)</span>れども乾坤<span>(</span>けんこん<span>)</span>初めて分かれて、参神造化<span>(</span>さんしんぞうか<span>)</span>の首<span>(</span>はじめ<span>)</span>を作<span>(</span>な<span>)</span>す。」<span><br /></span>「古事記上巻　并せて序」の全文に目を通して――上記の冒頭文を現代語に訳すると下記のごとく説明していることになる。<span><br /></span>「元明天皇陛下に臣下の太安万侶<span>(</span>おおのやすまろ<span>)</span>が申し上げます。縄文時代草創期・早期においては、【天頂にめぐってきた、夏の銀河の形状】は混沌<span>(</span>こんとん<span>)</span>として凝<span>(</span>こ<span>)</span>り固まっていましたが、気や象<span>(</span>かたち<span>)</span>がいまだ明確に現れていませんでした。そのため、天頂にめぐってきた銀河部には名称もなく、どのような働きをするものか土器や土偶<span>(</span>どぐう<span>)</span>を作って表現することができませんでした。ゆえに、『古事記』を編纂する現在、誰ひとりも縄文時代草創期・早期においてわが国の天頂にめぐってきた銀河部の形について知っていません。しかしながら、前期縄文時代初頭になって、わが国の天頂に乾坤つまり天と地のイメージを有する銀河部がめぐってきたため、初めて天と地に分かれて認識できるようになって、天と地を表現する土器や土偶が作られるようになり――そして、前期縄文の天之御中主神<span>(</span>あめのみなかぬしのかみ<span>)</span>、中期縄文の高御産巣日神<span>(</span>たかみむすひのかみ<span>)</span>、後期縄文初頭の神産巣日神<span>(</span>かむむすひのかみ<span>)</span>の参柱<span>(</span>みはしら<span>)</span>の【夏の銀河各部の形状】から土器・土偶を作る芸術神<span>(</span>造化の神<span>)</span>における<span>(</span>約<span>2000</span>年間<span>)</span>の伝統によって、首<span>(</span>はじめ・後期縄文時代初頭<span>)</span>において、益氏<span>(</span>えきし<span>)</span>が教えひろめた【倉頡の文字作成理論】や【夏の銀河各部の形状から作られた夏音文字】を習得することができました。」<span><br /><br /></span>◆『魏志倭人伝』には「古自<span>(</span>いにしえよ<span>)</span>り以来、其<span>(</span>そ<span>)</span>の使<span>(</span>し<span>)</span>、中国に詣<span>(</span>いた<span>)</span>るに皆<span>(</span>みな<span>)</span>、自<span>(</span>みずか<span>)</span>ら大夫<span>(</span>だいふ<span>)</span>と称す」という記事がある。<span><br /></span>日本列島と中国の中間の大海を越えて中国に到着した使者の「大夫」は、万葉仮名では「ますらを」と読まれ、今日の「ますらお」は「益荒男」と表記される。<span><br /></span>ゆえに、「大夫・益荒男」という語は「日本列島と中国を隔<span>(</span>へだ<span>)</span>てる、荒波逆巻<span>(</span>あらなみさかま<span>)</span>く大海を横断<span>(</span>おうだん<span>)</span>した益氏の王子と若者たちのごとく、大海を越えて中国に到着した勇敢<span>(</span>ゆうかん<span>)</span>な男性」を意味した。<span><br /><br /></span>前記したように、『魏志倭人伝』には――夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき・紀元前<span>2050</span>年頃<span>)</span>、帝益の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進<span>(</span>ほくしん<span>)</span>して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住した――という歴史を説明する記事がある。<span><br /></span>わがブログ「漢字の起源と発明を解明す」の<span>30</span>回～<span>32</span>回の３回をもって詳細に解説し証明したように、<span><br /></span>『魏志倭人伝』の後半部にある、<span><br /></span>「裸国<span>(</span>らこく<span>)</span>・黒歯国<span>(</span>こくしこく<span>)</span>有り。復<span>(</span>ま<span>)</span>た其の東南に在りて船行<span>(</span>せんこう<span>)</span>一年にして参問<span>(</span>さんもん<span>)</span>至る可<span>(</span>べ<span>)</span>き。倭の地を参問するに、海中洲島<span>(</span>かいちゅうしゅうとう<span>)</span>の上に絶在<span>(</span>ぜつざい<span>)</span>し、或<span>(</span>ある<span>)</span>いは絶え或いは連なり、周旋<span>(</span>しゅうせん<span>)</span>五千余里可<span>(</span>ばか<span>)</span>り。」<span><br /></span>という上記の文章は――益氏の王子と若者たちが中期縄文時代末<span>(</span>紀元前<span>2050</span>年頃<span>)</span>の夏代黎明期<span>(</span>かだれいめいき<span>)</span>に、男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住したと伝えている。<span><br /><br /></span>司馬遷<span>(</span>しばせん<span>)</span>著『史記』の陳杞世家<span>(</span>ちんきせいか・第六<span>)</span>には、下記のような記事がある。<span><br /></span>「帝益の子孫はどこに封ぜられたか不明である。」<span><br /></span>益氏の子孫への血を受け継ぐ王子と若者たちが日本列島の地に移住したため、中国に残った年寄りたちの益氏は衰退し滅亡した。だから、中国では益氏の子孫はどこに封じられたか不明となったのである。<span><br /><br /></span>◆益氏が教え広めた【夏音文字】について、白川静著『字統』<span>(</span>平凡社発行<span>)</span>は「わが国の漢字音」と題して、９ページの終わりから３行目～<span>10</span>ページの始めから３行目までで、下記のごとく指摘する。<span><br /></span>「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そして、その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」<span><br /><br /></span>上記末の「その結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘される漢字音が、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく夏音<span>(</span>夏音文字の字音<span>)</span>である。<span><br /></span>『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がつく【夏音文字の字形】は「夏音文字の字形の原形」ではなく「楷書を音符・意符」に用いて記される。<span><br /></span>つまり、『魏志倭人伝』に記される「夏音文字」は「楷書」で残っており、この「楷書」の字源・字形・字義から「夏音文字の字源、字形<span>(</span>字源となる銀河各部の形<span>)</span>、原義<span>(</span>甲骨文字の以前の字義<span>)</span>」が解明できる仕組みになっている。<span><br /></span>そして、白川静著『字統』が指摘するように、【『古事記』上巻の随所に記される、〔音〕という注がつく夏音文字の字音】が「いま残されている漢字の字音において、最古の漢字音」である。<span><br /><br /></span>漢字の〔最も古い字形として残った甲骨文字の字音〕は、不明で現在まで残っていない。<span><br /></span>中国における最古の漢字音は、「上古音<span>(</span>じょうこおん<span>)</span>」と呼ばれる。<span><br /></span>下図に示すように、「上古音」の最古は紀元前<span>1046</span>年から始まる周代初頭<span>(</span>しゅうだいしょとう<span>)</span>の字音である。<span><br /></span>下図に示すように、『古事記』上巻に残っている夏音文字は紀元前<span>2050</span>年頃の夏代黎明期にわが国が習得した漢字音である。<span><br /></span>したがって、中国の最古の字音よりもわが国の夏音文字の字音は約<span>1000</span>年も古い。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/photo_20250106151001.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Photo_20250106151001" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/photo_20250106151001.jpg" alt="Photo_20250106151001" width="299" height="424" border="0" /></a> <br /><br /></span>実は、わたくしは白川静著『字統』<span>(</span>平凡社発行・<span>1985</span>年１月７日　初版第八刷<span>)</span>を、<span>1985</span>年の<span>11</span>月か<span>12</span>月ころに購入した。<span><br /></span>ゆえに、夏代がいつから始まるのか確かな年数を知っていなかった。<span><br /></span>陳舜臣<span>(</span>ちんしゅんしん<span>)</span>著『中国の歴史　１　神話から歴史へ』<span>(</span>平凡社発行・<span>1981</span>年１月<span>14</span>日　初版第四刷<span>)</span>の初頭部には中国の三皇・五帝時代や古代文明の年代が記されていたゆえ、これらの記事をもとづいて「夏代<span>(</span>夏王朝<span>)</span>の始まり」は紀元前<span>2000</span>年頃と推定した。<span><br /></span>というのも、後述する司馬遷著『史記』五帝本紀<span>(</span>第一<span>)</span>に記される帝堯代<span>(</span>ていぎょうだい<span>)</span>の四時<span>(</span>しじ・四季<span>)</span>の天文説明における春分点の位置が「紀元前<span>2500</span>年頃」を表示したからである。<span><br /></span>ゆえに、帝堯の次が帝舜<span>(</span>ていしゅん<span>)</span>の時代、その次が帝禹<span>(</span>ていう<span>)</span>や息子の帝啓<span>(</span>ていけい<span>)</span>が統治した夏代始めとなるゆえ――夏代は紀元前<span>2000</span>年頃から始まるであろうと推理した。<span><br /><br /></span>しかし、<span>2000</span>年の<span>11</span>月<span>10</span>日の朝日新聞の朝刊第３面の「中国最古の夏王朝　紀元前<span>2070</span>年成立」という記事によって、夏代の始まりは紀元前<span>2070</span>年であることを知った。<span><br /></span>この記事は、下記のごとく説明していた。<span><br /></span>――「夏商周断代工程」と名づけられた研究計画は、中華人民共和国の国家的プロジェクトとして<span>1996</span>年にスタートした。歴史学、考古学、天文学、科学測定などの専門家約<span>200</span>人が４年がかりで取り組んだ。<span><br /></span>中国古代王朝の年代確定作業を進めてきた専門家チームは、<span>2000</span>年<span>11</span>月９日、「夏王朝」は紀元前<span>2070</span>年に成立、紀元前<span>1600</span>年に「商」<span>(</span>殷<span>)</span>に滅ぼされ、商は紀元前<span>1046</span>年に「周」に滅ぼされたという結論に達したと発表した。<span><br /><br /></span>上記のごとく、「紀元前<span>2070</span>年から夏代が始まる」という説は確かな意見である。<span><br /></span>ゆえに、司馬遷著『史記』夏本紀<span>(</span>第二<span>)</span>の記事による「帝益の箕山<span>(</span>きざん<span>)</span>の南に隠棲<span>(</span>いんせい<span>)</span>」、そして「帝禹<span>(</span>ていう<span>)</span>の遺志<span>(</span>いし<span>)</span>・氏族共同政治体制を新天地・日本列島にて継続させる事業を益氏の王子と若者たちによって決行されて、彼らが大海を越えて九州に上陸して男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住して【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】などを教え広めるまでには約<span>20</span>年の年月が費<span>(</span>つい<span>)</span>やされた――と推定して、紀元前<span>2050</span>年頃から日本列島各地の氏族たちは【倉頡の文字作成理論】や【夏音文字】などを習得しはじめたと、わたくしは考えることにした。<span><br /><br /></span>◆前述したように、わたくしは司馬遷著『史記』五帝本紀<span>(</span>第一<span>)</span>に記される「帝堯代<span>(</span>ていぎょうだい<span>)</span>初頭の四時<span>(</span>しじ・春分、夏至、秋分、冬至<span>)</span>の夕刻における星の位置の説明記事に注目して、<span><br /></span>帝堯代初頭は紀元前<span>2500</span>年頃であることを知った。<span><br /></span>それというのも、司馬遷著『史記』五帝本紀における帝堯代初頭の四時の夕刻の星空を説明する記事における、春分点の位置が紀元前<span>2500</span>年頃を表示するからであった。<span><br /><br /></span>上記した司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代初頭の天文記事は、下記のごとく記述する。<span><br /></span>「日は中<span>(</span>ちゅう<span>)</span>、星は鳥、以<span>(</span>もっ<span>)</span>て中春<span>(</span>ちゅうしゅん<span>)</span>を殷<span>(</span>ただ<span>)</span>す。」<span><br /></span>上記の文を現代語に訳すると「昼夜が同じ長さで、【鳥】と名づけた星が夕刻<span>(</span>午後６時<span>)</span>に子午線通過しようとする時を測量して、春分点を正し定めさせた」となる。<span><br /></span>上記した「星は【鳥】」という星は、光度が<span>1.8</span>等の、北斗七星の第５星のおおぐま座のε<span>(</span>エプシロン<span>)</span>星である。<span><br /></span>わたくしは、上記の帝堯代の春分の日の夕刻の天文図から、春分点の位置で帝堯代初頭の年代を算出<span>(</span>さんしゅつ<span>)</span>するために、紀元前<span>2250</span>年と紀元前<span>2500</span>年の春分点を設定<span>(</span>せってい<span>)</span>した２種の天文図を作成した。<span><br /></span>この天文図の作成方法については、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>35</span>」の末部に、過去の春分点の位置を知る算出方法について「歳差状況図<span>(</span>天の北極の位置図<span>)</span>」を用いて詳細に説明した。<span><br /><br /></span>この結果、『史記』五帝本紀に記述された帝堯代初頭の春分の日の夕刻の星空の状況が表示する春分点は現在から黄道の北極を中心とした角距離<span>63</span>度過去へもどった紀元前<span>2500</span>年の天文図の位置に合致した。<span><br /></span>ゆえに、わたくしは帝堯代初頭を紀元前<span>2500</span>年頃であったと定めた。<span><br /></span>下図は、帝堯代の春分の日の夕刻の星空図である。<span><br /></span>下図が示し、また『史記』五帝本紀の帝堯代の記事が説明するとおり――紀元前<span>2500</span>年・帝堯代の春分の日の夕刻には【鳥】と名づけられた「北斗七星の第５星のおおぐま座ε星」が南中<span>(</span>子午線通過<span>)</span>しようとしていた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000249_20250106151201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000249_20250106151201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000249_20250106151201.jpg" alt="0000249_20250106151201" width="300" height="299" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆この帝堯代初頭の春分点による時代年数の解明に先立って、<span><br /></span>わたくしは、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭氏に【夏の銀河】の提供を依頼する事情について説明する書状を送ると――藤井氏は、早速、このブログ初頭に配した【夏の銀河の写真】を送付してくださった。<span><br /><br /></span>そこで、わたくしは藤井旭氏が提供してくださった【夏の銀河の各部】に、下記のごとく名称をつけることにした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00003_20250106151201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00003_20250106151201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00003_20250106151201.jpg" alt="00003_20250106151201" width="299" height="433" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図のごとく、わたくしは【夏の銀河の写真】の左上から、「三つ輪の銀河」、「十字の銀河」、「激流の銀河」、そして「鬼の姿に似る銀河」と名称をつけたとき、<span><br /></span>「頭に角<span>(</span>つの<span>)</span>を生<span>(</span>は<span>)</span>やす鬼の横顔に相似する銀河」には「目が四つ存在すること」に気づいた。そこで、「鬼の姿に似る銀河」を「鬼の横顔に似る銀河」と「鬼の身に相当する銀河」に二分することにした。<span><br /></span>下図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河」には「横顔の両目と、後頭部の大きく見開く目の形に相似する銀河部と、アゴにつく細い切れ長の目の形に相似する銀河部があるゆえ、合計四つの目」がある。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00009_20250106151301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00009_20250106151301" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00009_20250106151301.jpg" alt="00009_20250106151301" width="300" height="250" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図の「四つ目の、鬼の横顔に似る銀河」こそ、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」の正体であると、わたくしは直感した。<span><br /></span>学者たちは、下図に示す後漢の墓の内部から発見された石に刻みつけた画像や古代絵画の「四つ目の、倉頡の肖像画」を見て「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説は荒唐無稽<span>(</span>こうとうむけい<span>)</span>の作り話だ」と早合点して軽率<span>(</span>けいそつ<span>)</span>に断定した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s64_20250106151401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S64_20250106151401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s64_20250106151401.jpg" alt="S64_20250106151401" width="180" height="219" border="0" /></a> <br /><br /></span>しかし、【夏の銀河】における「鬼の横顔に似る銀河」には、石に刻まれた画や古代絵画と異なった箇所の「鬼の横顔に似る銀河の後頭部とアゴに、目に相似する形の銀河部」がある。<span><br /></span>つまり、「古代絵画の倉頡の肖像画」と「鬼の横顔に似る銀河における、四つ目の銀河」は、前者が虚・後者が実<span>(</span>本物<span>)</span>で、前者と後者は別物ということになる。<span><br /></span>倉頡伝説における「四つ目の怪人・倉頡の本物」は「四つ目の銀河<span>(</span>鬼の横顔に似る銀河<span>)</span>」であり、<span><br /></span>いっぽう、古代絵画の「倉頡の肖像画」は「贋物<span>(</span>にせもの<span>)</span>」であったことになる。<span><br /></span>学者たちは「四つ目の怪人・倉頡の贋物<span>(</span>倉頡の肖像画<span>)</span>」を見て「人間には目が四つ無い。だから、倉頡伝説は荒唐無稽の作り話」と早合点して断定したことになる。<span><br /><br /></span>◆「四つ目の怪人・倉頡の銀河<span>(</span>鬼の横顔に似る銀河<span>)</span>」の東となりは「十字の銀河」である。<span><br /></span>下図に示すように、「十字の銀河の左半身<span>(</span>東側<span>)</span>は男性の姿」のイメージとなるが、「十字の銀河の西半身<span>(</span>西側<span>)</span>には乳房・妊婦の腹部<span>(</span>おなか<span>)</span>・子宮に相当する箇所」がある。<span><br /></span>ゆえに、わたくしは「十字の銀河」を「女体<span>(</span>にょたい<span>)</span>」に相似すると見立てた。<span><br /></span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k95.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K95" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k95.jpg" alt="K95" width="135" height="209" border="0" /></a></p>
<p><br />時は<span>1980</span>年代であった。<span><br />1970</span>年代以来、世には「ヒトの１つの受精卵<span>(</span>じゅせいらん<span>)</span>の核<span>(</span>かく<span>)</span>にふくまれているＤＮＡの量は、塩基<span>(</span>えんき<span>)</span>の４文字で約<span>70</span>億字の遺伝的命令文に相当する。この量はアルファベット文字でほぼ<span>30</span>億字の文章となり、大英博物館百科事典の<span>15</span>組分・約<span>360</span>冊に匹敵<span>(</span>ひってき<span>)</span>する」などという情報が満ちあふれていた。<span><br /></span>この「ＤＮＡ遺伝子学の小さな場に大きな情報が入っている」という発見に影響されたわたくしは、「十字の銀河にある子宮に相当する箇所」を「十字の銀河の子宮」と名づけることにした。<span><br /></span>そして、現代の分子生物学のＤＮＡ遺伝子理論よりもに先駆<span>(</span>さきが<span>)</span>けて――倉頡は「現代のＤＮＡ遺伝子理論と同様に、小さな場に大きな情報が入っていると考える「一即多、多即一」という文字作成理論を発明した」と――わたくしは考えることにした。<span><br /></span>これゆえ、わたくしは「女体に相似する十字の銀河」は「【夏の銀河各部の形状】から作られたすべての文字が生まれる母体」と考えることにした。<span><br /><br /></span>前述したように、わたくしはグラフィックデザイナーを職業としていたため、当時ブームとなるＴ・Ｒ・ブレークスリー著・大前研一訳編『右脳革命』<span>(</span>ブレジデント社発行　<span>1982</span>年３月<span>25</span>日第<span>16</span>刷<span>)</span>を愛読していた。<span><br /></span>『右脳革命』が推奨<span>(</span>すいしょう<span>)</span>しているように、「感覚<span>(</span>イメージ<span>)</span>を優先して右脳思考」すると、【夏の銀河各部の形状】は「多数の甲骨文字や周代に作られた金文の字形」に相似すると感じた。<span><br /></span>ゆえに、わたくしは「殷代<span>(</span>いんだい<span>)</span>後半から出現した甲骨文字と周代の金文は共に、現代の漢字と異なり、言葉をあらわす記号として作られた左脳思考による文字」ではないと考えることにした。<span><br /></span>いいかえると、「甲骨文字と金文は感覚<span>(</span>イメージ<span>)</span>を優先して芸術的造形的に考えて作られた右脳思考の作品、つまり右脳思考によって作られた文字」と、わたくしは考えることにした。<span><br /></span>そして、わたくしは【夏の銀河各部の形状】から右脳思考を発揮<span>(</span>はっき<span>)</span>すれば「多数の文字」が作ることができると感じ、また「十字の銀河の子宮」は「【夏の銀河各部の形状から作られた全文字を生む子宮】に見立てることができる推理した。<span><br /></span>だから、「倉頡は【夏の銀河各部の形状から文字を作成する、一即多、多即一の理論】を発明したと確信した。<span><br /><br /></span>下図に示すように、「腹部<span>(</span>おなか<span>)</span>に子どもが宿る形」に図案される【文】の金文は「妊娠した女性の腹部<span>(</span>おなか<span>)</span>のように腹部が丸い十字の銀河」から作られた――とわたくしは解釈した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k35.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K35" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k35.jpg" alt="K35" width="213" height="224" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図に示すように、【字】の金文の上部の【宀<span>(</span>べん<span>)</span>】は「十字の銀河」が字源・字形・字義となり、下部の【子】は「胎児・出産児・乳児などの姿に相似する、鬼の姿に似る銀河」が字源・字形・字義となった――と解した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k34.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K34" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k34.jpg" alt="K34" width="219" height="240" border="0" /></a> <br /></span>というのも、『説文解字』は【字】の字について「乳<span>(</span>にゅう<span>)</span>するなり」と解説するからである。</p>
<p>この「乳するなり」という解説を「乳房を吸う」と解釈して、下図に示すように――【「乳児の姿に似る鬼の姿に似る銀河」が「十字の銀河の乳房」を吸う様子】――に見立てた。<span><br /></span>ゆえに、前ページに図示したように、【宀<span>(</span>べん<span>)</span>】<span>(</span>字義は「産屋<span>(</span>うぶや<span>)</span>」<span>)</span>の字源は「十字の銀河」、【子】の字源は「鬼の姿に似る銀河」と解釈して、【字】の字源は「十字の銀河と鬼の姿に似る銀河」と断定した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000289.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000289" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000289.jpg" alt="0000289" width="300" height="272" border="0" /></a> <br /><br /></span>あるいは、「古事記上巻　并<span>(</span>あわ<span>)</span>せて序」は「稗田阿礼<span>(</span>ひえだのあれ<span>)</span>の誦習<span>(</span>しょうしゅう<span>)</span>」について、<span><br /></span>「目に度<span>(</span>わた<span>)</span>れば口に誦<span>(</span>よ<span>)</span>み、耳に払<span>(</span>ふ<span>)</span>るれば心に勒<span>(</span>しる<span>)</span>す」と説明しているが、<span><br /></span>下図のごとく、上記の文をわたくしは右脳思考して銀河の形状図で表現することにした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000164_20250106152001.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000164_20250106152001" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000164_20250106152001.jpg" alt="0000164_20250106152001" width="300" height="295" border="0" /></a> <br /><br /></span>「目に度れば」という文は「鬼の横顔に似る銀河の両目から後頭部につく大きく見開いた目の形をした銀河部・アゴにつく細い切れ長の目の形をした銀河部まで」が表示し、「口に誦み」は「鬼の横顔に似る銀河の口」が示す。<span><br /></span>そして、「耳に払るれば」は「鬼の横顔に似る銀河の〔耳〕に相当する箇所にある北アメリカ星雲は耳の形に相似しない」ゆえ、「払って落したごとく、鬼の横顔に似る銀河の耳は存在しない」と示している。<span><br /></span>「心に勒す」は「鬼の身に相当する銀河の心臓部にある、心に記し刻む」と意味する。<span><br /></span>つまり、「耳に払るれば心に勒す」は――【夏の銀河各部の形状】を見て、そのイメージをあらわす言を口から小声を出して歌うように誦<span>(</span>よ<span>)</span>んで、耳を払い落すようにして雑音を入れずにそのイメ―ジを心に記し刻むようにすれば、【夏の銀河各部の形状から作られたすべての夏音文字】は「十字の銀河の子宮」から生まれたものであるゆえ、すべての夏音文字の字源・字形・字義は知ることができる――と意味したことになる。<span><br /></span>つまり、稗田阿礼が暗誦<span>(</span>あんしょう<span>)</span>していた夏音文字で記されていた『古事記』上巻の原典『上古の諸事』の文章は――今日の流行歌手が<span>500</span>曲～<span>600</span>曲もの多数の詞を暗誦しているように、記憶力を増大させるために小声に出して歌う<span>(</span>これを、「口に誦み」と表現した<span>)</span>方法で、【夏の銀河各部の形状】を情景化して、この情景を心象化<span>(</span>しんしょうか<span>)</span>して覚えていたことになる。<span><br /><br /></span>◆以上のごとくからして、「十字の銀河」と「四つ目の怪人・倉頡の銀河<span>(</span>鬼の横顔に似る銀河<span>)</span>」は、【夏の銀河各部の形状から作られた全漢字の中枢部<span>(</span>ちゅうすうぶ<span>)</span>ということになった。<span><br /></span>「十字の銀河の形」は【大】字形である。<span><br /></span>前ページで指摘したように、『魏志倭人伝』には「大夫」という語が記される。<span><br /></span>「大夫」の【夫】の字形は上部の「簪<span>(</span>かんざし<span>)</span>」をあらわす図書【一】に下部の【大】が加わって成立する。<span><br /><br /></span>「字書の聖典」と呼んで古代の人々が尊重した『説文解字<span>(</span>せつもんかいじ<span>)</span>』は【夫】の字について、<span><br /></span>「丈夫<span>(</span>じょうぶ<span>)</span>なり。大に従ふ。一を以<span>(</span>もっ<span>)</span>て簪<span>(</span>しん<span>)</span>に象<span>(</span>かたど<span>)</span>るなり。周制<span>(</span>しゅうせい<span>)</span>。八寸を以て尺と為<span>(</span>な<span>)</span>し、十尺を丈と為す。人は長<span>(</span>たけ<span>)</span>八尺なり。故に丈夫といふ」と解説する。<span><br /></span>周制の「一尺」は今日の「<span>22.5</span>㎝」である。<span><br /></span>そうすると、上記した「人は長八尺なり。ゆえに丈夫といふ」という『説文解字』の解説は――【夫】の字源となる「十字の銀河」の見掛けの大きさは、健康で丈夫な背の高い男性の、八尺<span>(180</span>㎝<span>)</span>くらいの身長とほぼ同じである――と説明していることになる。<span><br /><br /></span>上記したように、『説文解字』は「十字の銀河の見掛けの大きさ<span>(</span>身長<span>)</span>」を「十尺を丈<span>(</span>一丈<span>)</span>と為す。人の長八尺なり」と指摘する。<span><br /></span>ゆえに、「十字の銀河の見掛けの大きさ」は下図のごとくになる。<span><br /></span>つまり「十字の銀河の頭部から足までの身長」は「八尺・八度」、「十字の銀河の頭が被<span>(</span>かぶ<span>)</span>る飾り」が「二尺・二度」、ゆえに「十字の銀河の頭が被る飾りから足までの大きさ」は「一丈・十尺・十度」ということになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000075_20250106152001.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000075_20250106152001" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000075_20250106152001.jpg" alt="000075_20250106152001" width="300" height="288" border="0" /></a> </span></p>
<p>わたくしは、藤井旭氏から提供された【夏の銀河の写真における「十字の銀河」】の身長を、つまり上図に示した「十字の銀河の頭が被る飾りから足まで」を――印刷用製版カメラで「<span>10</span>㎝<span>(10</span>度<span>)</span>」に拡大して「１㎝・１度・１尺」になるようにした。<span><br /></span>次に、天の北極と春分点の位置が紀元前<span>3500</span>年と紀元前<span>3000</span>年となる２種の天文図を作製した。<span><br /></span>最初に、紀元前<span>3000</span>年の天文図で、黄帝陵<span>(</span>黄帝を祀る廟と墓<span>)</span>と黄帝軍が遠征した長江口<span>(</span>長江の河口中央<span>)</span>の緯度線<span>(</span>天頂緯度線<span>)</span>と、全漢字の中枢部となる「四つ目の怪人・倉頡の銀河<span>(</span>鬼の横顔に似る銀河<span>)</span>」と「十字の銀河」の関係を調べることにした。<span><br /><br /></span>そうすると、「紀元前<span>3000</span>年における長江口と黄帝陵の天頂緯度線」は、下図のごとくになった。<span><br /></span>下図に示すように、紀元前<span>3000</span>年では――「四つ目の怪人・倉頡の銀河の後頭部につく大きく見開いた目の形の銀河部中央」を貫通する＋赤緯<span>35</span>度<span>35</span>分は「十字の銀河の頭部中央」を貫通して、北緯<span>35</span>度<span>35</span>分の黄帝陵の天頂緯度線ということになった。<span><br /></span>また、北緯<span>31</span>度<span>30</span>分の長江口の天頂緯度線<span>(</span>＋赤緯<span>31</span>度<span>30</span>分<span>)</span>は「四つ目の怪人・倉頡の銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部中央を貫通して、「十字の銀河の子宮中央」を貫通していた。<span><br /></span>ゆえに、下図の状況から、わたくしは「倉頡伝説は事実を伝えている」と確信した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000159_20250106152201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000159_20250106152201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000159_20250106152201.jpg" alt="0000159_20250106152201" width="299" height="321" border="0" /></a> <br /></span>◆倉頡伝説は、下記のごとく説明する。<span><br /></span>「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、〔鳥獣の足跡〕をもって、はじめて文字を作り、古来の結縄<span>(</span>けつじょう<span>)</span>に代<span>(</span>か<span>)</span>えたので、天は祝福して禾<span>(</span>か・穀物<span>)</span>を降らせ、死霊の感泣<span>(</span>かんきゅう<span>)</span>する声が夜<span>(</span>よ<span>)</span>な夜な聞こえたという。」<span><br /><br /></span></p>
<p>前述したように、わたくしは「夜な夜なに出現する【夏の銀河各部の形状】から文字<span>(</span>漢字<span>)</span>は作られた」と考えていたため、<span><br /></span>倉頡伝説が「倉頡がはじめて文字を作り、古来の結縄に代えたので、天は祝福して禾を降らせ、死霊の感泣する声が夜な夜な聞こえた」という説明を、<span><br /></span>「倉頡がはじめて文字を作り、古来<span>(</span>三皇時代<span>)</span>の結縄、つまり易占<span>(</span>うらない<span>)</span>に用いた記号に代えて、倉頡がはじめて文字を作り、三皇時代に大王となって天下を治めた包犠<span>(</span>ほうぎ<span>)</span>、女媧<span>(</span>じょか<span>)</span>、神農<span>(</span>しんのう<span>)</span>三氏族の天に昇った死霊は夜な夜なに出現する天頂の銀河の輝きとなって、いっせいに感激して涙を流して泣き祝福して、三氏族の死霊の涙は恵<span>(</span>めぐ<span>)</span>みの雨となって降り、豊かな禾<span>(</span>穀物<span>)</span>を地上にもたらした」と、芸術的に造形的に右脳思考をもって解釈した。<span><br /><br /></span>言語をあつかって「一度に一つずつ進行する論理的思考」に長<span>(</span>た<span>)</span>ける左脳思考の場合、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」は「四つ目の銀河」と表現されるであろうが、<span><br /></span>【夏の銀河の各部の形状】を感覚<span>(</span>イメージ<span>)</span>でとらえる造形的能力に優<span>(</span>すぐ<span>)</span>れる複数の心象<span>(</span>イメージ<span>)</span>を同時に進行することができる右脳思考だと――「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」を当然、「文字を発明した倉頡」と「四つ目の銀河」を合体化して「四つ目の怪人・倉頡」と表現されることになったと、わたくしは考えた。<span><br /><br /></span>だから、上図に示した「紀元前<span>3000</span>年における長江口<span>(</span>ちょうこうこう<span>)</span>と黄帝陵の天頂緯度線図」は「倉頡伝説が事実であること」を証明していると考えた。<span><br /></span>というのも、下図に示すように――【「四つ目の怪人・倉頡の銀河」は跪<span>(</span>ひざまず<span>)</span>いて「十字の銀河」を尊び敬い仰ぎ見て拝礼<span>(</span>はいれい<span>)</span>する姿勢<span>(</span>ポーズ<span>)</span>】に観えたからである。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000290.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000290" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000290.jpg" alt="0000290" width="300" height="314" border="0" /></a> <br /><br /></span>ゆえに、わたくしは「十字の銀河」を「黄帝」に見立て、「四つ目の鬼の横顔に似る銀河」を「黄帝につかえた倉頡」に見立てた。<span><br /></span>だから、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」をあらわしていると、わたくしは確信した。<span><br /><br /></span>そして、下図のごとくも、倉頡伝説の説明について考えた。<span><br /></span>倉頡伝説の「天は祝福して禾<span>(</span>か・穀物<span>)</span>を降らせた」という説明における「地上を祝福する天」は「十字の銀河」と解釈した。<span><br /></span>禾<span>(</span>稲<span>)</span>はじめ粟<span>(</span>ぞく・穀物<span>)</span>などの作物<span>(</span>さくもつ<span>)</span>は、天から降る雨によって枯れずに育つ。<span><br /></span>ゆえに、倉頡伝説はイメージを重視する右脳思考にもとづいて「天は祝福して禾を降らせる」と造形的に表現するものであったことになる。<span><br /></span>下図に示すように、「四つ目の怪人・倉頡の銀河」は【倉】【蒼】【吉】【頁】【頡】【蔵】【臓】などの字源となったと解釈した。<span><br /></span>下図に示すように、「十字の銀河が重なる乳房から四つ目の怪人・倉頡の銀河における口までに垂れる三本線の銀河部」と「十字の銀河の右手<span>(</span>西側の手<span>)</span>から四つ目の怪人・倉頡の銀河の角<span>(</span>つの<span>)</span>や額<span>(</span>ひたい<span>)</span>までに垂れる三本線の銀河部」は「天から降る雨」または「天から降る禾」をあらわすイメージとなる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000291.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000291" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000291.jpg" alt="0000291" width="299" height="320" border="0" /></a></span><span><br /><br /></span>前ページに配した「五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」にて示したように、「中国南部の長江の河口中央<span>(</span>北緯<span>31</span>度<span>30</span>分<span>)</span>」の天頂には「十字の銀河の子宮」がめぐってきた。<span><br /></span>長江口の真西には太湖<span>(</span>たいこ<span>)</span>が所在する。<span><br /></span>長江口・太湖地方は、禾<span>(</span>稲<span>)</span>がよく育つ適性育成地である。<span><br /><br /></span>ゆえに、下図に示すように、倉頡は「長江口・太湖地方や長江口南部で育つ、禾<span>(</span>稲<span>)</span>の穂」を「十字の銀河の子宮」や「十字の銀河の股<span>(</span>また<span>)</span>」がある南方に向け、<span><br /></span>「禾の穂」を「鬼の姿に似る銀河<span>(</span>四つ目の怪人・倉頡の銀河<span>)</span>の食物<span>(</span>禾、つまり米や麦の飯<span>)</span>を食べる口がある西へと垂らす<span>(</span>転回する<span>)</span>」と定めて、【禾】の字を創<span>(</span>つく<span>)</span>ったと考えることにした。<span><br /></span>だから、下図の左上に示したように、倉頡が創った【禾】の字は「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」をあらわすことになった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k423_20250106153101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K423_20250106153101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k423_20250106153101.jpg" alt="K423_20250106153101" width="184" height="226" border="0" /></a> <br /></span>上図の「十字の銀河は、前述したように「女体」に相似するゆえ、【禾】の下に【女】が加える【委<span>(</span>い<span>)</span>】の字も倉頡が創った【禾<span>(</span>か<span>)</span>】の字源を受け継いで「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」をあらわした。<span><br /></span>「十字の銀河」は「人の姿」にも相似するため、【人偏<span>(</span>にんべん<span>)</span>】に【委】を加える【倭<span>(</span>わ<span>)</span>】の字も倉頡が創った【禾】の字源を受け継いで「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」をあらわした。<span><br /><br /></span>白川静著『字統』はじめすべての字典は【禾】【委】【倭】の字源が「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定をあらわす」と解説しない。<span><br /></span>しかし、上図の右下に配した【禾】の契文形<span>(</span>けいぶんけい・殷代後半に出現した甲骨文字の字形<span>)</span>は【禾】の字源は「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」を表現している。<span><br /></span>倉頡は、上図の「【禾】の字源銀河解説図」における「横になる【禾】の字形」は、そのままだと不自然であると考えた。<span><br /></span>上図の右下に配した契文形のごとく、倉頡は【禾】の字形を「イネ<span>(</span>稲<span>)</span>が地面に植わる形」にした。<span><br /><br /></span>下図に示すように、倉頡は<span>(</span>１<span>)</span>「禾の穂が南から西へ<span>90</span>度垂れる図書」を、<span>(</span>２<span>)</span>禾の根が地面に植わるように<span>180</span>度天地をひっくり返す形にしたが、「禾の穂は逆時計回りに<span>90</span>度転回する北から西へと垂れる形」になって矛盾した。<span><br /></span>このため、<span>(</span>３<span>)</span>「南から西へと転回するように、禾の穂が時計回りに<span>90</span>度転回する北から東へ垂れる形」に、【禾】の字形を定めた。<span><br /></span>前ページに示した「【禾】の字源銀河解説図における、右下の【禾】の契文形」は、上図の<span>(</span>３<span>)</span>の図書の形と合致して、【禾】の字形<span>(</span>契文形<span>)</span>は「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」をあらわしている。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000192_20250106153401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000192_20250106153401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000192_20250106153401.jpg" alt="0000192_20250106153401" width="300" height="286" border="0" /></a><br /><br /></span>なお、上図の<span>(</span>３<span>)</span>の図書<span>(</span>契文<span>)</span>が「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」をあらわしていることを、<span><br /></span>下の左図<span>(</span>契文形<span>)</span>は「禾<span>(</span>稲<span>)</span>の穂が、北から東へ垂れる<span>(</span>時計回りに<span>90</span>度転回する<span>)</span>形」となって明確に示すようにした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00004_20250106153501.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00004_20250106153501" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00004_20250106153501.jpg" alt="00004_20250106153501" width="300" height="242" border="0" /></a> <br /></span>そして、上図の左上の「十字の銀河の中央に、【禾】の稲<span>(</span>穂・茎・葉・根<span>)</span>をあらわす図書を重ねる様子」から、<span><br /></span>下図に示すように、【大】字形の「十字の銀河」が【天】の字源・字形となることが推定できた。<span><br /></span>というのも、【天】は【大】<span>(</span>大字形<span>)</span>の上に【一】の図書を加えて構成されるからである。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000292.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000292" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000292.jpg" alt="0000292" width="300" height="286" border="0" /></a> <br /></span>上記の推定にもとづき、不弥国<span>(</span>ふみこく<span>)</span>の宗像王の名が「天菩比命<span>(</span>あめのほひのみこと<span>)</span>」であることに注目した。<span><br /></span>そうすると、天照大御神・大和王朝に逆らって抵抗した出雲国造<span>(</span>いずもこくぞう<span>)</span>の名も「天菩比命」であり、「天菩比命」は「天穂日命<span>(</span>あめのほひのみこと<span>)</span>」とも表記することにもおのずと注目することになった。<span><br /></span>「稲の苗は２、３本であるが、育って実<span>(</span>米<span>)</span>がみのって穂が垂れると稲の茎の本数は倍以上に増えている。」<span><br /></span>ゆえに、【菩】の字は「禾<span>(</span>稲<span>)</span>は穂が実るときに茎が【倍】に増える草である」とあらわしていると考えた。<span><br /></span>つまり、【咅】の字から【菩】と【倍】の字が作られたことになる。<span><br /></span>というのも、【咅<span>(</span>稲<span>)</span>】は「成熟すると茎が【倍】に増える草」であるから、【草冠】に【咅】が加わる【菩】という字が作られ、【人偏】に【咅】を加える【倍】の字が作られた。<span><br /></span>このような秘密にもとづいて、「天菩比命」は「天穂日命」とも表記されることになり、【菩】の字は「穂が実ると茎が倍に増える草」と示していることになる。<span><br /></span>だから、「天菩比命」という名は【天】の字源「十字の銀河の中央」に、「稲の穂の図書」を重ねて、【禾】【委】【倭】の字形は「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」を伝えているにちがいないと、わたくしは考えた。<span><br /></span>以上をもって、わたくしは「倉頡伝説は事実を伝えている」と確信した。<span><br /><br /></span>◆このブログの前ページにて指摘したように、わたくしは「五帝時代初頭の黄帝時代の年代」を調べるために、紀元前<span>3500</span>年と紀元前<span>3000</span>年の天の北極・春分点をあらわす２種の天文図を作製した。<span><br /></span>実は、この２種の天文図は天の北極と春分点の位置は異なるものの、黄帝陵<span>(</span>北緯<span>35</span>度<span>35</span>分<span>)</span>の天頂緯度線は共に「四つ目の怪人・倉頡の銀河の後頭部につく大きく見開いた目の形をした銀河中央から、十字の銀河の頭部の中央」を貫通してほぼ同一であった。<span><br /></span>ゆえに、この「歳差状況図<span>(</span>天の北極の位置図<span>)</span>」をもとづく年代算出方法では、黄帝時代は紀元前<span>3500</span>年、または紀元前<span>3000</span>年ということになった。<span><br /></span>そこで、このブログの前ページで紹介した「夏商周断代工程」と名づけて中華人民共和国が国家的プロジェクトとして<span>1996</span>年にスタートして、歴史学、考古学、天文学、科学測定などの専門家約<span>200</span>人が４年がかりで取り組んで<span>2000</span>年<span>11</span>月９日に結論に達した、<span><br /></span>紀元前<span>2070</span>年に「夏王朝」が成立、紀元前<span>1600</span>年に「商王朝<span>(</span>殷王朝<span>)</span>」がはじまり、紀元前<span>1046</span>年に「周王朝」が始まったという意見にもとづき、<span><br /></span>さらに、このブログの前ページにて紹介したように、司馬遷著『史記』五帝本紀の帝堯代<span>(</span>ていぎょうだい<span>)</span>初頭の天文記事における春分点の位置・紀元前<span>2500</span>年をも考慮して、<span><br /></span>五帝時代冒頭の黄帝時代初頭は紀元前<span>3000</span>年頃であったと、わたくしは決定することにした。<span><br /><br /></span>上記したように、商王朝<span>(</span>殷王朝<span>)</span>は<span>554</span>年間存続し、夏王朝は<span>470</span>年間存続し、帝堯代から夏代初頭までは<span>430</span>年間ということになる。<span><br /></span>五帝時代は、<span>(</span>１<span>)</span>黄帝時代、<span>(</span>２<span>)</span>帝顓頊<span>(</span>ていせんぎょく<span>)</span>時代、<span>(</span>３<span>)</span>帝嚳<span>(</span>ていこく<span>)</span>時代、そして<span>(</span>４<span>)</span>帝堯時代・<span>(</span>５<span>)</span>帝舜<span>(</span>ていしゅん<span>)</span>時代と続くゆえ、<span><br /></span>上記した商王朝の<span>554</span>年間と夏王朝の<span>470</span>年間の存続からして――黄帝時代初頭から帝堯代初頭までは約<span>1000</span>年間よりも約<span>500</span>年間であったと考えたほうが妥当<span>(</span>だとう<span>)</span>な意見であろうと考えて、<span><br /></span>わたくしは「黄帝時代は、帝堯代より約<span>500</span>年前の紀元前<span>3000</span>年頃<span>(BC3000</span>年頃<span>)</span>から始まった」と決定することにした。<span><br /><br /></span>◆以上、わたくしの意見を図表に表示すると、下図のごとくになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/photo_20250106153701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Photo_20250106153701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/photo_20250106153701.jpg" alt="Photo_20250106153701" width="299" height="424" border="0" /></a> <br /></span>なお、中国の西安<span>(</span>せいあん<span>)</span>郊外の半坡<span>(</span>はんぱ<span>)</span>遺跡から、合計<span>112</span>点の記号が発見され、記号の種類を整理すると全部で<span>22</span>種類にまとめられた。<span><br /></span>中国の学界は半坡遺跡の推定年代は紀元前<span>4800</span>年～紀元前<span>4300</span>年であるとする。<span><br /></span>また、黄河流域に栄えた大汶口<span>(</span>だいもんこう<span>)</span>文化の遺跡から発見された陶器上には絵文字にちかい図書がほどこされていた。<span><br /></span>大汶口文化全体の年代は紀元前<span>4300</span>年頃から始まり、紀元前<span>2500</span>年頃に龍山<span>(</span>りゅうざん<span>)</span>文化へと進展したと、中国の学界では考えられている。<span><br /></span>半坡遺跡から発見された記号と大汶口文化の遺跡から発見された図書を、中国では「陶文<span>(</span>とうぶん<span>)</span>」と呼ぶ。<span><br /></span>この「陶文」を、わたくしは「三皇時代、つまり包犠氏<span>(</span>ほうぎし<span>)</span>の時代、女媧氏<span>(</span>じょかし<span>)</span>の時代、神農氏<span>(</span>しんのうし<span>)</span>の時代」の、易占<span>(</span>うらない<span>)</span>に用いた記号の結縄<span>(</span>けつじょう<span>)</span>であったと推定し、<span><br /></span>三皇時代の始まりは紀元前<span>4300</span>年頃～紀元前<span>4000</span>年までであったと推定し――上図の「漢字生長史」には「三皇時代の始まりを紀元前<span>4000</span>年頃<span>(</span>ＢＣ<span>4000</span>年頃<span>)</span>」と表示した。</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>卑弥呼</dc:subject>
<dc:subject>邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
<dc:subject>アルファベットの起源</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源</dc:subject>
<dc:subject>日本国誕生史の証明</dc:subject>
<dc:subject>大嘗祭の証明</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源と発明を解明す</dc:subject>

<dc:creator>大川誠一</dc:creator>
<dc:date>2025-01-06T15:41:09+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2024/10/post-996e41.html">
<title>漢字の起源と発明を解明す・36</title>
<link>https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2024/10/post-996e41.html</link>
<description>始まりは終わり、終わりは始まりの日本列島像◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>始まりは終わり、終わりは始まりの日本列島像<span><br /><br /></span>◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。<span><br /></span>【夏の銀河】とは「夏にもっとも長時間見ることができる銀河」のことをいう。<span><br /></span>「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。<span><br /></span>「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。<span><br /><br /></span>下に、【夏の銀河の写真】を配した。<span><br /></span>この写真は、わが国の天体写真家の第一人者とされる藤井旭<span>(</span>ふじいあきら<span>)</span>氏が撮影した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/ginga00.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Ginga00" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/ginga00.jpg" alt="Ginga00" width="300" height="438" border="0" /></a> <br /><br /></span>今から約<span>5000</span>年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝<span>(</span>こうてい<span>)</span>につかえていた倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は【夏の銀河各部の形状から文字<span>(</span>漢字<span>)</span>作成する方法<span>(</span>理論<span>)</span>】を発明した。<span><br /></span>この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、<span><br /></span>卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝<span>(</span>ぎしわじんでん<span>)</span>』である。<span><br /></span>江戸時代中期に生存した新井白石<span>(1657</span>―<span>1725</span>年<span>)</span>以来今日まで約<span>300</span>年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。<span><br /></span>しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法<span>(</span>理論<span>)</span>】を説明する聖典<span>(</span>せいてん<span>)</span>であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書<span>(</span>秘密の書物<span>)</span>」であった。<span><br /></span>〔注　上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『<a href="https://amzn.to/4jIa6Tg">大嘗祭の証明</a>』<span>(</span>ｋｉｎｄｌｅ版<span>)</span>にて詳細に解説して証明した。〕<span> <br /><br /></span>現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽<span>(</span>こうとうむけい<span>)</span>の作り話である」と断定する。<span><br /></span>しかし、この定説はまちがっている。<span><br /></span>というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。<span><br /><br /></span>◆『魏志倭人伝』には――夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき・紀元前<span>2050</span>年頃<span>)</span>、帝益<span>(</span>えき<span>)</span>の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に上陸し、本州を日本海沿いに北進<span>(</span>ほくしん<span>)</span>して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住した――という歴史について説明する記事がある。<span><br /><br /></span>益氏の王子と若者たちは、<span><br />(</span>１<span>)</span>三皇時代の易占<span>(</span>うらない<span>)</span>に用いる記号の結縄<span>(</span>けつじょう<span>)</span>、<span><br />(</span>２<span>)</span>五帝時代の最初の漢字の書契<span>(</span>しょけい<span>)</span>、<span><br />(</span>３<span>)</span>夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき<span>)</span>の夏音文字<span>(</span>かおんもじ<span>)</span>、<span><br />(</span>４<span>)</span>黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、<span><br />(</span>５<span>)</span>倉頡の文字作成理論、<span><br />(</span>６<span>)</span>精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法<span><br /></span>を教え広めた。<span><br /><br /></span>紀元前<span>21</span>世紀の夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき<span>)</span>から卑弥呼が生存した２世紀末の後期弥生時代までの約<span>2200</span>年間、<span><br /></span>上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして保存された。<span><br /></span>これゆえ、夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。<span><br /></span>また、夏音文字は<span>712</span>年１月<span>28</span>日に元明<span>(</span>げんめい<span>)</span>天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。<span><br /></span>したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀あるいは６世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。<span><br /><br /></span>◆わがブログは「漢字の起源と発明を解明す」の<span>30</span>回～<span>32</span>回の３回をもって、<span><br /></span>詳細に解説し証明したように――『魏志倭人伝』後半部の記事と『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭の記事は、<span><br /></span>益氏の王子と若者たちは男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に居住したと伝えている。<span><br /><br /></span>下に配した図に示すように、益氏の王子と若者たちは八郎潟の出入口となる船越水道<span>(</span>ふなこしすいどう<span>)</span>の東岸、つまり現在の秋田県の潟上市<span>(</span>かたがみし<span>)</span>の天王町に上陸したであろう。<span><br /></span>下図における秋田県山本郡の三種町<span>(</span>みたねちょう<span>)</span>の琴丘町鹿渡<span>(</span>ことおかちょうかど<span>)</span>の南の地、つまり南秋田郡八郎潟町の近辺が、益氏の王子と若者たちが定住した「男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>」であったのではないかと推定される。<span><br /><br /></span>注目すべきは――下図の「男鹿半島の地宜<span>(</span>ちぎ・平面的に図化した地図の形<span>)</span>」が夏音文字<span>(</span>かおんもじ<span>)</span>の【奴<span>(</span>な<span>)</span>】の字源・字義をあらわすことであった。<span><br /></span>というのも、今から約<span>4000</span>年前から始まる後期縄文時代に作られた代表的な５基の土偶<span>(</span>どぐう<span>)</span>の両手の形や両脇<span>(</span>りょうわき<span>)</span>の形はいわゆる「<span>C</span>字形」とよばれて、【奴】の字をあらわしたからである。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000020_20241028145801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000020_20241028145801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000020_20241028145801.jpg" alt="000020_20241028145801" width="300" height="208" border="0" /></a> <br /></span>◆倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。<span><br /></span>これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。<span><br /></span>この倉頡が死刑と定めた掟<span>(</span>おきて<span>)</span>のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。<span><br /></span>これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。<span><br /></span>ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00003_20241028145901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00003_20241028145901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00003_20241028145901.jpg" alt="00003_20241028145901" width="299" height="433" border="0" /></a> <br /></span>◆上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。<span><br /></span>下図は、「今から約<span>5000</span>年前の五帝時代初頭の黄帝時代の緯度線図」である。<span><br /></span>下図に示すように、倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>がつかえた黄帝の時代、<span>(</span>１<span>)</span>「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部中央」と、<span>(</span>２<span>)</span>「十字の銀河の右手<span>(</span>西の手<span>)</span>」と、<span>(</span>３<span>)</span>「十字の銀河の頭部中央」が黄帝陵<span>(</span>こうていりょう・黄帝の廟と墓<span>)</span>の天頂にめぐってきた。<span><br /></span>また、当時、<span>(</span>１<span>)</span>「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部中央」と、<span>(</span>２<span>)</span>「十字の銀河の右足<span>(</span>西の足<span>)</span>」と、<span>(</span>３<span>)</span>「十字の銀河の子宮中央」が長江口<span>(</span>ちょうこうこう・長江の河口中央<span>)</span>の天頂にめぐってきた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000159_20241028145901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000159_20241028145901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000159_20241028145901.jpg" alt="0000159_20241028145901" width="299" height="321" border="0" /></a> <br /></span>上図の「黄帝陵の天頂緯度線<span>(</span>北緯<span>35</span>度<span>35</span>分<span>)</span>が貫通した「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部」と「鬼の横顔に似る銀河のアゴにつく細い切れ長の目の形の銀河部」は、<span><br /></span>下図に示すように、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡の、四つの目のうちの二つの目」であった。<span><br /></span>下図は、倉頡伝説にて「四つ目の怪人・倉頡」と表現された「鬼の横顔に似る銀河」である。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00009_20241028150001.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00009_20241028150001" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00009_20241028150001.jpg" alt="00009_20241028150001" width="300" height="250" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図は【奴】【又】【右】の字源銀河解説図である。<span><br /></span>下図の左側に配する「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」が【奴】【又】【右】の字源となった。<span><br /></span>「鬼の姿に似る銀河のうちの、頭部」が倉頡伝説で「四つ目の怪人・倉頡」とよばれた「鬼の横顔に似る銀河」である。<span><br /></span>【又】の字音は「ゆう」、【右】の字音も「ゆう」である。【又】は【右】の原字<span>(</span>最初の文字<span>)</span>である。<span><br /></span>ゆえに、【又】の字義は「右手」であり、【右】の字義もまた「右手」である。<span><br /></span>【女偏】に【又】が加わる【奴<span>(</span>な<span>)</span>】の夏音文字<span>(</span>かおんもじ<span>)</span>は【又】と同義とあって「右手」を意味した。<span><br /></span>したがって、下図の左図の「鬼の姿に似る銀河<span>(</span>右手<span>)</span>と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲<span>(</span>渦巻き<span>)</span>」が、夏音文字の【奴】と字源銀河となった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000076_20241028150101.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000076_20241028150101" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000076_20241028150101.jpg" alt="000076_20241028150101" width="299" height="309" border="0" /></a> <br /><br /></span>わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静<span>(</span>しらかわしずか<span>)</span>博士が著作した『字統<span>(</span>じとう<span>)</span>』<span>(</span>平凡社発行<span>)</span>は【奴<span>(</span>ど<span>)</span>】の字について、下記のごとく解説する。<span><br /></span>「女と又とに従う。又は手。女子を捕らえる形で、これを不自由化して奴隷<span>(</span>どれい<span>)</span>とする。『説文解字』は――奴婢<span>(</span>ぬひ<span>)</span>、みな古の辠<span>(</span>ざい・罪<span>)</span>人なり――とする。」<span><br /></span>上記の【奴<span>(</span>ど<span>)</span>】の解説は、夏音文字にて保存されていた【奴<span>(</span>な。ぬ<span>)</span>】の字源・原義を失った、後世<span>(</span>周代初頭以後<span>)</span>の転義であったことになる。<span><br /></span>このブログ「漢字の起源と発明を解明す」が<span>15</span>回以降から、時々、詳細に解説して証明したように、<span><br /></span>『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は、要するに「強大な力。強大な力を有するジャコウウシ」をあらわして、<span><br /></span>白川静著『字統』や『説文解字』が【奴<span>(</span>ど<span>)</span>】の字にて解説する「奴隷」を意味しなかった。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』に記される【奴】の字は紀元前<span>2050</span>年頃から益氏の王子が教えひろめた夏音文字であったことになる。<span><br /><br /></span>◆わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>15</span>」にて詳細に解説したように、<span><br /></span>夏音文字の【奴】は【又】の金文と異なって、<span><br /></span>「鬼の姿に似る銀河と、渦巻の北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「強大な力を有する右手」に見立てられたため、<span><br /></span>「日照りがつづいて堅<span>(</span>かた<span>)</span>くなった農地を耕<span>(</span>たがや<span>)</span>すことができるジャコウウシのごとき強大な力がみなぎる、筋肉隆々にして太い腕を有する<span>18</span>歳くらいの青年」を意味した。<span><br /></span>ゆえに、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼を葬<span>(</span>ほうむ<span>)</span>る墓に循<span>(</span>じゅん<span>)</span>ずる者、奴婢<span>(</span>ぬひ<span>)</span>百余人」と記されている。この「奴婢」の【奴】は「<span>18</span>歳くらいの青年」であった。<span><br /></span>【婢】は「暗い銀河部までもよく見える最も優れた眼力を有する、瞳<span>(</span>ひとみ<span>)</span>がもっとも澄んでいる<span>13</span>歳くらいの乙女」であった。<span><br /></span>つまり、「人生で生命力がもっとも輝く、純粋で清らかな<span>18</span>歳の青年と<span>13</span>歳の乙女こそ、徇葬者<span>(</span>じゅんそうしゃ<span>)</span>にふさわしい」ということで――彼らは徇葬の犠牲<span>(</span>いけいえ<span>)</span>に選ばれたのである。<span><br /><br /></span>また、夏音文字【奴】の字源銀河「鬼の姿に似る銀河と、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「子どもを出産するための母体の強大な力」をあらわした。<span><br /></span>また、夏音文字【奴】の字は「子どもを出産するとき――母体<span>(</span>妊婦<span>)</span>が雷鳴<span>(</span>らいめい<span>)</span>や虎のごとく大声をあげて、いきみ・きばる怒責<span>(</span>どせき<span>)</span>」をもあらわした。<span><br /><br /></span>さらに、わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>25</span>」にて詳細に解説したように、<span><br /></span>対馬国<span>(</span>つしまこく<span>)</span>から数えて<span>16</span>番目の姐奴国<span>(</span>つなこく<span>)</span>、<span>18</span>番目の蘇奴国<span>(</span>さなこく<span>)</span>、<span>20</span>番目の華奴蘇奴国<span>(</span>かなさなこく<span>)</span>などの小国名に用いられる、夏音文字【奴】の字は「蝶が体を持ち上げて空を飛翔<span>(</span>ひしょう<span>)</span>する羽根の強大な力」をあらわした。<span><br /><br /></span>だから、夏音文字の【奴】の字は、白川静著『字統』の【奴<span>(</span>ど<span>)</span>】の字源解説と異なり、<span><br />(</span>１<span>)</span>「強大な力を有するジャコウウシ」<span><br />(</span>２<span>)</span>「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」<span><br />(</span>３<span>)</span>「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する<span>18</span>歳くらいの青年」<span><br />(</span>４<span>)</span>「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。<span><br /><br /></span>上記の４つの字義からして、要するに夏音文字の【奴】は「強大な力」を意味したことになる。<span><br /></span>前述したように、夏音文字【奴】の字源銀河の「鬼の姿に似る銀河の、頭部」は、倉頡伝説に登場する「四つ目の怪人・倉頡」と名づけられた「鬼の横顔に似る銀河」であった。<span><br /></span>また前述したように、「男鹿半島」は、「今から約<span>4000</span>年前頃から始まる後期縄文時代に作られた代表的な５基の土偶<span>(</span>どぐう<span>)</span>が共通する、土偶の両手と両脇<span>(</span>りょうわき<span>)</span>の「Ｃ字形」とよばれる造形となって夏音文字【奴】の字をあらわした。<span><br /><br /></span>以上のごとく、「後期縄文時代に作られた５基の代表的な土偶における両手と両脇の造形デザインとなった男鹿半島」は【奴】の字をあらわして、下記の特に重大な３点の事柄を表現することになった。<span><br />(</span>Ａ<span>)</span>「強大な力を有する聖獣<span>(</span>せいじゅう<span>)</span>の、ジャコウウシ」<span><br />(</span>Ｂ<span>)</span>「黄帝陵の天頂にめぐってきた、十字の銀河の右手<span>(</span>西の手<span>)</span>と、鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の銀河部</p>
<p>(Ｃ<span>)</span>「四つ目の怪人・倉頡」、つまり【倉頡が発明した文字作成理論】<span><br /><br /></span>◆下図に示すように、「十字の銀河」は、【禾】【委】【倭】の字源となった。<span><br /></span>白川静著『字統』は【倭】の字について「委<span>(</span>い<span>)</span>は稲魂<span>(</span>いなだま<span>)</span>を被<span>(</span>かぶ<span>)</span>って舞う女の形」と解説する。<span><br /></span>下図は、白川静著『字統』が【倭】の字について解説した「頭に稲魂の被<span>(</span>かぶ<span>)</span>りものを飾<span>(</span>かざ<span>)</span>るように観える、十字の銀河の図」である。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000057_20241028150201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000057_20241028150201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000057_20241028150201.jpg" alt="000057_20241028150201" width="299" height="374" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図における「十字の銀河の、頭上を飾るかぶりものの周辺」は、<span><br /></span>下図に示すように、「暗い小さな星たちが点々とハートの形」になってならぶ。<span><br /></span>このブログの冒頭に配した藤井旭氏が撮影した写真には、「十字の銀河の頭上を飾る、ハートの形となる星たち」は撮影されている。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000274.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000274" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000274.jpg" alt="0000274" width="299" height="381" border="0" /></a> <br /></span>前述した、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした「後期縄文時代に作られた５基の土偶における、土偶の両手と両脇の形のモデルとなった男鹿半島の北端・入道崎」は「北緯<span>40</span>度」である。<span><br /></span>下図に、今から約<span>4000</span>年前の後期縄文時代初頭における、前ページにて解説した夏音文字【奴】の字源銀河となった「十字の銀河」と、「鬼の横顔に似る銀河」と、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」を貫通する天頂緯度線図を示した。<span><br /></span>下図に示した「＋赤緯<span>40</span>度の緯度線」が貫通する「十字の銀河の頭を飾る稲魂のかぶりものの中央の銀河部」は「男鹿半島北端の入道崎<span>(</span>北緯<span>40</span>度<span>)</span>の天頂」にめぐってきた。<span><br /></span>また、下図が示すように、【奴】の字をあらわした「十字の銀河の右手<span>(</span>西の手<span>)</span>と脇腹<span>(</span>わきばら<span>)</span>」と、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部につく大きく開いた目の形の中央の銀河部」は北緯<span>37</span>度の土地の天頂にめぐってきた。<span><br /></span>そして、下図が示すように、当時<span>(</span>後期縄文時代初頭<span>)</span>、「十字の銀河の胸部と左手<span>(</span>東の手<span>)</span>の銀河部」が黄帝陵<span>(</span>北緯<span>35</span>度<span>35</span>分<span>)</span>の天頂を通過した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000275.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000275" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000275.jpg" alt="0000275" width="300" height="374" border="0" /></a> <br /><br /></span>下に、群馬県の吾妻郡<span>(</span>あがつまぐん<span>)</span>吾妻町の郷原遺跡<span>(</span>ごうばら<span>)</span>遺跡から出土した、「ハート形土偶」のイラストを配した。<span><br /></span>下図に示すように、「ハート形土偶」は上図に示した「ハート形に小さな星々がならぶ飾りを頭に被<span>(</span>かぶ<span>)</span>る、十字の銀河」をモデルにして造形された作品であったことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000276.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000276" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000276.jpg" alt="0000276" width="245" height="474" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図に示したように、「男鹿半島の地宜<span>(</span>ちぎ・平面的に図化した地図の形<span>)</span>」は「ハート形土偶の左手の形」に造形され、<span><br /></span>「男鹿半島端の入道崎から以北の<span>C</span>字形海岸線の形」は「ハート形土偶の脇腹<span>(</span>わきばら<span>)</span>の<span>C</span>字形」に造形された。<span><br /></span>「ハート形土偶の左手」には「渦巻き文様」がほどこされている。<span><br /></span>この「渦巻き文様」は、前ページで解説した夏音文字【奴】の字源・字義となる「強大な力を示す、北アメリカ星雲・ペリカン星雲」をあらわした。<span><br /></span>だから、「ハート形土偶の両手の形になった、男鹿半島の地宜」は【奴】の夏音文字の字源・字義をあらわすことになった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000277.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000277" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000277.jpg" alt="0000277" width="300" height="325" border="0" /></a> <br /></span>ハート形土偶が出土した郷原遺跡<span>(</span>郷原集落<span>)</span>は、北緯<span>36</span>度<span>34</span>分である。<span><br /></span>下図は、約<span>4000</span>年前の後期縄文時代における郷原遺跡の天頂緯度線図である。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000278.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000278" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000278.jpg" alt="0000278" width="300" height="418" border="0" /></a> <br /><br /></span>〔ハート形土偶の脇腹の形〕について、『名宝日本の美術　第１巻　原史美術』<span>(</span>小学館発行<span>)</span>は下記のごとく指摘する。<span><br /></span>「この土偶のもっとも大きな特徴は、体を構成する張りのある曲線と顔のハート形であり、いずれもＣ字形曲線によっているという点である。つまり、体側<span>(</span>たいそく<span>)</span>はＣ字形と逆Ｃ字形が背中あわせに対置し、両脚の間は両者が向かいあっている。」<span><br /></span>下図に、上記の指摘を図示した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000279.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000279" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000279.jpg" alt="0000279" width="299" height="499" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図は、〔ハート形土偶の背面における後頭部とかぶりものの銀河周辺の形状図〕である。<span><br /></span>注目すべきは、「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」が「ハート形土偶の後頭部」に彫<span>(</span>ほ<span>)</span>られていることである。<span><br /></span>だから、「ハート形土偶の背面の後頭部に彫られる、十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部」は、<span><br /></span>「黄帝時代<span>(</span>中期縄文初頭<span>)</span>の黄帝陵<span>(</span>北緯<span>35</span>度<span>35</span>分<span>)</span>の天頂」は「十字の銀河の頭部中央の暗黒天体部であった」とあらわすための目印であったにちがいない。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000280.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000280" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000280.jpg" alt="0000280" width="300" height="234" border="0" /></a> <br /></span>ゆえに、下図に示すように、ハート形土偶は<span><br /></span>「黄帝と倉頡が生存した黄帝時代<span>(</span>中期縄文初頭<span>)</span>の黄帝陵の天頂の位置」と<span><br /></span>「現在<span>(</span>つまり、後期縄文初頭<span>)</span>の郷原集落の天頂の位置」を表示して、<span><br /></span>【倉頡の文字作成理論】という新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割を有する土偶であったにちがいない。<span><br /></span>当時の縄文人たちにとって、【精確<span>(</span>せいかく<span>)</span>な天頂緯度の測定】は【命<span>(</span>いのち<span>)</span>】そのものであり、日々、人々は精確に天頂緯度をキャッチして命をながらえていた。<span><br /></span>だから、下図に示すように、ハート形土偶には黄帝時代<span>(</span>中期縄文初頭<span>)</span>と現在<span>(</span>後期縄文時代初頭<span>)</span>の<span>(</span>１<span>)</span>北緯<span>40</span>度<span>(</span>益氏が定住した男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>)</span>と、<span>(</span>２<span>)</span>ハート形土偶が出土した郷原集落と、<span>(</span>３<span>)</span>黄帝陵の天頂緯度を表示する機能<span>(</span>役割<span>)</span>がそなわっていたと考えられる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000281.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000281" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000281.jpg" alt="0000281" width="299" height="345" border="0" /></a> <br /></span>◆後期縄文時代初頭に作られたハート形土偶が示しているように、<span><br /></span>名門益氏の王子と若者たちが男鹿半島の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>を本拠地にして、<span><br /></span>【黄帝の女性生殖器と出産の研究】、【倉頡の文字作成理論】、【夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき<span>)</span>の夏音文字】などを教えひろめたために、<span><br /></span>各地の氏族は、益氏の新しい文化を取り入れて習得した。<span><br /></span>このため、各地の氏族が作った後期縄文の土偶には、<span><br /></span>上記した「新しい文化が日本列島に伝来したことを集落の人々に知らしめる役割」を有することになり、<span><br /></span>「ジャコウウシ」や「強大な力」を意味する夏音文字【奴】の字をあらわす「益氏の本拠地の西方の、男鹿半島より以北の海岸線のＣ字形」を「両脇の形」にするという共通性を有することになったと考えられる。<span><br /><br /></span>◆下図における左図は、千葉県銚子市<span>(</span>ちょうしし<span>)</span>に所在する余山貝塚<span>(</span>よやまかいづか・北緯<span>35</span>度<span>45</span>分<span>)</span>から出土した、後期縄文時代に作られた土偶の図である。<span><br /></span>下図の右図は、埼玉県岩槻市<span>(</span>いわつきし<span>)</span>の真福寺貝塚<span>(</span>しんぷくじかいづか・北緯<span>35</span>度<span>56</span>分<span>)</span>から出土した「みみずく土偶」の図である。<span><br /></span>両土偶の両脇はハート形土偶と同様に<span>C</span>字形と逆<span>C</span>字形に造形され、両手は男鹿半島の地宜に類似する形となる。<span><br /></span>「男鹿半島の地宜」は、夏音文字【奴】の字源・字義をあらわしたゆえ、【奴】の「ジャコウウシ」をあらわした。<span><br /></span>ゆえに、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられることになった。<span><br /></span>このため、「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手と両足」は縄文人が見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのであろう。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000282.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000282" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000282.jpg" alt="0000282" width="300" height="246" border="0" /></a> <br /><br /></span>下に、青森県つるが市にある国の指定遺跡の亀が岡遺跡<span>(</span>かめがおかいせき・北緯<span>40</span>度<span>53</span>分<span>)</span>から出土した、後期縄文時代に作られた遮光器土偶<span>(</span>しゃこうきどぐう<span>)</span>の図を配した。<span><br /></span>顔面のほとんどを占めるほどに大きな目が、この土偶の特色の一つである。<span><br /></span>この土偶の円環状<span>(</span>えんかんじょう<span>)</span>の枠取<span>(</span>わくど<span>)</span>りをほどこし、その中のレンズ状曲面に１本の沈線<span>(</span>ちんせん<span>)</span>を刻んだ目は「光を遮断<span>(</span>しゃだん<span>)</span>するもの」と見立てられた。<span><br /></span>ゆえに、「遮光器土偶」とよばれる。<span><br /></span>この「遮光」は、「周囲から光が入らないようにして、周囲を真っ暗闇にして瞳孔径<span>(</span>どうこうけい<span>)</span>を最大に拡大して銀河各部の暗い箇所まで見えるようにするためであったにちがいない。<span><br /></span>この遮光の大きな目は、フクロウの目、ヘビの目、カエルの目をあらわしているであろうと指摘されている。<span><br /></span>下図が示すように、、遮光器土偶の両脇もまたハート形土偶と同様にＣ字形と逆Ｃ字形に造形されている。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000283.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000283" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000283.jpg" alt="0000283" width="299" height="423" border="0" /></a> <br /></span>上図の「遮光器土偶の太い両手と太い片足の形」は、上記した「余山貝塚から出土した土偶と、真福寺貝塚から出土したみみずく土偶の両手・両足」同様に、見たことがない「ジャコウウシの前足と後ろ足のイメージ」を表現するものであったのではあるまいか。<span><br /><br /></span>◆下図は、長野県茅野市<span>(</span>ちのし<span>)</span>の尖石縄文考古館<span>(</span>とがりいしじょうもんこうこかん<span>)</span>に常設展示される国宝「仮面の女神」とよばれる土偶の図である。<span><br /></span>「仮面の女神」は「妊娠した女性像」と解釈されたゆえ、「女神」とされた。<span><br /></span>仮面の女神は縄文時代初頭に作られ、北緯<span>36</span>度の長野県茅野市の中ッ原遺跡<span>(</span>なかっぱらせき<span>)</span>から出土した。<span><br /></span>仮面の女神の両脇もまた、ハート形土偶同様に<span>C</span>字形と逆<span>C</span>字形に造形される。<span><br /></span>さらに、仮面の女神の左右の手には、ハート形土偶と同様に夏音文字【奴】の「強大な力をあらわす北アメリカ星雲・ペリカン星雲の渦巻き文」が刻まれている。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000284.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000284" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000284.jpg" alt="0000284" width="300" height="296" border="0" /></a> <br /><br /></span>この女神の仮面には１枚の布を三角形に折りたたんだものに細い裂け目を作り、あるいは三角形の木板に細い切れ目を開けて、この仮面で周囲の光が入らないように遮断<span>(</span>しゃだん<span>)</span>して瞳孔径を最大<span>(</span>７<span>mm</span>～８<span>mm)</span>に拡大するようにして銀河各部の暗い箇所まで見えるようにした役目を有するものであったにちがいない。<span><br /><br /></span>「三角形」といえば、下図に示す「はくちょう座のγ星」を除く「はくちょう座のβ星・δ星・ε星」も「三角形」となる。<span><br /></span>この「三角形」は、下図に示すように、「北半球に住む人々がもっとも輝いて見える銀河部」、つまり国際天文学会で定められる名称「北天<span>(</span>ほくてん<span>)</span>の最輝部<span>(</span>さいきぶ<span>)</span>」を包囲する。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000199_20241028151201.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000199_20241028151201" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000199_20241028151201.jpg" alt="0000199_20241028151201" width="299" height="324" border="0" /></a> <br /></span>わがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>17</span>」にて解説したように、<span><br /></span>上図の「北天の最輝部を包囲する、はくちょう座β星・δ星・ε星が構成する三角形」を注目して、<span><br /></span>黄帝王朝は「精確な地図作成方法の基礎となる三角測量法」を考案したと考えられる。<span><br /></span>これゆえ、司馬遷<span>(</span>しばせん<span>)</span>著『史記』五帝本紀には「黄帝は虎に戦闘を教えた」という文がある。<span><br /></span>この文中の「虎」は「猛獣のトラ」ではなく、「地図を作製する役職の長官となった氏族」を意味した。<span><br /></span>ゆえに、『史記』五帝本紀の「黄帝は虎に戦闘を教えた」という記事は「黄帝は地図を作製する長官氏族に戦闘を教えた」と伝えていたことになる。<span><br /></span>『史記』五帝本紀は「黄帝軍の遠征軍には虎のほか、虎に属する三匹の豹<span>(</span>ひょう<span>)</span>が参加していた」とも記述する。<span><br /></span>つまり、この「三匹の豹」は「三匹の猛獣のヒョウ」ではなく、「地図を作製する役職の副官となった三氏族」を意味したことになる。<span><br /><br /></span>司馬遷著『史記』五帝本紀は、「益氏は、五帝時代の最後の帝王の舜<span>(</span>しゅん<span>)</span>に、〔虞<span>(</span>ぐ<span>)</span>〕の要職に就<span>(</span>つ<span>)</span>くことを命令された」と記述する。<span><br /></span>【虞】という字は【虎】の下に【呉】を加える字である。<span><br /></span>ゆえに、益氏の首長は「虎」つまり「精確な中国海岸線地図を作製する長官」に就任したことになる。<span><br /></span>この「益氏が命令された精確な中国海岸線地図測量」は「中国南部の呉から始める」と定められたために、益氏の役職は【虎】の下に【呉】が加えられる【虞】と名づけられた。<span><br /></span>ゆえに、「帝舜の時代初頭から夏の始祖<span>(</span>しそ<span>)</span>」の帝禹<span>(</span>ていう<span>)</span>が天下を治めるまでの約<span>200</span>年～<span>250</span>年間、代々益氏の首長は【虞】の要職<span>(</span>ようしょく<span>)</span>に就いて、一族の先頭に立って中国海岸線の測量に従事<span>(</span>じゅうじ<span>)</span>して【精確な中国海岸線地図の作製】に努力した。<span><br /><br /></span>したがって、国宝「仮面の女神」の「三角形の仮面」は「遮光の役割」だけを表現するものではなく、<span><br /></span>「益氏は代々【虞】の要職に就いて、精確な中国海岸線地図を作製した」ということも表現していたことになる。<span><br /></span>上記したように、【虞】という字は【虎】の下に【呉】が加えられる字であるゆえ、<span><br /></span>益氏は「虎」、つまり「精確な地図を作製する長官」であったことになる。<span><br /><br /></span>「虎」といえば、前ページでも指摘したように、<span><br /></span>夏音文字【奴】の字は「子どもの出産」において――「母体<span>(</span>妊婦<span>)</span>が雷鳴<span>(</span>らいめい<span>)</span>や【虎のごとく】大声をあげて、いきみ・きばる怒責<span>(</span>どせき<span>)</span>」をもあらわした。<span><br /></span>だから、「三角形の仮面をかぶる仮面の女神」は「【奴】の強大な力をもって子どもを出産するときの、虎のごとく大声を出して怒責する女性像」を表現していたと考えられる。<span><br /><br /></span>また、夏音文字【奴】の字源・字義は<span><br />(</span>１<span>)</span>「強大な力を有するジャコウウシ」<span><br />(</span>２<span>)</span>「蝶が体を持ち上げて空を飛ぶ羽根の強大な力」<span><br />(</span>３<span>)</span>「ジャコウウシのごとき、強大な力を有する<span>18</span>歳くらいの青年」<span><br />(</span>４<span>)</span>「ジャコウウシのごとき、強大な力で子どもを出産する女性の生殖器」などをあらわした。<span><br /><br /></span>前ページに配した「仮面の女神の正面図」を再度、下に配することにした。<span><br /></span>下図は、「仮面の女神の正面図」である。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000285.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000285" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000285.jpg" alt="0000285" width="299" height="358" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図の腹部中央は「同心円形文様」となる。<span><br /></span>司馬遷著『史記』五帝本紀の黄帝について説明する箇所には、<span><br /></span>「師兵<span>(</span>しへい<span>)</span>を以<span>(</span>もっ<span>)</span>て営衛<span>(</span>えいえい<span>)</span>を為<span>(</span>な<span>)</span>す」という文があり、<span><br /></span>この文は「黄帝軍は駐屯<span>(</span>ちゅうとん<span>)</span>する時には、ジャコウウシの群れが作る円陣のごとく軍兵たちは円形に並んで自衛した」と意味した。<span><br /></span>危険を察知すると、ジャコウウシの群れは子どもを真ん中にかくして円陣をつくる。<span><br /></span>ゆえに、「ジャコウウシ」は「女性の生殖器官の大半を包囲して衛<span>(</span>まも<span>)</span>る骨盤<span>(</span>こつばん<span>)</span>」に見立てられ、<span><br /></span>また「ジャコウウシの群れが作る円陣の真ん中にかくす子」は「子宮で育つ胎児」に見立てられて、<span><br /></span>【黄帝の女性生殖器官と出産の研究を象徴する聖獣<span>(</span>せいじゅう<span>)</span>】と定められた。<span><br /></span>だから、「仮面の女神の腹部の同心円形文様」は「ジャコウウシの群れがつくる円陣」を表現していたにちがいない。<span><br /><br /></span>下に、黄帝陵を長方形に包囲する黄河上流地域の地図を配した。<span><br /></span>黄帝陵は北緯<span>35</span>度<span>35</span>分である。<span><br /></span>黄帝時代、ジャコウウシは冬になると黄帝陵近辺まで南下して群生<span>(</span>ぐんせい<span>)</span>していた。<span><br /></span>したがって、黄帝時代、冬になると北緯<span>35</span>度<span>35</span>分より以北の黄土高原は凍土地帯<span>(</span>とうどちたい・ツンドラ地帯<span>)</span>になって、ジャコウウシは群生していたことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000190_20241028151401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000190_20241028151401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000190_20241028151401.jpg" alt="0000190_20241028151401" width="299" height="355" border="0" /></a> <br /></span>それゆえ、前ページで解説したハート形土偶が出土した郷原遺跡は北緯<span>36</span>度<span>34</span>分、<span><br /></span>後期縄文時代に作られた土偶が出土した余山貝塚は北緯<span>35</span>度<span>45</span>分、みみずく土偶が出土した真福寺貝塚は北緯<span>35</span>度<span>56</span>分、仮面の女神が出土した尖石・中ッ原遺跡は北緯<span>36</span>度であるゆえ、<span><br /></span>これら４基の土偶の出土地は、黄帝時代にジャコウウシが南下して生息した黄土高原<span>(</span>ツンドラ地帯<span>)</span>の緯度とほぼ同じであったことになる。<span><br /></span>だから、これら４基の土偶は夏音文字の【奴】の字源「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったと考えるべきことになる。<span><br /></span>これら４基の土偶からして、北緯<span>40</span>度<span>53</span>分の亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶もまた、その胴体の形状からして見たことがない「ジャコウウシのイメージ」を表現するものであったのであろう。<span><br /><br /></span>◆下に図示したように、東北地方南部の「牡鹿半島の付け根の石巻市<span>(</span>いしまきし<span>)</span>から阿武隈川<span>(</span>あぶくまがわ<span>)</span>の河口までの海岸線の地宜」はしばらく凝視<span>(</span>ぎょうし<span>)</span>していると、「ジャコウウシの横顔」に相似することに気づく。<span><br /></span>ゆえに、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシをあらわす地宜」であったことになる。<br /><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000286_20241028151801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000286_20241028151801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000286_20241028151801.jpg" alt="0000286_20241028151801" width="300" height="267" border="0" /></a> <span><br /><br /></span>下図に示すように、「牡鹿半島の付け根から阿武隈川河口までの海岸線の地宜」が「ジャコウウシの横顔の形」に相似するゆえ、「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの足の形」に見立てられた。<span><br /></span>ゆえに、前述したように「男鹿半島の地宜」は「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。<span><br /></span>したがって、下図に示したように、<span><br />(</span>１<span>)</span>「牡鹿半島の付け根の石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの横顔」、<span><br />(</span>２<span>)</span>「男鹿半島」は夏音文字【奴】の字源・字義の「ジャコウウシの前足と後ろ足」に見立てられた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000287.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000287" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000287.jpg" alt="0000287" width="300" height="315" border="0" /></a> <br /><br /></span>その証拠に、牡鹿半島側の塩竃市<span>(</span>しおがまし<span>)</span>に所在する島の名は「寒風沢島<span>(</span>さぶさわじま<span>)</span>」、<span><br /></span>男鹿半島の根元にある成層火山<span>(</span>せいそうかざん<span>)</span>の名は「寒風山<span>(</span>かんぷうざん<span>)</span>」であり、<span><br /></span>両者は「寒風」の２字が合致する。<span><br /></span>火山でありながら“寒い風”を意味する「寒風山」という名は、「乾燥した烈風<span>(</span>れっぷう<span>)</span>なかで完全にからだを保護して－<span>70</span>℃の酷寒<span>(</span>こっかん<span>)</span>にもたえることができる、やわらかいウールの上に暗褐色<span>(</span>あんかっしょく<span>)</span>の地面にとどくまでに長くのびた厚い防御毛<span>(</span>ぼうぎょもう<span>)</span>でおおわれる特性の二重のコートを着るジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしていることになる。<span><br /></span>したがって、「寒風沢島」という名も「－<span>70</span>℃の酷寒にもたえることができる毛足の長い特性の防寒具でからだをおおうジャコウウシが生息するツンドラ地帯の気候」をあらわしている。<span><br /><br /></span>では、なぜ「牡鹿半島」、また「男鹿半島」とよばれることになったのであろうか。<span><br /></span>卑弥呼が生存した「魏・蜀・呉」の三国が鼎立<span>(</span>ていりつ<span>)</span>して覇権<span>(</span>はけん<span>)</span>を争った状況は「中原<span>(</span>ちゅうげん<span>)</span>に鹿を逐<span>(</span>お<span>)</span>う」と表現された。<span><br /></span>つまり、「中原」は「天下」、「鹿」は「帝位」にたとえられて、「中原に鹿を逐う」は「帝王の位を得るために争う」を意味した。<span><br /></span>司馬遷著『史記』夏本紀には「帝益<span>(</span>ていえき<span>)</span>は故・帝禹<span>(</span>ていう<span>)</span>の三年の喪<span>(</span>も<span>)</span>が終わると、帝位を禹の息子の啓<span>(</span>けい<span>)</span>に争わずに譲<span>(</span>ゆず<span>)</span>った」と記述されている。<span><br /></span>この「帝益の戦争で決めずに禅譲<span>(</span>ぜんじょう<span>)</span>した事績<span>(</span>じせき<span>)</span>」を表現した名称が、<span><br /></span>「牡鹿」と「男鹿」という地名であったと考えられる。<span><br /></span>オスの鹿が争うとき、角<span>(</span>つの<span>)</span>の大きいほうが勝ち小さいほうが負けと定<span>(</span>さだめ<span>)</span>て争わない。<span><br /></span>ゆえに、「帝益が争わずに帝位を啓に譲った事績」は「牡鹿半島の角の大きさと男鹿半島の角の大きさで競<span>(</span>きそ<span>)</span>われた」と伝えられることになった。<span><br /></span>その証拠に「牡鹿半島の地宜」は「オス鹿の角の形」に相似する。<span><br /></span>ゆえに、「男鹿半島」は「オス鹿の横顔と角の形」に見立てられたことになる。<span><br /></span>以上からして、おそらく「牡鹿半島」と「男鹿半島」という名称は、３世紀の三国時代<span>(</span>卑弥呼時代<span>)</span>以後に成立したと考えられる。<span><br /><br /></span>前述したように、後期縄文時代において各地の氏族が夏音文字【奴】の字をあらわす「男鹿半島の地宜を、土偶の両手の形」にした共通性による影響で、<span><br /></span>約<span>2200</span>年後の卑弥呼の時代<span>(</span>２世紀末～３世紀半ば<span>)</span>において、<span><br /></span>『魏志倭人伝』における<span>34</span>の小国名にあって【奴】の字が用いられる頻度<span>(</span>ひんど<span>)</span>が最多になったのであろう。<span><br /></span>『魏志倭人伝』には、名に【奴】の字を用いる小国は――奴国、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、奴国、狗奴国――と<span>10</span>ヵ国存在して、最多である。<span><br /></span>また、そのうちの２ヵ国は「奴国」という同名である。<span><br /></span>上記したように、後期縄文時代、<span>(</span>１<span>)</span>「石巻市から阿武隈川河口までの海岸線」と<span>(</span>２<span>)</span>「男鹿半島」の２ヵ所が夏音文字【奴】の字源・字義をあらわした。<span><br /></span>だから、『魏志倭人伝』には「奴国」という同名の小国が２国存在することになったのであろう。<span><br /><br /></span>◆地図に示されているように、【馬】の字源「フタコブラクダ」が生息する「瀚海<span>(</span>かんかい<span>)</span>・ゴビ沙漠」は北緯<span>41</span>度<span>30</span>分～北緯<span>42</span>度に位置する。<span><br /></span>下図に示す、東北地方の最北端の「下北半島の北端<span>(</span>大間町<span>)</span>」は北緯<span>41</span>度<span>30</span>分である。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/s281.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="S281" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/s281.jpg" alt="S281" width="275" height="283" border="0" /></a> <br /></span>ゆえに、「下北半島の北端」と「瀚海・ゴビ沙漠」の緯度はほぼ同じとなる。<span><br /></span>下図に示すように、後期縄文時代、津軽半島<span>(</span>つがるはんとう<span>)</span>「の西部にある「十三湖<span>(</span>じゅうさんこ<span>)</span>」は現在よりも大きかったゆえ、津軽半島は現在より小さかった。<span><br /></span>ゆえに、「期縄文時代の津軽半島」と「夏泊半島<span>(</span>なつどまりはんとう<span>)</span>は「ラクダのフタコブ」に見立てられた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000288.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000288" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000288.jpg" alt="0000288" width="300" height="267" border="0" /></a> <br /></span>下図に示すように、「下北半島の地宜」は「フタコブラクダの横顔」に相似し、「夏泊半島と津軽半島」は「フタコブ」に見立てられ、「北緯<span>41</span>度<span>30</span>分の下北半島の北端」は「瀚海・ゴビ沙漠」に相当すると見立てられて――【馬】の字源・原義の「フタコブラクダ」をあらわした。<span><br /></span>「陸奥湾<span>(</span>むつわん<span>)</span>」は「女性の骨盤<span>(</span>こつばん<span>)</span>」に見立てられた。<span><br /></span>倉頡は「黄帝が研究した女性生殖器官」と「十字の銀河の子宮」を【一】の字源・字義と定めたゆえ、「子宮を包囲して衛<span>(</span>まも<span>)</span>る骨盤」も【一】の字源・字義と定めた。<span><br /></span>だから、「女性の骨盤の形に相似する陸奥湾」は【壱<span>(</span>一<span>)</span>】の字源・字義をあらわした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000069_20241028152401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000069_20241028152401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000069_20241028152401.jpg" alt="000069_20241028152401" width="300" height="285" border="0" /></a> </span></p>
<p>上図に示したように、「下北半島の西海岸」は「ラクダの鼻から口の部分」に相当するゆえ、「邪馬<span>(</span>やま<span>)</span>」という語をあらわした。<span><br /></span>というのも、下図に示すように、「邪馬」という語は「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」をあらわすものであったからである。<span><br /></span>ゆえに、「邪馬」と「陸奥湾の【壱】」を加えると、『魏志倭人伝』に「女王・卑弥呼の都とする所なり」と記述される――倭人国の首都所在地「邪馬壱国」という名称をあらわすことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000043_20241028152401.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000043_20241028152401" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000043_20241028152401.jpg" alt="000043_20241028152401" width="300" height="287" border="0" /></a> <br /><br /></span>下図に示す出産児の頭蓋骨は後頭部の「小泉門<span>(</span>しょうせんもん<span>)</span>」、頭頂骨<span>(</span>とうちょうこつ<span>)</span>にある「矢状縫合<span>(</span>やじょうほうごう<span>)</span>」、頭頂骨と前頭骨の中間にある「大泉門<span>(</span>だいせんもん<span>)</span>」もまた、「邪馬」とよばれた。<span><br /></span>出産児の頭蓋骨の縫合は完成しておらず、その「骨どうしの間の小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性<span>(</span>けつごうそしきせい<span>)</span>の膜<span>(</span>まく<span>)</span>の形」は、上記した「邪馬」という語の「餌の草を食べる時の、フタコブラクダの鼻から口までの形状」に酷似<span>(</span>こくじ<span>)</span>する。<span><br /></span>ゆえに、下図の左側に配したように「小泉門・矢状縫合・大泉門」もまた「邪馬」と名づけられた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000040_20241028152501.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000040_20241028152501" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000040_20241028152501.jpg" alt="000040_20241028152501" width="300" height="274" border="0" /></a> <br /></span>「横長の骨盤入口は平面的ではなく、邪<span>(</span>なな<span>)</span>め」となる。ゆえに、「出産児は頭を邪めにして最小の周囲径<span>(</span>しゅういけい<span>)</span>で骨盤入口を通過する」。<span><br /></span>今日の産婦人科では「出産児が頭を斜<span>(</span>なな<span>)</span>めにして後頭部の最小径で、斜めの骨盤入口を通過する」ゆえ、「邪馬」を「小斜径<span>(</span>しょうしゃけい<span>)</span>」と呼称する。<span><br /></span>せまい産道を通りぬける赤ちゃんの「小斜径」の健気<span>(</span>けなげ<span>)</span>な努力は、非常に神秘的で・涙が出るほど感動的で【命<span>(</span>いのち<span>)</span>】の尊厳<span>(</span>そんげん<span>)</span>をあらわす光景である。<span><br /></span>だから、「小斜径」は「邪馬」と呼ばれ、この「邪馬」に「黄帝が研究した女性生殖器と出産に関する器官」の字源【壱】が加えられて、倭人国の首都が所在する王国は「邪馬壱国」と名づけられた。<span><br /><br /></span>以上のごとく、益氏が居住した東北地方の地宜は【黄帝の女性の生殖器官と出産の医学研究】と【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源・字義「フタコブラクダ」と【奴】の字源・字義「ジャコウウシ」をあらわした。<span><br /></span>だから、フタコブラクダもジャコウウシも生息していなかったが――日本列島の始まりと終わりには、【倉頡の文字作成理論】を象徴する【馬】の字源「フタコブラクダの地宜」と【奴】の字があらわす「ジャコウウシの地宜」が形成されていたゆえ――益氏の居住した東北地方は【倉頡の精霊<span>(</span>死霊<span>)</span>が棲む地】となって結縄<span>(</span>けつじょう<span>)</span>・書契<span>(</span>しょけい<span>)</span>・夏音文字は習得・保存され、卑弥呼の時代になっても西日本・倭人国において結縄・書契・夏音文字は失われなかったのである。<span><br /></span>その証拠に、<span>712</span>年１月<span>28</span>日に成立した〔古事記上巻　并<span>(</span>あわ<span>)</span>せて序〕では夏音文字について説明され、『古事記』上巻の随所には〔音〕という注がついて夏音文字が多数残っている。<span><br /></span>この「夏音文字」には【倉頡の文字作成理論】が色濃く残っている。<span><br /><br /></span>◆『魏志倭人伝』の初頭部には「始めて一海を度<span>(</span>わた<span>)</span>る千余里、対馬国<span>(</span>つしまこく<span>)</span>に至る」、「又、南一海を渡る千余里、名づけて瀚海と曰<span>(</span>い<span>)</span>う。一大国<span>(</span>いちだいこく<span>)</span>に至る」という記事がある。<span><br /></span>上記の「対馬国」は「現在の長崎県北部の対馬」であった。<span><br /></span>「一大国」は「現在の長崎県北部の壱岐」であった。<span><br /><br /></span>下図に示すように、【馬】の字源銀河は「十字の銀河」であり、【馬】の字源・原義は「フタコブラクダ」であった。<span><br /></span>そして、「対馬の上県<span>(</span>かみあがた<span>)</span>の地宜<span>(</span>ちぎ<span>)</span>」は「フタコブラクダの正面の姿」に、「対馬の下県<span>(</span>しもあがた<span>)</span>の地宜」は「フタコブラクダの足底」に相似すると見立てられて、「フタコブラクダの正面の姿と足跡の形」が「一対<span>(</span>いっつい<span>)</span>になっている」ゆえ、卑弥呼は小国名を「対馬国」と定めた。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000015_20241028152701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000015_20241028152701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000015_20241028152701.jpg" alt="000015_20241028152701" width="300" height="283" border="0" /></a> <br /><br /></span>『魏志倭人伝』は「対馬国と一大国の中間の海の名」を「瀚海」と記す。<span><br /></span>「瀚海」は「フタコブラクダが生息するゴビ沙漠」を意味した。<span><br /></span>だから、下図に示すように、「一大国・壱岐の西部の地宜」は「フタコブラクダの顔とコブの形」に相似すると見立てられた。<span><br /></span>下図に示すように、「一大国・壱岐の東部の地宜」は「ジャコウウシの姿」に相似する。<span><br /></span>前述したように、「フタコブラクダ」と「ジャコウウシ」は「黄帝の女性生殖器官と出産の研究」を象徴する聖獣と定められたゆえ、【壱<span>(</span>一<span>)</span>】の字源をあらわした。<span><br /></span>これゆえ、「一大国」は「【壱<span>(</span>一<span>)</span>】の字源をあらわすフタコブラクダとジャコウウシの姿に相似する地宜に岐<span>(</span>わか<span>)</span>れる」ゆえ――後世、「一大国」は「壱岐」と呼ばれることになった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000019_20241028152801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000019_20241028152801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000019_20241028152801.jpg" alt="000019_20241028152801" width="299" height="312" border="0" /></a> <br /></span>下図に示すように、【馬】の字源「フタコブラクダの姿」に相似する「対馬国の地宜」は「経度軸・緯度軸に対して邪<span>(</span>なな<span>)</span>め」に所在する」ゆえ、「邪馬」ということになる。<span><br /></span>上記したように、「一大国の地宜」は【壱】の字源を示す。<span><br /></span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/000012_20241028152801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="000012_20241028152801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/000012_20241028152801.jpg" alt="000012_20241028152801" width="300" height="471" border="0" /></a></p>
<p><br />だから、倭人国の首都が所在した王国名は『魏志倭人伝』が記すように「邪馬壱国」であり、新井白石<span>(</span>あらいはくせき<span>)</span>以来約<span>300</span>年間も学者たちが主張する「邪馬台国」ではなかった。<span><br /></span>「邪馬」は「せまい産道を通過する出産児の頭蓋骨にある小泉門・矢状縫合・大泉門の結合組織性の膜」を意味し、「非常に神秘的で感動的な出産児の【命】のいとなみ」をあらわす語であった。<span><br /></span>白石以来約<span>300</span>年間も学者たちが主張する「邪馬台国説」の「邪馬」は今日の産婦人科の用語「小斜径」と同義ではなく、「大和<span>(</span>やまと<span>)</span>」の「やま」や「山門<span>(</span>やまと<span>)</span>の「山」である。<span><br /><br /></span>「邪馬」は「子宮から堅<span>(</span>かた<span>)</span>い骨盤入口に入りこんでせまい産道を通過する出産児の頭蓋骨の結合組織性の膜」であったゆえ、【壱】の字源「黄帝が研究した女性生殖器官と出産」に密接に関連した。<span><br /></span>いっぽう、「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国」の【臺<span>(</span>台<span>)</span>】の字について、白川静著『字統』は「もと象形で花の萼拊<span>(</span>がくふ<span>)</span>の形である」と解説する。<span><br /></span>「邪馬・小斜径」と「花の萼拊。つまり花弁を支える台<span>(</span>うてな<span>)</span>」のあいだには関連性はまったくない。<span><br /></span>だから、「邪馬」と【臺<span>(</span>台<span>)</span>】は結ぶつくことができないゆえ、本来<span>(</span>ほんらい<span>)</span>、「邪馬臺<span>(</span>台<span>)</span>国」という語は不条理<span>(</span>ふじょうり<span>)</span>きわまりない、この世に存在しないはずの名詞であったことになる。<span><br /><br /></span>以上からして、『魏志倭人伝』の「対馬国から南一海を渡る千余里。名づけて瀚海と曰<span>(</span>い<span>)</span>う。一大国に至る」という記事は、邪馬台国説のごとく無視・抹消<span>(</span>まっしょう<span>)</span>することができない。<span><br /></span>「瀚海」は【馬】の字源・原義は「フタコブラクダであった」と証明することができる、重大な不可欠要素であった。<span><br /></span>白石以来の約<span>300</span>年間継続される邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は「瀚海」の記事を無視し、まるで『魏志倭人伝』には「瀚海」などの記事はまったく存在しないかのごとくあつかう。<span><br /></span>だから、邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は自説に不都合<span>(</span>ふつごう<span>)</span>な記事を抹消し無視する独断<span>(</span>どくだん<span>)</span>と偏見<span>(</span>へんけん<span>)</span>であったことになる。<span><br /><br /></span>前述したように、後期縄文時代、益氏の王子と若者たちが教えひろめた【倉頡が発明した文字作成異論】を土偶で表現するときに、「北緯<span>35</span>度<span>35</span>分の黄帝陵の天頂緯度線」が注目された。<span><br /></span>「山陰・出雲地方の島根県松江市の北端」は「黄帝陵」と同緯度の北緯<span>35</span>度<span>35</span>分である。<span><br /></span>だから、卑弥呼は後期縄文時代以来の伝統にもとづいて、倭人国の首都を今日の「松江市」に定めて、王国名を「邪馬壱国」と定めたにちがいない。<span><br /><br /></span>日本列島において、関東地方においては東京湾に面する千葉県千葉市が北緯<span>35</span>度<span>35</span>分あたりとなる。<span><br /></span>ゆえに、松江市と千葉市を線で結ぶと、邪馬台国畿内説が証拠とする箸墓古墳<span>(</span>はしはかこふん<span>)</span>や纏向遺跡<span>(</span>まきむくいせき<span>)</span>が所在する奈良県は黄帝陵と同緯度の北緯<span>35</span>度<span>35</span>分ではないことが一目でわかる。<span><br /></span>同様に、邪馬台国九州説が証拠とする吉野ヶ里遺跡<span>(</span>よしのがりいせき<span>)</span>が所在する佐賀県もまた黄帝陵と同緯度ではない。<span><br /></span>この観点からしても、奈良県の箸墓古墳・纏向遺跡と佐賀県の吉野ケ里遺跡は、卑弥呼が倭人国の首都と定めた王国の証拠にはならない。<span><br /><br /></span>◆『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の終わり」とする記事は「裸国<span>(</span>らこく<span>)</span>・黒歯国<span>(</span>こくしこく<span>)</span>有り。復<span>(</span>ま<span>)</span>た其の東南に在りて船行一年にして参問至る可<span>(</span>べ<span>)</span>き。倭の地を参問するに、海中洲島<span>(</span>かいちゅうしゅうとう<span>)</span>の上に絶在<span>(</span>ぜつざい<span>)</span>し、或<span>(</span>ある<span>)</span>いは絶え或いは連なり、周旋<span>(</span>しゅうせん<span>)</span>五千余里可<span>(</span>ばか<span>)</span>り」という文章である。<span><br /></span>この「日本列島地図説明の終わり」の記事における最後<span>(</span>どんづまり<span>)</span>は、前述したように、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「東北地方北端の下北半島・夏泊半島・津軽半島」であった。<span><br /></span>そして、『魏志倭人伝』における「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた、【馬】の字源「フタコブラクダ」をあらわす「対馬国」である。<span><br /><br /></span>前述したように、「日本列島地図説明の終わり」の最後<span>(</span>どんづまり<span>)</span>」の「下北半島の西海岸と陸奥湾」は「邪馬壱」という語をあらわした。<span><br /></span>また、「日本列島地図説明の始まり」の記事もまた「経度軸と緯度軸に邪めとなる、【馬】の字源をあらわす対馬国の地宜」と次の小国は「【壱】の字源をあらわす一大国<span>(</span>壱岐<span>)</span>」であるゆえ、「邪馬壱」という語をあらわした。<span><br /></span>いままで説明してきたように、『魏志倭人伝』における「日本列島地図を説明する記事」では、<span><br /></span>「日本列島の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、<span><br /></span>「始まりと終わり」は共に「邪馬壱」という語をあらわし、また始まりに記される「瀚海」は「ゴビ沙漠」をあらわすゆえ、【馬】の字源は「ゴビ砂漠に生息するフタコブラクダ」であったことになる。<span><br /></span>だから、「卑弥呼が居住した倭人国の首都が所在する土地の名」は「邪馬壱国」であって「邪馬台国ではなかったことになり、邪馬台国説が主張するがごとく「邪馬」は「大和」の「やま」や「山門」の「山」でもなかったことになる。<span><br /><br /></span>以上のごとく、「日本列島像の始まりは終わり、終わりは始まり」となって、<span><br /></span>「白石以来<span>300</span>年間つづく邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は空理空論であった」と証言している。</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>卑弥呼</dc:subject>
<dc:subject>邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
<dc:subject>アルファベットの起源</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源</dc:subject>
<dc:subject>日本国誕生史の証明</dc:subject>
<dc:subject>大嘗祭の証明</dc:subject>
<dc:subject>まぼろしの邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源と発明を解明す</dc:subject>

<dc:creator>大川誠一</dc:creator>
<dc:date>2024-10-28T15:31:13+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2024/10/post-84086f.html">
<title>漢字の起源と発明を解明す・35</title>
<link>https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/2024/10/post-84086f.html</link>
<description>柿本人麻呂の軽皇子の成年式を詠む和歌の秘密の解明◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>柿本人麻呂の軽皇子の成年式を詠む和歌の秘密の解明<span><br /><br /></span>◆漢字は、【夏の銀河各部の形状】から作られて起源した。<span><br /></span>【夏の銀河】とは「夏の星座が漬<span>(</span>つ<span>)</span>かる銀河」のことをいう。<span><br /></span>「夏の銀河」は通常「天の川」、「銀河」とも呼ばれ、時には「銀漢」とも呼ばれる。<span><br /></span>「銀漢各部の形状から作られた文字」を省略して、中国でもわが国でも「漢字」と表記した。<span><br /><br /></span>下に、【夏の銀河のカラー写真】を配した。<span><br /></span>この写真は、ＰＩＸＴＡ<span>(</span>ピクスタ<span>)</span>が撮影した。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/ginga_kara1_20241015094701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="Ginga_kara1_20241015094701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/ginga_kara1_20241015094701.jpg" alt="Ginga_kara1_20241015094701" width="299" height="450" border="0" /></a> <br /></span>今から約<span>5000</span>年前、中国の五帝時代初頭に生存した黄帝<span>(</span>こうてい<span>)</span>につかえていた倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>は【夏の銀河各部の形状から文字<span>(</span>漢字<span>)</span>作成する方法<span>(</span>理論<span>)</span>】を発明した。<span><br /></span>この事実を詳細に具体的に組織的に説明していたのが、<span><br /></span>卑弥呼が登場することで有名な古文献の『魏志倭人伝<span>(</span>ぎしわじんでん<span>)</span>』である。<span><br /></span>江戸時代中期に生存した新井白石<span>(1657</span>―<span>1725</span>年<span>)</span>以来今日まで約<span>300</span>年間、多数の学者たちによって『魏志倭人伝』は「邪馬台国について説明する文献史料である」と定められた。<span><br /></span>しかし、それ以前は「朝廷・天皇家が権力基盤とした最高学問【倉頡の文字作成方法<span>(</span>理論<span>)</span>】を説明する聖典<span>(</span>せいてん<span>)</span>であり――国家と王朝が独占管理して革命に利用されないようにもっとも厳重に機密を保持しなければならない秘書<span>(</span>秘密の書物<span>)</span>」であった。<span><br /></span>〔注　上記したように『魏志倭人伝』が「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典」であった事実は、このブログの前にて紹介したわが著書『大嘗祭の証明』<span>(</span>ｋｉｎｄｌｅ版<span>)</span>にて詳細に解説して証明した。〕<span> <br /><br /></span>現在、学者たちは「倉頡が漢字を発明したと伝える倉頡伝説は荒唐無稽<span>(</span>こうとうむけい<span>)</span>の作り話である」と断定する。<span><br /></span>しかし、この定説は根本的にまちがっている。<span><br /></span>というのも、上記したように、朝廷・天皇家が権力基盤とした「【倉頡の文字作成理論】を説明する最高学問の聖典『魏志倭人伝』によって「倉頡伝説は事実であった」と詳細に組織的に明確に証明することができるからである。<span><br /><br /></span>◆『魏志倭人伝』には――昔<span>(</span>むかし<span>)</span>、昔<span>(</span>むかし<span>)</span>、夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき・紀元前<span>2050</span>年頃<span>)</span>、帝益<span>(</span>えき<span>)</span>の孫の王子と若者たちが大海を越えて日本列島に九州の地に到着し、本州を日本海沿いに北進<span>(</span>ほくしん<span>)</span>して東北地方の男鹿半島・八郎潟の西の偏<span>(</span>ほとり<span>)</span>に定住した――という歴史を説明する記事がある。<span><br /><br /></span>益氏の王子と若者たちは、<span><br />(</span>１<span>)</span>三皇時代の易占<span>(</span>うらない<span>)</span>に用いる記号の結縄<span>(</span>けつじょう<span>)</span>、<span><br />(</span>２<span>)</span>五帝時代の最初の漢字の書契<span>(</span>しょけい<span>)</span>、<span><br />(</span>３<span>)</span>夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき<span>)</span>の夏音<span>(</span>かおん<span>)</span>文字、<span><br />(</span>４<span>)</span>黄帝の女性生殖器官と出産の医学研究、<span><br />(</span>５<span>)</span>倉頡の文字作成理論、<span><br />(</span>６<span>)</span>精密な中国海岸線地図と精密地図作製方法<span><br /></span>を教え広めた。<span><br /><br /></span>紀元前<span>21</span>世紀の夏代黎明期<span>(</span>かだいれいめいき<span>)</span>から卑弥呼が生存した２世紀末の後期弥生時代までの約<span>2200</span>年間、<span><br /></span>上記した三皇時代の結縄と五帝時代の書契と夏代黎明期の夏音文字は、様々な神をあらわす名・地名・人名・動物や植物の名称・様々な事物の名などをあらわして残され保存された。<span><br /></span>これゆえ、結縄・書契・夏音文字は『魏志倭人伝』において、人名・小国名・官職名・動物や植物の名・様々な事物の名などに記されて残った。<span><br /></span>また、夏音文字は<span>712</span>年１月<span>28</span>日に元明<span>(</span>げんめい<span>)</span>天皇に献上された『古事記』の上巻の随所に〔音〕という注がつき、楷書を音符・意符に用いて多数残っている。<span><br /></span>したがって、現在、学界が断定する「わが国が最初に漢字を習得したのは５世紀あるいは６世紀である」という絶対的定説もまた、空理空論であったことになる。<span><br /><br /></span>◆わがブログは「漢字の起源と発明を解明す・<span>32</span>」までをもって、<span><br /></span>卑弥呼が統治した倭人国における対馬国<span>(</span>つしまこく<span>)</span>と一大国<span>(</span>いちだいこく<span>)</span>の「北・南」の一例のみは特殊で現在方位と同じであるが――末盧国<span>(</span>まつろくに<span>)</span>から黒歯国<span>(</span>こくしこく<span>)</span>までの<span>32</span>の小国記事におけるすべての方位記事は【倭】の字源「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」に則<span>(</span>のっと<span>)</span>ってすべて合理となり、１ヵ所も誤記や誤りや矛盾点や不合理な点が存在しないゆえ、【組織的に合理】が成立してすべて正確であると証明した。<span><br /><br /></span>また、『魏志倭人伝』にある「其の道里<span>(</span>どうり<span>)</span>を計るに当<span>(</span>まさ<span>)</span>に会稽<span>(</span>かいけい<span>)</span>の東治<span>(</span>とうじ<span>)</span>の東に在るべし」という記事は、<span><br /></span>下図に示すように、【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】ならば「中国の会稽と東治の東」に存在するが、<span><br /></span>新井白石以来の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説のごとく【現在方位】に則る意見だと、「日本列島地図は中国の会稽と東治の東北に存在」して矛盾し不合理となる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k576_20241015094801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K576_20241015094801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k576_20241015094801.jpg" alt="K576_20241015094801" width="169" height="236" border="0" /></a> <br /><br /></span>このように、『魏志倭人伝』の対馬国の北・一大国の南の一例を除く、全方位記事は【倭】の字源に合致して合理・正確であると証明されて【科学】が成立する。<span><br /><br /></span>他方<span>(</span>たほう<span>)</span>、新井白石以来の邪馬台国説畿内説と邪馬台国九州説は「『魏志倭人伝』の方位規定は現在方位と同一とする」が、この方位規定だと『魏志倭人伝』の全記事と合致せず、幾つかの点で不合理となりまた矛盾する。<span><br /></span>ゆえに、邪馬台国説学者たちは「『魏志倭人伝』における方位を記す記事はじめ様々な記事には幾つかの誤りがある。ゆえに、軽々しく『魏志倭人伝』の記事を信用してはいけない」と指摘して、自説はあくまで正しく『魏志倭人伝』に誤り・欠点があると主張する。<span><br /><br /></span>上記したように、『魏志倭人伝』に記される全方位記事は、「倭人国」の【倭】の字源「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」に則<span>(</span>のっと<span>)</span>ってすべて合理になるように統一されているため、<span><br /></span>邪馬台国説学者たちが「誤り、あるいは誤記。信用できない」と主張するすべての記事は【組織的に合理、いわゆる科学】が成立してすべて合理で正確であったと証明することができる。<span><br /></span>この証明によって、邪馬台国説は合理がまったく成立しない、非科学・非理<span>(</span>ひり<span>)</span>の錯覚<span>(</span>さっかく<span>)</span>の産物であり、最初の立論段階から空理空論であったことが明白となる。<span><br /><br /></span>◆下記の和歌は、『万葉集<span>(</span>まんようしゅう<span>)</span>』巻一・<span>48</span>番は、柿本人麻呂<span>(</span>かきのもとのひとまろ<span>)</span>が作った有名な短歌である。<span><br /><br /></span>東<span>(</span>ひむかし<span>)</span>の　野にかぎろひの　立つ見えて　かへり見すれば　月かたぶきぬ<span><br /></span>万葉仮名の原文は――東　野炎　立所見而　反見為者　月西渡――である。<span><br /></span>〔上記の短歌を現代語に訳すると――東の野に炎<span>(</span>かぎろひ<span>)</span>が立つのが見えて、ふりかえって見ると、月は西に傾いていた――となる〕。<span><br /><br /></span>この短歌にて詠<span>(</span>よ<span>)</span>まれる「東」は【倭】の字源「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」だと「南」となり、「月西渡<span>(</span>月かたぶきぬ<span>)</span>」の「西」は「北」となる。<span><br /></span>しかし、上記の人麻呂が詠んだ『万葉集』巻一・<span>48</span>番の短歌における「東」は現在方位と同じ「東」であり、また「西」も現在方位は現在方位と同じ「西」と解釈しなければならない。<span><br /><br /></span>上記した『万葉集』巻一・<span>48</span>番の短歌は<span>691</span>年<span>(</span>持統天皇６年<span>)</span>かあるいは翌<span>692</span>年<span>(</span>持統天皇７年<span>)</span>に作られたと考えられる。<span><br /></span>したがって、<span>702</span>年<span>(</span>大宝２年<span>)</span>に中国に派遣された第７回遣唐使によって、国号が「倭<span>(</span>倭人国<span>)</span>」から「日本」へ改名されたゆえ、<span>691</span>年・<span>692</span>年当時の国号は「倭」であった。<span><br /></span>また、前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>34</span>」にて指摘したように、<span><br />691</span>年・<span>692</span>年当時は、<span>738</span>年に<span>45</span>代・聖武天皇<span>(</span>しょうむてんのう<span>)</span>によって全国に国郡の地図作成の命令が下されて、卑弥呼が立論した「日本列島の〔東〕は〔南〕に伸びる」と定めた「転回日本列島地理」が改定されない以前であった。<span><br /></span>ゆえに、<span>691</span>年・<span>692</span>年当時において、人麻呂はなにゆえ【倭】の字源を用いずに、「東」を「東」と名づけ、「西」を「西」を名づけたのであろうか。<span><br /><br /></span>この『万葉集』巻一・<span>48</span>番の和歌は、【軽皇子<span>(</span>かるのみこ<span>)</span>の成年式を祝う和歌】であった。<span><br /></span>だから、人麻呂は【成年式を祝う和歌】において、「【倉頡の文字作成理論】における【高等学校級の学識】を示して――「東」は現在方位と同じく「東」と称し、「西」は現在方位と同じく「西」と称することにしたのである。<span><br /></span>つまり、『万葉集』巻一・<span>48</span>番の短歌は「成年式を祝う和歌」であったため――人麻呂は「いまだ軽皇子は皇位に就<span>(</span>つ<span>)</span>いた天子」ではないゆえ、【天子の徳<span>(</span>学識<span>)</span>】をあらわす【最高級の大学学識】　</p>
<p>の【倭】の字源「転回方位規定」を用いずに、【成年式にふさわしい、高等学校級の学識】を用いて現在方位と同じく「東」と「西」と表現することにしたのである。<span><br /></span>これゆえ、人麻呂が作った『万葉集』巻一・<span>48</span>番の短歌における「東」と「西」の用法は正しいことになる。<span><br /><br /></span>◆前記した柿本人麻呂が作った『万葉集』巻一・<span>48</span>番の短歌に詠まれた光景は、具体的に何年何月何日の何時何分の出来事<span>(</span>できごと<span>)</span>であったかをつきとめようとした人物が二人いる。<span><br /></span>この二人について、大和書房発行の『東アジアの古代文化』<span>53</span>号で、わたくしは知った。<span><br /></span>これは、大和<span>(</span>おおわ<span>)</span>岩雄著「柿本人麻呂の安騎野<span>(</span>あきの<span>)</span>の歌をめぐって」で説明され、その概要は次のごとくである。<span><br /><br /></span>――画家の中山正美氏と万葉学者の犬養孝氏の二人は、人麻呂作の曙<span>(</span>あけぼの<span>)</span>の歌が成立した時点を具体的につきとめようとした。中山氏は、人麻呂の曙の和歌を題材とする壁画「阿騎野の朝」を制作しようとして、東京天文台の辻技師にその具体的な日付を調べてもらった。その結果、それは持統<span>(</span>じとう<span>)</span>６年<span>11</span>月<span>17</span>日午前５時<span>55</span>分前後という結論を得た。犬養氏の場合は、その著書『万葉の旅<span>(</span>上<span>)</span>』にかかげる写真のため、彼の友人・伊藤銀造氏が冬の阿騎の野へ数年がかりで通われて、ついに昭和<span>36</span>年<span>12</span>月<span>24</span>日の朝、歌の光景に合致する曙の瞬間<span>(</span>しゅんかん<span>)</span>を撮影することに成功した。そして、この<span>12</span>月<span>24</span>日は、旧暦<span>(</span>太陰暦<span>)</span>に換算すると中山氏と同じ<span>11</span>月<span>17</span>日になる。　<span><br /></span>この歌は「軽皇子<span>(</span>かるのみこ<span>)</span>の安騎の野に宿りまし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」という題詞歌<span>(</span>だいしか<span>)</span>のうちの一つである。前の二人の調査を理由として、坂下圭八氏は、この歌の阿騎野狩猟が成年式祭儀だとすれば、「冬至の日を期して行われたにちがいない」と考える。<span><br /></span>また、この歌は、持統６年春の天皇の伊勢行幸<span>(</span>いせぎょうこう<span>)</span>に関連する歌群と、持統８年までに完成する藤原宮の造営役民の歌との間に配列されているから、持統６年か７年の冬の作歌と推定されている。<span><br /><br /></span>結局、『万葉集』巻一の<span>48</span>番の短歌は、<span>691</span>年<span>(</span>持統６年<span>)</span>か翌<span>692</span>年<span>(</span>持統７年<span>)</span>の冬至の午前６時頃の光景を詠む歌ということになる。<span><br /></span>下図に示す〔歳差状況図<span>(</span>さいさじょうきょうず・天の北極の位置図<span>)</span>〕に利用すると、<span>691</span>年・<span>692</span>年の天の北極と春分点を再現することができる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k51_20241015094901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K51_20241015094901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k51_20241015094901.jpg" alt="K51_20241015094901" width="262" height="252" border="0" /></a> <br /><br /></span>上図が示すように、天の北極の位置は<span>25,800</span>年で円形<span>360</span>度を一周して、もとの位置に戻<span>(</span>もど<span>)</span>る。<span><br /></span>ゆえに、<span>25,800</span>年÷<span>360</span>度＝<span>71.666666</span>年となる。<span><br /></span>つまり、【天の北極は、約<span>71.67</span>年に角距離<span>(</span>黄道の北極を中心とする大円における角距離<span>)</span>が１度ずつ移動している】ことになる。<span><br /></span>現在<span>(2024</span>年<span>)</span>から<span>692</span>年<span>(</span>持統７年<span>)</span>は<span>1332</span>年前であるゆえ、歳差の変動角度は<span>1332</span>年÷<span>71.67</span>年＝<span>18.59</span>度となる。<span><br /></span>ゆえに、天の北極の位置と、黄道の北極を中心とする大円における春分点の位置を角距離<span>19</span>度<span>(18.59</span>度<span>)</span>過去にもどして再現した<span>12</span>月<span>24</span>日の天文図は、<span><br /></span>柿本人麻呂が作った『万葉集』巻一・<span>48</span>番の持統６年あるいは持統７年の旧暦<span>11</span>月<span>17</span>日の冬至の午前６時頃の天文の光景をあらわしていることになる。<span><br /><br /></span>下図は、<span>691</span>年<span>(</span>持統６年<span>)</span>あるいは翌<span>672</span>年<span>(</span>持統７年<span>)</span>の冬至の日の午前６時頃の天文図である。<span><br /></span>注目すべきは、このとき、下図の左上に記したように、〔東北の地平線上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河が姿を現<span>(</span>あらわ<span>)</span>していた〕。<span><br /></span>冬至の日の午前６時、いまだ太陽は地平線下に潜<span>(</span>もぐ<span>)</span>って夜は明けず暗かったゆえ――このとき、「十字の銀河」は見えたことになる。<span><br /></span>ゆえに、人麻呂は「東北の地平線」を「東<span>(</span>ひむかしの<span>)</span>」と詠み、「姿を現した十字の銀河」を見て「野炎立<span>(</span>のにかぎろひのたつ<span>)</span>」と表現したのである。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000272.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000272" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000272.jpg" alt="0000272" width="300" height="303" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆倉頡<span>(</span>そうきつ<span>)</span>はみずから発明した文字の学芸は最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと心配した。<span><br /></span>これゆえ、倉頡は「文字の学芸を容易に習得するために、文字が作られた銀河各部に名称をつけた者はじめその家族および一族全員を死刑にする」と定めた。<span><br /></span>この倉頡が死刑と定めた掟<span>(</span>おきて<span>)</span>のためであろうか――現在にいたっても【夏の銀河各部の名称】は存在しない。<span><br /></span>これからおこなう解説と証明には、どうしても【夏の銀河各部の名称】が必要である。<span><br /></span>ゆえに、わたくしは下図のごとく【夏の銀河各部の名称】を定めることにした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/00003_20241015095301.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="00003_20241015095301" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/00003_20241015095301.jpg" alt="00003_20241015095301" width="299" height="433" border="0" /></a> <br /></span>上図の左上に、わたくしが「十字の銀河」と名づけた銀河がある。<span><br /></span>前述したとおり――すぐ前ページに配した「<span>691</span>年・<span>692</span>年の冬至の日の午前６時頃の天文図」の左上に表示した「東北の地平線」を人麻呂は「東<span>(</span>ひむかしの<span>)</span>」と詠み、「東北の地平線上に姿を現した十字の銀河」を「炎立<span>(</span>かぎろひのたつ<span>)</span>」と表現した。<span><br /><br /></span>下図に左側に配する「十字の銀河」は「〔炎<span>(</span>ほのお<span>)</span>〕の色のごとく、黄色く橙色<span>(</span>だいだいいろ<span>)</span>にキラキラと輝く」ゆえ、【炎】の字源銀河となった。<span><br /></span>その証拠に、「十字の銀河」は【大】字形であり、【炎】の契文形は【大】字形の周囲に「炎<span>(</span>ほのお<span>)</span>」あるいは「火の粉<span>(</span>こ<span>)</span>」をあらわす短い線を四つ加えて成立する。<span><br /></span>また、【立】の契文形も「十字の銀河の形」に相似する【大】字形の下に【一】を加えて成立する。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000273.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000273" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000273.jpg" alt="0000273" width="299" height="324" border="0" /></a> <br /></span>人麻呂が作った『万葉集』巻一・<span>48</span>番の短歌を作った、この時は、すべてのものが生まれ変わると考えられた冬至の曙の時刻であった。<span><br /></span>この時、軽皇子の成年式が行われていた。<span><br /></span>この軽皇子は、人麻呂が仕<span>(</span>つか<span>)</span>えた草壁王子<span>(</span>くさかべおうじ・<span>689</span>年に死去<span>)</span>の御子<span>(</span>みこ<span>)</span>であった。<span><br /><br /></span>人麻呂が「東<span>(</span>ひむかし<span>)</span>の　野<span>(</span>の<span>)</span>に炎<span>(</span>かぎろひ<span>)</span>の　立<span>(</span>た<span>)</span>つ見えて」と詠んだ『万葉集』巻一・<span>48</span>番の短歌は、「軽皇子の安騎の野に宿りまし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」という題詞歌<span>(</span>だいしか<span>)</span>の<span>45</span>番～<span>49</span>番までの５首のうちの一首である。<span><br /><br />40</span>代・天武天皇<span>(</span>てんむてんのう<span>)</span>の皇后が、<span>41</span>代・持統天皇<span>(</span>じとうてんのう<span>)</span>である。<span><br /></span>持統天皇の愛孫が、軽皇子である。<span><br /></span>持統天皇は軽皇子を擁立<span>(</span>ようりつ<span>)</span>し、<span>697</span>年に軽皇子に天皇を譲位<span>(</span>じょうい<span>)</span>した。<span><br /></span>つまり、成年式から５～６年後に軽皇子は、<span>42</span>代・文武天皇<span>(</span>もんむてんのう<span>)</span>となった。<span><br /><br /></span>このような文武天皇の成年式を詠む長歌が、「軽皇子、安騎<span>(</span>あき<span>)</span>の野に宿<span>(</span>やど<span>)</span>る時に、柿本朝臣人麻呂<span>(</span>かきのもとのあそみひとまろ<span>)</span>の作る歌」という題詞<span>(</span>だいし<span>)</span>の、『万葉集』巻一・<span>45</span>番である。<span><br /></span>この長歌において、注目すべきは、<span>11</span>句目の「真木立<span>(</span>まきた<span>)</span>つ」という語である。<span><br /></span>人麻呂は軽皇子の教育係となって――軽皇子に「真木立つ、経度線測量」、言いかえると【景】の字源を教える、大雪が降る安騎の野の旅に従事<span>(</span>じゅうじ<span>)</span>していた。<span><br /><br /></span>この『万葉集』巻一・<span>45</span>番の長歌は、下記のごとくである。<span><br /></span>やすみしし　吾<span>(</span>わ<span>)</span>が大王<span>(</span>おほきみ<span>)</span>　高照<span>(</span>たかて<span>)</span>らす　日<span>(</span>ひ<span>)</span>の皇子<span>(</span>みこ<span>)</span>　神<span>(</span>かむ<span>)</span>ながら　神さびせすと　太<span>(</span>ふと<span>)</span>しかす　京<span>(</span>みやこ<span>)</span>を置きて　こもりくの　泊瀬<span>(</span>はつせ<span>)</span>の山は　真木立<span>(</span>まきた<span>)</span>つ　荒き山道<span>(</span>やまぢ<span>)</span>を　岩<span>(</span>いは<span>)</span>が根　禁樹<span>(</span>さへき<span>)</span>押しなべ　坂鳥<span>(</span>さかどり<span>)</span>の　朝越えまして　玉かぎる　夕<span>(</span>ゆふ<span>)</span>さり来<span>(</span>く<span>)</span>れば　三雪<span>(</span>みゆき<span>)</span>降る　阿騎の大野に　はたすすき　小竹<span>(</span>しの<span>)</span>を　押しなべ　草枕<span>(</span>くさまくら<span>)</span>　旅宿<span>(</span>たびやど<span>)</span>りせす　古昔念<span>(</span>いにしへおも<span>)</span>ひて<span><br /><br /></span>上記の長歌を現代語に訳すると、下記のごとくになる。<span><br /></span>――<span>(</span>やすみしし<span>)</span>わが大王の<span>(</span>高照らす<span>)</span>日の神・天照大御神の御子でいらっしゃる軽皇子は、神であるままに神らしくふるまわれるべく、都を離れて、<span>(</span>こもりくの<span>)</span>泊瀬の山の真木立つ経度線測量の修行場に入って荒い山道や岩石や前進を遮<span>(</span>さえぎ<span>)</span>る樹木を押し伏せ、<span>(</span>坂鳥の<span>)</span>朝越えられて<span>(</span>玉かぎる<span>)</span>夕方になると雪が降る阿騎の野にすすきの穂や小竹の茂みを押し伏せて、【倉頡の文字作成理論】の学問を修得するために昔を思いながら<span>(</span>草枕<span>)</span>旅寝<span>(</span>たびね<span>)</span>をなさっている。<span><br /><br /></span>上記したように、人麻呂が作った軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一・<span>45</span>番の長歌の<span>11</span>句目は、</p>
<p>「真木立つ」という語である。<span><br /></span>前回のわがブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>34</span>」にて指摘したように、<span><br /></span>「真木立つ」という語は、『古事記』上巻の「天孫邇邇芸命<span>(</span>てんそんににぎのみこと<span>)</span>の降臨」の箇所では「真来通りて」と表現される。<span><br /></span>「真木立つ」と「真来通る」は「精確<span>(</span>せいかく<span>)</span>に経度線を測量する」と意味した。<span><br /><br /></span>前回のブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>34</span>」にて解説したように、<span><br /></span>下図に示したように、鳥栖市<span>(</span>とすし<span>)</span>の真木と福岡県・佐賀県の県境に所在する基山<span>(</span>きざん<span>)</span>と宗像大社の高宮祭場<span>(</span>たかみやさいじょう<span>)</span>の三者は、「東経<span>130</span>度<span>30</span>分で同経度」、つまり「真木立つ・真来通る経度線」で結ばれる。<span><br /></span>ゆえに、「天孫邇邇芸命の降臨」の箇所では、「基山」は夏音文字６字で「久士布流多気<span>(</span>くしふるたけ<span>)</span>」と記される。<span><br /></span>この「久士布流多気」は「串触<span>(</span>くしふ<span>)</span>る岳<span>(</span>たけ<span>)</span>」とあらわすことになり、「東経<span>130</span>度<span>30</span>分の串<span>(</span>経度線<span>)</span>が触れる<span>(</span>貫通する<span>)</span>山」ということであった。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000267_20241015095501.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000267_20241015095501" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000267_20241015095501.jpg" alt="0000267_20241015095501" width="299" height="790" border="0" /></a> <br /></span>基山を貫通する東経<span>130</span>度<span>30</span>分は、下図の右上に示す宗像大社の高宮祭場をも貫通する。<span><br /></span>下図の中央の宗像大社の辺津宮<span>(</span>へつみや<span>)</span>の本殿は、高宮祭場よりわずか東側に所在して、『周礼<span>(</span>しゅらい<span>)</span>』の〔大司徒<span>(</span>だいしと<span>)</span>〕が「地上千里にして日景に一寸の差があるという」と解説する【景】の字源をあらわした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000268_20241015095601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000268_20241015095601" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000268_20241015095601.jpg" alt="0000268_20241015095601" width="299" height="361" border="0" /></a> <br /><br /></span>以上のごとく、<span>691</span>年あるいは<span>692</span>年の冬至の日に近い日々、柿本人麻呂は軽皇子の成年式において教育係となって、大雪が降る阿騎の野の泊瀬の山に入って軽皇子が「真木立つ、経度線測量」を学習する修行の旅に従っていた。<span><br /></span>それから、５～６年後の<span>697</span>年に軽皇子は天皇を即位した。<span><br /></span>この５～６年の間に、軽皇子は『魏志倭人伝』に「日本列島・本州の東は南に伸びる」と記述される――下図に示す【倉頡の文字作成理論における最高学問】の「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」の【禾】【委】【倭】の字源を学んだことになる。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k115_20241015095601.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K115_20241015095601" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k115_20241015095601.jpg" alt="K115_20241015095601" width="169" height="225" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆『日本書紀』の巻第七の成務天皇紀<span>(</span>せいむてんのうき<span>)</span>の末部には、<span><br /></span>「すなわち、山河を堺<span>(</span>さかい<span>)</span>として、阡陌<span>(</span>せんぱく<span>)</span>にしたがって、邑里<span>(</span>むら<span>)</span>を定めた。こうして、東西を以<span>(</span>もっ<span>)</span>て日縦<span>(</span>ひのたて<span>)</span>と為<span>(</span>な<span>)</span>し、南北を以て日横<span>(</span>ひのよこ<span>)</span>と為し、山陽を影面<span>(</span>かげとも<span>)</span>と曰<span>(</span>い<span>)</span>ひ、山陰を背面<span>(</span>そとも<span>)</span>と曰ふ」<span><br /></span>という記事がある。<span><br /><br /></span>上記の「阡陌」の【阡】の字は「南北の道」を意味するゆえ、【経】の「たて<span>(</span>縦<span>)</span>」をあらわす「経度」を示している。<span><br /></span>また、【陌】の字義は「東西の道」であるゆえ、【緯】の「よこ<span>(</span>横<span>)</span>」をあらわす「緯度」を示している。<span><br /></span>ゆえに、【阡】は「縦<span>(</span>たて<span>)</span>の腺」を意味する「経度線」をあらわし、【陌】は「横<span>(</span>よこ<span>)</span>の線」を意味する「緯度線」をあらわした。<span><br /></span>他方、上記した「東西を以て日縦<span>(</span>ひのたて<span>)</span>と為<span>(</span>な<span>)</span>す」という文は「【陌】の東西の緯度線を縦の経度線に代<span>(</span>か<span>)</span>える」と定義していることになる。<span><br /></span>また、「南北を以て日横<span>(</span>ひのよこ<span>)</span>と為す」という文は「【阡】の南北の経度線を横の緯度線に代える」と定義していることになる。<span><br /><br /></span>だから、「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為<span>(</span>な<span>)</span>す」という文は、<span><br /></span>上記した【禾】【委】【倭】の字源をあらわして、『魏志倭人伝』に記述された卑弥呼が立論した「転回日本列島地図」について説明していたことになる。<span><br /></span>下図は、「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為す」と定義された、【倭】の字源をあらわす「転回日本列島地理図」である。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000182_20241015095701.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000182_20241015095701" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000182_20241015095701.jpg" alt="0000182_20241015095701" width="299" height="545" border="0" /></a> <br /><br /></span>◆前記したように、軽皇子の成年式を詠む「軽皇子、安騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌」は、『万葉集』の巻一の<span>45</span>番～<span>49</span>番までの５首である。<span><br /></span>この軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一の<span>49</span>番につづく<span>50</span>番「藤原宮<span>(</span>ふじわらんみや<span>)</span>の役民の作る歌」という題詞<span>(</span>だいし<span>)</span>長歌の末部には、下記のごとくの説明がある。<span><br /></span>「日本書紀に――朱鳥<span>(</span>あけみとり<span>)</span>七年八月、藤原宮地に行幸<span>(</span>ぎょうこう<span>)</span>された。八年正月、藤原宮に行幸された。同年十二月六日に藤原宮に遷<span>(</span>うつ<span>)</span>られた。」<span><br /></span>藤原宮に都が遷された朱鳥八年十二月六日は、<span>694</span>年<span>12</span>月６日であった。<span><br /></span>ゆえに、軽皇子の成年式がおこなわれた２～３年後の<span>12</span>月６日、藤原宮に遷都されたことになる。<span><br /><br /></span>軽皇子の成年式を詠む『万葉集』巻一の<span>49</span>番から３首後の<span>52</span>番の題詞<span>(</span>だいし<span>)</span>は「藤原宮<span>(</span>ふじはらのみや<span>)</span>の御井<span>(</span>みい<span>)</span>の歌」である。<span><br /></span>したがって、この『万葉集』巻一・<span>52</span>番の「藤原宮の御井の歌」は、軽皇子の成年式から２～３年後の<span>694</span>年<span>12</span>月６日に遷都された藤原宮を詠む長歌ということになる。<span><br /><br /></span>この『万葉集』巻一・<span>52</span>番の「藤原宮の御井の歌」には、<span><br /></span>上記した『日本書紀』の成務天皇紀の末部に、<span><br /></span>「東西を以て日縦と為し、南北を以て日横と為し、山陽を影面<span>(</span>かげとも<span>)</span>と曰<span>(</span>い<span>)</span>ひ、山陰を背面<span>(</span>そとも<span>)</span>と曰ふ」<span><br /></span>と記される語が登場する。<span><br /></span>だから、『万葉集』巻一・<span>52</span>番の長歌は――軽皇子の成年式が行われた<span>691</span>年・<span>692</span>年当時にも、『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字源「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」に則<span>(</span>のっと<span>)</span>る【転回日本列島地図】が実在していた――現在に伝えている。<span><br /><br /></span>『魏志倭人伝』に記述された【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】をあらわす「日縦<span>(</span>日の経<span>)</span>、日横<span>(</span>日の緯<span>)</span>、背面<span>(</span>そとも<span>)</span>、影面<span>(</span>かげとも<span>)</span>」という語が登場する『万葉集』巻一・<span>52</span>番の「藤原宮の御井の歌」は、下記のごとくである。<span><br /><br /></span>やすみしし　わご大王<span>(</span>おほきみ<span>)</span>　高照<span>(</span>たかて<span>)</span>らす　日の皇子<span>(</span>みこ<span>)</span>　あらたへの　藤井<span>(</span>ふじゐ<span>)</span>が原に　大御門<span>(</span>おほみかど<span>)</span>　始めたまひて　埴安<span>(</span>はにやす<span>)</span>の　堤<span>(</span>つつみ<span>)</span>の上<span>(</span>うへ<span>)</span>に　あり立たし　見したまへば　日本<span>(</span>やまと<span>)</span>の　青香具山<span>(</span>あをかぐやま<span>)</span>は　日の経<span>(</span>たて<span>)</span>の　大<span>(</span>おほ<span>)</span>き御門<span>(</span>みかど<span>)</span>に　春山と　しびさび立てり　畝傍<span>(</span>うねび<span>)</span>の　この瑞山<span>(</span>みずやま<span>)</span>は　日の緯<span>(</span>よこ<span>)</span>の　大き御門に　瑞山と　山さびいます　耳梨<span>(</span>みみなし<span>)</span>の　青菅山<span>(</span>あをすがやま<span>)</span>は　背面<span>(</span>そとも<span>)</span>の　<span><br /></span>大き御門に　よろしなへ　神<span>(</span>かむ<span>)</span>さび立てり　名ぐはしき　吉野<span>(</span>よしの<span>)</span>の山は　影面<span>(</span>かげとも<span>)</span>の　大き御門ゆ　雲居<span>(</span>くもゐ<span>)</span>にそ　遠くありける　高知<span>(</span>たかし<span>)</span>るや　天<span>(</span>あめ<span>)</span>の御陰<span>(</span>みかげ<span>)</span>　天知<span>(</span>あめし<span>)</span>るや　日の御陰の　水こそば　常<span>(</span>つね<span>)</span>にあらめ　御井<span>(</span>みゐ<span>)</span>の清水<span>(</span>すみみづ<span>)<br /><br /></span>上記の長歌を現代語に訳すると、下記のごとくなる。　<span><br /></span>――<span>(</span>やすみしし<span>)</span>わが大王の<span>(</span>高照らす<span>)</span>日の神の御子であられる天皇が<span>(</span>あらたへの<span>)</span>藤井が原に宮殿を造り始められ、埴安の池の堤の上にお立ちになって眺<span>(</span>なが<span>)</span>められると、大和の国の青い香久山は日の経<span>(</span>たて<span>)</span>にして緯度軸を経度軸に代えて<span>(</span>転回日本地図をあらわす<span>)</span>東面の大きな御門となって、春山らしく茂り立っている。畝傍のこのみずみずしい山は、日の緯<span>(</span>よこ<span>)</span>にして経度軸を緯度軸に代えて<span>(</span>転回日本列島地図をあらわす<span>)</span>西面の大きな御門となって瑞山<span>(</span>みずやま<span>)</span>らしく香久山を佐<span>(</span>たす<span>)</span>け備わって存在する。耳梨の青い菅山は山の陰<span>(</span>きた<span>)</span>の北面<span>(</span>背面<span>)</span>の大きな御門として、宜<span>(</span>よろしき<span>)</span>名を立派<span>(</span>りっぱ<span>)</span>に示して神々<span>(</span>こうごう<span>)</span>しく立っている。名高い吉野の山は山の陽<span>(</span>みなみ<span>)</span>の南面<span>(</span>影面<span>)</span>の大きな御門から雲浮かぶ空遠く彼方<span>(</span>かなた<span>)</span>に存在する。高く聳<span>(</span>そび<span>)</span>える天つ神の御殿にして天知<span>(</span>あめし<span>)</span>る日の御子の御殿である、ここ藤原宮の水こそは永遠に栄えあれ、転回日本列島地理を映す鏡となる御井の清き水よ。<span><br /><br /></span>だから、『万葉集』巻一・<span>48</span>番の人麻呂が作った軽皇子の成年式を祝う短歌にある、<span><br /></span>初句の「東<span>(</span>ひがしの<span>)</span>」と、結句の「月西渡<span>(</span>つきかたぶきぬ<span>)</span>」の「東と西」を注目して、<span><br /></span>――『魏志倭人伝』に記された【倭】の字源「現在方位を時計回りに<span>90</span>度転回する方位規定」に則る【転回日本列島地図】は実在しなかった――と否定することはできない。<span><br /></span>というのも、上記して解説し証明したごとく、<span>691</span>年～<span>694</span>年当時、卑弥呼が「日本列島の東は南へ伸びる」と立論した【倭】の字源に則る【転回日本列島地図】は実在していたからである。<span><br /><br /></span>以上のごとく、【倭】の字源に則ると『魏志倭人伝』における対馬国と一大国の方位を除く全方位記事は、一点の矛盾点も無く不合理な点も存在しないで【科学】が成立するゆえ、<span><br /></span>このブログが詳細に解説して証明してきたとおり、２世紀末～<span>738</span>年の<span>45</span>代・聖武天皇<span>(</span>しょうむてんのう<span>)</span>の時代まで、卑弥呼が立論した【倭】を字源に則る【転回日本列島地理】は実在したことになる。<span><br /></span>いっぽう、【現在方位】に則る邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は、『魏志倭人伝』が説明する【倭】の字源に則る【転回日本列島地理】を無視するがために、『魏志倭人伝』に記される方位記事に対して幾つかの矛盾点や不合理な点が生じることになって【科学】成立しない。<span><br /></span>だから、学界が一番正しいと評価する新井白石以来の邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説は【わが国の学問の起源、また根源を破壊する空理空論】であったことは否定できない事実となる。<span><br /><br /><br /></span>〔追補〕<span><br /></span>このブログ「漢字の起源と発明を解明す」においいては――過去の天文図の様子や天頂緯度線の様を表示する再現図を多数用いて解説した。<span><br /></span>この「過去の天文図・天頂緯度線の状況を再現する方法」について、このブログ「漢字の起源と発明を解明す・<span>35</span>」では前ページで簡単に説明した。<span><br /></span>しかし、今回まで「過去の天文図・天頂緯度線の状況を再現する算出方法」について詳細に解説するチャンスがなかった。ゆえに――前ページで簡単に説明してくりかえしになるが――この場をかりて詳細に説明することにした。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/k51_20241015095801.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="K51_20241015095801" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/k51_20241015095801.jpg" alt="K51_20241015095801" width="262" height="252" border="0" /></a> <br /></span>上図の「歳差状況図<span>(</span>さいさじょうきょうず<span>)</span>」が示すように、天の北極は<span>25,800</span>年で黄道の北極を中心にして一周する。<span><br /></span>円周は<span>360</span>度であるから、<span>25,800</span>年÷<span>360</span>＝<span>71.6666</span>年となる。<span><br /></span>したがって、天の北極は<span>71.6666</span>年毎に黄道の北極を中心とする大円の円周上を角距離１度ずつ移動していることになる。<span><br /><br /></span>また、下図に示す天の赤道と交わる、春分点も<span>25,800</span>年黄道の北極を中心にして一周している。<span><br /></span><span><a href="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/photos/uncategorized/0000250_20241015095901.jpg" target="_blank" rel="noopener"><img style="margin: 3px;" title="0000250_20241015095901" src="https://himiko-rekishi.cocolog-suruga.com/blog/images/0000250_20241015095901.jpg" alt="0000250_20241015095901" width="300" height="309" border="0" /></a> <br /></span>ただし、黄道の北極と天の北極を結ぶ延長線上に、春分点は位置しない。<span><br /></span>ゆえに、黄道の北極と現在の天の北極を結ぶ軸と、黄道の北極と現在の春分点を結ぶ軸は別々にしなければならない。<span><br /></span>上記したように、春分点も<span>71.6666</span>年毎に黄道の北極を中心とする大円の円周上を角距離１度ずつ移動している。<span><br /><br /></span>現在は<span>2024</span>年であるから、黄帝時代は今から約<span>5020</span>年前となるゆえ、<span><br />5020</span>年÷<span>71.666</span>年＝<span>70.04716322</span>となる。<span><br /></span>ゆえに、現在の天の北極から角距離<span>70</span>度過去のほうに戻した黄道の北極を中心とする、上図の天の北極の大円の円周の位置が紀元前<span>3000</span>年ころの黄帝時代の天の北極の位置となる。<span><br /></span>また、黄道の北極と現在の春分点を結ぶ線よりも角距離<span>70</span>度過去のほうにもどした、黄道の北極を中心とした円周上の位置が黄帝時代の春分点となる。<span><br /></span>ゆえに、上図に示したように、前もって<span>23</span>度<span>27</span>分の傾きで交わる黄道と天の赤道の大円が交わる春分点と秋分点、そして天の北極をも表示する透明フイルムを作り、<span><br /></span>星座や銀河などを表示する基盤の上に、<span><br /></span>黄帝時代の天の北極と春分点の位置を合致するように重ねあわせれば、黄帝時代の天文図、あるいは天文盤<span>(</span>通称、星座盤<span>)</span>が出来上がる。<span><br /><br /></span>要するに、その古代は現在から何年前になるかを計算し、その差額年数を<span>71.6666</span>で割れば、その古代の天の北極と春分点の位置を定めることができるゆえ、その古代の天頂緯度線や天文図の状況を再現することもできる。<span><br /></span>もちろん、未来のほうへ角距離を移動させれば未来の天頂緯度線と天文図の状況も再現できる。<span><br /></span>天文の緯度の表示方法はいろいろあるが、そのうち〔赤緯<span>(</span>せきい<span>)</span>〕を用いるとよい。<span><br /></span>上図の黄道と天の赤道が交わる春分点・秋分点と天の赤道を表示した透明フイルムに印した数字は〔赤緯〕の緯度数である。<span><br /></span>赤緯は地球における北極・北緯<span>90</span>度<span>(</span>北極点<span>)</span>の天頂を〔＋<span>(</span>プラス<span>)</span>赤緯<span>90</span>度、南極・南緯<span>90</span>度<span>(</span>南極点<span>)</span>の天頂を〔－<span>(</span>マイナス<span>)</span>赤緯<span>90</span>度、地球の赤道の天頂を±０度〕と定める。<span><br /></span>ゆえに、たとえば北緯<span>34</span>度<span>49</span>分の天頂は＋赤緯<span>34</span>度<span>49</span>分となる。<span><br /></span>このように、土地の緯度数と天頂の赤緯の緯度数は同一であるゆえ、赤緯を用いると過去・未来における各地の天頂にめぐってきた銀河部・星・星雲、そして星座のどの部分かなどを楽々と知ることができる。<span><br /></span></p>]]></content:encoded>


<dc:subject>邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源</dc:subject>
<dc:subject>ヒエログリフ(聖刻文字)</dc:subject>
<dc:subject>日本国誕生史の証明</dc:subject>
<dc:subject>大嘗祭の証明</dc:subject>
<dc:subject>まぼろしの邪馬台国</dc:subject>
<dc:subject>漢字の起源と発明を解明す</dc:subject>

<dc:creator>大川誠一</dc:creator>
<dc:date>2024-10-15T10:01:43+09:00</dc:date>
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